さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Bじつげん

じぶんよう。ただしいかは わからない。
2021ねん3がつ5にちから 3がつ 7にちに かいた。
あとで かえると おもう。🐸


Cりせいしょう
CVりせい
CVBりせいてきな じこいしきが じぶんじしんを つうじて げんじつか される こと
CVB0まえおき
CVBaきもちよいことと かならず おきる こと(ひつぜんであること)
CVBbこころの ほうそくと うぬぼれの きょうき
CVBcとくと せけん

くまのやくで じょう 540ぺーじから。

1

ちょくせつから かんせつへ。
じこいしきから、 たいしょうによる しょうにんに よって、せいしんへ。
せいしんの かくしん「みずからがふたつの自己意識に二重化しながら、その両者が自立的なものであることにおいて、じぶん自身とのみずからの統一性を手にしている」(541ぺーじ)
「この確信が、自己意識にとっていまや真理へと高められなければならない。」(541ぺーじ) かくしんから ただしいもの という いみの しんりへ。

2

「観察する理性はカテゴリーという境位にあって意識〔意識を きょうちょうしている。〕の運動、つまり感覚的確信、知覚と悟性とを反復することになった。」(452ぺーじ)
かんさつする りせいと いしきの うんどうを つなげて、かつどうする りせいと じこいしきの うんどうを つなげる。
じりつせいから じこいしきの じゆうへ。
ようきゅう(要求)

3

もくひょう
しょうにんされた じこいしき。
うちなる せいしんが じつざいに なる。
じんりんの くに
「人倫とは、諸個体が自立的な現実性〔「現実性」を きょうちょうしている。〕を保ちながらも、みずからの本質〔るび:ヴェーゼン〕にあって絶対的に精神的なしかたで統一されているありかた〔「統一されているありかた」を きょうちょうしている。〕にほかならないからである。」(544ぺーじ)
しゅうぞく(習俗)は じんりんてき じったい である。
じんりんてき じったいは、 いしきの ふるまいと げんじつせいである。

4

みんぞく
こべつせいが きえる ことで、 みんぞくと なる。
ふへんせいが きえる ことで、 るーると なる。

5

よっきゅう
ろうどう
まんぞく
ぜんたいてきなもの
じぶんに おいての ひていと じぶんに とっての こうてい
こべつせいが きえて、 みんなに あてはまる おきてと なる。
ふへんせいが きえて、 それぞれが もんだいと なる。
しみん
じぶんと おなじもの としての ほかの もの

6

じゆうな みんぞく である こだいぎりしあ。

7

しあわせとは しめい、つまり ふへんてきで こべつてきな ほんしつを はたす ことである。

8

りせいが しあわせに なれないのは、 ちょくせつてきに しゅうぞくが ある だけ だから。
しゅうぞくを かんせつてきに いしきすると ただしいもの という いみの しんりに なる。

9

「実在的な人倫つまり民族」(550ぺーじ)
みんぞくを しんじている という こべつてきな ありかたが こわれて、 ふへんに なる。
おきては かんがえられた もの なので、 じっさいに ある こたいとは たいりつする。
「個体はさまざまな律法〔るび:ゲゼッツ〕や習俗に対立するかたちで立ちあらわれてくる。」(551ぺーじ)

10

じんりんてき じったい、 ひとつの みんぞくの せいしんである という しあわせに なっていない。
ちょくせつてきに ある こべつてき せいしん
「すなわち精神とはここでは実践的な意識なのであって、その意識は目のまえに見出される世界へと、目的をいだいて乗りだしていく。」(552ぺーじ)
げんじつと たいしょうてきな じつざいの とういつ?
いっちが しあわせ。

11

「この理性的な自己意識にとっての真理は、私たちに対しては人倫的実体である。」(553ぺーじ)
はいき される こりつした こべつてきな けいき
「孤立した契機が有する形式は、それぞれに直接的な意欲、あるいは自然的衝動〔「自然的衝動」を きょうちょうしている。〕であるというものであり、その衝動が満足に到達しても、満足そのものがあらたな衝動の内容となるのである。」(553ぺーじ)
けいしきと ないよう?
「自然的衝動はその衝動がふくむ目的の意識とむすびついており、そのばあい自然的衝動の目的こそが真の使命であり、本質的なありかたであると意識されているのである。」(553ぺーじ)
どうとくせい
????

12

この だんかいの じこいしきは、 がいねん としては せいしんに あてはまる。
しかし、 じっさいは せいしんとして あるとは いえない。
(がいねんを じっさいに ある ことと くらべるのは あまり よくない よみかた かもしれない。 がいねんと いえば、 なにかを ひていする という いみで かんせつてきに たどり つく いめーじが ある。さらに、 もくてき、 せいめい、 じゆうは がいねんと かんがえられていた きがする。 げんじつと がいねんを くらべるのは 419ぺーじなど。 )
この だんかいの じこいしきは、 じぶんを こべつてきな せいしんが じっさいに ある もの である として ほかと くべつ する。
ここ から、 せいしんの だんかいに はいってくる。
かんさつ する りせいから こうどうする りせいへの うつりかわりだ。
この だんかいの じこいしきの もくてきは、 じぶんを こべつてきな もの として げんじつに する こと である。
(ここの 「もくてき」という ことばも やっかいだ。 せいめいが もくてきが ある もの として かんがえられていた ように、そして せいめいは がいねんで あると かんがえれていた ように、 もくてきを じぶんを つづけさせる ことと かんがえる べき かもしれない。 しかし、 もくてきや がいねんと げんじつは くらべられる たんご だから、 もくてきは げんじつに する ことだ という ときの 「もくてき」は もっと ふつうの いみ かもしれない。 )
じぶんを げんじつに する という ことが もくてき なのだから、 この だんかいの じこいしきは まだ げんじつの ものと なっていない。
じぶんを げんじつに すると、 まんぞくする。
なぜ?
じぶんを げんじつに する とは、 じぶんの しょうどうを まんぞくさせる こと だから だろう。(553ぺーじ、11だんらくを みよ)
しょうどうを まんぞくさせる というのは、 しょうどうが なくなる こと である。
そして しょうどうが なくなると きもちいい という まんぞくを かんじるの だろう。
じぶんが げんじつに なる とき、なにかを している。
つまり、 なにかを する という しょうどうに したがって、 なにかを した ことで、 しょうどうが なくなる という ことに なるのだと おもう。

13

ひてい

じこいしき いっぱんを ほかと くべつ する とくちょうは、 じぶんに とって ある じぶんが じっさいに ある という こと である。
(12だんらく「この だんかいの じこいしきは、 じぶんを こべつてきな せいしんが じっさいに ある もの である として ほかと くべつ する。」 ここでは、 「こべつてきな せいしん」と 「じぶんに とって ある じぶん」という ありかたが くらべられている。)
じこいしきとは、 じぶんに とっての じぶん である。
(ここから びみょうな せつめいを していると おもう。
つまり、 じこいしきが じっさいに ある という ことが わかるのが、 せいしんに はいった この だんかいの じこいしきの とくちょう である。
たとえば、 りせい である かんさつする じこいしきは、 じぶんに とっての じぶんが じっさいに あるかは もんだいに ならなかった。
なぜなら、
りせい である かんさつする じこいしきの かくしんは、 じっさいに ある もの とは、 じぶんに とって ある もの である という かくしんであった。
りせい である かんさつする じこいしきに とって、 )
(じっさいに ある ものは、 じぶんに とって ある もの である という じこいしきの かんさつする りせいの さいしょの(?、じこいしき いっぱんの、 かもしれない) かくしんと、 じぶんに とっての じぶんは じっさいに ある という はなしは ちがう かもしれない。なぞ。 ここは、 この だんかいの じこいしきの はなしを しているのか、 じこいしき いっぱんの はなしを しているのか わかっていない。 いままでの かきかたなら、 この だんかいの じこいしきの はなしを していると おもう。)

(この だんかいの? いっぱんの?)じこいしきは、 ほかの ものを ひていする こと である。
じぶんに とっての じぶんという かんがえかたが でてくるには、 「じぶんでは ない ほかの もの」ではない じぶんと かんがえる ひつようが ある ので、ほかの ものを ひていする こと である。(いっぱんの じこいしきの せつめい である きがする。しかし、 へーげるは ふつう、 この だんかいの という いみで はなしを する きがする。)

こうてい

ここからは、 くまのやくと、 じぶんの もっている やくが かなり ちがうので、 ふたつの よみかたを かく。
1. くまのやく
この だんかいの (じこ)いしきに とって、ほかの ものは ひていする もの であり、 じこいしきは こうていされる もの である。
この ひていされる ほかの ものは、 たしかに (われわれに とっては )あるが、 この だんかいの じこいしきに とっては そくじてき、 じたいてき、 それに おいて ある もの では ない。
つまり ほかの ものは、 この だんかいの じこいしきに とっては、 じこいしきが なければ ない もの として ある。
かんねんろんてき じこいしき ならば、ほかの ものは じこいしきの かんねん として しか なく、 ものじたいは それに おいて ある もの では ない という ことだ。

2. じぶんの もっている やく
(この だんかいの? いっぱんの?→ おそらく この だんかいの)じこいしきが、 この だんかいの (じこ)いしきに とっては、 われわれに とってとは ちがって、 ひていでは ない こうていである。
(「じぶんの いしきに おいて」という ひょうげんは まえに でてきた だろうか? じぶんに とって、 たいじてき とは ちがう はなし であろうか? おそらく ちがう。 これは、 「われわれに とって」と、 「この だんかいの いしきに とって」を くらべる ひょうげん だろう。)

なぜなら、 この だんかいの (じこ)いしきに とっては、じっさいには (われわれに とっては) あるが、 じこいしきに とっては それに おいては ない という ような ものが こうてい では ない ひてい だから である。
じこいしきは じこいしきに とって それに おいても ある もの である から、 こうてい である。
いみ わからない。
しかし、 いちの くまのやくと おなじ ことを いっている かもしれない。

げんじつと もくてき

この だんかいの (じこ)いしきは、 げんじつでも あり、 もくてきでも ある。
げんじつが ほかの もの であり、 ひていされて、 もくてきが たっせいされる。
たとえば、 たべもの という げんじつを たべて、 なくす ことで ひていして、 いきのびる という もくてきが たっせいされる。
また、 ゆか という げんじつを ねどこに かえる ことで、 ひていし、 ねて いきのびる という もくてきが たっせいされる。
まわりの もの という げんじつを ひていする ことで、 じぶんを つづけさせる という もくてきを げんじつに する。
そして、 じぶんを げんじつに する。

もくてきの うつりかわり

こうどうする りせいの もくてきは かわっていく。

CVBa ちょくせつてきで ちゅうしょうてきに じぶんに とって ある ことが さいしょの もくてき である。

つまり、 その ような もの として あり つづける ように する。
その ためには、ほかの じこいしきに とって、 じぶんが じぶん でしか ない この こべつの もの として あると ちょくせつ わかる ことが ひつよう である。
じぶん でしか ない この こべつの もの という のは、 たとえば、 じぶんは じぶん という ありかた しか しらない という ことが かんがえられていると おもう。
じぶんは ほかの もの として あった ことは ない。
じぶんで ある かぎり じぶん である。
たとえば、 めで みる ことを かんがえると、 じぶんは じぶん から みた けしきしか しらない のである。
じぶんは ほかの ものが どう みているのかは たいけん できない。
いままで この じぶんの ところから しか みた ことが ない こと、 これからも じぶんの ところから しか みえない。
そして、 それにも かかわらず、 ほかの ものも じぶんと おなじように じぶんの ところ から しか みれない という ことが わかっている。
この はなしが 「じぶんを「この個別的なもの」として他のもののうちに直観すること」(556ぺーじ)を あらわす ひゆに なる と おもう。
もっと かんたんに いえば、 じぶんが ほかの ものの なかまだと わかる こと、 ほかの ものが じぶんの ような ありかたを していると わかる こと である。
この ちょくせつてきで ちゅうしょうてきに じぶんに とって ある こと という もくてきの、 ただしい という いみでの しんりを けいけんすると つぎの だんかいに うつる。
ここでの ただしい という いみでの しんりは、 ほかの ものが じぶんの ような ありかたを していると わかる こと だろうか?おそらく そうだろう。
へーげるの べんしょうほうでは、 ただしい という いみでの しんりが、 だんかいに よって かわる ことに ちゅうい する ひつようが ある。

CVBb こべつてき である だけでなく、 ふへんてき である じぶんが つぎの もくてき である。

ふへんてき である から、 ほうそくが ある。
つまり、 この じょうけん では こういう けっかに なる という ほうそくが ある。
この ような ほうそくは すべてに あてはまる ので、 ふへんてき である。
しかし、 この ほうそくを ちょくせつてきに もっている だけ である。
つまり、 ほうそくは ただ ある だけで、 この だんかいの じこいしきは ほうそくを それ いがいの ものと くべつして りかいできていない。
おそらく あとで かんせつてきに ほうそくを もつ ことに なる。
つまり、 それ いがいの ものと くべつ して、 りかい する ことに なると おもう。

この ほうそくとは、 こころ(Herz)の ほうそく である。
こころの ほうそくに したがう ときに、 この だんかいの じこいしきは、 よい ことを する には、 じぶんの こべつてきな ありかたが なくなる ことを けいけんする。
おそらく、じぶんの こべつてきな ありかたが なくなる とは、 よい ことは ひとつに ふへんてきに きまっている ために、 よい ことを する には、 じぶんが ほかの ものと ちがって ある ことが、 こべつてきで ある ことが できなく なる という はなしに なると よそうする。
かんとの どうとくの ていげんめいほう、つまり どんな ばあいでも まもる べき ことは、 あなたの もくてきと ふるまいと おなじ かんけいを みんなが もっていても こまらないように する べき である という ことを かんがえると そうぞうしやすいと おもった。(かくりつを もくてきと ふるまいの かんけいと いいかえてみたが、 まちがっている きがする。)

CVBcすでに じつげんされている とく

この だんかいの じこいしきは とく(徳)に なる。
は?
とく(徳) という ことばが わからない。
そんとくの とく(得)では ない。
あれてー なら、 すぐれた ものに なる という いみか、 じぶんの できる ことを ちゃんと する という ぐらいの いみか。
しかし、 この 「とく」は つみかさなる みたいだ。
ますます わからない。

やった という こと その ことで しあわせに なる。
やった ことに ちょくせつ しあわせが ある。
かんせつてきに しあわせが ある わけ では ない。
したがって、 おそらく のちに かんせつてきに しあわせが わかる ときが くる かもしれない。
やった けっかで しあわせに なる のではない。
おそらく ぎむを やる ことが しあわせ である という かんがえかた である。
しあわせは かんじょう という より、 よく ある という こと かもしれない。
やった という こと その ことが よい こと である。

CVBabcの がいねん、 おそらく もくてきは、 せいしんが じぶんに とって ある とは、 もの である という こと である という こと である。

なぞ。
もの であるは、 ずがいろん、こっそうろんの むげんはんだん、 せいしんは ものである という はなし かもしれない。
なぞ。

CVCちょくせつてきに あらわす こたいせい
この だんかいの じこいしきに とって、 この だんかいの じこしきは、 じぶんを ちょくせつてきに あらわす こたいせい であり、 じっさいに ある もの である。
あらわすは、 「言明する」(557ぺーじ)と なっている。
おそらく これは、 かおの はなしの ときに でてきた ことば ではない だろうか?
わからない。要調査。
じこいしき としての こたいせいは まえは、 げんじつせいを ひていする こうていで あった。
かんねんろん からの だっしゅつ。
この だんかいの じこいしき、こたいに とっては、 じぶんを ちょくせつてきに じっさいに ある もの として あらわす ことが たいしょうであり、 もくてきである。
あらわす ことが もんだいに なっている。
あらわす ことが じぶんで ある こと である。

a1

きもちよい ことと かならず おきる こと(ひつぜん である こと)

うつりかわり

いっぱんに じこいしきは、じこいしきが じぶんに とって じっさいに ある もの である という かんねんろんてきな かくしんが ある。
たいしょうも じぶんの なかに ある かんねん である。
この だんかいの じこいしきの たいしょうは、 じぶんに とって ある だけ である。
つまり、 わたしたちに とって じゅうぶんな いみで ある という だんかいに までは きていない。
この だんかいの じこいしきに とって、 われわれに とっての ある という ことは、 べつの げんじつ である。
(「そんざい」を わたしたちに とって ある という ことと かんがえて よんでいる。)
この だんかいの じこいしきは、 じぶんが じぶんに とって ある ことを 「かんぜんに実現する」(558ぺーじ)。
(かんぜんに じつげんする とは なんなのだろうか?)
そうして、 この だんかいの じこいしきは、 じぶんを じぶんに おいて ある ことを ちょくせつてきに わかる ことに なる。
(これは、 どの ぶぶんを いっているの だろうか? とくと よのなか?)

「個別的な実在〔るび:ヴェーゼン〕としてのじぶんを他の自己意識のうちで意識するようになることなのだ。ことばをかえれば、この他のものをじぶん自身としようとすることである。」(558ぺーじ)
この はなしは、 13だんらくの もくてきの うつりかわりで かいた。いんようする。

その ためには、ほかの じこいしきに とって、 じぶんが じぶん でしか ない この こべつの もの として あると ちょくせつ わかる ことが ひつよう である。
じぶん でしか ない この こべつの もの という のは、 たとえば、 じぶんは じぶん という ありかた しか しらない という ことが かんがえられていると おもう。
じぶんは ほかの もの として あった ことは ない。
じぶんで ある かぎり じぶん である。
たとえば、 めで みる ことを かんがえると、 じぶんは じぶん から みた けしきしか しらない のである。
じぶんは ほかの ものが どう みているのかは たいけん できない。
いままで この じぶんの ところから しか みた ことが ない こと、 これからも じぶんの ところから しか みえない。
そして、 それにも かかわらず、 ほかの ものも じぶんと おなじように じぶんの ところ から しか みれない という ことが わかっている。
この はなしが 「じぶんを「この個別的なもの」として他のもののうちに直観すること」(556ぺーじ)を あらわす ひゆに なる と おもう。
もっと かんたんに いえば、 じぶんが ほかの ものの なかまだと わかる こと、 ほかの ものが じぶんの ような ありかたを していると わかる こと である。

この だんかいの じこいしきは、 ほかの ものが それに おいては じぶん であると かくしんしている。
ほかの ものは それに とって あるかは もんだいに なっていない。
しかし、 この だんかいの じこいしきに とって、 ほかの ものは かんねん である ため、 じぶん じしんの いちぶ である。
この かくしんは、 じぶんに とって ある ものが じっさいに ある という じこいしきの きほんの かくしんの かたちを かえた もの である。
(しかし、 それに とって、 en sich という ひょうげんを 「せんざいてきに」と よむ ならば、 すでに ほかの ものも じぶんと おなじように じぶんに とって ある という ことを かくしんしていて、 けいけんで その かくしんが ただしい という いみでの しんり まで たかめられる という はなしにも よめる。)

「自己意識は人倫的実体から、また思考することの静謐な存在から、みずからの対自的存在〔「対自的存在」を きょうちょうしている。〕へと高められている。」(558ぺーじ)
まず、 じんりんてき じったいは、 しゅうぞく、 きまりごと であった。
そして、かんがえる ことの ゆるがなく ある ことは、 かんさつで わかる うごかない ちしき だろう。
この だんかいの じこいしきは、 じぶんに とって ある という ありかたに たかめられる。
もしかしたら、 ぶんれつする じこいしき、 かんさつする りせい、 こうどうする りせいの ながれ かもしれない。
おそらく、 この じぶんに とって ある という ありかたが せいしんの ありかた なのだろうか?

ここで ひていされるのは、 まず しゅうぞく である。
つぎに、せいぞん(だーざいん)の おきて。(だーざいんは へーげんの なかでも いろんな いみが あって ほんとうに なぞ。)
さらに、 かんさつの ちしきと かんさつの りろん である。
かんさつの ちしきは ぶんるい された かんさつの けっか だろう。
かんさつの りろんは かんさつの けっかから ほうそくを みいだそうと する こと だろう。
げーては りろんを はいいろと いっている から、 その ひょうげんを かんがえて へーげるも 「はいいろの かげ」と かいたのかもしれない。
どういう いみかは わからない。 要調査。

ひていされた ちしきは、 じこいしきの げんじつ ではない、 べつの げんじつに かんけいしている。
この べつの げんじつは、「この だんかいの じこいしきに とって、 われわれに とっての ある という ことは、 べつの げんじつ である。」(a1 うつちかわり)に おける べつの げんじつ だろうか。
じこいしきから じぶんに とって ある という ことに かわっていくと かんがえれば、 つぎの だんかいの いしき、じこいしき、せいしんに とっての げんじつ という いみ かもしれない。

せいれいと ちれい(地霊)

さらに よく わからない たとえの はなしに なってくる。
「天上に輝ける聖霊が、知と行為の普遍性にかかわって、個別性の感受と享受とを沈黙させるのではない。それにかわって、地霊が自己意識のうちへと入りこんできたのだ。地霊にとってはただ存在だけが、しかも個別的な意識にとって現実である存在のみが、真の現実として妥当しているのである。」

しる ことの ふへんせいは かんさつに、 おこないの ふへんせいは しゅうぞくや おきてに かかわると おもわれる。
こべつせいが なくなる りゆうは、 なんか うえからの ものが きた から ではない。
こべつせいが なくなり、 こべつの じぶんに とって ある という べつの げんじつが もんだいに なる。
その りゆうは なんか したからの ものが きた からだ。
したからの ものは あくまであり、 ぼつらく していく。

a2

いきる

この だんかいの じこいしきが ぼつらく していっった さきは せいめい、 いきる こと である。
いきている もの として じゅんすいな こたいに この だんかいの じこいしきは なる。(どの だんかい だ?)
この だんかいの じこいしきは、じゅんすいな こたいという ありかたを かんせいさせようとする。(どの だんかい だ?)
(こたい という ありかたの かんせい とは なんだ?)
この だんかいの じこいしきは、 しあわせを じぶんで つくるのではなく、 うけとる。
は?

ちえ

(かんさつする)がくもんや (みえないものを みようとする)ほうそくや (ばあいに おうじて する ことを めいじる)げんそくは、この だんかいの じこいしきと、 じこいしきに とっての げんじつを ひきさいている。
しかし、 この ひきさいてる ちえの ありかたは、 しょせんは かげに すぎない。(「ちえ」という ことばは、 へーげるは つかっていない。 かってに かんがえた。)
かげは いきていないので、 きりの ように かききえる。
じこいしきに とって ある ものが じっさいに ある という じこいしきの かくしんに よって、 かげ、きりである ちえは きえさり、 じこいしきと じこいしきの げんじつが きりさかれなくなる。
じこいしきは、 いきる という ありかたを てにいれる。
なぞの うれた かじつの ひゆ。

a3

よくぼう

「自己意識の行為は、ひとえにひとつの契機にしたがい、欲望〔「欲望」を きょうちょうしている。〕にとって一箇の行為となる。」(559ぺーじ)
たいしょうが ある という ことを ひていするの ではなく、 たいしょうが ほかの もの である という ことを ひていして、 たいしょうを じぶんの ものに する。
たとえば、 たべる ことは、 たべものが ない という ように する のではなく、 たべものを じぶんの ものに する という いみで、 たいしょうを ひていする。
たいしょうが それに おいて ある という ことを ひていし、 じぶんに たいして ある という ありかたに かえる。
じっさい、 たいしょうが それに おいて ある というのは、 けいしきに すぎない。
じっさいに たいしょうが それに おいて ある という ことは ない。
たいしょうが それに おいて ある というのは、 かりそめの すがた である。
なぜなら、 たいしょうは じぶんに とって ある から である。
つまり、 たいしょうは この だんかいの じこいしきに とっては、 それに おいて じぶんと おなじ もの である。
すなわち、 たいしょうは じこいしきの かんねんである という ことだ。
「ひとつの境位にあって、欲望とその対象がたがいに没交渉的に、自立して存立しているとすれば、その境位とは生きてそこに存在すること〔「生きてそこに存在すること」を きょうちょうしている。〕(des lebendig Dasein)である。」(560ぺーじ)
なぞ。なぞのなぞ。
境位は えれめんとの やくに つかわれる ことばである。
よくぼうと よくぼうの たいしょうが かかわりなく、 それに おいて ある という ことは ありえるのか?
そして、 「存立」という ことば である。
そんりつは、 くべつに もとづいて そんざいする まえに くべつも なく そざいが ある という こと である。
なぜ それは いきる ことと かんけいしているのか わからない。

「欲望が享受をはたすとき、この現にあるもの〔るび:ダーザイン〕は、それは欲望の対象に帰属するかぎりで廃棄される。」(560ぺーじ)
よくぼうが はたされると、 つまり たべられると、 よくぼうの たいしょうは そこに ある という ありかたを ひていされる。
たべられると なくなってしまう からだ。

いきてそこにある

いきて そこに ある という えれめんとに よって、 よくぼうである じこいしきと たいしょうの それぞれに べつの げんじつに なる。
この とき、 いきて そこに ある という えれめんとは かてごりー である。
えれめんととは ものの もとの そざい である。
かてごりーは、 ありかたの ぶんるい である。
ありすとてれすでは、 こだい ぎりしあごに したがって、 ありかたの ぶんるいが かんがえられた。
かんとは、 この ありかたの ぶんるいは、 ものに ある のではなく、 にんしきしている わたしに あると かんがえた。
へーげるは、 この ありかたの ぶんるい である かてごりーは、ある ことと わかる ことの あいだを むすび、 くべつを つくる なにか として かんがえた。(まちがっている きがする。)
いきて そこに ある という そざいは、 よくぼう として わかる ことと、 たいしょう として ある ことを つなぐ なにか である ので、 かてごりー である。
いきて そこに ある というのは、 ひょうしょう されて ある という こと である。
ひょうしょう?!
ひょうしょうする とは、 なにかで なにかの かわりと する こと である。
かてごりーと ひょうしょうの かんけいが わからない。
かんとでは、 ひょうしょうは、 たいしょうの ありかた である。
ものじたいは わたしには あらわれない。
ひょうしょう、 たいしょうを あらわす かわりの もの として わたしに けいけんされる。
この ひょうしょうの ちつじょが かてごりー である。
だから、 かてごりーは ひょうしょうされて ある という こと なのだと おもう。

わからない。 きもちよさ?

うわー わからない。
いんようだけ しておく。
「それゆえ自立性の意識〔「意識」を きょうちょうしている。〕こそが――その意識が自然的な意識であろうと、法則〔るび:ゲゼッツ〕の体系まで形成された意識であろうと――、諸個人をそれぞれ自立的〔るび:ヒュール・ジッヒ〕なものとして支えていることになる。」(560ぺーじ)
なにが 「それゆえ」 なのか?
「じりつせいの いしき」?
自立的は、 für sich、 じぶんに とって なの?
じぶん だけで?
まえに あんじっひを じりつてきと やくしてなかった?うん?きのせい?
なぞ。要調査。
きょうちょうが いしきに かかっている から、いきて そこに ある という ことが ひょうしょうされる ことが もんだいで、 つまり いしき される ことが もんだいに なっている こお だけは わかる。

じこいしきと たいしょうの ぶんりは、 この だんかいの じこいしきに とって ない。
はあ?⤵
なぜなら、 ほかの じこいしきは じぶんの じぶんと おなじ である から。
はあ?⤴
こうして、 この だんかいの じこいしきは、 きもちよくなる。
ほえ?!
なぞ。
じぶんに おいて ある(自立的) ほかの いしきに じぶんが じつげんされていると しるか ほかの いしきと じぶんの いしきが ひとつ であると ちょくせつてきに しると きもちよくなる。
らかんの きょうぞうだんかいろんは ここから きているのか!

こべつから ふへんへ

この だんかいの じこいしきの もくてきは、 「ちょくせつてきで ちゅうしょうてきに じぶんに とって ある こと」である。
この ように きもちよくなると、 もくてきを たっせいする。
そして、 じぶんの ただしい という いみでの しんり、 つまり しんなる ありかたを けいけんする。
この だんかいの じこいしきは、 じぶんを こべつてきな もの だとも わかっている。
つまり、 じぶんに とって ある という ありかたを している こいつ、 この、 こべつの もの である。
ここ から しか なにも わからないような ここ、 なぜか いつも つきまとっている こいつ、 じぶん という こべつの もの である。
この 「この」という ことばの いみは かくのが むずかしい。
ながいひとしを さんこうに している。
もくてきが たっせいされると、 もくてきが ひていされる。
もくてきの ありかた、 「ちょくせつてきで ちゅうしょうてきに じぶんに とって ある こと」が おわる。
なぜなら、この だんかいの じこいしきに とって、 じぶんは すでに こいつ としての こべつてきな たいしょうではなく、 ほかの じこいしきと ひとつで ある という いみでの たいしょうに なる からだ。
ほかの ものも こいつと おなじく、 こいつ なのだ。いや、 こいつ じゃないの だけど。
(そして、 ながいひとしなら、 こいつと いっている じてんで、 すでに こいつは ほかのものと ならべられていたと いうのだろう。)
こべつてきなものは ひていされ、 ふへんてきなもの となっている。

a4

きもちいい ことの いみ

きもちいい ことの こうていてきな いみは、 じぶんが たいしょう としての じこいしきに なった という こと である。
ここでの 「こうていてきな」という たんごは、 ふつうの いみでの こうていてきな ではない。
ふつうは、 こうていてきな というと、 だれかに とって よい こと という いみである。
しかし ここでは、なにかは なにかである という こうてい・はんだんの ような もの という いみである。
つまり、 なにか ではない という ひていが ふくまれていない という こと である。(この せつめいでは、 むげんはんだんを とりのぞけていないので、 ただしくはない。)
きもちいいときに、 じぶんは じぶんに とって たいしょう として いしきされる。
なぜなら、 きもちいいと かんじているのは じぶん である から だろうか? わからない。

きもちいい ことの ひていてきな いみは、 じぶんじしんを ひていしている という こと である。
なぜなら、 じぶんじしんは じぶん ではなく、 ほかの もの である から だ。

むじゅん

「むじゅん」の けいけん
この だんかいの じこいしきは、 ほかの ものの なかに こべつの もの として じつげんする という かたちで げんじつに なるが、 どうじに それは じぶんが じぶんでは じつげんしない という いみで、 ほかの ものが じぶんを ひていする こと である。
この ほかの ものは、 じぶんの げんじつ とは ちがう げんじつ である。
じぶんの げんじつと たいりつする ほかの ものの げんじつは、 「むなしく対立していながら、それでも自己意識を喰いつくす威力となっている」(561ぺーじ)、
「むなしく」 というのは、 おそらく たいりつ しきれない という いみだろう。
いんぐらんどごで そのような ことばの つかいかたが あった ような きがする。
いりょくは わからない。
この ほかの ものは、それに おいて ある この だんかいの じこいしきの こたいの がいねん である。
がいねんは もくてき であり、 くべつ であり、 ひていする もの であり、 それに なる もの である。(びみょうな せつめいかもしれない。)

まだまだだね

この だんかいの こたいは じぶんんを じつげんする せいしん としては まだまだだね。(『てにすの おうじさま』という さくひんの しゅじんこう、 えちぜん りょーまの くちぐせが 「まだまだだね」で あるのを おもいだした という いじょうの いみは ない。)
まだ、 この だんかいの じこいしきは、 りせいの ちゅうしょうに すぎない。
じぶんに とって ある ことと じぶんに おいて ある ことが ちょくせつ ひとつ であるに すぎない からだ。
(おそらく、 この あと、 かんせつてきに ひとつ である ことに たどりつく。)
このだんかいの こたいの ありかたは、 ちゅうしょうてきな かてごりー である。

かんさつする りせい

かんさつするする りせいに とっての かてごりーは ちゅうしょうてきに ある という こと であった。
そして、かんさつする りせいが かてごりーを じぶんの もの ではないと おもった とき、 つまり じぶん ではなく せかいに かてごりーが あると おもっていた ときは、 かてごりーは いっぱんに もので ある ことと かんがえられていた。
かんさつする りせいに とって、 かてごりーは ちょくせつてきに ひとつとして ある という けいしきを もっていた。

まる

こうどうする りせい という この だんかいの じこいしきに とって、 もので ある こと としての かてごりーに、 つなぐもの としての ばいかいが はいってくる。
この だんかいの じこいしきに とって、じぶんに とって ある という ありかたが かてごりーに はいってくる。
そして、 かてごりーは まるに なる。
じぶんに とって ある こと、じぶんに おいて ある こと、じぶんに とって ある こと という ように まるを えがいていく。
「その円環の内容においては、単純に本質的なありかた〔るび:ヴェーゼンハイト〕をともなったもののあいだで、純粋な関係が展開されているのである。」(562ぺーじ)
なぞ。わからない。ないよう?じゅんすいな かんけい?
この だんかいの こたいが げんじつに なる とは、 ちゅうしょうの まるが ひとつの じこいしき、つまり じぶん から、 じぶんに とって ある という えれめんと、そざい、 ばしょへと ひろがっていく こと である。
すると、 この だんかいの じこいしきは たいしょうに なる。
(この だんかいの じこいしきと この だんかいの こたいは おなじ いみで かいている。 この あたりでは、 へーげるは こたいという ことばを だんかいを しめす ために つかっている と おもう。)
(えれめんとが まだ びみょうに わかってない。要調査)

きもちよさと かならず おきる

きもちよく なると、 じゅんすいな ひとつや じゅんすいな くべつ、それらの かんけい、 つまり 「空虚な本質的なありかたのひろがり」(563ぺーじ)(?)、 が たいしょうに なる。
これが ないようだ。
こたいは この たいしょうが じっさいに ある ものだと おもう。
この たいしょうが、 かならず おきる という ありかた、 ひつぜんで ある こと、 ひつぜんせい、うんめいである。
からなず おきる という ありかた、 うんめいの ほうそくを いえない。
かならず おきる ことは なにで あるか いえない。
かならず おきる ことは これ である とは いえない。

ぜんたいの よみかた

へーげるの どいつごの げんぶんの たいとるは
Die Lust und die Notwendigkeit
である。
Die Lustは せいてきな いみでの よくぼう という いみも ある。
しかし、こだいぎりしあごで ἡδονή (hēdonḗ) である。
どいつごで Freude, Vergnügen, Lust, Genuss, sinnliche Begierde‘である。(https://de.wikipedia.org/wiki/Hedonismus
しかし、へーどねーは せいてきな かいらくや よくぼうとは かぎらない。
とくに えぴくろすに とっての かいらく、 へーどねーは、 おだやかな こころもちの こと である。
くるしみと おそれが ない ことが かいらく である。
そして、 えぴくろすに とって かならず おきる という ことは ない。 すべて ぐうぜんに よって おこっていると かんがえる。(たぶん。 さらに ぐうぜん こそが ひつぜんである と かんがえる ことも できる から、 そこまで かんたん ではない。)
ここの ぶぶんは、 たしかに げーての ふぁうすとの ことを かんがえて きんだいの せいてきな ありかたを かんがえているとも よめる。
しかし、こだいぎりしあの えぴくろすはと ひつぜんを しんじた すとあはの たいりつを あらわしているとも よめると おもう。

うんめい

うんめいは うごかない ものと かんがえられる。
うんどうの はんたい としての そんざい として うんめいは かんがえられる。
そして、 うんめいは ちょくせつ わかる だけで、 かんせつ てきに わかる ことは ない。
なぜなら、 うんめいは じぶんに おきた ことしか わからない から だ。
うんめいは ぜったいてきで じゅんすいな がいねん である。(というのは よく わからない。
ここでの がいねんは うごく がいねん、せいめい なのだろうか? それとも じゅんすいな がいねん という だけ あって、 がいねんの ひとつに する ほう だけを かんがえている かもしれない。)
うんめいは ひとつ である。
なぜなら、それ しか おこらない ことを うんめいと いう から。
うんめいは からっぽ である。
どんな ことが おこっても、 おこらなくても すべて うんめいに なる ので、 ないようが ない よう だから である。(ないようが ない よう という だじゃれ いじょうの いみは ない。)
うんめいを とめられない。
とめられて、 じつげんしない ことは うんめいとは いわない。
うんめいを さまたげられない。
さまたげられるなら うんめいではない。
うんめいは かんけい である。
これが おこったら、 かならず これが おこる という かんけいが うんめい である。
できごと そのものが ぐうぜん おこった とか、 ないようが どう である とかが かんけい ないのが うんめいである。
うんめいの けっかは、 こべつせいが ない という こと だけ である。
どんな ものも けっきょく うんめいに したがう ことに なる。
うんめい という ふへん から のがれて こべつに なる もの は ない。
うんめいは りゅうどうてきではない、 こていてきな かんけい である。
うんめいに おいて かんけいしあっているのが、 じゅんすいに そうである ありかた(ほんしつ)や くうきょな ちゅうしょう だから、 こていてき である。
うんめいでは、 いきいきとした ないようや ぐたいせいや こべつせいや じっさいの ありかたは むしされて、 ほんしつが ちゅうしょうされて いきいきと していない くうきょな ものが だいじに される。
ひとつ、 わける、あわせる というのは、 かてごりー である。
つまり、 しゅかんと きゃっかんの あわさる ところであり、 ひとつは ひとつではない ことと わかれて、 あわさり ひとつに なる という ながれに なる。
ひとつが わかれて ひとつに あわさるのが かてごりー、せいめい である。
ひとつ、わける、あわせる という かてごりーは むかんけいに なる ことは ぜったいてきに ありえない。
ひとつは わけられ、 わけたら あわさり、 あわさると ひとつに なる。
この ように ひとつ、 わける、 あわさるが あわさっているのは、 ひとつを わけて あわせる という うごく がいねんが げんいんである。
ひとつ、わける、あわさる という のは じゅんすいな がいねん である。
おそらく、 じゅんすいな がいねんは ひとつに する ほうしか しない。 わける ほうが たりない。
ぐたいてきな ものを ちゅうしょうてきに がいねんとして あらわすときに ひとつ、 わける、 あわせる という がいねんを つかう。
この ひとつと わけると あわせるの あいだの ひとつに する がいねんの かわらない かんけいと、 ぐたいを ちゅうしょうに する という ほうこうのみの うんどうが、 ひつぜんせい、 かならず おきる という こと である。
(ちゅうしょうしまくれば、 かならず おきると かんがえられる。たとえば、 じぶんが ころぶ ことも、 あそこで なにかが ねむる ことも、 どちらも なにかの おこない だ。なにかの おこないは からなず おこる。 ずるい。)
こべつの こたいの ないようは、 りせいの じゅんすいな がいねん、 つまり りせいの まとめる ほうの うごき だけの がいねんに なっている。 しかし、 りせいの がいねん、 わける ほうは まだ できていない。けいしきは まだ りせいの ままだ。 せいしん という けいしきに なっていない。
しんだ かんさつ する りろん から、 かならず おこる という ちゅうしょう しまくった しんだ げんじつに いく だけ である。 せいめい という りゅうどうてきな うごきに いく のではない。
かならず おきる という ことは、 なにも ないようが なく、 じぶんらしい もの ではない。

5

いち という けいしき から ふへんに いく。

いままでは、 じぶん という こべつの ものが もんだいに なっていて、 けいしきに おいては ひとつが もんだいに なっていた。まだ けいしきに おいては わかれていない ひとつだ。(ないようは うごいている。)
これからは、 ひつぜん という ふへんが もんだいに なる。ちゅうしょう しまくった うごかない ひとつだ。 わけられた ものを ひとつに する だけで、 また わけられる ことが ない ような ふへん である。 ぐたいを まとめた だけの ふへんで あって、 ぐたいに かえっていく ふへん ではない。

いち という ぜったいてきな ちゅうしょう から、 ふへん という べつの ぜったいてきな ちゅうしょうに かわる。
ほかの ものと いっしょに やる ことが ない、 じゅんすいに じぶんに たいする という ありかた だった。
つまり、 ほかの ものは じぶんに たいする だけ である という じゅんすいな、 ふくざつではない、 ちょくせつの ありかた だった。
そして、 その じぶんに たいする ありかたは もくてきが あった。 じぶんに たいする ありかたを つづける という もくてきが あった。この もくてきに むけて じゆうに うごく ことが りせいの ありかた だった。
しかし、 もくてきとは はんたいに、 けっかとして、じぶんに おいて ある という ありかたを する ことに なる。
つまり、 かならず おきる ように ふへんてきに、 ちゅうしょう された、 じぶんに かんけいする ことなく、 ただ ある、 じぶんに おいて ある という ありかたに なる。
もくてきと ただ たいりつ している だけの けっかが うまれる。もくてきと ひとつに なる けっかではなく、 じゅんすいな たいりつぶつに なる。

ぼつらく

たんに おちているのである。
こべつの ありかたも こていてき だったが、 げんじつも こていてき だった。 こべつの ありかたが げんじつに やられて、 こべつの ありかたは きえて、 げんじつの こていてき ありかたに かいしゅうされる。
そして、 この ように おちている ことは、われわれに とって ある だけではなくて、 この だんかいの じこいしきに とっても ある。
なぜなら、 いしきは じぶんではない ものを じぶんと ひとつに する こと であり、 じぶんに とって じぶんではないものが ある という ありかたを している から である。
つまり、 ひつぜんせい という じぶんではないものを じぶんの もの として、 わかり、 おちていっていると わかっているのだ。
もくててきは、 こたいに とって ある ように なる こと だったが、 もくてきが たっせいされると、 こたいに とって ではなく、 その ものに おいて ある ように なってしまっている。
こたいに とって ある ように なる こととは、 つまり、 ちょくせつてきに ほかの ものに じぶんに とって じぶんが ある ことで きもちよく なる ことであり、 もくてき だった。
しかし、 いざ やってみると、 こたいに とってではなく、 その ものに おいて、 じぶんと かんけいする こと なしに、 ふへんてきに ある という けっかに なっている。
ここに この だんかいの じこいしきに とっても、むじゅんが ある。

だじゃれ

sein Leben sich genommen zu haben
nehmenは うけとると うばいとるの ふたつの いみが ある。
「いきる という ことを とった」
ふへん として いきる ようにも なったし、こべつ として いきる という ありかたを じぶんから とりさった とも いえる。
いきる という せんたくし お とったら、 しんいきる という ありかた を じぶん から とってしまい、しぬ。

ここは、 ふぁうすとの はなしが もんだいに なっている らしい。
しかし、 ただ だじゃれを いいたい だけに よめる。
さらに、こだいぎりしあの においを かんじる。
しかし、えぴくろすの かいらくは、 がくもんを すてようと する ことは ない きがする。
きゅにこすはの かいらくは わからない。 要調査。

6

こころの ほうへ

きもちいいの もくてきは、 こじんが いきて、 ちょくせつてきに ある という ありかた だった。
しかし、 きもちいいを じつげんすると、 いきていない こていてきな うんめいという ひつぜんせい という ありかたに なっていた。
じぶんの ありかたが かわると たいしょうが かわる、 または たいしょうが かわると じぶんの ありかたが かわる という はなし である。
さいしょの もくてきでは、 ほかの ものが たいしょうで あった きもちいいの いしきが、 じぶんも ふくめた ふへんてきな かならず おこる という かんけいが たいしょうに なると こころの ほうの いしきに なる。
この ように かわる ことは、 なにかを ばいかいに して、 つまり なにかを はさんで いない ように、ちょくせつてきに かわったかに みえるが じっさいは ばいかいが ある。
その ばいかいは、 いきる という ことと かならず おこる という ことが おなじに なる ような ばいかいである。
この だんかいの じこいしきに とっては、 この ばいかいは きもちいい である。
きもちいいを じつげんすると、 こべつてきな いきる ありかたから、 ふへんてきで こていてきな かならず おきる という ありかたに なる。
きもちいいを はさむと、 こべつてきな いきる ありかたと、 ふへんてきで こていてきな かならず おきる という ありかたは おなじに なる。
こべつてきな いきる ありかたとは、 もくてきと おこない である。
いきつづける という もくてきと、 いきつづける という もくてきを げんじつに する おこない である。
ふへんてきで こていてきな かならず おきる という ありかたとは、 うんめい である。
よって、きもちいいを はさむと、 もくてきと おこないは、 うんめいと おなじに なる。

もくてきと おこない、たいする うんめい

つまり、 もくてきと おこないの なかに うんめいが あり、 うんめいの なかに もくてきと おこないが あると にんしきする。
じぶんが いきのこる という もくてきを もって おこなった ことにも、 かみの さだめた ひつぜんに よって きまった うんめいに したがって やったに すぎないと わかる。
じぶんの うんめいも、 じぶんが いきのこる という もくてきを もって おこなった ことに よって すすんだと わかる。
(ただし ここで いきのこる とは、 より ひろい いみである。 たんに からだを しなないように する だけ ではない。)
つまり、 きもちいいこと やっていたら、 からなず おこる ような やりかたに なっていた。 かならず おこる ことに あわせて やると きもちいい。
と かいたが、この ぶぶんは びみょうだ。
どいつごを いんようする。

das Bewusstsein also das eine Moment im andern erkennte, seinen Zweck und Tun in dem Schicksale, und sein Schicksal in seinem Zwecke und Tun, sein eigenes Wesen in dieser Notwendigkeit,
106
ぴーでぃーえふ、http://public-library.uk/ebooks/05/51.pdf

erkennen という どうしに せっくすする という いみが あって、 おどろいた。 おおくは、 にんしきするや いしきする という いみ。https://ja.wiktionary.org/wiki/erkennen#de
さいしょの ほうは、 seinenじぶんの もくてきと ふるまい、 demなんらかの うんめい という ならび である。
たいして、 つぎの ほうは、 seinじぶんの うんめい、 seiem じぶんの もくてきと ふるまい とおう ならび である。
うんめいが じぶんの うんめいか、 そうではない うんめいかで ちがいが ある。
そして、 「なになに in なになに」を みっつ ならべている だけ である。
ちょくせんてきな かんがえかたを すれば、 つぎの ような ずになる。

┏ ━ ━うんめい━━━━━ ━ ┓
┃┏ ━ もくてきと ふるまい┓ ┃
┃┃┏━━━━━━━━━┓┃┃
┃┃┃じぶんの うんめい ┃ ┃┃
┃┃┗━━━━━━━━━┛┃┃
┃┗━━━━━━━━━━━┛┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛


しかし、 へーげるは ちょくせんてきな かんがえかたは せず、 まるを かく。
さらに、たがいを たがいの なかに みとめる という かきかたを している(”das eine Moment im andern erkennte”)から、じっさいは、じぶんの うんめいと なんらかの うんめいは おなじで ふくみあっている。
ともかく、 じぶんが ある という ことは、 もくてき、 おこない、 じぶんの うんめいに よって ある という こと である。
この だんかいの じこいしきは、この じぶんが ある という ことが、 なんらかの うんめいの なかに あると わかっている。
しかし、 この なんらかの うんめいを わかっておらず、 なんらかの うんめいを かんせつてきに わかっている わけでも ない。
この なんらかの うんめいが ちょっと わかると こころの ほうの だんかいの じこいしきに なる のだろう。

ばいかいする ものが ばいかいされていない。

もくてきと おこないに たいして うんめいが あわさって ひとつに なっている。
この だんかいの じこいしきに とっては、あわさって ひとつに なっている ことは きもちいい だけである。
この きもちいいという ばいかいが ばいかいされる ことに なる。
まだ、 きもちいい という ばいかいは ばいかいされていない、 つまり ちょくせつてきである。
きもちいい というのは、 たんじゅんで こべつてきな かんじょうである。
かんせつてきで、ふくざつで ふへんてきな かんがえに なっていない。

たんなる じゃんぷ

きもちいいを じつげんする ことで、じぶんの もくてきを じつげんする という もんだいから、 じぶんの うんめいに まきこまれる という もんだいに かわった。
この だんかいの じこいしきに とっては、じぶんの うんめいは、 じぶんの しんなる ありかた である。
この だんかいの じこいしきに とっては、いままでは、もくてきを じつげんする ことが じぶんの ありかた だったが、 ふるまい、 きもちよく なる ことで、 じぶんの しんなる ありかたは、 じぶんの さけられない うんめい であると きがつく。
この だんかいの じこいしきに とっては、この ように かわる ことは、 はんたいの ものへ たんに ちょくせつ とびうつって、うつりかわったと かんじているに すぎない。(たんなる じゃんぷ)
しかし、 われわれに とっては、 らせんの いちぶを すこし のぼりながら まるの はんたいがわに いろいろな ばいかいを つうじて かんせつてきに うごいている。
きもちいいの じこいしきに とっては、かんじょうに おいては、 もくてきと、 もくてきの はんたいの かならず おこる うんめいは かんじょうで ひとつにされ、 おなじものには なっていない。
こころの ほうの じこいしきに とっては、 じゅんすいな じぶんに おいて、 もくてきと うんめいが ひとつに されて おなじものに なる。
じゅんすいな じぶん というのは、 この じぶん ではなく、 じぶん という こうぞうを もっている ものは すべて もている おなじ ふへんてきな こうぞう である。
そして、 じぶんは ふへんてきに かんがえる という こうぞうを もっている。
(こうぞう という ことばは あまり いみを かんがえずに つかってしまった。 びみょう。)
きもちいいの じこいしきは、 けいけんを つうじて、 もくてきは うんめいである という つぎの だんかいの じぶんの ありかた、 つまり しんなる ありかたが わかる ことに なる はず だった。
しかし、 きもちいいの じこいしきが こころの ほうの じこいしきに うつらず、 きもちいいの じこいしきの だんかいに とどまり つづければ、 この だんかいの じこいしきに とっての じぶんの ありかたは よく わからず、 この だんかいの じこいしきに とっては、なぞの ままに なる。
きもちいいの じこいしきに とっては、うんめいが じぶんの もの ではなく、 かみの もの、じぶんとは べつの ものの もの なので、この だんかいの きもちいいの じこいしきに とっては、 じぶんが おこなった ことも かみという ほかのものが おこなった ことに なってしまう。
すると、 この だんかいの きもちいいの じこいしきに とって、じぶんが じぶんに おいて なにで あるかは もんだいに ならなく なってしまう。
この だんかいの きもちいいの じこいしきに とって、じぶんは ちょくせつてきに ある わけではない から である。 ちょくせつてきに あるのは、 うんめい、かみ だけに なる。

けいしきの へんかでは ない

きもちいいの じこいしきから こころの ほうの じこいしきへ かわる ことは、 たんに けいしきが かわる という ことではない。
きもちいいの じこいしきに とっての ないようが、 こころの ほうの じこいしきに とっての だいじな ありかたに かわった という だけではない。
おなじ もくてきと おこないを している ことが、 きもちいいの じこいしきに とっては、 たんなる ぐたいてきな ないよう であったが、 こころの ほうの じこいしきに とっては、 なくてはならない だいじな ありかたに なった という だけではない。
どいつごを よまないと わからないや。

der Uebergang nicht eine blosse Formaenderung desselben Inhalts und Wesens, einmal vorgestellt als Inhalt und Wesen des Bewusstseins, das anderemal als Gegenstand oder angeschautes Wesen seiner selbst.
107
ぴーでぃーえふ、http://public-library.uk/ebooks/05/51.pdf

desselbenは おなじ という いみが ある。そして、 この かたちは おそらく どいつごの 2かく。 つまり、 「…の」という いみに なる。 https://www.harada.law.kyoto-u.ac.jp/hdg/15_dempron.html

「かくてここで移行はたんなる形式の変化が、同一の内容と本質のあいだでおこることではない。すなわち、一方では意識の内容と本質〔るび:ヴェーゼン〕として表象され、他方では対象として、いいかえればじぶん自身の直観された〔「直観された」を きょうちょうしている。〕本質として表象されたもののあいだで生起しているのではない。」
くまのやく、566ぺーじ

やばい、どいつごの いみが わからない。要調査。
nichtは ひていの いみ だけだと おもっていた けど、 ここでは、 「おきない」という いみを もっている ように やくされている。
しょうりゃくされているのだろうか?いや、 vorstellen(いみする、まえにだす、ひょうしょうする)が どうしだ。かこぶんしに なって、 vorgestelletに なっている。 うん? そう やくされていない。
しかも、どうしと かんがえて、かんりょうけいで かんがえたいなら、habenが ある はず。 ない。しょうりゃくできるのか?できなそう。おとなしく かこぶんしの けいようしてき つかいかたと かんがえるのが ぶなんだ。

そして、Formaenderungは、 Formかたちと、Änderungへんかを あわせた ことばである。aeはÄの かわり。
「Änderung+ にかくの めいし und にかくの めいし」 という かたちは さがせなかった。
しかし、 なになにと なになにの 「あいだの」へんかと やくす りゆうは わからない。
いみから して、 「おなじ ないようと ありかたの けいしきてき へんか」 という やくが いい かもしれないと おもった。
どいつごが できるかたを およびしたい。
で、 「おなじ」とは、 なにと なにが おなじかと いうと、 きもちいい じこいしきの ないようと、 じぶんが ある という ことと、 こころの ほうの じこいしきの ないようと ある という ことが それぞれ おなじ であると いっているの だと おもう。ちょうど ふくすうけいである(Inhalts und Wesens)。
「ないようや ありかたは かわらない けれど、 けいしきだけ かわった。」 なんてことではないと いいたいの だと おもう。
さいしょ、つまり きもちいい じこいしきに とっては、 じぶんは、いしきの ないようであり、 いしきとして ある こと である として ひょうしょうされた。
しかし、 つぎの だんかい、 つまりきもちいい じこいしきの もくてきが げんじつに なった としたら、 じぶんは、ちょっかんされた じぶん じしんとして ある という こと、 または たいしょう として ひょうしょうされる はず だが、 じっさいは もくてきが げんじつに なると もくてきとは ちがう ありかたを してしまう ので、 こんな ことは おきない。
ここで、 「じぶん じしんの」 という とき、 じぶんに おいて ある という ありかたが かんがえられていて、 しかし、 じぶん じしんに おいて ある という ありかたは ちょくせつ しられた ものに すぎなくて、 ほかの ものの なかに ある じぶん という ありかたで、 じぶんは たいしょうに なると もくてきでは かんがえられるが げんじつに なる ことは ない。

いりょく! ばーん!

(「ばーん」は ぎおんごで、 ばくはつの ようすを あらわす。 いりょくが ある こうげきの しょうちょうは ばくはつであり、 ばくはつの おとは 「ばーん」と かかれる こと から、ばーんと かいた。 )
ちゅうしょうてきな ひつぜんせいは、 いりょく である。
いりょくは、 ちから という こと だが、 ごせいで とらえられる ちからとは べつの ことば だと おもわれる。
ひつぜんせいが いりょく であるのは、 かならず おこる というのは、 おこらないように しようとしても、 むりやり ちからで、 つまり いりょくで おこさせられる から である。
ここで ちゅうしょうてきな ひつぜんせいが もんだいに なるのは、 まだ かんせつてきに ぐたいと かかわる ひつぜんせいが もんだいに なっておらず、 ある こじんの できごとから とりだしたにすぎない ひつぜんせいが もんだいに なっている からだ。
きょうちょうが ちゅうしょうてきに はいっているが、 もしかしたら へーげるは きょうちょうを いれる ときは、まいなすな いみで つかっている とき かもしれない。
この いりょくは、 ひていてきである。
なぜなら、 じこいしきに とっての じぶんが じぶんに おいて あるのではなく、 ほかのものに おいて ある ように なる から、 じぶんが ひていされると かんがえられる から である。
または、 こべつてきな ありかたを めざした はずなのに、 その こべつてきな ありかたは ひていされて、 ふへんてきな ありかたに なっている から である。
なので、 また この いりょくは ふへんてき である。
この いりょくは とらえにくい。
なぜなら、 まだ この だんかいの きもちいいの じこいしきは うんめいを かんがえられていない から である。
この だんかいの きもちいいの じこいしきは、 たんに まきこまれる ちからの ながれ、 かみの ながれに しか おもえない。
ひつぜんせいという いりょくで こたいは くだけちる。ばーん!


7

「自己意識のこの形態」(566ぺーじ)の けいたいという ことばは、 あきらかに じぶんが つかう 「だんかい」という ことばに あたる。
しかし、「けいたい」という ことばは、 かんさつする りせいで、 ないようが ある かたち みたいな いみで つかわれていなかった だろうか?要調査。
きもちいいの じこいしきに とっては、 ひつぜんせい という うんめいに よって じぶんが なくなる という ところ まで しか おもいつかない。
その うんめいが じぶんの もの である という ところを おもいつく には、 こころの ほうに いかないと いけない。
つまり、 この だんかいの きもちいいの じこいしきに とっては、 ひつぜんせいは じぶんの もの ではない。
この だんかいの きもちいいの じこいしきに とっては、 じぶんは なくなるが、 われわれに とっては、それに おいては じこいしきは いきのびる。
われわれに とっては、それに おいては、ひつぜんせい、うんめい、じゅんすいな ふへんせいは じぶんの もの だからである。
じゅんすいな ふへんせい という とき、 まだ、 かんせつてきに こべつと ふへんが ひとつに なった ふへんせいではない という ことが かんがえられている。
「じゅんすいな」 という ことばは、 おおくの ばあいは、 ほめことばだが、 へーげるは、 すくなくとも ここでは、 さげすむ ことば として つかっている。
ひつぜんせい という じぶんとは べつの ものが じぶん であると わかると、 じぶんが じぶんに むかって いく こと になる。
このことを、 はんせい、 はんしゃ、 はんしょうと いわれる れふれくちおーん という。
ひつぜんせいが じぶんだと わかると、 こころの ほうの じこいしきの だんかいに うつる。

まとめ

こだいぎりしあの においが ぷんぷんするぜー(じょじょの きみょうな ぼうけん という まんがの だいいちぶの すぴーどわごん という きゃらくたーの せりふ である、 「こいつはくせえッー!ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッーーーーッ!!」の まね。 とくに いみは ない。 こだいぎりしあと げろいかを おなじと おもっているのではなく、 におい という ことばが でてきたので、 むすびついた だけ。)
しかし、 きんだいの はなし らしい。
まあ、 かんさつする りせいが きんだい かがく、 へーげるに とっての どうじだいの さいせんたんの かがくが もんだいに なっていたので、きんだいの ぶんがくが もんだいに なるのは、なっとくできる。
しかし、ことばの えらびかたが こだいぎりしあの ふんいきを ただよわせている。
まあ、へーげるは いつも こんな かんじで こだいぎりしあの ふんいきを ただよわせている という ことも あるかもしれない。
おそらく、いぽりっと という ふらんすの へーげる かいしゃくしゃが ふぁうすと、ぐんとう、どんきほーて!と いっている だけ では ないかとも うたがっている。
いぽりっとが どの ちょさくで いっているのかも わからないし、 へーげるが これらの ぶんがくを ねんとうに かいていた ことは ひていしない。

らかんの きょうぞうだんかいろんの はなしで よむのが じぶんには いちばん しっくり くる。
かがみの そうぞうてきな もので きもちいいと なっていたら、 ことば という しょうちょうてきなもの、 ひつぜんてきな もので うちくだかれる という はなし。
へーげるから らかんに いく までには、 こじぇーぶが いる から、 こじぇーぶの はなしも よまないと いけない。

きもちいいことが せっくすの ことで、 ひつぜんせいが こどもが うまれる ことだと、 くそみたいな せいべつにげんろんてき、いせいあいちゅうしんしゅぎてき、だんせいちゅうしんしゅぎてき、さいせいさんちゅうしんしゅぎてきな かんがえだと おもう。へーげるなら、 ありえる。 じだいの せいとか いう ものの ために あらかじめ はんろんしておく。じだいの せいで わるいのではなく、 わるいから わるい のだ。 あたかも いまは 「せいべつにげんろんてき、いせいあいちゅうしんしゅぎてき、だんせいちゅうしんしゅぎてき、さいせいさんちゅうしんしゅぎてきな かんがえ」が ない みたいな いいかたを するが、 いまも、「くそみたいな せいべつにげんろんてき、いせいあいちゅうしんしゅぎてき、だんせいちゅうしんしゅぎてき、さいせいさんちゅうしんしゅぎてきな かんがえ」ばかりである。 たんに あなたが それらの かんがえを くそみたいと おもっていない だけである。それは わるい。 ちゃんと わるいと おもう ことが よい。だいたい、 せいじかに こんなに おとこではない ものが すくない なかで、 いせいあいちゅうしんしゅぎてき、 さいせいさんちゅうしんしゅぎてき ことばが せいじかから でる なかで、 どこが へーげるの じだいと ちがうと いえるのか。 もちろん ちがうが、 どっちも わるい。

おとこのあなのむかしだ(「おなじあなのむじな」という ことわざを まねした ことば。 おなじあなのむじな とは、 わるくない ふりを して わるい ものを ひはんした つもりに なっている ものも けっきょく わるい、 ちがいが あるに しても ちょっとの ていどの さでしかない という いみの ことば。「おなじ」を はじまりの 「お」という ことばが おなじである、「おとこの」という ことばに おきかえて、 おとこちゅうしんしゅぎを ひはんしている。 また、「おとこのあな」という ことばの ならびに する ことで、 いせいあいちゅうしんしゅぎに かんけいしている だんせいちゅうしんしゅぎを あざわらっている。そして、「むじな」を はじまりの 「む」という ことばが おなじ である、「むかし」 という ことばに おきかえて、 にんげんちゅうしんしゅぎと、じかんが たてば よくなていくという まちがった かんがえを ひはんしている。 むじな とは、 あなぐまの ことであり、 にんげん いがいの どうぶつを わるいものの しょうちょうに つかうのは わるい。にんげんの わるい ところを にんげん いがいの どうぶつの せいに するのは わるい。にんげんは よかったり わるかったりする。あなぐまも よかったり わるかったりする。 )。

へーげるが せっくすを きもちいいこと、 こどもを あらたに うまれさせる ことを ひつぜんせいと かんがえていたかに ついては、 あまり なっとくしていない。
こだい・ぎりしあが もんだいに なっているなら、 ちがうと おもう。
ふぁうすとが もんだいに なっている なら、 その とおり かもしれない。
なぞの なぞ。
まあ、 ただし、 とうじの どいつで、 けっこん せずに あらたに こどもを うまれさせた ばあいに、 うまれさせられた こどもと、 せいべつが おんなであると かんがえられた うみのおやの かたほうが どれだけ さべつされたか という はなしは かいた ほうが いいかもしれない。
ふらんすでは なぽれおんほうてん という もので、 おんなと みなされた ものが けっこん せずに こどもを もつと めちゃくちゃ さべつされた という はなしは よんだ ことが あった。
いえすを うまれさせた まりあは けっこん していなかった ので、 いえす という かみ(のこ)を うまれさせたのは きせきであると かんがえられた。
そして、 きせきは かみ、いえすにしか あてはまらないので、 にんげん ごときを うまれさせた おんなは うそつきか いんらんと みなされて さべつ された のである。
たしか、イレーヌ・テリー 著、石田 久仁子 訳、井上 たか子 訳「フランスの同性婚と親子関係、ジェンダー平等と結婚・家族の変容」 https://www.akashi.co.jp/book/b432779.htmlで よんだのだと おもう。
まあ、 だいたい おなじ かんじ だろう けど、 どいつの はなしも しらべた。
屋敷 二郎「書評、三成美保著『ジェンダーの法史学――近代ドイツの家族とセクシュアリティ』」(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/2006/56/2006_317/_article/-char/ja/)から いんようする。

プロイセン一般ラント法(ALR)は、嫡出原理を堅持して婚外子を「家」から排除し相続権も否定する一方で、債権として扶養養育請求権を認め、不貞の抗弁を否定した。さらにALRは、「未婚の母」を「無責で離婚した妻」とみなし、裁判所の認定により子を嫡出子とみなす規定を設けた。」
320ぺーじ

さいあく ではないが、 わるい という はなし である。

「著者によれば、ALR施行後からサヴィニーが主導した一八五四年非嫡出子法制定に至る過程では、「未婚の母=被害者」の神話が崩れ「淫婦」とみなす傾向が強まり、「未婚の母」の請求権を減じることが「婚姻の神聖さ」を維持するとために不可欠とされた。不貞の抗弁は復活・拡充され、例えば、婚外子をもつ女性が別の男に強姦されて妊娠した事件(一八六〇年)や、過去に婚外妊娠して胎児の父と結婚し出産した女性が寡婦となった後に妊娠した事件(一八五八年)ですら、相手男性に対する損害賠償どころか出産費用の請求さえも棄却された。著者は、「性的不品行」な女性に対しては男性の「性犯罪」ですら責任を免れるという「性の二重基準」論と、貞淑な女性と不品行な女性という「女性二分」論を、これらのプロイセン最高裁判例に見出している。」
320ぺーじ

まるで せいれき 2020ねんだいの にほんだと おもわなかったら、 ちゃんと しらべなさい。(にほんに すんでいない ものや、 せいれき 2020ねんだいを おぼえていない もの、ちしきを なんらかの かたちで せいげんされている もの、 たとえば、 もじとしての かんじを よめないのに、 まわりが もじとしての かんじを つかっている ばあい などは、 しらなくても もんだいは ない。 ほかにも もんだいではない ばあいが ある ので、 あまり おもく うけとめないで ほしい。 )

「けっこんの しんせいさ」は、 ふたりの いせいこんに おいて みょうじを おなじに しなければ いけない という きまりが ある。
そして、 ほとんど じっしつてきに おとこの みょうじに させられる。
なんぱーせんとが おんなの みょうじの ままか しっている だろうか?
べつの はなしを かくので、 その あいだに かんがえてほしい。
にほんごでは あまり 「けっこんの しんせいさ」とは いわない。
「かぞくの きずな」という ことばが つかわれる。
あとは、 「でんとう」である。
せいれき 2021ねんの 2がつ ごろ から、 ふたりの いせいで けっこんして べつの みょうじを なのれる ように ほうりつを かえようという はなしが こっかいで もんだいに なっている。(https://www.tokyo-np.co.jp/article/88547
おなじ みょうじを おしつける べきだ という もの たちの いけんの おおくは、 「かぞくの きずな」「でんとう」などの りゆうを もちだす。
そもそも、 けっこんせいどが わるい。 さべつてきな せいど である。
ふたりの、 こせきじょうの いせいが、 せっくすを ほかの もの としない という ぎむを おって、 だいたい いっしょに くらす という けいやくを かわすと、 ほかの ものが もらえない ゆうぐうそちを もらえるのだ。
にんずうの きまりも、 せいべつの きまりも、ていそうぎむ という きまりも、 ほかの もの からの ゆうぐう そちも すべて なくす べきだ。
さらに けっこんせいどは、 だんせいちゅうしんてきに つかわれてもいる。

なんぱーせんとが おんなの みょうじの ままで あれるか しっている だろうか?の こたえを かく。
せいれき 2017ねんに しらべた ところでは、 4ぱーせんと である。
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00542/

さて、 ほんだいに はなしを もどそう。
いわゆる ひちゃくしゅつじ、 つまり けっこん していない ものが うまれさせた こどもは、 せいれき 2018ねんでは、 ぜんたいに たいして、やく 2ぱーせんと である。(https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20200111-00157345/
けっこん しないと どれだけ さべつを うけるかを たんてきに あらわす すうじ である。
さらに、 おもに ひちゃくしゅつの、つまり けっこん していない ものの こどもの せわは おんなの おやが する ように おしつけられる。
そして、 せいさべつに より、 おんなに はらわれるる きゅうりょうは おとこに くらべて やすい。
おんなと みなされると ふたん ばかり おしつけられる。

ほうりつで、 ひちゃくしゅつの こどもに たいする そうぞくけんの さべつが ほうりつの うえで なくなったのは、 せいれき 2013ねん である。

いなだ という にほんの ぐんたい、じえいたいが みなみすーだんんで たたかった という ほうこくしょを かくした せいじかが どうどうと でているが(あまり という わいろの せいじかも でてくる)、 こんな きじが ある。
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/28625.html
せいれき 2019ねんに 「税制改正で、「未婚」のひとり親にも、配偶者と「死別」や「離婚」したひとり親と同様に、所得税や住民税の軽減措置が適用されることになった。」

せいはんざいの ひがいしゃの せいせいかつを りゆうに、 せいはんざいの かがいは かるかった という はなしかたは せいれき 2021ねん げんざいの しほうや けいさつでも よく きく はなしかた である。

せいれき 2017ねんに やまぐち・のりゆきという せいふに ちかい じゃーなりすとが、 じゃーなりすとの いとう・しおりを ごうかんした じけんの ほうどうを みてみよう。 せいぼうりょくの はなしが でてきます。よむと たいへんな ひとは いんようの ところを とばしてください。 おんせい よみあげ などで きいている ものは、 30びょう ぐらい きかない ように してください。

「捜査員のみなさんから、『処女ですか?』と質問されました。『なんのための質問ですか?』と聞いたら、『聞かなくてはいけないことになっている』と。捜査のガイドラインに載っているんだと思いますが、そうならとてもおかしいことだと思います」
https://jisin.jp/domestic/1621227/

また、かこの せいかんけいを もんだいに する ことは、 せかんど・れいぷ と いわれる てんけいてきな わるい やりかた である。

性犯罪裁判では「セカンドレイプ(二次加害)」と呼ばれる、被害者の心身を傷つけるやりとりが意図的に行われることが、残念ながら少なくありません。
☆過去の性に関する言動等を取り上げることで、事件時、被害者側に性的欲求があったかのような印象を与える
https://blog.canpan.info/shiawasenamida/archive/1214

せいぼうりょくの はなしは みじかい けれど、 じぶんも たいへんに なる ので、 ここで おわり。
ともかく、へーげるは ほかの ものと おなじ ように わるい だろう。
しかし、せいしんげんしょうがくの この ぶぶんが わるい はなしを しているか どうかは、 あまり じしんが ない。
ふぁうすとを そんなに いしきしていたの だろうか?
いしきしていない というのは いえない だろうが、 ふぁうすとの はなしを している とまで いえる かどうかは わからない。
せいぼうりょくの はなしは おわっている。つぎの はなしを していた。

ちなみに へーげるは どいつで せいれき 1807ねんに せいしんげんしょうがくを かいている。
へーげるが すんでいた ところで、 「プロイセン一般ラント法(ALR)」が つかわれていたかは しらべていない。めんどうくさい。

おわり。
おそらく、 いろいろ あとに かきたしたり する。
さいとう