さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

フェミニズム基礎文献研究会UDトークの記録

2023/3/16(木)の21時から行ったフェミニズム基礎文献研究会のUDトークの記録です。編集していません。
レジュメはこちら。
hunihunisaito.hatenablog.com



テストしてこれでも聞こえますかね。
聞こえてたらな、でも聞こえてそうだなスピーカーの許可、ごめんなさい。
どうする許可したと思ったんですが、ができていなかったとのこと。
町メーカーとして招待。
スピーカーとして、あの大村さんにスピーカーとして招待したつもりできてない少々お待ちください今ですね、共同ホスト。
感じです。
と言っていない。
に始めるかもしれあと2分ぐらいお待ちください。
多分、こちらの方が聞きやすいかなと思うんですがもし何か、聞きやすさ、承認。
...UDトークをちょっと忘れてましたなのでもう一度、ご連絡いたします。
レジュメはですね、さいとうのTwitterのピンどめされた一番上のツイートに、レジュメって書いてある。
貼ってありますので、そちらを、選択していただくと、ブログに飛んでですね、レジュメが見れると思います。
なんか、大村さんの承認してるんですけどね。
なんかうまくいかないですね。
スピーカー尚、あの時、スピーカーリスクですとか、そうですね。
ちょっと尚さん手伝ってください海をクエスト承認しないって方しちゃ駄目ですよね。
承認とすべきです。
承認。
有井消えちゃうごめんなさい所々皆さんは少々お待ち。
なさい。
ちょっと、さん聞こえてますと共同ホストなんですけど大村さんもですね。
喋れるように、何か、フォローリクエスト。
何か選択肢フォローなんてスピーカーん許可をするようにしてもらってもいいですか。
何か承認してもらうのを、ちょっとやってもらってもいいですかね。
リクエスト。
その間にちょっと進めてくれて、皆様所掌松室さんも、スピーカー、皇居にしているのも凄い。
なんか接続中ってなってますね。
なんかその作業しといてもらってもいいですか、裏で。
難しそう。
さん少々お待ちください農産できそうですか。
任せても大丈夫そうですか。
はい、UDトーク今入れました。
これからですね。
フェミニスト基礎文献研究会を始めたいと思います。
よろしくお願いします。
まず注意事項からお話させていただきます。
今回はですね、申し訳ありませんがこのマイクをつはい、あれ喋る。
喋ってるんですけど、皆さん聞こえてない。
どうすればいい。
ごめんなさい。
もし、さいとうの声聞こえてたらどなたか、何かリアクションGoodとか、何かしてもらってもいいですか。
聞こえてますね。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
皆様、ですのでちょっと続けていきますね。
少々お待ちください。
ちょっと業務連絡してくのでちょっとお待ちくださいね。
ご連絡終わりました申し訳ありませんが今回はですねマイクの方での発言は許可していませんとコメントフォームで発言の方ありましたらお願いします見ておきますので、適宜取り上げていきたいと思います。
全体の流れを説明いたします。
1時間報告をして、一時間対談という形でこの文献について話していくという形になっています。
対談としては、大村さんっていう方にちょっと今回お願いしようと思っています。
で、いくつか資料があります。
さいとうのツイートの一番上にですね、多分、ごめん、レジュメのリンクとコメントのリンクとUDトークのリンクがあると思います。
それらを選んで、見てみてください。
特にレジュメのリンクはですね、ブログに繋がっていて、そちらでどうみて、あのレジュメを見ていただいてやっていける、見ていただけると嬉しいです。
それでは、今回の報告を始めていきたいと思います。
1時間程度つまり22時10分ぐらいまでお話したいと思います。
まずレジュメの方を開いてください。
フェミニズム木曽文献研究会レジュメとして、熊本理抄さんの差別部落女性の体制形成に関する研究という本を取り上げていきます。
海宝出版社、母2020年に出版されました。
まず初めに行きたいと思います。
被差別部落女性を今回は部落女性と短く書きます。
今回のレジメは、文字としての漢字をあまり使いません。
理由は二つあります。
一つ目は、自分は文字としての漢字によっていろいろな人が情報を仕入れなくなること。
この状態が差別だと思っているからです。
二つ目、今回取り上げる文献のテーマが部落女性であり、部落女性は文字が読めないことを理由に差別されてきたからです。
また、このまとめる中で、レジメを作ったさいとう私さいとうの言葉に言い換えているところが多いです。
その点には注意してください。
では次に、なぜこの文献を選んだんか話していきます。
この文献を選んだ理由は、一つには、日本におけるインターセクショナリティと、フェミニズムの関係、それの基礎文献だからです。
もう一つは、自分の研究2の問いに関係しているからです。
研究の問いには二つあります。
一つは、性別を巡って人々はどんな議論をしてきたのか。
そして2番目、特に性別二元論という言葉を使って人々が何をしてきたのかというものが自分の問いになります。
では、次です。
著者の熊本理抄さんについてご紹介いたします。
西暦2002年まで国際人権NGOで活動していた型です。
2017年の博士論文を2022年、20年に出版されています。
その文献を今回読むことになります。
その他の文献については下のページに書きましたので、ご参照ください。
次に、文献の内容のまとめに入っていきます。
まずこの本の問題。
設定を見ていきたいと思います。
問いが二つありまして、問いの①です。
部落女性は、どのように主体性形成をして、変化を引き起こす人になるのかこれが問いの一番です。
それに対する答えの一番が、自己教育運動や部落解放運動を通じて妨害されながらも、自分が社会構造の中でどのような立場にあるのかを自覚して、昔の人たちは、今の人たちとの繋がりを意識することで、自分で決めて変化を引き起こすようになる。
というのが、この問いへの答えになっています。
この本全体でこういう答えにたどり着くことになります。
問いの二つ目があります。
問いの二つ目は、部落女性はどのように運動をするべきかという問いです。
これに対する答えは、2番ということで、部落女性の思想や経験により、フェミニズムの所概念や諸定義を再構築していくとともに、部落解放運動が掲げてきた差別論と主体性のを問い直していくことが必要であり、複合差別概念をその戦いに導入するべきであると熊本は述べていると思います。
これも、この本、全体を通じて出される。
答えになっていきます。
さて、前提を、ない一生の問題の所在についてお話したいと思います。
背景はですね、部落解放運動でもフェミニズムでも部落女性のことがしっかりと考えられていないということが背景としてあります。
目的として、本件を目的っていうものを読み上げます。
本研究は、日本の被差別部落女性以下部落女性の主体整形性に焦点を当て、その形成過程を明らかにする中で、部落女性が直面する諸問題を考察し、部落女性による運動の今後の課題と展望を提示することを目的とすると書かれています。
ここに、さいとうからコメントをしておくと、あのどのようになっているかという事実を問題にしているのではなく、どのようにするべきかという実践を問題にしている。
実践的な論文と言えると思います。
方法についてまとめさせた。
聞き取りという方法を、みさおと3章文章の読み取りを4章、理論的検討を5章で行っています。
次に視点です。
複合差別という概念と、主体性という概念を使っています。
複合差別とは、アメリカ合衆国のブラックフェミニズムから、国連を通じて部落女性の運動に1990年代から持ち込まれた言葉なんで、そしてですね、次に、著者の熊本理抄さんが1999年に複合差別と訳した。
訳しました。
部落女性は、それまでは二重三重の差別抑圧、という言葉を使っていました。
この複合差別という概念が使えるかどうかを、この本で考えていくというのが一つの目標になります。
次に、主体性という考え方です。
主体性とは、社会的、歴史的な環境の中で生きる人との変化のために、能動的に社会に働きかける力や自己の行動を選択し、その行動に責任を取る力を持つことであると説明できると思います。
この要素を三つに、分けると、まず一つ目が、どうせ、つまり他人が決めるのでなく、自分で決めるということ。
二つ目が責任を取るということ。
三つ目が、変化をさせる力を持つことの三つで構成されていると思います。
そしてこの主体性ができることを妨げるのは、差別や運動の中のジェンダー体制性別のあり方です。
また、ここの引用も読ませていただきます。
差別と他者規定によって、自らの尊厳を貶めることを非差別者自身が行っていく主体性形成阻害の過程と、一方では、人間としての尊厳に目覚め、新たな規範の創造や記念館を図り、自らの中に蓄えていく主体性痙性対9の過程がある。
このように、述べていくのが特徴的なと思います。
また、関係性や社会、社会、参加から主体性が形成され、主体性から、関係性を作ったり、主体参加ができるということが述べられていました。
また、運動から主体性が形成され、主体性から運動が形成されるという。
循環関係も述べられています。
主体性が形成されることを良いことと評価しているという点も注目に値すると思います。
次行きたいと思います。
ごめんなさいここでコメントさいとうからのコメントを述べさせていただきたいと思います。
ここでは、能動的か受動的かというのはどうしたらわかるのかという問題があると思います。
ここでは、熊本理抄はですね、自分で決めた自分のイメージは良いものであるはずという前提があると思います。
だから、自分自身に悪いイメージを持っていると、それは他人が決めたのだと考えられると。
しかしですね、いろいろな差別に反対したいので、ここには不満があります。
暗い人よりも明るい人の方が良いという差別に反対するときに、この前提では困ると考えられます。
ただし、常識的にはこれで良いんだなと。
私は考えております。
次、第2章に入っていきます。
部落民であること、非差別女性の聞き取りから、という章になっています。
この第2章は福岡県の90人の部落女性から話を聞き取ってまとめています。
ただし、部落解放運動に関わっていた人に多く話を聞いているので、聞いた人には偏っているということには注意が必要です。
部落女性の主体性はどのように形成されるのかという問いに対して、この章では、差別で妨害された主体性は、運動を通じて人との繋がりから形成されると述べられています。
中に、内容について説明していきます。
他人が決める自分のイメージ。
他人から自分が部落民であることを知らされるので、自分のあり方のイメージを他人が決めてしまう。
だから最初は差別を受ける部落民より差別をする非部落民が、差別的なイメージについて多くのことを知っているという状況になっています。
そして、そのイメージを受け入れます。
受け入れてしまいます。
差別をする理由は、部落民が悪いからであるという差別をする側の考え方を受け入れてしまって、部落女性自身が悪いと思ってしまいます。
自分が悪いと思ってしまいます。
他人が決めたイメージを受け入れてしまって、自分を責めるようになります。
こうして差別が主体星形成を妨げると熊本は説明しています。
つまり、ここで主体整形性が妨げられるっていうのは、自分で自分のイメージを決めていないからですね。
自分で決めることが主体性の一つの要素でしたので、次に行きます。
さらに、人と関係することを避けるということも語られていました。
結婚のときや会話をしているときに部落差別がわかりやすくなるので、わかりやすい差別に遭わないように、非部落民との恋愛や結婚、さらには非部落民との人間関係を避けるということが報告されています。
コメントです。
ただし、聞き取りをしたときは、結婚は戸籍上の異性との2人組でしかできなかったことに注意が必要です現在もそうなんですが、また、異性愛関係しか記述がないことというのは、熊本の聞き取りの技術が足りなかったことである、あるということも指摘できます。
次に行きます。
差別がされたことがないと語りが、よく見られます。
部落民であることではなく、貧困の問題であるとかだったり、差別だと振り返るほどの余裕がないと語ったり、人間関係を避け、させられているので、否定的なことを言われるような差別を受けたことがないという意味で差別がないとかだったり、よくある差別体験と違うから差別がないとかだったり、非部落民と関係したことがないから差別を受けたことがないと語ったりします。
差別であることを学ぶ場面があると、差別を差別だとわかるようになるんですが、そうでないとわからないという状況が報告されています。
自己教育運動を通じて差別が差別だとわかり、運動に参加することになります。
1950年代までに生まれた人たちが参加した文字を勉強する場面を作る識字運動や、1960年代から後に生まれた子供たちが参加する子供会を通じて差別の歴史を知り、部落女性が自分のせい。
経験を差別とわかって、運動に参加するようになります。
また、差別先生などの信頼できる非部落民との関係も作れるということが指摘されます。
また、自己教育運動を通じて、自分が差別される歴史的な社会的な意味がわかって、自分は悪くないと思うようになることができます。
他方で、全ての経験を部落差別に結びつけてしまうことに、を持つ部落女性もいました。
これは自分で決めようと促すときに、部落の中の違いをちゃんと取り扱わないことで、他人が決めることになって、自分が決めるのでなく、他人が決めるということになってしまうということの例と熊本は位置付けていました。
主体星形成には四つの場面があると熊本は述べます。
さて、一つ目が、部落解放運動の中で、自分の経験を語って共有するという共同性が発揮される場面です。
二つ目は、政治、先人の知恵を学ぶことで、歴史を共有するという歴史性の場面です。
三つ目は、部落コミュニティの子供に経験を伝えるために学ぶという経験です。
四つ目は、コミュニティの中で互いに助け合い、非部落での排除から助けるという、経験ので見られます。
しかしですね、コミュニティの中での階級の違いなどがないものと考えられて、みんな同じだと考えられる。
ことがあります。
さらに部落女性が、人間関係や感情のケアをすることで負担を背負ってきたという点も指摘されることになります。
続いて、部落解放運動を引き継いている部落女性が部落解放運動を引き継いでいるということが指摘されます。
それには4点あって、そのうちの3点をまずご説明したいと思います。
一つ目は考え方、二つ目は、運動の方法、三つ目は、勝ち取った権利です。
そして四つ目は、これとは少し、三つ目までとは違って、悪いところを批判するという形で、部落解放運動を引き受けているということが指摘されます。
このようにして、運動の批判へと進むことになります。
さらに部落女性は、日々の生活の中で差別に反対する実践をしていきます。
自己教育運動で得た知識を、日常生活で実践して、社会を変えることで、主体性形成に繋がります。
さらに、コミュニティの家だけでなく、外とも関係をつくるということが指摘されます。
批判をするだけでなく、非部落民の話を聞いたり、助け合ったりする関係を作っているということが報告されます。
ここまでが第2章のお話でした。
また新たに入ってきた方にご連絡いたします。
レジメを今、報告させ、レジメを使って報告させていただいています。
これから第3章に入らせていただきます。
第3章13って書いてあって、女性であること、非部落女性の聞き取りからということです。
これは第2章と同じで、聞き取りの90人の聞き取り調査から、議論が展開されていきます。
ここでの問いは、部落女性は女性であることで、どのような立場を持つことになるのかという問いに対して、自分の体験を、女性差別だとは考えずに、主体性形成が妨げられると答えられていました。
部落運動における性別のあり方について、まず存じます。
部落解放運動の中で女性差別が起きています。
意思決定過程からの排除、家庭からの排除を受けたり、運動に参加することを反対する音との戦いがあったり、部落女性が運動に参加すると、男性が参加する場合と違ってコミュニティから責められるという状況があります。
このように、さらに部落女性が女性差別を受け入れてしまっていると部落女性が指摘したり、部落女性が、地域活動や識字教育を担っていると自覚して、運動の中で主体性形成を目指している。
います。
一方で、仕事家事運動の三重の役割を担うことが女性の部落解放運動とみなされて、この三重の役割を変えようとしないという点も、熊本によって指摘されています。
ここで部落女性に部落女性にも、もちろん部落男性にも、部落問い元に戻ってきて、部落女性にも女性差別があるとわからない理由について、5点紹介されています。
一つは、理論は男性生活の実践は女性という役割分担の考え方があるからです。
二つ目、働いて家族を支えてきたので、働くことを求める非ブラックフェミニズムの話と合わなくて、仕事での女性差別を部落差別と考えていたということが挙げられています。
部落女性も女性差別の考え方を受け入れたという点が挙げられます。
三つ目。
四つ目、仕事、家事と子育て、運動の三重の役割を担うことを当然と考えていたことが挙げられます。
そのため、それぞれの役割の間での葛藤が起こるんですが、この葛藤は当然のものとみなされてしまいます。
五つ目。
家族に関わらない男性の配偶者を、部落差別の結果として諦めて、部落女性は許してしまうということが指摘されていました。
ここまでは、部落解放運動における性別のあり方を説明してきたのですが、家族の中の性別のあり方について説明されています。
次に、結婚後の苦労、特に夫との不平等は、運命として語られますが、女性差別として語られません。
この理由は四つあります。
一つは、運動で評価される部落男性の家族の中での差別はコミュニティで言いにくいという点が挙げられます。
二つ目は、部落差別の結果と考えられることで、女性差別が許されるということがあります。
三つ目は、他のコミュニティのあり方を知らないということが挙げられます。
これは江崎前にも紹介した部落。
外では部落差別を受けるので、他のコミュニティとあまり交流をしないという経験が語られていたと思いますが、それと関係しています。
四つ目が、家族を大事に考える考え方を持っているということ、これが挙げられます。
これはですね部落差別の結果として、このような考え方を持つようになったと説明されています。
次に、部落女性の生身活用。
これ、これなに通じているのは、部落女性の波風を立てたくないという思いが、あると、熊本は指摘します。
1920年代から1940年代生まれは、女性差別を良いと考えることが当たり前として育てられてきたと語ります。
対して、1960年代から1970年代生まれの方々は、男女の決定的な違いとして考えるようになっています。
部落解放の理論が不十分なので、部落女性が女性解放を唱えられなかったと熊本は指摘します。
次に、生まれさせられた家族での性別のあり方について指摘します。
一番、が働くばっかりで苦労していたということが語られます。
2番、母が経済的に自立するためにと、その部落女性がですね、部落女性が経済的に自立するためにと母が仕事を教えてくれた。
いうことが語られる。
三つ目、母を責める気持ちも語られます。
四つ目、運動に取り組む父を尊敬しているという形が見受けられます。
五つ目、家族を理不尽に扱う父に怒る気持ちと、部落差別が原因だったのだと納得する気持ち。
話されます。
声がによって、女性差別の経験というものは共有されず、体の痛みとなって現れることも指摘されていました。
続いて、結婚についてのエース問題です。
結婚における部落差別を避けるために、部落女性は部落男性と結婚することが多いとまず指摘されます。
ここにコメントなんですが、結婚制度が異性関係だけに限定されていたため、部落男性と結婚することが多いと指摘されているわけですね。
1950年代以前の部落女性は、離婚の後の困難を考え、そして溶け、非離婚を受け、そして結婚生活を続けないといけなかった。
戻って、そのためそのことを否定的に語ることが多いです。
結婚によって部落女性は別の部落コミュニティに移動することも多く、女性が移動して、男性はもらうという形式をとって、いて、これはあまり疑われないということが指摘されます。
結婚によって、非部落部落外に移動したために、部落女性が部落民であることを隠さなければいけないことも多く、主体性形成のための共有というものが難しい。
ということも紹介されていました。
引用です。
女性にとって結婚が家および共同体の従属であることを語りは示すが、語り手は部落民であることが部落女性の位置を決定づけ、女性観女性であることが、落差別の様態と程度を部落男性と異なるものにするとみなすと語られていました。
結婚が、部落と非部落を繋げると語る部落女性もいますが、熊本は、著者の熊本は結婚がむしろそれらの境界線を強くして、困っているという現実を知らないままにする可能性例えばそれは、部落外に言った部落女性や部落外から部落の中に、北部落女性非部落女性が困っているという現実が共有されないままになる可能性があると指摘しています。
さらに、非部落の女性が部落男性と結婚すると、コミュニティの中で部落女性と関係性ができる。
ことが多いのですが、ここで、非部落女性と部落女性の間の違いが強調されることもあると指摘しています。
最後に非部落の男性と結婚した部落女性は、トラブルの原因を部落民であることだと考えられて離婚されやすいということも指摘されました。
まとめ3章のまとめに入ります。
部落女性は、自分の体験を、なぜ女性差別だと思わないのかという問いに対して、七つ挙げられています。
一つ目が、貧困部落民女性であることで、経済的に夫を頼るしかなく、諦めるかなと、一つ目が指摘されます。
二つ目は、部落コミュニティの性別のあり方を受け入れるからであると。
三つ目は、互いに助け合うために家族を大事にしようと思うから、四つ目は、女性差別は部落差別の結果だという。
部落解放運動の考え方をしているから、さらにその考え方を作るプロセスから部落女性が排除されてきたから、五つ目は、結婚における部落差別の不安から、現状の結婚を続けるために、女性差別をそのままにしてしまうから、六つ目は、家族の間、コミュニティ運動において、部落女性はケアの役割を引き受けるから、七つ目が裏フェミニズムが部落女性をいないものとして扱ってきたから、これら七つの点を業務と指摘しています。
部落女性が主体性を形成するときに必要なことは何か、これについては五つ述べられています。
一つ目は、部落女性を中心とした理論を作ることです。
①自分が運動になっていると気がつき、②男性の理論では足りないと気がつくと、主体性形成を促す部落解放運動における性別のあり方が主体整形性を妨げていることに気がつき、これを変えようと思います。
2番、二つ目ですね。
部落女性が主体星形成をするときに必要なこと、二つ目。
様々な社会の制度や規範を、部落女性の主体性形成を妨げるという点から捉え直すことが必要になっていきます。
三つ目、一方で、主体性形成を促すような繋がりにある、抑圧し体型形成を妨げるような抑圧的なところをなくすことが求められます。
部落女性にとっての自前のフェミニズムを作ることが求められます。
四つ目。
部落解放運動とフェミニズムの合体ではなく、部落女性が自前で作る。
部落女性の取っ手の自前のフェミニズムが必要です。
五つ目、差別のコースさせ、つまりこれはインターセクショナリティっていう言葉なんですが、これを明らかにすることが重要です。
これについては第5章で詳しく述べるので、少々お待ちください。
次に、第4章に入っていきます。
途中で開いていただきたいいただいた方にお知らせいたします。
私のさいとうのTwitterの一番上にあるツイートに、レジュメって書いてあるところがありますのでそこからレジュメを見てください。
これから第4章を読ませていただきます。
第4章は被差別部落女性の主体星形成における運動の役割。
部落解放、全国婦人集会、全国女性集会の資料分析からという説。
以上です。
部落か問いはですね、部落解放運動を通じて、部落女性はどのように主体整形性を目指したのか。
自分の存在するという問いに対して、自分の存在全てをかけられる運動を作り上げていったという答えが導かれます。
部落解放全国婦人集会。
これは1956年からあるんですが、これを全婦と呼びます。
それは後の部落解放全国女性集会になるわけですが、こちらは全女と言います。
この二つの資料を分析しています。
まず、1950年代から60年代の話です。
ここでは、部落女性は運動に関わり、批判をし、女性運動から離れるという。
三つのことが起きていました。
まず、部落解放運動が組織を大きくするために、女性を取り込んでいきます。
運動の特徴は3点挙げられます。
一つ目は、女性の教育と啓蒙が目的にされました。
二つ目は、女性の日常生活で求めていることを知ることが目的とされました。
三つ目は、既に行われていた女性の運動を集めて指導することが目的とされました。
そして、1960年代には全部、つまり部落解放全国婦人集会は、部落解放の団体であることがはっきりさせられます。
つまり、女性解放の団体というより部落外4の団体なんだということがはっきりさせられます。
この時代の差別の捉え方の特徴について説明します。
一つ目、女性差別も部落差別と同じように、階級社会の問題だと考えられていました。
二つ目、1950年代から二重三重の差別という表現が出てきます。
部落女性労働者の三重の差別ということです。
この二重三重の差別という表現で、部落女性が運動の主体である担い手になることが促されました。
この表現、二重三重の差別という表現で、部落差別と女性差別に共通する部分があると思うようになっていきました。
さらに、ただしはじめ家族ぐるみで部落解放運動に参加するよう促すために使われたという点には注意が必要です。
全婦つまり部落解放全国婦人集会を支配する男性の助言者という者がいたんですが、その人が言っているように、部落女性の状況は、単に部落差別としてしか捉えられていないという状況もこの時代の特徴でした。
しかし、組織が女性の社会主体整形性を邪魔していること、このことを部落女性は批判していきます。
1951年に権利がなく、貧困の状態を部落差別と考えるようになり、その責任は行政にあると責める責め立てることで、生活保障を求めるようになりました。
この部落女性が、この生活保障を求める行政闘争に部落女性が参加するようになります。
みんなが開放への同じ思いを持っているとわかることわかって、力を合わせて変えられると思うようになります。
さらに、そのための話し合いの場を求めました。
このように運動に参加することで、部落女性は自信を持つようになっていきました。
日常生活の苦しみに堪えない組織を部落女性が批判するようになります。
部落女性の意思決定過程からの排除に反対するなどを行いました。
さらに部落女性は、話し合いをしたい組織は指導したいという対立がここでは見受けられました。
森田益子という部落女性。
1968年に部落解放運動の人から、部落女性は理論が弱いという批判を受けたんですが、それに対して、それ、そう言うならば、活動の場をよこせというふうに訴えました。
三つ目です。
日本母親大会ではうまくいかないので、部落解放運動に参加するようになる。
ということもこの時代に1950年代から60年代に起こりました。
様々な女性運動があり、全部に、女性運動から入ってくる人もいました。
しかし、部落女性の主体性が運動を通じて形成されることで、部落解放運動にも、女性運動にも良い影響があると述べられていたと、熊本は読み込んでいます。
しかしではないですね。
そこでは、このようなことがあると述べられていました。
1160年代には共闘が目指されて共に戦うことが目指されて、部落以外の人との話し合いで、差別のことがよくわかるということが指摘されていました。
しかし、1970年代には、日本母親大会と離れていきます。
その一つの理由として、部落女性が日本母親大会では発現させられないなどの扱いを受けたことがあることが挙げられます。
ただし、他にも部落解放運動の盛り上がったことなども関係しています。
次に、1970年代の話に移ります。
女性差別を批判しながら、権利保障を進め、語りが増えていくというのが、1170年代の特徴です。
まず、組織の女性差別を批判する部落女性の話を見ていきましょう。
文字が使えるようになるための識字運動や、子供の教育の問題を通じて、母親、母役割、親役割が強調されながら、部落女性が運動に参加していきます。
女性の活動を妨害する家族や運動における女性差別を批判するようになっていきました。
先ほど取り上げた森田益子氏が1979年に役員を務めるまでは、多くの女性が意思決定過程から排除されてきたという状態もありました。
組織は、女性の活動を低く評価していて、女性自身の問題と言っていました。
つまり、女性自身が能力が低いから、女性の活動は低い能力し、低い評価評価しか下せないんだって言っていました。
それに対して部落女性は批判を繰り広げていたわけですね。
さらに、この時代には女性の権利保障を求める戦いも行われました。
妊産婦対策や保育運動により、リプロダクティブ・ジャスティスの名リプロダクティブ・ジャスティスというのは、壊死性と生殖に関わる正義つまり、ぜひということなんですが、その中でも特に子供を産まれさせる権利、子供を安全に育てる権利を実現することを求めていきました。
そして部落民にもこの権利が広がっていくことになりました。
さらに、部落女性たちは話し合いを通じて、部落差別という枠組みで考えることで、自分たちの状況を要求に繋げて、女性の権利があるとわかるようになっていきました。
二重三重の差別という考え方によって、運動と主体整形性の循環ができるようになっていきました。
つまり、主体運動に関わることで主体星形成を行い、主体性形成が行われることで、運動に参加していくという、この循環ができるようになりました。
さらに、1975年の国際女性年から女性運動と関わり、女性の権利という道具を手に入れましたが、ただしここではずれもありました。
1175年の国際女性年と、労働運動に取り組む女性との共闘がきっかけで、部落差別と思っていたもの、女性差別だと考えるようになります。
二重三重の差別との戦いでは、この共に戦うこと、共闘が大事だと考えられていました。
しかしずれもありました。
四つ挙げられています。
一つ目は、部落女性は生活から考えるが、女性解放運動は理論を学ぶという状況でした。
二つ目は、部落女性は自分の戦いを始めているが、女性解放運動はできていないということでした。
三つ目は、部落女性にとって昔からの繋がりと部落の繋がりが大事なわけですが、女性解放運動は、今の個人が大事と考えていた点でした。
四つ目は、部落女性は部落女性の固有の問題を考えるわけですが、女性解放運動は女性差別と部落サービスの足し算としてしか考えなかった。
そういうふうに考えてしまっていたという面がありました。
国際女性年1175年の国際女性年からの政策が、あの中流階級向けで、労働者階級について取り組まれていないと部落女性は批判するようになってきました。
部落女性としての解放を普通の頃はっきりと言うようになっていきます。
ただし、歴史学者のもろさわ・ようこという人は、部落女性の運動を評価していた女性運動家であり、部落差別からの生活問題や、部落解放運動の女性差別のことをわかっていました。
ただし、今の個人を中心に考えているという点は、もろさも共通して、あの女性解放運動と共通していて、部落女性の実感と、階級的にずれていたということが指摘されています。
さらに、この時代1970年代には、部落差別が優先だという形が決まっていることになります。
1970年代から朝田善之助が二重三重の差別ではなく、部落差別だというようになりました。
そしてそのような語り方が多くなります。
この語りが多くなることによって、語りの型というものが出来上がります。
語りの型が、できることによって、部落女性が自分の経験を言葉にすることができるようになって、語りの型が増えたこと、型が決まったこと、今語り方が決まって増えたことで、つまり語りの型が決まったことで、別の型にも出てくるようになってきたと。
元は指摘しています。
ここでコメントです。
1970年代の別の型についても、もっと熊本から紹介をして欲しかったなと思うわけですが、少しここの記述は足りなかった。
あまりなくてちょっと残念だったなと思いました。
いろいろ調べてみたいです。
次に、1980年から後についてお話します。
実態調査と国際的運動が行われました。
部落解放運動の女性差別への批判が続きます。
意思決定過程からの女性の排除が1980年代はより強くなっていました。
実態調査と国際人権基準によって議論をするようになっていきます。
運動で勝ち取ったことによって、運動が上回ることだけなんですが、部落解放運動自体が弱まることになるわけですが、1180年代に主体の確立ということがまた問題になっていきます。
そして、全婦の名前がですね、婦人対策部というものから、女性運動部に代わって主体、女性という主体が強調されるようになります。
次に、部落女性による女性共闘について、よって指摘します。
部落女性が女性共闘で、経済的自立が大事とはっきり考えるようになりました。
二つ目、部落女性が女性運動に部落差別と戦っていた経験を生かして貢献するようになります。
3点目、部落女性が女性運動から部落女性を排除することを批判するようになりました。
例えば、男女雇用均等法などへの批判が挙げられます。
4番目、女性のイメージがブラックス女性と、女性解放運動の人たちと異なっていて、女性共闘が難しいと感じるようになっていきました。
ここで、国際的運動からの概念の影響があります、エンパワーメントという概念があります。
エンパワーメントというのは、後で嫌々紹介しますが、1985年の女性差別撤廃条約と1995年の北京会議、国際的にがあります。
このような国際的な運動に参加するようになりまして、運動の道具になると同時に、これまでの運動が間違ってなかったことを、これらの国際的な運動、動きは教えてくれました。
さらに、このエンパワーメントという言葉によって、アジアの女性と繋がり、政治参加が必要だとわかる、そういうような傾向になりました。
ここでは北山俊乃という型によるエンパワーメントの所、説明を紹介いたしましょう。
エンパワーメントとは、政策決定の場に参加すること、生活者としてたくましく生きてきた力の存在を発見し育てること。
知識を得て社会と繋がること。
知識により、自分の尊厳と出会うこと、奪われたものを奪い返す力をつけることであります。
2000年代の部落女性による部落女性の実態調査も行われるようになってきました。
自治体がマイノリティ女性の視点がないこと、そういうことへの批判を行っていくようになります。
次に複合差別という概念です。
国連で複合差別が注目されてると、2002年の運動方針に書かれることになります。
部落差別とだけ捉えるのではなく、複合差別と捉えることで、差別の絡み合いを強調して、他の差別がないと思わせないようにすることができました。
部落解放運動では、複合差別を女性差別の委員会として使っているところもあるんですが、部落女性は1人1人の人間を解放するために必要な考え方として、複合差別という言葉を使う傾向があります。
このに前の二重三重という言葉だと、複数あることが強調されるんですけれども、一つの経験であることを強調するのに、複合差別という言葉が便利だったという点が、熊本によって指摘されています。
このように、複合差別という言葉によって、運動の方向性がある程度決まっていきます。
一つ目、複数の差別の絡み合いを分析する必要があるということ。
二つ目、マイノリティ女性と共に戦うという新しい連帯を目指すようになるということが、1990年以降の運動の方向性になっていきました。
次に、第5章に移ります。
後、国際人権宣言とブラックフェミニズムの交差性概念という章についてご説明させていただきます。
この章の問いは次の通りです。
インターセクショナリティや複合差別という言葉は、部落女性にとってどう使えるのか。
この問いに対して、次のように答えことになります。
アジリティのフェミニズムの批判と構造とし、批判をすることと、構造として差別を捉えることと、対抗軸を作ることに使えるこの3点が使えると。
熊本は結露していますただし、熊本は交差性と書いているんですが、さいとうはこのレジュメではひらがなで書くのでインターセクショナリティと書かせていただいています。
国際的にインターセクショナリティという言葉が使われるようになった流れを説明いたします。
まず、国連による反人種主義世界会議というものがありました。
2000年代には、国連はインターセクショナリティという言葉を使うようになります。
2001年の人種主義、人種差別、外国人排斥を呼び関連の不寛容に反対する世界解除。
というものが行われたんですが、これを反人種主義会議といいます。
キンバリークレンショーという型が、インターセクショナリティという言葉を作ったという言葉を考え出しました。
この、ここでコメントをさせていただきますと、インターセクショナリティとは、これはさいとうの説明なんですが、インターセクショナリティとは異なる集団の女性が同じ差別を足し算的に受けると考えるのではなく、それぞれ固有の社会差別の受け方をするという考え方。
です。
戻って、反人種主義会議の3分の2をご紹介いたします。
複合差別には3種類があると肝心主義会議は言っていました。
一つ目が、標的とされる差別、これは直接的な攻撃です。
二つ目が複合差別。
これは女性枠では黒人だから選ばれず、黒人枠では女性だから選ばれないという村国、黒人女性の被害のことを言います。
三つ目は、構造的差別です。
それは差別的構造によって不利益が増えること。
それが、部落副インターセクショナリティにおける、3、三つの分類し、複合差別の三つの分類でした。
さらに、複合性インターセクショナリティという言葉を考えたクレンショーの指摘を3点ご紹介いたします。
三つの問題点があると考えられており、一つが含みすぎ、これはマイノリティ女性の経験が女性の問題としてのみ考えられてしまって、人種などが関係ないと。
と考えられるということです。
つまり、女性として含まれすぎるっていうことが、含みすぎという感じで、クレンショーはしてきました。
二つ目が含まな過ぎです。
人種の問題を考えるときに、女性の経験が含まれないということが、副含まな過ぎということで考えられていました。
三つ目が、緊急のものだけでなく、構造考えることが大事であるということが、クレンショーは指摘しました。
続いて、国連の動きをまとめていきましょう。
国連は、それまで人権問題と女性問題を分けて対応してきました。
1990年代はジェンダー主流化。
これについて後で説明しますが、ジェンダー主流化によって全ての活動で性別を考えるようにしてきました。
ここで説明が出てますね、ごめんなさい。
ジェンダー主流化というのは、全ての活動で性別を考えるようにするということです。
2000年には、それぞれの国にマイノリティの視点からの女性差別についての報告を求めていたり、2001年の会議での提言では、熊本のまとめは次のようにされています。
女性の経験および社会的経済的政治的位置の違いに関心を払わず、全ての女性とひとくくりにすることは、男女二元論を前提とした男女平等を求める必要になりかねない。
現実社会での女性の経験と位置は個別具体的である。
これらはジェンダーのみで決定されるのではなく、人種、言語、民族、文化、宗教、障害または社会的経済的階級等との相互作用によって決定される。
このように述べられていました。
2006年の人権理事会では、インターセクショナリティが強調されることになります。
ここでジェンダー主流化についての問題点を指摘します。
先住民女性は、ジェンダー主流化によって虐殺などの問題が話されないようにと言われることが起こりました。
つまり、性別についてもっと話しなさいって言われて、虐殺については話すなと言われてしまうという体験が挙げられていました。
2001年の反人種主義世界会議でも、マイノリティ女性の経験は、中心から排除されたという時代でした。
また引用です。
1人の人間がする。
被抑圧体験を複数のカテゴリーに分割して加算するアプローチは、交差性概念が本来目指す構造分析を不可能にするだけでなく、社会運動の連帯を困難にすることを、NGO間連絡会議は明らかにしました。
インターセクショナリティもジェンダー主流化の言い換えに過ぎなくなるときがあるので、その場合は問題があると熊本は述べています。
次に、ブラックフェミニズムがインターセクショナリティでる言葉を作ったという話をさせていただきます。
1980年代以降、女性学は男性中心主義を批判しました。
そして、非白人の女性や非西洋の女性は、女性学の白人中心主義を批判しました。
ブラックフェミニズムの流れについてお話します。
パトリシアHillコリンズによれば、この型は黒人のか、女性の方なんですが、インターセクショナリティとは、批判的な実践と社会的構造を社会構造を強調していたと述べています。
1970年代にはブラックフェミニズム、つまりアメリカ合衆国特にアメリカ合衆国での黒人女性によるフェミニズムですね、ブラックフェミニズムが1980年代にはクリティカルレース編水無批判的人種フェミニズムがはっきりと現れるようになります。
1960年代から二重の危機などの言葉がいろいろと使われていきました。
1980年代に、人種、階級、ジェンダー研究という凌也が出てきます。
このブラックフェミニズムにおいては、足し算的な分析が駄目であることを指摘されました。
違い、多様性という言葉や足し算的な分析では、白人女性を規範として、そこからの逸脱と考えられてしまうからです。
足し算では、批判や差別に変化がないと考えられ、差別を比較しだして、被害の程度の大きさ比べになってしまいます。
アフリカンアメリカン女性の経験は、本質や基本ではないと考えられ、白人、本質や規範、基本は、西洋の白人中産階級キリスト教徒の女性の経験だと考えられてしまい、抑圧を別々のものだと考えてしまいます。
しかし、差別は構造だということを打ち出していきます。
インターセクショナリティという言葉を考えたクレンショーは、法律に、雨降りアフリカンアメリカンの女性がお扱う枠組みがないことを批判しています。
コリンズパトリシア昼コリンズですね、パトリシアひろコリンズも結合する抑圧という言葉を使っていて、これは大きい構造の話に使い、それに対してインターセクショナリティは、その構造を1人が受けることの話に使っていました。
1980年代から歴史研究でも、女性奴隷の研究が増えていきます。
女性というアイデンティティを考え直すために、そして差別の効果を分析するために、インターセクショナリティという言葉がブラックフェミニズムから国連に導入されました。
ブラックフェミニズムと主体星形成。
コリンズ、パトリシアHillコリンズは、普遍を問い直し、ベル・フックスはオルタナティブ、別なものを作る周辺というものを強調します。
インターセクショナリティでは、アフリカンアメリカン女性のアイデンティティがみんな同じであるかのようになってしまうという批判もあるわけですが、これは主体規制がブラックフェミニズムブラックフェミニズムにとって大事であることを示しています。
ベル・フックスは自分で決めるということを大事にしていて、白人女性の事故死認識のために、アフリカンアメリカンの女性が他者と考えられてしまうと、主体性が否定されるわけですね。
従って、アフリカアメリカの女性が自分で自分を決めることが大事になっていきます。
ブラックフェミニズムにとっての中心的課題は、奴隷制の経験であり、その経験から差別を考えて、白人フェミニズムが中心にいることを批判すること、そういうことをインターセクショナリティと呼ぶと、熊本は位置づけていました。
さて、続いては部落女性の経験を複合差別という言葉で考えていきましょう。
部落差別としての部落差別、ごめんすいません、複合差別としての部落差別を考えることが大課題だと結論していました。
1980年代から社会学の領域で部落女性の経験が分析されてきました。
その特徴は三つ挙げられます。
一つ目は、部落差別の結果として、部落コミュニティのジェンダーを論じている性別のあり方を論じている点です。
二つ目は、2000年代には結婚関係で複合差別という言葉を使っているという点です。
三つ目は、部落運動への批判はあるわけですが、女性運動への批判がないこの三つの点が指摘されました。
これは熊本が先行研究に対して、こういう特徴があると指摘しました。
さて、他の先行文献として歴史研究では、もろさわ・ようこが部落運動も女性差別も批判していた。
という点が注目すべきで、さらに、小林初江という方は、部落女性として、女性差別を部落女性が支えていることもあるところもあると考えていました。
その中で、日常生活が差別なので、差別構造がわからないと言っている、これも特徴的な議論です。
また、ただ意味後は、非部落の女性として、部落女性から歌を聞き取りながら、自らの立ち位置に向き合い続けているという点で特徴的です。
次に、家庭内暴力における性、政治的インターセクショナリティという話をいたします。
福岡ともみによると、家庭内暴力が問題と考えられずに、部落差別の結果だとして考えられることを批判しました。
ごめんなさい福岡ともみは部落部落サービスの結果として、家庭内暴力が考えられることを批判して、部落解放運動がほぼソーシャルな集団になっていることを説明しました。
ここで問題になっているのは、家庭内暴力に対して権利を主張すると、コミュニティから裏切り者扱いされて、コミュニティの外からはそのコミュニティを差別する理由に使われるという状況です。
これが政治的インターセクショナリティと言われます。
そして、ここでは特に家庭内暴力ステレオタイプが、権利の主張を邪魔することになっています。
続いて、部落女性が複合差別という言葉を使う流れについて説明いたします。
1970年代から部落女性の桧垣や識字京学級の文章が公開されるようになっていきます。
1120年代には二重三重の差別と圧迫、1950年代には二重三重の差別圧迫。
1990年代後半に複合差別という言葉が使われてきました。
この本の著者の熊本理抄が上野千鶴子から言葉を借りて、複合差別という言葉を選んでお薬に使ったことがきっかけです。
反差別国際運動MIMDRやマイノリティ女性に対する複合ネットワーク、これどちらも熊本理抄が関わっているんですが、複合差別という言葉を使って差別を行動で捉えて、マジョリティー女性によるマイノリティ女性の排除を批判しました。
熊本理抄は、インターセクショナリティと複合差別を特に区別しないで、ここでは使ってしまっていました。
複合差別という言葉で、部落差別と女性差別のどっちかとして語ることは減っていった、これは良い点であったと熊本は指摘します。
しかし、複合差別という言葉には問題があったということを熊本は指摘しています。
二つ指摘されていました。
複数の差別と複合差別が区別されなかったという点です。
つまり、単に複数の差別が足し算みたいに加わると考えることも批判、これを複合差別という言葉をしていたわけですが、このことを日本語概念では明らかにできなかったということですね。
逆にむしろ複合差別という言葉で足し算的な考え方をしているんじゃないかっていう批判さえあった。
指摘されていました。
複合差別という言葉によってフェミニズム批判が行われなかったということです。
二つ目。
ここから上野千鶴子批判が続きます。
上野千鶴子は1996年に複合差別理論について書いていました。
熊本理抄はそれを借りて翻訳に使いました。
しかし、上の使い方の問題点を熊本地震が避難してこなかったということが述べられます。
従ってここでは批判をしましょうということになっています。
まず、上野千鶴子の問題点については、複数の差別が複合して独自の差別になることを強調できなかったということです。
単に差別を並べるだけになってしまっていました。
また、上野千鶴子は部落女性の二重三重の差別という言葉や理論などを取り上げることなく、1人で考え出してしまったということも問題であったと言っていました。
さらに、上野千鶴子は日本人、中産階級フェミニズム階級差別と民族差別について議論せず、批判もしなかったという点が問題である。
述べられていました。
さて、1990年代の日本では、性別のみに注目するフェミニズムへの批判が議論とし、批判的議論がありました。
アイヌ民族女性としての議論を紹介します。
引用です。
熊本からの引用です。
マジョリティーとして、アイヌ民族を抑圧していることに触れず、マイノリティコミュニティ内部の性差別を問題にする日本人女性に対して、1カップは日本に住むマジョリティーとしての責任を果たし、アイヌ民族先住民族と位置付けるという課題の共有がなければ連帯はできないとしています。
部落女性としても批判が上がりました。
高橋は、女性の人権、女性差別を語るフェミニズムがマイノリティコミュニティ内部の女性差別を指摘するが、アジリティとして振る自身のヘゲモニーを問わないことを批判している。
こうしたマイノリティからの批判に学ばないなら、複合差別という日本語概念を使ったところで抑圧を招きかねない。
このように熊本は厳しく指摘します。
在日朝鮮人女性として、については熊本はこのように述べています。
複合差別概念が日本に流通する前から、在日朝鮮人女性は他者か普遍か試合抑圧、権力関係、主体性の否定といった視点からフェミニズムを指摘していたと言っています。
フェミニズムも批判をしていたということですね。
部落女性の開放思想とフェミニズムの間には距離がある。
その理由を四つ挙げられています。
主流のフェミニズム女性誌も部落女性をいないものとして扱っているので、部落女性が女性として主体性形成を目指し、自分の経験を女性差別として考えることがしにくかった。
つまり、主体整形性が女性運動の中でしにくく、自分の経験を女性差別として考えにくかったということが挙げられます。
二つ目、部落解放運動が違いを目立たせず、同じことを強調してきたの、同じことつまり、同じ日本人とか、そういう方の湖面で強調していたので、主流のフェミニズムを批判するために使う対抗軸がはっきりと決まっていないという点がありました。
職業や学歴も関わるわけですが、それだけでない部落とは何かということを考える必要がありました。
三つ目、部落差別とは何かをはっきりと決めるための言葉がまだ足りていないということが挙げられています。
四つ目、社会学の研究はあるが、歴史研究や方角からの議論が足りないという点が挙げられます。
さて、日本における複合差別という言葉の問題点を6.まとめましょう。
一つ目、部落女性とフェミニズムのが協力できなかったという点。
二つ目、単に差別が複数あることや、足し算的な分析になってしまい、マイノリティ女性に絡み合った固有の差別があることを強調できなかったという点。
3点目、連帯ばかりが強調されてフェミニズムによる抑圧を批判できなかった点。
4点目、差別を構造として考えられなかった点、5点目、対抗軸がはっきりせず、被害者であることばかりが強調されてしまった点。
6点目、理論と実践が連携できていなかった点。
部落女性が実践として、労働教育を挙げているわけですが、論拠理論研究は、部落解放運動の女性差別と結婚の問題ばかりを取り上げてしまったという点が挙げられていました。
最後に、第6章です。
あと4分ぐらいで終われるかな。
ちょっと行きたいと思います。
もうちょっと伸びるかもしれません。
被差別部部落女性の主体星形成における複合差別概念の有用性と課題、第6章です。
さて、ここまでの議論の流れも紹介されているわけですが今回は省略させていただきます。
そしてまとめです。
一番運動の中で主体性が形成され、その主体性で運動が進む運動に参加することで批判をして、運動や社会を変えられるようになる。
ただし運動に参加することで、契約割を引き受けて、女性差別が変わらず、主体整形性が邪魔されることもあると。
そしてこの二つを分けるのは、従属的主体性の変容を部落女性が自覚するかしないかであると述べられています。
これコメントです。
実はですね従属的主体性の変容っていう言葉がどっかにあったんですが、他のところで探せなくて、何を意味してるかがちょっと、まだわかっていません。
ここコメント入れちゃったから、番号がずれてますねあの、2番目なんですが、一番と書いてあります。
従属を経験することで、抵抗に移ることができます。
その抵抗が新たな従属になるわけですが、次なる抵抗に繋がっていきます。
部落解放運動ではこのようになっていたわけですが、女性解放運動ではこのようにならなかったという点が注目されるべきです。
次、複合差別という考え方を使わないと、部落解放運動のように主体性形成の邪魔をすることになってしまいます。
ちょっと飛ばしましたね。
一方で部落女性にとっての主体製ケースの場面となるものの、主体規制形成の邪魔をすることにもなってしまいます。
足し算では無理なんです。
なぜなら主体は1人だからということが議論されます。
三つ目、言葉や考え方や知識が主体性形成に大事であるということが述べられます。
自己教育運動が大事で、複合差別という言葉で部落解放運動とフェミニズムによる抑圧を批判する必要があります。
既に行われている部落女性の運動後、複合差別という言葉で推し進めることができると熊本は考えています。
四つ目、行動に注意した差別についての考え方を作る必要があり、この抑圧の絡み合いを、部落女性の二重三重のサービス圧迫という点から捉え直す必要があると述べられていました。
それでは、結論です。
最初に言った問いと答え、問いと答えについてもう一度読ませていただきます。
問いの市場、部落女性はどのように主体性形成をして、変化を引き起こす人になるのかという問題でした。
これに対する答えは、自己教育運動や部落解放運動を通じて妨害されながらも、自分が主体構造の中でどのような立場にあるのかを自覚して、昔の人たちや、今の人たちとの繋がりを意識することで、自分で決めて変化を引き起こすようになる。
このように答えました。
二つ目の問いです。
部落女性はどのように運動するべきか。
これに対する答えは次の通りです。
部落女性の思想や経験により、フェミニズムの所概念や諸定義を再構築していくとともに、部落解放運動が掲げてきた差別論と主体性論を問い直していくことが必要であり、複合差別概念が、その戦いに複合差別概念をその戦いに導入するべきであると答えていました。
最後に、部落、熊本の部落。
ごめんなさい、複合差別という概念の説明を引用しましたので、それを述べて、述べたいと思います。
引用です。
部落女性の経験は、女性というだけでは記述できない部落民というだけでも記述できない、つまり女性というだけでない、部落民というだけでないという非定型を重ねることで、その人が教祖のアマルガムとして存在することを理解する。
これが複合差別概念である。
その複合差別概念で差別の絡み合いを分析しようとすると、個別差別という賛同したくない前提を受け入れる矛盾を課すことになる。
1人の人間丸ごとを生身で腑分けすることにもなりかねない。
この限界を克服するために求められることは、日々の他者が終焉か不在かの言説への対抗的な言説を生み出していくことである。
391ページでした。
さて、エース井川、これから話していきたいと思いますが、検討については、対談の形で、個人的に興味深いと思った部分は今回触れないと思います。
そして最後に、のところだけ少し証明させていただきます。
この本は日本のフェミニズムに関心がある人なら持っていった方がいい、絶対にいい著作です。
この本のいいところは細かい技術にあります。
この今の魅力はすこの本の魅力は、自分の話では伝えきれてないと思います。
つまり難しめの漢字かな交じりの日本語の文章が読めて、本が買える人は、このレジメで満足せず、ぜひ購入していただけると嬉しい。
または、図書館などで読んでいただけると嬉しいです。
報告については以上です。
ありがとうございました。
ちょっと待ってくださいね。
なんか大室さん喋ってもらってもいいですか。
UDトークのチェックをしたいです。
もちろんです。
さいとう砂発表疲れ様でした。
1時間ちょっと喋って、ちょっと大変だったと思いますけど。
水分補給とかできるのでしたらぜひしてください。
ツナの皆様も、あのしっかり聞いていただいて本当に嬉しいですよね。
こちらの手元のUDトークではある程度は私の発言も拾ってくれているように見えます。
はい、ありがとうございます。
さいとう出ます。
じゃあ、あのお話していきましょうか。
はい発表お疲れ様でしたでは質問から入らせていただきますとまた、コメントをもしありましたらコメントの方で、同行してくださいっていうことを皆さんにお知らせいたします来ないですね。
そうですねさいとうさんがコメントGoogleフォームのコメントのURLをまとめてくれた後、このスペースの下につけてくれてるので、そちらを参照してください。
では、さいとうさんへの退団者からの質問をさせていただきますまず一点目ですね、この文献は面白かったですが、その理由を含めて教えてください。
はい、ありがとうございますさいとうです。
ええ、とても面白かったです。
特にですね。
とても面白かった。
とても面白かったです。
何回か言わせていただくぐらい面白かったんですが、特に第5章が個人的には一番好きでした日本のこれまでのフェミニズムの主流っていうものを批判しているところっていうのが、やっぱり自分の関心にも合っててとても面白かったです。
ね。
そのレジュメを作ってたときはやっぱりここが面白いかなと思ってたんですが、さっき直してたらですね、6章はやっぱり面白いなと思って見直しまして、まとめの摂南のための証なんですけど、なんていうんですかね、それまで情報として提示されてた一生から4章まで情報と提示されてたのがうまくまとまっているんですね6章で、ここが、なんていうんですかねすごく面白いところでもあると思いました。
さらに、明日も続けます。
もっと喋ります部落女性の言葉を聞き取って考えてるところもすごい素敵でした。
いうのもこれは西尾産商の動きですが、インタビュー90人にしてるわけですよね。
なかなか90人のインタビュー聞き取りってすごく大変だと思って。
すごく大変らしいんですよね。
インタビューしたことないんでわかんないんですけど、いやよくやってましたねって感じで本当はいや90年のインタビューだけで博覧会でもいい気はするんですけど。
それに満足せず、文献研究もするという。
すごいと思いすごい気さくですよね。
さらにですね、部落女性が具体的にどのように運動に関わってきたかを具体例を出しながら、それでいて、具体例に引っ張られず、しっかりとまとめていたところ、4章ですね主に、つまり全部好きなんですけど面白かったですね、読みやすかったです。
です。
やっぱり、この本を通して、やっぱ部落女性の運動についてもっと知りたいなって思う。
これ、思わしてくれたので、やっぱり楽しかった。
よかったです。
ありがとうございます私はすごく面白くなるんで、これを本当に選択してくれてありがとうございましたという感謝を伝えたくて、どこが好きでした。
また面白かった個人的に4章が一番、あの全部好きですけど、どこか一つ選べってもし言われたら4章かなっていう気がしました。
やっぱり女性差別っていうのを自覚できない状況から、どんどん段階的にこんなことがあって、こういう発言があってみたいな段階的に、その最終的にここまで来たよっていうのがすごくわかりやすく、時系列に示されて、その展開が何か何て言うかね奴と言うっていうか、だなと思って4章気に入ってます。
わかります、さいとうです。
ですね。
4章面白いんですよねっていうところは、なんていうんですかね。
朝田善之助の理論が出てきたのを覚えていらっしゃいますかね。
ええ。
したもし未仁科の方々はですね個人的に興味深いと思った部分のところに引用しているんですが、ちょっと待ってくださいね。
何ページですかね。
あれじゃないかも。
ちょっと待ちすげえ。
ごめんなさい引用してなかったわ。
ページ数で言いますと、少なくともこの朝田善之助は、部落差別、二重三重の差別をではなく、部落差別なんだと。
いうことを主張した人なわけで、一見すると、否定的に熊本さんが語っているのかなって最初読んで思ってたんですね。
ですけど、よくよく読んでみると、そんなに否定的ではないですね。
むしろこの型子このあたりが、型ができたおかげで、部落女性は、自分の生活と差別を結びつけることができて、さらに別の語りをすることができた。
で、結構工程目に肯定して表現して、そこがもうすごく、なんか面白いなっていうか、意外だなって彼自身、本文の方に引用してませんでしたそうかも。
ちょっと待ってくださいありがとうございますちょっと今、2いや、一番下だ300ページってところですね。
ごめんなさい。
個人的に興味深いと思った部分の300ページにある引用なんですが、部落差別の認識と、部落民としての社会的立場の自覚を徹底する浅田の理論は、分割されない禅的な存在としての部落民を自己という一つの存在に耽る引き受けることを可能にした、これが部落女性の戦いの原点である。
評価して、何かそう評価するんだってのがちょっと、そうですね、面白かったです。
面白いですね。
そう私も最初は佐田さんに対して否定的に書くのかなって最初は思いました。
ですよね。
はい、父じゃあもし東邦に行きます。
いいですか次に進んで、この文献はさいとうさんの研究に役立ちますか、もし役立つとしたら、どのように、そして、どのように役立ちますか。
万が一役立たないと思うところがあったら、ちょっとここは違うかなみたいなことももしあったら教えてください。
はい、ありがとうございますさいとうです。
2番目に書いてる通り自分の研究に役立つ。
と思います。
まずですね、すごく即物的なというか、あの資料として役立つっていう、すごくしょうもない役立ちそうもなくはないんですけど、なんていうんですかね、研究といいたいことはわかります。
資料停車、計算的にそうそうそうそうそうそう。
やるところがあって、瀬谷性別人間のって言葉使ってるところがあったのでそこは分析の資料になりますねっていうところで、まず役立ちます。
これは良くて、もう一つは、日本での差別の複雑なあり方を研究したいと思っているので、なんかすごいお手本になるなと思ってて。
なんていうか、むしろですね、この本を読んだからこそ、やっぱり日本での差別の複雑なあり方を研究したいのかなって思い直してきたっていう。
感じですね自分の方針が決まってきた感じ。
素晴らしい。
なんか今までは、ちょっと、いや多分やりたかったところはそこだったんですけど、ちょっと控えめに、何ていうんですかね、喋ってその議論の展開を追いたかった。
って言ってきたんですけど、なんかこれ読むと、むしろこっちの方をやりたいかも、こっちの方には行けないんですけどこれに、お手本にしたいなと思う。
なるほど。
いいですね本当に本にしたい。
特にこういうところとかありますか。
全体としてですかね、なんていうんですか、例えばインタビューをしたいとかいう話ではないんですよ自分にとっては、はい、またそういう研究方法が引かれたとかいうわけではなく、インターセクショナリティまたは、複合差別とか、そのそれぞれの差別がマイノリティにとって、固有の差別になっていくっていうあり方を描いていると思っているんですね。
はい、つまり足し算的にある差別とある差別が単に重なり合って、増えていくんだっていう話ではなく、ある差別とある差別って分けたとしても、その分けれた。
ものは絡み合っていて、固有の差別を手起こしているんだ。
っていうところを分析しなきゃいけないよねってというところはとても大事な視点だなと思っていて。
自分のあんまり、むしろ足りなかったかもしれないなと思っているところをうまく補ってくれている気がするので、むしろこっちを中心にした方がいい気がしてきたっていう感じですよすごい。
いいですね。
ちちゃんか、ちょっと、さいとうさんの研究についてちょっと教えてもらったので、文献とさいとうさんの研究がどう繋がるのかなって聞くの楽しみにしてたので、なるほどってちょっと思いました。
そうなんですよね。
ちょっと遠く感じるかもしれませんよね。
そうですね。
ただ何かを聞くとテーマ自体よりもちょっとテーマへのアプローチというか、そのそもそものテーマの選び方みたいなところ。
とかが問題意識みたいなところっていうのがかなりこの文献と共通してきてるのかなっていうのをちょっと思いましたが、すいません勝手な理解しないっすけど、そうだと思います無意識のうちにですね、無意識なのかな、やっぱり排除、誰が排除されているのか、その排除は結局どういうことなのかってことに関心があるからこそ、差別について研究したいって思っていて、差別ってものをどうみんなが認識しているのかっていうことに興味が移っていったんですけど、だからこそその研究のして話をしている人差別の話をしている人がどういうふうに差別を捉えているのか。
ということを研究したいなと思っているんです、今も思っています。
けどそこの紙一番重要なのは、それを通して何がしたいかって言ったら、やっぱりインターセクショナリティ複合差別のあり方、そういうことを明らかにしたいんだなって。
なるほど。
だから今日もあんのう、コメントのところで結婚の話が出たときに、伊勢主義の男性と性も結婚っていうことしかちょっと捉えられてないねっていう。
コメントをされるんですね。
どうなんでしょうね単に結婚制度が今の制度に不満があるからかもしれないですあんま関係ないかも、いや、関係はしてるけど、なんていうんですかねすぐに、なんて言うんですか。
後々の時代になってそんな残るかわかんないんですけど、読んだ人が-変に思うと思うんですよなんでなんで、結婚の話。
部落女性と部落男性の話しかしてないんだみたいな。
それ、自分も、なんていうんですかね。
思い売るなと思って、それで書いたっていうのもあり。
なるほど、誰が排除されてるかを気にしてを書いたのかなってもちろんそういう面もあると思いますけど、多分そこです。
いや、それは正しい誰が排除されてるかっていうのを気にしてたと思いますいません、ちょっと、ハウリングではないんですか。
今聞いたかな。
来ました、どうすればいい気持ちよかったよかった。
すいません、何か話題に出したときは消えてよかったです。
すいません元に戻りますね。
何か障害女性とか、多分、今回、取り上げられてない、いいと思うんですよね、研究対象として、多分インタビューした人の中にはいただろうと90人見れば、おそらくいると思うんですけど、その視点は出さずに、鎌田は本本当にいなかったのかもしれないんですけどっていうところが少し気になっている。
それが何かさいとうさんの誰が排除されてるのかってことを留意したいっていうコメントとちょっと繋がるかなと思って。
はい、言わせていただきました。
ありがとうございますそれについては多分次のですね、4つめ悪いところで話せると思いますました。
了解ですまずその前にいいところは何ですかから聞きましょうか。
よろしいでしょうか。
いいところは何でしょうか。
お願いします。
真面目なところがとてもいいと思っていました真面目っていうのはどういうことかっていうと、しなければいけないと言っていることをしっかりとやっていて、やってることはしっかりとやらなければいけないと言っているってところですね。
例えば部落女性の経験から考える必要があると言いながら、しっかりと部落女性の経験を聞き取っているっていうところです。
また、部落女性がどのように運動するかを示す必要があると言って、しっかりと複合差別という言葉を使ってフェミニズムと部落解放運動を批判するべきだと示しているところ。
こういうところが真面目と言える。
なんやろ。
やってることと言っていることが一致していて、すごく誠実だなあと思いつつ、評価したいところですね。
いや、これなかなか難しいですよね実際にやるとだからできてるのがすごいですよね。
これはすごいと思います。
はいありがとうございます。
もし追加することがなければ、4番さっきの話の続きをぜひ聞きたいんですけど、行きましょうか。
文献の悪いところは何ですかという聞き方がちょっと意地悪かもしれないんですが、お願いします。
二つあると思っていて、一つが流れがゆっくりなところ。
これちょっとだけ悪いかなって感じです。
もう1個は普通に悪いと思うんですが障害やセクシャリティの差別についてはかけてないところでまず、ちょっとだけ悪いところについてお話すると、流れがゆっくりなんですよねちょっと流れが物語にかなっていないので、読んでいくとちょっと大変だったなっていう思いをしました。
では逆に流れがゆっくりであるってことは、ご丁寧に考えてるってことなので、良いところでもあるっていうところだと思いあと列挙が多いんですよね。
七つありましたか。
四つあります。
多分、慣れてる人は楽しいんでしょうけど、自分あんまり慣れてなかったので、ちょっと大変だなって思いながら読んでました。
多分この今の自分の電車説明を聞くと、流れがわかったから、大丈夫かなとか、思っています。
ですごいわかりやすかった。
ありがとうございます。
お話したいところですね。
」障害者やセクシャリティに関するマイノリティは部落女性の中にいるにも関わらず、その経験はあまり明らかになっていないところは悪いと思います。
複合差別というときに、現状、現状、何障害がないんで、実ヘテロの部落女性がうける単純な差別の問題になってしまって、いないかっていうこと。
これをさらに調べる必要があるだろうと思います。
しかしそれをやるべきは、この本を書いた熊本ではなく私さいとうの課題なのかもしれないとか批判しながら思っていましたどうなのかあれですが、やっぱり、でもやっぱり、なんていうんですかね。
落差別の携帯に障害者別と絡んで部落差別をするっていう形態があると思うんですね。
指が、少ないとかそうでしょ。
差別的な話があるわけで、それを念頭に置いて、ちょっと別のイメージを出したかったっていう。
考えもあるかもしれませんし、またこの本、やっぱり運動に参加してる人、夏であったって言っているって書いてあるって。
そのこの話も、運動に参加すればっていう話なんですよね。
これはどうなんだろう。
熊本も理解してるんですよ。
これ偏ってるなって自分で書いてて、あの偏ってるところがあるので、そのところは意識したいって書いてはいるんですが、言ってるので別に熊本さんにとって意外な批判ではないと思うんですが、やっぱり参加しなかったもちろん参加しなかった人の運動に参加しなかった人に他の聞き取りもしてるんですよね。
そういうことはあるんですが、ちょっと運動に偏っているっていう点もあるし、やっぱり障害の話とか出てこなかったり、やっぱり共通するところを、取っちゃってるイメージがありました。
そうですね。
その共通するところっていうのが、ごめんなさい、共通するところっていうのが結果的に見城氏主義的であり、伊勢谷主義的であり、ていうところに繋がってるのかなって個人的には思います。
そうですよね。
これが例えばサブタイトルとかで、その運動の研究みたいなことが入ってたらまだわかるっていうか、気がするんですけど統合の研究しますって言ったときにやっぱり運動に関わってない人は研究対象にしないっていうのはある程度、言い訳もできると思うので、でもそこが漢文でXK図になってるっていうことですよね。
なんか自分は、ない。
運動法であることを限定して、することはどうなんだろうってちょっと思ってはいました。
なんか、それ、で多分熊本さんは避けたかったと思っていて何でかって言うと部落解放運動なわけじゃないですか要は部落女性部落女性が参加していたのは主に、なので結局部落解放運動の所ジェンダー体制だけを論じるようになってしまいかねない。
沼本さんの関心はそこではなくて、やっぱり部落女性がどういうふうに自分で、自分を決めるような人になっていくのかっていうところ。
思うんですね。
その中で一番大きかったのは確かに運動だったんだ。
っていう結論にはしていると思っていて。
やっぱりインタビュー。
っていうものの限界は少しあると思うんですよね調査の限界なんですかね。
話せる人ってやっぱり、なんか、偏っそうですねと思うんですね。
特に指定を取らなきゃいけないわけですからこの場合は、むしろ90人。
集めたのがすごいぐらいなので、すごいんだよすごいやっぱり運動を中心にするっていう選択肢はなかったかなって思います。
なるほどなるほどありがとうございます。
私がちょっとそれで気になったんでこういうこと言ったかっていうのちょっと付け加えさせていただくと、さいとうさんもちょっとコメントで書かれていた通り、主体生ていうことを良いものとしてるよね前提としてって言うようなコメントがあったと思うんですけど私もそこすごい気になって一定でも運動の中でその主体性形成とか字画とかそういうことがすごくキーとして出てきていたことを知ると、だからなんだなってちょっと納得、納得いってない部分もあるんですけど、納得いった部分もあるんですよね。
熊本さんが主体整形性って、いきなり何もないところから言い出したわけじゃなくて、運動の中でそれが求められてきた。
ていうところを踏まえて、このファンドをテーマにしてるっていうことを考えると、その主体性を前提、主体性を良いものとしてって前提として何かって言われたときに、そういうふうにし説明できるんじゃないかなってちょっと思っていて。
熊本さんが運動に限定したくない、なかったのだったとしたら、そっちの方がちょっと厳しいのかなっていうのは本を読んで個人的に思いました。
そう例もあると思います。
まさに体制って言葉、ここではこの本では最初の方は何か先行研究から導いてるかのような書きぶりなんですけど、絶対違うんですよね。
なんでかっていうと、226ページにあるんですけど、リスナーの皆さんは個人的なに興味深いと思った部分の真ん中らへんかな。
226ページって書いてあるところ。
まず組織を整備するとともに、主体性を確立しなければならないって書いてあって、これ引用なんですけど、どこからの引用かというと、部落解放運動の資料からの引用なんですね。
ここで主体性って言葉を使っているのを引き受けてるてるのが、多分自治体なんだと思うんですよ。
だけどそれを先行文献として書けなかったり、っていう学問的な制約、だったり、そこをうまく提示できなかったところ。
がちょっと主体性っていう概念を打ち出していく上では問題になったのかなって。
そうですよね。
そっからさいとうさんがコメントで、その最後の方にその従属的主体、生の平均を部落女性が自覚するって何かなって言ってるのって多分この序章の第一種の大体23ページから数ページに及んでこのあの権力復興の話とか、権力構造への従属を伴う主体とか自覚の話。
こう書かれている。
問題の諸新体制のところですね、のところで多分言ったことを回収しようと思って、ここの独唱で言ってんのかなってちょっと思います。
そうその通りだと思います。
試運転やこれ凄いらないでしょって最初思ってたんですよね。
第一章読んでるときはですね。
いやでもさ、あのわからなくはない。
使いたかったんだなっていう思いは、感じました。
何かどっかにですね、後半の方でも書いてたんですよ従属的主体性っていう言葉を使ってだったんです探す今見つかったすごい370ページもう1回ページ番号お願いします。
376ページ。
ありがとうございます。
水と塩本当だ。
で、そうここで使ってたのかそうそうそうそうそう。
読み上げますね。
最後に主体整形性に肯定的な影響と同時に、否定的な影響を与える部落解放運動および部落コミュニティのジェンダー体制と支配従属関係の中で、従属的主体性、サブジェクト日Tの変容を部落女性が自覚し、事故と共同性を変革しようとするときに初めて能動的な行為主体性、エージェンシーの形成が促されることを指摘した。
これ違う。
これ、これまとめのときに使ったやつですかね。
画面ロック付き使っても間違っちゃいますね382ページですね。
つか、利用したのは自分だ。
す。
んやっぱりちょっとわかんない。
ここですね。
多分最初に書いたから、ここでも快適なふうに読めてしまうのか。
いや逆だと思うんですよ。
ここで、ちょっと多分博論ではこっちを重視、重点的に帰ったんだと思う。
11主体性の運用みたいなの。
だけどなんか、やっぱり違うなって思って書き直してたら、なんか残っちゃったみたいな。
感じかな。
あと、主体性って言葉なんかすごいトラ州の巣バトラーみたいな、ちょっと言葉の使い方してるんだけどバトラーに全く言及しないところとか、ちょっと不思議な部分がいろいろあって面白いってそうです。
博論自体を読んでみたいなって思わされ確かに確かに。
そうですね。
何かやっぱり悪いところで、さいとうさんが言ってたそのちょっと、のんびりしてるところなんだっけ。
切りじゃなくて、ゆっくりとかですかね。
ゆっくりだ。
ゆっくりしてるところって感じ。
私も感じたんですけど、なんか多分、私がそう感じた理由は、具体例調査の結果と分析っていうのをあんまりその前後で紹介してる理論と、そんなにこまめに結びつけてないから、っていうのもちょっとそうなんじゃないかなって思っていて、確かにつそれが結びついてたら、持続的主体性にさいとうさんが脱ぐって思うこともなかったんじゃないかなとちょっと思いました。
なるほど確かに6章まで。
怒ってくれる。
そうなんですよ。
そこが面白いところでもあるんですけど、最後に一気に畳みかけるタイプの、なんかね、CB小説みたいな感じの構成ですよね。
なんか、いや、推理小説って何か最初に答えが出て、はい、解決編じゃないですか。
何かむしろ答えが出るまでが、何がないなんて、何かを不幸歴史小説みたいな感じなんですかね。
なんか、そんな一戸何か出来事これが結局何何が起こる乗っておいて進めさせられるみたいなあそこに保育所だったんだみたいな。
そういうイメージのあの本日いう。
なるほど。
もし、追加がなければ次の質問に行っても大丈夫ですか。
はい質問5行目なんですけども、この文献は他の文献と比べてどんな特徴がありますか。
さいとうです。
やっぱりここの文献のすごいところは、主流のフェミニズムへの批判をちゃんとしているところですね。
これが他の文献にはない。
他の文献は何と比べてるのか、何を比べるかによるんですが、少なくとも熊本さんの文献の中でも珍しいと思いました。
なるほどなるほど、熊本理抄の他の論文ではですね上野千鶴子の議論、地図の図が間違ってるけど、明日地図この上野千鶴子の議論をそこまで批判していないんですねもちろんそれは、借りてきてるわけですからねそうですね、にはいかないと思ってたんですけど、今回問題はきっちり批判してて、とてもいいなって思って読んでました。
もう1個の点としては、こインタビューで使われた福岡の方言をですねそのまま書いているってのは珍しいんじゃないかなと思いました。
これで福岡の方言研究これで福岡の方言を提供したいなとちょっと思います。
そうですね。
ありがとうございます。
あれですね、多分。
いわゆる熊本がこう批判している。
中産階級的な日本のニーズの文献と比べると、ちゃんと主流フェミニズムへの批判をしている。
ていうのが最初のあれですかね、やっぱ何か比較するとっていうところですか。
いや、自分が考えたのは、熊本理抄なんかの文献なんです。
なるほどなるほど。
Jさらに、上野千鶴子の議論の批判もしてるし、ていうことですね。
ありがとうございます。
何か福岡弁博多弁ポストに私もちょっとだけ仕事で、ずっと全編博多弁の芝居をずっとして劇団っていうのに付いてたことがあって、上司がついてたので私もついてたんですけど、そこでみんな、博多で何の注釈もなく、ずっとそれで喋るから、最初全然わからなかったことを思い出しました。
私、音読をするタイプの者なんですけど、ここの引用の、その部落女性が語っている語りの引用がもう読めなくて読めなくて断っても大変でした。
ぜひどなたかだったかっていうか、このただし正しいというか、うまい発音をでも誰かに聞かせて欲しいなって思いながら過ごしてます。
確かに2、これは音読で結構大変ですよね型知らない場合は全く知らなかったので本当とても大変。
お疲れ様でした。
ちなみに、そうですね。
何か多分他の文献との違いっていうと、90人のインタビューってだけでもう結構、9040とか50とかは聞きますけど、九州ってあんまり聞いたことないですよね。
なるほど、それはやっぱり大きいですね。
なんかだから、それだけでも他のもっとこれだけで、これだけ、これも十分大きいんだけど、もっとそれで論文書いて欲しいなって思いも少しありますね。
いろいろあったでしょ。
90人他の今回使えなかった部分で、でもやっぱり制約はあると思っててというのも、やっぱりさっき障害やセクシャリティについて議論がなかったっていうところは、やっぱり資料の問題っていうのもあると思ってて。
ばれる。
部落民の中で、自分がインタビューについて話したことがばれることをすごい不安がってるっていう言葉が出てきてた。
と思うんですねはい部落聞き取りをする部落女性からそういう声があったと。
だからやっぱり個人的なことは書けなかった。
ていうのは確かなんだろうなって。
そうですよね。
やっぱりコミュニティってちっちゃいというか、何か特徴障害の特徴を言うだけでもはやすぐばれちゃう。
うんいうところはあると思いますし、それはだって、部落コミュニティだけじゃなくて、障害のコミュニティでさえ、障害者がたくさんいる中でさえ、障害の種類を植えただけでしょ。
将来、誰のことだってわかっちゃうレベルなので、成歩堂そっかあなのは書けないのはしょうがないかなって思う。
だからどうにかしなきゃいけないんやっぱり難しい。
この子、やっぱり研究が人を傷つけては意味がない。
ので、難しいどうにか撥水うまくできることが、外すやり方があるといいですけどねそうですね。
そこ行くとやっぱり何か運動っていう言葉が自分の中で湧き出てくるんですけど、何か障害がいい女性の運動って結構あるじゃないですか、速攻。
を見てると思うんですよね多分、ある程度、見てると思うというかちょっと言い方変ですけど、何か、どうなんだろうな。
そういう意味では運動っていうスタイルに希望持ってたらいいんじゃないかなってぐらい、熊本の方の記述がすごくなんか、はい、心に残ってる感じです。
やっぱす。
ここは真面目な熊本さんであるところが少し効いたかなと思ってて、というのはですね、第5章ですかね。
日本における複合差別という言葉の問題点のところで、六つ目、6畳の上なんですけど、5章の最後なんですけどね。
本だと、理論と実践が連携できていなかったっていう点を指摘してて、C部落女性が実践として労働と教育を挙げている。
取り組んでいるわけですけど、理論研究部落解放運動の女性サービスと結婚の問題ばかりを取り上げてきたって批判しちゃってるんですよね。
だから自分が部落解放運動の話だけしては、いけないんだっていう。
思いはやっぱりあったんじゃないかなって思う。
なるほどここの葛藤ですよね。
どういうアプローチにすれば、この問題、聞き取りじゃない形でうまくできるのかだったり、匿名化がどううまくできるのか。
ってところが、そっち今後の課題にもなりそうですね。
それこそ量的研究とかだったら、もちろん個人を特定できないわけですけど、でもすごく人数でも90人集められたし、熊本さんだからできるような気もするけど、はい、逆に脳的研究だとやっぱり、問題なのは、同じ問題が起きちゃうと思うんですよねっていうのは、それぐらいはそれですごく重要なも研究になると思うんですけど。
結局障害だったり、セクシャリティの話。
書けないなって思って。
他の、ここの熊本市内やすいません。
福岡じゃなくて、だけじゃなくていいお母さん。
ところも、協力してもらって、なるほど。
広げていくみたいな。
とっても大変そうですけどできたら、でも、それはさいとうさんが書いてるように、読者側の残された型って感じですよね。
何かチームを結成しないといけないそうですね、1人でそう。
確かに確かに。
なんか、コメントはですね実は来ていないんですが、何かありましたらコメントくださいっていうことで、そろそろ、何か終わりの方向に行きますか。
そうですね。
もうこんな時間だ。
そうですね。
何か聞き残したこととか、話残したことありましたっけ。
そうですね今のところないと思うんですけど、一言だけちょっと感想で言いたいことがあるんですけどいいですか。
ありがとうございます。
女性であることを部落民であることが交差しっていうようなことっていうのが、あの点記述がよく出て、わけですけど、例えば213ページあたりの結婚に関する分析。
のところなんかでは、もうちょっと踏み込んで欲しかったかなと思うところがあって、やっぱり部落女性が、部落の外に一定部非部落男性と結婚する場合と、非部落女性が部落にお嫁に来るみたいな。
パターンとの違い。
つか、前者の方がより厳しいみたいな分析あるじゃないですか。
それがなんでなのかっていうところでは、さらなる研究が検証が必要となろうというふうに書いてあってここがむしろ知りたかったなみたいなやっぱ結婚するってことは、その相手のところに行く入る。
から相手側への文化なりなんなりの増加が必要ですっていうのが結婚の一般的な現象として女性側に起こることでみたいなことと、すごくうまく繋がりそうな部分だっただけに、222ページで、検証が必要となろうみたいに書いてあって、ここは熊本さん、どっかで書いたってするんですかね、この後ごめんなさいわかんないんですけど、私あんまり、結婚のことについて書きたくないって思いもちょっと感じてて熊本さんから、なるほど、というのもやっぱり、今までの研究で十分されてきた。
ところ十分ではない。
もちろん十分ではない何の研究でも十分ではないので、でもやっぱりある程度やられてきたところ、例えばさいとうのお子さんの結婚差別の社会学っていう本あるんですけど、それでもそこでもなかったかな、ともかく、やっぱり主要な研究として結婚のテーマってのは、使われていたので、あんまり掘り下げたくないんだろうなっていう。
思いはちょっと伝わってきました。
なるほどなるほど。
あとあんまり一般に行きたくないのもあるんだろうなっていう少し感じますね。
というのもやっぱり、部落女性の経験を部落女性の部落女性の経験を部落女性の考えから、分析していくっていうところが、やりたいことだと思う。
他のところでも、結婚ってのはこういう一般にこういうものでねっていう話はちょっとしたくなかったのかなあってちょっと今聞いてて思いましたね。
なるほどなるほど。
何かその結婚っていうときに、女性される人にかかる圧力とか抑圧の力っていうのが、部落女性にはどう出るのかみたいな話だと思うんですけど。
っていうそこが、なんていうのかな。
です。
この具体例。
がしっかり書いてあった部分の説明がもうちょっと欲しかったものみたいな部分の一般って言い方が私は良かったんですけど、はい、いやでも説明。
具体例で、すごい具体例がなんていうんですかね心に訴えかけてくるものでもあって、その力でご利用してる感じは少しする。
もうちょっと説明してもいいかもねって思うところは確か感じました。
わかります。
ありがとうございます。
何かちょっとゆつもりがもうこんな時間になってしまいましたそろそろ閉めていく感じで大丈夫ですか自分は大丈夫です。
はい、ありがとうございます。
あれなんか私が占める感じになってますけどさいとう探してみた方がいいですよね。
すいません私しますね。
あの時私も今回は皆様お聞きくださいありがとうございました今回、フェミニズム基礎文献フェミニズム基礎文献研究会第2回目ということで、私がさいとうが熊本理抄差別部落女性の主体整形性に関する研究を取り上げさせていただきました。
次回はですね、第3回が4月にございます。
尚さんという方。
のが多分、今のところベル・フックスの何でしたっけ何でしたっけ等理論.フェミニズムブラックフェミニズムあゆみベル・フックスのフェミニズム理論中心から週、終焉から中心へを取り上げる予定でございます。
また、フェミフェミニズム基礎文献研究会のアカウントをフォローしていただいて、情報っていただければ嬉しいと思っています。
それでは、こんな感じですかね、終わりにしね。
はい、最初のところで接続のトラブルがあって、お待ちいただいた方も多かったと思うんですが、お待ちいただいてありがとうございました。
では、お疲れ様でした様でしたありがとうございましたまた次回、リスナーの皆様とお会いできたら嬉しいです。
なおさんまたよろしくお願いします。
お疲れ様でした。
お疲れ様でした。
わあ、UDトーク切ります