さいとー・ま

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ぶーヴぇ27(まとめ)

https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5444467v/texteBrut
https://www.sauval.com/angustia/e-bouvet.htm
http://visualiseur.bnf.fr/CadresFenetre?O=30000054444678&I=252&M=tdm

「女性強迫神経症者におけるペニス羨望の意識化の治療上の影響(1)」モーリス・ブーヴェ

(1)1949年の12月にパリ精神分析協会にて発表された取り組み
我々があなたがたに今日提示する取り組みがかかわっているのは、特に豊かな夢の図像を所有しているように我々に思えた女性の強迫神経症の事例の一つで、転移の変化と、女性の事例において分析の支配下で起きうる心理学的構造の変容をより簡単に対象化可能にすることができるような事例です。我々がちゃんと言っておくのは、似ている複数の事例においてもそうだということです。我々がほとんど同じような変遷を立証する他の観察とこの観察を簡単に入れ替わることができるかもしれないからです。分析が進んでいない他の主体においてよりそうです。事実の同じような解釈が不可欠であるべきに思えます。すくなくとも我々がここで主張したいことの本質に関することにおいては、そうなのです。すなわち、ペニス羨望の意識化は、転移の現象の変遷に好ましい方法で介入し、幼児期的女性的超自我の柔軟化を可能にするということにおいてそうなのです。それらの事例は、我々も承知のように、日々の実践の確認であり、この観察を生み出すことは無益なことかもしれない、もし、この観察が論証することが、男性の強迫症者のように、女性も幼い幼児期的不安から解放されえるために、退行的なモードで男性に同一化する欲求を持っているということしかないならば。しかし前者(男性)は幼児期的愛の対象を性器愛の対象に変えるためにこの同一化をよりどころにするでしょうが、女性のほうはこの同じ同一化に初めは立脚しながら、このはじめの対象を捨てる傾向にあり、異性愛的固着に向かう傾向にあります、あたかもその女性は今度は分析家の人格(personne)への新しい女性的同一化を行うことができるかのように。いうまでもないことだが、転移の現象の解釈はここでは特に微妙である。もし男性分析家の人格(la personalité)が、それが含むあらゆる禁止、恐怖と攻撃性を伴うある男性の人格のように、まず気にかけられた場合、男根的所有の欲望と、相関しての分析家の去勢の欲望が明らかにされたすぐ後に、したがって前述の緊張緩和(?)の効果が獲得されたすぐ後に、この男性分析家の人格は好意的母親の人格に吸収されます。この吸収が見出されるのは、反男性的攻撃性の本質的な源は、母が対象であるような最初の破壊的欲動において見いだされるのではないか?ひとつの意識化は他のものの権利の自由な行使に権利を導き、男根的所有の欲望のこの意識化の強制通用力はその時すんなりと理解可能になる。男性的側面をまず病気がただ知覚しうるような分析家の人格(personne)の基本的なある両義性に応じる、ある同一化から他の同一化への移行も(理解可能になる)。

観察。

臨床的記述。既往歴。

分析のこの一端の報告に必要な十分長い時間が必然的に与えられていますが、我々はあなたがたにかなり要約された形でレネーの病的現象と家族的状況の前もっての報告を提示してみようと思います。

レネ―は50歳ぐらいの女性で、調子が良い、二児の母であり、治療補助部門の仕事についていて、我々が少ししか情報をもっていない二年間の分析を最近うけている。我々が知っているのは、レネ―が簡単には表現できないほどつよい感情を医者に持っていたということと、治療をさまざまな言い訳で中断していたことである。もっともレネ―は強迫的現象のとても重要な回復によってこの態度をとるようにうながされたわけではない。この強迫的現象は、治療に入ってから減っていったが、治療の中断後のいくらか後に他の場所で再発することになる。

レネ―は極度の不安状態にあったのは、我々に会いに来て、我々がレネ―を緊急に治療で取り扱わなければならなかったときで、レネ―は定員オーバーであったので、レネ―を週二回しか受け入れることはできなかった。

レネ―は宗教的テーマの強迫で苦しんでいた。祈りたいと思うやいなや、または思わずというようにさえ、侮辱的か糞尿に関する言葉がレネ―には不可欠で、自身の信条との形式的な矛盾に抑えがたく陥っていた。そのうえ、想像力豊かに男性生殖器を想像し、幻覚性の現象ではなく、オスチア(ミサで拝領する聖体のパン)の代わりであった。そうしたまのすべてに反応した。その病的性質は十分承知しているけれど、地獄の罰をはげしく恐れていました。この状態が悪化したのは、彼女は意図的に自分の母性の可能性を減らそうとしたときで、しかし結婚から始めたのだった。強迫観念の原則的な宗教的なテーマ化を説明するこの重要な詳細を指摘しておきます。レネーの母はカトリック教育の責任を一人で負っていた、そして彼女との対立は霊的な活動に向けられていたはずだ、その活動はさらに義務と束縛の性格しか決して持っていなかった。レネーはさらに他の強迫的現象を一緒であろうと、孤立してであろうと提示したので、だいたい七歳から、病気として考えられた。

これらがその主要な強迫観念のリストである。
・長男の結婚に反対することを招いたが無駄に終わった、梅毒にかかったのではないかという頭から離れない不安
・彼女自身の子供は対象でなかったような、宗教的強迫観念に混ぜられた子殺しの強迫
・食べ物に落ちた爪切のカスまたは、単に指が食べ物に触れること、さらに指が布切れで守られてさえいるパンに触れることによる家族の毒殺の強迫
・思春期においては、父の首を絞める強迫、母を刺すために親のベットに留め針をまく強迫
・7歳において、親の安全に関する恐怖症が現れること、単なる論理的防御、例えば家への帰宅を確かめることなどの方法で和らぐ恐怖症

この考えに対して、この病気は防御の過程を展開する。その防御の過程のうちいくつかは依然として、論理的な出現、確かめること、予防、であり、他のいくつかは、率直に言って魔法的で、要約すれば、打消しにおいてである。子供のころに、三回、アパルトマンの幅木を触ることで「打ち消した」。のちに三回繰り返して「いいえ、そんなこと考えていない」と繰り返す。

この幻想のリストを一巡することで、それらが激しい攻撃性の基礎に横たわることに納得するのに十分である。しかし、それを確認することは古典的だが、攻撃性は防御そのものの方法を染み渡らせる。この女性は女性の去勢コンプレックスに苦しんでいてて、「悪魔祓いの定式の三回の繰り返し」というその男根所有の欲望の象徴的なモードについて再確認することによって自身の去勢の攻撃的な考えを打ち消している。

家族状況

我々は思い切ってエディプス的と言うことができないのは、生殖組織化が存在したのなら、状況は極度にもろかったし、分析は苦労してしか今は男性の性的攻撃がサディズム的な恐ろしい様式において表象されるような夢を見つけないからだ。

一見したところでは、エディプスが正常に見えていた。レネ―は自身の父を称賛していたし、自身の母については最も執拗な憎悪をあからさまにしていた。そして、両親への両義性は明らかになった。結局エディプスが完全に反転してあらわれた。この女性は完全に自身の父に同一化していたし、彼女の感情的生活の全体は単に母によって集中されていた。実際彼女は自身の父に自身の状況についての厳しい批判を浴びせていた。父は憲兵班長で、少女は仲間によると彼女を侮辱するようなこの状況を恥じていた。その性格は、父は有能だったが、それを示すことができなかった。彼は陰気で無口で木がふさいで、何も母の厳格さとの思いやりのあるかつ愛情にかかわる属性によってすこしも釣り合いはとらなかった。家事におけるその状況は、妻の第一の、しかもプラトニックな愛への愛情に打ち勝てなかった。彼は嫉妬深く、常に負けることになる(dont il sortait toujours vaincu)激しいけんかが突然起こるためにしか無言を破らなかった。

実際、この非難の後に隠れていたのは、非常により重要な攻撃性である。彼の父の明らかに去勢の夢が病気から生じていた。後者は例えば次のようなものだ。「私はおじ(父の兄弟)の遺体安置室に戻ってきました。吐き気をもようさせる。私は腐敗しているただなかの彼の生殖器を見ます」。豊富な連合は父の死のいかなる感情もなく言明された状況にしか関係しなかった。彼女が言うには「私の父はわたしの内的生活においていかなる場所も占めていません。」しかし正しくはなかった。というのも最近日の目を見ることになったのは悪夢の形式をまとった愛情追及の夢だからだ。襲撃者が殺人者のようにふるまう。このことについてはのちにくわしく言及することになる。したがってレネ―のある発達段階においては、父に感じる魅力があったが、全体として前性器的様式においてであるが。

母については、もし分析的な探求が病がはぐくんだそれに関しての否定的な感情をまず示したのならば、レネ―が母親に持っていた熱烈な関心を分析的な探求が明らかにすることに遅れることはない。もしレネーが母親がレネ―に強制したことで、酷いしつけを受けさせられたと、自己表現することが思うようにいかなく、どれほど関係が無垢であろうと男性的な関係をすべて禁止したことを熱烈に非難したとしたならば、彼女は母親に特にちゃんと愛されなかったということで、常にレネ―より七歳下の妹のほうを好んでいたことで、母親を恨んでいた。レネ―の嫉妬の気持ちはしかし弱まっていないし、レネ―は少しずつしか母による妹へ大っぴらにされたこの好意の確実性をあきらめなかった。

しかし、母への彼女の苦情のまさにその暴力は、レネ―が母にもっていた広大な感情の証拠であった。レネ―は父の環境よりも高い環境に母を見つけていたし、母をより知的だと判断していた、レネ―は特に母のエネルギー、性格、決定の才気、権威に魅了されていた。母がくつろいでいた珍しい時は彼女はいわく言い難い喜びに満たされていた。しかし、ここに至るまで、決してはっきりとセクシュアル化された母の所有の欲望の問題にはならなかった。レネ―はひたすらにサド―マゾヒズム的な面で母と結びついていた。母ー娘の関係はここでは極度に厳密に作用を及ぼすいかなる協定の違反もこの最後の時に至るまで、対象化されることの決してなかった極度の暴力の運動を喚起した。いかなる者も、この結合に不当に干渉するものは、死の望みの対象であった。夢のであろうと、子供のであろうと妹の死の欲望に関係のある豊富な素材を示すことになるように。

我々はここでレネ―の既往歴の綿密な分析を実施することができないことと、レネ―は明らかに両親に対する態度の本質を感情生活の完全な途中で再現していることを示すことができないことを遺憾に思う。より先にすすむ前に、レネ―が三歳頃に受けたと言っている心理的外傷を知らせよう。そして態度をはっきりさせることが不可能な現実について。男性が腕に彼女を抱え、彼女の性器的な部分に触って、突然の激しい恐怖の激しい気持ちを彼女に招いたもの。いかなる気持ちもなくそれについて話す。レネ―の子供の時や青春期にその年の少年に対しての正しい対象へのいかなる感情も持ってなかった。

反対に、レネ―が生活のただ中で少女たちへの熱烈な友情を経験することになる。幼子レネ―はまず性的な遊びに没頭することになる。「外陰部に小さな棒状の物をつける」か、より年齢の高い少女から浣腸を受ける、極端に激しい快感を彼女に得させた。それについては彼女はとてもはっきりと記憶を留めていた。しかし、特に青春期には彼女は家の近くに宿営していたアメリカ人の看護師にかなり激しい恋心を経験することになるこの友情がセクシャル化されていたということを信じられるようなものは何もなかったが、すべてがその友情が並外れたものであったことを示している。レネ―は良い母親の完璧な典型であり彼女を理解し、彼女を愛し、対等のものとして扱っていたこの女性のところでとても幸せに感じていた。後に看護師が出て行って、彼女(レネ―)は一般に年上の友達と、この種類の人と関係を持ち直すことになる。

レネ―の結婚は便宜と利益の結合だった。レネ―の夫は教授だったが、特に予備役将校であって、父の憲兵下士官という状況が彼に引き起こした個人的な劣等の感情を助長すると同時に打ち消すものだった。しかも結婚は彼を権力ある男性にすることができた彼の利点を補ったし、それによって心理的に女性的な特徴によって彼をひるませてた。彼はやさしく、とても有能で、とても献身的であり、レネ―はぼんやりと彼は彼女を決して支配していないと感じていた。しかしレネ―は彼を不安で、さも優しそうな要求によってすべての様式で完全に去勢することに成功した。毎日の行動において、母への受動性にとても似ている意志と自発性の明らかな不在がありながら。結局はレネ―は母に対して誇示し続けることになる典型的に両義的な態度を彼に対して持っていた。

子供に対しては、母の分析のおかげで二番目の子は学業を危うくするリスクのある仕事における制止からとてもゆっくりと逃れるのに対して、一番目の子は目立った特徴において仕事の観点からとても素晴らしい成功を収めていた。子供の時に、強い人格を思わせる病気において、パニックの恐怖の気持ちを起こした。彼女は彼とともにいることは敢えてなかった☆。この少年はとても若くに結婚したが、もし母の重圧から逃れることができたら、彼は母に彼女がとても苦しんだ冷淡な無関心を示していて、特に彼は若い妻とともに神経症的な風に行動している。

分析

我々はここでもまた進行中の14か月前から続いているこの分析の短い要約しか提供できない。我々の意図は特にこの観察の意味作用の深い要素を強調することであり、より厳密にいえば転移と夢の研究について強調することである。

ひとつの分析をいくつかの期間に分けることは完全に明らかに恣意的であるが、ここでは二つの段階がほとんどはっきりとしていると思われる。一方はその間になにも変化しないように思えた本質的に対立の段階で、もう一方は転移についても、患者の心理学的構造についても本質的に進行性の段階である。一方からもう一方への移行は我々にとっては男根的所有の無意識の欲望を表している夢の解釈によって決定づけられているように思えた。

対立の段階

状況は初めから少しも満足いくようなものに思えなかった。治療において緊急に捉えられることを要求しながらレネ―は極度に不安であったけれども、この女性は彼女が治療されることに承諾するような条件を分析家に課すことを明らかに望んでいた。我々の態度は確固としていると同時に思いやりのある同情のこもっているものだった。逆説的な同じ現象は私たちとともに繰り返した。何回かの治療のセアンスで彼女の宗教的強迫観念を解除するのに十分であった。同時に医者に対してはっきりと表明された対立をあからさまにして、彼女自身それに襲われることしかありえなかったと同時に、彼女はほとんど全体で沈黙を守ったが、☆彼女は次のようにいう時しか口を挟まなかった。「何も話したくありません。ひどく侮辱的で、下劣で、滑稽です。医者たちのことをよく知っています。医者たちの間では病人のことをバカにしていることを知っています。あなたが規則から逃れるようななんの動機もない、しかしあなたは私より教養がありますね。私の世間知らずをばかにするでしょう。女性が男性に話すことは不可能です。」実際、とても性器的な様式においてとても札付きの男が彼女に吹き込んだ気持ちを明らかにした。劣等-恐怖。その時からあえて仮説を述べることは我々には可能だった。ほとんど始まりかけていた分析がかなり驚くべき結果を作り出すことができたいかなる理由もなかった、と言おう。したがって彼女が没頭していたすべてのこの独立の表明が、結局神と神の戒律に対する、彼女自身が存在を認めた「情affect」に対する反抗の感情を表現するすべての彼女の言葉による強迫観念に代わったと仮に認める必要があった。さらに、レネ―は我々にすぐに恐怖でいっぱいにする完全に特異な強迫観念を明らかにした。しばしば、レネ―が自身の夫に怒りをちゃんと表現したとき、レネ―は「もし夫が神だったら?」という予想外の思考にとらわれた。このように、レネ―とともに生きていた男と神の間にはレネ―にとって確かな類似があって、中間のつながりによって我々は我々の暗示の妥当性をレネ―に簡単にわからせることができた。もしレネ―がすべての敵意を我々に集中していたとしたら、レネ―はいつもの反乱の対象を顧みなくなるだろう。しかし、治療が続けられ、我々に対するレネ―の気持ちはすこしだけ攻撃性で少なくなって、レネ―は再び無礼になり、宗教的生活においてスカトロ愛好になって、起こったことをかなりちゃんと理解したが、我々に対してのけんか腰がはっきりと減少するよりもかなり後になってでしかなかった☆。数か月の間、レネ―はだまったままであり、不平を言うためにしか口を開かなかった。男性へのいつもの反感に結び付いたのは、とても重要でかなり特異な不満の種であった。レネーは私たちがレネ―から金を取った☆と非難した。謝礼の支払いは、実際にレネ―が覚悟するのに最も苦労した物の一つであった。丁寧に治療の不確定の延長と適合し得る金額を決めようと我々は努力したがレネ―の予算を考慮して、レネ―にとっては現実の困窮であった金額であり、結局外部的現実性の絶え間ない一種の圧力を構成するものであって、レネ―に話をさせるように促し、レネ―が無意識にかなり執着していたこの敵意の一種である無言の際限ない行使を引き伸ばさないように促すものであった。この貨幣的犠牲は、レネ―が何がどうあろうと逃げ出そうとすることになるのだが、そのときレネ―はセアンスを欠席することを突如おこした、レネ―に気を使いながらも 我々が決して受け入れなかった言い訳を見栄を張って(en démontrer la vanité☆)偽の不可抗力の場合から引き合いに出して、貨幣的犠牲はレネ―にとってそれによってレネーが言うには自分のために女性的おしゃれの数多くのアクセサリーを買うことが不可能になっていたとだけますます耐えがたいものだった。「あなたは私の劣等の気持ちを増大させるのは、私が他の人と自分を比べるときで、私がちゃんと着飾れないことに苦しんでいるときです。」レネ―は我々の要求額を罰として、またはよくても一種の力の衰えとして感じていて、レネ―は自分をよく見せるすることができなかった☆。レネ―の男性たちに対する敵意の態度を知りつつ、すでにレネ―の分析家に対するふるまいを男性によって課せられた規則に従うことの拒否として解釈しつつ、我々は完全に自然にレネ―にそんなに激しく感じられる気に入られたいというこの欲求について思いつくことを尋ねることになった。返答は我々の予想と合致した。「私がちゃんと着飾ったときには、男性たちはわたしを欲望して、私はとても現実的な喜びとともに思うんです、これぞまた無駄金を使った人々だ、と。☆私は彼らがそれで苦しむだろうと想像して満足するのです。」このようにレネ―の衣服への執着はレネ―の男性への憎しみの様々な側面の一つでしかない。この瞬間に、患者は完全に同等の物として結び付けたのは、神への宗教的で強迫的な表明と、レネ―の夫への行動障害と最後にレネ―の分析の拒否であった。というのも実際のところ、レネ―が特にセアンスに来たのはレネ―が何も言わないことを確かめるためだったからである。☆レネ―は周知のとおり治ったと言って何回も治療をやめようと試みることになり、前の回復のだます性質の想起を前にして、またレネーが我々のはっきりした意見にも関わらず治療を中断しても我々がレネ―を再び治療すると決心しなかったという断固とした主張を前にして逃げ出す計画をあきらめることになる。レネ―はこの時、我々にレネーの意志を押し付けることができないことでどれだけレネ―がいらついているか示しながら些細な恐怖症を生み出した。「もし私が自殺したり、死んだなら、お医者さんが多分殺害で告訴されて有罪判決をもらうことになるでしょう」この幻想は一種の恐怖のもと抱かれた。レネ―はいつも治療の金銭的負担について文句を言っていて、いい気になって自分に買うことができたであろうものをすべて列挙して、レネ―の靴を手に入れたいという欲望に絶えず立ち戻った。レネ―によれば、男性たちは靴を履いている女性の視線にとても敏感であった。

そして出て来た夢によって治療の5か月目ごろに分析家は結局進歩し新たな道に侵入したに違いないものだった。「私は働いている病院局で、母が局に来て母は見張りの女の人に私のことを悪く言うのです。私は激怒して出ていきました。私は病院の向いにある靴修理屋さんの店に帰ってきて、靴を一組勝って、そして突然窓を開けながら私は激しく母と局長をののしるのです。」我々は母に対するレネ―の感情をすでに知っていた。レネーは悪人と思っていて、決して口答えできない見張りのことが嫌いだと我々に言った。中国靴(サンダル)はとてもとがっていた。次にレネーが断言するに父の靴についての話題に関係する脱線に入ることになり、続いてレネーは若く褐色の髪の男で、我々にどこか似ているところを見せないわけはない靴の修理屋について話始めた。局長については、(父のように)とても公正であるため愛されると同時に評判と取り囲んでいる機関ゆえにひどく恐れられる。我々はレネ―に夢の第一段階においてレネ―は母の不公正を甘受することしかできなかったと、そして靴を買った後に公然と憤激できたということを指摘した。ところでこのアクセサリーはまさしく分析がレネ―から剥奪したものの一部だった。そのうえ、レネ―が金をわたした靴やは分析家にとても似ていた。したがって明らかなのは、レネ―はそれによってレネ―自身のとらえ方によれば病気に大いに関係するようなあまりにも厳しい教育を行った母の恐怖から解放されるようなこの後者のなにかの一部を手に入れたいと思ったことと、このなにかは明らかにレネ―に父の靴について考えさせた靴で象徴化されていたということである。我々はその日はそれ以上進むことはなく、女性の衣装のこの同じ部分がレネーは劣等感情を克服する助けになり、レネ―は反男性的ささいな復讐を行使できていると付け加えることで満足した。

我々は心中ではこの夢は男根所有の欲望を表現していると考えていた。ちゃんと靴をはいた足が強いファルスを表していた。この器官のみの所有はレネ―に力を授けることができて、母への絶対的な服従の子供時代の状況を逆転させることができ、今度は支配的なポジションを取ることができた。もちろん、この夢はより厳密な意味作用を持っていただろう。そこで明らかにされた父への同一化の欲求によって、よりセクシュアル化された母の支配の欲望の存在を垣間見らせることができた。しかし、分析の続きははっきりとこの類の仮説を補強することはなかった。病人は母の生殖器的所有の幻想の一部を生産することは決してなかった。


ともかくも、夢の内容はまさに我々がレネーにその存在を感じ取らせるような内容であった。かなりレネーを驚かした二つの夢の幻想のすぐのちにレネ―は我々に報告したのは、「自分に陰茎に変形された乳房の一つあるのを見ます。これは奇妙です、昨夜も私は自分を見ましたが、今回は二つの乳房の間に陰茎があるのを見ます。」しかも、レネ―は男性的同一化の欲望が男根的所有とともに、そして母との関係の一環としてのこの欲望の意味作用が明らかに表現されている二つか三つの他の夢を作り出すことに成功した。その一つの例を挙げる。「靴の修理屋のところで靴を直してもらって、次に男性しかいない青、白、赤の紙ちょうちんで飾られた壇上に上ります。母は群衆の中にいて私にみとれています。」

そのような証拠資料を使って、かなり明らかに擬人観の形式の下で理解されたレネ―の異性の典型例との関係と神との関係を我々はさらに表面的な方法で分析することが可能になった。レネ―が提供することはなかったのは次の幻想「キリストの頭を足を使って強く踏むことを夢見た。そしてその頭はあなたの頭に似ていました」であるのか、そして、連想においての次の強迫観念「私は毎朝仕事に行くために四人のキリストがさらされた葬祭業の店の前を通ります。それらを見ながら私はそれらの陰茎を踏みつけにする感じがします。私は一種の強烈な快感と不安を感じます。」であるのか。

このようにペニスを持ちたいという欲望は、分析家によって提示され、医者の器官の破壊の幻想に伴っていた。踏みつぶされた頭は陰茎以外の何物ではなかったのは、連想で喚起された強迫観念は攻撃性の直接の対象であることを示した。

レネーはこの時には特に敵対的で怒っているように見えることになり、ときどきスカトロジックであったが、攻撃性の些細な表明を解釈するいかなる気遣いにも反して少なくともこの時には医者の直接の去勢のほかの幻想を外在化しないことになる。

いかなる男性も頭から敵対者であり、レネ―が恐れていて、劣等の立場をその前で感じるような敵であり、さらにレネ―は男性と付き合うのは禁じられている。レネ―の恐怖と劣等の感情は、実際に母に責任があるとレネ―は進んで考える。母はレネ―が危険として母がレネーに表現していた少年たちと付き合うことをいつも禁じていなかったのか?そして、レネ―に少年たちとの健全な関係を持つことを許可しながら母がレネ―に少年たちと力を競うことができなくし、容易には女性の役割を演じることをできなくしてないのか?「男性たちはわたしを怖がらせる。母が私に言うには、彼らは危険で、警戒する必要があり、彼らと内密な関係、友情関係すら持つことは道徳に反する、と。どうして私が自由でいて欲しいと思うのですか?というのも私は彼らと付き合うこととそうする習慣を身に着けることを正当化されることは決してなかったのです。」

しかしこのことすべての背後にあったのは男性との葛藤、あきらかに絶頂の葛藤のより深い理由であった。豊富な、列挙するなら特徴的な、力強いなんらかの特徴によってレネーはより際立って力の所有者としての男性を思い浮かべた。レネ―が抱いていたのは、もちろん無意識的に抱いていたのは、分析が示してくれたばかりのように、レネ―がいつも剥奪されているもの、多くの幻想が示したように、特にペニスの象徴子供の破壊について、子供の心的現象が力の行使の本質的な属性=持物をその中に見たようなペニスを所有している存在への憎悪と羨望の気持ちであった。「男性たちにはこのような簡単な生活がある。もし私が男だったら!」とレネ―はしばしば繰り返していた。しかしこの女性の去勢コンプレックスは、それほど痛ましく感じられ、力の重さをレネ―に感じさせた乱暴な男性との不幸な関係の結果として生まれたのかどうかを問うことができた。上で報告した三歳の時のこの外傷を除いては、レネ―は決して男性的強制を苦しむ必要はなかった。父は有能だったし特に弱かったし、個人的な権威がなく、レネ―がその事実を苦しまなければならなかったと推測することを可能にするものはレネ―はなにも見つけなかった。さらにレネー決して両親の部屋の中で寝たことがないようだ。レネ―は半裸の父を捉えることは決してなかっただろう。しかし少女においてペニス羨望と他者のペニスの破壊の欲望が発展するためにはこの類の実際の外傷は必要ないということを我々はよく知っている。レネ―は実際、現実の男性との長い葛藤を実際に経験することはなかった。その代わりレネ―の人生全体は母との長い闘いでしかなかった。ペニス所有の男性に対して展開された攻撃性の大部分はレネ―の母との不幸な関係に起源をもつのか?

さて、分析の続きがレネ―は母を男根的表象にしたと、そしてレネーは母に日常的な経験によってモデルが母に提供するような性別があると思ったと示したに違いない。たしかにとても強くとても危険なものとして提示された動物を見ることによって。

しかし、我々はレネーが自分の乳房がペニスに変形していることをみた夢をこの時は完璧な形で分析することが可能ではなかった。この変形でさえ母的な力に本質的な象徴、糧をもたらす器官と生殖的な力の器官の間の類似はどれほど大きいのかを示さないのか?レネーがペニスに変形した自分自身の乳房を見るのに対して、レネーは男性のペニスに最初は母の乳房に差向けられていた口唇的攻撃性を移さないのか?

しかし、この口唇的攻撃性が結局男性去勢のレネーにとっての感情の第一原因であるのに対して、どのように母から男性への攻撃性の転置が患者にとって明らかになったかを示し続けることが我々には面白く思えた。

分析の第二段階。

レネ―は直ちには明らかに表現されているにもかかわらずこのファルス所有の欲望を認めなかったし、今やレネ―の神とレネ―の夫と我々の関係の我々の分析を受け入れたのに、レネ―はそれでもなお夢の我々の解釈の本来恣意的で不自然な性質についての自身の意見を固持していた。「私は男性でありたいと思ったことは決してありません。」とレネ―は言っていた。ともかくこの時以来レネ―の分析における行動は変化することになる。このことは明らかにレネ―の転移が変化したことを意味した。まずほとんど知覚可能ではなかったし、単に非難するようなレネ―の態度の停止によって表されていた。レネ―は自身のポジションが侮辱的であるとは、自分が怖がっているとは、そして不当に金を与えているとはもはや繰り返さなかった。あたかも男性分析家に対するレネ―の反感は失墜するかのように。反対にレネ―はほとんど無言でもあった。レネ―は夫に対する去勢的な実践の攻撃的な性質を示すいくつかの夢を提出することができた。レネ―はこの時に父に対する死の欲望を外在化することになり、扼殺の強迫観念の記憶を見出すことになる。この時にもさかのぼるの恐怖症は我々に死の欲望の明らかな表現、事故が起こるというものである。少し後に、感じられる他の展開がとてもはっきりした形式で表現されることになる。抵抗の言語的な表現における変化である。レネ―は「話したくないです」とはもはや言わなかった。レネ―は「話すことができません、話せない原因はわかりません」と言うのだった。確かにレネ―は激しい内的な葛藤に服従させられていた。レネ―はセアンスから出るときは疲れていて、震えていて、頻脈的でしばしば汗にまみれていた。復活祭の義務から生じる現実の葛藤の場合に、レネ―は男性、神、神格化された処女母に対する反逆の類似を意識化した。レネ―はその時「男性の、または女性のそこから処女母が来るような押し付けが嫌いです。聖処女に対して言う悪口を確かに母について考えましたが、自分自身についてそれらを言う気にはとてもなりません。」と言った。

その時、レネーがみた夢では、聖処女が自身の子供に単に気遣う理想的な母を表すと同時に父が信仰を告白していたとてもセクシュアル化された女性を表していた。

少しずつ、動揺が静まる理由は部分的には復活祭の問題はとても限られた期間にのみ現在的であったのだが、その問題の鋭さを失っていき、義務としての聖体拝領の時も過ぎたからであり、部分的には分析的な説明と解釈が理由でもある。転移は、いかなる小さな兆しにおいても(?)納得できるように、その攻撃性の多くを失った。

分析家はまずは、とてもちゃんと夫に対して成功したすべての去勢措置をその人に対して試したような(???)敵対者であった、そして、相ともなう去勢の攻撃性と同様に、ペニスの所有の欲望が意識的になったとき、いかなる男性とも患者から隔てる溝も部分的に埋められることになる。男性は仲間になった。患者はもはや男性と協力することを拒まなくなった。レネーは「話したいです」と言ったが、レネーは元気にそして頑固に闘ったような意識的な決意より強い内的な力に直面していた。この協力の実践的な結果はおそらく依然としてとても感じ取りやすいというわけではなかったが、分析家ー被分析者関係の方向は異なっていたし、後の発展を(我々に)予告させるがままだった。実は、ペニスの欲望の、そしてこの欲望の意味のこの啓示以外の何も起きなかった。男性分析家は少なくとも部分的には支配的になり、恐れ、ばかにする存在の性格を失っていた。男性分析家は好意的になった。おそらく男性分析家は常に禁止されてもいたのはレネ―と話すことを禁じられていたからだが幼児的な女性超自我の禁止はより厳しくなくなると同時に分析的イマーゴと愛想のいい母のイマーゴの間の意味作用的な混乱の前兆がある。これが第一の夢の形象化であり、それはレネーの結婚に反対して、副次的に鬱の発作時に自殺した義母との和解の夢に先立つとまず言える。レネーの義家族は間接的にレネーにその事件の責任があるとしていながら。「Xさんは…私にしてくれたことすべてについて老婦人に彼女とともに感謝しに行くように私に提案するのです。とても心配なのは老婦人があなたの家に住んでいるからです。彼女が言おうとしているのは、彼女は私があなたの家に来ることを知っていたからだということです。わたしたちはそこにいきます。あなたが私を迎えてくれます。わたしたちは普通の話をしますし、それは分析のセアンスではありません。とても満足しています。」

我々はここでその連想を詳しく展開することはできない。この夢の中でレネーはXさん…フランスで広まっている儀式の司祭との結婚にもかかわらず宗教的に自立を維持できている女性と同一化したいと欲望していた。

分析家のイメージについては、レネーが普通の関係を持っている男性のイメージと同時に思いありがあり禁止しないようにみえる母のイメージでもある。レネ―が分析家について持っている表象の二重の意味作用のすくなくとも一つのしるしがそこにある。

復活祭の危機の後一か月もしないうちにレネ―の状態が大いに改善された。身内の間でレネ―は幸せで、室内の改修工事に元気に没頭している。レネ―はまったく新しくなるように塗り直す。レネ―は元気だとも決して感じなかった。レネ―の強迫観念はまったく同じく多いのだが、レネ―はもはや罪悪感を少しも感じない。話すことに嫌悪感を十分簡単に制御することに成功している。レネ―は我々が上で要約した多数の資料を提供し、順調に進んでいると感じる。より直接的に前性器的な段階を表象する資料が出現し始めるのは、あたかも本当に女になるために「黒いペニス」を諦めることを受け入れる夢においてであるかのようである。レネーは次のような夢をみる。「小城塞にいます。役目は分かりませんし、考え続けないといけません。若い男性と遊んでいます。夕方に2つ目の表象があります。どうするべきなのかわかりません。2つの間でトイレに行き、特定の形の限りなく多くの糞をだします。救われた感じがします。うまくやります。」これはすべて明らかであるのは、劇場の状況は愛の状況であるということを知っていた場合であり、若い男は夫を象徴化しており、出された糞はペニスの形をしていたと知っていた場合である。

しかし、この仕事はすなわち超自我の心理学的構造の変化の研究と同様に転移の反応とその意味の研究に焦点があたっていたから、夢の報告に戻ります。それのように、男性的なイマーゴのこの両義性の理由を説明し、攻撃的な欲動の対象であり、そもそも全能の母に帰されたファルス的な力をレネーは所有しているからである。

実際、我々が言及することになる夢は男根的母親との和解の幻想であり、夢はレネーが分析家の男根的力を受けとった、より正確に言えば、貨幣的犠牲や肛門的犠牲のかわりにそれを受けとることの権利を獲得することになる(acquérait)すべての期間の後に起こる。「友達と一緒にいます。そのうちの何人かは試験に合格しそうで、私は小学校を出ていないので、友達のうちの一人が私に意地悪く言うのです。あなたは競争すべきだ、と。私が拒否する理由は同等の資格は持っているからと言う理由です。我々の校長は私の味方をします。この時、校長は突然スカートをあげて、私は校長が勝手に振る舞っていると思います。校長のももと足は完全に黒いです。よりのちに、私は庭にいて、とても好きな同僚のうちの一人が私にリンゴの木の花の咲いている枝を差し出す。私はそれを拒否するときに長い茎が好きだと言います。」この夢に全体の意味を与えるためには、十分詳しく供給された連想を報告する必要がある。試験によって免状を獲得しなかったことは、レネ―にとって常なる心配事の種であり、レネ―は劣等状態にあると感じ、能力がないと判断されることを恐れている。たとえレネ―にもたらされうる励ましの言葉にも関わらず。校長はレネ―にとってとても好ましい。校長はレネ―の味方をしていて、勇気づけ、愛情をレネ―に示す。黒いももはチュチュをつけた悪ふざけをする人が巨大なファルスの形をしている、有色のダンサーを表しているポスターを思わせるために。悪ふざけする人は芸術家に属しているように思えたし、我々が生殖器を見ることによるトラウマの痕跡を見つけようとして少し粘ってので、レネ―は我々に「そうです、その足から私は憲兵の馬の足を思います。馬が勃起していたときに、私は馬が持っていたものは何か、私を不思議がらせたものが何かわからりませんでした。私は他のことを思い出せません。もし…とても小さいとき私は他の少女とともに小さな棒を自分の外陰において遊んでいました。他のことはわかりません。」と言った。こうして明らかになるのは、ペニス所有の欲望であり、その器官による力の全部の可能性(???)の実現である。

夢の第二部については、ほとんど明らかな意味で、次のような連想を引き起こす。つまり、同僚は患者が愛している女性であり、元気で、正しく、良いのはアメリカ人の看護師と同様である。リンゴの木の枝が連想させるのは「微笑みの国」(花の咲いたリンゴの木の上でつつき合う二羽のハトを示すイメージ)(子供のころの記憶)のとてもやさしい歌である。茎が十分長くないという事実によってレネ―は最近の性関係のときに自身がした熟考に立ち戻った。レネ―は夫に「けどだからさらに入ってきてMais entre donc davantage.」(???)と言った。このようにして母はこの長い夢の第一段階においてペニスで飾られている。第二段階においては、患者はとても薄暗い庭の中で不十分に象徴的な枝(小さなクリトリス)しか受け入れない落胆を表現しているが、この夢が繰り広げられるのは甘く安心させるような雰囲気においてであり、葛藤は解消される傾向があり、眠っている本人は女性の状態を依然として受け入れてないが、平穏の雰囲気を知っている。しかしながらおそらくこの夢が表現するのは不安のない夫のファルスを自由に自分のものとする欲望、女性的去勢コンプレックスの古典的な解決の様式であるのか。

分析的、母性的、ともにファルス的であるイメージのこの混同の表現は実に陽性的な転移のこの夢において去勢のニュアンスとともに(???)でも表出される。「わたしはあなたのところでセアンスにいます。7から8歳の子供がいます。あなたはモリエールの医者のように長い黒衣を着ているが、とんがり帽子はかぶってないです。私を所有するためかのようにあなたは私の上に(?)身を移します。このことを完全に自然なことだと考えています。あなたはそして黒衣をあげて「もう話さないで!」と言います。」ここにいくつかの連想がある。黒衣は、古典喜劇の医者の黒衣である。浣腸は、「10歳のときに、年上の少女によって浣腸が入れてもらいましたし、そこから本当の快感を得ていました。母は私に浣腸をいくつかしてくれました。しかも、母はいつも黒衣を着ていました。あなたとの性関係は普通に思えます。少年については、私の息子です。ご存知の通り、息子の若い妻との不和を休みのあいだに認めて、その原因は私が受けた厳しすぎた教育による神経症にあるのだと考えて、あなたのところで治療を受けていて、完全に良いことを治療から引き出している(tout le bien que j'en retirais).と 息子の妻に告白しました。それはとても厳しい出費でした。」 このように、レネーはもはやその時まで感じていた女性であることの屈辱を感じていない。指摘に値するのは、レネーの性的関係は前性器的な様式のもとでなされているということだ。またレネーの沈黙の多元的決定も注意するに値する。つまり、話すことはレネーにとって、男性や男性化された母への性的な服従にかなり等しかった。レネー自身において強く罪責感を感じさせる口唇的活動であるにもかかわらず。次のかなり素敵な夢は、前性器的な口唇的な多くの影響もかかわらず、正常やエディプス的な進展への傾向を表しているようにおもえる。「グランブールヴァールに私はいます。イングランド王が腕に妻をはべらせお付きの人々から出てきます。私は話しかけ、息子がこの美しい国にいることでどれほど幸せかを言います。王は私にお礼してくれて夕食に誘ってくれます。私は王の腕で再出発します。王妃は消えてました。小さい家に着きます。多彩な形のクリスタルガラス製品が載っているワゴンを見せてくれた従僕が目の前にいることにその時に気が付きます。杯を選ぶように誘われます。欲しくないと答えます。そして、付属の建物に行き、洗濯をする母が目の前にいることに気が付きます。母は白髪で乱れていました。私は「お母さん、靴を履いて、王様の宴会に行かなきゃ」と言います。その時、宮廷のコートを着ている婦人に早くするよう言われます。私に言うべき重要ないくつかのことがその婦人にはあります。この夢以来、楽しみと自信の奇妙な感情を体験します。病気の終わり、宗教的強迫観念の終わりにさえたどり着くことになると確信しています。昨日は教会で主祭壇まで進みました。20歳以来それをしませんでした。それは、あなたに言わなければならないのですが、実際結婚以来、性的強迫観念を持っていたからでしてた。」

レネ―は自発的に結び付けた。「王は制服を着た父ですし、特徴からしてあなたです。言い忘れていました。小さな家のドアでマリー女王と擦れちがいました。女王に厳しい様子で見られました。ぼんやりしていますが母なのです。家はいつも結婚のはじめの数年に持つことを夢見ていた家で明るい家で、花がまわりにある、プロヴァンス地方の別荘です。受け取りたくないと思っているクリスタルガラス製品については、性的なほのめかしを伴ったその替え歌を聞いたことがある見習コックの帽子(大きなもの、小さなもの、四角いもの、とがったものがあります)についての面白い歌を思い出させます。ペニスについての考えを思いつきます。洗濯をしている母からは今考える仕方について考えさせられます。ここに至るまで、どれだけ母が我々全員のために、そして他の面でも身をささげていたかを感じ取りました。母はかなり変わったのです。

母は私にとって意地悪に思えてた分だけ今は良く思えます。最近の休暇では、我々が気晴らしできるために仕事で疲れ果てた母に会いました。よく考えてみると、変わったのは私の方なのです。母はいつもそんなかんじでした。ただ私が母の悪い面でとても苦しんでいたので、母の良いところがもはや感じられなかったのです。あなたが私に発見させてくれたことですが、何よりも好きだとわかっていますが、母の権威主義は支持できませんでしたし、そのうえ、自分は見捨てられたと思ってました。宮廷コートの女性については、子供のころの物語の妖精です。」

レネ―はさらに付け加えた。「今朝に目覚めのときに感じた言いようのない幸福の印象を強調します。人生が私の前で完全に輝いてそして穏やかに開かれていました。もはや何も怖いことはありません。

他の人たちと同じようだと、すくなくとも他の人たちがそうであろうと想像してたように(???)すべてのひとと同じようだと感じました。所帯のなかで幸せに生きたい、所帯のなかでしかるべき位置を占めたい、夫の愛情と子供の愛情を享受したい、ただそれだけです。」

お分かりのように、この夢は患者が性器的陽性転移の道にかかわっているということを指し示しているように思われますし、そう言うかもしれませんが分析の第三段階が開かれているということを指し示しているように思われます。しかもそれ(夢)はいかなる攻撃的な表明をも恐怖を伴っておざなりにしたいように見える一連の夢全体と同じ時期にあるのです。ともかくその幻想においては、レネ―の母はもはや消え去る人物でしかなく、「洗濯をしている老婦人」でしかなく、レネ―が王の腕を取ったときにいなくなるイングランド王の配偶者でしかない。威嚇的な側面をもっていたかもしれなくとも、マリー王妃は家に入ることの邪魔をしない。この夢においても、王に話しかけ、感じの良いことを言い、お付きの者たちのなかの王妃の場所を授かる。
この夢は陽性エディプスの欲望の誕生をしっかりと示しているように思える。レネーはペニスの所有を諦めて、王の招待を受け入れ、そのことを感謝していて、しかし、そこで前性器的な欲動の執拗さが食事への招待に表現されている。王との関係は食事的領域(sont d'ordre alimentaire???)にある。しかも、杯の拒否の象徴性は明らかに複雑であるが、患者は自発的にそれ(象徴性)をファルス的力に対する自身の要求(ses prétentions)のあきらめの表現として解釈している。まさにそういう事情なのか?(en est-il bien ainsi ? )「くぼんだ」ペニスの象徴、それを望む分析家がいるような、とても受容的な女性による男性のペニスの同一化の通常の欲望の表現ではないのか?母性的固着の強度はともかくレネ―が感じる君主の宴会へ母を連れていく必要性によって指し示されている。

分析は進展し続け、陽性転移はとても強く前性器化されているエディプスの特徴によって明確にされた。同時に、患者の男性に対する反応と母に対する反応の平行関係をより明らかにする資料が出てきた。次のものが他の複数の夢のうちから選ばれた夢である(レネ―はその日に母と葛藤状態にあったし、多分そのことが部分的にこの資料のより特にサディズム的性質について説明してくれる。一時的なレネ―自身の攻撃性の爆発に対応して。)。「地下道で、男が私のあとを追ってきています。怖いです。その男が私に追いついて、首を絞めて殺そうとしています。その時、私が暴れて叫んでいたので、夫が起こしてくれました。男はあなたです。あなたにこのことを言わなければならないことをどれだけ忌々しく思っているかあなたは知りえないのです。自衛して、反発します。あなたは母のように沈黙、力によって私をいらつかせます。それでも私はあなたのことを続けて考えています。危険でもあり、屈辱的でもある状況に身を置きたいのではなく、分析を辞めたいのです。バカにする男性を愛することは、堕落する(売春する)ことなのです。私にとって絞殺未遂が示唆しているのは、キスするために、そして全力で抱きしめるために子供であった私がとても母の首をつかみたくなったのですが、母は私にそれを許さなかったのです。あー、私は母を憎んでいるということ、それは本当です。父を絞め殺したくもあったのです。」レネ―はこの夢において我々にサディスティックと同時に恋愛的な方法で、子供だったレネーが母に対して振舞いたかったように、扱われることに恐怖を感じているが、15歳に練り上げられた攻撃的な情動は父の絞殺の強迫観念においてただ感じ取られた。レネ―は付け加えました。「私に関心がないまま、夫が寝付くときに、殺したいと思います。戦争中に母と寝ました。母がつれなかったときに母を殺したいとも思いました。」そして記憶の中で激しいサディズムの強迫観念が戻って来る。転移の総合的な解釈を今試してみよう。

この患者が分析的状況において戻ってきた転移は漸進的にしかし非連続的に展開した。つまり初めの時にとった本質的に否定的な表現と強烈に対照的な自信状態と弛緩状態の方へ、顕著な動揺を伴って、ということです。研究がこのことについて我々に教えたことを要約しましょう。第一段階においてと、ファルス的所有の欲望が意識的になる以前には、対立の態度は全く少なくとも見かけは完全に男に向けられてきた。分析家に対して、夫に対してとっていたふるまいと類似の完全なふるまいをとっていただけでなく、治療のこの段階の終わりでこそ、父と医者への攻撃性の認知を完全にした。実際に、敵意的なこの気持ちは、自発的で断固とした、男性のふるまいがどんなものであろうと、疑いなく両親の夫婦の面前での患者の心理的なポジションの、つまり父への同一化とオイディプス的倒錯の、結果であるだけではなく、そのように表現できるなら、母に対して経験される攻撃的情動、他では完璧に古典的で幾度も対象化される概念の転移の結果でもまたある。この観察では十分に示されていたと考えます。夢において父への同一化の欲望が表現されている(「レネ―(???)をファルス的存在にするような(feraient???)靴を分析家から受け取るということ」)と同時に、幼児的女性的超自我の抑制する権力の表現である、検閲の厳しさが緩和してきていた(allait s'atténuant???)と指摘することは我々にとって興味深く思えました。子供であるレネ―が一例しか引き合いに出せないが、現実の母に対してあえて明確に考えることを決してすることがなかった、心の底でさえもそうすることのなかったときに、守護をそのとき聖母に当てられた侮辱において見出すことができた(elle pouvait alors reconnaître, dans les injures adressées à la Vierge Mère, les vocables, qu'enfant, elle n'avait jamais osé se permettre de penser clairement, même en son for intérieur, à l'égard de sa mère réelle pour ne citer qu'un exemple. ???)。我々の考えるところでは、そのような患者たちが親密な関係、反母性的原初的攻撃性の関係(???)を結ぶ男性に対するより一般的な仕方と、分析家への投射の結果を見失わないことによってのみ、このような結果を理解することができる。もしただしファルス的所有の欲望の想起が父、ペニスの所持者への同一化を可能にするなら医者の去勢の欲望の意識化は、そのうえファリックマザーへの攻撃性の罪悪感から解放することと等しい。我々がより長々と述べることはしない、レネーの転移の否定的な局面には、この発表の大部分がささげられたし、ここで簡潔に要約したばかりなのは、分析的なイマーゴの両義性が現れるのは患者の転移の陽性の側面とまったく同じように陰性の側面の分析においてであることを示すためでしかない。我々が既に十分ほのめかした、医者と母の人物の夢の圧縮について我々は立ち戻りたくないが、転移の分析のこの試みを終えるにあたって、我々が強調したいのは、どれだけ、これらのイメージが分離するときでさえ、そして転移の人間的でエディプス的な方向がはっきりしてくるように思えるとき、男性への患者の反応が、母との関係の図式に基いて変調させられるかということだ。レネ―が言うには、「私を愛していて、私が感心している女性のつきあいが私に与える完璧な幸せを夫とともにはあきらかに経験していませんが、あなた方二人との関係では私が常に敵対することを恐れている母に出会うまえに私がそこにいる状況、と類似の状況において私はいます。あなたの顔の表情であるだろうものについて考えます。私がそれを開かれていると考えるにも関わらず、よく感じて、明るくなりました。それは私を収容するように思えるにも関わらず、ただちに意地悪で敵意あるものになると感じます。完全に母といるかのように。母が厳しく深い雰囲気をまとっているとき。(???)しかも、今はあまりはっきりしてないです。あなたがいいと感じます、本質的にあなたに頼ることができると感じますが、私が経験する愛情的感情で私は常にぎくっとします。」

このように、生活の具体においては、この患者にとって異性愛的対象に対するリビードの満足する出口が不可能となる理由をありのままに捉えられる。男性、ペニス所持者は、現実の態度がどんなものであろうと、つねに欲求不満にし、圧倒する悪い母の生き生きとしたイメージであり、おそらくファルス的破壊の口唇的欲動が展開され、受け取られる限り(???)。ここから結果するのは、愛情転移のいかなる状況もすぐれて不安をかきたてると感じられ、母性的な固着の放棄に対応する、そのような状況が引き起こすしかありえないほどとても多くの恐怖の事実、そしてそれは我々に不安の本質的な源のように現れて、そのような可能性は攻撃性を含み(???)、反座法に基づいて、破壊の恐れの、ペニスへの転置によっての、母の胸の愛の、そして破壊的な口唇的渇望の(???)。胸とペニスのこのアナロジーはここでは我々にはとても意義深く思える男性化の幻想の胸の局在化によって対象化されている。しかし、患者が自発的に男性的力と母性的力の二つの形式の間に建てるアナロジーを表現しているにも関わらず、レネ―は「いずれにせよ、付録ですね」というこの種の合理化によってこの対応を強調することを狙いにする解釈に反対する。

口唇的欲動の分析はつねに激しい抵抗とぶつかった。しかしながら、重大な肥満の食餌療法の要請にもかかわらず、患者は自分自身から決して和らげることができない欲の意味作用を強調した。「自制するとき、抑えがたい不安を感じます。」レネ―はオスチヤを見ることをとても頻繁にレネーから覆い隠すいくつかの男性的生殖器を見ることをこの症状にしっかりと近づけた。しかし、レネーはこのことに関して子供の頃の二つの強迫観念を思い出しながら、こうして近づけることを一種の分析の暗示とした。「聖体拝領をしようとしたとき、唇に着けることができたものの上にオスチヤの一片を置きながら、それ(オスチヤの一片)を冒涜するのではないかという恐怖によってその一日中強迫観念にとらわれました。それゆえがつがつとそれを飲み込みました、一挙に。」ここでは攻撃的な欲動が防衛方法に浸透している。同じ日に、キリストの聖体が糞便と混ぜられ捨てられるのではないかという恐怖においてレネーは排便を遅らせたが、レネ―は今やそれについて考えることで、一種の快楽を経験したと感じている。この肛門的サディズムは、レネ―がその意味作用をよく理解していて、より簡単に分析されえた。レネーは神に対して、聖処女に対して、母に対して、医師に対してのスカトロ的な取り込み(間投詞interjection)の攻撃的な力を感じている。この主題についてレネ―が浣腸ゲームに近づけた次の強迫観念をお知らせしましょう。「司祭が「心の底を打ち明けてください」と言う時、「お前の肛門を開けなさい」と考えます」、アナルの受動的なエロティシズムの象徴的な満足。

レネ―の分析の不十分な性質にもかかわらず、レネ―の回復は重要である。情動的な関係は極めて和らいだ。レネーは夫を愛することができるように見えるのはより独占的ではないような様式であり、レネ―は夫がより男らしくあってほしいと思っている。母もレネ―の変化の恩恵に浴し、レネ―は厳しさにもかかわらず母が献身的だと考え母を理解しようと努力している。激しい攻撃性への立ち戻ることは依然としてあるが、長くは続かない。さらにレネ―は息子アンドレに自由な教育をし、息子と遊ぶことができ、性的問題の折り(???)に話すことができる。長男に対しては、本当に母親的で、レネ―が責任を感じている神経症的態度を訂正するために、そしてその点に関しては罪悪感の病理的感情を経験することなしに分析治療について話すことをためらうこともなかった。最も習慣的には、レネ―はとても幸福だと感じているし、公平であろうと努めている。宗教的強迫観念は極めてまれであり、平然とレネ―の心に「稲妻のように」浮かび、情動的な反応を引き起こすことのないこれらの思考を受け入れている。強迫的現象の残存物の、不安なしのこの受容は、外部へのリビード的投影の新しい可能性に付け加えられ、我々には実際の回復に少なくとも相対的な安定性の特性を授けているように思える。

結論

我々をこの仕事をあなたがたに示すよう導いた特異な点を強調する前に、いくつかの行でこの観察のデータを、女性の強迫神経症の複数の他の観察においてすくなくとも何人かの女性たち(entre elles)によって見いだされたデータを要約することが我々にとっては必要に思える。この患者たちは全員は同じ仕方で家族的な状況に反応していた。彼女たちは自身の母に子供的な様式で(sur un mode☆)固着されたままであり、エディプスコンプレックスを反転させていたように、同性愛的ポジションをとったように見えるにもかかわらず、レネ―(celle-ci)は生殖的所有の幻想を少しも伴わないという事実を、また事情がそうであっても、この幻想ははっきりと際立ったサディズム的特性を呈するという事実を強調する必要がある。この母の固着は、言われたように(comme il vient d'être dit???)明確なのだが、母娘の二人組に干渉することと娘と母とを結びつける契約の完全さを変えることができるいかなる人間にも対する攻撃的な反応を伴う。これが例えば他の子どもたちの場合である。この絶対的に恒常的な事実はそもそも強迫神経症に特有のものではない。しかし(この事実は)絶対と暴力の特別な特徴を呈している。一方、母娘の二人組の内部の関係はサド―マゾヒズム的な目立った面で展開する。母に対する両義性は極端であり、分析が簡単に母性的対象への盲従への傾向を見つけるにもかかわらず、この同じ対象に対しての継続的な反抗、教育者として母がレネ―に免れさせる本能的限界によってしか母が娘に必ず課しえない、情動的なフラストレーションによってちゃんと引き起こされた反抗も簡単に明らかにする。父に関しては、明らかにこの結合の一体性を破壊することを促された主要な要素の一つであり、そのようなものとして子供の攻撃性を高ぶらせる。しかし、父と娘の関係は母という、共通の愛の対象のところでの単なるライバル関係が含んでいたことよりも明らかに限りなく複雑である。母への固着の重要性がどんなものであったにしても、娘はすくなくともある時は父に惹かれていたし、分析は父へのかすかな惹かれの始まりを定期的に明らかにした。父がどれほど弱かろうと、それでもなお存在していた。時々でさえ、父は依然として明確に捨てられていない、幼児的ポジションへのリビードの退行の条件総体において重要な役割を演じていたように思える。子供にとって、父はあたかも我々が暗に言及したがった(条件法複合過去)観察におけるかのように、特に恐ろしく、サディステッィックな人物であった。しかし、この観察においてさえ、ましてや他の観察においてでも、前性器的備給のリビードの非解除がエディプスの失敗に責任があるときにも、父は立派に思える。うまく除去されていない母性的コンプレックスの基本的な諸要素をまるごと父に転移している子供は、関係のこの新たなタイプにおいて、初めのリビード的対象との関係においてと同じ困難にぶつかるに違いない。禁止、大きいペニスの恐怖、そして生物学的な不法侵入に応じて、特に我々にはそう思えるのだが、彼女(母)への自身のサディスティックな、口唇的で肛門的な、最初は母に向けられて、次に父に転移した欲動の豹変の不安に応じて、母への固着に戻る。この患者たちがうまく結婚できるときに自身のパートナーと持っている関係については、明らかに完全に特別であり、結婚を母に求めるほどに、そしてこの図式が異性愛的な選択に考えられる限りで(autant qu'on pourrait le penser)関係ないほどに、書くことができた母性的コンプレックスの図式を連想させる図式に基いている。しかしながら、婚姻的な関係と母から娘への幼児的な関連(liaison ☆)のあいだには基本的な差異がある。「よい母」がこの患者たちの歴史のなかに存在してるのに対して、「よい夫」は存在していないで、我々はこれを通じて伴侶が受け入れる去勢の完成度がいかなるものであろうと、患者たちに関しては、すくなくとも女性の強迫神経症においては、激しいリビード対象的な流れの投影を現実化するような、この情感的発散は決して起こらないということを言わんとしている。患者たちが思いやりのある女性と持つことができる関係においてみられるように。ペニスを受け入れることやオルガスムに達することでは状況は何一つ変わらない。というのも、性関係はどんな方法であろうともまさしく去勢行為であるからだ。父に対して取っていた態度に確かに似た態度を夫に対して表明する(développer une attitude)が、この態度の基礎にあるのは実は母へのサディスティックな活動/能動性(activité)の陰性コンプレックスであり、陽性エディプスコンプレックスの試みが大いに短くとてもためらいがちであったので、結婚の行動の中に、敵対していて恐れられていた母に対しての実際にとった態度のすべてがあると、つまり極度の欲求と従属の意識と絶え間ない反抗と憎しみの間で分けられていると明らかになる。同じ(??)激しい不安とともに自身から生じるいかなるフラストレーションにも反応しながら、その暴力から(d'elle)生じる無関心のいかなる表現にも反応しながら(qu'à ??)、常に同様の破壊欲求を感じる。

分析によってこれらの患者は男または父からの性的攻撃の深く抑圧された欲望を再体験するのに、我々がレネ―の観察において示したようにうわべは逆説的な事実だが、提供された素材は、娘から母への考えなしのはっきりした/攻撃的な攻撃(l'attaque agressive primaire??)に応じて、母から攻撃的に反応されるのではないかという心配によって、すっかりその傾向が決まっている/導かれている(orienter)と気が付く。我々はここで女性の強迫神経症の他の三つの観察に関係する資料、この種類のコンプレックス的な状況が存在しているという論証に完全に役立つように我々には思えた資料を提示したかったが、時間不足ゆえに詳しく記すことはできない。

このような条件ではこれこれの患者たちに対しての男性分析家のポジションは極度に難しいと思われる。分析家ー被分析者関係の正常化とつまり治癒は、分析家が女性的で母性的なイメージとして患者の無意識によって受け入れられる場合においてしか生じないと言うことはよくある。我々には、そういう事情であるとは思えないが、それどころか、一見したところ分析的なイマーゴは父親のイマーゴが含んでいる反対(治療に抗する効果??、主体が外的世界の要請の機会に提示しうる態度と反応全体??)と攻撃性のすべてをもって(avec tout ce que ceci comporte d'opposition et d'agressivité??)、父親のイマーゴと同一視されることは避けられないと思える。

レネ―の観察について詳しく記しながら我々は医者と患者の接触を難しくする理由のすべてを十分に詳しく強調してきた。

我々がこれらの臨床的資料のすべてを詳細に報告したのは、それらを思い出させることが転移の状況の進展とそれが引き起こす精神内部のバランスの相関的な変容の理解に不可欠であると我々には思えたからである。これらの観察すべてにおいて、転移はファルス所有の欲望が意識的になったと同時に都合よく進展するように我々には思えた。この進展は、どんなにまさしくはじめのほうであろうと(pour si précisément commençante qu'elle soit??)、当時は、ゆっくりと進んでいくのであった。知っていて理解していて許可する(qui sait, qui comprend, qui permet, ce qui ne veut pas dire??)者に分析家は少しずつなった。このことは、感じることすべてを投影することができるようなパートナーの基本的な役割を治療のこの段階から演じることは分析家には不可能であったということを意味しない。言い換えると、ここでは男性の強迫症者において我々が確認したことが生じる。攻撃性や愛の可能な表現のすべての外面化で大いに満足するような(qui s'accommode fort bien de l'extériorisation de toutes les manifestations possibles d'agressivité ou d'amour)基本の協力、異論の余地ない取り決めが主体と医者の間に確立される。男性のセラピストからこれらの女性たちを別れさせた還元不可能な対立、抵抗や沈黙や多少破論破しやすく絶えずよみがえる合理化の最も多様な形式によって表現された還元不可能な対立は、彼女たちにとってはいつもの治療の規律に背くことすべてが無くなることとは別に(sans préjudice de)その時消える(tombent??)。したがって、男性に対する敵意の深い根源を彼女たちが受け入れることによって、二重の臨床的な効果が生じる。一方では、受け入れることで、基本的な動機を自身では知らないような対立を表明するに適切な遠回しなやり方を使うことが無駄になり、他方では、分析的対話の二人の参加者の間に特異な理解の感情をはっきりと示す。男性化のこの幻想を更新することは難なく明らかに進展することはない、よく考えられるように。(セラピストは)極めて罪責感を与えられていて、おそらく意識に到来することによって、それで告白によって罪悪感から解放することは、この類の被分析者によって感じられる例外的な理解の関係の確立において重要な役割を演じている。ファルス所有の欲望と相ともなう分析家の去勢の欲望は単にいつもの抵抗の裏に隠れてるわけではない。しばしば、それはうわべははかなり陽性でかなり性的な転移の夢であり、去勢の欲望を明らかにするとても細かい点を含んでいる。とても早熟に現れる性的に近づくことの夢は、強迫神経症の症例において、このタイプの幻想でしかないという疑いがとてもある。その具体例を一つあげる。治療の初期の月日から、ニコルは医者との性関係のさまざまな夢をみた。さて、その数か月後に、ニコルは類似の夢をもう一度持ってくる。「あなたは私の婚約者であり、私たちは私の家に帰ります。- 私たちは家につきます。- 私たちは入ります。- 私の母はそこにいます、彼女は私たちを良い笑顔で迎えます。」ペニス羨望はこの服をもらいたいという欲望か盗みたいという欲望――初期の夢において表明されもしていて、ニコルが隠した欲望によって象徴化されていた。ジャンヌの症例も、母への固着のと母への男性的振る舞いの意識化によってと同時に、抵抗の形式の連続した分析によって、一連の男性化の幻想に含まれる。ジャンヌは夢を見る。「私があなたと生活するようになるあなたのアパルトマンに私は居ます。-そこで私が時々会う高齢者の代わりとなります。実は、私がそこにいる理由はあなたに思いを寄せているからなのです。特にそのことを母は知っていてはならない。あなたは穴が開いたスリッパを足に履いていて、太い足の指が見えています。私の最初の注意はそれらの破れた穴をふさぐことになるでしょう。」去勢の欲望はここではスリッパをふさぐ意図によって指し示されている。

ペニス羨望の現れ方がなんであれ、患者の夢は我々に彼らのファルス所有の欲望の意味についておおまかに教えてくれる。患者の幻想の基礎には母をサディスティックに所有する患者たちの欲望が横たわり、またはより穏やかに言えば、患者たちの母に幼児の状況の逆転を押し付ける欲求が横たわる。支配される者から、患者たちは支配的になりたいと思う。ニコルはコートの夢の翌日に、次のような幻想をもってくる。「私は男性です。母に似ている若い娘の室内に入り込んだ。私がその娘を殺したのは、その娘が私に抵抗するからでした。」そして、ニコルが男性であった場合のニコルの態度について長々と述べます。ジャンヌは母の監視から解放されるというより単純な夢を見た。「私は風呂場に尿の分析を私にする医者(あなた)と一緒にいます、母はそばの部屋にいて、分析を止めさせるよう言います。私は激怒して出ていって、それが必要である限りで何が起ころうと分析を続けると断言します。」したがって、さまざまな夢の幻想において、軽蔑していて命令するような汚れて醜い家政婦に母をたとえて、他の幻想において再び、私が下品で陰気で彼女のように趣味の悪い服装をしている女性と結婚していると、とても押しのけることはできない、または少なくと簡単にはそれを告白しないと考える。同時に、具体的な観点から、それまでただ一瞬だけでも昼も夜も母と離別することができなかったこの若い娘は、ひとりパリに行って、いかなる母の監督もなしに、デッサンの授業を受けていた。彼女は二か月以上前から続けている。もちろん、彼女が治ったというにはほど遠い。レネ―の症例においてと同様に、前性器期的素材が今、口唇的観点と同様に肛門的観点においても現れると付け加えなければいけない。

このように、ペニス羨望の意識化は同時に、一方で分析家と被分析者の情緒的な交際に都合がいい方向に転移の変容を引き起こし、他方で幼児的女性的超自我の厳格さの対応した低下を引き起こす。レネ―の観察を詳述することでよりはっきりとこの命題を正当化することができたが、この結論において我々が暗に言及することしかできなかったジャンヌとニコルの症例において、ペニス羨望の意識化のこの二重の結果がそこでも同じくらい明瞭に現れるということはなかった。以上が臨床の確認事項であるが、我々はさらに推し進めることができますし、この二つの現象――転移の改善と幼児的女性的超自我の厳しさの低下――がなぜ結びついてるのか指摘することができます、そして同じくサディストとしてみなされている男性への退行的様式における同一化から始まって、分析家はこの二つの同一化の支えに留まりながら、これらの患者たちにとって今度こそ受動的女性的同一化に移ることはどのように可能になるのか?を指摘することができます。レネ―の観察だけで我々はこの進展のアイデアを得ることができます。レネ―の特別な症例において、一種の混同が軽く無性化された分析家からと好意的な母性的イマーゴからレネ―が作る表象の間の夢において実現する。幼児的女性的超自我の重圧が緩んだ後に、サディスティックな男性的同一化の基礎として役立って、そしてそのことによって、このような同一化が含んでいたファルスの力の印象に応じた母への攻撃性の外面化を可能にさせた、分析者的なイマーゴがますます無力で好意的な母のイマーゴに類似しているものとして無意識によって感じられる。この時にこそ、実にこの時の場合だけ、患者の無意識が良き母の人格を支配するように分析家の人格を支配すると言うことができす。患者たちは内的問題の転位(置き換え)(déplacement)の自然に発露する印象が伴うこの進展を示しています。患者たちはもう母にではなく、分析家に頼っているのです。例えばジャンヌが言うことになるのは次のことです。「私はあなたにちゃんと言わなければなりません、――さもなくば不安で自分をそのことで責めるのです――私はもはやあなたを裏切ることはできません。もう母に何も言わなくても。」ニコルがセアンスに欠席することをひどく恐れているのは、罪滅ぼしの偏執を繰り返させる、潜在的な不調か落ち度にある状態にあると感じるからである。そしてとくに、レネ―の観察が示したように、夢の母のイメージは性格を変える。敵意のある母、そして患者の敵対者は、分析家によって支えられているのだが、母のこの新しい体現が分析者的イマーゴと混同される時に至るまで、その母は思いやりがあり寛大になる。この混同のためにこそ、女性的同一化が男性の分析家の人格(pesonne)の上で行われるのです。混同されたイメージの分離はしたがって、強く実に思いやりのある父の人格(personne)が献身的で弱い母の人格と異なっているような、王の夢においてと同様に可能に思えます。反男性的な攻撃性と男性の去勢の欲望を再発見することによって、患者は同時に両親に対する自身のサディスティックな欲動を再体験するということを、このような働きは前提しないのだろうか?この意味においてこそ、分析家は母として一挙に理解されるということは正しいのだろう。しかし、我々が事実により適合していると思うのは、この複雑な転移の分析において、それ(分析)が含んでいる攻撃的な投影の全体性をもって患者が男性と直面する段階を区別することです。それは、悪い母に対してこれ(分析)を使う前に、そして小さな児童のタブーをすべて壊しながら、正常のリビドー的進展を可能にするような、都合の良い生殖者に同一化するように、付随的に悪い母に同一化する前に。我々はすべての強迫症者において、男性的、退行的同一化のダイナミックな権力に驚愕しました。男性の強迫症者が排泄口的エロティシズムを満足させる受動的な様式でファルスを受け入れるときや、娘が能動的攻撃的な様式でそれ(ファルス)を自分のものにするときに、この働きの最終的な結果は常に幼児的女性的超自我の厳格さの減少であり、しばしばファルス的である母のイマーゴは強制的で支配的な性格を失います。

しかし男性強迫症者の同性愛的転移の役割を父への両価性のみの削減に制限できるだろうか?我々はそうは考えない。新しい観察が我々に示してくれるたのは、ペニスの能動的な挿入はあたかも臓器摘出のように感じられるということであり、聖体拝領による全体の破壊の欲望の仕返しにおいて、母のイマーゴはそこで本当に憔悴させるようなものである。幼児的母性的超自我の要求の削減は、ここでもまた、あいまいな分析者的イマーゴとの葛藤の解消から生じると我々は考えている。

この研究で検討された事柄は、よく知られています、それもずっと前から。しかしおそらく、女性の強迫神経症の特別の症例においてペニス羨望の意識化の治療の利益に立ち戻ることは、そして具体的に、生活においてと転移において、しかし一見したところしばしばあまり明らかでないように、母性的コンプレックスと要するに母へ最初は向けられたサディスティックな欲動の全体の男性への投影がどのように表現されるか示すことは全く無駄というわけではありません。