さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

どくしょ・めも1、「てんい じょう、 ろく きゅうたいの ちょうろう」

どくしょ・めもを する。 おもに じぶん よう。


ちゅうとはんぱな ところから めもする。
なぜなら、 とちゅうまで すでに よんだ から。
しらべものは うぃきぺでいあまでで よいと する。
なぜなら、 しょうめいする ため でも ない から。
また、だれかに おしえる ため でも ない から。
さらに、 かくにんした ひづけも かかない。
めんどうくさい から。

らかん『てんい、 じょう』
「ろく、きゅうたいの ちょうろう」

139ぺーじ

あーさー・けすとらー (Arthur Koestler)

どいつごと えいごを つかう しょうせつか、 てつがくしゃ。
ゆだや けい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC
『むゆうびょうしゃ たち』 (The Sleepwalkers: A History of Man's Changing Vision of the Universe., 1959)
にほんごやく なし。
けぷらーの しょうは、 『ヨハネス・ケプラー 近代宇宙観の夜明け』(部分訳:小尾信弥、木村博訳、河出書房新社、1971年、新版1977年。筑摩書房ちくま学芸文庫)、2008年)で やくされている。
こぺるにくすの しょうは、 有賀寿訳『コペルニクス 人とその体系』すぐ書房、1977年。部分訳で やくされている。

夢遊病者たちの確執

https://numabe.exblog.jp/4499389/
「一方のケプラーはといえば、もっぱら直観的に思弁を重ねるタイプ。視力が弱かったこともあり、ほとんど天体観測を行わなず、ひたすら先験的ヴィジョンに導かれて壮大な宇宙論を夢想した。」

ケストラーの見方はこうである。コペルニクスからガリレオに至る近世の天文学者たちはみな、誤謬に満ちた仮説や途方もない妄執にとらわれながら、自分がどこへ進もうとしているのか理解せぬまま、あたかも「夢遊病者のごとく」真理へと導かれていったのだ、と。
この魅力的な(しかし議論の余地のある)所論を展開するうえで、ケストラーが最も多くの頁を費やしたのが、ほかならぬケプラーの矛盾に満ちた生涯についてであった。「惑星の数が六つ(水・金・地・火・木・土)なのは何故か」と自問し、惑星軌道を確たる証拠もなしに五つの正多面体と関連づけた空想家ケプラー。惑星の運行には妙なる協和音が潜んでいて、宇宙全体は天空の音楽で満たされると結論づけた神秘主義ケプラー。彼こそは思い込みと謬見にどっぷり浸りきった「夢遊病者」の典型例だったからだ。

むゆびょうしゃは、 ゆめという げんじつではない ものを みながら、 げんじつに うごく ことの ひゆとして つかわれている。

むゆうびょうは せいしんぶんせきでは どう あつかわれているのか?

小林成貴「『人間喜劇』の夢遊病者たち──バルザックにおける夢と意志―─」(ぴーでぃーえふ、http://www.waseda.jp/bun-france/pdfs/vol34/kobayashi.pdf

夢遊病という問題を大々的に取り上げたのはピュイゼギュールが最初であった。

ぴゅいぜぎゅえーるは どうぶつじきで ゆうめいな めすめるの でしである。

それは意識的な記憶と無意識的な記憶であり、この夢遊状態に現れる記憶の研究が、シャルル・リシェやシャルコーといった学者たちによる研究を経て、フロイトの無意識の研究へと繋がっていく。

田母神顯二郎「ピエール・ジャネとフランス流無意識──統合・解離・時間―─」(ぴーでぃーえふ、https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/13963/1/bungeikenkyu_116_97.pdf

めーぬ・ど・びらん という しそうかが むゆうびょうに きょうみを もっていた らしい。
びらんの えいきょうに あるのが、 べるくそんと じゃね である。
じゃねに えいきょうを あたえた じゃくそにずむは、

 イギリスの神経学者ジャクソンJ. H. Jacksonによる学説。彼はたとえばてんかん、失語などの神経学的臨床観察と理論において独創的な見解を示した。スペンサー H. Spencerの進化論哲学の影響のもとに「神経系統の進化と解体」(evolution and dissolution of nervous system)の思想を展開したが、それによると神経系統の進化とは、(1)高度に組織化された下級の中枢から、組織化の少ない高次中枢への移行であり、(2)単純な下級中枢から複雑なより高次の中枢への移行であり、(3)もっとも自動的なものから随意的(意図的)なものへの移行である。いいかえると神経精神的最高中枢は組織化の程度がもっとも少なく、もっとも複雑でもっとも随意的なものである。このように神経系統は階層構造(hierarchy)をなす。ところが神経系統の病的解体ないし退行は進化の過程を逆行する。つまり退行は最高次の中枢から低次の中枢へ、より組織化の少ないものからより組織化されたものへとすすむ。しかも、そのとき重要なのは陰性症状(negative symptom)と陽性症状(positive symptom)の区別であって、前者は器質的侵襲による機能の喪失であるが、後者は病的過程によって破壊をまぬがれた下位中枢の解放症状である。この理論は種々の神経疾患に適用されるが、たとえば失語において自動的、情緒的でない感情言語が保たれ、高級で複雑な意図的な知的言語が消失する。かれの言語理論は後輩のヘッドH. Headやフランスの神経学者アラジュアニーヌTh. Alajouanineらに受けつがれた。ジャクソンは同じ原理を精神疾患にも適用しようとしているが、充分に徹底されていない。この路線は現代フランスの代表的精神医学者エー H. Eyによって新ジャクソニズム(neo-jacksonisme)として展開された。

(大橋博司)
http://www.actioforma.net/kokikawa/seisin/seisin13.html

と せつめいされる。
ろーまん・やこぶそんの はいけいには この せつが あったの かもしれない。
やこぶそんは ふたつの けいれつを かんがえた のに たいして、じゃくそにずむは ひとつの けいれつで かんがえた。

111ぺーじに はん・こんでぃやっく という はなしが でる。
こんでぃやっくは 「最初の著作『人間の認識の起源に関する試論』(1746)はほぼロックの認識論を継承しているが、ことばの果たす役割を強調したところに彼の特色がある。感覚に由来する単純観念はことばと結び付くことによって、初めて他の観念と結び付くことができる、というのである。」(https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A4%E3%83%83%E3%82%AF-67428

ぴえーる・じゅねは らいぷにっつの ながれに いちづけられる。(112ぺーじ)
112ぺーじ かたれぷしー

読み方:カタレプシー

English:catalepsy

強硬症。一定の姿勢をとると、その姿勢を随意的に変更できず、長い時間にわたって同じ姿勢を保持する症状。統合失調症の患者や心因性精神障害でみられる。
https://www.almediaweb.jp/glossary/0156.html

123ぺーじ、ゆんぐの こんぷれっくす がいねん
めちゃくちゃ おもしろい ろんぶんに であってしまった。

せいしんぶんせきと むゆうびょう

あまり おおきな かんけいは ない ようだ。
むしろ、 せいしんぶんせきと たいこうしていた ぶんやが あつかう もんだいという いめーじが ある のだろう。

がりれいと きょうさんしゅぎ

あーさー・けすとらーは しおにすとの きょうさんしゅぎしゃ であった。

パレスチナへの入植は思わしい結果に繋がらず、現地でドイツ最大の通信社ウルシュタインの職を得たのがきっかけとなり1929年にはフランス支局の特派員となった。翌年、自然科学についての知識の深さを認められ、科学欄編集長としてベルリン本社へ配属され、ここでナチスの台頭に直面する。以降、ホロコーストを題材とした小説『出発と到着』(1943)[4]の執筆など、終戦に至るまで一貫したナチス批判を繰り広げることになる。同時期、マルクス・エンゲルスの思想に出会いドイツ共産党に入党する。ほどなくウルシュタイン社を解雇され国際革命作家同盟の招きでソビエトに滞在したが、その全体主義的独裁体制を目の当たりにして、1933年にフランスに亡命することとなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC

らかんは、 あーさー・けすとらーが きょうさんしゅぎしゃ だった ことと、 がりれいを ひいきに する ことを むすびつけている。
なぞである。
「かれは」と いっているから、 もしかしたら 「がりれいが」 きょうさんしゅぎしゃ だったと らかんは いっているの かもしれない。
うそだー。
うーむ、がりれお・がりれいは、 かとりっくの きょうかいから いたんと かんがえられていた。
きょうさんしゅぎは しゅうきょうを ひていする。
よって、 てきの てきは みかたの りろんで、 がりれいを ひいきに するの かもしれない。
また、 がりれいは、 けぷらーと ちがって、 かみを ぶつりがくから はいじょした みたいだ。

ガリレオ自身、敬虔なカトリック信徒でありながら、哲学や宗教論から科学を分離することを提唱し、教会の権威に基づいた科学的理論を否定していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4

ああ、 みつけた。
まず、 あーさー・けすとらーは はんがりーの ぶたぺすと しゅっしんである。
さらに、 あーさー・けすとらーは おーすとりあの あたらしい きょうわこくの うぃーんに いた ことも ある。
そして、はんがりーの うぃーん しゅっしんの けいざいがくしゃに かーる・ぽらんにー(Polányi Károly)が いる。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BC
かーる・ぽらんにーは、 きょうさんしゅぎしゃ だった。
かーる・ぽらんにーは がくせいの ときに、 がりれい・さーくるという がくせいだんたいを つくった。

また、ピクレル本人もあえて当時の社会改革運動の理論的支柱として扱われることをいとわなかったため、ブダペスト大学の最も人気のある講義の一つとなり、多学部からの学生も大勢聴講に訪れる一方、極右勢力からは大学の講義を妨害されたり、政治的批判の対象となりもした。ポラーニ・カーロイを初代委員長とするガリレイ・サークル成立のきっかけも、ピクレルの講義を極右学生の妨害から守ることにあった。サークルの名前も当初「ピクレル・サークル」にするという案が浮上したが、ピクレルの提案により、決して科学的信念を曲げなかったガリレイの名前を冠することにしたという(35)。

35. Kende, Zsigmond, p.85.
(Kende, Zsigmond, (Budapest, 1974))
三苫民雄「ピクレルの社会理論 — 19-20 世紀転換期におけるブダペスト思想界の一断面 —」
Tamio MITOMA
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/47/mitoma/mitoma-1.html

おたくの はなし

はい。つながった。
らかんの はなしを きいていた もの たちには この ことは あたりまえ だったの かもしれない。
このような はなしを、 ちしきを ひけらしたがっていると かんがえるのは まちがっている かのうせいが たかいと おもう。
たしかに、 らかんは ちしきを ひけらかすのが すきな たいぷだと おもう。
しかし、 らかんの はなしは、 うちわの はなしである ことを おもいだす ひつようが あると おもう。
うちわで はなす もの たちは、 そとに いる もの たちが まったく わからない かたちで はなす。
あたりまえ だから ていねいに せつめいしなくても いいのだ。
その ように せつめいを はぶくのは、 きもちよい ことも ある だけでなく、 らく だ🐪。
たとえば、 ふぇみにすとの あつまりでは、 「ばとらー」と なんの せつめいも なく いう ことが ある。
わざわざ、 あめりかがっしゅうこくの ふぇみにすと、くぃあの てつがくしゃで、『じぇんだー・とらぶる』が ゆうめいな じゅでぃす・ばとらーとは いわないのだ。
ここでも、 「くぃあ」という ことばを せつめいせずに つかった。
くぃあとは、せいてきな ことに ついて ふつうと かんがえられないものを ちゅうしんとして、 その なかの ちがいを かんがえながら、 ふつうという かんがえかたに ちょうはつてきに はんたいする、 せいじてきな ありかたの ことである。
さらには、せいじてきではない ありかたの いみである ことも ある。
えいごの queerという ことばの にほんごやくである。

ほかにも、 ある いっていの おたくの あつまりでは、 なんの せつめいも なく、 「るるーしゅ」と いって、 だれだか わかる。
せいれき 2006ねんから てれびで ながれた あにめ 「こーどぎあす、はんぎゃくの るるーしゅ」の しゅじんこうである。
さらには、 るるーしゅの せりふの いちぶを かえて、 るるーしゅの なまえすら ださずに ねたに する こと さえ できる。
そういうことは、 にちじょうさはんじ だと かんがえる ほうが べんりだと おもう。

がりれいの おちるものの るーる

はなしを もどす。

ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則はおもに2つからなる。1つ目は、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つ目は、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである[20]。その方程式は次のようにあらわされる。 X(t)=1/2at2[21]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4

この はっけんを らかんは 「本質的な一歩」と いっている。
しかし、 がりれいは 「他の人と同様にやはり遅れていた」とらかんは いう。

ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4

かんぜんな えんうんどうは、 かんぜんである には、 てんたいに おいて のみ ありえるのだと がりれいは かんがえていたと らかんは いう。
おそらく、 てんたいは なにか じゅんすいな ものと かんがえられていたの だろう。

アリストテレスの宇宙観では、地球が宇宙の中心でそのすぐ上に月があり、それより 上は天(heaven)であり、月下の世界(われわれ人間の世界) と天の世界は峻別され両世界に共通の普遍的な法則など有り得ない。
http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~teiji.kunihiro/kuni/misc/jyussyu.html

きゅうたいは、ほかの ものを ひきよせる あいの いめーじ である という はなし(135-136)と つながっている。
そもそも、ぷらとんの きょうえんの なかの ありすとふぁねすの あいは こっけいな いめーじとして きゅうたいや まるが もんだいに なっていた(131-132)。

こぺるにくすてき てんかい

こぺるにくす てき てんかいは、こぺるにくすから でてきた もの ではない。
てんどうせつから ちどうせつへ という はなしは、 こだい ぎりしあの ふぃろらおす(136ぺーじ)など から ちどうせつは あった という はなしが ある。

彼〔いんようしゃ ちゅう:こぺるにくす〕はまた,恒星の世界を無限ないしそれに近いものと考えていた。しかし宇宙がもし無限なら,そこには中心はないはずである。その種の議論をコペルニクス天文学の問題ではなく,自然哲学者にまかせるべきだと考えて,みずからは立場を明確にしていないが,その発想が〈閉ざされた〉中世的宇宙観(コスモス)から〈開かれた〉近代的宇宙観への移行のゲート・キーパーとして影響したことは確かであり,この宇宙観・世界観の大変革がしばしば〈コペルニクス革命〉と称されたり,転じて哲学その他の分野で〈コペルニクス的転回〉(カント)の語が用いられるゆえんである。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1499

らかんは こぺるにくすの かんがえかたは 「歴史的なひとつの幻想」であり、 しゅうてんえんの ような「想像的要素」が たくさん あると いっている(137ぺーじ)。
しゅうてんえん とは、 わくせいの うごきを せつめい する ために つかわれた かんがえ である。
えんの うえを ちゅうしんとする えんの うえを うごいていると かんがえる こと である。
さて、 らかんは 「彼らは、想像しうる唯一の運動は円運動だという理念を持っていたのです」と いっている(137ぺーじ)。
がりれいは こぺるにくすてき てんかいを のりこえてないと らかんが いう とき、こぺるにくすてき てんかいは、 うちゅうを むげんと かんがる ように なる こと だろう。
かんぜんな えん うんどうが ある はずであると かんがえた ため、 がりれいは うちゅうは ゆうげんで あると かんがえていたと らかんは いいたいの だ。

えん うんどう

こだい ぎりしあ じんは、 えん うんどうは げんかいと かんがえた。
えん うんどうは むげんの はんたい である。
むげんは あぺいろん、ἄπειρονと いわれる。

接頭辞 ἀ- (a-)「〜がない」と πεῖραρ (peirar)「紐、縄;(複数形で)終端、限界」とからなるギリシア語で、「限定されないもの」の意。アナクシマンドロスはアペイロンを諸物のアルケーであるとした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3

ぺいらーるは、 ひも、 おわり であり、 えん うんどうが その しょうちょう である。
らかんは えん うんどうが ゆうげんな ものの しょうちょうに なっていた りゆうを、 えん うんどうが あぺいろんという むげんに たどりつく ため であると いっている。
ここは ぎゃくせつ てき である。
ゆうげんの しょうちょう である えん うんどうは、 えん うんどうが むげんに たどりつく から であると いう からだ。

らかんは きゅうたいを てんにまで ちいさく する ことで、 むげんに する ことを かんがえている。
きゅうたいが てんに まで ちいさく なると、つまり そんざいしない ぐらい はばを もたない てん という すうがくの かんがえを ぜんていに すると、

なぜ むげんに なるの だろうか? わからない。

さらに、 きゅうたいは むげんの しょうちょう である。

パスカルは神を周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球 une sphère infinie dont le centre est partout, la circonférence nulle part に喩へて居る
https://ameblo.jp/kmomoji1010/entry-12078453623.html

140ぺーじ

とく

きゅうたいと えん うんどう という かたちが「特権的な徳」を もっている りゆうが もんだいに なる。
とくは、 あれてー (ἀρετή)である。
なんらかの いみで、すぐれている こと である(https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/virtue.html)。
それは、 のうりょくを はっきする こと である。

すうがくに おける ちょっかん

直感なのか、 直観なのか という もんだいが ある。
にほんごやくでは、 「直感」 と かいてある。
すうがくに おける ちょっかん と いえば、 ちょっかんしゅぎと けいしきしゅぎの たいりつが おもいだされる。
ちょっかんしゅぎでは、「オランダの位相幾何学者、ブラウワー」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E7%9A%84%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9)が ゆうめいである。
ちょっかんしゅぎに おいては、すうがくの きほんは、 ろんりでは なく、 じっさいに みつける ことに あると かんがえる ことだと かんがえられる。
かんたんに いえば、 そんざいしないと かんがえると むじゅんが おこる から そんざいする という ぎろんを やめて、 じっさいに このように そんざいのが わかった という ぎろんを する という ことだと おもう。

そして、 この ちょっかんしゅぎと、 きゅうたいが むげんを あらわし、 えん うんどうが ゆうげんを あらわすのは なぜか という はなしの つながりは わからない。

きゅうたいと しんあい

だじゃれが でてくる。
まず、 きゅうたい、すふぁいら、σφαῖρα(https://en.wiktionary.org/wiki/%CF%83%CF%86%CE%B1%E1%BF%96%CF%81%CE%B1)と しんあい、ふぃりあ、φιλία(https://en.wiktionary.org/wiki/%CF%86%CE%B9%CE%BB%CE%AF%CE%B1)の あいだの だじゃれ である。
にほんごで かくと わかりやすいが、すふぁいらと ふぃりあには、 ふぁぎょうの おと、 い という おと、らぎょうの おと、 あ という おとが おなじ である。
いやいや、 まってください。
にほんごなら らぎょうで おなじ でも、こだい ぎりしあごで ρ(ろー)と λ(らむだ)で ちがう ではないですか。
はい、 しかし、 こだい ぎりしあじん たちも この ふたつを きっちり わけて はつおん するのが にがて らしい。
https://youtu.be/uCiTp6ptBC4?t=469

つぎの だじゃれは、 あくまばらいを とかせる、でぜくそしるぜ(de-exorcicer?) と、 これらの しろん、 せ・ぜくぞるしす(ces exercises)の あいだの だじゃれ である。

このような だじゃれは げんごが ちがうと つうじない。
しかし、 むいしきの もんだい では、 だじゃれが もんだいに なる。

「球体の魅力」(140ぺーじ)
ふぃりあ、しんあいが はりつく という ひょうげんは、 りびどーが こちゃくする、fixer する という はなしを かんがえている のだろう。

「交韻」

2種の韻を1行おきに交錯させる交韻rimes croisées(英詩では交互韻cross rimes)
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%A4%E9%9F%BB-1312694

「まるで交韻のように」と ある から、 こだい ぎりしあご で よまない と わからない。

せいぶつと きょうたい

ぷらとんが かいた きょうえんの ありすとふぁねすの きゅうたいには、 とびでている ぶぶんが ある。
ぷらとんの 『てぃまいおす』の きゅうたいでは、 とびでている ぶぶんが なく、 すべてが うちがわに はいっている。
きゅうたいは 「それ自体を愛しています」(140ぺーじ)。
じたいあいの ことを かんがえているの かもしれない。
そして、 きゅうたいが いきもの である という はなしを、 「まったく厳密な意味で想像的に判読しなくてはならない」と らかんは いう。
かたちと そうぞうと りそうが もんだいに なっている。

ありすとふぁねす

きゅうたいは じぶんに むかって うごく だけ である。
しかし、ろくほうこうに うごく。
どっちやねーん。
という はなしだと おもう。
ちゃんと あいに ついて かたれる ものが おどける。
プラトンは、アリストファネスの演説の中で、世界や、世界の魂についての自身の考え方をもとに喜劇的な詩論を行って面白がっているように見えるのです。」(140ぺーじ)
きげきは、 むいしきの けいせいぶつの せみねーるで でてくる。

141ぺーじ

きゅうたいの ちょうろう

きゅうたいを あざけわらう。
てぃまいおすの かんぜんな きゅうたいを かんがえる。
きょうえんの ありすとふぁねすは、この かんぜんな きゅうたいを ばかにする。
けっきょく とびてている ところが あると いって ばかに するのだ。

ありすとふぁねすの てんたい

ありすとふぁねすの あいの はなしは、 てんたいの はなしと かんけいしている。
ありすとふぁねすは、 あいとは ひとつの ものが ふたりに わかれた あとに、 ひとつの ものに もどろうと する こと である。
ありすとふぁねすは みっつの ばあいを かんがえる。
おとこと おんなである きゅうたい。
おとこと おとこである きゅうたい。
おんなと おんなである きょうたい。
そして、 ここで、
おとこと おとこの きゅうたいの ゆらいが たいようであり、
おんなと おんなの きゅうたいの ゆらいが ちきゅうであり、
あんどろぎゅろす、りょうせいぐゆうの きゅうたいの ゆらいが つきである。
ちなみに、 ありすとふぁねすは、 「今日男女二種類であるのと違って、第三のものがさらに加わったいた。」(ぷらとん、たなか・みちたろうやく、『筑摩世界文学大系3、プラトン』113ぺーじ)
この はなしを じょいすの ゆりしーずの さいごの しょう、 18しょう 「ペネロペイア」の はなし むすびつけている ぶんしょうを みた ことが ある。
ゆりしーずでは、 おとこが おんなみたいに なる ときに、 つきの ひかりが でてくる。

そこで男性のなかでも、そのむかし男女〔るび:おめ〕と呼ばれていた両性の者の片割れである男性は女好きで、姦夫〔るび:かんぷ〕の大部分はこの部類から生まれたものである。また逆に女性のほうでもこの男女〔るび:おめ〕の片割れの女は男好きで、姦婦はこの部類から生まれたのだ。
ぷらとん、たなか・みちたろうやく、『筑摩世界文学大系3、プラトン』115ぺーじ

「不貞と混性的起源を持つことは別のことではない」(141ぺーじ)
こんせいてき きげんの げんごを しりたい。


きゅうの かたち

「球形とは、触れるべからざる、異議を挟むべからざる形であって、」(141ぺーじ)
ふれるべからざる わ わからない。
touchable に ひはん できる、 しゅうせい できる という いみ が ある。
non contestable かもしれない。
うたがえない ほど すごい という いみ だろう。

「あらゆる作用の外、あらゆる外的推力の外では、物体は停止し続けるか、あるいは等速直線運動をし続ける」(141ぺーじ) と わ、 かんがえなかった。
がいてき すいりょくは、 poussée extérieure かと おもわれる。
うんどうの だいいち ほうそく

「すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%8B%95%E3%81%AE%E7%AC%AC1%E6%B3%95%E5%89%87

「〔当時〕停止している物体は、停止以外では、円運動しかできないと想定されており」(141ぺーじ)
ていし している ぶったい という ひょうげん の ふらんすご お しりたい。
ていし している と わ、 にほんごでは、うごいていない という いみ だろう。
ちから が くわえられていない こと お いみ しない。
ふらんすごの arrêter も そんな いみだと おもう(https://www.cnrtl.fr/definition/arr%C3%AAt%C3%A9)。

そのころまで支配的であったアリストテレスの考えによれば、地球の中心に向かう 落下運動以外は自然な運動ではなく、従って、強制された(forced)運動ででなければ ならない。すなわち、(強制)力を受けているはずなのである。
http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~teiji.kunihiro/kuni/misc/jyussyu.html

実は、厳密に言うと「慣性の法則」の定式化においてもガリレオは誤っていた。 実際、彼は力が働いていないとき物体が続ける運動は「等速円運動」であるとした。 すなわち、同じ速さで同一円周上を動く運動である。これは間違いである。 正しくはニュートンの言うように、力を受けていないとき物体が続ける運動は 「等速直線運動」である。 力を受けないとき速度が一定になるというのが正しい。等速円運動では速さは一定だ が、方向が刻々と変わっている。 方向が変われば速度も変わるので力が働いている はずである。
http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~teiji.kunihiro/kuni/misc/jyussyu.html

等速直線運動は無限宇宙では続けさせることができるが、有限宇宙ではいつか「端」 に当たるので難しい。等速円運動ならば、有限の宇宙内でもいつまでも続けさせる ことができる。
http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~teiji.kunihiro/kuni/misc/jyussyu.html

「何もはみ出すことがなく、何も引っ掛かりがないこれらの形における肝心な点は、想像的構造にその基礎を持っているということではないでしょうか。しかし、この形への執着に伴う情動的な部分は何に由来するのでしょうか――それは去勢の「Verwerfung 排除」にほかなりません。」(141ぺーじ)
きゅうたいは そうぞうてきなものに かかわる。
きゅうたいに しゅうちゃくする という かんじょうは、 きょせいの はいじょから でてくる。
きょせいは、 かけている という こと である。
きょせいの はいじょとは、 かけている という ことを かんがえもしない こと である。
はいじょ という ことばは、せいしんびょうの ありかたと かんがえられている。
はいじょとは、 ふらんすごで forclusion である。
らかんは はいじょの せいしんびょう、 よくあつの しんけいしょう、 ひにんの とうさくと わける。
はいじょは しょうちょうてきなものに はいっていない ことである。
しょうちょうてきなものの まえの そうぞうてきなものの だんかいに ある こと である。

142ぺーじ

ありすとふぁねすの そうぞうてきなもの

半分に切られた梨のようにふたつに割れたこの存在たちは、いつとも言えないある時点x――というのもそれは神話的時間のことだからです――において再結合しようという虚しい抱擁の内に死ぬだろうと言うのです。この片割れたちは、地上で子供作りしようとして虚しい努力に終わるよう定められています。
(142ぺーじ)

「半分に切られた梨のようにふたつに割れたこの存在たち」
ふらんすごで ”couper la poire en deux”(なしを はんぶんに きる)は、 そんも とくも せっぱんする、 だきょうする という いみである。

Cette expression est apparue au cours des années 1880 dans le domaine littéraire et repose sur l'image d'une poire que l'on coupe en deux de manière égale pour un partage équitable entre deux personnes.
この ひょうげんは せいれき 1880ねんだいに ぶんがくで あらわれた。 ふたりの ものの あいだで とうぶんする ために にとうぶんした なしの いめーじに よっている。
http://www.linternaute.fr/expression/langue-francaise/19938/couper-la-poire-en-deux/

だきょうの さんぶつ としての にんげん という はなし。

ぷらとんの はなし

「こう言ってゼウスは人間どもを二つに切っていった。まるでななかまど〔「ななかまど」を きょうちょうしている〕の実を切って貯蔵しようとする人々や(ゆで)卵を髪で切る人々がするように。」
『ぷらとん』114ぺーじ

なしあか(ナシ亜科)、りんごあかは、 「リンゴ、ナシ、ビワ、ナナカマドなどを含んでいた。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B7%E4%BA%9C%E7%A7%91
こだいぎりしあじんたちは ゆでたまごを かみのけで きるのだろうか。
さらに、 こだいぎりしあじんたちは、ななかまどを きって ためるの だろうか。

「いつとも言えないある時点x――というのもそれは神話的時間のことだからです」
しんわは、 いまを せつめいする ための むかしの はなし である。
その むかしは いまを せつめいする ため だけの じかん なので、 いつかは わからないのだ。
ぷらとんも 「まことにそんなわけで、このような大昔から」(『ぷらとん』115ぺーじ)と かいている。

「虚しい抱擁の内に死ぬ」

「そこで本来の姿が二つに断ち切られたので、皆それぞれ自身の半身を求めていっしょになった。そして互いに相手をかいいだきまつわりあって一身同体になろうと熱望し、お互いに離れては何一つしようという気がないから、飢〔るび:うえ〕のためや総じて何もしないでいるために死んでいった。そしてどれか一方の半身が死に、その相手が残されると、残された者はまた別のものを探してまつわりついた。その出会う相手が、かつて完全であったときの女性(女女)の半身――これが、今日ぼくらが女性と呼んでいるものであるが――であろうと、また男性の半身であろうと、それにはおかまいなしに。……このようにして彼らは滅〔るび:ほろ〕んでいったのだ。」
『ぷらとん』114ぺーじ

「かいいだきまつわ」る というのは、 どういう たんごか わからない。
かう、 いだく、 まつわる という たんごを あわせた もの だろう。
「かう」は たがいに という いみ である。
「いだく」は だきよせる という いみ である。
「まつわる」は まつわりつく という いみ である。

「地上で子供作りしようとして虚しい努力に終わるよう定められています。」

「ゼウスは人間どもの隠所を今日あるように前面に移し、それによって互いに相手の体内で、つまり男性によって女性の体内で生殖を行わせた。この場合ゼウスの狙〔るび:ねら〕ったものは何かと言えば、彼らがまつわり合う際に、もし男性が女性に会ったのであれば、その者たちは子を生んで人間の種族は次々と作り出されていくし、またよしんば男性同士が会ったのであっても、ともかくいっしょになったことからする充足感だけは生じ、そこで彼らはそれを中休みしていろいろな仕事に向かい、それ以外の暮しに気を配るようになる、ということにあった。」
『ぷらとん』114-115ぺーじ

もんだいの かいけつ

「不都合な箇所に付いている彼らの生殖器が取り外されます。というのも彼らが丸かった時に生殖器があったところ、外側に生殖器が付いているからです。」
142ぺーじ

ありすとふぁねるの もんだいの かいけつは、 はんすしょうねんに よる もんだいの かいけつと おなじ であると らかんは いっている。
はんすしょうねんは、 ふろいとが せいれき 1909ねんに 『しょうれい はんす』で ほうこくした うま きょうふしょうの おとこのこ である。
はんすは ちちおやに いった はなしを ふろいとが かいている。

「配管工がやってきて、ペンチで僕のお尻を取り外して、別のお尻をくれたんだ。そしてそのあとはおちんちんだったの。配管工がお尻を見せてと言ったから僕は後ろ向きにならないといけなかった。そして彼はお尻を取り外したよ。そのあと彼はおちんちんを見せてと言った」。

([Ⅶ:333=10:126]、Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.)
https://conception-of-concepts.com/philosophy/freud/reconstruction-of-freuds-theory/chapter4/

そして、 ありすとふぁねすの はなしは つぎの ような はなし である。

「そこでアポロンは顔を向け換え、またきんちゃく〔「きんちゃく」を きょうちょうしている〕のように、彼は四方八方から今日のいわゆる腹部へと引っ張り寄せ」
「そこでゼウスは憐れに思って、もう一つの案を考え出し、彼らの隠所〔るび:かくしどころ〕を前に移した。それまではそれは外側にあって、子を生むにも彼らは互いに相手の体内に産み付けるのではなく、蝉〔るび:せみ〕のように地中にしていたからだ。こういうわけで、ゼウスは人間どもの隠所を今日あるように前面に移し、それによって互いに相手の体内で、つまり男性によって女性の体内で生殖を行わせた。」
『ぷらとん』114ぺーじ


「〔ハンス少年の〕蛇口の夢」(142ぺーじ)は なんのはなしか わかっていない。うえの はなし かもしれない。
le robinetは すいどうなどの せん(栓)、 こっく、 じゃぐち という いみだけではなく、 こどもの おちんちん、ぺにす という いみも ある。
生殖器は腹に取り付けられる」(142ぺーじ)と らかんは いっているが、 「はら」は どこから どこまで なのだろうか。
にほんごで 「はら」と いったら、 せいしょくきが ついている ところは ふくまれない きがする。
bas ventre で、 したばら、いんぶ という いみが ある。

せいき

「愛の慰みの可能性を求めるなら、少なくとも、主体に対して、生殖器を動かす手術をするということにどうしても関わってしまうのです。」
142ぺーじ

この ことを らかんは 「プラトンの筆の下にあて唯一かつ驚くべきところです」(142ぺーじ)と いっている。
おどろく ことは だいじな ことと かんがえられている。
生殖器を前面に移動するということ」(142ぺーじ)が もんだいに なっている。
きょせい こんぷれっくすとの かんけいは びみょうである。(「このことを去勢コンプレックスの項目に入れようと入れまいと」(142ぺーじ))

「その言わんとするところは、単に性器が、愛されている対象との結合や交接可能性としてそこに来るだけではなく、文字通り、性器がその対象と二重写し〔るび:スュプランプレシオン〕の、ほとんど付加税〔るび:スュランポジシオン〕とも言える関係にあるということです。」
142ぺーじ

la surimpression おーばーらっぷ、かさねうつし
la surimposition ふかぜい(付加税)、じゅうかぜい(重課税)、 (surimposer ふかぜいを かする)

たいしょうと むすびつく ための ばいかい ではなく、 たいしょうと かさねあわさる いちぶぶんと かんがえられている。
からだの なかに たがいに あわせる せいき という かんがえかた である。

ひげき

プラトンによる悲劇の感取は――それについてはいくらでも証拠がありますが――ソクラテスのそれとたいして変わらないということを考えると、愛という重大事項についての言説で、そこではじめて、ただ一度だけ、プラトンがその性器そのものを持ち出したということに驚かないわけにはいきません。」
142ぺーじ

ぷらとんも そくらてすも ひげきを ちゃんと かんがえていない という ことを かんがえているのかと おもう。
ちゃんと かんがえていないものでも、 あいの もんだいに おいて はじめて、 せいきの もんだいを はなしている から おどろくのであろう。
せいきは あいとは ちがい、じゅうだいじこう ではない という かんがえかたを ぜんていと している だろう。
しかし、 らかんは きげきの ほんしつを あいと かんがえ、 ひげきの ほんしつは なにと かんがえたの であった だろうか。 おそらく むいしきのけいせいぶつの せみねーる である。 または、 たいしょうかんけいの せみねーる。わすれてしまった。しらべる ひつようが ある。 要調査。

こだいぎりしあと ひげき。

ギリシア文学を代表する悲劇は、ディオニソス神の祭礼に奉納する競技として開始された新しいジャンルであるが、劇中の対話は、やはり韻律をもった詩から始まっている。また悲劇の素材は原則として神話からとられた。
これに対して喜劇は、いわゆる世話物で、日常生活や政治や事件や実在の人物が素材にされ、遠慮なく批判されたり、風刺されたりした。のちに喜劇も、ディオニソス神の祭礼に奉納する競技となったが、もともとは「茶番劇」や、風刺的な対話、ファルスなどの散文だったらしい。ギリシア喜劇はそれらを吸収した新しいジャンルである」
https://japan-e-knowledge.jp/contents/kidsknowledge/cgi-bin/nipo/nipo_detail.cgi?id=0012003300&page=1&pFrom=&yokogusi=&refhtml=&hist=106125,210009,107196,210009,102294,107196,210004,210003,107546,107196,100901,210004,101616,107196,210037,210112,107851,104415,108876,130152

「饗宴も終わりに近く、ぶどう酒に酔ったアリストファネスは居眠りを始める。その彼を前にしてソクラテスは次のように語る。悲劇と喜劇の違いは素材によるものではなくて、「術」によるものだ、と。これは、先に述べた、悲劇は神話、喜劇は世話物という「素材論」を真正面から否定する「方法論」である。」
https://japan-e-knowledge.jp/contents/kidsknowledge/cgi-bin/nipo/nipo_detail.cgi?id=0012003300&page=2&pFrom=&yokogusi=&refhtml=&hist=106125,210009,107196,210009,102294,107196,210004,210003,107546,107196,100901,210004,101616,107196,210037,210112,107851,104415,108876,130152

ぷらとんは ひげき さっかを めざしていた という でんせつも ある。(「彼は悲劇作家を志しており、「気鋭の悲劇作家を志してコンクールに作品を出展しようとしていた折、ディオニソス劇場の前でソクラテスの演説を聴いて作品を火にくべて哲学に転向した」」(https://ameblo.jp/55leoleo/entry-11621235878.html))
さらに、ぷらとんは ひげきを つくる しじんを ゆーとぴあから おいだす という はなしを している。

しかし、 ちゅういする べきは、 ぷらとんは、 きげきさっかの ありすとふぁねすに この ことを かたらせた という ことだ。
ひげきと あいの かんけいは かんがえる ひつようが ある。

そくらてすと ひげきに ついては、 つぎの ぶんを みつけた。

初期の著作『悲劇の誕生』に於いてソクラテスは、「アポロン的なもの」との融合によってギリシア悲劇を成り立たせていた「ディオニュソス的なもの」の原理を破壊した人物として描き出されていた。
E・R・ドッズ(東谷優希訳)「ソクラテス、カリクレス、ニーチェ
ぴーでぃーえふhttp://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/30319/gensha0001303390.pdf

ひげきの たんじょうは にーちぇの さくひんである。

きげきと あいと せいき

「この事実〔いんようしゃ ちゅう、ぷらとんが あいの はなしで せいきの はなしを している こと〕は、喜劇の源の本質と私が述べたものが、つねにその根底においてファルスに関わっているということを裏づけています。」
142ぺーじ

きげきの ほんしつ としての あい
あいは ふぁるすが かけていない こと。
ありすとふぁねすが きげきさっか だから こそ、 この はなしが できる。

143ぺーじ

かぎ

「しかしプラトンは、アリストファネスに語らせながら、ここにいる我われにその先の言説の筋道をすっかり反対側に傾かせる鉤をもたらしてしまったことを知りません。」
143ぺーじ

かぎ、鉤、ふっくは ふらんすごで le crochet である。
かぎがたの ほうこうてんかん、うかい、きゅうな まがりかど という いみも ある。

ひづけ

せいれき 1960ねん 12がつ 21にちの こうぎの きろく である。
さむそう。