さいとー・ま

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リッチ『女から生まれる』読書会03

アドリエンヌ・リッチ高橋茅香子(たかはし・ちかこ)訳), 1990, 『女から生まれる』晶文社(しょうぶんしゃ).
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100頁2段落から。

要約

女は力を三つの仕方で経験する。女が男に支配されるという経験。女の自立が男を脅かす力と捉えられる経験。すべての女に力があると男から幻想を持たれる経験。母権制の存在に関する議論によって母が生命の源泉という力を持っているという思想があり、それに反対する人々は母であることが力の行使を受けると考えていて、母であることと力が結び付けられている。「情愛にみちた女の力」(103)が問題になる。

コメント

自尊心の欠如

カレン・ホーナイが「不安と自尊心の欠如」によって女には力があるという男の恐れを認められないといっていて、リッチは不安について述べているが、自尊心の欠如と恐れが認められないことの関係はどのようなものだろうか?
→自分に力があるなんてとても思えない、つまり自尊心がないから、力を持っているという男の幻想としての恐れは信じられないので、認められない。

抽象的な女

抽象的な女は、個人個人には関係ないけれど、そういう女なるものへの潜在的な敵意についての幻想を意識せざるを得ない。この時代のフェミニズムっぽさを感じられる。精神分析が説得力を持った時代だったのだろう。
大文字のWomanを使っている。"Woman, an abstraction"

仲間

「仲間と雇い主が自分を恐れていることがあると考えるのは落ち着かない」
仲間とは何か?
仲間の原文はyour mateなので、仲間ではなく、配偶者の意味の「連れ」「主人」といったところだと思われる。結婚生活においては非対称的な関係しか作れないとリッチは考えていて、master(主人)にあたるものとして雇い主と配偶者(主人)を挙げているのだろう。続いて出てくるlover恋人は、結婚生活の外でしか対等な恋愛関係が作れないことを示唆しているのだろう。

疑問文

「もし女が主人ではなく兄弟とか恋人とか対等な相手を見つけたいと思ったら、この恐れにどう対処したらいいのだろうか?」
"And if a woman hopes to find, not a master but a brother, a lover, an equal, how she to meet this dread?"
この疑問文の後では女性も女性自身の悪魔視を内面化していることについて述べている。
ここまで非対称的な男女の関係を述べていたが、ここで対等な関係性を議論し始めるのは少し浮いている気がする。
修辞疑問文の反語としてとって、この恐れにはどうにも対処できない、ということを意味しているのか?
主人とか上の地位の相手の幻想に対処しなければいけないのはもちろんだが、たとえ対等な相手をさがしても、相手の男の幻想に対処しなければならない。

まとめ

「女が力にかんして昔から経験してきたことは三重の否定だということだ。女は男の力を抑圧として経験してきた。女自身のヴァイタリティや自立心を、男を脅かすものとして経験してきた。そして「女らしく」従順にふるまうときですら、女は潜在的に破壊性をもっているという男の幻想を意識させられてきた。」(101)

生物学

「生物学」とカギカッコがついているので、初期のフェミニストたちは生物学を反対するしかなかったということを表している。
差異派の男性性と違う女性性を称揚することを指しているだろう。
女と男は違うから同じに扱う必要がない(生物学)→初期フェミニストによるその否定→母権制論争における再検討という流れだろう。
差異と平等についての議論(生物学に対する反発と身体の重視)の流れの一つとして捉えられる。
第一波なら平等だろう。

母権論争

母権論争は、母権制があったかどうかという議論だと思われる。社会学的にはなかったということで決着がついている。フェミニスト的には権力の違ったあり方を目指した一つの取り組みのひとつとして母権論争が位置づけられている。生物学への反応の再検討につながったとリッチは評価している。

神の指摘

女神が信仰の対象だったことを指摘するのは、リッチにとって重要である。なぜなら、力についての思想(神についての考え方)が思想の力になると考えているから。

力の概念と母の概念の結びつき

母権的秩序があったのかなかったかの結論(バッファオーフェンボーヴォワール)にもかかわらず、母の概念と力の概念は結び付けて考えられてきたよね。
→議論においてでは?
バッファオーフェン派は母こそが力を持ち政治を行うという風に母の概念と力の概念を結び付けたが
反バッフォオーフェン派は母であることこそが力の行使を受けるという風に母の概念と力の概念を結び付けた。

異なる位置づけ

ボーヴォワールやファイアストーンが母権制存在に対して反対の論陣をはったという位置づけは興味深い。なじみ深い方である。

女の力

母権制があったかなかったかもわからず、母親に育てられていたことの影響で女に力があるという幻想が広まっているのかどうかも分からない。
情愛に満ちた女の力をリッチは強調している。母の生命の力ではなく、原始的なマナ的な超自然的な力ではなく、父の支配的な力ではない。
社会一般にはない。
女が私生活で使ってはいたが、非常に抑制されていた。

全体のなかの位置づけ

バッファオーフェンの話は文章全体でどういう位置付けなのかわからない。→男の幻想において女が力あると考えられているが、その理由についての検討を通じて第四の力に話を移行する。つまり、母権制があろうがなかろうが、母による子どもの支配が無意識の記憶に残っていようがいなかろうか、情愛にみちた女の力という第四の力が問題になっている。

訳の検討

1

「仲間と雇い主が自分を恐れていることがあると考えるのは落ち着かない」(100)
仲間とは何か?
仲間の原文はyour mateなので、仲間ではなく、配偶者の意味の「連れ」「主人」といったところだと思われる。結婚生活においては非対称的な関係しか作れないとリッチは考えていて、master(主人)にあたるものとして雇い主と配偶者(主人)を挙げているのだろう。続いて出てくるlover恋人は、結婚生活の外でしか対等な恋愛関係が作れないことを示唆しているのだろう。

人物紹介

バッハオーフェン

スイスの文化人類学者(1815-1887)。『母権制』(1861)で有名。母権制を進化論的な枠組みで理解した。

ブリフォールト

フランスの文化人類学者(1874-1948)。1930年代にマリノフスキーと結婚制度について議論した。雄ではなく雌が家族のあり方を決定するというブリフォールトの原則を唱えた。

キャンベル

ジョセフ・キャンベル(1904-1987)はアメリカ合衆国の神話学者。著書『神の仮面』における第一章で母権制を扱っている。バッファオーフェンの影響のもと『西洋の神話学』を書いた。

グレイヴス

イギリスの詩人(1895-1985)。バッハオーフェンの影響のもと、『ギリシア神話』(1955)でギリシアの神話を説明するとき、母権制の概念を使った。

ダイナー

Bertha Eckstein-Diener、通称ヘレン・ダイナー(1874-1948)はオーストリア出身のフェミニストで歴史家。『母とアマゾン』という詩が有名。

ハリスン

ジョーン・ハリソン(1907-1994)はイギリスの脚本家。ヒッチコック監督の『レベッカ』という映画などの脚本を書いた。

デイヴィス

Elizabeth Gould Davis(1910-1974)はアメリカ合衆国の司書。『第一の性』を書いて、家父長制から母権制に移行するべきことを主張した。

アルパート

Jane Alpert(1947-)はアメリカ合衆国の急進左翼、フェミニストMother Rightは生物学的決定論的性差の主張をしていたと言われている。

ファイアストーン

『性の弁証法』の著者。