さいとー・ま

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さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

向井『ラカン入門』読書会1

向井雅明(むかい・まさあき), 2016, 『ラカン入門』筑摩書房(ちくま・しょうぼう)(
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480096760/
)を読む読書会にお邪魔させてもらいました。その読書会のURLは以下の通り。
https://psy-soc.web.wox.cc/

今回は移動しながらの参加だったので、覚えている限りでのメモをします。

80-139

泣き声

緊張とは何か?(89)

緊張はラカンというより、フロイトの文脈である。

要請1と要請2の関係(97)

要請1は(1)言表(げんぴょう)の水準の要請で、要請2は(2)言表行為の水準の要請と考えられる。たとえば、お菓子が欲しいという望みについて考えてみると、
要請1:「お菓子が欲しい」という言葉。
要請2:その裏で実は求められている「(私のそばにいて、愛して)」という考え。
しかし、図を下から上に見ていくと、欲求→要請2→欲望→要請1という流れになっていて、他の欲望のグラフとは上下が異なっている気がする。つまり、欲望のグラフでは上段が言表行為の水準であり、下段が言表の水準である。しかし、ここのグラフは上段の要請1が言表の水準であり、下段の要請2が言表行為の水準である(ように思える)。もしかしたら、本文の(1)(2)が要請1、要請2という風に対応していない可能性がある。

しかし、言表と言表行為は別物である。これをまとめて要請と名付けるのは、不適切であるのではないかという問いが現われた。さいとうの個人的な意見としては、要請とは言語によって媒介された望みと最初に定義され、後に言表と言表行為の水準が区別されるようになった(から、別物の要請が混ざって表現されている)と思う。

要請1と要請2の間にあり、欲求から要請を引いたものが欲望である。欲望は「お菓子(お菓子をもらう)、お菓子(お菓子をもらう)、お菓子(お菓子をもらう)…(以下繰り返し)」(結局何を求めているの?)という一つのモノへの強い執着を言うと、さいとうは説明した。

しかしさいとうの個人的意見では、欲望が無意識に抑圧されることを思うと、もっといい表現があると思いなおした。「お菓子が食べれなくて困った」という夢を見たときの(お菓子を食べたい)というのが欲望である。欲望は基本的には本人には認められない。否定的な形でしか言及されない。

ラカンの『エクリ』(692頁)からの引用である「要請の彼方に、欲望が形作られる」は、要請2より上のことであり、「欲望は、要請の此方に自らの穴を掘る」は、要請1より下のことである、と個人的に思う。

父性隠喩

エディプスコンプレックスにおける父母をどう捉えればいいか?

理論的には、父母子という核家族モデルが求められている訳ではない。フロイト自身もフロイトの扱っていた患者もユダヤ系だったから、割礼などを重視していた可能性が高いことが指摘されている。精神分析家ならば経験的に分かると言うであろう。

欲望のグラフ

女性性とは?(122)

「女性性は子どもに向けられるものではなく、例えば男性に対してあるとするなら、母親の女性としての部分は母子関係の外を目指していることになる。」(122)とあるが、「例えば」と言うと言うことは、異性愛関係とは他の女性性を考えているのだろうか?
→子供に向けられる女性性と父に向けられる女性性のことを考えているだろう。

欲動とは?(122)

フロイトのTriebやラカンのla pulsionが欲動に当たるが、なぜここで欲動という話が出てくるのか分からない。

S(A/)

欲望のグラフ続

トーテムとタブー

「(1)部族の長による独占」は、A(去勢されていない母、万能の言語…)に当たる。
「(5)父の殺害」は、S(A/)(母親が去勢されていることを認識すること)に当たる。
「(6)死んだ父への同一化」はI(A)に当たる。
しかし、I(A)がグラフの中に描かれていない理由が分からない。
また、原動力である母親の欲望の謎はフロイトの原父神話には位置づけられない。

一人の子どもがぶたれる

幻想の三つ目の場面について本文では位置づけられていない。
幻想において棒に叩かれることがS/の斜線とどのように結びつくか分からない。斜線は完ぺきではないこと、欲望を持っていることを示しているが、棒に叩かれることはこのことを示しているのはなぜだろうか?

おわり。