さいとー・ま

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戦後日本におけるジェンダーとセクシュアリティの言説の変遷――レズビアン、失踪、オナニー

戦後日本におけるジェンダーセクシュアリティの言説の変遷――レズビアン、失踪、オナニー
さいとう・まの

はじめに

本稿では、戦後日本におけるジェンダーセクシュアリティの言説の変遷について、いくつかの研究をまとめることで整理したい。使用する研究は大まかに三種類に分けられる。一つ目はレズビアン研究である。特に、杉浦郁子(すぎうら・いくこ)による三つの論文を使用する。二つ目は失踪の言説についての中森弘樹(なかもり・ひろき)の研究である(中森(なかもり) 2017)。三つ目はオナニーを中心としたセクシュアリティの言説についての赤川学(あかがわ・まなぶ)による研究である(赤川(あかがわ) 1999)。これら三つの研究群ではいずれも、ジェンダーセクシュアリティが重要な要素として問題にされている。この作業を通じて、レズビアンの表象の変遷が、同時代の他の表象の変遷と対応しているかどうかを知りたい。その中でも特に、性的な女性という考え方がどのように機能しているかを知りたい。

レズビアン研究

杉浦(すぎうら)(2015)は、第二次世界大戦以前からのレズビアンについての語られ方をレビューしているが、本稿では戦後に焦点を当ててその内容を紹介する。戦後の1940年代後半には「エロ」「グロ」を売りにしたカストリ雑誌において、女性同士の関係が肉欲的に描かれるようになった。1950年代には科学と娯楽の両面を持った性風俗雑誌において、身体的特徴よりも男性的とされる振る舞いに注目し、過渡的とされた「仮の同性愛」よりも永続的とされた「真の同性愛」に注目された。特に1950年代後半には、キンゼイ報告が(「レズビアン」という表記ではなく)「レスビアン」という表記で性的な側面が前提としたことで、仮と真という枠組みを否定した。ただし、フランス的な優雅さのイメージが強く、一般化しなかったという。しかし、1960年代には大衆向け雑誌が「レスビアン」という概念を定着させる。そこで杉浦(すぎうら)は「素人」の「女役」とされた人の性欲を中心に扱うが、列挙されている描かれ方としては以下のような要素がある。精神的なエスに対する性的な「レスビアン」という対比、レスビアン・バーにおける男装の従業員とそこに来る客、芸能の男役とそのファン、そして1960年代のフリーセックスブームにおける乱れた性というイメージである。このような状況下で、1970年代後半にはいくつかのレズビアン関連書籍が出版された。1970年代においては、レズビアンのグループである若草の会の会長である鈴木道子(すずき・みちこ)が会の宣伝を行っており、1980年代においてはレズビアンの解放と女の解放を結び付ける主張が、レズビアン自身(や男性のルポライター)によって大衆向け雑誌で展開されるようになる。1990年代にはカミングアウトした個人のレズビアンの語りが強調され、1990年代後半にはレズビアンとオナベの区別がはっきりしてくる。

また、杉浦(すぎうら)(2005)は、戦後から若草の会が設立される1971年までの大衆向け雑誌におけるレズビアンの表象を分析しているので、その内容をまとめる。1950年代の4件という数少ない記事において、女性同性愛は性的ではなく一過性で「異性化」が含まれていた。ただし、「真性の同性愛」は「異性化」を伴わないとされたり、「仮性の同性愛」の一例に芸能の男役のファンがあげられたりしている。1960年代前半にはレスビアン・バーにおける男装の従業員とそこに来る客には、性的ではないというイメージと、女性の男装とエスという要素が割り当てられる一方で、「もっと本質的な秘密レスビアン・クラブ」とされる「第四の性」には性的なイメージと、フランスに関係する「インテリ」という要素が割り当てられている。さらに、1960年代前半には男装した女性が日常生活において夫として妻の女装した女性と一緒に生活していることが描かれる。ただし、この時「妻」はレスビアンとみなされていない。しかし、1960年代後半にはタチ、ネコという言葉が使われ、ネコ側がレスビアンのなかで明確に位置づけられる。ネコには性的なイメージが割り当てられていた。さらに、ルームメイト型のレズ ビアンという描写により性的なイメージがより強化された。さらに、「男役」から「女役」への転向についても描かれていた。

最後に、杉浦(すぎうら)はオナベとレズビアンの区別に注目して1960年代から1970年代までの大衆向け雑誌におけるレズビアンの表象を分析しているので、レズビアンの表象という面からその内容を整理する(Sugiura 2006)。大きな流れとしては、1960年代の肉欲的レズビアンモチーフ、1980年代のレズビアンフェミニスト言説、1990年代のレズビアン解放言説と中心が移り変わってきた。1960年代についての記述は前に紹介した二つの論文とほぼ同じなので省略するとして、1970年代は1960年代と同様であった。1980年代のレズビアンフェミニスト言説は、女性支配からの解放のためのレズビアン的関係というロジックであるのに対して、1990年代のレズビアン解放言説は、レズビアンの解放と女性の解放が同時に目指された。そこでは、前の世代に流行ったレズビアンフェミニスト言説は、ステレオタイプだとして否定され多様な主体が想定される。それゆえ、1980年代には男性性と関連している表象は批判の対象であったのに対して、1990年代にはタチ、ネコという図式は否定されず、オナベも否定されない。さらに、レズビアン解放言説はセクシュアリティという概念を使ったため、1993年からオナベはヘテロセクシュアルとして描かれるようになってオナベがレズビアンからはっきりと分かれることになる。ちなみに、トランス男性の虎井まさ衛(とらい・まさえ)は1987年や1988年に自身の性的でない側面を強調して、異性装と手術の対比を用いてレズビアンやオナベとの差異化をはかっていた。

以上を大衆向け雑誌のレズビアン表象を中心にまとめると、次のように単純化できるだろう。1950年代には性的なイメージが弱かったが、1960年代から1970年代は性的なイメージが強調されてきて、1980年代からはフェミニズムの影響が強く、1990年代にはそれへの反発とトランス系との分離が果たされる。ここで注目したいのは、性的なイメージの強調が、レズビアンに固有の強調だったのか、それとも女性表象全般における強調だったのかという点である。フリーセックスのイメージにおける「乱れた性」という描写にあるように、それは女性表象全般の傾向であると予想される。

失踪

中森(なかもり)(2017)は、その本の第三章(57-102ページ)において失踪に関わる言説の歴史を描いており、その変化の原因を理論化している。本稿では理論の観点からの整理を試みて、三点の考察を展開する。ただし、中森(なかもり)自身は失踪の実態については保留したうえで、他の原因から説明しようとしている。おおまかな流れとしては、1950年代の「家出娘」、1970年代の「蒸発妻」、1990年代の「夜逃げ」、2000年代の「プチ家出」、ミステリアスな失踪、2010年の「高齢者所在不明問題」という言説の変遷がある。中森(なかもり)はこの流れを、個人化の進展と家族の変容から捉えようとしている。

ウルリッヒ・ベックは、第一の近代と第二の近代を分けた。第一の近代には、近代に入って封建的なつながりから解放されて、家族などの中間集団に再編され、第二の近代には、家族などのつながりからも解放されて、選択に基づく関係が広がった。この第一の近代における個人化として、つまり封建的なつながりの解放として、封建的な家制度や村落から家出するという語りが1950年代に増えたのに対して、第二の近代における個人化として、つまり家族からの解放からの選択する関係への再編として、妻が結婚関係から蒸発するという語りが1970年代に増えたと整理できる。しかし、第二の近代における個人化によって、人間関係が実質的に選択によるものとなると、もはや蒸発よりも離婚という選択肢が現実的になり、「蒸発妻」という語りは減っていったと解釈されている。このようにある人間関係から離れることが、失踪という手段を使わなくてもできるようになったことで、人間関係というより経済関係における理由での「夜逃げ」や、短期的に離れる「プチ家出」以外の失踪は、よく分からないミステリアスな失踪とみなされるようになった。そうして、むしろ第二の近代における関係の選択化による見捨てられるリスクという点で「高齢者所在不明問題」がとりあげられるようになる。

ただし、中森(なかもり)は注の17(330-1ページ)において日本における第一の近代と第二の近代の進展についての二つの説を紹介している。ひとつは山田昌弘(やまだ・まさひろ)「家族の個人化」(2004)の見解であり、もう一つは落合恵美子(おちあい・えみこ)の「個人化と家族主義――東アジアとヨーロッパ、そして日本」(2011)の見解である。山田(やまだ)は1990年代に第一の近代の個人化と第二の近代の個人化が起こったと考えているのに対して、落合(おちあい)は人口転換から1950年代に第一の近代の個人化がおき、1970年代に第二の近代の個人化がおきたとしている。中森(なかもり)は失踪の言説の分析の結果を説明するのに落合(おちあい)の見解を採用している。

ちなみに、1970年代の「蒸発妻」の語りの中では、蒸発する人が配偶者以外の人と恋愛、性愛の関係に入ることが想定されるのだが、配偶者である夫がホワイトカラーの男性として表象されるのに対して、蒸発するときの相手はブルーカラーの男性や、レズビアンの女性とみなされるようだ(特に89ページ参照)。さらに、印象的なフレーズを孫引きする。

アダムとイブの昔から、禁断の木の実をむさぼるのは、まず女ときまったもの。しかも昨今、性の快楽を味わうことにはますます激しく貪欲になってきた。いまや、妻から離婚を申し立てるなんてもう古い。めんどうくさい離婚手続きなんてマッピラと、夫も家庭も捨てて、即充実したセックスライフを求めての蒸発がふえているのだ。(『週刊現代』 1974.10.17)
中森(なかもり) 2017: 57

このような記述は、1960年代から1970年代のレズビアンの性的なイメージと重なる。1970年代は(おそらく特に中流階級の)女性に対して性的なイメージが与えられているのではないだろうか?

中森(なかもり)の記述をもとに、三つのことを考察をしてみよう。2000年代を除いて失踪の言説の流れを見ると、語りの中で失踪する人の年齢が時代とともに徐々に上がっていく傾向が確認される。つまり、1935年ごろに生まれ、1950年代の「家出娘」が15歳程度だとして、1970年代の「蒸発妻」が35歳程度、1990年代の「夜逃げ」が55歳程度、2010年代の「高齢者所在不明問題」が75歳程度、と考えてみると、「失踪における言説で注目されている失踪者の世代が皆同じなのではないか?」という仮説が思い浮かぶ。この仮説を補強する材料として、中森(なかもり)による落合(おちあい)の『21世紀家族へ』(2004)についての記述を引用する。

人口学的移行期世代とは、多産少死のために人口増加が起こった一九二五年から一九五〇年にかけて生まれた世代である。落合によれば、この人口学的移行期世代は、地方の家から都市に出て核家族を作ることで、「家族の戦後体制」の担い手となるとともに、核家族世帯の増加の要因となったという。
中森(なかもり) 2017: 78

仮説における世代もちょうどこの人口学的移行期世代に該当する。そして、この人口学的移行期世代の特徴の一つは、数が多いことである。数が多いというのは、それだけで注目を集める要素である。それゆえ、失踪者の割合がたとえ世代ごとに同じだとしても、絶対数が多い世代の失踪がより誇張されて認識されていたのではないか。もちろん、この仮説には二つの重要な欠点が存在する。ひとつは2000年代の流行を説明できないこと、もうひとつはそれぞれの該当する年齢があっているのか不明であるということである。つまり、「蒸発妻」が35歳程度で「夜逃げ」が55歳程度というのがいかにも怪しい。したがって、この仮説は仮説としてだけとどめておいて、専門家に任せるしかないだろう。

もう一つの考察は、1970年代の蒸発する人々についてである。中森(なかもり)は関心が親密な関係にあったため、家族と仕事を分離して考えている。そのため、蒸発する妻に関する言説と蒸発する夫に関する言説の相違点に注目している。つまり、蒸発する妻の蒸発の動機は夫婦関係への不満だけであるのに対して、蒸発する(またはしたくなる)夫の動機は仕事関係への不満も含まれているとされている(74ページ)。しかし、1970年代に焦点があたったホワイトカラーの夫と結婚している妻にとって、家族はまさに「仕事場」であったことに注意しなければならないだろう。まさに無賃の家事労働を行う「職場」が家庭であり、男性優位の社会においては夫が上司にあたるわけである。したがって、ここにおいては蒸発する妻に関する言説と蒸発する夫に関する言説の共通点が分かる。すなわち、どちらも労働の場からの逃走として捉えられるのではないだろうか。もちろん、このような解釈は中森(なかもり)の失踪の研究を通じた親密性の解明という大きな枠組みにはあてはまらない点には注意が必要であり、それゆえ中森(なかもり)の分析の問題点ではないだろう。ただし、「現代のサラリーマン」(75ページ)についての雑誌の記述を中森(なかもり)が「誰もが」(74ページ)という言葉で表現しているところには一抹の不安を覚える。「誰もが」というときに、女やブルーカラーが想定されていないのではない可能性に行き当たるからだ。もちろん、自分は該当記事を読んだわけではないので、その該当記事は本当に「誰もが」という論調で書いているのかもしれず、それをまとめただけの可能性もある。そうであることを願うばかりである。

三つ目の考察は、失踪に関わる批判に潜む性差別についてである。中森(なかもり)は失踪にまつわる批判が、1950年代からの失踪には失踪者本人への批判が多いにもかかわらず、2010年代の「高齢者所在不明問題」では失踪者の家族が批判される理由を問うている。この点に関しては、おそらく中森(なかもり)が想定しているだろう理由が明示的に書かれていないので、はっきり書くと、性差別における女性嫌悪が働いている可能性を指摘できる。「家出娘」も「蒸発妻」も女性であるから批判され、「高齢者所在不明問題」では失踪者には男性もいるかもしれないから批判されないのである。そのうえで、中森(なかもり)が言うように、「なぜ二〇一〇年代には失踪者が庇われ、失踪者の家族が責められるような種類の失踪に多くの注目が集まり、以前のようにその逆の構図の失踪には注目が集まらないのか」という疑問が残るのである。

オナニー

赤川(あかがわ)(1999)は1870年代から1980年代までのオナニーをテーマに書かれた文章を言説分析している。本稿では1940年代から1980年代までの変遷を追ってまとめる。1910年代から1920年代に、性欲のエコノミー秩序が日本で成立した。性欲のエコノミー秩序とは、性欲のはけ口が想定されて、結婚を中心にその他の方法が周辺化、規制されて分類されることになる秩序のことを言う(289ページを参照)。たとえば、同性愛は性欲のはけ口の一つと位置付けられ、オナニーなどの他の方法と比較されるのである。1950年代はこの性欲のエコノミー秩序の発展と位置づけられ、キンゼイ報告は性欲のはけ口の相互の交換可能性をはっきりと示したと位置づけられる(303-7ページ)。この性欲のエコノミー秩序は、1960年代になると階級や階層を横断的に適応される言説になるという(323ページ)。しかし、それまでは性欲とは本能であるという考え方が主流であったが、1970年代からは性欲とは人格の一部であるという考え方が主流になるようになった。さらに同時期に性の問題が医学などの枠内から出て、大衆化されるようになった。さらに、同じく1970年代には性欲のエコノミー秩序よりも、親密かどうかが問題となる親密性パラダイムが出現した(1970年代の変化については第14章を参照)。

ちなみに、同性愛についての言説として、1970年代の愛していれば同性愛も可という形態が記録されている(377ページ)。これは親密性パラダイムの証拠とみなされる。

おわりに

ここまで、レズビアン、失踪、オナニーの言説についての変遷についての研究をまとめてみた。ここから、次のようなことが言える。1970年代の性の問題の大衆化により、同性愛についての医学的表象(仮性、真性など)よりも大衆向け雑誌における表象が優位を占めるようになったと考えられる。そして、1970年代には第二の近代の個人化によって、第一の近代によって再編された家族からの解放がおき、親密な関係性を選択することができるようになり、親密性パラダイムが優勢になった。この点が、レズビアンなどの女性に対する性的なイメージの形成に何かしら関係があるかもしれない。やはり、親密性パラダイムでは女性が性欲(?)の主体として考えられることになるのだろうか。例えば、ギデンズも『親密性の変容』(Giddens 1992=1995)において、ロマンティック・ラブを割り当てられていた女性が、親密性の変容を主導していくというような議論の展開をしている。
このことは、レズビアン研究の菅野優香(かんの・ゆうか)の記述と対応する。菅野(かんの)(2023)は、1974年の日活ロマンポルノにおける『実録桐かおる にっぽん一のレスビアン』を分析している。桐(きり)は、レズビアンのストリッパーとして活躍していた。その背景を菅野(かんの)は次のように記述する。

一九七二年以降もレズビアン・イメージの性化はその度合いを強めていき、「レズビアン」は男性に消費されるポルノの題材になっていくと杉浦が指摘するとき、そうした「レズビアン」概念をめぐる歴史が日活ロマンポルノの歴史と重なっていることは見逃せない。一九七一年にスタートしたロマンポルノには、当初から「肉欲的レズビアン」の表象が散見される。一九七〇年代の日本という文脈に即して考えれば、ポルノ映画における異性愛男性にとっての「レズビアン表象」の快楽は、こうした歴史性と強く結びついているのではないだろうか。「レズビアン」が女性を愛する女性のことではなく、性的に奔放な「女性的」女性のことであったとするならば、「レズビアン」は恰好の素材であったはずである。
菅野(かんの) 2023: 164.

ここからも、1970年代日本では、女性の性的主体性が大衆的に考えられるようになったといえるかもしれない。

ただし、赤枝香奈子(あかえだ・かなこ)の研究は、1970年代にレズビアンのイメージがより性的になったという説と合わないかもしれない。赤枝(あかえだ)(2014)は、「戦後日本における「レズビアン」カテゴリーの定着」において、大衆向け雑誌と性風俗雑誌を合わせて、「レズビアン」と「レスビアン」の違いに注意しながら女性同士の性的・恋愛的関係の表象の変遷を辿る。
1940年代には戦前のエスの非ポルノ的な表象の続きと、カストリ雑誌におけるエスのポルノ的な描き方があった。また、カストリ雑誌においてトリバードやサッフィストなどの言葉を通じて海外の事例が紹介されていた。1950年代にはキンゼイ報告などの影響で「レスビアン」というカテゴリーによって性的かつ精神的な関係として把握されるようになる。1967年ごろまでは「レズビアン」よりも「レスビアン」が優位だった。1960年代にはエスとレスビアンが関係づけられ、歌劇の男役、(ゲイバーから派生して紹介される)レズビアンバーがレズビアンのイメージを作りあげ、フリーセックスの影響で性的なイメージが作りあげられていく。
このようなまとめを経て、考え直すと、レズビアンの性的イメージは、下層階級に集中していた戦前から、戦後にはカストリ雑誌によって性医学を経由して作られたが、キンゼイ報告によって性医学の影響力が弱まり、大衆向け雑誌のなかでレズビアンの性的イメージが拡大する、という流れとまとめられると思う。

また、1960年代に性欲のエコノミー秩序において階級が問題とならなくなったという赤川(あかがわ)の見解は、杉浦(すぎうら)(2015)の記述にも対応している。杉浦(すぎうら)は、戦前は女性同士の恋愛的性愛的関係性は階級によって違いがみられたことを記述しているが、大衆向けにおいてはそのような区別をしていない。これは、下層階級が言説にアクセスできるようになった結果であり、それと並行して性的イメージが広がったとみなせるかもしれない。

参考文献

赤枝香奈子(あかえだ・かなこ), 2014, 「戦後日本における「レズビアン」カテゴリーの定着」, 小山静子(こやま・しずこ)・赤枝香奈子(あかえだ・かなこ)・今田絵里香(いまだ・えりか)編『セクシュアリティの戦後史』、京都大学学術出版会(きょうとだいがくがくじゅつしゅっぱんかい)。
赤川学(あかがわ・まなぶ), 1999, 『セクシュアリティの歴史社会学勁草書房(けいそうしょぼう).
Giddens, Anthony, 1992, The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love and Eroticism in Modern Societies, Polity Press. (アンソニー・ギデンズ著、松尾精文(まつお・きよぶみ)・松川昭子(まつかわ・あきこ)訳, 1995, 『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』而立書房(じりつしょぼう).)
菅野優香(かんの・ゆうか), 2023, 「レズビアン・ストリッパーと劇場文化――桐かおるの映画」, 志村三代子(しむら・みよこ)、ヨハン・ノルドストロム、鵜飼美緒(うかい・みお)『日活ロマンポルノーー性の美学と政治学水声社(すいせいしゃ): 153-174.
中森弘樹(なかもり・ひろき), 2017, 『失踪の社会学――親密性と責任をめぐる試論』慶應義塾大学出版会(けいおうぎじゅくだいがくしゅっぱんかい).
落合恵美子(おちあい・えみこ), 2004, 『21世紀家族へ第3版――家族の戦後体制の見かた・超えかた』有斐閣(ゆうひかく).
落合恵美子(おちあい・えみこ), 2011, 「個人化と家族主義――東アジアとヨーロッパ、そして日本」ウルリッヒ・ベック/鈴木宗徳(すずき・むねのり)/伊藤美登里(いとう・みどり)編『リスク化する日本社会――ウルリッヒ・ベックとの対話』岩波書店(いわなみしょてん), 103-25.
杉浦郁子(すぎうら・いくこ), 2005, 「一般雑誌における「レズビアン」の表象――戦後から1971 年まで」『現代風俗学研究』11: 1-12.
杉浦郁子(すぎうら・いくこ), 2015, 「「女性同性愛」言説をめぐる歴史的研究の展開と課題」『和光大学現代人間学部紀要』8: 7-26.
Sugiura, Ikuko, 2006, “Lesbian Discourses in Mainstream Magazines of Post-War Japan: Is Onabe Distinct from Rezubian?” Journal of Lesbian Studies 10, no.3/4 : 127-144.
山田昌弘(やまだ・まさひろ), 2004, 「家族の個人化」『社会学評論』54(4): 341-54.