さいとー・ま

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触発する言葉001

ジュディス・バトラー竹村和子(たけむら・かずこ)訳), 2015,『触発する言葉――言語・権力・行為体』岩波書店(いわなみしょてん).
をひたすら、ゆっくり読んでいく連載を始めます。マラソン的に、長く続けていきたいです。

「序章 言葉で人を傷つけること」の3頁から。英語の題名を直訳すると「導入 言葉的脆弱性について」
脆弱性ヴァルネラビリティvulnerability)という単語が英語の題名に含まれている。この単語は後期のバトラーにとってはとても重要な単語である。被傷性(ひしょうせい)とか可傷性(かしょうせい)などと訳されているのも見たことがある。これはおそらくレヴィナスの影響でこのように訳されているのかもしれない。vulnerableという言葉はウイルスに感染しやすいなどの意味がある。それゆえイメージとしては、レジリエンスとは反対と言う感じ。もちろん、バトラーにとっては、女性や性的マイノリティが被害を受けやすいということを念頭においてると考えられる。
この本、『触発する言葉』の一番の問題は、言葉で傷つくということである。そういう意味で言葉的脆弱性といっているので、それを「言葉で人を傷つけること」と訳すのは、すばらしい。感動した。

¶0

まず、オースティンからの引用がエピグラフにある。
オースティンとは、言語行為論を展開した人で、パフォーマティヴィティという言葉の起源の一人とされている。バトラーのジェンダーのパフォーマティヴィティをオースティンとのつながりで説明する慣習があるけれど、それは少し無理筋だと言うのが個人的な見解である。そもそも、『ジェンダー・トラブル』では、オースティンは参照されていないので、バトラー自身の話から理解する必要がある。そこらへんは、藤高(ふじたか)さんの『ジュディス・バトラー』などがおすすめ。オースティンにおいては、パフォーマティヴという言葉はコンスタティブという言葉と『言語と行為』(英語の題名を直訳すると、いかにして言葉で物事を行うか、となる)の初めに対比される。コンスタティブというのは、事実確認的と訳されて、真偽が決まる文章を言うことである。対して、パーフォーマティブとは行為遂行的と訳されて、真偽が決まらず、むしろ適切か不適切かが問題になることを言うことである。たとえば、「いま私は文章を書いている」ということを言ったとき、それが正しいか間違っているかを考えられる。そういうときには、コンスタティブと言われる。対して、「私は100円をかける」と言った時に、それが事実をいっているのかどうかと言われると困るような場合がパフォーマティブである。このようにいう時は、物事の真偽が問題なのではなくて、発言することで賭けるという行為をしている。つまり、言葉は単なる記述だけではなく、何かを行うという意味での行為にも使えるということを強調して、研究の対象にしたのがオースティンである。ちなみに、オースティンの議論の後の方で、このパフォーマティブとコンスタティブという区別はうまくいかないということが示されていく。
最初の言葉である「不適切性」(Infelicity)とは、パフォーマティブな発言(発話行為、speech actと言う)で問題になる事柄である。先の例について言えば、一人で言ったら、それは不適切だと考えられる。この不適切性は、マイナスで、つまり否定的に評価される(「害悪」(ill))。竹村訳では「こうむらざるをえない」と訳しているけれど、英語はbe hair to(…の後継者である)という表現を使っている。飯野勝己(いいの・かつみ)訳(オースティン、2019、『言語と行為』、講談社(こうだんしゃ))では、

「確かにここでは言葉を発することがそうであるような一定の行為、あるいはそれを部分として含む行為との連関において、不適切さが私たちの関心をかき立てた(あるいは、かき立てそこなった)のだが、しかし不適切さは一般に、儀式的もしくは儀礼的な性格をもつすべての行為、すべての慣習的行為に宿る病いであること、ただしあらゆる儀式が(そしてあらゆる遂行的発話が)あらゆる形式の不適切さに陥りうるわけではない」(39-40)

と書いている。
慣習的行為というのは、オースティン(飯野(いいの)訳)も40頁でいっているように、賭けるとか財産を譲渡するという行為のことである。これらは、繰り返し、ある昔からの形式にのっとって、行うことで適切になるような行いである。注意しておきたいのは、バトラーが引用した部分では言語的行為について語っていないということである。元の文脈では、発話行為の不適切性を整理して、これは発話行為以外の他の行為にもあてはまるのではないか?ということを自問自答するときにでてくる文章である。だから、「すべての」という言葉に強調がされていて、遂行的発話行為だけではないことを強調し、発話行為が慣習的行為の一種であることを強調しているのである。
儀式的、儀礼的というのは、ジェンダーについての特徴としてもバトラーが使う言葉である。
ここでは、発話行為とそのほかの行為の違いが解消される方向へと向かっている文である。

次の引用もオースティンの引用である。

There are more ways of outraging speech than contradiction merely

飯野勝己(いいの・かつみ)訳(オースティン、2019、『言語と行為』、講談社(こうだんしゃ))では、

「発話が道を踏み外すには、たんに矛盾による以外にも、いろいろな仕方がある。」(82)

と書いている。この「道を踏み外す」という表現は、その段落の前の方にもでてきて、「これらのケースのすべてにおいて、道を踏み外している印象が共通している」(81)と述べている。そして、それらのケースを列挙すると、次のようになる。
「すべての男は赤面するが、どんな男も赤面しない」(矛盾)
「猫はマットの下にいて、かつその猫はマットのおもて面の上にいる」(矛盾)
「猫はマットの上にいて、かつその猫はマットの上にいない」(矛盾)
「猫はマットの上にいるが、私はそのことを信じない」(不誠実)
「ジャックの子供たちはみんなハゲだが、ジャックに子供はいない」(無効)
「ジャックに子供はいないが、ジャックの子供たちはみんなハゲだ」(無効)
上の三つは矛盾として一般的に知られていたが、下の三つは矛盾ではないが「道を踏み外している」(outrage)。ちなみに、この箇所はパフォーマティブ発話行為ではなく、コンスタティブな発話行為の解説である。
一方で竹村(たけむら)はoutragingを「人を蹂躙する」(3)と訳している。また、contradicitonを「反駁」と訳している。これは、オースティンの文脈からすれば訳として不適切に感じる。蹂躙(じゅうりん)とは、特に力とかを持っているものがそれを使って他者を踏みにじることというイメージがあるので、発話したものが強いという印象が与えられる。しかし、ここでは発話が強いと感じるというよりも、「ばかにしているのか?」とか「ふざけるな」とかの怒り(outrageはまさに怒りもあらわす)を表すようにうながす発話だと考えられるからである。さらに、反駁(はんばく)は他者の議論の矛盾を突くというイメージだが、ここでは相手の発言の矛盾を指摘するというより、まさにその矛盾のことを意味していると思う。
そう考えると、飯野(いいの)訳の「道を踏み外す」も工夫した訳なのだとは思うが、バトラーのエピグラフとして引用するには不適切な気がする。ようは、outrageの原義にもどって、「人を怒らせるような発話は、単なる矛盾以外にも、いろいろな仕方がある」ぐらいに訳しておくのが無難に思える。outrageには、人にショックを与えるといういみもあるようだから、「ショックを与えるような発話は、単なる矛盾以外にも、いろいろな仕方がある」とも訳せるが、矛盾はショックを与えるか?と考えると、少し微妙なので、日本語訳するときの限界と思って受け入れるしかないかもしれない。
ともかく、outraging speechというのは、言葉によって人の感情を動かす、特にマイナスの感情である怒りやショックを引き起こすということについて示唆している文としてバトラーは引用しているといえよう。バトラーは、言葉で傷つくことについて論じているからこそ、この部分を引用したのであろう。
その感情を引き起こす発話行為は、それが偽である矛盾だけではなく、いろいろあるのだ、ということをオースティンは主張している。

¶1

訳がすばらしい段落だと思った。

1

言葉と訳されているのはlanguageである。で、フランス現代思想系の議論では言葉に関する用語はたくさんあるので注意が必要である。フランス語で、la langue(言語)、le langage(ことば、言語活動)、le parole(発言)が区別される。ソシュールにおいては、ラング(la langue)は体系としての言語であり、パロール(le parole)は一つ一つの言葉のことであり、ランガージュ(le langage)は言語で表現することができる能力、およびその能力でできた言語活動を指す。これが広く広まっている使いかたである。しかし、例えばラカンなどは別の使い方をしている。ラカンにとってランガージュは、「ことば」と訳すことができるような特殊な構造のことを指す。ラカンにとっては「ことば」(ランガージュ)は、人々が使っている言語というよりも、広く言語以外にも適用されるシステムを指す。ランガージュをことばと訳すのは、セミネール2巻において、「はじめに、ことばあり」という文をランガージュという言葉を使って訳しているから。ともかく、そういう錯綜状態があるなかで、バトラーはここでlanguageをラカンのいうような構造の意味では使っていない。まさに、言語で表現されたものがlangageだろう。つまり、特殊な記号体系の表現のことを指しているだろう。
面白いのは、「わたしたちは何を語っているのか」(3)(what kind of claim do we make?)という質問をしていることである。素直に考えれば、「言葉で傷つけられるとはどういうことだろうか?」と疑問を投げかけてもいいはずである。しかし、バトラーは一つ引いた形で疑問を投げる。バトラーにとって、「言葉で傷つけられた」と主張しているということは事実であり、前提条件である。しかし、それはどういう類の主張なのだろうか?と問うているのである。つまり、「言葉で傷つけられた」という主張は、何をしているのか?という問いであると考えられるだろう。予想される答えは、「単に事実を記述しただけだ」とか、「抗議をしているのだ」とかが考えられる。つまり、コンスタティブな主張をしているとか、パフォーマティブな主張をしているということをもって、「どんな類の主張か?」と尋ねているのである。
さらに、その主張をするのは私たちである。ということに注意を向けておこう。単に一般に人々という意味でもあるが、バトラーも「言葉で傷つけられた」と主張することがあるということが示唆される。

2

エージェンシーはとても難しい単語である。竹村は行為体と訳しているが、これは苦肉の策というか、バトラーのための訳語である。バトラーの文脈に限定しなければ、agencyとは、何かをやったと言えるという性質である。例えば、ある人が別の人を殴ったとき、その殴った人はagencyがあるから、殴ったのはその人だと言えるし、多くの場合殴った責任をとるだろう。では、その人が棒で殴ったとしよう。そのときに、殴るという行為を行ったのはその棒ではない気がするだろう。こういう場合に、棒にはagencyがないといえる。つまり、棒は何かをやったと言えるという性質がない。だから棒に責任を取らせるようなことはしないだろう。では、動物はどうなのか?とかそういうことを考えるときにもagencyという言葉が使われる。だから行為者性という訳語も与えられることがあるのである。
言葉(language)に行為者性(agency)を帰属させる(ascribe)とは、傷つけるという行為を行ったのは言葉であると主張することである。棒が道具であり、棒には行為者性がないと思ったように、言語を道具として考えれば、基本的には言葉には行為者性がないと考えるのが一般的である。しかし、ここではそう考えない方がいいのではないか?というのがバトラーの議論の持っていきたいところ。言語をどう捉えるか?が問題になっているのである。ちなみに、ascribeは竹村(たけむら)訳にあるように、原因を帰するという意味もあるが、「ascribe grace to God 神を慈悲深い存在とみなす」というように、性質がそれにあると考える、いわゆる性質を帰するという意味もある。
まあ、実際はかなり強引な議論の持っていきかたをしているように思える。「言葉によって傷つけられた」と主張するように、「棒によって傷つけられた」と主張することはできるはずで、その場合は棒に行為者性を帰しているというより、何を使って傷つけられたかということを言っているだけのように思えるからである。injured by ...のbyの意味を行為者に対する受け身における動作主ととるか、道具の意味でとるかという二つを混同している気がする。動作主としてとったら確かに行為者性があるように考えていそうな気がするけれど、別に動作主だからといって行為者性があるとは限らないのではないかと思ってしまう。
続いて、languageの説明として、a power to injury(人を傷つける力)と言い換えている。ここで既によくある行為者性から既に外れている。よくある見解では、行為者性を持っているのは人などの物体である。磁石の力などは行為者性という言葉では表現しないだろう(これは英語話者に聞いてみたい)。磁石などの力は原因であるけれど、力が行為をしているわけではない、というのがよくある見解である。しかし、バトラーにとって「行為」というのは、かなり普通でない使い方をしていると個人的には思っている。いつか、それで論文を書きたいなあ。
ともかく、ここで注目するべきは、言葉(langage)は力(power)と考えられているとバトラーは考えていること。
いや、まってほしい。もともとの文は

”We ascribe an agency to language, a power to injure”(1)

である。これは、We ascribe an agency to language, a power to injure to language なのか、 We ascribe an agency to language,(which is) a power to injureなのか、という問題がある。つまり、これまでは後者にとって言葉は傷つける力だ、といっていると解釈してきたけれど、ここはもしかして、行為者性のいいかえとして傷つける力だと考えた方が無難な気がする。つまり、言葉には傷つける力、さらには行為者性が備わっていると考えているというならば、納得だ。
さて、ここで一つのことが分かった。
バトラーにとって、行為者性とは、傷つける力のことである。
これは、ある意味では解りやすい。というのも、誰の行為か?ということが問題になるのは、誰かが傷ついて、その責任を問う時が多いからである。もちろん、喜ばしたのは誰かということを問うことも多いはずであるが、それよりは傷ついた場合のほうが真剣に考えるはずである。自分が具体例として殴ることをだしたこともこういう意味でつながっている。
竹村(たけむら)訳では「自分たちを、中傷が投げつけられる対象の位置におく」ととてもあざやかに訳しているのだが、原文は

”position ourselves as the objects of its injurious trajectory”(1)

と書いている。直訳すれば「それの傷つけるような軌道の対象として自分たちを位置づける」となる。まず、itsは言葉だろう。injuriousは傷つけると訳されてきたinjuryとのつながりに注意しておく必要がある。trajectoryが問題だ。一般的に物の軌道、動いていく道筋なんかを表す言葉である。この単語を眺めていると、objectは対象というより、動く物のことを指しているような気がする。いや、itsが言葉ならば、言葉が動く物であり、その向かう先をobjectと言っているような気もする。そちらの方が意味的にも分かる。自分たちを主体ではなく、客体、対象として位置づける。力を受けるものとして位置づける、という意味になるからである。実際、objectには的(まと)という意味もあるから、こちらの解釈でいいはずである。
ここでもう一つのことがわかった。バトラーにとって、言葉は動く物である。 その軌道の先に私たちがいるときに、私たちは言葉で傷つけられたと主張するのである。

3

次の文は、バトラーにおける行為について考えている自分にとっては、とても興味深いところである。ここは竹村(たけむら)訳ではactを「働く」と訳しているけれど、原文では

”We claim that language acts, and acts against us” (1)

と言っている。つまり、「言葉が行為し、私たちに不利なことをすると主張する」と訳せる。このactの意味はなかなか独特であるわけだ。
そう考えると、ここでactを「作動」と訳し、agencyを「作動の起点となるということ」とか訳して考えるのもありなきがしてきた。

次の部分も難しい。竹村(たけむら)訳は「その主張がなされる次元は、言語のさらなる段階であり、そのまえの段階で発動された力をくい止めようとするものである」(3)としているが、原文は

”the claim we make is a further instance of language, one which seeks to arrest the force of the prior instance”(1)

と書いている。
instanceは、これまたフランス現代思想用語で、「審級」と訳される。元々は裁判のレベルのことを表している。日本だと、地裁、高裁、最高裁というのがそれである。地裁も審級であり、高裁も審級であり、最高裁が最終審級である。ここから、フロイトが人間の心の働きを三つに分けた時に、審級という言葉を使った。第二局所論のエス、自我、超自我というのが審級である。つまり審級とは、裁判のようにある決定がなされる一つの単位という意味である。そして、審級という時には審級は複数ある。それぞれの領域(=局所)で決まった決定が対立したり矛盾しなかったりする。
バトラーのここの文では、言葉によって傷つけられたという主張が、言葉の一つ先の審級であるということを言っている。つまり、傷つける言葉が言葉の地裁であり、そこでは傷つけるという判決が決まったわけだけど、言葉によって傷つけられたという主張の言葉は言葉の高裁であり、そこでは地裁の判決を却下するということが決まったというイメージである。
ここで大事なことは、言葉を一つのものとして捉えないことである。複雑なものを複雑なままに捉えることが大事と言うのがバトラーの姿勢である。複雑性を無かったことにすると、苦しむものがでてくるから、複雑性を無視しないことが大事である。『ジェンダー・トラブル』では権力の複数性という形で主張される。
そして、言葉によって傷つけられたという主張の審級は、前の審級の人を傷つける力(power to injure)、つまり人を傷つけるという法の効力(force)(この言い換えは単に同じ言葉を繰り返すのを避けたのだとも考えらる)を阻止(arrest)しようとするのである(ちなみにarrest jugementで判決を(誤審であるとして)阻止するという意味になる)。このように、審級ごとで決定が異なって対立関係に入ることがあるというのが、審級という言葉を使う時の典型例である。フロイトの場合も自我と超自我の決定が異なり、葛藤にはいるというのが基本的な考え方である。
以上からわかったように、ここでは法律の比喩が使われている。これは訳には出しにくいところなので、仕方がない。

4

言葉の力を阻止するにしても、言葉を使わなければいけない、という話の構造はバトラーのよくやる問題の取り出し方かもしれない。『権力の心的な生』でも、主体を形成する暴力に反対するにも主体を形成する暴力に頼らないといけないという話があった気がする(要確認)。しかし、ここでは、「そんなもの当然では…?」という感想が出てきてしまう。言葉の力を言葉以外の力で止めることの方が難しい気がしてしまうからである。同じ媒体の力だからこそ相殺とかができる気がする。まあ、しかし、バトラーは「当然のことを主張してる」とかえしてくるかもしれない。「言葉の力はすべて悪い」という結論を引き出さないように議論を持って行っているとも考えられる。対抗的な戦略を採用するのも、悲観的な議論で絶望することもないところはバトラーらしいといえるかもしれない。

続いて、竹村(たけむら)訳では「どんな検閲行為によっても事前にゆるめることができない拘束状態におかれている存在」(3)と訳しているが、原文は

”caught up in a bind that no act of censorship can undo”(1)

としている。「事前に」という要素は原文にはないように思える。a bind は困った状態という意味。caught up in で巻き込まれているという意味。つまり、検閲という行為では解消できない困った状態に巻き込まれてる、ということ。ここで、検閲、つまり国家権力によって言論を規制することに反対しているのである。検閲はポルノ論争などで問題になる。

おわり。