さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Bじつげん bこころのきまり

じぶんよう。ただしいかは わからない。
せいれき 2021ねん 3がつ 7にち から かきはじめた。
かくめいれき 229ねん 7がつ 13にち(Décade II Tridi, Germinal an CCXXIX)、せいれき 2021ねん 4がつ 2にちに かきおえた。
あとで かえると おもう。🐸🐸
いんようさきが かいていないときは、 この ぶんしょう、 つまり 「へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Bじつげん bこころのほう」からの いんよう です。
Tatと Tunの かんけいは、 わかっていない。 要調査。
Tatと Tunの はなしは、 しんじないで ください。


Cりせいしょう
CVりせい
CVBりせいてきな じこいしきが じぶんじしんを つうじて げんじつか される こと
CVB0まえおき
CVBaきもちよいことと かならず おきる こと(ひつぜんであること)
CVBbこころの ほうそくと うぬぼれの きょうき
CVBcとくと せけん

どいつごは ぴーでぃーえふで http://public-library.uk/ebooks/05/51.pdfを よんでいる。
くまのやくで じょう 567ぺーじから。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097019/
ぺーじの かず いがいを とくに なにも かいてなければ、 これらの ぶんけん からの いんようである はず。

b

こころの ほう

Das Gesetz des Herzens und der Wahnsinn des Eigenduenkels
こころの ほうと うぬぼれの きょうき

まず、 「こころの ほう」という ことばに ついて かく。
うぬぼれの きょうき(狂気)の はなしは しない。
Gesetz は おきて とか、 ほう とか、 ほうそく という いみ である。げぜっつ
Herzensは こころ とか、 しんじょう とか、しんぞう という いみ である。はーと という ことばと おなじ けいとうの ことば。
いろんな やくしかたが できる。
こころの おきて、 しんじょうの ほうそく などなど。
しかし、とりあえず 「こころの ほう」と やくす。

ぼるたー・くらんつ

ぼるたー・くらんつ という こだい・ぎりしあの せんもんかが つぎの ような ぶんしょうを かいている。
Kranz, Walther. "DAS GESETZ DES HERZENS." Rheinisches Museum Für Philologie 94, no. 2/3 (1951): 222-41. Accessed March 7, 2021. http://www.jstor.org/stable/41244003.
どいつごが よめなくて、 わからない。
だれか、ないようを おしえてください。

こころの ほうとは?

かなり てきとーな ぶんしょうを よんでしまった。
河口明人「健康概念の起源について、古代ギリシャ世界における身体と生命Ⅲ、祭典の思想と生存の意志 」
http://doi.org/10.14943/b.edu.112.1
おそらく こだい・ぎりしあの せんもんか ではない。
じっさい、 いしゃ。
こだい・ぎりしあを ちゃんと ひはんせずに どうとくてきに すぐれた ものと かんがえてしまっている。
また、 あそびの はなしは、 ひとつの かんがえかた として おもしろいが、 そんなに うまく いっていない ように おもえる。
という しろうとの かんそう。
この ものは、 そふぉくれすの 「あんてぃごねー」という さくひんを よんでいる。
しかし、 かなり びみょうな かきかたを している。

アンティゴネーが憚ることなく護ろうとしたのは,自己の存在を意義づける身内の人間(家族)に対する限りない不滅の愛情とともに,それを支えるノモス(慣習)としての人間の掟であり,同時に斃れはしたが,勇敢に戦った兄の栄光と名誉であった。彼女は,たとえ恣意的な国禁を侵して死罪になろうとも,兄弟の名誉を守り,身内の身体を埋葬することは,いわば人為的,一時代的な法を遙かに凌ぐ神々の掟,すなわち「こころの法」であり,絶対的命令であることを主張する。そのこころの命令に従うことこそが,兄のためだけではなく,同時にこの世の生を受けた自分の生存のアイデンティティ,すなわち兄妹としての使命であり名誉でもあることを主張し,自らの正義にしたがって,昂然として死に赴く。」
16-17ぺーじ

たしかに、 こだいぎりしあに おける かみがみと にんげんの ちかさと とおさを ぎろんしては いる。
しかし、そふぉくれすの 『あんてぃごねー』は のもす という にんげんのほうと、 ぴゅしす という かみがみのほうの たいりつを えがいている という よく ある よみかた とは ぜんぜん ちがう よみかたを している。
かといって、 くわしく ぎろんしている わけでもない。
そして、 ここで もんだいに したいのは、 「こころの法」という ひょうげん である。
どこから でてきた この ひょうげん。
とくに ちゅうも ない ので、 この ものの どくじの よみかた かも しれない。
それにしては、 なぜ かぎかっこを つけたのか わからない。
ひゆとして つかっている という こと なのかも しれない。
いちおう そふぉくれすの 『あんてぃごねー』の にほんごやくも かくにんしたが、 「こころの ほう」とか 「こころの おきて」という ひょうげんは みつからなかった。(中務哲郎やくの いわなみぶんこ)
または、 「健康概念の起源について、古代ギリシャ世界における身体と生命」の いちと にで つかっている ひょうげん なのかもしれない。
ともかく、 びみょうである。
ちゅうの ぶんけんじょうほうも あいまいだ。
まあ、 じぶんも この ぶろぐで、ぶんけんじょうほうは あいまいに かいてしまうので、 せめられない。でも、こまる。

おおた・こうたろう

大田孝太郎「「ノモス」と「ピュシス」──古代思想から近代思想へのその展開──」、広島経済大学研究論集、第36巻第2号 2013年9月、http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hue/metadata/12106

「アンチゴネーの悲劇は,ノモス(法)にみずからの生の地盤をおく旧来の価値意識と個人意識に目覚めた新しい価値観との矛盾・葛藤が起こってきた紀元前5世紀半ばのギリシアの状況をみごとに形象化したものといえるだろう。」
38ぺーじ

とかいている ぶんも みつけた。
あんてぃごねーの たちばを こじんいしきと かんがえるのは、 しらなかった。
ちなみに おおたの この ぶんけんは おそらく よく ある よみかたで そふぉくれすの『あんてぃごねー』を よんでいると おもう。

クレオンは国(ノモス)の掟を守る立場から,アンチゴネーは,家族(ピュシス)の側から,それぞれみずから正しいと信じることをおこなった。」
38ぺーじ

この よみかたに もんだいが ないとは おもわないが、 よく ある よみかた である ことは たしかだと おもう。

こころの おきて

こころの おきてと しらべると、 きりすときょう かんけいの ぶんしょうが みつかる。
こころの ほうそくと しらべると、 しんりがく かんけいの ぶんしょうが みつかる。
こだい・ぎりしあ かんけいの ぶんしょうは みつけていない。
しかし、 へーげるの 「こころの ほう」という この ぶぶんは、 こだい・ぎりしあ かんけいだと そうぞうしている。
こんきょは じゅうぶんに しめせない。
すると、 「こころの ほう」よりも 「こころの おきて」という にほんごやくの ほうが いいかもしれない。
じぶん としては、そふぉくれすの 『あんてぃごねー』を ねんとうに かいている きがするが、 あんてぃごねーは けっして、 ここで へーげるが かく ように「にんげんの しあわせの ために」と いわないと おもうので、 ちがう きがする。

しかし、へーげるの 「こころの ほう」という この ぶぶんは、 しらーの 「ぐんとう」(群盗) という しょうせつが ねんとうに ある という よみかたが よく ある ようだ。
おそらく、 いぽりっとの よみかたの えいきょう だろう。
かしやま・きんしろう(樫山 欽四郎)という にほんごでの へーげる けんきゅうしゃも その ほうこうで よんでいる みたいだ。
ヘーゲル, 樫山欽四郎『ワイド版世界の大思想 第1期〈7〉ヘーゲル』、河出書房新社、せいれき 2004ねん、)https://books.google.co.jp/books?id=-5A6DwAAQBAJ&pg=PT236&lpg=PT236&dq=%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89%E7%89%88+%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%80%9D%E6%83%B3+%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB+%22%E3%82%A4%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%22+%E2%80%9D%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC%E2%80%9D&source=bl&ots=cNyqdO31B2&sig=ACfU3U1w37UKRmiFlSN3KYB79sGLxv23DQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwimiJeO3Z3vAhXNP3AKHS88CogQ6AEwBHoECBMQAw#v=onepage&q=%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89%E7%89%88%20%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%80%9D%E6%83%B3%20%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB%20%22%E3%82%A4%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%22%20%E2%80%9D%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC%E2%80%9D&f=false
ぺーじすうが ない!

はきけが するので、とりあえず かくのを やめる。 いつか また かく。
はきけが なくなったので、 また かく。

νόμος της ψυχής

こだい・ぎりしあごで、 νόμος της ψυχής(nomos tis psūkhḗs)( たましいの おきて、 たましいの ほう、 いのちの ほう、 いのちの おきて) と いうのではないかと そうぞうした。
こだい・ぎりしあごは わからないので、 こういう ことばの くみあわせで いいのかは わからない。
「聖書(旧約聖書)におけるleb[4](eの音が長く、レーブ)というヘブライ語は、日本語の「心」に一致している点が多い[2]。イスラエル人にとっても、lebは心臓を意味するだけでなく、感情、記憶[5]、考え、判断[6]などの座とされた。旧約聖書ギリシャ語に翻訳されることになった時、このlebの訳語に、ギリシャ語で心臓を意味する「kardia」が当てられた[2]。こうして、kardiaはヘブライ語lebの意味も担いつつ 新約聖書で広い意味を与えられることになった」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83
らしいので、 καρδιά(kardia、 しんぞう)という ことばを つかう べき かもしれない。
しかし、 しらべても でなかったので、 あきらめて、 たましい、いき という けいとうの ぷしゅけーを つかって しらべた。

Κωνσταντίνος Τσάτσος (コンスタンディノス・ツァツォス)(1899 – 1987)の «Πριν το ξεκίνημα», εκδόσεις: Αστήρ.という ほんの "Η ελληνική φύση" (ぎりしあの げんしょう)
https://to-dialeimma2.blogspot.com/2019/03/blog-post_9.html
”Γίνεται νόμος της ψυχής μας.”
(gī́netai nomos tis psūkhḗs mas)
(しぜんは) わたしたちの たましいの ほうに なります。
この ぶんしょうは、 しぜんが じぶんとは ちがう もの だけど、 じぶんと おなじ もの である という はなしを している ようで、 へーげるに にている。

やっぱり、 こだい・ぎりしあの はなしを している きがする。
こだい・ぎりしあを べんきょうしないと いけない。
はやく へーげるの ぶんしょうに はいれ。
はい。

b1

ひつぜんせい

”Was die Notwendigkeit in Wahrheit am Selbstbewusstsein ist,”
in Wahrheit は じじつは、 じっさいは という いみでも つかわれる。
am(ぜんちし anに ていかんしdemを くっつけた ことば)は かなり やっかいな たんご である。
ふれていること、 その とき、 それを てがかりにして、 その せいしつを もっている ものに おいて、それに そくして という いみが ありえそう。

じこいしきの しんなる ありかたに おいて かならず おこる こと。
じこいしきに おける しんなる ありかたの からなず おこる こと。
じこいしきと おなじ もの としての かならず おこる こと。
じこいしきを てがかりに した ときの しんなる かならず おこる こと。

かならず おこる こと、 ひつぜんせいは、きもちいい という だんかいのじこいしきに とって、 しんなる ありかたに なっていなかった。
しかし、 かならず おこる こと、 ひつぜんせいは、こころの ほう という だんかいのじこいしきに とって、 しんなる ありかたに なる はず。
かならず おこる こと、 ひつぜんせいの しんなる ありかたは じぶん である。
へーげるの べんしょうほう では、 むかう さきに たどりつく とは かぎらない。
むかう さきは、 ひつぜんせいが しんに ある ありかたで わかる こと である。
しかし、 たどりつく さきが ひつぜんせいの しんの ありかた である とは かぎらない。

じぶんに とって ある ひつぜんせい

こころの ほう という この だんかいの じこいしきに とって あるのは、 ひつぜんせいが しんなる ありかたでは じこいしきと かかわる という こと である。
こころの ほう という この だんかいの じこいしきに とって、じこいしきは、 じぶんに とって、かならず おこる こと である。
つまり、 こころの ほう という この だんかいの じこいしきに とって、 かならず じぶんを いしきする。
じぶんに とって ある という ことが からなず おこる。
じぶんと かかわる ことが かならず おこる。

こころの ほう という この だんかいの じこいしきは、 じぶんが ちょくせつてきに ふへんてきな ものを もっている という ことが わかっている。
ふへんてきな ものを かんせつてきに もっているの ではない、
そして、 ふへんてきな ものは、 ほう、げぜっつ である。
ほう、ほうそく、おきては、 ふへんてき である。
なぜなら、 ほう、ほうそく、おきては すべてに あてはまる から である。
こべつで たいおうを かえる ことや こべつで あてはまらない ものが ある ような ものは、 ほうや ほうそくや おきて ではない。
こころの ほうの この だんかいの じこいしきに とっての ほうの とくちょうは、じぶんに かんして ある という こと である。
また、こころの ほうの この だんかいの じこいしきに とっての ほうの とくちょうは、 じぶんに とって ある という こと である。
しかし、こころの ほうの この だんかいの じこいしきに とっての ほうの とくちょうは、 ちょくせつ じぶんと かんけいしている という こと である。
こころの ほう という この だんかいの じこいしきは、 ほう である ので、 こころの ほう である。
または、 じぶんに かんけいしている という ありかたは こころ である。
だから こころの ほう である。

ふへん から ほうへ

ここで、 ほうが でてくる ながれを かくにん しておこう。
きもちいいの だんかいの じこいしきは、 こべつの きもちいいを げんじつに しようと していた。
しかし、きもちいいの だんかいの じこいしきは、 けっきょく ほかの ものを じぶん であると わかる から、 ふへんてきなもの になる。
ふへんてきなもの である じぶんが こころの ほうという だんかいの じこいしき である。
ふへんてきなものは ほう である。
なので、 ほうが でてくる。
しかし、 ちょくせつてきである という ことが こうどうする りせいの はじめの だんかいの じこいしき である。

ほうが じぶんに かんけいしている という ありかたは、 ちゃんと わかっては ない。
じかくてきな ほう? じかくてきな おきて?
じこげんきゅうてきな ほう? じこげんきゅうてきな おきて?
しかし、 そのように ひょうげんすると、 ことばで かんせつてきに じぶんと かんけいしている という ありかた である きがする。

たいじそんざい、じぶんに かんけいして ある、じぶんに とって ある

ひゅーる じっひ、für sichは たいじ(対自)、 じぶんに かんけいする、 じかくてき、 じぶんに とって、 じぶん だけ という いみが ある。
こころの ほうの この だんかいの じこいしきは、 じぶんに とっては、 こべつの もの である。
こころの ほうの この だんかいの じこいしきは、じぶんに かんけいする こべつの もの である。
じぶん だけで こべつの もの である。
じぶんに かんけいして こべつのもの である という ことは、 こころの ほうの だんかいの じこいしきに とっても、 きもちいいの だんかいの じこいしきに とっても おなじ である。
じぶんに かんけいして こべつてきで ある という ことが わからない。 要調査。 わからない。
(かくせいてき かくしんの こべつせいは じぶんに おいて ある という こべつてきな もの であった。こべつてきに ある というのは、 すべてに あてはまる わけではない という こと だろう。)

そして、 じぶんに とって ある という ありかたが、この だんかいの じこいしきに とって かならず おこる。
じぶんに とって ある という ありかたが、この だんかいの じこいしきに とって、 ふへんてきに おこる。
きもちいい という だんかいでは、 じぶんに とって ある という ことは かならず おこる もの ではない。
きもちいい という だんかいの じこいしきに とって、 じこいしき である という ことは、 たまたま おこる こと である。
こころの ほうの この だんかいの じこいしきは、じぶんが ひつぜんせい であると じかくしている。

まとめ

ちょくせつてきに じぶんと かんけいする こべつてきな もの。
いまと ここが ある もの。

ふたたび Herzen

ひとつ

Lichtenberg, der das physiognomische Beobachten so charakterisiert, sagt auch noch dies: Wenn jemand sagte,
du handelst zwar wie ein ehrlicher Mann, ich sehe es aber aus deiner Figur, du zwingst dich, und bist ein Schelm
im Herzen; fuerwahr, eine solche Anrede wird bis ans Ende der Welt von jedem braven Kerl mit einer Ohrfeige
erwidert werden.
93

「und bist ein Schelm im Herzen」「おまえはこころの底では悪党なのだ」
くまのやく 499ぺーじ。
にんそうがくの はなし である。
へーげるの ことばでは なく、 りひてんべるくの ことば である。

Allein die Bewegung, welche das Individuum in der Leber, dem Herzen und so fort hat, kann nicht als die ganz in sich reflektierte Bewegung desselben angesehen werden, sondern sie ist darin vielmehr so, dass sie ihm schon in den Leib geschlagen ist, und ein animalisches heraus gegen die Aeusserlichkeit sich wendendes Dasein hat.
95ぺーじ

「Allein die Bewegung, welche das Individuum in der Leber, dem Herzen und so fort hat」
「運動は、個体がそれを肝臓、心臓などにあって有するものであるならば」506ぺーじ
かんぞうに くらべられる しんぞう という はなし であった。

さん

こころの ほうの もんだい
「Gesetzes seines Herzens」みずからの しんじょう(心情)556ぺーじ

b2

ほうは ちょくせつに この だんかいの じこいしきの もの である。
ほうは ちょくせつに じこいしきで ある。
こころ である ほうが、 じこいしきの げんじつに する もくてき である。
まえの きもちいいの だんかいの じこいしきの もくてきは、 ほかの ものの なかに こべつてきな じぶんが ちょくせつ ある こと だった。
この こころの ほうの だんかいの じこいしきの もくてきは、 ふへんてきな ほう である。
もくてきは、 げんじつに しようと する もの である。
もくてきは、 むかう さき である。
もくてきは、 がいねん である。
もくてきは、じぶんを じぶんの ままに する という こと である。

そして、こころの ほうの だんかいの じこいしきの もくてきを げんじつに した けっかと、 もくてきの がいねんが おなじに なっているか どうかを かくにんする ひつようが ある。
へーげるの べんしょうほうでは、 もくてきの がいねんと もくてきを げんじつに しようと した けっかは ことなる。
めざした もくてきとは べつの ところに たどりついて しまうのだ。
こころの ほうの だんかいの じこいしきが じぶんを げんじつに する とき、じぶん という ほうが ある という ことを けいけんするか どうかを かくにんする ひつようが ある。
へーげるの べんしょうほうでは、けっきょく じぶん という ほうが、 つまり こころの ほうが じっさいは ない という ことを けいけんするの だろう。
すくなくとも こころの ほうは べつの ありかたを している ことに なる。

b3

げんじつ

こころは げんじつに なっていない。
こころの ほうは、 じぶんに とって ある だけだ。
こころの ほうは、 じぶんに おいて ある わけでは ない。
こころの ほうは、 じかくてき である。
なぜなら、 こころの ほうの この だんかいの じこいしきは、こころの ほう という じぶんを いしき している から である。
こころの ほうは、 げんじつに なって いない。
こころの ほうの がいねんは、 こころの ほうの じっさいの ありかた とは ちがう。
なので、こころの ほう という ひつぜんせい という じぶん では ない ものは、げんじつに される べき こと とは ちがう げんじつ である。
こころの ほうの がいねん、 もくてきは、 げんじつに される べき こと であり、 こころの ほうの じっさいの ありかたは げんじつ である。

むじゅん

むじゅんは たいりつで あり、 たいりつは ひていされて ひとつに なる。
げんじつは こころの ほうと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 こころの ほうの がいねん、 もくてきと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 こべつの ありかたと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、こじんと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 ちょくせつてきに じぶんに たいして ある こじんと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 ひとつの ほう である。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 ひつぜんせい という ほう である。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは ふへんてきな ほう であり、 こべつてきな ありかたを よくあつしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつ、 つまり ひつぜんせい という げんじつに、 こじんは したがう ことに なる。

せかいの ちつじょ

こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつ、 つまり ひつぜんせい という げんじつは、 せかいの ちつじょ であり、こころの ほうと たいりつ する。
こころの ほうは あるべき ありかた である。
せかいの ちつじょは じっさいに ある ありかた である。
せかいの ちつじょは あるべき ありかたを していない。
せかいの ちつじょは ぼうりょくてき である。
あるべき ではない ありかたを おしつける から である。
せかいの ちつじょの げんじつは、ほう であると どうじに、 せかいの ちつじょ という じぶん では ない もの としての ひつぜんせいに したがわされる じんるい である。
ひつぜんせいに したがわされる じんるいは くるしむ。
じんるいも げんじつ である。
じんるいは せかいの ちつじょ という ひつぜんせいに したがう だけで、こう ある べき という こころの ほうに したがわない。

じんるいが くるしむ ような、 ひつぜんせいの せかいの ちつじょ という げんじつは、 こころの ほう という この だんかいの じこいしきに たいりつ している。
じんるいが くるしむ ような、 ひつぜんせいの せかいの ちつじょ という げんじつは、かんさつする りせいや、 きもちいい という こうどうする りせいに とって、ふたつに わかれていた ありかたを くりかえしている。
ふたつに わかれていた ありかたとは、 こたいせいと、 しんなる ありかたを した こたいせい という ふたつに わかれていた ありかた である。
つまり こじんと、 こじんが けっか として たどりつく しんなる ありかたに わかれる。
こじんは しんなる ありかたには たどりついていない。
しんなる ありかたに たどりつくと、 その しんなる ありかたが こじんと なり、 また べつの しんなる ありかたが でてくる。
なぜなら、 きじゅんが かわる から である。
この かんけいを しっている こと、または ち(知) と しんり(真理)という ことばで あらわす ことも できる。
ちは しんりでは ない。 しかし、 ちを つきつめると、 しんりに なる。 すると、 しんりを しったので、 しんりは ちに なるが、 すると いままで しらなかった ことを しる ことで ぜんていが かわり、 きじゅんが かわり、 しんりも かわる。 そいして、 その しんりに むかって ちを つきつめる。(ここで、 しんりは しんなるもの という いみで、 ちは しっている こと という いみである。もじ としての かんじで かけば、真理と知 である。 こころ としての しんり(心理)と からだに ながれる けつえき としての ち(血) ではない。 さいばんで ほうりつに したがって はなしあう という いみでの しんり(審理)と じめん という いみでの ち(地) ではない。)
かんさつする りせいに とっての ふたつの わかれた ありかたは わからない。 要調査。
きもちいいの りせいは、こじんと こじんが しんなる ふへんてきな だんかいに わかれる。
きもちいいの りせいは、 こじんの もとめる きもちいいと、 こじんの たどりつく うんめい としての ひつぜんせいに わかれていた。
うんめい としての ひつぜんせいは ざんこく であり、 こじんを くるしめる。

われわれに とって

われわれに とっては、 ある だんかいの いしきに とって とは ちがって、それまでの うつりかわり という うんどう、 つまり ながれ、 かてい(過程)、ぷろせすは、 あたらしく でてくる ある だんかいの いしきと たいりつ している。
これまでの ながれの すべてに たいりつ している から こそ、 「あたらしい」の である。
へーげるの せいしんげんしょうがくでは、 ある だんかいの いしき までの うつりかわりを ふまえて、 それらの うつりかわりで けいけん してきた それぞれの だんかいの いしきの ありかたは ふじゅうぶんで あり、 たどりついた だんかいの いしきに ふくまれると かんがえる。
ひゆで せつめいする。
「これこれは こういう もの である」 という せつめいが あったと する。
この せつめいに たいして、 「たしかに、 この ような じょうけんでは、 これこれは こういう もの である。 それは ただしい。 しかし、 ちがう じょうけんでは、 これこれは あういう もの である。 これらの ありかたを まとめて あらわそう。 どれどれは あういう もの である。」という せつめいを だしてくる いめーじ である。
ほかの ものが ただしいと おもっている ことを ひていしながら ふくむ ことに なる。
ただし、 この ひゆは あくまで ひゆである。
なぜなら、へーげるの せいしんげんしょうがくでの ながれは、 さらに、 つぎの ように つけくわえる からだ。 「これこれは こういう もの である、 という ことを つきつめて かんがえてみろ。 どうだ、 じっさいは どれどれは あういう もの である という けつろんに じぶんで いきついている ではないか。 あなたは たんに きづいていない のだ。 すでに わたしの せつめいを なしとげている。」
そして、 これを ありえない ぐらい なんかいも くりかえしていくのが、 せいしんげんしょうがく である、 と おもう。
せいしんげんしょうがくの はんぶん ぐらいで、 おおきく わけても 16かいは これを くりかえしている。
しかし、 この 16かい という かいすうは、 もくじで せいしんしょうまでの かずを かぞえたに すぎない。
それぞれ いっかいの なかで、 それまでの ながれを くりかえしている はず である ので、もっと おおい はずだ。

われわれに とって、それまでの うつりかわりが、 あたらしく でてくる ある だんかいの いしきと たいりつ している りゆうは、 それまでの うつりかわりを ふまえて あたらしく でてくる ある だんかいの いしきが ないりたつ から である。
つまり、あたらしく でてくる ある だんかいの いしきは、 それまでの うつりかわりを ひていしながら ふくんでいる から である。
それまでの うつりかわりは、 「先行する運動」(569ぺーじ)と かかれている。
あたらしく でてくる ある だんかいの いしきは、 「あらたな形態」(569ぺーじ)と かかれている。
そして、 この 「先行する運動」(569ぺーじ)、 つまり それまでの うつりかわりは、 「あらたな形態」(569ぺーじ)に とって、ひつぜんてき である。
なぜなら、 あらたな だんかいの いしきが でてくる ためには、 それまでの うつりかわりが ないと いけない から である。
われわれに とっては、あらたな だんかいの いしきに とって、 かならず おこっている ことは、 それまでの うつりかわり である。
しかし、 あらたな だんかいの いしきは その ことには きがつかない。
ぜんたいを あとから かんがえた われわれには きがつけても、 あらたな だんかいの いしきは ぜんたいを しらないので、 きがつけない ので ある。
なので、 あたらしく でてくる だんかいの いしきに とっては、 われわれに とってとは ちがって、「前に見いだされたもの〔「前に見いだされたもの」を きょうちょうしている。〕」(569ぺーじ) である。

; ihr aber erscheint es als ein Vorgefundenes, indem sie kein Bewusstsein ueber ihren Ursprung hat, und ihr das Wesen ist, vielmehr fuer sich selbst oder das negative gegen dies positive An−sich zu sein.
107

Vorgefundenesは vor(まえ)、gefunden(finden(みつける)の かこぶんし)、es(おそらく いちかく、さんかく、よんかくの どれかの けいようしの ちゅうせいめいしかの ごび)で できている。
vorfindenは あらたな じょうきょうで、 ある ところや ある じょうたいに あるのを みいだす という いみ である。 さいきどうし として つかうと ある という いみ である。
ここでは、 「たんに まえに みられた もの」 という いみで かんがえる べき だと おもう。
なぜなら、 つぎに もとに なる もの という いみの きげん(起源)、Ursprung という ことばが つかわれている から である。
もとに なる もの という いみの きげん(起源)は、 まえに ある だけで なく、 いまの もとに なる という こと まで ふくむ。
ひつぜんてきな もの として かんがえる という ことは、 もとに なる もの という いみで きげん(起源)と かんがえる という こと である。
これは われわれの たちば である。
いっぽう、 たんに まえに ある ものと かんがえるのは、 ある だんかいの いしきの たちば である。
(ここらへんで、 「形態」(569ぺーじ) という ことばが つかわれるのは、こうどうする りせいに ついての だんかい だけ かもしれない。)
ある だんかいの いしき、とくに こうどうする りせいに とって ある というのは、じぶんに とって ある という ある という こと だけだ。
じぶん だけに かんけいしている という ことだ。
たいじそんざいである という ことだ。
それ じたい として ある という ことは もんだいに ならない。
いしきに とって ある という ことが もんだいに なる。

それじたい として ある という、 ひていが ない ありかたが ある。
それ じたい として ある というのは、 ひていが ない という いみで、 こうていてき、 せっきょくてき である。 ぽじてぃーぶ。
この それ じたい として ある という ありかたを ひていする ことで、 じぶん いがいの ものに かんけいしながら、 それを ひていして、 じぶんに かんけいする という ひていてき ありかたを する。
とくに ここでは、 ひつぜんに たいして こころの ほうが たいりつ させられている。
ひつぜんは それ じたい として あるが、こころの ほうは、それを ひていして、 じぶんに たいして ある。

b4

こたいと ひつぜんせいの たいりつ

こころの ほうは ひつぜんせいと むじゅんしている。
ある べき ありかたは、 じっさいに ある ありかたと むじゅんしている。
そう である べき ありかたを していない うんめいで くるしむのだ。
くるしみは vorhandenする。vorhandenは てもとに ある という いみや、 げんぞんする という いみ である。
こじんの もくてきは ひつぜんせいを ひていする ことである。
こたい、こじんは ひつぜんせいの くるしみを ひていする。
(おそらく こじんは くるしみたくない という ぜんていが ある。しかし、 こたいを こじんと かくのは びみょうな きがする。 へーげるは ぜったいに ここでは にんげんの ことしか かんがえていなかったと おもうが、かといって、 こたいも あらわせる ことばを にんげんに げんていする かきかたを するのは、 とても だめなきがする。 わかりやすさの ために、 こじんも つけくわえるが、 こたいも かならず つかおう。)
こころのほう という この だんかいの こたい、こじんは、 まえの きもちいいの だんかいの こたい、こじんに くらべて ゆたかである。
きもちいいの だんかいの こたい、こじんは きもちいい ことを もとめる。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 きもちいい だけを もとめる ことは ない。
こころの ほうの こたい、こじんは、 「高邁な目的をいだく真摯なありかたをそなえたもの」だ。
こころの ほうが もとめる きもちいい こととは、 じぶんが すぐれて ある という ことを しめす こと である。

Sie ist hiemit nicht mehr der Leichtsinn der vorigen Gestalt, die nur die einzelne Lust wollte, sondern die Ernsthaftigkeit eines hohen Zwecks, die ihre Lust in der Darstellung ihres vortrefflichen eigenen Wesens und in der Hervorbringung des Wohls der Menschheit sucht.
107

「die Ernsthaftigkeit eines hohen Zwecks」で、Ernsthaftigkeitは しんけんさ、まじめさ、せいじつさ という いみ であり、 höheは たかい という いみ であり、Zweckは もくてき、もくひょう という いみである。
「vortrefflich」で ゆうしゅうな、たくえつした、すばらしい という いみである。
「Wohls der Menschheit」で、Wohlは しあわせ という いみであり、 Menschheitは にんげん、じんるい、にんげんせい、にんげんであること という いみ である。
Menschは にんげん という いみ だが、えいごや ふらんすごと おなじ ように、 おとこ という いみ でも ある。っさらに でんとうてきには、 その とちの こくせきを もつ、 どれい ではない、 せいじん した、 どうぶつ としての ひとの おとこ だけを いみしてきた。おそらく、 ここも そのような ぶんみゃくに もとづいている。 もちろん、 わるい。

ここでは しらーの ぐんとう(群盗) という さくひんを かんがえている らしい。

こころの ほうの こたいの きもちよさ

こころのほうの だんかいの こじんは、 じぶんじしん という ほうを げんじつに しようと する。
こころのほうの この だんかいの こじんが もとめる きもちいい ことは、 すべての ものの こころが もとめる きもちいい こと である。

ihre Lust daher zugleich die allgemeine aller Herzen.
107

Lustは きもちいい こと という いみ であり、 daherは したがって という いみであり、zugleichは どうじに という いみ であり、 allgemeinは ふへんてきな、みんなの、せけんいっぱんの という いみ であり、aller(allの にかく)は すべての という いみで あり、 Herzenは こころ という いみ である。
すべての ものが きもちよく なる ことが きもちよい こと である わけでは ないと おもう。
きもちよさは きほんてきに、 こたいてきな もの、 こじんてきな もの、 こべつてきなもの という いみ だった。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの きもちよい ことは、 ほかの こころの きもちよい ことと おなじ である という ことだと おもう。
こころの ほうの だんかいの こたいに とって、じぶんの きもちよさと ほかの こころの きもちよさは わける ことが できない。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの きもちよさは、 ほうに あっている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの きもちよさは、 みんなと おなじ であり、 ふへんてき である ので、 ほうで ある。 ほうに あっている。
こういう ばあいは、 こういう ことに なる という ほうに あっている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、ふへんてきな、 にんげん らしい ことの(そして、 いっていない いみ としては、 おとこ らしい、おとな らしい、どれい では ない もの らしい、 その とちの もの らしい という ことの) ほうを げんじつに しようとする。
つまり、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 にんげん(という なまえの おとこの おとなの どれいではない、 その とちの もの)ならば、 このように する べきだ という ほうを げんじつに しようと して、 そのように する。
こころの ほう という だんかいの こじんに とって、みんなの こころの ほうを げんじつに する ことが、 きもちいい こと である。
ただし、みんな とは、 「にんげん」 という なまえの、どれい ではない、おとこの おとなの 、 その とちの もの である どうぶつ としての にんげん たち、 みんな という いみ である。 わるい。
こころの ほうの だんかいの こじんに おいては、 こたいてきな もの、こじんてきな もの、こべつてきな ものは、 ひつぜんせい てきな もの、かならず おこる ことと ちょくせつてきに ひとつに なっている。
かんせつてきに ひとつに なっている のでは ない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの する ことは、 ちょくせつてきに かならず おきる こと である。
たんに こたいが、こじんが うんめいに なっている のである。
こたい、こじんは みんなと おなじ ことを とくに わかっている わけ では ないが、する。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、ほうは こころの ほう である。
じぶんが ほう だから。
しかし、まだ こころの ほうの だんかいの こたいは、こじんは、こじんの まま である。
こたい、こじんと ひつぜんせいが ひとつに なる ことが まだ げんじつに なって いない。
いずれ、 こたい、こじんと ひつぜんせいを ばいかいし、 つなぐ という うんどう、うつりかわりで ひとつに なる。
いずれ、くんれんで ひとつに なる。
こころの ほうの この だんかい では、 くんれんを うけていない。

「実現されるものは、直接的で訓練を経ていない〔「訓練を経ていない」を きょうちょうしている。〕本質であることが、卓越したありかたを呈示することと見なされ、人類〔るび:メンシュハイト〕の福祉を生みだすことであると見なされるのである。」
570ぺーじ

Die Verwirklichung des unmittelbaren ungezogenen Wesens gilt fuer Darstellung einer Vortrefflichkeit und fuer Hervorbringung des Wohls der Menschheit.

giltは gelten fürに あてはまる という いみの どうしの さんにんしょう げんざい である。
くんれんを へず、ちょくせつてきに ある という ことを げんじつに する こと とは、 すぐれている ことを あらわす という ことと、 にんげん としての しあわせを つくる こと である。
すぐれている ことを あらわす ことや、 にんげん としての しあわせを つくる ことは、 まだ ちょくせつてきに ある ことを げんじつに する という ことに すぎない。
かんせつてきに ある ことを げんじつに する こと ではない。
くんれんを すると、 すばらしさを あらわしたり、 にんげん としての しあわせを つくったり しないの だろう。

b5

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 それ じたい、こころ である。
こころの ほう という この だんかいの こたい、 こじん に とって、 ある べき こころの ほうと、じっさいに ある ひつぜんせい という ほうが たいりつ している。
なので、 ひつぜんせいの ほう、うんめいは、こころに たいりつ している。
こころの ほう という だんかいの こたい、 こじんに とって、ひつぜんせいの ほう、 うんめいは、 こころと かんけいしていない。
「それだけで解きはなたれて〔るび:フライ・ヒュール・ジッヒ〕存在している」(571ぺーじ)と かいてある ので、 じゆうに それ だけで ある という いみ かもしれない。
あまり ひゅーる じっひ(für sich)、 たいじ(対自)、 じぶんに とって という ことばを それ だけで という いみ だと かんがえたくない。
ここでの、 じっひ(sich)、じぶんは、 ひつぜんせい という ほう なのか、 この だんかいの こたい、こじん という じぶん なのか という もんだいが あると おもう。
どいつごで そういう つかいかたが できるのかは しらない。
たんに ひゅーる じっひ(für sich)、 たいじ(対自)で、 ふらい(じゆう、かんけい していない) の いみを きょうちょうしている だけ かもしれない。

ひつぜんせい という ほう、 うんめいに したがう じんるいに とって、 ほうと こころは ひとつに なっていない。
ほうと こころが ひとつに なっていたら うれしい だろう。
なぜなら、 あるべき ありかたが じっさいに ある からだ。
する べき ことを じっさいに する ことに なる からだ。
しかし、ひつぜんせい という ほう、 うんめいに したがう じんるいは、 くるしむ。
なぜなら、 ざんこくな ことに、こころと ほうは ひとつに なっていない から である。
くるしんで いないに しても、ほうを まもっていると、「自己自身〔「自己自身」を きょうちょうしている。〕を享受することもなく生きている」(571ぺーじ)。

in der Entbehrung des Genusses seiner selbst
108ぺーじ

Entbehrungは、 けつぼう、ふじゆう という いみ である。
Genussesは、 Genussの ぞっかく である。Genussは たのしむ とか、 あじわう とか、 きょうらく とか いう いみ である。
おそらく、 じぶん じしん である ことが できない という こと だろう。
さらに、 じぶんは、じぶん じしん でない ので、 たのしんでいない のだ。
または、 じぶんで あっても たのしめない という こと かもしれない。
ただし、 ちがう かのうせいも ある。 要調査。

ほうを まもっていると、 あるべき ありかたを げんじつに しようと する ので、 じっさいに じぶん である ありかたを ひていする ことに なる。
なぜなら、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、 ある べき ありかた である こころの ほうと、 じっさいに ある うんめいが ちがう から である。
たいして、 ほうを まもらないと、 じぶんが すぐれている ことが わからない のである。
は?
なぞ。
わからない。
ほうを まもらない という のは、 ある べき ありかたを していない という こと だから、 じぶんは すぐれていないのだ。
すぐれている という のは、 ある べき ありかたを している という こと である。

こころの ほうが もとめる きもちいい こととは、 じぶんが すぐれて ある という ことを しめす こと である。

くんれんを へず、ちょくせつてきに ある という ことを げんじつに する こと とは、 すぐれている ことを あらわす という ことと、 にんげん としての しあわせを つくる こと である。
すぐれている ことを あらわす ことや、 にんげん としての しあわせを つくる ことは、 まだ ちょくせつてきに ある ことを げんじつに する という ことに すぎない。

うーん。

または、 ほうを まもる じぶんを たのしむ というのが、 じゅうぶんではない という よみかたが できる かもしれない。

かみがみと ひとの ちつじょ

ひつぜんせい、うんめい という ちつじょは、 けんりょくが ある。
けんりょくとは、 きめる ことが できる という こと である。
きめる という のは、げんじつに する という こと である。
ひつぜんせい、うんめい という ちつじょは、 げんじつに する という けっていけんを もっている のだ。
うんめいは きまった ありかただ。
ひつぜんせい とは、 きまっている ことだ。
ひつぜんせい、 うんめい という ちつじょは、 かみがみと ひとびとの ちつじょと よばれる。

「自分たちが作った法(ノモス)や掟が同時に神の法でもあり,それゆえ人間の本性(ピュシス)に由来するものであるというギリシア人の確信」
大田孝太郎「「ノモス」と「ピュシス」──古代思想から近代思想へのその展開──」、広島経済大学研究論集、第36巻第2号 2013年9月、http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hue/metadata/12106、37ぺーじ

ここらへんの ことを いっていると おもう。

この ひつぜんせいの ちつじょは、 こころ とは かんけいない。
なので、 こころに とっては、 この ひつぜんせいの うんめいの ちつじょは、 かりの いつわりの すがた、 つまり かしょう(仮象)である。
しんの ありかた ではない かりの いつわりの すがた である。
あるべき ありかた、 つまり いであ では ない、 いつわりの ありかた である。
しかし、 かりの すがたが ひつぜんせい、うんめいに おもえるのは、 かりの すがただが、それが げんじつ であり、 けんりょくが くっついている から である。

ぐうぜんの いっち

ちつじょは ないようとして、 たまたま こころの ほうの ないようと おなじ である かもしれない。
つまり じっさいに あるべき ありかたを している かも しれないが、 それは あるべき だから ある のではなく、 たまたま あったのが あるべき ありかた だったに すぎない。
その ばあいは、 こころは とくに うんめいに たちむかう ひつようが ない。
あるべき すがたで ある ので、 とくに かえる ひつようが ない のである。
こころに とって、ほうの ありかたが じゅんすいに、 それに おいて、 それ じたいで ある という わけではない。
ないよう として ほうの ありかたを している ことが だいじ では ない。
じぶんが ほうである という ことを いしきする ことが だいじ である。
じぶんが ほうである という ことが、 こころに とって ある のである。
じぶんが ほうで ある ことに まんぞく している という ことが ある のだ。

dass es sich darin befriedigt habe.
106ぺーじ

darinは そのなかで という いみ である。
befriedigtは まんぞくさせる という いみの どうし、befriedigenの かこぶんし である。
sich befriedigenは ますたーべーしょんする、じいこういする という いみ である。
ほうの なかで じこまんぞく している という ことが、 ぐうぜん ではない、ひつぜんてきな ありかた という ことに なる のだろう。

たいして、 ふへんてきな ひつぜんせいの ないようが、 こころと あわない とき、 ひつぜんせいの ないようは、 それ じたい として、 じぶんに おいて、なんでも ないもの(nichts)だ。
ひつぜんせいは、 こころの ほうに まける。
こころの ほうが げんじつに なり、 ひつぜんせいは げんじつに ならない。

b6

なしとげる

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、じぶんの こころの ほうを なしとげる(”vollbringt”(108ぺーじ)、 なしとげる、じょうじゅする という いみの どうし、vollbringenの げんざいけい)。
こころの ほうが なしとげられる ので、こころの ほうが げんじつに なる。
それまでは、 ひつぜんせい としての うんめいが ちつじょ だった。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに よって、 こころの ほうが げんじつに なる。
なので、 こころの ほうが ふへんてきな ちつじょに なる。
きもちいいの だんかいの こたい、こじんに とって、きもちいい ことは げんじつ ではない。
なぜんら、 きもちいい ことを めざすが、 きもちいい ことに たどりつかない からだ。
こべつてきな きもちいい ことは げんじつに なって いなかった。
なので、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっても、それ じたいに おいても、ぜったいてきに きもちいい ことは ほうに あった げんじつ である。
(きもちいい ことは、 きもちいいことと かんけいしている、 という いみ かもしれない。きもちいい ことは、 ちょくせつてきに ある のではなく、 かんせつてきに ある。きもちいい ことは なにか べつの ものと おなじ である という ありかたで、けっきょく じぶんと かんけいしている。はんしゃ、はんせい、たちもどる という ありかたを している。)
きもちいい ことは げんじつに なる。
みんなと おなじ きもちいい ことが、こころの ほうの こたい、こじんの きもちいい ことに なる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、 ほうが なくなる。
ほうは こうていされる もの ではなくなる。
ほう という じょうけんと けっかの かんけいは ひていされる。
こころの ほうを めざすと、 けっか として こころの ほう ではない ところに たどりつく という へーげるの べんしょうほうの よく ある うつりかわり である。
こころの ほうは げんじつに なると、 こころ ではなく、 ある ことの ほうそくに なる。
こころの ほうは、 こころ という けいしき から、 ある という けいしきに かわる。
げんじつに なる とは、 ある ように なる という こと だから である。
こころの ほう だった ものは、 ふへんてきな ちからに なる。
ちからとは、 いりょく、「威力」(572ぺーじ)である。

「ちゅうしょうてきな ひつぜんせいは、 いりょく である。
いりょくは、 ちから という こと だが、 ごせいで とらえられる ちからとは べつの ことば だと おもわれる。
ひつぜんせいが いりょく であるのは、 かならず おこる というのは、 おこらないように しようとしても、 むりやり ちからで、 つまり いりょくで おこさせられる から である。
ここで ちゅうしょうてきな ひつぜんせいが もんだいに なるのは、 まだ かんせつてきに ぐたいと かかわる ひつぜんせいが もんだいに なっておらず、 ある こじんの できごとから とりだしたにすぎない ひつぜんせいが もんだいに なっている からだ。
きょうちょうが ちゅうしょうてきに はいっているが、 もしかしたら へーげるは きょうちょうを いれる ときは、まいなすな いみで つかっている とき かもしれない。
この いりょくは、 ひていてきである。
なぜなら、 じこいしきに とっての じぶんが じぶんに おいて あるのではなく、 ほかのものに おいて ある ように なる から、 じぶんが ひていされると かんがえられる から である。
または、 こべつてきな ありかたを めざした はずなのに、 その こべつてきな ありかたは ひていされて、 ふへんてきな ありかたに なっている から である。
なので、 また この いりょくは ふへんてき である。
この いりょくは とらえにくい。
なぜなら、 まだ この だんかいの きもちいいの じこいしきは うんめいを かんがえられていない から である。
この だんかいの きもちいいの じこいしきは、 たんに まきこまれる ちからの ながれ、 かみの ながれに しか おもえない。
ひつぜんせいという いりょくで こたいは くだけちる。ばーん!」
https://hunihunisaito.hatenablog.com/entry/2021/03/07/121852

きもちいいの まえの だんかいの こたい、こじんに とって、いりょくは うんめい である。
こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんに とって、 いりょくは こころの ほうに たいりつしていた。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが、 こころの ほうを げんじつに すると、 いりょくに なる。
こころの ほうと いりょくは たいりつ しているが、 まえの うんめいとは また ちがう。
こころの ほうが げんじつに なった けっか としての ふへんてき いりょくと、 こべつの こころは かんけいしていない。
この こころ、つまり こべつの こころは ふへんてき いりょくに ねじふせられる。
この こころ、 つまり こべつの こころは どうでも いい。
どうせ、 こたい、こじんも みんなと おなじ だから である。
という よりも、 こたい、こじんが みんなの ひとつ である から である。

ちつじょを せっていする

「そのけっか個体はじぶん自身の〔「じぶん自身の」を きょうちょうしている。〕秩序を、その秩序を設定する〔「設定する」を きょうちょうしている。〕ことによって、もはやみずからの秩序としては見いださない。」(572ぺーじ)

so dass das Individuum seine eigene Ordnung dadurch, dass es sie aufstellt, nicht mehr als die seinige findet.
108ぺーじ

dadurchは その けっか という いみ である。
audstelltは たてる、つくる という いみの どうし aufstellenの げんざいけい である。
mehrは より いじょう という いみである。
この ぶんでは、 ふたつの かのうせいが ある。
ひとつ、 nicht mehrで もはや なになに ではない という いみに なる。
ふたつ、mehr alsで これこれ いじょうの こと である という いみに なる。
ふたつめでも ひていぶんが ありえて、 その ばあい、 nichtと mehrは うちけすと かんがえると わかりやすい。
たとえば、 ”Das ist nicht mehr als recht und billig.” 「それはしごく当然のことだ(それ以上のものではない)」(『クラウン独和辞典第二版』、せいれき1997ねん、889ぺーじ) などが ある。
きほんの ぶんこうぞうは、 「こじんは じぶんの ちつじょを じぶんの もの いじょう とは おもう ことは ない」、または「こじんは じぶんの ちつじょを じぶんの ものと おもう ことは もはや ない」 であり、 あいだに、 「こじんは じぶんの ちつじょを つくる」が はさまっている。
ぶんみゃく てきに、 「こじんは じぶんの ちつじょを じぶんの ものと おもう ことは もはや ない」 だと かんがえる。わからない。要調査。
nicht mehr alsを nicht mehrで 「もはや」という いみに なる のは、どいつごの ぶんぽうから きまる のだろうか? それとも ぶんみゃくから きまる のだろうか?

seinigeは さんにんしょうが もっている ものを いみする。
1997ねんの じしょで 「古風な言い方」 (『クラウン独和辞典第二版』、せいれき1997ねん、1225ぺーじ)と かいてある。
もちろん、へーげるの じだいでは、 こふうでは ない かもしれない。

いままでの (いしき、じこいしき、)こたい、こじんは、 じぶんが ちつじょ であると はっけんする ことは あった。
じつは じぶんは ちつじょに のっとって いたと わかる ことは あった。
しかし、 こころの ほうの この だんかいの こたい、こじんに おいて、じぶんの ちつじょを つくりだす ことに なる。
みいだすの ではなく、 つくりだす のだ。
じぶんじしんが ちつじょ であるの ではななく、 じぶんが ちつじょを つくる。
ちつじょを つくる ものは、 ちつじょを こえている。
じぶんが つくる ものは、 ある いみで じぶん では ない もの である ので、 たんに ちつじょを じぶんの ものと かんがえる ことは ない。

(ただし、 いちおう、 じぶんじしんの ちつじょを じぶんの もの としか おもわない という いみも かんがえられる(mehr alsの ひてい)。
これまでの だんかいの こたい、こじんは ほかの ものの なかに ある じぶんを みつけて じぶんと かんがえてきた。
つまり、じぶんの ちつじょは、 ほかの ものの なかに ある。
なので、じぶんの ちつじょは、 ほかの ものの ちつじょ でも ある。
しかし、こんどは じぶんの ちつじょを つくりだす ので、ほかの ものの ちつじょとは おもわない。

しかし、この よみかたは つぎの ぶんと あわない。
「じぶんの法則を実現することで個体が生みだすものは、それゆえじぶんの〔「じぶんの」を きょうちょうしている。〕法則ではない。当の秩序はそれ自体としては〔「それ自体としては」を きょうちょうしている。〕みずからの秩序であるにせよ、それは個体に対してはかえって一箇の異他的な秩序である。」(572ぺーじ)
なので、じぶんじしんの ちつじょを じぶんの もの としか おもわない という いみではない。
と、いいたい。
しかし、まえと あとで はんたいの ことを いう ことが ありえない わけではない。)

うみだす

「じぶんの法則を実現することで個体が生みだすものは、それゆえじぶんの〔「じぶんの」を きょうちょうしている。〕法則ではない。当の秩序はそれ自体としては〔「それ自体としては」を きょうちょうしている。〕みずからの秩序であるにせよ、それは個体に対してはかえって一箇の異他的な秩序である。」
(572ぺーじ)

こころの ほうが げんじつに するのは、 こころのほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 ほかの ものの ちつじょ である。
「ほかの ものの ちつじょ」と いうとき、 「ほかの もの」は 「にんげん」としての ほかの もの だけか、 にんげん いがいも ふくめた じぶんでは ない もの すべて なのか。
いや、「ほかの ものの ちつじょ」と いうべきか、 「じぶんの もの ではない ちつじょ」と いう べきか。
ともかく、 こころの ほう という この だんかいの こたい、こじんに とって、 こころの ほうは じぶんの もの ではない ちつじょ である。
しかし、 われわれに とっては、 こころの ほう、 それ じたいは、 じぶんの ちつじょ である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって ではない なら、こころの ほうは じぶんの ちつじょ である。
こころの ほうは じつは じぶんの ちつじょ だが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじん に とっては ほかの ちつじょ である。

こじん、こたいが うみだすのは、じぶんの ほうそく ではない。
こじん、こたいが うみだすのは、「現実的な秩序へとじぶんが巻きこまれるという消息」(572ぺーじ) である。

どいつご げんぶん1

Durch die Verwirklichung seines Gesetzes bringt es daher nicht sein Gesetz, sondern indem sie an sich die seinige, für es aber eine fremde ist, (nur dies hervor, in die wirkliche Ordnung sich zu verwickeln; und zwar in sie als eine ihm nicht nur fremde, sondern feindliche Übermacht. )
108ぺーじ

「じぶんの法則を実現することで個体が生みだすものは、それゆえじぶんの〔「じぶんの」を きょうちょうしている。〕法則ではない。当の秩序はそれ自体としては〔「それ自体としては」を きょうちょうしている。〕みずからの秩序であるにせよ、それは個体に対してはかえって一箇の異他的な秩序である。」(572ぺーじ)

どいつご たんご1

daherは それゆえ という いみ である。
bringenは へともたらす という いみ である。なになに durch den Winter bringen で、 なになにに ふゆを こさせる という いみに なる。
nichtあれあれ sondern これこれ で、 あれあれ ではなく、 これこれ という いみ である。
indemは することによって、しながら という いみ である。
aberは そして という いみ である。
fremdは よその、がいこくの、たにんの、なじみがない、しらない という いみ である。

どいつご こうぞう1

indemの せつ では、 「sie(ほうを げんじつに する こと)が an sich(それ じたい) die seinige(じぶんの もの) で あり(ist)、 für es(それ、 つまり こたいである こじんに たいして) eine fremde(ひとつの べつの もの)で ある(ist)」という こうぞうである。

どいつご げんぶん2

(Durch die Verwirklichung seines Gesetzes bringt es daher nicht sein Gesetz, sondern indem sie an sich die seinige, für es aber eine fremde ist,) nur dies hervor, in die wirkliche Ordnung sich zu verwickeln; und zwar in sie als eine ihm nicht nur fremde, sondern feindliche Übermacht.
108ぺーじ

「そうであるからには、個体が生みだすのは、現実的な秩序へとじぶんが巻きこまれるという消息にほかならない。この秩序はしかも、個体にとって異他的なものであるばかりではなく、個体にとって敵対的な圧倒的威力なのだ。」
(572ぺーじ)

どいつご たんご2

nurは ただ これこれ だけ、 ただしかし という いみ である。
diesは この という いみの dieserの たんすう ちゅうせいの いちかく、よんかくの diesesの べつの かたち である。めいし として、 このこと という いみで つかわれる。
hervorは そとへ、てまえへ、こちらへ という いみ である。
nur dies hervorで ただし この ことは こちらの ほうで おいて でしか ない という いみ である。かくしょうが ない。 要調査。
zu ふていしで、 ふていしする こと という いみ である。
sich in なになに verwickelnは あらそい などの なになにに まきこまれる、おちいる という いみ である。
und zwarは そして もっと せいかくに いうと という いみ である。
inは なかに という いみ である。
sieは さんにんしょう たんすう じょせいの いちかく、よんかくの だいめいし である。つまり ここでは げんじつに する こと である。
ihmは ちゅうせい または だんせい たんすう さんにんしょう だいめいしの さんかく である。 つまり、それに とって という いみ である。
Übermachtは ゆうい(優位)、ゆうえつ(優越)という いみの めいし である。
als eine ihm nicht nur fremdeが かくにん できない。 要調査。

どいつご こうぞう2

nur dies hervor(ただし この ことは こちらに おいて でしか ない)を はさんでいる。 die wirkliche Ordnung(げんじつ てきな ちつじょ)に sich verwickeln(まきこまれている) という こと。und zwar(そして もっと せいかくに いうと) げんじつに する ことに おいて、 こたいに とって(ihm)、ひとつの ほかの もの である だけではなく(nicht nur ... sondern)、 feindliche Übermacht (が もたらされるの)だ。

やくしてみた。
「ただし この ことは こちらに おいて(、つまり われわれに とって) でしか ない。 げんじつ の ちつじょ に まきこまれる という ことを、 こたいが もたらす(、または こころの ほうを げんじつに する あいだで ずっと つづく ように、 こたいが がんばる(する))。そして もっと せいかくに いう と、 こころの ほうを げんじつに する ことに おいては、こたい、つまり こじんに とって たんに なんらかの ほかの もの である だけ では ない ように、てきの ちからが つよい という ありかたを もたらすの である。」

まきこまれる

こじん、こたいが うみだすのは、「現実的な秩序へとじぶんが巻きこまれるという消息」(572ぺーじ) である。
こうぞうは sich zu verwickeln bringen である。
zuさいきどうしの ふていしを bringenする。

bringenは zuふていしの どうしと もくてきごの よんかくを つかってしえき(使役)の いみに なる。
しえきとは、 だれだれに なになにさせる という いみで ある。
しかし、 よんかくの もくてきごが みつからない。

bringen zu
to cause to
https://www.dict.cc/german-english/bringen+zu.html

zuふていしが よんかくの もくてきごの やくわりを している かもしれない。
する ことを もたらす という いみ である。
または、 する ことを つづける という いみ である。

なので、こころの ほうを げんじつに する ことで、 こたい、こじんは げんじつの ちつじょに まきこまれ つづける。
その げんじつの ちつじょは、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 じぶんの もの ではなく、 ほかの ものの もの である。
しかし、げんじつの ちつじょは、 ほかの ものの もの である だけではなく、てきが つよい ちからを もっている という こと である。
ひつぜんせい、うんめい という じぶんとは ちがう ものの ちからが じぶんよりも つよい という こと である。
この げんじつの ちつじょに なすすべなく まきこまれる という ことが ちからが つよい という こと である。

する ことで

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 なにかを する。
なにかを する ことで、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんを げんじつの なかに つくる。
じぶんを げんじつの なかに つくる という ことは、 じぶんを げんじつの ちつじょに まきこむ という こと である。
どちらも、 げんじつの なかに じぶんを いちづける から である。
しかし、こころの ほうの だんかいの こたいは、 ただ じぶんとは べつの げんじつに まきこまれる だけ ではない。
ちからを くらべられる げんじつに まきこまれる のだ。

げんじつは、 こたいの てき であり、 てきとは、たいりつする もの である。
そもそも、 てき という ことばは、 feindliche という ことば から もってきた。
Feind という ことばは 「てき」(敵)と やくされる。
しかし、 にほんごの 「てき」 よりも より ひろい いみが ある。
Feindは たいりつ する もの という いみも ある(”männliche Person, die etwas entschieden bekämpft” はっきりと なにかと たたかう おとこの ひと、https://www.duden.de/rechtschreibung/Feind )。
げんじつが、 こたいの てき、たいりつ する もの という ばあい、 うんめいの ことが きほん てきに かんがえられている。
こたい、こじんには、じぶんに とっての げんじつには かてないのだ。
げんじつに したがう しか ない。

そして、 ちからが くらべられる という ことは、 ちからとして くらべられる きょうつうてんが ある という こと である。
もちろん、 こたい、こじん よりも げんじつの ほうが つよい。

この げんじつは、 ある という とくちょうが わりあてられる。
または、この げんじつは、 そんざい という とくちょうが わりあてられる。
そんざい という ことばは、 いろんな ことばと くらべて つかわれる。
たとえば、 がいねんと そんざいが くらべられる。
がいねん として あたまの なかに しか ないに たいして、 じっさいに ある という ことが くらべられている。
この ばあいの 「がいねん」は、 へーげるが すぐれていると かんがえる 「がいねん」 では ない。
この ばあいの じっさいには かんけいしていない がいねん よりも、 じっさいに かんけいしていて、 ある という そんざいを へーげるは すぐれていると かんがえている。
また、 そんざいと うんどうが くらべられる。
そんざい として あんていして とまっている ものに たいして、うんどう として うごいて あんていしない ものが くらべられている。
この ばあいは、 そんざい よりも うんどうの ほうが すぐれていると へーげるは かんがえている。

ここで、 げんじつに ある、そんざい という とくちょうが わりふられる とき、 ある とか そんざい という ことばは、すぐれていない 「がいねん」では なく、 じっさいに ある という めんでは すぐれているが、 うんどうに までは たどりついていない ある とか そんざい である。

つづいて 「普遍的境位」(572ぺーじ)という ことばが でてくる。
境位、きょういは えれめんと という ことばの にほんごやく である。
えれめんとは、 いるべき ばしょ という いみ である。
げんじつが ふへんてき きょうい である。
げんじつが ふへんてき である りゆうは、げんじつが じぶん だけ ではなく、 みんなに かんけいしている から である。
げんじつの なかに こころの ほう という だんかいの こたい、こじんが いる ので、 げんじつが そのなかに いるべき ばしょ である。

そして、 むずかしい ところが きました。
こころの ほうの だんかいの こじん、こたいは、じぶんを ふへんてき きょうい として うちたてる らしい。
おそらく、 ふたつの よみかたが できる。
ひとつは、 まえの ぶんしょうを さんこうに する よみかた である。
げんじつが ちからを もっている という てんで、こたい、こじんと にている という こと である。
げんじつが こたいと にている のだから、こたいは げんじつ であり、 げんじつが ふへんてき きょうい(普遍的境位)であり、 だから こたいも ふへんてき きょうい(普遍的境位)である。
すくなくとも、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは ふへんてき きょういに なろうと する。
じぶんが ふへんてきな ものの ひとつ である ので。

もう ひとつは、 つぎの だんかいを せつめいしていると かんがえる よみかた である。
こたいが げんじつに まけても、 こころの ほうの だんかいの こたいの、 つぎの だんかいが ふへんせいを かちとる ことに なって げんじつが まける のである。
とく という つぎの だんかいに うつりかわる ことが、 なにかを する ことで おこる という ことを せつめい している かもしれない。

または、 えれめんと という ことばが、 ひとつの ぶぶんを あらわす ことも ある。
そういう わけで、 こころの ほう という こたいも ふへんてきな ぶぶんとして じぶんを うちたてる ことに なるのだと おもう。

おこなう ことが ちつじょを もつ ことに なる。

のちに こころの ほうの だんかいの こたいと、 とくの だんかいの いしきの おこない、 なにかを する ことは、 ふへんてきな ちつじょ という いみを もつ ように なる。
つまり、 なにかを する ことは、 みんなと おなじ ことを ちつじょに したがって する という ことに、 とく という いしきは たどりつく ことに なる のだ。
まえは なにかを する ことは、 きもちいい という だんかいの じこいしきに とっては、 ちょくせつてきに じぶん だけに かんけいする こと であり、こころの ほう という だんかいの こたい、こじんに とっては、じゃっかん ふへんてき である。

”nach seinem Sinne”という ことばが でてくる。
それの いみに そって、それの いみに したがって、 それの もくひょうの ほうへ など という いみ である。
「その いみ」 という しじ けいようしを つかっている わけでは ない ことに ちゅういする。
「それの いみ」である。
「それ」は なにを さしている のだろうか?
なにかを する こと、 おこない、 たーと、Tatか、 こころの ほうの だんかいの こじんか。
Tatは、 いとてきに おこなう こうい、はんこう という いみ だからだ。
おこない という たんごの いみに したがって という いみ かもしれないが、 たぶん、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの もくひょうに したがって という いみ かもしれない。
こっちな きがする。 なぜなら、 seine Tat、 seine Tat、 seinem Sinneと ならんでいる から、 おなじものを さしていると かんがえられる からだ。
げんぶんは こんな かんじだ。

Durch seine Tat setzt es sich in oder vielmehr als das allgemeine Element der seienden Wirklichkeit, und seine Tat soll selbst nach seinem Sinne den Wert einer allgemeinen Ordnung haben.

ちなみに、 ここの どうしの ひとつの soll(sollenの かつようけい)は、 するべきだ という いみも あるが、 ここでは、 「する ことに なる」、「このように なる という うんめいに ある」という いみ であると おもう。
また、 「なにかを する ことは、 ふへんてきな ちつじょ という いみを もつ ように なる。」と かいたが、「いみ」ではなく、 かち(価値)という ことばで へーげるは かいている。Wert という ことばだ。
この Wert、べると という ことばは、 いみ という いみも ある。

こころの ほう から とくへ

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの おこないは、 ふへんてきな ちつじょ という いみを もつ ように なる とは いっても、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、じぶんから じぶんを かいほうする ことに なる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは ふへんてきな ちつじょに のっとって、 なにかを する、 または おこなう ことに なる ので、こころの ほうの こたい、こじんの おこないは ふへんてきな ありかたに 「したがう」 ように おもえる。
freigelassenは じゆうに する、 しゃくほう する、 かいほうする という いみの どうしの freilassenの かこぶんしである。
freiは じゆう である とか、 かいほう(解放)されている とか、 しばられていない という いみ である。
lassenは させる という いみ である。

しかし、 ふへんてきな ありかたに 「したがう」 というのは、あまり ちゃんと していない かきかた である。
ふへんてきな ちつじょに 「したがう」 という のは、じゆうで あり、 しばられていない という こと である のだ。
ふへんてき である ことは、 みんなと おなじ である こと である。
つまり、 ふへんてき である ことは、 どんな じょうけんでも おなじ である こと である。
どんな じょうけん でも おなじ である とは、じょうけんに しばられない という こと である。
じょうけんに しばられない という ことは、じょうけんに したがう ことが ない という こと である。
また、 じょうけんは げんじつ とも いいかえる ことも できる ばあいも ある。
げんじつは どう あれ、 ひつぜんてきに おこる こと こそが じゆうであると へーげるは かんがえる。
もちろん、へーげる だけではなく、 いろんな ものが おなじ ように じゆうとは ひつぜん であると かんがえる。
てつがくしゃに とっての かみ という ひつぜんが いちばん じゆうと かんがえる のだ。
ほかに じゆうな もの、 しばられていない ものと いえば、 いきもの である。
どんな じょうけんでも いきている かぎり いきものは、 じぶんで ありつづけ、 いきている。
また、がいねんも じゆう である。
いろんな じょうけんの ものが おなじ がいねんで かんがえられる。
たとえば、 じぶん という がいねんは、 いろんな ものが つかえる。
ある ものが じぶんの ことを じぶんと いい、 ほかの ものが じぶんの ことを じぶんと いう。
ある ものと ほかの ものは ぜんぜん ちがっても、 おなじ じぶん という がいねんで あらわされる。

はなしを もどすと、 「こころの ほうの こたい、こじんの おこないは ふへんてきな ありかたに 「したがう」 ように おもえる」 ような ありかたに なるのは、 とくの いしきの こたいに おいて である。
とくの いしきの おこないは じゆうに なっていく ので、どうじに、 とくの いしきは じぶんを じぶんから かいほう(解放)する。
とくの いしきは じぶんを じぶんに しばりつけない ように なる。
とくの いしきは じぶんが じぶんと おなじの ままに かえない ことが ない。
とくの いしきに よって、 じぶんは じぶんから じゆうに なる。
とくの いしきに よって、 とくの いしき という じぶんは かわっていく。
とくの いしきは かつどう する ことで じぶんを かえる。

こころの ほうの こたい、こじんは せいちょうしていく。
こころの ほうの こたい、こじんは ふへんてきに なり、とくの いしきに なる。
ただし、こころの ほうの こたい、こじんは、 とくの いしきに なって、 じぶんに とって ふへんてきに なる。
とくの いしきに なると とくの いしきに とって じかくてきに ふへんてきに なる。
つまり、 とくの いしきは じぶんが ふへんてきで ある ことが わかる ように なる のだ。
そして、 この せいちょうに おいては、 われわれの かいにゅうは いらない。
こころの ほうの こたい、こじん から とくの いしきへ せいちょう していく ときに、 その だんかいの いしき だけで せいちょう していく。
じぶんだけで せいちょうする という いみと、 じぶんに とっての ふへんせい という いみは、 ともに für sichふぃーる じっひ という ことばが つかわれている。
für sichふぃーる じっひ、 たいじ(対自) とは、 じぶんだけ という いみと、 じぶんに とって という いみが ある。

こころの ほうの こたい、こじん という こべつてきな ありかた から、 とくの いしき という ふへんてきな ありかたへ かわっていく。
こべつてきな ありかた から ふへんてきな ありかたへ じゅんすいに なっていく。
こころの ほうの こたい、こじんは、 みんなと おなじ しあわせを じぶんが もとめる という ふへんてきな ありかた である。
しかし、 こころの ほうの こたい、こじんは、じぶんが しあわせを もとめる という こべつてきな ありかた でもある。
たいして、 とくの いしきは ただしい という ふへんてきな ありかたを もとめる。

わかららない けど みんなと おなじ ように なにかを する こと

こころの ほうの こたい、こじんは、 ちょくせつてきに じぶんに かんけいしている という、 みんなの ありかたを しりたいと おもう。
こころの ほうの こたい、こじんは、 ふへんせいを しろうと する。
しかし、こころの ほうの こたい、こじんは、 ふへんせい、 つまり みんなの ありかたを、 ちょくせつてきに じぶんに かんけいして ある という ありかた として しか かんがえようと していない のだ。
こころの ほうの こたい、こじんは、 じぶんに たいして ある という ありかた のみで かんがえ ようと する。
こじんに たいして ある という ありかたは、 たいじてき そんざい であり、 じぶんに かんけいして ある という ありかた として であり、じぶんに とって じぶんが ある という ありかた として である。
こころの ほうの だんかいの こじん、こたいに とっては、 じぶんに とって じぶんが ある という だけの もの として みんなの ありかたを かんがえようと する。
こころの ほうの だんかいの こじん、こたいに とっては、まだ じぶんに おいて ある という ありかたが ない のである。
みんなは われわれに とっては、じぶんに とって あり ながら、じぶんに おいて ある という ありかた である。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんでは、 まえに のべた、 じゆうな ふへんせい、 つまり じょうけんに しばられていない という みんなの ありかたの なかに じぶんが あるとは わかる ことが できない。
われわれに とっては、 こころの ほうの こたい、 こじんは、 とくの いしきに なる だんかいに うつりかわる なかで、 しばれれていない みんなの ありかたの なかに ある。
しかし、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 じぶん、 つまり こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じょうけんに しばられていない みんなの ありかたの なかに ある ことは ない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じょうけんに しばられていない みんなの ありかたの なかに あると じかくする ことは ない。
この じゆうな ふへんせいは、 そんざいする げんじつの ふへんてきな きょうい(境位)、えれめんと である。

しかし、 われわれに とっては、 こころの ほうの こたい、こじんは、 それに おいて、 それ じたい として、 みんなと おなじ ありかたを している。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは とくの いしきに いつのまにか なる から である。
なぜなら、そんざいする げんじつの ふへんてきな きょうい(境位)、えれめんとは、 なにかを する という ふへんてきな ありかた である から である。
なにかを する という いみでは、 みんな おなじ である。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが する ことは、 みんなと おなじ ように する という こと である。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じんるい としての しあわせ、 ほかの ものと おなじ ような しあわせを もとめる のだ。

ちなみに、 へーげるは Tunと Tatを わけていたの だろう。
Tat、 おこない、 された なにか を、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが する ことで、 じぶんを とくの いしきに じぶんを かえていく。
Tat、 おこない、 された なにかは、 とくの いしきに とっては、 ふへんてきな ちつじょを もっている。
Tun、ふるまい、こうい(行為)が ふへんてきで ある から、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、じかくを していないが、 われわれに とっては、 それ じたい として ふへんてき なのである。
Tat、 おこない、 された なにかは、とくの いしきの もの であるが、 Tun、ふるまい、こうい(行為)は、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの もの である、 という ちがいが ある かもしれない。

どいつご げんぶん3

das Individuum, welches die Allgemeinheit nur in der Form seines unmittelbaren Fuer−sich−seins erkennen will, erkennt sich also nicht in dieser freien Allgemeinheit, waehrend es ihr zugleich angehoert, denn sie ist sein Tun.
108ぺーじ

「個体は、普遍性〔るび:アルゲマインハイト〕をひたすらじぶんが直接に対自的に存在する〔るび:フュールジッヒザイン〕という形式にあって認識しようとする場合には、したがってこの自由な普遍性のなかにみずからを認識することがない。そのいっぽうで個体は同時に普遍的なありかたに所属しているのであって、それも普遍的なありかたはじぶんの行為〔るび:トゥーン〕からなるものであるからだ。」
573ぺーじ

どいつご たんご3

währendは いっぽう という いみ である。
zugleichは どうじに という いみ である。
angehörenは にしょぞくする という いみ である。
dennは なぜなら という いみ である。
Tunは する こと という いみ である。

どいつご こうぞう3

こじん(das Individuum)が しゅごで、しゅごを せつめいする かんけいせつが、welchesせつ である。
こじん(das Individuum)は、ふへんてきな ありかた(die Allgemeinheit)を ただ たんに じぶんに・とって・ある という ありかたで にんしき したいと おもう。 という welchesせつが まず ある。
そして、しゅごに たいする じゅつごが、 にんしきする という いみの erkennt である。
もくてきごが じぶんを いみする sich であり、 その じぶんが じゆうな ふへんてきな ありかたの なかには ないと こたいが にんしきする という いみに なる。
いっぽう(während)、 それ(es)、 つまり こたいは、 その こと(ihr)、つまり ふへんてきな ありかたに しょぞくしている という いみに なる。
なぜなら(denn) そのこと(sie)、 つまり ふへんてきな ありかたは こたいが する こと だから である という いみ である。

てんとう

どいつご げんぶん 4

Dies Tun hat daher die verkehrte Bedeutung, (der allgemeinen Ordnung zu widersprechen, denn seine Tat soll Tat seines einzelnen Herzens, nicht freie allgemeine Wirklichkeit sein; )
108ぺーじ

「個体のふるまい〔るび:トゥーン〕には、〔個体が普遍性に対抗しようとする以上〕それゆえ顚倒された意義があることになる。(それは、普遍的な秩序と矛盾し、これに抗議する〔「矛盾し、これに抗議する」を きょうちょうしている。〕(widersprechen)というものであって、それも、個体のなすところ〔るび:タート〕は個体の〔「個体の」を きょうちょうしている。〕個別的な心情からなされたこと〔るび:タート〕であるはずであり、自由な普遍的現実であってはならないからである。)」
573ぺーじ

どいつご たんご4

verkehrteは けいようしの verkehrtの じょせいけい である。
verkehrtは ぎゃくの、 まちがった、 せいはんたいの という いみ である。
(verkehrtは、 どうしの verkehrenの かこぶんし である。
verkehrenは ぎゃくのものに てんか(転化)する という いみである。
たとえば、Tatsachen verkehrenで しんじつを わいきょくする という いみに なる。
kehrenは うらがえす、てんじる という いみ である。)
Bedeutungは ことばの いみ とか、 じゅうようせい とかの いみが ある。
ことばの いみ という いみでの Bedeutungの れいぶん として、 Das Wort hat verschiedene Bedeutung. 「この語にはいろいろな意味がある」 という ぶんが ある(『クラウン独和辞典 第二版』)。
じゅうようせい という いみでの Bedeutungの れいぶん として、 Das hat grosse Bedeutung.「それは非常に重要である」とか Das hat keine Bedeutung. 「それはまったく重要でない」 とかの ぶんが ある(『クラウン独和辞典 第二版』)。


ふれーげ という ひとの はなしでは、 Sinnは どういう いみか という もんだい であり、 Bedeutungは なにを いみしているか という もんだい である。
たとえば、 「よいの みょうじょう」(宵の明星)と 「あけの みょうじょう」(明けの明星) という ことばが ある。
「よい」は ゆうがたの ことで、 「あけ」は あさがたの こと であり、 「みょうじょう」は あかるい ほし という いみ である。
よいの みょうじょうも、 あけの みょうじょうも きんせい(金星) である。
しかし、 ゆうがたに みえる あかるい ほし という どういう いみか という もんだいの Bedeutungと、 あさがたに みえる あかるい ほし という どういう いみか という もんだいの Bedeutungに たいして、 どちらも きんせい(金星) という いみで、 なにを いみするか という もんだいの Sinn である。
いめーじ としては、 Sinnは やじるしの ほうこうであり、 Bedeutungは やじるしの さき である。
しかし、 こまるのは、 die という ていかんしが Bedeutung に ついている こと である。

ていかんし という のは、 きほんてきに やりとりしている ものが みんな、 それは これだと わかる ような ものに つける。(どいつご だと ちがう かもしれない。)
die verkehrte Bedeutungは だから、 おそらく まえに かいてあった ながれを いっている のかもしれない。
つまり、 じかくは していない けれど、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 ふへんてきな ありかた として なにかを している という いみが、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの Tun、おこない、こうい(行為)には ある。
または、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの Tun、おこない、こうい(行為)が だいじだと かんがえられて いるが、 それは まちがっている という ことを いっているの かもしれない。
ぎゃくに だいじである という こと かもしれない。
ぎゃくに という のは、 ぎゃく でなければ たんに だいじ だが、 ぎゃく では じかくしていない のに だいじ である という こと である。

どいつご げんぶん 5

(Dies Tun hat daher die verkehrte Bedeutung, )der allgemeinen Ordnung zu widersprechen, denn seine Tat soll Tat seines einzelnen Herzens, nicht freie allgemeine Wirklichkeit sein;
108ぺーじ

「(個体のふるまい〔るび:トゥーン〕には、〔個体が普遍性に対抗しようとする以上〕それゆえ顚倒された意義があることになる。)それは、普遍的な秩序と矛盾し、これに抗議する〔「矛盾し、これに抗議する」を きょうちょうしている。〕(widersprechen)というものであって、それも、個体のなすところ〔るび:タート〕は個体の〔「個体の」を きょうちょうしている。〕個別的な心情からなされたこと〔るび:タート〕であるはずであり、自由な普遍的現実であってはならないからである。」
573ぺーじ

どいつご たんご 5

zu たどうしの ふていしは、 されるべき、されうる という いみで ある。
ただ、 ”der allgemeinen Ordnung zu widersprechen”という ような、 けいようし として zuふていし という かたちを つくるかは わからない。もしかしたら、 seinどうしの しょうりゃく かもしれない。要調査。
widersprechenはむじゅんする とか いぎをとなえる という いみ である。

どいつご こうぞう 5

つぎの みっつが おなじ もの である。
1. こころの ほうの Tun、おこない、こうい(行為)、なにかを する こと。
2. ぎゃくの いみが ある もの。
3. ふへんてきな ちつじょが ある もの。(ただし、”der allgemeinen Ordnung zu widersprechen”に おいて seinどうしが しょうりゃく されている のであれば、 この みっつめは まえの ふたつと おなじでは ない かもしれない。)
りゆうは、 とくの だんかいの いしきの Tat、 おこない、された なにかは、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの こころの Tat、 おこない、された なにかに なる ことに なる から である という りゆう である。

Tat、 おこない、 された なにか を、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが する ことで、 じぶんを とくの いしきに じぶんを かえていく。
Tat、 おこない、 された なにかは、 とくの いしきに とっては、 ふへんてきな ちつじょを もっている。

いじょうの ように よんだが、 まちがっている きがする。

Dies Tun hat daher die verkehrte Bedeutung, der allgemeinen Ordnung zu widersprechen,
108ぺーじ

しゅごが Dies Tun である。
どうしが hat である。
haben … zu ふていしで ぎむ、けんり、こんきょ、かのう などを いみする。
haben ... zu ふていしは、 しなければならない とか することができる とか するものがある とかの いみが ある。
daherは したがって という いみである。 にほんごなら ぶんの さいしょに かくが、 どいつごでは あいだに はさむ。
die verkehrte Bedeutungが、 どうしの widersprechenの もくてきご である。

そして、 もんだいは こんま である。
こんまは ふつう くぎりに なり、 どうかくの めいしだと かってに おもっていた。
しかし、 ていかんしの かたちを ちゃんと かんがえないと いけない。
dieは じょせい めいしか ふくすう めいしの いちかく、よんかくに つく ていかんし である。ここでは、 じょせい めいしの よんかく である。
Bedeutungは じょせい めいし である。
derは だんせい めいしの いちかくか、 じょせい めいしの にかくや、 じょせい めいしの さんかくか、 ふくすうめいしの にかくに つく ていかんし である。ここでは、 じょせい めいしの にかくか さんかく である。
allgemeinenは ていかんしるいの あとの じょせいの けいようしの にかくか さんかく である。ここでは、 じょせいの けいようしの にかくか さんかく である。
Ordnungは じょせい めいし である。

「後ろの名詞が冠詞類をもつときは同じ格でおかれる。無冠詞のときは1格になる。」(『クラウン独和辞典 第2版』(1997)、 1782ぺーじ、「同格」)

ここでは、 ていかんしが ついている ので、 おなじ かくには なりえない。
なので、どうかく(同格)で めいしを ならべている わけではない。
habenは よんかくの もくてきごを とるが、 widersprechenは さんかくの もくてきごを とる。
ここでは、にかくの かのうせいを かんがえる。
おそらく、ちがう。なぜなら、 その ばあいは zuふていしの いみが わからなく なる からだ。
zuふていしを ちゃんと りかい するには、 こんまで ぶんが きれていて、 seinどうしが しょうりゃく されていると かんがえると よいと おもう。

「この おこないに よって、ふへんてきな ちつじょの ほんとうではない いみを widersprechen、つまり はんろん することが できる。」という いみでは ない。
けっきょく、 さいしょの よみかたが あっていると おもう。 わからない。要調査。

どいつご げんぶん 6

und zugleich hat es sie in der Tat anerkannt, denn das Tun hat den Sinn, sein Wesen als freie Wirklichkeit zu setzen, das heisst die Wirklichkeit als sein Wesen anzuerkennen.
108ぺーじ

「たほう個体は同時に、この現実をじっさいには〔その行為においては〕〔るび:イン・デア・タート〕承認して〔「承認して」を きょうちょうしている。〕しまっている。行為の有する意味とは、個体の本質〔るび:ヴェーゼン〕を自由な現実〔「自由な現実」を きょうちょうしている。〕として定立することであり、つまり現実を個体にとっての実在〔るび:ヴェーゼン〕として承認することであるからだ。」
573ぺーじ

どいつご たんご 6

anerkanntは anerkennen という どうしの かこぶんし である。
anerkennenは かちや せいとうせいを みとめる、にんちする、 しょうにんする、こうにんする とか、 こうせきを たかく ひょうかする、 しょうさんする とかの いみである。
anという あいてに むかう とか くっつく という いみの まえつづりと erkennenという みわける、にんしきする という どうしを つなげた ことば である。

このanerkennen という たんごは、 じこいしきしょうの しゅじんと どれいの べんしょうほうでも 「しょうにん」として でてくる ことば である。
しかし、 ここでは、 anerkannt(しょうにんする)は、 まえの erkennen(にんしきする)という ことばと ならべている かもしれない。
つまり、 ふへんてきな ありかたを にんしき しようと する という はなしと、 じぶんが じゆうな ふへんてきな ありかたの なかに あるとは にんしきしない という はなし である。

das Individuum, welches die Allgemeinheit nur in der Form seines unmittelbaren Fuer−sich−seins erkennen will, erkennt sich also nicht in dieser freien Allgemeinheit,
108ぺーじ

heisstは なまえは…である とか という いみである という いみ である。
das heisstで ちゅうしゃく、げんていを あらわして、 つまり、 すなわち という いみ である。
anzuerkennenは anerkennen(しょうにんする)という どうしに zuを はさんでいる。
まえつづりの ある zuふていしの かたち である。
zuerkennenは にんていする という いみ である。

どいつご こうぞう 6

そして(und) という せつぞくしに、 どうじに(zugleich) という ふくしが ある。
つづいて、 かこかんりょうけいの ための じょどうし(hat)が ある。どうしは、 anerkanntという かこぶんし である。
それ(es)、つまり こころの ほうの こたい、こじんの ふるまい、こうい(行為)が しゅご である。
その こと(sie)が もくてきご である。
その こと(sie)は じょせいめいし である。
まえに でてくる じょせいめいしは たくさん ある。
die verkehrte Bedeutungは ぎゃくに なった いみ、 ただしくない いみ という いみ である。
der allgemeinen Ordnung zu widersprechenは はんろん される、むじゅんする ふへんてきな ちつじょ という いみ である。
Tat seines einzelnen Herzensは こころの ほうの こたい、こじんの こべつてきな こころの おこない という いみ である。
freie allgemeine Wirklichkeit は じゆうな ふへんてきな げんじつ という いみ である。おそらく、 これ である。

denn(なぜなら)から りゆうの せつが はじまる。
das Tun(おこない)が しゅご である。
hat(もつ)が どうし である。
den Sinn(いみ、もくひょう)が もくてきご である。
das Tun hat den Sinnは、 Dies Tun hat daher die verkehrte Bedeutungと くらべられている かのうせいが ある。

sein Wesen という めいしが あり、 ちゅうせいめいしの いちかくか よんかく である。 よんかく なら どうしである habenの もくてきご である。 いちかく なら べつの ぶんの しゅご である。
alsせつで せつめいされる。
zu setzenが どういう はたらきを しているか わからない。けいようしか、 haben ... zu で ぎむを あらわすか、 seinどうしの しょうりゃくか、 Wessenの いいかえか。 かぎりない。 わからない。 要調査。

die Wirklichkeit が めいし である。
als sein Wesen anzuerkennenは なんだか わからない。
まじで ぶっとんでいる。


かいしゃく

たーと、Tat、 おこない、 された なにかに おいて という ことばは、じっさいには という いみである。

Tat、 おこない、 された なにか を、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが する ことで、 じぶんを とくの いしきに じぶんを かえていく。
Tat、 おこない、 された なにかは、 とくの いしきに とっては、 ふへんてきな ちつじょを もっている。

こころの ほうの こたい、こじんは、 げんじつを ちゃんと わかっては いないが、 げんじつを しょうにんしている。
なぜなら、 げんじつは ふへんてき であると とくの いしきに なると わかる から である。

ふるまい、こうい(行為)は いみ、もくひょうを もっている。

Tun、ふるまい、こうい(行為)が ふへんてきで ある から、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、じかくを していないが、 われわれに とっては、 それ じたい として ふへんてき なのである。

こころの ほうの ふるまいは、 もくひょう としては ふへんてき だが、 げんじつ としては ふへんてきではない。
こころの ほうの こたい、こじんの ふるまいに よって、 こころの ほうの こたい、こじんが ある という ことを、じゆうで しばられていない げんじつ とする。
こころの ほうの こたい、こじんは、 じゆうではない げんじつ ではない。
こころの ほうの こたい、こじんは じぶんを げんじつに する。
この ことを こころの ほうの こたい、こじんは ふるまいを する ことで、 しょうにんしている。
(しょうにんする とは、 わかっていると どうじに、 げんじつに する ことだ。 という かせつを たてる。)
こころの ほうの こたい、こじんに とって あるのは、 げんじつ である という ように かえる のだ。
こころの ほうの こたい、こじんの じつざいせいが げんじつせい である という かくしんを げんじつに する のである。
こころの ほうの こたい、こじんに とって あるのは げんじつ である という ことの かくしんが げんじつに なる のである。

b7

たーと、Tat、なされた こと、なす ところは、 じかくの ない、こたいの ほうの こたい、こじんの する ことで、 とくの いしきに なる のだ。
とぅーん、Tun、ふるまい、こうい(行為)は、 こころの ほうの こたい、こじんと、とくの いしきの ふへんてきな ふるまい である。

おこないの がいねん

こころの ほうの こたい、こじんは、 じぶんの ふへんてきな おこない(Tun、とぅーん)の がいねんに よって、 「より立ちいって規定したことがらがある」(573ぺーじ)。

Das Individuum hat durch den Begriff seines Tuns die nähere Weise bestimmt,
108ぺーじ

nähereは näheの ひかくきゅう じょせいけい であり、さらに くわしい という いみである。
Weiseは じょせい めいしで、 やりかた、ほうほう という いみである。
れいぶん として Ich habe meine eigene Weise. 「私には私のやり方がある」(『クラウン独和辞典 第2版』)が ある。
bestimmtは どうし bestimmenの かこぶんしで、 haben どうしと いっしょに つかって かこかんりょうけいを つくり、 きめる という いみが ある。
ここで、 die nähere Weiseが ふくし として かんがえられている。
ほうほうに ついての めいしは、 そのまま ふくし として つかわれ やすいが、 どいつごでも おなじ なのだろうか? わからない。 要調査。
ここでは、 bestimmen(きめる)の よんかく もくてきご として die nähere Weiseを かんがえる ことは できないの だろうか?
つまり、 さらに くわしい やりかたを きめる という いみに なる。
つづく ぶぶんを よめば わかる かもしれない。

「じぶんの ふへんてきな おこない(Tun、とぅーん)の がいねん」というのは、 おそらく、 こころの ほうの こたい、こじん から とくの いしきに かわる ときに もんだいと なる ような おこない という かんがえかた だと おもう。
へーげるに おいて がいねん、べぐりふ という ことばは とても だいじだ。
がいねんは、へーげるに とって とても すばらしい。
なぜなら がいねんは、 ほかの ものから じぶんを くべつ しながら、 くべつ する という こと まで まとめる ことが できる もの だから である。
がいねんとは、 まず きりわける こと、 くべつ する こと である。
たとえば、 うえ という 「がいねん」は、 うえと したを わける。
しかし、 うえ という 「がいねん」は へーげるが すばらしいと おもう がいねん としては あまり いい ぐたいれい ではない。
へーげるが すばらしいと おもう がいねん として、 がいねん という がいねんを かんがえてみよう。
がいねん という がいねんは、 がいねんと がいねん ではない ものを わける。
そして、 がいねん ではない ものと がいねんを わける ことは、 じつは がいねん ではない ものと がいねんを くらべる こと である。
くらべる というのは、 ある いみで おなじ ところが わかる という こと、 つまり まとめる こと である。
がいねん ではない ものと がいねんを わける ことは、 がいねん ではない ものと がいねんを おなじもの だと かんがえる ことと おなじ こと であると わかる ことに なる。
このことを くべつと とういつの とういつと いう。
くらべる という ことばを つなげて むすびつける のは、 さいとうが かんがえた ものであって、 へーげるが このように せつめいしている わけではない。
なので、 へーげるの かんがえかたと ちがう かのうせいが たかい。
ちゅうい してくださいませ。
Begriffは がいねん という いみと、 がいねんを つくる という いみが あるのかと おもってた けど、 がいねん という いみ だけだと おもう。

どいつご げんぶん 7

(Das Individuum hat durch den Begriff seines Tuns die nähere Weise bestimmt,) in welcher die wirkliche Allgemeinheit, der es sich angehörig gemacht, sich gegen es kehrt.
108ぺーじ

「個体が、じぶんの行為〔るび:トゥーン〕の概念をつうじてより立ちいって規定したことがらがある。それは、現実の普遍的なありかたが、そこに個体が帰属するものとされていながら、個体に対して立ちむかう、その形式である。」
573-574ぺーじ

どいつご たんご 7

inは さんかくの ぜんちしの もくてきごを ともなって、 ほうほう、りゅうぎを いみする。
inは 「これこれで」 という いみ である。
in dieser Weiseは「こういう方法で、このように」 という いみ である。
welcherは かんけい・だいめいし welcheの じょせいの さんかく である。
angehörigは さんかくの めいしに しょぞく(所属)している とか かにゅう(加入) している という いみの けいようし である。
gemachtは どうし machenの かこぶんし であり、じんいてきな とか わざとらしい とか なされた とか つくられた という いみの けいようし である。
よんかくの もくてきご、zuのない ふていし、machenで、 そのものに なになにを させる という いみに なる。
たとえば、 Das hat mich lachen gemacht. 「そのことで私は笑ってしまった」(『クラウン独和辞典』)という れいぶんが ある。
kehrtは どうし kehrenの さんにんしょう・げんざい・たんすうの かつよう である。
kehrenは うらがえす という いみ である。
sich kehrenは さいきどうしで、 ある ほうへ むく、 ある ほうへ てんじる という いみ である。
れいぶん として、 sich gegen seinen Freund 「友人に背く」(『クラウン独和辞典』)が ある。
gegenは よんかくの ぜんちしの もくてきごを ともなう。

どいつご こうぞう7

welcherという かんけい・だいめいしに せんこうしを おきかえると、 in die nähere Weise という せつを つくる。
in welcher せつは、 じょせいめいし である die wirkliche Allgemeinheit(げんじつの ふへんてきな ありかた)という めいしで はじまっている。
(これ(die wirkliche Allgemeinheit(げんじつの ふへんてきな ありかた))を derで うけているのだと おもう。と
なにか めいしを かいて、 くてんで はさんで、 「それ」が とか かく かきかたを している。
じぶんも そんな かきかたを しているな。
むずかしい ぶんに なるので、 やめましょう。
と おもったが、 まちがっている。)

in welcher せつの しゅごは じょせいめいし である die wirkliche Allgemeinheit(げんじつの ふへんてきな ありかた)という めいしで、 どうしは sich kehrt(そもく)である。


esが しゅご である。
derは じょせい さんかくの かんけいだいめいし であり、 angehörigという けいようしの しょぞくさき である。そして、 derの せんこうしは die wirkliche Allgemeinheit(げんじつの ふへんてきな ありかた)である。
sichが gemachtという どうしの もくてきご よんかく である。
それ(es、ちゅうせいめいし、こたい)は、 じぶん(sich、こたい)を、 それ(じょせいめいし、げんじつの ふへんてきな ありかた)に しょぞくしている もの(der angehörig)と する(gemacht)。
それ(es、ちゅうせいめいし、こたい)に たいして(gegen)、そむく(sich kehrt)。

いばしょに たいりつ する

くまのやくに ある 「けいしき」という ことばは へーげるの ことばには ないと おもう。
そして この ぶぶんは、 つぎの ぶんしょうと かんけいしている。

「じぶんの法則を実現することで個体が生みだすものは、それゆえじぶんの〔「じぶんの」を きょうちょうしている。〕法則ではない。当の秩序はそれ自体としては〔「それ自体としては」を きょうちょうしている。〕みずからの秩序であるにせよ、それは個体に対してはかえって一箇の異他的な秩序である。そうであるからには、個体が生みだすのは、現実的な秩序へとじぶんが巻きこまれるという消息にほかならない。この秩序はしかも、個体にとって異他的なものであるばかりではなく、個体にとって敵対的な圧倒的威力なのだ。」
(572ぺーじ)

たいりつ している けれど、 ふくみこまれている という かんけいが、 げんじつの ふへんてきな ありかたと こじんとの かんけい である。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが おこないに よって きめる ことに なった さらに くわしい ありかたに おいては、 げんじつの みんなと おなじ ありかたに こじんは ふくまれているが、 げんじつの ふへんてきな ありかたは こじんに たいして たいりつしている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、いばしょに たいりつする という ありかたを げんじつに する。
いばしょに たいりつする という ありかたを、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 なにかを する ことの がいねんに よって、 げんじつに する。
なにかを する ことの がいねんは、 こころのほうの こたい、こじんと とくの いしきに きょうつうする もの である。

とぅーんと たーと

くりかえし なにかを おこなう ことを いみする ことばの くべつを かく。
じしん(自信)は ないが、 とりあえずの かせつ(仮説) である。

Tun、とぅーん から Tat、たーとへ うつりかわる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの とぅーん から、 とくの いしきにも ある たーとへ うつりかわる。

まえに このように かいた。ぎゃくの ことを かいている。ここは こんらんしている。 わからない。 要調査。

たーと、Tat、なされた こと、なす ところは、 じかくの ない、こたいの ほうの こたい、こじんの する ことで、 とくの いしきに なる のだ。
とぅーん、Tun、ふるまい、こうい(行為)は、 こころの ほうの こたい、こじんと、とくの いしきの ふへんてきな ふるまい である。

にほんごの くまのやくでの やくしかたを ならべておく。

るびを はずして ぬきがきを すると、とぅーんは、つぎのように かかれる。
(「行為する直接的な器官」(491ぺーじ、CVAcにんそうじゅつと ずがいろん)、「行為の器官」(504ぺーじ、CVAcにんそうじゅつと ずがいろん)、「人相術が問題とした関係のいても、器官はたしかにやはり自己のうちへ反省的に立ちかえって、行為を語りだす定在として考察される。」(505ぺーじ、CVAcにんそうじゅつと ずがいろん))
(「じぶんの運命をその目的と行為のうちに」(565ぺーじ、CVBaきもちいい せつ))
「じぶんの行為」(573ぺーじ)
「個体のふるまい」(573ぺーじ)
「個体が、じぶんの行為」(573ぺーじ)

るびを はずして ぬきがきを すると、たーとは、 つぎのように かかれる。
「意識の行為」(566ぺーじ、CVBaきもちいい せつ)
「みずからのなしたところ」(566ぺーじ、CVBaきもちいい せつ)
「みずからがなすところ」(572ぺーじ)
「個体のなしたもの」(572ぺーじ)
「個体のなすところ」(573ぺーじ)
「心情からなされたこと」(573ぺーじ)
「じっさいには〔その行為においては〕」(573ぺーじ)
「個体によってなされたこと」(574ぺーじ)

げんじつと ふへんてきな ありかた

こたい、こじんの たーと、Tatは げんじつてき である。
こたい、こじんの たーと、Tatは、あたまの なか だけで かんがえた こと ではなく、 じっさいに おこなう こと である。
おこなう、 なにかを する というのは、 げんじつに する という こと である。

そして、 じっさいに ある ことは ふへんてき である。
じっさいに なにかを する ことは、 みんなと おなじ ように する こと である。
つまり、 みんなが なにかを する という かたちを おなじ ように もっている ように、 なにかを する。
みんなが できない ことを、 じっさいに する ことは できない。
こたい、こじんの たーと、Tatを、 じっさいに やる こと ではなく、 まだ やっていないが かんがえられた おこない としか かんがえない ことと、 こころの ほうの だんかいの まえの だんかいの いしきは かんがえていた。
これらの まえの だんかいの いしきでは、ふるまいは げんじつではない ので、 ふへんてき ではない。
こころの ほうの だんかいの こたいは、 じぶんの たーと、Tat、 じっさいに なにかを する ことを、 げんじつの ことと かんがえる。
ここでは、 たーと、Tatは げんじつに なにかを する こと であり、 とぅーん、Tunは ふへんてきに なにかを する こと である。と かんがえてみた。じっさいは、たーと、Tatも ふへんてき である。

どいつご げんぶん 8

ihr Inhalt aber ist die eigene Individualität, welche sich als diese einzelne dem Allgemeinen entgegengesetzte erhalten will.
108ぺーじ

「その内容はたほう個体自身の個体性であって、個体性は「この」個別的な〔「個別的な」を きょうちょうしている。〕個体性であり、普遍的なものに対立した個体性であることを維持しようとするものなのだ。」
574ぺーじ

どいつご たんご 8

ihrは じょせいめいしの しょゆうけいようし である。
eigen(e)は じぶんじしんの とか、 ほかに いそんしない とか、とくゆうの とか、 こゆうの とかの いみが ある。
einzeln(e)は ここの とか こべつの とかの いみが ある。
entgegengesetzteは どうしの entgegensetztenの かこぶんしの じょせいけい である。
さんかくの もくてきご、よんかくの もくてきご、entgegensetzten という かたちで、 さんかくの もくてきごに はんたい、 たいこうして、 よんかくの もくてきごを もちだす という いみ である。
(entgegenは なにかに そむく という いみ である。
entgegenは さんかくの もくてきごを ともなうが、 もくてきごの あとに ともなう ことも ある。
gesetzteは きめる という いみの どうしの setzenの かこぶんし である。
Gesetzは こころの ほうの ほうや、 ほうそく、 おきて という いみが ある。)
sich erhaltenは ほぞんされる、 いじされる という いみ である。
れいぶん として sich gesund erhalten 「自分の健康を保つ」(『クラウン独和辞典 第2版』)が ある。

どいつご こうぶん 8

「その内容」の 「その」は、たーと、Tat であろう。
ないようは、 なかみと いいかえても いい だろう。
なので、 こたい、こじんが なにかを げんじつに おいて する ときも、 なにかを する という かたちは おなじで、 ふへんてき だが、する ことの なかみは、 じぶんじしんの とくゆうの こじんの ありかた である。
つまり、 じぶんが ある ところから ある べつの ところへ すすむ ことを した のならば、そこ から そこへ すすむ という じぶん だけの じぶんの あらわれが なかみ である。
いっぽうで、 すすむ ことを する、 つまり なにかを する という ことは、 なにかを している という いみで、 ふへんてき であり、 みんなと おなじ である。
かたちは みんな おなじ だが、 なかみは それぞれ ちがう。


なかみは じぶんの こたいの ありかた である。
じぶんの こたいの ありかたは、 この こべつてきな こたい、こじんの ありかた であり、 ふへんてきな ありかたに たいして きまる ように じぶんを とどまらせたい。

Inhaltと erhaltenで かけことばを している。
ごげんが おなじ わけでは ない みたいだ。
「この こべつてきな こたい、こじんの ありかた」の 「この」は ちょくせつてきに じぶんを しめす ことば である。

じぶんは、 「この」 「こいつ」 である。
じぶんじしんの ことは、 この ありかた、 ここの ありかた である。
じぶんじしんの こべつの こたい、こじんの ありかたは、ふへんてきな ありかたと たいりつして きめられる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 ふへんてきに なにかを する けれど、 その なにかを する ことの なかみは こたい、こじんの ありかた である。
なかみが こべつの ありかた である という ことは、 ふへんてきな ありかたと たいりつ した ままで ある ことを のぞむ。
じっさいは、 こべつの ありかたは ふへんてきに なってしまう。
へーげるに とって それは すぐれた ものに なる という こと である。
entgegengesetztenは こころの ほうの 「ほう」(Gesetz)と かけことばを している。

ほうそくを つくる ことは もんだい ではない。

どいつご げんぶん 9

Es ist nicht irgendein bestimmtes Gesetz, von dessen Aufstellung die Rede wäre, sondern die unmittelbare Einheit des einzelnen Herzens mit der Allgemeinheit ist der zum Gesetze erhobene und geltensollende Gedanke, dass in dem, was Gesetz ist, jedes Herz sich selbst erkennen muss.
108ぺーじ

「なんらか特定の法則について、ここでその創設が問題となっているのではないはずである。問題はむしろ個別的な心情が普遍性と直接にひとつになったありかた〔るび:アインハイト〕であり、この統一〔るび:アインハイト〕こそが法則まで高められ、妥当すべき思想〔るび:ゲダンケ〕なのであって、その思考〔るび:ゲダンケ〕するところによれば、法則であるもののうちで、それぞれの心情はじぶん〔「それぞれの心情はじぶん」を きょうちょうしている。〕自身を認識しなければならない。」
574ぺーじ

Inhaltは だんせい・めいし なので、 Es では しめせない。
ここでは、「von さんかくの もくてきご ist die Rede」という こうぶん である。

どいつご たんご 9

irgendeinは なんらかの ひとつの という いみ である。
bestimmtesは けいようしの bestimmtの ちゅうせい・めいしの たんすうの こんごうへんかの いちかく である。
bestimmtは ある いっていの とか、 はっきりと した とか、 だんことした とか、 かくていされた とかの いみ である。
Gesetzは ちゅうせい・めいしで ほう という いみ である。
vonは にかくの もくてきごを ともなって、
dessenは derの だんせい/ちゅうせい たんすうの にかくの かんけいし/ていかんし である。
Aufstellungは じょせい・めいしで、 せっち とか、 はいち とか、 りろんなどを たてる こと とか、 きろくを じゅりつ する こと とか、 りすと などを つくる こと とか、 ならぶ こと とかの いみが ある。
die Redeは じょせい・めいしの いっかくで、 はなし という いみで ある。
しかし、 ここでは 「von さんかくの もくてきご ist die Rede」で さんかくの もくてきごが わだいに なっている という いみで ある。
Es war von der Erziehung die Rede. 「教育のことが問題になった(話し合われた)」(『クラウン独和辞典 第2版』) という れいぶんが ある。
wäreは seinどうしの せつぞくほう にの さんにんしょう たんすうの ひげんじつ わほう である。

zumは zu demの たんしゅくけい で、けっかや へんかの さきを あらわす。
erhobeneは もちあげる とか かくあげる とかの いみの どうし erhebenの かこぶんしの じょせいけい であり、 じょどうし sein どうしを ともなって、 じょうたい・じゅどう(状態受動)を あらわす。
geltenは かちが ある という いみ である。
sollendeは する べき である という いみの どうしの sollenの げんざい・ぶんしの じょせいけい である。
jedesは おのおのの という いみの けいようし、 jederの ちゅうせい いっかく である。
sich selbst erkennenは じぶんじしんを いしきする という いみである(https://ja.wiktionary.org/wiki/erkennen)。
sichが よんかくで もくてきご である。
おもいだすのは、 Selbsterkenntnis (じこにんしき)という ことばと、 こだい・ぎりしあの でるふぉいの ことばである „Erkenne Dich selbst“(なんじ じしんを しれ) という ことば である。

in dem, was Gesetz ist,は、 じしょの うらづけが ないが、 demという しじめいしで、「それの なかで、 つまり ほうが それで ある ところの ものの なかで」っという いみだと おもう。

どいつご こうぞう 9

esは ぶんの しゅごで、irgendein bestimmtes Gesetz(なんらかの いっていの きまった ほう)や die unmittelbare Einheit(ちょくせつの ひとまとめ)という いみの しゅごを しめす。
ちょくせつの ひとまとめ(die unmittelbare Einheit)を、 ふくすうの ほうに(zum Gesetz) かくあげする(erheben) という のうどうぶんの うけみの かたち である。
じょうたい・じゅどう(状態受動)である ため、 かくあげられた けっかを あらわす。
geltensollende Gedankeは ゆうこう(有効)に ちがいない かんがえ という いみ である。
「妥当すべき」とか 「妥当〔るび:ゲルテン〕すべきだ」(Sie soll unmittelbar als Allgemeines gelten) とか「見なされる〔るび:ゲルテン〕べきだ」(sein besonderer Inhalt soll als solcher für allgemein gelten)(574ぺーじ)と やくされていた。
わからない。 要調査。したの ”geltensollende Gedanke”で くわしく かいた。
かんがえの ないようが、 dassせつで かかれる。
dassせつの しゅごは、jedes Herz(おのおのの こころ)であり、 もくてきごは sichであり、どうしは erkennen muss(にんしき しないと いけない) である。

”geltensollende Gedanke”

けつろんは 「 ゆうこう(有効)で あるに ちがいないgeltensollend)」という いみである。うそ、 「ゆうこうに なる よてい である」である きがする。

「行為の事実上の方向付けが正当的な作用(Wirkung)を有するのは、行為者が秩序を内的に承認されたものとして是認しかゝる是認によって秩序が行為者に対して拘束的なもの即ち geltensollend なものとなり」…。
「妥当なものとなる」
間場壽一「ウェーバー社会学に於ける正当性と合法性」60ぺーじ。ぴーでぃーえふ、https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/5/1/5_54/_pdf

La reconnaissance, par la communauté, du chef charismatique devient « libre » dans le choix d’un détenteur de pouvoir par les électeurs (nach ihrem Belieben, comme il leur semble bon) ; le maître légitimé en vertu de ses dons de grâce devient un détenteur de pouvoir légitimé par la grâce des dominés et aussi, en vertu d’un mandat (limitation temporelle) ; le ralliement contraint de la communauté à la proclamation d’une sentence devient le libre choix, par les dominés qui manifestent leur volonté, du droit qui doit valoir (geltensollend). Opposé au fonctionnaire élu, dont Weber dénonce ailleurs l’action passablement corrompue (ES, 1995, p. 354) et qui peut se comporter « entièrement comme le mandataire de son maître et donc ici des électeurs » susceptibles alors de disposer d’un pouvoir illimité, le chef élu est caractérisé par Weber comme celui qui, jouissant d’une légitimité démocratique, est capable de donner un sens à son action, aussi bien auprès de la direction administrative que des dominés, tout en étant, lui?même, « exclusivement responsable de ses actes ».
Elisabeth Kauffmann, « Les trois types purs de la domination légitime » de Max Weber : les paradoxes de la domination et de la liberté, Dans Sociologie 2014/3 (Vol. 5), pages 307 à 317.
https://www.cairn.info/revue-sociologie-2014-3-page-307.htm?contenu=article

きょうどうたいが、 かりすまてきな りーだーを みとめる ことは、 えらぶ ものたちが、 (nach ihrem Belieben 、その もの たちに とって よいと おもえる という りゆうで)けんりょくを もつ ものを えらんでいる ことに おいて 「〔おおやけの けんりょくに〕しばられてない」 ことに なる。〔ちゃんとしていると〕 みとめられた しはいしゃが、 おんしゃの やくそくに よって、 〔ちゃんとしていると〕 みとめられて、 けんりょくを もつ ように なる のは、しはいを うける もの たちに おんしゃを あたえる から であり、 また いっかい まかせる という りゆう から である(じかん・せいげんが ある)。むりやり きょうどうたいに ある ひとつの けっていに したがう ように させる ことを、 ゆうこう(有効)で あるに ちがいない(geltensollend)ほうりつを、〔おおやけの けんりょくに〕しばられる ことなく〔じゆうに〕 えらぶ ことに なる。 えらぶのは、 じぶんたちに 〔ただしい ことを もとめる〕いし(意志)が あると しゅちょう(主張)する ような、 しはいを うける もの たち である。に はんたいして、 うぇーばーは ほかの ところで、 おかねを わたした ものに よく なる ように する という かなり ふはいした えらばれた やくにんの おこないを ひなんした(ES, 1995, p. 354)。そのような えらばれた やくにんは、 「かんぜんに、 じぶんの しはいしゃと、 したがって ここでは えらぶ もの たちが まかせた ものの ように 」 ふるまう ことが できる。この えらぶ もの たちは、 その とき せいげんの ない けんりょくを あたえる ことが できるのだ。 このような えらばれた やくにんに たいして、うぇーばーが えらばれた りーだーの とくちょう としたのは、 みんしゅしゅぎてきに 〔ちゃんとしていると〕 みとめられている ことを みたしていている りーだー であり、じぶんじしんで 「ひたすら じぶんの 〔ほうりつてき〕 こうい(行為)に せきにんが ある もの」 であり ながら、 しはいを うける もの たちに たいしても、 ぎょうせいの しどうぶに たいしても、 じぶんの おこないは いみが ある もの であると せつめいする ことが できる りーだー である という こと である。
(ぐーぐる ほんやくを いんようしておく けれど、 まったく やくに たたなかった。つかっている ことばは よく つかう ことば なのに、 つかっている いみが あまり よくは つかわれる ことが ない という ぐたいれい である。
コミュニティによるカリスマ的指導者の認識は、有権者による権力者の選択において「自由」になります( nach ihrem Belieben 、彼らが適切と考えるように)。彼の恵みの賜物によって正当化された主人は、支配された者の恵みによって、そしてまた委任(時間制限)によって正当化された権力の保有者になります。文の宣言へのコミュニティの強制的な結集は、彼らの意志を表明する支配者によって、有効でなければならない権利の自由な選択になります( geltensollend )。ウェーバーが他の場所で非難し(ES、1995、p。354)、「彼の主人の代表のように、したがってここでは有権者のように」振る舞うことができ、無制限の権力を持っている可能性が高い選出された役人に反対し、選出されたリーダーはウェーバーによって、民主的な正当性を享受し、彼自身が「その行動に独占的に責任を負っている」一方で、行政の方向性と支配の両方で彼の行動に意味を与えることができる人物として特徴付けられます。)


どいつご いみ 9

こころの ほうを つくる ことに おいて、 もんだいに なっているのは、 きまった ひとつの なんらかの ほう ではない。
つまり、ほう であれば なんでも いい という わけ ではない。
ふへんてきな ほうで ないと いけない ので あって、「なんらかの」 ほう ではない のだ。
こころの ほうを つくる ことに おいて、 もんだいに なっているのは、 こべつてきな こころと ふへんせいが ひとつに まとめらえれている ことで ある。
こべつてきな こころが ふへんせいである ことが もんだいである。
それぞれの こころが みんなと おなじように ある という ことが、 こころの ほうを げんじつに する ことに おいて だいじ である。
しかし、 こころの ほうの だんかい では、 こべつの こころと ふへんてきな ありかたが おなじ である ことは、 ちょくせつてきであるに すぎない。
つまり かんせつてきに ひとつに なっている わけでは ない。
たんに こべつの こころが みんなと おなじに なっている だけで、 じぶんと かんけいしながら、 かならず みんなと おなじに なっている わけ ではない。
こころの ほうの だんかいでは、 こころが みんなと おなじ である という ことが、 こころの ほうに まで たかめられる のだ。

(みんなが こころと おなじ である という ありかたを みんな している という ことが いつでも みんなに おこる ことであり、 ほう、ほうりつ、きまった こと である。というのは すこし よみこみすぎた。ただしくは)
こころの ほうの だんかいでは、 こころが みんなと ちょくせつ たまたま おなじである という ことが、 ほうに なり、 こころは きまって かんせつてきに みんなと かならず おなじに なる という だんかいに かわるのだ。
ちょくせつてきに ひとつに なっている こと よりも、こころの ほうが すぐれている のである。

こべつの こころが みんなと おなじ である という ことは、 ゆうこう(有効)で ある はずで、 かちが ある はずの かんがえ である。
または、 ゆうこう(有効)に なる よていが あり、 かち(価値)が あるように なる よていが ある かんがえかた である。
つまり、 ちょくせつてきに ひとつに なっている ことは、 かんがえに すぎず、 げんじつに そうである わけではない。
こべつの こころと ふへんてきな ありかたが ひとつである という ことは かんがえ であり、 おのおのの こころが じぶんを ほうの なかに ある もの として わからないと いけない。
「おのおの」 という ことばは、 それぞれ こべつの こころを あらわしているが、 すべてが おなじ ものである という ふへんてきな ありかたも あらわしている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、こころは じぶんが こころの ほうに したがう という ことを わからざるを えない。
または、 わかるに ちがいない。

うぬぼれの きょうきへ

どいつご げんぶん 10

Aber nur das Herz dieses Individuums hat seine Wirklichkeit in seiner Tat, welche ihm sein Für−sich−sein oder seine Lust ausdrueckt, gesetzt. Sie soll unmittelbar als Allgemeines gelten, das heisst, sie ist in Wahrheit etwas Besonderes, und hat nur die Form der Allgemeinheit, sein besonderer Inhalt soll als solcher für allgemein gelten. Daher finden in diesem Inhalte die andern nicht das Gesetz ihres Herzens, sondern vielmehr das eines andern vollbracht, und eben nach dem allgemeinen Gesetze, dass in dem, was Gesetz ist, jedes sein Herz finden soll, kehren sie sich ebenso gegen die Wirklichkeit, welche es aufstellte, als es sich gegen die ihrige kehrte. Das Individuum findet also, wie zuerst nur das starre Gesetz, itzt die Herzen der Menschen selbst seinen vortrefflichen Absichten entgegen und zu verabscheuen.
108ぺーじ

「しかしながら〔当面の場面では〕ひとり「この」個人にぞくする心情のみが、みずからの現実的なありかた〔るび:ヴィクトリッヒカイト〕をそのなしたところ〔るび:タート〕のうちに定立したにすぎない。当の個体にかぎっていえば、なされたこと〔るび:タート〕が個体の対自的存在〔「個体の対自的存在」を きょうちょうしている。〕あるいはその快楽〔「その快楽」を きょうちょうしている。〕を表現しているのである。このなされたことがただちに普遍的なものとして妥当〔るび:ゲルテン〕すべきだとされるわけである。この件が意味するのは、なされたところはほんとうは〔るび:イン・ヴァールハイト〕或る特殊なものであるということであって、それがただ普遍性という形式をまとっているにすぎないというしだいなのだ。その特殊な〔「特殊な」を きょうちょうしている。〕内容が、特殊な内容のままに〔「特殊な内容のままに」を きょうちょうしている。〕普遍的なものと見なされる〔るび:ゲルテン〕べきだというのである。だからこの内容のうちに、他者たちが見いだすのはじぶんたちの心情の法則ではない。かえって〔じぶんたちとは〕べつの者の〔「べつの者の」を きょうちょうしている。〕法則が実現したことを発見するのだ。ほかでもなく、普遍的な法則にしたがえば、法則であるもののうちで各人はみずからの心情を見いだすべきとされるのであるから、他者たちがまさに立ちむかう現実は、くだんの個体〔「くだんの個体」を きょうちょうしている。〕が創設した現実なのであって、それは当の個体が他者たちにとっての現実に立ちむかったのとおなじことである。個体はかくてまず硬化した法則のみを、しかしいまや人間たちの心情自身を、みずからの卓越した意図に反したもの、だから忌みきらうべきものとみとめるのである。」
574-575ぺーじ

なにかを するは、 あらわす こと である。

じつげんの あとの たーと かな? たいして とぅーんは かんがえられたに すぎない のかもしれない。

Tun、とぅーん から Tat、たーとへ うつりかわる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの とぅーん から、 とくの いしきにも ある たーとへ うつりかわる。

まえに このように かいた。ぎゃくの ことを かいている。ここは こんらんしている。 わからない。 要調査。

たーと、Tat、なされた こと、なす ところは、 じかくの ない、こたいの ほうの こたい、こじんの する ことで、 とくの いしきに なる のだ。
とぅーん、Tun、ふるまい、こうい(行為)は、 こころの ほうの こたい、こじんと、とくの いしきの ふへんてきな ふるまい である。

「「この」個人」という ときの 「この」diesesは いたりっくでは ない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじん という いみで、 「この」と かいているのか、
こべつてきな こたい、こじん という いみで、 「この」と かいているのか わからない。
おそらく、 じぶんは この という しじごでしか あらわせない という ことを かんがえて、
こべつてきな こたい、 こじん という いみで、 「この」と かいていると おもう。
いままでは こころの ほうの こたい、こじんは、 なにかを する ことで、 じぶんを ふへんてきな ありかたの なかに いちづける という かきかたを していた。
ここでは、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの、 こころの ほう だけが、げんじつを なにかを じっさいに した という ことの なかに いちづけると かいている。
Aberと ぎゃくせつの ことばが あるので、 これまでと ちがう ないようが かかれていると かんがえる。
いままでは、 じぶんを みんなと おなじに する ことが もんだいに なっていた。
しかし、 ここでは、 なにかを する ことで、 じぶんを げんじつに する という ことが もんだいに なっている。
みんな という もんだい、 ふへんてきな ありかた という もんだいは とりあえずは きえている。
もんだいに なっているのは、 げんじつの ありかた である。
げんじつの ありかたは こたい、こじん、いしきの ほうの とくちょうてきな ありかたで、 ふへんせいは ほう、ほうそく、みんなの ほうの とくちょうてきな ありかた である。
ここで nur、ひとり…のみが、 だけが という たんごが つかわれている ことを かんがえると、 こころ いがい では げんじつに ならないと いいたいのだと わかる。
こころが なにかを しなければ、 じぶんが げんじつに ある ことは できない。
では、 なにかを しても げんじつに ならない ような こころ いがい とは なにか?
たとえば、 かんがえた だけの こと だろう。
なにかを しようという こころを もつ こと なく、 たんに なにかを すると かんがえても、 なにかを じっさいに する ことは できない という こと だろう。
ここでは、 こころは、 いし(意志)、かんじょう(感情)、いよく(意欲)に たいおうして、 たんに かんがえる ことは、 ひょうしょう(表象)に たいおうする。
さらに こころは こころの ほうを げんじつに する ように なにかを する。
つまり、 しゅごに なる。
いっぽうで、 たとえば、 きもちいい という のは、 もとめる もの だが、 しゅご には ならない。
なので、 こたい、こじんも あらわすが、 なにかを する ときに ひつような もの として こころと かかれている のだろう。
ちなみに、なにかを する とは、 じぶんを げんじつに する ことだ という かんがえは、 ひょうしゅつしゅぎ(表出主義)と いわれる らしい。

なにかを じっさいに する こと、 たーとが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、じぶんが じぶんと かんけいして ある という ことを あらわす。
なにかを じっさいに する ことが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの たいじそんざい(対自存在)を、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに あらわしている。
なぜなら、 じぶんに かんけいして ある から こそ、 なにかを 「する」 ことが できる から である。
つまり じぶんに かんけいして ある わけでは ない ならば、 たんに うごいたり、 おこったり する だけで、 じぶん から なにかを「する」 ことが できない。
じぶんに かんけいしてい ある という ことは、 じぶんに とって じぶんが ある という こと であり、 じぶんに あらわれている ことを じぶんが わかっている という こと である。
じぶんが なにかを していると わかる から こそ、 なにかを する ことが できる のである。
じぶんが なにかを していると おもっていない ものは、 なにかを する のでは なく、 じょうけんに よって たんに うごかされる だけ である。
そして、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっても、 じぶんが じっさいに なにかを する ことを わかる ことで、 じぶんと かんけいして ある という ことが わかる のだ。
こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんに とって、 じぶんが じぶんと かんけいして ある という ことは ちょくせつてきに わかる ことでは ない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが なにかを している という ことが わかる ことで、 じぶんが じぶんと かんけいして ある という ことが わかる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが なにかを している という てまえの ことがら から、 じぶんが じぶんと かんけいして ある という おくの ことがらを しる ことが できる。
てまえと おく という ばしょは、 そとと うちと にたような かんけいを している。
「そと」と かくと、 こたいでは ない もの としての そと から かんがえて という いみに なってしまう。
もちろん、 その いみも あるが、ここで もんだいに なっているのは、 「そと」と 「うち」の たいりつ である。
うちに よって そとが でてくるの だが、 そと から うちが わかる という かんけいが ある。
さらに、 そとは うちを あらわしている。
あらわす というのは、 そとに あらわす という こと だから である。
どいつご だと、 あらわす という ことばに そと という ことばが はいりこんでいるので、 だじゃれに なる。
そして、 うちは がいねん、もくてき、あたまで かんがえた もの、 ふへんてきな ありかたに かんけいしている。
また、 そとは げんじつ、 おこない、じっさいに する こと、 こべつてきな ありかたに かんけいしている。

なにかを じっさいに する こと、 たーとが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、じぶんが きもちいいと かんじている という ことを あらわす。
なにかを する という ことは、 それを している ものは きもちいいと かんじている という ことを あらわしていると こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは おもっている。
われわれに とっては、 おそらく 「たしかに なにかを する ことは、 それを する ことで きもちよく なる という こと だが、 たんじゅんに それ だけ でも なく、 それは じぶんが きもちいい だけではなくて、 みんなが きもちいいと かんじる こと だから、 みんなの なかの じぶんも きもちいいの であり、 さらに みんなと おなじような じぶん だけど、 じぶんは みんなとは ちがって ちからが つよい から できている だけであると かんがえるように かわっていく」 のだろう。
われわれに とっては、 なにかを する ことは きもちいいと かんじる こと なのか という もんだいは、 ちゃんとした もんだい では ない のだろう。

しかし、 へーげるの ながれから はずれて かんがえると、 なにかを する という ことは きもちいいと かんじている という ことだ という かんがえかたには、はんたい したい。
なぜなら、 すべての ことが それで せつめい できた きになってしまい、 その せつめいが ふさわしくない ものも きもちいいか どうか という はなしで せつめいした きもちに なって しまう から である。
きもちいいを いま うれしく なる こと だと かんがえれば、 すべては せつめい できない。
あきらかに くるしむ ことを する ことが ある。
そして、 きもちいいを さいしゅうてきには うれしくなる ことだと かんがえれば、 すべてを せつめい しすぎて、 ふさわしくない。
おどされて やった ことも なにかを する こと であり、 きもちいいを もとめた けっか であると かんがえてしまう から である。
まちがっては いないが、 ふさわしい せつめいでは ない。

へーげるに もどる。
なにかを する という そとの ありかたが、 じぶんが きもちよくなる こと という うちの ありかたを あらわしていると こころの ほうの だんかいの こじん、こたいは かんがえる のだ。

なにかを する ことは、ちょくせつに ふへんてきであると かんがえられる

「ただちに」は ちょくせつてきに とも やくせる ことば である。
als... geltenは …とみなされている とか、 …といっぱんに みとめられている という いみ である。
geltenは だとう(妥当)する とか ゆうこう(有効) である とか、 つうよう(通用) する とかの いみが ある。
sollenには すべき という いみと、 する よてい である という いみが ある。
ここでは、 する よていが ある という いみである。
だから「このなされたことがただちに普遍的なものとして妥当〔るび:ゲルテン〕すべきだとされるわけである」(574ぺーじ)は、
「このように じっさいに なにかを する という ことは ちょくせつてきに、 ふへんてきな もの であると みなされる ことに なる。」 とも やくせる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、じっさいに なにかを する という ことと じぶんが じぶんに かんけいして ある ことと、 じぶんが きもちいいと かんじる ことは ちょくせつてきに おなじ こと である。 ではなく、) とくの だんかい では、じっさいに なにかを する という ことと じぶんが じぶんに かんけいして ある ことと、 じぶんが きもちいいと かんじる ことは ちょくせつてきに おなじ ことに なる。 こころの ほうの だんかい では、 じっさいに なにかを する という ことと、 じぶんが じぶんに かんけいして ある ことや、 じぶんが きもちいいと かんじる ことは ちょくせつてきに おなじ こと ではなく、 わかれている。 そとに あらわれる うちと かんがえられている から である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、なにか がいねんを つうじて かんせつてきに、 なにかを する ことと たいじそんざい、かいらくは おなじ もの であると わかる わけではない。
ただ、 ちょくせつてきに、 行為(こうい)は じぶんにとって ある という ことと きもちよく なる ことを あらわしていると、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは おもう。
ちょくせつてき なので、 みんなが どうだとか そういう かんせつてきな はなしは でてこない のである。
まちがい。)
たしかに、 きもちいいの だんかいの じこいしきに とって、 じぶんと かんけいして ある という ありかたが もんだいに なって いなかった のに たいして、
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、 じぶんと かんけいして ある という ありかたが もんだいに なっている。
しかし、 われわれに とっては まだ たりない のだ。
といっても、 こころの ほうの だんかい から とくの だんかいに うつりかわる とき、じぶんと かんけいして ある という ことと、 きもちいい という ことは、 ふへんてきな もの であると みなされる ことに なる。
そして、 じぶんに かんけいして ある ことと きもちいい ことが、 なにかを する という ありかたで あらわれるのは、 ふへんてきに ゆうこう(有効) である ことに なる のだ。
sollenで かいている ところは、 もしかしたら こころの ほうの だんかいの はなしではなく、 とくの だんかいの はなし かもしれない。

ほんとうは とくしゅ

へーげるの べんしょうほう では、 しんり(真理)、ただしい こと とは、しっている こと とは ちがう。
さらに、 しんり(真理)、 ただしい ことは、 だんかいに よって ことなる。
ある ところに いっていると おもっていたら、 べつの ところに たどりついていた。
つまり、 いこうとしている しっている ところは、じっさいに たどりついた 「ただしい」 ところとは ちがう のだ。

こころの ほうの だんかいの しんり、ただしい ことは、つまり、 たどりついた ところは、 なにかを する という ことは、 ふへんてきな こと では なくて、 とくしゅてきな なにかで ある という ことである。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 なにかを する という のは、 じぶんの こころの ほう という とくしゅな ありかたを げんじつに する という こと なのである。
たしかに、 こころの ほうでは、 じぶんは みんなと おなじ だと しっていて、 ひとなみの しあわせ、 ひと としての しあわせを もとめていた はず である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが しっている ことは、 ふへんてきな ありかたを している という こと であった。
ふへんてきな ありかたに むかって すすんでいる はず だった。
しかし、 じっさいには、 しんりに おいては、 ほんとうは、 なにかを する ことは、 じぶんに ついての とくしゅてきな もの でしか なかった のだ。
この じぶんに ついての とくしゅてきな もの でしか なかった という ことが、 うぬぼれの さくらん、 ひとりよがりの きょうき、 こうまんな くるいに たどりついた こと である。
とくの だんかいに なって はじめて、 なにかを する という ことが ふへんてきな なにかに なる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが 「なにかを する」 という かたちは ふへんてき であるが、 なかみは とくしゅに すぎない のだ。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっての りそうは なにかを みんなと おなじ ように する という こと なのだが、 じっさいは、じぶんの ことしか かんがえていない、 または じぶんの ための こと しか していない のである。
とくの だんかいに なって、 なかみも ふへんてきに なる はずだ。


als solcherは それじたいは という いみ である。
とくの だんかいの いしきに とっては、 その じぶん だけの とくしゅな ないようが、それじたい では、 ふへんてきと いっぱんに かんがえられる ように なる。
または、 なにかを する という とくしゅな ないようが ふへんてきな もの として つうよう(通用) する ように なる。
für… geltenは …と いっぱんに かんがえれる という いみである。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 なにかを する という ことは じっさいは とくしゅてきな ものに すぎなかった のである。
ないようは とくの だんかいの いしきに なって はじめて ふへんてきだと かんがえられるように なる。

ほかのもの???

Daher finden in diesem Inhalte die andern nicht das Gesetz ihres Herzens, sondern vielmehr das eines andern vollbracht”(108ぺーじ)
「だからこの内容のうちに、他者たちが見いだすのはじぶんたちの心情の法則ではない。かえって〔じぶんたちとは〕べつの者の〔「べつの者の」を きょうちょうしてい
る。〕法則が実現したことを発見するのだ。」(574ぺーじ)
うん、わからない。要調査。
die andernは 「ほかのものたち」 という いみで めいしてきに つかわれる けいようしanderの ふくすうけい いちかく である。
eines andernは 「ひとつの ほかの」という いみの だんせい/ちゅうせい・めいしの にかく である。
なぜ にかくか というと、 das Gesetz ihres Herzensの das Gesetzが くりかえしに なるので、 しょうりゃくしたの だと おもう。
つまり、 あれ? わからない。 要調査。
dasは ここでは しじめいしで、 ほかの もの たちを しめす。おそらく。 しゅごは かえない だろう。
dasは せいべつや かずに かんけいなく しめせる。
vollbrachteは なしとげる という いみの ふるい どうし vollbringenの かこきほんけい である。????要調査。


ほかのものとの たいりつ

"und eben nach dem allgemeinen Gesetze, dass in dem, was Gesetz ist, jedes sein Herz finden soll, kehren sie sich ebenso gegen die Wirklichkeit, welche es aufstellte, als es sich gegen die ihrige kehrte." (108ぺーじ)
「ほかでもなく、普遍的な法則にしたがえば、法則であるもののうちで各人はみずからの心情を見いだすべきとされるのであるから、他者たちがまさに立ちむかう現実は、くだんの個体〔「くだんの個体」を きょうちょうしている。〕が創設した現実なのであって、それは当の個体が他者たちにとっての現実に立ちむかったのとおなじことである。」(574ぺーじ)
ぐーぐる ほんやく
「そして、誰もが法とは何かに彼の心を見いだすべきであるという一般法に従って、彼らは、それが彼らに背を向けたときに設定したそれの現実に背を向けます。」
ebenは ちょうどいま とか、 かろうじて とか、 まさしく とか、 ともかく とかの いみが ある。
dem allgemeinen Gesetzeは なぜ ちゅうせい・めいしの ふくすう いちかくの めいしGesetzeに、 nachの もくてきごの さんかく めいしの dem allgemeinenが ついているのか??
はい、 これは わかりました。こんなの わかる わけない。

Variante für den Dativ Singular des Substantivs Gesetz
https://de.wiktionary.org/wiki/Gesetze

さんかく たんすうの べつの かたちとして Gesetzeという かたちが ある のですね。
in dem, was Gesetz ist,は まえも あった かたち である。

in dem, was Gesetz ist,は、 じしょの うらづけが ないが、 demという しじめいしで、「それの なかで、 つまり ほうが それで ある ところの ものの なかで」っという いみだと おもう。

sollが ついているので、 それぞれの こころが ふへんてきな ほうを ほうの なかに みいだすのは、 とくの いしきに おいて である。
まだ、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに たいする ひとりよがりの さくらんは、 じぶんの げんじつの ほうの なかに、 ふへんてきな ほうを みいだせていない。
ebensoは おなじように という いみ である。

sich kehrenは さいきどうしで、 ある ほうへ むく、 ある ほうへ てんじる という いみ である。
れいぶん として、 sich gegen seinen Freund 「友人に背く」(『クラウン独和辞典』)が ある。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの このときに そむいていたのは、 ふへんてきな ほう であったが、
ここでは、うぬぼれの さくらんの だんかいで、 ほかのものの げんじつに そむく ことに なる。

sieは しゅご であるが、 ふくすう けいの いちかく なので、 ほかのものたち だろう。
esは jedes sein Herzであろう。
それぞれの こころの ほうと うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんの こころが つくる げんじつに たいして、 ほかのものは そむいている。
おなじように、ほかのものが つくる げんじつに たいして、 こころの ほうと うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんの こころは そむいている。

ここは あきらかに ひと どうしの たいりつに よめる。
ほかのものが たにんとして かかれていると おもう。
うぬぼれの さくらんの だんかいの ほかのものと、 こころのほうの だんかいの こじん、こたいが たいりつするのは、
そして、 はんたいに こころの ほうと うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんと、こころの ほうの だんかいの ほかのものたちが たいりつするのは、
こころのほうの だんかいの こたい、こじん(、ほかのものたち)が なにかを する としても、 なにかを する ことの なかみは とくしゅてきな ままで、 ふへんてきでは ない から であった。

そして、つぎのように まとめられる。
きもちいいの だんかいの じこいしきに たいりつしていたのは、ひとつの うんめい という ひつぜんせいである。
こころの ほうの だんかいでの たいりつしていたのは、 ふくすうの ほかのもの である。
とくの だんかいの いしきに たいりつしていたのは、 ひとつの せけん でありながら、 ふくすうの もので できている せけん である。

ほうも こころも きらいだー

”Das Individuum findet also, wie zuerst nur das starre Gesetz, itzt die Herzen der Menschen selbst seinen vortrefflichen Absichten entgegen und zu verabscheuen.”
108ぺーじ
「 個体はかくてまず硬化した法則のみを、しかしいまや人間たちの心情自身を、みずからの卓越した意図に反したもの、だから忌みきらうべきものとみとめるのである。」
575ぺーじ
zuerstは まず という いみ である。
itztは jetztの むかしの かたち であり、 つぎに という いみ である。
vortrefflichenは すぐれた という いみ である。
まえに という いみの vorと、 すぐれている という いみの trefflichを くみあわせた ことばで、 あてる という いみの どうし treffenから きている。
Absichtenは いと(意図)、もくろみ、もくてき という いみの めいしの Absichtの ふくすうけい いちかく である。
verabscheunenは いみきらう という いみ である。
Absichtenと verabscheunenの ことば あそび である。
だじゃれー。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 まず かわる ことの ない ほうだけが じぶんの すばらしい もくてき、 けいかくと ちがうので、けいべつ していた、つまり きらっていた。
つまり、 ほう、きまりが かわっていけば いい はず であった。
しかし、うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんは、 つぎに ひとの こころ という もの「も」 じぶんの すばらしい もくてき、 けいかくと ちがうので、けいべつ する、 つまり きらう ように なる。
うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんは、 「こころは いろいろと かわる ほうを もつ とは いえ、 しょせん すぐれていない」と おもう ように なる のだ。
うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんは、 ほかのものと たいりつ する ことで、 「こころとは いっても いろんな こころが あって、 そのなかでも じぶんが すぐれている」と おもうのだ。

b8

こころの ほうは こころの ことしか わからない。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは、ふへんてきな ありかたを しっては いるが、 ちょくせつてきな ふへんてきな ありかたを しっている だけ である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 かんせつてきな ふへんてきな ありかたを しらない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが こころの ほうに したがっている という いみで、 ふへんてきで ある ことを しっている。
こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんは、 じぶんが みんなと おなじ こころの ほうに したがっていると わかっている から である。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが しっている こころの ほうは、 ちょくせつてき でしか ない。
つまり、 こころの ほうが ただちに、 ちょくせつてきに じぶん であった のである。
こころの ほうが、 とく という かたちで ほかの ものとの かかわりで かんがえられるのでは なく、 たんに そう ある もの として、 そう きまっている から こころの ほうに あった ありかたを していると かんがえられる のだ。

そして、こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは、 ひつぜんせいを しっているが、 こころの ひつぜんせいを しっている だけ である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 ある じょうたいに なった ときに じぶんの ひとつの こころが からなず どのように なるかは わかるが、じぶん いがいの ほかの ふくすうの こころが どのように なるかも わからないし、 こころ よりも おおきいもの としての せかいが どのように なるかも わからないし、 げんじつが どのように なる かも わからない(”Notwendigkeit des Herzens”(108ぺーじ)と こころは たんすうけいに なっている。)。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが こころの ひつぜんせいを しっている という のは、 きもちや かんじょうや おこないに かかわる こころが どのように こうどうするのか、 なにを するのか、 なにかを する という ことは かならず おこる こととして わかる という こと である。
ひつぜんせい、かならず おきる こと という はなしは、 きもちいいの だんかいの じこいしきで うんめい として でてきた。
うんめい としての ひつぜんせいと、 きもちいいの こたいせい、こじんせい、こじんてきな ありかたが たいりつ していた。
うんめいは Schicksalで、と ひつぜんせいは Notwendigkeit である。
ひつぜんせいとか ふかひせい、つまり さけられれない こと という いみだ。
この ひつぜんせいと こたいせい、こじんせいの むじゅん から、 こころの ほう という こじんてき、こたいてきで ある こころで ありながら、 ふへんてきな ほう である という ありかたに うつりかわっていく のだ。
しかし、 まだ ふへんせいが たりない。 つまり まだ こころの ほうに すぎないのだ。ほかの ものと くらべられて ふへんてきに なる とく という ちからに まで たどりつく ことに なる。
このように かんがえると、 いしきしょうの かんかくてき かくしん、 ちかく、 ごせい という うつりかわりを おもいだす。
かんかくてきかくしんでは、 これ としか いえない ものが もんだいに なり、 ちかくでは、 ものの せいしつが もんだいに なり、 ごせいでは ちからが もんだいに なっていた。
きもちいい では この きもちよさ という ちょくせつてきな ものが もんだいに なり、 こころの ほう では、 こころの きまった ものが もんだいに なり、 とくでは とく という ちから、 ものどもを うごかす なにかが もんだいに なるのだ。

げんじつせい

こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは、 げんじつの ありかたが わからない。
げんじつ というのは、 じぶんに とって まさに あらわれている こと である。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんには、 ふへんてきな ありかたが じつは あらわれている のだけど、 こころの ほうは それが わからない。
とくの だんかいの いしきに ならないと わからない のだ。
”Verwirklichung”は じつげん、げんじつか という いみが ある。 verは けっかを あらわす。
”Wirksamkeit”は ゆうこうせい(有効性)、ききめ という いみが ある。 wirksamは こうか(効果)のある、こうかてきな、はたらいている という いみの けいようしである。
wirkenが はたらきかける、さよう(作用)する という いみの どうしで、 samが かのうせい、のうりょくを あらわす ので、 wirksamは はたらく かのうせいが ある という こと、 つまり、 げんじつに する ことが できる という ことを いみする。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、なにかが げんじつに なる という ことと、 なにかが げんじつに なる かもしれない という ことの ありかたが わからない。

しんじつの ありかた としては、 しんの ありかた としては、 しんり(真理)の ありかた としては、 げんじつ である という ことは、 そんざい している ということ、 ある という こと である。
こころの ほうの だんかいは じつは、 しんじつの ありかた としては、 しんの ありかた としては、 しんり(真理)の ありかた としては、とくの だんかい である。
つまり、 じつは うつりかわっているが、 その だんかいの いしきが きがついていない だけ であった という ことだ。
まえに めざす ところと たどりつく ところが ちがう という たとえばなしを かいたが、 その たとえばなしが うまく ないのは この、 たんに きがついていない だけ という ことを あらわせない からだ。じつは、 すでに たどりついているのに きがついていない だけ だったのだ。べつの たとえばなしを すると すれば、 かわの ながれに さからって いっしょうけんめい ふねを こいでいる いめーじを かんがえる ことが できる。じぶんは うごいている つもり だけど、たどりつこうと した ところには いつも いなくて、 ただ きがついていなかった だけ なのだ。 あまり いい たとえばなし では ないな。 すでに たどりついていたのに たどりついていないと おもっている だけ という ありかたが たとえにくい。
はなしを もどして、 げんじつ である という ことは ある という こと である という のは、 りせいの かくしんでも でてきた。
つまり、 りせいの かくしんは、 じぶんの じつざいせいが げんじつせい である こと、 じぶんの げんじつせいが じつざいせい である こと で あった。
そして この りせいの かくしんを げんじつに していく うつりかわりが りせいしょう であった。
しかし、 りせいしょう でなければ、 しんじつの ありかたに おいて げんじつ である ことは ある という こと では ないの だろうか?
ちょっと わからない。 要調査。
しんじつの ありかた である からには、 げんじつは そんざいしていないと いけない という かんがえかたも できる かもしれない。
ほかの しょうで、 げんじつが どのように あつかわれているか あまり わからない ので わからない。

げんじつに なった ものや、 げんじつに なりうる ものは、そんざいしている のだから、 それじたいで ふへんてき である。
そくじ(即自)てきに ふへんてき である。
その なかに おいて ふへんてき であり、 それに とって ふへんてきで ある わけではない。
つまり、じっさいは ふへんてき なのだが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきに とっては ふへんてきではない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 げんじつが じつは ふへんてきである という ことを しらない のである。
こころの ほうが げんじつに なっている という ことは、 ふへんてきな ありかたに なっている という こと である。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 げんじつが ふへんてきである という ことに きがつかず、 じぶんの こころの ほうが ただしい のに、 まわりが まちがえて こころの ほうを かんがえている から、 げんじつは まちがっている のだと かんがえる。
ここでは、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが、 げんじつ となる ほかの もの たちの こころの ほう である うぬぼれの さくらんと たいりつ している。
”worin”、つまり その げんじつの なかで、 まわりが うぬぼれの さくらん であると おもえる なかで、こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきの こたいせい、こじんせい、こたい である という こと、 こじん である という ことは、 ぼつらく していく(”vielmehr untergeht”(108ぺーじ)、「かえって没落していく」(575ぺーじ)。untergehenは たいようが しずむ、 ぼつらくする、 しぬ、めつぼうする、 (ひゆてきに)きえる、かきけされる という いみである。)。
つまり、げんじつの なかで、 こたいは こたいの ままでは あれない。
げんじつに したがうしか ないの である。

この こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんの ぼつらくは、 きもちいいの じこいしきの ぼつらく(”zugrunde gegangen”(106ぺーじ)、「没落し〔その根拠へといたり〔るび:ツーグルンデ・ゲーヘン〕〕」(564ぺーじ))を おもいださせる。zugrunde gehenは ほろびる、ほうかいする、せいぶつがしぬ、にんげんかんけいがはたんする という いみ である。
きもちいいの だんかいの じこいしきも、 こていてきで しんだ うんめい としての ひつぜんせいに よって、 じぶんの ままでは いられなかった。
ここでも ある いみで おなじように、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは こたい である こと、 じぶんじしん である ことが できなく なる。
しかし、 ちがいが ある。
きもちいいの だんかいの じこいしきの ぼつらくは、 きもちいいの だんかいの じこいしきに とって しか なく、 われわれに とっては、 こころの ほうの だんかいへの うつりかわり であった。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの ぼつらくは、 ぎゃくに こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては なく、 われわれに とって ある のだ。
ただし、”um als diese unmittelbare Einzelnheit zu sein”(108ぺーじ)、「この〔「この」を きょうちょうしている。〕直接的な個別性〔「個別性」を きょうちょうしている。〕として存在し〔「存在し」を きょうちょうしている。〕ようとすれば」(575ぺーじ)である。um ... zu...は もくてきや いがいな けっかを あらわす。ここでは、 ちょくせつてきな こたいせい、こべつせい、こべつてきな ありかたは できない という はなし なので、 もくてき である。
「しようとすれば」と やくしているが、 「しようとしても」 と かんがえると いいと おもう。
この、こいつ としての ちょくせつてきな こべつの ありかたを しようとする けど、 げんじつに まけて、げんじつに ゆだねて、 したに いき、ぼつらく してしまう のである。

どいつご げんぶん 11

そして、 こべつせいが ぼつらくすると、” statt dieses seines Seins erlangt es also in dem Sein die Entfremdung seiner selbst”(108ぺーじ)、「「この」みずからの存在〔「みずからの存在」を きょうちょうしている。〕へと到達するかわりに意識は、したがって〔現実となった〕存在のなかでは、自分自身とは〔「自分自身とは」を きょうちょうしている。〕疎遠なものとなる〔るび:エントフレムドゥング〕にいたるのだ。」(575ぺーじ)。

どいつご たんご 11

stattは のかわりに という いみ である。
erlangenは をたっせいする、 にとうたつする という いみ である。

どいつご こうぞう 11

statt dieses seines Seinsが いちばんめの ようそで、 ぜんちしと ぜんちしのもくてきご である。
erlangtが にばんめの ようそで、 どうしである。
esが さんばんめの ようそで、 しゅご である。いしきを さす。
alsoが よんばんめの ようそで、 ふくし である。
in dem Seinが ごばんめの ようそで、dieses seines Seinsの じょうたい、 ある という ありかたに ある ことで という いみ である。
die Entfremdungは どうしの もくてきご である。
seiner selbstが さいごの ようそで、 にかくに なっている。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは じぶんが ある という ところまで いこうとする。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは そんざいする ように なろうとする。
しかし、じぶんが そんざい しようとした にも かかわらず、 じつは じぶんとは べつの ものに たどりついている のである。
めざした ところと べつの ところに たどりつく という たとえばなしを かんがえると わかる。
めざしていたのは、 じぶんが ある という こと だったが、 たどりついてみたら、 じぶんではない ものが ある のだ。
きもちいいの だんかいでは、 うんめい という ひつぜんせいが じぶんではない ものとして あった。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが げんじつの ほかの もの、 つまり こころの ほうの だんかいの こじん、こたい から すれば うぬぼれの さくらんが ある のだ。
じぶんが じつは うぬぼれの さくらんで さえ あったのだ。

いきた ひつぜんせい

きもちいいの だんかいの じこいしきが したがう ことに なった、 うんめい という ひつぜんえしは しんだ ひつぜんせい であった。
「空虚で異他的な必然性としての、死せる〔「死せる」を きょうちょうしている。〕現実でえある自己」(564ぺーじ)などと かいていた。
しんだ というのは、 へんかが おこらない という ことであり、 こていてき であり、 しずか という いみでの せい(静)てき であり、 あんていしている のだ。
この うんめいとしての ひつぜんせいは、 「かみがみと にんげんたちの ちつじょ」(”goettliche und menschliche Ordnung”(109ぺーじ)) であると きもちいいの じこいしきは かんがえていた。
しかし、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが したがう ことに なる げんじつは、 しんだ ひつぜんせい ではない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが したがう ことに なる げんじつは、 ほかの ものの こころ という ふへんてきな こたいせい、こじんせいを つうじて へんかが おこる ような いきた ひつぜんせい である。
へーげるは いきている ものの ほうが、 しんでいる もの よりも すぐれていると かんがえていた。

かみの ちつじょと ひとの ちつじょ

”göttliche und menschliche Ordnung”
göttlicheは かみの、 こうごうしい という いみ である。 かみがみの という ふくすうの かみを ぜんていに した いいかた とは かぎらない。
menschlicheは にんげんの、にんげんらしい、にんげんせいにふさわしい、かんだいな、いちこじんの という いみ である。
つぎの いんようで わかる ように、 いろんな じだいに ついて いわれる ことば だった。
こだいぎりしあ だけでは なかった。
しんせいで にんげんてきな ちつじょ という やくが いいかもしれない。
かみと にんげんの ちつじょ である という のは、 うんめい という ひつぜんせいに ついての かみの、かみがみの ちつじょ でありながら、 きもちいい という にんげんの ちつじょ である。

いんよう

”Anläßlich der Aufstände in Süddeutschland ruft der König von Preußen die Bevölkerung auf, sich nicht gegen die "rechtmäßige Obrigkeit, göttliche und menschliche Ordnung" aufzulehnen. Gleichzeitig verspricht er dem Volk die Einheit der Nation und eine einheitliche Exekutive.”
An mein Volk! Unter dem Vorwande der deutschen Sache haben die Feinde des Vaterlandes [...],
1849-05-15. https://digital.zlb.de/viewer/metadata/1848_842747/1/
ぐーぐる やく
「ドイツ南部での蜂起の際、プロシア国王は国民に「合法的な権威、神聖で人間の秩序」に反抗しないよう呼びかけました。 同時に、彼は国民に国の統一と統一された行政を約束します。」

こっかの ちつじょ である。

”Paulus schildert sich selber als „der ich früher ein Lästerer und ein Verfolger und ein Frevler war“. Er sieht sich also als Versager, Loser und als ein aus bewusster Missachtung gegen die göttliche und menschliche Ordnung Verstoßender. Er selber hätte aus nur eigener Kraft und nur mit Bordmitteln immer munter so weiter gehandelt und die Anhänger jener damals neuen Religion frisch und herzhaft belästigt, ans Messer geliefert und auch noch für andere als nur Stephanus zu dessen Steinigung die Kleider gehalten. Darin sieht er sich gar als Sünder mit Goldmedaille: „unter denen ich der erste bin“, also ein in sich selber hoffnungsloser Fall.”
https://www.deutschegemeinde.fi/sermon/predigt-2019-07-07-helsinki/
Hans–Christian Daniel, Predigt am 3. Sonntag nach Trinitatis, dem 7. Juli 2019 
in der Deutschen Kirche in Helsinki.
ぐーぐるやく
パウロは自分自身を「冒涜者であり迫害者であり悪行者であった人」と表現しています。 それで彼は自分自身を失敗、敗者、そして神と人間の秩序に違反したことに対する故意の無視と見なしています。 彼自身は、機内のリソースだけで自分自身で行動し、その当時の新しい宗教の信者に新鮮で心から嫌がらせをし、彼らをナイフに届け、スティーブンだけでなく他の人のために服を石打ちにしたでしょう。 その中で、彼は自分自身を金メダルを持った罪人とさえ見ています。「私が最初の人の中で」、つまり、それ自体が絶望的な事件です。」

きりすときょうの ちつじょ である。

Unverkennbar waren die pergamenischen Erfolge über die kleinasiatischen Galater als ein wesentlicher Beitrag zur Rettung der griechischen Zivilisation präsentiert und zugleich in die Tradition der durch die olympischen Götter und später durch die Athener zur Zeit des Theseus und der Perserkriege geleisteten Abwehr fundamentaler Angriffe auf die göttliche und menschliche Ordnung eingereiht.
[1] Vgl. H.-J. Schalles: Untersuchungen zur Kulturpolitik der pergamenischen Herrscher im dritten Jahrhundert vor Christus, IstForsch 36, Tübingen 1985, 51 f. 106-109. 148; P. Strootman: Kings against Celts, in: K. A. E. Enenkel / I. L. Pfeijffer (Hg.): The Manipulative Mode, Leiden / Boston 2005, 118-134.
Andrew Stewart: Attalos, Athens, and the Akropolis
http://www.sehepunkte.de/2007/01/6987.html
ぐーぐるやくを さいとーが なおした もの
小アジアのガラテヤ人に対するペルガモンの成功は、ギリシャ文明の救済への本質的な貢献として間違いなく提示されました。 同時に、オリンピックの神々によって、そして後にテーセウスの時とペルシャ戦争の時にアテナイ人によって実行された神と人間の秩序に対する根本的な攻撃の防御は、伝統に組み込まれました。」

やばんじんに たいする、あてないの かみがみと あてないの ひとびとの ちつじょ。
「紀元前241年にアッタロス1世がエウメネス1世の後を継ぐと、ガラティア人に対しての進貢を止め、その結果起こった戦争でガラティア人を破った。」(「アッタロス朝」、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%82%B9%E6%9C%9D、 あったらすちょうは、 ぺるがもん おうこく である。)

ジュースミルヒが1741年に書いた『神の秩序』(Die Göttliche Ordnung in den Veränderungen des menschlichen Geschlechts, aus der Geburt, dem Tode und der Fortpflanzung desselben erwiesen)は彼の最も重要な作品であり、人口統計学の歴史において先駆となる作品となった。ジュースミルヒは出生率の性別比が長期的には女性1,000対男性1,050に収束することを発見、彼はこれを神の仕業の証明として扱った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%92

かみと ひとの ちつじょは しんでいた

”die es geltend vorfand, für eine tote Wirklichkeit”(109ぺーじ)、「この意識の〔かつて〕解するところでは、この「神々と人間たちの秩序」は、それが現に妥当するものとしてまえに見いだされるかぎり、死せる現実であった。」(576ぺーじ)
geltendは げんこうの(現行の)、ゆうこうな(有効な)、いっぱんに みとめられている、しはいてきな、だとうする という いみ である。
vorfandは である ことを みいだす という いみの vorfindenの かこきほんけい である。

vorfindenは あらたな じょうきょうで、 ある ところや ある じょうたいに あるのを みいだす という いみ である。 さいきどうし として つかうと ある という いみ である。
ここでは、 「たんに まえに みられた もの」 という いみで かんがえる べき だと おもう。
なぜなら、 つぎに もとに なる もの という いみの きげん(起源)、Ursprung という ことばが つかわれている から である。
もとに なる もの という いみの きげん(起源)は、 まえに ある だけで なく、 いまの もとに なる という こと まで ふくむ。
ひつぜんてきな もの として かんがえる という ことは、 もとに なる もの という いみで きげん(起源)と かんがえる という こと である。
これは われわれの たちば である。
いっぽう、 たんに まえに ある ものと かんがえるのは、 ある だんかいの いしきの たちば である。
(ここらへんで、 「形態」(569ぺーじ) という ことばが つかわれるのは、こうどうする りせいに ついての だんかい だけ かもしれない。)
ある だんかいの いしき、とくに こうどうする りせいに とって ある というのは、じぶんに とって ある という ある という こと だけだ。

こういう いままでの いしきの だんかい として かんがえる という いみと、 じぶんでは ない もの として かんがえる という いみの vorfindenが ある。
どちらの いみでも ありうる。
じぶんの もの ではない という もの として かんがえる ものを しんだ こていした ひつぜんせいと かんがえている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが、まえの だんかいの きもちいいの だんかいの じこしきや うんめい としての ひつぜんせいを しんだ あんていてきな ものと かんがえる という こと も かんがえられる。しかし、 こっちは すじが わるいかな。 まえの だんかいを どう かんがえるかは われわれに とっての はなしだと おもう から。
いっぱんに かんがえらえる、 つまり ふへんてきに だとう(妥当)する、 ふへんてきに ゆうこう(有効)な もの として、じぶんではない うごかない しんだ げんじつ として、ちつじょ という ふへんてきな ものを、 きもちいいの だんかいの じこいしきは かんがえる。
きもちいいの だんかいの じこいしきに とって、じぶんではない ふへんてきな ものは、 しんだ げんじつ であった。

げんじつは じぶんだと わかっていなかった。

うんめいとしての ひつぜんせい であった、じぶん では ないもの としての ふへんてきな もの である ちつじょ である げんじつの なかに、 きもちいいの だんかいの じこいしきは いたと こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは きがつく。
しかし、きもちいいの だんかいの いしきは、 じぶんが げんじつ である という ことが わかっていなかった。
たしかに りせいに おいて、 じこいしきは げんじつが じぶん である ということ、 じつざいの すべて である という ことを かくしん していた はずだ。

「自己意識はじぶん自身が〔いっさいの〕実在であることを確信しているからである。ことばをかえれば、いっさいの現実が自己意識にほかならないことだ。」(369ぺーじ)

おそらく、 かくしん(確信)している から といって、 しっている わけではない という こと だろう。
ちゃんと かくしん(確信) では ない かたちで、 わかって しる ことが すぐれていると へーげるは かんがえていた。
ほんとうは きもちいの だんかいの こじん、こたいは という じぶんは、 いきていて、 うごいている。
われわれに とっては、 ほんとうは、 きもちいいの だんかいの じこいしきは しんでいない。
しかし、 きもちいいの だんかいの いしきは、 しんだ げんじつに たいして あって、 それに したがう しか ないと おもっていた。
うつりかわって、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに なると、 しんだ げんじつの なかに じぶんが いると わかる。
しんだ げんじつに たいして ある のでは なく、 しんだ げんじつの なかに あるのだと、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは わかるのだ。
つまり、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんも、 じぶんも あるいみで しんだ げんじつ であると おもうのだ。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじん という いしきは、じぶんは 「この」 という ことばで さすことが できる こころ であると うごかない ように する。
「この」 という ことばは、 ちょくせつてきな こべつせいを あらわしている。
じぶんの こころは、 この こころ である。
この という ことば しか じぶんの こころを しめす ことは できない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじん という いしきは、 こころ である。
こころは じぶんに かんけいして ある という ありかた である。
こころは たいじそんざい(対自存在) である。
こころは じぶんに とって じぶんが ある という ありかたを している。
こころ という ありかたは じぶんの ありかたを かんじる という かんじょう でも ある。


そして、 げんじつの なかに いる という ことは、げんじつに かかわっている という こと であった。
げんじつの なかに いる という ことは、 げんじつを つくっている という こと であった。
しかし、じぶんが げんじつを つくっている という ことを、 きもちいいの だんかいの じこいしきも こころの ほうの だんんかいの こたい、こじんも わかっていない。じかく していない。

どいつご げんぶん12

わからない

”worin, wie es selbst, das sich als dieses für sich seiende dem Allgemeinen entgegengesetzte Herz fixiert, so die ihr angehören, das Bewusstsein ihrer selbst nicht hätten; ”
(109ぺーじ)
「その現実にあって意識自身も――意識はみずからを「この」心情として、それだけで〔るび:フュール・ジッヒ〕存在し、普遍的なものに対立する心情として固定する――、この現実に参与する者たちも、その現実がじぶん自身であるとする意識を有してはいなかったはずである。」
(576ぺーじ)
ぐーぐる やく
「その中で、それ自体、普遍性に反対する心は、これがそれ自体のためであるとしてそれ自体を固定し、それに属する人々は彼ら自身の意識を持たないでしょう」

どいつご たんご12

fixeren よんかく もくてきごを こていする、かくていする、みすえる、anよんかくに しゅうちゃくしている

entgegengesetzteは どうしの entgegensetztenの かこぶんしの じょせいけい である。
さんかくの もくてきご、よんかくの もくてきご、entgegensetzten という かたちで、 さんかくの もくてきごに はんたい、 たいこうして、 よんかくの もくてきごを もちだす という いみ である。
(entgegenは なにかに そむく という いみ である。
entgegenは さんかくの もくてきごを ともなうが、 もくてきごの あとに ともなう ことも ある。
gesetzteは きめる という いみの どうしの setzenの かこぶんし である。
Gesetzは こころの ほうの ほうや、 ほうそく、 おきて という いみが ある。)

angehörenは さんかくの もくてきごに しょぞくしている という いみ である。「参与する」より 「しょぞく する」の ほうが いいのではない だろうか?

hätten
habenの接続法第2式第1人称複数形。
habenの接続法第2式第3人称複数形。
https://ja.wiktionary.org/wiki/h%C3%A4tten

せつぞくほうは、 はなしている じぶんが そのことを かくじつに ただしいとは ほしょうしない という ことを いみしている。だから、「意識を有してはいなかったはずである。」ではなくて、 「いしきを ゆうして いなかった であろう」ぐらい だと おもう。

どいつご こうぞう12

wie es selbstが わからない。くうらんは わからない。
worinが かんけいふくし である。
wie es selbst,
das sich
als dieses für sich seiendeが alsと その もくてきご である。
dem Allgemeinen entgegengesetzte Herzが さんかくの もくてきご である。
fixiertが どうしである。
so die ihr angehören,
das Bewusstseinが もくてきご である。
ihrer selbst nicht
hättenが どうし である。

すべての こころの ほう

”aller”(109ぺーじ)、「万人の」(576ぺーじ)、すべての いしきに よって、 げんじつは いきいきと されている。
げんじつは、 すべての いしきに よって できている。
げんじつは すべての いしきに よって うごかされる。
げんじつは、しんだ ひつぜんせい として うごかない のでは なく、 いきた うごく もの である。
げんじつは すべての こころの ほうで ある。
ひとつの この こころの ほう では ない。
じぶんの こころの ほうの ようには げんじつは ならない。
そのような げんじつは みんなの こころの ほう である。

こころの ほうの こたい、こじん という いしきが けいけん するのは、 げんじつは いのちを あたえられた ちつじょである という こと である。
せいしんげんしょうがくは いしきの けいけんの がく であった。
いしきが けいけんを する ことで、 だんだんと へーげるが かんがえる すぐれた ありかたに なっていくのだ。
いしきが けいけんする のは、 げんじつは いのちの ような すぐれた ありかたを している という ことだ。
いのちは おなじ いのち として つづくが、 なかみの それぞれの さいぼうなどの からだの ぶぶんは かわって うごいていく。
そのように げんじつは、 おなじ げんじつ として つづくが、 なかみは かわって うごいていく。
さいとー からすれば、 げんじつを とめなければ ならないが、 へーげるに とっては、 げんじつは つづく もの である。

いしきが けいけんする には こころの ほうを げんじつに する。

いしきが、 げんじつは みんなの こころの ほう である という ことを けいけんする ばあいは、 こころの ほうを げんじつに する のだ。
めざした じぶんの こころの ほう では なく、おこないに おいて、 じっさいは、 たどりつくのは みんなの こころの ほう である。
つまり、 たんに かんがえていれば、 けいけんできる という こと では ない。
ふるまわなくては けいけん できない のだ。
じぶんの もくてき とは ちがう ことを じっさいに する という じっさいの ふるまいを する ことに なる。
こころの ほうを げんじつに すると、 いしきが げんじつが じぶん であり、 みんなの こころの ほう である という ことを けいけんする。
じぶんの こころの ほうを げんじつに すると、 じぶんは みんなの なかの ひとり なので、 みんなの こころの ほうを げんじつに する ことに なる のだ。
みんなの こころの ほうは、 じぶんの こころの ほうと あるいみ では おなじ なのだ。
じぶんの こころの ほうが じぶんの もの である という のに たいして、 みんなの こころの ほうは みんなの もの である という ちがいは ある。
しかし、 みんなの こころの ほう という げんじつに、 じぶんの こころの ほうを その げんじつに する という ことが、とくの いしきに なる という こと である。

げんじつに する とは、じぶんを ふへんてきな たいしょうに する こと である。

じぶんの こころを げんじつに する という のは、まず こころの ほうの こたい、こじんの こたいせい、こじんせいを じぶんに とって たいしょうに する という こと である。
じぶん である ことを じぶんに とって ある という ありかたに する のだ。
たいじ・そんざいに する という こと である。
じぶんと じぶんを かんけい させる という こと である。
じぶんに とって じぶんが ある という ことは、 じぶんが どのように かんじるかを じかく する という こと である。
みんな という ふへんせいに たいりつ していた、 じぶん という こじんせい、こたいせいを じぶんが しる たいしょうに する のである。
たいしょうは ふつうは じぶん ではない。 じぶんを じぶんではない という ありかたを している たいしょうに する。
ただし、 じぶんを ふへんてきな たいしょうと する のである。
つまり、 じぶんが みんなと おなじで あると かんがえる のである。
みんなと おなじ じぶんを、 ある いみでは じぶんでは ない もの として、 たいしょうとして しる ことに なる。
これは じぶんと かんけいする という ありかた として、 へーげるに とっては すぐれている ありかたに なる こと では あるが、 いっぽうで、 われわれに とっては そう では ない という ことで、 いまだ あるいみで おとった ありかたに とどまる こと である。

げんじつに する とは、 どうじに、じぶんの ことを にんしき していない という こと である。

げんじつに する とは、 どうじに、じぶんの ことを にんしき していない という こと である。
じっさいは、しる ことに なる たいしょうは すべて、すでに それじたい としては、 われわれに とっては、 すでに じぶんに なっている。
しかし、この だんかいの いしき、 つまり こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが たいしょうの なかに ある とは おもっていない。
たいしょうは あくまで じぶんとは ちがう もの なのである。
じぶんとは ちがう もの として じぶんを わかる のである から、 まだ じぶん では ない ものが ある のだ。
われわれに とっては、 その じぶんでは ない ものも じぶん である のに。
だから、こころのほうを げんじつに する という ことは、 みんなの こころの ほう である ような、 げんじつに、 じぶんの こころの ほうを あわせているに すぎない のだ。
われわれに とっては みんなの こころの ほうも じぶんで ある のに、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 じぶんを じぶん では ない ものに じつげんする、 げんじつに する、 ある ように する という ことを している つもり なのだ。
もちろん、 それまでの いしき しょう、じこいしきしょう、りせいしょうの かんさつする りせいは、 じぶんを げんじつに する という ことは ちゃんとは してこなかった という いみで、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 こうどうする りせい として、 へーげるに とって すぐれている。
じぶんを じぶんの あたまの なか だけ では なく、 しゃかいの なかで げんじつに する から である。
じぶんが たいしょうの なかに ある という ことが わかっていれば、 じぶんを げんじつに する という ことは できない。
すでに じぶん である ものを じぶんに する という ことは、 その いしきに とっては、げんじつに なる こと である とは いえない から である。
すでに げんじつ である ことを げんじつ なる ものに かえる ことは できない。
すでに げんじつ であるの だから、 げんじつ である ならば、 げんじつに する こと では ない。
かえる というのは、 そうではない ものから そうである ものに する こと である からだ。

b9

じこいしき

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じこいしき である。
なぜなら、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが こころ であり、 じぶんが こころの ほう である という ことを しっている から である。
いしきが、じぶんに かんけいしている こと、 じぶんが じぶんに とって ある こと、 じかく てき である こと、 たいじ・そんざい である ことが、 じこいしき である という こと である。
しかし、 ここまでは、 「いしき」とか、「こたい、こじん」という ことばを つかっていた ことに ちゅういする ひつようが ある。
なぜなら、すくなくとも、 へーげるに おいては「いしき」 よりも 「じこいしき」の ほうが すぐれている から である。
「いしき」の ほうが ちょくせつてきで、 「じこいしき」の ほうが かんせつてきで ある。
そう かんがえると、 「こたい、こじん」 というのは、 いしき より おとった ちょくせつせいと みる ことが できるの かも しれない し、
または、 じこいしきの あとの りせいしょう だから でてきた かんがえかた なのかも しれない。
さいしょから よみなおす ひつようが ある。

よみまちがえた ときの よみかたを のこしておく。
しんじつ
こころの ほうの だんかいの じこいしき から、 うぬぼれの さくらんの じこいしきに うつりかわり、 さらに とくの だんかいの じこいしきに まで うつりかわる という けいけんの はなしが でてくる。
この ときに、 こころの ほうの だんかいの じこいしき、 うぬぼれの さくらんの じこいしき、とくの だんかいの じこいしきに とって、 この けいけんから しんじつが わかる。
われわれに とっては、 それは すでに しっている ことで あり、 しんじつ では ない。
しかし、 この だんかいの じこいしきに とっては、 しんじつ である。
つまり、 めざした ところとは べつの ところに たどりついていると わかった という ことだ。
しかし、このように、 この だんかいの じこいしき という じぶんに とって、 じぶんに たいして、 たいじ(対自)てきに あると おもわれていた しんじつも、われわれに とっての、 じつは という ありかたの、 そくじ(即自)てきな、 それじたいの ありかたと むじゅんしている。
むじゅん という かんがえかたは、 よく わかっていない。☆
おそらく いっぽうに おいては ただしいと される けれど、 たほうに おいては まちがっていると されていて、 それでいて どちらも ただしい ばあいに むじゅんと いうのだと おもう。ほりゅう。

じこいしきに とっての しんじつ
だけど、はなしは たんじゅん では ない。
この だんかいの じこいしきが まちがっていて、 われわれが ただしい という だけでは おわらない。
なぜなら、 この だんかいの じこいしきは、 じぶんに とって じぶんの かたちは、 それじたいで、 じぶんに とって、 そして ぜったいてきに、ふへんてきな ありかた なのである。
こころの ほうの だんかいの じこいしき では、 みんなと おなじような しあわせを もとめていた。
こころの ほうの だんかいの じこいしきは、 こう なったら いつも こう おもって こう こうどうする はず である という こころの ほう、こころの きまりごと であった。
こころの ほうの だんかいの じこいしきは、 じぶんに たいして、 じぶんに とって、 じぶんと かんけいして、 じぶんが ふへんてきで ある という ことが わかっていた。
つまり、 それまでの じぶんは じぶんと かんけいなく じぶんで あると おもっていた だんかいとは ちがって、 ある いみで へーげるに とって すぐれた ところが ある のだ。
そして、 じぶんの ことが わかる という じこいしき、 じぶんと かんけいしている じこいしき という ありかたは、 こころ である じぶんが どのように うごくか という きまり、 つまり ほうを わかっている ので、 こころの ほうの だんかいの ほうは、 じこいしきと ちょくせつてきに ひとつ である。
ただし、 まだ こころの ほうの だんかい では、 ほうが じこいしきと かんせつてきに ひとつに なる という わけでは ないのだ。
つまり じぶんが じこしきで ある ことは まだ じかく できていない という こと だろう。
じぶんは ほうを りかい しているが、 じぶんが ほうを りかいする という ほうは まだ わかっていない。

よみまちがえていた ときの よみかた ここまで。

ず(図)

よみにくかったので、 ず(図)を かいて よんだ。 せつめいは はぶく。 めが みにくい ものは、 れんらくを くれれば、 なにかしら する。ごめんなさい。

f:id:hunihunisaito:20210331095548j:plain
しんじつと むじゅんする じぶんに とって ある ことが こころの ほうに いくまで
f:id:hunihunisaito:20210331095646j:plain
こころの ほうが じぶんに とって あり、 じぶんと ちょくせつに ひとつ である
f:id:hunihunisaito:20210331095728j:plain
いきている ちつじょも じぶんであり、 じぶんが つくり、 こころの ほうと たいりつする
f:id:hunihunisaito:20210331095838j:plain
いきている ちつじょも じぶんと ちょくせつ ひとつ であり、 じぶんは おくそこで さくらん している
f:id:hunihunisaito:20210331095944j:plain
こころの ほうが じぶんであると わかり げんじつに なると、 ふへんてきな ちつじょが じぶんが ある という げんじつに なる
f:id:hunihunisaito:20210331100040j:plain
こべつは ある という かたちで、 ふへんは じぶんの げんじつ という かたちで、 いしきの なかで たがいに はんろんする
ずから ないもの

「存立する」と「それ自体そのものとして矛盾しており」(577ぺーじ)は ずに かけなかった。
そんりつする とは、bestehende という ことば である。
bestehenは ある とも そんざいする とは ちがう のである。
beは つづく という いみ である。 stehenは たっている という いみ である。
ある とか、そんざいすると いうと じぶんに とって ある、 じぶんに おいて ある などの はなしが はいってきてしまう からだ。
だから、 ちつじょは ある のでは なく、 そんりつ する のである。

” Dieses ist auf diese Weise, einer gedoppelten entgegengesetzten Wesenheit angehoerend, an sich selbst widersprechend”(109ぺーじ)
「自己意識はこのようにして、対立した二重の本質なありかた〔るび:ヴェーゼンハイト〕にぞくするものであるがゆえに、それ自体そのものとして矛盾しており」(577ぺーじ)

ありかたが ふへんてきで ありながら、 こべつてき である。
つまり、 ほんしつ でも ある ありかたの ふたつの ありかたが それぞれ、 たがいに はんろんしている、 たがいに むじゅんしている という はなし である。
この ことを じこいしきは じぶんに はんろんしている、 じぶんと むじゅんしていると いっている のである。
つまり、 じこいしきは ふへんてき である ので、 こじんてきな じこいしきと むじゅんしている。
そして、 じこいしきは こじんてき、こたいてき である ので、 ふへんてきな じこいしきと むじゅんしている。

さくらん

”im Innersten zerrüttet. ”(109ぺーじ)「その深奥にあって錯乱している」(577ぺーじ)
さくらんしている というのは、 ちつじょが ない という いみだと おもう。
Innersteは こころの おくそこ、かくしん、さいないおうぶ、 という いみ である。
zerüttetは こころや からだを そこねる、がいする、きずづける、むしばむ、かいていやざいせいなどをこんらんさせる、ほうかいさせる、はかいする という いみの どうしの zerüttenの げんざいけいの かつようである。

1. (körperlich oder geistig) völlig erschöpfen
BEISPIELE
-etwas zerrüttet jemanden seelisch, körperlich
ーdie Aufregungen haben ihre Gesundheit zerrüttet (untergraben, ruiniert)
ーsie hat völlig zerrüttete Nerven
2. völlig in Unordnung bringen; das Gefüge, den Zusammenhalt, Bestand von etwas zerstören
BEISPIELE
ーdie dauernden Streitigkeiten haben ihre Ehe zerrüttet
ーzerrüttete Familienverhältnisse
https://www.duden.de/rechtschreibung/zerruetten
さいとー やく
1. (からだ てきに、 こころ てきに)かんぜんな つかいはたす/つかれはたす
れい
ーなにかが だれかを かんじょうてき、 からだ てきに そこなう
ーさわいだ せいで、 けんこうが そこなわれた(うしなわれた、だめになった)
ーしんけいを かんぜんに そこなった
2. かんぜんな むちゃくちゃに する。 こうぞう、 つながり、つづくものを こわす
ーけんかが つづいて けっこんせいかつが はたんした
ーはたんした かぞくかんけい

この たんごは、 ほかの ところでは いっかいしか つかわれていない ようだ。
”Verruecktheit zerruette” (そこなわれた くるい)(196ぺーじ)
けいようし だと

[durch zu große Aufregung, Anstrengung, Belastung] (körperlich, seelisch) in Unordnung geraten, sehr erschöpft

BEISPIELE
eine zerrüttete Gesundheit, Ehe, Familie
sie kommt aus zerrütteten Verhältnissen
https://www.duden.de/rechtschreibung/zerruettet
ぐーぐるやく
「[興奮、労作、緊張が多すぎるため](肉体的、精神的)無秩序で、非常に疲れている

壊れた健康、結婚、家族
彼女は壊れた状況から来ています」

という いみ である。
しかし、 「さくらん」の ような いみは むかしの どいつごには あった ようだ。
„ZERRÜTTEN, verb.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=z04759, abgerufen am 31.03.2021.

どいつご げんぶん13

Was also dieser Gestalt des Selbstbewusstseins aus ihrer Erfahrung als das Wahre hervorgeht, widerspricht dem, was sie für sich ist.
109ぺーじ

「個体のふるまい〔るび:トゥーン〕には、〔個体が普遍性に対抗しようとする以上〕それゆえ顚倒された意義があることになる。それは、普遍的な秩序と矛盾し、これに抗議する〔「矛盾し、これに抗議する」を きょうちょうしている。〕(widersprechen)というものであって、それも、個体のなすところ〔るび:タート〕は個体の〔「個体の」を きょうちょうしている。〕個別的な心情からなされたこと〔るび:タート〕であるはずであり、自由な普遍的現実であってはならないからである。」
573ぺーじ

どいつご たんご13

ausは さんかくの もくてきごを ともなって、 のなか から という いみ である。
Erfahrungは けいけん という いみの じょせいめいし である。
hervorgehtは から うまれる、 から あきらかになる という いみの どうし、aus さんかくの もくてきご hervorgehenの げんざいけいの かつよう である。hervorは そとへ、 てまえへ という いみ である。
widersprichtは さんかくの もくてきごに はんろんする、 さんかくの もくてきごと むじゅんする、 あいいれない という いみの どうし、 widersprechenの げんざいけいの かつよう である。

どいつご こうぞう13

なぞ。 Was せつのしゅご せつのじゅつご、 じゅつご もくてきご、 was せつのしゅご じゅつご という かたちは いいが、 さいしょの wasが せつの なかで めいしと して はたらいていない のだろうか?☆要調査。

ふへんと こたいが あわない ことが widersprechen だと おもわれる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 ふへんてきな ちつじょに widersprechenするが、
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが うつりかわりで、 しんじつに たどりつく とき、
しんじつの ありかた である ふへんてきな ありかたが、 こじん、こたいが じぶんと かんけいして ある という ありかたに widersprechenする。

じこいしきに とって むじゅん しあっている、はんろんしあっている

”was in seinem Bewusstsein sich also widerspricht, ist beides in der Form des Wesens und seiner eignen Wirklichkeit für es.”
109ぺーじ
「自己意識の意識するところにおいて、したがってたがいに矛盾するものについていえば、それらは双方ともに、本質という形式のうちでも、じぶん自身の現実という形式のなかでも、自己意識に対して存在しているのである。」
577ぺーじ

ここらへんの どいつごの げんぶんは すべて きょうちょう されているが、 まちがい だと おもわれる。 ほかの ばーじょんを かくにんしていない ので かくにんできていない。
inは さんかくの もくてきごを ともなって、 のなかで、のしかくで、のありかたで という いみで ある。
さんかくの sich よんかくの もくてきご in Bewusstsein zurürckkrufen という かたちで、おもいだす という いみで ある。
beidesは ちゅうせい たんすうで めいしと どうかくで、 りょうほうとも という いみ である。
ここでは、 ふたつの かのうせいが かんがえられると おもう。
beidesを しゅごと どうがくであると かんがえる よみかた。 たがいに むじゅん しあう、 たがいに はんろん しあう、 こべつと ふへんで たいりつ する ものは どちらも じかく されている。 そして、 こじんてきな ありかたは ある という かたちで あり、 ふへんてきな ありかたは じぶんが ある、 または じぶんに とっての げんじつ という かたちで ある。
beidesを inを せつめいする ものだと かんがえる よみかた。 たがいに むじゅん しあう、 たがいに はんろん しあう、 こべつと ふへんで たいりつ する ものは、 それぞれで ある という かたちで じかく され、 それぞれで じぶんの げんじつ として じかく される。

b10

みだれた じこいしき

どいつご げんぶん14

Indem es dies Moment seines sich bewussten Untergangs und darin das Resultat seiner Erfahrung ausspricht, zeigt es sich als diese innere Verkehrung seiner Selbst, als die Verrücktheit des Bewusstseins, welchem sein Wesen unmittelbar Unwesen, seine Wirklichkeit unmittelbar Unwirklichkeit ist
109ぺーじ
「自己意識はみずからの没落を意識している。自己意識はこの没落という契機を言明し、またそうすることでじぶんの経験から帰結することがらを言明している。そのことによって自己意識がみずからをしめすところによれば、自己意識とはそれ自身がこのように内面的に顚倒されたものであり、意識の錯乱なのである。つまり自己意識にとってじぶんの本質〔るび:ヴェーゼン〕がただちに本質ならざるもの〔るび:ウンヴェーゼン〕であり、みずからの現実〔るび:ヴィルクリッヒッカイト〕がただちに非現実的なありかた〔るび:ウンヴィルクリッヒカイト〕なのだ。」
577ぺーじ

ぶんせき14

「自己意識はみずからの没落を意識している。」
sich bewusstenの ぶぶんの やく である。
ぼつらくは Untergangsで、 まえも でてきた。

”vielmehr untergeht”(108ぺーじ)、「かえって没落していく」(575ぺーじ)。untergehenは たいようが しずむ、 ぼつらくする、 しぬ、めつぼうする、 (ひゆてきに)きえる、かきけされる という いみである。

ただし、 ほんらいは、 「みずからを ぼつらくと いしきしている ところの みずからの ぼつらく という けいき(契機)」 という いみの めいし である という ことに ちゅういする。
いみは、 こころの ほうから うぬぼれの きょうきに うつりかわった じこいしきは、 じぶんが みんなの ひとりに なってしまい、 じぶん という こじんてきな、こたいてきな、こべつてきな ありかたが なくなってしまう ことを わかっている。 こべつせいが ふへんせいに よって なくなる ことが ぼつらく であった。
きもちいいの だんかいの じこいしきは、 じぶんが みんなに まきこまれて、 じぶんが みんな でしか ない という ことに きがついていない。
きもちいいの だんかいの じこいしきは ただ ちょくせつてきに じぶんが みんなと ひとつ なのである。
しかし、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに なり、 じぶんが みんなと おなじ こころ である という ことを かくしんして、 こころの きまりを しる ように なる ことで、 ただ みる だけではな なくて、なにかを する ことに なる。
そして、 ひとりよがりの きょうきの じこいしきに なり、 みんなが こころの きまりに あっていないと おもい、 じぶん だけが こころの きまりに あっているのだと おもうが、 じぶんは げんじつに おいては みんなに まけて きえるのだ という ことも わかっている のだ。
なぜなら、ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんは こたい、こじん、こべつ でありながら、 じつは じぶんは みんな、 ふへん である ことを しっている からだ。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは みんなに たいして はんろんしていて、 むじゅんしていた。
しかし、 ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこいしきは、 みんなの ような ありかたが じぶん こべつの ありかたに はんろんしていて、 むじゅんしていると わかっている。
なので、 ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんが じぶんに はんろんする という ありかたを している。
しかも、 それは ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこしきに とって、 じぶんと じぶんが たいりつしている という だけ ではなく、 われわれに とって、 それじたいとして、そくじてきに、 じぶんと じぶんが むじゅんし、 はんろんしあっている という ことに なる。
じぶんが じぶんと たいりつ する という ことは、 せいしんげんしょうがく では すべての だんかいで おこる こと だろうが、 それ じたい として、 われわれに とっても じぶんと じぶんが むじゅんしている ような ありかたは うぬぼれの きょうきが はじめて なのだろう。 もしかしたら、 ここ だけ なのかもしれない。
それまでは、 ちつじょに のっとった じぶんが、 じつは わかっていなかった けど べつの ちつじょに のっとった みんな であったと きがつく のに たいして、
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんが ちつじょに のっとっておらず(さくらんしており)、 みんなも ちつじょに のっとっていない(さくらんしている)と おもっていて、 じっさいに われわれに とっても その とおり なのである。

「自己意識はこの没落という契機を言明し、」
じこいしきは、 じぶんが ぼつらく する、 めつぼうする、 きえていく という ことを ことばで あらわす。
ことばで あらわせるのは、ぼつらく という とき、じょうきょうが じぶんに とって ある から である。
つまり、 じぶんが ぼつらくしていると じかく している から、 その ことを ことばに あらわせる のである。
ことばに あらわす という のは、 ausspricht という aus、 なかから、 sprechen、はなす という たんごが くみあわさった どうし である。
つまり、 ことばに あらわす という のは、 じぶんの うちがわに あった むじゅんや はんろんを じぶんの そとがわに だす こと なのである。
ここで、 むじゅんや、 はんろんを いみするのは、 widersprechen という sprechen という おなじ ことば から できた ことば である という ことにも ちゅういする。
そして、 ことばで あらわす ことが できる というのは、 ちょくせつてき では なく、 かんせつてきに しる ことが できる という ことを いみする。
つまり、 ことば という べつの ものを つうじて かんせつてきに ものごとを しる ことが できる という こと なのである。

「またそうすることでじぶんの経験から帰結することがらを言明している。」
じぶんの けいけんから きけつ する こと、 つまり じぶんの けいけんの けっか という のは、 b8 では、 つぎの ように かいていた こと である。

こころの ほうの こたい、こじん という いしきが けいけん するのは、 げんじつは いのちを あたえられた ちつじょである という こと である。
せいしんげんしょうがくは いしきの けいけんの がく であった。
いしきが けいけんを する ことで、 だんだんと へーげるが かんがえる すぐれた ありかたに なっていくのだ。
いしきが けいけんする のは、 げんじつは いのちの ような すぐれた ありかたを している という ことだ。
いのちは おなじ いのち として つづくが、 なかみの それぞれの さいぼうなどの からだの ぶぶんは かわって うごいていく。
そのように げんじつは、 おなじ げんじつ として つづくが、 なかみは かわって うごいていく。

つまり、 げんじつが いきいきとして かわっていく もの である という ことを ことばに する ことに なる のだ。
じぶんの けいけんの けっかを ことばに する ことが できる というのは、この だんかいの うぬぼれの きょうきの じこいしきに とっては そのような いみを もっていない かもしれない。
しかし、ことば という べつの もので あらわす ことで、 その ことばは じぶんの もの では なくなり、 みんなで かえていく ものと なる。
すると、 じぶんが かんがえていた わけ では ない いみを ことばが もつ ように なる。
こうどうが こうどうする りせいしょうでは もんだいに なっていたが、 ここでは こうどうの なかでも ことばで あらわす ことが もんだいに なっている。
ことばを つかわない こうどうが ちょくせつてきな もので あった のに たいして、 ことばで あらわす ことは かんせつてき である。
へーげるに とっては、 かんせつてきで ある ことが より すぐれていた。
ちょくせつてきに しっている というのは、 こべつてきに しっている という こと であり、 かんせつてきに しっている というのは、 ふへんてきに しっている という こと だから である。
ことばで、 じぶんは みんなに よって じぶんでは なくなっている のだ という ことを いうと、 みんなが それぞれ じぶん であり、 かわっていく もの なのだ という ことを ことばで あらわしている ことに なるの だろう。

「そのことによって自己意識がみずからをしめすところによれば、」
みずからを しめす というのは、 じぶんが どのような もの であるかを しめす ことに なる という こと である。
しめす という ことばが つかわれている ことに ちゅういする。 のちのち でてくる かもしれない。

「自己意識とはそれ自身がこのように内面的に顚倒されたものであり、」(innere Verkehrung)
ないめんてきに てんとう された という のは、じぶんが こべつてきな じぶん であると どうじに、 ふへんてきな じぶん である という みだれた ありかたを している という こと である。
ないめんてき というのは、 うちがわ という いみの たんご であり、 おくそこ という ことばと つながっている。

”im Innersten zerrüttet. ”(109ぺーじ)「その深奥にあって錯乱している」(577ぺーじ)
さくらんしている というのは、 ちつじょが ない という いみだと おもう。
Innersteは こころの おくそこ、かくしん、さいないおうぶ、 という いみ である。
zerüttetは こころや からだを そこねる、がいする、きずづける、むしばむ、かいていやざいせいなどをこんらんさせる、ほうかいさせる、はかいする という いみの どうしの zerüttenの げんざいけいの かつようである。

てんとう であるVerkehrungは、 てんとうされた ちつじょ という ことばで、 まえに でてくるverkehrteと つながっている。
ここでは、 てんとう というと、 はんたいに している ように おもえるが、 ちつじょの はんたいを べつの はんたいに なった ちつじょと かんがえては いけない。
ここでは、 さくらん、みだれ であるzerüttet と おなじ ことを いっていると かんがえて、 ちつじょ じたいの はんたい、 つまり むちつじょを あらわしていると わかる。

verkehrteは けいようしの verkehrtの じょせいけい である。
verkehrtは ぎゃくの、 まちがった、 せいはんたいの という いみ である。
(verkehrtは、 どうしの verkehrenの かこぶんし である。
verkehrenは ぎゃくのものに てんか(転化)する という いみである。
たとえば、Tatsachen verkehrenで しんじつを わいきょくする という いみに なる。
kehrenは うらがえす、てんじる という いみ である。)

そして、 この むちつじょ である てんとう、さかさまは、ひとりよがりの きょうきに とっては じぶんじしん なのである。
ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこしきは、 それじたいで、うちがわから、 さかさまで むちつじょに なっている のだ。

「意識の錯乱なのである。」Verrücktheit
さくらん、みだれ であるzerüttetの めいしの かたちで、 あるいみで くるっている という いみにも なる ことば である。
さて、 とても だいじな ことを かく。
「くるっている」を わるい ことを あらわす のに つかう ことは、 わるい。
「くるっている」 というのは じょうきょうを あらわす ために つかえる ことは ある かもしれない。
せいしんしょうがいを もっている じぶんの ことを、 しゃかいを ひはんする いみで つかう いがいは だいたい さべつ である。
しかし、 ひはんの ために つかったら ほとんど かならず さべつを いみする。
つまり、 わるい。
たんてきに いえば、 せいしんしょうがいしゃ さべつ である。
そして、 わるい ことは だいたい くるっている から している のでは なく、 くるっていない から している のだ という ことを しる ひつようが ある。
わるい ものを くるっている という ことで、 じぶんは くるっていない から わるくないと まちがって あんしんしてしまう のである。
まちがっている だけ では なく、 わるい。
くるっている ことは わるくない。 わるい ことが わるい のである。
ひはんする べきは、 ひなんする べきは、 わるい こと である。 くるっている こと では ない。
さて、 では へーげるは くるっている という たぐいの ことばを どのように つかっている だろうか。
この あとに きょうき という ことばが ちょくせつ でてくるが、すぐれている もの としては かいていない ことは わかる。
しかし、 それは へーげるに おいては じぶん いがいは すべて すぐれている もの としては かいていない のだ。
ただし、 かがくてきな がくもん よりは すぐれていて、 しゅうきょう よりは すぐれていない という ように かんがえていたと かんがえる ことも できる。
しかも、 ここでは へーげるは せいしんしょうがいの ことを かんがえているか どうか わからない。
なぜなら、おそらく ふらんすかくめいを ここでは かんがえていると おもえる から である。
べつに ふらんす かくめいは せいしんしょうがいしゃが おこした かくめい では ない。
しかし、 へーげるは ふらんすかくめいを さいしょは よろこんだが、 ふらんすかくめいが わるい ことを ひきおこしたと かんがえて ひはんてきに なっていた。
その ように かんがえると、 へーげるも くるっている という ことばを わるいと おもう ものに つかっている という いみで、 わるい。
ただし、 ほぼ かくじつに わるい だろう という だけ であって、 この じだいの どいつごや しゃかいじょうせいが わからない ので、かくじつ には いえない。

へーげるは ここでは、 じぶんが じぶんに とって ふへん でありながら こべつ である という ことを 「さくらん」(みだれ)、「てんとう」(ぎゃくの もの)、 むちつじょ という ことばで あらわしている のだ。
じぶんが じぶんに はんたいしあっている という かんけいを していると じかくする ことを へーげるは 「さくらん」(みだれ)、「てんとう」(ぎゃくの もの)、 むちつじょと あらわしている のだ。(もちろん、 さくらん という ことばが きょうき という ことばと おなじ ように せいしんしょうがいしゃに つかわれる さべつてきな ことば なので、 わるい あらわしかた である。)

ひとりよがりの きょうき という じこいしきに とっては、 ある という ことは、 そう では ない ものと おなじ であり、 げんじつは そうではない ものと おなじ である。
つまり、じぶんの こべつてきな ありかた という ある という ことが、 どうじに こべつてきに ある という わけ では ない ふへんてきな こと である という こと である。
そして、 じぶんの ふへんてきな ありかた という げんじつが、 どうじに ふへんてきな げんじつ では ない こべつてきな こと である という こと である。

きょうき でも ひと それぞれ でも ない。

へーげるは ここで 「さくらん」(みだれ)と にた ことばを もちだしてきて、 それらの いみ では ないと ことばを げんていしている。
まず、 「さくらん」(みだれ)は それぞれの こじんに とって げんじつが ちがう という こと では ない。
つぎに、 「さくらん」(みだれ)は、 ひとつに まとまった もうそうの たいけいを つくる ような「きょうき」では ない。
もし、 せいしんぶんせきの ことばを つかう ならば、 ここでの 「さくらん」は ひにん(否認)を する こと である。
ひにん(否認)とは、 「これは こうだ、 いや こうではない」と いっきに むじゅんした ことを いう こと である。

おなじように、 「さくらん」(みだれ)、むちつじょは、 さだまった ありかたを せず、 おなじ ものが おなじ ことを むじゅんする ように とらえる という こと である。
みんな ひと それぞれ という はなしは、 ひとの それぞれ、 つまり ひとり ひとりの なかでは ちつじょが ない ことを あらわしていない。
もうそうてきな 「きょうき」 という はなしも、 ひと それぞれ という はなしと いわば おなじ はなしかたで ある
その 「きょうき」である ものの なかでは いっかんしている、 ちつじょが あるが、 ほかの ものには いっかんして みえない、 むちつじょであると おもう という はなし である。
「さくらん」(みだれ)、むちつじょは、 ちつじょが ない こと であり、 あるときは こういって、 つぎには こうではないと いう という ちつじょの なさを あらわしている。

だから、 いっぱんに げんじつ という ものは、 ひと それぞれだ という はなしでは ない のだ。
ひと それぞれ という ばあいは、 げんじつと げんじつ では ない ものが べつの ものに なっている。
しかし、 「さくらん」(みだれ)、むちつじょ という ばあいは、 げんじつと げんじつ では ない ものが わかれていない のだ。
「さくらん」(みだれ)、むちつじょ という ばあいは、 ある ことと ある わけ では ない ことが わかれていない のだ。
そして、 「さくらん」(みだれ、こんらん)は、 「うぬぼれの きょうき」、「ひとりよがりの きょうき」 では あっても、 「きょうき」 では ない のだ。

この ような ことを へーげるは どのように かいている だろうか?
まず、 へーげるは、 「いしき いっぱん」と 「わたし」を くらべて かく(578ぺーじ)。 いしき いっぱんに とっては げんじつ だが、 わたしに とっては げんじつ では ない という、 ひと それぞれの ことを かんがえる。
いしき いっぱんに とって ある ことが げんじつ であり、 わたしに とって ある ことが そんざいする こと、 ある こと である のだから、 げんじつを ある とか ほんしつ とかに いれかえる ことは できない。
すると、わたしも いしき いっぱんの ひとつ である ので、 いしき いっぱんに とって げんじつ である という ことが わかりながら、 しかし それでも じぶんに とっては げんじつ では ない という いっかんした たいりつが できる。
この ばあいの わたしは こころの ほうの だんかいの こたい、こじん である。

つぎの ぶぶんは、 へーげるが きょうきを どのように かんがえていたかを かんがえる うえで だいじ なので、 いんようする。

「さらに、〔現実性の意識と非現実性の意識といった〕両者が固定される場合には、これは一箇の統一であるにしても、ふつう「狂気」といわれる統一なのである。――このような〔ふつうの〕狂気であるならば、しかしただ対象〔「対象」を きょうちょうしている。〕だけが意識に対しては錯乱し〔たかたちであらわれ〕ている。つまり意識そのものが、意識自身において、また意識自身に対して錯乱しているわけではない。」
578ぺーじ

どいつご げんぶん15

けっきょく にほんごやく だけ では わからない から、 どいつごを かくにんする ことに なる。

(Wenn etwas in der Tat fuer das Bewusstsein ueberhaupt wirklich und wesentlich, fuer mich aber nicht ist, so habe ich in dem Bewusstsein seiner Nichtigkeit, zugleich da ich Bewusstsein ueberhaupt bin, das Bewusstsein seiner Wirklichkeit,)
und indem sie beide fixiert sind, so ist dies eine Einheit, welche der Wahnsinn im Allgemeinen ist. In diesem ist aber nur ein Gegenstand für das Bewusstsein verrückt; nicht das Bewusstsein als solches in und für sich selbst.
109ぺーじ

どいつご たんご15

indemは そうすることに よってや している あいだに、 ふくしで そのあいだに という いみ である。
sieは sindという かつようを しているので、 ふくすうけい である。わたし という いしきと いしき いっぱん だろう。
soは ふくぶんの あとの しゅぶんに おいて せんとうに きて そのばあいには という いみ になる。
diesは これ という いみの たんすうちゅうせいの いちかく である。いしきは わたし でも あり いしき いっぱんでも ある という いみで ひとつ である。
welche を まえの ぶん ぜんたいを せんこうしとする かんけいしと かんがえた。
Wahnsinnは きょうき、せいしんさくらん、じょうきを いっした こうどう という いみ である。 この ことばは さべつの ことば である。
Wahnは もうそう、げんそう という いみ である。sinnは いみや りかいりょく という いみ である。
Gegenstandは もの、たいしょう、きゃくたい、てーま という いみ である。
「いしきにおいて」と あるが、 「いしきの なかで」が よい だろう。

きょうきの つかいかた

せいしんげんしょうがくは せいれき 1807ねんに かきおわった。
(1)の かんとの ぐたいれいに とくに ちゅういした。

ぐーぐるやく
「WAHNSINN、m。精神障害、ここで、前述の人間の病理学的空想は、直面している、無益にさらされています。 subst。 形容詞より若いです。 非常識(s。d。)であり、1780年頃から頻繁に発生します。これは、以前の妄想的な熱心さであり、妄想的に調べられた妄想的なジョークですらあります。 ルターはすでに現在の意味でこの単語を使用しました(1未満)、マテシウスも(4)を持っていますが、辞書にはありませんが、「意見」の場合は「安全でない意見」がリードしているシュティーラーを除きますそれ、そして再び貴族を除いて。 それ以来、それは文学にも登場しています。 またndl。 waanzin、スウェーデンのvansinne。
重要性。
1)一般に、狂気は妄想に現れる精神疾患です。狭義には、患者が感覚的に考えるが、想像力と実際の知覚を区別することができなくなった状態を表します。妄想とは、物事の単なる表現を物事自体と同じであると見なす欺瞞です。 ...狂気でさえこの名前を持っているのは、それが単なるアイデアをとるために使用されているからです...物自体の現在のためにそしてそれを評価するためにも。カント61、350;熱意が狂気である場合、熱意は狂気と比較されます。 7、129(判断力の批判);私はそれら(邪魔された頭の病気)を次の3つのカテゴリーに分類できると信じています:第一に、経験の概念の誤り、脱臼、第二に、最初はこの経験で、狂気、第三に、より一般的な判断に関して、理由は妄想で倒錯しました。 10、13(対頭の病気について);生殖の想像力によってアイデアに執着することは、精神の弱点の1つです。 ...これが悪い習慣になると...それは非常識であることが判明する可能性があります。 10、220(人類学§45);狂気(認知症)とは、狂人が話すことはすべて、経験の可能性について考える正式な法則に従っているため、精神の混乱ですが、想像力自体によって作られた想像力は知覚と間違えられます。 10、230(人類学§50);病気が深く根付いていて、(想像力の)その流れを止めることによって、外部の知覚に注意を向けることができなくなり、想像力でそれに反対することができなくなった場合、それは狂気を熱くします。 J. G. Fichte 2、559;感覚と想像力の不一致は、人々が想像力を実際に感じられる物体の表現と見なし続けるように導く、狂気です。ホフバウアー心理学。調査。狂気について3(1807)、21; 3番目の形式(ケルソスのインサニア)は最も長く続きます..、病気の人は肉体的には卑劣です(狂気)。それは2つの異なる方向を取ります。幻想は単に誤ったイメージ(狂気)を提示するだけです。または、精神が間違った概念(狂気)に縛られています。魂の生活の混乱に関するハインロスの教科書(1818)1、81;しかし、それ(推論の妄想)は狂気と同じくらい小さな特異な種であり、それは精神の本当の病気として説明されており、奇妙な方法でそれを狂気に帰するために自然現象から無意味な結論を導き出します官能的な軽蔑は、どの常識が間違った官能的な考えから正しい結論を引き出すかを区別します。 Ideler Grundrisz der Seelenkunde(1838)2、448:狂気...(多かれ少なかれ)単なる想像上のアイデアと官能的な知覚との(多かれ少なかれ)絶え間ない混乱。心理学のベネケ教科書2359.新しい薬はまた、狂気を他の精神疾患とは異なる方法で区別します(多くの場合、個々の症例で異なります)。ただし、言語の通常の使用法はこれらの区切りに従いません。区別:部分的、完全な狂気;定期的で永続的な狂気;特定のアイデアにしがみついている狂気を修正しました。好色で宗教的な狂気、酩酊、迫害の狂気。憂鬱で静かな狂気:/ Vol。 27、列677 /
すでに殺人の渇きがあったので
静かな狂気に、ささいなことに負けました。
Mörickeged。 238。

狂気と狂乱の間の境界線でさえ、怒りは鋭くありません:ベラツィオ。ここでは、硬化やいんちきについて話しているのではありません。想像力で想像力をカレーできたら、傑作になります。男爵。それによって私たちは彼女を狂気からラセリーに投げ込むことができました。ゲーテ11、55(紫)。一方、一致する:
彼(カール)は猛烈に飛び上がった、
彼の仲間の囚人に落ちた、彼を危険にさらす
信じられないほどの力で、地面に、
彼を絞め殺そうと努力している。
シラー12,575(M。スチュアート5,13);
怒りによるオレステスの抑圧は、盲目の破壊的な狂気の定期的な攻撃でそれ自体を表現しています。 H.グリムの断片。 1、82。狂気はほとんどナンセンスとは異なります。つながり:主は狂気、失明、そしてレーシングハートであなたを叩きます。 5モス。 28、28。狂気に陥り、ラッピング:
不貞な女性でさえ、毒きのこで亡くなりました。
そして、彼女がこれらすべてを扇動したので、カササギは怒った。
プラテン262(m。フォーク3)。
狂気の夜というフレーズは人気があります:
淡い頬からもつれた髪をブラッシングし、
目は乱暴に動き、休むことなく、
狂気の夜をさまようウィスプ。
レナウは老いた。 1、299(1857);
狂気の夜は彼の頭のために戦った。
2、378。

2)狂気はまた、特に情熱の呪文の下で、反射の1つを奪い、明確な判断が曇る興奮の状態を表します。この使用法は次のようなフレーズで紹介されています:本当に、リュシアス、あなたを狂ったように愛している貧しい少女を苦しめることは悪い英雄的なことです! Wieland Lucian 3、392;イタリア人とスペイン人と...彼らは...狂気のポイントまで彼らの愛に固執します。カント10、278(人類学§72);どのような傾向...犯罪者に対する正義への欲求は報復への情熱に変わり、それはしばしば狂気の点まで暴力的です。 10、300(§81);狂気のポイントに酔った。 C. F. Meyer Juerg Jenatsch329。
すると、情熱自体が狂気のように見えます。感情は眠りにつく中毒のようなものです。情熱を、どんどん深くなっているアイデアに陰気な狂気として見ること。カント10、278(人類学§72)。 genに関連して。:
ああ今、私はあなたに怒っていることを後悔しています
最初に殺された。
シラー13:58(マクベス2:10);
呪いを呼び戻す
私は絶望の盲目の狂気にいます
あなたの愛する人に呼びかけました。
14、121(Mess。4、9による花嫁);
私の恐怖の狂気の中で、私はこの悪が彼から来たのではないかと疑うことができませんでした。ギャグからヘルダーへ(ヘルダー3、63からおよびヘルダーへ)。自由への熱意から:これらすべての植栽を掌握した自由の狂気は黒人を駆り立てて鎖を断ち切った... H.v。クライスト3、194(聖ドミンゴで婚約);
自由の最初のめまい、勝利の最初のめまい
甘すぎて中に入ることができない
酔うのが好きではなかった。自分で感じる
私自身の心で鼓動します。したがって、
酔った狂気に入らないように注意してください
疲れを目覚めさせるために失効した。
グラブ2、353(ヘンリー6世、4、1);
そして解放者自身が...ワルシャワに現れたとき、そして彼らの古い栄光の落下と蓄積の熱狂的でよく聞こえる音の耳がどこでも聞こえたとき、本当の狂気が人々を捕らえました。ベッカーズウェルトゲッシュ。愛の中毒の14、31日:
ローラ?私夢見てるの?私はレースをしていますか? -考え
心の壁を越えて渦巻く-
見る!狂気はräzelsの顧客です、
狂気の不思議に知恵に驚嘆する
嫉妬深い。
シラー1、280(回想の秘密);
あなたが事実を起こさせたので、あなたはそうではありませんでした
あなた自身、あなた自身のものではありませんでした。
あなたへの盲目の愛の狂気を持っていました。
12、414(M。スチュアート1、4)。
愛の狂気を比較してください。 / Vol。 27、列678 /
また、詩的な熱意の:
詩人、なぜ彼は恥ずかしがらないのですか
そんな人たちと関わるために!
それから彼は彼が誰と一緒に行って歩くかを知っています、
いつも狂気の彼?
Göthe5、33(ディバン)。
詩的で詩的な狂気:ホフマンはついに詩的な狂気から本物の狂気へと自分自身を書きました。ジャンポールからH.ヴォスへの手紙。 1、143。
最後に述べたアプリケーションでは、美しく、甘く、甘く、至福の狂気もあります。あなたのシルベン対策は非常にメロディアスであり、愛への情熱はしばしば美しい狂気に高まります。 Herder 18、56(d。Humanを伝えるための手紙。8)Suphan;詩人...想像力は、私たち自身の意志に反してさえ、私たちが美学の規則を忘れるほど緊張している...そして詩人の美しい狂気に完全に身を委ねること。ティーク批評的著作1、37(1793);
美しい狂気の中で転がる詩人の目、
空に向かって点滅し、地球に向かって点滅します
(細かい狂乱のローリングで)。
シェイクスプ。夏。 5、1;
空の花(愛)、地球の星
心の芯に触れる
最も美しい狂気に酔った。
A.W.v。シュレーゲル1,145;
もう一度ヒッポグリフが私をサドルします、あなたはミューズします、
古いロマンチックな土地に乗る!
私の解き放たれた胸についてどれほど素敵か
公正な狂気が遊んでいます!
ウィーランド22、3(オベロン1、1、4);
思考の甘い狂気の中で、
あなたは自分がこれの証人であると想像するでしょう。
H.v。クライスト3、364(2人の聴覚障害者);
それはあなたの歌に違いない、詩人、確かに
平等な精神を証明するため。
しかし、それは素晴らしいように聞こえるかもしれませんが、
また、甘い狂気はなくてはなりません!
ハルム7、114;
次に、ビンを描画して、それを流します
カップの中で明るく神のワイン。
私に良い!すでに五感すべてで燃えています
祝福された狂気の不滅の苦痛。
Arndtged。 (1860)121;
しかし、それはまるで彼の胸が破裂しようとしていたかのようでした。まるで彼が今や愛する人を抱きしめ、至福の狂気の中で彼らの胸と心を砕くことができれば彼は祝福されたかのようでした。 J.ポールヘスペラス1、119。
熱を伴う興奮状態からも:
彼の心に閉じ込められたすべてのもの
今、彼の舌の上で熱狂者の狂気の中にいました。
H.v。 Kleist 2、177(Käth.V。Heilbr。2、9)。

まれな3)狂気の睡眠または夢によって使用され、人間の支配は彼の考えを失います:süszersleep! ...あなたは厳しい考えの結び目を償還します。喜びと痛みのすべての最も美しいイメージです。 邪魔されずに円形の内側の調和を飛ばし、心地よい狂気に包まれて、私たちは沈み、存在をやめます。 ゲーテ8、298(エグモント5); ナイチンゲールの継続的な音と彼への5つの音源は、彼を揺さぶり、夢の夕暮れの狂気にまで伸びました。 J.ポールヘスペラス3、241位

4)狂気は「愚かさ、無理、妄想」などを表すこともあります。この意味を指摘するアデルングは、狂気はナンセンスと同じ程度の深刻さを持っていないと述べています。私たちは今、狂気をより強い言葉として感じています。神はすべての教会をこのトルコと悪魔の狂気(悪魔主義者の教義)から守っています。マテシウスの歴史d。ルーテルの120、34削除;乗組員全員...数時間だけ巨大な石の塊を守ることを狂ったように望んでいたはずです。 J. G.Eichhornフランス人。革命(1797)1、119;彼女は彼の弱さの間に狂気に見えたでしょうから。 Arnim 3、205;それの考えは狂気だっただろう。 Holtei vagabond9 167;
そして恐怖は憤慨を鎮めるだけです。
慈悲は狂気を高めます。
シラー5、2、204(ドン・カルロス2、2);
オデュッセウス。オリンピックでは狂気になるから、
戦争が緊急に私たちをトロイに呼ぶので、
ここでこれらの処女(アマゾン)に参加します。
H.v。 Kleist 1、194(Penthes。4);
寛大ではない-それは狂気だろう
彼自身の種類の啓蒙のために彼ではありません
実行したい。
グラブ2、354。
それに応じてヘラーワーンシンが使用されます:チェコ人が運動/巻を作成するのを助けるのはヘラーの狂気です。 27、列679 /これはこれらのドイツの敵をさらに民族的に独立させます混じりけのないドイツ語の単語1900、228。
その意味は簡単に「無意味で、愚かで、ばかげたもの」の意味に変わります。私はあなたに怒って話しているのですが、私は自分自身を笑っています。クリンガー8、294;そのため、これらの屋根の列は、音楽を作る猿の聖歌隊、および同様の狂気で、ヒドラと小さな胸像で飾られています。 Göthe28、115(イタリア旅行2)。

5)シュティーラーは完全に異なる意味を与えます:wansinn、opinio 2032、つまり「不確かな意見」(wahn II、3を参照)。 ウィーランドは1750年に同様にこの言葉を使用し、「想像上の理解」として成熟した知識に直面しました。
狂気で膨満し、成熟した知識が乏しい、
注文の高貴な素晴らしさに気付くには小さすぎます、
それは知恵で自分自身を強化する目を動かすだけです、
大胆に彼が正しく見ないものを悪いと呼びます、
偽りの霞が彼の感覚を引き寄せるからです。
suppl。 1、50(自然d。物事1、540)。

„WAHNSINN, m.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=w02565, abgerufen am 31.03.2021.

Gegenstandの つかいかた

たいする もの という いみ である。
しかし、 なんと、 ひとにも つかえる ことば であった。
„GEGENSTAND, m.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=g04493, abgerufen am 31.03.2021.
の 1. c) β)を かくにんした。

どいつご こうぞう15

こうぞう という なまえの おぎなった やく。
そして、 わたしと いしき いっぱんは ともに こてい される ことに よって、その ばあいには、いしきは ある ひとつに まとまった ものである。 そういう ことは、 みんなの ふへんの なかでは、 つまり いっぱんてきには せいしんさくらん なのである。 しかし そこの なか では、 たんに いしきに とっての 「たいする もの」が さくらんして(みだれて、こんらんして)いる だけで、 いしき としての その いしきは、 じぶんの なかでも じぶんに とっても それだけで さくらんして(みだれて、こんらんして)はない のである。

みだれ、さくらん、むちつじょ でない もの として、 ひと それぞれ という はなしが あった。
つまり あいてが まちがっていて、 じぶんが ただしい という かんがえかた であった。
こころの ほうの だんかいの さいしょの ころは この ような ありかたを していると おもいこんでいた わけだ。
ひと それぞれ では、 わたしと いしき いっぱんは それぞれ べつの もの として わけられて こてい されて いなかった。
ひと それぞれ では、 たちばが こてい されている わけ では ない。
ひと それぞれ では、 じぶんは あいてが まちがっていると おもい、 あいてに じぶんが まちがっていると おもわれる。
ひと それぞれ では、 じぶんは じぶんが ただしいと おもい、 あいては あいて じしんが ただしいと おもっている。
ここでは、 じぶんと あいては いれかわる かのうせいが あり、 こてい されて いなかった。

しかし、 わたしと いしきが こていされて、 じぶんは わたしで ありながら、 いしき いっぱんであると わかると、 こべつ であり ながら ふへん である という むじゅんが おこる。
わたしと いしきいっぱんは たしかに ひとつ なのだが、 その ような ありかたは、 ふつうは せいしん さくらん、 きょうきと よばれる。
さくらん、こんらん、みだれ、むちつじょ というのは、 ふつうは、 いっぱんには せいしんさくらん、 きょうきと よばれるが、 へーげるは それは こころの ほうの つぎの だんかいに いちづける。
うぬぼれの きょうきは、 たしかに きょうきで、 われわれに とっては、 まちがっているし、 こんらんしているし、 みだされているし、 てんとうしている。
しかし、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしき じしんに とっては、 じぶんは たしかに むじゅんしているが、 まちがっていないし、こんらんしていないし、 みだされていないし、 てんとうしていない のである。
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきに とって まちがっているのは、 てんとうしているのは、 こんらんしているのは、 みだされているのは、 じぶんに たいする もの、 じぶんの たいしょう、 じぶんが にんしきしている あいて である。

ここで よみかたを かえた。
これまでは しゃせんで ひいた ところの ように、ひと それぞれ、きょうき、うぬぼれの きょうきの みっつが あると おもっていた。
ちなみに うぬぼれ という ことばを つかうか、 ひとりよがり という ことばを つかうかで まよっているので、 ふたつの かきかたが ある。 しかし、 おなじ ことを いみしたい のである。
さらに、 うぬぼれの きょうきを ひとりよがりの さくらんと かいている ところも ある。
これは まちがい だと おもう。
おそらく、だいめいを まちがって おぼえていた せい である。
きょうきは われわれに とって ある ものであり、 さくらん、こんらん、みだれは うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきに とっても ある から である。
しかし、きょうきを ひとりよがりの きょうきと おなじ ものと かんがえて、 さくらん、こんらん、みだれを まちがっている という いみに かんがえる ことが より よい だろう。
つまり、 きょうきの だんかいに いる いしきは じぶんが きょうき だとは わからないし、 きょうき という かんがえを つかわないが、 まちがっているを いみする さくらん、こんらん、みだれ という かんがえかたは つかう。
たいして、 わたしたちは この だんかいを きょうき であると かんがえて、 さらに こんらん、さくらん、みだれ、まちがっているとも かんがえる のである。

きょうき、うぬぼれの きょうき(ひとりよがりの きょうき)、さくらん、みだれ、こんらんとは ちがう もの として ひと それぞれという かんがえかたが ある のである。
だから、 「そして、 わたしと いしき いっぱんは ともに こてい される ことに よって、その ばあいには、いしきは ある ひとつに まとまった ものである。 そういう ことは、 みんなの ふへんの なかでは、 つまり いっぱんてきには せいしんさくらん なのである。」 というのは、 うぬぼれの きょうきの だんかいの せつめい なのである。
さらに つぎの いんようも うぬぼれの きょうきの せつめいなのである。

「或るものがじっさい意識一般に対して現実的であり本質的であるにもかかわらず、私に対してはしかしそうではないことがある。その場合なら私としては、その或るものがなにものでもないこと〔るび:ニヒティッヒカイト〕を意識しつつも、同時に、なにしろ私も意識一般なのだから、そのものが現実的である〔るび:ヴィクリッヒカイト〕ことを意識していることになる。」
578ぺーじ

「なにものでもないこと」は、 げんじつてきはない こと という いみだと おもわれる。

じこいしきである こと

けいけんの けっかは、 げんじつは いのち である という こと であった。
じこいしきは いのち である。 げんじつは じこいしき である。

こころの ほうの こたい、こじん という いしきが けいけん するのは、 げんじつは いのちを あたえられた ちつじょである という こと である。
せいしんげんしょうがくは いしきの けいけんの がく であった。
いしきが けいけんを する ことで、 だんだんと へーげるが かんがえる すぐれた ありかたに なっていくのだ。
いしきが けいけんする のは、 げんじつは いのちの ような すぐれた ありかたを している という ことだ。
いのちは おなじ いのち として つづくが、 なかみの それぞれの さいぼうなどの からだの ぶぶんは かわって うごいていく。
そのように げんじつは、 おなじ げんじつ として つづくが、 なかみは かわって うごいていく。

つまり、 うぬぼれの きょうきが けいけんした けっか から、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんが さくらんしている、こんらんしている、てんとうしている、みだれている、まちがっている という ことに きがつく のである。
きがつく までは、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは じぶんが ただしくて、 みんなが まちがっていると おもっていた。
しかし、げんじつが いのち であると わかる という ことは、 じぶんが じぶん という こべつてきな いのち でありながら、 じぶんが ふへんてきな げんじつ である という むじゅんした ありかたを している ことに きがつく という こと である。

In dem Resultate des Erfahrens, das sich hier ergeben hat, ist aber das Bewusstsein in seinem Gesetze sich seiner selbst als dieses Wirklichen bewusst; und zugleich, indem ihm ebendieselbe Wesenheit, dieselbe Wirklichkeit entfremdet ist, ist es als Selbstbewusstsein, als absolute Wirklichkeit sich seiner Unwirklichkeit bewusst, oder die beiden Seiten gelten ihm nach ihrem Widerspruche unmittelbar als sein Wesen, das also im Innersten verrueckt ist.
109ぺーじ

やくは しょうりゃくする。
しかし、 「ここで経験されたこの結果は、あきらかとなったとおりのものであって」(578ぺーじ)という やくは どこから でてきたのか わからないと かいておく。
”das sich hier ergeben hat, ”は 「ここで おきた こと」 という いみだと おもう。いや、 dasが かんけい だいめいしかも しれない。
けいけんの けっかに おいて、ここで おきた ことは、じぶんじしんに ついての、みずからの きまりの なかの この いしき である。 この じぶんは この げんじつ として いしき された。
つまり、 けいけんの けっかに おいて、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきが わかったのは、 じぶんが じぶんの きまりの なかに ありながら、 げんじつ である と いう こと であった。
つまり、 げんじつが いのち である ことが けいけんの けっかで わかって、 じぶんが じぶん という こべつ でありがら、 きまり という ふへん でありながら、 ふへんの げんじつで ありながら、 こべつの じぶんに とって ある という ことが わかった のである。
これまでの たいおう かんけいを ならべると つぎのように なる。
きもちいいに たいおうするのが、 じぶん という こべつ である。
うんめいという ひつぜんせいに たいおうするのが、ふへんの げんじつ である。
こころの きまりに たいおうするのが、 きまり という ふへん である。
うぬぼれの きょうきに たいおうするのが、こべつの じぶんに とって ある という こと である。 つまり、 げんじつも じぶんに とって ある という ことの あつまり である という ことが わかる こと である。

ありかたと げんじつ

ありかた、ある、そんざいする、ほんしつ という のは、 こべつ として ある という こと であり、 たいじ(対自) であり、 その だんかいの じぶんに かんけいして じゆうに ある という こと である。
げんじつ というのは、 ふへん として ある という こと であり、 そくじ(即自)であり、 その だんかいの じぶんに とって あるのでは なく、 それじしんに おいて じぶん では ない ものとして ある という こと である。
ありかたと げんじつ という たいりつに まず ちゅういする。
りそうと げんじつ。 ありかたと じっさいに ある こと。 じぶんと じぶんいがい。 こべつと ふへん。 たいじと そくじ。
つぎに、ずで かいた ところの くりかえしを りかいする。
こころの きまり から うぬぼれの きょうきに うつりかわる ときは、この だんかいの いしき としての じぶんに とって、 じぶんは、 ありかた であると どうじに げんじつ であった。
しかし、 じぶん である はずの ありかたと げんじつが、 じぶんとは べつの ものに かんじられるのだ。
なぜなら、 ありかたと げんじつは たがいに むじゅんしていて、 たがいに はんろんする からだ。
ありかたが じぶんである としたら、 げんじつは じぶんでは ない。
げんじつが じぶんである としたら、 ありかたは じぶんでは ない。
つまり、 げんじつも ありかたも じぶんでは ない。
「そがい」と いわれる。

げんじつ として じぶんを ひげんじつと おもう

いしきは この だんかいでは、 じこいしき である。
つまり、 いしきは じぶんが なにかを いしき している。
じぶんは ぜったいてきな げんじつ である。
なぜなら、 じぶんは みんなと おなじ こころの きまりに したがって ふへんてきな げんじつで あった。
じぶんは みんなの いちぶ だから、 みんな という げんじつは じぶん でも ある。
じぶんは げんじつ である から、 じぶんは ひげんじつでは ない はず である。
しかし、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんを ひげんじつだと おもう。
なぜなら、 じぶんは げんじつに なっていない こべつてきな ありかた、ほんしつ である から である。
そして、 げんじつと ひげんじつ という のは それぞれ むじゅんしている、 つまり それぞれ はんろんしていて、 どうじに なりたつ ことが ない はず である。
きょうき、さくらん、こんらん、みだれ、まちがい である から こそ、うぬぼれの きょうきは どうじに げんじつ であり ひげんじつ である。
しかし、 ともかく げんじつも ひげんじつも、 げんじつも ありかたも じぶん であった。
この だんかいの いしきに とって、 じぶんは ちょくせつ ありかた であり げんじつ である から、 ありかたと げんじつは かんせつてきでは なく、 ちょくせつてきに じぶんの ありかたに あてはまる ので ある。
むじゅんしあう ものが どうじに じぶんである という のは、 ほかの だんかいと おなじ ように なんとなく りくつに あう ように みせかける ことが できる ような そとがわでの さくらん、こんらん、みだれ、むちつじょ、まちがい では ない。
うちがわの おくそこの さくらん、こんらん、みだれ、むちつじょ、まちがい である のだ。

b11

こころの うごき

こころの きまりの だんかいの こたい、 こじんは ひと としての しあわせを もとめる。
こころの きまりの だんかいの こたい、 こじんは ひと なみの しあわせを もとめて、 こころの こどう(鼓動)が はやくなる。
つまり、 こころ、 しんぞう、むねが こどうする。
つまり、かんじょうを かんじる。
しかし、 こころの きまりの だんかいの こたい、 こじんは しあわせを もとめて、 こころが こどうして いた、 ふるえていたが、 うぬぼれの きょうきで かわる ことに なる。
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、 はげしく おこる、いかる。
このように はげしく おこって、 いかる こと から、さくらんした、 こんらんした、みだれた、まちがった ありかたが でてくる。
つまり、 じぶんが ただしくて みんなが まちがっている のだという うぬぼれ、ひとりよがりが でてくる。
じぶんが まちがっていなく、 みんなが まちがっている から おこって あれくるう のである。

ここで、 いかる、おこる という わだいが でてきたが、 ふくせんが あった。
その ふくせんは、 りせいしょうの Aのcの ずがいろん、かんそうがくの くまのやくで 506ぺーじ である。
いかりが ないてきな おこないと かんがえられる。 いかりは かんぞうから でてくると いわれる。しんぞうや かんぞうの うんどうは こたい、こじんの うんどう では ない。 という はなし である。
ここと あわせて かんがえると、 しんぞう という こころ から、 かんぞう という いかりに ふるえが うつっていく という ことを かんがえていた かもしれない。

しかし、 いかる、おこるを いみする Tobenという たんごを しらべてみよう。
あれくるう という ことばが いちばん あっている きがするが、 どちらか というと はげしい うんどうが かんがえられていて、 おこっている とは かぎらない ことば なのかも しれない。
Wut という ことばも あれくるう という いみの ことば である。
いきどおり とも やくせる。
Wut im Bauch haben で はらわたが にえくりかえる という いみである。

この いかり、おこり、あれくるい、はげしい うごきは、 じこいしきが いかりくるっている という こと である。
なぜなら、 じぶんが はめつ しそう だから である。
みんなに のみこまれて じぶんが いなくなってしまう ことに あらがう ために、 いかり くるい、 はげしく うごいている のである。
このように いかり、 あれくるい、 はげしく うごく ことで、 まちがっている じぶんを ただしいと おもいこみ、 まちがっている という ことの せきにんを みんなに なすりつけようと している のだ。
そして、 その ように みんなが まちがっていると ことばで あらわそうと する ために おこり、 あれくるい、 はげしく うごく のである。
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、じぶんでは なく、 あいてである みんなが まちがっていると いう ことで、 みんなが まちがっている ことを げんじつに して、 その げんじつを かえて あるべき ありかたを げんじつに しようとする のだ。

ぷらとんの 『こっか』の だいにかん ぐらうこんの ぎゅげすの ゆびわの はなし?

うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは つぎの ような はなしを ことばに して あらわすと へーげるは かく。
ぷらとんの こっか という ほんに でてくる ぐらうこん という ものが せいぎ という ものを ひはんする ことばを いんようしている かのうせいが ある。
かくにんできていない。
ふへんてきな ちつじょ、 つまり せいぎは、 ねつぞう された ものだ。
ひとびとは けんりょくしゃに だまされている のだ。
けんりょくしゃ とは、 「くるった」 ように、 つまり まちがった やりかたで かみがみを しんじる せいしょくしゃや、おいしいものを たべる だけで じぶんの ほしいものを ほしがる だけの ぼうくんと、 それらの おつきの もの である。
おつきの ものは、 しはいしゃから うけた くつじょくを、 じぶん より えらくない ものに あたえて、 まんぞくしている のである。
ひとびとは このように よくあつ されている。
そのような よくあつを たすけているのが、 せいぎ、 ふへんてきな ほうりつ なる もの である。
ふへんてきな ちつじょと いわれている せいぎや ほうりつは、 ひとびとの こころの きまりごとと、 しあわせ という ものとは まったく ぎゃくであり、 まちがっている のだ。
これが、 うぬぼれの きょうきが ことばで あらわす かんがえかた である。
こころの きまりごと、こころの きまりとは、 こころの ほう であって、 こう なっていたら こころは こう かんじて、 こういう ことを する という きまり である。
せいぎ とは、 こころの ほうとは ぎゃくの ものと ここでは かんがえられる のだった。

こたいである こと、 こじん である こと

うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきは、 われわれに とって、 さくらん していた、こんらんしていた、みだれていた、むちつじょであった。
うぬぼれの きょうきは、 こたいであること、こじんであることが、 この こじん、 みんなの うちの たにんが、 das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの であると ことばで あらわす。
てんとうした というのは、まちがった、ぎゃくの、さかさまの もの である、という ことである。
じしょで verrückte( https://www.duden.de/rechtschreibung/verrueckt#Bedeutung-1)に ついて しらべていたら、 とても さべつてきな ことば である という ちゅういが あった。
すばらしい とりくみだ。
すべての じしょで このように ちゅういが される べきだ。

うぬぼれの きょうきが いっていた こたいである こと、 こじん である こと というのは、 けんりょくしゃが わるい という こと だった。
けんりょくしゃ という こたい、こじんが まちがっている ので あって、 みんなの なかの ひとり である じぶんが ただしい のだ。
みんなは まちがっているが、 それは、 みんな という ふへんてきな ものが まちがっているのでは なくて、 みんなの なかの ひとり ひとり、 ひとつ ひとつ としての こたい、 こじんが まちがっていると かんがえていたのだ。

しかし、 うぬぼれの きょうきが ことばで あらわす、 さくらんしていて、 てんとうした、 こたい である もの、 こじん である ものは、 ふへんてきで、 じぶんの もの では なかった。
うぬぼれの きょうきが ことばで あらわす、さくらんしていて、 てんとうした、 こたい である もの、 こじん である ものは、 ぐうぜんてきで、ほかの もの であった。
けんりょくしゃが ふへんを やぶって、 ぐうぜんの ほうりつを きめてしまう ことが まちがっていると いっていたのだ。
ふへんてきに あっている じぶん、では ない けんりょくしゃの こたい、こじんが、 ふへんを ふみにじって、 ぐうぜんてきな ことを きめてしまっている のだと いっているのであった。

くみこまれた あらすじ

ここで、 へーげるは これまでの あらすじに したがって うぬぼれの きょうきの ありかたを せつめいする。
うぬぼれの きょうきも、 これまでの だんかいに くみこまれる のだ。
あとに より よい よみかたを かいているので、 ここから いんようで かく ところは、 うたがって よんでほしい。

Aber das Herz, oder die unmittelbar allgemeinseinwollende Einzelnheit des Bewusstseins ist dies Verrückende und Verkehrte selbst, und sein Tun nur die Hervorbringung dessen, dass dieser Widerspruch seinem Bewusstsein wird.
109ぺーじ

こころは、いしきが ちょくせつてきに ふへんてきである ことを もとめる こべつてきな ありかた である。
ここで、「こべつ」と 「こじん、こたい」の ちがいを はっきり させておく ひつようが ある。
おそらく、 じぶんは 「こべつ」と 「こじん、こたい」を わけずに つかってきた。
しかし、 ちがう ことば である。
こべつは Einzelnheit であり、 こじん、こたいは Individualitätである。
こべつは ひとつに なる もの である。
こじん、こたい とは わけられない もの である、
ひとつは わけられない ので、にている ことば である。

こころの きまり であれば、 かんせつてきに じぶんが ふへんてきであると わかるか、 かんせつてきに じぶんを ふへんてきに する ことを のぞむ だろう。
しかし、 こころは、 ちょくせつてきに じぶんが ふへんてきで ある ことを のぞむ。
いしきの ふへんてきな ありかた では ない ような、 こべつてきな ひとつ である ような ありかたが こころ なのである。
こころの きまりと いうと ふへんてきな ものに なるが、 こころは かんじょうなどの こべつてきな ひとつである ことの ありかた なのである。
かんじょう というのは、 じぶんが どう かんじているか であり、 それは、 じぶんと じぶんが ひとつ である という こと である。
さらに、 かんじょうは ほかの ものが かんじられる もの では ない。
ほかの ものが かんじた じぶんの かんじょう というと、 それは じぶんの かんじょう では なく、 もはや その かんじた ものの かんじょう である。

うぬぼれの きょうきに とっても、 われわれに とっても、 こころ、 たとえば けんりょくしゃの ように じぶんを ちょくせつてきに ふへんてきな ものに したがる ような こころが、 das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの である。
ここでは、 うぬぼれの きょうきに とっての はなし から、 われわれに とっての はなしに うつっていく さかいめ である。
うぬぼれの きょうきに とっては、 ほかの もの だけが das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの であった。
しかし、 われわれに とっては、 うぬぼれの きょうきも、 その ほかの ものも、 こころ という いみで、 das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの である。
このような das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした ものは、 こべつせいと ふへんせいの むじゅん であった。
こべつせいと ふへんせいは たがいに むじゅんしていて、 たがいに はんろんしていた のだ。
そして、 そのように たがいに むじゅんしていて、 たがいに はんろんしていると、 ひとつに まとまる ことは ない から、 das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの であった。

こころは かんじる だけ では なく、 こころは なにかを おこなう のであった。
この ぶぶんは、 りせいしょうの こうどうする りせい という ぶぶん であった ことを おもいだそう。
そして なにかを おこなう というのは、 なんらかの ことを げんじつに する という こと であった。
こころが なにかを おこなう ばあいは、 こころの もくてきを げんじつに する こと である。
しかし、 こころが おくそこ から むじゅんしていた のである から、 こころが なにかを おこなうと、 この おくそこに あった こころの むじゅんが、 こころの いしき という じぶん そのものに なる のだ。
つまり、 こころの いしきとは、 むじゅんである という ことに なる。
おくそこに むじゅんが ある こころの いしきと なる のだ。
ここで、 かっきてきな ことが おこっている。
いままでは、 むじゅんは じぶんでは ないものの がわに あったが、 こんどは、 じぶんの いしきが むじゅんになった から である。

なぜ、こころの きまりの だんかいで、むじゅんが こころの いしきに なるの だろうか?
なぜなら、しんじつが、 つまり めざしていないのに たどりついた ところが、 こころの ほうであるのは、 こころの きまりの だんかいの いしきに とって だからだ。
たんに おもいこまれたもの、おもいなされたもの、 それがしんじられているもの でしか ない のだ。
それがしんじられている というのは、 いしきしょうから でてくる ことばで、 まいねん、meinen という ことば から きている。
ようは だじゃれであるが、 おもいこむ という いみの まいねん、meinenという ことばの なかに、 わたしを いみする まいんmineが ふくまれている。
へーげるは この だじゃれを つかって、 それがしんじる という ことは、 おもいこむ という ことは、 じぶんに とっての こと しか かんがえないで ただしいと しんじる こと であると かんがえた。
つまり、 まいねん、おもいこむ こと、 それがしんじるという ことは、おとった もの である のだ。
まいねんを どうやくすかは もんだいが ある。
じぶんは、 「それがしんじる」という やくを かんがえついた。
さいとーが かんがえた やく である。
「それがし」 という いちにんしょうと、 「それが しんじる」という ことばを だじゃれで あわせて つかっている のである。

つまり、 こころの きまりの だんかいの いしきは、 みんなに とっての こころの きまりを しって、 げんじつに しようと した。
しかし、 しんじつ として、 じっさいには、 こころの きまりの だんかいの いしきは、 じぶんに とっての こころの きまり でしか なかった。
みんなに とっての、 われわれに とっての こころの きまり では なかった。
だから、 こころの きまりの だんかいの いしきが なにかを して、 こころの きまりを げんじつに したと おもった ときには、しんじつに おいての こころの きまりとは、 じぶんの 「それがしんじる」 もの でしか なく、 ほかの ものに とっては しんじつ では なかった。
だから、こころの きまり という ふへんてきな ものを げんじつに したと おもっている ありかたと、 じっさいは じぶんの こべつてきな ことを げんじつに したに すぎない という ありかたが たがいに むじゅんして、 たがいに はんろんしている のである。いや、 たがいに はんろんしていない のでは ないか? わからない。

ここまで かいてきて、もっと よい よみかたが みつかった。
こころは いっぱんに das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの である。
その りゆうは、 こころが ふへんに ちょくせつ なりたいという こべつ という むじゅん だから である。
むじゅんが なにかを おこなっても、なにかを おこなう とは じぶんを つくる ことである から、 むじゅんが むじゅんを つくり、 むじゅんは じぶんであり、 むじゅんは いしきに なる。
これは、 そもそも こころが ふへんに ちょくせつ なりたいと おもった ときに でてきた、 こころの きまり という ものが、 じぶんに とって のみ ある、 「それがしんじられた」もの でしか ない から である。
じぶんは こころの きまりに したがっていて、つまり じぶんは みんなの いちぶ であると かんがえていたが、「それがしんじていた」に すぎない。

あらすじの つづき

あらすじは つづく。
「それがしんじていた」ものは、 おもいこみ でしか ないから、 つづかない。
つづいている ちつじょと 「それがしんじていた」ものは ちがう。

das nicht, wie die bestehende Ordnung, den Tag ausgehalten hat, sondern vielmehr, wie es sich diesem zeigt, zugrunde geht.
109ぺーじ

これ、しんじつ である こころの きまりは、ぼつらくしない、ほろびない。 つづいている ちつじょが にっちゅう(日中)を たえつづたように。という よりも、 しんじつが じぶんの いしきに とって あらわれている ように。
dasこれ、しんじつ、こころのきまり
nicht どうしの ひてい
wie ように という いみの せつを みちびく
die bestehende Ordnung ように せつの しゅご、 つづいてる ちつじょ
den Tag さんかく もくてきご たんすう、だんせい、 にっちゅう
ausgehalten かこぶんし、 かこかんりょうけいの どうし、 さんかくの もくてきごに じかんを とる
hat ように せつの どうし。 かこかんりょうけいの じょどうし。
sondern むしろ
vielmehr いっそう
wie ように という いみの せつを みちびく
es さんにんしょう たんすう ちゅうせい。これ、 しんじつ
sich zeigt げんざいけいの かつようで、 あらわれる という いみ。ように せつの どうし。
diesem たんすう さんかく だんせい、 じぶんの いしきに とって という いみ。
zugrunde geht. ぼつらくする という ひていされた どうし。
この よみかたの なんてんは、 Ordnung, denの あいだの かんまが よく わからない こと である。
さらに nichtの いちが おかしい きがする ので、 この よみかたは まちがっている きがする。 要調査。わからない。

3) transitiv mit ausgedrückten wörtern der zeit: ich halte dir das jahr aus, halte keinen tag weiter aus; er hielt die bestimmten drei monate ruhig aus; halte mit dieser die wochen aus (vulg. imple hebdomadam dierum). 1 Mos. 29, 27; Jacob hielt die wochen aus. 29, 28; das er dem herrn die zeit seines gelübds aushalte. 4 Mos. 6, 12; wie er aushielt die tage der reinigung. apost. gesch. 21, 26. man könnte aber die accusative jahr, tag, monate u. s. w. adverbial fassen, und dann würde aushalten wiederum intransitiven sinn haben. das kleid hält den winter noch aus, will entweder sagen erträgt den winter, fert hiemen, oder dauert winterlang, per hiemem.
„AUSHALTEN“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=a08189, abgerufen am 01.04.2021.

この こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんの ぼつらくは、 きもちいいの じこいしきの ぼつらく(”zugrunde gegangen”(106ぺーじ)、「没落し〔その根拠へといたり〔るび:ツーグルンデ・ゲーヘン〕〕」(564ぺーじ))を おもいださせる。zugrunde gehenは ほろびる、ほうかいする、せいぶつがしぬ、にんげんかんけいがはたんする という いみ である。

ぼつらくしない という かいしゃくを うえで したの だけど、 ぼつらくした という かいしゃくの ほうが、 これまでの あらすじを たどりなおしている という かいしゃくと あっている。
こまった。

しんじつは こころの ほう である。
しんじつは ぼつらくしない。
しんじつが ぼつらくしない りゆうは、つづいた、そんりつした ちつじょは つづく、 つまり こころの きまり という ちつじょが つづく から では なく、しんじつは こころに あらわれる から である。
こころ という こべつてきな ものは ぼつらく する けれど、 しんじつ である こころの きまりは ぼつらく しない。
つづいていた ちつじょは、 うんめい としての ひつぜんせい という しんだ ひつぜんせい であり、 こころの きまりは、 じぶんに あらわれている から、 いきた ひつぜんせい である。

こころの きまりの げんじつせい

だから、 こころの きまりは げんじつ である ことに なる。
げんじつ とは、 じぶんに あらわれている こと だから である。
こころの きまりは じぶんに あらわれていた。
しかし、 ここで、 げんじつ という ことばは きょうちょう されている。
ふつうの いみでの げんじつ では ない という ことだ。
ここでは、 げんじつと ある ことが たいりつ した かんけい では なく、 げんじつは ある ことと ある いみで おなじ いみ である。
なぜなら、 うぬぼれの きょうきに おいては、 げんじつと ありかた という たいりつ する ものが おなじ である という ところが とくちょう であった からだ。
ここでは、 げんじつ とは まさに ある こと であり、 じぶん という りそうの ありかたに たいする みんなの げんじつ では ない。
しんじつが こころの きまり である ので、 へーげるは この こころの きまりが うぬぼれの きょうき である という ことを はっきり させたい。
げんじつ という はなしが でてくるのは、こころの きまりが こころの きまり である かぎりで、 きまり なのである から、 こべつてきな ありかたを ねじふせて きまりに したがわせる げんじつ である という はなし であった(571ぺーじ)。
こころの きまりが きまり である かぎりで、 げんじつ でないと きまりと いえない。

だから、 こころに とって、 こころの きまりは げんじつ である。
こころに とって、 こころの きまりは、 みんなが そう かんがえていて、いっぱんに つうようして、 だとう する、 ゆうこう(有効)な ちつじょ である。
なぜなら きまり である から には、 ふへんてき でないと きまり では ない から である。
こころに とって、 こころの きまりは もくてき である。
こころは なにかを するが、 こころの きまり どおりに みんなと おなじ ように する から、 なにかを すると まとめられる のだ。
もし、 もくてきが なく、 なにかを すると いえる ことを しても、 もくてきが なければ それは なにかを している とか、 なにかを おこなっている とは いえない。
こころの きまりが もくてき である。
こころの きまり という ふへんてきな ものを げんじつに する ことが もくてき である。
もくてき こそが こころに とって ある という こと、 つまり ほんしつ、 ありかた である。
いきいきとした ちつじょ こそが じぶん であり、 げんじつ であると ぎろん されていた(577ぺーじ)。
なぜなら、 じぶんも げんじつを つくっていて、 その つくった げんじつが じぶん であった からだ。

ここでは、 ぎゃくてんが おこっている。
ありかた では なかった はずの げんじつが ありかた である という ぎゃくてん である。
これが むじゅんしている という ことばで あらわされてていた こと だった。

こころの きまりの なんでもなさ

しかし、 こころに とっては、 きまりは かんせつてきに いきいきとした げんじつ なのでは なく、 ちょくせつに しんだ げんじつ であった。
こころに とっては、 きまりは げんじつ であり、 きまりは ちつじょ であり、 げんじつは ほかのものに したがう という こと だから、 かちが ない もの であった。

ふりかえろう。
こころが ちょくせつてきに ふへんに なりたがる。
こころが なにかを する。
こころは むじゅんに なる。
なぜなら ふへんだと おもっていたのは 「それがしんじていた」だけに すぎない から。
しんじつは こころの きまり である。
こころの きまりが じぶんに とって ある から、 こころの きまりは つづく。
こころの きまりが きまりとして つづく のならば、 こころの きまりは じゆうを ねじふせる げんじつ である。
しかし、 げんじつ である こころの きまりが もくてきに なり、 ありかたに なる。
なぜなら、 こころが げんじつ であった から である。

こころ それじたい

ここまでは、 こころに たいする げんじつが もんだいに なっていた。
つまり、 たいじ(対自)てきな ありかたが もんだい であった。
そして、 おなじように、 そくじ(即自)てきな ありかたも もんだいに なる。
こころ それじたいは、 こころに とっては こべつの ありかた として あったのだ。
たしかに、 こころの きまりが きまり である いじょう、 げんじつ という べつの ものに ねじまげられているとは いえるが、 しかし、 こころ というのは、 じぶんの こべつてきな ありかた でも ある ので、こころに とっても こべつてきな ありかた であった のだ(598ぺーじ)。
そもそも じこいしきは じぶんに とって じぶんが ある という ひとつに なる こべつてきな ありかたを している という こと だからだ。

きまりを げんじつに する。

こころに とっての もくてきは、 こころの ひとつである ように なる こべつてきな ありかたを じっさいに ある ように させる こと である。
こべつせいを げんじつに する ことが もくてき であった。
げんじつに する ことが できる という ことは、 そもそも げんじつに する ことが できる それは げんじつでは なかった のだ。
そもそも げんじつ なら、 げんじつの まま であって、 げんじつに する ことは できない。
もくてきが きめる ことに なった のだ。
だから、 こころに とっては こべつてきでは ない じぶんを こべつてきな ものに する という ことが もくてきに なっていたので、 こころに とっては ちょくせつてきには こべつてきでは ない じぶんが ありかた であり、 ほんしつ であり、 ある こと なのである。
かんせつてきには、こころに とっては ふるまいを つうじて こべつてきな ものが じぶんである ことに なる。
ちょくせつてきには、 こころに とっては こべつてきな ものは みずからの ありかた では ない。
ちょくせつてきには、 こころに とっては こべつてきな ものは ほんしつ では ない。
ちょくせつてきには、 こころに とっては こべつてき では ない じぶんが ほんしつ であり、 みずからの ありかた である。
こころの きまりを げんじつに する おこないを する という ことは、 こべつてきでは ない じぶん という ありかたを げんじつに する こと でも ある。
こころの きまりは、 こべつてきな じぶんが すべて きめられる のでは なく、 こべつてきでは ない じぶん、 つまり ふへんてきな じぶんを げんじつに する こと だから である。
こころの きまりが すでに こべつてきでは なかった。
だから、ありかた、 ほんしつは、 げんじつ とは ちがう いみで、 きまり であり もくてき である。
なぜなら、げんじつに しようと する ものが もくてき であり、 ふるまいの もとに ありながら、 ふるまいが げんじつに する もの である もくてき である からだ。
つまり、きまりが もくてき であり、 もくてきを げんじつに する ことで、 きまり、 とくに こころの きまりを げんじつに する ことに なる。

もくてきは ふへんてき

もくてきは きまり であった。
きまりは ふへんてきであった。
もくてきも ふへんてきである。
また、 こべつてきでは ない じぶんは ふへんてき である。
こべつてきではない じぶんが もくてき である。
もくてきは ふへんてき である。

ただし、 ここでの 「もくてき」と、 すこし まえでの 「もくてき」が ちがう ことに ちゅういした。
すこし まえでは、 げんじつに なる もの としての もくてきが だいじに かんがえられた。
ちつじょが げんじつで ある ことに なる ので、 ちつじょが もくてき である。
という のである。
そして、 ここでは、 りそうてきな ありかた としての もくてきが だいじに かんがえられている。
こころ それじたいは こべつてきだが、 こころに とって こころは こべつてき では ない という ありかたを していて、ふへんてきで あり、 ふへんてきな ことは きまりの もくてき である。

この もくてきの ふたつの ほうこう、 つまり げんじつ である という ほうこうと ありかた である という ほうこうが、それぞれ それ じたいで ある こと、 そくじ(即自)と、 それに とって ある こと、 たいじ(対自)とに たいおうしている。
もくてき そのものは、きまる ことで げんじつに なる もの であり、 きまり なので、 ふへんてき である。
うぬぼれの きょうき という この だんかいの こころに とっても、 こころは もくてき として ふへんてきである もの として あると きめられる のだ。
こころは ふへんてきな ものに なっていく。

がいねん

Dieser sein Begriff wird durch sein Tun zu seinem Gegenstande
109-110ぺーじ

この それの がいねんが、 それの おこないを つうじて、 それに たいする ものに なる。

がいねんが でてくる。
がいねんは へーげる では ややこしい。
まず、 がいねんとは、ことばの れきし としては、 つかむ ことや きる ことと かんけいしている。
つかんだり、きったり する ことで、 はあくして、わかる ことが がいねんと かんけいしている。
はあく(把握)とは、 つかむ こと かんけいしていて、 わかる とは、 わける ことと かんけいしている。
つぎに、 がいねんは、 わかった こと、 はあく した もの なので、 ぐたいてきなものが ちゅうしょうか された もの である。
たとえば、 ことば などで わかれば、 ことばで ちゅうしょうか されているし、 わかった ことは わかられた そのものとは べつの もので ちゅうしょうてきな もの である。
さいごに へーげるが すばらしいと おもう がいねんは、 ひとつに なる うごく がいねん である。
ぐたいてきな もの から ひとつの ちゅうしょうてきな ものへと うごく という ちゅうしょうの うごき だけ では ない。
さらに ふくすうの ぐたいと ひとつの ちゅうしょうが おなじ でありながら、 わけられている という ことに へーげるは ちゅういしている。
ちゅうしょうは ぐたいと おなじ でないと ちゅうしょう とは いえない。
ぐたいと ちがう ものは、 ちゅうしょう では なく、 かんけいない ものだ。
ちゅうしょうで ある かぎりでは、 ぐたいを ちゅうしょうした もの として ぐたいと ある いみで おなじ では ないと いけない。
さらに、だからといって ちゅうしょうと ぐたいは べつの ものだ。
かんぜんに おなじ もの ならば、 おなじ ことばで あらわせば いい。
かんぜんに おなじ もの ならば、 ちゅうしょう という ことを している はずが ない。
この こべつ、 ちゅうしょうと ぐたいの くべつが ある。
そして、 へーげるの へーげる らしい ところは ここからだ。
へーげるは くべつが ある ちゅうしょうと ぐたいは、 それでも おなじ ひとつに なる のだと いう。
おなじ ひとつに なる というのが、 すばらしい とらえかた なのだ。
ちゅうしょう という のは、 ちゅうしょうを ぐたい から くべつ する こと だった。
しかし、 ちゅうしょうを ぐたい から くべつすると、 ぐたいは ぐたい として ちゅうしょうてきに かんがえられる。
ぐたい という ことばで まとめて かたる ことが できる ように ちゅうしょうか されている。
だから ぐたいも ある いみで ちゅうしょう なのだ。
という ことは、 ちゅうしょうも ちゅうしょう であり、 ぐたいも ちゅうしょう である から、 ぐたいと ちゅうしょうは おなじ ひとつに まとまる。
この ひとつに まとまった ものも ちゅうしょうである とも いえるし、 へーげるが すばらしいと おもう いみでの がいねんと かんがえる ことも できる。
ひとつの ものが わかれながら、 ひとつに なる という のが がいねんの とくちょう である。
このように うごきながら ひとつに なる という ことが がいねん であった。
わかる というのは、 ひとつの ものが わかれながら ひとつに なる という こと である。

こころの がいねん、 いままで、 こころに ついて げんじつと ありかた、 こべつと こべつではない もの、 たいじ(対自)と そくじ(即自)と わかれながらも それらが ひとつに なっていく という とくちょうを もって、 こころが わかる という ことは、 こころが なにかを もくてきを もって する ことで、 こころに たいする もの、たいしょうに なる。

へい! たいしょうと やくした ことばは、 Gegenstandeは まえにも かいたが、 「たいする もの」 である。(さいしょに 「へい!」 という ことばが はいっている のは、 だじゃれである。 おみせに はいる ときに 「へい! たいしょう(大将)! おみせ、やっている?」と いう という でんとうが ある。へいは ちゅういを ひくための かけごえ である。おみせを やっている ものを たいしょうと よぶ のだ。 ここでは、なにかに たいする もの である たいしょう(対象)と、 おみせを やっている もの である たいしょう(大将)が おなじ もじで かける ところ から さいしょに 「へい!」と かきたした。)

Gegenstandは もの、たいしょう、きゃくたい、てーま という いみ である。

たいする もの という いみ である。
しかし、 なんと、 ひとにも つかえる ことば であった。

ちなみに、 Gegenstandは もくてき という いみに まで なる。
こころの たいしょうに なる、 こころに たいする ものに なる という のは どういう ことか。
こころは それじたいで、 たしかに こころの がいねん である。
しかし、 こころの がいねんは こころに とって もんだいに なる こと にも なった。
じぶんが じぶんに とって もんだいに なる という ことは、 じこいしきの とくちょうでも あった。
じぶんの がいねんが じぶんの しる たいしょうに なる こと、 じぶんに たいして ある もの として わかる ように なる ことが あらわされている。

けいけん

うぬぼれの きょうきは きがついてしまう。
じぶんが まちがっていた ことに きがついてしまう。
こころに とっての じぶんが、 みんなに とって(そして もちろん じぶんに とって)の げんじつ では ない ものを じぶんに とっての げんじつだと けいけんする。
こころに とっての じぶんが、 みんなに とって(そして もちろん じぶんに とって)の げんじつを じぶんに とっては げんじつでは ないと けいけんする。
いしきは ここで けいけんを する のだ。
たんに わかる のでは ない。
いしきの だんかいが うつりかわる ように わかる ことが けいけん である。
じぶんが なにを していたかが わかる ことで、 もんだいが かわる ことが けいけん である。
いままでの かんがえが まちがっていた ことが わかる ことが けいけん である。
こころは、 なにかを する ことで、 じぶんが まちがっていた のだ、 それも こんぽんてきに まちがっているのだ、 たんに べつの いけんが あっていた のでは なくて、 その いけんの れべるが まちがっていたのだ と わかる。
おこなう ことで わかる という けいけんを する のだ。

きがつく

こころの ほうの だんかい である うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきは、 ぐうぜんの ほかの ものの こたい、こじんが てんとうしていた、 さかさまに なっていた、 ぎゃくに なっていた、 ゆがめられていた、まちがっていたと おもっていた。
しかし、 うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきは、 じぶんが てんとうしていた、 さかさまに なっていた、 ぎゃくに なっていた、 ゆがめられていた、まちがっていたと きがつく のである。
じぶん という この こころが まちがっていた のだ。
じぶん いがいの あの こころが まちがっていた のでは ない のだ。
”das Verkehrte und Verkehrende.”(110ページ)「顚倒しており、また顚倒するものなのである」(581ページ)
どうし verkehrenの かこぶんしと げんざいぶんしの めいしか である。
げんざいぶんしからの Verkehrende.は はじめて でてきたと おもう。
まちがって つくられた ものが なにかを しても、 つくられるのは まちがった もの だけ という いみだと おもう。

あらすじの まとめ

もういちど ふりかえろう。
こころが ちょくせつてきに ふへんに なりたがる。
こころが なにかを する。
こころは むじゅんに なる。
なぜなら ふへんだと おもっていたのは 「それがしんじていた」だけに すぎない から。
しんじつは こころの きまり である。
こころの きまりは こころに あらわれている。
こころの きまりは げんじつに なる。
(じぶんも こころの きまりに したがっている。)
こころに とって、こころの きまりは もくてきに なり、 ありかたに なる。
ちょくせつてきには、 こころに とって こころの きまりは どうでも いい。
こころ それじたいは、こべつてきで ある。
こころは なにかを する ことで こころを こべつてきに する。
ちょくせつてきには、 こころに とって じぶんは こべつてきでは ない。
こべつてきでは ない じぶんが こころの ありかた である。
こべつてきでは ない じぶんが きまりの もくてき である。
もくてきは ふへんてき である。
こころが こころに とって ある。
なにかを すると こころは、 じぶんが むじゅんしている ことを けいけんして きがつく。
まちがっていたのは じぶんだった。

b12

まちがっているのは

だからといって 「せかい」が まちがっていない わけ では ない。
「せかい」は まちがっているのだ。
なぜなら、 じぶんが まちがっていて、 じぶんは まちがえた 「せかい」しか つくらず、 「せかい」は じぶんも あわせた みんなに つくられた もの だから である。
まだ、 うぬぼれの きょうきが じぶんが まちがっていると きがついても、 「せかい」も まちがっていると きがつかない かも しれない。
したがって、 「せかい」は それじたい としては、 まちがっている、 つまり てんとうしている、さかさまに なっている、ゆがめられている、ぎゃくに なっている のだ。
「せかい」は じぶんに とって まちがっている のでは ない。
「せかい」は われわれに とって まちがっている のだ。

『こーどぎあす・はんぎゃくの るるーしゅ R2(あーる・つー)』の 1わで、 るるーしゅ という しゅじんこうが 「まちがっていたのは おれじゃない。 せかいの ほうだ」と いう せりふが ある から、 せかいと かいてしまったが、 へーげるは、 「ふへんてきな ちつじょ」と いっている。

ふへんてきな ちつじょも まちがっているのだ。
なぜなら、 こたいせい、こじんせい、 こたい である こと、 こじん である こと とは いっても、 こころの きまり である じてんで、 ただちに ふへんてきである から である。
ただし、 ちょくせつてきに ふへんてきであるに すぎない。
かんせつてきに ふへんてきである わけ では ない。
こべつてきでは ない じぶんが ちょくせつてきに じぶんの ありかただと かんがえた だけ だからだ。
まだ みんなの なかの じぶん という かんがえかたが かんせつてきに なっていない。
じぶんの こべつせい という ちょくせつてきな かんがえかたを ひっくりかえして まわっていた だけ だった。
とびださないと かんせつには ならない。
ちゃんと ことばで わからないと かんせつてきに わかった ことに ならない。

ふへんてきな ちつじょ

ふへんてきな ちつじょ とは、 みんなの ここことの きまり である。
こころは、 てんとう した もの、 まちがっている もの、 さかさまに なっていた もの、 ぎゃくに なっていた もの、 ゆがめられた もの であった。
そんな まちがった こころの きまり という ちつじょも まちがっている。
ただし、 われわれに とって、 それ じたいと しては、 まちがっている だけで、 この だんかいの いしきに とっては まちがっていない ように おもえている、。
うぬぼれの きょうきは、 ふへんてきな ちつじょが まちがっていると ことばに した。
うぬぼれの きょうきは、 おこり、 いかり、 はげしく うごいて、 いった。

この いかり、おこり、あれくるい、はげしい うごきは、 じこいしきが いかりくるっている という こと である。
なぜなら、 じぶんが はめつ しそう だから である。
みんなに のみこまれて じぶんが いなくなってしまう ことに あらがう ために、 いかり くるい、 はげしく うごいている のである。
このように いかり、 あれくるい、 はげしく うごく ことで、 まちがっている じぶんを ただしいと おもいこみ、 まちがっている という ことの せきにんを みんなに なすりつけようと している のだ。
そして、 その ように みんなが まちがっていると ことばで あらわそうと する ために おこり、 あれくるい、 はげしく うごく のである。
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、じぶんでは なく、 あいてである みんなが まちがっていると いう ことで、 みんなが まちがっている ことを げんじつに して、 その げんじつを かえて あるべき ありかたを げんじつに しようとする のだ。

うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは つぎの ような はなしを ことばに して あらわすと へーげるは かく。
ぷらとんの こっか という ほんに でてくる ぐらうこん という ものが せいぎ という ものを ひはんする ことばを いんようしている かのうせいが ある。
かくにんできていない。
ふへんてきな ちつじょ、 つまり せいぎは、 ねつぞう された ものだ。
ひとびとは けんりょくしゃに だまされている のだ。
けんりょくしゃ とは、 「くるった」 ように、 つまり まちがった やりかたで かみがみを しんじる せいしょくしゃや、おいしいものを たべる だけで じぶんの ほしいものを ほしがる だけの ぼうくんと、 それらの おつきの もの である。
おつきの ものは、 しはいしゃから うけた くつじょくを、 じぶん より えらくない ものに あたえて、 まんぞくしている のである。
ひとびとは このように よくあつ されている。
そのような よくあつを たすけているのが、 せいぎ、 ふへんてきな ほうりつ なる もの である。
ふへんてきな ちつじょと いわれている せいぎや ほうりつは、 ひとびとの こころの きまりごとと、 しあわせ という ものとは まったく ぎゃくであり、 まちがっている のだ。
これが、 うぬぼれの きょうきが ことばで あらわす かんがえかた である。
こころの きまりごと、こころの きまりとは、 こころの ほう であって、 こう なっていたら こころは こう かんじて、 こういう ことを する という きまり である。
せいぎ とは、 こころの ほうとは ぎゃくの ものと ここでは かんがえられる のだった。

ていこう

どいつご げんぶん16

Einmal erweist sie sich in dem Widerstande, welchen das Gesetz eines Herzens an den andern Einzelnen findet, Gesetz aller Herzen zu sein
110ぺーじ
「ひとつには、普遍的な秩序が抵抗を感じ、その抵抗はひとりの心情の法則が、他の個別的な者たちにおいて見いだすものであるかぎり、その秩序は万人が有する心情の法則〔「法則」を きょうちょうしている。〕であるしだいを証示している。」
581-582ぺーじ

どいつご たんご16

Einmalは いっぽうで、いちど という いみ である。
erweist sichは あきらかに なる、 しょうめいされる という いみ である。

ihm vor seine erweiste güte und wolthaten desto mehr zu danken. Schweinichen 1, 11;
„ERWEISEN“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=e09031, abgerufen am 02.04.2021.

sieは ふへんてきな ちつじょを さす。
Widerstandeは ていこう、はんこう、しょうがい という いみ である。
むじゅん、はんろん という いみの widersprachenと にている。
Gesetz aller Herzen zu seinなぞ。 わからない。要調査。

どいつご こうぞう16

いっぽうで、ふへんてきな ちつじょが じぶんを あきらかに する のは、 ていこうの なか であり、 その ていこうは、 ある こころの きまりが べつの こころの きまりの なかに みつけるの だが、すべての こころの きまりが ある のだ。
Gesetz aller Herzen zu seinなぞ。 わからない。要調査。
めいし、 zuふていしで めいしが ふていしする ことになる という いみに なる かたちとかが ありそう。

まとめ

ふへんてきな ちつじょが ていこうを かんじる。
ていこうとは、 ひとつの こころの きまりが ほかの こころの きまりに みいだす もの である。
ここでは、 ひとつの こころの きまりが ほかの こころの きまりと ちがう ものに なっている。
しかし、 すべての こころの きまりは ある ことに なる。
これで ふへんてきな ちつじょが あきらかに される。
ていこうの なかで、 あらそっている なかで、ふへんてきな ちつじょは、 みんなの こころの きまり であると わかる。
じぶんの こころの きまり でも、 ほかの ものの こころの きまり でも なかった。
それを あわせた みんなの こころの きまりが もんだい だったのだ。
しかし、 うぬぼれの きょうきも、 こころの きまりの だんかいの いしきも、 ほかの ものの きまりでは なく、 じぶんの こころの きまりが ただしいと 「それがしんじていた」。
げんじつは、 こころの きまりの だんかいの いしきも、 うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきも、 じぶんの こころの きまりを げんじつに する ことが できない。
だから、 うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきは、 ほかの ものの こころの きまりが まちがっていると いっていた。
しかし、 ちがうのだ。
みんなの こころの きまりが げんじつ だから、 みんなの こころの きまりに あわない じぶんの こころの きまりが、 ほかの ものの こころの きまりと おなじ ように つぶされていた のだ。
ふへんてきな ちつじょも、 このような、 うぬぼれの きょうき という ていこうに あう。
しかし、 ふへんてきな ちつじょは、この ていこうを ふみつぶす ことで、 じぶんに あわせる ように むりやり させる ことで、 じぶんを げんじつに する。

いきた ちつじょ

この ふへんてきな ちつじょが、 ほかの ひとつの こころの きまりに たいして、 まもられている わけ であった。
しかし、 なぜ ふへんてきな ちつじょが まもられる のであろうか?
なぜなら、 ふへんてき ちつじょが、 いきている からだ。
きもちいいの だんかいの いしきに たいする うんめい としての ひつぜんせいは、 しんだ ちつじょ であった。
しかし、こころの きまりの だんかいの ちつじょは、 いきた ちつじょ であった。
つまり、 それぞれの こじん、こたいが それぞれ かわりながらも、 ひとつに まとまっている ような うごいて かわる ちつじょ だった。
いのちは、 いしき であった。
だから、 この いきた ちつじょは、 いしき である。
みずからと かんけいして、 なにかを かんじる いしき だった のである。
しんだ ちつじょ である うんめい としての ひつぜんせいは ただ そこに ある だけで、 いしきでは なかった。
しかし、こころの きまりの この ちつじょは、 「せいしん」(精神)が ある ふへんてきな ちつじょ である。
せいしん というのは、りせい しょうの つぎの しょうが せいしんしょう である ように、 へーげるに とっては より すぐれている ありかた である。
りせいは こじんで わかる のに たいして、 せいしんは みんなで わかる のだ。 おそらく。 たぶん。
そして、この いきた ちつじょが じったい である。

じったい という かんがえかたは、 へーげる では どくとく である。
おおくの ばあい、 じったいと いえば、 うごかず かわらない もの である。
しかし、 へーげるに とっては、 じったい とは かわる ことで うごくのに かわらない もの である。
じったいは、 Substanzすぶすたんつ、 つまり したに ある もの である。
だから、 きばんの ような いめーじ であるが、 へーげるに とっては、 きばんは うごくのだ。
うごいた けっかが せいしんげんしょうがくの いしきの それぞれの けいけん である。
しかし、 いつでも、 この じったいの うえに いしきは あるのだ。
だから、 いきた ちつじょは じったい である のである。

じったいの なかで いきる

この いきた ちつじょ である じったいの なかで、 ある だんかいの いしきに とって じぶんが げんじつに なっている ときに、その だんかいの いしきは、 「個体として生き、また自分たち自身を意識している」 (582ぺーじ)。
こたい、こじん
いきる
じぶんたち
じぶんたちを いしきする
という きーわーどが でてくる。
じぶんたちを いしきする という はなしは、 おそらく はじめて でてきた はず。
せいしんが じぶんたちを いしきする という はなしである はず である。
りせいは じぶんを いしき しながら ほかを いしき する。
じこいしきは じぶんじしんを いしきする。
いしきは ほかを いしきする。

じつは たよっている ふへんてきな ちつじょ

ふへんてきな ちつじょの なかで いきている ものが、 この ふへんてきな ちつじょに もんくを いう ことも ありうる。
その ときは、 こころの きまりの いしきや、うぬぼれの きょうきの ように、 ちつじょは ほんとうの きまりと ちがうと かんがえる わけだ。
ほんとうの きまり とは、 うちがわの きまり、 じぶんの おくに ある きまり である。
うちがわは りそうてきな ものの がわを あらわす。
うちがわが もともと ある りそうの ありかただと おもわれる から である。
この ときは、 こころは じぶんの 「それがしんじる」ものを ちつじょとは ちがうと かんがえて、 「それがしんじる」に すぎない ものを ちつじょ だと いって、 「それがしんじる」 ものを ただしいと いう。
しかし、 それらの ものが こころ である かぎりで、 こころの きまりに したがっていると しか かんがえられない ので、その こころの きまり という ちつじょが ないの ならば、 その ものは こころ では ないか、 きえさる。
こころでは ない という のは、 ちつじょの そとに おかれる こと であり、 きえさる というのは、 すべてを うしなう こと である。
だから、 こころが こころ である かぎりで、 こころが なにかを する かぎりで、 じっさいの ところは、こころは こころの きまり という ちつじょに くっついている のである。
こころの ちつじょは、 こころの ありかた、ほんしつ だから、 こころ である じぶんの ほんしつ、 ありかた である のだ。

ちからと げんじつが おおやけの ちつじょに する

こころの きまりが ないと、 きえるか、 こころでは なくなってしまう という のは ちから という かんがえかたで せつめい できる。
こころの きまりは ちからを ずっと もっている ので、 こころを おどす のだ。
「じぶんに したがわなければ、 けすぞ」 と いって。
じっさいに こころの きまり という ちつじょに したがわないと こころ としては やっていけない ので、この こころの きまり という ふへんてきな ちつじょは、 ちからを もっている。
さらに、 この ふへんてきな ちつじょは、 じぶんが かならず げんじつに なる、 という よりも げんじつに する ので、ずっと げんじつ である。
すると、 ふへんてきな ちつじょは、 おおやけの ちつじょと いわれる。
この おおやけの ちつじょは、きえない。
おおやけの ちつじょは、 じぶんで ありつづける。
おおやけの ちつじょは、じぶんと ひとしく ありつづける。
いきている ものが いきている もの として ひとつ である という はなしと たいおうしている。
そして、おおやけの ちつじょは いきている。
いきている ものは うごいて、 かわる ちつじょ である という はなしと たいおうしている。
おおやけの ちつじょは、 ふへんてき である。
みんなに とって おおやけの ちつじょが ある から である。
そして、 おおやけの ちつじょは ある。
おおやけの ちつじょは げんじつ なので、 こころ という じぶんに とって ある。
こじん、こたいは おおやけの ちつじょの かたちに すぎないと かんがえられる。
しかし、 たしかに こたい、こじんは おおやけの ちつじょの かたち、 けいしきに すぎず、 ないよう では ないが、 それは こたい、こじんや おおやけの ちつじょが ただしい という ことでは ない。
おおやけの ちつじょも てんとうしている、 さかさまになっている、ゆがんでいる、ぎゃくになっている、 まちがっている。

b13

おおやけの ちつじょと こころ

なぜ おおやけの ちつじょも てんとうしている、 さかさまになっている、ゆがんでいる、ぎゃくになっている、 まちがっている のか?
なぜなら おおやけの ちつじょも、 てんとうしている、 さかさまになっている、ゆがんでいる、ぎゃくになっている、 まちがっている こじん、こたい としての みんなの きまり でしか ない から だ。

おおやけの ちつじょは、 みんなの こころの きまり だった。
すべての それぞれの こころが ちょくせつてきに この おおやけの ちつじょと おなじ であった。
おおやけの ちつじょは ふへんてき である。
だから、 すべての それぞれの こころが ちょくせつてきに ふへんてきな ものと おなじ である。
したがって、 おおやけの ちつじょは、 げんじつとは いっても、 それじたい として ある、 または われわれに ある げんじつ では ない。
おおやけの ちつじょは、 こころに とっての げんじつ でしか ない。
もちろん、 きもちいいの だんかいの いしきまでは、 この こころの げんじつ すら なかった。
こころ というのは、 じぶんに とって じぶんが ある こたい てきな もの であった。
こころは、 じぶんと かんけいして ある こたい であり、 じぶんが どんな ものか じかく している こたい である。
こころは、 それなりに じぶんが じゆうに ふるまえる もの であった。
こころは、 ほかに かんぜんに したがう ことは ない という いみで、 じぶんだけで ある もの でも あった。
こころは、 たいじ(対自)・そんざいの こたいせい である。

こころの きまりを つくる

こころの きまりを じぶんが つくろうと すると、 ほかの ものが じゃましてくる。
つまり、 ほかのものの ていこうを この だんかいの いしきは けいけんする。
なぜ、 ほかの ものは ていこう してくる のか?
なぜなら、 じぶんが つくった こころの きまりは、 じぶん だけに しか あてはまらない からだ。
じぶんに とって ある ものを こころの きまりに する のだから、 おなじ ように じぶんじしんと かんけいしている ほかの ものの こべつてきな ありかたに はんろんする。
じぶんが つくった こころの きまりは、 ほかの ものの こべつてきな ありかたに たいして むじゅんする。
だから、 ほかの ものは ていこうしてくる。
むじゅんする ものを つくられて、 じぶんの こべつてきな ものを なくされたら こまる から、 ていこうする。
しかし、 ほかの ものも たんに まもっている という わけ では なく、 じぶんじしんの こころの きまりを つくり、 じぶんじしんの こころの きまりを みんなに あてはめる ように している のだ。
だから、 ふへんてきな ものが あると いっても、 たんに いっぱんてきな ていこうが ある だけ なのだ。
ふへんてきな ことを めざしているとは いっても、 そこで めざされる ふへんてきな こと とは、 ほかのものに かとう という ていこう でしか ない のだ。
なかみは、 とくに もんだいに ならず、 ただ たがいに あらそって、 どっちかが かてば ふへん という なまえが えられる ように たたかっている だけ なのだ。
つまり みんなが たがいに たたかっている だけ なのだ。
みんなが じぶんの こべつてきな ものを ふへんてきな ものに しようとして、 だれも かちきる ことは できない ので、 だれも ふへんには なれない。

なぜ だれも ふへんに なれない のか?
なぜなら みんなが おなじ ように ていこうを うける からで、 その ていこうに よって、 みんなが じぶんの こべつてきな ものを そのままに しておく ことは できない から である。
ほかの もの たちに よって、 たがいに かいたい(解体) させられて しまう。
だから、 ふへんてきに みえた おおやけの ちつじょも、 ちつじょ とは いえず、 たたかい という こんとん(混沌)とした もの なのである。
その たたかいも、 いっぱんてきな もの でしか なく、 ないようは どうでも よい のである。
みんなが たがいに たいして たたかっている から である。
それぞれの こたい、 こじんが、 うばえる ものは、 じぶんの ほうに うばいとる。
じぶんの せいぎ(正義)、ただしい こころの きまりを ほかの ものに おしつける。
じぶんの こべつてきな ありかたを そのままに、 ほかの ものの こべつてきな ありかたを けそうと する。
しかし、 おしつけようとした じぶんの こべつてきな ありかたも、 ほかの ものに よって けされる。

よの なりゆき、せけん、せかいの ながれ

おもいこまれている、「それがしんじられている」 おおやけの ちつじょ とは、 せかいの ながれ である。
せかいの ながれ というのは、 なにか、 つねに すすんでいる かんじが あるが、 そんな すすんでいる ことは ない。
ふつう、 へーげるの れきし・てつがくとは、 つねに よのなかが すすんでいる という いめーじ だが、 この ばしょを よむと、 もっと ふくざつな ことが わかる。
ちつじょ なんて 「それがしんじられた」もの でしか なく、 たんに こたいが きえたり でてきたり する という うごきが ある のである。
ありかた、ほんしつ、 うごかない もの という ものは せかいの ながれ には ない のである。

おおやけの ちつじょ

こうじょ・りょうぞく(公序良俗)とも いう。

せかいの ながれ

つぎの かんとと へーげるが でてくる ところは ちゅういして よんだ。

denn man kann nicht sagen, dasz anstatt der gesetze der natur gesetze der freiheit in die causalität des weltlaufs eintreten, weil ... sie nicht freiheit, sondern selbst nichts anders als natur wäre Kant I 3, 309 akad.; der allgemeine inhalt des wirklichen weltlaufs hat sich schon ergeben; näher betrachtet ist er wieder nichts anderes als die beiden vorhergehenden bewegungen des selbstbewusztseyns Hegel w. (1832) 2, 285 u. ö.
„WELTLAUF, m.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=w16969, abgerufen am 02.04.2021.
「自然の法則の代わりに、自由の法則が世界の流れの因果関係に入るとは言えません。なぜなら...それは自由ではなく、それ自体が自然に他ならないからです。Kant I 3, 309 akad.;
実世界のコースの一般的な内容はすでに明らかになっています。 よく調べてみると、これもまた、先行する2つの自己意識の動きにすぎません。Hegel w. (1832) 2, 285 u. ö.」

いや、 わからない。

WELTLAUF, m. , seit dem 15. jh. bezeugte komposition, die durch zusammenziehung eines frühnhd. verbreiteten genitivischen gefüges entsteht: der welte louf (14./15. jh.) städtechron. 9, 783 (Straszburg); der werlt lawff (15. jh.) Rosenplüt in: mhd. lieder u. sprüche 185 Eis; der welt lauff (1524) Luther 15, 302 W.; s. auch H. R. Manuel unter 2 und vgl. weiterhin dän. verdensløb, nordfries. wràlslûp (mit genitiv. s). sie wird dem neueren dt. vor allem in bestimmten umgangssprachlichen wendungen geläufig (s. u. 2), während die gleichzeitig aufgekommene sinnverwandte komposition weltlauft (s. 1DWb lauft teil 6, 334) /Bd. 28, Sp. 1625/ unüblich und auf gelegentliche anwendungen beschränkt bleibt (s. Luther 30, 1, 140 W.; Mathesius Syrach [1586] 2, 3a; die belege aus dem 17. und 18. jh. bei Bauer-Collitz waldeck. wb. 8a; Fischer schwäb. 6, 2, 3401; ferner Scheffel ges. w. [1907] 4, 17).
1) verlauf des weltgeschehens.
a) allgemein, mit dem umfassendsten begriff des wortes in philosophisch-theologischer anwendung: also der gantze natur und weltlauff bezeugt, dasz ein ... gubernator seyn msse Dannhawer catech. (1657) 1, 68; durch alles dieses wird gleichwohl gottes zweck nicht vereitelt, sondern der beschlossene weltlauf wird ausgeführt C. A. Crusius kurzer begr. d. moraltheologie 2 (1773) 1118; denn man kann nicht sagen, dasz anstatt der gesetze der natur gesetze der freiheit in die causalität des weltlaufs eintreten, weil ... sie nicht freiheit, sondern selbst nichts anders als natur wäre Kant I 3, 309 akad.; der allgemeine inhalt des wirklichen weltlaufs hat sich schon ergeben; näher betrachtet ist er wieder nichts anderes als die beiden vorhergehenden bewegungen des selbstbewusztseyns Hegel w. (1832) 2, 285 u. ö.; auch in ihr (der natur) vielleicht entstehen die bedeutungsvollen gestalten der geschöpfe nur durch den äuszerlichen zwang entweder einer göttlichen kunst oder eines zufälligen weltlaufes Lotze mikrokosmus (1856) 1, 7; ein geist, dem alle anfangspositionen und anfangsgeschwindigkeiten aller dieser materiellen teilchen sowie alle kräfte bekannt wären ... könnte den ganzen weltlauf voraus berechnen Boltzmann popul. schr. (1905) 4; es gibt noch einen zweiten weg, um den weltlauf zu begreifen K. Heim weltanschauung d. bibel (1920) 9; oft mit der vorstellung eines stromes verknüpft: sicher seines plans, den keine zeit ausführt, aber auch keine vernichtet, blickt er auf den strom des weltlaufs ruhig herab Schelling s. w. (1856) I 5, 467; sie (die kunst) reiszt das objekt ihrer kontemplation heraus aus dem strome des weltlaufs Schopenhauer w. 1, 252 Gr.; wenn auch der wellenschlag, der von ihr (der tat) ausgeht, sich mannigfach bricht, abschwächt, ausgleicht im gröszeren strome des weltlaufs Nic. Hartmann ethik (21935) 2; aber auch sonst zuweilen in anschaulicher auffassung, eines dichterischen bildes: das ist auch meine hoffnung, meine lust in einsamen stunden, dass solche grosse töne (freundschaft des Harmodius und Aristogiton) und grössere einst wiederkehren müssen in der symphonie des weltlaufs. die liebe gebahr jahrtausende voll lebendiger menschen; die freundschaft wird sie wiedergebähren Hölderlin s. w. 2, 164 Hell.; oder wortspiels: bis einmal der ganze weltlauf abgelaufen ist und so eingeschrumpft wie sies brauchen für ihren groszen — oder kleinen geist — und das wird freilich noch ein weilchen dauern (1887) Hildebrand ged. üb. gott (1910) 372.
b) mit besonderem bezug auf den verlauf der weltgeschichte (α), des zeitgeschehens (β) oder das getriebe des lebens schlechthin (γ).
α) gewisse relation von einem weibe, das ... knfftigen welt- und kriegs-lauff angezeiget Joh. Prätorius neue weltbeschr. 2 (1677) 68; von übervölkerten gegenden her wird sich ebendasselbe (das wandern der nomadenvölker) in dem groszen weltlauf noch mehrmals ereignen Göthe I 25, 1, 181 W.; dazu ist uns das licht der geschichte gegeben, dasz wir ... was den weiteren weltlauf betrifft, nicht in trügerischen erwartungen ... dahinleben Döllinger vortr. (1888) 1, 76; als ... hammerschläge ... auf Ludwig' s heere herabfielen, da wurde sie (frau v. Maintenon) ... irre an der göttlichen leitung des weltlaufs ebda. 1, 413; vereinzelt auch für einen weltgeschichtlichen abschnitt: neue zeiten sollten unter ihm (dem prophezeiten groszen könig) beginnen, ein neuer groszer weltlauf Herder 24, 540 S.
β) die ungeheuren bewegungen des allgemeinen politischen weltlaufs, die auf mich, wie auf die ganze masse der gleichzeitigen, den gröszten einflusz gehabt, muszten vorzüglich beachtet werden (bei der abfassung einer selbstbiographie) Göthe I 26, 7 W.; zög' nur der husten fort und statt dessen zuweilen etwas neues aus der literatur ein oder ein freundlicher besuch, der mich ein biszchen au /Bd. 28, Sp. 1626/ courant mit dem weltlaufe hielt, ich wollte es mir nicht besser wünschen (31. 10. 1844) A. v. Droste-Hülshoff 2, 354 Schulte-K.; (räthin:) ich wollte, die zeitungen wären gar nicht erfunden ... (rath:) ei, mein kind! man musz doch den weltlauf beobachten Bauernfeld ges. schr. (1871) 3, 225; vereinzelt mit speziellem bezug auf das leben in der groszen welt: du (Körner) glaubst nicht, was es einem armen schelm von poeten in meiner abgeschiedenen, von allem weltlauf getrennten lage kostet, eine solche fremdartige und wilde masse zu bewegen (wie den 'Wallenstein') (10. 7. 1797) Schiller br. 5, 219 Jonas; oder auch das ablaufende alltagsgeschehen: bis eines tages der kupferschmied dahinter kam, dasz ihm das gemäuer eigentlich die aussicht verdarb, wenn er vor die werkstatt treten und den weltlauf überblicken wollte qu. a. d. j. 1935.
γ)
er (der weise) sieht vielmehr mit stiller ruh
dem wunderlichen weltlauf zu ...
Triller poet. betr. (1750) 4, 230;
(Jesus) sitzt zur rechten hand im thron (gottes)
und ist Noah von den archen,
wo die menschen von den strmen
dieses welt-laufs sicher ruhn
Zinzendorf teutsche ged. (1766) 251;
bedenke, wie der weltlauf rummelt
und alles durcheinander hummelt
(23. 10. 1786) Seume in: gesch. s. lebens 56 Planer-Reiszmann;
will man ... etwas andres seyn als was der ... weltlauf ... aus den leuten macht, so musz man aus dem strom heraus Fr. H. Jacobi w. (1812) 5, 170; ähnlich zuweilen noch in neuerem sprachgebrauch: reise nicht im land herum und laufe nicht auf allen gassen, sondern gewöhne dich, von der veste deines hauses aus und inmitten bewährter freunde den weltlauf zu verstehen; dann wirst du mit mehr weisheit zur zeit des handelns auftreten als die jagdhunde und landläufer G. Keller ges. w. (1889) 6, 320; wenn ich den weltlauf aufmerksam beobachte und verallgemeinernd zusammenhänge zwischen meinen schicksalen und meinen darauf antwortenden praktischen zielsetzungen herstelle, so werde ich klüger Spranger lebenserfahrung (1946) 45.
2) 'der gewöhnliche lauf der dinge in der welt ...; besonders, die gewöhnliche art und weise zu handeln der menschen in der welt' (Adelung 5 [1786] 163), 'der weltbrauch' (Güntzel haubtschlüssel [1648] 859); so auch in genitivischer fügung:
der wlt louff, bung vnd handel,
ir thn vnd lan, jr wysz vnd wandel
(1548) H. R. Manuel weinspiel 64 ndr. (v. 1941);
jedoch bereits seit dem 15. jh. in fester komposition: wiewol vormals von einem rate gebott unnd gesetze aussganngen sein, innhaltennd, das keyn ir burger eynicherley cleyder kürtzer dann soverr er mit gestracktem arm abwertz raychen mag, tragen solle, ydoch nachdem das nach gemeynem welltlawff dieser zeyt nyt syttlich oder gewonlich ist, so will eyn erber rate gedulden, das hinfüro die cleyder kürtzer dann als vor gesetzt und ob angezaigt ist, getragen werden mügen (15. jh.) Nürnb. polizeiordnungen 105 lit. ver.; finden sich ihrer viel ... die sich nach dem gemeinen weltlauff richten Harsdörffer teutsch secretar. (1656) 1, 2, 144; die warheit ist vergessen, eben diese worte kan man auch sagen vom jetzigen welt-lauff Albertinus hirnschleiffer (1664) 92; ich konte diese einzelnen (menschen) genieszen und brauchte mich an den ton des allgemeinen nicht zu binden, wenn ich dafür leiden wollte, was sich nach weltlauf gebührt (8. 3. 1789) Caroline 1, 50 Waitz; zugleich durft' er (der anschwärzer) dem alten weltlaufe vertraun, dasz schwanke meinung bei gehöriger pflege leicht erstarkt J. H. Voss antisymb. (1824) 2, 119;
doch das ist nicht des weltlaufs art,
dasz er beschwerden uns erspart
Rückert ges. poet. w. (1867) 2, 437;
die Shakespearischen menschen wollen sich ... gegen den weltlauf ... durchsetzen O. Ludwig ges. schr. (1891) 5, 169; der weltlauf geht so Rosegger schr. (1895) I 1, 259; insbesondere in der wendung bei (nach) jetzigem weltlauf: was Isaias längst im geist vorgesagt, das wird bey /Bd. 28, Sp. 1627/ jetzigem welt-lauff redlich erfüllt: ... alle lassen sich vom geitz regieren, vom ersten bisz zum letzten Selhamer tuba tragica (1696) 2, 4; ein mädchen musz, nach dem jetzigen weltlauf, ungerechtigkeiten in bester form ertragen können Hippel über d. ehe (1792) 135; die lehre ist gezogen, dasz einfache wahrheit bei dem jetzigen weltlaufe nichts mehr verfange Gervinus dt. dichtg. (1853) 2, 294; sowie das (es) ist der welt lauf u. dgl.: das ist der jetzigen welt lauff ea est rerum natura et temporum cursus, hi mundi mores sunt Dentzler clavis (1686) 2, 344; das ist der welt-lauff, so geht es in der welt zu così và il mondo Rädlein dt.-it.-frz. (1711) 1046; es ist der weltlauf, sire, das einige leute fabeln und anordnungen machen, und andre leute darüber lachen und sie wieder abschaffen M. Claudius s. w. (1775) 3, 91; tausende sind in meinem falle — das ist weltlauf, und in revolutionen geht es nicht anders Meisl theatr. quodlibet (1820) 3, 182; so ist der weltlauf, sie haben ihre geschäfte gehabt Bettine Günderode (1840) 2, 188; so ist der weltlauf, der weltdank, der weltlohn F. L. Jahn w. 2, 501 Euler; es ist der weltlauf, dasz ma' amahl sterb'n muasz Hügel Wien 188a; des is scho' so der weltlauf (d. h. darin liegt nichts befremdendes, nichts absonderliches) ebda. 188b; dat ës wràls lûp Jensen nordfries. 714; kürzer: Katharina hat sich ... ein groszes kaiserdiadem aus ihres mannes todesfall gesponnen. weltlauf Grabbe s. w. 4, 227 Bl.; so kommt ... mancher mensch zu einem renommee, er weisz nicht, wie. weltlauf! Nestroy ges. w. (1890) 2, 314; zuweilen auch als ausruf: o weltlauf! für's birnschnipfen kriegt der eine medaille! ebda. 1, 250.
3) in besonderer anwendung verschiedener art.
a) pluralisch, wie läufe teil 6, 309 (7) und zeitläufe teil 15, 565 (3); oft allgemein auf die bewegten, unsicheren zeitverhältnisse bezogen (s. auch Fischer schwäb. 6, 2, 3401): das die kouflúte ... ziehen sullent die strassen, als ... die weltlwfe ungetrẃ und geschwind sind (Gmünd 1440) dt. reichstagsakten 15, 393 bayer. akad.; (Heinrich der Löwe bat Friedrich Barbarossa,) er wolte die vnbestendigen weltleffe ansehen und bedencken B. Faber Saxonia (1563) 143a; bey solchem ... schwirigen weltläuffen hochnöttigen werck (30. 7. 1602) Frauenholz heerwesen 3, 2 (1939) 208; (wir) sprachen viel von Friedrich, von den weltläufen (25. 3. 1789) Schubart br. in: D. Fr. Strausz ges. schr. 9 (1878) 266; wo etwan eine neue häresie den geilen sprosz aus dem unkraute dieser weltläufe zu heben wagt qu. a. d. j. 1926; aber auch für einzelne, in der welt ablaufende geschehnisse und erfahrene begebenheiten: dann wo die historienschreiber nicht ein gantz corpus der weltlauff vnd geschicht also auff vns verfellet hetten, lebten wir dem vnvernnfftigen viehe gleich, in verfinsterung vnnd vnwissenschafft ... aller verlauffener geschicht vnd handlung S. Feyerabendt Bonfinius, ungerische chronica (1581) vorr. a 2b; in der sprache der propheten ist der tag des herren kein irrdischer tag; seine erscheinung und ankunft ist kein kommen in einer minute. weltläufe, revolutionen sinds Herder 19, 104 S.; dasz hiezu (zu einem vollkommenen herrscher) ... grosze, durch viel weltläufe geübte erfahrenheit ... erfordert wird Kant w. 4, 301 H.; sowie einzelne weltläufige handlungs- und verhaltungsweisen (vgl. 1DWb lauf teil 6, 310 [9]): also sagt man, der artzt hat gut glck, es geht jhm wol ab statt, wiewol er nicht so viel kan als der ander, nun was soll das sein, als allein die geschicklichkeit? entweders er kan sein maul brauchen ... macht jhm gunst vnd dergleichen. auff solchs, wann es schon nicht als gut ist, so acht mans nicht: die weltluff an jhm, dieselbigen vertuschens vnnd verbergens jhm Paracelsus opera (1616) 2, 207.
b) mit bezug auf einzelne schicksale oder lebensläufe: (das menschliche leben) ein weltlauf zum todengrab seye Harsdörffer teutsch secretar. 2 (1659) 141; und denket, dasz wir nicht wiszen, was aus uns noch werden kan, und nimand sich glüklich preisen, bisz er den weltlauf vollendet qu. a. d. j. 1776 bei Meinecke Boyen (1896) 1, 9; der wird Göthe'n leicht vorwerfen, dasz er ... die normale laufbahn der menschlichen entwickelung mehr sprungweise berührt, /Bd. 28, Sp. 1628/ als im gesetzlichen weltlaufe siegend durcheilt habe Gervinus dt. dichtg. (1853) 5, 118; bei Jean Paul hingegen ausdrücklich von lebenslauf unterschieden: da er (der held im epos) nur dem ganzen dient und da kein lebens-, sondern ein weltlauf erscheint, so verliert sich sein schicksal ins allgemeine w. 49-51, 243 Hempel.
c) vereinzelt von der bahn eines gestirns im weltall: man denke sich einen kometen in seinem weltlauf, und dasz er, bewuszt gedacht, von der welt, wie sie ihm an einer bestimmten stelle erscheint, ein bild aufnähme und zeichnete (1883) Rud. Hildebrand ged. üb. gott (1910) 207.
d) in ironischer, an 3 b oder c anknüpfender anwendung: noch ehe das tischrücken seinen weltlauf vollendet hatte, erklärte man schon von manchen seiten alles für schwindel Hoffmann v. Fallersleben mein leben (1868) 5, 211.

„WELTLAUF, m.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=w16969, abgerufen am 02.04.2021.
ぐーぐるやく
ウェルトラウフ、m。、15世紀以来早い手で契約することによって、構成を証明しました。広範な属格構造が出現します:世界のルーフ(14世紀/ 15世紀)städtechron。 9、783(ストラスバーグ); der werlt lawff(15世紀)Rosenplütin:mhd。liederandproverbs185アイスクリーム; der weltlauff(1524)Luther 15、302W。; 2歳未満のH.R.Manuelおよびデンマーク語も参照してください。 verdensløb、北のフリーズ。 wràlslûp(属格付き。s)。特に特定の口語表現(以下の2を参照)では、新しいドイツ語に馴染みがありますが、同義語の構成はウェルトラウフト(1DWbはパート6、334を実行)/ vol。 28、Col。1625/珍しいままで、時折の使用に制限されています(Luther 30、1、140Wを参照; Mathesius Syrach [1586] 2、3a; Bauer-CollitzWaldeckでの17世紀と18世紀の文書.wb。8a ; Fischerschwäb.6、2、3401;Scheffelges。w。[1907] 4、17)。
1)世界の出来事のコース。
a)一般に、哲学的・神学的応用におけるこの言葉の最も包括的な概念:つまり、自然全体と世界の流れは、...知事はダンハウワーのカテックでなければならないことを証明しています。 (1657)1.68;このすべてを通して、それにもかかわらず、神の目的は妨げられませんが、世界の決定されたコースが実行されます。C。A。クルシウス、簡単な説明d。道徳神学2(1773)1118;自然の法則の代わりに、自由の法則が世界のコースの因果関係に入るとは言えません。なぜなら...それらは自由ではなく、むしろ自然カントI 3、309別名に他ならないからです。実世界のコースの一般的な内容はすでに明らかになっています。より綿密に考えると、それはまた、自己意識のヘーゲルwの先行する2つの動きに他なりません。彼女(自然)においても、おそらく意味のある形の生き物は、神の芸術または世界の偶然のコースのいずれかの外部からの強制によってのみ発生します。Lotzemikrokosmus(1856)1、7;これらすべての物質粒子のすべての開始位置と開始速度、およびすべての力を知っている精神は、ボルツマンの人口を前もって全世界の進路を計算することができます。 schr。 (1905)4;世界の進路を理解するための2番目の方法があります。聖書(1920)9;多くの場合、流れのアイデアに関連付けられています:時間が実行されないが破壊されない彼の計画を確信して、彼は静かに世界のコースシェリングの流れを見下ろします.w。(1856)I 5、467;彼女(芸術)は、彼女の熟考の対象を世界の人種ショーペンハウアーW. 1、252Grの流れから移動させます。彼女(行為)から発せられるうねりが多くの方法で壊れて弱まるとしても、世界のレースニックのより大きな流れで補償します。ハートマン倫理(21935)2;しかし、時には詩的な絵の鮮やかな概念で:それはまた私の希望であり、孤独な時間での私の欲望であり、そのような素晴らしい音符(ハルモディオスとアリストギトンの友情)とより大きな音符はいつか世界のレースの交響曲に戻らなければなりません。愛は生きている人々でいっぱいの何千年もの間生まれました。友情は彼女をヘルダーリンs.w.2、164地獄に連れ戻すでしょう。または言葉遊び:全世界が終わり、あなたの大きな(または小さな心)に必要なだけ縮小するまで、そしてそれはもちろんまだしばらくかかります(1887)ヒルデブランドは老化しました。以上神(1910)372。
b)世界史の経過(α)、現代の出来事(β)、または歳月風雲(γ)に特に関連して。
α)将来の世界と戦争の進路がJoh.Prätoriusの新しい世界の制約を示した女性の特定の関係。 2(1677)68;人口過密地域からは、同じことが(遊牧民の放浪)がグレートワールドコースのGötheI25、1、181Wで数回発生します。さらに、歴史の光が私たちに与えられました、私たちは...世界のさらなるコースに関する限り、誤った期待に生きていない...Döllingerの講義。 (1888)1.76; ...ハンマーが吹く...ルートヴィヒの軍隊に落ちたとき、彼女(フラウ・フォン・メンテノン)は...そこでの世界人種の神聖なリーダーシップに腹を立てた。 1,413;時折、世界史のセクションでも:新しい時代は彼(預言された偉大な王)の下で始まるべきです、新しい偉大な世界の種族ヘルダー24、540ページ。
β)同時の大衆全体と同様に、私に最大の影響を与えた世界の一般的な政治過程の途方もない動きは、特別な注意を払う必要がありました(自己伝記を書くとき)GötheI26、 7W。;咳をするのをためらって、代わりに時々文学から何か新しいものを追加したり、私に少し噛み付くような友好的な訪問をしてください。 28、1626年列/ウェルトラウフの勇気、私はそれをもっと良くしたくなかった(1844年10月31日)A。v。 Droste-Hülshoff2、354Schulte-K。; (räthin:)新聞が発明されていなかったらいいのに...(rath :) ei、my child!人は世界を持っている必要があります
ウォッチランバウエルンフェルトトット。 schr。 (1871)3、225;時折、偉大な世界での生活に特に関連して:あなた(穀物)は、このような奇妙で野生の大衆( 'Wallenstein')(1797年7月10日)Schillerbr。 5、219 Jonas;または日常の出来事でさえ:ある日まで、銅細工職人は、ワークショップの外に出て世界を見たいと思ったときに、壁が実際に彼の視界を台無しにしていることに気づきました。 a。 d。 j。 1935年。
γ)
むしろ、彼(賢者)は静かに落ち着いて見ています
気まぐれな世界のレース..。
Trillerpoet。Betr。(1750)4、230;
(イエス)は(神の)王位の右手に座っています
箱舟のノアです、
嵐の人々がいる場所
この世界のレースは安全に休むでしょう
ジンゼンドルフドイツ蒸し(1766)251;
世界の人種がどのようにゴロゴロしているのか考えてみてください
そしてすべてがぶつかっている
(1786年10月23日)Seume in:Gesch。S。Lebens 56 Planer-Reiszmann;
...世界の人種...が人々に対して行うこととは異なる何かになりたいのであれば、Fr。H。Jacobi W.(1812)5、170;同様の、時には最近の使用法:国中を旅行したり、すべての路地を駆け下りたりしないでください。しかし、あなたの家のベストから、そして信頼できる友人の真っ只中で、世界のコースを理解することに慣れてください。そうすれば、猟犬やカントリーウォーカーのG.ケラーが言うよりも、行動の時にあなたはより多くの知恵を持って現れるでしょう。 w。(1889)6、320;私が世界の流れを注意深く観察し、私の運命と私が応答した実際的な目的との間の一般的な関係を作るならば、私はより賢いスプランジャーの人生経験になるでしょう(1946)45。
2) '世界の物事の通常のコース...;特に、世界の人々による通常の行動方法 '(Adelung 5 [1786] 163)、'世界の習慣 '(Güntzelhaubtkey[1648] 859);属格の偶然にも:
世界のラフ、運動と貿易、
irthnvndlan、jr wysz vnd wandel
(1548)H。R. Manuel weinspiel 64ndr。 (v。1941);
しかし、15世紀以来。固定された構成で:彼が以前にレートコマンドと法律から始めた方法、一時停止、彼が伸ばした腕を持つabwertz raychenが好きな場合よりも短いkeynir burger eynicherley cleyder、しかしその後、一般的なwelltlawffによるとこのzeytは正常ではありませんまたは習慣的であるため、eynerberは辛抱強くなりたいので、クライダーは以前よりも短く着用する必要があり、それが示されているかどうか(15世紀)Nürnb。警察規則105lit.ver。;あなたはそれらの多くを見つけるでしょう...共通の世界をフォローしている人はHarsdörfferteutschの秘書を運営しています。 (1656)1、2、144;真実は忘れられています、これらの言葉は、Albertinus hirnschleiffer(1664)92の現在の世界人種についても言えます。私はこれらの個人(人々)の楽しみを説明し、ウェルトラウフ(1789年3月8日)キャロライン1、50ウェイトズによると、私が苦しむことを望むのであれば、一般的な口調に縛られる必要はありませんでした。同時に、彼(恐喝者)は旧世界のコースを信頼することができます。適切な注意を払うことで意見が変動することで、J。H.Vossの反シンブを簡単に強化できます。 (1824)2、119;
しかし、それは世界の人種のやり方ではありません、
彼は私たちの苦情を救う
リュッカートの合計。詩人w。(1867)2、437;
シェイクスピアの人々は...世界の人種に反対して... O。ルートヴィヒのgesを勝ち取りたいと思っています。 schr。 (1891)5、169;世界のレースはそうSchrRoseggerに行きます。 (1895)I 1.259;特に現在の世界のレース(後)のフレーズで:イザヤスが彼女の心の中で長い間予測していたことはベイ/ volになります。 28、Col。1627/現在のWelt-Lauffは正直に成就しました:...最初から最後までSelhamer tuba tragica(1696)2、4;現在の世界のレースの後、女の子のムスは最高の形で不正に耐えることができます。結婚(1792)135;世界の現在の進路の単純な真実はもはやゲルビヌス、dt。詩人を巻き込まないという教訓が引き出されました。 (1853)2,294;それと同様に(それは)世界の実行などです:それは現在の世界の実行であり、自然と一時的な呪い、こんにちはムンディ・モアズ・サント・デンツラー・クラビス(1686)2、344;これが世界のあり方なので、世界ではそうvàilmondoRädleindt.-it.-frzに行きます。 (1711)1046;寓話や編曲をする人もいれば、それについて笑って再び廃止する人もいるのは、世界の人種です。M。Claudiuss。w。(1775)3、91;私の場合、数千人が世界の人種であり、革命においては、マイスル劇場と同じです。クオドリベット(1820)3、182;それは世界のレースです、彼らは彼らのビジネスを持っていましたBettineGünderode(1840)2、188;世界の人種、世界の感謝、世界の賃金F. L. Jahn w。2、501オイラーもそうです。それは世界の人種であり、そのma'amahldiemuaszHügelWien188a;それはワールドコース(つまり、奇妙なことは何もない、奇妙なことは何もない)の同上に当てはまります。 188b; datëswràlslûpJensen北フリーズ。 714;短い:カタリーナh
sichで...彼女の夫の死から紡がれた大きな帝国の王冠。 Weltlauf Grabbe s。w。4、227枚;これが方法です...一部の人々は評判を得ます、彼らは方法を知りません。世界のレース!ネストロイは座った。 w。(1890)2,314;時には感嘆符として:o世界の人種!梨を切り取るとメダルがもらえます!同上。 1、250。
3)さまざまな種類の特別なアプリケーション。
a)複数形、実行パート6、309(7)および時間実行パート15、565(3)のように。多くの場合、一般的に乱流で不確実な時間的条件に関連しています(FischerSchwäb.6、2、3401も参照):コウフルテは...通りを不機嫌にしています...世界のライオンは衝動的で迅速です(グミュント1440)ドイツ国会議事堂ファイル15、393バイエルン。別名。; (ハインリヒ3世はフリードリヒバルバロッサに尋ねました)彼は拘束されていない世界のサルを見て、B。FaberSaxonia(1563)143aをカバーしたかったのです。そのようなベイ...汗まみれの世界のコースhochnöttigenwerck(30。7. 1602)Frauenholz heerwesen 3、2(1939)208; (私たちは)フリードリヒについて、世界の走りについてたくさん話しました(1789年3月25日)Schubartbr。で:D。Fr。Strauszsat。 schr。 9(1878)266;ここで、新しい異端は、これらの世界の雑草から角質の芽を持ち上げようと敢えてします。 a。 d。 j。 1926;だけでなく、世界の個々の事件や経験した出来事についても:歴史家が世界と歴史のコーパス全体を失っていなかったところで、私たちは賢明な牛のように、すべての進歩の歴史と行動Sの曖昧さと知識の中で生きました。 Feyerabendt Bonfinius、ungerischechronica(1581)vorr。 a 2b;預言者の言葉では、主の日は地上の日ではありません。その外観と到着はすぐに来ません。世界の出来事、革命は遊牧民19、104ページです。これのために(完璧な支配者に)...多くの世界の出来事を通して実践されてきた素晴らしい経験...必要なのはカントw。4、301Hです。個々の世俗的な行動と行動の方法(1DWbコースパート6、310 [9]を参照):つまり、医者は非常に幸運であり、彼はそれを失うことになります。他に、それはスキルだけであるはずですが、今は何ですか?彼は口を使うことができます...彼は好意を持っていますか?それがすでにそれほど良くないとき、そのようなものに気をつけてください、それでそれに注意を払わないでください:彼のウェルトフフ、彼を黙らせて隠しますパラケルススオペラ(1616)2、207。
b)個々の運命または人生に関して:(人間の人生)seyeHarsdörfferteutsch秘書の死の墓への世界ツアー。 2(1659)141;そして、私たちは私たちがどうなるかわからないと思います。そして、彼が世界のコースを完了するまで、誰も自分自身を幸せに賞賛しないと思います。 a。 d。 j。 1776年MeineckeBoyen(1896)1、9;彼は、人間開発の通常のキャリアに飛躍的に触れたことで、Göthe'nを簡単に非難することができます。 28、1628年列/ゲルビヌスが合法的な世界レースで勝利を急いだとき。 (1853)5、118;一方、ジャン・ポールは履歴書とは明確に区別されています。彼(叙事詩の主人公)は全体にしか役立たず、ライフコースはなくワールドコースがあるため、彼の運命は一般的に失われますw。49- 51、243ヘンペル。
c)時折、宇宙の星の軌道から:世界の流れの中で彗星を想像し、ある時点で彼に見える世界を意識的に考えて、彼は写真を撮り、描いた(1883)ラッド。ヒルデブランドは老化した。以上神(1910)207。
d)3 bまたはcにリンクされた皮肉なアプリケーション:テーブルが世界中に移動される前でさえ、一部の人々はすべてをデマホフマンvであると宣言しました。 Fallersleben mein Leben(1868)5、211。

わからない。要調査。

b14

Betrachten wir beide Seiten der allgemeinen Ordnung egeneinander, so hat die letztere Allgemeinheit zu ihrem Inhalte die unruhige Individualitaet, fuer welche die Meinung oder die Einzelnheit Gesetz, das Wirkliche unwirklich und das Unwirkliche das Wirkliche ist. Sie ist aber zugleich die Seite der Wirklichkeit der Ordnung, denn ihr gehoert das Fuer−sich−sein der Individualitaet an. Die andere Seite ist das Allgemeine als ruhiges Wesen, aber eben darum nur als ein Inneres, das nicht gar nicht, aber doch keine Wirklichkeit ist, und nur durch Aufhebung der Individualitaet, welche sich die Wirklichkeit angemasst hat, selbst wirklich werden kann. Diese Gestalt des Bewusstseins, sich in dem Gesetze, in dem an sich Wahren und Guten nicht als die Einzelnheit, sondern nur als Wesen zu werden, die Individualitaet aber als das Verkehrte und Verkehrende zu wissen, und daher die Einzelnheit des Bewusstseins aufopfern zu muessen, ist die Tugend.
110ぺーじ (きょうちょうを しょうりゃくした。)
ぐーぐるやく
「一般秩序の両側を相互に関連させて考えると、後者の一般性の内容は、その内容として、意見や特殊性が法である落ち着きのない個性を持ち、現実は非現実であり、非現実は現実です。 しかし同時に、それは秩序の現実の側面でもあります。なぜなら、自分自身は個性に属しているからです。反対側は穏やかな存在としての一般的なものですが、そのため、それではなく、内なるものとしてのみです。まったく、しかしそれにもかかわらず、現実ではなく、現実が想定していた個性を廃止することによってのみ、それ自体が現実になることができます。 本質的に真実で善であり、個性としてではなく、存在としてだけであるが、個性を何が間違っているか、何が間違っているかとして知るために、意識の個性を犠牲にしなければならないというこの形の意識は、美徳。」

まえの よみかた

てんとうする という のは、 ふへんせいの げんじつの がわ である。
この だんかいの こじんに とっては、ふへんせいが うごく げんじつに ある だけ だからだ。
たいして、われわれに とっては、 ふへんせいは、 うごかない ほんしつ として あるのだ。われわれに とっては、 この ふへんせいは、 げんじつ ではない。たんに この だんかいの こじんが げんじつと おもいこんでいる だけで、 ふへんせいは この こじんを ひていする ことで、 この だんかいの こじん に とって げんじつに なる だけだ。

とく という あらたな だんかいの じこいしきは、 それ じたいで ある。(なぜ 「とく」なのかは わかっていない。)
こころの ほう という まえの だんかいの じこいしきは、 じぶんに とって あるに すぎなかった。 じぶんに とっての ほうそくで しか なかった。
しかし、とくは それじたい として ある ほうそくで、 いつも あてはまる。
とく という だんかいの じこいしきにとっては、 じぶんは げんじつに ある こじん ではなく、 ほんしつ である。
こじんは あんていしない うごくものだと とくの だんかいの じこいしきは わかっているので、じぶんの こじんも あんていしないで、 きえてなくなる。

びみょうだ。

いまの よみかた

わたしたちに とって、 どう かんがえるかの はなしを する。
ふへんてきな ちつじょ というのは ふたつに わけられる。
ひとつは、 うごく ちつじょ である。
もうひとつは、 うごかない ちつじょ である。
この ふたつの ちつじょで まとめる。
1. うごく ちつじょは おちつかない こじん である。
うごく ちつじょの ないようは、 げんじつが ひげんじつ であり、 ひげんじつが げんじつ であり、 「それがしんじられている」ことや こべつてきな ことが きまりであると なる。
うごく ちつじょ というのは、 うぬぼれの きょうき(狂気)の てんとう、そうご・むじゅん、さくらんが、 みんなの こころの きまり として げんじつに なる こと である。
しかし、 どうじに、それ、つまり うごく ふへんせいが 「ないよう として もっている」 おちつかない こたいてきな もの、こじんてきな ものは、ちつじょの げんじつの ないようの そくめん である。 (”Sie ist aber zugleich die Seite der Wirklichkeit der Ordnung” 110ぺーじ)
だから、 うごく ちつじょの げんじつの ないようは、 おちつかない こたいてきな もの、 こじんてきな もの である。
こたいてきな もの、こじんてきな ものの じぶんにとって ある ことは、 それ、つまり うごく ふへんせいが 「ないよう として もっている」 おちつかない こたいてきな ものに ぞくしている。
こたいてきな もの、こじんてきな ものの じぶんにとって ある ことは、ちつじょの げんじつの ないようの そくめん である。

うごく ふへんせいの なかの げんじつの ないようは、じぶんが じぶんに とって ある から ある のである。(たいじそんざい=げんじつの ないよう)
この じぶんが じぶんに とって ある という ことは、 ふへんせいの おちつかない こじんてきな ものの なかに ある。(たいじそんざい<おちつかない こじんてきなもの)
したがって、 ふへんせいの おちつかない こじんてきな ものの なかに、 げんじつの ないようが ある。(げんじつの ないよう<おちつかない こじんてきなもの)
けっきょく、 ふへんせいの ひとつの とくちょう であると された おちつかない こじんてきな もの という のは、 げんじつの ないよう でしか ない のであって、 まだ ふへんせいの なかに ほんしつ、ありかたと、 げんじつの けいしきが ある という ことだと おもう。 わからない。要調査。

2. うごかない ふへんせいは おだやかに ある。(ほんしつ。ありかた。)
うごかない ふへんせいは、 うちがわに ある だけで、 そとに でてこない。
つまり、 うごかない ふへんせいは げんじつに ならない。
げんじつを なのっていた こじんを けした、あうふへーべん した ときに のみ、げんじつ である。
こじんが じぶんは げんじつ であると いっていた けど、 それは あやまり である。
げんじつを なのっていた こじんを けした、あうふへーべん すると、 つぎの とくの いしきに うつりかわる。
こころの きまりや うぬぼれの きょうきでは、 じぶんが きまりの なかに ある ことを みとめず、 きまりを つくろうと していた。
しかし、とくの いしきは、じぶんが きまりの なかに ある ことを みとめる。
つまり、 じぶんが、じぶんに とって だけ ただしい のでは なく、 それじたい として ただしい という ことに きがつく のだ。
きまり とは それじたいで、 しんじつ であり、よい もの である。

こころの きまりや うぬぼれの きょうきは、 じぶんを こべつてきな もの である という より そんざいする もの であると かんがえていた。
しかし、 とくの いしきは、 じぶんが 「ある」 もの、 ありかた、ほんしつ であると かんがえている。
じゆうでは なく、 なにかに しばられた もの であると みとめる のだ。
さらに、 とくの いしきは、 こたいてきな もの、こじんてきな ものが まちがう ことを しっている。
とくの いしきは、 こていてきな もの、 こじんてきな ものが てんとうする ことを しっている。
こじんてきな ものは てんとうする ので、 こべつてきなものは ぎせいに ささげる ひつようが ある。
じぶんの ことは かんがえなく なり、 ちから だけが もんだいに なる とくが もんだいに なるのだ。
じぶんの ことは どうても よく、 できる こと という とくが もんだいに なる のだ。
じぶんが いま どうあるか よりも、 じぶんが どう なりうるかが もんだいに なる のだ。
じぶんが なれる ものに なっていたら とく(徳)が あり、 なれるものに なっていなければ とく(徳)が ない。

まとめ

こころの ほうを どう かんがえるかが もんだいである。
こころの ほうは、ほかの もの としての 「にんげん」と おなじ ような しあわせを じぶんは もとめる という かんがえかた である。
たいして、まえの きもちいいは、 ほかの ものは どうでもいいが、 じぶんの きもちいいを もとめる という かんがえかた である。
さいごに、つぎの とくは、 ほかの ものと くらべた うえで すぐれている ありかたを じぶん だけの ありかた として もとめる という かんがえかた である。
じゅんばんに ならべると、きもちいいは ちょくせつの きもちいいを もとめ、 こころのほうは かんせつの しあわせを もとめ、とくは かんせつかつ ちょくせつの すぐれている ことを もとめる。
きもちいいは じぶん だけ、こころのほうは ほかと おなじ、とくは ほかと ちがう じぶん という ありかた である。

こころ

こころと やくすか、 しんじょうと やくすかで、 ある ぶんしょうを みつけた。
青木茂「自負の狂気 ――ヘーゲル精神現象学』の一節――」
ぴーでぃーえふ。https://core.ac.uk/download/pdf/230204135.pdf

f:id:hunihunisaito:20210320090214p:plain
こころ か しんじょう か

るそーの しんじょう(心情)の しゅうきょうと つながりが あると かんがえられている という こと である。
るそーの しんじょうの しゅうきょう、こころの しゅうきょうとは なにか?
わからない。
るそーとは だいたい つぎのような ことを かんがえた。
まず、 ひとびとは しぜんの じょうたい では、 へいわに いきている。
しかし、 あつまって いきる ように なると、 しゃかいの じょうたいで、 あらそいが おこり、 ふびょうどうに なる。
この とき、 みんなが なっとくできると いわれる しゃかいの やくそくを、 しゃかい・けいやく(社会契約)として むすんでいる。
なので、 しゃかい・けいやくを ちゃんと みんなの かんがえ である いっぱん・いし(一般意志)に あわせよう。
だいたい こんな かんじ だった はずだ。 しんじるな。
いままで あった しゅうきょうも きほんてきには ふびょうどうとか あらそいの げんいんとして かんがえられていた はず である。
ただし、るそーは あつまって いきる ためには なんらかの しゅうきょうが ひつよう であると おもっていた らしい(101ぺーじ)。
『社会契約論』第4章に しゅうきょうの はなしが かいてある らしい(102ぺーじ)。
そして、 るそーは しみん・しゅうきょう(市民宗教) という ものを かんがえた(103ぺーじ)。
しみん・しゅうきょうに おいては、 せいじを きめる みんなで、 どうとくの ないようを きめる(103ぺーじ)。
しみん・しゅうきょうは、 みんなで いきる という しゃかいせい(社会性)の かんじょう(感情)を きめる(103ぺーじ)。
しみん・しゅうきょうに よって、 みんなの かんがえ である いっぱん・いしに あう ように、 いろんな ことを しなければ いけない という ぎむを、 それぞれの こじんが あいする ように なる(104-105ぺーじ)。
きもちに よって かんがえが きまる から、 かんがえに したがう ことを あいする という きもちを おこす しみん・しゅうきょうが ひつよう である(106-107ぺーじ)。
この ように みんなの かんがえに したがう ことを あいする という きもちを もち、 そのような こころの じょうたいに なる ように する のが、 おそらく、 こころの しゅうきょう、Religion du cœur、 しんじょうの しゅうきょう なのだろう。

やっと Religion du cœurを つかっている ぶんしょうを みつけた。 なかなか なかった。

La religion du cœur
Protestant, puis catholique, puis à nouveau protestant, avec un zeste d’anticléricalisme, Rousseau n’est pas un amateur de controverses théologiques, mais il aime Jésus et la « morale sublime de l’Evangile ». Surtout, il ressent un profond besoin de croire. Le « sentiment intérieur » nous assure de l’existence de Dieu. Contentons-nous de vouer à Dieu le « culte du cœur », qui n’exige rien d’autre que la sincérité et la spontanéité. Apprenons à prier non pas en récitant des formules, mais en contemplant la nature, qui nous parle directement du Créateur. Chercheurs de spiritualité, cette religion personnelle, affective, tolérante, nourrie d’admiration pour le monde, correspond, j’en suis sûr, à ce que vous recherchez.
https://www.psychologies.com/Culture/Maitres-de-vie/Jean-Jacques-Rousseau

しかし、 やっと みつけた わりには、 びみょうな ぶんしょうだ。
るそーに かんけいない ぶんみゃくでは、 つぎの ような ぶんを みつけた。

On représente que l'amour pur pour le père céleste n'a été vraiment révélé que par le christianisme, réaction triomphante de la religion du cœur contre les aridités d'un légalisme se perdant en arguties et en casuistique (Weill, Judaïsme,1931, p. 178).
https://www.cnrtl.fr/definition/l%C3%A9galiste//0
さいとー やく
てんの ちちへの じゅんすいな あいは じっさいに あきらかに されるのは、 きりすときょう だけ です。 きりすときょうは、 ごたくと へりくつに ぼっとうする かいりつしゅぎの ふもうさに たいする こころの しゅうきょうの けっていてきな はんのうです。

これは、 きりすときょうを こころの しゅうきょうと いっている。

こころの ほうと やくした けど、 こころの きまりと やくすと いいかもしれない。
じっさい、 とちゅうから こころの きまりと かいていた。

あとがき

ながい。
あとで つけたす ばあいは、 もじの いろを かえる。
とくに、 ぷらとんに ついては、 かきかえる かもしれない。
かくめいれき 229ねん 7がつ 13にち
Décade II Tridi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 2にち
さいとう・まの