さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

べっく どくしょかい02

20231225
ベック『危険社会』
だいにしょう
べっく、かがくしゃに むらを やかれたせつ

「貧困化」77→31「貧困化を示す数式」
じこが おきたら、 これぐらい やばい という すうしき
31:ちゅうりつてきな すうしきで、 しんじつかの ように やばさが せつめいされるけど、 じつは その すうしき じたいが せいじてきな いみが ある
貧困化=やばいことになる化=悲惨化

78
きけんの ないよう:
きけんを うみだしはくぐんできた しすてむとしての きんだいか:さんぎょうか。こうぎょうか。かがくぎじゅつの はってん。
副作用はなぞ
生産性を ついきゅうしたら、 きけんが あらわれる。
副作用は よきしていなかった はせいてき りすく。 きけんの せんぷくきは みえていない けど、 のちのち 副作用と なる。
Hier wie dort am Anfang die Latenz (»Nebenwirkungen«), die hier wie dort erst konfliktvoll durchbrochen werden muß.
せんぷきが ふくさよう。

しんかんせんの そうおんが あっても、 かがくてきな しょうめいが なければ つたわらない。

不安が あったら たちあがると あるけど、 にほんじんは?
すけーぷごーとでは?:きけんが ないと おもいこんでいる、 あいつの せいだと おもう。

ふあん→はんたいうんどう→きけんの ちしきが たかまる→きけんが にんちされる→きけんが げんじつの ものとなり→せいじてき いみが はつどうする。→否認(みなかったことにするか)、こんぽんてきな しくみの へんか
80現実の危険=認知された危険。いままでの危険は潜伏期で、リアルさがなかった。危険の政治的意味が発動している状態が現実の危険。

目標を定めた=適切なeine gezielte und massive »Politik der Gegeninterpretation«

83
けんきゅうしゃも ほんとうは かんぺきでは ないけど、 かがくしゃに たいする みかたが つよいので、 研究の余地が狭まる=間違えられない=挑戦しない。研究が 広がらない。=確認だけになる。


かがくが ないと きけんが にんしきできない→かがくしゃかいがくが だいじなのではなく、 ちしきしゃかいがくが だいじである。:かがくしゃが つくった ちしきを どう じゅようしているかが もんだいである。

88
なんでも きけんが ある から、 なんでも せいじに なって、 きぎょうも せいじに なる。 (はなしあいの たいしょうに なる)。→きんだいかの きそを あやうくする。

ふあんに よる れんたいも うまれる?


91
疑問は調査することができます:社会的リスク認識の基準地平線でのみ可視化される、科学的リスク認識に固有の誤りと間違いの体系的な原因は何ですか? そしてその逆もまた然りです。リスクに対する社会的認識は、組織的に科学的合理性を否定し批判し、文明化以前の宗教権力の復活に転じる恐れがある場合でも、どの程度まで科学的合理性に依存し続けているのでしょうか?

112
CO2が、 いっぱい だしながら つくっている。 しょりする きかいが ひつよう。 その おかねが ひつよう。 しょうひしゃから まきあげる。 ねあげ。 つくんなきゃいい。

114
きけんを にんしきする には かがくが ひつよう。 きけんを にんしきするには かがくが だめだと いわないと いけない。 かがくが だめなら、 おまえたちは きけんに されされていると いえないではないか! と なってしまう。

りせいに もとづく かんがえかた ぐらいの いみかな? 118

125
じかんが たてば、 ぞうだいする。
へんかする ことに なる。

129
近代化に伴う危険は、社会に取り込まれた自然についての危険という意味で、純粋な社会の第一の倫理に対して第二の倫理であり、これは、危険を科学的に測定するので、科学の形をとる。

132
しゃかいかがくに じゆうが ないから、 ほしい、 という はなし?
→りんりや せいじに かかわる てーまを えらべ、 とか

132
うるさい しゃかいがくしゃに なれ?→いや、 きはんと すいそくの ぜんちしが おなじ だから では?

フーコー読書会02

20231220
フーコー『自己への配慮』
第二章自己の陶冶
55-95

にかんの じこへの はいりょと さんかんの じこへの はいりょは ちがう、 では どこが?
78 「ソクラテスの主題の単なる影響を認めるのは充分であるまい」
いがくと むすびつく。 やまいだのと いわれるように なった。 それは にかんには なかった。
77「びょうきのおそれのあるものとしてにんしきせよ」
「病気の治療をしなければならない個人として構成されている」
これは いつだつに かかわる ぶんるいに ちかづいている?
にかんでは、 けんこうで いよう ていど だった。

にかん、 中庸、ばらんすを とる、 ちゅうしんだった。
さんかん、 じぶんに ねっしんに とりくむ ことが ちゅうしん。
にかん だったら ねっしんにが やりすぎと とらえられる? ときとばあいを かんがえようと する?
さんかんは かいらくを せっせいする、 という より ついきゅうする もの。 にかんは かいらくは ちゅうよう。
かいらくが しあわせ ぐらい?
88かいらく=じこへのとうたつ=へいせいな きもちで よろこび。
89
ふへんてき げんり とは ことなる もの として、
どうとくてきなものの ちから、 など
にかんは きじゅんが なかった。 しかし、 さんかんは ふへんてきに こうだ という はなしが でてくる。 それが りんりてきな しゅたいに なる ときの きじゅんに なる。 いっかんに ちかづいている。

いっかんは きんだい
90「性的快楽が悪と結び付けられ、性の行為が法という普遍形式に服従しなければならず、欲望の読解が浄化された存在へ達するための不可欠な条件となるだろう、」
こくはくなどして よくぼうを りかいする。

きげんご 1から2 せいき

性の歴史を かきたかった。
きんだいだけを かけば いいと おもっていた。
みずからの よくぼうを かいしゃくする しゅたいが どう うまれてきたか わからない。
こだいに さかのぼる。
にかんで こだいぎりしあ やった。
さんかんで こだい ろーまを やっている。

じこへの はいりょ

ぜんぱんてきな けいこうとして、 かいらくにたいする けいかい
ようじゅうじゅつ じぶんの からだの りょういくおう、 しんんしんにおよぼすえいきょう
かせいじゅつ、 いえの けいえい、 つまとの かんけい、 けっこんの ぎむへの かちふよ
れんあいじゅつ、 わかものとの かんけい、わかものあいの きょうみが なくなる。

かいらくの もんだいが きょうちょうされている。どうやっている、 どうして そうやるのか
55「性的快楽を前にしての不安…」
こじんしゅぎ:じこへの はいりょ

じぶんの よくぼうの しんじつを かんがえる、 だいいっかんでの てーま
じぶんの よくぼうが とわれる べき として あらわれる しゅたいが できはじめている。
61 そくらてすの自己弁明を じこへの はいりょの たつじんの しょうかい として いう という べつなる てつがくしの ありかた。
じぶんに むかっている ように なった。

てつがくしゃは れいを だしても じぶんの はなしに もどっていく。 ふーこーは そういうことは しない。れきしを かいている。

89 自己陶冶への いこうが じゅうよう。
禁止事項によう げんかくさ では なく、自己へ配慮しましょう という しかたで きびしくなった。ひていてきに なにを するな、 では なく、 じこへはいりょしよう という こうていてきな めいれい。 これを すると ばっする では なく、 これを やると いいですよ。
こだいぎりしあ、とくていの ひとだけの ものだった
こだいろーまでは ふへんてきな きじゅん。
いりょう によって、 からだに きをくばる のと おなじように、 てつがくで たましいに きをくばる。
3は てつがくと いがくの たいひ。

75「自己の形成と自己への配慮は、関連しあった活動なのである」
→けいせいぶつ としての じこと、 じこへの はいりょ、 という ことか?
からだの ぶぶんで できている もの

1 じこへの はいりょは てつがく、 じゆう、 66「万人にとっての原則」、
2じこへの はいりょは しゃかいてきな こうりゅうが ぜんてい。じかん= せいどかされた るーてぃーん= こうりょうに もとづいて おこなわれる。
3は てつがくと いがくの あなろじー。
4a きんよくせっせいの たんれん(もくてきは ことなる)
4bじかんを とって おこなう こころの ぎんみ(こくはくに ちかづいていく?)
4cたいどとしての こころへの うたがい。
5じぶんを ちゅうしんに かんがえる。 しょゆうの ひゆを つかう。 かこも じぶんの いちぶとして みなす。まんぞく。

帝政期に おきた へんかではなく、 ながい すぱんで かんがえられる自己の陶冶の ながれに よって、 性にかんする厳格な態度が おこる。
性に関する厳格な態度の ぶんみゃく、 はいけいとして、自己の陶冶を とらえた。

だいいっしょうで、 せいにかんする たいどが かわっていない けど びみょうに げんかくに なった。 これの はいけいは なんですか?だいにしょう。

べっく どくしょかい01

ベック『危険社会』

せいじの いめーじは、 ひろい。
せいとうだけではない。
せいじとは、 けんりょくに かかわる。 けんりょくとは、 他人の抵抗があっても自分自身の意志を貫く力。(うぇーばー)
しゅみっと: てきと みかた
あーれんと、 はなしあい。
かいけつされないといけないもんだいに なること?→ ぎじゅつてきに かいけつされないと いけない もんだいに なる ことも あるから、 せいじの ないようでは ない きがする。
べっくに とって せいじとは なにか?


しゃかいがく ひつようなんだぜ、 かんが すごい でている。
33 ひがいを しゃかいかいそうで わけていない。 しゃかいがくが ひつようだ。
かんきょうもんだいは しぜんてきなものと ぎじゅつてきなものの たいりつ、 けんこう もんだいとか かんがえられがちだが、
ひとびとの なかの かんけいせい、 いしつせい、 たようせいが ある から、 ひがいは それぞれ ことなっている。

1きけんは とらえにくい
2きけんは かくさが あるが ひろい(そうおんは じゅくけんが せまい けど、 きけんは じゅくけんが ひろい)
3きけんは かねになる(じゅえきけん)
4きけんを しる ことが せいじに なる(きけんは にんしき できないことが ある )
5きけんは とつぜん せいじの もんだいに なる

1自然科学から見た有害物質の分配と社会の危険状況 (しぜんかがく だけでは だめ)
2近代化に伴う危険は科学的知識に依存する(せいとうかの もんだい、 因果とか いろいろ しらべないと いけない)
3階級に特有の危険
4文明に伴う危険が地球規模で拡大する(ぶーめらんこうか(かがいしゃが ひがいを うける)、 しゅくめい、 こくさいてき ふびょうどう)
5 かいきゅうしゃかいと きけんしゃかいの ちがい
6世界社会というユートピア(せかいてきに きけんを みんな おう)

そうおんは きけん なのか? きけんだけど、いちばんの かんしんが ほうしゃのう。 げんぱつに うるさい ひとだから。 げんしりょくの りえきを える ひとが いれば、 みえないし、 じんだいな ひがいが およぶし。で はんれいだけである。 そうおんとかも いれようと おもえば はいる。
27 中世の においとかと たいひする。ちかくできるか ちかくできないかを だいじに している。ほうしゃのうだけに なっちゃう。まだ おきていない。
こうがい ぜんぱんとは ちがう かくどで かんがえている きがする。

きけん
ちかくできない(ていぎする 人が もんだいになる)
ひろい(かがいしゃも ひがいを うける)
えいきょうが じんだい(めつぼう)

るーまん
しすてむと かんきょう
けいざいしすてむ、と その がいぶの かんきょう
しすてむは、 かんきょうが どんなに かわっても、 おなじ しすてむの ままに なっている。
しすてむに とっての じぶんの ようそ(しじょう)に いぞんしながら べつの ようそを しょうじさせる(あらたな しじょう)。自己準拠?

きけんは しにかる。 ぽじてぃぶな いみでは なくて、 しほんしゅぎを すいしんする ことに よって、 きけんが しょうじて、 るーまんの いう じこじゅんきょが しょうじている。
けいざいには、 じゅようと きょうきゅうが ひつよう。 よっきゅうに もとづく じゅようが なくなる かんきょうが ありえる。 つまり、 ゆーとぴあてきな、 おなかすいたら たべものが くる てきな。 きけんが あれば、 つねに きけんを はいじょする という じゅようが うまれる。 これは おさえきれない から、 ずっと けいざいが かんきょうに かかわらず、 せいりつする。

とみは ぶつりてきに みえて、 しょゆうできて、 ものが さきに あって、 かねもちか どうかに なる。
りすくは みえていない から さらされていて、
ぎじゅつ としての ぶんめいの いちぶ。
さいしょは きがつかない。 これって りすくでは?と きがつかないと みえるか しない。→にんしきできないときがある。 とみは にんしきできない ことは ない。りすくとしての そんざいを していない ときが ある。

30しゃかいがくりろんが きけんの はっせいと ふきゅうを けんきゅうたいしょうとする。

30(にほんご)-31(えいご)
Plötzlich regieren die Öffentlichkeit und die Politik in den Intimbereich des betrieblichen Managements hinein - in Produktplanung, technische Ausstattung usw.
だいなりしょうなり とつぜんな かたちで

39-40
きけんを ていぎする ときには、 かがくの ごうりせいが じゅうようだけど、 しゃかいの ごうりせい(けいざいてき そんしつ、 みんしゅてき てつづきだったか、 りんりてきに もんだいが なかったか)も じゅうように なる。

42
きけんを じぶんに つごうが よいように ていぎする から、 きけんの ていぎが いろいろに なる。
りすくを かいしゃくで せっていが いろいろ ひとに よって ことなる。 りがいを かんがえる ときに、 ほかの そんざいを ひきあいに だして正当化する(草とみみず)
ふくさようだから、 つくろうとして つくったんじゃない から、 たまたまで あって、 りすくが すきな わけじゃない から、 しかたない、 と せいとうか。

きけんの あたらしさだけを きょうちょうすると、 かくさが わからなくなる。

収用とは? うばわれる
白い斑点:がれきになる。みどりが なくなる、 ひとが いない。

67
しぬか いきるか だから、 まずしいか ゆたかかは もんだいなくなる?


底辺民主主義
緑の党の組織構成原理は 「底辺民主主義的 (basisdemokratisch)」 という概念で表現される。 これは、 一般党員の意思が最高のものであり、 党 役員や党所属議員は、 その意思決定を忠実に実 行すべきであるとの理念を表現しており、 分権的 組織、 直接民主主義的制度と親和性が高い。 」(71)
間柴泰治と渡邉斉志「連合90年/緑の党の 「底辺民主主義的」 組織と 近年の改革動向」https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999905_po_064905.pdf?contentNo=1

>ひらがなで かく りゆうは ありますか?

>ひらがなで かく りゆうは ありますか?

あります。
もじ としての かんじが、 むいしきの うちに さべつに つながっていると おもっている からです。 とくに、 もじとしての かんじを よむ ことが できない ひとに、 じょうほうを つたえずに、 じょうほうを どくせんする ことで、 もともと ふりな たちばに おかれた ひとが さらに じょうほうの めんでも ふりな たちばに おかれると おもう からです。
くわしく せつめいします。
まず、 もじ としての かんじは、 よめる ように なる までに たくさんの どりょくと たくさんの じかんを かけなければ なりません。 たとえば、 じぶんが もじとしての かんじを じゅうぶんに よめる ように なったのは、 しょうがっこうと ちゅうがっこう、 こうこう あわせて 12ねんかん かけて べんきょう した あとでした。
しかし、 そもそも にほんの がっこうに いっていない ひとは どうでしょうか?
そもそも、 もじとしての かんじが ふくざつな ことで おぼえにくいと おもう ひとは どうでしょうか?
そもそも、 12ねんも いきていない ひとは どうでしょうか?

まず、 にほんの がっこうに いっていない ひと というのは、 たくさん にほんで せいかつ しています。
かいがいの がっこうに いっていた ひとも いる でしょう。 その なかには、 にほんごを さいしょの ことば として つかっておらず、 あとに べんきょうした ひとも いる でしょう。 すると、 もじ としての かんじを しゅうとくするのは とても たいへんです。 つまり、 もじとしての かんじを つかうと、 そのような ひとたちを はいじょして はなしを すすめる ことにも なってしまいます。
ほかにも、 にほんの がっこうで いじめられて がっこうで きょういくを うけなかった ひとも いる でしょう。 さらに にほんの がっこうの ありかたが からだに あわない ひとも いる でしょう。 にほんの がっこうでは ながい あいだ すわって いなければ いけませんし、 だまっていないと いけません。 それが できる ひと だけでは ありません。 とくに しょうがいを りゆうに うごくのが らくな ひとや、 はなすことが らくな ひとも います。 つまり、もじとしての かんじを つかうと、 そのような ひとたちを はいじょして、 はなしを すすめる ことにも なってしまいます。

つぎに、 もじとしての かんじが ふくざつで おぼえにくい ひとたちも います。
たとえば、めが みえにくい ひとたちが います。 じゃくしの ひとに とって、 ぜんたいぞうを とらえにくい もじとしての かんじは なかなか よみとりずらいです。 もうしゃに とって もじとしてのかんじは なじみが うすいことも おおく、 てんじに より たいおうしているのは、 ひらがなに なります。さらに、 もうしゃは もじとしてのかんじの かくにんが せいがんしゃよりは むずかしいです。 むかし、 もうしゃが もじとしてのかんじの へんかんみすで じぶんを せめていらしたのを みて、 こんなの おかしいと おもった ことが あります。
また、 ちかくしょうがいしゃに とっても もじとしてのかんじは おぼえにくいです。
ちょうかくしょうがいしゃと しきじしょうがいしゃに とっては、 はなしが ふくざつに なっていきます。 ちょうかくしょうがいしゃは この ような ひらがな のみの ぶんしょうは、 ちょうしゃと くらべて より よみにくいと かんじる ことが ありえます。 というのは、 ちょうしゃは このように かかれた ぶんしょうも たんなる にほんごとして おんせいで さいせいすれば ことたりますが、 ちょうかくしょうがいしゃの なかには それが むずかしい ひとも いるからです。 また、 いちぶの しきじしょうがいしゃは もじとしてのかんじが むずかしい ひとも いれば、 もじとしてのかんじが あることで たすかっている ひとも います。
しかし、 ちょうかくしょうがいしゃも、 こゆうめいしや よく みなれない かんじ などは、 よみかたが わからなくて こまる ことも おおいので、 もじとしての かんじ だけで かく ことを やめる ことは とくに なります。また、 しきじしょうがいしゃが こまる という いみでは かんじかなまじりの ぶんも ひらがなのみの ぶんも おなじ くらい わるいので、 ほかの かいけつさくを もさくしています。

さいごに、 12さい いかの こどもも、 はいじょ されます。 じぶんは こどもの ときに、 よのなかに よめない ものが たくさんあった ことを おぼえています。 こどもが りかいせずとも すくなくとも よめる という ことを かくじつに じっこうする ことは だいじです。

また、 じょせいが とくに もじを がくしゅうする きかいを うばわれ、 ひさべつぶらくしゅっしんや ざいにちがいこくじんの ねんれいが たかい じょせいも もじとしての かんじを しゅうとくしていない ばあいが あります。

さらに、 そのほかにも ひだりききの ひとや ぺんを つかいにくい ひと など、 さまざまな じじょうで もじとしてのかんじが てがきでは かきにくい という ひとも います。 そのばあいは、 もじとしての かんじだけではなく さまざまな もじが もんだいには なりますが、 あえて かきにくいものを えらぶ ひつようは ないはずです。

このような ことを かんがえると、 ほんとうは じょうほうを みんなに いきわたらせる べきなのに、 いまは もじとしての かんじを つかって、 いちぶの ひとにしか、 とくに しょうがいが ない ひとにしか、 さらには にほんで がっこう きょういくを うけた ひとにしか わたしていない という ことに なります。
したがって、 もじとしてのかんじを やめる べきだと おもいます。 すくなくとも、 こゆうめいしは ひらがなでも かく、 むずかしい かんじは つかわない という ことが もとめられます。

さて、 さらに、 ひらがな のみで かく りゆうも あります。 それは、 このように かくと、 さきほど いただいた しつもん みたいに、 りゆうを きかれる からです。 りゆうを きかえれると、 このように はなす ことに なりますから、 さべつに ついて はなすことが でき、 せっとくする きかいを えられます。 ぜひ、 みなさんも ひらがなのみで かいてみませんか?

ガダマー読書会01

がだまー『真理と方法02』
第三節 現象学的探究による認識論的問題設定の克服
388-395

かいしゃくがくでは なく、 どいつ かんねんろんが つかえる。
にんしきを かのうにしている じょうけんを あきらかに しようと
しょよせい ひはんが きゃっかんせい ひはんと おなじか?→つながっている。
にんしき から はなれて、 そとに ある じじつてきな ものを おくことが できない。
きゃっかんせいを いう ひとは じったいが あると いう けど、 はいでがー たちは じったい では なくて、 れきしは れきしとして かんがえる ひつようが ある。 じかんが かんけいしているのだ。そんざいと じかん では そんざいとは じかんから かんがえる べき、 じかんで れきしが つながる。
ふぃひては、 じこ にんしきが なりたつのは、 どのように してかを かんがえて、 じかん てきな だいなみずむが あったのだ、と かんがえる。 これは、 しょよせい、 あたえられた ものは あるのだ という かんがえを ひはんしている。 ふぃひては さいしょの じがに よる ちょっかんが もんだいだと いった。

はいでがーの じかんを かんがえると、 でゅるたいが うまく いく。
はいでがーは ふっさーるに もとづいていた。 でゅるたいは ふっさーるを よめていない けど、 がだまーが ちゃんと ひろってあげよう。

しこうせい
いしきは、 つねに なにかに ついて いしきである。
ぱそこんは じぶんに いしきされている。あたえられているのは、 ある ほうこうから みた えいぞう、 かんしょく。げんしょうと、 たいしょうの あいだに ぎゃっぷが ある。 いしきは つねに、 げんしょうでは なく、 たいしょうを とらえている。 げんしょうしか あたえられていないのに、 たいしょうが わかる ことの しすてむを かんがえる。
あらわれている ものを どう たいしょうか するか。 ここで ぎゃくてんが おこっている。 それまでは たいしょうが あって、 げんしょうとして あたえられる という ことが もんだいだった。げんしょうは いちじてんの もの、 たいしょうは じかんを こえて ある もの。
えぽけー=げんしょうがくてき・かんげん=はんだんていしで、 たいしょうを かんがえる ことを とりあえず おいておいて、 げんしょう としての あらわれかたを かくにんしよう。
びじゅつさくひんには えぽけーの きのうが ある。

きゃっかんしゅぎは たいしょうが あって こその げんしょう だろ?
ふっさーるは そうではない、 げんしょうが あって こその たいしょうが ある、 その へんかの ふしぎを かんがえよう。
せいしんは げんしょうを たいしょうに する。 その しくみを あきらかに するのが げんしょうがくだ。せいしんを ちゅうしんに いちづけると、 たいしょうを つくった もの としての せいしんは、 れきしせい=じかんせいが ある ものと かんがえないと いけない。 なぜなら、あたえられるのは たんなる いちじてんの げんしょう では なく、 じかんを つうじた もの だから。
かんとや ふぃひては わたしが ある という じょうけんで にんしきが できると いった。 これと おなじように ふっさーるも せいしんが じょうけんとして ある から すべてが あると いった。

じかんせいと れきしせいの ちがいは?
れきしせいだと れきしの ぜんたいが そうていされるのでは。
じかんだと へんざいしている かんじで のっぺりな かんじが ある。 れきしは ぜんたいぞうが あって こそ。
せいしんと れきしせいは おなじに あつかわれている。
ふくすうの いしきが じかんと どう かかわるのか。
ふくすうの いしきの ありかたを へーげるは せいしんと なざした。じだいせいしん、せかいせしん。しゅうだんとしての いしき である。ほかの ひととの ひととの かかわりで れきしせいが でてくる。

相関アプリオリ:対象は現象に依存している?対象と現象が相関している。 それが じょうけんと なって、 けいけんが かのうに なっている。

「第三のアプリオリ概念である「相関アプリオリ」とはこのような事 態を主題として扱うための名称で、全く形式的には「自我-意 識作用-意識対象」(晶O-O轟一けO-8σ・ま旨目)というように規定さられ方に眼差しを向けかえることが要求れるわけである。そしてこの意識の普遍的な相関関係を表わす総称が志向性と呼ばれるわけであり、」(https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/23969/files/8.pdf

志向的体験は 諸体験の実的な意識統一では ない。
ふぃるむを わたされても、 ふぃるむは ひとつに なっている。 けど、 えいしゃきに いれないと いけない。 えいしゃきの はなしを している。 ふぃるむでは ない。
たいけんを よせあつめても、 わたしたちの けいけんを せつめいできない。
諸体験の内的知覚ではない。
えいがの ひゆなら、 ひとつの しょっとに おける えいがを とっている ときに、 じぶんが みれる こと では ない。

いしきは たいしょう では なく、 しゅかんせいと きゃっかんせいの ごちゃまぜ なんだ。

いみは そうかんてきな ものが あって、 いしきとは ちがう もの である。 しゅかんせいと きゃっかんせいが おりまざった ものが ある。
いしきは、 ふへんてきな せかいに いちづけられる ような たいしょう では なく、 たいしょうを うけとる もの である しゅかんせい であり、 きゃっかんせいを なりたたせている という いみで きゃっかんせい である。

いみは たいしょう。 しんてきないようは げんしょう。
きゃっかんしゅぎは たいしょうを おもいうかべていると かんがえる けど、 そうでは なくて、 げんしょうと たいしょうは ことなる と いった。

いみという たいしょうも、 そんざいしゃ という たいしょうも、 みんな おなじく、 げんしょうが あたえられていながら たいしょうが わかる よねって しかたで おなじ ように あたえられる。

https://www.wakate-forum.org/data/tankyu/38/38_07_kuzuya.pdf
意味志向(このことばの いみは これだな。たんご から たいしょう)と、 意味充実(これが あの ことばの いみだな。げんしょう から たいしょう)が これが あわさると 意味の統一(たいしょうを ちゅうしんに たんごと げんしょうが いしきに おいて おこっている)

存在定立=たいしょうとして あると にんていする こと。 あらわれている のでは なく あるのだと いうこと。
主観的な与えられ方=げんしょうを たんきゅうしよう。

しこうせいに おける げんしょう から たいしょう への じゃんぷが なければ、 どんな きゃっかんせいも どんな たいしょうとして そんざいする ものの いみも わからない。

しゅかんも せかいの なかに ある。
しゅかんも げんしょうの いちぶ。
ちょうえつろんてき=すべての けいけんの じょうけんを さぐる
はんせい=じぶんで じぶんを かんがえる
えいしゃきが ふぃるむに うつっている。
じょうけんが じょうけんに よって なりたっている もののなかに みつかる という じこげんきゅうてきこうぞうが、えいしゃきには ある。 げんしょうと たいしょうの じゃんぷを する いしき という じょうけんは、 つねに えいがを みている とき、 じゃんぷを している ときには じこげんきゅうてきこうぞうが ある。
げんしょうを げんしょうとして みる ことが できた。
たいしょうを みている いしきに おいても、 げんしょうを たんに あたえられたものとして みれる ように なった。 いままでは そこから たいしょうに いくもの としてしか みていなかった。 つうかてん では なく けんきゅうの たいしょうに した。 それが たいしょう への じゃんぷに おける げんしょう である。

えいしゃき=とういつある たいけんの ながれ
とういつある たいけんの ながれに げんしょうが いちづけられる ことで、 たいしょうとして わかる ように なる のである。

じかんの なかに いちづければ、 すべての げんしょうが りかいできる。
こべつてきな たいけん では なく、 いしきの ながれが もんだいに なりますよ。 という はなし。
ある たいみんぐに おいて、 いみが あって、 しゅかんと きゃっかんが つながっていても。(どれほど…)
かっと いちまいいちまいに いみが あっても、 げんしょうがくてきな でーたとは いえない。

げんざいが おもいなし、 思念、 くうきょに おもいだすこと、 くうきょに よそうする こと。 くうきょに= いきいきと していない=げんざいに げんざい けいけんする もの ではない。 つまり、 げんざいの じてんで おもいだしたり、 よそうする。 げんざい から ひろがっている けど、 そのとき そのときの いきいき とした たいけん として では なく、 くうきょで あって、 そういう ひろがりが ある。はいけい=ちへい として かことか みらいを いまからでも おもえる という ことが じょうけんとなって、しこうてきたいけんが なりたっている。

とういつてきな たいけんの ながれの なかに いちづいて はじめて、 すべての たいけんが いみを なす。
こうせい=えいしゃきてきに どう つくるのか、 どう とらえるのか
じかんを どう とらえるかは、 なんでも いいから なんか ある ものを とらえる ことの ぜんていに なっている。
たいけんの ながれは いつでも ある はいけいに ある いしき であり、 こういう はいけいに ある いしきが ある(かこと みらいに ついて いちづけられる) から、 じょうけんに して、 こべつな ものは たいしょう、 たいけんとして あたえられる。

かこや みらいを かんがえる というのが、 はいけい=ちへい として ある と かけば、 ぜんたいの なかの いちぶに なる という ことが わかりやすい。ぜんたいの なかの いちぶの はいけい と なる= ちへいの とけあい。ぜんたいと ぶぶんの かんけいに かいしゅうされる。
それぞれの かこと みらいを とらえる ことは、 すべて、 それを ささえている はいけいの なかの いちぶと なる。

ちへいは、 じかんせいや ながれが ともなっている。
つくりだす そうち でも ない。
たいけんの ながれが えいしゃき、 げんしょうを たいしょうに まとめられる。
えいしゃきの なかに、 かことか みらいの ちへい=はいけいが くみこまれていく。=とけあう。
こういう はいけいの もとに ものごとを はあくする、 そういう じょうけん= ちへい= えいしゃき
ものごとを みたら、 つねに はいけいが ある。
はいけいが つきまとっている よね。
はいけいを みようとしている わけではない。
じかんてきな はいけいが あって そこに いちづけられて いみを なす。
ここまでしかいけない という げんかいではなく、 ささえている もの。
ひとが いどうすると みえる はいけいも ことなるように、 いどうして、 つぎの ものが みえる、 から さらに ぜんしん できる。 じかんてきにも すすんでいける。
ちへいは かわりつづける。
じかんを くうかんてきな ひゆで はなしている。
なんかの ぜんていとして ある。 それは かわる。 ちへい。
げーむで RPGで きゃらくたーの まわりに あらわれる ゆか。
じぶんの がわにも れきしの すとーりーが あり、 たいしょうにも れきしの すとーりー だたり、 どこに あるのか という はいけいが ある。 たいしょうの この はいけいじょうほう すべてが せかい。すべての できごとは せかい という はいけいに おいて おこっている。 ちへい=はいけい として みなせる。

ふっさーるは かがくを きそづけたかった。
えぽけーで きゃっかんてきかがくの だとうせいを とりあえず わきに おいていた。
でも、 せかい という はいけいが ある ことは ぜんていに なっている。
せかいって あるのか という はなしを えぽけー できていない。=じゅうぶんに らでぃかるではない。

にんしてきしゅかんだけでは だめだと ふっさーるは わかった。せかいに ついて とわないと いけないと わかった。
でゅるたいと にている。
でぃるたいは lifeに いった
ふっさーるも lifeに いった。leben
いままでは ここの いしたいけんだけを かんがえていた。 しかし、 しゅうごうてき、 ふくすうの ひとの もっている、 えいしゃき、 はいけいが あって、 これに よって、 ぜんぶが かのうに なっていると かんがえた。
えいしゃき、 はいけいを のうさくする lifeの のうさくと よんだ。
leistung はたらき、 ぎょうせき、せいかぶつ、 えいがの とうえい

ここで、 いしきとか しゅかんせいではなく、 lebenと いっているのが おもしろい。
いま かんがえている いしき という はなし から
さかのぼって、 より ちゅうしょうてきに して
みんな かんがえる ような ものだ という はなしからも さかのぼって
すべてに ふへんてきな はたらきだと いいはじめている。うちゅうの ことわりてきに かんがえている。
はたらきを うける= げんしょうが たいしょうとなる こうせい=だとうせいを える= いみが わかる
わたしたちの みているものは ふへんてきに だとうしていると おもう。 つまり、 ぱそこんが たいしょうとして あったら、 それは どんな ばあいでも あると いいたい。 だれか みたら ぱそこんでなくなる ことは おこってほしくない。 だとうせいを えたものの ふへんせい。 ふへんせいを たんぽ しているのは、 えいしゃきの はたらきが ふへんだから、 うちゅうの ことわり だから。

せかい という おおきい はいけいは、 だから ひとに きぞくしない。 ここじんが もっていたら、 それぞれで ことなってしまう。 みんな くちを そろえて ぱそこんと いうからには、 ふへんてきな うちゅうの ことわりが ある。
ひとに きぞくしていたら、 さっきみたいな だとうせいが ふへんてきに あると いえなく なってしまう。
ある とは いっていなくて、 あると おもわせる どおりが あると いっている。
ふへんてきな はたらきを あきらかにした。
だから、 かがくが できる。

たいしょうとして あるものを あつめてみよう。 それも せかいと いえる。
けど、 ふへんてきな はたらき である、 せかい という はいけいは、 せいかつせかい= れーべんの せかい。 つねに はいけいとして ある よね。 この はたらきが つねに あるよね。 だからこそ、だとうしているよね。
しぜんてきたいど=えぽけーしていない
しこうせいが めちゃくちゃ はたらいて、 げんしょうは たいしょうかされる ような たいど。
せいかつせかいが はいけいとして ささえている。 けいけんの きそである。 あらかじめ あたえられている。 きそだから それじたいとして たいしょうにも ならない。
せいかつせかいは、 しゅかんせいに かんけいする。 なぜなら、 しゅかんせいに よって、 たいしょうとして こうせいされる という はなしが はじまりだった。
せいかつせかいは はいけい(くうかん、 じかん)であって、 うがけば、 じかんがたてば かわる ものであって、 こくいっこくと かわっていく。ぜったいてきな ものでは ない。

みんな おなじ ように みているじゃん
きゃっかんしゅぎ : そもそも おなじ ものを みているからね。 ぜったいてきに かわらない ものを みている。 みんな とまっている。
ふっさーる:せいかつせかいという かわるし、 そのつどの もの だけど、 すべてに ふへんてきな せかい という はいけいが あるから なんだ。 すべて おなじように うごいているから。
れきしが かかわっている。 せいかつせかいは はいけい、 じかん、 くうかんてきな はいけい であり、 れきしの ながれも ふくむから。 すべて おなじ だから、 みんな おなじ。だから、 ふくすうの ひとの じかんせいで れきし。
かんせいという はなしでもない。


ぜんたい としての せいかつせかい。
せいかつせかいの そとに きゃっかんてきな ものは むり。
むげんの そと なんて むり。
さいげんなく すすむ。
れきしてきうちゅうは ひれきしてき。 すべて つつみこむ とは ひれきしてき。 こていされてしまうから。

そうたいしゅぎとも いえる。 たえず へんかする という いみで そうたいしゅぎ。ふへんてきな ものとして せいかつせかいは ある けど、 じかんが かわると へんかする。

フーコー読書会01

フーコー『性の歴史Ⅲ:自己への配慮』

第一章 自分の快楽を夢に見ること

たましいの とくによって みる ゆめが ちがう。
げんじつでの とくの たかさは いいとして、 ゆめの じげんを いれている ところは にかんと ちがって、それが どう きのうしているのか。
けいざいてきに そんしつか、 げんじつと ゆめとの ちいの かんけいが ちゅうもくされていた。
いわれていた ないようは あまり かわらない。 かんぜんしょゆう、 せっせい。
やくわり、 ちい などの きじゅんは かわっていない きがする。→かわっている?

しゅたい: おとこだけ だった にかん。 おんなも しゅたいと なる (30ぺーじ、 おんなどうしの かんけい)
めかにずむ:じぶんを こんとろーるする//けいざいてきに へらないは こんとろーるじゃない。
へっても いいけど おさめろよ。 //へるなよ。
ちいは しゅたいの しかく、 じぶんを こんとろーる する ことが よい。こんとろーるに あたって、 あいての ちいに あわせた ふるまいを する //しゃかいてき ちいと せくしゅありてぃの やくわりが あっている ことが よい。

じょせいどうせいあいは、 だんせいの ちいを うばう から よくない。という のは、 こうほに なっている という こと。
にかん では、 おんなは おっとに したがう べき という はなしが あり、 それは さんかんの いっしょうの ように おとこと おなじ りくつで おんなを しゅたいと して あつかっている のとは ことなる。
さんかんは そうにゅう しじょうしゅぎ。
けいざいや しゃかいの ちいと、 せくしゅありてぃでの やくわりが おなじか どうかで どうとくが はんていされる。 それを りようして、 そこで よいと わるいが はんていされて、 それを ゆめに おうようして、 よい ぜんちょうと わるい ぜんちょうに つかっている。

なにかの ほうそくを みいだす ために ふーこーは れいを だしているのか?
せくしゅありてぃが どのように かんがえられていたか というのを みる ときに わかりやすい。
きりすときょう、 せいかがくと くれべて、 ちがう という ことを ひょうげんする ときに、 ぐたいてきな しりょうを だしている。
ぐたいてきな ものが おおくて、 なにが いいたいか わからないのが せいのれきしの とくちょう かな? こうぎろくも そんなきがする。
じことうぎょが じゅうよう だった のに、 ことなる ものが でてくる。
げんざい しはいてきな せくしゅありてぃの ありかたが ふへんではない。
げんだいとの ちがいを きょうちょうする のに、 こまかく かいている。たとえば、 どうせいあい という くくりではなく、 しぜんに はんする おんなどうしの かんけいと、 きはんに のっとる おとこどうしの かんけい という はいれつ。
ひつぜんてき はってん では なく、 ぐうぜん かさなりあって できる という ことが ふーこーの れきしかん。
そのときに、 その せいどが できる りゆうと、 それが のこる りゆうが ことなる ことを しめすのに、 せいどが できる りゆうを こまかく かいておく ことが ひつよう。
よくぼうする しゅたいとの かんけいは どうなっているのか?

にかんは よくぼう では なく せっせい という はなし。
そうどうに おいて、 なにかに したがう とき、 じぶんが こう である という りかいが むすびつく という はなしが あった きがする。
にている けど へんかしている(きびしくなっている) という のが ふーこーの けんかい(48)

ばとらーは けんりょくに みっつを みている。 よくあつ、 せいさん、 ぼうきゃく
ふーこーは けんりょくは せいさんを していると する。 その こうかとして よくあつ。 ぼうきゃくに ついては かたらない。

ハッキング『記憶を書きかえる』読書会2

ハッキング『記憶を書きかえる』読書会2
2023/11/12

るーぷこうか: がいねんが ひとびとの こうどうを かえる。

4 ようじぎゃくたい
たじゅうじんかくの げんいんと ようじぎゃくたいが むすびつけられるが、 むかしから ようじぎゃくたいという がいねんが ある わけでは ない。 たとえば、 ありえす「こども という がいねんが ない」。 かいきゅう、 あく、 せい、 いがくかの よんてんを けんとうする。71 かいきゅうの もんだいは はずされて、 ぎょうじぎゃくたいは さいだいの あくと され、 せいが からむものと され、 いがくの たいしょうと される。 げんいんが いがくの たいしょうと なる。あたらしい ちしきが ひろがり、 あぷりおりに なる。しかし、 けいけんてきな けんきゅうで あきらかに される わけ では ない のであった……。78 きんぜいれぽーと。
82「一方には、幼児虐待についての信頼できる一般的知識が大量にある。そうした知識の多くは、幼児虐待の概念が形成されるにつれて、完全に発達してアプリオリなものになった。他方、数え切れない経験主義的な研究の中には、つじつまが合わない者がある。」→どのように これが せいりつするのか。

かいりせいしょうがいの どうが: じんかくの こうたいが おこる。 ぱーとなーが それを ふまえて せいかつしている。 にほん。 どうせいどうしの ぱーとなー。

英国動物虐待防止協会:The Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals, RSPCA
1824ねん
ja.wikipedia.org

「とりわけ裁判の焦点は,人間の子どもは広義の意味での「動物」であり,尐なくとも他の動物と同じ程度の保護は受けることができるとして,子どもの保護の観点から裁判が行われたことである.H.バーグ自身は動物保護の活動家であり,人間を動物に見立てて介入することに当初は否定的であったが,エミリー・トンプソン事件の失敗の経験を受け,メアリー・エレンを動物と見做すことで,児童保護の認識を社会から勝ち取る結果が得られたと解釈できる」
http://hdl.handle.net/10935/3423



『まっどとらべらーず』 あるきまわる ことが あくに みなされる。
あくとは なにかが じゅうよう。
どうとく、しんじつ、ちから

I have been belaboring a curious fact. On the one hand, there is an immense amount of confident general knowledge about child abuse. Much of that knowledge sprang full-blown, a priori, as the concept of child abuse was formed. on the other hand, the innumerable empirical studies do not add up. Sometimes they put in question what has always been taken for granted. What remainsf First, faith. Second, purely empirical experience of particular situations and individuals that confirm the faith. And the conviction stands that there must be knowledge to be had, if only we could get it. Perhaps that is what is wrong: an assumption about the possibility of knowledge and the kind of knowledge that it must be .
66

ようじぎゃくたいの あぷりおりな ちしきと けいけんしゅぎてきな ものが あって、 くいちがう。 しかし、 ようじぎゃくたいの あぷりおりな ちしきを しじする ものが のこっていく。
これこそが ようじぎゃくたい という ちしきの かのうせいと、 ようじぎゃくたいの ちしきは こういう もの であるのだ、 という しゅるいの ちしきが まちがっている。
ちしきの かのうせいに ついての かてい→これこそが ようじぎゃくたい という しんこうが まちがっている。
それに おうじて けいけんを ねじまげる ちしきも まちがっている。

81
ちしきが あるはずだ、 という ちしきの かのうせいが まちがっている。
しんねん という しゅるい では なく、 ちしき という しゅるいが えられると おもうのが まちがっている。

けいけんとは こういう もの である べきだ という いみで あぷりおり。
けいかんを かのうに する もの。
けいけんが あったら、 かならず みたしている じょうけん。


5じぇんだー
ひすてりー
だんせいの たじゅうじんかくを さがす
けいむしょに ちゅうもく。
なぜ たじゅうじんかくは じょせいの ほうが おおいのか。
1 おとこは はんざい、 おんなは びょういん
2 かいりせいを おんなが ゆるされる
3 ようじぎゃくたいが げんいん
4 あんじ
ふぇみにすとが おこなう しゅちょう。
「記憶についての専門家の知識、すなわち、われわれの魂が本当はどのようなものかをわれわれに教えてくれるはずの記憶の科学もまた、大きないかさまではなttかということ暗示しているのだ」100
「女性が多重人格者の多数を占めているのは、臨床家と患者の間に密かな協力関係が築かれることに原因があるのではないかということである。この協力は、女性を助けようとする目的でなされるのだが、実際には女性から権限を奪う旧体制を存続させる結果を招く。」93-4

にほんでは?
わかものの びょうりとして ろんじられてきた いんしょう。
さいとう・たまき、おおさわ・まさち
ふぇみにずむと むすびついてこなかった。
あめりかでは てれびで こくはつする ぶーむが あった。
にほんには なかった。
1990ねんだいまつに しょうねんはんざいが ふえたとされた という じだいが あって、 せいしんかいが こめんてーたーとして でてきて 「かいり」 として はなす。

さいごの しょうせつは、 ふぇみにすと として、 せらぴすとに たよらないで たじゅうじんかくの ぶんせきを おこなう。むかしの きおくも いかさまだと する。
この はっきんぐの えごの だしかたは つうじょう うんてん。

6げんいん
ひつようじゅうぶんじょうけん
ほうほうろんてきな めん
こどもの ときの とらうまで ていぎ して、 ちょうさ したら こどもの ときの とらうまとして はっけんする。
「臨床家が多重人格者の例を挙げるとき、特別な理由でもない限り、虐待を受けた経験のない患者を例として示すことはない」104
とらうまは ぷろとたいぷで あって、
とらうまは いんがで むすびつけられていない。
こどもの たじゅうじんかく


110「パットナムは、」想像に難くない「とか、」容易に推察できるだろう「とか、他には」仮定できる「といった修飾語句を、慎重に自分の議論にちりばめている。しかし、読者の方は、こうした語句や、おびただしいか「もしれない「やお「そらく「といった言葉は無視ししがちである。そして、これこそ事実そのものと、無条件で考えてしまうのだ。」

116-7「多重人格が幼児虐待のみによって引き起こされたと、考えるべきではない。むしろ、多重人格者は、自分の現状の原因を、自分の子供時代について次第に思い出したものの中に見いだし、それによって救われているのだ。これは特定の病因学としては通用するが、現在の事態は、もっと異常である。われわれが目にしているのは、過去を取り戻すことによってではなく、過去を記述し直し、考え直し、感じ直すことによって、自分自身を説明する方法なのである」


ひつようじゅうぶんじょうけんを いっていないのに、 ろーれんうぇすたいんの 「びょういんろん」 という ことばで、 げんいんを みてしまう。

「論理的な観点からすると、概念が次第にひとり歩きをしていった経過、自力で発展していった経緯を知ることは有益である。」104
「私は、概念の結びつきを確定するときの証拠の使い方に注目しているのである」105
ろんりてきな かんてん→がいねんの むすびつきを かくていする ときの しょうこの つかいかた
どうせいあいがいねん

はっけん だけでなく、 かこの つくりなおし。
「多重人格の特定の病因学――ローウェンスタインが自慢げに述べた発見――とは、対処の反応として子供のときに起きた分離のことである。しかし、われわれが子供の中に見つけるものは、別なものである。したがって、われわれは、まったく別種の多重人格へと導かれる。この障害は幼少期とその恐怖に対する見方になる。人は、幼いころに対処のために分離するのではない。むしろ、セラピーを受けているときに、自分は幼いころ、対処のために分離したのだと考え始めるのである」116
われわれ→いしゃも はいっている。 いしゃが はっけんしているのではなく、 こうしんしている。
てつがくしゃの しごと としての ろんりの ふわけ。
かがくてつがく ひはんに なっている。
てつがくしゃが いんがてき てつづきの はなしを する とき、 りんしょうでの やりかたを あまり けんとうしない。
「はっけんの もんだいでは ない」
はっけんに ついて かがく てつがくしゃは かんたんに かたる。

げんいんの つぎの そくてい というのは いみが ある。
どうやって はかるか、 を みないと いけない。

7そくてい
さいみんじゅつに かかりやすい と たじゅうじんかくに かんけいが あるという みかた
かいり けいけんしゃくど
120
「第二に、客観的アンケートの使用によって確立された連続体仮説は、因果関係の客観的理論という話へつながってゆく。第二の理由は、仮説を検証することは、それ自体が、検証の結果いかんにかかわらず、品質保証の証明書になるということである。」120
びねーに よる IQと たじゅうじんかくの けんきゅう
きゃりぷれいしょん: いままでの しゃくどの じょういごかんでないと いけない。しんりがくに おける こうせいがいねん。 しかし、 いままでの しゃくど とは? IQでは きょうつうにんしき。 たじゅうじんかくには それが ない。
125
れんぞくせいかせつを しょうめいしていない。

138「多重人格を測定するという行為が、多重人格を正当化し、それを知の対象へと変化させていく経緯を示す」

かなり つっこんでいる→ はっきんぐに とって とうけいがくは こあ だから はっきり かいている だろう。