さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

ばでぃうの にーちぇ0-2、 どくしょかいの まえ

ばでぃうの にーちぇ0-2
9-11ぺーじ

5

5.1

Eh bien, dans ce séminaire, je lui pardonne ces errements localisés. Ce n’est pas que je l’incorpore à ma pensée, tel quel, non. On verra que c’est à lui, Nietzsche, personnellement, que va mon admiration, lui qui s’est disposé avec une telle sincérité au centre de son œuvre qu’il en résulte que tous les « nietzschéismes » sont des impostures.

それでは、 この こうぎに おいて、 にーちぇの これらの このときの わるい やりかたを わたしは ゆるします。 それは、 わたしの かんがえの なかに にーちぇを いれる という こと では ありません。そのままでは。 いれません。まさに この ものを、〔つまり〕 にーちぇを、 わたしは こじんてきには、 すごいと おもっている ことが わかる ことに なる でしょう。 このもの〔にーちぇ〕☆ こそが、そのように ごまかしなく〔せいじつさを もって〕、 じぶんの さくひんの ちゅうしんに ならべられました☆。ですから、 「にーちぇ・しゅぎ」〔Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al. ”Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens” 1991.〕は すべて にせもの である という ことに なるのだ という ことが わかる ことに なる でしょう。

Eh bien:おや(おどろき)、なんとまあ(ふんがい)、さて(けっしん)、それでは(けつろんを みちびく)
pardonner A à B: BのAを ゆるす、かまわない、だまって みている
errements: あくへき、いつもの くせ
localisé: ひとつの ばしょに きょくげんされた、きょくちかされた
incorporer:がったいさせる。かにゅうさせる、こんにゅうさせる、いれる(à, dans)、たいないかする、
personnellement:じぶんじしんで、みずから、こじんてきに、ちょくせつ、したしく、こじんとしては、じぶんのかんがえでは
aller: かんじょうの たいしょうと なる。 にかんじょうが むけられる
Sa haine allait à son père. 憎しみは父親に向けられていた(『ロワイヤル』)
exactement:せいかくに、まさに、ちょうど、げんみつに、きちんと
admiration:かんたん(感嘆)、かんしん(感心)、しょうさん(称賛)、さんび(賛美)、あこがれのまと、(ふるく、おどろき、きょうがく)
se disposer:ならべられる、せいりされる、àしようとする、(ふるい)àかくごする、けっしんする
sincérité:せいじつさ、そっちょくさ、しんけんさ、しんせい(真正)さ
il en résulte que: そのけっか、…という ことに なる。
impostures:にせもの、さしょう、がんさく

さまよい、おこない、わるい くせ

errements: あくへき、いつもの くせ

B.− Péj. Habitude néfaste, manière d'agir blâmable.
https://www.cnrtl.fr/definition/errements
ひなんすべき ように ふるまう やりかた、わざわいを もたらす/ゆうがいな しゅうかん

このときの、げんていされた

localisé: ひとつの ばしょに きょくげんされた、きょくちかされた

"Badiou précise encore qu’il a porté sa réflexion plus exactement sur les textes de la période 1887-1888, susceptibles de permettre d’identifier l’antiphilosophie de Nietzsche. Encore reconnaît-il les avoir abordés sur la base d’un malentendu. Il rangeait Nietzsche du côté des anti-platoniciens déchaînés. Eh bien, ajoute Badiou, « dans ce séminaire, je lui pardonne ses errements localisés ». Gageons que Nietzsche sera sensible à ce geste ! Mais n’oublions pas non plus que l’année 1991 fût celle durant laquelle des ouvrages sortaient en librairie pour condamner Nietzsche, notamment le célèbre Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens ? , signés par des auteurs dont on n’attendait de toute manière pas qu’ils le fussent. Les revanchards de Mai 68 ont fait de Nietzsche « le noir emblème de leur conviction ». Raison de plus pour relire sérieusement les œuvres de ce philosophe. Nous voici au pied du mur."
https://www.nonfiction.fr/article-7964-nietzsche-mon-nouvel-ami.htm

せいれき 1887ねん から 1888ねんの ぶんしょう という、 じかん てきに げんていされた はなし しか できない という いみだと おもう。

たいないか する

incorporer:がったいさせる。かにゅうさせる、こんにゅうさせる、いれる(à, dans)、たいないかする、
とろーくは たいないか(incorportaion)と とりこみ( introjection)を くべつ した。 たいないかは たべる ように、ことばで ほかの ものを じぶんの からだに する こと であり、 とりこみは、 いっきに ほかの ものを じぶんの ものと する こと である。しかし、 ここでは、 とくに そこまでの くべつは もんだいではない。

ゆるす

Considérer pour non avenu(e) un manquement, une faute, une offense en n'en tenant pas rigueur à l'auteur et en n'en gardant aucun ressentiment.
https://www.cnrtl.fr/definition/pardonner
さいとー やく
きびしく やった ひとの こと である とは せず☆、 なんの うらみも もたないように して、みすや しっぱいや こうげきを おきなかった ことと かんがえる。

avenu:advenirの かこぶんし
en n'en tenant pas à? ☆☆

se disposer avec

3. Emploi pronom.
a) à sens réfl. Les autres, (...), se disposent sur deux rangs à la hâte (Romains, Copains,1913, p. 183).
b) à sens passif. Les meubles se disposaient d'eux-mêmes dans les pièces (Huysmans, Là-bas,t. 1, 1891, p. 183).Les cartes se disposaient en croix (Aragon, Beaux quart.,1936, p. 355):
4. Sur cette première construction, de formidables escarpements s'élèvent. Là-dessus, comme un troisième étage, se développe la région sauvage des glaciers et des avalanches. Et plus haut encore, la série des pics se dispose, d'un effet admirable par leur variété. Barrès, Le Voyage de Sparte,1906, p. 202.
Au fig. Les idées jaillissaient, se disposaient toutes seules (Malègue, Augustin,t. 2, 1933, p. 496).
https://www.cnrtl.fr/definition/dispos%C3%A9

しょうさん、かんたん、かんしん

Sentiment complexe d'étonnement, le plus souvent mêlé de plaisir exalté et d'approbation devant ce qui est estimé supérieurement beau, bon ou grand.
https://www.cnrtl.fr/definition/admiration
ぐーぐるやく
「複雑な驚きの感覚。ほとんどの場合、高揚した喜びと、見事に美しい、良い、または素晴らしいと見なされるものの承認と混ざり合っています。」

すごいと おもう という いみだろう。

せいじつさ、いつわりなく、ごまかしなく

avec une telle sincérité:
sincéritéの いみが にほんごの 「せいじつ」とは ちがう きがする。
「せいじつ」というと、 れいぎに あわせる という いみが あると おもう。 じぶんが おもった ことは しつれいな ことは いわない ことが せいじつ である こと。
sincéritéは、 じぶんが おもったことを いってしまう こと。いつわらないこと、しょうじきに ある こと。

にーちぇでは、 より いみが ある ことば みたいだ。
水野清志(みずの・きよし)「ニーチェの倫理思想 (10)」、信州大学医療技術短期大学部紀要 11(1): 1-17(1986)
http://purl.org/coar/resource_type/c_6501
http://hdl.handle.net/10091/5101

f:id:hunihunisaito:20210328070248p:plain
みずの・きよし(水野清志)「ニーチェの倫理思想(十)」、12ぺーじした

どいつごの せいじ という ことばである Wahrhaftigkeitにも、 しんじつの という いみの whar という ことばが はいっている。

にーちぇの つぁらつすとらの ぶんしょうの いんようは こんな かんじ。つぁらつすとらの だいにぶ 「有名な賢者たちについて」。理想社版、『ニーチェ全集』

f:id:hunihunisaito:20210328083627p:plain
みずの・きよし(水野清志)「ニーチェの倫理思想(十)」、8ぺーじした

こどくと せいじつさは くっついているのね。 そして、にーちぇが もとめる こどくは ここの ことなのか。

そのけっか …に なるの こうぶんが わからなかった、

On verra qu’il en résulte que tous les « nietzschéismes » sont des impostures.
かんけいだいめいしではなくて、 voirの めいしせつを みちびく queだった。

にーちぇしゅぎ

ばでぃうの この こうぎは 1992ねんに おこなわれた。
はいけいには、 この ほんが ある。

Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens
De Collectif
Grasset, 1991
Description
Une nouvelle génération de philosophes, rompant avec celle qu'avait réunie, dans les années 60, l'héritage du nietzschéisme, affirme ici ses choix et ce qu'il en coûte aujourd'hui de revendiquer le dangereux héritage nietzschéen.

Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al.
https://www.franceculture.fr/oeuvre/pourquoi-nous-ne-sommes-pas-nietzscheens

6

6.1

Mais les anti-­nietzschéismes aussi. Et c’est là qu’on trouvera l’origine de ma brusque décision d’aller voir de près, de tout près, qui était exactement ce Nietzsche dont on parlait tant. Je savais, bien sûr, qu’il était, avec le dernier Heidegger, le philosophe de référence de Foucault. Je savais qu’il était une des sources capitales de Deleuze. Je savais qu’en 1972, lors d’un colloque historique à Cerisy, le gotha philosophique du moment, Deleuze, Derrida, Klossowski, Lyotard, Nancy, l’avait sacré comme une sorte de roi posthume de la pensée contemporaine.

しかし、はん・にーちぇ・しゅぎも おなじ〔で にせもの〕 です。 そして、 そこで こそ、まさに こんなにも はなされてきた この にーちぇ なる ものを ちかく から、 とても ちかく から しらべる という ことを とつぜん きめた げんいんが あるの でしょう。もちろん、にーちぇは、 はいでがーの さいごの さくひん*1と ともに、 ふーこーが ふれていた〔さんしょうしていた〕てつがくしゃ であったと しっていました。どぅるーずの 〔かんがえに〕 じゅうような みなもとの ひとつ であると しっていました。 1972ねんには、 せるじーでの れきしてきな しんぽじうむ*2の ときに、 どぅるーず、でりだ、くろそうすきー*3、りおたーる、なんしーは、 その じだいの しそうの しんだ あとの おうさま☆ みたいな もの として しんせいし(神聖視☆)した ことも しっていました。

c’est là qu
trouvera l’origine
aller voir
de près,: ちかくから、ちゅういぶかく
tant:そんなに、 こんなに
capital :じゅうような、しゅような
postume:しんだあとの
l’origine りゆうと やくしたが、 ほんとうは、 こんげん、きげん(起源) という いみである。 げんいんと やくしなおした。

aller voir de près

aller ふていしで、 きんせつ・みらい
voirは みる だが、 しらべる という いみも ある。
voir la mort de près いのちびろいした。

de tout près,

b) [Indiquant l'idée de proximité dans une relation avec qqn ou qqc.] Surveiller qqn de près; veiller de près sur qqn. Une statue a pour objet d'imiter de tout près un homme vraiment vivant (Taine,Philos. art, t.1, 1865, p.15).Ils ont dit que le gars qui avait volé les faisans, tu devais le connaître de près (Genevoix,Raboliot, 1925, p.153).
https://www.cnrtl.fr/definition/pres

ふくしの toutは すごく、とても という いみ である。

le dernier

3. [En parlant d'un inanimé] Le plus récent, le plus proche du moment actuel.
(りゃく)
− P. ell. le dernier (de) + nom propre. La dernière œuvre de. Le dernier de Maupassant. Un livre formidable (Aymé, Mouche,1957, p. 38).
https://cnrtl.fr/definition/dernier

ふーこーは 「ハイデガーの「ヒューマニズムについて」の書簡の名宛人のジャン・ボーフレの講義には熱心に出席した。ボーフレはハイデガーの忠実な弟子でハイデガーをフランスに導入した一人である。」(大林信治(おおばやし・しんじ)「ミシェル・フーコーのカント受容―批判の一つの系譜―」、せいれき 2018ねん、名古屋学院大学論集 社会科学篇 第 55 巻 第 2 号 pp. 1―49、 6ぺーじ。)
ふーこーが はいでがーを よんでいたのは、 せいれき 1951ねん から 1952ねんが ちゅうしんである。「『ヒューマニズム』に関する書簡」は、 せいれき 1949ねんに であた。

しんだ おうさま

Un roi posthume
roi おうさま、だいいちにんしゃ、

かんけいないぶんしょうを やくしてしまった。

Un roi posthume
Et il ne se départit nullement de cette fièvre de l'histoire, car il met la dernière main à une suite presque logique. « Dans Les portes du palais d'Avignon, il y a un personnage qui est l'allié précieux pour installer Jacques Duèze sur le siège papal, il s'agit de Guccio Baglioni. Ce toscan neveu d'un banquier lombard sera au centre de ce second roman historique. Qui remettra en lumière le roi Jean 1 e (1) dit le roi Posthume et peut-être sa survivance qui prête à controverses. »
https://www.ladepeche.fr/article/2010/10/24/934456-il-a-retrouve-le-premier-pape-d-avignon.html
さいとーやく
しんだ おうさま
そして すこしも れきしの この ねっきょうを すてる ことは なかった。なぜなら ほとんど ろんりてきな いっかんせいを しあげた から だ。「あびにょんの きゅうでんの もんの なかには、 じゃっく・どぅえーずを きょうこうの せきに すえつける ために きちょうな なかまに なる じんぶつが いた。 それは じゅっしお・ばぐりおん である。ろんばるでぃあ ちほうの ぎんこうかの この とすかーな じんの おいは、 この ふたつの れきしてき しょうせつの ちゅうしんに なった。ふたたび あきからに する ことに なる のは、 じょーん おう、e (1) dit しご おう であり、 ろんそうを まねいた その ものの ふめつせい だったかも しれない。」

6.2

Mais même mon admiration pour ces grands collègues ne pouvait parvenir à me faire aller au-­delà d’une lecture des œuvres de leur héros certes suivie, mais détachée, je dirais même distraite, tant je me sentais éloigné de tout l’argumentaire de cette célébration.

しかし、 わたしは これらの いだいな どうりょう たちも すごいとは おもいますが、その ひとたちの ちゅうしんじんぶつ〔つまり、にーちぇ〕の さくひんを いちど よむ という こと よりも さきに すすませる ことに までは いたりえません でした。 たしかに、よみ つづけていましたが、 ばらばらに きりはなされて よんでいました。 ぼんやりと よんでいたと さえ いえる でしょう。それほど、 わたしは このように ほめたたえる ことの ぎろん ぜんたいとは かんけいがないと かんじていたの です。☆

aller au-­delà d
heros: えいゆう、ゆうし、いじん、しゅじんこう、しゅやく、じけんなどのちゅうしんじんぶつ
suivi:いっかんしている、すじのとおった、けいぞくしている、にんきのある、ながくつづいている
détaché: きりはなされた、ときはなされた、ちょうぜんとした、しゅうちゃくのない、ぶんりの
distrait:ぼんやりした、うわのそらの、ほうしん(放心)した
tant: (げんいんを みちびく)それほど…

éloigné de: から とおい、かんけいない、ことなった、
argumentaire:せんでんぱんふれっと、はんばいいんようの しょうひん・せつめいしょ
célébration:きょしき、しゅくが、しょうよう(称揚)、しょうさん(称賛)、きねん(記念)

détaché: きりはなされた、ときはなされた、ちょうぜんとした、しゅうちゃくのない、ぶんりの

たしか、 ばでぃうの はなしで ぶんり(分離) として、 だいじな がいねんだったと おもう。
らかんが ぶんり(分離) という ことばを、 そがい(疎外)と ならべて つかった。そがい とは、 じぶんは ほかの ものに よって つくられた という ことに きがつく こと である。 じぶんから じぶんが できた わけでは なく、 とくに おや、 さらには せいしんぶんせきに おける ははおや という、 じぶんとは ほかの もの から できた という ことに きがつく こと である。 ぶんりは、 その ほかの ものが ほしがっているのは、 じぶん では ないと しる こと である。 ほかの ものは じぶんを ほしがっている から じぶんを つくった のでは なく、 その ほかの ものの さらに ほかの ものを ほしがって じぶんを つくったと きがつく こと である。せいしんぶんせきでは、 ははが ちちを ほしがって じぶん という こどもを せわしていると きがつく こと である。 または、 ははが じぶんの せわを してくれない のは、 ははが ちちの ところに いる からだと おもう こと である。
しかし、ばでぃうでも、 らかんでも、 ぶんり という たんごは、 détachement では なかった きがする。
らかんは la séparation だと おもう。 ばでぃうは disjonctionだった。むだなはなし。
しかし、ここでは、よみ つづけていたが、 だんぞくてきだった という はなし だろう。
もしかしたら、 つづいて、 ぼんやりと よんでいた という はなしに なる から、 とくに しゅうちゃく せず よんでいた という いみ かもしれない。

tout l’argumentaireなどの tout ていかんし めいし

ぜんたい という いみ である。 たんすう なので、 ふくすうでの すべての では ない。
***tout l’argumentaire

XXe siècle. Dérivé d'argument. COMMERCE. Liste des arguments qui permettent à un vendeur de faire valoir un produit. Par ext. Liste des arguments qui viennent à l'appui d'une thèse, d'une opinion, d'un programme politique.
https://www.cnrtl.fr/definition/academie9/argumentaire
さいとう やく
20せいき。 ぎろん argument という ことば から でてきた。 しょうばい。 ある せいひんに かちが ある ように、はんばいいんが みせる ことが できる ように する せっとくしゅだんの いちらん。ひろい いみで。ある しゅちょう、いけん、せいじてきな けいかくの こんきょに なる ような ろんり/せっとくしゅだんの いちらん。

argumentaire \aʁ.ɡy.mɑ̃.tɛʁ\ masculin

1. (Spécialement) (Marketing) Ensemble d’arguments de vente.
A ceux qui investissent pour l’avenir, ils vendent le diamant éternel. Avec toujours un argumentaire taillé sur mesure. — (Yann Bouchez, Anne Michel, L’incroyable arnaque aux diamants, Le Monde. Mis en ligne le 28 février 2018)
2. (Par extension) Ensemble d'arguments tendant à une même conclusion ; argumentation.
Il y a quinze ans, elle travaillait à l’argumentaire de la Ligue des droits de l’homme lors du procès intenté au général Aussaresses. — (Anne-Sophie Mercier, En couple réglé, Le Canard Enchaîné, 30 août 2017, page 7)
Le vieil argumentaire de l’ère préinternet, par lequel les tribunaux ont confié la compétence culturelle au fédéral – en fonction des « tuyaux » de l’époque –, ne tient plus. — (Antoine Robitaille, « Culture: le Québec doit se réveiller », Le journal de Montréal, 12 novembre 2020)
Inspirée de l'étapisme de 1976, cette nouvelle mouture du péquisme se fondait sur un argumentaire selon lequel les Québécois auraient été à ce point réfractaires à l'idée d'un autre débat sur l'indépendance, et plus tard, à l'idée de l'indépendance elle-même, que cela aurait, en conjonction avec ce qu'on présentait comme une sorte d'obligation morale pour les péquistes de gouverner la province à n'importe quel prix, commandé l'abandon par le Parti québécois de tout engagement indépendantiste concret, c'est-à-dire, allant au-delà des professions de foi sans suite devant les parterres de convertis, et des concepts fumigènes destinés à déguiser, auprès des souverainistes plus volontaristes, l'attentisme indéfini en plan d'action astucieux. — (Mathieu Bock-Côté, Indépendantisme et nationalisme: le pari de la lucidité. Grand entretien avec Nic Payne», journaldemontreal.com, 8 janvier 2021)
Quels sont les points forts de l'argumentaire de cet intellectuel ?

https://fr.wiktionary.org/wiki/argumentaire
さいとう やく
argumentaire \ aʁ.ɡy.mɑ̃.tɛʁ \ だんせい・めいし。
1. (とくてい)(まーけてぃんぐ)しょうひん・せつめい/せーるす・ぽいんとの あつまり。
その ひと たちは、 みらいへの とうしを する ものに たいして、 ふめつの だいやを うりつける。いつも このみに あわせて かっと した うりもんくを つけて。(Yann Bouchez, Anne Michel, しんじられない ほどの だいあもんど さぎ、 Le Monde。せいれき 2018ねん 2がつ 18にちに おんらいんで こうかい された。)
2. (ひろい いみで)おなじ ひとつの けつろんを めざす ぎろんの しょうこの あつまり。ろんしょう。
15ねん まえ、おされす しょうぐんに たいして おこされた さいばんの ときの じんけん れんめいの ろんきょを べんきょうしていた。 -(Anne-Sophie Mercier、きせい された かっぷる、 Le Canard Enchaîné、せいれき 2017ねん 8がつ 30にち、7ぺーじ)
さいばんしょが れんぽう・せいふに ぶんかてきな かんけつけんを まかせた いんたーねっと いぜんの じだいの ふるい ろんきょは(、じだいの 「ひみつの じょうほう」に おうじていたが)、 もはや なりたたない。(Antoine Robitaille、「ぶんか:けべっくは めざめる べきだ」、る・じゃーなる・ど・もんとりおーる、せいれき 2020ねん 11がつ 12にち)
1976ねんの 〔じゅうみん・とうひょうで、 けべっくの しゅけんこく どくりつを する べきだと かんがえる〕だんかいしゅぎの えいきょうで、けべっくしゅぎの この あたらしい にばんせんじが もとづいていた ろんきょは、 けべっくじんは それ ぐらい どくりつに ついての ほかの ぎろんの かんがえに、 のちには、どくりつ そのものの かんがえに さからう さからう ことに なる かもしれない という もの だったのだ。〔いか りゃく〕 -(MathieuBock-Côté、どくりつと なしょなりずむ:あきらかな ことに かける。Nic Payne との しゅような いんたびゅー、journaldemontreal.com、せいれき 2021ねん 1がつ 8にち)
この いんてりの ろんきょの よい ところは なんですか?

ぶんせき・てつがく けいの ふらんすの がくせいようの まとめ では、 l’argumentaireは ろんしょうの あつまりと はんろんなどの ぎろんの まとまり として いみする ようだ。

Six éléments principaux distinguent une argumentation telle que demandée dans le premier cours de
philosophie :
・ Le thème
・ la question et sa problématique (ou problématisation)
・ la thèse
・ les arguments
・ les objections
・ les réponses aux objections (la réfutation ou la concession), s’il y a lieu.
L’ensemble des arguments, des objections et de leurs réponses (sans le thème, la problématique et la
thèse) s’appelle l’argumentaire.

Guide de méthodologie et de logique argumentative à l’usage des étudiants de philosophie
Collectif des enseignants de philosophie du cégep de Saint-Laurent
Département de philosophie
Édition Hiver 2018
https://www.cegepsl.qc.ca/wp-content/uploads/2018/04/guide-methodologique-philosophie-h2018.pdf

de cette célébration ほめたたえる

de cette célébrationは admiration(すごいと おもう)に にている ことば である。
しかし、ばでぃうの している こと では なく、 ばでぃうが はんたいしている にーちぇしゅぎを なのっている もの たちの しょうさん(称賛)である。
しょうさんを しょうさんする しょうさん。(翔さんを称賛する硝酸) という だじゃれが おもいついた。

B.− Action de louer, d'honorer quelqu'un ou quelque chose.
https://www.cnrtl.fr/definition/c%C3%A9l%C3%A9bration

louer
I. − Emploi trans. [Le suj. désigne une pers., un de ses attributs, un groupe de pers.] Manifester, exprimer son admiration, son estime (pour quelqu'un ou pour quelque chose); (en) faire l'éloge, (en) reconnaître ou (en) célébrer le mérite, (lui) rendre gloire.
https://www.cnrtl.fr/definition/louer

honorer
1. Procurer de l'honneur (cf. ce mot I C 1), de la dignité, de la considération; contribuer à donner un caractère honorable à quelqu'un, à quelque chose.
https://www.cnrtl.fr/definition/honorer

けっきょく、 ほめたたえる という いみだろう。

7

7.1

Mais voilà qu’en 1991, tout ce que la France compte de « philosophes » réactifs se rassemble pour déclarer la guerre à Nietzsche et à son influence.

しかし、おきたのは、1991ねんに、 ふらんすが 〔しんぽしゅぎに はんたいする うよくの〕はんどうてき 「てつがくしゃ たち」と☆ かんがえた もの ぜんいんが あつまって、 にーちぇと にーちぇの えいきょうに たいして せんせん・ふこく した という できごと でした〔Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al. ”Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens” 1991.〕。☆

voilà que:がおこる、がおこっている、する、している(できごとに ちゅういを ひく)
influence:せいりょく、けんせい、ゆうりょくしゃ、じつりょくしゃ

かぞえあげる

compter A pour Bの ように compter A de Bを かんがえた。
tout ce que la France compte de « philosophes » réactifs
La France compte ce
ふらんす という くにを ひとに みたてて しゅごに している のだろう。

Rare. Compter de :
4. Ne vous donnez nul souci de ces quatre cents francs; je les donnerai le mois prochain à Lisette, et, à notre première rencontre, nous en compterons. Balzac, Lettres à l'Étrangère,t. 2, 1850, p. 450.
https://www.cnrtl.fr/definition/compter
さいとう やく
めずらしい。 Compter de(かぞえる)
4. この 400ふらんに ついて けっして しんぱいしないでください。 りすてっとに らいげつ わたしますし、わたしたちが はじめて あったときに かぞえられます から。 ばるざっく、「いほうじんへの てがみ」、2かん、1850ねん、450ぺーじ

deは ceを せつめいするときに つかうと おもう。
いや、 それは ceを けいようしで せつめいする とき だけ だろうか?
この deは はんいの deで、 そのなかから、 という いみかも しれない。

せんせんふこく

じっさいに どのような ぶんしょうを かいたかは かくにんする ひつようが ある。

7.2

Les revanchards de Mai 68, les ennemis humiliés des vrais penseurs et activistes qui s’étaient retrouvés lors du colloque de 1972, stimulés par l’ambiance de réaction triomphante installée par les lugubres
années quatre-­vingt, font de Nietzsche le noir emblème de leur conviction.

1968ねん ごがつ*4の しかえしを したがる もの たちは、1972ねんの しんぽじうむに いた しょうしんしょうめいの しそうかと かつどうかに くっした てき でした。ひつうな 1980ねんだいに つくられた しょうり(勝利)を おさめた はんどうの ふんいきに よって しげき されて、にーちぇを じぶんたちの しんじていた ことの くろの もんしょうに しました。


revanchard/e : ほうふくてきな(ひと、くに)、ふくしゅうにもえた
humuilié: くつじょくを うけた、くつじゅうする
vrai:ほんものの、しょうしんしょうめいの(めいしの まえ)
stimuler :かっぱつにする、ぞうしんさせる、しげきする、はっぷんさせる(発奮)
une ambiance:ふんいき、かんきょう、じょうきょう
triomphant:かちほこった、かった、しょうりをおさめた、けっていてきな
lugubre:ひつうな、ちんつうな、いんうつな、(ぶん)しをおもわせる、もをあらわす、ぶきみな glas lugubre ちょうしょう(弔鐘)
faire A de B:Bを Aと みなす。 Aが ながいと うしろに いく。
emblème:しょうちょう、ひょうしょう、もんしょう、きしょう、ひょうしょう
conviction:かくしん、じしん、しんねん、しんじょう、まじめ、ねつい、しょうこ

réaction triomphante かちほこった はんのう?

2. [En parlant d'une chose] Qui a remporté un succès total et s'impose d'une manière envahissante. L'explosion de la Régence et l'irréligion triomphante du XVIIIe(Marrou, Connaiss. hist., 1954, p. 46).
https://www.cnrtl.fr/definition/triomphante
さいとー やく
2. [ものに ついて] かんぜんに かって、 いっぱいに ひろがる ように おしつけられる ような。 18せいきに しょうりした むしゅうきょうと せっしょうせいどの かくだい。(Marrou, Connaiss. hist., 1954, p. 46)

On représente que l'amour pur pour le père céleste n'a été vraiment révélé que par le christianisme, réaction triomphante de la religion du cœur contre les aridités d'un légalisme se perdant en arguties et en casuistique (Weill, Judaïsme,1931, p. 178).
https://www.cnrtl.fr/definition/l%C3%A9galiste//0
さいとー やく
てんの ちちへの じゅんすいな あいは じっさいに あきらかに されるのは、 きりすときょう だけ です。 きりすときょうは、 ごたくと へりくつに ぼっとうする かいりつしゅぎの ふもうさに たいする こころの しゅうきょうの けっていてきな はんのうです。

La période de la réaction triomphante est terminée, une nouvelle époque révolutionnaire s'ouvre en Grande-Bretagne.
https://context.reverso.net/traduction/portugais-francais/triunfante
さいとー やく
かちほこった はんどうの ときは おわり、 あたらしい かくめいてきな ときが いぎりすで はじまる。

われらが とろつきーも つかっている ことば である。

On voit, dans les époques de réaction triomphante, MM. les démocrates, sociaux-démocrates, anarchistes et autres représentants de la gauche, sécréter de la morale en quantité double, de même que les gens transpirent davantage quand ils ont peur. Répétant à leur façon les dix commandements ou le sermon sur la montagne, ces moralistes s'adressent moins à la réaction triomphante qu'aux révolutionnaires traqués, dont les "excès" et les principes "amoraux" "provoquent" la réaction et lui fournissent une justification morale. Il y aurait cependant un moyen élémentaire, mais sûr, d'éviter la réaction : l'effort intérieur, la renaissance morale.
https://www.marxists.org/francais/trotsky/livres/morale/morale1.htm
しょうりを おさめた はんどうの じだいには、 MM(かへいーかへい)が おきています。みんしゅしゅぎしゃ、しゃかい・みんしゅしゅぎしゃ、あなきすと などなどの さよくの せいじかは にばいの りょうの どうとくを にじみだす こと。 それと どうように ひとびとは もっと あくせんくとうし、 おそれている。じぶんなりの やりかたでは じゅっかいや さんじょうの せっきょうを くりかえす これらの どうとくしゅぎしゃ たちは しょうりを おさめた はんどうには ふれず、 おいつめられた かくめいに ふれる。 かくめいの 「やりすぎ」と 「ひどうとくてきな」 げんそくは はんどうを「ひきおこし」、 はんどうに せいとうかを あたえてしまうと。 しかし、 はんどうを さける だいじだが、 かくじつな ほうほうが ある らしい のです。 どりょくを せず、 どうとくを ふっかつさせる。

le noir emblème くろの もんしょう?

くろを わるい ことの いみで つかっている なら、 さべつてきに なるので、 わるい。
やめる べきだ。

Ici c'est une figure de style pour dire "l'emblème noir".
Un emblème est quelque chose qui représente une autre chose (par exemple l'emblème de la justice est une balance).
Donc ici Nietzsche sert en quelque sorte de représentant/de figure de proue pour ces revanchards. (noir sert juste à indiquer que ce n'est pas une bonne chose, qu'utiliser Nietzsche ainsi est malsain)
https://hinative.com/ja/questions/18709545

7.3

Ils publient un livre-­manifeste, Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens, accueilli avec faveur par toute la faune plumitive désireuse de se faire embaucher dans le chœur de la propagande contre-­révolutionnaire.

この もの たちは、 いっさつの せんげんしょを はっぴょうしました。『なぜ わたしたちは にーちぇ・しゅぎしゃ では ない のか』〔Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens〕〔著者 リュック・フェリー (ほか著),遠藤 文彦(えんどう・ふみひこ) (訳)「反ニーチェ なぜわれわれはニーチェ主義者ではないのか (叢書・ウニベルシタス)」https://honto.jp/netstore/pd-book_01225917.html〕という ほん です。はん・かくめいてきな ぷろぱがんだ〔せんでん〕の ぐるーぷに つれこんでもらう ことを のぞんでいる ものかきの うごうのしゅう(烏合の衆) ぜんたいが、 こうい(好意)てきに この ほんを うけいれました。

accueilli:うけいられられる
faveur :ひょうばん、にんき
la faune :(がくじゅつ)どうぶつそう(動物相)、ふぉーな(いっていの ちいき、 かんきょうの どうぶつの ぜんしゅるい)、あるばしょに たむろ する ひとたち、(ふるく) どうぶつし(動物誌)
le faune:(ろーまの かみ)牧神(ぼくしん)、ぼくようしん(牧羊神)、ふぁうぬす、ちゅうねんの ぎょしょくか(漁色家、てあたりしだい おんなを もてあそぶひと)、すきの
plumitive :さっか、かきて、ものかきの
plumitif:へぼさっか、さんぼんぶんし、(けいべつ)さいばんしょのしょき、ちょうぼがかり、かんりょう
désireuse:de inf を ほっする、のぞむ
se faire inf:される という じゅどうの いみに なる。
embaucher :やとう、つれていく、だきこむ、かんゆうする、ねがえらせる
le chœur:どういけんを もつ いちだん、いちぐん、こーらす、せいかたい、がっしょうきょく

さんりゅうさっかの

けいようしの ときは、 たんに ものかきの という いみ みたいだ。

− Empl. adj. Qui se rapporte au métier d'écrire.
https://www.cnrtl.fr/definition/plumitif

せいかたいle chœur

Au fig., fam. Personne très naïve. J'ai pensé que ... on n'était ni toi ni moi des enfants de chœur (P. Vialar, La Rose de la mer,1939, p. 106).
https://www.cnrtl.fr/definition/ch%C5%93ur[]

そぼくなひと という いみが あるが、 ばでぃうは だんたいを かんがえている きがする。

3. P. ext.
a) Groupe de personnes s'accordant sur les mêmes opinions ou propos; ayant les mêmes buts ou aspirations.
https://www.cnrtl.fr/definition/ch%C5%93ur

ぐるーぷ、 さーくる?

7.4

Qui trouve-t‑on là, entre autres : Alain Boyer (avec qui j’ai entretenu une correspondance féroce) ; André Comte-­Sponville (visé par un graffiti sur le socle de la statue d’Auguste Comte, près
de la Sorbonne, « ni Comte, ni Sponville », graffiti injuste pour Auguste Comte…) ; Luc Ferry (co-­auteur du consternant libellé La pensée 68 et piteux ministre, sous Chirac, de Raffarin, chose en effet fort peu nietzschéenne…) ; Philippe Raynaud (libéral ordinaire, avec qui je me suis expliqué en public) ; Alain Renaut (l’autre co-­auteur du libellé ci-­dessus mentionné) ; Pierre-­André Taguieff, « sociologue » doctrinaire
de l’anti-­islamisme flamboyant et distributeur automatique de l’étiquette « antisémite » à qui ne partage pas sa passion…

そこに いるのは とくに、 (わたしが きびしい かんけいを つづけていた)あらん・ぼわいえ〔Alain Boyer、 1953-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ、ぶんけんがくしゃ。〕、(そるぼんぬの ちかくの おーぎゅすと・こんと〔Auguste Comte、1798-1857。ふらんすごを つかった しゃかいがくしゃ。『実証的精神論』(1838)を かく。〕の どうぞうの だいざに 「こんと=はくしゃく でも なく、 すぽんびる でも なく」と おーぎゅすと・こんとに とっては めいわくな らくがき ですが……その かかれた れくがきで わだいに された) あんどれ・こんと・すぽんびる〔André Comte-­Sponville、 1952-。『資本主義に徳はあるか』(2006、Corinne Quentin(かんたん・こりーぬ) と 小須田 健(こすだ・けん)やく)を かいた。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。〕、(びっくりするぐらいの ぶんめん である 『68ねんの しそう』(La pensée 68)の きょうちょしゃの ひとりで、 しらく〔もと だいとうりょう〕と らふぁらん〔もと しゅしょう〕の もと での なさけない 〔こくみん・きょういく〕だいじんで、 じっさい、 まったく ほとんど にーちぇ しゅぎ では ない なんとかさん である) りゅっく・ふぇりー〔Luc Ferry、1951-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。『68年の思想』(1985)を かいた*5。〕 、 さきほど ふれた ぶんめんの もう ひとりの きょうちょしゃ である〕 あらん・るのー〔Alain Renaut、1948-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。〕、 ぴえーる・あんどれ・たぎえふ〔Pierre-­André Taguieff、1946-。じんしゅしゅぎに ついて ふらんすごで けんきゅうしている しゃかいがくしゃ。 〕、 この ものは、 もえあがる はんいすらむしゅぎの「しゃかぎがくしゃ」で、 みずからの ねっしんな かんがえかたを きょうゆうしない ものに 「はん・ゆだやしゅぎ」という らべるを じどうてきに はる*6 じどうはんばいき〔じどうはんばいきを いみする distributeur automatique は、 もじどおり とれば、 じどうてきに くばる もの という いみ である〕です…。

entretenir une correspondance avec:ぶんつうを つづける
entretenu:いじする
une correspondance:ぶんつう
féroce:どうもうな、ざんにんな、ざんこくな、れいこくな、こくせんな(酷薄)、ようしゃのない、すさまじい、おそるべき、やばんな、みかいの、そやな、さんぼうな
viser:ねらう
graffiti: らくがき
le socle :だいざ
injuste: ふせいな、ふこうへいな、ふとうな、(ふるい)いわれのない、こんきょのない、
piteux :なさけない、あわれな
consternant:いきしょうちんさせる、ひたんんいくれさせる
libellé:ぶんめん
doctrinaire:どくたんてきな
flamboyant:もえあがる、はでな
distributeur automatique :じどうはんばいき
l’étiquette :らべる
« antisémite »:はんゆだやしゅぎ、はんゆだやの
à qui:quiが ひと という せんこうし まで ふくめる ことばに なっている。
ne partage pas
sa passion:つよい せんにゅうかん

entre autres は とくに?

位階と真理 アラン・ボワイエ 著 3-34
野獣、詭弁家、唯美主義者 アンドレコント=スポンヴィル 著 35-107
フランスにおけるニーチェの気運 ヴァンサン・デコンブ 著 108-138
証明の必要があるものに大した価値はない リュック・フェリー 著 139-162
ニーチェにおける生の形而上学 ロベール・ルグロ 著 163-203
教育者ニーチェ フィリップ・レーノー 著 204-225
反動的レトリックの中のニーチェ ピエール=アンドレ・タギエフ 著 226-327
https://honto.jp/netstore/pd-worklist_0601225917.html

ふたり はぶかれた だけ。 「とくに」 では なく、 「ほかの ものも いるが」 という かんじ だろうか?

めちゃくちゃな ぶんつう

vec qui j’ai entretenu une correspondance féroce

Un roman épistolaire sur l'amour, absolument baroque, décoiffant !
L'ex-amante et la mère d'un homme, au fil d'une correspondance féroce, ourdissent un crime : tuer Geoffey, le rôtir, l'accommoder et le déguster !
Tout est dans l'écriture, faussement XVIIIème siècle, regorgeant de métaphores cruelles.
Un roman savoureux de férocité ! Amateurs de bons sentiments et végétariens s'abstenir !
https://www.meylan-bibliotheque.fr/blog/viewauteur/expressionRecherche/Quel+pain+voulons-nous+%3F+de+Marie+Astier/tri/annee+desc/clef/BONSEXEBONGENRE-HOMMEFEMMESEPERMET-ANDERSENM--IXELLESEDITIONS-2015-1/id/37411/retour_abonne/viewavis
ぐーぐるやく
愛に関する書簡体小説、絶対にバロック、息をのむような! 元恋人と男の母親は、猛烈な通信の過程で、犯罪を孵化します:ジェフィーを殺し、それをローストし、それを収容し、そしてそれを食べます! すべてが執筆中であり、誤って18世紀であり、残酷な比喩に満ちています。 凶暴性のおいしい小説! 気持ちのいい素人や菜食主義者は棄権!

L’étonnant changement d’attitude du gouvernement néo-zélandais suscita l’indignation de nombreux Juifs, et une correspondance féroce, colérique et acrimonieuse passa entre le Premier ministre et un éminent résident juif.
https://terrepromise.fr/histoire-des-juifs-en-nouvelle-zelande-19-le-parlement-et-les-juifs-russes/
ぐーぐるやく
ニュージーランド政府の驚くべき態度の変化は多くのユダヤ人の憤慨を引き起こし、首相と著名なユダヤ人居住者の間で激しい怒りと激しい対応が交わされました。

Vie en émigration
Lancer une femme et un jeune fils lors d'une évasion précipitée de Great Rus, Kurbsky a consolidé dans l'étude de diverses sciences, parmi lesquelles était l'étude du latin. En passant, il a été assez réussi dans cette formation, car un grand nombre d'œuvres théologiques ont été traduites en russe. Aussi Kurbsky a accordé une grande attention à "des cas de livre". Avoir un esprit aigu et une clarté de la pensée, Andrei Mikhailovich a pris le journalisme, entra dans une correspondance féroce avec Ivan Grozny.
https://geekapple.ru/fr/obschenie/andrei-kurbskii-v-izbrannoi-rade-knyaz-kurbskii-andrei-mihailovich/
ぐーぐるやく
移民生活グレートルスからの急いでの脱出中に妻と幼い息子を投げ、クルプスキーはラテン語の研究を含むさまざまな科学の研究に統合されました。 ちなみに、彼は多くの神​​学的作品がロシア語に翻訳されていたので、この訓練で大成功を収めました。 また、クルプスキーは「本棚」に大きな注意を払いました。 アンドレイ・ミハイロヴィッチは鋭い精神と明確な思考を持ってジャーナリズムを取り上げ、イヴァン・グロズニーと激しいやり取りをしました。

2. Relation, communication entre des personnes.
https://www.cnrtl.fr/definition/correspondance

ぱっしょん

D. − P. ext. [Sens affaibli] Très vive attirance, goût extrême, penchant très vif et persistant pour quelque chose ou quelqu'un, pour un type d'activité, un domaine de la recherche, de l'art, etc.
https://www.cnrtl.fr/definition/passion

8

Alors je me dis : « Ce n’est pas possible ! Tous ceux-­là sous la pénible sophistication du cri “mort à Nietzsche” ? Mais alors, mais alors, Nietzsche ne peut pas être entièrement mauvais ! » Et je vais voir. Et à la fin, j’admire Nietzsche, je l’aime, tout en le laissant à l’écart de ce qui constitue le mouvement propre de ma pensée. Je l’aime dans la solitude où tout le monde, sectateurs et calomniateurs, suiveurs et hurleurs, interprètes et propagandistes, l’ont toujours laissé, lui, Nietzsche, qui tout seul à Turin, juste avant de s’absenter dans ce qu’on a appelé sa « folie », était en train, doucement, tranquillement – faisant part de son intention par de vifs et obscurs billets à des correspondants incrédules – de « casser en deux l’histoire du monde ».
10-11

そのとき、 わたしは おもうの です。 「ありえない! ここに いる もの たちは ぜんいん 「にーちぇに し(死)を」*7という うったえに ついての がまんならない ぐらいの きべん(詭弁)の 〔えいきょうの〕もとに ある という のか? しかし、 それならば、 しかし、 それならば、 にーちぇは かんぜんに まちがっていた はずが ない!」。 だから、 みてみます。 そして けっきょく、 にーちぇの ことを すごいと おもいます。 すき です。 しかし、にーちぇを わたしの かんがえの ほんらいの うんどうとなる ものから はなした ままに しています。わたしが すきな にーちぇは、 すべての ものが、がくと たちが、わるぐちを いう もの たちが、 ついていく もの たちが、 わめきたてる もの たちが、かいしゃく(解釈) する もの たちが、 せんでんする もの たちが、 いつも そのもの〔にーちぇ〕を そのままに してきた、 こどくの なかに います。そのものは、 にーちぇは、 とりの〔いたりあの とし である とりのに にーちぇは ふゆの あいだに いる ことが おおかった。「くるった」と いわれる せいれき 1891ねんも にーちぇは とりのに いた。 〕に ひとりっきりで いました。 にーちぇが 「くるった」と いわれている ことで、 まわりを きにしなくなる ちょうど まえの こと です。にーちぇは そっと、 しずかに (なんにんかの しんじて くれない あいてに、 いきいきとした あいまいな みじかい てがみに よって、にーちぇ じしんの いいたかった ことを つたえて、)「せかいの れきしを ふたつに わける」 ただなかに いた のです。

se dire: おもう
ひてい peuvoir :はずがない
pénible:ほねのおれる、つらい、くしんした、つらいおもいをさせる、ふかいな、いたましい、たえがたい、がまんならない
la sophistication:せいみつか、こうどか、きどり、わざとらしい、ふしぜんさ、まぜものをすること、きべんをろうすること(そふぃすとって、 おとったものを あらわす ために つかう ことば なんだね。 こじんてきには、 はなしの うまい ちえある もの という ほめことば だと おもっていた。)
cri:さけび、さけびごえ、(はんたいなどの)うったえ、いけん、こえ、
voir:みえる、かくにんする、わかる、しらべる
tout じぇろんでぃふ:どうじ、たいひ
à l’écart de:から はなれた
constituer:となる
propre:(めいしのあと) ほんらいの、こゆうの
tout le mondeは ひと。
sectateurs:(ふるい)がくはの がくと、しゅうもんのしんと、しんぽうしゃ
calomniateurs:ちゅうしょうするひと、ひぼうするひと
suiveurs:みちで おんなの あとを おいかける おとこ(せいさべつの あらわれだなー)、ばんそうしゃ、ついじゅうしゃ、もほうしゃ
hurleurs:わめきたてるもの
interprètes:ちゅうしゃくしゃ、かいしゃくしゃ、えんそうか
propagandistes:せんでんしゃ、ふきょうか
, l’ont toujours laissé, lui, Nietzsche, qui tout seul à Turin, juste avant de s’absenter dans ce qu’on a appelé sa « folie », était en train, doucement, tranquillement – faisant part de son intention par de vifs et obscurs billets à des correspondants incrédules – de « casser en deux l’histoire du monde ».
s’absenter:るすにする
doucement:そっと、しずかに、ゆっくりと
faisant part deあ àい:いに あを しらせる
son intention:もくてき、いと、いこう、こころづもり
billet:みじかいてがみ、たんしん(短信)、すんしょ(寸書)
correspondants:ぶんつうの あいて
incrédules:よううにしんじない、うたがいぶかい、かみをしんじない、ふしんじんな

にーちぇに しを!

− Loc. interj.
♦ [Suivi gén. du nom de la/des personne(s) dont on souhaite la mort] Mort à...! à mort...! mort au(x) tyran(s) ! mort aux vaches*! À mort! À mort! Lapidez-le! Déchirez-le! À mort! (Sartre,Mouches, 1943, iii, 6, p.107):
https://www.cnrtl.fr/definition/mort

f:id:hunihunisaito:20210404092936p:plain
れびなす「ふーこー「ひとのし、 かみのし(つまり、かみに しを)」」

みやよし・やすたか(宮代康丈)「Title L'humanisme est une éthique. Penser la critique l'évinnassienne de l'antihumanisme」せいれき 2014ねん、慶應義塾大学湘南藤沢学会(https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=KO92001001-2013-001. ぴーでぃーえふ、 https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/KO92001001-2013-001-0001.pdf?file_id=104346

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784891762315
叢書言語の政治
他者のユマニスム
レヴィナス,エマニュエル〈L´evinas,Emmanuel〉【著】/小林 康夫【訳】
書肆風の薔薇(1990/04発売)

mais alors

2. Dans ce cas.
〔りゃく〕
− Ou alors, mais alors, pas même alors... :
22. jean. − ... « Comment, vous êtes française, Madame! ... Mais, alors, vous connaissez de nom Angers... et Bordeaux... » S. Guitry, Le Veilleur de nuit,1911, I, p. 6.
https://www.cnrtl.fr/definition/alors

まわりを きにしない S'absenter

II.− Au fig. Devenir inattentif à son entourage ou à soi-même (cf. absent II).
https://www.cnrtl.fr/definition/absenter

9

C’est ce Nietzsche-­là, celui des dernières années, sur lequel j’ai centré mon enquête, et qui est devenu mon ami. Celui de Ecce Homo, du Nietzsche contre Wagner, déjà sans doute du Crépuscule des idoles, des ultimes billets, signés Dionysos, ou le Crucifié, ou même Ariane… J’ai lu, relu, pensé les grands textes antérieurs, les plus connus, le poétique, sombre et allégorique Ainsi parlait Zarathoustra, le furieux Par-­delà le Bien et le Mal, la subtile et convaincante Généalogie de la morale, la primitive Origine de la Tragédie, et tous les autres, à partir de cette fin où un nommé « Nietzsche » – avec et au-dessus des nommés « Dionysos », « le Crucifié », « Ariane », « Wagner », « Zarathoustra » – devient le personnage central de Nietzsche sans guillemets, où tout s’éclaircit discrètement de ce qui fut trop bruyant, où la vie du solitaire en marche vers la folie s’ordonne à l’humble révolution totale de celui qui, bien que capable de débarrasser une fois pour toutes l’humanité du poison religieux, de la figure dégoûtante du prêtre et des effets désastreux de la culpabilité, capable d’instaurer le règne du grand « Oui » à tout ce qui devient, en arrive à avouer qu’il préfère, quand même, « être professeur à Bâle que Dieu »

この にーちぇ こそを、 ばんねんの にーちぇ こそを わたしの ちょうさ(調査)の ちゅうしんに おきました。 そして、 この にーちぇ こそが わたしの とも〔こいびと〕に なりました。『このひとを みよ』の、『わーぐなー たい にーちぇ』の、 そのまえに おそらく 『ぐうぞうの たそがれ』の、〔また〕 でぃおにゅーそす という しょめいや、あの はりつけに された もの〔なざれの いえす〕の しょめい、 さらには ありあどねす の しょめい までも いれた さいごの みじかい てがみの にーちぇ…… この おわりから、 わたしは よみ、 よみなおし、かんがえました。 まえの いだいな てきすとを。もっとも よく しられている ものを。くらく、ぐうわてきな〔あれごりーてきな、 ものがたりで いいたいことを あらわす ような〕 ぽえむ、 『つぁらとうすとぅらは かく かたりき』を。 あれくるった 『ぜんあくの ひがん』を。するどく せっとくりょくの ある『どうとくの けいふがく』を。そぼくな 『ひげきの たんじょう』を。 そして ほかの すべての さくひんを。 この おわり においては、( 「でゅおにゅーそす」、「あの はりつけに された もの」〔なざれの いえす〕、「ありあどね」、「わーぐなー」、「つぁらとうすとぅら」という なまえの ものと ともに、 そして それらの なまえの ものの うえで)「にーちぇ」 という なまえの ものが、 かぎかっこなしの にーちぇの ちゅうしん・じんぶつに なるのです。 その おわりに おいて、 さわがしすぎた ものの から、すべてが ひかえめにも あかるく なりました。こどくに いきる ことは、きょうき(狂気)へ しんこうちゅう(進行中)です。その おわりに おいて、その こどくに いきる ことが せいり(整理)れる のは、 この ものの とるにたらない かんぜんな へんかに むけて です。 このものは、 かつて、 すべての ものに たいして、 にんげんらしさを しゅうきょうてきな どく から、 そうりょという ひどい じんぶつ/すがた から、 つみの わざわいを まねく けっか〔des effets〕から ときはなつ ことが できました。うつりゆく 〔せいせいする〕もの ぜんたいに たいする、 だい 「さんせい」の てんか(天下)を つくる ことが できました。 それにも かかわらず、この おわりに おいて、こくはくする ことに なりました。それでも、「かみ よりも ばーぜるの きょうじゅ*8で あった ほうが」よかった と。

déjà:それいぜんに、まえに
sans douteは おそらく。 sans aucun douteが うたがいなく。
des ultimes :さいごの
billet:みじかいてがみ、たんしん(短信)、すんしょ(寸書)(sが ついていない のは、 まえの けいようしに sが ついている から である。あれ。 なんでないのだ? desが deに なる のとは はなしが ちがう。)
le Crucifié: Jésus-Christ.(https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/crucifi%C3%A9/20755
furieux :げきどの、いかりくるった、きょうぼうな、どうぼうな、はげしい、あらあらしい、(はなしことば)すさまじい、すごい、(ふるい、ぶんご)きょうきの、きょうらんの
subtil/e:とがった、えいりな、ささいな、えいびんな、たくみな、こうみょうな、こうかつな、びみょうな、かんちしがたい、においが きつい、どくの まわりが はやい、(ふるい)きはくな、かるい、ささいな
convaincante:せっとくりょくの ある
primitive:げんしの、げんしじだいの、しょきの、さいしょの、もとの、こんげんてき、きほんとなる、みかいの、げんしてきな、そぼくなさくふうの、むじゃくな、じゅんしんな、そやな、かんそな
au-dessus de:いじょうの、のうえに、のうえで
nommés:つうしょう、というなまえの じんぶつ(けいべつてきに もちいられる)
s’éclaircir:あきらかになる、はっきりする、あかるくなる
bruyant:そうぞうしい、さわがしい
l’humble:(めいしの まえ)とるにたらない、みすぼらしい
révolution:かくめい、かくめいせいりょく、へんかく、かくしん(革新)、へんどう、(はなしことば)そうどう・こんらん・こうふん、こうてん、かいてん、じゅんかん
totale:ぜんたいの、ぜんぶの、そうけいの、かんぜんな
de celui qui,
bien que:しゅごと こぴゅら(えーとるêtre どうし)のしょうりゃく
débarrasser あ de い: い から あを とってやる、かいほうする、ついほうする、とりのぞく、かたづける
une fois pour toutes
l’humanité:にんげんせい (「にんげん」 である ことに よい ことを わりあてる のは、 わるい だけ では なく、 まちがっている。とくに くるしめる あいてが にんげん いがいの ときには まちがっているし、 わるい)
poison:どく(poissonぽわそんは さかな。)、からだにわるいもの、ゆうがいなもの、きけんなもの、やっかいなもの
dégoûtante:ふけつな、ひどくよごれた、ひどくふゆかいな、むねのむかつくような
prêtre:そうりょ
effet:いんしょう
désastreux:ひどい、さんたんたる、さいなんの、わざわいをまねく
culpabilité:つみ (capableと かけている?)
instaurer:せつりつする、そうせつする、そうしする
le règne:くんりん、ちせい、とうち(きかん)(統治期間)、しはい、てんか、(せいぶつ)かい、おうこく(ふるい)
grand « Oui »:だいさんせい
à tout ce qui devient,
en arriver à :ついに…にたっする、するにいたる
avouer:こくはくする
quand même:それでも、やはり、ともかく
Bâle:ばーぜる(すいすの ほくせいぶの とし)

f:id:hunihunisaito:20210403144840p:plain
ばーぜる

sombre et allégorique

poison religieux

Pierre Michel、Mirbeau et la "négritude" 、26ぺーじ。

f:id:hunihunisaito:20210405164236p:plain
しゅうきょうの どく

みらぼーは 1897ねん から 1915ねんの しじん である。 ふらんすごで かいた。
まるくすの じんみんの あへんと ならべている。
poisson、さかなは きりすときょうの しょうちょうだが、 かんけいは あるのか?

la figure

「じんぶつぞう」と やくしていた。

dégoûtante

C.− Au fig. Qui provoque l'indignation; qui est contraire aux convenances.
https://www.cnrtl.fr/definition/d%C3%A9go%C3%BBtant

いきどおりを おこす もの、 てきせつに はんする もの

des effets désastreux

Conséquence destructrice.
http://www.linternaute.fr/expression/langue-francaise/10034/effet-desastreux/

le règne du grand « Oui »

てんか? しはいか? とくに みつからなかった。

tout s’éclaircit discrètement de ce qui fut trop bruyant,

Mais ça pourait se traduire par : " ça se calme doucement", "ça revient à la normale".
https://hinative.com/ja/questions/18734304

grand « Oui »:だいさんせい

10

On verra comment, gouverné par cette profonde sympathie, le commentant en détail et l’admirant sans avoir pour autant à lui concéder quoi que ce soit, j’ai pu décerner à Nietzsche, en mon seul nom, le titre suivant : prince pauvre et définitif de l’antiphilosophie.

つぎの ことを どのように やったかが これから わかる でしょう。 つまり、このように ふかく すき である ことの えいきょうに ある わたしが、 こまかく そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕に こめんとを つけながら、 そして そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕は すばららしいと おもいながら、なんでもは みとめずに、だからといって そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕に ついては そんなことも なく〔みとめて〕、 わたしの ただひとつの かただき〔なまえ〕の もの *9 として、にーちぇに あたえる ことが できた しょうごう(称号)は はん・てつがくの まずしい つねなる おうじゃ だった という ことが どうして だったか 〔わかる でしょう〕。

はんてつがくに ばでぃうは ある いみで はんたいの たちばに たっている のかな?
ふくざつな ぶんを そのまま あらわす ために、あまり わけずに やくした。
gouverné :3. [Le suj. désigne un inanimé] Avoir une influence déterminante sur quelque chose.
sympathie:こうかん、こうい、どうい、どうかん、どうじょう、れんびん、おもいやり、((ふるい)きょうめい、きごころがあうこと、しんわりょく)
le commentant:ちゅうしゃくする commenterの げんざいぶんしで ぶんしこうぶん である
pour autant à :だから といって…ない
concéder:に じょうほする
quoi que ce soit:なんでも
décerner:しょうごうを あたえる
en mon seul nom:なぜ à mon seul nom(じぶんの ゆういつの なに おいて) では ない のか? しかく だから だろうか?
prince:おうじゃ(おうじゃ という みぶんせいなる わるい ものを ぜんていに した なまえを すきな ものに あたえる ことは わるい。 ちなみに あとで ひていてきな けいようしを つけている ことからも わかる とおり、 この たんごは、 よい ことの いみで ばでぃうは つかっている つもり である。)
pauvre:めいしの あと では、 まずしい、びんぼうな、みすぼらしい、まずしさを かんじさせる、 ふじゅうぶんな、ふもうの、ないようの とぼしい(けいざいてきに ふりな じょうけんに ある もの たちを あらわす、 まずしい という ことばが、 わるい ことを あらわす ために つかわれる ことが、 さべつの あらわれ である。 はんたい する。)
définitif:けっていてきな、さいしゅうてきな、さいごの、どうしようもない

A.− [On parlant d'une pers. ou d'un inanimé] Qui est fixé une fois pour toutes, qui ne change pas. Synon. déterminé, irrévocable, durable; anton. provisoire.Rien de durable, de définitif, rien « d'absolu » (Gide, Journal,1929, p. 947):
https://www.cnrtl.fr/definition/definitif

le prince et le pauvre

かんけいない。
おうじと こじき という ものがたりの だいめい。

『王子と乞食』(おうじとこじき、The Prince and The Pauper)は、アメリカの作家マーク・トウェイン1881年に発表した児童文学作品である。16世紀のイングランドを舞台に、実在の若き国王エドワード6世を主人公とした冒険譚で、トウェインはこの作品を通して、子どもの視点で16世紀のイングランドの世情を痛烈に皮肉った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AD%90%E3%81%A8%E4%B9%9E%E9%A3%9F

まとめ


それでは、 この こうぎに おいて、 にーちぇの これらの このときの わるい やりかたを わたしは ゆるします。 それは、 わたしの かんがえの なかに にーちぇを いれる という こと では ありません。そのままでは。 いれません。まさに この ものを、〔つまり〕 にーちぇを、 わたしは こじんてきには、 すごいと おもっている ことが わかる ことに なる でしょう。 このもの〔にーちぇ〕☆ こそが、そのように ごまかしなく〔せいじつさを もって〕、 じぶんの さくひんの ちゅうしんに ならべられました☆。ですから、 「にーちぇ・しゅぎ」〔Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al. ”Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens” 1991.〕は すべて にせもの である という ことに なるのだ という ことが わかる ことに なる でしょう。

しかし、はん・にーちぇ・しゅぎも おなじ〔で にせもの〕 です。 そして、 そこで こそ、まさに こんなにも はなされてきた この にーちぇ なる ものを ちかく から、 とても ちかく から しらべる という ことを とつぜん きめた げんいんが あるの でしょう。もちろん、にーちぇは、 はいでがーの さいごの さくひん*10と ともに、 ふーこーが ふれていた〔さんしょうしていた〕てつがくしゃ であったと しっていました。どぅるーずの 〔かんがえに〕 じゅうような みなもとの ひとつ であると しっていました。 1972ねんには、 せるじーでの れきしてきな しんぽじうむ*11の ときに、 どぅるーず、でりだ、くろそうすきー*12、りおたーる、なんしーは、 その じだいの しそうの しんだ あとの おうさま☆ みたいな もの として しんせいし(神聖視☆)した ことも しっていました。
しかし、 わたしは これらの いだいな どうりょう たちも すごいとは おもいますが、その ひとたちの ちゅうしんじんぶつ〔つまり、にーちぇ〕の さくひんを いちど よむ という こと よりも さきに すすませる ことに までは いたりえません でした。 たしかに、よみ つづけていましたが、 ばらばらに きりはなされて よんでいました。 ぼんやりと よんでいたと さえ いえる でしょう。それほど、 わたしは このように ほめたたえる ことの ぎろん ぜんたいとは かんけいがないと かんじていたの です。☆
しかし、おきたのは、1991ねんに、 ふらんすが 〔しんぽしゅぎに はんたいする うよくの〕はんどうてき 「てつがくしゃ たち」と☆ かんがえた もの ぜんいんが あつまって、 にーちぇと にーちぇの えいきょうに たいして せんせん・ふこく した という できごと でした〔Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al. ”Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens” 1991.〕。☆
1968ねん ごがつ*13の しかえしを したがる もの たちは、1972ねんの しんぽじうむに いた しょうしんしょうめいの しそうかと かつどうかに くっした てき でした。ひつうな 1980ねんだいに つくられた しょうり(勝利)を おさめた はんどうの ふんいきに よって しげき されて、にーちぇを じぶんたちの しんじていた ことの くろの もんしょうに しました。
この もの たちは、 いっさつの せんげんしょを はっぴょうしました。『なぜ わたしたちは にーちぇ・しゅぎしゃ では ない のか』〔Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens〕〔著者 リュック・フェリー (ほか著),遠藤 文彦(えんどう・ふみひこ) (訳)「反ニーチェ なぜわれわれはニーチェ主義者ではないのか (叢書・ウニベルシタス)」https://honto.jp/netstore/pd-book_01225917.html〕という ほん です。はん・かくめいてきな ぷろぱがんだ〔せんでん〕の ぐるーぷに つれこんでもらう ことを のぞんでいる ものかきの うごうのしゅう(烏合の衆) ぜんたいが、 こうい(好意)てきに この ほんを うけいれました。
そこに いるのは とくに、 (わたしが きびしい かんけいを つづけていた)あらん・ぼわいえ〔Alain Boyer、 1953-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ、ぶんけんがくしゃ。〕、(そるぼんぬの ちかくの おーぎゅすと・こんと〔Auguste Comte、1798-1857。ふらんすごを つかった しゃかいがくしゃ。『実証的精神論』(1838)を かく。〕の どうぞうの だいざに 「こんと=はくしゃく でも なく、 すぽんびる でも なく」と おーぎゅすと・こんとに とっては めいわくな らくがき ですが……その かかれた れくがきで わだいに された) あんどれ・こんと・すぽんびる〔André Comte-­Sponville、 1952-。『資本主義に徳はあるか』(2006、Corinne Quentin(かんたん・こりーぬ) と 小須田 健(こすだ・けん)やく)を かいた。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。〕、(びっくりするぐらいの ぶんめん である 『68ねんの しそう』(La pensée 68)の きょうちょしゃの ひとりで、 しらく〔もと だいとうりょう〕と らふぁらん〔もと しゅしょう〕の もと での なさけない 〔こくみん・きょういく〕だいじんで、 じっさい、 まったく ほとんど にーちぇ しゅぎ では ない なんとかさん である) りゅっく・ふぇりー〔Luc Ferry、1951-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。『68年の思想』(1985)を かいた*14。〕 、 さきほど ふれた ぶんめんの もう ひとりの きょうちょしゃ である〕 あらん・るのー〔Alain Renaut、1948-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。〕、 ぴえーる・あんどれ・たぎえふ〔Pierre-­André Taguieff、1946-。じんしゅしゅぎに ついて ふらんすごで けんきゅうしている しゃかいがくしゃ。 〕、 この ものは、 もえあがる はんいすらむしゅぎの「しゃかぎがくしゃ」で、 みずからの ねっしんな かんがえかたを きょうゆうしない ものに 「はん・ゆだやしゅぎ」という らべるを じどうてきに はる*15 じどうはんばいき〔じどうはんばいきを いみする distributeur automatique は、 もじどおり とれば、 じどうてきに くばる もの という いみ である〕です…。

そのとき、 わたしは おもうの です。 「ありえない! ここに いる もの たちは ぜんいん 「にーちぇに し(死)を」*16という うったえに ついての がまんならない ぐらいの きべん(詭弁)の 〔えいきょうの〕もとに ある という のか? しかし、 それならば、 しかし、 それならば、 にーちぇは かんぜんに まちがっていた はずが ない!」。 だから、 みてみます。 そして けっきょく、 にーちぇの ことを すごいと おもいます。 すき です。 しかし、にーちぇを わたしの かんがえの ほんらいの うんどうとなる ものから はなした ままに しています。わたしが すきな にーちぇは、 すべての ものが、がくと たちが、わるぐちを いう もの たちが、 ついていく もの たちが、 わめきたてる もの たちが、かいしゃく(解釈) する もの たちが、 せんでんする もの たちが、 いつも そのもの〔にーちぇ〕を そのままに してきた、 こどくの なかに います。そのものは、 にーちぇは、 とりの〔いたりあの とし である とりのに にーちぇは ふゆの あいだに いる ことが おおかった。「くるった」と いわれる せいれき 1891ねんも にーちぇは とりのに いた。 〕に ひとりっきりで いました。 にーちぇが 「くるった」と いわれている ことで、 まわりを きにしなくなる ちょうど まえの こと です。にーちぇは そっと、 しずかに (なんにんかの しんじて くれない あいてに、 いきいきとした あいまいな みじかい てがみに よって、にーちぇ じしんの いいたかった ことを つたえて、)「せかいの れきしを ふたつに わける」 ただなかに いた のです。
この にーちぇ こそを、 ばんねんの にーちぇ こそを わたしの ちょうさ(調査)の ちゅうしんに おきました。 そして、 この にーちぇ こそが わたしの とも〔こいびと〕に なりました。『このひとを みよ』の、『わーぐなー たい にーちぇ』の、 そのまえに おそらく 『ぐうぞうの たそがれ』の、〔また〕 でぃおにゅーそす という しょめいや、あの はりつけに された もの〔なざれの いえす〕の しょめい、 さらには ありあどねす の しょめい までも いれた さいごの みじかい てがみの にーちぇ…… この おわりから、 わたしは よみ、 よみなおし、かんがえました。 まえの いだいな てきすとを。もっとも よく しられている ものを。くらく、ぐうわてきな〔あれごりーてきな、 ものがたりで いいたいことを あらわす ような〕 ぽえむ、 『つぁらとうすとぅらは かく かたりき』を。 あれくるった 『ぜんあくの ひがん』を。するどく せっとくりょくの ある『どうとくの けいふがく』を。そぼくな 『ひげきの たんじょう』を。 そして ほかの すべての さくひんを。 この おわり においては、( 「でゅおにゅーそす」、「あの はりつけに された もの」〔なざれの いえす〕、「ありあどね」、「わーぐなー」、「つぁらとうすとぅら」という なまえの ものと ともに、 そして それらの なまえの ものの うえで)「にーちぇ」 という なまえの ものが、 かぎかっこなしの にーちぇの ちゅうしん・じんぶつに なるのです。 その おわりに おいて、 さわがしすぎた ものの から、すべてが ひかえめにも あかるく なりました。こどくに いきる ことは、きょうき(狂気)へ しんこうちゅう(進行中)です。その おわりに おいて、その こどくに いきる ことが せいり(整理)れる のは、 この ものの とるにたらない かんぜんな へんかに むけて です。 このものは、 かつて、 すべての ものに たいして、 にんげんらしさを しゅうきょうてきな どく から、 そうりょという ひどい じんぶつ/すがた から、 つみの わざわいを まねく けっか〔des effets〕から ときはなつ ことが できました。うつりゆく 〔せいせいする〕もの ぜんたいに たいする、 だい 「さんせい」の てんか(天下)を つくる ことが できました。 それにも かかわらず、この おわりに おいて、こくはくする ことに なりました。それでも、「かみ よりも ばーぜるの きょうじゅ*17で あった ほうが」よかった と。
つぎの ことを どのように やったかが これから わかる でしょう。 つまり、このように ふかく すき である ことの えいきょうに ある わたしが、 こまかく そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕に こめんとを つけながら、 そして そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕は すばららしいと おもいながら、なんでもは みとめずに、だからといって そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕に ついては そんなことも なく〔みとめて〕、 わたしの ただひとつの かただき〔なまえ〕の もの *18 として、にーちぇに あたえる ことが できた しょうごう(称号)は はん・てつがくの まずしい つねなる おうじゃ だった という ことが どうして だったか 〔わかる でしょう〕。

さいとう
かくめいれき 229ねん 7がつ 18にち
Décade II Octidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 7にち

*1:はいでがー(1949)『『ヒューマニズム』に関する書簡』と おもわれる。

*2:Maurice de Gandillac(もーりす・ど・がんでぃらっく)と Bernard Pautrat(べるなーる・ぽーとら)に よって、 せるじー・ら・さる・こくさい・ぶんか・せんたー(le Centre culturel international de Cerisy-La-Salle)で、 1972ねんの 7がつ 10にちと 20にちに おこなわれた 「こんにちの にーちぇ?」。 Nietzsche aujourd’hui ?. Colloque dirigé par Maurice de Gandillac et Bernard Pautrat, du 10 au 20 juillet (Publié en deux tomes sous les titres "Nietzsche aujourd’hui ? Tome I : Intensités" et "Nietzsche aujourd’hui ? Tome II : Passions" par Union Générale d'Éditions (10/18), 1973, réédition en 2011 par Hermann Éditeurs).(http://www.ccic-cerisy.asso.fr/colloques3.html#1971)。ないように ついては、http://www.ccic-cerisy.asso.fr/nietzsche1TM73.htmlを さんしょうした。 ちなみに、 ばでぃうが あげた ひとびとの はっぴょうの だいめいを いんようする。”Pensée nomade, par Gilles DELEUZE”(じる・どぅるーず「ゆうぼくみんてき(のまどてき) かんがえ」)、 ”VII. La question du style, par Jacques DERRIDA”(じゃっく・でりだ「7 ぶんたいの もんだい」)、”III. Circulus Vitiosus, par Pierre KLOSSOWSKI”(ぴえーる・くろそうすきー 「3 あくじゅんかん」)、”V. Notes sur le retour et le kapital, par Jean-François LYOTARD”(じゃん・ふらんそわ・りおたーる 「5 かえる ことと しほんに ついての おぼえがき」) ”II. La thèse de Nietzsche sur la téléologie, par Jean-Luc NANCY”(じゃん・りゅっく・なんしー「2 しんがくに ついての にーちぇの せつ」)。

*3:ぴえーる・くろそうすきー、Pierre Klossowski、 せいれき 1905ねん から 2001ねん。しょうせつか、しそうか である。『ロベルトは今夜』(1953)という ふらんすごの しょうせつを かいた。

*4:ごがつ・かくめい。せいれき 1968ねんの 5がつ〔かくめいれき 176ねん 6がつ Ventôse an CLXXVI〕に ふらんすの ぱりで すべての しごとを いちじてきに とめる ぜねらる・すとらいきが おこなわれた。がくせいも おおく うんどうに さんかして、せいれき 1968ねんは こくさいてきに さまざまな ちいきで せいじ・うんどうが おこなわれた。ばでぃうも せっきょくてきに かつどうした。

*5:もうひとつ、 『エコロジーの新秩序』という ほんを かいていて、 よんだ ことが あるが、 よむ かちが ない ほん である。じょうほう としては つかえる かも しれない。

*6:じぶんが きにいらないものに れってる ばりを している という、 このような ばでぃうの かたりかたは、 ばでぃう じたいが さべつを ちゃんと みぬけておらず、 さべつに はんたい できていない かのうせいが かんがえられる。もちろん、 じっさいに この 「たぎえふ」が ただしい ことや さべつてき では ない ことを まちがえて さべつ であると いっている かのうせいも ある。 しかし、 この「ぴえーる・あんどれ・たぎえふ」も ふらんすの きょくうに さんせいしている よう なので、 わるい かもしれない。しかし、えいご うぃきぺでぃあ には、はん・じんしゅしゅぎしゃを じんしゅしゅぎしゃと いっている という はなしも ある。

*7:「にーちぇに し(死)を」という ことばは、「かみは しんだ」という ことばを おもいださせる。 にーちぇは 「かみは しんだ」と いって まわる ものの たとえを このんで つかった。 たとえば、 『よころばしき ちしき』『つぁらつぅすとらは かく かたりき』など。

*8:にーちぇは せいれき 1869ねん から 1879ねん まで すいすの ばーぜる だいがくの こてんぶんけんがくの きょうじゅ であった。 せいれき 1886ねん ごろには、 じぶんは かみ であると てがみに かいていた。

*9:ばでぃうは にーちぇが ふくすうの なまえで しょめいしていた ことを おちょくっている。

*10:はいでがー(1949)『『ヒューマニズム』に関する書簡』と おもわれる。

*11:Maurice de Gandillac(もーりす・ど・がんでぃらっく)と Bernard Pautrat(べるなーる・ぽーとら)に よって、 せるじー・ら・さる・こくさい・ぶんか・せんたー(le Centre culturel international de Cerisy-La-Salle)で、 1972ねんの 7がつ 10にちと 20にちに おこなわれた 「こんにちの にーちぇ?」。 Nietzsche aujourd’hui ?. Colloque dirigé par Maurice de Gandillac et Bernard Pautrat, du 10 au 20 juillet (Publié en deux tomes sous les titres "Nietzsche aujourd’hui ? Tome I : Intensités" et "Nietzsche aujourd’hui ? Tome II : Passions" par Union Générale d'Éditions (10/18), 1973, réédition en 2011 par Hermann Éditeurs).(http://www.ccic-cerisy.asso.fr/colloques3.html#1971)。ないように ついては、http://www.ccic-cerisy.asso.fr/nietzsche1TM73.htmlを さんしょうした。 ちなみに、 ばでぃうが あげた ひとびとの はっぴょうの だいめいを いんようする。”Pensée nomade, par Gilles DELEUZE”(じる・どぅるーず「ゆうぼくみんてき(のまどてき) かんがえ」)、 ”VII. La question du style, par Jacques DERRIDA”(じゃっく・でりだ「7 ぶんたいの もんだい」)、”III. Circulus Vitiosus, par Pierre KLOSSOWSKI”(ぴえーる・くろそうすきー 「3 あくじゅんかん」)、”V. Notes sur le retour et le kapital, par Jean-François LYOTARD”(じゃん・ふらんそわ・りおたーる 「5 かえる ことと しほんに ついての おぼえがき」) ”II. La thèse de Nietzsche sur la téléologie, par Jean-Luc NANCY”(じゃん・りゅっく・なんしー「2 しんがくに ついての にーちぇの せつ」)。

*12:ぴえーる・くろそうすきー、Pierre Klossowski、 せいれき 1905ねん から 2001ねん。しょうせつか、しそうか である。『ロベルトは今夜』(1953)という ふらんすごの しょうせつを かいた。

*13:ごがつ・かくめい。せいれき 1968ねんの 5がつ〔かくめいれき 176ねん 6がつ Ventôse an CLXXVI〕に ふらんすの ぱりで すべての しごとを いちじてきに とめる ぜねらる・すとらいきが おこなわれた。がくせいも おおく うんどうに さんかして、せいれき 1968ねんは こくさいてきに さまざまな ちいきで せいじ・うんどうが おこなわれた。ばでぃうも せっきょくてきに かつどうした。

*14:もうひとつ、 『エコロジーの新秩序』という ほんを かいていて、 よんだ ことが あるが、 よむ かちが ない ほん である。じょうほう としては つかえる かも しれない。

*15:じぶんが きにいらないものに れってる ばりを している という、 このような ばでぃうの かたりかたは、 ばでぃう じたいが さべつを ちゃんと みぬけておらず、 さべつに はんたい できていない かのうせいが かんがえられる。もちろん、 じっさいに この 「たぎえふ」が ただしい ことや さべつてき では ない ことを まちがえて さべつ であると いっている かのうせいも ある。 しかし、 この「ぴえーる・あんどれ・たぎえふ」も ふらんすの きょくうに さんせいしている よう なので、 わるい かもしれない。しかし、えいご うぃきぺでぃあ には、はん・じんしゅしゅぎしゃを じんしゅしゅぎしゃと いっている という はなしも ある。

*16:「にーちぇに し(死)を」という ことばは、「かみは しんだ」という ことばを おもいださせる。 にーちぇは 「かみは しんだ」と いって まわる ものの たとえを このんで つかった。 たとえば、 『よころばしき ちしき』『つぁらつぅすとらは かく かたりき』など。

*17:にーちぇは せいれき 1869ねん から 1879ねん まで すいすの ばーぜる だいがくの こてんぶんけんがくの きょうじゅ であった。 せいれき 1886ねん ごろには、 じぶんは かみ であると てがみに かいていた。

*18:ばでぃうは にーちぇが ふくすうの なまえで しょめいしていた ことを おちょくっている。