さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

しょひょう。へれん・えむ・がんたー『きょういくの りーだーしっぷと はんな・あーれんと』

つぎの ほんについての しょひょうを かきました。(せいれき 2021ねん 2がつ 25にち)
(せいれき 2021ねん 3がつ 7にちに 「いきるに あたいする、しない という ことば に ついて」を さいごに かきたしました。)

へれん・えむ・がんたー(すえまつ・ひろき、いざわ・しげき、はしもと・のりゆき やく)『きょういくの りーだーしっぷと はんな・あーれんと』、しゅんぷーしゃ、せいれき2020ねん

ヘレン・M・ガンター(著)末松裕基、生澤繁樹、橋本憲幸(訳)、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、西暦2020年、春風社

http://www.shumpu.com/portfolio/790/


はやかわ・こう(早川・公)@hayakawa_ko さんから #献本ギフトエコノミー (けんぽん・ぎふと・えこのみー)で いただきました。
はやかわ・こう さんは、まちづくりや ちいき・しこう・きょういくについて けんきゅうしている かた です。くわしくは、 つぎの さいとを みてください。
https://researchmap.jp/hayakawako

けんぽん・ぎふと・えこのみーは、 はやかわ・こう さんが かんがえた とりくみ です。けんぽん された ほんを がくせいや わかて けんきゅうしゃに ただで あげる という とりくみ です。くわしくは、 つぎの さいとを みてください。
https://mainichi.jp/articles/20210201/k00/00m/040/102000c.amp?__twitter_impression=true

それでは、 しょひょうを かきます。しかし、 じぶんは、 きょういくがくの せんもんかでは ありません。また、じぶんは、あーれんとの せんもんかでも ありません。なので、まちがっている かのうせいが たかい です。なので、 よむ ばあいは ちゅういしてください。

また、しょひょうの したに、 かんそうも かいたので、 ぜひ よんでください。

しょひょう

きょういくで ぜんたいしゅぎが しはいする
くにをこえての おかねもうけに。

いんぐらんどの きょういくという ぶんやで、ぜんたいしゅぎてきな ありかたが ひろまっている。ちょしゃの がんたーは そう きびしく してきする。
がんたーは、はんな・あーれんとの かんがえを つかい、 きょういくにおいて りーだーしっぷを きょうちょうする さいきんの えいごけんでの せいじの うごきを ひなんする。

はんな・あーれん(せいれき 1906ねん から 1975ねん)は、どいつ しゅしんで、 あめりかがっしゅうこくで かつやくした せいじしそうか である。
あーれんとは、つぎのように かんがえる。 おもに どいつの なち たいせい(せいれき 1933ねん から 1945ねん)と、 そびえと・れんぽうの すたーりん たいせい(せいれき 1924ねん から 1953ねん)は、 ぜんたいしゅぎ だった。あーれんとは ぜんたいしゅぎの とくちょうを、はなしあいによる せいじが なくなる ことに あると かんがえた。ぜんたいしゅぎでは、 りふじんな りゆうで しょけいされる。 そのため、きょうふにより はなしあいが できなくなる。そして、うえの けっていに したがう だけになるのだ。この ぜんたいしゅぎが できた りゆうの ひとつは、 しほんしゅぎの かねもうけの かんがえかたである。だいじなことは、 はなしあうこと ではなく、いきのびて、 なにかを つくること だけである という かねもうけの かんがえかたが、 ぜんたいしゅぎに つながったのである。 そして、あーれんとは、はなしあいで びょうどつに ともに いきることを きめることを もとめた。

がんたーは、この ような ぎろんを つかう。 さいきんの いぎりすの いんぐらんどだけではない、きょういくを かねもうけの ために つかう くにを こえた ながれを ぶんせきする。
がんたーは、 このような ながれを、 しんじゆうしゅぎと しんほしゅしゅぎとして せつめいする。
しんじゆうしゅぎ(新自由主義、ねおりべ)とは、くにが とりくんでいた みんなの ための きょういくや ふくしを かねもうけの ために じゆうに つかえるべきだ という かんがえである。そして、しんほしゅしゅぎ(新保守主義)とは、くには できるだけ おかねを つかわず、 せんそうを したがる かんがえである。
この ながれでは、 おしえる ものも おしえられる ものも、 はなしあいが できない。 おしえる ものは、 ただ うえの きめた ことを くばる だけに なっている。
そして、がんたーは もとめる。「ぎろんせよ」(がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、270ぺーじ)。

この ほんの とくちょうを みっつ あげる。
ひとつめは、 がんたーの するどく、 ただしい もんだい いしき である。 きょういくに おいて だいじな ことは、 きょういくを うける ものが、 かんがえられるように なる ということだと かんがえられる。しかし、 てすとで わかる せいせき だけが たいせつだと おもい、 うえの きめたことに したがい、 はなしあわない という じょうきょうが ある。 この じょうきょうは、 きょういくが うまく できないだけではなく、 わるい のだ。この わるさを がんたーは うまく ひょうげんしている。

ふたつめは、こんきょの おおさである。 かず おおくの けんきゅうを さんこうとして かいている ので、けんきゅうの しゅっぱつてん としては、 とても べんりな ほんであると おもう。がんたーは これでもか という ぐらいに、 さまざまな けんきゅうについて かいている。そのため、たしかな こんきょが あると わかる せっとくてきな ぶんしょうに なっている。

みっつめは、 ほんやくしゃたちが かなり ちからを いれて やくしている ことである。まず、 ほんやくしゃたちの つけた ちゅうが じゅうじつしている。さらに、 さんこうぶんけんや さくいんが しっかりと つくられている。 そして、 きわめつけは、 もじとしてのかんじを つかった ことばの ふりがなとして、 にほんごにも なっている えいごからの かたかなごを かいている ところが すばらしい。 いじでも、 どくしゃが わからないかもしれない かたかなごは はんぶんとして つかわない という しゅうねんを かんじた。 たとえば、85ぺーじや 228ぺーじは、 かなり くふうした やくを つくったのだ ということが わかりやすいだろう。ぜひ、じぶんで かくにんしてほしい。

けってんを あげると すれば、ふたつ だけ ある。ひとつめは、 ふぇみにずむの さくひんと くらべれば、せいべつの はなしが やや つけたしに なってしまっている ことである。せいべつは だいじな もんだいとして かんがえられているのだが、 さまざまな もんだいの ぐたいれいの ひとつとして あつかわれている。
もうひとつは、がんたーの あーれんとの よみかたが ぶれている ところである。 また、あーれんとの しゅっせい(出生)という ことばが、 のうりょくとして かんがえられてしまっている。このてんについては、あおき・たかし(takaschi aoky)の、アーレント謎の概念"natality"=「出生」?:最近公刊のアーレント本も含めて整理する&「反出生主義」との関連は?NO.1|takaschi aoky|note]https://note.com/taoki0046/n/n794cec9ca897をよんでほしい。

ともかく、かなり おもしろい ほんである。そして、 はんな・あーれんとの きほんを おさえられる ほんである。きょういくの せいどについて かんがえる しゅっぱつてん となる ほんである。そして なにより、 ぎろんの きっかけになる ほんである。 よい せかいを。そして、 よい ほろびを。

さいとう・まの

かんそう

いじょうが しょひょうである。
ここからは、 くよう(供養)を する。 くよう とは、 もともと しんだ ひとを おもう ぎしきである。 しかし、 そこから いいたい ことは あるが、 じぶんが いきのこる ためには つかえない ことを かく ことも いみする。
しょひょうに かくには ながすぎる ことや、 こまかい ぶぶん、 じぶんの いけんなどを かいていく。

きっかけ

まず、この ほんに たどりついた ながれを かこう。

あるときだった。 たまたま、 ついったーを みていたら、こんかい、 ほんを くれた はやかわ さんの ついーとを よんだ。 なんと、 ほんを くれる というのでは ないか。 しらべてみると、 どうやら うそでは ない らしい。ほんの いちらんから、 この がんたーの ほんを みつけた。 じぶんが すきな ばとらー という ふぇみにすとが、 さいきん あーれんとについて よく かいている。 なので、 あーれんとに ついては いろんな ところで よんでいた。 だから きになった というのが さいしょの きっかけである。

つぎに、 きょういく、 おしえる ことが じぶんにとって かだいになっていた。
ところで、じぶんは さべつに はんたいする。 だから、 がくれき さべつと じょうほうの さべつを くりかえす、 もじとしてのかんじは できるだけ つかわない。もじとしてのかんじは じかんと どりょくを かけられる ものたち にしか つかえない どうぐである。よめない ことばで かいて、よめない ものを はいじょして、 よめないと いきのびれないようにする しゃかいは おことわりだ。
そして、 このまえ おなじく さべつを はんたいする しりあいと はなしていて、 きょういくの はなしが でてきた。じぶんも その しりあいも、 きょういくで さべつが なくなるとは おもってなかった。 きょういくを うけてきた ものたちが さべつを つよめる ことを しっていたた からだ。きょういくを うけてきた もの こそが さべつを つよめる ことも しっていた からだ。 「しかし、 」と その しりあいは いう。「おしえる という ことも むしできない」。そのとおりだと おもった。 では、 きょういく という のは、 どのように あるべき なのか? おしえる という こと そのものが、 さべつ てきで わるい かのうせいも あるのに、 どうすれば いいのか? そのような ぎもんについて はなしあった。 とくに こたえは でないが、 そのことが あってから、 きょういくに きょうみを もった。 この きょういくへの きょうみが きっかけの ふたつめ である。

そして、 さいごの きっかけは、 もくじを よんだ ことである。 もくじには、 さいしゅうしょうである ろくしょうに 「じぇんだーの かだい」という ぶぶんが あることを しった。 じぶんにとって、 せいべつは もんだいである。 せいべつによる さべつを なくす ことが、 おおきな だいじな かだいだからだ。じぶんは はやかわさんに れんらくを することに きめた。

じっさいは、 せいべつの はなしは、 がんたーにとって おもったより だいじでは なかった。 がんたー じしんは かなり だいじだと かんがえているが、ほんぜんたいの ながれから ういてしまっている。もしかしたら、 まちがって よんでいる かもしれないが、 そう おもった。もちろん、 がんたー じしんは、 つけたしとして せいべつに ついて かたることを ひはんしている。 かなりの りょうの せいべつに ついての けんきゅうを している。さらに、 おそらく ふぇみにすと なのだろう。しかし、この ほんでは せいべつを うまく とりあつかえてないと おもう。
おもえば、 じぇんだー という かだい という ぶぶんが ある のだから、 ほかの ぶぶんでは あまり せいべつの はなしが できていない という ことが わかる。じぶんは、 がんたーは、すべての しょうで、 せいべつに ついて かく ことが できたと おもう。それを やらなかったのは、がんたーの せきにんなのか、 しゅっぱん ぎょうかいの せきにん なのか、 けんきゅう ぎょうかいの せきにん なのか わからない。なんしー・ふれーざー、じゅでぃす・ばとらー、がやとり・ちゃくらゔぉるてぃ・すぴゔぁく などの ふぇみにすとたちが とうぜん ふれられている ので、 さいあくではない、 とかいておく。

ここまで ろこつに かいた りゆうが もちろん ある。せいれき 2021ねんの 2がつに もり・よしろう という せいじかが、せいさべつを した。もりは、おりんぴっく・ぱらりんぴっくという かねもうけの ための わるい まつりの にほんの だいひょうだった。この はなしは ふぇみにすとの あつまり いがいでも はなされる ことが おおかった。 じぶんが あるとき、 ある ほんの いべんとに さんかした。 ろくにんの ほんやくしゃの うち、 ぜんいんが おとこ として かんがえられていた。 もちろん、 ほんにん たちに せいべつを きいた わけではないので、 せいべつは わからない。しかし、 あきらかに おとこ いがいを はいじょしている ばしょを つくりあげていた。 さらに、 そのなかの ひとりが もりの はつげんを ひはんした。 そのことは とても いいことである。 しかし、 じぶんたちが もりと おなじ ような ことを していることには きがついていないのだ。 もちろん、 かんそうで おこっておいたので、 なんらかの とりくみが されることを きたいしている。 このような じょうきょうで、 せいべつの はなしで ひきさがっては いけないのだ。

せいべつ

せいべつ について ひきさがらない ならば、 にほんごの ほんやく について、 ふたつの ことを かかなくては いけない。
ひとつは、 ある こうちょうの いんたびゅーの やくしかた である。

「私はいま、非常によいものだと思ってそうしたネットワークの一員となっています。……私ってカリスマ的なリーダーなのかしら。 (Gunter 2008: 頁数なし)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、163ぺーじ

「かしら」という いいかたは、 いろいろな じょうきょうに ある。いっぽうで、 ある ちいきの ある しゃかい かいきゅうに おいては、 おんなの やくわりごである。 たほうど、 ほかの ちいきや ほかの しゃかい かいきゅうに おいては、 せいべつに かかわらず つかわれる。「かしら」という いいかたを おんなの いいかた として だけ とらえるのは まちがっている。

しかし、 がんたーの この ほんを ほんやくした さんにん、 すえまつ・ひろき、いざわ・しげき、はしもと・のりゆきは、 いしきして、 このように やくしたの だろうか? この いんようでは けいごで はなしているのに、 さいごだけ 「かしら」と やくしている ことから、くだけた いいかたに なったのだと わかる。それならば、「わたしって かりすまてき りーだー?」でも よかった かもしれない。はなしている ものが、おんなだから 「かしら」という かたりかたに むいしきの うちに してしまった という かのうせいを ひていしきれない。


もうひとつは、 この ほんだけではないが、「かのじょ」と、 「かれ」 という だいめいしで にほんごに ほんやくする ことである。 えいごなどの いんど・よっーろっぱごぞくは、 ことばの なかで、 せいべつを あらわさないと いけない という せいさべつてきな でんとうが ある。じょせいさべつも かかわっている。 しかし、それいじょうに、 えっくすじぇんだー、のんばいなりー、「 おんなではない おとこ」か 「おとこではない おんな」の ふたついがいの せいべつの ものを はいじょしている という いみで せいさべつてき である。
それにたいして、 にほんごは、 したいしい あいだがらでは、 せいべつによる やくわりごを つかわないと いけないという せいさべつてきな でんとうが ある。しかし、 にほんごでは せいべつを あらわさなくても ひょうげんできる でんとうが ある。 かれ、 かのじょ という せいべつに もとづいた ことばづかいは、 ほんやくと、 ほんやくに えいきょうされた がくれきが たかい ひとたちが つかっているに すぎない。もちろん、 それも にほんごの りっぱな わるい でんとうと なっている。
ほんやくや せいべつを ひょうげんしないと いけない ことばに なれていない ものにとって、 かれ、 かのじょという だいめいしを つかうのは、 おおくの ばあい ひつようではない。 しゅごを しょうりゃくするか、 なまえを くりかえすが、 そのひとや あのひとなどの しじごを つかえば いいのである。それにも かかわらず、 「かのじょ」や 「かれ」という ことばを つかいつづけるのは、 わるい。なにか つぐなえと いっているのではない、 やめてくださいと おねがいしているのだ。

ことばの つかいかた

さて、おもいでばなしが おわった ところで、 つぎの わだいに うつろう。がんたーは、ほかの ものたちと おなじくらい さべつてきで、 わるい ことばの つかいかたを する。もちろん、 ろこつな さべつしゅぎと くらべたら、 さべつてきではない。

しょくみんちか という ことばの つかいかた

たとえば、 がんたーは、「しょくみんちか」 という ことばを、 せんもんちしきに ついて つかっている。

「TLP(国境を越えたリーダーシップのパッケージ)を通じた専門的実践の植民地化がそうした状況〔いんようしゃ ちゅう、 ぜんたいしゅぎ が てんかい する じょうきょう〕を照らし出す格好の事例であることを私は示していくつもりである。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、108ぺーじ

「新労働党がTLP〔いんようしゃ ちゅう、 くに お こえた りーだーしっぷ の しょうひん ばっけーじ(Transnatinal Leadership Package) の りゃく。てぃーえるぴー〕によってスクールリーダーシップを植民地化したことを合理的で安定した試みだと特徴づけるのは、非常に安易な捉え方である。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、145ぺーじ

ほかにも、 236ぺーじにも 「植民地化された専門的実践」という ことばが ある。

このように、 がんたー わ、 ひゆ として しょくみんちか とゆー ことば お つかう。しかし、 がんたーは、 だいろくしょうで じっさいの しょくみんちしゅぎ についても かいている。あーれんとの、 せいようが しょくみんちで おこした ことは、 せいようの うちがわで おこるようになる という ぶーめらん・こうかの はなしを する からだ。この ぶーめらん・こうかは けいかいするべき こととして かかれている。つまり、 じっさいに おきるか わからないけれど、 けいかいしておく べきだと がんだーは のべている。この いけんには さんせいする。しかし、 ひゆとして しょくみんちか という ことばが つかわれる ことと あわさって、しょくみんちかの ぼうりょくが すりかえられてしまう。しょくみんちかは、 せんもんちしきを もつ しゅうだんを せんもんしょくから おいだす ぼうりょくとは まったく ちがう。それぞれ、 べつの ことばで あらわす べき ものである。

ひゆを つかうことの もんだい

ことなる さべつを ひゆとして つかうことの もんだいてんを あきらかにした ぶんしょうとして、きゃろる・じぇい・あだむずの 「にくしょく という せいの せいじがく、ふぇみにずむ・べじたりあにずむ ひひょう」(つるた・しずか やく)という ほんを しょうかいする。(キャロル・J.アダムズ(鶴田静 訳)『肉食という性の政治学フェミニズム-ベジタリアニズム批評』、西暦1994ねん、 新宿書房肉食という性の政治学
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/html/mybooks/ISBN4-88008-194-9.html

あだむずは、どうぶつが いなかった ことに させられる みっつの やりかたに ついて かいている(45ぺーじ、にほんごやくでは、「不在の指示対象」(ふざいの しじたいしょう)という ことばが つかわれている)。ひとつめは、 どうぶつを ころし、 その どうぶつの したい(死体)を たべることで、 どうぶつを しんだ にくに して、 いなかった ことに する やりかた である。 ふたつめは、 どうぶつの したい(死体)を、 にくと いうことで、 どうぶつが いなかった ことに する やりかた である。 さいごの みっつめは、 にんげんの たいけんを かたるために、 どうぶつを ひゆとして つかう ことで、 どうぶつが いなかった ことに する やりかた である。

ひゆとして いなかった ことに される というのは どういうことか。 それは、 じょせいが れいぷされる ことを にくとして あつかわれる ようだと ひょうげんする ことによって、 どうぶつが にくに されて ころされている ことを ひなんしない のである。 おんなは にんげんいがいの どうぶつではない のに、 ころされる べき どつぶつと おなじように あつかわれている という しゅちょうに なってしまう。 これは、 わるい。どうぶつも くるしめたり ころしては いけないのだ。ふぇみにすととして、 びーがんに ならなければ ならない。ぴーがんとして ふぇみにすとに ならなければ ならない。そして、 ふぇみにすとで びーがんに ならないと いけない。ころすな。 くるしめるな。

しょくみんちか とは なにか

はなしを しょくみんちかに もどそう。にほんごで かく いじょう、だいにほんていこくの しょくみんちかと、 にほんこくの しょくみんちかの はなしを かく べきである。いかに ならべて かく。
あいぬが すむ ほっかいどうの しょくみんちか、
りゅうきゅう(いまの おきなわ)の しょみんちか、
たいわんの しょくみんちか、
まんしゅうの しょくみんちか、
からふとの しょくみんちか、
ちょうせんはんとうの しょくみんちか、
なんようしょとうの しょくみんちか、
ちゅうごく かくちの しょくみんちか、
ふぃりぴんの しょくみんちか、
べとなむの しょくみんちか、
らおすの しょくみんちか、
かんぼじあの しょくみんちか、
まれーしあの しょくみんちか、
しんがぽーるの しょくみんちか、
みゃんまーの しょくみんちか、
ぶるねいの しょくみんちか、
いんどねしあの しょくみんちか、
なうるの しょくみんちか、
いんどの あんだまん・にこばるしょとうの しょくみんちか、
おーすとらりあの くりすますとうの しょくみんちか、
ぱぷあ・にゅーぎにあの しょくみんちか、
ひがしてぃもーるの しょくみんちか、
そろもんしょとうの しょくみんちか、
あめりかがっしゅうこくの いちぶの しょくみんちか
などが おこなわれた。 きおくに よって かいたので、 まちがいが あるかもしれない。 してき してくれると、 うれしい。

しょくみんち しはいの もとで、つぎの ことが おこなわれた。
ぎゃくさつ(なんきん、かいなんとう、ふぃりぴんが ゆうめいである)、
れいぷ、せいどれいに する、
じんしゅさべつ、
きょうせいろうどう、
かいきゅうさべつ、
みんぞくさべつ、
しゅうきょうだんあつ、
ごうもん、
ひょうげんの じゆうの しんがい
ほかの くにの しょくみんちを みとめる
などが おこなわれた。



それでは、 つぎに にほんこくの しょくみんちかの じけんを ならべて かく。
てんのうせいを つづけ ようと する、
ちょうせん・せんそうを おこさせ(ただし、この せきにんは おおきく そびえとれんぼうと
あめりかがっしゅうこくに ある)、ちょうせん・せんそうで かねもうけを する
がいこくじんとうろくれいによる こくせき はくだつ、
おきなわと おがさわら しょとうと、 あまみしょとうを あめりかがっしゅうこくの ぐんたいに ひきわたした どくりつ、
おきなわに きちを おしつける、
べとなむせんそうに くわわる、
ちょうせんがっこうの だんあつ、
しょくみんち しはいを しらべない みとめない、あやまらない、
にほんぐん・「いあんふ」せいど という せいどれいせいを みとめない、 あやまらない、
ちょうろうこう などの きょうせい ろうどうを みとめない、 あやまらない、
あいぬの ほねを ぬすんだことを あやまらない にほんの だいがく、
などが おこなわれている。

これらの しょくみんちかは、 せんもんちしきが ひつような ものたちを せんもんしょくから おいだす ことと にていない。 おなじ ことばで あらわすには、 ちがいすぎる。

にんげん という ことばの つかいかた

さて、 つぎに 「にんげん」という ことばの つかいかたが さべつてきで わるい という ことを かこう。 これは、 がんたー だけの もんだいではない。 にほんごで せいようの ぶんかとして かかれる ぶんしょうの なかには、 かなりの ひんどで、 にんげんを よいことと むすびつける。もちろん、 にほんごで せいよう いがいの ぶんかについて かくときも、 おおい。 しかし、 すくなくとも、 ひにんげんか という ことばで わるいことを あらわすのは、 せいようの ぶんかとして かかれていると おもう。 ただし、 これは じぶんの けいけんから、 がくもんてき こんきょを かくにんせず かんがえた ことである。
もちろん、 にんげんらしいことを よいことだと かんがえることは、 わるい。にんげんは よいことも するし、 わるい ことも する。 にんげんを よいもの として かんがえる ことは、 にんげん いがいの どうぶつを おとしめ、 ころす ために つかわれてきた。にんげんとして あつかわない ことが わるい のではない。 くるしみを あたえることが わるいのだ。
さらに、 にんげんを よいことと かんがえる ことは、 わるい ことを したものを にんげんでは ないと かんがえることに つながる。 すると、 わるい ことを した りゆうは、 にんげんではなかったから、 または にんげんらしくなかった からだ、 と かんがえてしまう。 まちがっている。 まちがった あんしんを にんげんに あたえてしまう かんがえかたである。にんげんは、にんげんである から、 じぶんが わるいことを していない という まちがった あんしんを してしまう ことになる。さらには、 じぶんの やった わるいことを よいことだと おもいこむように なってしまう。そのように かんがえることは、わるいのだ。にんげんは わるいことも すれば、 よいことも する。
しゅさべつに はんたいする。 にんげん いがいの どうぶつを みくだすな。 にんげんを よいものと かんがえるな。ころすな。たべるな。

うえに かいた とおり、 この もんだいは、 がんたー だけの もんだいではない。 がんたーが さんこうにしている あーれんとも にんげんを よいものとして かんがえてしまっている からだ。

こども という ことばの つかいかた

つぎに、「こども」という ことばを きょういくを うけるもの という いみで つかってしまう ことの もんだいに ついて かこう。
きょういくは、 こども だけが うけるものではない。 こどもを さべつする げんざいの しゃかいじょうきょうを かえなければいけない。 こどもを みちびく たいしょうとして かんがえては いけない。 こどもを まだ みじゅくなもの、 ひくい もの、 じぶんの かことして かんがえてはいけない。たいとうに こどもを あつかい、 こどもへの さべつを やめる のだ。
この かんがえかたは、 あーれんとの きょういく ろんとは、 たいりつする ことになる。 あーれんとは、きょういくを せいじてきなものとは かんがえていないからだ。 こども ばかりが きょういくの たいしょうと なることから、 すでに きょういくは せいじてきである。しかし、 この あーれんと かいしゃくは、 がんたーの かいしゃくから かいしゃくした ものでしかない。まちがっている かのうせいが たかい。 こんごの かだいである。

やばん という ことばの つかいかた

ことばの つかいかた としては、 さいごに、 「やばん」(209ぺーじ) という ことばを とりあげよう。がんたーは、 わるいものを 「やばん」 と よんでしまっている。ただし、 でいゔぃっと・はーとりー という ものの、 ことばを ひはんせずに いんようしている だけでは ある。 しかし、 がんたーは ひはんしなければ いけなかった。

「分散型リーダーシップの活況によってその野蛮さが隠蔽されている」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、209ぺーじ

「やばん」という ことばは、 しょくみんちしゅぎの ことばである。 「やばん」は、 「ぶんめい」の はんたいの ことばとして つかわれる。 そして、 ぶんめいの ために、 やばんを なくして あげようと かんがえて、 しょくみんちしはいを おこなってきた。 たんに わるいと かくべき ときに、 「やばん」という ことばを つかうのは、 わるい。

あーれんとの よみかた

さて、ことばの もんだいの つぎは、 あーれんとの よみかたの もんだいに ついて かんがえよう。
しょひょうにも かいたが、 がんたーは あーれんとを すこし こんらんした かたちで よんでいる ように おもえる。しかし、 この もんだいは、 あーれんと けんきゅうしゃに よって ろんじられる ことも だいじである。 あーれんとを しっかり よんでいない じぶんが、 がんたーの よみかたを ひはんするのは、 もんだいが あると かんがえる ものも いる かもしれない。 しかし、 そのような ちしきを ひとりじめするような かんがえかたには はんたいする。 じぶんが まちがっているならば、 まちがっている てんを しめしてほしい。

せかいせい

まず、 はじめに、つぎの ことを してきする。がんたーは、かつどう(あくしょん)に、 せかいせい という とくちょうを わりあてる ような かきかたを している ところが ある。だいよんしょう、 「あーれんとを つかって いーえるえむえーに ついて しこうする、かつどうてき せい」の よっつめの ぶぶん、「<活動>」(かつどう)(164ぺーじ から)の なかで、 つぎの ように かいている。

「彼女〔いんようしゃ ちゅう、あーれんと〕にとって、政治とは、差異と類似がともに許され、それゆえにやり取りすることが許されるよつな、人と人との間に生じる空間に関わるものである。(Arendt 1958=1994)ボーリングが論じるように、それは「世界性」と言うべきものであり、その世界性において、人格を有した個人は、<活動>を通して世界を保護する。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、173ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)
Bowring, F. (2011)Hannah Arendt: A Critical Introduction. London: Pluto Press.

あーれんとの ぎろんを まとめる。 あーれんとは、 かつどうりょく、あくてぃびてぃーを みっつに わける。
(ただし、 かつどうりょく、あくてぃびてぃーは、 がんたーの にほんごやくでは、 「活動〔るびで、「アクティヴィティ」と かかれる〕」と やくされている。それなら、 あくしょんは、 こういと やくす べきだと おもう。じっさい、いっしょう、にしょう、さんしょうでは、 あくしょんを こういと やくしている。しかし、 にほんごで よむ ものが、 この こういという ことばを、 あーれんとの あくしょん、かつどうという ことばと おなじ たんごであると きがつくのは、 たいへんだろう。じぶんは、 この ぶんしょうを かく だんかいで きがついた。)
あーれんとは、 いきのびるための ろうどう、れいばーと、 ながく のこるものを つくる しごと、 わーくと、 じぶんが びょうどうに あつかわれる べき かけがいのない ものだと きがつく ための かつどう、あくしょん という みっつに わけるのだ。 じゅんばんに、 けいざい、 しゃかい、 せいじを いめーじすると いいかもしれない。 また、あおき・たかし(takaschi aoky)の、誕生肯定と反出生主義ーーソフォクレス・アーレント・アトウッド(NO.4)|takaschi aoky|note https://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708 を、 さんこうに かんがえると、つぎの ようにも いえるかもしれない。 ろうどうは、いっしゅうの えん、 しごとは、なんしゅうもの らせん、 かつどう(こうい、あくしょん)は、 せんに たいおうしている。これは、 さいとう・まのの かせつ である。しかし、せつめいを かくことが めんどうくさくなった。 もうしわけない。

ともかく、あーれんとは、 せいじに かかわる こうい、かつどう、あくしょんが いちばん だいじだと かんがえている。 きんだいは、 こうい、かつどう、あくしょんが だいじに かんがえられなくなったと あーれんとは かんがえる。つまり、 せいじが だいじに かんがえられなくなった という こと である。

そして、あーれんとは、ろうどう、しごと、こうい または かつどうと いう この みっつの くべつを それぞれ、せいめい それじたい、 せかいせい、ふくすうせいと むすびつけている。
がんたーの あーれんとの いんようを よんでみよう。

「〈労働〉という人間の条件は、生命それ自体である。
(Arendt 1958: 7=1994: 19)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、156ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)

「〈仕事〉という人間の条件は世界性である。
(Arendt 1958: 7=1994: 19-20)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、162ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)

「〈活動〉とは、事物や物質が介在することなく、人と人との間で直接的に発生する唯一の活動〔いんようしゃ ちゅう、るびに 「アクティヴィティ」と かいている〕であり、それは〈複数性〉という人間の条件すなわち一人の人間ではなく複数の人間が地球上に暮らし、世界に住まうという事実に対応している(Arendt 1958: 7=1994: 20)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、170ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)

このように、 がんたー じしんが、 せかいせいを ろうどうに むすびつけている ぶぶんを いんようしている。 にも かかわらず、ぼーりんぐを さんこうに して、 こうい、かつどう、あくしょんに せかいせいを むすびつけてしまうのである。ぼーりんぐに せきにんが ある のか、がんたーに せきにんが ある のか、 あーれんとに せきにんが ある のか、 わからない。しかし、 ながながと かいたが、 ぎろんに おおきな えいきょうは ない。まさに、 くよう!

しゅっせいせい

つぎの はなしは、 ぎろんに えいきょうする。 「しゅっせいせい」、 なたりてぃー という たんごに ついてである。 がんたーの ほんの にほんごやくでは、 「〈出生〉」(しゅっせい)と やくされている。といっても、 あーれんとを よんでいる ひとたちの あいたでも ぎろんが あるみたい なので、がんたーが ちがうとは いえない かもしれない。ここでは、 あおき・たかしの、アーレント謎の概念"natality"=「出生」?:最近公刊のアーレント本も含めて整理する&「反出生主義」との関連は?NO.2|takaschi aoky|note https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4?magazine_key=ma0c964aea0ac
に かいてある ぎろんに せっとくされた じぶん、 さいとう・まのの よみかたである。

まず、 がんたーは、 しゅっせいせいを なにかを はじめる のうりょくであると まとめている(170ぺーじ)。

「〈活動〉は〈出生〉、すなわち何か新しく自発的に事を起こすことができる終わりなき能力に基づいている。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、170ぺーじ

しかし、 この よみかたは、 あおき・たかしが、 とちゅにっぐ の ぎろんを つかって ひていしている。あーれんとは、 こうい、かつどう、あくしょんを する のうりょくは、そんざいろんてきに、 しゅっせいせいに ねざしている、と わざわざ かいている からだ。

まず、 がんたーも いんようしている あーれんとの ぶんしょうを まごびき する。

「世界すなわち公共的な事柄をその通常の「自然」破滅から救う奇跡は、究極的には〈出生〉という事実であり、〈活動〉の能力はこの〈出生〉という事実に存在論的に根ざしている。それは言い換えれば、新しい多数の人間の誕生とその新しい〈始まり〉である。生まれることによって彼らはそうした〈活動〉ができるようになる。
(Arendt 1958: 247=1994: 385-386)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、170ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)

あおき・たかしが とちゅぐにっくに したがって、この なかの つぎの ぶぶんに ちゅういしている。つまり、 「〈活動〉の能力はこの〈出生〉という事実に存在論的に根ざしている」(かつどうの のうりょくは この しゅっせいという じじつに そんざいろんてきに ねざしている) という ぶぶん である。

「しかし、「始める能力」とは要するに「行為(と言論)をする能力」なわけですから、「始める能力は始める能力に根差している」と言っているのと変わらない、ということになります。これではこの一文が意味のない、空虚なものになってしまいます。」
takaschi aoky、アーレント謎の概念"natality"=「出生」?:最近公刊のアーレント本も含めて整理する&「反出生主義」との関連は?NO.2|takaschi aoky|notehttps://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4?magazine_key=ma0c964aea0ac%3Atitle

と まとめられている。

この ようにも いえる。 しゅっせいせいは、 じじつ である と あーれんとは いっている。 しゅっせいせいという じじつが ある から、 こうい(行為)、あくしょん、かつどうを できると いっている。 そのため、 しゅっせいせいは、 のうりょく、できる こと では ない のだ。

そして、 あおき・たかしは、 しゅっせいせい という ことばは、 ほかの ものと かえる ことが できない という いみで かけがえのない ものが、 かけがえのない もの である という いみでは おなじ である ほかの もの たちと いっしょに ある ことで、かけがえのない あたらしい ものがたりを つくる ことが できる ように、 ある ように させられた という ありかた であると いっている ように おもえる。 そして、(この ていぎは じぶん、さいとう・まのに よる まとめ である。 あおき・たかし(takaschi aoky)の https://note.com/taoki0046/n/n3a6254607b0a?magazine_key=ma0c964aea0acを みよ)。

そもそも、 そんざいろんてき という ことばには、 あるとは、つまり そんざいとは どのような ことかを りかいしている という せいしつという いみが ある。 そして、 そんざいろんてき という ことばは、 そんざいてき という ことばと くらべられる。 そんざいてき という ことばには、 どのように あるかに ついての せいしつという いみが ある。 これは、 はいでがー という どいつの てつがくしゃの 『存在と時間』だい 3せつから だい 5せつでの ことばの つかいかた である。 しかし、 あーれんとは はいでがーの おしえご だった という ことを かんがえれば、 あーれんとも はいでがーの ことを かんがえていた という ことは あきらかだ。


したがって、 そんざいろんの はなしを くわえると、 しゅっせいせいを つぎの ように せつめいできる かもしれない。まるかっこの なかに、 たいおうする あーれんとの ことばを かく。

しゅっせいせい とは、
ほかの ものと かえる ことが できない という いみで かけがえのない ものが、 (ふくすうせい、ゆにーく、ゆいいつむひ)
かけがえのない もの である という いみでは おなじ である ほかの もの たちと いっしょに ある ことで、(ふくすうせい、きょうせい(共生))
かけがえのない あたらしい ものがたりを つくる ことが できる ように、(はじまり、びおす、ものがたり)
ある ように させられた という(しゅっせいせい)
ありかた であり、(じじつ、そんざいろんてき)
また ある という ことは どのような ことか、 はっきりと した かたちで なくとも、 わかっている ので、 じぶんも ある ように させられたと わかりながら、 ある という ありかた である。(そんざいろんてき)
じぶん、さいとう・まのの まとめ

したがって、この ありかたに よって、 こうい(行為)、あくしょん、かつどうと はなしあいが できる ように なると いわれていると あーれんが いっていると よむ ことが できる。

この がんたーの あーれんと どっかいの ちがいが もっとも ぎろんに えいきょうするのは、 つぎの ぶぶん である。

「以上に紹介した四つの物語〔いんようしゃちゅう。るびで 「ストーリーズ」と かいてある〕に欠けているのは、〈出生〉の感覚、すなわち〈活動〉を起こすことによて何か新しいことを始めるという感覚である。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、164ぺーじ

ここでは、 かけがえのなさ という もんだいや、 ほかの ものと いっしょに いきる という もんだいが じゅうぶんに しめされていない。 たんに あたらしい という こと だけが ちゅうい されてしまう。174ぺーじや 236ぺーじでも おなじ もんだいが おこる。あたらしさが もんだいに なる としても、 あたらしい ことを はじめる という ことが もんだい なのではない。 あたらしい ものが ある という ことが もんだい なのだ。

がんたーから あおき・たかしと あーれんとへ

さて、 がんたーの あーれんと どっかいに ついて かきおえた ところで、 あおき・たかしと あーれんとへの ひはんを かく ことに する。おもに、 はんしゅっせいしゅぎ から ひはんを おこなう。 はんしゅっせいしゅぎ(反出生主義)とは、 くるしみを かんじる かのうせいが ある ものを あらたに うまれさせる ことは わるい という かんがえかた である。あおき・たかし(takaschi aoky)は おもに、 https://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708で はんしゅっせいしゅぎ についても かいている。

あーれんとの にんげん

さて、 あおき・たかしの https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4を さんこうに すると、つぎのように いえる。あーれんとは、 にんげんのみが しゅっせいせい という いみで、 うまれると ぎろん している。そして、あおき・たかしは、 あーれんとが このように いっている りゆうは、 かけがえのない にんげんが いきる ことが こわされる かのうせいが あり、 こわされてきた ことも あるという かんがえかたに あると のべる。さらに、あーれんとが このように いっている もくてきは、 かけがえのない にんげんが いきる ことを こわさない ように きづかう ためであると いっている。。

しかし、 この ぎろんは、 「にんげん」という ことばを つかう りゆうには なっていない。 もし、 ことばを つかう もの という いみで、 にんげん という ことばを つかっている のならば、 ことばを つかわらない にんげんを むししている。とくに、 あらたに うまれてきた にんげんは すぐには ことばを つかわない ことを かんがえれば、 あきらかである。にんげん という いきものの ぶんるいを つかうのであれば、 なぜ その ぎろんが せいぶつの ぶんるいを つかう べきなのか しめさなけらば ならない。 そこに ちゃんとした りゆうが ない のならば、 ほんしつてきな りゆうが ない のならば、 たんに しゅさべつの でんとうに したがう という わるい ことを している ことに なる。 そして、 どうとくてきに よい という いみで にんげんという ことばを つかっている ならば、 「にんげん という ことばの つかいかた」に かいた ような もんだいが ある。 いんようしよう。

もちろん、 にんげんらしいことを よいことだと かんがえることは、 わるい。にんげんは よいことも するし、 わるい ことも する。 にんげんを よいもの として かんがえる ことは、 にんげん いがいの どうぶつを おとしめ、 ころす ために つかわれてきた。にんげんとして あつかわない ことが わるい のではない。 くるしみを あたえることが わるいのだ。
さらに、 にんげんを よいことと かんがえる ことは、 わるい ことを したものを にんげんでは ないと かんがえることに つながる。 すると、 わるい ことを した りゆうは、 にんげんではなかったから、 または にんげんらしくなかった からだ、 と かんがえてしまう。 まちがっている。 まちがった あんしんを にんげんに あたえてしまう かんがえかたである。にんげんは、にんげんである から、 じぶんが わるいことを していない という まちがった あんしんを してしまう ことになる。さらには、 じぶんの やった わるいことを よいことだと おもいこむように なってしまう。そのように かんがえることは、わるいのだ。にんげんは わるいことも すれば、 よいことも する。
しゅさべつに はんたいする。 にんげん いがいの どうぶつを みくだすな。 にんげんを よいものと かんがえるな。ころすな。たべるな。

あおき・たかしは あーれんとに よそう される ひはんとして、 「きびしい」という ことばを かんがえている(https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4)。 しかし、 あーれんとは にんげん という ことばを しゅさべつの でんとうに したがって つかう かぎりで、 「わるい」 のである。

ぜつめつ きょうせい しゅうようじょ

あおき・たかしは つぎの ように かいている。

世界との関係が完全に断たれているところーー例えば、絶滅強制収容所ーーで生まれ死んでいった赤ん坊の"誕生”は、そうでない赤ん坊の「誕生」と同じでしょうか。同じであるor同列に扱うべきだするならば、極論、人間はどこでどう生まれようと関係ない、という話にもなりかねません。
あおき・たかし(takaschi aoky )、https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4

この ぶんしょうは かなり おしい ところ まで かけている。 おもに なちす・どいつによる ぜつめつ・きょうせい・しゅうようじょと ほかの ところは、 すでに うまれさせられた ものに とっては、 まったく ちがう。 あきらかに、 ぜつめつ・きょうせい・しゅうようじょは わるい。 しかし、あらたに うまれさせるか うまれさせないか という もんだい であれば、 ぜつめつ・きょうせい・しゅうようじょ であろうと、 そのほかの ところで あろうと、あらたに うまれさせる ことは わるい のである。 うまれさせられるか、 うまれさせられないか という ことを かんがえれば、 この せかいの どこに うまれようが、くるしみを むりやり おしつけれるのであり、くるしみを あたえる ことは わるい ことである。あらたに うまれさせる ことは、 さけられない くるしみを あたえる ことである。「人間はどこでどう生まれようと」、くるしみが ふとうに あたえられている という いみで、あらたに うまれさせる ことの わるさ とは きほんてきに 「関係ない」。もちろん、 くるしみを かんじない にんげん だとか、 しなない にんげん などが ありえる という ふぃくしょんの はなしならば 「関係ない」とは いえない。また、げんじつてきに いまの せかいには くるしみが おおすぎる から うまれさせては いけない という はなしも できる。せめて、 なにも しなくても くるしまずに いきのびていられる ぐらいに ならないと、 はなしに ならない。あきらかに、 いま すぐに そんな せかいに する ことは できないし、 おおくの ばあい、 ふかのう だろう。

あかちゃん こうじょう

つづいて、 あおき・たかしは つぎの ように かいています。

現代の文脈に置き直すならば、「赤ちゃん工場」のことを考えてもよいかもしれません。また、もはや単なるSFではありませんが、ベルトコンベアーの上を流れる無数の試験管の中で胎児が育てられいる光景を、あるいは一人ひとりの「誕生」を経済政策や国家政策のための「出生率」という観点からしか扱わなくなった近未来を、想像してみてもいいかもしれません。「誕生」を歪めたり壊したりするような状況はいくらでもーーおそらくアーレントが生きた時代よりもたくさんーー考えられます
あおき・たかし(takaschi aoky )、https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4

これは、 まるで、 「あかちゃん こうじょう」では、 うまれさせる ことは ゆがめられている けれど、 「あかちゃん こうじょう」で なければ、 うまれさせる ことは ゆがめられていない みたいだ。 そう では ない。 すべての ものが うまれさせらえる という ように ゆがめられている のである。あらたに うまれさせられる ものの ために うまれさせる ことは できない。 うまれさせられるという こと そのものが、 すでに 「ぶっこわされた」 けっか である。もちろん、 「あかちゃん こうじょう」は わるい。 「あかちゃん こうじょう」 いがいで うまれさせる ことも わるい。 そして、 「あかちゃん こうじょう」は わるい と わかる ものが おおいが、 それ いがいで うまれさせる ことも わるいと わかる ものは すくないので、 たちがわるい。 すでに、 くるしみを かんじる すべての ものが ゆがめられている。 「あかちゃん こうじょう」を かんがえる ひうようは ない。じぶんの まわりを ちゃんと かんがえれば、 じゅうぶんだ。 じぶんは これまで くるしんだ ことが まったく なかった だろうか?おそらく あった だろう。 その くるしみの げんいん として、 うまれさせられた ことが あるが、 うまれる ことは、 わるく ないの か? わるい。もちろん、 うまれさせる ことの わるさと、 うまれて よかったと おもう ことは どうじに できる。 わるいことを された からといって、 そのあと いきのこってきた ことに ほこりを もつことが できない わけではない。
うまれさせずに くるしませない。 すとらいきして うまれさせるのを とめないと いけない。 うまれさせては ならない。

「生が生きるに値するものになる」

(この はなしに ついて、せいれき 2021ねん 3がつ 7にちに 「いきるに あたいする、しない という ことば に ついて」という ぶんしょうを さいごに つけたした。)
あおき・たかしは、「生きるに値する」「生きるにあ愛しない」という ことばを つかう。 この いいかたには もんだいが ある。たとえば、「しかしながら、ソフォクレスオイディプスの一生を、ただ単に生きるに値しない悲惨なものとして物語るわけではありません。」、「いかにして人々の生はポリスの中で生きるに値するものになりえたのでしょうか。」などが ある*1(いじょうは すべてhttps://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708からの いんよう である)。

そもそも、 いきるに あたいする、 あたいしない という ことばの つかいかたは、あいまいである。 いきのこる ことを はなしているのか、 うまれさせられない という ことを はなしているのか すら わからない。 はんしゅっせいしゅぎの おおくは、 いきのこる ことを わるい とは いわない。 うまれさせる ことは わるく、 うまれさせられる ことは わるい ことに よる けっか である。

それだけではない。いきるに あたいする、 あたいしない という ことばの つかいかたには、 さつがいや きょうせい・ふにん・しゅじゅつを ただしい こと としてきた れきしが ある。つくい・やまゆりえんや、 なちす・どいつの しょうがいしゃや ゆだやじんなどの じんしゅてき まいのりてぃーや せくしゃるまいのりてぃー、じぇんだーまいのりてぃー、はんざいしゃ、しそうはんなどの ぎゃくさつに つかわれていた ことばの つかいかた である。ひょうごけんの ふこうな こどもを うまれさせない うんどう なども おなじ ことばの つかいかたも する かもしれない。 もちろん、 これらは ほんしつてきな ひはんに なっていない。 もんだい なのは、 どのように つかわれるかに ある からだ。 しかし、 このような れきしに ついての はなしも なしに、 つかう ことは あぶないと までは いえる。 こんご、 いきるに あたいする などの ことばの つかいかたが ころす ためや、 きずつける ために つかわれない ように ちゅういしていく ひつようが ある。
ちなみに、 びょうどうしゅぎてきな はんしゅっせいしゅぎでは、いきるに あたいする という ことばや いきるに あたいしない という ことばは つかわない。もし いうとしても、 いきる などの ことばを つかわず、うまれさせる などの ことばを つかう だろう。 そして もし その ような ことばを つかうのであれば、 しゅっせいしゅぎ であり、 さべつを よい ことと かんがえ、 びょうどうを もとめない かんがえかた である。 なぜなら、 びょうどうしゅぎてきな はんしゅっせいしゅぎでは、 すべての くるしむ かのうせいが ある ものが おなじく うまれさせらえる べきではないと かんがえる から である。 ある いちぶの くるしむ かのうせいが ある ものを うまれさせる べきでは ないと いう ことは、ふとうな くるしみを あたえる うえに、 さべつ てき である。つまり わるい。 さらに、 それは、 その いちぶ いがいの ものを うまれさせる ことは ゆるされる という いみに なり、 しゅっせいしゅぎ である。 はんしゅっせいしゅぎに なっても いない。

とくに つぎの ことばは、 もんだいが ある。

アーレントによれば、行為と言論が自由に行き交う場(公的空間)ーー例えば古代ギリシアのポリスーーは、生が生きるに値するものになる場でもあるわけです。
あおき・たかし(takaschi aoky )、https://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708

なぜなら、 あーれんとの 「生に輝きを与える」(せいに かがやくを あたえる)という ことばの かいしゃく として、 「いきるに あたいする」という ことばが つかわれている。 「かがやき」や 「おもにに たえる」という ことばを あーれんとが つかったのは、 「かち」などの どうとくてきな もんだいに しない ためで あった のでは ないだろうか。

ことばの つかいかたに ついて、つっこみを いくつか かいた。しかし、 ともかく、 はんしゅっさんすいしょうしゅぎ としての あーれんとの かんがえかたは、 とても きょうみぶかい。さらに、 はんしゅっせいしゅぎとの かかわりを ふくめて、 かんがえてほしいと おもっている。

あーれんとに とっての よい わるい

また、 あーれんとに もどろう。あーれんとが よい という ことと わるい という ことについて どう かんがえたかを じぶんは しらない。 しかし、 ゆうめいな 「ろうどう」、「しごと」、「こうい、あくしょん、かつどう」という くべつを すべてに つかえる くべつだと おもわない ほうが いい という はなしを かく。 もちろん、 あーれんとは そんな ことを しようとは かんがえていない だろう。 おそらく、 「こうい、あくしょん、かつどう」が あるべき やくわりを、 「ろうどう」や 「しごと」が うばっている ことの ひはんとして かんがえる ことが いい だろう。 まったく こんきょは ない。 しかし、 おそらく おおくの ものが ぎもんに おもう はずだ。 「こうい、あくしょん、かつどう」や はなしあいに よる 「けんりょく」でも わるい ことが おこる のではないか? と。 じぶんも そう おもう。 べつに あーれんとも 「こうい、あくしょん、かつどう」や はなしあいに よる 「けんりょく」ならば、 かならず よいと おもった わけでは ないと かってに そうぞうしている。 「こうい、あくしょん、かつどう」や はなしあいに よる 「けんりょく」に よっても、 わるい ことは おこる。もちろん、 わるい ことを ひはんする ために 「こうい、あくしょん、かつどう」や はなしあいに よる 「けんりょく」が ひつように なる ときは ある。

かじょうがき

あいであは おもいついたが、 ぶんしょうに できなかった ものの めもを かいておく。 よみとばす ことを おすすめする。

・みしぇる・ふーこーが きんだいの こうはんには、 あんぜんや とうちという もんだいが これまでと ちがった かたちで くににとって もんだいに なった という かんがえかたが はいけいに ある だろう。ふーこーは、 とうけいの すうじが ぎじゅつとして つかわれる ことを あきらかにした。とくに、 ミシェル フーコー (高桑和巳(たかくわ・かずみ) 訳) 『ミシェル・フーコー講義集成〈7〉安全・領土・人口 (コレージュ・ド・フランス講義1977-78)』を みよ。ただし、がんたーは ふーこーを いんようしていない。 しかし、がんたーの 『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』の 「訳者あとがき」、312ぺーじには、 ふーこーを けんきゅうしている ものと がんたーが いっしょに かいている という はなしが かいてある。

・では、 どう せいべつの はなしを いれらるか。(きょうそも おとこばかり(?)、りーだーとしての おとこらしさ、れずびあんが けされる。げっぺるすの ひしょ。かつどう、せいじから はいじょされる おんなたち。)
・いーえるえむえー とは、 きょういきの りーだーしっぷ、 まねじめんと、 あどみっしょんの かしらもじを とった ことばである。 きょういくに おいて、 こうちょうなどが りーだーと なって ほうしんを きめたり、 けいえい として きょういくを かんがえたり、 はいってくる がくせいを せんべつ する ことだと かんがえた。 あまり はっきりと かいていない。

・いんぐらんどの きょういくの せいさくは、ぜんたいしゅぎなのか?ぜんたいしゅぎの じょうけんなのか? せんせい なのか?という ところが あいまい だった。 いちおう、 せんせいであり、 ぜんたいしゅぎの じょうけんと かんがえている ようだ。 その ばあい、 あーれんとを つかう いみが あったの だろうか?せんせいに ついての けんきゅうを しらないので、 わからない。

おわりに

じぶんは つぎの ように かく。 「どうとくてきに よく ふるまう。つまり くるしめない。くるしめるな。すべての せいじを いっせいに とめよ。まやかしだ。うまれさせるな。くるしみを とめよ。くるしめて たべるな。 ほろびを おそれるな、 くるしみを おそれよ。 どうとくてきに よい ほうほうで、 ほろびよう。」

ちしきによる かいほう(http://cira-japana.net/pr/?p=849)。

さいとう・まの

「いきるに あたいする、しない という ことば に ついて」

せいれき 2021ねん 3がつ 7にちに かきたした。
いきるに あたいする、 あたいしない という ことばの つかいかたに ついて、 きんだいの はなし しか かいていないのは、 たりないと おもった。
とくに あーれんとに とって こだい・ぎりしあが もんだいに なる ので、 こだい・ぎりしあに ついては かかないと いけなかった。
こだい・ぎりしあに そのような ことばの つかいかたが あった。
きげんぜん 399ねんの せっていで、 きげんぜん 380ねん ぜんごに ぷらとんが かいた「ぱいどん」という たいわへんを かいた。

T8Phd.64d2―65a7:「いったい,哲学者は,いわゆる快楽を,たとえば,飲食の快楽を,熱心に追求する,と君には思えるかね。(…)では,性の快楽はどうだろう。(…)では,その他の体の世話についてはどうだ。そういう人はこういうことを価値あるものと考える,と君には思えるかね。たとえば,豪華な衣服や靴の所有と
か,その他の体に関する装飾とか・・・。(…)多くの人々[大衆]にはこう思われることだろう。こういう事柄のなにも快いとは思わず,こういう事柄に関わろうともしない者は,生きるに値しない(οὐκ ἄξιον εἶναι ζῆν)のだ。肉体を通してやってくる快楽に見向きもしないような人は,ほとんど死んだも同然の状態にあるのだ,と」

(注1 『パイドン』等のギリシア語テキストとしては Duke(1995)を用い,箇所指定はステファノス版頁・行数に従う。プラトンの著作の略記は慣例(LSJ)により,自明な場合は省略することがある。『パイドン』の日本語訳は岩田靖夫訳(1998)によるが,断りなく字句を変更したところもある。)
Duke, E. A., et al. (eds.) (1995), Platonis Opera, vol. 1, Oxford)
岩田靖夫(訳)(1998)『パイドン岩波書店.)
栗原, 裕次「プラトンにおける生と死の思想 : 『パイドン』篇の魂論との関係で」(http://hdl.handle.net/2309/2708

「οὐκ ἄξιον εἶναι ζῆν」を いきるに あたいしないと やくしている。
ぎりしあもじ、 らてんもじへの うつし、にほんごの いみ(えいごの うぃきしょなりーの きじ)の いちらん。
οὐκ、 ouk、 ではない(https://en.wiktionary.org/wiki/%CE%BF%E1%BD%90%CE%BA#Ancient_Greek
ἄξιον、 áxion、 あたいする もの(https://en.wiktionary.org/wiki/%E1%BC%84%CE%BE%CE%B9%CE%BF%CE%BD
εἶναι、 eînai、 いきる、ある(https://en.wiktionary.org/wiki/%CE%B5%E1%BC%B6%CE%BD%CE%B1%CE%B9
ζῆν、 zên、 いきもの として いきる(https://en.wiktionary.org/wiki/%CE%B6%E1%BF%86%CE%BD

こだいぎりしあの このような ことばの つかいかたも わるい。
かきたし おわり。
さいとう・まの

*1:ほかには、「『オイディプス王』において、オイディプスは、自らの出生の謎と運命を解き明かしていくことで、自らの生がいかに生きるに値しないものであるかを発見してしまい、嘆き、呪っていきます。」、「例えば、オイディプスは、赤子の時分にそうであったように、生きるに値しないからと言って都合よく死ぬことさえできないという運命を生きています。」「その生は本当に生きるに値しないまま終わるものとして、悲惨に悲惨を重ねていくだけのものとして描かれていたでしょう。」「無論、自害や野垂れ死には物語の設定上オイディプスの運命によって禁じられていますが、それと同時に、オイディプスがその生きるに値しない生を生き抜いたことは、オイディプスが守り神になったことによって報われています。」、「その中でそのように生きられる生(ビオス)のみが生きるに値するものであるわけです。」、「『革命について』の表現を援用すれば、行為が「新しい始まり」として十分に経験されない世界など生きるに堪えない、生きるに値しない、と。」などが ある。https://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708