さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

しょうめいろんてきいみろんにゅうもんを みた。

おおにし・たくろう(大西琢朗)さんの しょうめいろんてき・いみろん・にゅうもん という こうぎを みました。
いかの ぶんしょうは、 にはつ がき です。
つまり、 ぶんしょうを きれいに よみやすく していません。
まちがっていたら、 おしえてくれると たすかります。


こんな ぶんしょうを よむ のでは なく、 こうぎを みて きく ことを おすすめ します。
CAPE公開セミナー「論理学上級II:証明論的意味論入門」
https://sites.google.com/site/onishitakuro/teaching/advanced-logic2020
こうぎの きろくの りすと。 ゆーちゅーぶ。
https://youtube.com/playlist?list=PL54C_zUEsyCZz-E0t1n6snBLr9ewr6cK3

おとが きこえない とか、みえない という かたは、 こうぎを ぜんぶ みて、 きく ことは むずかしい です。
ざんねん ながら こうぎは おんせい・にほんごと、 かんじ・かな・まじり・すみじと、 ろんりがくの きごうだけで つくられています。
しかし、つかっている ぱわーぽいんとは くばられています ので、 よみあげに たいおうしています。
ただし、 おおにし さんが じゅぎょうちゅうに てがきで かいた ものは、 すべては よみあげ されていません。
じまくは ありませんし、 しゅわ・つうやくも ありません。
おんせいにんしきが すすんで、 じまくが つく ように なると いいですね。
つうやくも すべての ことばに たいおう する ように なると いいですね。
げんじつてきに さいゆうせん する べきは、 きいて まなぶ ことが ふかのうな もの たちの ための ほんやくだと おもっています。
もちろん、すべての ものが じょうほうを しる ことが できる ように なる べき です。

かんそう

それでは、 しょうめいろんてき・いみろん・にゅうもんの かんそうを かきます。
しろうと なので、 まちがいが たくさん あると おもいます。 しんじないで ください。
まず、しょうめいろんてき・いみろんとは なんでしょうか?

すうがくや ろんりがくの はなし です。
すうがく というのは、 かずを もんだいに する ちしきの ありかた です。
ろんりがく というのは、 ろんりを もんだいに する ちしきの ありかた です。

ただしい ろんりは、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と いう ことが できる ような もの です。
たとえば、 「ここに みかんが ある なら、 ここには くだものが ある と いえる」 という ことばは ただしい ろんりに あっています。
なぜなら、みかんは くだもの だから です。
おなじ ものを べつの ことばで あらわす とき、 ある ことばで あらわした ものが ある ならば、おなじ ものを あらわす べつの ことばで あらわす ものも あると いえる から です。
つまり、みかん という ある ことばで あらわした この みかんが、 くだもの という べつの ことばで この みかんを あらわしたら、 なくなる という ことは、 おおくの ものが「それは そのとおりだ」とは いえない ので、 ただしい ろんりに あっては いないの です。
けっかとして、 「ここに みかんが ある なら、 ここには くだものが ある と いえる」 という ことばは、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と いう ことが できる ので、 ただしい ろんりに あっています。

このように、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と かんがえる ような ことばを つなげていく ほうほう、 つまり ただしい ろんりに ついて かんがえるのが、 ろんりがく です。
では、 ただしい ろんり という ときの、 ただしい という のは、 どういうこと なの でしょうか?
ふたつの かんがえかたが あります。
ひとつは、 げんじつと おなじ なら ただしい という かんがえかた です。
もうひとつは、 それは そのとおりだ という ものを くみあわせたら ただしい という かんがえかた です。
それは そのとおりだ という ものを くみあわせたら ただしい という かんがえかたが、 しょうめいろんてき・いみろんの 「しょうめいろんてき」 という ことばで あらわされています。
しょうめい(証明)とは、 あかりの いみの しょうめい(照明) では ありません。
しょうめい(証明)とは、 ほんとうの という いみの しょうしんしょうめい という ことばの 「しょうめい(正銘)」では ありません。
ここで いう しょうめい(証明) という のは、 「それは そのとおりだ」と おおくの ものが おもえる ことに わける こと です。
「それは そのとおりだ」と おもえる じょうほうが、 「それは そのとおりだ」と おもえる くみたてかたかたで くみたてられている という ことを はっきり させる ことが しょうめい(証明)です。
たとえば、 だれかが しんだ ばあいに それが じぶんで しんだのだ、 つまり じし(自死)だったのだと しょうめい(証明)する ばあいを かんがえてみましょう。
まず、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」 という しょうこを あきらかに します。
たとえば、 ぼうはんかめらに その ひとが じぶんの からだを はもので さしていた えいぞうと おんせいが のこっていると しましょう。
この ぼうはんかめらの えいぞうを みて、 おんせいを きけば、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と おもう でしょう。
しょうめいが できました。ただし、 ろんりがくの しょうめいは もっと げんみつな はなしを しますが、 ここでは そのくらいの いみで かんがえましょう。
この しょうめいで つかっているのは、 じょうほうと ただしい ろんり です。
じょうほう とは、 かめらの おんせいと えいぞう です。
そして、 かめらが とった おんせいと えいぞうは げんじつに おこった ものを あらわしている という ただしい ろんりも つかわれている のです。
かめらが あらわすのは、 げんじつの もの である という ただしい ろんりが ないと、 「これは かめらに そう うつっている だけで、 げんじつに そうだ とは いえない」と はんろん されてしまいます。
かめら ですと、 かめらが あらわしたのは げんじつの もの である という のは、「それは そのとおりだ」と おおくの ものが おもう でしょう。
しかし、 うらない なら どうでしょうか? うらないが あらわしたものが げんじつの もの である という のは、 「それは そのとおりだ」と おおくの ものが おもう でしょうか?
じぶんは、 すくなくとも じぶんの しっている ものの おおくが 「それは そのとおりだ」とは おもいません。
ただし、ここは びみょうです。
ほんとうは、 「おおくの ものが」 では なく、 「じぶんと おなじ ような ただしいのは なにかが わかる ような もの なら みんな」を もんだいに する ひつようが あります。
そして、 じぶんが ただしい ものが ちゃんと わかっているのか という もんだいも あります。
とりあえず、 そこらへんは ちゃんと かんがえないで おきましょう。

うらない というのも ぐたいれい として びみょう です。 「それは そのとおりだ」と おもう ものも いる から です。
さらに、 うらないを 「それは そのとおりだ」と おもう ちいきや じだいも あります。
しかし、 ここでは、 にほんごけんの かくめいれき 229ねん あたり(せいれき 2021ねん あたり)で にほんごを つかっている ものに かぎりましょう。
そして、もし うらないは 「それは そのとおりだ」と おもう かたは、 「それは そのとおり」だとは おもえない ものが、 げんじつを あらわしていると いわれた ばあいを かんがえてみて ください。
ともかく、 しょうめい(証明)とは、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と おもえる くみあわせで、 げんじつの じょうほうを くみあわせる ことで、 ある ことは ただしいと あきらかに する こと です。

そして、ろんりがくで いみろん とは、 ただしいか ただしくないかを もんだいに する ようです。
いみろんの はんたいが とうじろん、しんたっくすと いい、 しては いけない くみあわせかたを していないか どうかが もんだいに なります。

しょうめいろんてき・いみろんと いっている ばあいは、 それが げんじつと あっているか どうかは ともかく、 「それは そのとおりだ」と おおくの もの(ほんとうは かっこつきの 「みんな」)が おもえる くみあわせで くみあわせている ばあいが ただしい のだと いいます。
もちろん、げんじつに ついての じょうほうが げんじつと あっているの であれば、 しょうめいろんてきに ただしい ことは、 げんじつと あっている はず です。
げんじつに ただしくない くみあわせが できる とは おおくの ものは おもわない から です。
その ような ただしくない くみあわせで できている ものは げんじつとは いわれない のです。
げんじつは ただしい ものだという ぜんていは、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と おもっている からです。
ここでも もんだいは あります。
げんじつ というのは、 ただしい ものと いって いいのか? げんじつ というのは、 ただしい という いがいの いみの えいきょうも うけている のでは ないか? などなど。
これらの もんだいは とりあえず おいておきます。
なぜなら、 その げんじつ とは なにか? ただしい とは なにか?を もんだいに するのが、 しょうめいろんてき・いみろんの やくめ でも あった から です。

さて、 しょうめいろんてき・いみろんを かんがえた ものの だいひょうは、まいける・だめっと(Sir Michael Anthony Eardley Dummett) です。
まいける・だめっとは、 だめっと という みょうじ なので、 だめっとと よびます。
だめっとは、 かくめいれき 133ねん (せいれき 1925ねん、 Décade I Octidi, Messidor an CXXXIII) から、 かくめいれき 220ねん(せいれき 2011ねん、Décade I Septidi, Nivôse an CCXX*)まで いきました。
だめっとは、 えいごで ほんを かきました。

おおにしさんは、 だめっとの つぎの ほんを もとに はなしていました。
M. ダメット『真理という謎』、藤田晋吾訳、勁草書房、1986年.
M. Dummett, The Logical Basis of Metaphysics, Harvard University Press, 1991.

じぶんは よんでいません。

だめっとは、 ちょっかんしゅぎ(直観主義) という たちばを とっています。
ちょっかんしゅぎ とは、 なにかが あると ただしく いえるのは、 それが あると しょうめい できた ときだ という かんがえかた です。
なにかが ない ことは ありえないと ただしく いった だけ では、 それが ある ことが ただしいとは いえないと かんがえます。
きほん としては、どのように あるか わからないのに、 ある なんて ただしい とは いえない という はっそう(発想)が あります。
ない ことが ありえない なら、 あると かんがえるのは、 こてん・ろんり(古典論理)という たちばに なります。

この ちょっかんしゅぎの たちばの ろんり である、 ちょっかんしゅぎ・ろんりを つかって、 だめっとは しょうめいろんてき・いみろんの はなしを します。
ちょっかんしゅぎ・ろんりでは、 あわせて 9この きそくで せつめい できます。
ここで あつかう ろんりには、 どうにゅうそく(導入則)と じょきょそく(除去則)が あります。
どうにゅうそく とは、 じょうほうを くみあわせる ことで、 くみあわさった ぶん(文)を みちびきだす、 つまり どうにゅうする、 きそく(規則)です。
じょきょそく とは、 くみあわさった ぶん(文)から、 いちぶぶんを みちびきだして、 くみあわさった ぶんを けして、つまり じょきょ する きそく(規則) です。
(ぶん(文)という ことばを いいかえたかったの ですが、 いいかえる ことばが おもいつきません でした。)
ぐたいれいを かんがえましょう。
たとえば、つぎの よっつの ぶんを かんがえてみます。
1. 「ほんが あおい」
2. 「もじが くろい」
3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」
4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」

この ばあいに、 つぎのような きそくが なりたちます。
1. 「 ほんが あおい」が ただしくて、2. 「もじが くろい」も ただしい ばあいは、 3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」を ただしく みちびきだす ことが できます。
3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」という くみあわさった ぶんを みちびきだしたので、 どうにゅうそくの ひとつ です。(かつの どうにゅうそく。)

3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」が ただしい ばあいは、1. 「ほんが あおい」を ただしく みちびきだす ことが できます。
3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」という くみあわさった ぶんを けした ので、 じょきょそくの ひとつ です。(かつの じょきょそく。)

1. 「 ほんが あおい」が ただしい という ぜんてい では、2. 「もじが くろい」が ただしい ばあいは、 4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」を ただしく みちびきだす ことが できます。
4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」という くみあわさった ぶんを みちびきだしたので、 どうにゅうそくの ひとつ です。(ならばの どうにゅうそく。)

4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」が ただしくて、 1. 「ほんが あおい」が ただしい ばあいは、2. 「もじが くろい」を ただしく みちびきだす ことが できます。
4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」という くみあわさった ぶんを けした ので、 じょきょそくの ひとつ です。(ならばの じょきょそく。)

この よっつは、 かつの どうにゅうそくと、 かつの じょきょそくと、 ならばの どうにゅうそくと、 ならばの じょきょそく という もの です。
ほかにも またはの どうにゅうそく、 またはの じょきょそくと、ばくはつそく(むじゅんの じょきょそく)が ありますが、 せつめい しません。
むじゅんの じょきょそくは 、 むじゅん からは なんでも いえる という きそく です。
つまり、 「ほんが あおく、 あおくない」 ばあいは、 なんでも ただしく いえます。
そして、むじゅんの どうにゅうそくは なく、 むじゅんを みちびく ことは しません。
かくにんしたい かたは、 https://youtu.be/L-QTeRV2NAg?t=2159から みてください。

この ような ろんり では、 せいきか(正規化) という さぎょうが できます。
この せいきかの せつめいは かけません でした。
もういちど みなおして、 いつか かける ように なりたい です。


おどろきの もんだいと かくじつに そう である ことの もんだい。

ここ からは、 べつの ひに かきはじめた。
かくめいれき 229ねん 7がつ 21にちだ。
Décade III Primidi, Germinal an CCXXIX だ。
せいれき 2021ねん 4がつ 10にちだ。

おおにしさんは、 さまざまな かんがえの ことば から、 すでに しっている ことを ただしく くみあわせている だけ なのに、 その はなしの けっかに おどろくのは なぜか? という もんだいを とりだしてくる。

おどろく とは いかなる こと であろうか?
まず、 おどろく ことは かんじょうや きもちに かかわる こと であると いえる。
おどろく ことは かんじょう であると いう ものも いれば、
おどろく ことは かんじょう では ないと いう ものも いる。
たとえば、 すぴのざ という ものは、『えちか』 という ほんの なかで(はたなか(畠中)やく、じょう(上)、289ぺーじ)。 かんじょうを、 よろこびと かなしみと よくぼうで せつめい できる ものだと かんがえている。
だから、 すぴのざは、 おどろき(驚異(きょうい)、らてんごで Admiration)は かんじょう そのもの では なく、 かんじょうを ひきおこす ものの とらえかただと かんがえている(はたなか(畠中)やく、『エチカ(上)』、353ぺーじ)。
そして、おどろきは、 ほかの ものと おなじ ところが すくなくて、 ながく かんがえつづける ものの とらえかた であると される(はたなか(畠中)やく、『エチカ(上)』、270-271ぺーじ)。

しかし、やくを した はたなかは おどろく という ことばを かんじょうを あらわす ことばだと かんがえている(はたなか(畠中)やく、『エチカ(上)』、353ぺーじ)。

じぶんは、 おどろきの ちもち、おどろく きもち という ことばには、 よろこびの きもち などの ことば よりも、 いわかんを かんじる。
この いわかんを みとめてくれる ならば、おどろきは、 かんじょうや きもちに かかわっているが、 かんじょうや きもち そのもの では ないと かんがえられる。
たしかに、 きもちや かんじょうと いえば、 こころの ある ていど つづく おなじ じょうたいが てんけいてきだと おもう。
たとえば、 うれしい、 たのしい、かなしい という きもちは、 かわる ことを あらわしている ことば では なくて、 つづいている じょうたいを あらわしている ことば である。
この ことは、 にほんごの ことばの あらわしかたにも あらわれていると おもう。
つまり、 おどろきに ついての ことばは、おどろく、おどろかす などの どうし(動詞)が おおいのに たいして、
たとえば、 かなしみに ついての ことばは、 かなしい などと けいようし(形容詞)が おおい。
もちろん、かなしく なる とか、 かなしませる とかの ことばが ある から、 かわる ことを まったく あらわさないと いってる わけ では ない。
しかし、 かなしみ つづける という ことばは、 かなしい ことが なんども おこる という よりも、 ひとつの ことで ながく かなしむ ことを つづける という いみが あると おもう。
たいして、 おどろき つづける という ことばは、 おどろく ことが なんども おこる という いみが あると おもう。
ひとつの ことで ながく おどろく ことは むずかしく かんじる。
もちろん、ひとつの ことで ながく おどろく ことが できない わけ では ない。
しかし、 おどろき という ことばは、 かわる ことを あらわす ことば であると かんがえられると おもう。

おどろく という ことばは、 かんじょう では ないが、 かんじょうに かかわり、 じょうたいを あらわさないが へんかを あらわしていた。
それでは、かんじょう では ないが、 かんじょうに かかわり、 じょうたいを あらわさないが へんかを あらわす という のは、 どのように あらわせば いい だろうか?
じぶんは、 「こころ」 という ことばを つかう ことが よいと おもった。
ぱすかる という ものに ついて、 えんぞう・はるゆき という ものは、 こころが おどろき、 きかがく(幾何学)の かくじつに あきらかな はんい から、じぶんが ある という こと から わかる すべてに かんけいしている ものに ついて かんがえる ことに なると いっている。
圓増治之(えんぞう・はるゆき)「ニーチェ・コントゥラ・パスカル(その1) パスカルの「理性の論理」と「心情の論理」」長野大学紀要6巻3号、p. 39-46、1985年
http://id.nii.ac.jp/1025/00000860/

めんどうくさいから いんようしよう。

オンなのである。
前述の如 く,幾何学の基礎は幾何学の方法 (定
義 と推論的証明)によって究明できない。原始語
を定義 しようとしても無駄である。「いたず らに立
ちどまってそれ ら (原始語)を定義することな く,
それ らの本性に透徹する (pénétrer la nature)」
ことによってはじめて 「それ らの驚嘆すべ き特質
を発見する」(p.583)ことができるのである。 と
ころで,原始語が指示するのは,いわゆる 「存在
者 (Seiendes)」ではない。む しろ存在するものが
そこに於いて存在するところの 「地平的なもの」を
指 し示 している。「時間,空間,運動,数」等は,
すべての存在者がそこにおいて現象する包括的な
地平を形成する。パスカルの用語によれば 「全宇
宙を包むもの (chose, qui comprennent tout l'
univers)」(p.583)である。原始語が 「極端な明
証さ」をもつのも実は,原始語が,すべての存在
者がそこにおいて兄い出される地平的なものを指
し示 しているからである。それでは一体地平的な
ものはどのよ うな特性をもつのであろ うか。
それは,地平的なものは大いさに向っても小さ
さに向っても無限に開かれているとい う特性であ
る。た とえば どんなに大 きな空間であっても,そ
れ以上大 きい空間を考えることができるし,また
反対にどんなに小 さい空間であってもさらに小
い空間を考えることができるのである。存在する
ものはすべて無限大 と無限小 (無) とに向って開
かれた地平の うちに有限なものとして存在す るの
である.我々人間も有限なるものとしてやは りま
た無限大 と無限小 (無)の中間に存在する。
このように,パスカルが元初的開示の地平の特
性の解明のために投げかけた光は, 自分自身へ と
返照 し,元初的開示の地平の うちに存在する彼 自
身の存在を照 らし出した。か くして r幾何学的精
神についてJの終末部分 (p.591)では次のように
言 う。
「これ らの真理を明確に認めるものは,四方から
iっれわれを取 り囲んでいるこれ らの二重の無限に
あらわれた自然の偉大 さと力 とに驚嘆 し, 自分が
広が りの無限 と無 との中間に,数の無限 と無 との
中間に,運動の無限 と無 との中間に,時間の無限
と無 との中間に置かれているのを見て, この驚 く
べ き考察により自分 自身を知ることを学び うるで
あろ う」。

だから、 しょうめい できる ことに おどろく という のは、 ひつぜんせい から げんじつせいに うつった ことを あらわしている のでは ない だろうか。
ひつぜんせい、 つまり かならず おこる という ことは、 しょうめいの はんいの できごと である。
そして、 その かならず おこる という ことを つきつめていくと、 おどろく ような かならず おこる ことが でてくる。
こころは、 それに おどろくのは、 かならず おこる ことは、 じっさいに おこる こと だから でも ある。

このように かんがえると、 だめっとが 「じゅうぶんな かんさつ」と いった ことを かんがえられる かも しれない。
おおにしさんは、 だめっとが げんじつには たしかめられない けれど、 もし じぶんが じぶんで ある かぎりで たしかめる ことが できる ので あれば、しんじつ である ばあいに しんじつ である という ことを もんだいに していたと おもう。
そして、おおにしさんは、 じぶんが せつめい できなかった せいきか(正規化) という さぎょうを、 かっと・じょきょ・ていり という より ひろい ものに はってん させて せつめいしてくれた。
おおにしさんの けつろん としては、 つぎの よっつを くべつ すると、 ちょうわ(調和)が とれた きれいな るーるを つくれる という もの だった。
1. なにかが ただしいと いう こと
2. なにかが ただしいと いわない こと
3. なにかが まちがっていると いう こと
4. なにかが まちがっていると いわない こと
この よっつの くべつを つかって、 また、 おどろきの じれいを かんがえてみる。
おどろく のは、
たとえば、 1. なにかが ただしいと いう こと に たいして、
2. なにかが ただしいと いわない こと をするべきだと かんがえる からか、
3. なにかが まちがっていると いう こと ができると かんがえる から である。
この 2と 3の ちがいが、 じつざいろんを すてきらない という ことの かなめ なの では ない だろうか。

さいとう
かくめいれき 229ねん 7がつ 21にち
Décade III Primidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 10にち

ていせい:
1. おおにし・たくろう さんの なまえを まちがえていた ところを ていせい しました。 すみませんでした。(かくめいれき 229ねん 7がつ 22にち)