さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

みんなと ろんり

みんな という ことばと ろんりに ついて かんがえました。

さいとう です。
かくめいれき 229ねん 7がつ 28にち
Décade III Octidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 17にち

いきさつ

この まえ、 つぎの ような ぶんしょうを かきました。
hunihunisaito.hatenablog.com

そして、 この ぶんしょうで ちゅうしんの わだい だった、 おおにしさんが ついーとで しょうかいしてれました。


https://twitter.com/takuro_onishi/status/1381037767132545027?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1381038037308559360?s=20
ありがとうございます。

そこで、 むかし から きになっていた はなしを おおにしさんに たずねて みました。


https://twitter.com/manoestasmano/status/1381595241124306949?s=20

https://twitter.com/manoestasmano/status/1381826166860832773?s=20

すると、 なんと、 かなり しっかり こたえて もらえました。
ありがとうございます。!!
ありがたい です~
🐜🐜🐜🐜🐜🐜🐜🐜🐜🐜(ありが じゅう(とう)ひき いる ので、 ありがとう という だじゃれ です。)


https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382186346815524868?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382186736478941190?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382187838649765888?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382188668601856004?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382189279607103488?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382191926149980161?s=20

かなり せっとくてきな はなしで うなりました。
しかし、 じぶんも いろいろと かんがえてみて、 ある ていど、 わかった きがする ので、 へんしんを しようと おもいました。
ところが、 なんと とても ながくなってしまいました。
なので、 ぶろぐで かく ことに しました。
ここから かいた ことを ちゃんと かきなおした ものを かきます。

ほんぶん

みんなの ぶんるい

あの あと、 いろいろと かんがえてみました。
「みんな」という ことばで
ろんりに ついて なにかを いう ことを かんがえてみます。
すると、いくつか、おもいつきました。

ひとつには、
「みんなが 「ただしい」と いうの だから、ただしいのだ」 という、
ろんりの きはん(規範)を たしかめる ために つかう ばあいが あると おもいます。

ふたつめ には、
「ろんりとは みんなが ただしいと かんがえる ものだ」 という
ろんりの せつめいを する ばあいが あると おもいます。
じぶんは、 ふたつめの せつめいで 「みんな」 という ことばを つかいました。

みっつめは、
「ろんりは みんなの ものだから、みんなの なかの だれかと ぎろんする ときは ろんりを つかう ことが できるし、 そうする ほか ない」
という ろんりの さけがたさを あらわす ばあいが あると おもいます。
この みっつめの さけがたさを おおにしさんに しめしてもらったと りかいしています。
ちがったら、 しつれいしました。
うまく ことばに されていて、 たしかに そのとおりだと おもった しだい です。

もんだい へん

このように ぶんるいすると、
もんだいが いろいろ あるという ことに きがつく ことが できました。
じぶんが はじめに いわかんを もったのは、
ひとつめの、きはんの もんだい でした。
みんなに たしかめた わけでも ない のに、
「みんな」と いえば たしかめた ことに なる ことに
いわかんを もっていた のだと おもいます。


おそらく、
じぶんが 「ろんりは ただしい」と、 まじめには いえない
という ところも、 かんけいしていると おもいます。
「ろんりが ただしい」と いわれたら、
なっとく する しか ない です。
しかし、
ないように よらず、
ろんり という けいしき だけで 「ただしい」と 「じぶんが まじめに」いえるのか どうか わかりません。
ふあんを かんじています。

しょうめいろんてきいみろんにゅうもん

まさに、 しょうめいろんてきいみろんにゅうもんに もどってきました。
「てつづきが ただしいと みとめられる ことが
ただしい という こと なのだ」と
いってしまって いいのか、
きもちで なっとくできていない みたい です。
(だじゃれ。「だめっとは こじんてきには 「だめ」っと いっておこう。」 だめっとは ひとの なまえ です。)

しかし、 それにも かかわらず、
ちょうわが たもたれた てつづきで、
つまり、
1 ただしいと あきらかに する こと、
2 まちがっていると あきらかに する こと、
3 ただしいとは あきらかに できない こと、
4 まちがっているとは あきらかに できない こと、
この よっつの てつづきを つかえば、
うまくいく という けつろんは、
きもちでも なっとく いっている きがします。
(だじゃれ。「おおにしは おおいに しんじられれる」。おおにしは おおにしさんの こと です。ひとの なまえ です。)

じぶんの だいじな こと

だめっとの かんがえかたと、 おおにしさんの かんがえかたの ちがいは、
ひとつには ちょうわが あるか どうかに あると おもいます。
しかし、 じぶんは ちょうわが ほんとうに なりたっているのか、
なりたっている としたら どういう いみが あるのか なっとく できていない のに、
きもちで なっくとくの ちがいが でる ことは あまり ありえないと おもいました。
おそらく、 おおにし さんの だめっとの しょうかい では、
ただしい とも まちがっている とも どちらとも いえない という ことが あまり きょうちょう されなかった ところが げんいんだと かんがえられます。
つまり、 じぶんに とって だいじな ことは、
どちらとも いえない ことが ただしい かのうせいが ある という こと なのかも しれません。

いちじてきな まとめ

もんだいは、 ただしい という ことは どう かんがえる べきか?
げんじつ という ないように あっている ことか?
くみたてかたが ただしい ばあい なのか?
これは じぶんも きょうゆう する もんだいに なっていた のでした。

さらに、どちらとも いえない ことが ただしい という ことが ありうる ことが だいじ なので、
よっつの そうさを かんがえる ことは なっとくが いっていた という はなし でした。

はみでる

しかし、 もんだいは この はなし だけ では おわりません でした。
もんだいは、 まだ ありました。
すこし まえの ぶんを もういちど かきます。

じぶんが 「ろんりは ただしい」と、 まじめには いえない
という ところも、 かんけいしていると おもいます。

ここで ちゅうもく する のは、 「じぶんが」 という しゅご です。
げんじつに じぶんが いえる のか どうかが もんだいに なっています。
ほかの ひとに いわれて なっとく する ことと、
じぶんが いう ことに ちがいを つくっていたのです。
ろんりが もし じぶんも ふくめた みんなが おなじ ように つかえる もの ならば、
この ような じたいは、 どこか ごかいが ある ことに なると おもいます。
(ここの ぎろんは まちがっている かもしれません。
そもそも、 「ろんりが もし じぶんも ふくめた みんなが おなじ ように つかえる」と だれかが しゅちょうする のか どうかも わかりません。
そして、 その ことが、 じぶんが ろんりが ただしいと いえない ことと かんけいしているかも ほんとうは わかりません。
しかし、 とりあえず、 すすみます。)

「みんな」の ぶんるいを つかってみる。

おおにし さんの ついーとを よんで、
こじんてきには、
ろんりが 「みんな」の もの である
というのは、
みっつめの さけがたさの いみでは、
ただしいと あきらかに されたと おもいます。

しかし、
ひとつめの きはんの いみでは、
「ただしいと あきらかに できない
かつ
まちがっていると あきらかに できない」
はなしかも しれないと おもいました。

ただし、まだ、 ひとつめの きはんに ついては、
みっつめの さけがたさと おなじ かもしれない、
つまり、
じつは すでに おおにしさんの ついーとで ただしいと あきらかに されている
という かのうせいを ちゃんとは かんがえきれていない です。
かだい です。

しんぱいしていた こと

ちなみに、 じぶんは、
だれかを はいじょする のでは ないかとは
あまり しんぱい していません でした。
いまでは、その しんぱいも する べきだと おもいます。

しかし、 もともとは、
じぶんが みんな から はいじょされる かもしれない という しんぱいを していました。
または、
じぶんに とって ろんりでは ないと おもえる ことが、 まわりの ほとんどの ものは ろんりだと おもう
という しんぱいを じぶんは していました。
そして、
「あなたは それを みとめない なら、 みんな ではない。(ただしいと みとめよ。さもなくば みんな では ないと みとめよ。)」
と いわれる かもしれないと
しんぱいしていました。

これは、 おそらく、 てつがくてきな たいりつと すら かんがえられず、
みんなの ただしい ろんりと
じぶんの まちがった ごかい という たいりつに される しんぱいが あります。

しんぱいの りゆう1

なぜ そんな しんぱいを する のでしょう?
おそらく、 こじんてきな けいけんも はいけいに あると おもいます。
だいいちに、 てつがくてきな けいけんの はなし です。
きっかけは、 ひとつめの 「みんな」の きはんの せつめいを された ときに、
その ものに きいたのです。
それは どうして みんなと いえる のですか? と。
しかし、 その ものの こたえは、
この ことが うけいれられない なら、 この てつがくの ぎろんは できない
という もの でした。
(ちなみに その ときの もんだいは、 ふぃひての ちしきがくの じょじゅつ でした。)
じぶんは、 たしかに、うけいれない とは いっていなかった はず です。
なんで そう いえるのか しりたかった。
しかし、なんでと きくと ぎろんに さんか できないと いわれると、 とても こまります。
こまるー。

しんぱいの りゆう2

それより もっと おおきな もんだいは、 ひごろの けいけん でしょう。
じぶんは ある いみで まいのりてぃー であるところが おおく あると おもいます。
まいのりてぃー とは、 ふつうでは ないと みなされる という こと です。
せいべつ、せいてきな こと、 しょくじ、 はん・さべつの しかた、 かきかた、 びょうき、 せいじてき たちば、にんげんいがいの どうぶつへの ぼうりょくに たいする たちば、 ちてき のうりょく、しょうがい などなど。
いつも いつも、 「みんな」に いれられません。
「みんな」 と いって おとこ しか ささない こと。
「みんな」と いって しすじぇんだー しか ささない こと。
「みんな」 と いって いせいあいしゃ しか ささない こと。
「みんな」と いって さべつに はんたい しない ものしか ささない こと。
「みんな」と いって ざっしょくの もの しか ささない こと。
「みんな」と いって もじ としての かんじを つかう もの しか ささない こと。
「みんな」と いって びょうきの ない もの しか ささない こと。
「みんな」と いって さよくを はいじょ する こと。
「みんな」と いって にんげん いがいの どうぶつを はいじょ する こと。
「みんな」と いって いっていていどの ちてきのうりょくを かんがえる こと。
「みんな」と いって しょうがいが ない ものを かんがえる こと。
「みんな」と いって おとな しか かんがえない こと。
などなど。
もちろん、 いくつか だみーが はいっています。
ともかく、 そのような 「みんな」 という ことばへの しんぱいが ある だけ という こと かも しれません。

その ばあいは、 たしかに てつがくてきな もんだいに つながる けれど、
もんだいは、 じっさいに つかいかたの もんだいで、
「みんな」という ことばを どう つかうか という もんだい なのかも しれません。

むじゅんの はなし

むじゅんの はなしも おもしろいです。
じぶんが おおくの ばあい、あるいみでは、 むじゅんしている きがするので、
じぶんを りかいできていない ことに なると おもいます。
でも、 それならば、 なぜ じぶんは じぶんを りかい できていなくて、
ほかの ものは その ほかの もの じしんを りかい できていると
いえる ことに なるのだろう?
という もんだいが たちあがってきます。

ぐたいてきに かくと、
じぶんは 「じぶんの」 きおくを じぶんの もの だとは おもえない のです。
たとえば、 おおにしさんの どうがを みた きおくは、 あります。
おもいだせます。
けれど、それは じぶんでは ない ほかの ものの もの なのです。
もちろん、 からだや こころや きおくは おなじ もの(ひと)の もの なのですが、
じぶんの ものでは ない のです。
この ばあい、 もちろん しろくじちゅう むじゅん する とは かぎらない のですが、
しろくじちゅう むじゅん できる きがします。
でも、 それも ある ものが じぶん である ことが つづく はずだ という かんがえの もとで むじゅん している ように おもえる だけで、
じぶん みたいに それぞれの じぶんが きれている という かんかくが あれば、 むしろ むじゅんが ないの かもしれません。
それぞれの じぶん では いっかんしている のかも しれませんね。
そうなると、りそうてきな いみで むじゅん する とは じっさいは ありえない こと なのかも しれないと おもってきました。
これも かだい です。

ともかく
このことは むじゅん していると おもわれる かもしれませんが、
かなしい ことでは ない です。
むしろ、
そこで じぶんの ものに おもえる ひと、ものの かんかくは どうなっているのか
きになる ぐらい たのしんでいます。
(じぶんには なぞの こころの びょうきが あって、つういん しているのですが、
それと かんけいあるかは わからない です。)
けれど、
それで、
みんなから はずされると たぶん かなしくて、つらい ので、 ろんりと「みんな」の あいだの かんけいが きになっています。

じぶんがわ から したら、 あいてに むじゅんが ない ように かんがえる しか ほうほうは ない という おおにしさんの ついーとは そのとおりだと おもいます。
しかし、 じぶんが じぶんに とって むじゅんが ある ばあいは、 どうなるの でしょうか?
じぶん である こと、 ひとつ である こと、 じぶんの もの である こと、 にている こと、 つづく こと などが もんだいに なります。
じぶんに とっては、 これらは すべて ちがう こと ですが、
どうやら、 おおくの ものに とっては おなじ こと、 すくなくとも つながっている こと みたい なのです。
ふしぎ。

とちゅうで、 にちじょうせいかつの うらみ・つらみを かいてしまいましたが、
そんな はなし でした。
おわり。

さいとう・まの
かくめいれき 229ねん 7がつ 28にち
Décade III Octidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 17にち