さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

ばでぃうの すいいてき そんざいろん

じぶんの ための めも です。
どくしょ めも。
ばでぃうの すいいてき・そんざいろん(『推移的存在論』、こんどう・かずのり、まつい・ひさし やく、せいれき 2018ねん、水声社(すいせいしゃ))を よむ ときの めも です。
http://www.suiseisha.net/blog/?p=9985

推移的存在論
アラン・バディウ(著)
近藤和敬+松井久(訳)

判型:四六判上製
頁数:251頁
定価:3000円+税
ISBN:978-4-8010-0384-2 C0010
装幀:宗利淳一
12月14日頃発売!
存在論とは数学である。
「神は死んだ」――もはや宗教の神に出会うのでもなく、形而上学の原理の下に隠すのでもなく、ロマン主義のメランコリーに賭けるのでもなく、存在を思考することはいかにして可能となるのか。主著『存在と出来事』のエッセンスから出発して、集合論圏論を携えてプラトンからカントまでを一挙に横断し、数学=存在論を宣言したバディウ哲学の転回点!

《わたしが「推移的存在論」と呼ぶのは、存在としての存在の学、つまり純粋な多の理論と、現れの学、つまり実際に現前した諸々の宇宙の一貫性の論理とのあいだで折り開かれる存在論のことである。》

【目次】
プロローグ 神は死んだ
第1章 今日の存在の問題
第2章 数学とは思考である
第3章 超限‐存在としての出来事
第4章 ドゥルーズの生気論的存在論
第5章 スピノザの閉じた存在論
第6章 プラトン主義と数学的存在論
第7章 アリストテレス的方向づけと論理学
第8章 論理学、哲学、「言語論的転回」
第9章 トポス概念についての初等的注解
第10章 論理学についての初等的な暫定的テーゼ
第11章 数の存在
第12章 カントの減算的存在論
第13章 群、カテゴリー、主体
第14章 存在と現れ

【著者について】
アラン・バディウ(Alain Badiou)
1937年、モロッコのラバトに生まれる。哲学者、作家。主な著書に、『存在と出来事』(L’Être et l’événement, Seuil, 1988)、『世界の論理』(Logique des mondes. L’être et l’événement, 2, Seuil, 2006)、『真理の内在性』(L’Immanence des vérités. L’être et l’événement, 3, Fayard, 2018)、『コミュニズムの仮説』(市川崇訳、2013年)、『議論して何になるのか』(共著、的場寿光・杉浦順子訳、2018年、いずれも水声社)などがある。

【訳者について】
近藤和敬(こんどうかずのり)
1979年、兵庫県に生まれ、福井県で育つ。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得退学。現在、鹿児島大学法文学部准教授。専攻、哲学・哲学史。主な著書に、『カヴァイエス研究』(月曜社、2011年)、『数学的経験の哲学 エピステモロジーの冒険』(青土社、2013年)、主な訳書に、ジャン・カヴァイエス『論理学と学知の理論について』(月曜社、2013年)などがある。
松井久(まついひさし)
1972年、大阪府に生まれる。パリ・ナンテール大学博士課程修了(哲学)。現在、法政大学兼任講師。専攻、生命科学の哲学、生命科学史。主な訳書に、アンリ・ベルクソン『創造的進化』(共訳、筑摩書房、2010年)がある。

まるかっこ()の なかの すうじは、 にほんごやくの ぺーじの かず です。

ぷろろーぐ かみは しんだ

かみを みっつに わける。
しゅうきょうの かみ。 しんだ(16)。ともに いきる かみ(17)。 であいに よって いきる(21)。いきる いみを ほしょうする(19)。あいとう される(25)。
けいじじょうがくの かみ。 げんりとしての かみ(24)。しょうめいに よって ある(21)。しんじつの いみを ほしょうする(19)。ぜんたいせいの ひはんに よって だつこうちく される(24)。
ぽてむの かみ。しじん(詩人)たちの かみ(24)。ひきこもって(もどって) しまった かみ(24)。うしなわれたが もどってくる かもしれない。 のすたるじっくな めらんこりー。
げんだいの むしんろんは やくそくを しない(25-26)。
ありのままを みとめる ぽえむが ぽえむの かみを しなせる(27)。
しぬ こと などの ゆうぜんせいの はなしを ちゅうしんに する ことを やめる べき である(26)。

「あらゆる状況の運命は集合の無限なる多性にあり、いかなる深みも決してそこでは確立されず、多の等質性が強度の戯れにたいして存在論的に勝る。したがって、わたしたちはあらゆる有限性から錨を引き上げ、わたしたちの絶対的なフラットなすみかとしての無限へと住みつくのだ。こうして、出来事の廻り合わせhazardによって何らかの真理がその軌跡の終わりなき無限性にそってわたしたちを連れ去るときも、意味の探求はわたしたちにとってこの無限性の単なる数値化に、つまりペソアの別の変名であるアルヴァロ・デ・カンポスが存在の数学と呼んだものに還元されるのである。」
(28)<<

だいいっしょう こんにちの そんざいの もんだい

かぎかっこは いんよう では ない。

けいじじょうがく

はいでがー「てつがくは ある とは どういう ことか という といを わすれていった。」
(なにかが ある とき、 なにかが なに であるか という ことを もんだいに して、 ある とは どのような ことかを もんだいに しなくなった という こと。 )
はいでがーに とっての ひきこもって(もどって)しまった ある という ことの けいじじょうがく とは なにか?
ぷらとん「おおいを とる という しんじつは、 かんがえられる ものが あらわれる うごかない ひとつ という ほんしつ である いであ である。なにで あるかを あきらかに する ことが もんだいだ。」
はいでがー「ひとつ という いであに、 いろいろな なにかを まとめる きはん てきな ありかた(せんせいりょく) に よって、 ある という ことが それじたいに かえってくる ことが できなくなった。」
(せんせいりょくは げんせいりょくと くらべられる、 せんせいりょくは ありかた であり、 げんせいりょくは げんじつ である。いであは げんじつ としては あらわれないが、 かならず げんじつに そなわっている えねるぎーと かんがえられる。)
はいでがー『にーちぇ』 だいにかん、 「形而上学としての存在の歴史の計画」

「かくしして一が規範的な仕方で存在を決定するがゆえに、存在は共通なものに、つまり空虚な一般性に還元されるのであり、存在は存在者の形而上学的な優越を耐え忍ばなければならなくなる。」(34)

ばでぃう「けいじじょうがくは、 いちに よる ある という ことの そうかりたてたいせい(総かりたて体制) である。」(34)
(りんけん(臨検)と やくされている arraisonnementは はいでがーの かんがえた ことば である Gestell(げしゅてる)の やく として つかわれている。https://fr.wiktionary.org/wiki/arraisonnement。 ぎじゅつが しはいてきに なると、 せかいを どう かんがえるかが かわる。 げんだいの ぎじゅつは、ある という こと から えねるぎーを かきあつめる ように、 ある という こと を から かきたてて かりたてる。ある という ことを ひとつ であると かんがえる ことで、ある という ことを ひとつ という ありかたに かえてしまう ことが けいじじょうがく であると いっている はず である。)

ライプニッツにとって一と存在とは互いに置換し得る概念であって(cf. G. II. p. 97)、「真に一つの〔「一つの」を きょうちょうしている。〕存在ではないものは、真に一つの存在〔「存在」を きょうちょうしている〕ではない」(ibid.)からである。
C. I. Gerhardt, Die philosophischen Schriften von Gottfrind Wilhelm Leibniz, 7 Bde, Olms, 1950.
石川満(いしかわ・みつる)「ライプニッツによる物体的実体の一性について」、24ぺーじ。

ある という ことを いちから はなす

ばでぃうの しゅっぱつてんは つぎの ものだ。

「存在を一の封印から解放し、一による存在の形而上学的な臨検を中断しつつも、だからといってハイデガー的な運命なるものに身を投じないこと、つまり救済者の帰還という根拠なき約束へと思考をゆだねないことは可能であるのか」
(35)

はいでがー「けいじじょうがくは かみだけが わたしたちを すくうことが できる という しらせ(けいじ(啓示))と むすびついている。」
ばでぃう「ならば うんめいも やめよう。」

ばでぃう「はいでがーも 『形而上学入門』で けいじじょうがくの いち という きはんが ひろがり くらがりが できると いっている。 しかし、どうじに てつがくに よって あかるくも なる。」

「神々の逃走は、人間によって神々に認められた有益な退場でもある。大地の破壊は、能動的思考に一致する大地の整備でもある。人間が群れをなすことは、大衆が歴史の舞台に平等主義的に介入するということでもある。そして凡庸なものの優位はマラルメが制限された行動と呼んだものの輝き、濃度でもある。」
(36)

(はいでがーが だいちの くらがり として かいた、神々の逃走、大地の破壊、人間が群れをなす、凡庸なものの優位を ばでぃうは あかるみ でも あると えがいている。 じゅんに、 しゅうきょう、てつがく(いきること)、せいじ、ぽえむに たいおうしている。)
(まらるめは せいれき 1842ねん から せいれき 1898ねん までの ふらんすごで かいた しじん である。
西川直子(にしかわ・なおこ)「大衆から〈白〉へ(その二)——マラルメ散文詩にみる大衆像」、せいれき 2012ねん、 7-8ぺーじ。

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まらるめの かくことの あなーきずむ
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まらるめの 「せいげんされた こうどう」

ぼんよう という のは、 かく という ことが、 はっきり とした せいじてきな こうどうに ならない という ぼんようさの あらわれ であると ばでぃうは むすびつけたの だろう。)

ばでぃうの かだい

ばでぃうの かだいは つぎの もの である。

「いかにして思考は存在から一の支配を減算するための常に変わらぬ努力をそれ自体で示すことができるのか。」
(36)

(249ぺーじに 減算する とは、 (se) soustaireの にほんごやくで あると やくした もの たちが いっている。のがれる、さしひく、めんじょする、ひきざんする とも やくせるが、 めいやすーの 「減算」 という やくと あわせた らしい。

「概念としての「一」なるものを引き算する」
(249)

ぱるめにです(「あるは ある。 あらないは ない。」)
でもくりとす「くうが あり、 ふくすうの ものが ある。」(げんしろん)

はいでがー「うんめい」
るくれてぃうす「うんめいから のがれよう。 かみ とかに たすけを もとめず、 ふくすうの たしかな ありかたを みよう。」
ばでぃう「るくれてぃうすは いちの げんさんを していて、 いちに まとめられない。むじゅんが ある むげんだ。すごい。」
(るくれてぃうすは、きげんぜん99ねんころ から きげんぜん55ねんころの しじん。 らてんごで 「事物の本性について」という えぴくろすの げんしろんてきな うちゅうろんの ぽえむを かいた。「自然の科学的理解によって、宗教からの解放と死の恐怖の克服を目ざした啓蒙(けいもう)的作品で、その解明の対象は、宇宙の原理、人間の霊魂と精神現象、天体・生物・人類および文明の発生、天変地異などのすべてに及ぶ。」「伝記的事実はほとんど不明だが,媚薬をたしなみ,自殺したともいわれている。」(https://kotobank.jp/word/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9-660548))
(めも、 「人物像」「思考」(36))

るくれてぃうす「くうかん という なにも ない ところは すべての ほうこうに ひろがっていて、そのなかに ものが ある。」
(じかんい ひきずられて くうかんが すべるなら きらめきは きょりが ちぢまらない という はなしは よく わからない。くうかんが じかんに よらず ずっと つづく ならば、 ひかりと いえど はなれた まま なので、 きょりは ちぢまらない という ことだと おもう。)

「存在ー神ー論の歴史的制約、つまり臨検をおこなう一の潜勢力には決して折り込まれないものにたいする忠実さといったものを現代において発明しなければならない」
(37)

(そんざい・しん・ろん とは はいでがーの ことば である。 )

「それゆえ最初に決意したことは、存在について思考可能なものはラディカルな多、つまり一の潜勢力の支配下にない多の形式にあるとみなすことだった。この多をわたしは『存在と出来事』において、一なしの多と呼んだ。」
(37)

むじゅん

ばでいぅ「でも、むずかしい もんだいが みっつ でてくる。」
1、 いちを げんさんする ような、 ある という ことの むげんの みなもとを ふくむ ふくすうには むじゅんが ある。
るくれてぃうす「ふくすうが くりひろげられる という ことは、 げんていが なかに あっても せいげん されない。」
ばでぃう「ふくすうが くりひろげられる ことが げんていに よって せいげん されると かんがえると、 すべて いちに まとめられて しまう。 だめだ。」
(なかに げんてい としての くべつ じたいは ある けれど、 ぜんたいは ひとつに せいげん されない)

ばでぃう「ある という ことを かんがえられる ように する ふくすうは、 むじゅんが ない げんてい では ない。ふくすう という こと いがいの せつめいが できない ふくすうを かんがえる。 むじゅんが ない ことを ほしょうして くれる ものが ない ふくすうを かんがえる。」
(たとえば、 いち という かんがえに ある、 けいじじょうがくの かみは、ただしい ことを ほしょうしてくれる もの である。)

いちの おいだし

ばでぃう「こっちの もんだいの ほうが たいへんだ。」
2、 あらわれていないが すべてに ある(せんざいしている)いち なる ものは ないと、 ある という ことの がくもんの なか から せつめいしないと いけない。
ばでぃう「そとから いちが ない ふくすうが あると かていする だけ じゃ いやだ。 うちがわ から いいたい。」
(ぷらとん「いちと ふくすうが あって、 いちと ふくすうが まぜあわさる」→)ばでぃう「むじゅんする ふくすうが あって、 まぜあわさる。 いちは いらない。」
ぷらとん「いちが ない ならば、 ふくすうの なかの ことなるが ずっと ことなり つづける ことに なる」 『ぱるめにです』
ばでぃう「むじゅんが ある ふくすうの ことを いっている。」
(むじゅんが あると かいていたのは、 いっかんせいが ない という ことばの いいかえであった。)

「もし一が存在しなければ、多の内在的な異がおのれからおのれへの停止点なき差異化になることが帰結することである。その驚くべき定式である「τά ἄλλα ἕτερα ἐστιν」を「異とは〈他者=異〉であるles autres sont Autres」と訳せるだろう。このとき最初のもの〔ἄλλα〕は小文字のautresで、後のもの〔ἕτερα〕はいわばラカン的な大文字のAutresでもって訳そう。一は存在しないがゆえに、異(他)は絶対的に純粋な多性、おのれの完全な散種としての大文字の〈他者=異〉である、ということが生じる。」
38、ちゅうしゃくは やくしゃに よる。

(じっさいは、 「πάντα δε τα έτερα τινί έτερά έστιν」と おもわれる。Plato, Parmenides: cum quattuor libris prolegomenorum et commentario perpetuo, p. 977. https://books.google.co.jp/books?id=4o0-AAAAcAAJ&pg=PA977&lpg=PA977&dq=%CF%80%CE%AC%CE%BD%CF%84%CE%B1+%CE%B4%CE%B5+%CF%84%CE%B1+%CE%AD%CF%84%CE%B5%CF%81%CE%B1+%CF%84%CE%B9%CE%BD%CE%AF+%CE%AD%CF%84%CE%B5%CF%81%CE%AC+%CE%AD%CF%83%CF%84%CE%B9%CE%BD&source=bl&ots=9WUgURLY7z&sig=ACfU3U1d7Q8D-GNoaSk4we_zmrVllAUwzg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwip8pX1hebvAhWMF4gKHX2OATsQ6AEwAHoECAEQAw#v=onepage&q=%CF%80%CE%AC%CE%BD%CF%84%CE%B1%20%CE%B4%CE%B5%20%CF%84%CE%B1%20%CE%AD%CF%84%CE%B5%CF%81%CE%B1%20%CF%84%CE%B9%CE%BD%CE%AF%20%CE%AD%CF%84%CE%B5%CF%81%CE%AC%20%CE%AD%CF%83%CF%84%CE%B9%CE%BD&f=false. )
(さんしゅ という ことばは、 でりだが よく つかう ことば である。 さえんの べつの なまえ である。)

「(2) Autreを「(大文字の)他者」と訳す日本の翻訳伝統において、見落とされているように思われるのは、このAutreは、たしかに現象学的な意味での「他者」という文脈も流れているが、他方でここでバディウが指摘しているように、プラトンの『パルメニデス』あるいは『ソピステス』における「最重要五類」と呼ばれる後期プラトンの根本カテゴリーのうちの一つである「異」の類のことを、フランスの翻訳伝統ではAutreと訳すという文脈もまた流れている。このことはラカンにおいても、また同時にレヴィナスにおいても、さらにあまり言及されてこなかったがドゥルーズにおいてもまた妥当する。ここではバディウの文脈上、ラカンの通常「(大文字の)他者」と訳されるものとの関連で言われているから〈他者=異〉という苦肉の訳語を当てているが、ここ以外のところでは概ね〈異〉とのみ訳していることに留意されたい。」
(228、訳注)

(これは しらなかった。 かんしゃを ささげる。 こんどう、まつい。 すばらしい かいせつだ。)

ぷらとん「むじゅんが いちを こわす。いちに おもえた ものを よく かんがえると、 いちに おもえた ものは、 むげんの ふくすうに なる。」

「一の形而上学的支配が減算されることで、多は、一によって合成される多として思考可能なものに開示されることは不可能だ」
(39)

(ごうせいされる という のは、まじりあいを いみすると おもう。 いちと ふくすうが まじりあう ことに よって ふくすうに なるとは かんがえられない という ことだ。 なにを かんがえてみても、 ひとつの ものが あつまって ふくすうを つくっている のでは なく、 ふくすうで しか かんがえられない。じっさいに いち だけを かんがえる ことは できなくて、 いちでは ない にや さんを かんがえる から、 いちを かんがえられる という ことを かんがえると わかりやすい。 )

ばでぃう「ふくすうは ふくすうから まぜあわさった もの である。または なにもない という ふくすう である。いちの でばんは ない。」

「減算的であるとは、多の欠如によって一が認めるというよりも、多が欠如したときには何もないことを肯定することでもある。」
(39)

るくれてぃうす「からっぽと ぶったい しかない。 いち? ない。へらくれいとすの ひ? だめだめ。」
(へらくれとすは ばんぶつは るてんすると いった。 へんかする すべての うしろで へんかを しない ろごすは ひ という へんかと ほぞんんが おきる という こと であると かんがえた。ばでぃうは たんいつな げんりに よる うちゅうろんと いっている。)
ばでいぅ「るくれてぃうすは すばらしい。 かみがみを おそれない という ことは、 ふくすうの うしろには ふくすう しか ない という こと であると わかっていた。」
(るくれてぃうすは、 かみがみと しぬことを おそれない ことを うったえた。)

ていぎ

3、ていぎは だめ。
そくらてす「ていぎで いであを きめる!」
はいでがー「ていぎ という みちは ぽえむの めいれいと たいりつする。」
(これが ばでぃうの いけん かも しれない。)
ばでぃう「ていぎは、 いち という ちょくせつは あらわれない けれど、 きはんてきに いえば あるに ちがいない という かんがえかたを ことばの なかに つくる こと である。」
ばでぃう「ていぎの べんしょうほうは、 いちを きりはなす だけ なので、 ある という ことの なか でしか なく、 ある という ことが どういう ことかは かんがえられない。なにか ある という しかたを している ものが ある という こと よりも うえに なる ことが ことばで あらわれる のが ていぎ である。」
(ていぎの べんしょうほうは、たいわを して、 あいての はなしを げんていする ことで、 あるが ままの すがたを あきらかにする という ほうほう、 つまり みち である。 ほうほうの いんど・よーろっぱご けいの ごげんは、 みちを よこぎる という いみの ことば である。)

たいしょう では なく

「どのような条件で多がそのような多として認識されるかを決して述べることができないままに、純粋な多の思考可能なものを開示しなければならない」
(40)

はいでがー

「限定する規範に訴えることによる存在の制限の過程」
(41)

(ぜんぜん わからない けれど、 ふくすう いがいを かんがえる ことは できないと いうと、 いちに もどってしまう らしい。)

ふくすうを ていぎ する ことが できない。
ふくすうの ていぎが ない ことを あきらかに する ことも できない。
(ふくすうは ていぎできない。しかし、 ふくすうが ていぎできないと しょうめいする ことも できない。)

「何が、思考が思考していることを決して対象として開示させないのか。」
(41)

(ていぎ できる ものは、 たいしょう として はっきりする ように なる という ぜんていが ある。)

「思考が思考していることを思考可能なものとしてつなぎとめる、この書くという行為において、この思考可能なものという名に、それが何であれ、訴えることさえ自らに禁じる思考とはいかなる思考なのか。」
(41)

(かく ことの とくちょうを、 げんじつに かんがえている ことを、 かんがえる ことが かのうな もの として つなぎとめると いう かんがえかたは おもしろい。しかし、ここでいう かく という のは、 はなす という ことに たいする かく という こと では ないと おもわれる。かく とは いかなる ことか? しこう・かのうなもの とは、 ていぎと いっかんせいに よる もの である。かんがえられている ときに すでに りくつに したがっている といったのは だれだったか。 わすれてしまった。うぃとげんしゅたいんか。『論理哲学論考』だと おもう。)

ばでぃう「こうり(公理)てきに かんがえる ことが だいじだ!なにかを あらわしている とか、 せつめいしているの では ない、 きめられていない〔つまり むげんの〕 ことばの かんけい だけを りかいする かんがえ である。どのように くみたてて いいかの るーるも ある。なまえを たいしょうに つける こと では ない。べんしょうほうで ていぎ する ことでも ない。」
(むげん というのは、 きめられれていない という いみ である。 こうり(公理)は ぎろんの はじめに しょうめいせずに みとめられる ことの ことを いう。 たとえば、ふたつの てんの あいだに ちょくせんを ひける、 など。)

ぷらとん

ぷらとん「ぐらうこん「そくらてす、 かせつに とどまる がくじゅつは、 げんりに たどりつく りせいの べんしょうほうの ち(知)よりも おとっていると いっていますね。 あなたは べんしょうほうの ちょっかんてきに しる ことに たいして、 がくじゅつの かんせつてきな ろんしょうで しる という ことを おとっていると かんがえていますね。ただの おもいこみ、 ろんしょうで しる こと、 ちせいで しる ことと あいだに ろんしょうを おいていますね。 」」
ばでぃう「ぷらとんは すうがくが かんがえる ことの できない こうりを おいて、げんり としての いち という あらわれては いないが、 きはんてきに ある はずの ものを かんがえられない から、 ろんしょうする しか ないと かんがえている。」

「公理は、プラトンにとってどこか曖昧な暴力を備えているのだ。一がもつ弁証法と定義にかんする規範を、公理が自らのものにすることはないのであって、このことに曖昧な暴力が起因している。たしかに公理と数学のうちには思考があるのだが、しかしそこにはいまだ思考の自由はない。思考は範例と規範と一によって秩序付けられているのである。」
(43)

(あいまいな ぼうりょく とは なにか? 要調査。 じゆう という ことばが、 きまりと、 じぶんである ことに かんして つかわれている。 なにか から ときはなたれている という こと よりも じぶんの ものに なっている という じゆうが もんだいに なっている。 かんがえ、しこう とは、 ぷらとんに とっての てつがくの ことを かんがえている。 おもしろいのが、 はんれい、きはん という ことば である。 おそらく、 もでる、 のもす という ことば では ない だろうか? これまで きはんてきと いっていたのも のもす てき、 きまり てきと かんがえると よく わかる。 もでる とは、 なにが ただしいか ただしくないか、 なにと なにが かんけいしているか という ことを あらわす。https://youtu.be/m-3SbMFLDR0?t=51を みた。)

ばでぃう

ばでぃう「ぷらとんと ぎゃく である。」

「わたしがこの制約に見るのは、減算する振る舞いそのものの必然性であろ、つまり実際は明示的でなくなったり、命名することができなくなくなることを引き換えに、自らをなお共通なものに結びつけるもののすべてから、あるいは思考の固有の形而上学的誘惑を支えている一般性から、なんとかして思考が抜け出す運動の必然性である。このように抜け出すことにこそわたしは、思考の自由を、すなわち運命的に自らの制約となるものに照らして、また形而上学的な好みと呼んでもよいものに照らして思考の自由を読み取るのである。」
(43)

(このみ とか いうところが ぶんせきてつがくっぽい。ばでぃうは かいほうされる じゆうを だいじに している。「運命的に自らの制約となるもの」とは なにを かんがえていた のだろう? きになる。 おもしろいのは、 「実際は明示的でなくなったり」と いう ところ である。 なぜなら、 「公理の形式で、この存在論が明示的に提示される」(42)ことが げんさんてき・そんざいろんの ひっすな ことと いわれている から である。)

まとめ

ある という ことは どんな ことかを しる ことと、 むじゅんが ある じゅんすいな ふくすうを かんがえる ことは、 しょうめい できない ものを みとめて それらの かんけいを しる 「公理的配置」(44)に なる。
げんり、あるけー、おおもとの もの という かんがえに もどるものは、 ふくすう「せい」の なかに あって じぶんを しめす という ことを じゃまする。
(ふくすう「せい」に ついては、 「「多性」という名は、一にしたがって多性という名が指示するものについて述べるためであれ、これもまた一にしたがってこの名が指示することができないものについて述べるためであれ、どこでも言及されることはない。本当のところ、純粋な多の思考とはそのようなもののはずである。」(41)と いっている。 さいしょに よんだときは、 ふくすう「せい」に ついては なにも いわない ことが じゅんすいに ふくすうに ついて かんがえる こと だと おもっていた。 しかし、 これは いちに したがう ように ふくすうに ついて いわない ことが だいじ である という こと であった。 ふくすう「せい」 であるか、 ふくすう であるかは もんだいでは ないと おもう。)

じょうけん

いち という じっさいには あらわれていない けれど、 ほんらいなら あるに ちがいない ものに たいする ふくすうに ついての ある という ことに ついて しる ことの 5この じょうけん。
1、むじゅんの ある ふくすうで かんがえる。ないざいてきに ひとつに まとめない。なにかを せつめいする ための じゅつご として のみ つかわれる ふくすうで かんがえる。
(「ないざいてきに ひとつに まとめない。」というのが わからない。ちつじょが ない という ことか。要調査。「ひとつにじゅつご として」、 という のは、 しゅご、しゅたいに ならない という こと であると おもう。 なにかを せつめいする ためにしか つかわれない ことば として ふくすうを かんがえる。)
2、ふくすうに いちは ない。 ふくすうは ふくすうを あわせた もの である。
(ここで、 れびなすの いりや、il y a、 あるに ついて かんがえているが、 じぶんは そんざいと やくされる êtreを あると やくしているので、 こまる。 「がある」でも 「である」 でも ない、 なにかが あると いう ときの なにか では ない ように ある という ことに ついて にほんごでは なんと いう だろうか。「あそこ」だろう。 )
3、ふくすうは むげん、 つまり きめられていない。きめられていない という ことも きめられていない ので、 きめられていない ふくすうは、 きめられていない しかたで ちらばる。いちの ないざいてきな せいげんも、 ゆうげんせいの げんりも ない。
(「ないざいてき」とは どういうことだ? げんりと ゆうげんせいを ここで つなげるのは なるほど。 おわりが ある ことと、 はじまりが ある ことは にたような ことと かんがえられている。)
4. ふくすうが、 ふくすうが ふくすう ある こと では ない なら、 なにもない ことが ふくすう あると かんがえれば よい。 いちは いらない。ただし、 なにも ない ことにも むじゅんしない はじまり、げんりが ない。
(くうしゅうごうで、 かずを ていぎできるという はなしが かんがえられている だろう。)
5. こうりてきに ある という ことを かんがえる。
(まとめる。 1 むじゅん、せつめいする、2ふくすうをまぜる、3むげん、4む、5こうり)

かんとーる

ばでぃう「いち という じっさいには あらわれていない けれど、 ほんらいなら あるに ちがいない ものに たいする ふくすうに ついての ある という ことに ついて しる ことの 5この じょうけんは、 かんとーるに よる すうがくの きそづけの やりなおしから あきらかに なった。」
(かんとーるが むじゅんの ある むげんな ふくすうの しゅうごう、 つまり ふくすうの あつまるものが あつまった しゅうごうを かんがえた。 こうりてき(公理的)しゅうごうろんに つながった。くうしゅうごう、 つまり なにも ふくんでいない しゅうごうから かずを ていぎ できる ように なった。

デーデキント(1831-1916)が彼の切断の理論を発表した同じ1872年、同じドイツの数学者カントル(1845-1918)が、やはり実数を定義した。カントールの方法は、有理数の切断を使うデーデキントのものと違い、有理数の収束する列を使うものだった。

この共通の仕事を通して、この両者は連絡を取り合いながら集合論を開拓していくこととなった。しかし、その方向性は大きく違っていた。

デーデキントが、集合を使ったのは、実数を定義する(切断)、代数的整数論を行う(イデアル)のように、数学を記述するためだった。つまり、デーデキントの集合論は数学を行うための「手段としての集合論」「道具としての集合論」だった。

これに反し、カントールが開拓した集合論は、それ自身が数学の理論として研究する価値があるような、「目的としての集合論」であった。
http://www.shayashi.jp/courses/2016/moku2kouki/20161222.html


(かんとーるは すうがくしゃ である。 かんとる とも かかれる。せいれき 1854ねん から せいれき 1918ねん まで いきた。どいつで かつやくした。げんだいてきな しゅうごうろんを かんがえた。
すうがくの はなしを はじめる。 すうがくの はなしを しっている ものや、 すうがくの はなしは しりたくない ものは、すうがくは ここで おわり まで とばしてほしい。
しゅうごうろん(集合論)とは、 しゅうごうを あつかう かんがえかた である。 なんらかの あつまるもの、げん(元)、こうせい・ようそ(構成要素)が あつまった ものを しゅうごうと いう。たとえば、 ほん、 もじ、 おと という みっつの あつまるものが あつまった ものを ひとつの しゅうごうと かんがえる ことが できる。しゅうごうは あつまるものにも なる ことが できる。 たとえば、 (1)ほん、もじ、おとが あつまった しゅうごうと、 (2)かがみ だけが あつまったもの である しゅうごうの、 ふたつの しゅうごうが あつまって ある ひとつの しゅうごうに なる ことが できる。 ただし、 この しゅごうでは、 ほんと もじと おとと かがみが あつまっていると かんがえては いけない。 この しゅうごうは、 ふたつの しゅうごうが あつまっていると かんがえる べき である。 そして、 たまたま、あつまるものの ひとつの しゅうごうの あつまるものが、 かがみ だったと かんがえる べき なのである。
さて、かんとーるが かんがえはじめた げんだいてきな しゅうごうろん では、むげんの しゅうごうが でてくる。 これまで あつかってきた しゅうごうは、 あつまるものの かずを かぞえられた。 たとえば、ほん、 もじ、 おと という みっつの あつまるものの しゅうごうの あつまるものの かずは、 みっつ である。 しかし、 かざえられらない むげんの かずの あつまるものが あつまった しゅうごうが ある。
たとえば、 せいすう(整数)ぜんぶ である。せいすう(整数)とは、…、-3、-2、-1、0、1、2、3、… などの かずである。せいすうとは、 0に いちを くわえたり ひいたりする ことを くりかえすと できる かず である。 この せいすう という しゅうごうの あつまるものの かずは むげん である。 かぞえられない。 なぜなら、もし せいすう ぜんたいが ゆうげんだと する。 すそのときに、 かぞえられた すうじの なかで いちばん おおきい かずに いちを たすと、 これまで かぞえていなかった せいすうが あたらしく うまれてしまう から ゆうげん では ない。 なので せいすう ぜんたいは むげん である。
このような むげんの あつまるものを あつまった しゅうごうと、 ほかの むげんの あつまるものが あつまった しゅうごうを くらべる。 すると、 むげんの しゅうごうの あつまるものが いくつあるのか という おおきさが くべつ できる のである。 どちらかの むげんの しゅうごうは、 もう かたほうの むげんの しゅうごう よりも おおきいか、 ひとしいか、 すくないかを いう ことが できる のだ。 しかし、 じっさいに あつまるものが いくつ あるのか かぞえる ことは できない。 なぜなら むげんの あつまるものが あつまった しゅうごうを かんがえていた から である。 そこで、 いくつ あるのか、 という ことを あらわす ことばを 「のうど」(濃度)と いう。えいごでは cardinality、かーでぃなりてぃー である。どのような れきしが あって にほんごでは、 「のうど」 という ことばが つかわれているかは わからない。 さらに、 かんとーるが どいつごで なんと いっていたかは わからない。 しかし、 はっそう(発想) としては、 ある いっていの はんいの なかでの こすうを ぜんたいの こすうと みなす という かんがえかた から 「のうど」 という ことばが つかわれているのだと おもう。
じっさいに のうどを くらべてみよう。 せいすう(整数)ぜんたいの しゅうごうと、 0いじょうの せいすう(しぜんすう)ぜんたいの しゅうごうを くらべる。 すると、 のうどが ひとしい のである。 ちゅういしておく べき ことは、 どちらも あつまるものの こすうは むげん であり、 むげんを くらべている のだ という こと である。 むげんを くらべた ときに、 その むげんの おおきさを くらべる ことが できる という のが、 のうど(濃度) という かんがえかた であった。さて、なぜ のうどは ひとしい のか。 なぜなら せいすう(整数)と 0いじょうの せいすうを ひとつ ひとつ たいおうさせる ことが できる から である。たいおうの させかたは、 つぎの ふたつの どうがの かいせつが わかりやすい ので、 みれる ものは みて ほしい。わかりやすいが はやい どうが、https://youtu.be/lYhB-MGxxKw?t=170。せんもんかの せつめいだが すこし わかりにくい どうが、https://youtu.be/RN3AR28u1-U?t=1395。まとめると、 0に ちかい せいすう から 0いじょうの せいすう(しぜんすう)を まいなすが ついている かずと まいなすが ついていない かずと こうごに わりふっていくと、 すべて わりふれる のである。
しかし、すべての むげんの しゅうごうの 「のうど」、 つまり おおきさが おなじ である わけ では ない。 ちがう 「のうど」、 おおきさの むげんの しゅうごうも ある。 たとえば、れんぞくした かず すべてを あらわす、(0.66とか -0.3333…とかの かず である) じっすう(実数) ぜんたいは、 0いじょうの せいすう とは 「のうど」、おおきさが ちがう。 この ことを しょうめいした のが、 かんとーる であった。 かんとーるの たいかくせん・ろんぽうと いう。
これも、 どうがを みると わかりやすい。https://youtu.be/lYhB-MGxxKw?t=456
はいりほう(背理法) という ほうほうで せつめい する。 はいりほう とは、こうだと かていすると、 むじゅんが おきる から、 こう では ない という しょうめい である。 まず、れんぞくした かず すべてを あらわす、(0.66とか -0.3333…とかの かず である) じっすう(実数)ぜんたいと 0いじょうの せいすう(しぜんすう)の 「のうど」、おおきさが ひとしいと かていする。 これは むじゅん する ので、 おおきさは ひとしくないと みちびかれる。 では、 どう むじゅんするか。 かていで、 じっすうと しぜんすうが 「のうど」、おおきさが ひとしいと かんがえたが、 「のうど」が ひとしい というのは、いっぽうの ひとつに たいして もういっぽうの ひとつが すべて たいおうしている という こと であった ので、 しぜんすうの ちいさい もの から じゅんばんに ならべた れつと それに たいおうする じっすうを ならべた れつが できる。 ただし、 わかりやすく する ために、 しぜんすう 0に たいおうする じっすうは 0 であると かんがえる。ちなみに、しょうすうてん いかは 0が むげんに つづくと かんがえられる。 たとえば、 3.3は、 3.3000…と おなじ であると かんがえる。 つぎに、しぜんすうに たいおうする じっすうの しょうすうてん から その たいおうする しぜんすうばんめの かずを えらんで、 ある じっすうを つくっていく。 たとえば、 しぜんすう1に たいおうする じっすうが 0.34000…ならば、 3を えらび、0.3 という かずを つくっていく。 しぜんすう2に たいおうする じっすうが 0.56471…ならば、6を えらび、 0.36という かずを つくっていく。 この さぎょうを くりかえすと、しぜんすうと おなじ「のうど」の むげんの けたの かずが ある じっすうが できる。 この できた かずは、 なんらかの しぜんすうに たいおうしている はず である。 なぜなら、 しぜんすうと じっすうの 「のうど」が ひとしい、 つまり ひとつの しぜんすうに ひとつの じっすうが たいおうしていると かていした から である。しかし、しょうすうてんいかの それぞれの けたに いちを くわえてみよう。 さきほどの かず 0.36……ならば、 0.47……という かずが できる。 この かずは、 しぜんすうに たいおう させた じっすうには ない。 なぜなら ある しぜんすうに たいおうする じっすうと この あたらしく つくった かず 0.47……を くらべると、 その しぜんすう ばんめの しょうすうてんいかの かずが かならず 1 ちがう から である。 たとえば、 しぜんすう1に たいおう する じっすう、 0.34000…ならば しょうすうてん いかの 1ばんめの かず、 3と、 あたらしく できた かずは (3+1=)4なので ちがう のである。 したがって、 「れんぞくした かず すべてを あらわす、(0.66とか -0.3333…とかの かず である) じっすう(実数)ぜんたいと 0いじょうの せいすう(しぜんすう)の 「のうど」、おおきさが ひとしいと かていする。」 という かていと むじゅん する。 したがって、 おおきさは ひとしくない。 これが かんとーるの おこなった しょうめい らしい。 かんどうする。
すうがくは ここで おわり。

「自分自身の条件が自由に働くようにできることになったのだが、それでも存在論とは数学であることに変わりはない。」
(45)

(すうがくが かんとーるに おいて、 なにかに つかえるか どうか では なく、 すうがく じしんを もくてきと して かんがえられる ように なった ことを かんがえていると おもわれる。 つまり、かんとーるは なにかに つかえるから しゅうごうろんを つくった のでは なく、 すうがくとして かんがえないと いけない から かんがえたと ばでぃうは かんがえたのだ。 じぶんの じょうけん、 じょうきょうを ほかの ものごと、 たとえば ぶつりや てつがくに きめさせるのでは なく、 すうがくで きめる ことが できる ように なった という ことだ。 しかし、いつでも ある という ことは どういうことか を かんがえる ことは、 ふくすうを かんがえる こと であると ばでぃうは かんがえている。)

ばでぃう「かんとーる みたいに、 げんていてきに ある という ことを かんがえる こと から はなれている。 げんていてきに ある という ことを かんがえるとは、

「多をいまだ数や図形といった対象の表象という形而上学的主題に結びつける」
(45)

もの である。ふくすう そのものを じぶんで じゆうに かんがえて わかる という ことを すうがくの きばんに おく より いっぱんてきで きめられていない ように、 ある という ことを かんがえる ように なっている。かんがえられるもの(思考可能なもの)のは たいしょうの きまった じげんに せいげんされない。」

すうがくの じょうけん

いち という じっさいには あらわれていない けれど、 ほんらいなら あるに ちがいない ものに たいする ふくすうに ついての ある という ことに ついて しる ことの 5この じょうけん。

(まとめる。 1 むじゅん、せつめいする、2ふくすうをまぜる、3むげん、4む、5こうり)

かんとーるの あとの すうがくの じょうけん

1、かんとーるの しゅうごうの いみは ふくすうで ある こと のみ である。ないてきな きまりが ない。
(あつまるものの なかみは どうでも いい という こと である。)

2、つぅるめろと ふれんけるの しゅうごうには、 しゅうごう いがいの せつめいする ものが ない。 しゅうごう だけが せつめいされない。なにかを かんがえたら、 かならず しゅうごうに なる。 しゅうごうの あつまるもの それぞれも しゅうごうに なる。 ふくすうは ふくすうの ふくすう である。 ひとつに まとまらない。
(やくしゃの つけたしでは、 ZFCと かいてあるが、 ZFでも おなじだと おもった。ZFCに ある せんたく・こうりは あきらかな ものとして ぜんていと されていたが、 のちに はっきり された。 そして、 ほかの こうり からは みちびけない ことが しょうめいされた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E5%85%AC%E7%90%86)。 要調査。

ツェルメロ=フレンケルの公理系 (ZF: Zermelo-Fraenkel) とは以下の公理からなる。

外延性の公理 A と B が全く同じ要素を持つのなら A と B は等しい
空集合の公理 要素を持たない集合が存在する:
対の公理 任意の要素 x, y に対して、x と y のみを要素とする集合が存在する:
和集合の公理 任意の集合 X に対して、X の要素の要素全体からなる集合が存在する:
無限公理 空集合を要素とし、任意の要素 x に対して x ∪ {x} を要素に持つ集合が存在する:
冪集合公理 任意の集合 X に対して X の部分集合全体の集合が存在する:
置換公理 "関数クラス"による集合の像は集合である:
正則性公理(基礎の公理) 空でない集合は必ず自分自身と交わらない要素を持つ:
〔りゃく〕
上記の ZF に次に述べる選択公理(Axiom of Choice)を加えた公理系を ZFC(Zermelo-Fraenkel set-theory with the axiom of Choice: C は "choice" の頭文字)という。選択公理を仮定しない体系も盛んに研究されている。
選択公理 X が互いに交わらないような空でない集合の集合であるとき、X の各要素から一つずつ要素をとってきたような集合(選択集合)が存在する:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86%E7%9A%84%E9%9B%86%E5%90%88%E8%AB%96、 ただし、 ろんしりしきや ていぎの もんごんなどを けして へんしゅうした。)

つぇるめろ(Ernst Friedrich Ferdinand Zermelo)は、すうがくしゃで ろんりがくしゃ である。 どいつごで かいた。 せいれき 1871ねん から 1953ねん まで いきた。げんだい・しゅうごうろんの こうりけいを さいしょに つくった。
ふれんける(Adolf Abraham Halevi Fraenkel)は、 すうがくしゃ である。 どいつごで かいた。 しおにすと。せいれき 1891ねん から 1965ねん まで いきた。つぇるめろの こうりけいを かいりょうした。)

3、かんとーるに とっては、 むげん・しゅうごうは むげんに ほんとうに ある。なので、 むじゅんする。

この無限集合の無限性はそれ自体絶対的な仕方で開かれており、不可能なものの点、それゆえ実在の点によって封がされ閉ざされているのであって、この実在がこの無限性を一貫性なきものにしている。つまり、すべての集合の集合は存在することが不可能なのである。これは実のところ、ルクレティウスの非ー宇宙論a-cosmismeを完成させたものである。
(46)

(「それじたい」 というのは、 せんざいてきには という いみにも なる ので、ほんらいは ぜったいてきに ひらかれている けれど、 じっさいは そうでは ない という いみに なる。 じつざい、 じっさいに ある ものは、 かんとの もの じたい、 らかんの げんじつかい などの ように、 ありえない もの なのである。 ありえる のは げんしょう だけ なのである。 なので、 じっさいに ある という こと だけは いえるが、 どのように じっさいに ある のか いえない という いみで とざされている。 むげんに ある ので、 さいしょ から さいご までの むじゅんの なさ、 いっかんせい という ものは ない。なぜ そういえるかは わかっていない。要調査。うちゅうろん、こすみすむ とは、 ちつじょが ある という こと である。 ちつじょが ない という せかいかんを つくった という いみで、 るくてぃうす という てつがくしゃ、 しじんの えんちょうに かんとーる という すうがくしゃを いちづけているのは おもしろい。まるくす・がぶりえる という げんだいの どいつごで かく てつがくしゃが 「せかいは じつざいしない」と いう ことを おもいだした。 そんざいしている というのは、 なにかに ふくまれている こと なので、すべてを ふくむ ような ものは そんざいしているとは いえないと がぶりえるは いった ので あった。

4、くうしゅうごう。 「純粋なしるし」(46)。 からっぽが ふくすうの ふくすうを つくりあげる。
ある という ことと、 もじは、 いち という きまり てきな じっさいには ない けど ほんらいは ある はずと かんがえられるものを げんさん する。
るくれてぃうす「げんしを くみあわせると もの になる。 げんしを くみかえると ものが かわる。 もじみたいだ。 もじを くみかえると いみする ものが かわる。」
らかん「もじは くうの しるしだ。」
(らかんは 「もじのしんきゅう」 という こうえんは あるが、 くうの しるし という はなしを していない きがする。 「もじの しんきゅう」では くうの ぱろーる、 つまり からっぽな はなし という ことを わだいに していた。)

「「一なき思考」、形而上学なき思考」
(47)

5、しゅうごうろんの だいじな ところは、 こうりてきに あつめた だけで、 しゅうごうとは いわないし、 しゅうごうの ていぎも しない。
(かんとーるは しゅうごうを せつめいしている。 たしかに ていぎは していない だろう。しかし、ていぎされる しゅうごうと ていぎに つかう しゅうごうが ある らしい。 この ことが、 ばでぃうが 「「集合」」と かぎかっこを つけている ことの いみ だろうか? せつめいする ための 「しゅうごう」の ていぎは たしかに していない。ちなみに かんとーるの しゅうごうの せつめいは つぎの とおり。

'集合'とは一つの総体Mであり、それを形成するものm(それはMの'要素'とよばれる)は、それぞれ確定し、互いに識別され得る、われわれの直感または思惟の対象である。
https://tech-blog.rei-frontier.jp/entry/2017/11/02/102042、 「ゲオルク・カントール(Georg Cantor)の著書"超限集合論"」の まごびき。

「純粋な多の思考の本質はいかな弁証法的原理をも要求しないことが明らかになるのであり、そしてこの領域においては存在に一致する思考の自由が公理の決定にあるのであって、規範の直観にはないことが明らかになる。」
(47)

(べんしょうほうてき げんり とは、 いつも おなじ ひとつの はじまりで、 それが くりかえされて ものごとが かわり、 にんしきが できる ように なる もの である。「けってい」 というのは、 にーちぇ こうぎにも でてきた。きまりを ちせいに よって わかる という こと よりも、 こうりを きめる ことが かんがえる ことの じぶんの やくわり である。 これは、 とさか・じゅん(戸坂潤)の 『いでおろぎーの ろんりがく』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000281/files/3594_38772.html)では、 もんだいの たてる ことが せつだん として もんだいに なる という はなしと にていると おもった。)

てつがくと すうがくの かんけい

ばでぃう「てつがくに すうがくが そうにゅうされてきた。ていぎしてしんじつを げんりとして ひとつに まとめる けいじじょうがくに たいして、こうりを けっていして、げんさんして ふくすうに ばらばらに する おいう すうがくが てつがには だいじ である。」
(ひるべると(David Hilbert)は すうがくしゃ。 どいつごで かいた。 せいれき 1862ねん から 1943ねん まで いきた。すうがくが むじゅんなしに かんがえられる ことを しょうめいする ひるべると・ぷろじぇくとを かんがえた。 しかし、 げーてるの ふかんぜんせい・ていりで かなり だげきを うけた。
かんとーるの しゅうごうろんを、 「かんとーるの ぱらだいす、らくえん」と いった。

Aus dem Paradies, das Cantor uns geschaffen, soll uns niemand vertreiben können. (From the paradise, that Cantor created for us, no-one shall be able to expel us.)
Hilbert (1926, p. 170), a lecture given in Münster to Mathematical Society of Westphalia on 4 June 1925
Hilbert, David (1926), "Über das Unendliche", Mathematische Annalen, 95 (1): 161–190, doi:10.1007/BF01206605, JFM 51.0044.02
https://en.wikipedia.org/wiki/Cantor%27s_paradise

「一般的な遡及効果」とは、 ふろいとが いう 「じごせい」、 あとから かんがえると という かんがえかた である だろう。 じっさいに おきた ことを、 あと から かんがえると、 それを もとめていたのだと いう ことが おおい。そして、 その ことは まちがい では なく、 そのとおり であると ふろいとは かんがえた。その いみで、 「数学のギリシャの起源から、存在は純粋数学のうちに書き込まれることを強く求めてきた」(47)と いえると ばでぃうは いっている。これは、 ばでぃうが きかがくを じぶんの てきである ひとつの きまりと みかた である ふくすうが まざった ものと かんがえて、 どっちも もともと あって、 じぶんは でんとうに のっとっている だけ なのだと、 じぶんが ただしいと しゅちょうする ために かんがえられている。じぶんが まちがっていると しゅちょうする ために はなす ことは とりあえず おいておいて かんがえられるので、 べつに まちがっていると いっている のでは ない。 )

てつがくの おしごと

ばでぃう「てつがくは まず、げんじつを かんがえる すうがくに へりくだれ。」
ばでぃう「かくれた がんぼうを あきらめろ。 そふぃすとに じょうほして、 すうがくは いる けれど、 かんがえる ことでは ない という てつがくしゃが たくさん いる。くそが。」
ばでぃう「すうがくしゃも すうがくしゃだ。 なんで みんなが わからない ことに まんぞくしているのだ。 わからせろ。すうがくは たんなる けいさんや ぎじゅつ では ない。かんがえる ことだ。」
ばでぃう「てつがくは つぎに、 すうがくは かんがえる ことで あると いえ。ひていしてきたが、いってきた。」

だいにしょう すうがくとは しこう である。

50-

すうがくは かんがえる ことでは ないと いわれてきた。

ぷらとん「すうがくは かんがえる こと では ない。 てつがくが だいじだ。」(『こっか』)
うぃとげんしゅたいん「すうがくてきに かたりえない ものは ちんもく せなば ならない。 そして その ちんもくの まわりで、 つまり すうがくでは なく かんがえないと いけない。」(『ろんり・てつがく・ろんこう』)
ばでぃう「すうがくは かんがえる こと である というのは しょうめい できない。 しょうめい できない という ことは、 すうがくの げんじつ である。」

「しかし、現実とは知られるものではなく、宣言されるものなのだ。」
(50)

もんだい

(ふっさーる)「かんがえる ことは なにかに ついて かんがえる ことだ。かんがえられる たいしょうの せいしつと はじまりを かんがえるのが てつがくだ。」
ばでぃう

「数学の観念性が存在していると宣言できるのはいかなる意味においてのことか。またいかなる意味で、それが対象のジェネリックな〔類生成的な〕形式で存在していると宣言できるのか。」(51)

ジェネリックな〔類生成的な〕は、 ばでぃうの ことばである。 しんじつを つくり だす てつづきは、 しゅに たいして るいを つくりだす、 ジェネリックな〔類生成的な〕 もの である。)

ありすとてれす1 わかれてはない

ありすとてれす「1. すうがくの たいしょうは、ほかの たいしょうと べつに どくりつに あるとは いえない。もし どくりつ しているならば、 ちてき・ちょっかんで わかるが、 すうがくに ついて ちてき・ちょっかんで わかる よりも、 ろんしょうで わかる ことが おおい。」「けいじじょうがく」だい13かん
あんぐろさくそんの けいけんしゅぎしゃ「すうがくの たいしょうを わけるのは ぷらとんしゅぎだ。 じっさいは、 すうがくの たいしょうは こうちく されている。」

「数学的なものμαθηματικάは決して分離された存在ではない、とアリストテレスなら述べるだろう。」
63

(めも。ぶんり、分離 という ことばが ある。)

ありすとてれす2 なかにない

ありすとてれす「2. すうがくの たいしょうは、ほかの たいしょうの なかに あるとは いえない。すうがくの たいしょうは わけられないので、なかに ある なら、 ほかの たいしょうも わけられなくなる。 わけられる という けいけんと ちがう。すうがくの たいしょうは うごかないので、 なかに あるなら、 ほかの たいしょうも うごかない。 うごく という けいけんと ちがう。」『けいじじょうがく』だ3かん
ばでぃう「なかに あると いうと、 すうがくの たいしょうが じかんに よって きえるという かんかく(感覚)てきな せいしつが あてはまり、 かんかくの たいしょうが じかんに かんけいなく、 がいねんで わかりやすい という ちしきの せいしつが あてはまる という はんろんだ。」

すうがくの たいしょうは げんじつには ない

ありすとてれす「すうがくの たいしょうは げんじつには ない。 まがいものの ある である。 けいじじょうがくの じゅんすいに げんじつに ある かみと、 しぜんがく(けいじかがく)の じっさいに ある かんかくてきな ものの あいだに すうがくが ある。」
(ぶんり という ことば、 じゅんすい という ことばが つかわれている。)
ありすとてれす「すうがく とは、 ふぃくしょんてきに げんじつに あると かんがえる ことだ。かんがえる ものが いちや きゅう という りそうを げんじつに なっていると かんがえて まがいものの あるを あつかう ことだ。ぶんりしていないものを ぶんりした もの として あつかう。ふぃくしょん だから しんじつには ならあない。すうがくの きまりは うつくしさ である。ちつじょ、たいしょう(対称)、がいねんの とうめいの たんじゅんさ または ていぎされたもの」
ばでぃう「げんご という ちからに よって ほんらいは ある はず だけど じっさいには ない ものを、 げんじつに ある もの として かんがえる ことが できる。」

(まらるめの はなの いんようは つぎの とおり。
大出敦(おおで・あつし)「空疎な神々:ステファヌ・マラルメ『古代の神々』試論」、教養論叢. No. 135(2014.3), p. 71-104、2014ねん。 からの まごびき。

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まらるめの はな
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の 678ぺーじが はなの いんよう

ばでぃう「すうがくそ、まてーむと ぽえむ、しは、 あらゆる げんじつの もの から ことばを つかって ふぃくしょんの ものを げんじつに ある もの として わける こと である。」
(まてーむは、 らかんが とくに つかった ことばとして よく つかわれる。すうがくと せいしんぶんせきを つなげたのが らかん であると いえば、 ここでは、 ばでぃうは すうがくと ぽえむを つなげたと いえる であろう。)

ありすとてれすの かんがえの ようやく

(ばでぃうの はんたいする かんがえ である。)
1、すうがくは まがいものの ある という ことに ついての まがいものの かんがえ である。
2、まがいものの たいしょうが まがいものの ある という しかたを もっている。
3、まがいものの たいしょうは、 かんかくの たいしょうと べつに ある わけでも なかに ある わけでも ない。
4、すうがくは ぶんりできないものを ことばで ふぃくしょんで ぶんりする こと である。
5、きまりは うつくしい こと である。
6、はっきりした るーるに したがう、 むじゅんしない ちしきを ふぃくしょんとして つくりあげる ので、 じっさいに ある ことに ついては なにも いわない。
7、すうがくは じぶんに ついて かんがえる ことが できない。 ふぃくしょんを しんじる ことしか できない。すうがくを おこなう ことしか できない。
(6に うぃとげんしゅたいんの においを かんじる。7について、らかんが すうがくしゃは すうがくを 「てつの ように かたく」 しんじる と いった ようだ。 さがしてみよう。)
ありすとてれす「すうがくで わかる という のは、 げんじつに おこなう こと である。」
ばでぃう「すうがく では、 たいしょうには ない げんじつに ある という かわりに、 かんがえる がわの しゅたいが げんじつに おこなう。」
ありすとてれす「すうがくが うつくしい ことを する だけで、 うつくしい ことは なにかを かんがえる ことは ない。」

「美は数学の営みの真の原因であるのだが、この原因は数学の言説のうちには不在である。この原因はその結果によってのみ突き止めることができる。」
55ぺーじ

(げんいん という かんがえかたの てんけいれい である。)
ありすとてれす「すうがくの おこないの げんじつの げんいんに なまえを あたえる という かんがえる ことは てつがくの やくめである。」
(ばでぃうは てき として ありすとてれすを だしてくる。

ばでぃう「てつがくは まず、げんじつを かんがえる すうがくに へりくだれ。」
ばでぃう「かくれた がんぼうを あきらめろ。 そふぃすとに じょうほして、 すうがくは いる けれど、 かんがえる ことでは ない という てつがくしゃが たくさん いる。くそが。」
ばでぃう「すうがくしゃも すうがくしゃだ。 なんで みんなが わからない ことに まんぞくしているのだ。 わからせろ。すうがくは たんなる けいさんや ぎじゅつ では ない。かんがえる ことだ。」
ばでぃう「てつがくは つぎに、 すうがくは かんがえる ことで あると いえ。ひていしてきたが、いってきた。」

しょうこ

1、ぷらとんしゅぎひはんが たんなる でんとうで、 すうがくを ちゃんと わかっていない。
2、すうがくは こうちくされた ものと、ことばてきと かんがえられている。
3、すうがくは うつくしい けいしきが さきに つくっていて、 げんじつを かんがえていないと かんがえられている。
4、すうがくに おいて、 こてんろんりがく よりも、 けいしきしゅぎ よりも、 ちょっかんしゅぎ、こうせいしゅぎが すぐれていると かんがえられている。こうりは すてられている。
(とくに だめっとを かんがえている かもしれない。 こてんしゅぎ ろんり、 けいしきしゅぎ、ちょっかんしゅぎ については、 http://www.shayashi.jp/courses/2016/moku2kouki/20170119.html。けいしき・しゅぎ という ことばと、 3の「けいしきを さきに つくる」 という ときの けいしきが べつの ことを あらわしている ことに ちゅういする。しかし、 ちょっと、 わからない。 ちょっかんしゅぎは こうり では ないが、 こうりは げんごてきに こうちく される こととは ちがうの だろうか?要調査。
ぶるばきは、ヴぇいゆ という もの などが つくった すうがくしゃ しゅうだん である。こうぞうしゅぎ、けいしきしゅぎの いちばん つよい すうがくの たいけいを つくった。ちなみに、 この ヴぇいゆ という ものは、 あの てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆ(https://hunihunisaito.hatenablog.com/entry/2021/02/24/002803)の はらから である。はらから とは、 きょうだい という こと である。
どぅるーずの りぞーむ とは、 ふくざつな ものが ふくざつなまま からみあっている という こと である。 じゅもく みたいに ひとつの ねっこ から すべてが ひろがる のでは なく、 ちかに ある ふくすうの ねっこが からまり あっている すがたを ひょうげんしている。 )

ぷらとんしゅぎ

ばでぃう「ありすとてれすに はんたいして、ぷらとんしゅぎを たてなおそう。」

「最終的に問題となるのは、数学は思考であると措定することで、この思考の思考にたどり着くことなのであって、なされるべきは、数学が自らを思考し、数学とは何であるのかということを述べるように要請されていると思われる契機を指し示すことである。周知のように、このような契機は、「危機」あるいは「基礎の危機」と呼ぶ習わしになっている。」
58ぺーじ

ばでぃう「じぶんは、 すうがくが しこうだと いう まで しか やらない。」
1、 こだいぎりしあの むりすうに よる ぴたごらすてき すうがくの きき
2、19せいきの よーろっぱの ぱらどくすに よる しゅうごうろんの きき
3、せいれき 1930ねんだいの よーろっぱの (げーてるの ふかくていせい ていりなどに よる) けいしきしゅぎの きき
4、18せいき はじめの むげんしょうに よる きき
(わからない。 らいぷにっつが むげんしょうの はなしを している はず だが。要調査。)
5、ひ・ゆーくりっど・きかがくに よる きかがくの きき
https://youtu.be/EfxUUMsdojUが きかがくの れきしを まとめている。)

ききが あった

あるちゅせーる「かがくに ききは なかった。せいじの もくてきに よって、 てつがくの ながれが、 それぞれの かがくを ならべなおした だけ。」
(るい・あるちぇせーるは、 ふらんすごで かいた まくるすしゅぎの てつがくしゃ である。「学者の自発的な哲学」は どこに でているか わからない。かがく どくじの もんだいは なく、 せいじの もんだいに かんげんできる という いみだと ばでぃうは しょうかいしている。しかし、きょうみぶかい。あるちゅせーると いえば、 けいざいの もんだいだけには かんげんできない ことを ぎろんして、 せいじや しゃかい、ことばの じげんを どうにゅうした いめーじが あるので、 すうがくや かがくにも じげんを どうにゅうしていそう だった からだ。)
ばでぃう「すうがくは、どくじの もんだいを かかえて、 すうがくは どくじに かんがえる。すうがくで かんがえる ことで いくつかの なにかが できない という ことが もんだいに なる。」

1、けいしきてきな むじゅん。ぱらどっくす。がいねんを ひろく とったら、 ただしい くみあわせを くりかえしていったのに まちがい である むじゅんが うまれる という こと。
うえの 「2、19せいきの よーろっぱの ぱらどくすに よる しゅうごうろんの きき、3、せいれき 1930ねんだいの よーろっぱの (げーてるの ふかくていせい ていりなどに よる) けいしきしゅぎの きき」に たいおうする。

(ふれーげの しゅうごうの けいしき・りろんに たいする らっせるの ぱらどっくすとは、 つぎのような もんだいの こと である。

「ある町で,この理髪師は自分の髭を剃らない人すべての髭を剃る.ではこの理髪師は自分の髭を剃るのだろうか?」

というもの.自分で髭を剃らないのであれば,自分で髭を剃らなくてはならないし,自分で髭を剃るのであれば,自分で髭を剃らない結果となる.
https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-407851

ふれーげの しゅうごうの けいしき・りろんは、要調査。)

2、りろんの はたんする れいがい。とくていの きかがくてき かんけいが、 ある という ことは かずと たいおうしている という かんがえかたの れいがいに なってた。
うえの 「1、 こだいぎりしあの むりすうに よる ぴたごらすてき すうがくの きき」に たいおうする。

「第二の事例は、確立された理論がある一点において、この理論を維持しないように強制するある例外、あるいはある過剰によって対角化される場合である。」
60

(たいかくか という ことばは、 ぎょうれつの はなし だろうか?(https://youtu.be/FTC_aekgqCg)しかし、この あとに ぴたごらすはの すうがくに おいて、 せいほうけいの たいかくせんを かんがえている ので、 たいかくせんの はなしだとも おもう。ぴたごらすはの すうがく では、 せいすうで せいすうを わって できた かず しか みとめられなかった のだと りかいした。 いわゆる へいほうこん、るーとを かんがえないと、 たいかくせんの ながさが かずで あらわせない。)

3、あたりまえと かんがえられていた ことを、 こうり として みとめないと いけないと わかる という ぶんり(分離)。きまらない むげんの しゅうごうを みとめる、しゅうごうろんの せんたく・こうり など。ひていされてきた すうがくで こうちくできない ものが あると みとめられる。
うえの 「3、せいれき 1930ねんだいの よーろっぱの (げーてるの ふかくていせい ていりなどに よる) けいしきしゅぎの きき」と 「4、18せいき はじめの むげんしょうに よる きき 」に たいおうする。
(こうちく という ことばに ついている ちゅうは おもしろかった。 construction という ことばは、 すうがく では、 「こうせい」(構成)と やくされている らしい。すうがくてき こうせい・しゅぎ など。 たいして、 constitution という こうせいと やくせる ことばも ある らしい。
せんたく・こうりは、つぅるめろが はっきりと いった。

選択公理 X が互いに交わらないような空でない集合の集合であるとき、X の各要素から一つずつ要素をとってきたような集合(選択集合)が存在する:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86%E7%9A%84%E9%9B%86%E5%90%88%E8%AB%96

かじょう という のは、 りろんを はみだしている という いみ である。)

すうがくに たいする げんじつが はどめを かける。 つまり、 すうがくに おける ふかのうな ものが、 まちがっていない ほうほうで でてきてしまう。 この ように はどめが かけられて、 すうがくは じぶん じしんを かんがえる ように なる。 つまり、 じぶんの ぜんていを といなおし、 つくりかえる ことに なる。
1「けいしきてきな むじゅん」
2「りろんの はたんする れいがい」
3「あたりまえと かんがえられていた ことを、 こうり として みとめないと いけないと わかる という ぶんり(分離)」
とは、

非一貫性を出現させるパラドックスの類に属することもあれば、過剰を生じさせる対角的なものの類に属する場合もあり、定義されないものあるいは構築不可能なものを出現させる隠れた命題の照準の類に属する場合もある。

(あれ?「5、ひ・ゆーくりっど・きかがくに よる きかがくの きき」は もんだいに ならない のだろうか? 要調査。)

はどめが かかる こと

「表面に上昇してくるものが関わるのは、数学的思考においては、行為あるいは決意にぞくするものである。この〔表面への上昇という〕同じ運動のなかで、それが遂行する決断の規範について立場を決めなければならない。というのも、いわばわたしが行為の根元にいるからである。」
61

(けつだん、きめる、けつい という ことばが この ような ぶんみゃくで つかわれていた。 ほかの ところで せいしんぶんせき との かんけいを してき したが、 まちがっていた かもしれない。
ひょうめんに じょうしょうする とは、 あらわれる という いみ だろうか?
ひょうめんは きょくめん という すうがくの いみも ある かもしれない。
こだいぎりしあの てつがくで じょうしょうと いえば、 いであかいへの じょうしょうが あるが、 かんけいない かもしれない。
わたしが こういの ねもとに いる という ときの、 わたし という のは、 ばでぃうの こと では なく、 おのおのが じぶんの ことを いう ときの わたし である。)

なにかを きめる ときには、 ある という ことが もんだいに なる。
ぱるめにです「おなじ である という のは、 かんがえる ことであると どうじに、 ある という こと である。」(だんぺん 3)
(すうがくは なにかと なにかを おなじ である という ことが もんだいに なりやすい がくもん である。 たとえば、 いそう・きかがく という ぶんや では、 どーなっつと とってつきの まぐかっぷは どちらも あなが ひとつ だから おなじ であると かんがえる。なにと なにが おなじ であるかの きまりを かんがえて きめる ときに、 ある という ことが どういう ことかが もんだいに なる。なぜなら、 きめる ことを する じぶんも ある という しかたで ある という ことと かかわっている から である。)

きめる もの たち

「実在する通約不可能なものの命令の下で、ギリシャ人たちの思考は、存在と数の、幾何学的なものと算術的なものの別の結合の仕方を決意せざるをえなかった。この決意にはエウドクソスという固有名があたえられている。」
61ぺーじ

古代ギリシャではどのようにして無理数論が発展したのかよくわかりませんが、 その集大成はユークリッド原論の V のようで、これはエウドクソスによるものと されています。
http://asait.world.coocan.jp/pythagorean/irrational/irrational.htm#section6

エウドクソス(Eudoxos)は、紀元前4世紀の古代ギリシアの数学者、天文学者。エジプトで長く暮らし、後にアテネに移住した。著作は現存せず、その仕事は後世の他の学者の引用によって現在に知られる。

彼は紀元前4世紀ごろに天動説を唱えた。円錐の体積は、同じ半径、同じ高さの円柱の体積の3分の1になることを証明した。これらの成果は、ユークリッドの著書に記載された。

天文学者としては、地球球体説を採用し、また地球を中心に他の天体がその周りを回る天動説の立場に立った。彼によると、他の星々は各々個別の透明な球にはりついており、その球は地球を中心に速さをかえることなく回転しつづける(同心球モデル)。これによって、惑星の逆行を大雑把に説明することに成功したが、定量的な予測には至らなかった。彼の説明はアリストテレス宇宙論に取り入れられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%83%89%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B9

ことばで あらわせなければ すうがく では ない という かんがえかたに はんたいして、つぅっるめろは、 むげんの ような じゅんすいな ふくすうが あると きめた。

すうがく という かんがえる ことは、 ある という ことと、すうがくの なかの かんけいで、 どれくらい なかみを おなじに するかを きめる という ことが もんだいに なっていた。

ほうこうせい

すうがくは、ききに おいて、 ある という ことは どのようなことかを きめる ことに むきあう という おこないを つづける ことに なる。かんがえる ことが できる ないようが なにかを きめる のでは なく、 かんがえる ことの うちがわの、 つまり ほかの こととは かんけいない、 ほうこうせいの きまりを つくる ことで ききを のりこえた。
(そんざいろんてき けつい というのは、 はいでがーの けつだんの ぶんみゃくか?)

こうりに ついての ほうこうせい

ある なになにに ついて、 これこれ であると 「ある なになにに ついて」と どの はんいの はなし であるかを はっきり させる ことが、 ほうこうせい である。
また、すべての ある という ありかたを している ものが ある ばしょ である、 「うちゅう」を はっきり させる ことが ほうこうせい である。
つまり、ほうこうせい とは、 すうがく という かんがえに おいて、 なにかが ある としても、 これこれの はんいの なかでの はなし であると ちょうせいする こと である。
(ひ・ゆーくりっど・きかがくは ここから つながるの だろうか?)

しょうめいに ついての ほうこうせい

はいりほうを みとめるか どうかも ほうこうせいの もんだい である。
(はいりほう とは、 これこれ である ことを かていすると、 むじゅん する ので、 これこれ では ないと しょうめいする こと である。)

「思考が存在すると宣言するものへの到達経路として、思考がそれ自身のうちで固定するもの、これに決意は関わるのだ。実在への道程が言説の歩みに方向性をあたえるのである。」
63ぺーじ

(あると せんげんする する ため には、 それは ある ところの ばしょを うごかない ように する ひつようが ある。 ある という ことが どんな かんじか わかる ための みちすじ、 ほうこう、 ほうほうが それが ある ところの ばしょ である。 その ばしょを きめる ことが もんだいに なる。)

「しかし、実在とは、思考が宣言するものであると同時に、存在がその一貫性を保証するものであり、それは異なる方向性に応じて把握される。つまり実在と呼ばれるのは、それについての決意と出会いを、また行為と発見を識別できないものなのである。思考における方向性は特異な仕方でこの識別不可能性の諸条件をめざす。」
63ぺーじ

すうがくと ほうこうせい

すうがくは、 ふかのうが くる ことを あきらかに して、 ほうこうを かえる。
ふかのうが くる ことを しょうめいする ことで、 すうがくの なかに いろんな ほうこうが ある という ことを あきらかに する。

てつがくの おしごと

ほうこうせいの いっぱんりろんを あつかって、 すうがくが すうがく じしんと ほうこうせいに したがって むすび つく ことを あきらかに する。
じっさいに ある とは、 ある という ことを きめる こと であり、 ある という ことを きめる ことが かんがえる ことに ほうこうせいを あたえる。

ほうこうせいの りろん

1、 こうちく・しゅぎ・てき・ほうこうせい
「じっさいに ある という ことの きまりは、 あつかえる ことばで きまっている。」「じれいが ひとつ」
2、ちょうえつ・てき・ほうこうせい
「じっさいに ある という ことの きまりは、 なんか わからない ものが ぜんたい だから だ。」「ぜんたいの ばしょ」
3、るい・せいせい・てき・ほうこうせい
「じっさいに ある という ことの きまりは、 ろんしょうで むじゅんが ない という こと だけだ。」「げんさん」
げんさんてき「たいかく」「かじょう」「ふくすう」「つけたし」

せいじ

1、 こうちく・しゅぎ・てき・ほうこうせい
2、ちょうえつ・てき・ほうこうせい
3、るい・せいせい・てき・ほうこうせい

「要するに、議会制民主主義、スターリン、そして今日いささか手さぐりな状態で述べられるように、ジェネリックな政治、つまり国家からの減算としての実在の政治学、あるいは計算不可能なものとしてのみ存在するものの政治学である。」
66ぺーじ

しゅうごうろん

1、 こうちく・しゅぎ・てき・ほうこうせい
げーてるの こうせい・かのう・しゅうごうの がくせつ
2、ちょうえつ・てき・ほうこうせい
きょだい・きすう(基数)・りろんの りろん
3、るい・せいせい・てき・ほうこうせい
じぇれりっく・しゅうごうの りろん

そのほかの すうがくも この みっつの ほうこうせいが つきあわされている。
(きょうせいほう という すうがくの しょうめいで、 じぇねりっく・ふぃるた という ものが つかわれる らしい。)

じっさいに ある という ことを きめる ことが もんだいだ

かいしゃく よりも、 じっさいに ある という ことを きめる ことが もんだい である。

「意見の一致は思考の敵だ。そのような一致は、わたしたちは実在を許攸すると主張するからだ。しかし、思考のもっとも内奥において実在とは共有不可能なものなのである。」
67ぺーじ

ばでぃう「すうがくは かいしゃく しない。それが いい。」
ろーとれあもん「げんかくな すうがく、 すばらしい。」
ばでぃう

「厳格なものがあるとは、形式主義や証明の連鎖のことではなく、次のように定式化できるような思考の格率を露わにするということである。すなわち、存在するものを決意するときにこそ、おまえは自分の思考を存在に結びつけるのだ。しかしそのとき、おまえは存在を意識しておらず、ある方向性の命令にしたがっているのだ、と。」
67ぺーじ

(ろーとれあもんは、 ふらんすごで かいた しじん。げんかくな すうがくを ほめるのは、 「『マルドロールの歌』第二歌第十ストローフ」である。

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ろーとれあもんが すうがくを ほめる。

原大地(はら・だいち)「「書くこと」の倫理--イジドール・デュカス『ポエジー』読解」、仏語仏文学研究. 仏語仏文学研究 (22), 105-136, 2000. 東京大学
119ぺーじ
でゅかす とは、 ろーとれあもんの ほんみょう である。)

だいさんしょう

ていねいに よみすぎて、 じかんが ない ので、 みじかく かく ことに した。
といっても、しらない ちしきに ついては、 いんようする ことに する。

らうとまん

Albert Lautman (February 8, 1908 – August 1, 1944) was a French philosopher of mathematics, born in Paris. An escaped prisoner of war, was shot by the Nazi authorities in Toulouse on 1 August 1944.

えいご やく。
Albert Lautman’s “Mathematiques et Réalité”の ほんやく。

The participation of the sensible in the intelligible in Plato can be identified. If the first contacts with the sensible are not sensations and emotions, the constitution of mathematical physics gives us access to the real via the knowledge of the structure it has been given. Similarly, it is impossible to speak of the independent reality of the modes of thought according to which it leaves it to dread and disparage the merely mathematical language indifferent to the reality that it decries, philosophy engages itself through an attitude of meditation where it should achieve the secrets of nature. There is, therefore, no reason to maintain the distinction, made by the Vienna School, between rational knowledge and intuitive experience, between Erkennen and Erleben. In wanting to remove the relationship between thought and the real, as in refusing to give science the value of a spiritual experience, one risks only having a shadow of science, rejecting the spirit in the search for the real towards the violent attitudes where raison plays no part. This is a resignation that the philosophy of science must not accept.
https://stellarcartographies.wordpress.com/2008/09/15/albert-lautman-mathematics-and-reality/


えいごやく。

The following is the Introduction to Albert Lautman’s Essai sur les notions de structure et d’existence en mathématiques: Les schémas de structure. Paris, Hermann & Cle Ed., 1938. p. 7-15. Original translaion by Taylor Adkins on 10/16/07.

This book is born from the feeling that in the development of mathematics, a reality continues which mathematical philosophy has as a function to recognize and describe. The spectacle of the majority of the modern theories of mathematical philosophy is in this respect extremely disappointing. Generally, the analysis of mathematics reveals only very little things and very poor things, like the research of identity or the tautological character of propositions[1]. It is true that in Meyerson the application of the rational identity to various mathematics supposes a reality which resists identification; it seems that there is thus the indication that the nature of this reality is different from the too simplistic diagram with which one tries to describe it; on the other hand, the development of the concept of tautology has completely eliminated from Russell’s school the idea of a reality suitable for mathematics.
https://fractalontology.wordpress.com/2007/10/16/translation-albert-lautmans-essay-on-the-notions-of-structure-and-existence-in-mathematics/

こんうぇい

ジョン・ホートン・コンウェイ(John Horton Conway, 1937年12月26日 - 2020年4月11日[1][2])はイギリスの数学者。プリンストン大学教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4

ちょう・げんじつ・すう
くうしゅうごう から ふたつの かずの あいだを とる という ことを くりかえして かずを つくっていく ことで、じっすう いがいの むげんも ふくむ かずを つくれる。 しかし、 この かずは、 じっすうと おなじく、 たしざん、ひきざん、かけざん、わりざんが できる ように つくられている という もの。

それとは別の定義および構成法が、ジョン・ホートン・コンウェイにより、囲碁の寄せについての研究から導かれている[2]。コンウェイの構成法は1974年にドナルド・クヌースの著書 Surreal Numbers: How Two Ex-Students Turned on to Pure Mathematics and Found Total Happiness[注釈 2] に取り入れられた。対話形式で書かれたこの本においてクヌースは、コンウェイが単に「数」と呼んでいたものに「超現実数」という新たな名を付けた。のちにコンウェイクヌースのこの造語を受け入れ、1976年には超現実数を用いてゲームを解析する On Numbers and Games(英語版) を著した[3]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E6%95%B0

ばでぃう

「現実の存在論が、一の規範を免れている数学として配置されるのであれば、この規範全体を回復させる必要はないとしても、存在論の、したがって数学の領域が脱全体化される点、あるいは袋小路に入り込む点がなければならない。この点を、わたしは出来事〔「出来事」を きょうちょうしている。〕と呼んだ。」
70ぺーじ

できごとに とって ふくすうは ことなる ものか どうか。
どぅるーず「ことなる。かずと しつの ちがいの ふくすうだ。」
ばでぃう「おなじだ。 こうりてきに おなじ ふくすうだ。」

「あるいは、反対の領域registrationを取り上げると、ラカンにおいてこの問いはまた、想定される知と伝達可能な知の間にある、すなわち解釈とマテームの間にある真理の蝕としての〔精神〕分析行為という思考に投じられている。しかし、これおはニーチェにとっても決定的な問題である。世界の歴史を二つに割ることが問題になる場合、生の絶対的な肯定のなかでそのような断絶の思考可能な原理とはいかなるものであるのか。」
72ぺーじ

「わたしはもう一度この点を、つまり存在論的な数学性に対抗するようにして、同様に「生」という語を存在の主名としてドゥルーズに選ばせたものを検討したいと思う。」
73ぺーじ

だいよんしょう

ドゥルーズ存在論における主要な禁令では、以下のように述べれられる。すなわち、存在とはいかなるカテゴリーにも、あるいはその内在的な分割のいかなる固定した配置にも折り畳まれることはない、と。存在者が多義的なアナロジーによって分配、分類されることが決してない以上、存在は一義的である。
たとえば性をもつsexué存在、あるいは性的なsexuel存在とはいかなるものであるのかと問うてみよう。あなたがもし男性あるいは雄という自己同定から出発したなら、その直観を構築することは不可能である。しかし、例外的にせよ、あるいは何らかの欠損によってにせよ女性的存在、すなわち女性性の内部性と想定されるものから出発するとしても、同様にこの直観の構築は不可能である。必要なのは、それらが分岐する位相において、男性における女性への生成変化devenir femme と女性の男性的領土性territorialité masclineが交錯する屈折点に赴くことである。男性は、その女性的潜在性の現働化としてのみ思考可能である。より正確には、男性を男性性に割り当てることができなくなる点においてのみ、男性は思考可能となる。というのも、男性の女性的潜在性はそれ自身、男性的領土性の逃走腺だからである。その結果わたしたちが性的存在と考えるのは、女性化の運動と男性化の中断を識別的なくなるときであり、これら女性化の運動と男性化の中断は識別不可能なもののなかで、お互いのエネルギーを交換する。
次のようにも言えるだろう。性的存在は、その存在にしたがって、つまりはその存在の様相的な現働化にしたがってかんがえられるならば、性をあたえられないし、「性的sexuel」ということで特性のある目録が理解されるのであれば、性的存在は性的でさえない、と。この目録がどのようなものであろうと、そしてたとえそれを無限に複雑にしたとしても、性的存在が直観可能であるのは、すべての特性が相互に変貌させられる、割り当て不可能で識別不可能な中間=場においてのみである。
存在はいかなる特性ももたない、というのは古い命題である。しかしドゥルーズはこの命題を刷新したのであって、それによれば諸特性の現働的な分離から分離されていない潜在化による、それら諸特性の動的な中性化が存在であるとしたことにある。」
74-75ぺーじ

いまだに りかい できていないが、 ばでぃうの いけんの かのうせいは あるし、 ばでぃうに よる どぅるーずの いけんの まとめと かんがえる ことも できる。
きほんに あるのは せいしんぶんせきの せい・さべつてきで、 せいべつ・にげんろん てきで、じょせい・さべつてきな せいべつの かんがえかた である。
ばでぃうに おける どぅるーずや ばでぃうは じぶんが あたらしい ものを つくった きになっている かも しれないが、 ただ たんに わるい ものを かさねている だけ である。
まず、この ぎろんからは、 せいべつは ふたつ である という きはんてきで わるい ぜんていが かわらない ことを かくにんしよう。
「ある」 という 「ちゅうせいか」が もたらされると しても、 それは、 ある なにかや、 せいてきに ある なにかは だんせいか じょせいかに わけられるという いみ でしか ない。
けっきょく、 せいべつ・にげんろんに おちいり、 せいべつ・にげんろんに あわない せいべつの もの たち、 たとえば えっくす・じぇんだー などを せつめいする かんがえかたには なっていない。
つまり、ふへんせいが たりない という ことだ。
さらに、 じょせい・さべつに たいする ふぇみにずむの ことばを かりれば、 「しんせいか」(神聖化) しているに すぎない。
げんじつに ある なにか としては みとめず、 すばらしいと かんがえる もの だけを じょせいに あてはめて、 げんじつの おんなたちを おとった ものと かんがえる ことが しんせいか である。
ちゅうせいを ばでぃうが みとめる としても、 てんし という 「すばらしい」 ありかた だけ であり、 それは、 ばでぃうに とっての にんげんが いっていた としたら、 まちがっていると ひていしてくるのだ。 くたばれ。
いじょうが、 かんたんな せいべつ・にげんろんの もんだいてん である。
いっぽうで、 じょせい・さべつを くりかえしている だけ という ことも いえる。
まず、 じょせい・さべつを きじゅつしている だけ といって たすけようと しても、 それでは その じょせい・さべつを かえる ような きじゅつの しかたを しなければ わるい だけだ という はんろんを する ことが できる。
じょせい・さべつを きじゅつしながらも、 その じょせい・さべつを かえる ような きじゅつを する ほうほう としては、 ばとらーの 『じぇんだー・とらぶる』 でも よめば いい。 「てつがくしゃ」 でさえ できている のだ。 ばでぃうに できないとは いわせない。たんに やらない だけで、 わるい ことを したい だけ なのだ。 ほんにんは わるい ことを している つもりは ない のは、 わかっている。 けっか として わるい ことを している という はなしを かいている のだ。

そして、この ぶんしょうは どぅるーずに おいて、 なぜ 「おんなに なる」 という ことが もんだいに なる のかを あきらかに する ぶんしょう では あるが、 りょうどかが だんせいてきな ものと される ことは、 もんだいが ある ように おもえる。 りょうどかの いちばんの れいは、 しゅふ としての おんなが いえで おんがくを かける ことを ぐたいれいとして どぅるーずは つかっている からだ。 この ことは、 どぅるーずの りろんを いちぶ せつめいするが、 いちぶ せつめい できない かのうせいが ある まとめに なっている かのうせいが ある という ことを あらわす。
さて、おんなは かのうせいに とじこめられる ことに なる。 そして、いせいあいしゅぎと しすじぇんだー ちゅうしんしゅぎが あらわれてくる。わるい。
もし、 ここを りかいしたいならば、 らかんの せいべつかの ぎろんを さんこうに すると わかりやすく なる だろう。 ふぃんく という ものの せいべつかの ぎろんは わかりやすいと おもう。
せいてきに ある という ことを、 げんじつせい という ような ようそうの もんだいで かんがえるのは、 うまくない という のは その とおりだと おもうが、げんじつ てきな ことと かのうてきな ことが かわる ことが せいてきな こと である という ことも わるい。 うまく きじゅつすら できていない。 かえる ことも できていない。
いじょうの ように かいたが、 もちろん、 うまく きじゅつできている、 かえる ことが できる という ことを みちびく ことを ひていは しない。 がんばれ。

にーちぇと どぅるーずに おいて、 ばでぃうは そんざいを いきる ことと むすびつけている。そして ひはんしている。

だいごしょう すぴのざ

ベルナール・ポートラ(Bernard Pautrat)

1944年生まれ。1962年にパリの高等師範学校(École normale supérieure)入学。1966年にアグレガシオン(教員資格試験)主席合格。1968年に高等師範学校復習教師に就任し、同校で自分が教えを受けた復習教師であるアルチュセールデリダの同僚となる。1971年にニーチェ論で博士号取得(指導教授はモーリス・ド・ガンディヤック)。1972年にスリジーラ・サールでド・ガンディャックと共にニーチェをめぐる10日間のシンポジウム『今日のニーチェ?』を主催。以後はスピノザ研究及びスピノザの仏訳(『エチカ』、『知性改善論』、『政治論(国家論)』)を継続的に行ないつつ、退官まで高等師範学校で教鞭をとり、現在は同校名誉教授。また1970年代から劇作家、脚本家、詩や戯曲の翻訳家としても活動している。

著作

• Versions du soleil. Figures et système de Nietzsche, Seuil, 1971.(『太陽の諸ヴァージョン————ニーチェの文彩と体系』)

• Ethica Sexualis. Spinoza et l’amour, Payot, 2011.(『性愛のエチカ————スピノザと愛』)

論文(日本語訳のあるもの)

• « Nietzsche médusé », in Maurice de Gandillac et Bernard Pautrat (dir.), Nietzsche aujourd’hui ?, UGE, 1973, réédition, Hermann, 2011.(ベルナール・ポートラ「メドゥサに石化されたニーチェ」、高橋允昭訳、『現代思想』臨時増刊号、第四巻第十二号、青土社、1976年)

スピノザの仏訳

Spinoza, Éthique (bilingue latin-français), Seuil, 1988, nouvelle édition en poche, Seuil, 1999, édition revue et amendée, 2010.(スピノザ『エチカ』の羅仏対訳)

Spinoza, Traité de l’amendement de l’intellect (bilingue latin-français), Allia, 1999, nouvelle édition, 2016. (スピノザ『知性改善論』の羅仏対訳)

Spinoza, Traité politique, Allia, 2013.(スピノザ『政治論』のフランス語訳)
http://www.gakuju.com/kyokai/Pautrat_20171125.htm

だいいちの かんけいは いんがかんけい である。
きょうつうの ものを しる ことが りせい である。

カップリング関係が異なる属性のだいだでの分離を乗り越えることを可能にするように、包含関係は有限と無限のあいだの分離を乗り越えることを可能にする。知力はそのとき存在論的に無限な知力の局在的な点として決定され、無限な知力はそのような点を集めなおしたものになる。無限な知力が主体的効果の内因的な様相であると述べることが適切であるなら、人間の知力は、局在化された主体的効果である。あるいはそれは主体の微分である。あるいは単刀直入に言って、それは主体である。
(5)人間の知力は同様にカップリングによっても定義されうる。そのことからすぐに、真理という点だけが公理論的であり一般的であるということが帰結する。特異性は、局在的な主体のあらゆる微分から減算される。また次のようにも述べられる。ある主体が、それゆえ人間の精神が真理にたいしてもつ唯一の受容力は、存在の数学、あるいは数学的に思考された存在である。すなわち、あらゆる真理はジェネリックである。
あるいは、次のようにも述べられる。存在について思考可能なものは数学的である。」
109ぺーじ

だいろくしょう、ぷらとん

プラトン的であるとは、感覚可能な経験や言語の経験には移行しない思考、すなわち決定不可能性に場所を譲る決意に依存し、一貫しているものはすべて実在すると仮定する思考として数学を承認することである。」(すべて きょうちょう されている。)
115ぺーじ

あぽっりあてきな すたいいるは

「つまり、それは決定不可能なものの点へと導くことであり、それによって存在の出来事の観点から思考はまさに決意すべきであることを、そして思考はあmずもって記述でも構築でもなく、(臆見との、つまり経験との)ある切断であり、したがってある決意であることを示すためである。」
117ぺーじ

ごーるどばっは よそう

「全ての 2 よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E3%81%AE%E4%BA%88%E6%83%B3

ロウボトム もの
らむぜーきすうは おめがで あらわされる。
れんぞくたいかせつ。
https://youtu.be/0MnPvO9DtxM?t=2004

だいななしょう ありすとてれす

プラトン主義者にとって、数学とは現実〔界〕の学である(これはラカンの定義であって、この点ではかれは完全にプラトン主義者である。)」
130ぺーじ

「さて、数学の観念的記号表出の出所の検証を可能にするのは何か。これらの表記が空間的なものにせよ他のものにせよ、何らかの表象に結びつけられているかぎり、それらは構築〔「構築」を きょうちょうしている。〕である。それらが言語、数字表記、計算に結びついているかぎり、それらはアルゴリズム〔「アルゴリズム」を きょうちょうしている。〕である。アリストテレス主義者あるりはライプニッツ主義者にとって、数学は(その代数学的側面について述べれば)アルゴリズム的であり、(幾何学的側面について述べれば)構築的でなければならない。このことのみが論理学としての数学の運命を、現実的な理性の監督にゆだねるのだ。」
132ぺーじ

だいはちしょう げんごろんてきてんかい

うぃとげんしゅたいんと はいでがー では、

「思考の運命がかけられている場こそが、まさに言いうるものの境界なのである。」
140ぺーじ

ぐろだんでぃーく・うちゅう
は?
あいれんばーぐ
まっくれーん
ふれいど
ろーヴぇあ
じゃん・とぅさん・どぅさんてぃ
べんきょうを しないと いけない。

だいきゅうしょう とぽす

もし本当にトポス理論によって論理学が数学の可能的な宇宙の局在的次元であることを内的な仕方で確立されるのであれば、その場合この理論のなかには、わたしが存在論的論理学ontologicologique、あるいはハイフン入りで存在ー論的とさえ呼ぶような定理が実在するのでなければならない。つまりそれは、次のようなジェネリックな形式をもつ定理である。すなわち、ある思考可能な宇宙が云々の存在論的特徴を所有する場合には、そこに云々の論理的制約が特定されるという定理である。この定理は遠近法の転倒と〔「と」を きょうちょうしている。〕、言語とその規則的な統語論的使用についてのあらゆる明示的な言及の削除と〔「と」を きょうちょうしている。〕を遂行するものである。

ばでぃう「あるが いち なら こてんろんりに ならない ぞ☆」

だいじゅうしょう ろんりがく

「つまり哲学の運命への言語の支配をどのように中断すべきなのか。」
154ぺーじ

「(1)論理学は形式化でもなければ、統語論でもなく言語論的装置でもない。それはトポスというジェネリックな概念の下で、可能な数学的諸宇宙について数学化された記述をおこなうことである。ある数学的宇宙つまりあるトポスはそれ自身の論理学を局在化する。
(2)可能な数学的宇宙は、いくつかの存在論的特性とそれ自身の内在的な論理学のいくつかの特性のあいだでの強制的な相関関係を固定する。この相関関係の研究が論理学そのものの根本的内容である。こうして、論理学はそれ自身が存在論に従属することを思考する。論理学はこの従属を思考するがゆえにこそ、数学化されうる。というのも数学は存在論そのものであるのだから。
(3)数学はある可能な宇宙を現実のうちに配置する公理論的決意によって遂行される。このことから論理学的拘束が生じる。論理学的拘束は可能な宇宙の論理学によって論理学的に思考される。これらの論理学的拘束は現実の数学によって実践されるのであって、思考されるのではない。
(4)その結果、論理学と数学の還元不可能な隔たりは思考する決意の盲点〔「もうてん」という ことばは、 みえない ところを いみ するが、 この ことばが ひていていきに つかわれるとき、 さべつてきに なる。 みえない ことは わからない こと では ない。 みえない ことは よい こと でも わるい こと でも ない。ここでは、 いんようしたが、 かわりに、ながい ひはんを いんようの したに かく ことで かわり と する。〕に起因することとなる。この種のあらゆる決意は必然的なものとして実践される論理学を設定するのだが、この論理学はその決意の帰結なのである。数学化された論理学は、存在ー論的相関関係を思考するがゆえに、この盲点〔「もうてん」という ことばは、 みえない ところを いみ するが、 この ことばが ひていていきに つかわれるとき、 さべつてきに なる。 みえない ことは わからない こと では ない。 みえない ことは よい こと でも わるい こと でも ない。ここでは、 いんようしたが、 かわりに、ながい ひはんを いんようの したに かく ことで かわり と する。〕の晴れ間となる。しかし、そうするためには、この論理学は公理論的な命令の下でのみ出会う現実から、定義と分離の体制のなかでしか記述されない可能なものへと後退しなければならない。」
156ぺーじ

「もう」という ことばは いちぶの しかくしょうがいしゃを あらわす ための ことば であると どうじに、 せいがんしゃ という みえる ものの しゃかい では さべつてきに つかわれる ことば でもある。「もう」 という ことばを つかう ことで、 なんらかの わるい ことを あらわそうと したり、 できると おもうの であれば、 それは まちがい である だけ では なく、 どうとくてきに わるい。
この ことは、 「もう」に ついて ほとんど しらなくても かくことが できる ていどの ないよう である。 じぶんは ほとんど しらない ので、 かける。 もし、 あなたが せいがんしゃで、 せいがんしゃ という ことば すら しらない という こと ならば、 それは あなたは じぶんが せいがんしゃ である という こと すら しらないで いきのびてきた という ことの いみを かんがえなければ いけない。 あなたが であってきた しかくしょうがいしゃと あなたは どれだけ はなされて いきのびる ことに なっている のか かんがえる ひつようが ある。 しかくしょうがいしゃと いっても、 そのなかには もうを なのる ものも いれば、 ろーびじょんを なのる ものも いただろう。なのらない ものも いた かも しれない。 しかし、 もし、 ここ まで よんできて、 しかくしょうがいしゃと あった ことが ないと おもえる ので あれば、 それは、 あなたが せいがんしゃ・ちゅうしんの しゃかいの なかで、 であってきた しかくしょうがいしゃを せっきょくてきに わすれようと している から では ない だろうか? あなたは しかくしょうがいに ついて はなしても だいじょうぶな あいてと みなされて こなかった から では ない だろうか?
そのように かく いっぽうで、 「もう」 という ことばに そこまで きにかけなくて いいと おもう ものも いる かも しれない。 とくに、 もう という ことばを つかっている じぶんの なまえとして つかっている ものも、たとえ ひていてきに つかわれたと しても、 さべつとまでは いえないと おもう ものも いる かも しれない。 まず かいておく。 「じぶんは そこまで する のだ。」 つぎに かいておく。 ことばが どれだけ しゃかいに あふれているかを かぞえてみてください。 もちろん、 ことばを まったく なしで せいかつ できている かたも いる かも しれない。 しかし、 じぶんは この ぶんしょうを かいている じてんで、 そうとうの かずの ことばを つかってきている。 なので、 ことばの つかいかたが 「そこまで」と あらわされる ていどの もんだい だとは おもわない。 そして さいごに、 たとえ その ことばを さべつてきに つかう ことが さべつで なかった としても、 その ことばを えらぶ さべつてきな かんがえかたを じぶんは ゆるさない。

さらに、 もし、 ぐうぜんに おなじ おとや おなじ もじを つかっている という なら、 それは かえた ことばを つかって いい という いみに なると おもう。 ここまでの はんぱつを まねいてまで その ことばを つかう いみは どこに あるのだろうか? これは ひはんだ。 そんな いみなんて ないと かんがえている という ことだ。「ひょうげんの じゆう」? もうを なのる もの たちの ひょうげんを うばっておいて じぶんで しんがいしている じゆうを じぶんの ためには つかう なんてことは できない し、 する べき では ない。「そんな ことを いう から さべつに はんたい しなくなるんだ」? ふざけないでほしい。 そんなことを いう から いまから おまえを ころすと いわれても はんろん できなく なるから やめておいた ほうが いいし、 やめるべきだ。そして、 その ことばを いった じてんで、 その ものは すでに さべつに かたんしている から、 あんしんしてほしい。 もとから そんな ものは なかま だと おもっていない。 そんな ものには、 さべつを やめる べきだ という ことばを なんかいでも おくる つもりだ。 さべつを やめなさい。 さべつを やめよう。さべつを やめるべきだ。 さべつを なくさなければ ならない。 さべつを なくして ください。 さべつを やめてください。 さべつを やめろ。 さべつを やめよ。 さべつを なくそう。

サブオブジェクトクラシファイアー???

随伴 (ずいはん)、随伴性 (ずいはんせい) はいくつかの異なる分野で異なる意味で用いられている。

哲学において、随伴または付随 (ふずい) とは、スーパーヴィーン (supervene) の訳語として、ある異なるレベルにおける特性の間で成立している強い依存関係に関して使われる言葉である。 付随性を参照のこと。
数学において、随伴は、数学の様々な分野に現れる随伴関手の対 (adjoint functors) が示す関係を表すものとして使われる。 随伴性はアジョイントネス (adjointness)、アジャンクション (adjunction) の訳にあたり、この概念は圏論において抽象的レベルで明確化される。 普遍性も参照のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E4%BC%B4

「この〈行為〉は論理学的には逆なのだが、サイコロの一振りのような、偶然との出会いという形式をとる。こうして思考は純粋な出来事的アジャンクションの条件にしたがう。このアジャンクションのためにこそ思考は厳格な論理学を生み出すのである。この論理学は、思考が出来事に忠実でありながら、〈行為〉を認めることで自らを開示するということから生じる。この忠実さが今度は、自分の〈主体〉にとってのみ必然的であるような、ある真理を配置する。〈必然性〉は結果でしかないのである。」
159-160ぺーじ

まらるめ

まらるめの はなしを よんだ。
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=BA88455348-00000012-0131
こうい とは、 じし する こと である ようだ。

ベルトラン・マルシャルはこれをさらに詳細に説明している。「とある城館の一室、真夜中。カ}テンあるいは分厚い壁掛けで四方を囲まれたこの部屋には大時計、鏡、神秘的な家具があるのが分かる。テーブルの上には聞かれた本が一冊と蝋燭が一本。おそらく最初期のシナリオに対応するであろう断章のいくつかには硝子の小瓶も登場する。登場人物は、彼の種族の最後の継承者で、テーブルの本に書かれている宣教の言葉で太古の義務、偶然を廃するものと見なされる行為を完遂しようとしている。このため彼は本と蝋燭を携えて、部屋を出て、彼の祖先を納めている墓のある地下に降りていく。この行為の虚しさを意識しながらも、祖先の義務に忠実に従い、彼は行為を完遂する。それは小瓶のなかのものを飲み干す、あるいは妻子を振り(単なるまねごと、それを揺り動かすことに満足するのでなければ)、本を閉じ、蝋燭を吹き消し、祖先の灰の上に横たわることである」
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154

なわち生の苦、そして死ななければならない義務、そのために必要な虚無を含んだ小瓶、その虚無は自我の不在=狂気の実体化したものである。こうして毒をあおった後に、祖先の灰の上に寝ることでニルヴァーナ浬葉、虚無との合ーが達成され、イジチュールは完全に虚無の深淵に沈んでいくことは前述の通りである。
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154

暗さのなかから明るさが生まれ、ヘーゲルにならって、無限定で無に等しい絶対者である「闇」「夜Jから有限な存在である光が生じることを、マラルメはその語の音の持つ観念を利用し、さらにそれを反復させることで試みようとしているのである。
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154

ox

問題は第一段落の「響き[sonorite]Jと最終段落に現れる「時計[horloge]」に含まれるorである。この存在によってorすなわち金が呼び起こされるのであるは3)。単語のなかにこのorを含む語、あるいはorという語は文中、14箇所に散らばり、反復されている。このことから視覚的・感覚的に金の輝きが明滅するかのような効果が生み出されている。また同時にhorlogeはラテン語のhorologuim、さらにはギリシア語のhorologionにまで遡れ、時間を意味するギリシア語haraから派生してきている。そのためこのhorlogeは時間を連想させ、orは金の輝きと同時に12時を告げる時計の打刻音をも喚起し、時計の鐘が鳴るたびに光が明滅するような印象も生み出している。
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154

ixに ついて

海老沢,英行(えびさわ・ひでゆき)「X のソネ : ステファヌ・マラルメアナグラム」藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.64, (1993. 12) ,p.70(141)- 88(123)
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00640001-0088

マラルメ詩集では,発表以来最後のドゥマン版詩集に至るまで題名のないこの12音節詩句の変則ソネは,「Xのソネ」と呼び習わされてきた。これは,仏語においてとても稀少なその脚韻yx ( ix) [iks]に基づいておジャンルり,ご覧のように,四行詩節の脚韻(yxと-ore)は,性を替えて,三行詩節にも同ーの韻(-ixeと-or)のままで維持されている。

Ses purs ongles tres haut dediant leurs onyx,
L’Angoisse, ce minuit, soutient, lampadophore,
Maint reve vesperal brfile par le Phenix
Que ne recueille pas de cineraire amphore
Sur les credences, au salon vide: nul ptyx,
Aboli bibelot d’inanite sonore,
(Car le Maitre est alle puiser des pleurs au Styx
Avec ce seul objet dont le Neant s’honore.)
Mais proche la croisee au nord vacante,
un or Agonise selon peut-etre le decor
Des licornes ruant du feu contre une nixe,
Elle, defunte nue en le miroir, encor
Que, clans l’oubli ferme par le cadre,
se fixe De scintillations sitot le septuor.
その清らかな爪で高々と縞璃耳舗を捧げるとく苦悶〉はこの真夜中灯明台となって支えるく不死鳥〉に焼かれた夕べの数多の夢を
その灰を納める骨壷はない虚ろな居間の飾り棚の上には,つまりプティックスはない,空しい響きのするあの廃れた置物は(なぜならく主〉は涙を汲みにく黄泉の河〉へ行ったのだからく虚無〉の栄誉を高めるあの唯一の品を携えて。)だが北向きの空いた十字窓の辺りに,金の光が絶えようとしているのは,たぶん水の精に火を吹きかける一角獣たちの縁飾りのため,水の精は鏡の中で雲となって消えてしまうが,枠に閉ざされた忘却の内に定着されるのは,きらめきのやがて定かな七重奏。

以上のように,後半では西欧における神話的形象や悲劇の登場人物が集中して現れており,結局,妖精の死に、冥界下りの聞には復活がないことの暗示を読み取ることができるのである。しかし,最後にそれを忘却することによってかろうじて,鏡即ちこの詩篇に定着されるのは,ギリシア神話でニンフのカリストーが化した「北斗七星(大熊座7))」であり,あるいはむしろ詩的に喚起される七つの星の星座である。つまり,最終行の最後の語「七重奏septuor」が表しているのは,このソネの脚韻orなのである(その点では初稿が正確にorの脚韻を七つ用いているが,ここでは同じ性の脚韻の数であると考える)。いずれにせよ,この星座は,上の格闘を調停する徴なのだ。また,詩人が創造し直しているのは,一間の部屋と,聞かれた窓を通して室内にある鏡に映し出された星座であり,この詩篇は天と地を結び合わせているので,7としろ数が暗に天地創造の七日間を示してもいる。(第4詩節)

詩句の初めから,新たな読解を再開してみよう。1行目の詩句には,すでにそのアナグラムに照明が当てられている。官頭では,最終詩節に先立って,予め星を表す清らかな「爪(縞璃楢)」が提示されていたが,l行目の6音節までの詩句がseptuor(七重奏)のアナグラムになっていることが指摘されているのEs PURs ongles Tres hAUt.../SEPTUOR12))。これは,終わりの先取りによって始まり,始まりの回想によって終わるマラルメの詩に固有の構造であり,この詩人が抱いていた書物の構想に見合うものだったに違いない。「一冊の書物は始まらないし,終わりもしない。せいぜ、い,そう見えるだけだ13)。」しかし,最も大事なことは,「七重奏」が意味している「星座」の暗示することであり,また,この単語自体の綴り字である。要するに,septuorという語は,詩人の名前と密接な関係で結ばれており,詩の制作において,St句haneという名前から産出されたかのような印象を与えて止まないのだ。なぜなら,まず詩人の名前の最初の四文字(STEPhane)は,数字の七(sept)のアナグラムになっている。また,後半の五文字(StePHANE)は,語の構成要素である-phane(またはphanie)と同じ綴りであり,これはギリシア語のphanes(phaneia)を語源としていて「出現Jの意味がある。したがって,マラルメの名前をsept-phaneと解読することができる。ソネの最終詩節で定着されるのは,いわば「七の一出現J(sept phane)である七つ星(septetoiles)だから,以上の点より,詩人の名前に始まる語の連合が成立する(St句hane;sept-phane; sept etoiles; septuor; SEs PURs ongles Tres hAUt)。このように,類推やアナグラムによるこの詩人の名前の展開によって最初の詩句が得られたかのような印象を覚える。

初期詩篇と呼ばれる1860年代前半までの詩はボードレールの問題系である「理想と現実の差異への葛藤と苦しみ」が、その後は「詩が書けないこと」そのものを主たるテーマにおいている。マラルメがある時期から生涯を通じて目指していたのは、詩を創作する上で生じる「偶然」を排した完全・完璧な美しい詩を書くことであった。その並外れた困難さゆえに、極度の詩作の不毛に悩まされた。それこそが後に着想される「作品」Œuvreである。彼の詩集に収められた詩は、幾つかの例外を除いて、ほとんどがこの「作品」(更なる後に「書物」Livreに置き換わる)の制作過程の副産物であったとも考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%A1

最晩年、『コスモポリス』誌に『骰子一擲』を発表。これは「詩と偶然」について扱われたものだが、さまざまに異なる書体や文字の大きさを用い、それまでの西洋詩のもつ諸概念を根本的に覆した。「賽(サイコロ)の一振りは決して偶然を排さないだろう」"UN COUP DE DÉS JAMAIS N'ABOLIRA LE HASARD"という軸になる一文と、それにまつわる複数の挿入節の文章で構成されている。詩の内容のみならず、その視覚的形態はいまなお革新的で斬新である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%A1

だいじゅういちしょう かず

「直接的に純粋な多として、つまり一なき多として」
163ぺーじ

じぇねりっくな ば(166ぺーじ)
”ジル・シャトレ”
なぞの じんぶつ
いちばんおもしろい しょうだと おもう。

だいじゅうにしょう かんと

ここで かんとが でてくる ところが おもしろい。
ばでぃう「いちとして かぞえる ことは じょうきょうに おかれた ある とも いう。」
けつだん(175)

「というのも実のところ、対象は実在するものを示すのに適切なカテゴリーでは決してないのであって、実在するものとは、状況におかれることで純粋な多が「一として数えられる」ことが明らかになるような、そういったものだからである。〔それにたいして〕対象は連結にかんしてのみ一を示す。つまり対象とは、存在者のなかでも、むずび付きの錯覚にしたがって表象可能となったものである。「対象」という語は、離接的である二つの問題系のあいだを混ぜ合わせる媒介作用として働く。すなわちそれらの問題系とは、一貫性を欠く多を「一として数えること」の問題(つまり存在の現れの問題)と、実在するものの連結された経験の問題である。対象という概念は両義的なものになるが、このもう一つの両義性について述べれば、これは典型的にカント的な両義性である。すなわち「悟性」という同じ用語に統一の高次機能――根源的統覚――と、連結の悟性的機能を割り当てるというような両義性である。」
178ぺーじ

「この何ものか一般=xは決して現前することも結び付けられることもないにもかかわらず、その存在にかんしてその連結は維持されている。そしてわたしたちは、このxが純粋な多あるいは一貫性なき多であり、それゆえ対象は、見かけの連結の相関項であるかぎり、いかなる存在も有していないということを知っている。カントは、存在論の減算的特徴を、つまり現前する状況を存在と結びつける空を生き生きと意識していた。したがって、「一として数えること」という不在である操作として施行された根源的統覚の存在する相関項は正確には対象でなく、対象一般の形式なのであり、つまりは対象がそこから生じる絶対的に未規定な存在なのである。カントはこのことからかれのもっとも集中した存在論省察において、数える操作を二つの空の相関関係〔「二つの空の相関関係」を きょうちょうしている。〕として考えるようになる。
180ぺーじ

だいじゅうさんしょう ぐん、けん、しゅたい

おもしろい。

「ここでプラトンの『ソピステス』を、あらゆる知解可能性のなかでも最重要五類の知解可能性を想起しなければならないだろう。存在、純粋な存在、純粋に空虚な存在は文字Gであり、「存在する一l'un-qui-est」の文字の指標でしかない。静止はId(G)であり、これは不活性な自己との同一性であるが、そこにおいて存在Gはあらゆる作用の停止点としてある。運動は矢印であり、不活性ではない同型射であって、Gをその同一性の能動的な表出のうちに編み込む。最後に同と異l'autreの弁証法は矢印の差異において明確にされる。というのもこの差異は、差異であるかぎりにおいて異を証左するのだが、この異はそれぞれが異が同型射であることで、同様に同の形象でもあるがゆえに、同の差異化する働きでもあるものでしかないからである。
言ってみれば群とは、同の異性という形の下での知解可能なものの最小限の提示なのである。
あらゆる矢印が自らの逆元と結合しているという矢印のカップリングは、思考にとって何を意味するのか。つまり、自らと同一になるある特異なやり方があたえられたとき、このやり方は同時に自分の「鏡のなかの存在」も、つまり自分の対称項も予め規定する。このことは、哲学の黎明期から知られているように、同一性は模倣の装置よりも、むしろ鏡の装置と結びついているということである。あらゆる同一性は、その同一性を二重なものにすると同時に消去するこの異なる同一性として、自らを転倒されたものを課す。根源的な所与はあらゆる異から区別された自己との同一性であるよりもむしろ、対称的な二つの同一化のカップリングなのであって、これらを一緒に取り上げると不活性な同一性に再び至るようなそういったものなのである。これが方程式f o f'= Id(G)がマテームとして表していることである、
結局、群の概念は圏論の定義(対象と同型射)によってその本質があたえられているのだが、この概念こそが同一性の真の思考なのである。
(a)最初の一は、あらゆる内部性を欠いた文字Gの空虚な点以外のものでは決してない。
(b)この文字は、不活性な、非能動的な同一性をあたえられている。この同一世はあらゆる内在的な作用の純粋な停止点Id(G)なのであって、空虚な文字のままである自己との関係であるような同一性である。
(c)自己との同一性の様態は複数あり、各々の様態を同定するのは自己から自己に向かう作用、すなわち同一性に能動的な仕方で「形をあたえる」同型射、つまり特異な仕方で同一性を受動化するGからGへの矢印fである。こうして〈同〉は常に〈異〉の働きに取り込まれている。この同一であるやり方は、他にも一つあるいは複数ある同一であるやり方とは異なる。
(d)同一性の各々の様態はそれを転倒したもの、あるいはそれと対照的になっているもの、つまりそれの鏡像であるような別の特異な様態とは対になることで、同一性はすぐさま作用をもたなくなる。
こうして今や、群は主体の思考にとってのマテームをなすと述べるべき時が来た。フロイトが、そして次にラカンがその主体の逃げ行く同一性として記録しようとしたものに、群は形式的な仕方で妥当する。
固有名が主体の体制のなかで文字ーシニフィアンとしての位置を占めているとみなす場合、最初は実際に存在するのは文字だけである。固有名そのものは空であり、何も述べていない。主体はむしろ自らの同一性の能動的な諸形象が編み込まれたものとして提示される。この能動的な形象は、欲望がおのれを現前させる、シニフィアンの分節化である。つまりその形象は最初の文字とは異なる情報であるのだが、そこにおいては同の主体même-sujetが、その同一化の異-複数性のうちに外-在する。精神分析の治療は、編み込まれた糸を解きほぐすようなものであって、不活性な同一性ではな――これは固有名のゼロ指標でしかないのだから――、同の異他性、つまり内在的な同型射の複数の錯綜した矢印を考える可能性なのである。最後にフロイトがエンペドクレスの掲げた旗の下で、生の欲動と死の欲動というアンチノミーとして思考したものが、この二重体とイメージの体制へとそれぞれの紐紐を編み込む。死のイメージのカップリングのよって、象徴界ラカンがその死者の頭蓋骨〔役に立たない残滓〕と呼ぶものが存在させられるのである。死者の頭蓋骨とは不活性な同一性の象徴であり、墓標に刻まれるのはもはや固有名だけであるのと同じである。そしてこの墓碑銘、つまり死んだ固有名は、群において述べられるように、それが生まれるときにしても同じであるのだが(たとえば「群Gがあるとしよう」と述べられるように)、もはや空虚な文字でしかない。
このようにして精神分析理論とその状況、つまり治療との関係は今のところまだ神秘的なものではあるが、今後明らかにされることだろう。いわば群の理論が存在するのと同様に〔精神分析にも〕理論が存在するのである。最終的にその理論は編み込まれた主体に潜む主要なカテゴリー、つまり文字、不活性な同一性、異を介した同の動き、同一のものの操作的な複数性、イメージといったカテゴリーを思考するものである。これにたいして治療は、特異性である群、その実在においては理論へと推移しないある主体-群を同定しようとすることであり、この主体-群の糸は一本ずつ解きほぐすのでなければならない。
障害となるのは、主体-群が無限であると考えることをあらゆることが許していることである。おそらく主体が自己同一となる様々な仕方が無限個存在していることは、主体に固有の事態でさえあるかもしれないのだ。それゆえ分析がそのものとして終わることはありえない。わたしたちは群について、主体がおのれの固有名に耐えられることと一致することがらしか手にすることはないだろう。自己との同一性の生きた実効性が、不活性な同一性が絶えず回帰してくる危険にさらされることがないようにするために、暫定的ではあれ主体的な紐紐から十分に同型射を切り離すことが精神分析のささやかではあるが根本的な目的である。精神分析は主体-群の無限の生を、それに名をあたえる文字の高みまで連れていく。精神分析は文字に生をあたえるのである。
精神分析の理論的原理は最初から最後まで変わることはない。すなわち自己と同一であるやり方は、つまり「自己自身」である死んだやり方は一つしかないけれども、主体的構造の同型射からなる群においては、同一であることのしかじかの様態といったものが存在しているという論理的原理である。」
197-201ぺーじ

だいじゅうよんしょう あると あらわれる こと

よみおわった。 さいごの ほうは もういちど、 べんきょうし なおしてから よみたいと おもった。

ほんやくと ちゅうが なにより よかったと おもう。 かなり たすかった。
すうがくを もっと ちゃんと べんきょうしたいと おもった。

おわり。
さいとう

かくめいれき 229ねん 7がつ 29にち
Décade III Nonidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 18にち