さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

よむ ための めも001、 しぜんがく、ありすとてれす

じぶんが よむ ための めも です。
ほかの ものが よむ ためには かいていません。
ごめんなさい。
ありすとてれすの しぜんがくを よみます。
やくは うちやま・かつとし(内山勝利) です。
ありすとてれす・ぜんしゅうの 4かんで、 せいれき 2017ねんに いわなみしょてん から こうかいされました。
いんようは、 にほんごやくの ぺーじ すうを きほんと した。
ただし、 やるきが あるときは、 I・べっかー「ベルリン・アカデミー版アリストテレス全集」の ぺーじすうと、 だいたいの ぎょうすうを かいた。 aは ひだりらん、 bは みぎらんの こと である。

かくめいれき 229ねん 8がつ 12にち から よみはじめた。
(せいれき 2021ねん 5がつ 1にち から よみはじめた。)

だいいっかん

63ぺーじ-64ぺーじ

いんよう

「しかしながら、形相は足らざるところがないので、それ自体が自らを希求することはありえないし、その形相に対立相反するものがそれを希求することもない(対立相反関係にあるもの同士は相互に滅ぼし合うからである)。希求するのは実は素材的なもの(質料)であって、それはあたかも女性が男性を求め、醜いものが美しいものを求めるというようなものであり、そうした場合にも醜いものが直接それ自体として〔美しいものを〕求めるのではなく、付帯的に求めるにすぎず、女性が男性を求めるというのもただ付帯的なこととしてなのである。」
63ぺーじ から 64ぺーじ

ありすとてれす

これを かいた ありすとてれす というのは、 こだいの ぎりしあで いきていた。
ありすとてれう というのは、 てつがくしゃで、 いろんな ものに よまれてきた。
ありすとてれすは みずからを にんげんの おとこであると おもっていた だろう。
まわり からも そう おもわれている。
ただし、 もちろん、 「にんげん」と 「おとこ」 という ことばは、 いま(かくめいれき 229ねん)の にほんごを つかう もの たちとは いみが ちがう。
まず、 「にんげん」 という ことばと 「おとこ」 という ことばは おなじ たんごで あらわされていた。
「ᾰ̓νήρ • (anḗr) m (genitive ᾰ̓νδρός)」(https://en.wiktionary.org/wiki/%E1%BC%80%CE%BD%CE%AE%CF%81#Ancient_Greek)とかく。
よみかたは、 だんせい たんすうけい しゅかくで 「あねー」(ᾰ̓νήρ)と よむ。
だんせい たんすう たいかくで 「あんどろす」(ᾰ̓νδρός)と よむ。
あんどろせくしゃる などの 「あんどろ」 という ことばの ゆらい である。
こだい ぎりしあ では、 にんげん とは、 どれい では ない、 おとこの おとなの ぎりしあじんの こと だった。
つまり、 さべつてきな ことばの つかいかたが されていたと わかる。
にほんごでは、 あまり にんげん という どうぶつの うちの ひとつと、 おとこ という せいべつの うちの ひとつが そのまま むすびつけられている ことばは おもいだせない。
しかし、 いわゆる いんど・よーろっぱ ごぞくと いわれる ことばの なかには、 そのような さべつてきな たんごが あるので、 ちゅういが ひつよう である。

わるい

さて、 いんようの はなしを かく。
まず、 ちゅういする べき なのは、 この ぶんしょうは さべつてきな ぶんしょうで ある という こと である。
わるい ぶんしょう である。
せいべつ さべつを そのまま みとめている ので、 わるい。
やくちゅうを つけている ものも、

「男性・女性については、男性原理を優位とする観点が反映されていることは否めない。」
(67ぺーじ、だいいっかん、だいきゅうしょう、やくちゅう(9))

と みとめている。
おおくの ばあい、 やくを する もの という のは、 こういう ことを かけない 。
うちやま さんは ちゃんと かいていて、 よい。
もちろん、 かかない ことは わるい。
さらに、 うつくしい ものを すぐれた ものと かんがえる ことも わるい。

せいべつと うつくしさ

つぎに、おんなが おとこを もとめ、 みにくい ものが うつくしい ものを もとめる という のは、 どういうこと なのか ふしぎに おもえる。
もとめる という ことばには、 ふたつの いみが ある。
ひとつは、 それを もつ ことを もとめる という いみ である。
もうひとつは、 そうでありたいと おもう という いみ である。
おそらく、 ここは、 おんなの いせいあいを かいている のでは い。
おんなが おとこに なりたいと おもっていると ありすとてれす という 「おとこ」が おもっていた という こと だろう。

せいどうの にんぎょう

ちゅうぞう(鋳像)という ことばが だいいっかんには でてくる。
(44ぺーじ など。 また、45ぺーじの やくちゅう(4)が とくに くわしい。)
この ことばは、 あんどりあーす(ᾰ̓νδρῐᾱ́ς) という ことばの にほんごの やく である。
「あんどり」という おとからも わかる ように、 おとこ(あんどろす)という ことばが もともとに ある。
いみは、 せいどう(青銅)で できた にんぎょう である。
せいどう という のは、 きんぞくで ある。
せいどうを あつくすると とけて、 えきたいに なる。
その えきたいの せいどうを、 こんくりーと などで つくった いがた(鋳型)に ながしこむ。
せいどうが ひえて こたいに なった あとに、 まわりの いがた(鋳型)を こわす。
そうすると、 せいどうの にんぎょうが できる。
このような きんぞくを かたに はめる ことを ちゅうぞう(鋳造)と いう。
いがた(鋳型)に きんぞくを はめる ちゅうぞう(鋳造)で ちゅうぞう(鋳像)が できる のである。
(もじ としての かんじでは、 鋳(い、 ちゅう) という ことばが つかわれる。)

そざいと かたち

ありすとてれすは、 この せいどうで できた にんぎょうを もでるに ものごとを かんがえる。
まず、えきたいに なった せいどうを 「そざい」と かんがえる。(ひゅーれー、しつりょう(質料)など とも いわれる。)
つぎに、 いがた(鋳型)を 「かたち」と かんがえる。 (えいどす、 けいそう(形相)など とも いわれる。)
ものごとは、 そざいと かたちが あわさった ちゅうぞう(鋳像)の ような もの であると かんがえられる のだ。

より ありすとてれすの はなしに あわせて かくと こうなる。

ものごとの はじまり からの きまりごとは、 「ない」と 「かたち」と 「そざい」で せつめい できる。
「ない」は 「かたち」と たいりつ している。
このように せつめいする ことで、 いろんな ものが ある ことが せつめい できる。
そして、 「そざい」は、 「ない」が 「かたち」に なった ときに、 「ない」と 「かたち」に きょうつうする ことを せつめいする。
ちなみに 「かたち」が 「ない」に なる ときも、 おなじ ように、 「かたち」と 「ない」に きょうつうする ことを 「そざい」と せつめいする。
このように なにかが なにかに なる という ことを せつめい できる。
(しぜんがく だいいっかんの まとめ)

これが ありすとてれすの せつめい である。
せいどうの にんぎょうを あてはめると こうなる。
ひとの かたちを してい 「ない」、 えきたいの せいどうを、 いがた という 「かたち」に あてはめる。
えきたいの せいどうも できあがった せいどうの にんぎょうも、 どちらも せいどう という 「そざい」は きょうつうしている。
この 「そざい」が きょうつうしている という ところを いう ことで、 なにかが なにかに かわる という ことを せつめいする ことが、 ありすとてれすの もくてき である。
だから、「そざい」と 「かたち」を かんがえる ときに、 せいべつと うつくしさが もんだいに なっている ことは どうでも いいこと では ない。
ありすとてれすは「そざい」や 「かたち」 という かんがえかたを だいじに していた。
だから、 それらの かんがえかたを せいべつや うつくしさと かんけいする ように かいている という ことは、 だいじな のである。
つまり、 せいべつや うつくしさに ついて、「そざい」や 「かたち」 という かんがえかたで せつめい できないと、 ありすとてれすは こまる のである。
だから、 せいべつや うつくしさに ついて、 せつめい できる ように、 「そざい」や 「かたち」 という かんがえかたを いろいろと かんがえた はず である。

ことば

では、 ことばを かんがえてみる。
まず、せいどうの にんぎょう という ことばは、 おとこ という ことばが ゆらい であった。
つぎに、 こだい ぎりしあごで、かたちが ない ものは、 みにくい もの、 ちつじょが ない ものと かんがえられた。
ふらんすごでも、 sans forme(さん ふぉるむ)は、かたちが ない という いみと、 かたちの くずれた もの という いみが ある。
たいして、 かたちが ある ものは、 うつくしい もの、 ちつじょの ある ものと かんがえられた。
つまり、 ととのった かたちは 「かたち」 だけど、 ととのっていない かたちは 「かたちでは ない」と かんがえている のだ。
さらに、 こだい ぎりしあ では、 にんげん、おとなの おとこの かたちが うつくしい ものだと かんがえられていた。
だから、 にんげん、 おとなの おとこ という きれいな かたちに、 きんぞくを はめると、 きれいな ものに なると かんがえられる のだ。
つまり、 ここでは、 わるい もの、 みにくい もの、 おんな などの おとこでは ないと される もの、 こども、 にんげん いがいの どうぶつが むすび つけられる。
おとった もの であると かんがえられている のだ。

さべつ

この ように ありすとてれすの ように かんがえる ことは さべつ である。
さべつ とは、 ぶんかの ひとつの ありかた である。
さべつを おこなっている ものが わるい ことを している という じかくが あるか どうかは かんけい ない。
さべつを わるい から やめる べきと いわない ことは わるい。
むかしや ちがう ちいきの ぶんしょうの わるい ところを わるいと いわないで、 むしする ことは わるい。
したがって、 かいた まで である。
じぶんは これからの ことを かんがえている。
ありすとてれす という ものを じぶんが よまなかったら、 だれも よまない という ならば、 かきかたを もっと くふう した かもしれない。
しかし、 ありすとれれす というのは、 とても よく よまれる もの である。
したがって、 いじょうの ように かいた。
「じだいてき せいやく」 という ような ことばで せつめい しては いけない。
なぜならば、 そのように 「じだいてき せいやく」と いっても いいと おもえる ことが おきているのは、 いま だから である。
そのように いまでは ない ものに せきにんを おしつける ことは わるい。
いまも あきらかに せいべつに よる さべつ、 うつくしさに よる さべつは あるのだ。
その ような いま ある さべつ、 わるい ことを ちゃんと わるいと してき する には、じかんに かんけいなく、 わるい ものは わるいと いう べき である。
ありすとてれす だけ では なく、 のこっている 「おとこ」の ぶんしょうは だいたい わるい ことは わかっている から、 ありすとてれす だけ せめていると おもわないで ほしい。
だいたい みんな だめ。

かける ところが ある から もとめる

おんなを かける ところが あると かんがえるのは わるい。
しかし、 かける ところが ある から もとめる という のは、 きょうみぶかい。
おんなは それじたいとして おとこでは ない もの とは ありすとてれすは かいていない。
おんなは そざいと かんがえられている のだ。
おとこは かたちと かんがえられている。
おんなは おとこでは ない もの では あるが、おとこでは ない のは、 たまたま であると いう のだ。
どのみち、 せいべつ にげんろんで、 だんせいを すぐれた ものと かんがえている 。
さいしょは、 せいべつと せいてきな ことに かんする ことかと おもったが、 ちがう かんじが する。

にんげんが なる ならない

まえの ところでは にんげんが なる ならない という はなしが ある のだが、 それが おとこ という いみを もつ という ことは、 きょうみぶかい こと である。

だいにかん

71ぺーじ

いんよう

「そして自然を持っているものは、すべてが基本存在(実在)である。基本存在は確たる基盤となるものであり、自然はどんな場合でも基底的なもの(基体)のうちに存するからである。そして、「自然に適った仕方で」ということは、その基本存在や、自体的にそれらに属しているかぎりのものに当てはまる。たとえば火に属している上方への移動ということがそれで、この特性は自然そのものではないし、これが自然を持っているわけではないが、自然によって、あるいは自然に適った仕方でそうであるからである。」
71ぺーじ

しぜんは ぴゅしす。
きほんそんざいは うーしあ。
きていてきな ものは ひゅぽけいめのん。
じたいてきに たいする ふたいてき。

72ぺーじ

いんよう

「なお、「自然」というものが存在するということを証明しようと試みるのは嗤〔るび:わら〕うべきことである。存在するもののうちにはそうした自然的なものが多々あることは明々白々だからである。明白な事柄を明白ならざる事柄によって証明しようとするのは、事柄そのものによてしられるものと事柄そのものによっては知られえないものとの峻別のつけられない者のすることであり(もっとも、人がそういう事態に陥る場合がありうることは明らかである。生まれつき盲目の人が、色彩について推理を働かせることもあろうからである)、したがって、そのような証明を試みる人は、ただ名称について論を立てるだけで、当の事柄について考えることは何もしていないのである。」
72ぺーじ (193a03-07) るびを きっこう かっこで つけたした。

もうが ここで でてくる ことには ちゅういしたい。
まったく せつめいに なっていない ように おもえるが、 これが せつめいに おもえる ような しゃかいと ぶんかが ある という ことが よく わかる ぶんしょう だから である。

75ぺーじ

ようたい(へくしす)、じょうたい(でぃあてぃしす)が ものの ふたいてきな ありかたを さすと だいにかん・だいいっしょう・やくちゅう(9)で かかれている。
すぴのざを おもいだす。

74ぺーじ

「(なお、素材と形相との両者から成るもの、たとえば人間は、自然そのものではなく、自然によってあるものである。)」
74ぺーじ まるかっこは、 やくしゃが いれている かのうせいが ある。

ここの にんげんも おとこの かのうせいが ある。

75ぺーじ

「人間は人間から生まれるが、寝椅子が寝椅子から生じはしない。」(75ぺーじ)

ここも、 ゆだんしては ならない。
おそらく、 どうぶつ としての にんげんを かんがえていると よめる。
しかし、 うむ もの から うまれる とは かんがえていない かのうせいも もちろん ある。
たしか ありすとてれすは、 おとこの せいし という たねが うむ もの という つち(ありすとてれすは おんなという ことばを あてている)に まかれる ことで、 こどもが できると かんがえていた。
だから、 この ばあいも、 おとこ から おとこが うまれる という いみで ある かのうせいは ありえる。
ありすとてれすが おんなと いっている もの、 じぶんが うむ もの という ものは、 せいしょくに かかわっていないと かんがえている かのうせいは ある。

76ぺーじ

「形相の欠如もまたある意味での形相だからである。」(76ぺーじ、193b19-20)

77ぺーじ から 78ぺーじ

「なるほど数学者もまた、いま言われた平面や立体などについての研究を行ってはいるが、しかし自然的物体の限界としてそれらのおのおのを取り扱っているわけではないし、それらに付帯するものごとをも自然的物体に付帯しているものとして考察しているわけでもない。そのために、それらを別個に切り離しているのである、なぜなら、それらのものは思考の上では運動変化から切り離されて存立しうるものであり、離れて別個のものとなっても何らの相違もなく、誤りが生ずることもないからである。」
77ぺーじ から 78ぺーじ、195b32-36

83ぺーじ

「(3)変化あるいは静止の第一の始原となるものがそれから〔「それから」を きょうちょう している。〕もたらされるところのそのものが原因とされる。たとえばあることを提言した人が事の原因者(責任を負う者)であり、父親が生まれた子供の原因者である。すなわち一般化して言えば、作るもの(なすもの)が作られるもの(なされるもの)の、変化させるものが変化するものの原因とされるのである。」
83ぺーじから 84ぺーじ、 194b30-3

やっぱり おとこ から おとこうが うまれる という いみ だったのか。 わるい。

84ぺーじ

「さて、原因というものはほぼこれだけの意味において語られるのであるが、原因というものがこのように多様に語られることから、同一の事物に多数の原因が、しかも付帯的にではなく、存在することになる。たとえば鋳像作製技術と青銅とはともに鋳像の原因にほかならない。それも何か内容を異にしていではなく、鋳像がまさに鋳像であるという点においてのことなのである。ただし、同じ仕方で原因であるというわけではなく、一方は「素材(質料)」という意味で、他方は運動変化が「それによって〔「それによって」が きょうちょうされている。〕もたらされるところのもの」という意味でのことである。」
84ぺーじ、きょうちょうは、 ほんぶんに よる。195a03-13

ぎじゅつの せんもんちしき とは、 ほんらいの ありかたは どうであったか という かたちと、 それから なった ところの そざいを しる という こと であった。(79ぺーじ)
ぎじゅつと しぜんが ならべられている。

「自然とは、それが付帯的にではなく、直接的にそれ自体としてない属しているものの、運動と静止の原理であり、原因である」(70ぺーじ、 192b21-23)

しかし、ぎじゅつに よる けっかは、 ぎじゅつに よる けっかで ある かぎりでは、 かわる けいこうを ほんらいの ありかた として もっている わけ では ない(70ぺーじ)。
つまり、ふくや いすは、 ふくや いすと かんがえられている かぎりでは、 ほかの ものに かわる かのうせいが じょうけんと なっている わけでは ない。
ぎじゅつは、 そざいを つくりだす ことも あれば、 とうじしゃの りえきの ために、 または もくてきの ために そざいを つくりかえる ことも ある。(80ぺーじ)

そざい から かわって
かたち という ほんらいの ありかたに
はじまり から
もくてきの ために
なにかに なる という よっつの げんいんが ある。
そのうち、 ぎじゅつは、 「それによって」 であり、 はじまりに あたる。
はじまりは、 どうさぬしと、 どうさぬしの のうりょくが ともに かたられると かんがえる ことが できる だろう。

88ぺーじ

「そして、(B)それらすべてが(1)現に活動中のものとして語られるか、(2)可能的であるものとして語られるかのいずれかとなる。この両者には次のような違いがある。すなわち、まず活動中のものであり直接個別的なもののほうは、その原因となっている対象と同時に存在し、また同時に存在しなくなる。たとえば、「現に医療行為を行っているこの特定の人」は「現に治療されているこの特定の人」と、「現に建築作業を行っているこの特定の人」は「現に建てられつつあるこの特定の家」と同時に存在し、また同時に存在しなくなる。しかし、可能的にあるものの場合には、必ずしもそういうことにはならない。家が壊れると同時にそれを建てた建築家が亡くなるというようなことはないからである。」
88ぺーじ、195b16-22

ぎゃくに かいた ほうが いいのでは ないか?
つまり、 けんちくかが なくなると どうじに たてた いえが こわれる という ようなことは ない から、
げんに つくられつつある いえ では なく、 できあがった いえ という かのうてきに ある ものは、
その げんいんとなっている たいしょう である ばあいの けんちくかは、つまり、 いま げんに いえを たてている わけでは ない けんちくかと
どうじに あり どうじに ない(つまり あれば あり、 なければ ない ) という ことは ない。
いや、 どちらでも かまわないのか。
かいけつ。

しかし、 「それらすべて」が なにを いみするかで かわる。
まえの だんらくは、 「原因となるもののすべては」、 「(A)原因は」と かいてある から、 げんいん かもしれない。
かのうてきとは なにか という もんだいが ある。
なにかが できる こと。
要調査。

げんいん・たいしょう
原因対象

79ぺーじ から 80ぺーじ

「さらには、ものごとが目指すべき目的すなわち終極と、それらのために〔手段として〕あるかぎりのものとは同じ一つの学の対象である。しかるに自然は終極であり、ものごとが目指すべき目的である。(というのは、運動変化が連続一体的に行われているものにおいて、その運動変化が一定の終極に達するとき、その最終点がすなわちその目指すべき目的でもあるからである。なお、そのことから、かの詩人は滑稽にも「彼は得たり、彼の生まれ来るその目的たる終末(死)を」と歌うことになったのだが、これが滑稽だというのは、終末なら何でも終極目的たりうるわけではなく、最善の終末のみが終極目的たりうるからである。)」
79ぺーじ から 80ぺーじ。〔手段として〕は ほんやくしゃに よる。

しゅだん なのか?(ちがうと おもう。)
ほんやくしゃは やくちゅうで、しゅだん としての そざいてきな ものが けんきゅうの たいしょうに なる(81ぺーじ)と かいているが、 ほんとうか?(ちがうと おもう。)
もくてきは、 おわりと かんがえた ほうが よさそう。
(「この場合、達成すべき目的すなわち金銭の取戻しは、その人の内にある原因の一つではなく、思考にもとづいて意志的に選択されうる事柄のほうにあるのである。」95ぺーじ、197a2-3。 たっせいされた おわりの けっか、 つまり かしていた おかねを かえして もらった という ことは、 かえして もらった がわの うちがわに げんいんが ある のでは なくて、 あとから かんがえて、 りゆうを さがした ときに だけ えらばれる ことがらで、 げんいん では ない。という ような いみ だろう。いしてきに せんたくして という ことばの いみが わからない。 しこうに よっても なぞ。 その あとに、 かねを かえしてもらう ために でかけた ばあいを、 「意志的に選択して」95ぺーじ、197a4-5と かいている。 まちがえだ。 まず かんがえる ことで 「いしてきに」 ある ばしょに でかける ことを えらぶ。 そして、その おわりに おかねを かえして もらう。 なんで おかねを かえして もらう ことに なったの?と きかれれば、 ぐうぜんであると こたえる。 おかねを とりもどした という けつまつは、 でかけた ひとの なかに ある げんいんの ひとつ である もくてき では ない。 つまり、 おかねを かえしてもらおうと おもって でかけた から という りゆう では ない。 けつまつは、なにかを かんがえて、 「いしてきに」その ばしょに いく ことを えらんだ ことに、 たまたま くっついていた だけ である。 だから、 「ことがらの ほうに ある」と いわれる のだ。)

98ぺーじ

「そして、そのために、無生物も獣類も、さらには幼児もまた、偶然によって何かをなすことはない。それらには意志的選択ということがないからである。」98ぺーじ、197b8-9

「こうい」(行為)の かんがえかたの ぐたいれい。

100ぺーじ から 101ぺーじ

「他方、それら両方のいずれも、先に挙げた原因のさまざまなあり方のうちの、運動の始原となるものがそれから〔「それから」は きょうちょうされている。〕もたらされるところのもの(始原因)に属する。なぜなら、それらは常にどの場合でも自然的な原因の一つであるか、思考に由来する原因の一つだからである。」100ぺーじ-101ぺーじ、198a02-03

「それら両方」とは、 おのずから、と ぐうぜん。

109ぺーじ

「怪物とは自然の目指す目的に適合しそこなった誤りの産物である。」
109ぺーじ、199b03

とくに にんげんの かおを した うしの こが かんがえられている。

110ぺーじ

「自然によってあるものとは、自らのうちに存する何らかの根本原理をもとに、連続的に運動変化して何らかの終極目的に到達するかぎりのもののことだからである。」
110ぺーじ、199b16

114ぺーじ

「さてこれで自然的なものごとにおける「必然的なこと」とは、われわれが「素材」と言っているものおよびそれの運動変化のことであるのは明らかである。自然学者としては、素材としての原因と「何のためか」を示す原因との両方を論じなければならないが、よりいっそう大事なのは後者のほうである。」
114ぺーじ、200a33-35

だいさんかん

118ぺーじ

これなるものが うーしあ、きほんそんざい である。
(130ぺーじ、ふたいしてでは なく、 そのもの として ある ものが きほんそんざい である。)

125ぺーじ

「そして、運動変化を引き起こすものは、その度にいつでも、何らかの形相――それがこれ〔「これ」を きょうちょうしている。〕なるもの(基本存在)であれ、何らかの性質的なものであれ、一定の数量的なものであれ――を相手にもたらすであろうし、それが運動変化させる場合、まさに運動変化の始原となり原因となるであろう。たとえば、終極実現態にある大人の人間が人間となる可能性を持ったものから人間を作るのである。」
125ぺーじ、202a09-12

にんげん という ことばは おとこ という いみが ある ことに ちゅうい する べき。

136ぺーじ

むげんが つうかしない ことと いいかえられている。

137ぺーじ

アリストテレスによれば、数は付け加わりによって無限、空間は分割によって無限、時間はその両方によって無限である。」
137ぺーじ、だいさんかん、だいよんしょう、やくちゅう 25

150ぺーじ

「またしかし、時間における場合や人類についての場合と、大きさの分割についての場合とでは、明らかに事は別である。すなわち、全般的に言えることとして、無限なるものの存在は、いま言われたように、次々にたえずものが取り去られていき、そのつど取り去られるのは有限のものだが、しかし次々にたえず別のものが取り去られるという仕方によるのである。」
150ぺーじ、206a25-29

「[さらに繰り返せば、「ある」ということはきわめて多様な意味で言われ、したがって無限なるものを、たとえば一人の人間や家の場合がそうであるように、「これ〔「これ」を きょうちょうしている。〕なるもの」と解してはならず、昼間や競技があると言われるような意味で、すなわちそれらにとっての「ある」は何らかの基本存在として成立しているのではなく、たえず生成あるいは消滅の過程にあって、有限なものでありつつ、しかしたえず次々に別のものが生じているのだが、そのような意味で解さなければならない。]しかし、大きさの場合には〔次々に〕取り去られてもなお存続しつづけていくのに対して、時間や人類の場合には消滅しつづけながら途絶えることがないようなあり方をしているのである。」
150ぺーじ、206a29a-33, 206b01-03。 〔「これ」を きょうちょうしている。〕を そうにゅうした。[]は しょきの しゃほんに おいても ある ものと ない ものが ある ことが しられており、 らんがいの つけたしと やくしゃは かんがえている。

151ぺーじ

むげんとは、

「すなわち、可能態において、しかも引き去りをつづけていく過程としてである」
151ぺーじ、206b13-14

ここで、 むげんと そざいを おなじ ように かのうたい として、 それ じたいで ある わけでは ない もの として せつめいする ところは おもしろい。
「ひきさり」という のは、 ばでぃうの ひきざんの はなしと かんけいしている のだろう。

152ぺーじ

「すなわち、その外部に何もないところのものではなく、その外部にたえず何かがありつづけるところのもの、それが無限なるものである。宝石受けの付いていない指輪が「無限の指輪」と言われているのも、その証拠となろう。それは、たえずどこまでも指輪の輪のより外(より先)の部分を辿っていくことができるからである。ただし、そういわれるのはある種の類似性においてであり、けっして本来的な意味においてではない。本来の無限であれば、たえずより外の部分がありつづけるようになっていなければならないとともに、どこまで行っても同じ部分に戻ってはならないからである。しかし円環の場合にはそういうことにはならず、ただその先につづく部分がいつもそのつど違っているにすぎないのである。」
152ぺーじ から 153ぺーじ、207a1-8

154ぺーじ から 155ぺーじ

それゆえ、無限なるものは、そのかぎりにおいては、認識不可能なものでもある。素材的なものには形相が存しないからである、とすれば、無限なるものは、明らかに全体と見なすよりも、むしろ部分と見なすべきである。なぜなら、素材とは、たとえば青銅が鋳像の部分要因であるように、全体の部分要因だからである。すなわち、もし感覚的事物の世界において無限なるものが統括的役割を果たしているとすれば、知性対象の領域においても、「大」と「小」が知性対象となるものを総括するのでなければならないはずである。しかし、認識不可能なもの、無規定的なものが総括し規定するというのは、理に反したことであり、不可能なことである。
154ぺーじ から 155ぺーじ、207a27-33

むげんと ぜんたいを まちがえて むすびつけられていた のは、 むげんが きわみを じつげんする ための そざいで、 かのうたいに おける そんざい ぜんたい である から。

156ぺーじ

「したがって、数的無限は可能的にはありえるが、活動実現態において(顕在的に)ありえず、しかしながら、数え上げられていく数がそのつど常にいかなる既定の数をも超え出ていくのである。ただし、その無限性はそのままありつづける〔「ありつづける」を きょうちょうしている。〕のではなく、ちょうど時間や時間を刻む数と同じように、生成過程として存する。」
156ぺーじ、207b11-14

157ぺーじ

おおきさが むげん である から うんどうへんかも むげん であり、
うんどうへんかが むげん である から じかんも むげん である。(157ぺーじ、207b23-27)

158ぺーじ

「また、以上の議論は、活動実現態において増大の方向に対して通過し尽くせないというあり方での無限の存在を否定するものではあっても、それが数学者たちの考察をできないようにさせるものではない。なぜなら、現に彼らは無限を必要としてはいず」
158ぺーじ、 207b29-31

むげんは そざい。
むげんは けつじょたい。
むげんの こんぽん(きてい)には、 つながっていて、 かんかく できる ものが ある。

174ぺーじ

ろごすが、 げんごきてい(言語規定)と やくされている。

「(4)他には、「類」が「種」のうちにあるというように、一般化して言えば、「種」の部分をなすものが言語規定(ロゴス)のうちにあるというように。」
174ぺーじ、210a20-21

しゅの ぶぶんを なす もの とは、「「種」を規定するための「類」および「種差」の 」ことだと やくしゃは かいている。(175ぺーじ、だいよんかん、だいさんしょう、やくちゅう(2))

175ぺーじ

みずからの うちに (おん)は、 へーげると かんけいしている だろうか?
やくしゃは、 これを むげんが みずからの うちに ある こと という はなしで たいしょ されていると のべているが、 より いっぱんてきな はなしを していると よむ ほうが いいと おもった。(だいよんかん、だいさんしょう、やくちゅう4)

176ぺーじ

ぶぶんに もとづいて いう こと として、 はだが しろい ものは しろいと、 たましいの りちてきぶぶんが ちしきゆたかな ものは ちしきゆたか である という れいが あげられている。 めとにみー だ。

181ぺーじ

「ところで、取り囲んでいる側のものが囲まれている側のものから切り離されることなく、連続一体的である場合には、囲まれているものは、場所のうちにあるという意味では、取り囲んでいるもののうちにあるのではなく、部分としての全体の内にあるのである。他方、取り囲んでいる側のものから切り離されているが、それに接触している場合には、取り囲んでいるものの直接的な第一の末端のうちにあり、直接的な第一の末端は、それのうちにあるものの部分ではなくて、しかもうちにあるものの占める領域より大きくもなく、等しい大きさのものである。接触し合っているものの末端同士は、ともに同じ所にあるからである。」
181ぺーじ、210a30-a36

182ぺーじ

じぶつの きょうかいめん としての ほんしつけいたい(もるぺー)に たいして、 ばしょは とりかこんでいるものの きょうかいめん である。

だいよんかん、ぜんはんの まとめ

だいいっしょう: ばしょとは なにか? ばしょは あるのか?(「こうした困難な問題点」(168ぺーじ、208a30))
だいにしょう:ばしょは かたちか そざいか? ぷらとんの こーらー。 ばしょは きりはなせる から かたちでも そざい でも ない。ばしょは ようきだ。 どこかに ある。ばしょは うごく(なにかに なる)ことと かかわる。ばしょの ばしょ。ばしょが なくなる。
だいさんしょう:どこかに あるとは いかなる ことか。 みずからの うちに あるとは いえない。ぜのんの ばしょが なにかの うちに あり、 むげんに すすむ という もんだいは、 「の うちに ある」 という ことばの いみが、 「ただし、その第一の場所が何らかのうちにあるとしても、それは場所のうちにあるというのではなく、ちょうど健康が持続的状態として熱いもののうちにあり、さらにその熱いものがそのつどの様態として身体のうちにあるというような仕方であれば、ということである。」(178ぺーじ、210b24-27)(うちに あるの5の いみで、 「形相が素材的なもののうちにあるというように」(174ぺーじ、210a22))

「ところで、はたしてものは何かそれ自体として自らのうちに存在しうるか、それともけっしてそういうことではなく、すべてのものはどこにも存在しないか、他の何ものかのうちに存在するかのいずれでしかありえないのか、ということが問題とされるかもしれない。」(175ぺーじ、210a25-26)

だいごしょう:ばしょの じょうけん

「(1)第一には、それ〔「それ」を きょうちょうしている。〕の場所となっているその事物を取り囲んでいるものであること。
(2)しかしその事物の側に属するものではないこと。
(3)また、直接する第一の場所はその事物より小さくもなければ大きくもないこと。
(4)また、場所は個々の事物のあとに取り残され、したがってそれとは別個独立のものであること。
(5)さらにまた、あらゆる場所に上下があること。
(6)個々の事物は、自然本姓的に、それぞれの固有の場所へと移動し、そこに留まる。そしてその動きや停止は上下方向に対してなされること。」
179ぺーじ、211a1-6

ばしょに おいて、 それじたいとして、 または ついでに うごく ことが ある。 ぶぶんの ぜんたい である ばあいは、 ともに うごき、きりはなされて くっついている ばあいは、うちで うごく。ばしょは まったん そのもの、きょうかいめん である。

そざいは「事物から自立離存したものでもなければ、事物を取り囲んでいるものでもないのに、場所はその両方に当たる」(184ぺーじ、212a1)

185ぺーじ から 186ぺーじ

「容器が移動可能な場所であると同じように、場所とは動かすことのできない容器のようなものである。それゆえに、たとえば川の中で船が動いている場合のように、運動状態にあるもののうちにあって、その中身のもののが運動したり変化したりするときには、それを取り囲んでいるものは場所というよりもむしろ容器の役割を担う。場所は不動のもののことだからである。それゆえ川全体がむしろ場所である。それ全体としては不動だからである。
さて、以上の結果、取り囲んでいるものの、〔囲まれているものに直接した〕第一の不動の境界面、それが場所である。
また、それゆえに、宇宙世界の中心と、それを巡る〔天球の〕円運動のわれわれに対する側の末端面とが、われわれすべてにとってとりわけ固有の意味で、それぞれ上と下であるように思われる。中心は常に留まっているし、円運動しているものの最末端面は同じあり方を保ちつづけているからである。したがって、自然本性的に上方に動いていくものが軽いもの、下方に動いていくものが重いものであるからには、中心に向かっている側の取り囲んでいる境界面および中心そのものが下であり、最末端に向かっている側の境界面および最末端面そのものが上である。そして、それゆえに、場所とは表面に類したものであり、また容器のようなもの、そして取り囲んでいるものであるように思われる。さらにまた、場所は取り囲まれている事物と一体になっている。境界面は限定づけられているものと一体的だからである。」
185ぺーじ から 186ぺーじ。 211a16-a32

186ぺーじ から 187ぺーじ

「さて、その外側にそれを取り囲んでいる別の物体があるような物体、それは場所のうちにあるのだが、そうした外側の物体がないものは、場所のうちには損じあしない。だから、仮に水がその外側を取り囲んでいるもののないようなものだとしても、それの諸部分は運動するだろうが(それは相互に取り囲まれているのだから)、全体は、ある意味で運動するだろうが、ある意味では運動しないことになろう。全体として一斉に場所を変えはしないが、円運動はするからである。——その円が諸部分の場所となっているので――。そして、諸部分のうちの一部は上下運動はせずに、円運動のみを行うが、しかし希薄化したり濃密化したりするかぎりのものは、上下運動をも行う。」
186ぺーじから 187ぺーじ。 212a32- 35-b1-3

「ところで、すでに語られたように、あるものは可能態において場所のうちにあり、あるものは活動現実態において場所のうちにある。それゆえ、同質一様のものが連続一体的なあり方をしているときには、その諸部分は可能態において場所のうちにあり、たとえば積み重ねられたもののように、それぞれの部分が別個になっているがそれらが接触し合っているときには、活動現実態において場所のうちにある。」
187ぺーじ、 212b4-7。

188ぺーじ

「そして、またあるものは間接付帯的に場所のうちにある。魂とか天界全体がそうである。後者の場合は、その諸部分すべてが或る意味で場所のうちにあるからで、すなわち円軌道に沿って、各部分が他の部分を取り囲んでいるからである。」
188ぺーじ、 212b13-15

「天界の特定箇所たる最末端部で、運動変化している物体に接触しているところ、それが場所である。そしてそれゆえに、大地は水のうちにあり、その水は大気(空気)のうちにあり、その大気は天空火(アイテール)のうちにあり、天空火は天界のうちにある。そして、天界はもはや他のもののうちにはない。」
188ぺーじ、212b19-22

190ぺーじ から 192ぺーじ

みず という そざい から、 くうき という かたち という かんけいに ある。
みずは くうきの かのうたいで、 くうきは みずの かつどうじつげんたい である。
みずと くうきの かんけいは、 ぶぶんの ぜんたいに たいする かんけいの ような かんけい である。

「それゆえ、水と空気は接触し合うし、両者が活動実現態において一つのものになった場合には、自然一体化がなされるのである。」
192ぺーじ。213a10

197ぺーじ

「気息(プネウマ)は、 宇宙にみなぎっているものとsられる生命要因をはらんだ気体的なもの。」
だいよんかん、だいななしょう、やくちゅう17

ぴゅだごらすはの くすとす、えくぱんとす

さわれる、 つまり おもさや かるさの ある ぶったいが まったく ない ばしょが くうきょ であると かんがえられている。(てんは ばしょ では ない ので、 くうきょ では ない。)

198ぺーじ

ぶったいてきな うーしあが ない ところが くうきょであるとも いえる。
くうきょは ぶったいが とりさられた ばしょ である。
ばしょは、 うごかない きょうかいめん として あるが、 ぶったい として ばしょの なかに ある のでは なく、 かたちが そざいの なかに ある。 「天界の特定箇所たる最末端部で、運動変化している物体に接触しているところ、それが場所である。」(188ぺーじ、212b19-20)
だから、くうきょは ない。

「なぜなら、空虚は物体ではなく、物体の空間的広がりのことだとされているからで、そのために、空虚が何らかの存在だと思われるのは、場所もやはり何らかの存在だと思われ、しかも同じ理由からそう思われているからである。すなわち、場所はそこに入り込んでくる諸物体とは物の何ものかであると主張する人たちにも、また空虚についてもそう主張するものたちにも、ともに支えとなっているのが場所的な運動変化なのである。空虚が、そこにおいて運動変化がなされるところとして、運動の原因をなすものと、彼らは考えているのだが、それこそは、場所とはいかなるものかについて、ある人たちの主張していることにほかならないであろう。」
198ぺーじ、214a19-25

ほかの かんけいする ところ

じぶつの まったんから まったんまでの あいだに ある もの としての なんらかの ひろがりが ばしょ である という せつに ついて。

「取り囲んでいるものがそのまま留まっているのに、取り囲まれている側のものは、それが切り離されたあり方のものであれば、たとえば水が容器から流出するように、変化するということがしばしばあることから、その間にあるものとして、移り変わっていく物体とは別の何らかのものとして、広がり(空間)があるように思われる。しかし、そのようなものはありえず、(何かが出ていくとすぐに)移り変わりしつつそこに接触する本性をもった諸物体のいずれか任意のものが、入り込んでくるのである。」
182ぺーじ から 183ぺーじ、 211b15 - 19

「容器の境界面が場所であるように見えるだけでなく、空虚な存在としての、境界面から境界面までの間の領域もまた場所であるように見えるからである。」
185ぺーじ、212a12-15

199ぺーじ

「空隙なく充満しているものも性質変化することは可能なのである。」
199ぺーじ、 214a29
「同時に物体同士が相互に場所を入れ替えることができるからであり、その際に運動変化しつつある物体の他に別個の空間的広がりが何もなくても構わないのである。」
199ぺーじ から 200ぺーじ、214a30-32

200ぺーじ

おきかわり(あんてぃめたすたしす)/まわりこみちかん(あんてぃぺりすたしす)と しゅくみつか(あっしゅく)
くうきょを はなしたがる りゆうの うんどうへんかは、 べつに くうきょを もとめない という はなし。

202ぺーじ

れんぞくいったいてきな ものの それぞれの ぶぶんは ぜんたいの なかに あるのであって、 ちょくせつてきに ばしょの なかに ある のでは ない。

203ぺーじ

「空虚のうちにあっては事物は必然的に静止しているからである。そこではどの方向へより動きやすいとか動きにくいとかいうことがないからであり、それというのも、空虚であるかぎりは差異がありえないのである。」
203ぺーじ、 214b32-33, 215a1

204ぺーじ

くうきょに ちがいが ないから、 じょうげは ない。
しぜんほんせいじょうに じょうげは ある。 くうきょは ない。

205ぺーじ

ばしょいどうするのは、 くうきょが ゆずるばあいと かんがえられるが、 くうきょから みたら、 すべての ほうこうに ゆずる かのうせいが あるのに、 なぜ いっぽうこうにしか ゆずる ことが ないのか せつめいできない。

207ぺーじ

「Zは空虚であるとし、それは媒体Bおよび媒体Δと等しい長さであるとしよう。移動体Aが何らかの時間でその空虚を通過し、運動するものとし、その時間を符号Hで表すものとすると、時間Hは符号Eで表した時間(媒体Δを通過するのに要する時間)よりも短くて、その比率を空虚は充満体に対して持つことになろう。またしかし、符号Hで表した時間に等しい時間で、移動体Aは媒体Δの中を距離Θだけ通過するであろう。しかし、空気(媒体Δ)よりも疎薄さで優っている何らかのもので、その〔疎薄さの〕比率は符号Eで表した時間が時間Hに対するのと同じものであるとすれば、やはり移動体Aは(同じ時間で)その中を通過するであろう。なぜなら、もし符号Zで表した媒体の物体が媒体Δの物体よりも疎薄である度合いは、時間Eが時間Hを凌駕している度合いに対応するとすれば、それと逆転した〔反比例的な〕割合の速さで、すなわち時間Hと同じだけの時間で、符号Aで表した移動体は媒体Zを、もし移動運動しうるものならば、通過することになろう。ところが、先ほどの前提では、その経過に要する時間はHとされたのだった。その結果、充満体をであれ空虚をであれ、通過に要する時間は同じだということになる。しかし、それはありえないことである。したがって、明らかに、もし空虚のいかほどにせよそれを通過するのに要する時間がありうるとすると、次のような不可能が帰結することになる。すなわち、何らかのものが充満したところを通過するのにも、空虚を通過するのにも、同じ時間を要することになるだろう。こういう不可能な帰結が生ずるというのも、異なった物体同士の間には、〔それらを通過するのに要する〕時間同士の間におけるのと同様の比率関係が成立するからである。
以上を要約して言えば、ここに生じた結果の原因は、明らかに、すべての運動変化は運動変化同士の間に比率が存在するのに、空虚と充満体の間にはそれが存在しないことによるのである(運動変化同士に比率が存在するのは、それが時間においてなされ、いかなる時間も時間同士の間に、それら双方の時間が有限なものであるかぎりは、比率が存在するからである)。」
207ぺーじ から 208ぺーじ、 215b24-30, 216a1-11

209ぺーじ

ばしょと おなじく くうきょも じりつりそんしては いない。

「また、空虚をそれ自体として考察してみるならば、いわゆる空虚なるものは、まさに文字通り空虚でしかないことが判明するであろう。」
209ぺーじ、216a27-28
アリストテレスによるきわめて稀なジョークの一例。」
だいよんかん、だいはっしょう、やくちゅう22

214ぺーじ

「すなわち、熱いものと冷たいものなど、自然本性的な対立相反関係をなす、それら対立相反的なものは対立相反的なものから自立離存した存在ではないが、その本来的あり方において異なったものであること、そしてそれは、色であったり、熱くなったり冷たくなったりするにしても、数的に一つであること、というのがわれわれの基盤とする立場である。」
214ぺーじ、 217a23-28

216ぺーじ

「さて、以上に述べられたことから、明らかに、空虚はものから分離されたものとしては、端的にそれだけでも、あるいは希薄なものに含まれた仕方でも存在しえないし、また可能態においても存在しえない。ただし、場所移動の原因をともかくも空虚と呼んでおこうというのであれば、それは別のこととしてであり、その場合には、重いものと軽いものの素材的要因という、そのかぎりにおける素材的なものが空虚であるということになろう。」
216ぺーじ、217b20-23

218ぺーじ から 219ぺーじ

1. かこや みらいは あるわけ では ない のに じかんは ある?
2. わけられる のに じかんは いまの あつまり では ない。
3. じかんが うつりかわる なら、いつ いまは ある ことは ない のか? ありえない。
「というのも、ちょうど点が点に連接しえないのと同様に、多数の「今」が相互に連接し合うのは不可能であるとしておくからである。」(219ぺーじ、 218a19-20)
4. いまが つづく なら、 きょうかいが ひとつに なるが ありえない。 すべて どうじに なる。 ありえない。
「ところが、「今」は境界であり、また時間は有限なかたちで取り出すことができるのである。」(219ぺーじ、218a25-26)

220ぺーじ

「ところで、時間とは何よりも運動変化であり、変化一般であると考えられるので、これについて考察しなければならないだろう。それぞれの事物の変化一般ないし運動変化は、変化しているその当のもののうちでのみなされるのか、それとも変化し運動しているその当のものがたまたま位置している所においてなされるかのいずれかである。それに対して、時間はあらゆるものにわたって、至るところで一様なあり方をしている。さらにまた、変化には遅速があるが、時間にはない。なぜなら、遅速は時間によって規定され、短時間に多く運動変化するのが速いということ、長時間かかってわずかに運動変化するのが遅いということなのである。他方、時間が時間によって規定されることはなく、どれだけ多くの量のものであるとか、どのような質のものであるとかということで規定されることもない。したがって、時間が運動変化でありえないことは明らかである。なお、当面のところ、運動変化と言おうと変化と言おうと、われわれにとって何らの違いもないものとしておこう。」
(220ぺーじ から 221ぺーじ、 218b10-b20)

222ぺーじ

「したがって、時間が存在しないように思われる状態がわれわれに起こるのは、われわれがいかなる変化をも画定することなく、われわれの魂が分割できない一つの「今」のうちに留まっているように思われる場合であり、他方、われわれが変化に気づき、それを画定したときには、時間が経過したと言うのであれば、明らかに、運動変化や変化一般なくしては時間は存在しないのである。」
222ぺーじ、218b31-34

うんどうへんかに ぞくしている という ところは それでは しょうめい できていない のでは ないか?


時間が運動変化の何であるかを取り押さえなければならない。というのも、われわれは運動変化と時間とを同時に感覚するからである。事実、暗闇にあって、われわれが身体を介しては何も感受できないという場合であろうとも、われわれの心のうちに何らかの運動変化があるとすれば、そのまま同時に何らかの時間も経過したという思いがする。

くらやみ という みる ことに ついての ひゆが さいしょに くる のが おもしろい。
そして、 おそらく くらやみが みえる という のは、 へんかが ない ように みえると かんがえる ことが おもしろい。
ここで、 たましい では なく、 こころが でてくる のも、 おもしろい。

223ぺーじ

よりさき、よりあとが ばしょてきな ことば という からには、 よりまえ、 よりあとと やくす ほうが よかったのでは ないか?

「ともかく「より先・より後」は大きさのうちに存在するものであるから、運動変化の場合にも「より先・より後」は必然的に存在し、それは大きさの場合と類比的である。のみならず、「より先・より後」は時間にも存在するが、それは常に運動変化と時間のそれぞれ一方が他方に随伴する関係にあるからである。」
223ぺーじ、219a15-a20

るいひてき というのが ありすとてれす らしさ なのかも しれないと かせつを たてた ところ。

「ただし、運動変化の場合の「より先・より後」は、「より先なるもの」・「より後なるもの」としてあるところの当のものとしては、運動変化にほかならないが、しかしながら、そのあり方においては異なったものであり、運動変化ではない。」
223ぺーじ、219a20-a22

だいよんかん、だいじゅういっしょう、やくちゅう(4)「ὅ... ποτέ ὅν(a20-21)は基底的なもの(基体)を表す言い方の一つ。『動物の諸部分について』第二巻第二章648b35—第三章649b27, 『生成と消滅について』第一巻第三章319a33-b4 参照。」

なぞ。

「またしかし、われわれが時間を認知するのは、運動変化を「より先・より後」によって画定することにより、その時間を画定する場合のことである。」

かんかくの はなしが でてくる ところが おもしろい。
さらに、 よりまえと よりあとを かくていして、 その ちゅうかんも ほかの ものとして にんていする という ながれが おもしろい。

224ぺーじ

「すなわち、われわれがその両端を中間部とは異なったものとして判別し、われわれの心が「今」は二つ、一方は「より先」のもの、他方は「より後」のものであると言明するときに、われわれはこれが時間であるというのである。というのも、「今」によって〔両端を〕画定されたものが時間だと思われているからであるが、とりあえずはそうだとしておこう。」
224ぺーじ、218a28-31

「したがって、われわれが「今」を一つとして感覚し、運動変化における「より先」・「より後」として感覚せず、あるいは同じ一つの「今」ではあっても、「より先」のもののそれであるとともに、「より後」のものそれでもあるというように感覚しないのであれば、全く何らの時間も経過したとは思われないのである。その際には、いかなる運動変化があったとも思われないからである。他方、われわれが「より先・より後」を感覚するときには、時間が経過したと言うのである。なぜなら、時間とはそれ、すなわち「より先・より後」にもとづく運動変化の数のことだからである。」
224ぺーじ、218a32-35、219b2

かぞれられる かぎりでの うんどうへんかが じかん
じかんは かぞえられる ほうの かず

224ぺーじ から 226ぺーじ

「そして、運動変化がたえず次々と別のものになっていくのと同じように、時間もまた、たえず次々と別のものになっていく(ただし、同時並存するすべての時間が同一のものである。「今」は、それ〔「それ」を きょうちょうしている。〕がまさに「今」であるところのそのものとしては同じものであり――ただし、そのあり方ではさまざまに異なるのだが――、そしてその「今」が、「より先・より後」という観点において、時間を画定するものだからである)。「今」はある意味では同一のものだが、またある意味では同一のものではない。次々と別の時点にあるかぎりでは異なっているが(これが、「今」とはもともと何であったのかということである)、それ〔「それ」を きょうちょうしている。〕がまさに「今」であるところのそのものとしては同じものである。すなわち、すでに語られたように、運動変化は大きさに随伴し、そしてその運動変化に時間は随伴する、というのがわれわれの言わんとするところである。そして、それと同様に、移動体は点に呼応し、その移動体によってわれわれは運動変化を認知し、運動変化の中での「より先」と「より後」を認知するのである。また、移動体は(それが点であれ、石であれ、あるいは何か他のそうしたものであれ)、それが移動体であるところのそのものとしては〔移動中の全時点にわたって〕同一であるが、説明規定においては別のものであり、それは、ちょうどソフィストたちが、リュケイオンにいるコリスコスと公共広場にいるコリスコスとは別人である、としているのと同じようなことである。移動体もまた、次々と別のところへ位置を変えていくことで、異なったものになっていくのである。そして、「今」が移動体に随伴するのは、ちょうど時間が運動変化に随伴するのと同様である(なぜなら、われわれが運動変化における「より先・より後」を認知するのは移動体によってであるが、数えられるものであるというかぎりにおいての「より先・より後」が「今」なのだからである。)したがって、この場合においても、「今」は、まさにそれ〔「それ」を きょうちょうしている。〕が「今」であるところのものとしては同一であるが(すなわちそれは運動変化において「より先」とか「より後」としてあるというかぎりにおいての「より先」とか「より後」が「今」なのだからである)。そして、とりわけ顕著に認知されるのがこのような「今」である。それというのも、運動変化は運動変化の過程にあるもの(運動体)のゆえに認知され、場所移動変化は場所移動しつつあるもの(移動体)のゆえに認知されるからである。なぜなら、場所移動しつつあるものは、これと特定された何らかのものであるのに対して、運動変化はそうではないからである。したがって、「今」はある意味では常に同一なるものであるが、ある意味では同一ではない。場所移動しつつあるものもはやりそうであるからである。」
224ぺーじから226ぺーじ。219b9-219b34〔「それ」を きょうちょうしている。〕を みっつ いれた。

226ぺーじから228ぺーじ

「そして、もしも時間が存在しなければ、「今」も存在しないだろうし、また「今」が存在しなければ、時間もまた存在しないであろうということは、明らかである。場所移動しつつあるものと場所移動変化とが同時並存関係にあるのとちょうど同じように、場所移動しつつあるものの数と場所移動変化の数とが同時並存するからである。なぜなら、場所移動変化に随伴する数が時間であり、「今」は場所移動しつつあるものに相当するもの、いわば数の単位としての「一」のようなものである。さらにまた、時間は「今」によって連続一体化しているとともに、それが分断されているのも「今」においてである。なぜなら、このことは場所移動変化と場所移動しつつあるものとの官営にも呼応しているからである。すなわち、運動変化や場所移動変化が一つのものとして成立しているのは場所移動しつつあるもの、それがひとつのものであるからのことであるが(もっとも。その事物の本来のあり方として一つであるからということによるのではなく――それは間歇〔るび:かんんけつ〕的に運動変化することもありうるのだから――「場所移動しつつあるもの」という説明規定において一つということによるのだが)、またその事物が、運動を前・後に区分しもするのである。すなわち、点は一方側のものの始点であるとともに、もう一方側のものの終点ともなっているのである。しかし、一つの点を二つのものとして、このような捉え方をすると、同じ一つの点が始点でもあり終点でもあるということになれば、そこで立ち止まらなければならない。ところが「今」のほうは、場所移動しつつあるものが運動変化していることによって、たえず異なってものになっていくのである。」
226ぺーじ から 228ぺーじ、 220a1-220a14
るびを 〔るび:かんけつ〕とあらわした。

228ぺーじ

「したがって、時間は数であるが、それは同一の点が始点であり終点でもあることによって、その点が数えられるという意味で数であるのとは違う仕方においてであり、むしろ線分の両端が数であるような仕方においてのものである。——そしてまた、線分の部分が数えられるという意味での数のような仕方においてでもない。その理由はすでに述べられたとおりのものであり(すなわち、線分の中間部の点を二つのものとして扱うことで、そこで立ち止まることになるだろうからである)、さらには、「今」が時間の部分をなすものではないのと同じことである。なぜなら、一つの線分の部分とは二つの線分のことだからである。
とすれば、「今」は、それが境界であるかぎりにおいては、時間ではなく、時間に付帯しているだけのものであるが、時間を数えるものとしての観点からすれば、それは数である。なぜなら、境界は、それが境界づけているところのその当のものに属しているのであるが、数は、たとえばここにいる馬の数である「一〇」は、それとともにまた他のところにも充てられるからである。
さて、したがって、時間とは「より先・より後」という観点における、運動変化の数であること、そしてそれが連続一体的なものであること(連続一体的なもの(運動変化)に付帯した存在であるのだから)は、明らかである。」
228ぺーじ、220a15-28

232ぺーじ から 233ぺーじ

「そして、「時間のうちにある」というのは「数のうちにある」というのも同然であるとすれば、時間のうちに存在するすべていかなるものよりもより大きい何らかの時間が想定されるであろう。それゆえ、時間のうちにあるものはすべて必然的に時間によって包括されるのであり、それはちょうど、たとえば場所のうちにあるものはすべて必然的に時間によって包括されるのであり、それはちょうど、たとえば場所のうちにあるものが場所によって包括されるように、何らかのうちにある他のさまざまなものがそうであるのと同様である。そして、それらのものが時間によるあれこれの作用を受けることは、ちょうどわれわれが「時が消し去る」とか「すべては時によって老いる」とか「時の経過ゆえに忘れ去られる」とか言い習わしているとおりである、ただし、時の経過のゆえに十分に学んだとは言わないし、若くなったとも、美しくなったとも言いはしない。というのも、時間はそれ自体としてむしろ消滅の原因だからである。なぜなら、時間は運動変化の数であり、運動変化はものの現状を逸脱の方向に向かわせるからである。」
232ぺーじ から 233ぺーじ 221a28-32, 221b1-3

244ぺーじ

「ところで、場所移動変化というものんがあり、その一つに円環状になされるものがあるということ、そして個々のものごとはいずれもそれぞれ同属の何か一つのものによって、たとえば、数的単位としての一の集合体は数的単位としての一によって、馬たちは馬によって数えられ、時間もまた同様にある一定の画定された時間を基準にして数えられるということ、また、われわれがすでに述べたように、時間は運動変化を基準にして、運動変化は時間を基準にして測られるということ(それというのは、時間を基準にして画定された運動変化によって、運動変化の量も測られるからである)——こうしたことを踏まえると、もし第一のものがそれと同属のすべてのものの尺度となるとすれば、均等一様なあり方を保つ円環運動こそが、とりわけてすぐれてそれである。その運動の数が最もよく認知しうるものだからである。」
244ぺーじ から 245ぺーじ、223b13-b20

「そして、性質変化や増大成長や生成は均等一様ではないが、場所移動変化は均等一様でありうる。それゆえに、天球の運動変化が時間であると考えられもするのである。すなわち、天球の運動変化を基準にして他の運動変化が測られ、時間もまた天球の運動変化を基準にして測られるからである。またそのために、次のように言い習わされることともなっている。すなわち、人のなせるものごとは円環を描いて巡り、またその他の自然的な運動変化や生成や消滅の過程にある諸事物に起こる事柄も円環をなしている、と広く一般に言われているのである。このように言われるのは、それらすべてのものごとは時間を基準にして判定されるのだが、その始めと終わりを周期的円環に沿うようにして定めるからである。それというのも、時間そのものがある種の円環をなすものと考えられているからである。時間がそのように考えられるのは、そのさらなる理由として、時間が円環的な場所移動運動の尺度であるとともに、当の時間そのものがそうした運動変化によって測られているからである。したがって、諸事物の生成過程が円環をなしていると語ることは、時間には何らかの円環性があると語ることにほかならない、ということになる。それはすなわち、時間が円環運動を基準にして測られる、ということである。なぜなら、測られるものには、測る尺度となるもの以外のいかなるものもあるようには見えず、ただその全体が尺度となるものの複数分であることが見て取れるだけである。」
245ぺーじ から 246ぺーじ、223b21-34, 224a1-2

だいごかん

263ぺーじ

「さらには、本来は運動変化するようになっていて、またそうすることもできるのだが、しかし本来運動変化するべきときに、運動変化するべき場所にありながら、しかるべき仕方では運動変化していないものものあり、それら三様の「運動変化しないもの」のうちで、ただこの第三のものだけを「静止している」とわたしは呼ぶのである。静止は運動変化と対立相反関係にあり、したがってそれは、運動変化を受け容れるものにおける、その欠如態だからである。」
263ぺーじ、226b14−18

284ぺーじ

「ここで困難な問題となるのは、すべての永遠的ならざる静止に生成過程はあるのか、またこの生成過程とは停止の過程のことなのか、ということである。もしそうだとすれば、自然本性に反して静止しているもの、たとえば上方(静止している土にも〔静止への〕生成過程があることになろう。すると上方へ強制によって場所移動していたときには、停止の過程にあったのである。しかし、〔自然本性的な〕停止の過程にあるものは、たえずよりいっそう速やかに場所移動するが(10)、強制による場合らそれと反対にたえずよりいっそう緩やかに場所移動するように思われる。とすれば、後者の場合は、静止しているものになる(生成する)という過程なしに、静止しているものとしてあることになろう。さらにまた、停止するという事態は、総じてそれぞれのものに本来固有の場所へと移動すること、あるいはそれに伴って同時に生ずることであるように思われる。」
284ぺーじ、231b23-28、やくちゅう(10)

「たとえば中心に向かって落下する土は次第により高速度で落下し、上方にむかう火は次第により高速度で上昇すると想定されていた。」
だいごかん、だいろくしょう、やくちゅう10、285ぺーじ

ありすとてれすは しぜんほんせいに はんした せいしの せいせい、せいしへの かていを みとめらいと やくちゅう11に かいてあった。

だいろくかん

289ぺーじ

だいろくかん、だいいっしょう、やくちゅう2
ぶぶんと おおきさが ある ものが ぶんかつかのうな もの。

289ぺーじ

「またしかし、点が点に、あるいは「今」が「今」に相次いであることはないだろうから、これらから長さや時間が成立することはない。「相次いで」とは、ものとものとの中間に「類」を同じくするものが何 もないことであるが、点同士の中間には線分が、「今」同士の中間には時間が常に存するからでたる。さらに、〔もし長さや時間が相次いであるものから成るとしたら〕線と時間がそれぞれにそれら〔「それら」が きょうちょうされている。〕から成るその元のものへと分割されるのであれば、線も時間も分割不可能なものへと分割されることになろうが、連続一体的なものは何一つとして、部分を持たないものにまで分割されることがそもそなかったのである。」
289ぺーじ、231b8-13

290ぺーじ

おおきさと じかんと うんどうへんかは ぶんかつふかのうに ついては おなじぎろんが できる。

316ぺーじ

ここらへんの ぎろんが わかっていない。

318ぺーじ

「したがって、変化が行われる時間や経路には、これが直接第一というものはありえないのである。」
318ぺーじ、237b23−24


ここに きたかったの か!


323ぺーじから 324ぺーじ

「さて、自然本性的に運動変化したり静止したりするものはすべて、本来そうあるべきときに、そうあるべき所で、そうあるべき仕方で、運動変化しているか、あるいは静止状態にあるかのいずれかであるからには、停止するものは、それが停止しつつあるときには、必然的に運動変化していなければならない。なぜなら、もし運動変化していなければ、静止していることになろうが、しかし静止状態にあるものが静止する〔「する」を きょうちょうしている〕ことはできないからである。」
323ぺーじから 324ぺーじ、238b24ー28〔「する」を きょうちょうしている〕を いれた。

327ぺーじ

「いま」は、 じかんの きょうかい。
いま に おいては たいおうした いちは あっても、 うんどうへんかも せいしも ありえない。

332ぺーじ

えん、きゅう
「一般にそのもの自身において運動変化しているもの」(332ぺーじ)

だいななかん

だいななかん だいいっしょう やくちゅう7

345ぺーじ
「欲求対象が精神(魂)を動かすという場合(『形而上学』Λ巻第七章1027a26およびb3参照)」

354ぺーじ から 355ぺーじ

「また、それのみならず、身体に具わった状態も魂に具わった状態も、性質変化ではない。なぜなら、具わった状態が優秀であったり劣悪だったりはするが、優秀さ(徳)も劣悪さ(悪徳)も性質変化ではありえず、優秀さとはしかるべき完成状態であり(自らの優秀さを獲得したとき、それぞれのものは完全であると言われるのであるーーすなわち、そのとき最もよく自然本性に適っているのであるーー、たとえば円形が完全なものであるのは、最もよく円形をなし、最もすぐれた円形をなしたときである、というように)、劣悪さとはそうしたあり方の崩壊であり、逸脱にほかならないからである。しかし、家が完成することをわれわれは性質変化とは言わないように(というのも、笠石〔るび :かさいし〕や屋根瓦が性質変化であったり、あるいは、笠石が積まれたり瓦が葺かれたりすることで家が完成されるのではなくて性質変化するのだとしたら、それはそぐわないことであるから)、優秀さと劣悪さについて、それらを保持したり獲得したりする場合についても、それと同様に、その一方は完成、他方は逸脱であって、したがって性質変化ではないのである。」
354ぺーじ、245a10ー20、246b1−2

「さらにまた、優秀さとはすべてあるものとの関係において何らかのありようをしていることである、とわれわれは言う。すなわち、たとえば健康とか頑健さといった身体の優秀さとは、われわれの解するところでは、熱いものと冷たいものとの混和と均衡のとれたあり方であり、身体内にあるそれらのもの同士の相互関係において、あるいは周辺環境との関係において混和と均衡のとれたあり方のことである。また、身体の美しさや強さその他の優秀さ、そして劣悪さをも、われわれは同様の仕方で解している。そうしたものはそれぞれがあるものとの関係において何らかのありようをしていて、ものに固有の様態に関して、それらを保持するものをよい状態にしたり悪しき状態にしたりするのである。ここで「固有の様態」というのは、それらのありよう次第でものが生成したり消滅したりすることになる様態のことである。」
354ぺーじ から 355ぺーじ、246b3ー11

355ぺーじ

「なぜなら、それぞれの状態が劣悪と言われ、優秀と言われるのは、その状態にあるものが本来的にそれら〔「それら」を きょうちょうしている〕から性質変化を受けるようになっているところのものについてなのである。すなわち、優秀さはある状態にあるものが作用を受けないものにするか、特定のしかるべき仕方での作用を受けるものとし、劣悪さは作用を受けるものにするか、優秀さの場合とは、反対にしかるべき仕方での作用を受けることのないものにするのである。」
355ぺーじ、 24617-22、〔「それら」を きょうちょうしている〕を そうにゅうした。

356ぺーじ

「魂に具わった諸状態についても事は同様である。すなわち、その諸状態はいずれとすべてあるものとの関係において何らかのありようをしていて、その優秀さとは完全な状態であり、劣悪さとはその状態からの逸脱である。さらにまた、優秀さはそれぞれのものに固有の受動的性状に関してすぐれた状態を整え、劣悪さは悪しき状態をもたらす。したがって、これらもまた性質変化ではないし、さらにはこれらの逸失や獲得も、やはり性質変化ではありえないのである。もっとも、それから生ずるのには、魂の感覚能力を持った部分が変化することがなければならない。その部分は感覚されうるものによって性質変化させられるだろうからである。というのも、倫理的な優秀さ(徳)はすべて身体的な快楽と苦痛に関わっているが、快苦は行為や記憶や期待のうちに存するからである。そして、行為における快苦は感覚に即応していて、したがって感覚されうる何らかのものによって発動するようになっているし、記憶や期待における快苦はそれから派生している。なぜなら、以前に身に受けたものごとを思い出したり、将来ありそうなことを期待したりすることで喜びを覚えるからである。したがって、こうした類〔るび:たぐい〕の快楽はすべて感覚されうるものによってもたらされるのが必然である。さて、快楽と苦痛がわれわれのうちに生ずることによって、倫理的な優秀さも劣悪さも生じ(それらは快苦に関わるものだから)、快楽も苦痛も魂の感覚能力を持った部分の性質変化であるからには、倫理的な優秀さや劣悪さを逸失したり獲得したりするのは、何らかのものが性質変化することによるのでなければならない。したがって、そうした状態の成立は性質変化を伴うものではあるが、それら自体は性質変化ではないのである。」
356ぺーじ、247a1-17
〔るび:たぐい〕と かいた。

「なぜなら、われわれの思考活動が静止し、停止すること(ステーナイ)をもって、われわれは認識に至った(エピスタスタイ)、思慮を働かせたと言われるのだが、静止状態に向かう生成などありはしない」
357ぺーじ、247b11−13

「というのも、魂が自然的な動揺から平穏な状態になる(かティスタスタイ)ことによって、人は思慮ある者となり、知識ある者となるからである。子供が年長者と同等にものを学び知ることもできず、感覚によって判別することもできないのは、そのためである。子供の魂は揺動も運動変化も激しいからである。魂が平静な状態になり静止状態になるのは、あるものごとに対しては魂の自然本性によってであり、あるものごとに対してはそれ以外の要因によってであるが、そのいずれの場合にあっても、身体内の何らかのものが性質変化するのであって、そのことは素面〔るび:しらふ〕に戻ったり眠りから覚めたりしたときの、知識の行使やその活動実現態についの場合と同様である。」
358ぺーじ、247b17ー18、248a1−5

だいはちかん

372ぺーじ

うんどうへんか、

「それは生成したり消滅したりすることがなく、常にあったし、また常にありつづけるものであり、不死にして止むことのないものとして、存在するものに具わっているのであって、あたかも何か生命に類したものが自然によって形成されたもののすべてに具わっているようなものなのか。」
372ぺーじ、250b12ー15

やくちゅういち
せいぶつに たいする じこうんどうげんいん としての せいめいりょくと おなじように、 しぜんてきじぶつに たいする うんどうへんかを かんがえられるか? という ぎもん。

おもしろい。
せいめいが せつめいする ための ことばとして つかわれる。

374ぺーじ

「運動変化とは運動変化しうるものの、運動変化しうるものであるかぎりにおける活動実現態である。」
374ぺーじ、251a10−11

377ぺーじ

ぷらとん だけ、 じかんは せいせい すると いっているが、 ふつーは、 じかんは つねにあると かんがえる。

「ところで、「今」なしには時間が存在することも、時間を考えることもできないとすると、そして「今」は中間に類するものであって、始まりと終わりとを共に持っている、すなわち来たらんとする時間の始まりと過ぎ去った時間の終わりとを共に持っているとすると、必然的に時間は常に存在しなければならない。なぜなら、これが最終と見なされた時間域の末端は一連の「今」のどれか一つのうちにあるだろうが(時間において捉えられるものは「今」以外に何もないのだから)、すると「今」は始まりであるとともに終わりでもあるからには、必ずやその当の「今」の両側にいつでも時間が存在しなければならない。そこでしかし、もし時間が存在するのであれば、時間とは運動変化の様態の一つである以上、必ずや運動変化もまた存在しなければならない。」
377ぺーじ から 378ぺーじ、251b20ーb28

379ぺーじ

「自然本性は万物にとって秩序の原因にほかならないからである。そして、無限のものは無限のものに対していかなる「比」も有さないが、秩序はすべて「比」をなしている。」
379ぺーじ、252a13−14

382ぺーじ

「というのも、ときにわれわれのうちに何らかの運動変化も内在しないで、ただじっと静かにしていても、それでもわれわれはいつかあるとき運動変化することになるからで、何かが外部から運動変化を引き起こそうとしなくても、運動変化の始原がわれわれの自身の内部から、われわれのうちに生じてくるのである。」
382ぺーじ、252b18−21

394ぺーじ

みずからによって うんどうへんかする いきもの
みずからを とめる ことも できる。

おわり

ふどうの どうしゃの はなしで おわるのは、 ありすとてれすっぽい。
おわり。

せいれき 2021ねん 5がつ 29にち
かくめいれき 229ねん 9がつ 10にち。

ばでぃうの にーちぇ1-1、 どくしょかいの まえ

1-1

I
18 NOVEMBRE 1992
Le vecteur de ce séminaire sera Nietzsche.
Ce qui s’impose à moi à la seule évocation de ce nom, ce qui me
vient le plus immédiatement à l’esprit, c’est… la perplexité. Oui !
Prenons nos précautions, prenons notre temps. Sans une patiente
stratégie autour de la méthode, des enjeux et des difficultés pour
cerner la complexité de la visée, peut-­être serions-­nous facilement
égarés en cette traversée de Nietzsche. Aussi l’aborderons-­nous
avec trois objectifs qui, pour n’être pas immédiatement superpo‑
sables, n’en sont pas moins liés. Lesquels sont :

1992年11月18日 第一回講義
この講義の方向付を担うのは、ニーチェでありましょう。私に対して、このニーチェという名によってただ一つ喚起させるもの、私の心に最も直接到来するもの、それはまさに!当惑です。慎重を期し、時間をかけましょう。(ニーチェという)狙う先の複雑さを枠付けるための方法や様々な賭けや困難さに関わる忍耐強い戦略がなければ、ややもすると我々は容易にニーチェを辿るこの道に迷ってしまうかもしれないでしょう。同時に我々は三つの目標をもってその道を辿ろうと思いますが、その三つの目標は直接的に重複しない程度にはゆるく結びついています。それは次のようなことです。

Le vecteur de ce séminaire sera Nietzsche.

  • Le vecteur べくとる、ちゅうかいやく、” E. − Au fig. Ce qui transmet quelque chose. Synon. véhicule.”

Ce qui s’impose à moi à la seule évocation de ce nom, ce qui me

私に対して、このニーチェという名によってただ一つ喚起させるもの、

  • s’impose ひつようである、ふかけつである、はばをきかせる、みとめられる ”− Emploi pronom. passif. Être nécessaire. Prendre les mesures qui s'imposent. Plus une tâche est difficile, plus aussi elle s'impose à des consciences comme les nôtres (Gobineau, Pléiades,1874, p. 99).”
  • évocation そうき、かんき、おもいだす ”3. [Le déterminé désigne une réalité ne se rapportant pas au passé] Fait de rendre (quelque chose) présent à l'esprit (de quelqu'un) par ses propos. L'évocation d'une idée, d'une image. ”

vient le plus immédiatement à l’esprit, c’est… la perplexité. Oui !

  • la perplexité とうわく、こんわく

complexitéとの つながり

Sans une patiente stratégie autour de la méthode, des enjeux et des difficultés pour

忍耐強い戦略がなければ

  • patientは なぜ まえに あるのか? こんき、ねばりづよい (かけひき、さくせん)

2. [P. méton. du subst.] Analyse, oeuvre, exploration, observation patiente; travail patient. Leurs reins forcés, tournés depuis longtemps par les patientes et rudes besognes (Maupass.,Contes et nouv.,t.2, Bapt., 1884, p.45).La sape patiente des fonctionnaires entamait le granit breton (Vogüé,Morts,1899, p.135):
5. «Seize piasses par mois, se disait-elle. Y a pas moyen. On n'arrivera pas». Pourtant, elle recommençait de patients calculs. Elle portait dans sa tête, Rose-Anna, le chiffre exact de leur petit revenu composé surtout des payes de Florentine. Roy,Bonheur occas.,1945, p.117.

stratégie autour de la méthode, des enjeux et des difficultés pour

(ニーチェという)狙う先の複雑さを枠付けるための方法や様々な賭けや困難さに関わる忍耐強い戦略がなければ、ややもすると我々は容易にニーチェを辿るこの道に迷ってしまうかもしれないでしょう。

  • enjeuを なんと やくすか? という もんだい。

un enjeu かけきん、かけられているものを なんと やくす べきか?
じぶんは、 いつも 「もんだい」とか 「だいじに なるもの」と やくす。

cerner la complexité de la visée, peut-­être serions-­nous facilement

(ニーチェという)狙う先の複雑さを枠付けるための方法や様々な賭けや困難さに関わる忍耐強い戦略がなければ、ややもすると我々は容易にニーチェを辿るこの道に迷ってしまうかもしれないでしょう。

  • cerner ほういする、りんかくをはっきりさせる、くまなくながめる、てんけんする、はんいをさだめる

わくづけるは、いみが わかる。
でも、 visée という ぐんたい てきな ことばが つかわれている から、 「ふくざつさを とりかこむ」 という やくは どうだろうか?

peut-­être serions-­nous facilement égarés en cette traversée de Nietzsche.

ややもすると我々は容易にニーチェを辿るこの道に迷ってしまうかもしれないでしょう。

  • 「よこぎるに あたって、 みちに まよってしまう かもしれない でしょう。」

「たどる この みちに まよう」という ひょうげんには、 あまり なじみが なかった。
「みちに まよう」とは いう けれど、 「この みちに まよう」と じぶんは いわない きがする。
traverséeの よこぎる いめーじを しめしたい。

  • une traversée

1 うみや かわを わたる こと、航海、渡河
2おうだん、つうか
3やまごえきょうそう
4 traversée de voie てつどうの にほんの せんろの こうさてん

Aussi l’aborderons-­nous avec trois objectifs qui, pour n’être pas immédiatement superposables, n’en sont pas moins liés.

同時に我々は三つの目標をもってその道を辿ろうと思いますが、その三つの目標は直接的に重複しない程度にはゆるく結びついています

  • aborder ちかずく、 とりくむ

「たどる」 うまい。
(しかし、 lは Nietzscheか la viséeだと おもう。
うえを「よこぎるに あたって、 みちに まよってしまう かもしれない でしょう。」と かえると、
「同時に我々は三つの目標をもってちかづこうと思いますが」 は どうだろう?

  • じょうほの pour 「にもかかわらず」

(Pour être riche, il n'en est pas plus heureux. かれはかねもちだがこうふくではない)

  • superposables かさなりあう

objectifsとか visée とかの ほんとうに すすんでいく ような ひゆ として かいてある から、
「その三つの目標は直接的には かさなり あわないにも かかわらず、だからといって むすびついていない わけでは ありません。」

  • だからといって わけではない n’en sont pas moins

1-2

– Pour commencer, tenter de dégager la stature du texte
nietzschéen. D’en questionner l’essence philosophique : En
quel sens Nietzsche est-­il philosophe ? Et l’est-­il ? On pourrait
d’ailleurs poser la question à l’envers : Que doit être la phi‑
losophie pour qu’on puisse déclarer Nietzsche philosophe ?
Ou encore : Si Nietzsche est un philosophe, quelles consé‑
quences s’en tirent pour la philosophie ? C’est une question
très complexe, parce que, à la fois, Nietzsche en revendique
l’identité ou le statut dans de nombreux passages, et dans de
nombreux autres il s’en distancie radicalement. Ici, il indique
ce qu’est le vrai philosophe et là, il soutient qu’en réalité, le
philosophe a toujours été un prêtre masqué, caché. De là ce
que j’appellerais l’interrogation topique : De quel lieu pro‑
cède, d’où s’énonce, le texte nietzschéen ?
13

はじめに、ニーチェ主義的テクストからあるスケールを引き出そうと試みることです。そうすることで、哲学的本質を問うことです。すなわち、ニーチェはいかなる意味において哲学者なのでしょうか?そしてニーチェは哲学者でしょうか?さらに、反対に次のように尋ねることも可能でしょう。すなわち、ニーチェが哲学者であるとはっきり言われるためには、哲学はいかにあるべきでしょうか?あるいは、次のような問いも可能でしょう。すなわち、ニーチェが哲学者であるならば、いかなる首尾一貫性が哲学にとってうまく働くのでしょうか?それはとても複雑な問いです。というのも、ニーチェは多くの断章において、哲学に関して同一性や規定を求めると同時に、別の断章では哲学から根源的に距離を取るからです。一方でニーチェは本当の哲学者であるものについて示し、もう一方でニーチェが根拠付けるのは、実際のところ哲学者は常に仮面をかぶって隠れた僧侶であった、ということなのです。以上のことから、私が主題として提示しようとするのは次のことです。すなわち、ニーチェ主義的テクストはどこから生成し、またどこで表現されているのでしょうか?

la stature しんちょう、せたけ、ひとのすけーる、いだいさ
nietzschéen
D’en questionner l’essence philosophique 「そうすることで、 」 にーちぇの/いだいさ
哲学はいかにあるべき
s’en tirent やりとげる、きりぬける、
pour la philosophie ニーチェが哲学者であるならば、
revendiquer じぶんのものであることを しゅちょうする、せきにんなどをおおう、ひきうける、けんりとしてもとめる
le statut 規定
こんげんてき
ほんとうの てつがくしゃは なんであるか
soutenir しゅちょうする
De là ce que j’appellerais l’interrogation topique よぶ、 ちょくせつもくてきほご
topiqueかくしんをついた、 てきせつな
procéder de から しょうじる、おこる、はっする
s’énonce ひょうげんされる

– Ensuite, se demander dans quelle mesure le siècle a été
nietzschéen. Ce serait alors l’interrogation historique : Y a-­t‑il
eu de manière essentielle quelque chose de nietzschéen dans le
siècle ? Question que se sont posés certains dans un ouvrage
collectif intitulé : Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens !
Un livre qui a fait grand bruit. Compte tenu de ce qu’ils
sont, c’est une question que personne ne leur posait ! Mais
enfin, ils ont trouvé nécessaire d’y répondre, et de dire, avec
un certain fracas, pourquoi ils ne l’étaient pas. Et ne pas l’être
supposait évidemment leur retrait d’un nietzschéisme général
auquel ils faisaient une glorieuse exception. À voir avec quelle
fermeté ce groupe énonce pourquoi ils ne le sont pas, la pre‑
mière idée qu’on a, c’est… que peut-­être on doit l’être. Et
je le suis ! J’ai eu l’édifiante surprise de me découvrir, volens
nolens, nietzschéen. Leur geste a, je dois le dire, accéléré la
nécessité d’aller voir d’un peu plus près en quel sens le visage
du monde et la dimension de la pensée de ce siècle avaient
reçu une touche nietzschéenne.
À l’opposé de cette farce, le très beau livre de Sarah Kofman
Explosion I restitue ou institue l’essentiel et le contemporain
de la question de Nietzsche. C’est une analyse attentive de
Ecce Homo, presque un commentaire perpétuel, paragraphe
par paragraphe, ligne à ligne à vrai dire, une livrée généreuse
et pénétrée d’une hauteur à prendre : Que peut-­on penser
sous l’idée que quelque chose du siècle a été nietzschéen, et
qu’il faudrait soit en reformuler la disposition, soit s’y oppo
ser de quelque manière ?
Sur notre chemin aussi nous croiserons Heidegger et Deleuze
dans leur prise de position à l’égard de cette question. L’un,
par les cours qu’il a donnés entre 1936 et 1946 que refaçonne
le texte référentiel que sont les deux énormes volumes parus
chez Gallimard, Nietzsche I et II. Par ce texte admirable aussi,
entre autres allusions textuelles à Nietzsche, intitulé : Qui est le
Zarathoustra de Nietzsche ? Et l’autre, par son livre Nietzsche et
NIETZSCHE
14
la philosophie. De Heidegger à Deleuze, de l’interprétation de
l’un à la reconstruction de l’autre, se dessinera, me semble-­t‑il,
une sorte d’arche ou d’écart maximal autour de la question de
la contemporanéité de Nietzsche.

ばでぃうの すいいてき そんざいろん

じぶんの ための めも です。
どくしょ めも。
ばでぃうの すいいてき・そんざいろん(『推移的存在論』、こんどう・かずのり、まつい・ひさし やく、せいれき 2018ねん、水声社(すいせいしゃ))を よむ ときの めも です。
http://www.suiseisha.net/blog/?p=9985

推移的存在論
アラン・バディウ(著)
近藤和敬+松井久(訳)

判型:四六判上製
頁数:251頁
定価:3000円+税
ISBN:978-4-8010-0384-2 C0010
装幀:宗利淳一
12月14日頃発売!
存在論とは数学である。
「神は死んだ」――もはや宗教の神に出会うのでもなく、形而上学の原理の下に隠すのでもなく、ロマン主義のメランコリーに賭けるのでもなく、存在を思考することはいかにして可能となるのか。主著『存在と出来事』のエッセンスから出発して、集合論圏論を携えてプラトンからカントまでを一挙に横断し、数学=存在論を宣言したバディウ哲学の転回点!

《わたしが「推移的存在論」と呼ぶのは、存在としての存在の学、つまり純粋な多の理論と、現れの学、つまり実際に現前した諸々の宇宙の一貫性の論理とのあいだで折り開かれる存在論のことである。》

【目次】
プロローグ 神は死んだ
第1章 今日の存在の問題
第2章 数学とは思考である
第3章 超限‐存在としての出来事
第4章 ドゥルーズの生気論的存在論
第5章 スピノザの閉じた存在論
第6章 プラトン主義と数学的存在論
第7章 アリストテレス的方向づけと論理学
第8章 論理学、哲学、「言語論的転回」
第9章 トポス概念についての初等的注解
第10章 論理学についての初等的な暫定的テーゼ
第11章 数の存在
第12章 カントの減算的存在論
第13章 群、カテゴリー、主体
第14章 存在と現れ

【著者について】
アラン・バディウ(Alain Badiou)
1937年、モロッコのラバトに生まれる。哲学者、作家。主な著書に、『存在と出来事』(L’Être et l’événement, Seuil, 1988)、『世界の論理』(Logique des mondes. L’être et l’événement, 2, Seuil, 2006)、『真理の内在性』(L’Immanence des vérités. L’être et l’événement, 3, Fayard, 2018)、『コミュニズムの仮説』(市川崇訳、2013年)、『議論して何になるのか』(共著、的場寿光・杉浦順子訳、2018年、いずれも水声社)などがある。

【訳者について】
近藤和敬(こんどうかずのり)
1979年、兵庫県に生まれ、福井県で育つ。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得退学。現在、鹿児島大学法文学部准教授。専攻、哲学・哲学史。主な著書に、『カヴァイエス研究』(月曜社、2011年)、『数学的経験の哲学 エピステモロジーの冒険』(青土社、2013年)、主な訳書に、ジャン・カヴァイエス『論理学と学知の理論について』(月曜社、2013年)などがある。
松井久(まついひさし)
1972年、大阪府に生まれる。パリ・ナンテール大学博士課程修了(哲学)。現在、法政大学兼任講師。専攻、生命科学の哲学、生命科学史。主な訳書に、アンリ・ベルクソン『創造的進化』(共訳、筑摩書房、2010年)がある。

まるかっこ()の なかの すうじは、 にほんごやくの ぺーじの かず です。

ぷろろーぐ かみは しんだ

かみを みっつに わける。
しゅうきょうの かみ。 しんだ(16)。ともに いきる かみ(17)。 であいに よって いきる(21)。いきる いみを ほしょうする(19)。あいとう される(25)。
けいじじょうがくの かみ。 げんりとしての かみ(24)。しょうめいに よって ある(21)。しんじつの いみを ほしょうする(19)。ぜんたいせいの ひはんに よって だつこうちく される(24)。
ぽてむの かみ。しじん(詩人)たちの かみ(24)。ひきこもって(もどって) しまった かみ(24)。うしなわれたが もどってくる かもしれない。 のすたるじっくな めらんこりー。
げんだいの むしんろんは やくそくを しない(25-26)。
ありのままを みとめる ぽえむが ぽえむの かみを しなせる(27)。
しぬ こと などの ゆうぜんせいの はなしを ちゅうしんに する ことを やめる べき である(26)。

「あらゆる状況の運命は集合の無限なる多性にあり、いかなる深みも決してそこでは確立されず、多の等質性が強度の戯れにたいして存在論的に勝る。したがって、わたしたちはあらゆる有限性から錨を引き上げ、わたしたちの絶対的なフラットなすみかとしての無限へと住みつくのだ。こうして、出来事の廻り合わせhazardによって何らかの真理がその軌跡の終わりなき無限性にそってわたしたちを連れ去るときも、意味の探求はわたしたちにとってこの無限性の単なる数値化に、つまりペソアの別の変名であるアルヴァロ・デ・カンポスが存在の数学と呼んだものに還元されるのである。」
(28)<<

だいいっしょう こんにちの そんざいの もんだい

かぎかっこは いんよう では ない。

けいじじょうがく

はいでがー「てつがくは ある とは どういう ことか という といを わすれていった。」
(なにかが ある とき、 なにかが なに であるか という ことを もんだいに して、 ある とは どのような ことかを もんだいに しなくなった という こと。 )
はいでがーに とっての ひきこもって(もどって)しまった ある という ことの けいじじょうがく とは なにか?
ぷらとん「おおいを とる という しんじつは、 かんがえられる ものが あらわれる うごかない ひとつ という ほんしつ である いであ である。なにで あるかを あきらかに する ことが もんだいだ。」
はいでがー「ひとつ という いであに、 いろいろな なにかを まとめる きはん てきな ありかた(せんせいりょく) に よって、 ある という ことが それじたいに かえってくる ことが できなくなった。」
(せんせいりょくは げんせいりょくと くらべられる、 せんせいりょくは ありかた であり、 げんせいりょくは げんじつ である。いであは げんじつ としては あらわれないが、 かならず げんじつに そなわっている えねるぎーと かんがえられる。)
はいでがー『にーちぇ』 だいにかん、 「形而上学としての存在の歴史の計画」

「かくしして一が規範的な仕方で存在を決定するがゆえに、存在は共通なものに、つまり空虚な一般性に還元されるのであり、存在は存在者の形而上学的な優越を耐え忍ばなければならなくなる。」(34)

ばでぃう「けいじじょうがくは、 いちに よる ある という ことの そうかりたてたいせい(総かりたて体制) である。」(34)
(りんけん(臨検)と やくされている arraisonnementは はいでがーの かんがえた ことば である Gestell(げしゅてる)の やく として つかわれている。https://fr.wiktionary.org/wiki/arraisonnement。 ぎじゅつが しはいてきに なると、 せかいを どう かんがえるかが かわる。 げんだいの ぎじゅつは、ある という こと から えねるぎーを かきあつめる ように、 ある という こと を から かきたてて かりたてる。ある という ことを ひとつ であると かんがえる ことで、ある という ことを ひとつ という ありかたに かえてしまう ことが けいじじょうがく であると いっている はず である。)

ライプニッツにとって一と存在とは互いに置換し得る概念であって(cf. G. II. p. 97)、「真に一つの〔「一つの」を きょうちょうしている。〕存在ではないものは、真に一つの存在〔「存在」を きょうちょうしている〕ではない」(ibid.)からである。
C. I. Gerhardt, Die philosophischen Schriften von Gottfrind Wilhelm Leibniz, 7 Bde, Olms, 1950.
石川満(いしかわ・みつる)「ライプニッツによる物体的実体の一性について」、24ぺーじ。

ある という ことを いちから はなす

ばでぃうの しゅっぱつてんは つぎの ものだ。

「存在を一の封印から解放し、一による存在の形而上学的な臨検を中断しつつも、だからといってハイデガー的な運命なるものに身を投じないこと、つまり救済者の帰還という根拠なき約束へと思考をゆだねないことは可能であるのか」
(35)

はいでがー「けいじじょうがくは かみだけが わたしたちを すくうことが できる という しらせ(けいじ(啓示))と むすびついている。」
ばでぃう「ならば うんめいも やめよう。」

ばでぃう「はいでがーも 『形而上学入門』で けいじじょうがくの いち という きはんが ひろがり くらがりが できると いっている。 しかし、どうじに てつがくに よって あかるくも なる。」

「神々の逃走は、人間によって神々に認められた有益な退場でもある。大地の破壊は、能動的思考に一致する大地の整備でもある。人間が群れをなすことは、大衆が歴史の舞台に平等主義的に介入するということでもある。そして凡庸なものの優位はマラルメが制限された行動と呼んだものの輝き、濃度でもある。」
(36)

(はいでがーが だいちの くらがり として かいた、神々の逃走、大地の破壊、人間が群れをなす、凡庸なものの優位を ばでぃうは あかるみ でも あると えがいている。 じゅんに、 しゅうきょう、てつがく(いきること)、せいじ、ぽえむに たいおうしている。)
(まらるめは せいれき 1842ねん から せいれき 1898ねん までの ふらんすごで かいた しじん である。
西川直子(にしかわ・なおこ)「大衆から〈白〉へ(その二)——マラルメ散文詩にみる大衆像」、せいれき 2012ねん、 7-8ぺーじ。

f:id:hunihunisaito:20210404210836p:plain
まらるめの かくことの あなーきずむ
f:id:hunihunisaito:20210404210737p:plain
まらるめの 「せいげんされた こうどう」

ぼんよう という のは、 かく という ことが、 はっきり とした せいじてきな こうどうに ならない という ぼんようさの あらわれ であると ばでぃうは むすびつけたの だろう。)

ばでぃうの かだい

ばでぃうの かだいは つぎの もの である。

「いかにして思考は存在から一の支配を減算するための常に変わらぬ努力をそれ自体で示すことができるのか。」
(36)

(249ぺーじに 減算する とは、 (se) soustaireの にほんごやくで あると やくした もの たちが いっている。のがれる、さしひく、めんじょする、ひきざんする とも やくせるが、 めいやすーの 「減算」 という やくと あわせた らしい。

「概念としての「一」なるものを引き算する」
(249)

ぱるめにです(「あるは ある。 あらないは ない。」)
でもくりとす「くうが あり、 ふくすうの ものが ある。」(げんしろん)

はいでがー「うんめい」
るくれてぃうす「うんめいから のがれよう。 かみ とかに たすけを もとめず、 ふくすうの たしかな ありかたを みよう。」
ばでぃう「るくれてぃうすは いちの げんさんを していて、 いちに まとめられない。むじゅんが ある むげんだ。すごい。」
(るくれてぃうすは、きげんぜん99ねんころ から きげんぜん55ねんころの しじん。 らてんごで 「事物の本性について」という えぴくろすの げんしろんてきな うちゅうろんの ぽえむを かいた。「自然の科学的理解によって、宗教からの解放と死の恐怖の克服を目ざした啓蒙(けいもう)的作品で、その解明の対象は、宇宙の原理、人間の霊魂と精神現象、天体・生物・人類および文明の発生、天変地異などのすべてに及ぶ。」「伝記的事実はほとんど不明だが,媚薬をたしなみ,自殺したともいわれている。」(https://kotobank.jp/word/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9-660548))
(めも、 「人物像」「思考」(36))

るくれてぃうす「くうかん という なにも ない ところは すべての ほうこうに ひろがっていて、そのなかに ものが ある。」
(じかんい ひきずられて くうかんが すべるなら きらめきは きょりが ちぢまらない という はなしは よく わからない。くうかんが じかんに よらず ずっと つづく ならば、 ひかりと いえど はなれた まま なので、 きょりは ちぢまらない という ことだと おもう。)

「存在ー神ー論の歴史的制約、つまり臨検をおこなう一の潜勢力には決して折り込まれないものにたいする忠実さといったものを現代において発明しなければならない」
(37)

(そんざい・しん・ろん とは はいでがーの ことば である。 )

「それゆえ最初に決意したことは、存在について思考可能なものはラディカルな多、つまり一の潜勢力の支配下にない多の形式にあるとみなすことだった。この多をわたしは『存在と出来事』において、一なしの多と呼んだ。」
(37)

むじゅん

ばでいぅ「でも、むずかしい もんだいが みっつ でてくる。」
1、 いちを げんさんする ような、 ある という ことの むげんの みなもとを ふくむ ふくすうには むじゅんが ある。
るくれてぃうす「ふくすうが くりひろげられる という ことは、 げんていが なかに あっても せいげん されない。」
ばでぃう「ふくすうが くりひろげられる ことが げんていに よって せいげん されると かんがえると、 すべて いちに まとめられて しまう。 だめだ。」
(なかに げんてい としての くべつ じたいは ある けれど、 ぜんたいは ひとつに せいげん されない)

ばでぃう「ある という ことを かんがえられる ように する ふくすうは、 むじゅんが ない げんてい では ない。ふくすう という こと いがいの せつめいが できない ふくすうを かんがえる。 むじゅんが ない ことを ほしょうして くれる ものが ない ふくすうを かんがえる。」
(たとえば、 いち という かんがえに ある、 けいじじょうがくの かみは、ただしい ことを ほしょうしてくれる もの である。)

いちの おいだし

ばでぃう「こっちの もんだいの ほうが たいへんだ。」
2、 あらわれていないが すべてに ある(せんざいしている)いち なる ものは ないと、 ある という ことの がくもんの なか から せつめいしないと いけない。
ばでぃう「そとから いちが ない ふくすうが あると かていする だけ じゃ いやだ。 うちがわ から いいたい。」
(ぷらとん「いちと ふくすうが あって、 いちと ふくすうが まぜあわさる」→)ばでぃう「むじゅんする ふくすうが あって、 まぜあわさる。 いちは いらない。」
ぷらとん「いちが ない ならば、 ふくすうの なかの ことなるが ずっと ことなり つづける ことに なる」 『ぱるめにです』
ばでぃう「むじゅんが ある ふくすうの ことを いっている。」
(むじゅんが あると かいていたのは、 いっかんせいが ない という ことばの いいかえであった。)

「もし一が存在しなければ、多の内在的な異がおのれからおのれへの停止点なき差異化になることが帰結することである。その驚くべき定式である「τά ἄλλα ἕτερα ἐστιν」を「異とは〈他者=異〉であるles autres sont Autres」と訳せるだろう。このとき最初のもの〔ἄλλα〕は小文字のautresで、後のもの〔ἕτερα〕はいわばラカン的な大文字のAutresでもって訳そう。一は存在しないがゆえに、異(他)は絶対的に純粋な多性、おのれの完全な散種としての大文字の〈他者=異〉である、ということが生じる。」
38、ちゅうしゃくは やくしゃに よる。

(じっさいは、 「πάντα δε τα έτερα τινί έτερά έστιν」と おもわれる。Plato, Parmenides: cum quattuor libris prolegomenorum et commentario perpetuo, p. 977. https://books.google.co.jp/books?id=4o0-AAAAcAAJ&pg=PA977&lpg=PA977&dq=%CF%80%CE%AC%CE%BD%CF%84%CE%B1+%CE%B4%CE%B5+%CF%84%CE%B1+%CE%AD%CF%84%CE%B5%CF%81%CE%B1+%CF%84%CE%B9%CE%BD%CE%AF+%CE%AD%CF%84%CE%B5%CF%81%CE%AC+%CE%AD%CF%83%CF%84%CE%B9%CE%BD&source=bl&ots=9WUgURLY7z&sig=ACfU3U1d7Q8D-GNoaSk4we_zmrVllAUwzg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwip8pX1hebvAhWMF4gKHX2OATsQ6AEwAHoECAEQAw#v=onepage&q=%CF%80%CE%AC%CE%BD%CF%84%CE%B1%20%CE%B4%CE%B5%20%CF%84%CE%B1%20%CE%AD%CF%84%CE%B5%CF%81%CE%B1%20%CF%84%CE%B9%CE%BD%CE%AF%20%CE%AD%CF%84%CE%B5%CF%81%CE%AC%20%CE%AD%CF%83%CF%84%CE%B9%CE%BD&f=false. )
(さんしゅ という ことばは、 でりだが よく つかう ことば である。 さえんの べつの なまえ である。)

「(2) Autreを「(大文字の)他者」と訳す日本の翻訳伝統において、見落とされているように思われるのは、このAutreは、たしかに現象学的な意味での「他者」という文脈も流れているが、他方でここでバディウが指摘しているように、プラトンの『パルメニデス』あるいは『ソピステス』における「最重要五類」と呼ばれる後期プラトンの根本カテゴリーのうちの一つである「異」の類のことを、フランスの翻訳伝統ではAutreと訳すという文脈もまた流れている。このことはラカンにおいても、また同時にレヴィナスにおいても、さらにあまり言及されてこなかったがドゥルーズにおいてもまた妥当する。ここではバディウの文脈上、ラカンの通常「(大文字の)他者」と訳されるものとの関連で言われているから〈他者=異〉という苦肉の訳語を当てているが、ここ以外のところでは概ね〈異〉とのみ訳していることに留意されたい。」
(228、訳注)

(これは しらなかった。 かんしゃを ささげる。 こんどう、まつい。 すばらしい かいせつだ。)

ぷらとん「むじゅんが いちを こわす。いちに おもえた ものを よく かんがえると、 いちに おもえた ものは、 むげんの ふくすうに なる。」

「一の形而上学的支配が減算されることで、多は、一によって合成される多として思考可能なものに開示されることは不可能だ」
(39)

(ごうせいされる という のは、まじりあいを いみすると おもう。 いちと ふくすうが まじりあう ことに よって ふくすうに なるとは かんがえられない という ことだ。 なにを かんがえてみても、 ひとつの ものが あつまって ふくすうを つくっている のでは なく、 ふくすうで しか かんがえられない。じっさいに いち だけを かんがえる ことは できなくて、 いちでは ない にや さんを かんがえる から、 いちを かんがえられる という ことを かんがえると わかりやすい。 )

ばでぃう「ふくすうは ふくすうから まぜあわさった もの である。または なにもない という ふくすう である。いちの でばんは ない。」

「減算的であるとは、多の欠如によって一が認めるというよりも、多が欠如したときには何もないことを肯定することでもある。」
(39)

るくれてぃうす「からっぽと ぶったい しかない。 いち? ない。へらくれいとすの ひ? だめだめ。」
(へらくれとすは ばんぶつは るてんすると いった。 へんかする すべての うしろで へんかを しない ろごすは ひ という へんかと ほぞんんが おきる という こと であると かんがえた。ばでぃうは たんいつな げんりに よる うちゅうろんと いっている。)
ばでいぅ「るくれてぃうすは すばらしい。 かみがみを おそれない という ことは、 ふくすうの うしろには ふくすう しか ない という こと であると わかっていた。」
(るくれてぃうすは、 かみがみと しぬことを おそれない ことを うったえた。)

ていぎ

3、ていぎは だめ。
そくらてす「ていぎで いであを きめる!」
はいでがー「ていぎ という みちは ぽえむの めいれいと たいりつする。」
(これが ばでぃうの いけん かも しれない。)
ばでぃう「ていぎは、 いち という ちょくせつは あらわれない けれど、 きはんてきに いえば あるに ちがいない という かんがえかたを ことばの なかに つくる こと である。」
ばでぃう「ていぎの べんしょうほうは、 いちを きりはなす だけ なので、 ある という ことの なか でしか なく、 ある という ことが どういう ことかは かんがえられない。なにか ある という しかたを している ものが ある という こと よりも うえに なる ことが ことばで あらわれる のが ていぎ である。」
(ていぎの べんしょうほうは、たいわを して、 あいての はなしを げんていする ことで、 あるが ままの すがたを あきらかにする という ほうほう、 つまり みち である。 ほうほうの いんど・よーろっぱご けいの ごげんは、 みちを よこぎる という いみの ことば である。)

たいしょう では なく

「どのような条件で多がそのような多として認識されるかを決して述べることができないままに、純粋な多の思考可能なものを開示しなければならない」
(40)

はいでがー

「限定する規範に訴えることによる存在の制限の過程」
(41)

(ぜんぜん わからない けれど、 ふくすう いがいを かんがえる ことは できないと いうと、 いちに もどってしまう らしい。)

ふくすうを ていぎ する ことが できない。
ふくすうの ていぎが ない ことを あきらかに する ことも できない。
(ふくすうは ていぎできない。しかし、 ふくすうが ていぎできないと しょうめいする ことも できない。)

「何が、思考が思考していることを決して対象として開示させないのか。」
(41)

(ていぎ できる ものは、 たいしょう として はっきりする ように なる という ぜんていが ある。)

「思考が思考していることを思考可能なものとしてつなぎとめる、この書くという行為において、この思考可能なものという名に、それが何であれ、訴えることさえ自らに禁じる思考とはいかなる思考なのか。」
(41)

(かく ことの とくちょうを、 げんじつに かんがえている ことを、 かんがえる ことが かのうな もの として つなぎとめると いう かんがえかたは おもしろい。しかし、ここでいう かく という のは、 はなす という ことに たいする かく という こと では ないと おもわれる。かく とは いかなる ことか? しこう・かのうなもの とは、 ていぎと いっかんせいに よる もの である。かんがえられている ときに すでに りくつに したがっている といったのは だれだったか。 わすれてしまった。うぃとげんしゅたいんか。『論理哲学論考』だと おもう。)

ばでぃう「こうり(公理)てきに かんがえる ことが だいじだ!なにかを あらわしている とか、 せつめいしているの では ない、 きめられていない〔つまり むげんの〕 ことばの かんけい だけを りかいする かんがえ である。どのように くみたてて いいかの るーるも ある。なまえを たいしょうに つける こと では ない。べんしょうほうで ていぎ する ことでも ない。」
(むげん というのは、 きめられれていない という いみ である。 こうり(公理)は ぎろんの はじめに しょうめいせずに みとめられる ことの ことを いう。 たとえば、ふたつの てんの あいだに ちょくせんを ひける、 など。)

ぷらとん

ぷらとん「ぐらうこん「そくらてす、 かせつに とどまる がくじゅつは、 げんりに たどりつく りせいの べんしょうほうの ち(知)よりも おとっていると いっていますね。 あなたは べんしょうほうの ちょっかんてきに しる ことに たいして、 がくじゅつの かんせつてきな ろんしょうで しる という ことを おとっていると かんがえていますね。ただの おもいこみ、 ろんしょうで しる こと、 ちせいで しる ことと あいだに ろんしょうを おいていますね。 」」
ばでぃう「ぷらとんは すうがくが かんがえる ことの できない こうりを おいて、げんり としての いち という あらわれては いないが、 きはんてきに ある はずの ものを かんがえられない から、 ろんしょうする しか ないと かんがえている。」

「公理は、プラトンにとってどこか曖昧な暴力を備えているのだ。一がもつ弁証法と定義にかんする規範を、公理が自らのものにすることはないのであって、このことに曖昧な暴力が起因している。たしかに公理と数学のうちには思考があるのだが、しかしそこにはいまだ思考の自由はない。思考は範例と規範と一によって秩序付けられているのである。」
(43)

(あいまいな ぼうりょく とは なにか? 要調査。 じゆう という ことばが、 きまりと、 じぶんである ことに かんして つかわれている。 なにか から ときはなたれている という こと よりも じぶんの ものに なっている という じゆうが もんだいに なっている。 かんがえ、しこう とは、 ぷらとんに とっての てつがくの ことを かんがえている。 おもしろいのが、 はんれい、きはん という ことば である。 おそらく、 もでる、 のもす という ことば では ない だろうか? これまで きはんてきと いっていたのも のもす てき、 きまり てきと かんがえると よく わかる。 もでる とは、 なにが ただしいか ただしくないか、 なにと なにが かんけいしているか という ことを あらわす。https://youtu.be/m-3SbMFLDR0?t=51を みた。)

ばでぃう

ばでぃう「ぷらとんと ぎゃく である。」

「わたしがこの制約に見るのは、減算する振る舞いそのものの必然性であろ、つまり実際は明示的でなくなったり、命名することができなくなくなることを引き換えに、自らをなお共通なものに結びつけるもののすべてから、あるいは思考の固有の形而上学的誘惑を支えている一般性から、なんとかして思考が抜け出す運動の必然性である。このように抜け出すことにこそわたしは、思考の自由を、すなわち運命的に自らの制約となるものに照らして、また形而上学的な好みと呼んでもよいものに照らして思考の自由を読み取るのである。」
(43)

(このみ とか いうところが ぶんせきてつがくっぽい。ばでぃうは かいほうされる じゆうを だいじに している。「運命的に自らの制約となるもの」とは なにを かんがえていた のだろう? きになる。 おもしろいのは、 「実際は明示的でなくなったり」と いう ところ である。 なぜなら、 「公理の形式で、この存在論が明示的に提示される」(42)ことが げんさんてき・そんざいろんの ひっすな ことと いわれている から である。)

まとめ

ある という ことは どんな ことかを しる ことと、 むじゅんが ある じゅんすいな ふくすうを かんがえる ことは、 しょうめい できない ものを みとめて それらの かんけいを しる 「公理的配置」(44)に なる。
げんり、あるけー、おおもとの もの という かんがえに もどるものは、 ふくすう「せい」の なかに あって じぶんを しめす という ことを じゃまする。
(ふくすう「せい」に ついては、 「「多性」という名は、一にしたがって多性という名が指示するものについて述べるためであれ、これもまた一にしたがってこの名が指示することができないものについて述べるためであれ、どこでも言及されることはない。本当のところ、純粋な多の思考とはそのようなもののはずである。」(41)と いっている。 さいしょに よんだときは、 ふくすう「せい」に ついては なにも いわない ことが じゅんすいに ふくすうに ついて かんがえる こと だと おもっていた。 しかし、 これは いちに したがう ように ふくすうに ついて いわない ことが だいじ である という こと であった。 ふくすう「せい」 であるか、 ふくすう であるかは もんだいでは ないと おもう。)

じょうけん

いち という じっさいには あらわれていない けれど、 ほんらいなら あるに ちがいない ものに たいする ふくすうに ついての ある という ことに ついて しる ことの 5この じょうけん。
1、むじゅんの ある ふくすうで かんがえる。ないざいてきに ひとつに まとめない。なにかを せつめいする ための じゅつご として のみ つかわれる ふくすうで かんがえる。
(「ないざいてきに ひとつに まとめない。」というのが わからない。ちつじょが ない という ことか。要調査。「ひとつにじゅつご として」、 という のは、 しゅご、しゅたいに ならない という こと であると おもう。 なにかを せつめいする ためにしか つかわれない ことば として ふくすうを かんがえる。)
2、ふくすうに いちは ない。 ふくすうは ふくすうを あわせた もの である。
(ここで、 れびなすの いりや、il y a、 あるに ついて かんがえているが、 じぶんは そんざいと やくされる êtreを あると やくしているので、 こまる。 「がある」でも 「である」 でも ない、 なにかが あると いう ときの なにか では ない ように ある という ことに ついて にほんごでは なんと いう だろうか。「あそこ」だろう。 )
3、ふくすうは むげん、 つまり きめられていない。きめられていない という ことも きめられていない ので、 きめられていない ふくすうは、 きめられていない しかたで ちらばる。いちの ないざいてきな せいげんも、 ゆうげんせいの げんりも ない。
(「ないざいてき」とは どういうことだ? げんりと ゆうげんせいを ここで つなげるのは なるほど。 おわりが ある ことと、 はじまりが ある ことは にたような ことと かんがえられている。)
4. ふくすうが、 ふくすうが ふくすう ある こと では ない なら、 なにもない ことが ふくすう あると かんがえれば よい。 いちは いらない。ただし、 なにも ない ことにも むじゅんしない はじまり、げんりが ない。
(くうしゅうごうで、 かずを ていぎできるという はなしが かんがえられている だろう。)
5. こうりてきに ある という ことを かんがえる。
(まとめる。 1 むじゅん、せつめいする、2ふくすうをまぜる、3むげん、4む、5こうり)

かんとーる

ばでぃう「いち という じっさいには あらわれていない けれど、 ほんらいなら あるに ちがいない ものに たいする ふくすうに ついての ある という ことに ついて しる ことの 5この じょうけんは、 かんとーるに よる すうがくの きそづけの やりなおしから あきらかに なった。」
(かんとーるが むじゅんの ある むげんな ふくすうの しゅうごう、 つまり ふくすうの あつまるものが あつまった しゅうごうを かんがえた。 こうりてき(公理的)しゅうごうろんに つながった。くうしゅうごう、 つまり なにも ふくんでいない しゅうごうから かずを ていぎ できる ように なった。

デーデキント(1831-1916)が彼の切断の理論を発表した同じ1872年、同じドイツの数学者カントル(1845-1918)が、やはり実数を定義した。カントールの方法は、有理数の切断を使うデーデキントのものと違い、有理数の収束する列を使うものだった。

この共通の仕事を通して、この両者は連絡を取り合いながら集合論を開拓していくこととなった。しかし、その方向性は大きく違っていた。

デーデキントが、集合を使ったのは、実数を定義する(切断)、代数的整数論を行う(イデアル)のように、数学を記述するためだった。つまり、デーデキントの集合論は数学を行うための「手段としての集合論」「道具としての集合論」だった。

これに反し、カントールが開拓した集合論は、それ自身が数学の理論として研究する価値があるような、「目的としての集合論」であった。
http://www.shayashi.jp/courses/2016/moku2kouki/20161222.html


(かんとーるは すうがくしゃ である。 かんとる とも かかれる。せいれき 1854ねん から せいれき 1918ねん まで いきた。どいつで かつやくした。げんだいてきな しゅうごうろんを かんがえた。
すうがくの はなしを はじめる。 すうがくの はなしを しっている ものや、 すうがくの はなしは しりたくない ものは、すうがくは ここで おわり まで とばしてほしい。
しゅうごうろん(集合論)とは、 しゅうごうを あつかう かんがえかた である。 なんらかの あつまるもの、げん(元)、こうせい・ようそ(構成要素)が あつまった ものを しゅうごうと いう。たとえば、 ほん、 もじ、 おと という みっつの あつまるものが あつまった ものを ひとつの しゅうごうと かんがえる ことが できる。しゅうごうは あつまるものにも なる ことが できる。 たとえば、 (1)ほん、もじ、おとが あつまった しゅうごうと、 (2)かがみ だけが あつまったもの である しゅうごうの、 ふたつの しゅうごうが あつまって ある ひとつの しゅうごうに なる ことが できる。 ただし、 この しゅごうでは、 ほんと もじと おとと かがみが あつまっていると かんがえては いけない。 この しゅうごうは、 ふたつの しゅうごうが あつまっていると かんがえる べき である。 そして、 たまたま、あつまるものの ひとつの しゅうごうの あつまるものが、 かがみ だったと かんがえる べき なのである。
さて、かんとーるが かんがえはじめた げんだいてきな しゅうごうろん では、むげんの しゅうごうが でてくる。 これまで あつかってきた しゅうごうは、 あつまるものの かずを かぞえられた。 たとえば、ほん、 もじ、 おと という みっつの あつまるものの しゅうごうの あつまるものの かずは、 みっつ である。 しかし、 かざえられらない むげんの かずの あつまるものが あつまった しゅうごうが ある。
たとえば、 せいすう(整数)ぜんぶ である。せいすう(整数)とは、…、-3、-2、-1、0、1、2、3、… などの かずである。せいすうとは、 0に いちを くわえたり ひいたりする ことを くりかえすと できる かず である。 この せいすう という しゅうごうの あつまるものの かずは むげん である。 かぞえられない。 なぜなら、もし せいすう ぜんたいが ゆうげんだと する。 すそのときに、 かぞえられた すうじの なかで いちばん おおきい かずに いちを たすと、 これまで かぞえていなかった せいすうが あたらしく うまれてしまう から ゆうげん では ない。 なので せいすう ぜんたいは むげん である。
このような むげんの あつまるものを あつまった しゅうごうと、 ほかの むげんの あつまるものが あつまった しゅうごうを くらべる。 すると、 むげんの しゅうごうの あつまるものが いくつあるのか という おおきさが くべつ できる のである。 どちらかの むげんの しゅうごうは、 もう かたほうの むげんの しゅうごう よりも おおきいか、 ひとしいか、 すくないかを いう ことが できる のだ。 しかし、 じっさいに あつまるものが いくつ あるのか かぞえる ことは できない。 なぜなら むげんの あつまるものが あつまった しゅうごうを かんがえていた から である。 そこで、 いくつ あるのか、 という ことを あらわす ことばを 「のうど」(濃度)と いう。えいごでは cardinality、かーでぃなりてぃー である。どのような れきしが あって にほんごでは、 「のうど」 という ことばが つかわれているかは わからない。 さらに、 かんとーるが どいつごで なんと いっていたかは わからない。 しかし、 はっそう(発想) としては、 ある いっていの はんいの なかでの こすうを ぜんたいの こすうと みなす という かんがえかた から 「のうど」 という ことばが つかわれているのだと おもう。
じっさいに のうどを くらべてみよう。 せいすう(整数)ぜんたいの しゅうごうと、 0いじょうの せいすう(しぜんすう)ぜんたいの しゅうごうを くらべる。 すると、 のうどが ひとしい のである。 ちゅういしておく べき ことは、 どちらも あつまるものの こすうは むげん であり、 むげんを くらべている のだ という こと である。 むげんを くらべた ときに、 その むげんの おおきさを くらべる ことが できる という のが、 のうど(濃度) という かんがえかた であった。さて、なぜ のうどは ひとしい のか。 なぜなら せいすう(整数)と 0いじょうの せいすうを ひとつ ひとつ たいおうさせる ことが できる から である。たいおうの させかたは、 つぎの ふたつの どうがの かいせつが わかりやすい ので、 みれる ものは みて ほしい。わかりやすいが はやい どうが、https://youtu.be/lYhB-MGxxKw?t=170。せんもんかの せつめいだが すこし わかりにくい どうが、https://youtu.be/RN3AR28u1-U?t=1395。まとめると、 0に ちかい せいすう から 0いじょうの せいすう(しぜんすう)を まいなすが ついている かずと まいなすが ついていない かずと こうごに わりふっていくと、 すべて わりふれる のである。
しかし、すべての むげんの しゅうごうの 「のうど」、 つまり おおきさが おなじ である わけ では ない。 ちがう 「のうど」、 おおきさの むげんの しゅうごうも ある。 たとえば、れんぞくした かず すべてを あらわす、(0.66とか -0.3333…とかの かず である) じっすう(実数) ぜんたいは、 0いじょうの せいすう とは 「のうど」、おおきさが ちがう。 この ことを しょうめいした のが、 かんとーる であった。 かんとーるの たいかくせん・ろんぽうと いう。
これも、 どうがを みると わかりやすい。https://youtu.be/lYhB-MGxxKw?t=456
はいりほう(背理法) という ほうほうで せつめい する。 はいりほう とは、こうだと かていすると、 むじゅんが おきる から、 こう では ない という しょうめい である。 まず、れんぞくした かず すべてを あらわす、(0.66とか -0.3333…とかの かず である) じっすう(実数)ぜんたいと 0いじょうの せいすう(しぜんすう)の 「のうど」、おおきさが ひとしいと かていする。 これは むじゅん する ので、 おおきさは ひとしくないと みちびかれる。 では、 どう むじゅんするか。 かていで、 じっすうと しぜんすうが 「のうど」、おおきさが ひとしいと かんがえたが、 「のうど」が ひとしい というのは、いっぽうの ひとつに たいして もういっぽうの ひとつが すべて たいおうしている という こと であった ので、 しぜんすうの ちいさい もの から じゅんばんに ならべた れつと それに たいおうする じっすうを ならべた れつが できる。 ただし、 わかりやすく する ために、 しぜんすう 0に たいおうする じっすうは 0 であると かんがえる。ちなみに、しょうすうてん いかは 0が むげんに つづくと かんがえられる。 たとえば、 3.3は、 3.3000…と おなじ であると かんがえる。 つぎに、しぜんすうに たいおうする じっすうの しょうすうてん から その たいおうする しぜんすうばんめの かずを えらんで、 ある じっすうを つくっていく。 たとえば、 しぜんすう1に たいおうする じっすうが 0.34000…ならば、 3を えらび、0.3 という かずを つくっていく。 しぜんすう2に たいおうする じっすうが 0.56471…ならば、6を えらび、 0.36という かずを つくっていく。 この さぎょうを くりかえすと、しぜんすうと おなじ「のうど」の むげんの けたの かずが ある じっすうが できる。 この できた かずは、 なんらかの しぜんすうに たいおうしている はず である。 なぜなら、 しぜんすうと じっすうの 「のうど」が ひとしい、 つまり ひとつの しぜんすうに ひとつの じっすうが たいおうしていると かていした から である。しかし、しょうすうてんいかの それぞれの けたに いちを くわえてみよう。 さきほどの かず 0.36……ならば、 0.47……という かずが できる。 この かずは、 しぜんすうに たいおう させた じっすうには ない。 なぜなら ある しぜんすうに たいおうする じっすうと この あたらしく つくった かず 0.47……を くらべると、 その しぜんすう ばんめの しょうすうてんいかの かずが かならず 1 ちがう から である。 たとえば、 しぜんすう1に たいおう する じっすう、 0.34000…ならば しょうすうてん いかの 1ばんめの かず、 3と、 あたらしく できた かずは (3+1=)4なので ちがう のである。 したがって、 「れんぞくした かず すべてを あらわす、(0.66とか -0.3333…とかの かず である) じっすう(実数)ぜんたいと 0いじょうの せいすう(しぜんすう)の 「のうど」、おおきさが ひとしいと かていする。」 という かていと むじゅん する。 したがって、 おおきさは ひとしくない。 これが かんとーるの おこなった しょうめい らしい。 かんどうする。
すうがくは ここで おわり。

「自分自身の条件が自由に働くようにできることになったのだが、それでも存在論とは数学であることに変わりはない。」
(45)

(すうがくが かんとーるに おいて、 なにかに つかえるか どうか では なく、 すうがく じしんを もくてきと して かんがえられる ように なった ことを かんがえていると おもわれる。 つまり、かんとーるは なにかに つかえるから しゅうごうろんを つくった のでは なく、 すうがくとして かんがえないと いけない から かんがえたと ばでぃうは かんがえたのだ。 じぶんの じょうけん、 じょうきょうを ほかの ものごと、 たとえば ぶつりや てつがくに きめさせるのでは なく、 すうがくで きめる ことが できる ように なった という ことだ。 しかし、いつでも ある という ことは どういうことか を かんがえる ことは、 ふくすうを かんがえる こと であると ばでぃうは かんがえている。)

ばでぃう「かんとーる みたいに、 げんていてきに ある という ことを かんがえる こと から はなれている。 げんていてきに ある という ことを かんがえるとは、

「多をいまだ数や図形といった対象の表象という形而上学的主題に結びつける」
(45)

もの である。ふくすう そのものを じぶんで じゆうに かんがえて わかる という ことを すうがくの きばんに おく より いっぱんてきで きめられていない ように、 ある という ことを かんがえる ように なっている。かんがえられるもの(思考可能なもの)のは たいしょうの きまった じげんに せいげんされない。」

すうがくの じょうけん

いち という じっさいには あらわれていない けれど、 ほんらいなら あるに ちがいない ものに たいする ふくすうに ついての ある という ことに ついて しる ことの 5この じょうけん。

(まとめる。 1 むじゅん、せつめいする、2ふくすうをまぜる、3むげん、4む、5こうり)

かんとーるの あとの すうがくの じょうけん

1、かんとーるの しゅうごうの いみは ふくすうで ある こと のみ である。ないてきな きまりが ない。
(あつまるものの なかみは どうでも いい という こと である。)

2、つぅるめろと ふれんけるの しゅうごうには、 しゅうごう いがいの せつめいする ものが ない。 しゅうごう だけが せつめいされない。なにかを かんがえたら、 かならず しゅうごうに なる。 しゅうごうの あつまるもの それぞれも しゅうごうに なる。 ふくすうは ふくすうの ふくすう である。 ひとつに まとまらない。
(やくしゃの つけたしでは、 ZFCと かいてあるが、 ZFでも おなじだと おもった。ZFCに ある せんたく・こうりは あきらかな ものとして ぜんていと されていたが、 のちに はっきり された。 そして、 ほかの こうり からは みちびけない ことが しょうめいされた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8A%9E%E5%85%AC%E7%90%86)。 要調査。

ツェルメロ=フレンケルの公理系 (ZF: Zermelo-Fraenkel) とは以下の公理からなる。

外延性の公理 A と B が全く同じ要素を持つのなら A と B は等しい
空集合の公理 要素を持たない集合が存在する:
対の公理 任意の要素 x, y に対して、x と y のみを要素とする集合が存在する:
和集合の公理 任意の集合 X に対して、X の要素の要素全体からなる集合が存在する:
無限公理 空集合を要素とし、任意の要素 x に対して x ∪ {x} を要素に持つ集合が存在する:
冪集合公理 任意の集合 X に対して X の部分集合全体の集合が存在する:
置換公理 "関数クラス"による集合の像は集合である:
正則性公理(基礎の公理) 空でない集合は必ず自分自身と交わらない要素を持つ:
〔りゃく〕
上記の ZF に次に述べる選択公理(Axiom of Choice)を加えた公理系を ZFC(Zermelo-Fraenkel set-theory with the axiom of Choice: C は "choice" の頭文字)という。選択公理を仮定しない体系も盛んに研究されている。
選択公理 X が互いに交わらないような空でない集合の集合であるとき、X の各要素から一つずつ要素をとってきたような集合(選択集合)が存在する:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86%E7%9A%84%E9%9B%86%E5%90%88%E8%AB%96、 ただし、 ろんしりしきや ていぎの もんごんなどを けして へんしゅうした。)

つぇるめろ(Ernst Friedrich Ferdinand Zermelo)は、すうがくしゃで ろんりがくしゃ である。 どいつごで かいた。 せいれき 1871ねん から 1953ねん まで いきた。げんだい・しゅうごうろんの こうりけいを さいしょに つくった。
ふれんける(Adolf Abraham Halevi Fraenkel)は、 すうがくしゃ である。 どいつごで かいた。 しおにすと。せいれき 1891ねん から 1965ねん まで いきた。つぇるめろの こうりけいを かいりょうした。)

3、かんとーるに とっては、 むげん・しゅうごうは むげんに ほんとうに ある。なので、 むじゅんする。

この無限集合の無限性はそれ自体絶対的な仕方で開かれており、不可能なものの点、それゆえ実在の点によって封がされ閉ざされているのであって、この実在がこの無限性を一貫性なきものにしている。つまり、すべての集合の集合は存在することが不可能なのである。これは実のところ、ルクレティウスの非ー宇宙論a-cosmismeを完成させたものである。
(46)

(「それじたい」 というのは、 せんざいてきには という いみにも なる ので、ほんらいは ぜったいてきに ひらかれている けれど、 じっさいは そうでは ない という いみに なる。 じつざい、 じっさいに ある ものは、 かんとの もの じたい、 らかんの げんじつかい などの ように、 ありえない もの なのである。 ありえる のは げんしょう だけ なのである。 なので、 じっさいに ある という こと だけは いえるが、 どのように じっさいに ある のか いえない という いみで とざされている。 むげんに ある ので、 さいしょ から さいご までの むじゅんの なさ、 いっかんせい という ものは ない。なぜ そういえるかは わかっていない。要調査。うちゅうろん、こすみすむ とは、 ちつじょが ある という こと である。 ちつじょが ない という せかいかんを つくった という いみで、 るくてぃうす という てつがくしゃ、 しじんの えんちょうに かんとーる という すうがくしゃを いちづけているのは おもしろい。まるくす・がぶりえる という げんだいの どいつごで かく てつがくしゃが 「せかいは じつざいしない」と いう ことを おもいだした。 そんざいしている というのは、 なにかに ふくまれている こと なので、すべてを ふくむ ような ものは そんざいしているとは いえないと がぶりえるは いった ので あった。

4、くうしゅうごう。 「純粋なしるし」(46)。 からっぽが ふくすうの ふくすうを つくりあげる。
ある という ことと、 もじは、 いち という きまり てきな じっさいには ない けど ほんらいは ある はずと かんがえられるものを げんさん する。
るくれてぃうす「げんしを くみあわせると もの になる。 げんしを くみかえると ものが かわる。 もじみたいだ。 もじを くみかえると いみする ものが かわる。」
らかん「もじは くうの しるしだ。」
(らかんは 「もじのしんきゅう」 という こうえんは あるが、 くうの しるし という はなしを していない きがする。 「もじの しんきゅう」では くうの ぱろーる、 つまり からっぽな はなし という ことを わだいに していた。)

「「一なき思考」、形而上学なき思考」
(47)

5、しゅうごうろんの だいじな ところは、 こうりてきに あつめた だけで、 しゅうごうとは いわないし、 しゅうごうの ていぎも しない。
(かんとーるは しゅうごうを せつめいしている。 たしかに ていぎは していない だろう。しかし、ていぎされる しゅうごうと ていぎに つかう しゅうごうが ある らしい。 この ことが、 ばでぃうが 「「集合」」と かぎかっこを つけている ことの いみ だろうか? せつめいする ための 「しゅうごう」の ていぎは たしかに していない。ちなみに かんとーるの しゅうごうの せつめいは つぎの とおり。

'集合'とは一つの総体Mであり、それを形成するものm(それはMの'要素'とよばれる)は、それぞれ確定し、互いに識別され得る、われわれの直感または思惟の対象である。
https://tech-blog.rei-frontier.jp/entry/2017/11/02/102042、 「ゲオルク・カントール(Georg Cantor)の著書"超限集合論"」の まごびき。

「純粋な多の思考の本質はいかな弁証法的原理をも要求しないことが明らかになるのであり、そしてこの領域においては存在に一致する思考の自由が公理の決定にあるのであって、規範の直観にはないことが明らかになる。」
(47)

(べんしょうほうてき げんり とは、 いつも おなじ ひとつの はじまりで、 それが くりかえされて ものごとが かわり、 にんしきが できる ように なる もの である。「けってい」 というのは、 にーちぇ こうぎにも でてきた。きまりを ちせいに よって わかる という こと よりも、 こうりを きめる ことが かんがえる ことの じぶんの やくわり である。 これは、 とさか・じゅん(戸坂潤)の 『いでおろぎーの ろんりがく』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000281/files/3594_38772.html)では、 もんだいの たてる ことが せつだん として もんだいに なる という はなしと にていると おもった。)

てつがくと すうがくの かんけい

ばでぃう「てつがくに すうがくが そうにゅうされてきた。ていぎしてしんじつを げんりとして ひとつに まとめる けいじじょうがくに たいして、こうりを けっていして、げんさんして ふくすうに ばらばらに する おいう すうがくが てつがには だいじ である。」
(ひるべると(David Hilbert)は すうがくしゃ。 どいつごで かいた。 せいれき 1862ねん から 1943ねん まで いきた。すうがくが むじゅんなしに かんがえられる ことを しょうめいする ひるべると・ぷろじぇくとを かんがえた。 しかし、 げーてるの ふかんぜんせい・ていりで かなり だげきを うけた。
かんとーるの しゅうごうろんを、 「かんとーるの ぱらだいす、らくえん」と いった。

Aus dem Paradies, das Cantor uns geschaffen, soll uns niemand vertreiben können. (From the paradise, that Cantor created for us, no-one shall be able to expel us.)
Hilbert (1926, p. 170), a lecture given in Münster to Mathematical Society of Westphalia on 4 June 1925
Hilbert, David (1926), "Über das Unendliche", Mathematische Annalen, 95 (1): 161–190, doi:10.1007/BF01206605, JFM 51.0044.02
https://en.wikipedia.org/wiki/Cantor%27s_paradise

「一般的な遡及効果」とは、 ふろいとが いう 「じごせい」、 あとから かんがえると という かんがえかた である だろう。 じっさいに おきた ことを、 あと から かんがえると、 それを もとめていたのだと いう ことが おおい。そして、 その ことは まちがい では なく、 そのとおり であると ふろいとは かんがえた。その いみで、 「数学のギリシャの起源から、存在は純粋数学のうちに書き込まれることを強く求めてきた」(47)と いえると ばでぃうは いっている。これは、 ばでぃうが きかがくを じぶんの てきである ひとつの きまりと みかた である ふくすうが まざった ものと かんがえて、 どっちも もともと あって、 じぶんは でんとうに のっとっている だけ なのだと、 じぶんが ただしいと しゅちょうする ために かんがえられている。じぶんが まちがっていると しゅちょうする ために はなす ことは とりあえず おいておいて かんがえられるので、 べつに まちがっていると いっている のでは ない。 )

てつがくの おしごと

ばでぃう「てつがくは まず、げんじつを かんがえる すうがくに へりくだれ。」
ばでぃう「かくれた がんぼうを あきらめろ。 そふぃすとに じょうほして、 すうがくは いる けれど、 かんがえる ことでは ない という てつがくしゃが たくさん いる。くそが。」
ばでぃう「すうがくしゃも すうがくしゃだ。 なんで みんなが わからない ことに まんぞくしているのだ。 わからせろ。すうがくは たんなる けいさんや ぎじゅつ では ない。かんがえる ことだ。」
ばでぃう「てつがくは つぎに、 すうがくは かんがえる ことで あると いえ。ひていしてきたが、いってきた。」

だいにしょう すうがくとは しこう である。

50-

すうがくは かんがえる ことでは ないと いわれてきた。

ぷらとん「すうがくは かんがえる こと では ない。 てつがくが だいじだ。」(『こっか』)
うぃとげんしゅたいん「すうがくてきに かたりえない ものは ちんもく せなば ならない。 そして その ちんもくの まわりで、 つまり すうがくでは なく かんがえないと いけない。」(『ろんり・てつがく・ろんこう』)
ばでぃう「すうがくは かんがえる こと である というのは しょうめい できない。 しょうめい できない という ことは、 すうがくの げんじつ である。」

「しかし、現実とは知られるものではなく、宣言されるものなのだ。」
(50)

もんだい

(ふっさーる)「かんがえる ことは なにかに ついて かんがえる ことだ。かんがえられる たいしょうの せいしつと はじまりを かんがえるのが てつがくだ。」
ばでぃう

「数学の観念性が存在していると宣言できるのはいかなる意味においてのことか。またいかなる意味で、それが対象のジェネリックな〔類生成的な〕形式で存在していると宣言できるのか。」(51)

ジェネリックな〔類生成的な〕は、 ばでぃうの ことばである。 しんじつを つくり だす てつづきは、 しゅに たいして るいを つくりだす、 ジェネリックな〔類生成的な〕 もの である。)

ありすとてれす1 わかれてはない

ありすとてれす「1. すうがくの たいしょうは、ほかの たいしょうと べつに どくりつに あるとは いえない。もし どくりつ しているならば、 ちてき・ちょっかんで わかるが、 すうがくに ついて ちてき・ちょっかんで わかる よりも、 ろんしょうで わかる ことが おおい。」「けいじじょうがく」だい13かん
あんぐろさくそんの けいけんしゅぎしゃ「すうがくの たいしょうを わけるのは ぷらとんしゅぎだ。 じっさいは、 すうがくの たいしょうは こうちく されている。」

「数学的なものμαθηματικάは決して分離された存在ではない、とアリストテレスなら述べるだろう。」
63

(めも。ぶんり、分離 という ことばが ある。)

ありすとてれす2 なかにない

ありすとてれす「2. すうがくの たいしょうは、ほかの たいしょうの なかに あるとは いえない。すうがくの たいしょうは わけられないので、なかに ある なら、 ほかの たいしょうも わけられなくなる。 わけられる という けいけんと ちがう。すうがくの たいしょうは うごかないので、 なかに あるなら、 ほかの たいしょうも うごかない。 うごく という けいけんと ちがう。」『けいじじょうがく』だ3かん
ばでぃう「なかに あると いうと、 すうがくの たいしょうが じかんに よって きえるという かんかく(感覚)てきな せいしつが あてはまり、 かんかくの たいしょうが じかんに かんけいなく、 がいねんで わかりやすい という ちしきの せいしつが あてはまる という はんろんだ。」

すうがくの たいしょうは げんじつには ない

ありすとてれす「すうがくの たいしょうは げんじつには ない。 まがいものの ある である。 けいじじょうがくの じゅんすいに げんじつに ある かみと、 しぜんがく(けいじかがく)の じっさいに ある かんかくてきな ものの あいだに すうがくが ある。」
(ぶんり という ことば、 じゅんすい という ことばが つかわれている。)
ありすとてれす「すうがく とは、 ふぃくしょんてきに げんじつに あると かんがえる ことだ。かんがえる ものが いちや きゅう という りそうを げんじつに なっていると かんがえて まがいものの あるを あつかう ことだ。ぶんりしていないものを ぶんりした もの として あつかう。ふぃくしょん だから しんじつには ならあない。すうがくの きまりは うつくしさ である。ちつじょ、たいしょう(対称)、がいねんの とうめいの たんじゅんさ または ていぎされたもの」
ばでぃう「げんご という ちからに よって ほんらいは ある はず だけど じっさいには ない ものを、 げんじつに ある もの として かんがえる ことが できる。」

(まらるめの はなの いんようは つぎの とおり。
大出敦(おおで・あつし)「空疎な神々:ステファヌ・マラルメ『古代の神々』試論」、教養論叢. No. 135(2014.3), p. 71-104、2014ねん。 からの まごびき。

f:id:hunihunisaito:20210407100055p:plain
まらるめの はな
f:id:hunihunisaito:20210407100240p:plain
の 678ぺーじが はなの いんよう

ばでぃう「すうがくそ、まてーむと ぽえむ、しは、 あらゆる げんじつの もの から ことばを つかって ふぃくしょんの ものを げんじつに ある もの として わける こと である。」
(まてーむは、 らかんが とくに つかった ことばとして よく つかわれる。すうがくと せいしんぶんせきを つなげたのが らかん であると いえば、 ここでは、 ばでぃうは すうがくと ぽえむを つなげたと いえる であろう。)

ありすとてれすの かんがえの ようやく

(ばでぃうの はんたいする かんがえ である。)
1、すうがくは まがいものの ある という ことに ついての まがいものの かんがえ である。
2、まがいものの たいしょうが まがいものの ある という しかたを もっている。
3、まがいものの たいしょうは、 かんかくの たいしょうと べつに ある わけでも なかに ある わけでも ない。
4、すうがくは ぶんりできないものを ことばで ふぃくしょんで ぶんりする こと である。
5、きまりは うつくしい こと である。
6、はっきりした るーるに したがう、 むじゅんしない ちしきを ふぃくしょんとして つくりあげる ので、 じっさいに ある ことに ついては なにも いわない。
7、すうがくは じぶんに ついて かんがえる ことが できない。 ふぃくしょんを しんじる ことしか できない。すうがくを おこなう ことしか できない。
(6に うぃとげんしゅたいんの においを かんじる。7について、らかんが すうがくしゃは すうがくを 「てつの ように かたく」 しんじる と いった ようだ。 さがしてみよう。)
ありすとてれす「すうがくで わかる という のは、 げんじつに おこなう こと である。」
ばでぃう「すうがく では、 たいしょうには ない げんじつに ある という かわりに、 かんがえる がわの しゅたいが げんじつに おこなう。」
ありすとてれす「すうがくが うつくしい ことを する だけで、 うつくしい ことは なにかを かんがえる ことは ない。」

「美は数学の営みの真の原因であるのだが、この原因は数学の言説のうちには不在である。この原因はその結果によってのみ突き止めることができる。」
55ぺーじ

(げんいん という かんがえかたの てんけいれい である。)
ありすとてれす「すうがくの おこないの げんじつの げんいんに なまえを あたえる という かんがえる ことは てつがくの やくめである。」
(ばでぃうは てき として ありすとてれすを だしてくる。

ばでぃう「てつがくは まず、げんじつを かんがえる すうがくに へりくだれ。」
ばでぃう「かくれた がんぼうを あきらめろ。 そふぃすとに じょうほして、 すうがくは いる けれど、 かんがえる ことでは ない という てつがくしゃが たくさん いる。くそが。」
ばでぃう「すうがくしゃも すうがくしゃだ。 なんで みんなが わからない ことに まんぞくしているのだ。 わからせろ。すうがくは たんなる けいさんや ぎじゅつ では ない。かんがえる ことだ。」
ばでぃう「てつがくは つぎに、 すうがくは かんがえる ことで あると いえ。ひていしてきたが、いってきた。」

しょうこ

1、ぷらとんしゅぎひはんが たんなる でんとうで、 すうがくを ちゃんと わかっていない。
2、すうがくは こうちくされた ものと、ことばてきと かんがえられている。
3、すうがくは うつくしい けいしきが さきに つくっていて、 げんじつを かんがえていないと かんがえられている。
4、すうがくに おいて、 こてんろんりがく よりも、 けいしきしゅぎ よりも、 ちょっかんしゅぎ、こうせいしゅぎが すぐれていると かんがえられている。こうりは すてられている。
(とくに だめっとを かんがえている かもしれない。 こてんしゅぎ ろんり、 けいしきしゅぎ、ちょっかんしゅぎ については、 http://www.shayashi.jp/courses/2016/moku2kouki/20170119.html。けいしき・しゅぎ という ことばと、 3の「けいしきを さきに つくる」 という ときの けいしきが べつの ことを あらわしている ことに ちゅういする。しかし、 ちょっと、 わからない。 ちょっかんしゅぎは こうり では ないが、 こうりは げんごてきに こうちく される こととは ちがうの だろうか?要調査。
ぶるばきは、ヴぇいゆ という もの などが つくった すうがくしゃ しゅうだん である。こうぞうしゅぎ、けいしきしゅぎの いちばん つよい すうがくの たいけいを つくった。ちなみに、 この ヴぇいゆ という ものは、 あの てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆ(https://hunihunisaito.hatenablog.com/entry/2021/02/24/002803)の はらから である。はらから とは、 きょうだい という こと である。
どぅるーずの りぞーむ とは、 ふくざつな ものが ふくざつなまま からみあっている という こと である。 じゅもく みたいに ひとつの ねっこ から すべてが ひろがる のでは なく、 ちかに ある ふくすうの ねっこが からまり あっている すがたを ひょうげんしている。 )

ぷらとんしゅぎ

ばでぃう「ありすとてれすに はんたいして、ぷらとんしゅぎを たてなおそう。」

「最終的に問題となるのは、数学は思考であると措定することで、この思考の思考にたどり着くことなのであって、なされるべきは、数学が自らを思考し、数学とは何であるのかということを述べるように要請されていると思われる契機を指し示すことである。周知のように、このような契機は、「危機」あるいは「基礎の危機」と呼ぶ習わしになっている。」
58ぺーじ

ばでぃう「じぶんは、 すうがくが しこうだと いう まで しか やらない。」
1、 こだいぎりしあの むりすうに よる ぴたごらすてき すうがくの きき
2、19せいきの よーろっぱの ぱらどくすに よる しゅうごうろんの きき
3、せいれき 1930ねんだいの よーろっぱの (げーてるの ふかくていせい ていりなどに よる) けいしきしゅぎの きき
4、18せいき はじめの むげんしょうに よる きき
(わからない。 らいぷにっつが むげんしょうの はなしを している はず だが。要調査。)
5、ひ・ゆーくりっど・きかがくに よる きかがくの きき
https://youtu.be/EfxUUMsdojUが きかがくの れきしを まとめている。)

ききが あった

あるちゅせーる「かがくに ききは なかった。せいじの もくてきに よって、 てつがくの ながれが、 それぞれの かがくを ならべなおした だけ。」
(るい・あるちぇせーるは、 ふらんすごで かいた まくるすしゅぎの てつがくしゃ である。「学者の自発的な哲学」は どこに でているか わからない。かがく どくじの もんだいは なく、 せいじの もんだいに かんげんできる という いみだと ばでぃうは しょうかいしている。しかし、きょうみぶかい。あるちゅせーると いえば、 けいざいの もんだいだけには かんげんできない ことを ぎろんして、 せいじや しゃかい、ことばの じげんを どうにゅうした いめーじが あるので、 すうがくや かがくにも じげんを どうにゅうしていそう だった からだ。)
ばでぃう「すうがくは、どくじの もんだいを かかえて、 すうがくは どくじに かんがえる。すうがくで かんがえる ことで いくつかの なにかが できない という ことが もんだいに なる。」

1、けいしきてきな むじゅん。ぱらどっくす。がいねんを ひろく とったら、 ただしい くみあわせを くりかえしていったのに まちがい である むじゅんが うまれる という こと。
うえの 「2、19せいきの よーろっぱの ぱらどくすに よる しゅうごうろんの きき、3、せいれき 1930ねんだいの よーろっぱの (げーてるの ふかくていせい ていりなどに よる) けいしきしゅぎの きき」に たいおうする。

(ふれーげの しゅうごうの けいしき・りろんに たいする らっせるの ぱらどっくすとは、 つぎのような もんだいの こと である。

「ある町で,この理髪師は自分の髭を剃らない人すべての髭を剃る.ではこの理髪師は自分の髭を剃るのだろうか?」

というもの.自分で髭を剃らないのであれば,自分で髭を剃らなくてはならないし,自分で髭を剃るのであれば,自分で髭を剃らない結果となる.
https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-407851

ふれーげの しゅうごうの けいしき・りろんは、要調査。)

2、りろんの はたんする れいがい。とくていの きかがくてき かんけいが、 ある という ことは かずと たいおうしている という かんがえかたの れいがいに なってた。
うえの 「1、 こだいぎりしあの むりすうに よる ぴたごらすてき すうがくの きき」に たいおうする。

「第二の事例は、確立された理論がある一点において、この理論を維持しないように強制するある例外、あるいはある過剰によって対角化される場合である。」
60

(たいかくか という ことばは、 ぎょうれつの はなし だろうか?(https://youtu.be/FTC_aekgqCg)しかし、この あとに ぴたごらすはの すうがくに おいて、 せいほうけいの たいかくせんを かんがえている ので、 たいかくせんの はなしだとも おもう。ぴたごらすはの すうがく では、 せいすうで せいすうを わって できた かず しか みとめられなかった のだと りかいした。 いわゆる へいほうこん、るーとを かんがえないと、 たいかくせんの ながさが かずで あらわせない。)

3、あたりまえと かんがえられていた ことを、 こうり として みとめないと いけないと わかる という ぶんり(分離)。きまらない むげんの しゅうごうを みとめる、しゅうごうろんの せんたく・こうり など。ひていされてきた すうがくで こうちくできない ものが あると みとめられる。
うえの 「3、せいれき 1930ねんだいの よーろっぱの (げーてるの ふかくていせい ていりなどに よる) けいしきしゅぎの きき」と 「4、18せいき はじめの むげんしょうに よる きき 」に たいおうする。
(こうちく という ことばに ついている ちゅうは おもしろかった。 construction という ことばは、 すうがく では、 「こうせい」(構成)と やくされている らしい。すうがくてき こうせい・しゅぎ など。 たいして、 constitution という こうせいと やくせる ことばも ある らしい。
せんたく・こうりは、つぅるめろが はっきりと いった。

選択公理 X が互いに交わらないような空でない集合の集合であるとき、X の各要素から一つずつ要素をとってきたような集合(選択集合)が存在する:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86%E7%9A%84%E9%9B%86%E5%90%88%E8%AB%96

かじょう という のは、 りろんを はみだしている という いみ である。)

すうがくに たいする げんじつが はどめを かける。 つまり、 すうがくに おける ふかのうな ものが、 まちがっていない ほうほうで でてきてしまう。 この ように はどめが かけられて、 すうがくは じぶん じしんを かんがえる ように なる。 つまり、 じぶんの ぜんていを といなおし、 つくりかえる ことに なる。
1「けいしきてきな むじゅん」
2「りろんの はたんする れいがい」
3「あたりまえと かんがえられていた ことを、 こうり として みとめないと いけないと わかる という ぶんり(分離)」
とは、

非一貫性を出現させるパラドックスの類に属することもあれば、過剰を生じさせる対角的なものの類に属する場合もあり、定義されないものあるいは構築不可能なものを出現させる隠れた命題の照準の類に属する場合もある。

(あれ?「5、ひ・ゆーくりっど・きかがくに よる きかがくの きき」は もんだいに ならない のだろうか? 要調査。)

はどめが かかる こと

「表面に上昇してくるものが関わるのは、数学的思考においては、行為あるいは決意にぞくするものである。この〔表面への上昇という〕同じ運動のなかで、それが遂行する決断の規範について立場を決めなければならない。というのも、いわばわたしが行為の根元にいるからである。」
61

(けつだん、きめる、けつい という ことばが この ような ぶんみゃくで つかわれていた。 ほかの ところで せいしんぶんせき との かんけいを してき したが、 まちがっていた かもしれない。
ひょうめんに じょうしょうする とは、 あらわれる という いみ だろうか?
ひょうめんは きょくめん という すうがくの いみも ある かもしれない。
こだいぎりしあの てつがくで じょうしょうと いえば、 いであかいへの じょうしょうが あるが、 かんけいない かもしれない。
わたしが こういの ねもとに いる という ときの、 わたし という のは、 ばでぃうの こと では なく、 おのおのが じぶんの ことを いう ときの わたし である。)

なにかを きめる ときには、 ある という ことが もんだいに なる。
ぱるめにです「おなじ である という のは、 かんがえる ことであると どうじに、 ある という こと である。」(だんぺん 3)
(すうがくは なにかと なにかを おなじ である という ことが もんだいに なりやすい がくもん である。 たとえば、 いそう・きかがく という ぶんや では、 どーなっつと とってつきの まぐかっぷは どちらも あなが ひとつ だから おなじ であると かんがえる。なにと なにが おなじ であるかの きまりを かんがえて きめる ときに、 ある という ことが どういう ことかが もんだいに なる。なぜなら、 きめる ことを する じぶんも ある という しかたで ある という ことと かかわっている から である。)

きめる もの たち

「実在する通約不可能なものの命令の下で、ギリシャ人たちの思考は、存在と数の、幾何学的なものと算術的なものの別の結合の仕方を決意せざるをえなかった。この決意にはエウドクソスという固有名があたえられている。」
61ぺーじ

古代ギリシャではどのようにして無理数論が発展したのかよくわかりませんが、 その集大成はユークリッド原論の V のようで、これはエウドクソスによるものと されています。
http://asait.world.coocan.jp/pythagorean/irrational/irrational.htm#section6

エウドクソス(Eudoxos)は、紀元前4世紀の古代ギリシアの数学者、天文学者。エジプトで長く暮らし、後にアテネに移住した。著作は現存せず、その仕事は後世の他の学者の引用によって現在に知られる。

彼は紀元前4世紀ごろに天動説を唱えた。円錐の体積は、同じ半径、同じ高さの円柱の体積の3分の1になることを証明した。これらの成果は、ユークリッドの著書に記載された。

天文学者としては、地球球体説を採用し、また地球を中心に他の天体がその周りを回る天動説の立場に立った。彼によると、他の星々は各々個別の透明な球にはりついており、その球は地球を中心に速さをかえることなく回転しつづける(同心球モデル)。これによって、惑星の逆行を大雑把に説明することに成功したが、定量的な予測には至らなかった。彼の説明はアリストテレス宇宙論に取り入れられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%83%89%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B9

ことばで あらわせなければ すうがく では ない という かんがえかたに はんたいして、つぅっるめろは、 むげんの ような じゅんすいな ふくすうが あると きめた。

すうがく という かんがえる ことは、 ある という ことと、すうがくの なかの かんけいで、 どれくらい なかみを おなじに するかを きめる という ことが もんだいに なっていた。

ほうこうせい

すうがくは、ききに おいて、 ある という ことは どのようなことかを きめる ことに むきあう という おこないを つづける ことに なる。かんがえる ことが できる ないようが なにかを きめる のでは なく、 かんがえる ことの うちがわの、 つまり ほかの こととは かんけいない、 ほうこうせいの きまりを つくる ことで ききを のりこえた。
(そんざいろんてき けつい というのは、 はいでがーの けつだんの ぶんみゃくか?)

こうりに ついての ほうこうせい

ある なになにに ついて、 これこれ であると 「ある なになにに ついて」と どの はんいの はなし であるかを はっきり させる ことが、 ほうこうせい である。
また、すべての ある という ありかたを している ものが ある ばしょ である、 「うちゅう」を はっきり させる ことが ほうこうせい である。
つまり、ほうこうせい とは、 すうがく という かんがえに おいて、 なにかが ある としても、 これこれの はんいの なかでの はなし であると ちょうせいする こと である。
(ひ・ゆーくりっど・きかがくは ここから つながるの だろうか?)

しょうめいに ついての ほうこうせい

はいりほうを みとめるか どうかも ほうこうせいの もんだい である。
(はいりほう とは、 これこれ である ことを かていすると、 むじゅん する ので、 これこれ では ないと しょうめいする こと である。)

「思考が存在すると宣言するものへの到達経路として、思考がそれ自身のうちで固定するもの、これに決意は関わるのだ。実在への道程が言説の歩みに方向性をあたえるのである。」
63ぺーじ

(あると せんげんする する ため には、 それは ある ところの ばしょを うごかない ように する ひつようが ある。 ある という ことが どんな かんじか わかる ための みちすじ、 ほうこう、 ほうほうが それが ある ところの ばしょ である。 その ばしょを きめる ことが もんだいに なる。)

「しかし、実在とは、思考が宣言するものであると同時に、存在がその一貫性を保証するものであり、それは異なる方向性に応じて把握される。つまり実在と呼ばれるのは、それについての決意と出会いを、また行為と発見を識別できないものなのである。思考における方向性は特異な仕方でこの識別不可能性の諸条件をめざす。」
63ぺーじ

すうがくと ほうこうせい

すうがくは、 ふかのうが くる ことを あきらかに して、 ほうこうを かえる。
ふかのうが くる ことを しょうめいする ことで、 すうがくの なかに いろんな ほうこうが ある という ことを あきらかに する。

てつがくの おしごと

ほうこうせいの いっぱんりろんを あつかって、 すうがくが すうがく じしんと ほうこうせいに したがって むすび つく ことを あきらかに する。
じっさいに ある とは、 ある という ことを きめる こと であり、 ある という ことを きめる ことが かんがえる ことに ほうこうせいを あたえる。

ほうこうせいの りろん

1、 こうちく・しゅぎ・てき・ほうこうせい
「じっさいに ある という ことの きまりは、 あつかえる ことばで きまっている。」「じれいが ひとつ」
2、ちょうえつ・てき・ほうこうせい
「じっさいに ある という ことの きまりは、 なんか わからない ものが ぜんたい だから だ。」「ぜんたいの ばしょ」
3、るい・せいせい・てき・ほうこうせい
「じっさいに ある という ことの きまりは、 ろんしょうで むじゅんが ない という こと だけだ。」「げんさん」
げんさんてき「たいかく」「かじょう」「ふくすう」「つけたし」

せいじ

1、 こうちく・しゅぎ・てき・ほうこうせい
2、ちょうえつ・てき・ほうこうせい
3、るい・せいせい・てき・ほうこうせい

「要するに、議会制民主主義、スターリン、そして今日いささか手さぐりな状態で述べられるように、ジェネリックな政治、つまり国家からの減算としての実在の政治学、あるいは計算不可能なものとしてのみ存在するものの政治学である。」
66ぺーじ

しゅうごうろん

1、 こうちく・しゅぎ・てき・ほうこうせい
げーてるの こうせい・かのう・しゅうごうの がくせつ
2、ちょうえつ・てき・ほうこうせい
きょだい・きすう(基数)・りろんの りろん
3、るい・せいせい・てき・ほうこうせい
じぇれりっく・しゅうごうの りろん

そのほかの すうがくも この みっつの ほうこうせいが つきあわされている。
(きょうせいほう という すうがくの しょうめいで、 じぇねりっく・ふぃるた という ものが つかわれる らしい。)

じっさいに ある という ことを きめる ことが もんだいだ

かいしゃく よりも、 じっさいに ある という ことを きめる ことが もんだい である。

「意見の一致は思考の敵だ。そのような一致は、わたしたちは実在を許攸すると主張するからだ。しかし、思考のもっとも内奥において実在とは共有不可能なものなのである。」
67ぺーじ

ばでぃう「すうがくは かいしゃく しない。それが いい。」
ろーとれあもん「げんかくな すうがく、 すばらしい。」
ばでぃう

「厳格なものがあるとは、形式主義や証明の連鎖のことではなく、次のように定式化できるような思考の格率を露わにするということである。すなわち、存在するものを決意するときにこそ、おまえは自分の思考を存在に結びつけるのだ。しかしそのとき、おまえは存在を意識しておらず、ある方向性の命令にしたがっているのだ、と。」
67ぺーじ

(ろーとれあもんは、 ふらんすごで かいた しじん。げんかくな すうがくを ほめるのは、 「『マルドロールの歌』第二歌第十ストローフ」である。

f:id:hunihunisaito:20210410153537p:plain
ろーとれあもんが すうがくを ほめる。

原大地(はら・だいち)「「書くこと」の倫理--イジドール・デュカス『ポエジー』読解」、仏語仏文学研究. 仏語仏文学研究 (22), 105-136, 2000. 東京大学
119ぺーじ
でゅかす とは、 ろーとれあもんの ほんみょう である。)

だいさんしょう

ていねいに よみすぎて、 じかんが ない ので、 みじかく かく ことに した。
といっても、しらない ちしきに ついては、 いんようする ことに する。

らうとまん

Albert Lautman (February 8, 1908 – August 1, 1944) was a French philosopher of mathematics, born in Paris. An escaped prisoner of war, was shot by the Nazi authorities in Toulouse on 1 August 1944.

えいご やく。
Albert Lautman’s “Mathematiques et Réalité”の ほんやく。

The participation of the sensible in the intelligible in Plato can be identified. If the first contacts with the sensible are not sensations and emotions, the constitution of mathematical physics gives us access to the real via the knowledge of the structure it has been given. Similarly, it is impossible to speak of the independent reality of the modes of thought according to which it leaves it to dread and disparage the merely mathematical language indifferent to the reality that it decries, philosophy engages itself through an attitude of meditation where it should achieve the secrets of nature. There is, therefore, no reason to maintain the distinction, made by the Vienna School, between rational knowledge and intuitive experience, between Erkennen and Erleben. In wanting to remove the relationship between thought and the real, as in refusing to give science the value of a spiritual experience, one risks only having a shadow of science, rejecting the spirit in the search for the real towards the violent attitudes where raison plays no part. This is a resignation that the philosophy of science must not accept.
https://stellarcartographies.wordpress.com/2008/09/15/albert-lautman-mathematics-and-reality/


えいごやく。

The following is the Introduction to Albert Lautman’s Essai sur les notions de structure et d’existence en mathématiques: Les schémas de structure. Paris, Hermann & Cle Ed., 1938. p. 7-15. Original translaion by Taylor Adkins on 10/16/07.

This book is born from the feeling that in the development of mathematics, a reality continues which mathematical philosophy has as a function to recognize and describe. The spectacle of the majority of the modern theories of mathematical philosophy is in this respect extremely disappointing. Generally, the analysis of mathematics reveals only very little things and very poor things, like the research of identity or the tautological character of propositions[1]. It is true that in Meyerson the application of the rational identity to various mathematics supposes a reality which resists identification; it seems that there is thus the indication that the nature of this reality is different from the too simplistic diagram with which one tries to describe it; on the other hand, the development of the concept of tautology has completely eliminated from Russell’s school the idea of a reality suitable for mathematics.
https://fractalontology.wordpress.com/2007/10/16/translation-albert-lautmans-essay-on-the-notions-of-structure-and-existence-in-mathematics/

こんうぇい

ジョン・ホートン・コンウェイ(John Horton Conway, 1937年12月26日 - 2020年4月11日[1][2])はイギリスの数学者。プリンストン大学教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4

ちょう・げんじつ・すう
くうしゅうごう から ふたつの かずの あいだを とる という ことを くりかえして かずを つくっていく ことで、じっすう いがいの むげんも ふくむ かずを つくれる。 しかし、 この かずは、 じっすうと おなじく、 たしざん、ひきざん、かけざん、わりざんが できる ように つくられている という もの。

それとは別の定義および構成法が、ジョン・ホートン・コンウェイにより、囲碁の寄せについての研究から導かれている[2]。コンウェイの構成法は1974年にドナルド・クヌースの著書 Surreal Numbers: How Two Ex-Students Turned on to Pure Mathematics and Found Total Happiness[注釈 2] に取り入れられた。対話形式で書かれたこの本においてクヌースは、コンウェイが単に「数」と呼んでいたものに「超現実数」という新たな名を付けた。のちにコンウェイクヌースのこの造語を受け入れ、1976年には超現実数を用いてゲームを解析する On Numbers and Games(英語版) を著した[3]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E6%95%B0

ばでぃう

「現実の存在論が、一の規範を免れている数学として配置されるのであれば、この規範全体を回復させる必要はないとしても、存在論の、したがって数学の領域が脱全体化される点、あるいは袋小路に入り込む点がなければならない。この点を、わたしは出来事〔「出来事」を きょうちょうしている。〕と呼んだ。」
70ぺーじ

できごとに とって ふくすうは ことなる ものか どうか。
どぅるーず「ことなる。かずと しつの ちがいの ふくすうだ。」
ばでぃう「おなじだ。 こうりてきに おなじ ふくすうだ。」

「あるいは、反対の領域registrationを取り上げると、ラカンにおいてこの問いはまた、想定される知と伝達可能な知の間にある、すなわち解釈とマテームの間にある真理の蝕としての〔精神〕分析行為という思考に投じられている。しかし、これおはニーチェにとっても決定的な問題である。世界の歴史を二つに割ることが問題になる場合、生の絶対的な肯定のなかでそのような断絶の思考可能な原理とはいかなるものであるのか。」
72ぺーじ

「わたしはもう一度この点を、つまり存在論的な数学性に対抗するようにして、同様に「生」という語を存在の主名としてドゥルーズに選ばせたものを検討したいと思う。」
73ぺーじ

だいよんしょう

ドゥルーズ存在論における主要な禁令では、以下のように述べれられる。すなわち、存在とはいかなるカテゴリーにも、あるいはその内在的な分割のいかなる固定した配置にも折り畳まれることはない、と。存在者が多義的なアナロジーによって分配、分類されることが決してない以上、存在は一義的である。
たとえば性をもつsexué存在、あるいは性的なsexuel存在とはいかなるものであるのかと問うてみよう。あなたがもし男性あるいは雄という自己同定から出発したなら、その直観を構築することは不可能である。しかし、例外的にせよ、あるいは何らかの欠損によってにせよ女性的存在、すなわち女性性の内部性と想定されるものから出発するとしても、同様にこの直観の構築は不可能である。必要なのは、それらが分岐する位相において、男性における女性への生成変化devenir femme と女性の男性的領土性territorialité masclineが交錯する屈折点に赴くことである。男性は、その女性的潜在性の現働化としてのみ思考可能である。より正確には、男性を男性性に割り当てることができなくなる点においてのみ、男性は思考可能となる。というのも、男性の女性的潜在性はそれ自身、男性的領土性の逃走腺だからである。その結果わたしたちが性的存在と考えるのは、女性化の運動と男性化の中断を識別的なくなるときであり、これら女性化の運動と男性化の中断は識別不可能なもののなかで、お互いのエネルギーを交換する。
次のようにも言えるだろう。性的存在は、その存在にしたがって、つまりはその存在の様相的な現働化にしたがってかんがえられるならば、性をあたえられないし、「性的sexuel」ということで特性のある目録が理解されるのであれば、性的存在は性的でさえない、と。この目録がどのようなものであろうと、そしてたとえそれを無限に複雑にしたとしても、性的存在が直観可能であるのは、すべての特性が相互に変貌させられる、割り当て不可能で識別不可能な中間=場においてのみである。
存在はいかなる特性ももたない、というのは古い命題である。しかしドゥルーズはこの命題を刷新したのであって、それによれば諸特性の現働的な分離から分離されていない潜在化による、それら諸特性の動的な中性化が存在であるとしたことにある。」
74-75ぺーじ

いまだに りかい できていないが、 ばでぃうの いけんの かのうせいは あるし、 ばでぃうに よる どぅるーずの いけんの まとめと かんがえる ことも できる。
きほんに あるのは せいしんぶんせきの せい・さべつてきで、 せいべつ・にげんろん てきで、じょせい・さべつてきな せいべつの かんがえかた である。
ばでぃうに おける どぅるーずや ばでぃうは じぶんが あたらしい ものを つくった きになっている かも しれないが、 ただ たんに わるい ものを かさねている だけ である。
まず、この ぎろんからは、 せいべつは ふたつ である という きはんてきで わるい ぜんていが かわらない ことを かくにんしよう。
「ある」 という 「ちゅうせいか」が もたらされると しても、 それは、 ある なにかや、 せいてきに ある なにかは だんせいか じょせいかに わけられるという いみ でしか ない。
けっきょく、 せいべつ・にげんろんに おちいり、 せいべつ・にげんろんに あわない せいべつの もの たち、 たとえば えっくす・じぇんだー などを せつめいする かんがえかたには なっていない。
つまり、ふへんせいが たりない という ことだ。
さらに、 じょせい・さべつに たいする ふぇみにずむの ことばを かりれば、 「しんせいか」(神聖化) しているに すぎない。
げんじつに ある なにか としては みとめず、 すばらしいと かんがえる もの だけを じょせいに あてはめて、 げんじつの おんなたちを おとった ものと かんがえる ことが しんせいか である。
ちゅうせいを ばでぃうが みとめる としても、 てんし という 「すばらしい」 ありかた だけ であり、 それは、 ばでぃうに とっての にんげんが いっていた としたら、 まちがっていると ひていしてくるのだ。 くたばれ。
いじょうが、 かんたんな せいべつ・にげんろんの もんだいてん である。
いっぽうで、 じょせい・さべつを くりかえしている だけ という ことも いえる。
まず、 じょせい・さべつを きじゅつしている だけ といって たすけようと しても、 それでは その じょせい・さべつを かえる ような きじゅつの しかたを しなければ わるい だけだ という はんろんを する ことが できる。
じょせい・さべつを きじゅつしながらも、 その じょせい・さべつを かえる ような きじゅつを する ほうほう としては、 ばとらーの 『じぇんだー・とらぶる』 でも よめば いい。 「てつがくしゃ」 でさえ できている のだ。 ばでぃうに できないとは いわせない。たんに やらない だけで、 わるい ことを したい だけ なのだ。 ほんにんは わるい ことを している つもりは ない のは、 わかっている。 けっか として わるい ことを している という はなしを かいている のだ。

そして、この ぶんしょうは どぅるーずに おいて、 なぜ 「おんなに なる」 という ことが もんだいに なる のかを あきらかに する ぶんしょう では あるが、 りょうどかが だんせいてきな ものと される ことは、 もんだいが ある ように おもえる。 りょうどかの いちばんの れいは、 しゅふ としての おんなが いえで おんがくを かける ことを ぐたいれいとして どぅるーずは つかっている からだ。 この ことは、 どぅるーずの りろんを いちぶ せつめいするが、 いちぶ せつめい できない かのうせいが ある まとめに なっている かのうせいが ある という ことを あらわす。
さて、おんなは かのうせいに とじこめられる ことに なる。 そして、いせいあいしゅぎと しすじぇんだー ちゅうしんしゅぎが あらわれてくる。わるい。
もし、 ここを りかいしたいならば、 らかんの せいべつかの ぎろんを さんこうに すると わかりやすく なる だろう。 ふぃんく という ものの せいべつかの ぎろんは わかりやすいと おもう。
せいてきに ある という ことを、 げんじつせい という ような ようそうの もんだいで かんがえるのは、 うまくない という のは その とおりだと おもうが、げんじつ てきな ことと かのうてきな ことが かわる ことが せいてきな こと である という ことも わるい。 うまく きじゅつすら できていない。 かえる ことも できていない。
いじょうの ように かいたが、 もちろん、 うまく きじゅつできている、 かえる ことが できる という ことを みちびく ことを ひていは しない。 がんばれ。

にーちぇと どぅるーずに おいて、 ばでぃうは そんざいを いきる ことと むすびつけている。そして ひはんしている。

だいごしょう すぴのざ

ベルナール・ポートラ(Bernard Pautrat)

1944年生まれ。1962年にパリの高等師範学校(École normale supérieure)入学。1966年にアグレガシオン(教員資格試験)主席合格。1968年に高等師範学校復習教師に就任し、同校で自分が教えを受けた復習教師であるアルチュセールデリダの同僚となる。1971年にニーチェ論で博士号取得(指導教授はモーリス・ド・ガンディヤック)。1972年にスリジーラ・サールでド・ガンディャックと共にニーチェをめぐる10日間のシンポジウム『今日のニーチェ?』を主催。以後はスピノザ研究及びスピノザの仏訳(『エチカ』、『知性改善論』、『政治論(国家論)』)を継続的に行ないつつ、退官まで高等師範学校で教鞭をとり、現在は同校名誉教授。また1970年代から劇作家、脚本家、詩や戯曲の翻訳家としても活動している。

著作

• Versions du soleil. Figures et système de Nietzsche, Seuil, 1971.(『太陽の諸ヴァージョン————ニーチェの文彩と体系』)

• Ethica Sexualis. Spinoza et l’amour, Payot, 2011.(『性愛のエチカ————スピノザと愛』)

論文(日本語訳のあるもの)

• « Nietzsche médusé », in Maurice de Gandillac et Bernard Pautrat (dir.), Nietzsche aujourd’hui ?, UGE, 1973, réédition, Hermann, 2011.(ベルナール・ポートラ「メドゥサに石化されたニーチェ」、高橋允昭訳、『現代思想』臨時増刊号、第四巻第十二号、青土社、1976年)

スピノザの仏訳

Spinoza, Éthique (bilingue latin-français), Seuil, 1988, nouvelle édition en poche, Seuil, 1999, édition revue et amendée, 2010.(スピノザ『エチカ』の羅仏対訳)

Spinoza, Traité de l’amendement de l’intellect (bilingue latin-français), Allia, 1999, nouvelle édition, 2016. (スピノザ『知性改善論』の羅仏対訳)

Spinoza, Traité politique, Allia, 2013.(スピノザ『政治論』のフランス語訳)
http://www.gakuju.com/kyokai/Pautrat_20171125.htm

だいいちの かんけいは いんがかんけい である。
きょうつうの ものを しる ことが りせい である。

カップリング関係が異なる属性のだいだでの分離を乗り越えることを可能にするように、包含関係は有限と無限のあいだの分離を乗り越えることを可能にする。知力はそのとき存在論的に無限な知力の局在的な点として決定され、無限な知力はそのような点を集めなおしたものになる。無限な知力が主体的効果の内因的な様相であると述べることが適切であるなら、人間の知力は、局在化された主体的効果である。あるいはそれは主体の微分である。あるいは単刀直入に言って、それは主体である。
(5)人間の知力は同様にカップリングによっても定義されうる。そのことからすぐに、真理という点だけが公理論的であり一般的であるということが帰結する。特異性は、局在的な主体のあらゆる微分から減算される。また次のようにも述べられる。ある主体が、それゆえ人間の精神が真理にたいしてもつ唯一の受容力は、存在の数学、あるいは数学的に思考された存在である。すなわち、あらゆる真理はジェネリックである。
あるいは、次のようにも述べられる。存在について思考可能なものは数学的である。」
109ぺーじ

だいろくしょう、ぷらとん

プラトン的であるとは、感覚可能な経験や言語の経験には移行しない思考、すなわち決定不可能性に場所を譲る決意に依存し、一貫しているものはすべて実在すると仮定する思考として数学を承認することである。」(すべて きょうちょう されている。)
115ぺーじ

あぽっりあてきな すたいいるは

「つまり、それは決定不可能なものの点へと導くことであり、それによって存在の出来事の観点から思考はまさに決意すべきであることを、そして思考はあmずもって記述でも構築でもなく、(臆見との、つまり経験との)ある切断であり、したがってある決意であることを示すためである。」
117ぺーじ

ごーるどばっは よそう

「全ての 2 よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E3%81%AE%E4%BA%88%E6%83%B3

ロウボトム もの
らむぜーきすうは おめがで あらわされる。
れんぞくたいかせつ。
https://youtu.be/0MnPvO9DtxM?t=2004

だいななしょう ありすとてれす

プラトン主義者にとって、数学とは現実〔界〕の学である(これはラカンの定義であって、この点ではかれは完全にプラトン主義者である。)」
130ぺーじ

「さて、数学の観念的記号表出の出所の検証を可能にするのは何か。これらの表記が空間的なものにせよ他のものにせよ、何らかの表象に結びつけられているかぎり、それらは構築〔「構築」を きょうちょうしている。〕である。それらが言語、数字表記、計算に結びついているかぎり、それらはアルゴリズム〔「アルゴリズム」を きょうちょうしている。〕である。アリストテレス主義者あるりはライプニッツ主義者にとって、数学は(その代数学的側面について述べれば)アルゴリズム的であり、(幾何学的側面について述べれば)構築的でなければならない。このことのみが論理学としての数学の運命を、現実的な理性の監督にゆだねるのだ。」
132ぺーじ

だいはちしょう げんごろんてきてんかい

うぃとげんしゅたいんと はいでがー では、

「思考の運命がかけられている場こそが、まさに言いうるものの境界なのである。」
140ぺーじ

ぐろだんでぃーく・うちゅう
は?
あいれんばーぐ
まっくれーん
ふれいど
ろーヴぇあ
じゃん・とぅさん・どぅさんてぃ
べんきょうを しないと いけない。

だいきゅうしょう とぽす

もし本当にトポス理論によって論理学が数学の可能的な宇宙の局在的次元であることを内的な仕方で確立されるのであれば、その場合この理論のなかには、わたしが存在論的論理学ontologicologique、あるいはハイフン入りで存在ー論的とさえ呼ぶような定理が実在するのでなければならない。つまりそれは、次のようなジェネリックな形式をもつ定理である。すなわち、ある思考可能な宇宙が云々の存在論的特徴を所有する場合には、そこに云々の論理的制約が特定されるという定理である。この定理は遠近法の転倒と〔「と」を きょうちょうしている。〕、言語とその規則的な統語論的使用についてのあらゆる明示的な言及の削除と〔「と」を きょうちょうしている。〕を遂行するものである。

ばでぃう「あるが いち なら こてんろんりに ならない ぞ☆」

だいじゅうしょう ろんりがく

「つまり哲学の運命への言語の支配をどのように中断すべきなのか。」
154ぺーじ

「(1)論理学は形式化でもなければ、統語論でもなく言語論的装置でもない。それはトポスというジェネリックな概念の下で、可能な数学的諸宇宙について数学化された記述をおこなうことである。ある数学的宇宙つまりあるトポスはそれ自身の論理学を局在化する。
(2)可能な数学的宇宙は、いくつかの存在論的特性とそれ自身の内在的な論理学のいくつかの特性のあいだでの強制的な相関関係を固定する。この相関関係の研究が論理学そのものの根本的内容である。こうして、論理学はそれ自身が存在論に従属することを思考する。論理学はこの従属を思考するがゆえにこそ、数学化されうる。というのも数学は存在論そのものであるのだから。
(3)数学はある可能な宇宙を現実のうちに配置する公理論的決意によって遂行される。このことから論理学的拘束が生じる。論理学的拘束は可能な宇宙の論理学によって論理学的に思考される。これらの論理学的拘束は現実の数学によって実践されるのであって、思考されるのではない。
(4)その結果、論理学と数学の還元不可能な隔たりは思考する決意の盲点〔「もうてん」という ことばは、 みえない ところを いみ するが、 この ことばが ひていていきに つかわれるとき、 さべつてきに なる。 みえない ことは わからない こと では ない。 みえない ことは よい こと でも わるい こと でも ない。ここでは、 いんようしたが、 かわりに、ながい ひはんを いんようの したに かく ことで かわり と する。〕に起因することとなる。この種のあらゆる決意は必然的なものとして実践される論理学を設定するのだが、この論理学はその決意の帰結なのである。数学化された論理学は、存在ー論的相関関係を思考するがゆえに、この盲点〔「もうてん」という ことばは、 みえない ところを いみ するが、 この ことばが ひていていきに つかわれるとき、 さべつてきに なる。 みえない ことは わからない こと では ない。 みえない ことは よい こと でも わるい こと でも ない。ここでは、 いんようしたが、 かわりに、ながい ひはんを いんようの したに かく ことで かわり と する。〕の晴れ間となる。しかし、そうするためには、この論理学は公理論的な命令の下でのみ出会う現実から、定義と分離の体制のなかでしか記述されない可能なものへと後退しなければならない。」
156ぺーじ

「もう」という ことばは いちぶの しかくしょうがいしゃを あらわす ための ことば であると どうじに、 せいがんしゃ という みえる ものの しゃかい では さべつてきに つかわれる ことば でもある。「もう」 という ことばを つかう ことで、 なんらかの わるい ことを あらわそうと したり、 できると おもうの であれば、 それは まちがい である だけ では なく、 どうとくてきに わるい。
この ことは、 「もう」に ついて ほとんど しらなくても かくことが できる ていどの ないよう である。 じぶんは ほとんど しらない ので、 かける。 もし、 あなたが せいがんしゃで、 せいがんしゃ という ことば すら しらない という こと ならば、 それは あなたは じぶんが せいがんしゃ である という こと すら しらないで いきのびてきた という ことの いみを かんがえなければ いけない。 あなたが であってきた しかくしょうがいしゃと あなたは どれだけ はなされて いきのびる ことに なっている のか かんがえる ひつようが ある。 しかくしょうがいしゃと いっても、 そのなかには もうを なのる ものも いれば、 ろーびじょんを なのる ものも いただろう。なのらない ものも いた かも しれない。 しかし、 もし、 ここ まで よんできて、 しかくしょうがいしゃと あった ことが ないと おもえる ので あれば、 それは、 あなたが せいがんしゃ・ちゅうしんの しゃかいの なかで、 であってきた しかくしょうがいしゃを せっきょくてきに わすれようと している から では ない だろうか? あなたは しかくしょうがいに ついて はなしても だいじょうぶな あいてと みなされて こなかった から では ない だろうか?
そのように かく いっぽうで、 「もう」 という ことばに そこまで きにかけなくて いいと おもう ものも いる かも しれない。 とくに、 もう という ことばを つかっている じぶんの なまえとして つかっている ものも、たとえ ひていてきに つかわれたと しても、 さべつとまでは いえないと おもう ものも いる かも しれない。 まず かいておく。 「じぶんは そこまで する のだ。」 つぎに かいておく。 ことばが どれだけ しゃかいに あふれているかを かぞえてみてください。 もちろん、 ことばを まったく なしで せいかつ できている かたも いる かも しれない。 しかし、 じぶんは この ぶんしょうを かいている じてんで、 そうとうの かずの ことばを つかってきている。 なので、 ことばの つかいかたが 「そこまで」と あらわされる ていどの もんだい だとは おもわない。 そして さいごに、 たとえ その ことばを さべつてきに つかう ことが さべつで なかった としても、 その ことばを えらぶ さべつてきな かんがえかたを じぶんは ゆるさない。

さらに、 もし、 ぐうぜんに おなじ おとや おなじ もじを つかっている という なら、 それは かえた ことばを つかって いい という いみに なると おもう。 ここまでの はんぱつを まねいてまで その ことばを つかう いみは どこに あるのだろうか? これは ひはんだ。 そんな いみなんて ないと かんがえている という ことだ。「ひょうげんの じゆう」? もうを なのる もの たちの ひょうげんを うばっておいて じぶんで しんがいしている じゆうを じぶんの ためには つかう なんてことは できない し、 する べき では ない。「そんな ことを いう から さべつに はんたい しなくなるんだ」? ふざけないでほしい。 そんなことを いう から いまから おまえを ころすと いわれても はんろん できなく なるから やめておいた ほうが いいし、 やめるべきだ。そして、 その ことばを いった じてんで、 その ものは すでに さべつに かたんしている から、 あんしんしてほしい。 もとから そんな ものは なかま だと おもっていない。 そんな ものには、 さべつを やめる べきだ という ことばを なんかいでも おくる つもりだ。 さべつを やめなさい。 さべつを やめよう。さべつを やめるべきだ。 さべつを なくさなければ ならない。 さべつを なくして ください。 さべつを やめてください。 さべつを やめろ。 さべつを やめよ。 さべつを なくそう。

サブオブジェクトクラシファイアー???

随伴 (ずいはん)、随伴性 (ずいはんせい) はいくつかの異なる分野で異なる意味で用いられている。

哲学において、随伴または付随 (ふずい) とは、スーパーヴィーン (supervene) の訳語として、ある異なるレベルにおける特性の間で成立している強い依存関係に関して使われる言葉である。 付随性を参照のこと。
数学において、随伴は、数学の様々な分野に現れる随伴関手の対 (adjoint functors) が示す関係を表すものとして使われる。 随伴性はアジョイントネス (adjointness)、アジャンクション (adjunction) の訳にあたり、この概念は圏論において抽象的レベルで明確化される。 普遍性も参照のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E4%BC%B4

「この〈行為〉は論理学的には逆なのだが、サイコロの一振りのような、偶然との出会いという形式をとる。こうして思考は純粋な出来事的アジャンクションの条件にしたがう。このアジャンクションのためにこそ思考は厳格な論理学を生み出すのである。この論理学は、思考が出来事に忠実でありながら、〈行為〉を認めることで自らを開示するということから生じる。この忠実さが今度は、自分の〈主体〉にとってのみ必然的であるような、ある真理を配置する。〈必然性〉は結果でしかないのである。」
159-160ぺーじ

まらるめ

まらるめの はなしを よんだ。
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=BA88455348-00000012-0131
こうい とは、 じし する こと である ようだ。

ベルトラン・マルシャルはこれをさらに詳細に説明している。「とある城館の一室、真夜中。カ}テンあるいは分厚い壁掛けで四方を囲まれたこの部屋には大時計、鏡、神秘的な家具があるのが分かる。テーブルの上には聞かれた本が一冊と蝋燭が一本。おそらく最初期のシナリオに対応するであろう断章のいくつかには硝子の小瓶も登場する。登場人物は、彼の種族の最後の継承者で、テーブルの本に書かれている宣教の言葉で太古の義務、偶然を廃するものと見なされる行為を完遂しようとしている。このため彼は本と蝋燭を携えて、部屋を出て、彼の祖先を納めている墓のある地下に降りていく。この行為の虚しさを意識しながらも、祖先の義務に忠実に従い、彼は行為を完遂する。それは小瓶のなかのものを飲み干す、あるいは妻子を振り(単なるまねごと、それを揺り動かすことに満足するのでなければ)、本を閉じ、蝋燭を吹き消し、祖先の灰の上に横たわることである」
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154

なわち生の苦、そして死ななければならない義務、そのために必要な虚無を含んだ小瓶、その虚無は自我の不在=狂気の実体化したものである。こうして毒をあおった後に、祖先の灰の上に寝ることでニルヴァーナ浬葉、虚無との合ーが達成され、イジチュールは完全に虚無の深淵に沈んでいくことは前述の通りである。
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154

暗さのなかから明るさが生まれ、ヘーゲルにならって、無限定で無に等しい絶対者である「闇」「夜Jから有限な存在である光が生じることを、マラルメはその語の音の持つ観念を利用し、さらにそれを反復させることで試みようとしているのである。
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154

ox

問題は第一段落の「響き[sonorite]Jと最終段落に現れる「時計[horloge]」に含まれるorである。この存在によってorすなわち金が呼び起こされるのであるは3)。単語のなかにこのorを含む語、あるいはorという語は文中、14箇所に散らばり、反復されている。このことから視覚的・感覚的に金の輝きが明滅するかのような効果が生み出されている。また同時にhorlogeはラテン語のhorologuim、さらにはギリシア語のhorologionにまで遡れ、時間を意味するギリシア語haraから派生してきている。そのためこのhorlogeは時間を連想させ、orは金の輝きと同時に12時を告げる時計の打刻音をも喚起し、時計の鐘が鳴るたびに光が明滅するような印象も生み出している。
大出敦(おおで・あつし)「イジチュールの夜 : ステファヌ・マラルメ『イジチュール』試論」慶應の教養学 : 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論文集 (2008. ) ,p.131- 154

ixに ついて

海老沢,英行(えびさわ・ひでゆき)「X のソネ : ステファヌ・マラルメアナグラム」藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.64, (1993. 12) ,p.70(141)- 88(123)
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00640001-0088

マラルメ詩集では,発表以来最後のドゥマン版詩集に至るまで題名のないこの12音節詩句の変則ソネは,「Xのソネ」と呼び習わされてきた。これは,仏語においてとても稀少なその脚韻yx ( ix) [iks]に基づいておジャンルり,ご覧のように,四行詩節の脚韻(yxと-ore)は,性を替えて,三行詩節にも同ーの韻(-ixeと-or)のままで維持されている。

Ses purs ongles tres haut dediant leurs onyx,
L’Angoisse, ce minuit, soutient, lampadophore,
Maint reve vesperal brfile par le Phenix
Que ne recueille pas de cineraire amphore
Sur les credences, au salon vide: nul ptyx,
Aboli bibelot d’inanite sonore,
(Car le Maitre est alle puiser des pleurs au Styx
Avec ce seul objet dont le Neant s’honore.)
Mais proche la croisee au nord vacante,
un or Agonise selon peut-etre le decor
Des licornes ruant du feu contre une nixe,
Elle, defunte nue en le miroir, encor
Que, clans l’oubli ferme par le cadre,
se fixe De scintillations sitot le septuor.
その清らかな爪で高々と縞璃耳舗を捧げるとく苦悶〉はこの真夜中灯明台となって支えるく不死鳥〉に焼かれた夕べの数多の夢を
その灰を納める骨壷はない虚ろな居間の飾り棚の上には,つまりプティックスはない,空しい響きのするあの廃れた置物は(なぜならく主〉は涙を汲みにく黄泉の河〉へ行ったのだからく虚無〉の栄誉を高めるあの唯一の品を携えて。)だが北向きの空いた十字窓の辺りに,金の光が絶えようとしているのは,たぶん水の精に火を吹きかける一角獣たちの縁飾りのため,水の精は鏡の中で雲となって消えてしまうが,枠に閉ざされた忘却の内に定着されるのは,きらめきのやがて定かな七重奏。

以上のように,後半では西欧における神話的形象や悲劇の登場人物が集中して現れており,結局,妖精の死に、冥界下りの聞には復活がないことの暗示を読み取ることができるのである。しかし,最後にそれを忘却することによってかろうじて,鏡即ちこの詩篇に定着されるのは,ギリシア神話でニンフのカリストーが化した「北斗七星(大熊座7))」であり,あるいはむしろ詩的に喚起される七つの星の星座である。つまり,最終行の最後の語「七重奏septuor」が表しているのは,このソネの脚韻orなのである(その点では初稿が正確にorの脚韻を七つ用いているが,ここでは同じ性の脚韻の数であると考える)。いずれにせよ,この星座は,上の格闘を調停する徴なのだ。また,詩人が創造し直しているのは,一間の部屋と,聞かれた窓を通して室内にある鏡に映し出された星座であり,この詩篇は天と地を結び合わせているので,7としろ数が暗に天地創造の七日間を示してもいる。(第4詩節)

詩句の初めから,新たな読解を再開してみよう。1行目の詩句には,すでにそのアナグラムに照明が当てられている。官頭では,最終詩節に先立って,予め星を表す清らかな「爪(縞璃楢)」が提示されていたが,l行目の6音節までの詩句がseptuor(七重奏)のアナグラムになっていることが指摘されているのEs PURs ongles Tres hAUt.../SEPTUOR12))。これは,終わりの先取りによって始まり,始まりの回想によって終わるマラルメの詩に固有の構造であり,この詩人が抱いていた書物の構想に見合うものだったに違いない。「一冊の書物は始まらないし,終わりもしない。せいぜ、い,そう見えるだけだ13)。」しかし,最も大事なことは,「七重奏」が意味している「星座」の暗示することであり,また,この単語自体の綴り字である。要するに,septuorという語は,詩人の名前と密接な関係で結ばれており,詩の制作において,St句haneという名前から産出されたかのような印象を与えて止まないのだ。なぜなら,まず詩人の名前の最初の四文字(STEPhane)は,数字の七(sept)のアナグラムになっている。また,後半の五文字(StePHANE)は,語の構成要素である-phane(またはphanie)と同じ綴りであり,これはギリシア語のphanes(phaneia)を語源としていて「出現Jの意味がある。したがって,マラルメの名前をsept-phaneと解読することができる。ソネの最終詩節で定着されるのは,いわば「七の一出現J(sept phane)である七つ星(septetoiles)だから,以上の点より,詩人の名前に始まる語の連合が成立する(St句hane;sept-phane; sept etoiles; septuor; SEs PURs ongles Tres hAUt)。このように,類推やアナグラムによるこの詩人の名前の展開によって最初の詩句が得られたかのような印象を覚える。

初期詩篇と呼ばれる1860年代前半までの詩はボードレールの問題系である「理想と現実の差異への葛藤と苦しみ」が、その後は「詩が書けないこと」そのものを主たるテーマにおいている。マラルメがある時期から生涯を通じて目指していたのは、詩を創作する上で生じる「偶然」を排した完全・完璧な美しい詩を書くことであった。その並外れた困難さゆえに、極度の詩作の不毛に悩まされた。それこそが後に着想される「作品」Œuvreである。彼の詩集に収められた詩は、幾つかの例外を除いて、ほとんどがこの「作品」(更なる後に「書物」Livreに置き換わる)の制作過程の副産物であったとも考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%A1

最晩年、『コスモポリス』誌に『骰子一擲』を発表。これは「詩と偶然」について扱われたものだが、さまざまに異なる書体や文字の大きさを用い、それまでの西洋詩のもつ諸概念を根本的に覆した。「賽(サイコロ)の一振りは決して偶然を排さないだろう」"UN COUP DE DÉS JAMAIS N'ABOLIRA LE HASARD"という軸になる一文と、それにまつわる複数の挿入節の文章で構成されている。詩の内容のみならず、その視覚的形態はいまなお革新的で斬新である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%A1

だいじゅういちしょう かず

「直接的に純粋な多として、つまり一なき多として」
163ぺーじ

じぇねりっくな ば(166ぺーじ)
”ジル・シャトレ”
なぞの じんぶつ
いちばんおもしろい しょうだと おもう。

だいじゅうにしょう かんと

ここで かんとが でてくる ところが おもしろい。
ばでぃう「いちとして かぞえる ことは じょうきょうに おかれた ある とも いう。」
けつだん(175)

「というのも実のところ、対象は実在するものを示すのに適切なカテゴリーでは決してないのであって、実在するものとは、状況におかれることで純粋な多が「一として数えられる」ことが明らかになるような、そういったものだからである。〔それにたいして〕対象は連結にかんしてのみ一を示す。つまり対象とは、存在者のなかでも、むずび付きの錯覚にしたがって表象可能となったものである。「対象」という語は、離接的である二つの問題系のあいだを混ぜ合わせる媒介作用として働く。すなわちそれらの問題系とは、一貫性を欠く多を「一として数えること」の問題(つまり存在の現れの問題)と、実在するものの連結された経験の問題である。対象という概念は両義的なものになるが、このもう一つの両義性について述べれば、これは典型的にカント的な両義性である。すなわち「悟性」という同じ用語に統一の高次機能――根源的統覚――と、連結の悟性的機能を割り当てるというような両義性である。」
178ぺーじ

「この何ものか一般=xは決して現前することも結び付けられることもないにもかかわらず、その存在にかんしてその連結は維持されている。そしてわたしたちは、このxが純粋な多あるいは一貫性なき多であり、それゆえ対象は、見かけの連結の相関項であるかぎり、いかなる存在も有していないということを知っている。カントは、存在論の減算的特徴を、つまり現前する状況を存在と結びつける空を生き生きと意識していた。したがって、「一として数えること」という不在である操作として施行された根源的統覚の存在する相関項は正確には対象でなく、対象一般の形式なのであり、つまりは対象がそこから生じる絶対的に未規定な存在なのである。カントはこのことからかれのもっとも集中した存在論省察において、数える操作を二つの空の相関関係〔「二つの空の相関関係」を きょうちょうしている。〕として考えるようになる。
180ぺーじ

だいじゅうさんしょう ぐん、けん、しゅたい

おもしろい。

「ここでプラトンの『ソピステス』を、あらゆる知解可能性のなかでも最重要五類の知解可能性を想起しなければならないだろう。存在、純粋な存在、純粋に空虚な存在は文字Gであり、「存在する一l'un-qui-est」の文字の指標でしかない。静止はId(G)であり、これは不活性な自己との同一性であるが、そこにおいて存在Gはあらゆる作用の停止点としてある。運動は矢印であり、不活性ではない同型射であって、Gをその同一性の能動的な表出のうちに編み込む。最後に同と異l'autreの弁証法は矢印の差異において明確にされる。というのもこの差異は、差異であるかぎりにおいて異を証左するのだが、この異はそれぞれが異が同型射であることで、同様に同の形象でもあるがゆえに、同の差異化する働きでもあるものでしかないからである。
言ってみれば群とは、同の異性という形の下での知解可能なものの最小限の提示なのである。
あらゆる矢印が自らの逆元と結合しているという矢印のカップリングは、思考にとって何を意味するのか。つまり、自らと同一になるある特異なやり方があたえられたとき、このやり方は同時に自分の「鏡のなかの存在」も、つまり自分の対称項も予め規定する。このことは、哲学の黎明期から知られているように、同一性は模倣の装置よりも、むしろ鏡の装置と結びついているということである。あらゆる同一性は、その同一性を二重なものにすると同時に消去するこの異なる同一性として、自らを転倒されたものを課す。根源的な所与はあらゆる異から区別された自己との同一性であるよりもむしろ、対称的な二つの同一化のカップリングなのであって、これらを一緒に取り上げると不活性な同一性に再び至るようなそういったものなのである。これが方程式f o f'= Id(G)がマテームとして表していることである、
結局、群の概念は圏論の定義(対象と同型射)によってその本質があたえられているのだが、この概念こそが同一性の真の思考なのである。
(a)最初の一は、あらゆる内部性を欠いた文字Gの空虚な点以外のものでは決してない。
(b)この文字は、不活性な、非能動的な同一性をあたえられている。この同一世はあらゆる内在的な作用の純粋な停止点Id(G)なのであって、空虚な文字のままである自己との関係であるような同一性である。
(c)自己との同一性の様態は複数あり、各々の様態を同定するのは自己から自己に向かう作用、すなわち同一性に能動的な仕方で「形をあたえる」同型射、つまり特異な仕方で同一性を受動化するGからGへの矢印fである。こうして〈同〉は常に〈異〉の働きに取り込まれている。この同一であるやり方は、他にも一つあるいは複数ある同一であるやり方とは異なる。
(d)同一性の各々の様態はそれを転倒したもの、あるいはそれと対照的になっているもの、つまりそれの鏡像であるような別の特異な様態とは対になることで、同一性はすぐさま作用をもたなくなる。
こうして今や、群は主体の思考にとってのマテームをなすと述べるべき時が来た。フロイトが、そして次にラカンがその主体の逃げ行く同一性として記録しようとしたものに、群は形式的な仕方で妥当する。
固有名が主体の体制のなかで文字ーシニフィアンとしての位置を占めているとみなす場合、最初は実際に存在するのは文字だけである。固有名そのものは空であり、何も述べていない。主体はむしろ自らの同一性の能動的な諸形象が編み込まれたものとして提示される。この能動的な形象は、欲望がおのれを現前させる、シニフィアンの分節化である。つまりその形象は最初の文字とは異なる情報であるのだが、そこにおいては同の主体même-sujetが、その同一化の異-複数性のうちに外-在する。精神分析の治療は、編み込まれた糸を解きほぐすようなものであって、不活性な同一性ではな――これは固有名のゼロ指標でしかないのだから――、同の異他性、つまり内在的な同型射の複数の錯綜した矢印を考える可能性なのである。最後にフロイトがエンペドクレスの掲げた旗の下で、生の欲動と死の欲動というアンチノミーとして思考したものが、この二重体とイメージの体制へとそれぞれの紐紐を編み込む。死のイメージのカップリングのよって、象徴界ラカンがその死者の頭蓋骨〔役に立たない残滓〕と呼ぶものが存在させられるのである。死者の頭蓋骨とは不活性な同一性の象徴であり、墓標に刻まれるのはもはや固有名だけであるのと同じである。そしてこの墓碑銘、つまり死んだ固有名は、群において述べられるように、それが生まれるときにしても同じであるのだが(たとえば「群Gがあるとしよう」と述べられるように)、もはや空虚な文字でしかない。
このようにして精神分析理論とその状況、つまり治療との関係は今のところまだ神秘的なものではあるが、今後明らかにされることだろう。いわば群の理論が存在するのと同様に〔精神分析にも〕理論が存在するのである。最終的にその理論は編み込まれた主体に潜む主要なカテゴリー、つまり文字、不活性な同一性、異を介した同の動き、同一のものの操作的な複数性、イメージといったカテゴリーを思考するものである。これにたいして治療は、特異性である群、その実在においては理論へと推移しないある主体-群を同定しようとすることであり、この主体-群の糸は一本ずつ解きほぐすのでなければならない。
障害となるのは、主体-群が無限であると考えることをあらゆることが許していることである。おそらく主体が自己同一となる様々な仕方が無限個存在していることは、主体に固有の事態でさえあるかもしれないのだ。それゆえ分析がそのものとして終わることはありえない。わたしたちは群について、主体がおのれの固有名に耐えられることと一致することがらしか手にすることはないだろう。自己との同一性の生きた実効性が、不活性な同一性が絶えず回帰してくる危険にさらされることがないようにするために、暫定的ではあれ主体的な紐紐から十分に同型射を切り離すことが精神分析のささやかではあるが根本的な目的である。精神分析は主体-群の無限の生を、それに名をあたえる文字の高みまで連れていく。精神分析は文字に生をあたえるのである。
精神分析の理論的原理は最初から最後まで変わることはない。すなわち自己と同一であるやり方は、つまり「自己自身」である死んだやり方は一つしかないけれども、主体的構造の同型射からなる群においては、同一であることのしかじかの様態といったものが存在しているという論理的原理である。」
197-201ぺーじ

だいじゅうよんしょう あると あらわれる こと

よみおわった。 さいごの ほうは もういちど、 べんきょうし なおしてから よみたいと おもった。

ほんやくと ちゅうが なにより よかったと おもう。 かなり たすかった。
すうがくを もっと ちゃんと べんきょうしたいと おもった。

おわり。
さいとう

かくめいれき 229ねん 7がつ 29にち
Décade III Nonidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 18にち

みんなと ろんり

みんな という ことばと ろんりに ついて かんがえました。

さいとう です。
かくめいれき 229ねん 7がつ 28にち
Décade III Octidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 17にち

いきさつ

この まえ、 つぎの ような ぶんしょうを かきました。
hunihunisaito.hatenablog.com

そして、 この ぶんしょうで ちゅうしんの わだい だった、 おおにしさんが ついーとで しょうかいしてれました。


https://twitter.com/takuro_onishi/status/1381037767132545027?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1381038037308559360?s=20
ありがとうございます。

そこで、 むかし から きになっていた はなしを おおにしさんに たずねて みました。


https://twitter.com/manoestasmano/status/1381595241124306949?s=20

https://twitter.com/manoestasmano/status/1381826166860832773?s=20

すると、 なんと、 かなり しっかり こたえて もらえました。
ありがとうございます。!!
ありがたい です~
🐜🐜🐜🐜🐜🐜🐜🐜🐜🐜(ありが じゅう(とう)ひき いる ので、 ありがとう という だじゃれ です。)


https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382186346815524868?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382186736478941190?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382187838649765888?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382188668601856004?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382189279607103488?s=20

https://twitter.com/takuro_onishi/status/1382191926149980161?s=20

かなり せっとくてきな はなしで うなりました。
しかし、 じぶんも いろいろと かんがえてみて、 ある ていど、 わかった きがする ので、 へんしんを しようと おもいました。
ところが、 なんと とても ながくなってしまいました。
なので、 ぶろぐで かく ことに しました。
ここから かいた ことを ちゃんと かきなおした ものを かきます。

ほんぶん

みんなの ぶんるい

あの あと、 いろいろと かんがえてみました。
「みんな」という ことばで
ろんりに ついて なにかを いう ことを かんがえてみます。
すると、いくつか、おもいつきました。

ひとつには、
「みんなが 「ただしい」と いうの だから、ただしいのだ」 という、
ろんりの きはん(規範)を たしかめる ために つかう ばあいが あると おもいます。

ふたつめ には、
「ろんりとは みんなが ただしいと かんがえる ものだ」 という
ろんりの せつめいを する ばあいが あると おもいます。
じぶんは、 ふたつめの せつめいで 「みんな」 という ことばを つかいました。

みっつめは、
「ろんりは みんなの ものだから、みんなの なかの だれかと ぎろんする ときは ろんりを つかう ことが できるし、 そうする ほか ない」
という ろんりの さけがたさを あらわす ばあいが あると おもいます。
この みっつめの さけがたさを おおにしさんに しめしてもらったと りかいしています。
ちがったら、 しつれいしました。
うまく ことばに されていて、 たしかに そのとおりだと おもった しだい です。

もんだい へん

このように ぶんるいすると、
もんだいが いろいろ あるという ことに きがつく ことが できました。
じぶんが はじめに いわかんを もったのは、
ひとつめの、きはんの もんだい でした。
みんなに たしかめた わけでも ない のに、
「みんな」と いえば たしかめた ことに なる ことに
いわかんを もっていた のだと おもいます。


おそらく、
じぶんが 「ろんりは ただしい」と、 まじめには いえない
という ところも、 かんけいしていると おもいます。
「ろんりが ただしい」と いわれたら、
なっとく する しか ない です。
しかし、
ないように よらず、
ろんり という けいしき だけで 「ただしい」と 「じぶんが まじめに」いえるのか どうか わかりません。
ふあんを かんじています。

しょうめいろんてきいみろんにゅうもん

まさに、 しょうめいろんてきいみろんにゅうもんに もどってきました。
「てつづきが ただしいと みとめられる ことが
ただしい という こと なのだ」と
いってしまって いいのか、
きもちで なっとくできていない みたい です。
(だじゃれ。「だめっとは こじんてきには 「だめ」っと いっておこう。」 だめっとは ひとの なまえ です。)

しかし、 それにも かかわらず、
ちょうわが たもたれた てつづきで、
つまり、
1 ただしいと あきらかに する こと、
2 まちがっていると あきらかに する こと、
3 ただしいとは あきらかに できない こと、
4 まちがっているとは あきらかに できない こと、
この よっつの てつづきを つかえば、
うまくいく という けつろんは、
きもちでも なっとく いっている きがします。
(だじゃれ。「おおにしは おおいに しんじられれる」。おおにしは おおにしさんの こと です。ひとの なまえ です。)

じぶんの だいじな こと

だめっとの かんがえかたと、 おおにしさんの かんがえかたの ちがいは、
ひとつには ちょうわが あるか どうかに あると おもいます。
しかし、 じぶんは ちょうわが ほんとうに なりたっているのか、
なりたっている としたら どういう いみが あるのか なっとく できていない のに、
きもちで なっくとくの ちがいが でる ことは あまり ありえないと おもいました。
おそらく、 おおにし さんの だめっとの しょうかい では、
ただしい とも まちがっている とも どちらとも いえない という ことが あまり きょうちょう されなかった ところが げんいんだと かんがえられます。
つまり、 じぶんに とって だいじな ことは、
どちらとも いえない ことが ただしい かのうせいが ある という こと なのかも しれません。

いちじてきな まとめ

もんだいは、 ただしい という ことは どう かんがえる べきか?
げんじつ という ないように あっている ことか?
くみたてかたが ただしい ばあい なのか?
これは じぶんも きょうゆう する もんだいに なっていた のでした。

さらに、どちらとも いえない ことが ただしい という ことが ありうる ことが だいじ なので、
よっつの そうさを かんがえる ことは なっとくが いっていた という はなし でした。

はみでる

しかし、 もんだいは この はなし だけ では おわりません でした。
もんだいは、 まだ ありました。
すこし まえの ぶんを もういちど かきます。

じぶんが 「ろんりは ただしい」と、 まじめには いえない
という ところも、 かんけいしていると おもいます。

ここで ちゅうもく する のは、 「じぶんが」 という しゅご です。
げんじつに じぶんが いえる のか どうかが もんだいに なっています。
ほかの ひとに いわれて なっとく する ことと、
じぶんが いう ことに ちがいを つくっていたのです。
ろんりが もし じぶんも ふくめた みんなが おなじ ように つかえる もの ならば、
この ような じたいは、 どこか ごかいが ある ことに なると おもいます。
(ここの ぎろんは まちがっている かもしれません。
そもそも、 「ろんりが もし じぶんも ふくめた みんなが おなじ ように つかえる」と だれかが しゅちょうする のか どうかも わかりません。
そして、 その ことが、 じぶんが ろんりが ただしいと いえない ことと かんけいしているかも ほんとうは わかりません。
しかし、 とりあえず、 すすみます。)

「みんな」の ぶんるいを つかってみる。

おおにし さんの ついーとを よんで、
こじんてきには、
ろんりが 「みんな」の もの である
というのは、
みっつめの さけがたさの いみでは、
ただしいと あきらかに されたと おもいます。

しかし、
ひとつめの きはんの いみでは、
「ただしいと あきらかに できない
かつ
まちがっていると あきらかに できない」
はなしかも しれないと おもいました。

ただし、まだ、 ひとつめの きはんに ついては、
みっつめの さけがたさと おなじ かもしれない、
つまり、
じつは すでに おおにしさんの ついーとで ただしいと あきらかに されている
という かのうせいを ちゃんとは かんがえきれていない です。
かだい です。

しんぱいしていた こと

ちなみに、 じぶんは、
だれかを はいじょする のでは ないかとは
あまり しんぱい していません でした。
いまでは、その しんぱいも する べきだと おもいます。

しかし、 もともとは、
じぶんが みんな から はいじょされる かもしれない という しんぱいを していました。
または、
じぶんに とって ろんりでは ないと おもえる ことが、 まわりの ほとんどの ものは ろんりだと おもう
という しんぱいを じぶんは していました。
そして、
「あなたは それを みとめない なら、 みんな ではない。(ただしいと みとめよ。さもなくば みんな では ないと みとめよ。)」
と いわれる かもしれないと
しんぱいしていました。

これは、 おそらく、 てつがくてきな たいりつと すら かんがえられず、
みんなの ただしい ろんりと
じぶんの まちがった ごかい という たいりつに される しんぱいが あります。

しんぱいの りゆう1

なぜ そんな しんぱいを する のでしょう?
おそらく、 こじんてきな けいけんも はいけいに あると おもいます。
だいいちに、 てつがくてきな けいけんの はなし です。
きっかけは、 ひとつめの 「みんな」の きはんの せつめいを された ときに、
その ものに きいたのです。
それは どうして みんなと いえる のですか? と。
しかし、 その ものの こたえは、
この ことが うけいれられない なら、 この てつがくの ぎろんは できない
という もの でした。
(ちなみに その ときの もんだいは、 ふぃひての ちしきがくの じょじゅつ でした。)
じぶんは、 たしかに、うけいれない とは いっていなかった はず です。
なんで そう いえるのか しりたかった。
しかし、なんでと きくと ぎろんに さんか できないと いわれると、 とても こまります。
こまるー。

しんぱいの りゆう2

それより もっと おおきな もんだいは、 ひごろの けいけん でしょう。
じぶんは ある いみで まいのりてぃー であるところが おおく あると おもいます。
まいのりてぃー とは、 ふつうでは ないと みなされる という こと です。
せいべつ、せいてきな こと、 しょくじ、 はん・さべつの しかた、 かきかた、 びょうき、 せいじてき たちば、にんげんいがいの どうぶつへの ぼうりょくに たいする たちば、 ちてき のうりょく、しょうがい などなど。
いつも いつも、 「みんな」に いれられません。
「みんな」 と いって おとこ しか ささない こと。
「みんな」と いって しすじぇんだー しか ささない こと。
「みんな」 と いって いせいあいしゃ しか ささない こと。
「みんな」と いって さべつに はんたい しない ものしか ささない こと。
「みんな」と いって ざっしょくの もの しか ささない こと。
「みんな」と いって もじ としての かんじを つかう もの しか ささない こと。
「みんな」と いって びょうきの ない もの しか ささない こと。
「みんな」と いって さよくを はいじょ する こと。
「みんな」と いって にんげん いがいの どうぶつを はいじょ する こと。
「みんな」と いって いっていていどの ちてきのうりょくを かんがえる こと。
「みんな」と いって しょうがいが ない ものを かんがえる こと。
「みんな」と いって おとな しか かんがえない こと。
などなど。
もちろん、 いくつか だみーが はいっています。
ともかく、 そのような 「みんな」 という ことばへの しんぱいが ある だけ という こと かも しれません。

その ばあいは、 たしかに てつがくてきな もんだいに つながる けれど、
もんだいは、 じっさいに つかいかたの もんだいで、
「みんな」という ことばを どう つかうか という もんだい なのかも しれません。

むじゅんの はなし

むじゅんの はなしも おもしろいです。
じぶんが おおくの ばあい、あるいみでは、 むじゅんしている きがするので、
じぶんを りかいできていない ことに なると おもいます。
でも、 それならば、 なぜ じぶんは じぶんを りかい できていなくて、
ほかの ものは その ほかの もの じしんを りかい できていると
いえる ことに なるのだろう?
という もんだいが たちあがってきます。

ぐたいてきに かくと、
じぶんは 「じぶんの」 きおくを じぶんの もの だとは おもえない のです。
たとえば、 おおにしさんの どうがを みた きおくは、 あります。
おもいだせます。
けれど、それは じぶんでは ない ほかの ものの もの なのです。
もちろん、 からだや こころや きおくは おなじ もの(ひと)の もの なのですが、
じぶんの ものでは ない のです。
この ばあい、 もちろん しろくじちゅう むじゅん する とは かぎらない のですが、
しろくじちゅう むじゅん できる きがします。
でも、 それも ある ものが じぶん である ことが つづく はずだ という かんがえの もとで むじゅん している ように おもえる だけで、
じぶん みたいに それぞれの じぶんが きれている という かんかくが あれば、 むしろ むじゅんが ないの かもしれません。
それぞれの じぶん では いっかんしている のかも しれませんね。
そうなると、りそうてきな いみで むじゅん する とは じっさいは ありえない こと なのかも しれないと おもってきました。
これも かだい です。

ともかく
このことは むじゅん していると おもわれる かもしれませんが、
かなしい ことでは ない です。
むしろ、
そこで じぶんの ものに おもえる ひと、ものの かんかくは どうなっているのか
きになる ぐらい たのしんでいます。
(じぶんには なぞの こころの びょうきが あって、つういん しているのですが、
それと かんけいあるかは わからない です。)
けれど、
それで、
みんなから はずされると たぶん かなしくて、つらい ので、 ろんりと「みんな」の あいだの かんけいが きになっています。

じぶんがわ から したら、 あいてに むじゅんが ない ように かんがえる しか ほうほうは ない という おおにしさんの ついーとは そのとおりだと おもいます。
しかし、 じぶんが じぶんに とって むじゅんが ある ばあいは、 どうなるの でしょうか?
じぶん である こと、 ひとつ である こと、 じぶんの もの である こと、 にている こと、 つづく こと などが もんだいに なります。
じぶんに とっては、 これらは すべて ちがう こと ですが、
どうやら、 おおくの ものに とっては おなじ こと、 すくなくとも つながっている こと みたい なのです。
ふしぎ。

とちゅうで、 にちじょうせいかつの うらみ・つらみを かいてしまいましたが、
そんな はなし でした。
おわり。

さいとう・まの
かくめいれき 229ねん 7がつ 28にち
Décade III Octidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 17にち

しょうめいろんてきいみろんにゅうもんを みた。

おおにし・たくろう(大西琢朗)さんの しょうめいろんてき・いみろん・にゅうもん という こうぎを みました。
いかの ぶんしょうは、 にはつ がき です。
つまり、 ぶんしょうを きれいに よみやすく していません。
まちがっていたら、 おしえてくれると たすかります。


こんな ぶんしょうを よむ のでは なく、 こうぎを みて きく ことを おすすめ します。
CAPE公開セミナー「論理学上級II:証明論的意味論入門」
https://sites.google.com/site/onishitakuro/teaching/advanced-logic2020
こうぎの きろくの りすと。 ゆーちゅーぶ。
https://youtube.com/playlist?list=PL54C_zUEsyCZz-E0t1n6snBLr9ewr6cK3

おとが きこえない とか、みえない という かたは、 こうぎを ぜんぶ みて、 きく ことは むずかしい です。
ざんねん ながら こうぎは おんせい・にほんごと、 かんじ・かな・まじり・すみじと、 ろんりがくの きごうだけで つくられています。
しかし、つかっている ぱわーぽいんとは くばられています ので、 よみあげに たいおうしています。
ただし、 おおにし さんが じゅぎょうちゅうに てがきで かいた ものは、 すべては よみあげ されていません。
じまくは ありませんし、 しゅわ・つうやくも ありません。
おんせいにんしきが すすんで、 じまくが つく ように なると いいですね。
つうやくも すべての ことばに たいおう する ように なると いいですね。
げんじつてきに さいゆうせん する べきは、 きいて まなぶ ことが ふかのうな もの たちの ための ほんやくだと おもっています。
もちろん、すべての ものが じょうほうを しる ことが できる ように なる べき です。

かんそう

それでは、 しょうめいろんてき・いみろん・にゅうもんの かんそうを かきます。
しろうと なので、 まちがいが たくさん あると おもいます。 しんじないで ください。
まず、しょうめいろんてき・いみろんとは なんでしょうか?

すうがくや ろんりがくの はなし です。
すうがく というのは、 かずを もんだいに する ちしきの ありかた です。
ろんりがく というのは、 ろんりを もんだいに する ちしきの ありかた です。

ただしい ろんりは、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と いう ことが できる ような もの です。
たとえば、 「ここに みかんが ある なら、 ここには くだものが ある と いえる」 という ことばは ただしい ろんりに あっています。
なぜなら、みかんは くだもの だから です。
おなじ ものを べつの ことばで あらわす とき、 ある ことばで あらわした ものが ある ならば、おなじ ものを あらわす べつの ことばで あらわす ものも あると いえる から です。
つまり、みかん という ある ことばで あらわした この みかんが、 くだもの という べつの ことばで この みかんを あらわしたら、 なくなる という ことは、 おおくの ものが「それは そのとおりだ」とは いえない ので、 ただしい ろんりに あっては いないの です。
けっかとして、 「ここに みかんが ある なら、 ここには くだものが ある と いえる」 という ことばは、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と いう ことが できる ので、 ただしい ろんりに あっています。

このように、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と かんがえる ような ことばを つなげていく ほうほう、 つまり ただしい ろんりに ついて かんがえるのが、 ろんりがく です。
では、 ただしい ろんり という ときの、 ただしい という のは、 どういうこと なの でしょうか?
ふたつの かんがえかたが あります。
ひとつは、 げんじつと おなじ なら ただしい という かんがえかた です。
もうひとつは、 それは そのとおりだ という ものを くみあわせたら ただしい という かんがえかた です。
それは そのとおりだ という ものを くみあわせたら ただしい という かんがえかたが、 しょうめいろんてき・いみろんの 「しょうめいろんてき」 という ことばで あらわされています。
しょうめい(証明)とは、 あかりの いみの しょうめい(照明) では ありません。
しょうめい(証明)とは、 ほんとうの という いみの しょうしんしょうめい という ことばの 「しょうめい(正銘)」では ありません。
ここで いう しょうめい(証明) という のは、 「それは そのとおりだ」と おおくの ものが おもえる ことに わける こと です。
「それは そのとおりだ」と おもえる じょうほうが、 「それは そのとおりだ」と おもえる くみたてかたかたで くみたてられている という ことを はっきり させる ことが しょうめい(証明)です。
たとえば、 だれかが しんだ ばあいに それが じぶんで しんだのだ、 つまり じし(自死)だったのだと しょうめい(証明)する ばあいを かんがえてみましょう。
まず、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」 という しょうこを あきらかに します。
たとえば、 ぼうはんかめらに その ひとが じぶんの からだを はもので さしていた えいぞうと おんせいが のこっていると しましょう。
この ぼうはんかめらの えいぞうを みて、 おんせいを きけば、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と おもう でしょう。
しょうめいが できました。ただし、 ろんりがくの しょうめいは もっと げんみつな はなしを しますが、 ここでは そのくらいの いみで かんがえましょう。
この しょうめいで つかっているのは、 じょうほうと ただしい ろんり です。
じょうほう とは、 かめらの おんせいと えいぞう です。
そして、 かめらが とった おんせいと えいぞうは げんじつに おこった ものを あらわしている という ただしい ろんりも つかわれている のです。
かめらが あらわすのは、 げんじつの もの である という ただしい ろんりが ないと、 「これは かめらに そう うつっている だけで、 げんじつに そうだ とは いえない」と はんろん されてしまいます。
かめら ですと、 かめらが あらわしたのは げんじつの もの である という のは、「それは そのとおりだ」と おおくの ものが おもう でしょう。
しかし、 うらない なら どうでしょうか? うらないが あらわしたものが げんじつの もの である という のは、 「それは そのとおりだ」と おおくの ものが おもう でしょうか?
じぶんは、 すくなくとも じぶんの しっている ものの おおくが 「それは そのとおりだ」とは おもいません。
ただし、ここは びみょうです。
ほんとうは、 「おおくの ものが」 では なく、 「じぶんと おなじ ような ただしいのは なにかが わかる ような もの なら みんな」を もんだいに する ひつようが あります。
そして、 じぶんが ただしい ものが ちゃんと わかっているのか という もんだいも あります。
とりあえず、 そこらへんは ちゃんと かんがえないで おきましょう。

うらない というのも ぐたいれい として びみょう です。 「それは そのとおりだ」と おもう ものも いる から です。
さらに、 うらないを 「それは そのとおりだ」と おもう ちいきや じだいも あります。
しかし、 ここでは、 にほんごけんの かくめいれき 229ねん あたり(せいれき 2021ねん あたり)で にほんごを つかっている ものに かぎりましょう。
そして、もし うらないは 「それは そのとおりだ」と おもう かたは、 「それは そのとおり」だとは おもえない ものが、 げんじつを あらわしていると いわれた ばあいを かんがえてみて ください。
ともかく、 しょうめい(証明)とは、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と おもえる くみあわせで、 げんじつの じょうほうを くみあわせる ことで、 ある ことは ただしいと あきらかに する こと です。

そして、ろんりがくで いみろん とは、 ただしいか ただしくないかを もんだいに する ようです。
いみろんの はんたいが とうじろん、しんたっくすと いい、 しては いけない くみあわせかたを していないか どうかが もんだいに なります。

しょうめいろんてき・いみろんと いっている ばあいは、 それが げんじつと あっているか どうかは ともかく、 「それは そのとおりだ」と おおくの もの(ほんとうは かっこつきの 「みんな」)が おもえる くみあわせで くみあわせている ばあいが ただしい のだと いいます。
もちろん、げんじつに ついての じょうほうが げんじつと あっているの であれば、 しょうめいろんてきに ただしい ことは、 げんじつと あっている はず です。
げんじつに ただしくない くみあわせが できる とは おおくの ものは おもわない から です。
その ような ただしくない くみあわせで できている ものは げんじつとは いわれない のです。
げんじつは ただしい ものだという ぜんていは、 おおくの ものが 「それは そのとおりだ」と おもっている からです。
ここでも もんだいは あります。
げんじつ というのは、 ただしい ものと いって いいのか? げんじつ というのは、 ただしい という いがいの いみの えいきょうも うけている のでは ないか? などなど。
これらの もんだいは とりあえず おいておきます。
なぜなら、 その げんじつ とは なにか? ただしい とは なにか?を もんだいに するのが、 しょうめいろんてき・いみろんの やくめ でも あった から です。

さて、 しょうめいろんてき・いみろんを かんがえた ものの だいひょうは、まいける・だめっと(Sir Michael Anthony Eardley Dummett) です。
まいける・だめっとは、 だめっと という みょうじ なので、 だめっとと よびます。
だめっとは、 かくめいれき 133ねん (せいれき 1925ねん、 Décade I Octidi, Messidor an CXXXIII) から、 かくめいれき 220ねん(せいれき 2011ねん、Décade I Septidi, Nivôse an CCXX*)まで いきました。
だめっとは、 えいごで ほんを かきました。

おおにしさんは、 だめっとの つぎの ほんを もとに はなしていました。
M. ダメット『真理という謎』、藤田晋吾訳、勁草書房、1986年.
M. Dummett, The Logical Basis of Metaphysics, Harvard University Press, 1991.

じぶんは よんでいません。

だめっとは、 ちょっかんしゅぎ(直観主義) という たちばを とっています。
ちょっかんしゅぎ とは、 なにかが あると ただしく いえるのは、 それが あると しょうめい できた ときだ という かんがえかた です。
なにかが ない ことは ありえないと ただしく いった だけ では、 それが ある ことが ただしいとは いえないと かんがえます。
きほん としては、どのように あるか わからないのに、 ある なんて ただしい とは いえない という はっそう(発想)が あります。
ない ことが ありえない なら、 あると かんがえるのは、 こてん・ろんり(古典論理)という たちばに なります。

この ちょっかんしゅぎの たちばの ろんり である、 ちょっかんしゅぎ・ろんりを つかって、 だめっとは しょうめいろんてき・いみろんの はなしを します。
ちょっかんしゅぎ・ろんりでは、 あわせて 9この きそくで せつめい できます。
ここで あつかう ろんりには、 どうにゅうそく(導入則)と じょきょそく(除去則)が あります。
どうにゅうそく とは、 じょうほうを くみあわせる ことで、 くみあわさった ぶん(文)を みちびきだす、 つまり どうにゅうする、 きそく(規則)です。
じょきょそく とは、 くみあわさった ぶん(文)から、 いちぶぶんを みちびきだして、 くみあわさった ぶんを けして、つまり じょきょ する きそく(規則) です。
(ぶん(文)という ことばを いいかえたかったの ですが、 いいかえる ことばが おもいつきません でした。)
ぐたいれいを かんがえましょう。
たとえば、つぎの よっつの ぶんを かんがえてみます。
1. 「ほんが あおい」
2. 「もじが くろい」
3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」
4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」

この ばあいに、 つぎのような きそくが なりたちます。
1. 「 ほんが あおい」が ただしくて、2. 「もじが くろい」も ただしい ばあいは、 3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」を ただしく みちびきだす ことが できます。
3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」という くみあわさった ぶんを みちびきだしたので、 どうにゅうそくの ひとつ です。(かつの どうにゅうそく。)

3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」が ただしい ばあいは、1. 「ほんが あおい」を ただしく みちびきだす ことが できます。
3. 「ほんが あおいし、 もじが くろい。」という くみあわさった ぶんを けした ので、 じょきょそくの ひとつ です。(かつの じょきょそく。)

1. 「 ほんが あおい」が ただしい という ぜんてい では、2. 「もじが くろい」が ただしい ばあいは、 4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」を ただしく みちびきだす ことが できます。
4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」という くみあわさった ぶんを みちびきだしたので、 どうにゅうそくの ひとつ です。(ならばの どうにゅうそく。)

4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」が ただしくて、 1. 「ほんが あおい」が ただしい ばあいは、2. 「もじが くろい」を ただしく みちびきだす ことが できます。
4. 「ほんが あおいと、 もじが くろい。」という くみあわさった ぶんを けした ので、 じょきょそくの ひとつ です。(ならばの じょきょそく。)

この よっつは、 かつの どうにゅうそくと、 かつの じょきょそくと、 ならばの どうにゅうそくと、 ならばの じょきょそく という もの です。
ほかにも またはの どうにゅうそく、 またはの じょきょそくと、ばくはつそく(むじゅんの じょきょそく)が ありますが、 せつめい しません。
むじゅんの じょきょそくは 、 むじゅん からは なんでも いえる という きそく です。
つまり、 「ほんが あおく、 あおくない」 ばあいは、 なんでも ただしく いえます。
そして、むじゅんの どうにゅうそくは なく、 むじゅんを みちびく ことは しません。
かくにんしたい かたは、 https://youtu.be/L-QTeRV2NAg?t=2159から みてください。

この ような ろんり では、 せいきか(正規化) という さぎょうが できます。
この せいきかの せつめいは かけません でした。
もういちど みなおして、 いつか かける ように なりたい です。


おどろきの もんだいと かくじつに そう である ことの もんだい。

ここ からは、 べつの ひに かきはじめた。
かくめいれき 229ねん 7がつ 21にちだ。
Décade III Primidi, Germinal an CCXXIX だ。
せいれき 2021ねん 4がつ 10にちだ。

おおにしさんは、 さまざまな かんがえの ことば から、 すでに しっている ことを ただしく くみあわせている だけ なのに、 その はなしの けっかに おどろくのは なぜか? という もんだいを とりだしてくる。

おどろく とは いかなる こと であろうか?
まず、 おどろく ことは かんじょうや きもちに かかわる こと であると いえる。
おどろく ことは かんじょう であると いう ものも いれば、
おどろく ことは かんじょう では ないと いう ものも いる。
たとえば、 すぴのざ という ものは、『えちか』 という ほんの なかで(はたなか(畠中)やく、じょう(上)、289ぺーじ)。 かんじょうを、 よろこびと かなしみと よくぼうで せつめい できる ものだと かんがえている。
だから、 すぴのざは、 おどろき(驚異(きょうい)、らてんごで Admiration)は かんじょう そのもの では なく、 かんじょうを ひきおこす ものの とらえかただと かんがえている(はたなか(畠中)やく、『エチカ(上)』、353ぺーじ)。
そして、おどろきは、 ほかの ものと おなじ ところが すくなくて、 ながく かんがえつづける ものの とらえかた であると される(はたなか(畠中)やく、『エチカ(上)』、270-271ぺーじ)。

しかし、やくを した はたなかは おどろく という ことばを かんじょうを あらわす ことばだと かんがえている(はたなか(畠中)やく、『エチカ(上)』、353ぺーじ)。

じぶんは、 おどろきの ちもち、おどろく きもち という ことばには、 よろこびの きもち などの ことば よりも、 いわかんを かんじる。
この いわかんを みとめてくれる ならば、おどろきは、 かんじょうや きもちに かかわっているが、 かんじょうや きもち そのもの では ないと かんがえられる。
たしかに、 きもちや かんじょうと いえば、 こころの ある ていど つづく おなじ じょうたいが てんけいてきだと おもう。
たとえば、 うれしい、 たのしい、かなしい という きもちは、 かわる ことを あらわしている ことば では なくて、 つづいている じょうたいを あらわしている ことば である。
この ことは、 にほんごの ことばの あらわしかたにも あらわれていると おもう。
つまり、 おどろきに ついての ことばは、おどろく、おどろかす などの どうし(動詞)が おおいのに たいして、
たとえば、 かなしみに ついての ことばは、 かなしい などと けいようし(形容詞)が おおい。
もちろん、かなしく なる とか、 かなしませる とかの ことばが ある から、 かわる ことを まったく あらわさないと いってる わけ では ない。
しかし、 かなしみ つづける という ことばは、 かなしい ことが なんども おこる という よりも、 ひとつの ことで ながく かなしむ ことを つづける という いみが あると おもう。
たいして、 おどろき つづける という ことばは、 おどろく ことが なんども おこる という いみが あると おもう。
ひとつの ことで ながく おどろく ことは むずかしく かんじる。
もちろん、ひとつの ことで ながく おどろく ことが できない わけ では ない。
しかし、 おどろき という ことばは、 かわる ことを あらわす ことば であると かんがえられると おもう。

おどろく という ことばは、 かんじょう では ないが、 かんじょうに かかわり、 じょうたいを あらわさないが へんかを あらわしていた。
それでは、かんじょう では ないが、 かんじょうに かかわり、 じょうたいを あらわさないが へんかを あらわす という のは、 どのように あらわせば いい だろうか?
じぶんは、 「こころ」 という ことばを つかう ことが よいと おもった。
ぱすかる という ものに ついて、 えんぞう・はるゆき という ものは、 こころが おどろき、 きかがく(幾何学)の かくじつに あきらかな はんい から、じぶんが ある という こと から わかる すべてに かんけいしている ものに ついて かんがえる ことに なると いっている。
圓増治之(えんぞう・はるゆき)「ニーチェ・コントゥラ・パスカル(その1) パスカルの「理性の論理」と「心情の論理」」長野大学紀要6巻3号、p. 39-46、1985年
http://id.nii.ac.jp/1025/00000860/

めんどうくさいから いんようしよう。

オンなのである。
前述の如 く,幾何学の基礎は幾何学の方法 (定
義 と推論的証明)によって究明できない。原始語
を定義 しようとしても無駄である。「いたず らに立
ちどまってそれ ら (原始語)を定義することな く,
それ らの本性に透徹する (pénétrer la nature)」
ことによってはじめて 「それ らの驚嘆すべ き特質
を発見する」(p.583)ことができるのである。 と
ころで,原始語が指示するのは,いわゆる 「存在
者 (Seiendes)」ではない。む しろ存在するものが
そこに於いて存在するところの 「地平的なもの」を
指 し示 している。「時間,空間,運動,数」等は,
すべての存在者がそこにおいて現象する包括的な
地平を形成する。パスカルの用語によれば 「全宇
宙を包むもの (chose, qui comprennent tout l'
univers)」(p.583)である。原始語が 「極端な明
証さ」をもつのも実は,原始語が,すべての存在
者がそこにおいて兄い出される地平的なものを指
し示 しているからである。それでは一体地平的な
ものはどのよ うな特性をもつのであろ うか。
それは,地平的なものは大いさに向っても小さ
さに向っても無限に開かれているとい う特性であ
る。た とえば どんなに大 きな空間であっても,そ
れ以上大 きい空間を考えることができるし,また
反対にどんなに小 さい空間であってもさらに小
い空間を考えることができるのである。存在する
ものはすべて無限大 と無限小 (無) とに向って開
かれた地平の うちに有限なものとして存在す るの
である.我々人間も有限なるものとしてやは りま
た無限大 と無限小 (無)の中間に存在する。
このように,パスカルが元初的開示の地平の特
性の解明のために投げかけた光は, 自分自身へ と
返照 し,元初的開示の地平の うちに存在する彼 自
身の存在を照 らし出した。か くして r幾何学的精
神についてJの終末部分 (p.591)では次のように
言 う。
「これ らの真理を明確に認めるものは,四方から
iっれわれを取 り囲んでいるこれ らの二重の無限に
あらわれた自然の偉大 さと力 とに驚嘆 し, 自分が
広が りの無限 と無 との中間に,数の無限 と無 との
中間に,運動の無限 と無 との中間に,時間の無限
と無 との中間に置かれているのを見て, この驚 く
べ き考察により自分 自身を知ることを学び うるで
あろ う」。

だから、 しょうめい できる ことに おどろく という のは、 ひつぜんせい から げんじつせいに うつった ことを あらわしている のでは ない だろうか。
ひつぜんせい、 つまり かならず おこる という ことは、 しょうめいの はんいの できごと である。
そして、 その かならず おこる という ことを つきつめていくと、 おどろく ような かならず おこる ことが でてくる。
こころは、 それに おどろくのは、 かならず おこる ことは、 じっさいに おこる こと だから でも ある。

このように かんがえると、 だめっとが 「じゅうぶんな かんさつ」と いった ことを かんがえられる かも しれない。
おおにしさんは、 だめっとが げんじつには たしかめられない けれど、 もし じぶんが じぶんで ある かぎりで たしかめる ことが できる ので あれば、しんじつ である ばあいに しんじつ である という ことを もんだいに していたと おもう。
そして、おおにしさんは、 じぶんが せつめい できなかった せいきか(正規化) という さぎょうを、 かっと・じょきょ・ていり という より ひろい ものに はってん させて せつめいしてくれた。
おおにしさんの けつろん としては、 つぎの よっつを くべつ すると、 ちょうわ(調和)が とれた きれいな るーるを つくれる という もの だった。
1. なにかが ただしいと いう こと
2. なにかが ただしいと いわない こと
3. なにかが まちがっていると いう こと
4. なにかが まちがっていると いわない こと
この よっつの くべつを つかって、 また、 おどろきの じれいを かんがえてみる。
おどろく のは、
たとえば、 1. なにかが ただしいと いう こと に たいして、
2. なにかが ただしいと いわない こと をするべきだと かんがえる からか、
3. なにかが まちがっていると いう こと ができると かんがえる から である。
この 2と 3の ちがいが、 じつざいろんを すてきらない という ことの かなめ なの では ない だろうか。

さいとう
かくめいれき 229ねん 7がつ 21にち
Décade III Primidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 10にち

ていせい:
1. おおにし・たくろう さんの なまえを まちがえていた ところを ていせい しました。 すみませんでした。(かくめいれき 229ねん 7がつ 22にち)

ばでぃうの にーちぇ0-2、 どくしょかいの まえ

ばでぃうの にーちぇ0-2
9-11ぺーじ

5

5.1

Eh bien, dans ce séminaire, je lui pardonne ces errements localisés. Ce n’est pas que je l’incorpore à ma pensée, tel quel, non. On verra que c’est à lui, Nietzsche, personnellement, que va mon admiration, lui qui s’est disposé avec une telle sincérité au centre de son œuvre qu’il en résulte que tous les « nietzschéismes » sont des impostures.

それでは、 この こうぎに おいて、 にーちぇの これらの このときの わるい やりかたを わたしは ゆるします。 それは、 わたしの かんがえの なかに にーちぇを いれる という こと では ありません。そのままでは。 いれません。まさに この ものを、〔つまり〕 にーちぇを、 わたしは こじんてきには、 すごいと おもっている ことが わかる ことに なる でしょう。 このもの〔にーちぇ〕☆ こそが、そのように ごまかしなく〔せいじつさを もって〕、 じぶんの さくひんの ちゅうしんに ならべられました☆。ですから、 「にーちぇ・しゅぎ」〔Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al. ”Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens” 1991.〕は すべて にせもの である という ことに なるのだ という ことが わかる ことに なる でしょう。

Eh bien:おや(おどろき)、なんとまあ(ふんがい)、さて(けっしん)、それでは(けつろんを みちびく)
pardonner A à B: BのAを ゆるす、かまわない、だまって みている
errements: あくへき、いつもの くせ
localisé: ひとつの ばしょに きょくげんされた、きょくちかされた
incorporer:がったいさせる。かにゅうさせる、こんにゅうさせる、いれる(à, dans)、たいないかする、
personnellement:じぶんじしんで、みずから、こじんてきに、ちょくせつ、したしく、こじんとしては、じぶんのかんがえでは
aller: かんじょうの たいしょうと なる。 にかんじょうが むけられる
Sa haine allait à son père. 憎しみは父親に向けられていた(『ロワイヤル』)
exactement:せいかくに、まさに、ちょうど、げんみつに、きちんと
admiration:かんたん(感嘆)、かんしん(感心)、しょうさん(称賛)、さんび(賛美)、あこがれのまと、(ふるく、おどろき、きょうがく)
se disposer:ならべられる、せいりされる、àしようとする、(ふるい)àかくごする、けっしんする
sincérité:せいじつさ、そっちょくさ、しんけんさ、しんせい(真正)さ
il en résulte que: そのけっか、…という ことに なる。
impostures:にせもの、さしょう、がんさく

さまよい、おこない、わるい くせ

errements: あくへき、いつもの くせ

B.− Péj. Habitude néfaste, manière d'agir blâmable.
https://www.cnrtl.fr/definition/errements
ひなんすべき ように ふるまう やりかた、わざわいを もたらす/ゆうがいな しゅうかん

このときの、げんていされた

localisé: ひとつの ばしょに きょくげんされた、きょくちかされた

"Badiou précise encore qu’il a porté sa réflexion plus exactement sur les textes de la période 1887-1888, susceptibles de permettre d’identifier l’antiphilosophie de Nietzsche. Encore reconnaît-il les avoir abordés sur la base d’un malentendu. Il rangeait Nietzsche du côté des anti-platoniciens déchaînés. Eh bien, ajoute Badiou, « dans ce séminaire, je lui pardonne ses errements localisés ». Gageons que Nietzsche sera sensible à ce geste ! Mais n’oublions pas non plus que l’année 1991 fût celle durant laquelle des ouvrages sortaient en librairie pour condamner Nietzsche, notamment le célèbre Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens ? , signés par des auteurs dont on n’attendait de toute manière pas qu’ils le fussent. Les revanchards de Mai 68 ont fait de Nietzsche « le noir emblème de leur conviction ». Raison de plus pour relire sérieusement les œuvres de ce philosophe. Nous voici au pied du mur."
https://www.nonfiction.fr/article-7964-nietzsche-mon-nouvel-ami.htm

せいれき 1887ねん から 1888ねんの ぶんしょう という、 じかん てきに げんていされた はなし しか できない という いみだと おもう。

たいないか する

incorporer:がったいさせる。かにゅうさせる、こんにゅうさせる、いれる(à, dans)、たいないかする、
とろーくは たいないか(incorportaion)と とりこみ( introjection)を くべつ した。 たいないかは たべる ように、ことばで ほかの ものを じぶんの からだに する こと であり、 とりこみは、 いっきに ほかの ものを じぶんの ものと する こと である。しかし、 ここでは、 とくに そこまでの くべつは もんだいではない。

ゆるす

Considérer pour non avenu(e) un manquement, une faute, une offense en n'en tenant pas rigueur à l'auteur et en n'en gardant aucun ressentiment.
https://www.cnrtl.fr/definition/pardonner
さいとー やく
きびしく やった ひとの こと である とは せず☆、 なんの うらみも もたないように して、みすや しっぱいや こうげきを おきなかった ことと かんがえる。

avenu:advenirの かこぶんし
en n'en tenant pas à? ☆☆

se disposer avec

3. Emploi pronom.
a) à sens réfl. Les autres, (...), se disposent sur deux rangs à la hâte (Romains, Copains,1913, p. 183).
b) à sens passif. Les meubles se disposaient d'eux-mêmes dans les pièces (Huysmans, Là-bas,t. 1, 1891, p. 183).Les cartes se disposaient en croix (Aragon, Beaux quart.,1936, p. 355):
4. Sur cette première construction, de formidables escarpements s'élèvent. Là-dessus, comme un troisième étage, se développe la région sauvage des glaciers et des avalanches. Et plus haut encore, la série des pics se dispose, d'un effet admirable par leur variété. Barrès, Le Voyage de Sparte,1906, p. 202.
Au fig. Les idées jaillissaient, se disposaient toutes seules (Malègue, Augustin,t. 2, 1933, p. 496).
https://www.cnrtl.fr/definition/dispos%C3%A9

しょうさん、かんたん、かんしん

Sentiment complexe d'étonnement, le plus souvent mêlé de plaisir exalté et d'approbation devant ce qui est estimé supérieurement beau, bon ou grand.
https://www.cnrtl.fr/definition/admiration
ぐーぐるやく
「複雑な驚きの感覚。ほとんどの場合、高揚した喜びと、見事に美しい、良い、または素晴らしいと見なされるものの承認と混ざり合っています。」

すごいと おもう という いみだろう。

せいじつさ、いつわりなく、ごまかしなく

avec une telle sincérité:
sincéritéの いみが にほんごの 「せいじつ」とは ちがう きがする。
「せいじつ」というと、 れいぎに あわせる という いみが あると おもう。 じぶんが おもった ことは しつれいな ことは いわない ことが せいじつ である こと。
sincéritéは、 じぶんが おもったことを いってしまう こと。いつわらないこと、しょうじきに ある こと。

にーちぇでは、 より いみが ある ことば みたいだ。
水野清志(みずの・きよし)「ニーチェの倫理思想 (10)」、信州大学医療技術短期大学部紀要 11(1): 1-17(1986)
http://purl.org/coar/resource_type/c_6501
http://hdl.handle.net/10091/5101

f:id:hunihunisaito:20210328070248p:plain
みずの・きよし(水野清志)「ニーチェの倫理思想(十)」、12ぺーじした

どいつごの せいじ という ことばである Wahrhaftigkeitにも、 しんじつの という いみの whar という ことばが はいっている。

にーちぇの つぁらつすとらの ぶんしょうの いんようは こんな かんじ。つぁらつすとらの だいにぶ 「有名な賢者たちについて」。理想社版、『ニーチェ全集』

f:id:hunihunisaito:20210328083627p:plain
みずの・きよし(水野清志)「ニーチェの倫理思想(十)」、8ぺーじした

こどくと せいじつさは くっついているのね。 そして、にーちぇが もとめる こどくは ここの ことなのか。

そのけっか …に なるの こうぶんが わからなかった、

On verra qu’il en résulte que tous les « nietzschéismes » sont des impostures.
かんけいだいめいしではなくて、 voirの めいしせつを みちびく queだった。

にーちぇしゅぎ

ばでぃうの この こうぎは 1992ねんに おこなわれた。
はいけいには、 この ほんが ある。

Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens
De Collectif
Grasset, 1991
Description
Une nouvelle génération de philosophes, rompant avec celle qu'avait réunie, dans les années 60, l'héritage du nietzschéisme, affirme ici ses choix et ce qu'il en coûte aujourd'hui de revendiquer le dangereux héritage nietzschéen.

Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al.
https://www.franceculture.fr/oeuvre/pourquoi-nous-ne-sommes-pas-nietzscheens

6

6.1

Mais les anti-­nietzschéismes aussi. Et c’est là qu’on trouvera l’origine de ma brusque décision d’aller voir de près, de tout près, qui était exactement ce Nietzsche dont on parlait tant. Je savais, bien sûr, qu’il était, avec le dernier Heidegger, le philosophe de référence de Foucault. Je savais qu’il était une des sources capitales de Deleuze. Je savais qu’en 1972, lors d’un colloque historique à Cerisy, le gotha philosophique du moment, Deleuze, Derrida, Klossowski, Lyotard, Nancy, l’avait sacré comme une sorte de roi posthume de la pensée contemporaine.

しかし、はん・にーちぇ・しゅぎも おなじ〔で にせもの〕 です。 そして、 そこで こそ、まさに こんなにも はなされてきた この にーちぇ なる ものを ちかく から、 とても ちかく から しらべる という ことを とつぜん きめた げんいんが あるの でしょう。もちろん、にーちぇは、 はいでがーの さいごの さくひん*1と ともに、 ふーこーが ふれていた〔さんしょうしていた〕てつがくしゃ であったと しっていました。どぅるーずの 〔かんがえに〕 じゅうような みなもとの ひとつ であると しっていました。 1972ねんには、 せるじーでの れきしてきな しんぽじうむ*2の ときに、 どぅるーず、でりだ、くろそうすきー*3、りおたーる、なんしーは、 その じだいの しそうの しんだ あとの おうさま☆ みたいな もの として しんせいし(神聖視☆)した ことも しっていました。

c’est là qu
trouvera l’origine
aller voir
de près,: ちかくから、ちゅういぶかく
tant:そんなに、 こんなに
capital :じゅうような、しゅような
postume:しんだあとの
l’origine りゆうと やくしたが、 ほんとうは、 こんげん、きげん(起源) という いみである。 げんいんと やくしなおした。

aller voir de près

aller ふていしで、 きんせつ・みらい
voirは みる だが、 しらべる という いみも ある。
voir la mort de près いのちびろいした。

de tout près,

b) [Indiquant l'idée de proximité dans une relation avec qqn ou qqc.] Surveiller qqn de près; veiller de près sur qqn. Une statue a pour objet d'imiter de tout près un homme vraiment vivant (Taine,Philos. art, t.1, 1865, p.15).Ils ont dit que le gars qui avait volé les faisans, tu devais le connaître de près (Genevoix,Raboliot, 1925, p.153).
https://www.cnrtl.fr/definition/pres

ふくしの toutは すごく、とても という いみ である。

le dernier

3. [En parlant d'un inanimé] Le plus récent, le plus proche du moment actuel.
(りゃく)
− P. ell. le dernier (de) + nom propre. La dernière œuvre de. Le dernier de Maupassant. Un livre formidable (Aymé, Mouche,1957, p. 38).
https://cnrtl.fr/definition/dernier

ふーこーは 「ハイデガーの「ヒューマニズムについて」の書簡の名宛人のジャン・ボーフレの講義には熱心に出席した。ボーフレはハイデガーの忠実な弟子でハイデガーをフランスに導入した一人である。」(大林信治(おおばやし・しんじ)「ミシェル・フーコーのカント受容―批判の一つの系譜―」、せいれき 2018ねん、名古屋学院大学論集 社会科学篇 第 55 巻 第 2 号 pp. 1―49、 6ぺーじ。)
ふーこーが はいでがーを よんでいたのは、 せいれき 1951ねん から 1952ねんが ちゅうしんである。「『ヒューマニズム』に関する書簡」は、 せいれき 1949ねんに であた。

しんだ おうさま

Un roi posthume
roi おうさま、だいいちにんしゃ、

かんけいないぶんしょうを やくしてしまった。

Un roi posthume
Et il ne se départit nullement de cette fièvre de l'histoire, car il met la dernière main à une suite presque logique. « Dans Les portes du palais d'Avignon, il y a un personnage qui est l'allié précieux pour installer Jacques Duèze sur le siège papal, il s'agit de Guccio Baglioni. Ce toscan neveu d'un banquier lombard sera au centre de ce second roman historique. Qui remettra en lumière le roi Jean 1 e (1) dit le roi Posthume et peut-être sa survivance qui prête à controverses. »
https://www.ladepeche.fr/article/2010/10/24/934456-il-a-retrouve-le-premier-pape-d-avignon.html
さいとーやく
しんだ おうさま
そして すこしも れきしの この ねっきょうを すてる ことは なかった。なぜなら ほとんど ろんりてきな いっかんせいを しあげた から だ。「あびにょんの きゅうでんの もんの なかには、 じゃっく・どぅえーずを きょうこうの せきに すえつける ために きちょうな なかまに なる じんぶつが いた。 それは じゅっしお・ばぐりおん である。ろんばるでぃあ ちほうの ぎんこうかの この とすかーな じんの おいは、 この ふたつの れきしてき しょうせつの ちゅうしんに なった。ふたたび あきからに する ことに なる のは、 じょーん おう、e (1) dit しご おう であり、 ろんそうを まねいた その ものの ふめつせい だったかも しれない。」

6.2

Mais même mon admiration pour ces grands collègues ne pouvait parvenir à me faire aller au-­delà d’une lecture des œuvres de leur héros certes suivie, mais détachée, je dirais même distraite, tant je me sentais éloigné de tout l’argumentaire de cette célébration.

しかし、 わたしは これらの いだいな どうりょう たちも すごいとは おもいますが、その ひとたちの ちゅうしんじんぶつ〔つまり、にーちぇ〕の さくひんを いちど よむ という こと よりも さきに すすませる ことに までは いたりえません でした。 たしかに、よみ つづけていましたが、 ばらばらに きりはなされて よんでいました。 ぼんやりと よんでいたと さえ いえる でしょう。それほど、 わたしは このように ほめたたえる ことの ぎろん ぜんたいとは かんけいがないと かんじていたの です。☆

aller au-­delà d
heros: えいゆう、ゆうし、いじん、しゅじんこう、しゅやく、じけんなどのちゅうしんじんぶつ
suivi:いっかんしている、すじのとおった、けいぞくしている、にんきのある、ながくつづいている
détaché: きりはなされた、ときはなされた、ちょうぜんとした、しゅうちゃくのない、ぶんりの
distrait:ぼんやりした、うわのそらの、ほうしん(放心)した
tant: (げんいんを みちびく)それほど…

éloigné de: から とおい、かんけいない、ことなった、
argumentaire:せんでんぱんふれっと、はんばいいんようの しょうひん・せつめいしょ
célébration:きょしき、しゅくが、しょうよう(称揚)、しょうさん(称賛)、きねん(記念)

détaché: きりはなされた、ときはなされた、ちょうぜんとした、しゅうちゃくのない、ぶんりの

たしか、 ばでぃうの はなしで ぶんり(分離) として、 だいじな がいねんだったと おもう。
らかんが ぶんり(分離) という ことばを、 そがい(疎外)と ならべて つかった。そがい とは、 じぶんは ほかの ものに よって つくられた という ことに きがつく こと である。 じぶんから じぶんが できた わけでは なく、 とくに おや、 さらには せいしんぶんせきに おける ははおや という、 じぶんとは ほかの もの から できた という ことに きがつく こと である。 ぶんりは、 その ほかの ものが ほしがっているのは、 じぶん では ないと しる こと である。 ほかの ものは じぶんを ほしがっている から じぶんを つくった のでは なく、 その ほかの ものの さらに ほかの ものを ほしがって じぶんを つくったと きがつく こと である。せいしんぶんせきでは、 ははが ちちを ほしがって じぶん という こどもを せわしていると きがつく こと である。 または、 ははが じぶんの せわを してくれない のは、 ははが ちちの ところに いる からだと おもう こと である。
しかし、ばでぃうでも、 らかんでも、 ぶんり という たんごは、 détachement では なかった きがする。
らかんは la séparation だと おもう。 ばでぃうは disjonctionだった。むだなはなし。
しかし、ここでは、よみ つづけていたが、 だんぞくてきだった という はなし だろう。
もしかしたら、 つづいて、 ぼんやりと よんでいた という はなしに なる から、 とくに しゅうちゃく せず よんでいた という いみ かもしれない。

tout l’argumentaireなどの tout ていかんし めいし

ぜんたい という いみ である。 たんすう なので、 ふくすうでの すべての では ない。
***tout l’argumentaire

XXe siècle. Dérivé d'argument. COMMERCE. Liste des arguments qui permettent à un vendeur de faire valoir un produit. Par ext. Liste des arguments qui viennent à l'appui d'une thèse, d'une opinion, d'un programme politique.
https://www.cnrtl.fr/definition/academie9/argumentaire
さいとう やく
20せいき。 ぎろん argument という ことば から でてきた。 しょうばい。 ある せいひんに かちが ある ように、はんばいいんが みせる ことが できる ように する せっとくしゅだんの いちらん。ひろい いみで。ある しゅちょう、いけん、せいじてきな けいかくの こんきょに なる ような ろんり/せっとくしゅだんの いちらん。

argumentaire \aʁ.ɡy.mɑ̃.tɛʁ\ masculin

1. (Spécialement) (Marketing) Ensemble d’arguments de vente.
A ceux qui investissent pour l’avenir, ils vendent le diamant éternel. Avec toujours un argumentaire taillé sur mesure. — (Yann Bouchez, Anne Michel, L’incroyable arnaque aux diamants, Le Monde. Mis en ligne le 28 février 2018)
2. (Par extension) Ensemble d'arguments tendant à une même conclusion ; argumentation.
Il y a quinze ans, elle travaillait à l’argumentaire de la Ligue des droits de l’homme lors du procès intenté au général Aussaresses. — (Anne-Sophie Mercier, En couple réglé, Le Canard Enchaîné, 30 août 2017, page 7)
Le vieil argumentaire de l’ère préinternet, par lequel les tribunaux ont confié la compétence culturelle au fédéral – en fonction des « tuyaux » de l’époque –, ne tient plus. — (Antoine Robitaille, « Culture: le Québec doit se réveiller », Le journal de Montréal, 12 novembre 2020)
Inspirée de l'étapisme de 1976, cette nouvelle mouture du péquisme se fondait sur un argumentaire selon lequel les Québécois auraient été à ce point réfractaires à l'idée d'un autre débat sur l'indépendance, et plus tard, à l'idée de l'indépendance elle-même, que cela aurait, en conjonction avec ce qu'on présentait comme une sorte d'obligation morale pour les péquistes de gouverner la province à n'importe quel prix, commandé l'abandon par le Parti québécois de tout engagement indépendantiste concret, c'est-à-dire, allant au-delà des professions de foi sans suite devant les parterres de convertis, et des concepts fumigènes destinés à déguiser, auprès des souverainistes plus volontaristes, l'attentisme indéfini en plan d'action astucieux. — (Mathieu Bock-Côté, Indépendantisme et nationalisme: le pari de la lucidité. Grand entretien avec Nic Payne», journaldemontreal.com, 8 janvier 2021)
Quels sont les points forts de l'argumentaire de cet intellectuel ?

https://fr.wiktionary.org/wiki/argumentaire
さいとう やく
argumentaire \ aʁ.ɡy.mɑ̃.tɛʁ \ だんせい・めいし。
1. (とくてい)(まーけてぃんぐ)しょうひん・せつめい/せーるす・ぽいんとの あつまり。
その ひと たちは、 みらいへの とうしを する ものに たいして、 ふめつの だいやを うりつける。いつも このみに あわせて かっと した うりもんくを つけて。(Yann Bouchez, Anne Michel, しんじられない ほどの だいあもんど さぎ、 Le Monde。せいれき 2018ねん 2がつ 18にちに おんらいんで こうかい された。)
2. (ひろい いみで)おなじ ひとつの けつろんを めざす ぎろんの しょうこの あつまり。ろんしょう。
15ねん まえ、おされす しょうぐんに たいして おこされた さいばんの ときの じんけん れんめいの ろんきょを べんきょうしていた。 -(Anne-Sophie Mercier、きせい された かっぷる、 Le Canard Enchaîné、せいれき 2017ねん 8がつ 30にち、7ぺーじ)
さいばんしょが れんぽう・せいふに ぶんかてきな かんけつけんを まかせた いんたーねっと いぜんの じだいの ふるい ろんきょは(、じだいの 「ひみつの じょうほう」に おうじていたが)、 もはや なりたたない。(Antoine Robitaille、「ぶんか:けべっくは めざめる べきだ」、る・じゃーなる・ど・もんとりおーる、せいれき 2020ねん 11がつ 12にち)
1976ねんの 〔じゅうみん・とうひょうで、 けべっくの しゅけんこく どくりつを する べきだと かんがえる〕だんかいしゅぎの えいきょうで、けべっくしゅぎの この あたらしい にばんせんじが もとづいていた ろんきょは、 けべっくじんは それ ぐらい どくりつに ついての ほかの ぎろんの かんがえに、 のちには、どくりつ そのものの かんがえに さからう さからう ことに なる かもしれない という もの だったのだ。〔いか りゃく〕 -(MathieuBock-Côté、どくりつと なしょなりずむ:あきらかな ことに かける。Nic Payne との しゅような いんたびゅー、journaldemontreal.com、せいれき 2021ねん 1がつ 8にち)
この いんてりの ろんきょの よい ところは なんですか?

ぶんせき・てつがく けいの ふらんすの がくせいようの まとめ では、 l’argumentaireは ろんしょうの あつまりと はんろんなどの ぎろんの まとまり として いみする ようだ。

Six éléments principaux distinguent une argumentation telle que demandée dans le premier cours de
philosophie :
・ Le thème
・ la question et sa problématique (ou problématisation)
・ la thèse
・ les arguments
・ les objections
・ les réponses aux objections (la réfutation ou la concession), s’il y a lieu.
L’ensemble des arguments, des objections et de leurs réponses (sans le thème, la problématique et la
thèse) s’appelle l’argumentaire.

Guide de méthodologie et de logique argumentative à l’usage des étudiants de philosophie
Collectif des enseignants de philosophie du cégep de Saint-Laurent
Département de philosophie
Édition Hiver 2018
https://www.cegepsl.qc.ca/wp-content/uploads/2018/04/guide-methodologique-philosophie-h2018.pdf

de cette célébration ほめたたえる

de cette célébrationは admiration(すごいと おもう)に にている ことば である。
しかし、ばでぃうの している こと では なく、 ばでぃうが はんたいしている にーちぇしゅぎを なのっている もの たちの しょうさん(称賛)である。
しょうさんを しょうさんする しょうさん。(翔さんを称賛する硝酸) という だじゃれが おもいついた。

B.− Action de louer, d'honorer quelqu'un ou quelque chose.
https://www.cnrtl.fr/definition/c%C3%A9l%C3%A9bration

louer
I. − Emploi trans. [Le suj. désigne une pers., un de ses attributs, un groupe de pers.] Manifester, exprimer son admiration, son estime (pour quelqu'un ou pour quelque chose); (en) faire l'éloge, (en) reconnaître ou (en) célébrer le mérite, (lui) rendre gloire.
https://www.cnrtl.fr/definition/louer

honorer
1. Procurer de l'honneur (cf. ce mot I C 1), de la dignité, de la considération; contribuer à donner un caractère honorable à quelqu'un, à quelque chose.
https://www.cnrtl.fr/definition/honorer

けっきょく、 ほめたたえる という いみだろう。

7

7.1

Mais voilà qu’en 1991, tout ce que la France compte de « philosophes » réactifs se rassemble pour déclarer la guerre à Nietzsche et à son influence.

しかし、おきたのは、1991ねんに、 ふらんすが 〔しんぽしゅぎに はんたいする うよくの〕はんどうてき 「てつがくしゃ たち」と☆ かんがえた もの ぜんいんが あつまって、 にーちぇと にーちぇの えいきょうに たいして せんせん・ふこく した という できごと でした〔Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al. ”Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens” 1991.〕。☆

voilà que:がおこる、がおこっている、する、している(できごとに ちゅういを ひく)
influence:せいりょく、けんせい、ゆうりょくしゃ、じつりょくしゃ

かぞえあげる

compter A pour Bの ように compter A de Bを かんがえた。
tout ce que la France compte de « philosophes » réactifs
La France compte ce
ふらんす という くにを ひとに みたてて しゅごに している のだろう。

Rare. Compter de :
4. Ne vous donnez nul souci de ces quatre cents francs; je les donnerai le mois prochain à Lisette, et, à notre première rencontre, nous en compterons. Balzac, Lettres à l'Étrangère,t. 2, 1850, p. 450.
https://www.cnrtl.fr/definition/compter
さいとう やく
めずらしい。 Compter de(かぞえる)
4. この 400ふらんに ついて けっして しんぱいしないでください。 りすてっとに らいげつ わたしますし、わたしたちが はじめて あったときに かぞえられます から。 ばるざっく、「いほうじんへの てがみ」、2かん、1850ねん、450ぺーじ

deは ceを せつめいするときに つかうと おもう。
いや、 それは ceを けいようしで せつめいする とき だけ だろうか?
この deは はんいの deで、 そのなかから、 という いみかも しれない。

せんせんふこく

じっさいに どのような ぶんしょうを かいたかは かくにんする ひつようが ある。

7.2

Les revanchards de Mai 68, les ennemis humiliés des vrais penseurs et activistes qui s’étaient retrouvés lors du colloque de 1972, stimulés par l’ambiance de réaction triomphante installée par les lugubres
années quatre-­vingt, font de Nietzsche le noir emblème de leur conviction.

1968ねん ごがつ*4の しかえしを したがる もの たちは、1972ねんの しんぽじうむに いた しょうしんしょうめいの しそうかと かつどうかに くっした てき でした。ひつうな 1980ねんだいに つくられた しょうり(勝利)を おさめた はんどうの ふんいきに よって しげき されて、にーちぇを じぶんたちの しんじていた ことの くろの もんしょうに しました。


revanchard/e : ほうふくてきな(ひと、くに)、ふくしゅうにもえた
humuilié: くつじょくを うけた、くつじゅうする
vrai:ほんものの、しょうしんしょうめいの(めいしの まえ)
stimuler :かっぱつにする、ぞうしんさせる、しげきする、はっぷんさせる(発奮)
une ambiance:ふんいき、かんきょう、じょうきょう
triomphant:かちほこった、かった、しょうりをおさめた、けっていてきな
lugubre:ひつうな、ちんつうな、いんうつな、(ぶん)しをおもわせる、もをあらわす、ぶきみな glas lugubre ちょうしょう(弔鐘)
faire A de B:Bを Aと みなす。 Aが ながいと うしろに いく。
emblème:しょうちょう、ひょうしょう、もんしょう、きしょう、ひょうしょう
conviction:かくしん、じしん、しんねん、しんじょう、まじめ、ねつい、しょうこ

réaction triomphante かちほこった はんのう?

2. [En parlant d'une chose] Qui a remporté un succès total et s'impose d'une manière envahissante. L'explosion de la Régence et l'irréligion triomphante du XVIIIe(Marrou, Connaiss. hist., 1954, p. 46).
https://www.cnrtl.fr/definition/triomphante
さいとー やく
2. [ものに ついて] かんぜんに かって、 いっぱいに ひろがる ように おしつけられる ような。 18せいきに しょうりした むしゅうきょうと せっしょうせいどの かくだい。(Marrou, Connaiss. hist., 1954, p. 46)

On représente que l'amour pur pour le père céleste n'a été vraiment révélé que par le christianisme, réaction triomphante de la religion du cœur contre les aridités d'un légalisme se perdant en arguties et en casuistique (Weill, Judaïsme,1931, p. 178).
https://www.cnrtl.fr/definition/l%C3%A9galiste//0
さいとー やく
てんの ちちへの じゅんすいな あいは じっさいに あきらかに されるのは、 きりすときょう だけ です。 きりすときょうは、 ごたくと へりくつに ぼっとうする かいりつしゅぎの ふもうさに たいする こころの しゅうきょうの けっていてきな はんのうです。

La période de la réaction triomphante est terminée, une nouvelle époque révolutionnaire s'ouvre en Grande-Bretagne.
https://context.reverso.net/traduction/portugais-francais/triunfante
さいとー やく
かちほこった はんどうの ときは おわり、 あたらしい かくめいてきな ときが いぎりすで はじまる。

われらが とろつきーも つかっている ことば である。

On voit, dans les époques de réaction triomphante, MM. les démocrates, sociaux-démocrates, anarchistes et autres représentants de la gauche, sécréter de la morale en quantité double, de même que les gens transpirent davantage quand ils ont peur. Répétant à leur façon les dix commandements ou le sermon sur la montagne, ces moralistes s'adressent moins à la réaction triomphante qu'aux révolutionnaires traqués, dont les "excès" et les principes "amoraux" "provoquent" la réaction et lui fournissent une justification morale. Il y aurait cependant un moyen élémentaire, mais sûr, d'éviter la réaction : l'effort intérieur, la renaissance morale.
https://www.marxists.org/francais/trotsky/livres/morale/morale1.htm
しょうりを おさめた はんどうの じだいには、 MM(かへいーかへい)が おきています。みんしゅしゅぎしゃ、しゃかい・みんしゅしゅぎしゃ、あなきすと などなどの さよくの せいじかは にばいの りょうの どうとくを にじみだす こと。 それと どうように ひとびとは もっと あくせんくとうし、 おそれている。じぶんなりの やりかたでは じゅっかいや さんじょうの せっきょうを くりかえす これらの どうとくしゅぎしゃ たちは しょうりを おさめた はんどうには ふれず、 おいつめられた かくめいに ふれる。 かくめいの 「やりすぎ」と 「ひどうとくてきな」 げんそくは はんどうを「ひきおこし」、 はんどうに せいとうかを あたえてしまうと。 しかし、 はんどうを さける だいじだが、 かくじつな ほうほうが ある らしい のです。 どりょくを せず、 どうとくを ふっかつさせる。

le noir emblème くろの もんしょう?

くろを わるい ことの いみで つかっている なら、 さべつてきに なるので、 わるい。
やめる べきだ。

Ici c'est une figure de style pour dire "l'emblème noir".
Un emblème est quelque chose qui représente une autre chose (par exemple l'emblème de la justice est une balance).
Donc ici Nietzsche sert en quelque sorte de représentant/de figure de proue pour ces revanchards. (noir sert juste à indiquer que ce n'est pas une bonne chose, qu'utiliser Nietzsche ainsi est malsain)
https://hinative.com/ja/questions/18709545

7.3

Ils publient un livre-­manifeste, Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens, accueilli avec faveur par toute la faune plumitive désireuse de se faire embaucher dans le chœur de la propagande contre-­révolutionnaire.

この もの たちは、 いっさつの せんげんしょを はっぴょうしました。『なぜ わたしたちは にーちぇ・しゅぎしゃ では ない のか』〔Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens〕〔著者 リュック・フェリー (ほか著),遠藤 文彦(えんどう・ふみひこ) (訳)「反ニーチェ なぜわれわれはニーチェ主義者ではないのか (叢書・ウニベルシタス)」https://honto.jp/netstore/pd-book_01225917.html〕という ほん です。はん・かくめいてきな ぷろぱがんだ〔せんでん〕の ぐるーぷに つれこんでもらう ことを のぞんでいる ものかきの うごうのしゅう(烏合の衆) ぜんたいが、 こうい(好意)てきに この ほんを うけいれました。

accueilli:うけいられられる
faveur :ひょうばん、にんき
la faune :(がくじゅつ)どうぶつそう(動物相)、ふぉーな(いっていの ちいき、 かんきょうの どうぶつの ぜんしゅるい)、あるばしょに たむろ する ひとたち、(ふるく) どうぶつし(動物誌)
le faune:(ろーまの かみ)牧神(ぼくしん)、ぼくようしん(牧羊神)、ふぁうぬす、ちゅうねんの ぎょしょくか(漁色家、てあたりしだい おんなを もてあそぶひと)、すきの
plumitive :さっか、かきて、ものかきの
plumitif:へぼさっか、さんぼんぶんし、(けいべつ)さいばんしょのしょき、ちょうぼがかり、かんりょう
désireuse:de inf を ほっする、のぞむ
se faire inf:される という じゅどうの いみに なる。
embaucher :やとう、つれていく、だきこむ、かんゆうする、ねがえらせる
le chœur:どういけんを もつ いちだん、いちぐん、こーらす、せいかたい、がっしょうきょく

さんりゅうさっかの

けいようしの ときは、 たんに ものかきの という いみ みたいだ。

− Empl. adj. Qui se rapporte au métier d'écrire.
https://www.cnrtl.fr/definition/plumitif

せいかたいle chœur

Au fig., fam. Personne très naïve. J'ai pensé que ... on n'était ni toi ni moi des enfants de chœur (P. Vialar, La Rose de la mer,1939, p. 106).
https://www.cnrtl.fr/definition/ch%C5%93ur[]

そぼくなひと という いみが あるが、 ばでぃうは だんたいを かんがえている きがする。

3. P. ext.
a) Groupe de personnes s'accordant sur les mêmes opinions ou propos; ayant les mêmes buts ou aspirations.
https://www.cnrtl.fr/definition/ch%C5%93ur

ぐるーぷ、 さーくる?

7.4

Qui trouve-t‑on là, entre autres : Alain Boyer (avec qui j’ai entretenu une correspondance féroce) ; André Comte-­Sponville (visé par un graffiti sur le socle de la statue d’Auguste Comte, près
de la Sorbonne, « ni Comte, ni Sponville », graffiti injuste pour Auguste Comte…) ; Luc Ferry (co-­auteur du consternant libellé La pensée 68 et piteux ministre, sous Chirac, de Raffarin, chose en effet fort peu nietzschéenne…) ; Philippe Raynaud (libéral ordinaire, avec qui je me suis expliqué en public) ; Alain Renaut (l’autre co-­auteur du libellé ci-­dessus mentionné) ; Pierre-­André Taguieff, « sociologue » doctrinaire
de l’anti-­islamisme flamboyant et distributeur automatique de l’étiquette « antisémite » à qui ne partage pas sa passion…

そこに いるのは とくに、 (わたしが きびしい かんけいを つづけていた)あらん・ぼわいえ〔Alain Boyer、 1953-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ、ぶんけんがくしゃ。〕、(そるぼんぬの ちかくの おーぎゅすと・こんと〔Auguste Comte、1798-1857。ふらんすごを つかった しゃかいがくしゃ。『実証的精神論』(1838)を かく。〕の どうぞうの だいざに 「こんと=はくしゃく でも なく、 すぽんびる でも なく」と おーぎゅすと・こんとに とっては めいわくな らくがき ですが……その かかれた れくがきで わだいに された) あんどれ・こんと・すぽんびる〔André Comte-­Sponville、 1952-。『資本主義に徳はあるか』(2006、Corinne Quentin(かんたん・こりーぬ) と 小須田 健(こすだ・けん)やく)を かいた。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。〕、(びっくりするぐらいの ぶんめん である 『68ねんの しそう』(La pensée 68)の きょうちょしゃの ひとりで、 しらく〔もと だいとうりょう〕と らふぁらん〔もと しゅしょう〕の もと での なさけない 〔こくみん・きょういく〕だいじんで、 じっさい、 まったく ほとんど にーちぇ しゅぎ では ない なんとかさん である) りゅっく・ふぇりー〔Luc Ferry、1951-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。『68年の思想』(1985)を かいた*5。〕 、 さきほど ふれた ぶんめんの もう ひとりの きょうちょしゃ である〕 あらん・るのー〔Alain Renaut、1948-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。〕、 ぴえーる・あんどれ・たぎえふ〔Pierre-­André Taguieff、1946-。じんしゅしゅぎに ついて ふらんすごで けんきゅうしている しゃかいがくしゃ。 〕、 この ものは、 もえあがる はんいすらむしゅぎの「しゃかぎがくしゃ」で、 みずからの ねっしんな かんがえかたを きょうゆうしない ものに 「はん・ゆだやしゅぎ」という らべるを じどうてきに はる*6 じどうはんばいき〔じどうはんばいきを いみする distributeur automatique は、 もじどおり とれば、 じどうてきに くばる もの という いみ である〕です…。

entretenir une correspondance avec:ぶんつうを つづける
entretenu:いじする
une correspondance:ぶんつう
féroce:どうもうな、ざんにんな、ざんこくな、れいこくな、こくせんな(酷薄)、ようしゃのない、すさまじい、おそるべき、やばんな、みかいの、そやな、さんぼうな
viser:ねらう
graffiti: らくがき
le socle :だいざ
injuste: ふせいな、ふこうへいな、ふとうな、(ふるい)いわれのない、こんきょのない、
piteux :なさけない、あわれな
consternant:いきしょうちんさせる、ひたんんいくれさせる
libellé:ぶんめん
doctrinaire:どくたんてきな
flamboyant:もえあがる、はでな
distributeur automatique :じどうはんばいき
l’étiquette :らべる
« antisémite »:はんゆだやしゅぎ、はんゆだやの
à qui:quiが ひと という せんこうし まで ふくめる ことばに なっている。
ne partage pas
sa passion:つよい せんにゅうかん

entre autres は とくに?

位階と真理 アラン・ボワイエ 著 3-34
野獣、詭弁家、唯美主義者 アンドレコント=スポンヴィル 著 35-107
フランスにおけるニーチェの気運 ヴァンサン・デコンブ 著 108-138
証明の必要があるものに大した価値はない リュック・フェリー 著 139-162
ニーチェにおける生の形而上学 ロベール・ルグロ 著 163-203
教育者ニーチェ フィリップ・レーノー 著 204-225
反動的レトリックの中のニーチェ ピエール=アンドレ・タギエフ 著 226-327
https://honto.jp/netstore/pd-worklist_0601225917.html

ふたり はぶかれた だけ。 「とくに」 では なく、 「ほかの ものも いるが」 という かんじ だろうか?

めちゃくちゃな ぶんつう

vec qui j’ai entretenu une correspondance féroce

Un roman épistolaire sur l'amour, absolument baroque, décoiffant !
L'ex-amante et la mère d'un homme, au fil d'une correspondance féroce, ourdissent un crime : tuer Geoffey, le rôtir, l'accommoder et le déguster !
Tout est dans l'écriture, faussement XVIIIème siècle, regorgeant de métaphores cruelles.
Un roman savoureux de férocité ! Amateurs de bons sentiments et végétariens s'abstenir !
https://www.meylan-bibliotheque.fr/blog/viewauteur/expressionRecherche/Quel+pain+voulons-nous+%3F+de+Marie+Astier/tri/annee+desc/clef/BONSEXEBONGENRE-HOMMEFEMMESEPERMET-ANDERSENM--IXELLESEDITIONS-2015-1/id/37411/retour_abonne/viewavis
ぐーぐるやく
愛に関する書簡体小説、絶対にバロック、息をのむような! 元恋人と男の母親は、猛烈な通信の過程で、犯罪を孵化します:ジェフィーを殺し、それをローストし、それを収容し、そしてそれを食べます! すべてが執筆中であり、誤って18世紀であり、残酷な比喩に満ちています。 凶暴性のおいしい小説! 気持ちのいい素人や菜食主義者は棄権!

L’étonnant changement d’attitude du gouvernement néo-zélandais suscita l’indignation de nombreux Juifs, et une correspondance féroce, colérique et acrimonieuse passa entre le Premier ministre et un éminent résident juif.
https://terrepromise.fr/histoire-des-juifs-en-nouvelle-zelande-19-le-parlement-et-les-juifs-russes/
ぐーぐるやく
ニュージーランド政府の驚くべき態度の変化は多くのユダヤ人の憤慨を引き起こし、首相と著名なユダヤ人居住者の間で激しい怒りと激しい対応が交わされました。

Vie en émigration
Lancer une femme et un jeune fils lors d'une évasion précipitée de Great Rus, Kurbsky a consolidé dans l'étude de diverses sciences, parmi lesquelles était l'étude du latin. En passant, il a été assez réussi dans cette formation, car un grand nombre d'œuvres théologiques ont été traduites en russe. Aussi Kurbsky a accordé une grande attention à "des cas de livre". Avoir un esprit aigu et une clarté de la pensée, Andrei Mikhailovich a pris le journalisme, entra dans une correspondance féroce avec Ivan Grozny.
https://geekapple.ru/fr/obschenie/andrei-kurbskii-v-izbrannoi-rade-knyaz-kurbskii-andrei-mihailovich/
ぐーぐるやく
移民生活グレートルスからの急いでの脱出中に妻と幼い息子を投げ、クルプスキーはラテン語の研究を含むさまざまな科学の研究に統合されました。 ちなみに、彼は多くの神​​学的作品がロシア語に翻訳されていたので、この訓練で大成功を収めました。 また、クルプスキーは「本棚」に大きな注意を払いました。 アンドレイ・ミハイロヴィッチは鋭い精神と明確な思考を持ってジャーナリズムを取り上げ、イヴァン・グロズニーと激しいやり取りをしました。

2. Relation, communication entre des personnes.
https://www.cnrtl.fr/definition/correspondance

ぱっしょん

D. − P. ext. [Sens affaibli] Très vive attirance, goût extrême, penchant très vif et persistant pour quelque chose ou quelqu'un, pour un type d'activité, un domaine de la recherche, de l'art, etc.
https://www.cnrtl.fr/definition/passion

8

Alors je me dis : « Ce n’est pas possible ! Tous ceux-­là sous la pénible sophistication du cri “mort à Nietzsche” ? Mais alors, mais alors, Nietzsche ne peut pas être entièrement mauvais ! » Et je vais voir. Et à la fin, j’admire Nietzsche, je l’aime, tout en le laissant à l’écart de ce qui constitue le mouvement propre de ma pensée. Je l’aime dans la solitude où tout le monde, sectateurs et calomniateurs, suiveurs et hurleurs, interprètes et propagandistes, l’ont toujours laissé, lui, Nietzsche, qui tout seul à Turin, juste avant de s’absenter dans ce qu’on a appelé sa « folie », était en train, doucement, tranquillement – faisant part de son intention par de vifs et obscurs billets à des correspondants incrédules – de « casser en deux l’histoire du monde ».
10-11

そのとき、 わたしは おもうの です。 「ありえない! ここに いる もの たちは ぜんいん 「にーちぇに し(死)を」*7という うったえに ついての がまんならない ぐらいの きべん(詭弁)の 〔えいきょうの〕もとに ある という のか? しかし、 それならば、 しかし、 それならば、 にーちぇは かんぜんに まちがっていた はずが ない!」。 だから、 みてみます。 そして けっきょく、 にーちぇの ことを すごいと おもいます。 すき です。 しかし、にーちぇを わたしの かんがえの ほんらいの うんどうとなる ものから はなした ままに しています。わたしが すきな にーちぇは、 すべての ものが、がくと たちが、わるぐちを いう もの たちが、 ついていく もの たちが、 わめきたてる もの たちが、かいしゃく(解釈) する もの たちが、 せんでんする もの たちが、 いつも そのもの〔にーちぇ〕を そのままに してきた、 こどくの なかに います。そのものは、 にーちぇは、 とりの〔いたりあの とし である とりのに にーちぇは ふゆの あいだに いる ことが おおかった。「くるった」と いわれる せいれき 1891ねんも にーちぇは とりのに いた。 〕に ひとりっきりで いました。 にーちぇが 「くるった」と いわれている ことで、 まわりを きにしなくなる ちょうど まえの こと です。にーちぇは そっと、 しずかに (なんにんかの しんじて くれない あいてに、 いきいきとした あいまいな みじかい てがみに よって、にーちぇ じしんの いいたかった ことを つたえて、)「せかいの れきしを ふたつに わける」 ただなかに いた のです。

se dire: おもう
ひてい peuvoir :はずがない
pénible:ほねのおれる、つらい、くしんした、つらいおもいをさせる、ふかいな、いたましい、たえがたい、がまんならない
la sophistication:せいみつか、こうどか、きどり、わざとらしい、ふしぜんさ、まぜものをすること、きべんをろうすること(そふぃすとって、 おとったものを あらわす ために つかう ことば なんだね。 こじんてきには、 はなしの うまい ちえある もの という ほめことば だと おもっていた。)
cri:さけび、さけびごえ、(はんたいなどの)うったえ、いけん、こえ、
voir:みえる、かくにんする、わかる、しらべる
tout じぇろんでぃふ:どうじ、たいひ
à l’écart de:から はなれた
constituer:となる
propre:(めいしのあと) ほんらいの、こゆうの
tout le mondeは ひと。
sectateurs:(ふるい)がくはの がくと、しゅうもんのしんと、しんぽうしゃ
calomniateurs:ちゅうしょうするひと、ひぼうするひと
suiveurs:みちで おんなの あとを おいかける おとこ(せいさべつの あらわれだなー)、ばんそうしゃ、ついじゅうしゃ、もほうしゃ
hurleurs:わめきたてるもの
interprètes:ちゅうしゃくしゃ、かいしゃくしゃ、えんそうか
propagandistes:せんでんしゃ、ふきょうか
, l’ont toujours laissé, lui, Nietzsche, qui tout seul à Turin, juste avant de s’absenter dans ce qu’on a appelé sa « folie », était en train, doucement, tranquillement – faisant part de son intention par de vifs et obscurs billets à des correspondants incrédules – de « casser en deux l’histoire du monde ».
s’absenter:るすにする
doucement:そっと、しずかに、ゆっくりと
faisant part deあ àい:いに あを しらせる
son intention:もくてき、いと、いこう、こころづもり
billet:みじかいてがみ、たんしん(短信)、すんしょ(寸書)
correspondants:ぶんつうの あいて
incrédules:よううにしんじない、うたがいぶかい、かみをしんじない、ふしんじんな

にーちぇに しを!

− Loc. interj.
♦ [Suivi gén. du nom de la/des personne(s) dont on souhaite la mort] Mort à...! à mort...! mort au(x) tyran(s) ! mort aux vaches*! À mort! À mort! Lapidez-le! Déchirez-le! À mort! (Sartre,Mouches, 1943, iii, 6, p.107):
https://www.cnrtl.fr/definition/mort

f:id:hunihunisaito:20210404092936p:plain
れびなす「ふーこー「ひとのし、 かみのし(つまり、かみに しを)」」

みやよし・やすたか(宮代康丈)「Title L'humanisme est une éthique. Penser la critique l'évinnassienne de l'antihumanisme」せいれき 2014ねん、慶應義塾大学湘南藤沢学会(https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=KO92001001-2013-001. ぴーでぃーえふ、 https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/KO92001001-2013-001-0001.pdf?file_id=104346

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784891762315
叢書言語の政治
他者のユマニスム
レヴィナス,エマニュエル〈L´evinas,Emmanuel〉【著】/小林 康夫【訳】
書肆風の薔薇(1990/04発売)

mais alors

2. Dans ce cas.
〔りゃく〕
− Ou alors, mais alors, pas même alors... :
22. jean. − ... « Comment, vous êtes française, Madame! ... Mais, alors, vous connaissez de nom Angers... et Bordeaux... » S. Guitry, Le Veilleur de nuit,1911, I, p. 6.
https://www.cnrtl.fr/definition/alors

まわりを きにしない S'absenter

II.− Au fig. Devenir inattentif à son entourage ou à soi-même (cf. absent II).
https://www.cnrtl.fr/definition/absenter

9

C’est ce Nietzsche-­là, celui des dernières années, sur lequel j’ai centré mon enquête, et qui est devenu mon ami. Celui de Ecce Homo, du Nietzsche contre Wagner, déjà sans doute du Crépuscule des idoles, des ultimes billets, signés Dionysos, ou le Crucifié, ou même Ariane… J’ai lu, relu, pensé les grands textes antérieurs, les plus connus, le poétique, sombre et allégorique Ainsi parlait Zarathoustra, le furieux Par-­delà le Bien et le Mal, la subtile et convaincante Généalogie de la morale, la primitive Origine de la Tragédie, et tous les autres, à partir de cette fin où un nommé « Nietzsche » – avec et au-dessus des nommés « Dionysos », « le Crucifié », « Ariane », « Wagner », « Zarathoustra » – devient le personnage central de Nietzsche sans guillemets, où tout s’éclaircit discrètement de ce qui fut trop bruyant, où la vie du solitaire en marche vers la folie s’ordonne à l’humble révolution totale de celui qui, bien que capable de débarrasser une fois pour toutes l’humanité du poison religieux, de la figure dégoûtante du prêtre et des effets désastreux de la culpabilité, capable d’instaurer le règne du grand « Oui » à tout ce qui devient, en arrive à avouer qu’il préfère, quand même, « être professeur à Bâle que Dieu »

この にーちぇ こそを、 ばんねんの にーちぇ こそを わたしの ちょうさ(調査)の ちゅうしんに おきました。 そして、 この にーちぇ こそが わたしの とも〔こいびと〕に なりました。『このひとを みよ』の、『わーぐなー たい にーちぇ』の、 そのまえに おそらく 『ぐうぞうの たそがれ』の、〔また〕 でぃおにゅーそす という しょめいや、あの はりつけに された もの〔なざれの いえす〕の しょめい、 さらには ありあどねす の しょめい までも いれた さいごの みじかい てがみの にーちぇ…… この おわりから、 わたしは よみ、 よみなおし、かんがえました。 まえの いだいな てきすとを。もっとも よく しられている ものを。くらく、ぐうわてきな〔あれごりーてきな、 ものがたりで いいたいことを あらわす ような〕 ぽえむ、 『つぁらとうすとぅらは かく かたりき』を。 あれくるった 『ぜんあくの ひがん』を。するどく せっとくりょくの ある『どうとくの けいふがく』を。そぼくな 『ひげきの たんじょう』を。 そして ほかの すべての さくひんを。 この おわり においては、( 「でゅおにゅーそす」、「あの はりつけに された もの」〔なざれの いえす〕、「ありあどね」、「わーぐなー」、「つぁらとうすとぅら」という なまえの ものと ともに、 そして それらの なまえの ものの うえで)「にーちぇ」 という なまえの ものが、 かぎかっこなしの にーちぇの ちゅうしん・じんぶつに なるのです。 その おわりに おいて、 さわがしすぎた ものの から、すべてが ひかえめにも あかるく なりました。こどくに いきる ことは、きょうき(狂気)へ しんこうちゅう(進行中)です。その おわりに おいて、その こどくに いきる ことが せいり(整理)れる のは、 この ものの とるにたらない かんぜんな へんかに むけて です。 このものは、 かつて、 すべての ものに たいして、 にんげんらしさを しゅうきょうてきな どく から、 そうりょという ひどい じんぶつ/すがた から、 つみの わざわいを まねく けっか〔des effets〕から ときはなつ ことが できました。うつりゆく 〔せいせいする〕もの ぜんたいに たいする、 だい 「さんせい」の てんか(天下)を つくる ことが できました。 それにも かかわらず、この おわりに おいて、こくはくする ことに なりました。それでも、「かみ よりも ばーぜるの きょうじゅ*8で あった ほうが」よかった と。

déjà:それいぜんに、まえに
sans douteは おそらく。 sans aucun douteが うたがいなく。
des ultimes :さいごの
billet:みじかいてがみ、たんしん(短信)、すんしょ(寸書)(sが ついていない のは、 まえの けいようしに sが ついている から である。あれ。 なんでないのだ? desが deに なる のとは はなしが ちがう。)
le Crucifié: Jésus-Christ.(https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/crucifi%C3%A9/20755
furieux :げきどの、いかりくるった、きょうぼうな、どうぼうな、はげしい、あらあらしい、(はなしことば)すさまじい、すごい、(ふるい、ぶんご)きょうきの、きょうらんの
subtil/e:とがった、えいりな、ささいな、えいびんな、たくみな、こうみょうな、こうかつな、びみょうな、かんちしがたい、においが きつい、どくの まわりが はやい、(ふるい)きはくな、かるい、ささいな
convaincante:せっとくりょくの ある
primitive:げんしの、げんしじだいの、しょきの、さいしょの、もとの、こんげんてき、きほんとなる、みかいの、げんしてきな、そぼくなさくふうの、むじゃくな、じゅんしんな、そやな、かんそな
au-dessus de:いじょうの、のうえに、のうえで
nommés:つうしょう、というなまえの じんぶつ(けいべつてきに もちいられる)
s’éclaircir:あきらかになる、はっきりする、あかるくなる
bruyant:そうぞうしい、さわがしい
l’humble:(めいしの まえ)とるにたらない、みすぼらしい
révolution:かくめい、かくめいせいりょく、へんかく、かくしん(革新)、へんどう、(はなしことば)そうどう・こんらん・こうふん、こうてん、かいてん、じゅんかん
totale:ぜんたいの、ぜんぶの、そうけいの、かんぜんな
de celui qui,
bien que:しゅごと こぴゅら(えーとるêtre どうし)のしょうりゃく
débarrasser あ de い: い から あを とってやる、かいほうする、ついほうする、とりのぞく、かたづける
une fois pour toutes
l’humanité:にんげんせい (「にんげん」 である ことに よい ことを わりあてる のは、 わるい だけ では なく、 まちがっている。とくに くるしめる あいてが にんげん いがいの ときには まちがっているし、 わるい)
poison:どく(poissonぽわそんは さかな。)、からだにわるいもの、ゆうがいなもの、きけんなもの、やっかいなもの
dégoûtante:ふけつな、ひどくよごれた、ひどくふゆかいな、むねのむかつくような
prêtre:そうりょ
effet:いんしょう
désastreux:ひどい、さんたんたる、さいなんの、わざわいをまねく
culpabilité:つみ (capableと かけている?)
instaurer:せつりつする、そうせつする、そうしする
le règne:くんりん、ちせい、とうち(きかん)(統治期間)、しはい、てんか、(せいぶつ)かい、おうこく(ふるい)
grand « Oui »:だいさんせい
à tout ce qui devient,
en arriver à :ついに…にたっする、するにいたる
avouer:こくはくする
quand même:それでも、やはり、ともかく
Bâle:ばーぜる(すいすの ほくせいぶの とし)

f:id:hunihunisaito:20210403144840p:plain
ばーぜる

sombre et allégorique

poison religieux

Pierre Michel、Mirbeau et la "négritude" 、26ぺーじ。

f:id:hunihunisaito:20210405164236p:plain
しゅうきょうの どく

みらぼーは 1897ねん から 1915ねんの しじん である。 ふらんすごで かいた。
まるくすの じんみんの あへんと ならべている。
poisson、さかなは きりすときょうの しょうちょうだが、 かんけいは あるのか?

la figure

「じんぶつぞう」と やくしていた。

dégoûtante

C.− Au fig. Qui provoque l'indignation; qui est contraire aux convenances.
https://www.cnrtl.fr/definition/d%C3%A9go%C3%BBtant

いきどおりを おこす もの、 てきせつに はんする もの

des effets désastreux

Conséquence destructrice.
http://www.linternaute.fr/expression/langue-francaise/10034/effet-desastreux/

le règne du grand « Oui »

てんか? しはいか? とくに みつからなかった。

tout s’éclaircit discrètement de ce qui fut trop bruyant,

Mais ça pourait se traduire par : " ça se calme doucement", "ça revient à la normale".
https://hinative.com/ja/questions/18734304

grand « Oui »:だいさんせい

10

On verra comment, gouverné par cette profonde sympathie, le commentant en détail et l’admirant sans avoir pour autant à lui concéder quoi que ce soit, j’ai pu décerner à Nietzsche, en mon seul nom, le titre suivant : prince pauvre et définitif de l’antiphilosophie.

つぎの ことを どのように やったかが これから わかる でしょう。 つまり、このように ふかく すき である ことの えいきょうに ある わたしが、 こまかく そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕に こめんとを つけながら、 そして そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕は すばららしいと おもいながら、なんでもは みとめずに、だからといって そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕に ついては そんなことも なく〔みとめて〕、 わたしの ただひとつの かただき〔なまえ〕の もの *9 として、にーちぇに あたえる ことが できた しょうごう(称号)は はん・てつがくの まずしい つねなる おうじゃ だった という ことが どうして だったか 〔わかる でしょう〕。

はんてつがくに ばでぃうは ある いみで はんたいの たちばに たっている のかな?
ふくざつな ぶんを そのまま あらわす ために、あまり わけずに やくした。
gouverné :3. [Le suj. désigne un inanimé] Avoir une influence déterminante sur quelque chose.
sympathie:こうかん、こうい、どうい、どうかん、どうじょう、れんびん、おもいやり、((ふるい)きょうめい、きごころがあうこと、しんわりょく)
le commentant:ちゅうしゃくする commenterの げんざいぶんしで ぶんしこうぶん である
pour autant à :だから といって…ない
concéder:に じょうほする
quoi que ce soit:なんでも
décerner:しょうごうを あたえる
en mon seul nom:なぜ à mon seul nom(じぶんの ゆういつの なに おいて) では ない のか? しかく だから だろうか?
prince:おうじゃ(おうじゃ という みぶんせいなる わるい ものを ぜんていに した なまえを すきな ものに あたえる ことは わるい。 ちなみに あとで ひていてきな けいようしを つけている ことからも わかる とおり、 この たんごは、 よい ことの いみで ばでぃうは つかっている つもり である。)
pauvre:めいしの あと では、 まずしい、びんぼうな、みすぼらしい、まずしさを かんじさせる、 ふじゅうぶんな、ふもうの、ないようの とぼしい(けいざいてきに ふりな じょうけんに ある もの たちを あらわす、 まずしい という ことばが、 わるい ことを あらわす ために つかわれる ことが、 さべつの あらわれ である。 はんたい する。)
définitif:けっていてきな、さいしゅうてきな、さいごの、どうしようもない

A.− [On parlant d'une pers. ou d'un inanimé] Qui est fixé une fois pour toutes, qui ne change pas. Synon. déterminé, irrévocable, durable; anton. provisoire.Rien de durable, de définitif, rien « d'absolu » (Gide, Journal,1929, p. 947):
https://www.cnrtl.fr/definition/definitif

le prince et le pauvre

かんけいない。
おうじと こじき という ものがたりの だいめい。

『王子と乞食』(おうじとこじき、The Prince and The Pauper)は、アメリカの作家マーク・トウェイン1881年に発表した児童文学作品である。16世紀のイングランドを舞台に、実在の若き国王エドワード6世を主人公とした冒険譚で、トウェインはこの作品を通して、子どもの視点で16世紀のイングランドの世情を痛烈に皮肉った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AD%90%E3%81%A8%E4%B9%9E%E9%A3%9F

まとめ


それでは、 この こうぎに おいて、 にーちぇの これらの このときの わるい やりかたを わたしは ゆるします。 それは、 わたしの かんがえの なかに にーちぇを いれる という こと では ありません。そのままでは。 いれません。まさに この ものを、〔つまり〕 にーちぇを、 わたしは こじんてきには、 すごいと おもっている ことが わかる ことに なる でしょう。 このもの〔にーちぇ〕☆ こそが、そのように ごまかしなく〔せいじつさを もって〕、 じぶんの さくひんの ちゅうしんに ならべられました☆。ですから、 「にーちぇ・しゅぎ」〔Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al. ”Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens” 1991.〕は すべて にせもの である という ことに なるのだ という ことが わかる ことに なる でしょう。

しかし、はん・にーちぇ・しゅぎも おなじ〔で にせもの〕 です。 そして、 そこで こそ、まさに こんなにも はなされてきた この にーちぇ なる ものを ちかく から、 とても ちかく から しらべる という ことを とつぜん きめた げんいんが あるの でしょう。もちろん、にーちぇは、 はいでがーの さいごの さくひん*10と ともに、 ふーこーが ふれていた〔さんしょうしていた〕てつがくしゃ であったと しっていました。どぅるーずの 〔かんがえに〕 じゅうような みなもとの ひとつ であると しっていました。 1972ねんには、 せるじーでの れきしてきな しんぽじうむ*11の ときに、 どぅるーず、でりだ、くろそうすきー*12、りおたーる、なんしーは、 その じだいの しそうの しんだ あとの おうさま☆ みたいな もの として しんせいし(神聖視☆)した ことも しっていました。
しかし、 わたしは これらの いだいな どうりょう たちも すごいとは おもいますが、その ひとたちの ちゅうしんじんぶつ〔つまり、にーちぇ〕の さくひんを いちど よむ という こと よりも さきに すすませる ことに までは いたりえません でした。 たしかに、よみ つづけていましたが、 ばらばらに きりはなされて よんでいました。 ぼんやりと よんでいたと さえ いえる でしょう。それほど、 わたしは このように ほめたたえる ことの ぎろん ぜんたいとは かんけいがないと かんじていたの です。☆
しかし、おきたのは、1991ねんに、 ふらんすが 〔しんぽしゅぎに はんたいする うよくの〕はんどうてき 「てつがくしゃ たち」と☆ かんがえた もの ぜんいんが あつまって、 にーちぇと にーちぇの えいきょうに たいして せんせん・ふこく した という できごと でした〔Alain Boyer, André Comte-Sponville, Vincent Descombes et al. ”Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens” 1991.〕。☆
1968ねん ごがつ*13の しかえしを したがる もの たちは、1972ねんの しんぽじうむに いた しょうしんしょうめいの しそうかと かつどうかに くっした てき でした。ひつうな 1980ねんだいに つくられた しょうり(勝利)を おさめた はんどうの ふんいきに よって しげき されて、にーちぇを じぶんたちの しんじていた ことの くろの もんしょうに しました。
この もの たちは、 いっさつの せんげんしょを はっぴょうしました。『なぜ わたしたちは にーちぇ・しゅぎしゃ では ない のか』〔Pourquoi nous ne sommes pas nietzschéens〕〔著者 リュック・フェリー (ほか著),遠藤 文彦(えんどう・ふみひこ) (訳)「反ニーチェ なぜわれわれはニーチェ主義者ではないのか (叢書・ウニベルシタス)」https://honto.jp/netstore/pd-book_01225917.html〕という ほん です。はん・かくめいてきな ぷろぱがんだ〔せんでん〕の ぐるーぷに つれこんでもらう ことを のぞんでいる ものかきの うごうのしゅう(烏合の衆) ぜんたいが、 こうい(好意)てきに この ほんを うけいれました。
そこに いるのは とくに、 (わたしが きびしい かんけいを つづけていた)あらん・ぼわいえ〔Alain Boyer、 1953-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ、ぶんけんがくしゃ。〕、(そるぼんぬの ちかくの おーぎゅすと・こんと〔Auguste Comte、1798-1857。ふらんすごを つかった しゃかいがくしゃ。『実証的精神論』(1838)を かく。〕の どうぞうの だいざに 「こんと=はくしゃく でも なく、 すぽんびる でも なく」と おーぎゅすと・こんとに とっては めいわくな らくがき ですが……その かかれた れくがきで わだいに された) あんどれ・こんと・すぽんびる〔André Comte-­Sponville、 1952-。『資本主義に徳はあるか』(2006、Corinne Quentin(かんたん・こりーぬ) と 小須田 健(こすだ・けん)やく)を かいた。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。〕、(びっくりするぐらいの ぶんめん である 『68ねんの しそう』(La pensée 68)の きょうちょしゃの ひとりで、 しらく〔もと だいとうりょう〕と らふぁらん〔もと しゅしょう〕の もと での なさけない 〔こくみん・きょういく〕だいじんで、 じっさい、 まったく ほとんど にーちぇ しゅぎ では ない なんとかさん である) りゅっく・ふぇりー〔Luc Ferry、1951-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。『68年の思想』(1985)を かいた*14。〕 、 さきほど ふれた ぶんめんの もう ひとりの きょうちょしゃ である〕 あらん・るのー〔Alain Renaut、1948-。ふらんすごを つかう てつがくしゃ。〕、 ぴえーる・あんどれ・たぎえふ〔Pierre-­André Taguieff、1946-。じんしゅしゅぎに ついて ふらんすごで けんきゅうしている しゃかいがくしゃ。 〕、 この ものは、 もえあがる はんいすらむしゅぎの「しゃかぎがくしゃ」で、 みずからの ねっしんな かんがえかたを きょうゆうしない ものに 「はん・ゆだやしゅぎ」という らべるを じどうてきに はる*15 じどうはんばいき〔じどうはんばいきを いみする distributeur automatique は、 もじどおり とれば、 じどうてきに くばる もの という いみ である〕です…。

そのとき、 わたしは おもうの です。 「ありえない! ここに いる もの たちは ぜんいん 「にーちぇに し(死)を」*16という うったえに ついての がまんならない ぐらいの きべん(詭弁)の 〔えいきょうの〕もとに ある という のか? しかし、 それならば、 しかし、 それならば、 にーちぇは かんぜんに まちがっていた はずが ない!」。 だから、 みてみます。 そして けっきょく、 にーちぇの ことを すごいと おもいます。 すき です。 しかし、にーちぇを わたしの かんがえの ほんらいの うんどうとなる ものから はなした ままに しています。わたしが すきな にーちぇは、 すべての ものが、がくと たちが、わるぐちを いう もの たちが、 ついていく もの たちが、 わめきたてる もの たちが、かいしゃく(解釈) する もの たちが、 せんでんする もの たちが、 いつも そのもの〔にーちぇ〕を そのままに してきた、 こどくの なかに います。そのものは、 にーちぇは、 とりの〔いたりあの とし である とりのに にーちぇは ふゆの あいだに いる ことが おおかった。「くるった」と いわれる せいれき 1891ねんも にーちぇは とりのに いた。 〕に ひとりっきりで いました。 にーちぇが 「くるった」と いわれている ことで、 まわりを きにしなくなる ちょうど まえの こと です。にーちぇは そっと、 しずかに (なんにんかの しんじて くれない あいてに、 いきいきとした あいまいな みじかい てがみに よって、にーちぇ じしんの いいたかった ことを つたえて、)「せかいの れきしを ふたつに わける」 ただなかに いた のです。
この にーちぇ こそを、 ばんねんの にーちぇ こそを わたしの ちょうさ(調査)の ちゅうしんに おきました。 そして、 この にーちぇ こそが わたしの とも〔こいびと〕に なりました。『このひとを みよ』の、『わーぐなー たい にーちぇ』の、 そのまえに おそらく 『ぐうぞうの たそがれ』の、〔また〕 でぃおにゅーそす という しょめいや、あの はりつけに された もの〔なざれの いえす〕の しょめい、 さらには ありあどねす の しょめい までも いれた さいごの みじかい てがみの にーちぇ…… この おわりから、 わたしは よみ、 よみなおし、かんがえました。 まえの いだいな てきすとを。もっとも よく しられている ものを。くらく、ぐうわてきな〔あれごりーてきな、 ものがたりで いいたいことを あらわす ような〕 ぽえむ、 『つぁらとうすとぅらは かく かたりき』を。 あれくるった 『ぜんあくの ひがん』を。するどく せっとくりょくの ある『どうとくの けいふがく』を。そぼくな 『ひげきの たんじょう』を。 そして ほかの すべての さくひんを。 この おわり においては、( 「でゅおにゅーそす」、「あの はりつけに された もの」〔なざれの いえす〕、「ありあどね」、「わーぐなー」、「つぁらとうすとぅら」という なまえの ものと ともに、 そして それらの なまえの ものの うえで)「にーちぇ」 という なまえの ものが、 かぎかっこなしの にーちぇの ちゅうしん・じんぶつに なるのです。 その おわりに おいて、 さわがしすぎた ものの から、すべてが ひかえめにも あかるく なりました。こどくに いきる ことは、きょうき(狂気)へ しんこうちゅう(進行中)です。その おわりに おいて、その こどくに いきる ことが せいり(整理)れる のは、 この ものの とるにたらない かんぜんな へんかに むけて です。 このものは、 かつて、 すべての ものに たいして、 にんげんらしさを しゅうきょうてきな どく から、 そうりょという ひどい じんぶつ/すがた から、 つみの わざわいを まねく けっか〔des effets〕から ときはなつ ことが できました。うつりゆく 〔せいせいする〕もの ぜんたいに たいする、 だい 「さんせい」の てんか(天下)を つくる ことが できました。 それにも かかわらず、この おわりに おいて、こくはくする ことに なりました。それでも、「かみ よりも ばーぜるの きょうじゅ*17で あった ほうが」よかった と。
つぎの ことを どのように やったかが これから わかる でしょう。 つまり、このように ふかく すき である ことの えいきょうに ある わたしが、 こまかく そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕に こめんとを つけながら、 そして そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕は すばららしいと おもいながら、なんでもは みとめずに、だからといって そのもの〔かぎかっこつきの 「にーちぇ」〕に ついては そんなことも なく〔みとめて〕、 わたしの ただひとつの かただき〔なまえ〕の もの *18 として、にーちぇに あたえる ことが できた しょうごう(称号)は はん・てつがくの まずしい つねなる おうじゃ だった という ことが どうして だったか 〔わかる でしょう〕。

さいとう
かくめいれき 229ねん 7がつ 18にち
Décade II Octidi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 7にち

*1:はいでがー(1949)『『ヒューマニズム』に関する書簡』と おもわれる。

*2:Maurice de Gandillac(もーりす・ど・がんでぃらっく)と Bernard Pautrat(べるなーる・ぽーとら)に よって、 せるじー・ら・さる・こくさい・ぶんか・せんたー(le Centre culturel international de Cerisy-La-Salle)で、 1972ねんの 7がつ 10にちと 20にちに おこなわれた 「こんにちの にーちぇ?」。 Nietzsche aujourd’hui ?. Colloque dirigé par Maurice de Gandillac et Bernard Pautrat, du 10 au 20 juillet (Publié en deux tomes sous les titres "Nietzsche aujourd’hui ? Tome I : Intensités" et "Nietzsche aujourd’hui ? Tome II : Passions" par Union Générale d'Éditions (10/18), 1973, réédition en 2011 par Hermann Éditeurs).(http://www.ccic-cerisy.asso.fr/colloques3.html#1971)。ないように ついては、http://www.ccic-cerisy.asso.fr/nietzsche1TM73.htmlを さんしょうした。 ちなみに、 ばでぃうが あげた ひとびとの はっぴょうの だいめいを いんようする。”Pensée nomade, par Gilles DELEUZE”(じる・どぅるーず「ゆうぼくみんてき(のまどてき) かんがえ」)、 ”VII. La question du style, par Jacques DERRIDA”(じゃっく・でりだ「7 ぶんたいの もんだい」)、”III. Circulus Vitiosus, par Pierre KLOSSOWSKI”(ぴえーる・くろそうすきー 「3 あくじゅんかん」)、”V. Notes sur le retour et le kapital, par Jean-François LYOTARD”(じゃん・ふらんそわ・りおたーる 「5 かえる ことと しほんに ついての おぼえがき」) ”II. La thèse de Nietzsche sur la téléologie, par Jean-Luc NANCY”(じゃん・りゅっく・なんしー「2 しんがくに ついての にーちぇの せつ」)。

*3:ぴえーる・くろそうすきー、Pierre Klossowski、 せいれき 1905ねん から 2001ねん。しょうせつか、しそうか である。『ロベルトは今夜』(1953)という ふらんすごの しょうせつを かいた。

*4:ごがつ・かくめい。せいれき 1968ねんの 5がつ〔かくめいれき 176ねん 6がつ Ventôse an CLXXVI〕に ふらんすの ぱりで すべての しごとを いちじてきに とめる ぜねらる・すとらいきが おこなわれた。がくせいも おおく うんどうに さんかして、せいれき 1968ねんは こくさいてきに さまざまな ちいきで せいじ・うんどうが おこなわれた。ばでぃうも せっきょくてきに かつどうした。

*5:もうひとつ、 『エコロジーの新秩序』という ほんを かいていて、 よんだ ことが あるが、 よむ かちが ない ほん である。じょうほう としては つかえる かも しれない。

*6:じぶんが きにいらないものに れってる ばりを している という、 このような ばでぃうの かたりかたは、 ばでぃう じたいが さべつを ちゃんと みぬけておらず、 さべつに はんたい できていない かのうせいが かんがえられる。もちろん、 じっさいに この 「たぎえふ」が ただしい ことや さべつてき では ない ことを まちがえて さべつ であると いっている かのうせいも ある。 しかし、 この「ぴえーる・あんどれ・たぎえふ」も ふらんすの きょくうに さんせいしている よう なので、 わるい かもしれない。しかし、えいご うぃきぺでぃあ には、はん・じんしゅしゅぎしゃを じんしゅしゅぎしゃと いっている という はなしも ある。

*7:「にーちぇに し(死)を」という ことばは、「かみは しんだ」という ことばを おもいださせる。 にーちぇは 「かみは しんだ」と いって まわる ものの たとえを このんで つかった。 たとえば、 『よころばしき ちしき』『つぁらつぅすとらは かく かたりき』など。

*8:にーちぇは せいれき 1869ねん から 1879ねん まで すいすの ばーぜる だいがくの こてんぶんけんがくの きょうじゅ であった。 せいれき 1886ねん ごろには、 じぶんは かみ であると てがみに かいていた。

*9:ばでぃうは にーちぇが ふくすうの なまえで しょめいしていた ことを おちょくっている。

*10:はいでがー(1949)『『ヒューマニズム』に関する書簡』と おもわれる。

*11:Maurice de Gandillac(もーりす・ど・がんでぃらっく)と Bernard Pautrat(べるなーる・ぽーとら)に よって、 せるじー・ら・さる・こくさい・ぶんか・せんたー(le Centre culturel international de Cerisy-La-Salle)で、 1972ねんの 7がつ 10にちと 20にちに おこなわれた 「こんにちの にーちぇ?」。 Nietzsche aujourd’hui ?. Colloque dirigé par Maurice de Gandillac et Bernard Pautrat, du 10 au 20 juillet (Publié en deux tomes sous les titres "Nietzsche aujourd’hui ? Tome I : Intensités" et "Nietzsche aujourd’hui ? Tome II : Passions" par Union Générale d'Éditions (10/18), 1973, réédition en 2011 par Hermann Éditeurs).(http://www.ccic-cerisy.asso.fr/colloques3.html#1971)。ないように ついては、http://www.ccic-cerisy.asso.fr/nietzsche1TM73.htmlを さんしょうした。 ちなみに、 ばでぃうが あげた ひとびとの はっぴょうの だいめいを いんようする。”Pensée nomade, par Gilles DELEUZE”(じる・どぅるーず「ゆうぼくみんてき(のまどてき) かんがえ」)、 ”VII. La question du style, par Jacques DERRIDA”(じゃっく・でりだ「7 ぶんたいの もんだい」)、”III. Circulus Vitiosus, par Pierre KLOSSOWSKI”(ぴえーる・くろそうすきー 「3 あくじゅんかん」)、”V. Notes sur le retour et le kapital, par Jean-François LYOTARD”(じゃん・ふらんそわ・りおたーる 「5 かえる ことと しほんに ついての おぼえがき」) ”II. La thèse de Nietzsche sur la téléologie, par Jean-Luc NANCY”(じゃん・りゅっく・なんしー「2 しんがくに ついての にーちぇの せつ」)。

*12:ぴえーる・くろそうすきー、Pierre Klossowski、 せいれき 1905ねん から 2001ねん。しょうせつか、しそうか である。『ロベルトは今夜』(1953)という ふらんすごの しょうせつを かいた。

*13:ごがつ・かくめい。せいれき 1968ねんの 5がつ〔かくめいれき 176ねん 6がつ Ventôse an CLXXVI〕に ふらんすの ぱりで すべての しごとを いちじてきに とめる ぜねらる・すとらいきが おこなわれた。がくせいも おおく うんどうに さんかして、せいれき 1968ねんは こくさいてきに さまざまな ちいきで せいじ・うんどうが おこなわれた。ばでぃうも せっきょくてきに かつどうした。

*14:もうひとつ、 『エコロジーの新秩序』という ほんを かいていて、 よんだ ことが あるが、 よむ かちが ない ほん である。じょうほう としては つかえる かも しれない。

*15:じぶんが きにいらないものに れってる ばりを している という、 このような ばでぃうの かたりかたは、 ばでぃう じたいが さべつを ちゃんと みぬけておらず、 さべつに はんたい できていない かのうせいが かんがえられる。もちろん、 じっさいに この 「たぎえふ」が ただしい ことや さべつてき では ない ことを まちがえて さべつ であると いっている かのうせいも ある。 しかし、 この「ぴえーる・あんどれ・たぎえふ」も ふらんすの きょくうに さんせいしている よう なので、 わるい かもしれない。しかし、えいご うぃきぺでぃあ には、はん・じんしゅしゅぎしゃを じんしゅしゅぎしゃと いっている という はなしも ある。

*16:「にーちぇに し(死)を」という ことばは、「かみは しんだ」という ことばを おもいださせる。 にーちぇは 「かみは しんだ」と いって まわる ものの たとえを このんで つかった。 たとえば、 『よころばしき ちしき』『つぁらつぅすとらは かく かたりき』など。

*17:にーちぇは せいれき 1869ねん から 1879ねん まで すいすの ばーぜる だいがくの こてんぶんけんがくの きょうじゅ であった。 せいれき 1886ねん ごろには、 じぶんは かみ であると てがみに かいていた。

*18:ばでぃうは にーちぇが ふくすうの なまえで しょめいしていた ことを おちょくっている。

へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Bじつげん bこころのきまり

じぶんよう。ただしいかは わからない。
せいれき 2021ねん 3がつ 7にち から かきはじめた。
かくめいれき 229ねん 7がつ 13にち(Décade II Tridi, Germinal an CCXXIX)、せいれき 2021ねん 4がつ 2にちに かきおえた。
あとで かえると おもう。🐸🐸
いんようさきが かいていないときは、 この ぶんしょう、 つまり 「へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Bじつげん bこころのほう」からの いんよう です。
Tatと Tunの かんけいは、 わかっていない。 要調査。
Tatと Tunの はなしは、 しんじないで ください。


Cりせいしょう
CVりせい
CVBりせいてきな じこいしきが じぶんじしんを つうじて げんじつか される こと
CVB0まえおき
CVBaきもちよいことと かならず おきる こと(ひつぜんであること)
CVBbこころの ほうそくと うぬぼれの きょうき
CVBcとくと せけん

どいつごは ぴーでぃーえふで http://public-library.uk/ebooks/05/51.pdfを よんでいる。
くまのやくで じょう 567ぺーじから。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097019/
ぺーじの かず いがいを とくに なにも かいてなければ、 これらの ぶんけん からの いんようである はず。

b

こころの ほう

Das Gesetz des Herzens und der Wahnsinn des Eigenduenkels
こころの ほうと うぬぼれの きょうき

まず、 「こころの ほう」という ことばに ついて かく。
うぬぼれの きょうき(狂気)の はなしは しない。
Gesetz は おきて とか、 ほう とか、 ほうそく という いみ である。げぜっつ
Herzensは こころ とか、 しんじょう とか、しんぞう という いみ である。はーと という ことばと おなじ けいとうの ことば。
いろんな やくしかたが できる。
こころの おきて、 しんじょうの ほうそく などなど。
しかし、とりあえず 「こころの ほう」と やくす。

ぼるたー・くらんつ

ぼるたー・くらんつ という こだい・ぎりしあの せんもんかが つぎの ような ぶんしょうを かいている。
Kranz, Walther. "DAS GESETZ DES HERZENS." Rheinisches Museum Für Philologie 94, no. 2/3 (1951): 222-41. Accessed March 7, 2021. http://www.jstor.org/stable/41244003.
どいつごが よめなくて、 わからない。
だれか、ないようを おしえてください。

こころの ほうとは?

かなり てきとーな ぶんしょうを よんでしまった。
河口明人「健康概念の起源について、古代ギリシャ世界における身体と生命Ⅲ、祭典の思想と生存の意志 」
http://doi.org/10.14943/b.edu.112.1
おそらく こだい・ぎりしあの せんもんか ではない。
じっさい、 いしゃ。
こだい・ぎりしあを ちゃんと ひはんせずに どうとくてきに すぐれた ものと かんがえてしまっている。
また、 あそびの はなしは、 ひとつの かんがえかた として おもしろいが、 そんなに うまく いっていない ように おもえる。
という しろうとの かんそう。
この ものは、 そふぉくれすの 「あんてぃごねー」という さくひんを よんでいる。
しかし、 かなり びみょうな かきかたを している。

アンティゴネーが憚ることなく護ろうとしたのは,自己の存在を意義づける身内の人間(家族)に対する限りない不滅の愛情とともに,それを支えるノモス(慣習)としての人間の掟であり,同時に斃れはしたが,勇敢に戦った兄の栄光と名誉であった。彼女は,たとえ恣意的な国禁を侵して死罪になろうとも,兄弟の名誉を守り,身内の身体を埋葬することは,いわば人為的,一時代的な法を遙かに凌ぐ神々の掟,すなわち「こころの法」であり,絶対的命令であることを主張する。そのこころの命令に従うことこそが,兄のためだけではなく,同時にこの世の生を受けた自分の生存のアイデンティティ,すなわち兄妹としての使命であり名誉でもあることを主張し,自らの正義にしたがって,昂然として死に赴く。」
16-17ぺーじ

たしかに、 こだいぎりしあに おける かみがみと にんげんの ちかさと とおさを ぎろんしては いる。
しかし、そふぉくれすの 『あんてぃごねー』は のもす という にんげんのほうと、 ぴゅしす という かみがみのほうの たいりつを えがいている という よく ある よみかた とは ぜんぜん ちがう よみかたを している。
かといって、 くわしく ぎろんしている わけでもない。
そして、 ここで もんだいに したいのは、 「こころの法」という ひょうげん である。
どこから でてきた この ひょうげん。
とくに ちゅうも ない ので、 この ものの どくじの よみかた かも しれない。
それにしては、 なぜ かぎかっこを つけたのか わからない。
ひゆとして つかっている という こと なのかも しれない。
いちおう そふぉくれすの 『あんてぃごねー』の にほんごやくも かくにんしたが、 「こころの ほう」とか 「こころの おきて」という ひょうげんは みつからなかった。(中務哲郎やくの いわなみぶんこ)
または、 「健康概念の起源について、古代ギリシャ世界における身体と生命」の いちと にで つかっている ひょうげん なのかもしれない。
ともかく、 びみょうである。
ちゅうの ぶんけんじょうほうも あいまいだ。
まあ、 じぶんも この ぶろぐで、ぶんけんじょうほうは あいまいに かいてしまうので、 せめられない。でも、こまる。

おおた・こうたろう

大田孝太郎「「ノモス」と「ピュシス」──古代思想から近代思想へのその展開──」、広島経済大学研究論集、第36巻第2号 2013年9月、http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hue/metadata/12106

「アンチゴネーの悲劇は,ノモス(法)にみずからの生の地盤をおく旧来の価値意識と個人意識に目覚めた新しい価値観との矛盾・葛藤が起こってきた紀元前5世紀半ばのギリシアの状況をみごとに形象化したものといえるだろう。」
38ぺーじ

とかいている ぶんも みつけた。
あんてぃごねーの たちばを こじんいしきと かんがえるのは、 しらなかった。
ちなみに おおたの この ぶんけんは おそらく よく ある よみかたで そふぉくれすの『あんてぃごねー』を よんでいると おもう。

クレオンは国(ノモス)の掟を守る立場から,アンチゴネーは,家族(ピュシス)の側から,それぞれみずから正しいと信じることをおこなった。」
38ぺーじ

この よみかたに もんだいが ないとは おもわないが、 よく ある よみかた である ことは たしかだと おもう。

こころの おきて

こころの おきてと しらべると、 きりすときょう かんけいの ぶんしょうが みつかる。
こころの ほうそくと しらべると、 しんりがく かんけいの ぶんしょうが みつかる。
こだい・ぎりしあ かんけいの ぶんしょうは みつけていない。
しかし、 へーげるの 「こころの ほう」という この ぶぶんは、 こだい・ぎりしあ かんけいだと そうぞうしている。
こんきょは じゅうぶんに しめせない。
すると、 「こころの ほう」よりも 「こころの おきて」という にほんごやくの ほうが いいかもしれない。
じぶん としては、そふぉくれすの 『あんてぃごねー』を ねんとうに かいている きがするが、 あんてぃごねーは けっして、 ここで へーげるが かく ように「にんげんの しあわせの ために」と いわないと おもうので、 ちがう きがする。

しかし、へーげるの 「こころの ほう」という この ぶぶんは、 しらーの 「ぐんとう」(群盗) という しょうせつが ねんとうに ある という よみかたが よく ある ようだ。
おそらく、 いぽりっとの よみかたの えいきょう だろう。
かしやま・きんしろう(樫山 欽四郎)という にほんごでの へーげる けんきゅうしゃも その ほうこうで よんでいる みたいだ。
ヘーゲル, 樫山欽四郎『ワイド版世界の大思想 第1期〈7〉ヘーゲル』、河出書房新社、せいれき 2004ねん、)https://books.google.co.jp/books?id=-5A6DwAAQBAJ&pg=PT236&lpg=PT236&dq=%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89%E7%89%88+%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%80%9D%E6%83%B3+%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB+%22%E3%82%A4%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%22+%E2%80%9D%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC%E2%80%9D&source=bl&ots=cNyqdO31B2&sig=ACfU3U1w37UKRmiFlSN3KYB79sGLxv23DQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwimiJeO3Z3vAhXNP3AKHS88CogQ6AEwBHoECBMQAw#v=onepage&q=%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89%E7%89%88%20%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%80%9D%E6%83%B3%20%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB%20%22%E3%82%A4%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%22%20%E2%80%9D%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC%E2%80%9D&f=false
ぺーじすうが ない!

はきけが するので、とりあえず かくのを やめる。 いつか また かく。
はきけが なくなったので、 また かく。

νόμος της ψυχής

こだい・ぎりしあごで、 νόμος της ψυχής(nomos tis psūkhḗs)( たましいの おきて、 たましいの ほう、 いのちの ほう、 いのちの おきて) と いうのではないかと そうぞうした。
こだい・ぎりしあごは わからないので、 こういう ことばの くみあわせで いいのかは わからない。
「聖書(旧約聖書)におけるleb[4](eの音が長く、レーブ)というヘブライ語は、日本語の「心」に一致している点が多い[2]。イスラエル人にとっても、lebは心臓を意味するだけでなく、感情、記憶[5]、考え、判断[6]などの座とされた。旧約聖書ギリシャ語に翻訳されることになった時、このlebの訳語に、ギリシャ語で心臓を意味する「kardia」が当てられた[2]。こうして、kardiaはヘブライ語lebの意味も担いつつ 新約聖書で広い意味を与えられることになった」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83
らしいので、 καρδιά(kardia、 しんぞう)という ことばを つかう べき かもしれない。
しかし、 しらべても でなかったので、 あきらめて、 たましい、いき という けいとうの ぷしゅけーを つかって しらべた。

Κωνσταντίνος Τσάτσος (コンスタンディノス・ツァツォス)(1899 – 1987)の «Πριν το ξεκίνημα», εκδόσεις: Αστήρ.という ほんの "Η ελληνική φύση" (ぎりしあの げんしょう)
https://to-dialeimma2.blogspot.com/2019/03/blog-post_9.html
”Γίνεται νόμος της ψυχής μας.”
(gī́netai nomos tis psūkhḗs mas)
(しぜんは) わたしたちの たましいの ほうに なります。
この ぶんしょうは、 しぜんが じぶんとは ちがう もの だけど、 じぶんと おなじ もの である という はなしを している ようで、 へーげるに にている。

やっぱり、 こだい・ぎりしあの はなしを している きがする。
こだい・ぎりしあを べんきょうしないと いけない。
はやく へーげるの ぶんしょうに はいれ。
はい。

b1

ひつぜんせい

”Was die Notwendigkeit in Wahrheit am Selbstbewusstsein ist,”
in Wahrheit は じじつは、 じっさいは という いみでも つかわれる。
am(ぜんちし anに ていかんしdemを くっつけた ことば)は かなり やっかいな たんご である。
ふれていること、 その とき、 それを てがかりにして、 その せいしつを もっている ものに おいて、それに そくして という いみが ありえそう。

じこいしきの しんなる ありかたに おいて かならず おこる こと。
じこいしきに おける しんなる ありかたの からなず おこる こと。
じこいしきと おなじ もの としての かならず おこる こと。
じこいしきを てがかりに した ときの しんなる かならず おこる こと。

かならず おこる こと、 ひつぜんせいは、きもちいい という だんかいのじこいしきに とって、 しんなる ありかたに なっていなかった。
しかし、 かならず おこる こと、 ひつぜんせいは、こころの ほう という だんかいのじこいしきに とって、 しんなる ありかたに なる はず。
かならず おこる こと、 ひつぜんせいの しんなる ありかたは じぶん である。
へーげるの べんしょうほう では、 むかう さきに たどりつく とは かぎらない。
むかう さきは、 ひつぜんせいが しんに ある ありかたで わかる こと である。
しかし、 たどりつく さきが ひつぜんせいの しんの ありかた である とは かぎらない。

じぶんに とって ある ひつぜんせい

こころの ほう という この だんかいの じこいしきに とって あるのは、 ひつぜんせいが しんなる ありかたでは じこいしきと かかわる という こと である。
こころの ほう という この だんかいの じこいしきに とって、じこいしきは、 じぶんに とって、かならず おこる こと である。
つまり、 こころの ほう という この だんかいの じこいしきに とって、 かならず じぶんを いしきする。
じぶんに とって ある という ことが からなず おこる。
じぶんと かかわる ことが かならず おこる。

こころの ほう という この だんかいの じこいしきは、 じぶんが ちょくせつてきに ふへんてきな ものを もっている という ことが わかっている。
ふへんてきな ものを かんせつてきに もっているの ではない、
そして、 ふへんてきな ものは、 ほう、げぜっつ である。
ほう、ほうそく、おきては、 ふへんてき である。
なぜなら、 ほう、ほうそく、おきては すべてに あてはまる から である。
こべつで たいおうを かえる ことや こべつで あてはまらない ものが ある ような ものは、 ほうや ほうそくや おきて ではない。
こころの ほうの この だんかいの じこいしきに とっての ほうの とくちょうは、じぶんに かんして ある という こと である。
また、こころの ほうの この だんかいの じこいしきに とっての ほうの とくちょうは、 じぶんに とって ある という こと である。
しかし、こころの ほうの この だんかいの じこいしきに とっての ほうの とくちょうは、 ちょくせつ じぶんと かんけいしている という こと である。
こころの ほう という この だんかいの じこいしきは、 ほう である ので、 こころの ほう である。
または、 じぶんに かんけいしている という ありかたは こころ である。
だから こころの ほう である。

ふへん から ほうへ

ここで、 ほうが でてくる ながれを かくにん しておこう。
きもちいいの だんかいの じこいしきは、 こべつの きもちいいを げんじつに しようと していた。
しかし、きもちいいの だんかいの じこいしきは、 けっきょく ほかの ものを じぶん であると わかる から、 ふへんてきなもの になる。
ふへんてきなもの である じぶんが こころの ほうという だんかいの じこいしき である。
ふへんてきなものは ほう である。
なので、 ほうが でてくる。
しかし、 ちょくせつてきである という ことが こうどうする りせいの はじめの だんかいの じこいしき である。

ほうが じぶんに かんけいしている という ありかたは、 ちゃんと わかっては ない。
じかくてきな ほう? じかくてきな おきて?
じこげんきゅうてきな ほう? じこげんきゅうてきな おきて?
しかし、 そのように ひょうげんすると、 ことばで かんせつてきに じぶんと かんけいしている という ありかた である きがする。

たいじそんざい、じぶんに かんけいして ある、じぶんに とって ある

ひゅーる じっひ、für sichは たいじ(対自)、 じぶんに かんけいする、 じかくてき、 じぶんに とって、 じぶん だけ という いみが ある。
こころの ほうの この だんかいの じこいしきは、 じぶんに とっては、 こべつの もの である。
こころの ほうの この だんかいの じこいしきは、じぶんに かんけいする こべつの もの である。
じぶん だけで こべつの もの である。
じぶんに かんけいして こべつのもの である という ことは、 こころの ほうの だんかいの じこいしきに とっても、 きもちいいの だんかいの じこいしきに とっても おなじ である。
じぶんに かんけいして こべつてきで ある という ことが わからない。 要調査。 わからない。
(かくせいてき かくしんの こべつせいは じぶんに おいて ある という こべつてきな もの であった。こべつてきに ある というのは、 すべてに あてはまる わけではない という こと だろう。)

そして、 じぶんに とって ある という ありかたが、この だんかいの じこいしきに とって かならず おこる。
じぶんに とって ある という ありかたが、この だんかいの じこいしきに とって、 ふへんてきに おこる。
きもちいい という だんかいでは、 じぶんに とって ある という ことは かならず おこる もの ではない。
きもちいい という だんかいの じこいしきに とって、 じこいしき である という ことは、 たまたま おこる こと である。
こころの ほうの この だんかいの じこいしきは、じぶんが ひつぜんせい であると じかくしている。

まとめ

ちょくせつてきに じぶんと かんけいする こべつてきな もの。
いまと ここが ある もの。

ふたたび Herzen

ひとつ

Lichtenberg, der das physiognomische Beobachten so charakterisiert, sagt auch noch dies: Wenn jemand sagte,
du handelst zwar wie ein ehrlicher Mann, ich sehe es aber aus deiner Figur, du zwingst dich, und bist ein Schelm
im Herzen; fuerwahr, eine solche Anrede wird bis ans Ende der Welt von jedem braven Kerl mit einer Ohrfeige
erwidert werden.
93

「und bist ein Schelm im Herzen」「おまえはこころの底では悪党なのだ」
くまのやく 499ぺーじ。
にんそうがくの はなし である。
へーげるの ことばでは なく、 りひてんべるくの ことば である。

Allein die Bewegung, welche das Individuum in der Leber, dem Herzen und so fort hat, kann nicht als die ganz in sich reflektierte Bewegung desselben angesehen werden, sondern sie ist darin vielmehr so, dass sie ihm schon in den Leib geschlagen ist, und ein animalisches heraus gegen die Aeusserlichkeit sich wendendes Dasein hat.
95ぺーじ

「Allein die Bewegung, welche das Individuum in der Leber, dem Herzen und so fort hat」
「運動は、個体がそれを肝臓、心臓などにあって有するものであるならば」506ぺーじ
かんぞうに くらべられる しんぞう という はなし であった。

さん

こころの ほうの もんだい
「Gesetzes seines Herzens」みずからの しんじょう(心情)556ぺーじ

b2

ほうは ちょくせつに この だんかいの じこいしきの もの である。
ほうは ちょくせつに じこいしきで ある。
こころ である ほうが、 じこいしきの げんじつに する もくてき である。
まえの きもちいいの だんかいの じこいしきの もくてきは、 ほかの ものの なかに こべつてきな じぶんが ちょくせつ ある こと だった。
この こころの ほうの だんかいの じこいしきの もくてきは、 ふへんてきな ほう である。
もくてきは、 げんじつに しようと する もの である。
もくてきは、 むかう さき である。
もくてきは、 がいねん である。
もくてきは、じぶんを じぶんの ままに する という こと である。

そして、こころの ほうの だんかいの じこいしきの もくてきを げんじつに した けっかと、 もくてきの がいねんが おなじに なっているか どうかを かくにんする ひつようが ある。
へーげるの べんしょうほうでは、 もくてきの がいねんと もくてきを げんじつに しようと した けっかは ことなる。
めざした もくてきとは べつの ところに たどりついて しまうのだ。
こころの ほうの だんかいの じこいしきが じぶんを げんじつに する とき、じぶん という ほうが ある という ことを けいけんするか どうかを かくにんする ひつようが ある。
へーげるの べんしょうほうでは、けっきょく じぶん という ほうが、 つまり こころの ほうが じっさいは ない という ことを けいけんするの だろう。
すくなくとも こころの ほうは べつの ありかたを している ことに なる。

b3

げんじつ

こころは げんじつに なっていない。
こころの ほうは、 じぶんに とって ある だけだ。
こころの ほうは、 じぶんに おいて ある わけでは ない。
こころの ほうは、 じかくてき である。
なぜなら、 こころの ほうの この だんかいの じこいしきは、こころの ほう という じぶんを いしき している から である。
こころの ほうは、 げんじつに なって いない。
こころの ほうの がいねんは、 こころの ほうの じっさいの ありかた とは ちがう。
なので、こころの ほう という ひつぜんせい という じぶん では ない ものは、げんじつに される べき こと とは ちがう げんじつ である。
こころの ほうの がいねん、 もくてきは、 げんじつに される べき こと であり、 こころの ほうの じっさいの ありかたは げんじつ である。

むじゅん

むじゅんは たいりつで あり、 たいりつは ひていされて ひとつに なる。
げんじつは こころの ほうと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 こころの ほうの がいねん、 もくてきと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 こべつの ありかたと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、こじんと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 ちょくせつてきに じぶんに たいして ある こじんと むじゅんしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 ひとつの ほう である。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは、 ひつぜんせい という ほう である。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつは ふへんてきな ほう であり、 こべつてきな ありかたを よくあつしている。
こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつ、 つまり ひつぜんせい という げんじつに、 こじんは したがう ことに なる。

せかいの ちつじょ

こころの ほうの じっさいの ありかた である げんじつ、 つまり ひつぜんせい という げんじつは、 せかいの ちつじょ であり、こころの ほうと たいりつ する。
こころの ほうは あるべき ありかた である。
せかいの ちつじょは じっさいに ある ありかた である。
せかいの ちつじょは あるべき ありかたを していない。
せかいの ちつじょは ぼうりょくてき である。
あるべき ではない ありかたを おしつける から である。
せかいの ちつじょの げんじつは、ほう であると どうじに、 せかいの ちつじょ という じぶん では ない もの としての ひつぜんせいに したがわされる じんるい である。
ひつぜんせいに したがわされる じんるいは くるしむ。
じんるいも げんじつ である。
じんるいは せかいの ちつじょ という ひつぜんせいに したがう だけで、こう ある べき という こころの ほうに したがわない。

じんるいが くるしむ ような、 ひつぜんせいの せかいの ちつじょ という げんじつは、 こころの ほう という この だんかいの じこいしきに たいりつ している。
じんるいが くるしむ ような、 ひつぜんせいの せかいの ちつじょ という げんじつは、かんさつする りせいや、 きもちいい という こうどうする りせいに とって、ふたつに わかれていた ありかたを くりかえしている。
ふたつに わかれていた ありかたとは、 こたいせいと、 しんなる ありかたを した こたいせい という ふたつに わかれていた ありかた である。
つまり こじんと、 こじんが けっか として たどりつく しんなる ありかたに わかれる。
こじんは しんなる ありかたには たどりついていない。
しんなる ありかたに たどりつくと、 その しんなる ありかたが こじんと なり、 また べつの しんなる ありかたが でてくる。
なぜなら、 きじゅんが かわる から である。
この かんけいを しっている こと、または ち(知) と しんり(真理)という ことばで あらわす ことも できる。
ちは しんりでは ない。 しかし、 ちを つきつめると、 しんりに なる。 すると、 しんりを しったので、 しんりは ちに なるが、 すると いままで しらなかった ことを しる ことで ぜんていが かわり、 きじゅんが かわり、 しんりも かわる。 そいして、 その しんりに むかって ちを つきつめる。(ここで、 しんりは しんなるもの という いみで、 ちは しっている こと という いみである。もじ としての かんじで かけば、真理と知 である。 こころ としての しんり(心理)と からだに ながれる けつえき としての ち(血) ではない。 さいばんで ほうりつに したがって はなしあう という いみでの しんり(審理)と じめん という いみでの ち(地) ではない。)
かんさつする りせいに とっての ふたつの わかれた ありかたは わからない。 要調査。
きもちいいの りせいは、こじんと こじんが しんなる ふへんてきな だんかいに わかれる。
きもちいいの りせいは、 こじんの もとめる きもちいいと、 こじんの たどりつく うんめい としての ひつぜんせいに わかれていた。
うんめい としての ひつぜんせいは ざんこく であり、 こじんを くるしめる。

われわれに とって

われわれに とっては、 ある だんかいの いしきに とって とは ちがって、それまでの うつりかわり という うんどう、 つまり ながれ、 かてい(過程)、ぷろせすは、 あたらしく でてくる ある だんかいの いしきと たいりつ している。
これまでの ながれの すべてに たいりつ している から こそ、 「あたらしい」の である。
へーげるの せいしんげんしょうがくでは、 ある だんかいの いしき までの うつりかわりを ふまえて、 それらの うつりかわりで けいけん してきた それぞれの だんかいの いしきの ありかたは ふじゅうぶんで あり、 たどりついた だんかいの いしきに ふくまれると かんがえる。
ひゆで せつめいする。
「これこれは こういう もの である」 という せつめいが あったと する。
この せつめいに たいして、 「たしかに、 この ような じょうけんでは、 これこれは こういう もの である。 それは ただしい。 しかし、 ちがう じょうけんでは、 これこれは あういう もの である。 これらの ありかたを まとめて あらわそう。 どれどれは あういう もの である。」という せつめいを だしてくる いめーじ である。
ほかの ものが ただしいと おもっている ことを ひていしながら ふくむ ことに なる。
ただし、 この ひゆは あくまで ひゆである。
なぜなら、へーげるの せいしんげんしょうがくでの ながれは、 さらに、 つぎの ように つけくわえる からだ。 「これこれは こういう もの である、 という ことを つきつめて かんがえてみろ。 どうだ、 じっさいは どれどれは あういう もの である という けつろんに じぶんで いきついている ではないか。 あなたは たんに きづいていない のだ。 すでに わたしの せつめいを なしとげている。」
そして、 これを ありえない ぐらい なんかいも くりかえしていくのが、 せいしんげんしょうがく である、 と おもう。
せいしんげんしょうがくの はんぶん ぐらいで、 おおきく わけても 16かいは これを くりかえしている。
しかし、 この 16かい という かいすうは、 もくじで せいしんしょうまでの かずを かぞえたに すぎない。
それぞれ いっかいの なかで、 それまでの ながれを くりかえしている はず である ので、もっと おおい はずだ。

われわれに とって、それまでの うつりかわりが、 あたらしく でてくる ある だんかいの いしきと たいりつ している りゆうは、 それまでの うつりかわりを ふまえて あたらしく でてくる ある だんかいの いしきが ないりたつ から である。
つまり、あたらしく でてくる ある だんかいの いしきは、 それまでの うつりかわりを ひていしながら ふくんでいる から である。
それまでの うつりかわりは、 「先行する運動」(569ぺーじ)と かかれている。
あたらしく でてくる ある だんかいの いしきは、 「あらたな形態」(569ぺーじ)と かかれている。
そして、 この 「先行する運動」(569ぺーじ)、 つまり それまでの うつりかわりは、 「あらたな形態」(569ぺーじ)に とって、ひつぜんてき である。
なぜなら、 あらたな だんかいの いしきが でてくる ためには、 それまでの うつりかわりが ないと いけない から である。
われわれに とっては、あらたな だんかいの いしきに とって、 かならず おこっている ことは、 それまでの うつりかわり である。
しかし、 あらたな だんかいの いしきは その ことには きがつかない。
ぜんたいを あとから かんがえた われわれには きがつけても、 あらたな だんかいの いしきは ぜんたいを しらないので、 きがつけない ので ある。
なので、 あたらしく でてくる だんかいの いしきに とっては、 われわれに とってとは ちがって、「前に見いだされたもの〔「前に見いだされたもの」を きょうちょうしている。〕」(569ぺーじ) である。

; ihr aber erscheint es als ein Vorgefundenes, indem sie kein Bewusstsein ueber ihren Ursprung hat, und ihr das Wesen ist, vielmehr fuer sich selbst oder das negative gegen dies positive An−sich zu sein.
107

Vorgefundenesは vor(まえ)、gefunden(finden(みつける)の かこぶんし)、es(おそらく いちかく、さんかく、よんかくの どれかの けいようしの ちゅうせいめいしかの ごび)で できている。
vorfindenは あらたな じょうきょうで、 ある ところや ある じょうたいに あるのを みいだす という いみ である。 さいきどうし として つかうと ある という いみ である。
ここでは、 「たんに まえに みられた もの」 という いみで かんがえる べき だと おもう。
なぜなら、 つぎに もとに なる もの という いみの きげん(起源)、Ursprung という ことばが つかわれている から である。
もとに なる もの という いみの きげん(起源)は、 まえに ある だけで なく、 いまの もとに なる という こと まで ふくむ。
ひつぜんてきな もの として かんがえる という ことは、 もとに なる もの という いみで きげん(起源)と かんがえる という こと である。
これは われわれの たちば である。
いっぽう、 たんに まえに ある ものと かんがえるのは、 ある だんかいの いしきの たちば である。
(ここらへんで、 「形態」(569ぺーじ) という ことばが つかわれるのは、こうどうする りせいに ついての だんかい だけ かもしれない。)
ある だんかいの いしき、とくに こうどうする りせいに とって ある というのは、じぶんに とって ある という ある という こと だけだ。
じぶん だけに かんけいしている という ことだ。
たいじそんざいである という ことだ。
それ じたい として ある という ことは もんだいに ならない。
いしきに とって ある という ことが もんだいに なる。

それじたい として ある という、 ひていが ない ありかたが ある。
それ じたい として ある というのは、 ひていが ない という いみで、 こうていてき、 せっきょくてき である。 ぽじてぃーぶ。
この それ じたい として ある という ありかたを ひていする ことで、 じぶん いがいの ものに かんけいしながら、 それを ひていして、 じぶんに かんけいする という ひていてき ありかたを する。
とくに ここでは、 ひつぜんに たいして こころの ほうが たいりつ させられている。
ひつぜんは それ じたい として あるが、こころの ほうは、それを ひていして、 じぶんに たいして ある。

b4

こたいと ひつぜんせいの たいりつ

こころの ほうは ひつぜんせいと むじゅんしている。
ある べき ありかたは、 じっさいに ある ありかたと むじゅんしている。
そう である べき ありかたを していない うんめいで くるしむのだ。
くるしみは vorhandenする。vorhandenは てもとに ある という いみや、 げんぞんする という いみ である。
こじんの もくてきは ひつぜんせいを ひていする ことである。
こたい、こじんは ひつぜんせいの くるしみを ひていする。
(おそらく こじんは くるしみたくない という ぜんていが ある。しかし、 こたいを こじんと かくのは びみょうな きがする。 へーげるは ぜったいに ここでは にんげんの ことしか かんがえていなかったと おもうが、かといって、 こたいも あらわせる ことばを にんげんに げんていする かきかたを するのは、 とても だめなきがする。 わかりやすさの ために、 こじんも つけくわえるが、 こたいも かならず つかおう。)
こころのほう という この だんかいの こたい、こじんは、 まえの きもちいいの だんかいの こたい、こじんに くらべて ゆたかである。
きもちいいの だんかいの こたい、こじんは きもちいい ことを もとめる。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 きもちいい だけを もとめる ことは ない。
こころの ほうの こたい、こじんは、 「高邁な目的をいだく真摯なありかたをそなえたもの」だ。
こころの ほうが もとめる きもちいい こととは、 じぶんが すぐれて ある という ことを しめす こと である。

Sie ist hiemit nicht mehr der Leichtsinn der vorigen Gestalt, die nur die einzelne Lust wollte, sondern die Ernsthaftigkeit eines hohen Zwecks, die ihre Lust in der Darstellung ihres vortrefflichen eigenen Wesens und in der Hervorbringung des Wohls der Menschheit sucht.
107

「die Ernsthaftigkeit eines hohen Zwecks」で、Ernsthaftigkeitは しんけんさ、まじめさ、せいじつさ という いみ であり、 höheは たかい という いみ であり、Zweckは もくてき、もくひょう という いみである。
「vortrefflich」で ゆうしゅうな、たくえつした、すばらしい という いみである。
「Wohls der Menschheit」で、Wohlは しあわせ という いみであり、 Menschheitは にんげん、じんるい、にんげんせい、にんげんであること という いみ である。
Menschは にんげん という いみ だが、えいごや ふらんすごと おなじ ように、 おとこ という いみ でも ある。っさらに でんとうてきには、 その とちの こくせきを もつ、 どれい ではない、 せいじん した、 どうぶつ としての ひとの おとこ だけを いみしてきた。おそらく、 ここも そのような ぶんみゃくに もとづいている。 もちろん、 わるい。

ここでは しらーの ぐんとう(群盗) という さくひんを かんがえている らしい。

こころの ほうの こたいの きもちよさ

こころのほうの だんかいの こじんは、 じぶんじしん という ほうを げんじつに しようと する。
こころのほうの この だんかいの こじんが もとめる きもちいい ことは、 すべての ものの こころが もとめる きもちいい こと である。

ihre Lust daher zugleich die allgemeine aller Herzen.
107

Lustは きもちいい こと という いみ であり、 daherは したがって という いみであり、zugleichは どうじに という いみ であり、 allgemeinは ふへんてきな、みんなの、せけんいっぱんの という いみ であり、aller(allの にかく)は すべての という いみで あり、 Herzenは こころ という いみ である。
すべての ものが きもちよく なる ことが きもちよい こと である わけでは ないと おもう。
きもちよさは きほんてきに、 こたいてきな もの、 こじんてきな もの、 こべつてきなもの という いみ だった。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの きもちよい ことは、 ほかの こころの きもちよい ことと おなじ である という ことだと おもう。
こころの ほうの だんかいの こたいに とって、じぶんの きもちよさと ほかの こころの きもちよさは わける ことが できない。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの きもちよさは、 ほうに あっている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの きもちよさは、 みんなと おなじ であり、 ふへんてき である ので、 ほうで ある。 ほうに あっている。
こういう ばあいは、 こういう ことに なる という ほうに あっている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、ふへんてきな、 にんげん らしい ことの(そして、 いっていない いみ としては、 おとこ らしい、おとな らしい、どれい では ない もの らしい、 その とちの もの らしい という ことの) ほうを げんじつに しようとする。
つまり、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 にんげん(という なまえの おとこの おとなの どれいではない、 その とちの もの)ならば、 このように する べきだ という ほうを げんじつに しようと して、 そのように する。
こころの ほう という だんかいの こじんに とって、みんなの こころの ほうを げんじつに する ことが、 きもちいい こと である。
ただし、みんな とは、 「にんげん」 という なまえの、どれい ではない、おとこの おとなの 、 その とちの もの である どうぶつ としての にんげん たち、 みんな という いみ である。 わるい。
こころの ほうの だんかいの こじんに おいては、 こたいてきな もの、こじんてきな もの、こべつてきな ものは、 ひつぜんせい てきな もの、かならず おこる ことと ちょくせつてきに ひとつに なっている。
かんせつてきに ひとつに なっている のでは ない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの する ことは、 ちょくせつてきに かならず おきる こと である。
たんに こたいが、こじんが うんめいに なっている のである。
こたい、こじんは みんなと おなじ ことを とくに わかっている わけ では ないが、する。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、ほうは こころの ほう である。
じぶんが ほう だから。
しかし、まだ こころの ほうの だんかいの こたいは、こじんは、こじんの まま である。
こたい、こじんと ひつぜんせいが ひとつに なる ことが まだ げんじつに なって いない。
いずれ、 こたい、こじんと ひつぜんせいを ばいかいし、 つなぐ という うんどう、うつりかわりで ひとつに なる。
いずれ、くんれんで ひとつに なる。
こころの ほうの この だんかい では、 くんれんを うけていない。

「実現されるものは、直接的で訓練を経ていない〔「訓練を経ていない」を きょうちょうしている。〕本質であることが、卓越したありかたを呈示することと見なされ、人類〔るび:メンシュハイト〕の福祉を生みだすことであると見なされるのである。」
570ぺーじ

Die Verwirklichung des unmittelbaren ungezogenen Wesens gilt fuer Darstellung einer Vortrefflichkeit und fuer Hervorbringung des Wohls der Menschheit.

giltは gelten fürに あてはまる という いみの どうしの さんにんしょう げんざい である。
くんれんを へず、ちょくせつてきに ある という ことを げんじつに する こと とは、 すぐれている ことを あらわす という ことと、 にんげん としての しあわせを つくる こと である。
すぐれている ことを あらわす ことや、 にんげん としての しあわせを つくる ことは、 まだ ちょくせつてきに ある ことを げんじつに する という ことに すぎない。
かんせつてきに ある ことを げんじつに する こと ではない。
くんれんを すると、 すばらしさを あらわしたり、 にんげん としての しあわせを つくったり しないの だろう。

b5

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 それ じたい、こころ である。
こころの ほう という この だんかいの こたい、 こじん に とって、 ある べき こころの ほうと、じっさいに ある ひつぜんせい という ほうが たいりつ している。
なので、 ひつぜんせいの ほう、うんめいは、こころに たいりつ している。
こころの ほう という だんかいの こたい、 こじんに とって、ひつぜんせいの ほう、 うんめいは、 こころと かんけいしていない。
「それだけで解きはなたれて〔るび:フライ・ヒュール・ジッヒ〕存在している」(571ぺーじ)と かいてある ので、 じゆうに それ だけで ある という いみ かもしれない。
あまり ひゅーる じっひ(für sich)、 たいじ(対自)、 じぶんに とって という ことばを それ だけで という いみ だと かんがえたくない。
ここでの、 じっひ(sich)、じぶんは、 ひつぜんせい という ほう なのか、 この だんかいの こたい、こじん という じぶん なのか という もんだいが あると おもう。
どいつごで そういう つかいかたが できるのかは しらない。
たんに ひゅーる じっひ(für sich)、 たいじ(対自)で、 ふらい(じゆう、かんけい していない) の いみを きょうちょうしている だけ かもしれない。

ひつぜんせい という ほう、 うんめいに したがう じんるいに とって、 ほうと こころは ひとつに なっていない。
ほうと こころが ひとつに なっていたら うれしい だろう。
なぜなら、 あるべき ありかたが じっさいに ある からだ。
する べき ことを じっさいに する ことに なる からだ。
しかし、ひつぜんせい という ほう、 うんめいに したがう じんるいは、 くるしむ。
なぜなら、 ざんこくな ことに、こころと ほうは ひとつに なっていない から である。
くるしんで いないに しても、ほうを まもっていると、「自己自身〔「自己自身」を きょうちょうしている。〕を享受することもなく生きている」(571ぺーじ)。

in der Entbehrung des Genusses seiner selbst
108ぺーじ

Entbehrungは、 けつぼう、ふじゆう という いみ である。
Genussesは、 Genussの ぞっかく である。Genussは たのしむ とか、 あじわう とか、 きょうらく とか いう いみ である。
おそらく、 じぶん じしん である ことが できない という こと だろう。
さらに、 じぶんは、じぶん じしん でない ので、 たのしんでいない のだ。
または、 じぶんで あっても たのしめない という こと かもしれない。
ただし、 ちがう かのうせいも ある。 要調査。

ほうを まもっていると、 あるべき ありかたを げんじつに しようと する ので、 じっさいに じぶん である ありかたを ひていする ことに なる。
なぜなら、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、 ある べき ありかた である こころの ほうと、 じっさいに ある うんめいが ちがう から である。
たいして、 ほうを まもらないと、 じぶんが すぐれている ことが わからない のである。
は?
なぞ。
わからない。
ほうを まもらない という のは、 ある べき ありかたを していない という こと だから、 じぶんは すぐれていないのだ。
すぐれている という のは、 ある べき ありかたを している という こと である。

こころの ほうが もとめる きもちいい こととは、 じぶんが すぐれて ある という ことを しめす こと である。

くんれんを へず、ちょくせつてきに ある という ことを げんじつに する こと とは、 すぐれている ことを あらわす という ことと、 にんげん としての しあわせを つくる こと である。
すぐれている ことを あらわす ことや、 にんげん としての しあわせを つくる ことは、 まだ ちょくせつてきに ある ことを げんじつに する という ことに すぎない。

うーん。

または、 ほうを まもる じぶんを たのしむ というのが、 じゅうぶんではない という よみかたが できる かもしれない。

かみがみと ひとの ちつじょ

ひつぜんせい、うんめい という ちつじょは、 けんりょくが ある。
けんりょくとは、 きめる ことが できる という こと である。
きめる という のは、げんじつに する という こと である。
ひつぜんせい、うんめい という ちつじょは、 げんじつに する という けっていけんを もっている のだ。
うんめいは きまった ありかただ。
ひつぜんせい とは、 きまっている ことだ。
ひつぜんせい、 うんめい という ちつじょは、 かみがみと ひとびとの ちつじょと よばれる。

「自分たちが作った法(ノモス)や掟が同時に神の法でもあり,それゆえ人間の本性(ピュシス)に由来するものであるというギリシア人の確信」
大田孝太郎「「ノモス」と「ピュシス」──古代思想から近代思想へのその展開──」、広島経済大学研究論集、第36巻第2号 2013年9月、http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hue/metadata/12106、37ぺーじ

ここらへんの ことを いっていると おもう。

この ひつぜんせいの ちつじょは、 こころ とは かんけいない。
なので、 こころに とっては、 この ひつぜんせいの うんめいの ちつじょは、 かりの いつわりの すがた、 つまり かしょう(仮象)である。
しんの ありかた ではない かりの いつわりの すがた である。
あるべき ありかた、 つまり いであ では ない、 いつわりの ありかた である。
しかし、 かりの すがたが ひつぜんせい、うんめいに おもえるのは、 かりの すがただが、それが げんじつ であり、 けんりょくが くっついている から である。

ぐうぜんの いっち

ちつじょは ないようとして、 たまたま こころの ほうの ないようと おなじ である かもしれない。
つまり じっさいに あるべき ありかたを している かも しれないが、 それは あるべき だから ある のではなく、 たまたま あったのが あるべき ありかた だったに すぎない。
その ばあいは、 こころは とくに うんめいに たちむかう ひつようが ない。
あるべき すがたで ある ので、 とくに かえる ひつようが ない のである。
こころに とって、ほうの ありかたが じゅんすいに、 それに おいて、 それ じたいで ある という わけではない。
ないよう として ほうの ありかたを している ことが だいじ では ない。
じぶんが ほうである という ことを いしきする ことが だいじ である。
じぶんが ほうである という ことが、 こころに とって ある のである。
じぶんが ほうで ある ことに まんぞく している という ことが ある のだ。

dass es sich darin befriedigt habe.
106ぺーじ

darinは そのなかで という いみ である。
befriedigtは まんぞくさせる という いみの どうし、befriedigenの かこぶんし である。
sich befriedigenは ますたーべーしょんする、じいこういする という いみ である。
ほうの なかで じこまんぞく している という ことが、 ぐうぜん ではない、ひつぜんてきな ありかた という ことに なる のだろう。

たいして、 ふへんてきな ひつぜんせいの ないようが、 こころと あわない とき、 ひつぜんせいの ないようは、 それ じたい として、 じぶんに おいて、なんでも ないもの(nichts)だ。
ひつぜんせいは、 こころの ほうに まける。
こころの ほうが げんじつに なり、 ひつぜんせいは げんじつに ならない。

b6

なしとげる

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、じぶんの こころの ほうを なしとげる(”vollbringt”(108ぺーじ)、 なしとげる、じょうじゅする という いみの どうし、vollbringenの げんざいけい)。
こころの ほうが なしとげられる ので、こころの ほうが げんじつに なる。
それまでは、 ひつぜんせい としての うんめいが ちつじょ だった。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに よって、 こころの ほうが げんじつに なる。
なので、 こころの ほうが ふへんてきな ちつじょに なる。
きもちいいの だんかいの こたい、こじんに とって、きもちいい ことは げんじつ ではない。
なぜんら、 きもちいい ことを めざすが、 きもちいい ことに たどりつかない からだ。
こべつてきな きもちいい ことは げんじつに なって いなかった。
なので、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっても、それ じたいに おいても、ぜったいてきに きもちいい ことは ほうに あった げんじつ である。
(きもちいい ことは、 きもちいいことと かんけいしている、 という いみ かもしれない。きもちいい ことは、 ちょくせつてきに ある のではなく、 かんせつてきに ある。きもちいい ことは なにか べつの ものと おなじ である という ありかたで、けっきょく じぶんと かんけいしている。はんしゃ、はんせい、たちもどる という ありかたを している。)
きもちいい ことは げんじつに なる。
みんなと おなじ きもちいい ことが、こころの ほうの こたい、こじんの きもちいい ことに なる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、 ほうが なくなる。
ほうは こうていされる もの ではなくなる。
ほう という じょうけんと けっかの かんけいは ひていされる。
こころの ほうを めざすと、 けっか として こころの ほう ではない ところに たどりつく という へーげるの べんしょうほうの よく ある うつりかわり である。
こころの ほうは げんじつに なると、 こころ ではなく、 ある ことの ほうそくに なる。
こころの ほうは、 こころ という けいしき から、 ある という けいしきに かわる。
げんじつに なる とは、 ある ように なる という こと だから である。
こころの ほう だった ものは、 ふへんてきな ちからに なる。
ちからとは、 いりょく、「威力」(572ぺーじ)である。

「ちゅうしょうてきな ひつぜんせいは、 いりょく である。
いりょくは、 ちから という こと だが、 ごせいで とらえられる ちからとは べつの ことば だと おもわれる。
ひつぜんせいが いりょく であるのは、 かならず おこる というのは、 おこらないように しようとしても、 むりやり ちからで、 つまり いりょくで おこさせられる から である。
ここで ちゅうしょうてきな ひつぜんせいが もんだいに なるのは、 まだ かんせつてきに ぐたいと かかわる ひつぜんせいが もんだいに なっておらず、 ある こじんの できごとから とりだしたにすぎない ひつぜんせいが もんだいに なっている からだ。
きょうちょうが ちゅうしょうてきに はいっているが、 もしかしたら へーげるは きょうちょうを いれる ときは、まいなすな いみで つかっている とき かもしれない。
この いりょくは、 ひていてきである。
なぜなら、 じこいしきに とっての じぶんが じぶんに おいて あるのではなく、 ほかのものに おいて ある ように なる から、 じぶんが ひていされると かんがえられる から である。
または、 こべつてきな ありかたを めざした はずなのに、 その こべつてきな ありかたは ひていされて、 ふへんてきな ありかたに なっている から である。
なので、 また この いりょくは ふへんてき である。
この いりょくは とらえにくい。
なぜなら、 まだ この だんかいの きもちいいの じこいしきは うんめいを かんがえられていない から である。
この だんかいの きもちいいの じこいしきは、 たんに まきこまれる ちからの ながれ、 かみの ながれに しか おもえない。
ひつぜんせいという いりょくで こたいは くだけちる。ばーん!」
https://hunihunisaito.hatenablog.com/entry/2021/03/07/121852

きもちいいの まえの だんかいの こたい、こじんに とって、いりょくは うんめい である。
こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんに とって、 いりょくは こころの ほうに たいりつしていた。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが、 こころの ほうを げんじつに すると、 いりょくに なる。
こころの ほうと いりょくは たいりつ しているが、 まえの うんめいとは また ちがう。
こころの ほうが げんじつに なった けっか としての ふへんてき いりょくと、 こべつの こころは かんけいしていない。
この こころ、つまり こべつの こころは ふへんてき いりょくに ねじふせられる。
この こころ、 つまり こべつの こころは どうでも いい。
どうせ、 こたい、こじんも みんなと おなじ だから である。
という よりも、 こたい、こじんが みんなの ひとつ である から である。

ちつじょを せっていする

「そのけっか個体はじぶん自身の〔「じぶん自身の」を きょうちょうしている。〕秩序を、その秩序を設定する〔「設定する」を きょうちょうしている。〕ことによって、もはやみずからの秩序としては見いださない。」(572ぺーじ)

so dass das Individuum seine eigene Ordnung dadurch, dass es sie aufstellt, nicht mehr als die seinige findet.
108ぺーじ

dadurchは その けっか という いみ である。
audstelltは たてる、つくる という いみの どうし aufstellenの げんざいけい である。
mehrは より いじょう という いみである。
この ぶんでは、 ふたつの かのうせいが ある。
ひとつ、 nicht mehrで もはや なになに ではない という いみに なる。
ふたつ、mehr alsで これこれ いじょうの こと である という いみに なる。
ふたつめでも ひていぶんが ありえて、 その ばあい、 nichtと mehrは うちけすと かんがえると わかりやすい。
たとえば、 ”Das ist nicht mehr als recht und billig.” 「それはしごく当然のことだ(それ以上のものではない)」(『クラウン独和辞典第二版』、せいれき1997ねん、889ぺーじ) などが ある。
きほんの ぶんこうぞうは、 「こじんは じぶんの ちつじょを じぶんの もの いじょう とは おもう ことは ない」、または「こじんは じぶんの ちつじょを じぶんの ものと おもう ことは もはや ない」 であり、 あいだに、 「こじんは じぶんの ちつじょを つくる」が はさまっている。
ぶんみゃく てきに、 「こじんは じぶんの ちつじょを じぶんの ものと おもう ことは もはや ない」 だと かんがえる。わからない。要調査。
nicht mehr alsを nicht mehrで 「もはや」という いみに なる のは、どいつごの ぶんぽうから きまる のだろうか? それとも ぶんみゃくから きまる のだろうか?

seinigeは さんにんしょうが もっている ものを いみする。
1997ねんの じしょで 「古風な言い方」 (『クラウン独和辞典第二版』、せいれき1997ねん、1225ぺーじ)と かいてある。
もちろん、へーげるの じだいでは、 こふうでは ない かもしれない。

いままでの (いしき、じこいしき、)こたい、こじんは、 じぶんが ちつじょ であると はっけんする ことは あった。
じつは じぶんは ちつじょに のっとって いたと わかる ことは あった。
しかし、 こころの ほうの この だんかいの こたい、こじんに おいて、じぶんの ちつじょを つくりだす ことに なる。
みいだすの ではなく、 つくりだす のだ。
じぶんじしんが ちつじょ であるの ではななく、 じぶんが ちつじょを つくる。
ちつじょを つくる ものは、 ちつじょを こえている。
じぶんが つくる ものは、 ある いみで じぶん では ない もの である ので、 たんに ちつじょを じぶんの ものと かんがえる ことは ない。

(ただし、 いちおう、 じぶんじしんの ちつじょを じぶんの もの としか おもわない という いみも かんがえられる(mehr alsの ひてい)。
これまでの だんかいの こたい、こじんは ほかの ものの なかに ある じぶんを みつけて じぶんと かんがえてきた。
つまり、じぶんの ちつじょは、 ほかの ものの なかに ある。
なので、じぶんの ちつじょは、 ほかの ものの ちつじょ でも ある。
しかし、こんどは じぶんの ちつじょを つくりだす ので、ほかの ものの ちつじょとは おもわない。

しかし、この よみかたは つぎの ぶんと あわない。
「じぶんの法則を実現することで個体が生みだすものは、それゆえじぶんの〔「じぶんの」を きょうちょうしている。〕法則ではない。当の秩序はそれ自体としては〔「それ自体としては」を きょうちょうしている。〕みずからの秩序であるにせよ、それは個体に対してはかえって一箇の異他的な秩序である。」(572ぺーじ)
なので、じぶんじしんの ちつじょを じぶんの もの としか おもわない という いみではない。
と、いいたい。
しかし、まえと あとで はんたいの ことを いう ことが ありえない わけではない。)

うみだす

「じぶんの法則を実現することで個体が生みだすものは、それゆえじぶんの〔「じぶんの」を きょうちょうしている。〕法則ではない。当の秩序はそれ自体としては〔「それ自体としては」を きょうちょうしている。〕みずからの秩序であるにせよ、それは個体に対してはかえって一箇の異他的な秩序である。」
(572ぺーじ)

こころの ほうが げんじつに するのは、 こころのほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 ほかの ものの ちつじょ である。
「ほかの ものの ちつじょ」と いうとき、 「ほかの もの」は 「にんげん」としての ほかの もの だけか、 にんげん いがいも ふくめた じぶんでは ない もの すべて なのか。
いや、「ほかの ものの ちつじょ」と いうべきか、 「じぶんの もの ではない ちつじょ」と いう べきか。
ともかく、 こころの ほう という この だんかいの こたい、こじんに とって、 こころの ほうは じぶんの もの ではない ちつじょ である。
しかし、 われわれに とっては、 こころの ほう、 それ じたいは、 じぶんの ちつじょ である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって ではない なら、こころの ほうは じぶんの ちつじょ である。
こころの ほうは じつは じぶんの ちつじょ だが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじん に とっては ほかの ちつじょ である。

こじん、こたいが うみだすのは、じぶんの ほうそく ではない。
こじん、こたいが うみだすのは、「現実的な秩序へとじぶんが巻きこまれるという消息」(572ぺーじ) である。

どいつご げんぶん1

Durch die Verwirklichung seines Gesetzes bringt es daher nicht sein Gesetz, sondern indem sie an sich die seinige, für es aber eine fremde ist, (nur dies hervor, in die wirkliche Ordnung sich zu verwickeln; und zwar in sie als eine ihm nicht nur fremde, sondern feindliche Übermacht. )
108ぺーじ

「じぶんの法則を実現することで個体が生みだすものは、それゆえじぶんの〔「じぶんの」を きょうちょうしている。〕法則ではない。当の秩序はそれ自体としては〔「それ自体としては」を きょうちょうしている。〕みずからの秩序であるにせよ、それは個体に対してはかえって一箇の異他的な秩序である。」(572ぺーじ)

どいつご たんご1

daherは それゆえ という いみ である。
bringenは へともたらす という いみ である。なになに durch den Winter bringen で、 なになにに ふゆを こさせる という いみに なる。
nichtあれあれ sondern これこれ で、 あれあれ ではなく、 これこれ という いみ である。
indemは することによって、しながら という いみ である。
aberは そして という いみ である。
fremdは よその、がいこくの、たにんの、なじみがない、しらない という いみ である。

どいつご こうぞう1

indemの せつ では、 「sie(ほうを げんじつに する こと)が an sich(それ じたい) die seinige(じぶんの もの) で あり(ist)、 für es(それ、 つまり こたいである こじんに たいして) eine fremde(ひとつの べつの もの)で ある(ist)」という こうぞうである。

どいつご げんぶん2

(Durch die Verwirklichung seines Gesetzes bringt es daher nicht sein Gesetz, sondern indem sie an sich die seinige, für es aber eine fremde ist,) nur dies hervor, in die wirkliche Ordnung sich zu verwickeln; und zwar in sie als eine ihm nicht nur fremde, sondern feindliche Übermacht.
108ぺーじ

「そうであるからには、個体が生みだすのは、現実的な秩序へとじぶんが巻きこまれるという消息にほかならない。この秩序はしかも、個体にとって異他的なものであるばかりではなく、個体にとって敵対的な圧倒的威力なのだ。」
(572ぺーじ)

どいつご たんご2

nurは ただ これこれ だけ、 ただしかし という いみ である。
diesは この という いみの dieserの たんすう ちゅうせいの いちかく、よんかくの diesesの べつの かたち である。めいし として、 このこと という いみで つかわれる。
hervorは そとへ、てまえへ、こちらへ という いみ である。
nur dies hervorで ただし この ことは こちらの ほうで おいて でしか ない という いみ である。かくしょうが ない。 要調査。
zu ふていしで、 ふていしする こと という いみ である。
sich in なになに verwickelnは あらそい などの なになにに まきこまれる、おちいる という いみ である。
und zwarは そして もっと せいかくに いうと という いみ である。
inは なかに という いみ である。
sieは さんにんしょう たんすう じょせいの いちかく、よんかくの だいめいし である。つまり ここでは げんじつに する こと である。
ihmは ちゅうせい または だんせい たんすう さんにんしょう だいめいしの さんかく である。 つまり、それに とって という いみ である。
Übermachtは ゆうい(優位)、ゆうえつ(優越)という いみの めいし である。
als eine ihm nicht nur fremdeが かくにん できない。 要調査。

どいつご こうぞう2

nur dies hervor(ただし この ことは こちらに おいて でしか ない)を はさんでいる。 die wirkliche Ordnung(げんじつ てきな ちつじょ)に sich verwickeln(まきこまれている) という こと。und zwar(そして もっと せいかくに いうと) げんじつに する ことに おいて、 こたいに とって(ihm)、ひとつの ほかの もの である だけではなく(nicht nur ... sondern)、 feindliche Übermacht (が もたらされるの)だ。

やくしてみた。
「ただし この ことは こちらに おいて(、つまり われわれに とって) でしか ない。 げんじつ の ちつじょ に まきこまれる という ことを、 こたいが もたらす(、または こころの ほうを げんじつに する あいだで ずっと つづく ように、 こたいが がんばる(する))。そして もっと せいかくに いう と、 こころの ほうを げんじつに する ことに おいては、こたい、つまり こじんに とって たんに なんらかの ほかの もの である だけ では ない ように、てきの ちからが つよい という ありかたを もたらすの である。」

まきこまれる

こじん、こたいが うみだすのは、「現実的な秩序へとじぶんが巻きこまれるという消息」(572ぺーじ) である。
こうぞうは sich zu verwickeln bringen である。
zuさいきどうしの ふていしを bringenする。

bringenは zuふていしの どうしと もくてきごの よんかくを つかってしえき(使役)の いみに なる。
しえきとは、 だれだれに なになにさせる という いみで ある。
しかし、 よんかくの もくてきごが みつからない。

bringen zu
to cause to
https://www.dict.cc/german-english/bringen+zu.html

zuふていしが よんかくの もくてきごの やくわりを している かもしれない。
する ことを もたらす という いみ である。
または、 する ことを つづける という いみ である。

なので、こころの ほうを げんじつに する ことで、 こたい、こじんは げんじつの ちつじょに まきこまれ つづける。
その げんじつの ちつじょは、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 じぶんの もの ではなく、 ほかの ものの もの である。
しかし、げんじつの ちつじょは、 ほかの ものの もの である だけではなく、てきが つよい ちからを もっている という こと である。
ひつぜんせい、うんめい という じぶんとは ちがう ものの ちからが じぶんよりも つよい という こと である。
この げんじつの ちつじょに なすすべなく まきこまれる という ことが ちからが つよい という こと である。

する ことで

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 なにかを する。
なにかを する ことで、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんを げんじつの なかに つくる。
じぶんを げんじつの なかに つくる という ことは、 じぶんを げんじつの ちつじょに まきこむ という こと である。
どちらも、 げんじつの なかに じぶんを いちづける から である。
しかし、こころの ほうの だんかいの こたいは、 ただ じぶんとは べつの げんじつに まきこまれる だけ ではない。
ちからを くらべられる げんじつに まきこまれる のだ。

げんじつは、 こたいの てき であり、 てきとは、たいりつする もの である。
そもそも、 てき という ことばは、 feindliche という ことば から もってきた。
Feind という ことばは 「てき」(敵)と やくされる。
しかし、 にほんごの 「てき」 よりも より ひろい いみが ある。
Feindは たいりつ する もの という いみも ある(”männliche Person, die etwas entschieden bekämpft” はっきりと なにかと たたかう おとこの ひと、https://www.duden.de/rechtschreibung/Feind )。
げんじつが、 こたいの てき、たいりつ する もの という ばあい、 うんめいの ことが きほん てきに かんがえられている。
こたい、こじんには、じぶんに とっての げんじつには かてないのだ。
げんじつに したがう しか ない。

そして、 ちからが くらべられる という ことは、 ちからとして くらべられる きょうつうてんが ある という こと である。
もちろん、 こたい、こじん よりも げんじつの ほうが つよい。

この げんじつは、 ある という とくちょうが わりあてられる。
または、この げんじつは、 そんざい という とくちょうが わりあてられる。
そんざい という ことばは、 いろんな ことばと くらべて つかわれる。
たとえば、 がいねんと そんざいが くらべられる。
がいねん として あたまの なかに しか ないに たいして、 じっさいに ある という ことが くらべられている。
この ばあいの 「がいねん」は、 へーげるが すぐれていると かんがえる 「がいねん」 では ない。
この ばあいの じっさいには かんけいしていない がいねん よりも、 じっさいに かんけいしていて、 ある という そんざいを へーげるは すぐれていると かんがえている。
また、 そんざいと うんどうが くらべられる。
そんざい として あんていして とまっている ものに たいして、うんどう として うごいて あんていしない ものが くらべられている。
この ばあいは、 そんざい よりも うんどうの ほうが すぐれていると へーげるは かんがえている。

ここで、 げんじつに ある、そんざい という とくちょうが わりふられる とき、 ある とか そんざい という ことばは、すぐれていない 「がいねん」では なく、 じっさいに ある という めんでは すぐれているが、 うんどうに までは たどりついていない ある とか そんざい である。

つづいて 「普遍的境位」(572ぺーじ)という ことばが でてくる。
境位、きょういは えれめんと という ことばの にほんごやく である。
えれめんとは、 いるべき ばしょ という いみ である。
げんじつが ふへんてき きょうい である。
げんじつが ふへんてき である りゆうは、げんじつが じぶん だけ ではなく、 みんなに かんけいしている から である。
げんじつの なかに こころの ほう という だんかいの こたい、こじんが いる ので、 げんじつが そのなかに いるべき ばしょ である。

そして、 むずかしい ところが きました。
こころの ほうの だんかいの こじん、こたいは、じぶんを ふへんてき きょうい として うちたてる らしい。
おそらく、 ふたつの よみかたが できる。
ひとつは、 まえの ぶんしょうを さんこうに する よみかた である。
げんじつが ちからを もっている という てんで、こたい、こじんと にている という こと である。
げんじつが こたいと にている のだから、こたいは げんじつ であり、 げんじつが ふへんてき きょうい(普遍的境位)であり、 だから こたいも ふへんてき きょうい(普遍的境位)である。
すくなくとも、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは ふへんてき きょういに なろうと する。
じぶんが ふへんてきな ものの ひとつ である ので。

もう ひとつは、 つぎの だんかいを せつめいしていると かんがえる よみかた である。
こたいが げんじつに まけても、 こころの ほうの だんかいの こたいの、 つぎの だんかいが ふへんせいを かちとる ことに なって げんじつが まける のである。
とく という つぎの だんかいに うつりかわる ことが、 なにかを する ことで おこる という ことを せつめい している かもしれない。

または、 えれめんと という ことばが、 ひとつの ぶぶんを あらわす ことも ある。
そういう わけで、 こころの ほう という こたいも ふへんてきな ぶぶんとして じぶんを うちたてる ことに なるのだと おもう。

おこなう ことが ちつじょを もつ ことに なる。

のちに こころの ほうの だんかいの こたいと、 とくの だんかいの いしきの おこない、 なにかを する ことは、 ふへんてきな ちつじょ という いみを もつ ように なる。
つまり、 なにかを する ことは、 みんなと おなじ ことを ちつじょに したがって する という ことに、 とく という いしきは たどりつく ことに なる のだ。
まえは なにかを する ことは、 きもちいい という だんかいの じこいしきに とっては、 ちょくせつてきに じぶん だけに かんけいする こと であり、こころの ほう という だんかいの こたい、こじんに とっては、じゃっかん ふへんてき である。

”nach seinem Sinne”という ことばが でてくる。
それの いみに そって、それの いみに したがって、 それの もくひょうの ほうへ など という いみ である。
「その いみ」 という しじ けいようしを つかっている わけでは ない ことに ちゅういする。
「それの いみ」である。
「それ」は なにを さしている のだろうか?
なにかを する こと、 おこない、 たーと、Tatか、 こころの ほうの だんかいの こじんか。
Tatは、 いとてきに おこなう こうい、はんこう という いみ だからだ。
おこない という たんごの いみに したがって という いみ かもしれないが、 たぶん、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの もくひょうに したがって という いみ かもしれない。
こっちな きがする。 なぜなら、 seine Tat、 seine Tat、 seinem Sinneと ならんでいる から、 おなじものを さしていると かんがえられる からだ。
げんぶんは こんな かんじだ。

Durch seine Tat setzt es sich in oder vielmehr als das allgemeine Element der seienden Wirklichkeit, und seine Tat soll selbst nach seinem Sinne den Wert einer allgemeinen Ordnung haben.

ちなみに、 ここの どうしの ひとつの soll(sollenの かつようけい)は、 するべきだ という いみも あるが、 ここでは、 「する ことに なる」、「このように なる という うんめいに ある」という いみ であると おもう。
また、 「なにかを する ことは、 ふへんてきな ちつじょ という いみを もつ ように なる。」と かいたが、「いみ」ではなく、 かち(価値)という ことばで へーげるは かいている。Wert という ことばだ。
この Wert、べると という ことばは、 いみ という いみも ある。

こころの ほう から とくへ

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの おこないは、 ふへんてきな ちつじょ という いみを もつ ように なる とは いっても、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、じぶんから じぶんを かいほうする ことに なる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは ふへんてきな ちつじょに のっとって、 なにかを する、 または おこなう ことに なる ので、こころの ほうの こたい、こじんの おこないは ふへんてきな ありかたに 「したがう」 ように おもえる。
freigelassenは じゆうに する、 しゃくほう する、 かいほうする という いみの どうしの freilassenの かこぶんしである。
freiは じゆう である とか、 かいほう(解放)されている とか、 しばられていない という いみ である。
lassenは させる という いみ である。

しかし、 ふへんてきな ありかたに 「したがう」 というのは、あまり ちゃんと していない かきかた である。
ふへんてきな ちつじょに 「したがう」 という のは、じゆうで あり、 しばられていない という こと である のだ。
ふへんてき である ことは、 みんなと おなじ である こと である。
つまり、 ふへんてき である ことは、 どんな じょうけんでも おなじ である こと である。
どんな じょうけん でも おなじ である とは、じょうけんに しばられない という こと である。
じょうけんに しばられない という ことは、じょうけんに したがう ことが ない という こと である。
また、 じょうけんは げんじつ とも いいかえる ことも できる ばあいも ある。
げんじつは どう あれ、 ひつぜんてきに おこる こと こそが じゆうであると へーげるは かんがえる。
もちろん、へーげる だけではなく、 いろんな ものが おなじ ように じゆうとは ひつぜん であると かんがえる。
てつがくしゃに とっての かみ という ひつぜんが いちばん じゆうと かんがえる のだ。
ほかに じゆうな もの、 しばられていない ものと いえば、 いきもの である。
どんな じょうけんでも いきている かぎり いきものは、 じぶんで ありつづけ、 いきている。
また、がいねんも じゆう である。
いろんな じょうけんの ものが おなじ がいねんで かんがえられる。
たとえば、 じぶん という がいねんは、 いろんな ものが つかえる。
ある ものが じぶんの ことを じぶんと いい、 ほかの ものが じぶんの ことを じぶんと いう。
ある ものと ほかの ものは ぜんぜん ちがっても、 おなじ じぶん という がいねんで あらわされる。

はなしを もどすと、 「こころの ほうの こたい、こじんの おこないは ふへんてきな ありかたに 「したがう」 ように おもえる」 ような ありかたに なるのは、 とくの いしきの こたいに おいて である。
とくの いしきの おこないは じゆうに なっていく ので、どうじに、 とくの いしきは じぶんを じぶんから かいほう(解放)する。
とくの いしきは じぶんを じぶんに しばりつけない ように なる。
とくの いしきは じぶんが じぶんと おなじの ままに かえない ことが ない。
とくの いしきに よって、 じぶんは じぶんから じゆうに なる。
とくの いしきに よって、 とくの いしき という じぶんは かわっていく。
とくの いしきは かつどう する ことで じぶんを かえる。

こころの ほうの こたい、こじんは せいちょうしていく。
こころの ほうの こたい、こじんは ふへんてきに なり、とくの いしきに なる。
ただし、こころの ほうの こたい、こじんは、 とくの いしきに なって、 じぶんに とって ふへんてきに なる。
とくの いしきに なると とくの いしきに とって じかくてきに ふへんてきに なる。
つまり、 とくの いしきは じぶんが ふへんてきで ある ことが わかる ように なる のだ。
そして、 この せいちょうに おいては、 われわれの かいにゅうは いらない。
こころの ほうの こたい、こじん から とくの いしきへ せいちょう していく ときに、 その だんかいの いしき だけで せいちょう していく。
じぶんだけで せいちょうする という いみと、 じぶんに とっての ふへんせい という いみは、 ともに für sichふぃーる じっひ という ことばが つかわれている。
für sichふぃーる じっひ、 たいじ(対自) とは、 じぶんだけ という いみと、 じぶんに とって という いみが ある。

こころの ほうの こたい、こじん という こべつてきな ありかた から、 とくの いしき という ふへんてきな ありかたへ かわっていく。
こべつてきな ありかた から ふへんてきな ありかたへ じゅんすいに なっていく。
こころの ほうの こたい、こじんは、 みんなと おなじ しあわせを じぶんが もとめる という ふへんてきな ありかた である。
しかし、 こころの ほうの こたい、こじんは、じぶんが しあわせを もとめる という こべつてきな ありかた でもある。
たいして、 とくの いしきは ただしい という ふへんてきな ありかたを もとめる。

わかららない けど みんなと おなじ ように なにかを する こと

こころの ほうの こたい、こじんは、 ちょくせつてきに じぶんに かんけいしている という、 みんなの ありかたを しりたいと おもう。
こころの ほうの こたい、こじんは、 ふへんせいを しろうと する。
しかし、こころの ほうの こたい、こじんは、 ふへんせい、 つまり みんなの ありかたを、 ちょくせつてきに じぶんに かんけいして ある という ありかた として しか かんがえようと していない のだ。
こころの ほうの こたい、こじんは、 じぶんに たいして ある という ありかた のみで かんがえ ようと する。
こじんに たいして ある という ありかたは、 たいじてき そんざい であり、 じぶんに かんけいして ある という ありかた として であり、じぶんに とって じぶんが ある という ありかた として である。
こころの ほうの だんかいの こじん、こたいに とっては、 じぶんに とって じぶんが ある という だけの もの として みんなの ありかたを かんがえようと する。
こころの ほうの だんかいの こじん、こたいに とっては、まだ じぶんに おいて ある という ありかたが ない のである。
みんなは われわれに とっては、じぶんに とって あり ながら、じぶんに おいて ある という ありかた である。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんでは、 まえに のべた、 じゆうな ふへんせい、 つまり じょうけんに しばられていない という みんなの ありかたの なかに じぶんが あるとは わかる ことが できない。
われわれに とっては、 こころの ほうの こたい、 こじんは、 とくの いしきに なる だんかいに うつりかわる なかで、 しばれれていない みんなの ありかたの なかに ある。
しかし、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 じぶん、 つまり こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じょうけんに しばられていない みんなの ありかたの なかに ある ことは ない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じょうけんに しばられていない みんなの ありかたの なかに あると じかくする ことは ない。
この じゆうな ふへんせいは、 そんざいする げんじつの ふへんてきな きょうい(境位)、えれめんと である。

しかし、 われわれに とっては、 こころの ほうの こたい、こじんは、 それに おいて、 それ じたい として、 みんなと おなじ ありかたを している。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは とくの いしきに いつのまにか なる から である。
なぜなら、そんざいする げんじつの ふへんてきな きょうい(境位)、えれめんとは、 なにかを する という ふへんてきな ありかた である から である。
なにかを する という いみでは、 みんな おなじ である。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが する ことは、 みんなと おなじ ように する という こと である。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じんるい としての しあわせ、 ほかの ものと おなじ ような しあわせを もとめる のだ。

ちなみに、 へーげるは Tunと Tatを わけていたの だろう。
Tat、 おこない、 された なにか を、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが する ことで、 じぶんを とくの いしきに じぶんを かえていく。
Tat、 おこない、 された なにかは、 とくの いしきに とっては、 ふへんてきな ちつじょを もっている。
Tun、ふるまい、こうい(行為)が ふへんてきで ある から、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、じかくを していないが、 われわれに とっては、 それ じたい として ふへんてき なのである。
Tat、 おこない、 された なにかは、とくの いしきの もの であるが、 Tun、ふるまい、こうい(行為)は、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの もの である、 という ちがいが ある かもしれない。

どいつご げんぶん3

das Individuum, welches die Allgemeinheit nur in der Form seines unmittelbaren Fuer−sich−seins erkennen will, erkennt sich also nicht in dieser freien Allgemeinheit, waehrend es ihr zugleich angehoert, denn sie ist sein Tun.
108ぺーじ

「個体は、普遍性〔るび:アルゲマインハイト〕をひたすらじぶんが直接に対自的に存在する〔るび:フュールジッヒザイン〕という形式にあって認識しようとする場合には、したがってこの自由な普遍性のなかにみずからを認識することがない。そのいっぽうで個体は同時に普遍的なありかたに所属しているのであって、それも普遍的なありかたはじぶんの行為〔るび:トゥーン〕からなるものであるからだ。」
573ぺーじ

どいつご たんご3

währendは いっぽう という いみ である。
zugleichは どうじに という いみ である。
angehörenは にしょぞくする という いみ である。
dennは なぜなら という いみ である。
Tunは する こと という いみ である。

どいつご こうぞう3

こじん(das Individuum)が しゅごで、しゅごを せつめいする かんけいせつが、welchesせつ である。
こじん(das Individuum)は、ふへんてきな ありかた(die Allgemeinheit)を ただ たんに じぶんに・とって・ある という ありかたで にんしき したいと おもう。 という welchesせつが まず ある。
そして、しゅごに たいする じゅつごが、 にんしきする という いみの erkennt である。
もくてきごが じぶんを いみする sich であり、 その じぶんが じゆうな ふへんてきな ありかたの なかには ないと こたいが にんしきする という いみに なる。
いっぽう(während)、 それ(es)、 つまり こたいは、 その こと(ihr)、つまり ふへんてきな ありかたに しょぞくしている という いみに なる。
なぜなら(denn) そのこと(sie)、 つまり ふへんてきな ありかたは こたいが する こと だから である という いみ である。

てんとう

どいつご げんぶん 4

Dies Tun hat daher die verkehrte Bedeutung, (der allgemeinen Ordnung zu widersprechen, denn seine Tat soll Tat seines einzelnen Herzens, nicht freie allgemeine Wirklichkeit sein; )
108ぺーじ

「個体のふるまい〔るび:トゥーン〕には、〔個体が普遍性に対抗しようとする以上〕それゆえ顚倒された意義があることになる。(それは、普遍的な秩序と矛盾し、これに抗議する〔「矛盾し、これに抗議する」を きょうちょうしている。〕(widersprechen)というものであって、それも、個体のなすところ〔るび:タート〕は個体の〔「個体の」を きょうちょうしている。〕個別的な心情からなされたこと〔るび:タート〕であるはずであり、自由な普遍的現実であってはならないからである。)」
573ぺーじ

どいつご たんご4

verkehrteは けいようしの verkehrtの じょせいけい である。
verkehrtは ぎゃくの、 まちがった、 せいはんたいの という いみ である。
(verkehrtは、 どうしの verkehrenの かこぶんし である。
verkehrenは ぎゃくのものに てんか(転化)する という いみである。
たとえば、Tatsachen verkehrenで しんじつを わいきょくする という いみに なる。
kehrenは うらがえす、てんじる という いみ である。)
Bedeutungは ことばの いみ とか、 じゅうようせい とかの いみが ある。
ことばの いみ という いみでの Bedeutungの れいぶん として、 Das Wort hat verschiedene Bedeutung. 「この語にはいろいろな意味がある」 という ぶんが ある(『クラウン独和辞典 第二版』)。
じゅうようせい という いみでの Bedeutungの れいぶん として、 Das hat grosse Bedeutung.「それは非常に重要である」とか Das hat keine Bedeutung. 「それはまったく重要でない」 とかの ぶんが ある(『クラウン独和辞典 第二版』)。


ふれーげ という ひとの はなしでは、 Sinnは どういう いみか という もんだい であり、 Bedeutungは なにを いみしているか という もんだい である。
たとえば、 「よいの みょうじょう」(宵の明星)と 「あけの みょうじょう」(明けの明星) という ことばが ある。
「よい」は ゆうがたの ことで、 「あけ」は あさがたの こと であり、 「みょうじょう」は あかるい ほし という いみ である。
よいの みょうじょうも、 あけの みょうじょうも きんせい(金星) である。
しかし、 ゆうがたに みえる あかるい ほし という どういう いみか という もんだいの Bedeutungと、 あさがたに みえる あかるい ほし という どういう いみか という もんだいの Bedeutungに たいして、 どちらも きんせい(金星) という いみで、 なにを いみするか という もんだいの Sinn である。
いめーじ としては、 Sinnは やじるしの ほうこうであり、 Bedeutungは やじるしの さき である。
しかし、 こまるのは、 die という ていかんしが Bedeutung に ついている こと である。

ていかんし という のは、 きほんてきに やりとりしている ものが みんな、 それは これだと わかる ような ものに つける。(どいつご だと ちがう かもしれない。)
die verkehrte Bedeutungは だから、 おそらく まえに かいてあった ながれを いっている のかもしれない。
つまり、 じかくは していない けれど、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 ふへんてきな ありかた として なにかを している という いみが、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの Tun、おこない、こうい(行為)には ある。
または、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの Tun、おこない、こうい(行為)が だいじだと かんがえられて いるが、 それは まちがっている という ことを いっているの かもしれない。
ぎゃくに だいじである という こと かもしれない。
ぎゃくに という のは、 ぎゃく でなければ たんに だいじ だが、 ぎゃく では じかくしていない のに だいじ である という こと である。

どいつご げんぶん 5

(Dies Tun hat daher die verkehrte Bedeutung, )der allgemeinen Ordnung zu widersprechen, denn seine Tat soll Tat seines einzelnen Herzens, nicht freie allgemeine Wirklichkeit sein;
108ぺーじ

「(個体のふるまい〔るび:トゥーン〕には、〔個体が普遍性に対抗しようとする以上〕それゆえ顚倒された意義があることになる。)それは、普遍的な秩序と矛盾し、これに抗議する〔「矛盾し、これに抗議する」を きょうちょうしている。〕(widersprechen)というものであって、それも、個体のなすところ〔るび:タート〕は個体の〔「個体の」を きょうちょうしている。〕個別的な心情からなされたこと〔るび:タート〕であるはずであり、自由な普遍的現実であってはならないからである。」
573ぺーじ

どいつご たんご 5

zu たどうしの ふていしは、 されるべき、されうる という いみで ある。
ただ、 ”der allgemeinen Ordnung zu widersprechen”という ような、 けいようし として zuふていし という かたちを つくるかは わからない。もしかしたら、 seinどうしの しょうりゃく かもしれない。要調査。
widersprechenはむじゅんする とか いぎをとなえる という いみ である。

どいつご こうぞう 5

つぎの みっつが おなじ もの である。
1. こころの ほうの Tun、おこない、こうい(行為)、なにかを する こと。
2. ぎゃくの いみが ある もの。
3. ふへんてきな ちつじょが ある もの。(ただし、”der allgemeinen Ordnung zu widersprechen”に おいて seinどうしが しょうりゃく されている のであれば、 この みっつめは まえの ふたつと おなじでは ない かもしれない。)
りゆうは、 とくの だんかいの いしきの Tat、 おこない、された なにかは、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの こころの Tat、 おこない、された なにかに なる ことに なる から である という りゆう である。

Tat、 おこない、 された なにか を、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが する ことで、 じぶんを とくの いしきに じぶんを かえていく。
Tat、 おこない、 された なにかは、 とくの いしきに とっては、 ふへんてきな ちつじょを もっている。

いじょうの ように よんだが、 まちがっている きがする。

Dies Tun hat daher die verkehrte Bedeutung, der allgemeinen Ordnung zu widersprechen,
108ぺーじ

しゅごが Dies Tun である。
どうしが hat である。
haben … zu ふていしで ぎむ、けんり、こんきょ、かのう などを いみする。
haben ... zu ふていしは、 しなければならない とか することができる とか するものがある とかの いみが ある。
daherは したがって という いみである。 にほんごなら ぶんの さいしょに かくが、 どいつごでは あいだに はさむ。
die verkehrte Bedeutungが、 どうしの widersprechenの もくてきご である。

そして、 もんだいは こんま である。
こんまは ふつう くぎりに なり、 どうかくの めいしだと かってに おもっていた。
しかし、 ていかんしの かたちを ちゃんと かんがえないと いけない。
dieは じょせい めいしか ふくすう めいしの いちかく、よんかくに つく ていかんし である。ここでは、 じょせい めいしの よんかく である。
Bedeutungは じょせい めいし である。
derは だんせい めいしの いちかくか、 じょせい めいしの にかくや、 じょせい めいしの さんかくか、 ふくすうめいしの にかくに つく ていかんし である。ここでは、 じょせい めいしの にかくか さんかく である。
allgemeinenは ていかんしるいの あとの じょせいの けいようしの にかくか さんかく である。ここでは、 じょせいの けいようしの にかくか さんかく である。
Ordnungは じょせい めいし である。

「後ろの名詞が冠詞類をもつときは同じ格でおかれる。無冠詞のときは1格になる。」(『クラウン独和辞典 第2版』(1997)、 1782ぺーじ、「同格」)

ここでは、 ていかんしが ついている ので、 おなじ かくには なりえない。
なので、どうかく(同格)で めいしを ならべている わけではない。
habenは よんかくの もくてきごを とるが、 widersprechenは さんかくの もくてきごを とる。
ここでは、にかくの かのうせいを かんがえる。
おそらく、ちがう。なぜなら、 その ばあいは zuふていしの いみが わからなく なる からだ。
zuふていしを ちゃんと りかい するには、 こんまで ぶんが きれていて、 seinどうしが しょうりゃく されていると かんがえると よいと おもう。

「この おこないに よって、ふへんてきな ちつじょの ほんとうではない いみを widersprechen、つまり はんろん することが できる。」という いみでは ない。
けっきょく、 さいしょの よみかたが あっていると おもう。 わからない。要調査。

どいつご げんぶん 6

und zugleich hat es sie in der Tat anerkannt, denn das Tun hat den Sinn, sein Wesen als freie Wirklichkeit zu setzen, das heisst die Wirklichkeit als sein Wesen anzuerkennen.
108ぺーじ

「たほう個体は同時に、この現実をじっさいには〔その行為においては〕〔るび:イン・デア・タート〕承認して〔「承認して」を きょうちょうしている。〕しまっている。行為の有する意味とは、個体の本質〔るび:ヴェーゼン〕を自由な現実〔「自由な現実」を きょうちょうしている。〕として定立することであり、つまり現実を個体にとっての実在〔るび:ヴェーゼン〕として承認することであるからだ。」
573ぺーじ

どいつご たんご 6

anerkanntは anerkennen という どうしの かこぶんし である。
anerkennenは かちや せいとうせいを みとめる、にんちする、 しょうにんする、こうにんする とか、 こうせきを たかく ひょうかする、 しょうさんする とかの いみである。
anという あいてに むかう とか くっつく という いみの まえつづりと erkennenという みわける、にんしきする という どうしを つなげた ことば である。

このanerkennen という たんごは、 じこいしきしょうの しゅじんと どれいの べんしょうほうでも 「しょうにん」として でてくる ことば である。
しかし、 ここでは、 anerkannt(しょうにんする)は、 まえの erkennen(にんしきする)という ことばと ならべている かもしれない。
つまり、 ふへんてきな ありかたを にんしき しようと する という はなしと、 じぶんが じゆうな ふへんてきな ありかたの なかに あるとは にんしきしない という はなし である。

das Individuum, welches die Allgemeinheit nur in der Form seines unmittelbaren Fuer−sich−seins erkennen will, erkennt sich also nicht in dieser freien Allgemeinheit,
108ぺーじ

heisstは なまえは…である とか という いみである という いみ である。
das heisstで ちゅうしゃく、げんていを あらわして、 つまり、 すなわち という いみ である。
anzuerkennenは anerkennen(しょうにんする)という どうしに zuを はさんでいる。
まえつづりの ある zuふていしの かたち である。
zuerkennenは にんていする という いみ である。

どいつご こうぞう 6

そして(und) という せつぞくしに、 どうじに(zugleich) という ふくしが ある。
つづいて、 かこかんりょうけいの ための じょどうし(hat)が ある。どうしは、 anerkanntという かこぶんし である。
それ(es)、つまり こころの ほうの こたい、こじんの ふるまい、こうい(行為)が しゅご である。
その こと(sie)が もくてきご である。
その こと(sie)は じょせいめいし である。
まえに でてくる じょせいめいしは たくさん ある。
die verkehrte Bedeutungは ぎゃくに なった いみ、 ただしくない いみ という いみ である。
der allgemeinen Ordnung zu widersprechenは はんろん される、むじゅんする ふへんてきな ちつじょ という いみ である。
Tat seines einzelnen Herzensは こころの ほうの こたい、こじんの こべつてきな こころの おこない という いみ である。
freie allgemeine Wirklichkeit は じゆうな ふへんてきな げんじつ という いみ である。おそらく、 これ である。

denn(なぜなら)から りゆうの せつが はじまる。
das Tun(おこない)が しゅご である。
hat(もつ)が どうし である。
den Sinn(いみ、もくひょう)が もくてきご である。
das Tun hat den Sinnは、 Dies Tun hat daher die verkehrte Bedeutungと くらべられている かのうせいが ある。

sein Wesen という めいしが あり、 ちゅうせいめいしの いちかくか よんかく である。 よんかく なら どうしである habenの もくてきご である。 いちかく なら べつの ぶんの しゅご である。
alsせつで せつめいされる。
zu setzenが どういう はたらきを しているか わからない。けいようしか、 haben ... zu で ぎむを あらわすか、 seinどうしの しょうりゃくか、 Wessenの いいかえか。 かぎりない。 わからない。 要調査。

die Wirklichkeit が めいし である。
als sein Wesen anzuerkennenは なんだか わからない。
まじで ぶっとんでいる。


かいしゃく

たーと、Tat、 おこない、 された なにかに おいて という ことばは、じっさいには という いみである。

Tat、 おこない、 された なにか を、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが する ことで、 じぶんを とくの いしきに じぶんを かえていく。
Tat、 おこない、 された なにかは、 とくの いしきに とっては、 ふへんてきな ちつじょを もっている。

こころの ほうの こたい、こじんは、 げんじつを ちゃんと わかっては いないが、 げんじつを しょうにんしている。
なぜなら、 げんじつは ふへんてき であると とくの いしきに なると わかる から である。

ふるまい、こうい(行為)は いみ、もくひょうを もっている。

Tun、ふるまい、こうい(行為)が ふへんてきで ある から、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、じかくを していないが、 われわれに とっては、 それ じたい として ふへんてき なのである。

こころの ほうの ふるまいは、 もくひょう としては ふへんてき だが、 げんじつ としては ふへんてきではない。
こころの ほうの こたい、こじんの ふるまいに よって、 こころの ほうの こたい、こじんが ある という ことを、じゆうで しばられていない げんじつ とする。
こころの ほうの こたい、こじんは、 じゆうではない げんじつ ではない。
こころの ほうの こたい、こじんは じぶんを げんじつに する。
この ことを こころの ほうの こたい、こじんは ふるまいを する ことで、 しょうにんしている。
(しょうにんする とは、 わかっていると どうじに、 げんじつに する ことだ。 という かせつを たてる。)
こころの ほうの こたい、こじんに とって あるのは、 げんじつ である という ように かえる のだ。
こころの ほうの こたい、こじんの じつざいせいが げんじつせい である という かくしんを げんじつに する のである。
こころの ほうの こたい、こじんに とって あるのは げんじつ である という ことの かくしんが げんじつに なる のである。

b7

たーと、Tat、なされた こと、なす ところは、 じかくの ない、こたいの ほうの こたい、こじんの する ことで、 とくの いしきに なる のだ。
とぅーん、Tun、ふるまい、こうい(行為)は、 こころの ほうの こたい、こじんと、とくの いしきの ふへんてきな ふるまい である。

おこないの がいねん

こころの ほうの こたい、こじんは、 じぶんの ふへんてきな おこない(Tun、とぅーん)の がいねんに よって、 「より立ちいって規定したことがらがある」(573ぺーじ)。

Das Individuum hat durch den Begriff seines Tuns die nähere Weise bestimmt,
108ぺーじ

nähereは näheの ひかくきゅう じょせいけい であり、さらに くわしい という いみである。
Weiseは じょせい めいしで、 やりかた、ほうほう という いみである。
れいぶん として Ich habe meine eigene Weise. 「私には私のやり方がある」(『クラウン独和辞典 第2版』)が ある。
bestimmtは どうし bestimmenの かこぶんしで、 haben どうしと いっしょに つかって かこかんりょうけいを つくり、 きめる という いみが ある。
ここで、 die nähere Weiseが ふくし として かんがえられている。
ほうほうに ついての めいしは、 そのまま ふくし として つかわれ やすいが、 どいつごでも おなじ なのだろうか? わからない。 要調査。
ここでは、 bestimmen(きめる)の よんかく もくてきご として die nähere Weiseを かんがえる ことは できないの だろうか?
つまり、 さらに くわしい やりかたを きめる という いみに なる。
つづく ぶぶんを よめば わかる かもしれない。

「じぶんの ふへんてきな おこない(Tun、とぅーん)の がいねん」というのは、 おそらく、 こころの ほうの こたい、こじん から とくの いしきに かわる ときに もんだいと なる ような おこない という かんがえかた だと おもう。
へーげるに おいて がいねん、べぐりふ という ことばは とても だいじだ。
がいねんは、へーげるに とって とても すばらしい。
なぜなら がいねんは、 ほかの ものから じぶんを くべつ しながら、 くべつ する という こと まで まとめる ことが できる もの だから である。
がいねんとは、 まず きりわける こと、 くべつ する こと である。
たとえば、 うえ という 「がいねん」は、 うえと したを わける。
しかし、 うえ という 「がいねん」は へーげるが すばらしいと おもう がいねん としては あまり いい ぐたいれい ではない。
へーげるが すばらしいと おもう がいねん として、 がいねん という がいねんを かんがえてみよう。
がいねん という がいねんは、 がいねんと がいねん ではない ものを わける。
そして、 がいねん ではない ものと がいねんを わける ことは、 じつは がいねん ではない ものと がいねんを くらべる こと である。
くらべる というのは、 ある いみで おなじ ところが わかる という こと、 つまり まとめる こと である。
がいねん ではない ものと がいねんを わける ことは、 がいねん ではない ものと がいねんを おなじもの だと かんがえる ことと おなじ こと であると わかる ことに なる。
このことを くべつと とういつの とういつと いう。
くらべる という ことばを つなげて むすびつける のは、 さいとうが かんがえた ものであって、 へーげるが このように せつめいしている わけではない。
なので、 へーげるの かんがえかたと ちがう かのうせいが たかい。
ちゅうい してくださいませ。
Begriffは がいねん という いみと、 がいねんを つくる という いみが あるのかと おもってた けど、 がいねん という いみ だけだと おもう。

どいつご げんぶん 7

(Das Individuum hat durch den Begriff seines Tuns die nähere Weise bestimmt,) in welcher die wirkliche Allgemeinheit, der es sich angehörig gemacht, sich gegen es kehrt.
108ぺーじ

「個体が、じぶんの行為〔るび:トゥーン〕の概念をつうじてより立ちいって規定したことがらがある。それは、現実の普遍的なありかたが、そこに個体が帰属するものとされていながら、個体に対して立ちむかう、その形式である。」
573-574ぺーじ

どいつご たんご 7

inは さんかくの ぜんちしの もくてきごを ともなって、 ほうほう、りゅうぎを いみする。
inは 「これこれで」 という いみ である。
in dieser Weiseは「こういう方法で、このように」 という いみ である。
welcherは かんけい・だいめいし welcheの じょせいの さんかく である。
angehörigは さんかくの めいしに しょぞく(所属)している とか かにゅう(加入) している という いみの けいようし である。
gemachtは どうし machenの かこぶんし であり、じんいてきな とか わざとらしい とか なされた とか つくられた という いみの けいようし である。
よんかくの もくてきご、zuのない ふていし、machenで、 そのものに なになにを させる という いみに なる。
たとえば、 Das hat mich lachen gemacht. 「そのことで私は笑ってしまった」(『クラウン独和辞典』)という れいぶんが ある。
kehrtは どうし kehrenの さんにんしょう・げんざい・たんすうの かつよう である。
kehrenは うらがえす という いみ である。
sich kehrenは さいきどうしで、 ある ほうへ むく、 ある ほうへ てんじる という いみ である。
れいぶん として、 sich gegen seinen Freund 「友人に背く」(『クラウン独和辞典』)が ある。
gegenは よんかくの ぜんちしの もくてきごを ともなう。

どいつご こうぞう7

welcherという かんけい・だいめいしに せんこうしを おきかえると、 in die nähere Weise という せつを つくる。
in welcher せつは、 じょせいめいし である die wirkliche Allgemeinheit(げんじつの ふへんてきな ありかた)という めいしで はじまっている。
(これ(die wirkliche Allgemeinheit(げんじつの ふへんてきな ありかた))を derで うけているのだと おもう。と
なにか めいしを かいて、 くてんで はさんで、 「それ」が とか かく かきかたを している。
じぶんも そんな かきかたを しているな。
むずかしい ぶんに なるので、 やめましょう。
と おもったが、 まちがっている。)

in welcher せつの しゅごは じょせいめいし である die wirkliche Allgemeinheit(げんじつの ふへんてきな ありかた)という めいしで、 どうしは sich kehrt(そもく)である。


esが しゅご である。
derは じょせい さんかくの かんけいだいめいし であり、 angehörigという けいようしの しょぞくさき である。そして、 derの せんこうしは die wirkliche Allgemeinheit(げんじつの ふへんてきな ありかた)である。
sichが gemachtという どうしの もくてきご よんかく である。
それ(es、ちゅうせいめいし、こたい)は、 じぶん(sich、こたい)を、 それ(じょせいめいし、げんじつの ふへんてきな ありかた)に しょぞくしている もの(der angehörig)と する(gemacht)。
それ(es、ちゅうせいめいし、こたい)に たいして(gegen)、そむく(sich kehrt)。

いばしょに たいりつ する

くまのやくに ある 「けいしき」という ことばは へーげるの ことばには ないと おもう。
そして この ぶぶんは、 つぎの ぶんしょうと かんけいしている。

「じぶんの法則を実現することで個体が生みだすものは、それゆえじぶんの〔「じぶんの」を きょうちょうしている。〕法則ではない。当の秩序はそれ自体としては〔「それ自体としては」を きょうちょうしている。〕みずからの秩序であるにせよ、それは個体に対してはかえって一箇の異他的な秩序である。そうであるからには、個体が生みだすのは、現実的な秩序へとじぶんが巻きこまれるという消息にほかならない。この秩序はしかも、個体にとって異他的なものであるばかりではなく、個体にとって敵対的な圧倒的威力なのだ。」
(572ぺーじ)

たいりつ している けれど、 ふくみこまれている という かんけいが、 げんじつの ふへんてきな ありかたと こじんとの かんけい である。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが おこないに よって きめる ことに なった さらに くわしい ありかたに おいては、 げんじつの みんなと おなじ ありかたに こじんは ふくまれているが、 げんじつの ふへんてきな ありかたは こじんに たいして たいりつしている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、いばしょに たいりつする という ありかたを げんじつに する。
いばしょに たいりつする という ありかたを、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 なにかを する ことの がいねんに よって、 げんじつに する。
なにかを する ことの がいねんは、 こころのほうの こたい、こじんと とくの いしきに きょうつうする もの である。

とぅーんと たーと

くりかえし なにかを おこなう ことを いみする ことばの くべつを かく。
じしん(自信)は ないが、 とりあえずの かせつ(仮説) である。

Tun、とぅーん から Tat、たーとへ うつりかわる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの とぅーん から、 とくの いしきにも ある たーとへ うつりかわる。

まえに このように かいた。ぎゃくの ことを かいている。ここは こんらんしている。 わからない。 要調査。

たーと、Tat、なされた こと、なす ところは、 じかくの ない、こたいの ほうの こたい、こじんの する ことで、 とくの いしきに なる のだ。
とぅーん、Tun、ふるまい、こうい(行為)は、 こころの ほうの こたい、こじんと、とくの いしきの ふへんてきな ふるまい である。

にほんごの くまのやくでの やくしかたを ならべておく。

るびを はずして ぬきがきを すると、とぅーんは、つぎのように かかれる。
(「行為する直接的な器官」(491ぺーじ、CVAcにんそうじゅつと ずがいろん)、「行為の器官」(504ぺーじ、CVAcにんそうじゅつと ずがいろん)、「人相術が問題とした関係のいても、器官はたしかにやはり自己のうちへ反省的に立ちかえって、行為を語りだす定在として考察される。」(505ぺーじ、CVAcにんそうじゅつと ずがいろん))
(「じぶんの運命をその目的と行為のうちに」(565ぺーじ、CVBaきもちいい せつ))
「じぶんの行為」(573ぺーじ)
「個体のふるまい」(573ぺーじ)
「個体が、じぶんの行為」(573ぺーじ)

るびを はずして ぬきがきを すると、たーとは、 つぎのように かかれる。
「意識の行為」(566ぺーじ、CVBaきもちいい せつ)
「みずからのなしたところ」(566ぺーじ、CVBaきもちいい せつ)
「みずからがなすところ」(572ぺーじ)
「個体のなしたもの」(572ぺーじ)
「個体のなすところ」(573ぺーじ)
「心情からなされたこと」(573ぺーじ)
「じっさいには〔その行為においては〕」(573ぺーじ)
「個体によってなされたこと」(574ぺーじ)

げんじつと ふへんてきな ありかた

こたい、こじんの たーと、Tatは げんじつてき である。
こたい、こじんの たーと、Tatは、あたまの なか だけで かんがえた こと ではなく、 じっさいに おこなう こと である。
おこなう、 なにかを する というのは、 げんじつに する という こと である。

そして、 じっさいに ある ことは ふへんてき である。
じっさいに なにかを する ことは、 みんなと おなじ ように する こと である。
つまり、 みんなが なにかを する という かたちを おなじ ように もっている ように、 なにかを する。
みんなが できない ことを、 じっさいに する ことは できない。
こたい、こじんの たーと、Tatを、 じっさいに やる こと ではなく、 まだ やっていないが かんがえられた おこない としか かんがえない ことと、 こころの ほうの だんかいの まえの だんかいの いしきは かんがえていた。
これらの まえの だんかいの いしきでは、ふるまいは げんじつではない ので、 ふへんてき ではない。
こころの ほうの だんかいの こたいは、 じぶんの たーと、Tat、 じっさいに なにかを する ことを、 げんじつの ことと かんがえる。
ここでは、 たーと、Tatは げんじつに なにかを する こと であり、 とぅーん、Tunは ふへんてきに なにかを する こと である。と かんがえてみた。じっさいは、たーと、Tatも ふへんてき である。

どいつご げんぶん 8

ihr Inhalt aber ist die eigene Individualität, welche sich als diese einzelne dem Allgemeinen entgegengesetzte erhalten will.
108ぺーじ

「その内容はたほう個体自身の個体性であって、個体性は「この」個別的な〔「個別的な」を きょうちょうしている。〕個体性であり、普遍的なものに対立した個体性であることを維持しようとするものなのだ。」
574ぺーじ

どいつご たんご 8

ihrは じょせいめいしの しょゆうけいようし である。
eigen(e)は じぶんじしんの とか、 ほかに いそんしない とか、とくゆうの とか、 こゆうの とかの いみが ある。
einzeln(e)は ここの とか こべつの とかの いみが ある。
entgegengesetzteは どうしの entgegensetztenの かこぶんしの じょせいけい である。
さんかくの もくてきご、よんかくの もくてきご、entgegensetzten という かたちで、 さんかくの もくてきごに はんたい、 たいこうして、 よんかくの もくてきごを もちだす という いみ である。
(entgegenは なにかに そむく という いみ である。
entgegenは さんかくの もくてきごを ともなうが、 もくてきごの あとに ともなう ことも ある。
gesetzteは きめる という いみの どうしの setzenの かこぶんし である。
Gesetzは こころの ほうの ほうや、 ほうそく、 おきて という いみが ある。)
sich erhaltenは ほぞんされる、 いじされる という いみ である。
れいぶん として sich gesund erhalten 「自分の健康を保つ」(『クラウン独和辞典 第2版』)が ある。

どいつご こうぶん 8

「その内容」の 「その」は、たーと、Tat であろう。
ないようは、 なかみと いいかえても いい だろう。
なので、 こたい、こじんが なにかを げんじつに おいて する ときも、 なにかを する という かたちは おなじで、 ふへんてき だが、する ことの なかみは、 じぶんじしんの とくゆうの こじんの ありかた である。
つまり、 じぶんが ある ところから ある べつの ところへ すすむ ことを した のならば、そこ から そこへ すすむ という じぶん だけの じぶんの あらわれが なかみ である。
いっぽうで、 すすむ ことを する、 つまり なにかを する という ことは、 なにかを している という いみで、 ふへんてき であり、 みんなと おなじ である。
かたちは みんな おなじ だが、 なかみは それぞれ ちがう。


なかみは じぶんの こたいの ありかた である。
じぶんの こたいの ありかたは、 この こべつてきな こたい、こじんの ありかた であり、 ふへんてきな ありかたに たいして きまる ように じぶんを とどまらせたい。

Inhaltと erhaltenで かけことばを している。
ごげんが おなじ わけでは ない みたいだ。
「この こべつてきな こたい、こじんの ありかた」の 「この」は ちょくせつてきに じぶんを しめす ことば である。

じぶんは、 「この」 「こいつ」 である。
じぶんじしんの ことは、 この ありかた、 ここの ありかた である。
じぶんじしんの こべつの こたい、こじんの ありかたは、ふへんてきな ありかたと たいりつして きめられる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 ふへんてきに なにかを する けれど、 その なにかを する ことの なかみは こたい、こじんの ありかた である。
なかみが こべつの ありかた である という ことは、 ふへんてきな ありかたと たいりつ した ままで ある ことを のぞむ。
じっさいは、 こべつの ありかたは ふへんてきに なってしまう。
へーげるに とって それは すぐれた ものに なる という こと である。
entgegengesetztenは こころの ほうの 「ほう」(Gesetz)と かけことばを している。

ほうそくを つくる ことは もんだい ではない。

どいつご げんぶん 9

Es ist nicht irgendein bestimmtes Gesetz, von dessen Aufstellung die Rede wäre, sondern die unmittelbare Einheit des einzelnen Herzens mit der Allgemeinheit ist der zum Gesetze erhobene und geltensollende Gedanke, dass in dem, was Gesetz ist, jedes Herz sich selbst erkennen muss.
108ぺーじ

「なんらか特定の法則について、ここでその創設が問題となっているのではないはずである。問題はむしろ個別的な心情が普遍性と直接にひとつになったありかた〔るび:アインハイト〕であり、この統一〔るび:アインハイト〕こそが法則まで高められ、妥当すべき思想〔るび:ゲダンケ〕なのであって、その思考〔るび:ゲダンケ〕するところによれば、法則であるもののうちで、それぞれの心情はじぶん〔「それぞれの心情はじぶん」を きょうちょうしている。〕自身を認識しなければならない。」
574ぺーじ

Inhaltは だんせい・めいし なので、 Es では しめせない。
ここでは、「von さんかくの もくてきご ist die Rede」という こうぶん である。

どいつご たんご 9

irgendeinは なんらかの ひとつの という いみ である。
bestimmtesは けいようしの bestimmtの ちゅうせい・めいしの たんすうの こんごうへんかの いちかく である。
bestimmtは ある いっていの とか、 はっきりと した とか、 だんことした とか、 かくていされた とかの いみ である。
Gesetzは ちゅうせい・めいしで ほう という いみ である。
vonは にかくの もくてきごを ともなって、
dessenは derの だんせい/ちゅうせい たんすうの にかくの かんけいし/ていかんし である。
Aufstellungは じょせい・めいしで、 せっち とか、 はいち とか、 りろんなどを たてる こと とか、 きろくを じゅりつ する こと とか、 りすと などを つくる こと とか、 ならぶ こと とかの いみが ある。
die Redeは じょせい・めいしの いっかくで、 はなし という いみで ある。
しかし、 ここでは 「von さんかくの もくてきご ist die Rede」で さんかくの もくてきごが わだいに なっている という いみで ある。
Es war von der Erziehung die Rede. 「教育のことが問題になった(話し合われた)」(『クラウン独和辞典 第2版』) という れいぶんが ある。
wäreは seinどうしの せつぞくほう にの さんにんしょう たんすうの ひげんじつ わほう である。

zumは zu demの たんしゅくけい で、けっかや へんかの さきを あらわす。
erhobeneは もちあげる とか かくあげる とかの いみの どうし erhebenの かこぶんしの じょせいけい であり、 じょどうし sein どうしを ともなって、 じょうたい・じゅどう(状態受動)を あらわす。
geltenは かちが ある という いみ である。
sollendeは する べき である という いみの どうしの sollenの げんざい・ぶんしの じょせいけい である。
jedesは おのおのの という いみの けいようし、 jederの ちゅうせい いっかく である。
sich selbst erkennenは じぶんじしんを いしきする という いみである(https://ja.wiktionary.org/wiki/erkennen)。
sichが よんかくで もくてきご である。
おもいだすのは、 Selbsterkenntnis (じこにんしき)という ことばと、 こだい・ぎりしあの でるふぉいの ことばである „Erkenne Dich selbst“(なんじ じしんを しれ) という ことば である。

in dem, was Gesetz ist,は、 じしょの うらづけが ないが、 demという しじめいしで、「それの なかで、 つまり ほうが それで ある ところの ものの なかで」っという いみだと おもう。

どいつご こうぞう 9

esは ぶんの しゅごで、irgendein bestimmtes Gesetz(なんらかの いっていの きまった ほう)や die unmittelbare Einheit(ちょくせつの ひとまとめ)という いみの しゅごを しめす。
ちょくせつの ひとまとめ(die unmittelbare Einheit)を、 ふくすうの ほうに(zum Gesetz) かくあげする(erheben) という のうどうぶんの うけみの かたち である。
じょうたい・じゅどう(状態受動)である ため、 かくあげられた けっかを あらわす。
geltensollende Gedankeは ゆうこう(有効)に ちがいない かんがえ という いみ である。
「妥当すべき」とか 「妥当〔るび:ゲルテン〕すべきだ」(Sie soll unmittelbar als Allgemeines gelten) とか「見なされる〔るび:ゲルテン〕べきだ」(sein besonderer Inhalt soll als solcher für allgemein gelten)(574ぺーじ)と やくされていた。
わからない。 要調査。したの ”geltensollende Gedanke”で くわしく かいた。
かんがえの ないようが、 dassせつで かかれる。
dassせつの しゅごは、jedes Herz(おのおのの こころ)であり、 もくてきごは sichであり、どうしは erkennen muss(にんしき しないと いけない) である。

”geltensollende Gedanke”

けつろんは 「 ゆうこう(有効)で あるに ちがいないgeltensollend)」という いみである。うそ、 「ゆうこうに なる よてい である」である きがする。

「行為の事実上の方向付けが正当的な作用(Wirkung)を有するのは、行為者が秩序を内的に承認されたものとして是認しかゝる是認によって秩序が行為者に対して拘束的なもの即ち geltensollend なものとなり」…。
「妥当なものとなる」
間場壽一「ウェーバー社会学に於ける正当性と合法性」60ぺーじ。ぴーでぃーえふ、https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/5/1/5_54/_pdf

La reconnaissance, par la communauté, du chef charismatique devient « libre » dans le choix d’un détenteur de pouvoir par les électeurs (nach ihrem Belieben, comme il leur semble bon) ; le maître légitimé en vertu de ses dons de grâce devient un détenteur de pouvoir légitimé par la grâce des dominés et aussi, en vertu d’un mandat (limitation temporelle) ; le ralliement contraint de la communauté à la proclamation d’une sentence devient le libre choix, par les dominés qui manifestent leur volonté, du droit qui doit valoir (geltensollend). Opposé au fonctionnaire élu, dont Weber dénonce ailleurs l’action passablement corrompue (ES, 1995, p. 354) et qui peut se comporter « entièrement comme le mandataire de son maître et donc ici des électeurs » susceptibles alors de disposer d’un pouvoir illimité, le chef élu est caractérisé par Weber comme celui qui, jouissant d’une légitimité démocratique, est capable de donner un sens à son action, aussi bien auprès de la direction administrative que des dominés, tout en étant, lui?même, « exclusivement responsable de ses actes ».
Elisabeth Kauffmann, « Les trois types purs de la domination légitime » de Max Weber : les paradoxes de la domination et de la liberté, Dans Sociologie 2014/3 (Vol. 5), pages 307 à 317.
https://www.cairn.info/revue-sociologie-2014-3-page-307.htm?contenu=article

きょうどうたいが、 かりすまてきな りーだーを みとめる ことは、 えらぶ ものたちが、 (nach ihrem Belieben 、その もの たちに とって よいと おもえる という りゆうで)けんりょくを もつ ものを えらんでいる ことに おいて 「〔おおやけの けんりょくに〕しばられてない」 ことに なる。〔ちゃんとしていると〕 みとめられた しはいしゃが、 おんしゃの やくそくに よって、 〔ちゃんとしていると〕 みとめられて、 けんりょくを もつ ように なる のは、しはいを うける もの たちに おんしゃを あたえる から であり、 また いっかい まかせる という りゆう から である(じかん・せいげんが ある)。むりやり きょうどうたいに ある ひとつの けっていに したがう ように させる ことを、 ゆうこう(有効)で あるに ちがいない(geltensollend)ほうりつを、〔おおやけの けんりょくに〕しばられる ことなく〔じゆうに〕 えらぶ ことに なる。 えらぶのは、 じぶんたちに 〔ただしい ことを もとめる〕いし(意志)が あると しゅちょう(主張)する ような、 しはいを うける もの たち である。に はんたいして、 うぇーばーは ほかの ところで、 おかねを わたした ものに よく なる ように する という かなり ふはいした えらばれた やくにんの おこないを ひなんした(ES, 1995, p. 354)。そのような えらばれた やくにんは、 「かんぜんに、 じぶんの しはいしゃと、 したがって ここでは えらぶ もの たちが まかせた ものの ように 」 ふるまう ことが できる。この えらぶ もの たちは、 その とき せいげんの ない けんりょくを あたえる ことが できるのだ。 このような えらばれた やくにんに たいして、うぇーばーが えらばれた りーだーの とくちょう としたのは、 みんしゅしゅぎてきに 〔ちゃんとしていると〕 みとめられている ことを みたしていている りーだー であり、じぶんじしんで 「ひたすら じぶんの 〔ほうりつてき〕 こうい(行為)に せきにんが ある もの」 であり ながら、 しはいを うける もの たちに たいしても、 ぎょうせいの しどうぶに たいしても、 じぶんの おこないは いみが ある もの であると せつめいする ことが できる りーだー である という こと である。
(ぐーぐる ほんやくを いんようしておく けれど、 まったく やくに たたなかった。つかっている ことばは よく つかう ことば なのに、 つかっている いみが あまり よくは つかわれる ことが ない という ぐたいれい である。
コミュニティによるカリスマ的指導者の認識は、有権者による権力者の選択において「自由」になります( nach ihrem Belieben 、彼らが適切と考えるように)。彼の恵みの賜物によって正当化された主人は、支配された者の恵みによって、そしてまた委任(時間制限)によって正当化された権力の保有者になります。文の宣言へのコミュニティの強制的な結集は、彼らの意志を表明する支配者によって、有効でなければならない権利の自由な選択になります( geltensollend )。ウェーバーが他の場所で非難し(ES、1995、p。354)、「彼の主人の代表のように、したがってここでは有権者のように」振る舞うことができ、無制限の権力を持っている可能性が高い選出された役人に反対し、選出されたリーダーはウェーバーによって、民主的な正当性を享受し、彼自身が「その行動に独占的に責任を負っている」一方で、行政の方向性と支配の両方で彼の行動に意味を与えることができる人物として特徴付けられます。)


どいつご いみ 9

こころの ほうを つくる ことに おいて、 もんだいに なっているのは、 きまった ひとつの なんらかの ほう ではない。
つまり、ほう であれば なんでも いい という わけ ではない。
ふへんてきな ほうで ないと いけない ので あって、「なんらかの」 ほう ではない のだ。
こころの ほうを つくる ことに おいて、 もんだいに なっているのは、 こべつてきな こころと ふへんせいが ひとつに まとめらえれている ことで ある。
こべつてきな こころが ふへんせいである ことが もんだいである。
それぞれの こころが みんなと おなじように ある という ことが、 こころの ほうを げんじつに する ことに おいて だいじ である。
しかし、 こころの ほうの だんかい では、 こべつの こころと ふへんてきな ありかたが おなじ である ことは、 ちょくせつてきであるに すぎない。
つまり かんせつてきに ひとつに なっている わけでは ない。
たんに こべつの こころが みんなと おなじに なっている だけで、 じぶんと かんけいしながら、 かならず みんなと おなじに なっている わけ ではない。
こころの ほうの だんかいでは、 こころが みんなと おなじ である という ことが、 こころの ほうに まで たかめられる のだ。

(みんなが こころと おなじ である という ありかたを みんな している という ことが いつでも みんなに おこる ことであり、 ほう、ほうりつ、きまった こと である。というのは すこし よみこみすぎた。ただしくは)
こころの ほうの だんかいでは、 こころが みんなと ちょくせつ たまたま おなじである という ことが、 ほうに なり、 こころは きまって かんせつてきに みんなと かならず おなじに なる という だんかいに かわるのだ。
ちょくせつてきに ひとつに なっている こと よりも、こころの ほうが すぐれている のである。

こべつの こころが みんなと おなじ である という ことは、 ゆうこう(有効)で ある はずで、 かちが ある はずの かんがえ である。
または、 ゆうこう(有効)に なる よていが あり、 かち(価値)が あるように なる よていが ある かんがえかた である。
つまり、 ちょくせつてきに ひとつに なっている ことは、 かんがえに すぎず、 げんじつに そうである わけではない。
こべつの こころと ふへんてきな ありかたが ひとつである という ことは かんがえ であり、 おのおのの こころが じぶんを ほうの なかに ある もの として わからないと いけない。
「おのおの」 という ことばは、 それぞれ こべつの こころを あらわしているが、 すべてが おなじ ものである という ふへんてきな ありかたも あらわしている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、こころは じぶんが こころの ほうに したがう という ことを わからざるを えない。
または、 わかるに ちがいない。

うぬぼれの きょうきへ

どいつご げんぶん 10

Aber nur das Herz dieses Individuums hat seine Wirklichkeit in seiner Tat, welche ihm sein Für−sich−sein oder seine Lust ausdrueckt, gesetzt. Sie soll unmittelbar als Allgemeines gelten, das heisst, sie ist in Wahrheit etwas Besonderes, und hat nur die Form der Allgemeinheit, sein besonderer Inhalt soll als solcher für allgemein gelten. Daher finden in diesem Inhalte die andern nicht das Gesetz ihres Herzens, sondern vielmehr das eines andern vollbracht, und eben nach dem allgemeinen Gesetze, dass in dem, was Gesetz ist, jedes sein Herz finden soll, kehren sie sich ebenso gegen die Wirklichkeit, welche es aufstellte, als es sich gegen die ihrige kehrte. Das Individuum findet also, wie zuerst nur das starre Gesetz, itzt die Herzen der Menschen selbst seinen vortrefflichen Absichten entgegen und zu verabscheuen.
108ぺーじ

「しかしながら〔当面の場面では〕ひとり「この」個人にぞくする心情のみが、みずからの現実的なありかた〔るび:ヴィクトリッヒカイト〕をそのなしたところ〔るび:タート〕のうちに定立したにすぎない。当の個体にかぎっていえば、なされたこと〔るび:タート〕が個体の対自的存在〔「個体の対自的存在」を きょうちょうしている。〕あるいはその快楽〔「その快楽」を きょうちょうしている。〕を表現しているのである。このなされたことがただちに普遍的なものとして妥当〔るび:ゲルテン〕すべきだとされるわけである。この件が意味するのは、なされたところはほんとうは〔るび:イン・ヴァールハイト〕或る特殊なものであるということであって、それがただ普遍性という形式をまとっているにすぎないというしだいなのだ。その特殊な〔「特殊な」を きょうちょうしている。〕内容が、特殊な内容のままに〔「特殊な内容のままに」を きょうちょうしている。〕普遍的なものと見なされる〔るび:ゲルテン〕べきだというのである。だからこの内容のうちに、他者たちが見いだすのはじぶんたちの心情の法則ではない。かえって〔じぶんたちとは〕べつの者の〔「べつの者の」を きょうちょうしている。〕法則が実現したことを発見するのだ。ほかでもなく、普遍的な法則にしたがえば、法則であるもののうちで各人はみずからの心情を見いだすべきとされるのであるから、他者たちがまさに立ちむかう現実は、くだんの個体〔「くだんの個体」を きょうちょうしている。〕が創設した現実なのであって、それは当の個体が他者たちにとっての現実に立ちむかったのとおなじことである。個体はかくてまず硬化した法則のみを、しかしいまや人間たちの心情自身を、みずからの卓越した意図に反したもの、だから忌みきらうべきものとみとめるのである。」
574-575ぺーじ

なにかを するは、 あらわす こと である。

じつげんの あとの たーと かな? たいして とぅーんは かんがえられたに すぎない のかもしれない。

Tun、とぅーん から Tat、たーとへ うつりかわる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの とぅーん から、 とくの いしきにも ある たーとへ うつりかわる。

まえに このように かいた。ぎゃくの ことを かいている。ここは こんらんしている。 わからない。 要調査。

たーと、Tat、なされた こと、なす ところは、 じかくの ない、こたいの ほうの こたい、こじんの する ことで、 とくの いしきに なる のだ。
とぅーん、Tun、ふるまい、こうい(行為)は、 こころの ほうの こたい、こじんと、とくの いしきの ふへんてきな ふるまい である。

「「この」個人」という ときの 「この」diesesは いたりっくでは ない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじん という いみで、 「この」と かいているのか、
こべつてきな こたい、こじん という いみで、 「この」と かいているのか わからない。
おそらく、 じぶんは この という しじごでしか あらわせない という ことを かんがえて、
こべつてきな こたい、 こじん という いみで、 「この」と かいていると おもう。
いままでは こころの ほうの こたい、こじんは、 なにかを する ことで、 じぶんを ふへんてきな ありかたの なかに いちづける という かきかたを していた。
ここでは、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの、 こころの ほう だけが、げんじつを なにかを じっさいに した という ことの なかに いちづけると かいている。
Aberと ぎゃくせつの ことばが あるので、 これまでと ちがう ないようが かかれていると かんがえる。
いままでは、 じぶんを みんなと おなじに する ことが もんだいに なっていた。
しかし、 ここでは、 なにかを する ことで、 じぶんを げんじつに する という ことが もんだいに なっている。
みんな という もんだい、 ふへんてきな ありかた という もんだいは とりあえずは きえている。
もんだいに なっているのは、 げんじつの ありかた である。
げんじつの ありかたは こたい、こじん、いしきの ほうの とくちょうてきな ありかたで、 ふへんせいは ほう、ほうそく、みんなの ほうの とくちょうてきな ありかた である。
ここで nur、ひとり…のみが、 だけが という たんごが つかわれている ことを かんがえると、 こころ いがい では げんじつに ならないと いいたいのだと わかる。
こころが なにかを しなければ、 じぶんが げんじつに ある ことは できない。
では、 なにかを しても げんじつに ならない ような こころ いがい とは なにか?
たとえば、 かんがえた だけの こと だろう。
なにかを しようという こころを もつ こと なく、 たんに なにかを すると かんがえても、 なにかを じっさいに する ことは できない という こと だろう。
ここでは、 こころは、 いし(意志)、かんじょう(感情)、いよく(意欲)に たいおうして、 たんに かんがえる ことは、 ひょうしょう(表象)に たいおうする。
さらに こころは こころの ほうを げんじつに する ように なにかを する。
つまり、 しゅごに なる。
いっぽうで、 たとえば、 きもちいい という のは、 もとめる もの だが、 しゅご には ならない。
なので、 こたい、こじんも あらわすが、 なにかを する ときに ひつような もの として こころと かかれている のだろう。
ちなみに、なにかを する とは、 じぶんを げんじつに する ことだ という かんがえは、 ひょうしゅつしゅぎ(表出主義)と いわれる らしい。

なにかを じっさいに する こと、 たーとが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、じぶんが じぶんと かんけいして ある という ことを あらわす。
なにかを じっさいに する ことが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの たいじそんざい(対自存在)を、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに あらわしている。
なぜなら、 じぶんに かんけいして ある から こそ、 なにかを 「する」 ことが できる から である。
つまり じぶんに かんけいして ある わけでは ない ならば、 たんに うごいたり、 おこったり する だけで、 じぶん から なにかを「する」 ことが できない。
じぶんに かんけいしてい ある という ことは、 じぶんに とって じぶんが ある という こと であり、 じぶんに あらわれている ことを じぶんが わかっている という こと である。
じぶんが なにかを していると わかる から こそ、 なにかを する ことが できる のである。
じぶんが なにかを していると おもっていない ものは、 なにかを する のでは なく、 じょうけんに よって たんに うごかされる だけ である。
そして、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっても、 じぶんが じっさいに なにかを する ことを わかる ことで、 じぶんと かんけいして ある という ことが わかる のだ。
こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんに とって、 じぶんが じぶんと かんけいして ある という ことは ちょくせつてきに わかる ことでは ない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが なにかを している という ことが わかる ことで、 じぶんが じぶんと かんけいして ある という ことが わかる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが なにかを している という てまえの ことがら から、 じぶんが じぶんと かんけいして ある という おくの ことがらを しる ことが できる。
てまえと おく という ばしょは、 そとと うちと にたような かんけいを している。
「そと」と かくと、 こたいでは ない もの としての そと から かんがえて という いみに なってしまう。
もちろん、 その いみも あるが、ここで もんだいに なっているのは、 「そと」と 「うち」の たいりつ である。
うちに よって そとが でてくるの だが、 そと から うちが わかる という かんけいが ある。
さらに、 そとは うちを あらわしている。
あらわす というのは、 そとに あらわす という こと だから である。
どいつご だと、 あらわす という ことばに そと という ことばが はいりこんでいるので、 だじゃれに なる。
そして、 うちは がいねん、もくてき、あたまで かんがえた もの、 ふへんてきな ありかたに かんけいしている。
また、 そとは げんじつ、 おこない、じっさいに する こと、 こべつてきな ありかたに かんけいしている。

なにかを じっさいに する こと、 たーとが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、じぶんが きもちいいと かんじている という ことを あらわす。
なにかを する という ことは、 それを している ものは きもちいいと かんじている という ことを あらわしていると こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは おもっている。
われわれに とっては、 おそらく 「たしかに なにかを する ことは、 それを する ことで きもちよく なる という こと だが、 たんじゅんに それ だけ でも なく、 それは じぶんが きもちいい だけではなくて、 みんなが きもちいいと かんじる こと だから、 みんなの なかの じぶんも きもちいいの であり、 さらに みんなと おなじような じぶん だけど、 じぶんは みんなとは ちがって ちからが つよい から できている だけであると かんがえるように かわっていく」 のだろう。
われわれに とっては、 なにかを する ことは きもちいいと かんじる こと なのか という もんだいは、 ちゃんとした もんだい では ない のだろう。

しかし、 へーげるの ながれから はずれて かんがえると、 なにかを する という ことは きもちいいと かんじている という ことだ という かんがえかたには、はんたい したい。
なぜなら、 すべての ことが それで せつめい できた きになってしまい、 その せつめいが ふさわしくない ものも きもちいいか どうか という はなしで せつめいした きもちに なって しまう から である。
きもちいいを いま うれしく なる こと だと かんがえれば、 すべては せつめい できない。
あきらかに くるしむ ことを する ことが ある。
そして、 きもちいいを さいしゅうてきには うれしくなる ことだと かんがえれば、 すべてを せつめい しすぎて、 ふさわしくない。
おどされて やった ことも なにかを する こと であり、 きもちいいを もとめた けっか であると かんがえてしまう から である。
まちがっては いないが、 ふさわしい せつめいでは ない。

へーげるに もどる。
なにかを する という そとの ありかたが、 じぶんが きもちよくなる こと という うちの ありかたを あらわしていると こころの ほうの だんかいの こじん、こたいは かんがえる のだ。

なにかを する ことは、ちょくせつに ふへんてきであると かんがえられる

「ただちに」は ちょくせつてきに とも やくせる ことば である。
als... geltenは …とみなされている とか、 …といっぱんに みとめられている という いみ である。
geltenは だとう(妥当)する とか ゆうこう(有効) である とか、 つうよう(通用) する とかの いみが ある。
sollenには すべき という いみと、 する よてい である という いみが ある。
ここでは、 する よていが ある という いみである。
だから「このなされたことがただちに普遍的なものとして妥当〔るび:ゲルテン〕すべきだとされるわけである」(574ぺーじ)は、
「このように じっさいに なにかを する という ことは ちょくせつてきに、 ふへんてきな もの であると みなされる ことに なる。」 とも やくせる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、じっさいに なにかを する という ことと じぶんが じぶんに かんけいして ある ことと、 じぶんが きもちいいと かんじる ことは ちょくせつてきに おなじ こと である。 ではなく、) とくの だんかい では、じっさいに なにかを する という ことと じぶんが じぶんに かんけいして ある ことと、 じぶんが きもちいいと かんじる ことは ちょくせつてきに おなじ ことに なる。 こころの ほうの だんかい では、 じっさいに なにかを する という ことと、 じぶんが じぶんに かんけいして ある ことや、 じぶんが きもちいいと かんじる ことは ちょくせつてきに おなじ こと ではなく、 わかれている。 そとに あらわれる うちと かんがえられている から である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、なにか がいねんを つうじて かんせつてきに、 なにかを する ことと たいじそんざい、かいらくは おなじ もの であると わかる わけではない。
ただ、 ちょくせつてきに、 行為(こうい)は じぶんにとって ある という ことと きもちよく なる ことを あらわしていると、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは おもう。
ちょくせつてき なので、 みんなが どうだとか そういう かんせつてきな はなしは でてこない のである。
まちがい。)
たしかに、 きもちいいの だんかいの じこいしきに とって、 じぶんと かんけいして ある という ありかたが もんだいに なって いなかった のに たいして、
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とって、 じぶんと かんけいして ある という ありかたが もんだいに なっている。
しかし、 われわれに とっては まだ たりない のだ。
といっても、 こころの ほうの だんかい から とくの だんかいに うつりかわる とき、じぶんと かんけいして ある という ことと、 きもちいい という ことは、 ふへんてきな もの であると みなされる ことに なる。
そして、 じぶんに かんけいして ある ことと きもちいい ことが、 なにかを する という ありかたで あらわれるのは、 ふへんてきに ゆうこう(有効) である ことに なる のだ。
sollenで かいている ところは、 もしかしたら こころの ほうの だんかいの はなしではなく、 とくの だんかいの はなし かもしれない。

ほんとうは とくしゅ

へーげるの べんしょうほう では、 しんり(真理)、ただしい こと とは、しっている こと とは ちがう。
さらに、 しんり(真理)、 ただしい ことは、 だんかいに よって ことなる。
ある ところに いっていると おもっていたら、 べつの ところに たどりついていた。
つまり、 いこうとしている しっている ところは、じっさいに たどりついた 「ただしい」 ところとは ちがう のだ。

こころの ほうの だんかいの しんり、ただしい ことは、つまり、 たどりついた ところは、 なにかを する という ことは、 ふへんてきな こと では なくて、 とくしゅてきな なにかで ある という ことである。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 なにかを する という のは、 じぶんの こころの ほう という とくしゅな ありかたを げんじつに する という こと なのである。
たしかに、 こころの ほうでは、 じぶんは みんなと おなじ だと しっていて、 ひとなみの しあわせ、 ひと としての しあわせを もとめていた はず である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが しっている ことは、 ふへんてきな ありかたを している という こと であった。
ふへんてきな ありかたに むかって すすんでいる はず だった。
しかし、 じっさいには、 しんりに おいては、 ほんとうは、 なにかを する ことは、 じぶんに ついての とくしゅてきな もの でしか なかった のだ。
この じぶんに ついての とくしゅてきな もの でしか なかった という ことが、 うぬぼれの さくらん、 ひとりよがりの きょうき、 こうまんな くるいに たどりついた こと である。
とくの だんかいに なって はじめて、 なにかを する という ことが ふへんてきな なにかに なる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが 「なにかを する」 という かたちは ふへんてき であるが、 なかみは とくしゅに すぎない のだ。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっての りそうは なにかを みんなと おなじ ように する という こと なのだが、 じっさいは、じぶんの ことしか かんがえていない、 または じぶんの ための こと しか していない のである。
とくの だんかいに なって、 なかみも ふへんてきに なる はずだ。


als solcherは それじたいは という いみ である。
とくの だんかいの いしきに とっては、 その じぶん だけの とくしゅな ないようが、それじたい では、 ふへんてきと いっぱんに かんがえられる ように なる。
または、 なにかを する という とくしゅな ないようが ふへんてきな もの として つうよう(通用) する ように なる。
für… geltenは …と いっぱんに かんがえれる という いみである。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 なにかを する という ことは じっさいは とくしゅてきな ものに すぎなかった のである。
ないようは とくの だんかいの いしきに なって はじめて ふへんてきだと かんがえられるように なる。

ほかのもの???

Daher finden in diesem Inhalte die andern nicht das Gesetz ihres Herzens, sondern vielmehr das eines andern vollbracht”(108ぺーじ)
「だからこの内容のうちに、他者たちが見いだすのはじぶんたちの心情の法則ではない。かえって〔じぶんたちとは〕べつの者の〔「べつの者の」を きょうちょうしてい
る。〕法則が実現したことを発見するのだ。」(574ぺーじ)
うん、わからない。要調査。
die andernは 「ほかのものたち」 という いみで めいしてきに つかわれる けいようしanderの ふくすうけい いちかく である。
eines andernは 「ひとつの ほかの」という いみの だんせい/ちゅうせい・めいしの にかく である。
なぜ にかくか というと、 das Gesetz ihres Herzensの das Gesetzが くりかえしに なるので、 しょうりゃくしたの だと おもう。
つまり、 あれ? わからない。 要調査。
dasは ここでは しじめいしで、 ほかの もの たちを しめす。おそらく。 しゅごは かえない だろう。
dasは せいべつや かずに かんけいなく しめせる。
vollbrachteは なしとげる という いみの ふるい どうし vollbringenの かこきほんけい である。????要調査。


ほかのものとの たいりつ

"und eben nach dem allgemeinen Gesetze, dass in dem, was Gesetz ist, jedes sein Herz finden soll, kehren sie sich ebenso gegen die Wirklichkeit, welche es aufstellte, als es sich gegen die ihrige kehrte." (108ぺーじ)
「ほかでもなく、普遍的な法則にしたがえば、法則であるもののうちで各人はみずからの心情を見いだすべきとされるのであるから、他者たちがまさに立ちむかう現実は、くだんの個体〔「くだんの個体」を きょうちょうしている。〕が創設した現実なのであって、それは当の個体が他者たちにとっての現実に立ちむかったのとおなじことである。」(574ぺーじ)
ぐーぐる ほんやく
「そして、誰もが法とは何かに彼の心を見いだすべきであるという一般法に従って、彼らは、それが彼らに背を向けたときに設定したそれの現実に背を向けます。」
ebenは ちょうどいま とか、 かろうじて とか、 まさしく とか、 ともかく とかの いみが ある。
dem allgemeinen Gesetzeは なぜ ちゅうせい・めいしの ふくすう いちかくの めいしGesetzeに、 nachの もくてきごの さんかく めいしの dem allgemeinenが ついているのか??
はい、 これは わかりました。こんなの わかる わけない。

Variante für den Dativ Singular des Substantivs Gesetz
https://de.wiktionary.org/wiki/Gesetze

さんかく たんすうの べつの かたちとして Gesetzeという かたちが ある のですね。
in dem, was Gesetz ist,は まえも あった かたち である。

in dem, was Gesetz ist,は、 じしょの うらづけが ないが、 demという しじめいしで、「それの なかで、 つまり ほうが それで ある ところの ものの なかで」っという いみだと おもう。

sollが ついているので、 それぞれの こころが ふへんてきな ほうを ほうの なかに みいだすのは、 とくの いしきに おいて である。
まだ、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに たいする ひとりよがりの さくらんは、 じぶんの げんじつの ほうの なかに、 ふへんてきな ほうを みいだせていない。
ebensoは おなじように という いみ である。

sich kehrenは さいきどうしで、 ある ほうへ むく、 ある ほうへ てんじる という いみ である。
れいぶん として、 sich gegen seinen Freund 「友人に背く」(『クラウン独和辞典』)が ある。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの このときに そむいていたのは、 ふへんてきな ほう であったが、
ここでは、うぬぼれの さくらんの だんかいで、 ほかのものの げんじつに そむく ことに なる。

sieは しゅご であるが、 ふくすう けいの いちかく なので、 ほかのものたち だろう。
esは jedes sein Herzであろう。
それぞれの こころの ほうと うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんの こころが つくる げんじつに たいして、 ほかのものは そむいている。
おなじように、ほかのものが つくる げんじつに たいして、 こころの ほうと うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんの こころは そむいている。

ここは あきらかに ひと どうしの たいりつに よめる。
ほかのものが たにんとして かかれていると おもう。
うぬぼれの さくらんの だんかいの ほかのものと、 こころのほうの だんかいの こじん、こたいが たいりつするのは、
そして、 はんたいに こころの ほうと うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんと、こころの ほうの だんかいの ほかのものたちが たいりつするのは、
こころのほうの だんかいの こたい、こじん(、ほかのものたち)が なにかを する としても、 なにかを する ことの なかみは とくしゅてきな ままで、 ふへんてきでは ない から であった。

そして、つぎのように まとめられる。
きもちいいの だんかいの じこいしきに たいりつしていたのは、ひとつの うんめい という ひつぜんせいである。
こころの ほうの だんかいでの たいりつしていたのは、 ふくすうの ほかのもの である。
とくの だんかいの いしきに たいりつしていたのは、 ひとつの せけん でありながら、 ふくすうの もので できている せけん である。

ほうも こころも きらいだー

”Das Individuum findet also, wie zuerst nur das starre Gesetz, itzt die Herzen der Menschen selbst seinen vortrefflichen Absichten entgegen und zu verabscheuen.”
108ぺーじ
「 個体はかくてまず硬化した法則のみを、しかしいまや人間たちの心情自身を、みずからの卓越した意図に反したもの、だから忌みきらうべきものとみとめるのである。」
575ぺーじ
zuerstは まず という いみ である。
itztは jetztの むかしの かたち であり、 つぎに という いみ である。
vortrefflichenは すぐれた という いみ である。
まえに という いみの vorと、 すぐれている という いみの trefflichを くみあわせた ことばで、 あてる という いみの どうし treffenから きている。
Absichtenは いと(意図)、もくろみ、もくてき という いみの めいしの Absichtの ふくすうけい いちかく である。
verabscheunenは いみきらう という いみ である。
Absichtenと verabscheunenの ことば あそび である。
だじゃれー。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 まず かわる ことの ない ほうだけが じぶんの すばらしい もくてき、 けいかくと ちがうので、けいべつ していた、つまり きらっていた。
つまり、 ほう、きまりが かわっていけば いい はず であった。
しかし、うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんは、 つぎに ひとの こころ という もの「も」 じぶんの すばらしい もくてき、 けいかくと ちがうので、けいべつ する、 つまり きらう ように なる。
うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんは、 「こころは いろいろと かわる ほうを もつ とは いえ、 しょせん すぐれていない」と おもう ように なる のだ。
うぬぼれの さくらんの だんかいの こたい、こじんは、 ほかのものと たいりつ する ことで、 「こころとは いっても いろんな こころが あって、 そのなかでも じぶんが すぐれている」と おもうのだ。

b8

こころの ほうは こころの ことしか わからない。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは、ふへんてきな ありかたを しっては いるが、 ちょくせつてきな ふへんてきな ありかたを しっている だけ である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 かんせつてきな ふへんてきな ありかたを しらない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが こころの ほうに したがっている という いみで、 ふへんてきで ある ことを しっている。
こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんは、 じぶんが みんなと おなじ こころの ほうに したがっていると わかっている から である。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが しっている こころの ほうは、 ちょくせつてき でしか ない。
つまり、 こころの ほうが ただちに、 ちょくせつてきに じぶん であった のである。
こころの ほうが、 とく という かたちで ほかの ものとの かかわりで かんがえられるのでは なく、 たんに そう ある もの として、 そう きまっている から こころの ほうに あった ありかたを していると かんがえられる のだ。

そして、こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは、 ひつぜんせいを しっているが、 こころの ひつぜんせいを しっている だけ である。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 ある じょうたいに なった ときに じぶんの ひとつの こころが からなず どのように なるかは わかるが、じぶん いがいの ほかの ふくすうの こころが どのように なるかも わからないし、 こころ よりも おおきいもの としての せかいが どのように なるかも わからないし、 げんじつが どのように なる かも わからない(”Notwendigkeit des Herzens”(108ぺーじ)と こころは たんすうけいに なっている。)。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが こころの ひつぜんせいを しっている という のは、 きもちや かんじょうや おこないに かかわる こころが どのように こうどうするのか、 なにを するのか、 なにかを する という ことは かならず おこる こととして わかる という こと である。
ひつぜんせい、かならず おきる こと という はなしは、 きもちいいの だんかいの じこいしきで うんめい として でてきた。
うんめい としての ひつぜんせいと、 きもちいいの こたいせい、こじんせい、こじんてきな ありかたが たいりつ していた。
うんめいは Schicksalで、と ひつぜんせいは Notwendigkeit である。
ひつぜんせいとか ふかひせい、つまり さけられれない こと という いみだ。
この ひつぜんせいと こたいせい、こじんせいの むじゅん から、 こころの ほう という こじんてき、こたいてきで ある こころで ありながら、 ふへんてきな ほう である という ありかたに うつりかわっていく のだ。
しかし、 まだ ふへんせいが たりない。 つまり まだ こころの ほうに すぎないのだ。ほかの ものと くらべられて ふへんてきに なる とく という ちからに まで たどりつく ことに なる。
このように かんがえると、 いしきしょうの かんかくてき かくしん、 ちかく、 ごせい という うつりかわりを おもいだす。
かんかくてきかくしんでは、 これ としか いえない ものが もんだいに なり、 ちかくでは、 ものの せいしつが もんだいに なり、 ごせいでは ちからが もんだいに なっていた。
きもちいい では この きもちよさ という ちょくせつてきな ものが もんだいに なり、 こころの ほう では、 こころの きまった ものが もんだいに なり、 とくでは とく という ちから、 ものどもを うごかす なにかが もんだいに なるのだ。

げんじつせい

こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは、 げんじつの ありかたが わからない。
げんじつ というのは、 じぶんに とって まさに あらわれている こと である。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんには、 ふへんてきな ありかたが じつは あらわれている のだけど、 こころの ほうは それが わからない。
とくの だんかいの いしきに ならないと わからない のだ。
”Verwirklichung”は じつげん、げんじつか という いみが ある。 verは けっかを あらわす。
”Wirksamkeit”は ゆうこうせい(有効性)、ききめ という いみが ある。 wirksamは こうか(効果)のある、こうかてきな、はたらいている という いみの けいようしである。
wirkenが はたらきかける、さよう(作用)する という いみの どうしで、 samが かのうせい、のうりょくを あらわす ので、 wirksamは はたらく かのうせいが ある という こと、 つまり、 げんじつに する ことが できる という ことを いみする。
つまり、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、なにかが げんじつに なる という ことと、 なにかが げんじつに なる かもしれない という ことの ありかたが わからない。

しんじつの ありかた としては、 しんの ありかた としては、 しんり(真理)の ありかた としては、 げんじつ である という ことは、 そんざい している ということ、 ある という こと である。
こころの ほうの だんかいは じつは、 しんじつの ありかた としては、 しんの ありかた としては、 しんり(真理)の ありかた としては、とくの だんかい である。
つまり、 じつは うつりかわっているが、 その だんかいの いしきが きがついていない だけ であった という ことだ。
まえに めざす ところと たどりつく ところが ちがう という たとえばなしを かいたが、 その たとえばなしが うまく ないのは この、 たんに きがついていない だけ という ことを あらわせない からだ。じつは、 すでに たどりついているのに きがついていない だけ だったのだ。べつの たとえばなしを すると すれば、 かわの ながれに さからって いっしょうけんめい ふねを こいでいる いめーじを かんがえる ことが できる。じぶんは うごいている つもり だけど、たどりつこうと した ところには いつも いなくて、 ただ きがついていなかった だけ なのだ。 あまり いい たとえばなし では ないな。 すでに たどりついていたのに たどりついていないと おもっている だけ という ありかたが たとえにくい。
はなしを もどして、 げんじつ である という ことは ある という こと である という のは、 りせいの かくしんでも でてきた。
つまり、 りせいの かくしんは、 じぶんの じつざいせいが げんじつせい である こと、 じぶんの げんじつせいが じつざいせい である こと で あった。
そして この りせいの かくしんを げんじつに していく うつりかわりが りせいしょう であった。
しかし、 りせいしょう でなければ、 しんじつの ありかたに おいて げんじつ である ことは ある という こと では ないの だろうか?
ちょっと わからない。 要調査。
しんじつの ありかた である からには、 げんじつは そんざいしていないと いけない という かんがえかたも できる かもしれない。
ほかの しょうで、 げんじつが どのように あつかわれているか あまり わからない ので わからない。

げんじつに なった ものや、 げんじつに なりうる ものは、そんざいしている のだから、 それじたいで ふへんてき である。
そくじ(即自)てきに ふへんてき である。
その なかに おいて ふへんてき であり、 それに とって ふへんてきで ある わけではない。
つまり、じっさいは ふへんてき なのだが、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきに とっては ふへんてきではない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 げんじつが じつは ふへんてきである という ことを しらない のである。
こころの ほうが げんじつに なっている という ことは、 ふへんてきな ありかたに なっている という こと である。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 げんじつが ふへんてきである という ことに きがつかず、 じぶんの こころの ほうが ただしい のに、 まわりが まちがえて こころの ほうを かんがえている から、 げんじつは まちがっている のだと かんがえる。
ここでは、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが、 げんじつ となる ほかの もの たちの こころの ほう である うぬぼれの さくらんと たいりつ している。
”worin”、つまり その げんじつの なかで、 まわりが うぬぼれの さくらん であると おもえる なかで、こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきの こたいせい、こじんせい、こたい である という こと、 こじん である という ことは、 ぼつらく していく(”vielmehr untergeht”(108ぺーじ)、「かえって没落していく」(575ぺーじ)。untergehenは たいようが しずむ、 ぼつらくする、 しぬ、めつぼうする、 (ひゆてきに)きえる、かきけされる という いみである。)。
つまり、げんじつの なかで、 こたいは こたいの ままでは あれない。
げんじつに したがうしか ないの である。

この こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんの ぼつらくは、 きもちいいの じこいしきの ぼつらく(”zugrunde gegangen”(106ぺーじ)、「没落し〔その根拠へといたり〔るび:ツーグルンデ・ゲーヘン〕〕」(564ぺーじ))を おもいださせる。zugrunde gehenは ほろびる、ほうかいする、せいぶつがしぬ、にんげんかんけいがはたんする という いみ である。
きもちいいの だんかいの じこいしきも、 こていてきで しんだ うんめい としての ひつぜんせいに よって、 じぶんの ままでは いられなかった。
ここでも ある いみで おなじように、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは こたい である こと、 じぶんじしん である ことが できなく なる。
しかし、 ちがいが ある。
きもちいいの だんかいの じこいしきの ぼつらくは、 きもちいいの だんかいの じこいしきに とって しか なく、 われわれに とっては、 こころの ほうの だんかいへの うつりかわり であった。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんの ぼつらくは、 ぎゃくに こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては なく、 われわれに とって ある のだ。
ただし、”um als diese unmittelbare Einzelnheit zu sein”(108ぺーじ)、「この〔「この」を きょうちょうしている。〕直接的な個別性〔「個別性」を きょうちょうしている。〕として存在し〔「存在し」を きょうちょうしている。〕ようとすれば」(575ぺーじ)である。um ... zu...は もくてきや いがいな けっかを あらわす。ここでは、 ちょくせつてきな こたいせい、こべつせい、こべつてきな ありかたは できない という はなし なので、 もくてき である。
「しようとすれば」と やくしているが、 「しようとしても」 と かんがえると いいと おもう。
この、こいつ としての ちょくせつてきな こべつの ありかたを しようとする けど、 げんじつに まけて、げんじつに ゆだねて、 したに いき、ぼつらく してしまう のである。

どいつご げんぶん 11

そして、 こべつせいが ぼつらくすると、” statt dieses seines Seins erlangt es also in dem Sein die Entfremdung seiner selbst”(108ぺーじ)、「「この」みずからの存在〔「みずからの存在」を きょうちょうしている。〕へと到達するかわりに意識は、したがって〔現実となった〕存在のなかでは、自分自身とは〔「自分自身とは」を きょうちょうしている。〕疎遠なものとなる〔るび:エントフレムドゥング〕にいたるのだ。」(575ぺーじ)。

どいつご たんご 11

stattは のかわりに という いみ である。
erlangenは をたっせいする、 にとうたつする という いみ である。

どいつご こうぞう 11

statt dieses seines Seinsが いちばんめの ようそで、 ぜんちしと ぜんちしのもくてきご である。
erlangtが にばんめの ようそで、 どうしである。
esが さんばんめの ようそで、 しゅご である。いしきを さす。
alsoが よんばんめの ようそで、 ふくし である。
in dem Seinが ごばんめの ようそで、dieses seines Seinsの じょうたい、 ある という ありかたに ある ことで という いみ である。
die Entfremdungは どうしの もくてきご である。
seiner selbstが さいごの ようそで、 にかくに なっている。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじん、いしきは じぶんが ある という ところまで いこうとする。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは そんざいする ように なろうとする。
しかし、じぶんが そんざい しようとした にも かかわらず、 じつは じぶんとは べつの ものに たどりついている のである。
めざした ところと べつの ところに たどりつく という たとえばなしを かんがえると わかる。
めざしていたのは、 じぶんが ある という こと だったが、 たどりついてみたら、 じぶんではない ものが ある のだ。
きもちいいの だんかいでは、 うんめい という ひつぜんせいが じぶんではない ものとして あった。
しかし、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが げんじつの ほかの もの、 つまり こころの ほうの だんかいの こじん、こたい から すれば うぬぼれの さくらんが ある のだ。
じぶんが じつは うぬぼれの さくらんで さえ あったのだ。

いきた ひつぜんせい

きもちいいの だんかいの じこいしきが したがう ことに なった、 うんめい という ひつぜんえしは しんだ ひつぜんせい であった。
「空虚で異他的な必然性としての、死せる〔「死せる」を きょうちょうしている。〕現実でえある自己」(564ぺーじ)などと かいていた。
しんだ というのは、 へんかが おこらない という ことであり、 こていてき であり、 しずか という いみでの せい(静)てき であり、 あんていしている のだ。
この うんめいとしての ひつぜんせいは、 「かみがみと にんげんたちの ちつじょ」(”goettliche und menschliche Ordnung”(109ぺーじ)) であると きもちいいの じこいしきは かんがえていた。
しかし、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが したがう ことに なる げんじつは、 しんだ ひつぜんせい ではない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが したがう ことに なる げんじつは、 ほかの ものの こころ という ふへんてきな こたいせい、こじんせいを つうじて へんかが おこる ような いきた ひつぜんせい である。
へーげるは いきている ものの ほうが、 しんでいる もの よりも すぐれていると かんがえていた。

かみの ちつじょと ひとの ちつじょ

”göttliche und menschliche Ordnung”
göttlicheは かみの、 こうごうしい という いみ である。 かみがみの という ふくすうの かみを ぜんていに した いいかた とは かぎらない。
menschlicheは にんげんの、にんげんらしい、にんげんせいにふさわしい、かんだいな、いちこじんの という いみ である。
つぎの いんようで わかる ように、 いろんな じだいに ついて いわれる ことば だった。
こだいぎりしあ だけでは なかった。
しんせいで にんげんてきな ちつじょ という やくが いいかもしれない。
かみと にんげんの ちつじょ である という のは、 うんめい という ひつぜんせいに ついての かみの、かみがみの ちつじょ でありながら、 きもちいい という にんげんの ちつじょ である。

いんよう

”Anläßlich der Aufstände in Süddeutschland ruft der König von Preußen die Bevölkerung auf, sich nicht gegen die "rechtmäßige Obrigkeit, göttliche und menschliche Ordnung" aufzulehnen. Gleichzeitig verspricht er dem Volk die Einheit der Nation und eine einheitliche Exekutive.”
An mein Volk! Unter dem Vorwande der deutschen Sache haben die Feinde des Vaterlandes [...],
1849-05-15. https://digital.zlb.de/viewer/metadata/1848_842747/1/
ぐーぐる やく
「ドイツ南部での蜂起の際、プロシア国王は国民に「合法的な権威、神聖で人間の秩序」に反抗しないよう呼びかけました。 同時に、彼は国民に国の統一と統一された行政を約束します。」

こっかの ちつじょ である。

”Paulus schildert sich selber als „der ich früher ein Lästerer und ein Verfolger und ein Frevler war“. Er sieht sich also als Versager, Loser und als ein aus bewusster Missachtung gegen die göttliche und menschliche Ordnung Verstoßender. Er selber hätte aus nur eigener Kraft und nur mit Bordmitteln immer munter so weiter gehandelt und die Anhänger jener damals neuen Religion frisch und herzhaft belästigt, ans Messer geliefert und auch noch für andere als nur Stephanus zu dessen Steinigung die Kleider gehalten. Darin sieht er sich gar als Sünder mit Goldmedaille: „unter denen ich der erste bin“, also ein in sich selber hoffnungsloser Fall.”
https://www.deutschegemeinde.fi/sermon/predigt-2019-07-07-helsinki/
Hans–Christian Daniel, Predigt am 3. Sonntag nach Trinitatis, dem 7. Juli 2019 
in der Deutschen Kirche in Helsinki.
ぐーぐるやく
パウロは自分自身を「冒涜者であり迫害者であり悪行者であった人」と表現しています。 それで彼は自分自身を失敗、敗者、そして神と人間の秩序に違反したことに対する故意の無視と見なしています。 彼自身は、機内のリソースだけで自分自身で行動し、その当時の新しい宗教の信者に新鮮で心から嫌がらせをし、彼らをナイフに届け、スティーブンだけでなく他の人のために服を石打ちにしたでしょう。 その中で、彼は自分自身を金メダルを持った罪人とさえ見ています。「私が最初の人の中で」、つまり、それ自体が絶望的な事件です。」

きりすときょうの ちつじょ である。

Unverkennbar waren die pergamenischen Erfolge über die kleinasiatischen Galater als ein wesentlicher Beitrag zur Rettung der griechischen Zivilisation präsentiert und zugleich in die Tradition der durch die olympischen Götter und später durch die Athener zur Zeit des Theseus und der Perserkriege geleisteten Abwehr fundamentaler Angriffe auf die göttliche und menschliche Ordnung eingereiht.
[1] Vgl. H.-J. Schalles: Untersuchungen zur Kulturpolitik der pergamenischen Herrscher im dritten Jahrhundert vor Christus, IstForsch 36, Tübingen 1985, 51 f. 106-109. 148; P. Strootman: Kings against Celts, in: K. A. E. Enenkel / I. L. Pfeijffer (Hg.): The Manipulative Mode, Leiden / Boston 2005, 118-134.
Andrew Stewart: Attalos, Athens, and the Akropolis
http://www.sehepunkte.de/2007/01/6987.html
ぐーぐるやくを さいとーが なおした もの
小アジアのガラテヤ人に対するペルガモンの成功は、ギリシャ文明の救済への本質的な貢献として間違いなく提示されました。 同時に、オリンピックの神々によって、そして後にテーセウスの時とペルシャ戦争の時にアテナイ人によって実行された神と人間の秩序に対する根本的な攻撃の防御は、伝統に組み込まれました。」

やばんじんに たいする、あてないの かみがみと あてないの ひとびとの ちつじょ。
「紀元前241年にアッタロス1世がエウメネス1世の後を継ぐと、ガラティア人に対しての進貢を止め、その結果起こった戦争でガラティア人を破った。」(「アッタロス朝」、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%82%B9%E6%9C%9D、 あったらすちょうは、 ぺるがもん おうこく である。)

ジュースミルヒが1741年に書いた『神の秩序』(Die Göttliche Ordnung in den Veränderungen des menschlichen Geschlechts, aus der Geburt, dem Tode und der Fortpflanzung desselben erwiesen)は彼の最も重要な作品であり、人口統計学の歴史において先駆となる作品となった。ジュースミルヒは出生率の性別比が長期的には女性1,000対男性1,050に収束することを発見、彼はこれを神の仕業の証明として扱った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%92

かみと ひとの ちつじょは しんでいた

”die es geltend vorfand, für eine tote Wirklichkeit”(109ぺーじ)、「この意識の〔かつて〕解するところでは、この「神々と人間たちの秩序」は、それが現に妥当するものとしてまえに見いだされるかぎり、死せる現実であった。」(576ぺーじ)
geltendは げんこうの(現行の)、ゆうこうな(有効な)、いっぱんに みとめられている、しはいてきな、だとうする という いみ である。
vorfandは である ことを みいだす という いみの vorfindenの かこきほんけい である。

vorfindenは あらたな じょうきょうで、 ある ところや ある じょうたいに あるのを みいだす という いみ である。 さいきどうし として つかうと ある という いみ である。
ここでは、 「たんに まえに みられた もの」 という いみで かんがえる べき だと おもう。
なぜなら、 つぎに もとに なる もの という いみの きげん(起源)、Ursprung という ことばが つかわれている から である。
もとに なる もの という いみの きげん(起源)は、 まえに ある だけで なく、 いまの もとに なる という こと まで ふくむ。
ひつぜんてきな もの として かんがえる という ことは、 もとに なる もの という いみで きげん(起源)と かんがえる という こと である。
これは われわれの たちば である。
いっぽう、 たんに まえに ある ものと かんがえるのは、 ある だんかいの いしきの たちば である。
(ここらへんで、 「形態」(569ぺーじ) という ことばが つかわれるのは、こうどうする りせいに ついての だんかい だけ かもしれない。)
ある だんかいの いしき、とくに こうどうする りせいに とって ある というのは、じぶんに とって ある という ある という こと だけだ。

こういう いままでの いしきの だんかい として かんがえる という いみと、 じぶんでは ない もの として かんがえる という いみの vorfindenが ある。
どちらの いみでも ありうる。
じぶんの もの ではない という もの として かんがえる ものを しんだ こていした ひつぜんせいと かんがえている。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが、まえの だんかいの きもちいいの だんかいの じこしきや うんめい としての ひつぜんせいを しんだ あんていてきな ものと かんがえる という こと も かんがえられる。しかし、 こっちは すじが わるいかな。 まえの だんかいを どう かんがえるかは われわれに とっての はなしだと おもう から。
いっぱんに かんがえらえる、 つまり ふへんてきに だとう(妥当)する、 ふへんてきに ゆうこう(有効)な もの として、じぶんではない うごかない しんだ げんじつ として、ちつじょ という ふへんてきな ものを、 きもちいいの だんかいの じこいしきは かんがえる。
きもちいいの だんかいの じこいしきに とって、じぶんではない ふへんてきな ものは、 しんだ げんじつ であった。

げんじつは じぶんだと わかっていなかった。

うんめいとしての ひつぜんせい であった、じぶん では ないもの としての ふへんてきな もの である ちつじょ である げんじつの なかに、 きもちいいの だんかいの じこいしきは いたと こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは きがつく。
しかし、きもちいいの だんかいの いしきは、 じぶんが げんじつ である という ことが わかっていなかった。
たしかに りせいに おいて、 じこいしきは げんじつが じぶん である ということ、 じつざいの すべて である という ことを かくしん していた はずだ。

「自己意識はじぶん自身が〔いっさいの〕実在であることを確信しているからである。ことばをかえれば、いっさいの現実が自己意識にほかならないことだ。」(369ぺーじ)

おそらく、 かくしん(確信)している から といって、 しっている わけではない という こと だろう。
ちゃんと かくしん(確信) では ない かたちで、 わかって しる ことが すぐれていると へーげるは かんがえていた。
ほんとうは きもちいの だんかいの こじん、こたいは という じぶんは、 いきていて、 うごいている。
われわれに とっては、 ほんとうは、 きもちいいの だんかいの じこいしきは しんでいない。
しかし、 きもちいいの だんかいの いしきは、 しんだ げんじつに たいして あって、 それに したがう しか ないと おもっていた。
うつりかわって、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに なると、 しんだ げんじつの なかに じぶんが いると わかる。
しんだ げんじつに たいして ある のでは なく、 しんだ げんじつの なかに あるのだと、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは わかるのだ。
つまり、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんも、 じぶんも あるいみで しんだ げんじつ であると おもうのだ。

こころの ほうの だんかいの こたい、こじん という いしきは、じぶんは 「この」 という ことばで さすことが できる こころ であると うごかない ように する。
「この」 という ことばは、 ちょくせつてきな こべつせいを あらわしている。
じぶんの こころは、 この こころ である。
この という ことば しか じぶんの こころを しめす ことは できない。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじん という いしきは、 こころ である。
こころは じぶんに かんけいして ある という ありかた である。
こころは たいじそんざい(対自存在) である。
こころは じぶんに とって じぶんが ある という ありかたを している。
こころ という ありかたは じぶんの ありかたを かんじる という かんじょう でも ある。


そして、 げんじつの なかに いる という ことは、げんじつに かかわっている という こと であった。
げんじつの なかに いる という ことは、 げんじつを つくっている という こと であった。
しかし、じぶんが げんじつを つくっている という ことを、 きもちいいの だんかいの じこいしきも こころの ほうの だんんかいの こたい、こじんも わかっていない。じかく していない。

どいつご げんぶん12

わからない

”worin, wie es selbst, das sich als dieses für sich seiende dem Allgemeinen entgegengesetzte Herz fixiert, so die ihr angehören, das Bewusstsein ihrer selbst nicht hätten; ”
(109ぺーじ)
「その現実にあって意識自身も――意識はみずからを「この」心情として、それだけで〔るび:フュール・ジッヒ〕存在し、普遍的なものに対立する心情として固定する――、この現実に参与する者たちも、その現実がじぶん自身であるとする意識を有してはいなかったはずである。」
(576ぺーじ)
ぐーぐる やく
「その中で、それ自体、普遍性に反対する心は、これがそれ自体のためであるとしてそれ自体を固定し、それに属する人々は彼ら自身の意識を持たないでしょう」

どいつご たんご12

fixeren よんかく もくてきごを こていする、かくていする、みすえる、anよんかくに しゅうちゃくしている

entgegengesetzteは どうしの entgegensetztenの かこぶんしの じょせいけい である。
さんかくの もくてきご、よんかくの もくてきご、entgegensetzten という かたちで、 さんかくの もくてきごに はんたい、 たいこうして、 よんかくの もくてきごを もちだす という いみ である。
(entgegenは なにかに そむく という いみ である。
entgegenは さんかくの もくてきごを ともなうが、 もくてきごの あとに ともなう ことも ある。
gesetzteは きめる という いみの どうしの setzenの かこぶんし である。
Gesetzは こころの ほうの ほうや、 ほうそく、 おきて という いみが ある。)

angehörenは さんかくの もくてきごに しょぞくしている という いみ である。「参与する」より 「しょぞく する」の ほうが いいのではない だろうか?

hätten
habenの接続法第2式第1人称複数形。
habenの接続法第2式第3人称複数形。
https://ja.wiktionary.org/wiki/h%C3%A4tten

せつぞくほうは、 はなしている じぶんが そのことを かくじつに ただしいとは ほしょうしない という ことを いみしている。だから、「意識を有してはいなかったはずである。」ではなくて、 「いしきを ゆうして いなかった であろう」ぐらい だと おもう。

どいつご こうぞう12

wie es selbstが わからない。くうらんは わからない。
worinが かんけいふくし である。
wie es selbst,
das sich
als dieses für sich seiendeが alsと その もくてきご である。
dem Allgemeinen entgegengesetzte Herzが さんかくの もくてきご である。
fixiertが どうしである。
so die ihr angehören,
das Bewusstseinが もくてきご である。
ihrer selbst nicht
hättenが どうし である。

すべての こころの ほう

”aller”(109ぺーじ)、「万人の」(576ぺーじ)、すべての いしきに よって、 げんじつは いきいきと されている。
げんじつは、 すべての いしきに よって できている。
げんじつは すべての いしきに よって うごかされる。
げんじつは、しんだ ひつぜんせい として うごかない のでは なく、 いきた うごく もの である。
げんじつは すべての こころの ほうで ある。
ひとつの この こころの ほう では ない。
じぶんの こころの ほうの ようには げんじつは ならない。
そのような げんじつは みんなの こころの ほう である。

こころの ほうの こたい、こじん という いしきが けいけん するのは、 げんじつは いのちを あたえられた ちつじょである という こと である。
せいしんげんしょうがくは いしきの けいけんの がく であった。
いしきが けいけんを する ことで、 だんだんと へーげるが かんがえる すぐれた ありかたに なっていくのだ。
いしきが けいけんする のは、 げんじつは いのちの ような すぐれた ありかたを している という ことだ。
いのちは おなじ いのち として つづくが、 なかみの それぞれの さいぼうなどの からだの ぶぶんは かわって うごいていく。
そのように げんじつは、 おなじ げんじつ として つづくが、 なかみは かわって うごいていく。
さいとー からすれば、 げんじつを とめなければ ならないが、 へーげるに とっては、 げんじつは つづく もの である。

いしきが けいけんする には こころの ほうを げんじつに する。

いしきが、 げんじつは みんなの こころの ほう である という ことを けいけんする ばあいは、 こころの ほうを げんじつに する のだ。
めざした じぶんの こころの ほう では なく、おこないに おいて、 じっさいは、 たどりつくのは みんなの こころの ほう である。
つまり、 たんに かんがえていれば、 けいけんできる という こと では ない。
ふるまわなくては けいけん できない のだ。
じぶんの もくてき とは ちがう ことを じっさいに する という じっさいの ふるまいを する ことに なる。
こころの ほうを げんじつに すると、 いしきが げんじつが じぶん であり、 みんなの こころの ほう である という ことを けいけんする。
じぶんの こころの ほうを げんじつに すると、 じぶんは みんなの なかの ひとり なので、 みんなの こころの ほうを げんじつに する ことに なる のだ。
みんなの こころの ほうは、 じぶんの こころの ほうと あるいみ では おなじ なのだ。
じぶんの こころの ほうが じぶんの もの である という のに たいして、 みんなの こころの ほうは みんなの もの である という ちがいは ある。
しかし、 みんなの こころの ほう という げんじつに、 じぶんの こころの ほうを その げんじつに する という ことが、とくの いしきに なる という こと である。

げんじつに する とは、じぶんを ふへんてきな たいしょうに する こと である。

じぶんの こころを げんじつに する という のは、まず こころの ほうの こたい、こじんの こたいせい、こじんせいを じぶんに とって たいしょうに する という こと である。
じぶん である ことを じぶんに とって ある という ありかたに する のだ。
たいじ・そんざいに する という こと である。
じぶんと じぶんを かんけい させる という こと である。
じぶんに とって じぶんが ある という ことは、 じぶんが どのように かんじるかを じかく する という こと である。
みんな という ふへんせいに たいりつ していた、 じぶん という こじんせい、こたいせいを じぶんが しる たいしょうに する のである。
たいしょうは ふつうは じぶん ではない。 じぶんを じぶんではない という ありかたを している たいしょうに する。
ただし、 じぶんを ふへんてきな たいしょうと する のである。
つまり、 じぶんが みんなと おなじで あると かんがえる のである。
みんなと おなじ じぶんを、 ある いみでは じぶんでは ない もの として、 たいしょうとして しる ことに なる。
これは じぶんと かんけいする という ありかた として、 へーげるに とっては すぐれている ありかたに なる こと では あるが、 いっぽうで、 われわれに とっては そう では ない という ことで、 いまだ あるいみで おとった ありかたに とどまる こと である。

げんじつに する とは、 どうじに、じぶんの ことを にんしき していない という こと である。

げんじつに する とは、 どうじに、じぶんの ことを にんしき していない という こと である。
じっさいは、しる ことに なる たいしょうは すべて、すでに それじたい としては、 われわれに とっては、 すでに じぶんに なっている。
しかし、この だんかいの いしき、 つまり こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが たいしょうの なかに ある とは おもっていない。
たいしょうは あくまで じぶんとは ちがう もの なのである。
じぶんとは ちがう もの として じぶんを わかる のである から、 まだ じぶん では ない ものが ある のだ。
われわれに とっては、 その じぶんでは ない ものも じぶん である のに。
だから、こころのほうを げんじつに する という ことは、 みんなの こころの ほう である ような、 げんじつに、 じぶんの こころの ほうを あわせているに すぎない のだ。
われわれに とっては みんなの こころの ほうも じぶんで ある のに、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに とっては、 じぶんを じぶん では ない ものに じつげんする、 げんじつに する、 ある ように する という ことを している つもり なのだ。
もちろん、 それまでの いしき しょう、じこいしきしょう、りせいしょうの かんさつする りせいは、 じぶんを げんじつに する という ことは ちゃんとは してこなかった という いみで、 こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 こうどうする りせい として、 へーげるに とって すぐれている。
じぶんを じぶんの あたまの なか だけ では なく、 しゃかいの なかで げんじつに する から である。
じぶんが たいしょうの なかに ある という ことが わかっていれば、 じぶんを げんじつに する という ことは できない。
すでに じぶん である ものを じぶんに する という ことは、 その いしきに とっては、げんじつに なる こと である とは いえない から である。
すでに げんじつ である ことを げんじつ なる ものに かえる ことは できない。
すでに げんじつ であるの だから、 げんじつ である ならば、 げんじつに する こと では ない。
かえる というのは、 そうではない ものから そうである ものに する こと である からだ。

b9

じこいしき

こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じこいしき である。
なぜなら、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 じぶんが こころ であり、 じぶんが こころの ほう である という ことを しっている から である。
いしきが、じぶんに かんけいしている こと、 じぶんが じぶんに とって ある こと、 じかく てき である こと、 たいじ・そんざい である ことが、 じこいしき である という こと である。
しかし、 ここまでは、 「いしき」とか、「こたい、こじん」という ことばを つかっていた ことに ちゅういする ひつようが ある。
なぜなら、すくなくとも、 へーげるに おいては「いしき」 よりも 「じこいしき」の ほうが すぐれている から である。
「いしき」の ほうが ちょくせつてきで、 「じこいしき」の ほうが かんせつてきで ある。
そう かんがえると、 「こたい、こじん」 というのは、 いしき より おとった ちょくせつせいと みる ことが できるの かも しれない し、
または、 じこいしきの あとの りせいしょう だから でてきた かんがえかた なのかも しれない。
さいしょから よみなおす ひつようが ある。

よみまちがえた ときの よみかたを のこしておく。
しんじつ
こころの ほうの だんかいの じこいしき から、 うぬぼれの さくらんの じこいしきに うつりかわり、 さらに とくの だんかいの じこいしきに まで うつりかわる という けいけんの はなしが でてくる。
この ときに、 こころの ほうの だんかいの じこいしき、 うぬぼれの さくらんの じこいしき、とくの だんかいの じこいしきに とって、 この けいけんから しんじつが わかる。
われわれに とっては、 それは すでに しっている ことで あり、 しんじつ では ない。
しかし、 この だんかいの じこいしきに とっては、 しんじつ である。
つまり、 めざした ところとは べつの ところに たどりついていると わかった という ことだ。
しかし、このように、 この だんかいの じこいしき という じぶんに とって、 じぶんに たいして、 たいじ(対自)てきに あると おもわれていた しんじつも、われわれに とっての、 じつは という ありかたの、 そくじ(即自)てきな、 それじたいの ありかたと むじゅんしている。
むじゅん という かんがえかたは、 よく わかっていない。☆
おそらく いっぽうに おいては ただしいと される けれど、 たほうに おいては まちがっていると されていて、 それでいて どちらも ただしい ばあいに むじゅんと いうのだと おもう。ほりゅう。

じこいしきに とっての しんじつ
だけど、はなしは たんじゅん では ない。
この だんかいの じこいしきが まちがっていて、 われわれが ただしい という だけでは おわらない。
なぜなら、 この だんかいの じこいしきは、 じぶんに とって じぶんの かたちは、 それじたいで、 じぶんに とって、 そして ぜったいてきに、ふへんてきな ありかた なのである。
こころの ほうの だんかいの じこいしき では、 みんなと おなじような しあわせを もとめていた。
こころの ほうの だんかいの じこいしきは、 こう なったら いつも こう おもって こう こうどうする はず である という こころの ほう、こころの きまりごと であった。
こころの ほうの だんかいの じこいしきは、 じぶんに たいして、 じぶんに とって、 じぶんと かんけいして、 じぶんが ふへんてきで ある という ことが わかっていた。
つまり、 それまでの じぶんは じぶんと かんけいなく じぶんで あると おもっていた だんかいとは ちがって、 ある いみで へーげるに とって すぐれた ところが ある のだ。
そして、 じぶんの ことが わかる という じこいしき、 じぶんと かんけいしている じこいしき という ありかたは、 こころ である じぶんが どのように うごくか という きまり、 つまり ほうを わかっている ので、 こころの ほうの だんかいの ほうは、 じこいしきと ちょくせつてきに ひとつ である。
ただし、 まだ こころの ほうの だんかい では、 ほうが じこいしきと かんせつてきに ひとつに なる という わけでは ないのだ。
つまり じぶんが じこしきで ある ことは まだ じかく できていない という こと だろう。
じぶんは ほうを りかい しているが、 じぶんが ほうを りかいする という ほうは まだ わかっていない。

よみまちがえていた ときの よみかた ここまで。

ず(図)

よみにくかったので、 ず(図)を かいて よんだ。 せつめいは はぶく。 めが みにくい ものは、 れんらくを くれれば、 なにかしら する。ごめんなさい。

f:id:hunihunisaito:20210331095548j:plain
しんじつと むじゅんする じぶんに とって ある ことが こころの ほうに いくまで
f:id:hunihunisaito:20210331095646j:plain
こころの ほうが じぶんに とって あり、 じぶんと ちょくせつに ひとつ である
f:id:hunihunisaito:20210331095728j:plain
いきている ちつじょも じぶんであり、 じぶんが つくり、 こころの ほうと たいりつする
f:id:hunihunisaito:20210331095838j:plain
いきている ちつじょも じぶんと ちょくせつ ひとつ であり、 じぶんは おくそこで さくらん している
f:id:hunihunisaito:20210331095944j:plain
こころの ほうが じぶんであると わかり げんじつに なると、 ふへんてきな ちつじょが じぶんが ある という げんじつに なる
f:id:hunihunisaito:20210331100040j:plain
こべつは ある という かたちで、 ふへんは じぶんの げんじつ という かたちで、 いしきの なかで たがいに はんろんする
ずから ないもの

「存立する」と「それ自体そのものとして矛盾しており」(577ぺーじ)は ずに かけなかった。
そんりつする とは、bestehende という ことば である。
bestehenは ある とも そんざいする とは ちがう のである。
beは つづく という いみ である。 stehenは たっている という いみ である。
ある とか、そんざいすると いうと じぶんに とって ある、 じぶんに おいて ある などの はなしが はいってきてしまう からだ。
だから、 ちつじょは ある のでは なく、 そんりつ する のである。

” Dieses ist auf diese Weise, einer gedoppelten entgegengesetzten Wesenheit angehoerend, an sich selbst widersprechend”(109ぺーじ)
「自己意識はこのようにして、対立した二重の本質なありかた〔るび:ヴェーゼンハイト〕にぞくするものであるがゆえに、それ自体そのものとして矛盾しており」(577ぺーじ)

ありかたが ふへんてきで ありながら、 こべつてき である。
つまり、 ほんしつ でも ある ありかたの ふたつの ありかたが それぞれ、 たがいに はんろんしている、 たがいに むじゅんしている という はなし である。
この ことを じこいしきは じぶんに はんろんしている、 じぶんと むじゅんしていると いっている のである。
つまり、 じこいしきは ふへんてき である ので、 こじんてきな じこいしきと むじゅんしている。
そして、 じこいしきは こじんてき、こたいてき である ので、 ふへんてきな じこいしきと むじゅんしている。

さくらん

”im Innersten zerrüttet. ”(109ぺーじ)「その深奥にあって錯乱している」(577ぺーじ)
さくらんしている というのは、 ちつじょが ない という いみだと おもう。
Innersteは こころの おくそこ、かくしん、さいないおうぶ、 という いみ である。
zerüttetは こころや からだを そこねる、がいする、きずづける、むしばむ、かいていやざいせいなどをこんらんさせる、ほうかいさせる、はかいする という いみの どうしの zerüttenの げんざいけいの かつようである。

1. (körperlich oder geistig) völlig erschöpfen
BEISPIELE
-etwas zerrüttet jemanden seelisch, körperlich
ーdie Aufregungen haben ihre Gesundheit zerrüttet (untergraben, ruiniert)
ーsie hat völlig zerrüttete Nerven
2. völlig in Unordnung bringen; das Gefüge, den Zusammenhalt, Bestand von etwas zerstören
BEISPIELE
ーdie dauernden Streitigkeiten haben ihre Ehe zerrüttet
ーzerrüttete Familienverhältnisse
https://www.duden.de/rechtschreibung/zerruetten
さいとー やく
1. (からだ てきに、 こころ てきに)かんぜんな つかいはたす/つかれはたす
れい
ーなにかが だれかを かんじょうてき、 からだ てきに そこなう
ーさわいだ せいで、 けんこうが そこなわれた(うしなわれた、だめになった)
ーしんけいを かんぜんに そこなった
2. かんぜんな むちゃくちゃに する。 こうぞう、 つながり、つづくものを こわす
ーけんかが つづいて けっこんせいかつが はたんした
ーはたんした かぞくかんけい

この たんごは、 ほかの ところでは いっかいしか つかわれていない ようだ。
”Verruecktheit zerruette” (そこなわれた くるい)(196ぺーじ)
けいようし だと

[durch zu große Aufregung, Anstrengung, Belastung] (körperlich, seelisch) in Unordnung geraten, sehr erschöpft

BEISPIELE
eine zerrüttete Gesundheit, Ehe, Familie
sie kommt aus zerrütteten Verhältnissen
https://www.duden.de/rechtschreibung/zerruettet
ぐーぐるやく
「[興奮、労作、緊張が多すぎるため](肉体的、精神的)無秩序で、非常に疲れている

壊れた健康、結婚、家族
彼女は壊れた状況から来ています」

という いみ である。
しかし、 「さくらん」の ような いみは むかしの どいつごには あった ようだ。
„ZERRÜTTEN, verb.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=z04759, abgerufen am 31.03.2021.

どいつご げんぶん13

Was also dieser Gestalt des Selbstbewusstseins aus ihrer Erfahrung als das Wahre hervorgeht, widerspricht dem, was sie für sich ist.
109ぺーじ

「個体のふるまい〔るび:トゥーン〕には、〔個体が普遍性に対抗しようとする以上〕それゆえ顚倒された意義があることになる。それは、普遍的な秩序と矛盾し、これに抗議する〔「矛盾し、これに抗議する」を きょうちょうしている。〕(widersprechen)というものであって、それも、個体のなすところ〔るび:タート〕は個体の〔「個体の」を きょうちょうしている。〕個別的な心情からなされたこと〔るび:タート〕であるはずであり、自由な普遍的現実であってはならないからである。」
573ぺーじ

どいつご たんご13

ausは さんかくの もくてきごを ともなって、 のなか から という いみ である。
Erfahrungは けいけん という いみの じょせいめいし である。
hervorgehtは から うまれる、 から あきらかになる という いみの どうし、aus さんかくの もくてきご hervorgehenの げんざいけいの かつよう である。hervorは そとへ、 てまえへ という いみ である。
widersprichtは さんかくの もくてきごに はんろんする、 さんかくの もくてきごと むじゅんする、 あいいれない という いみの どうし、 widersprechenの げんざいけいの かつよう である。

どいつご こうぞう13

なぞ。 Was せつのしゅご せつのじゅつご、 じゅつご もくてきご、 was せつのしゅご じゅつご という かたちは いいが、 さいしょの wasが せつの なかで めいしと して はたらいていない のだろうか?☆要調査。

ふへんと こたいが あわない ことが widersprechen だと おもわれる。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは、 ふへんてきな ちつじょに widersprechenするが、
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんが うつりかわりで、 しんじつに たどりつく とき、
しんじつの ありかた である ふへんてきな ありかたが、 こじん、こたいが じぶんと かんけいして ある という ありかたに widersprechenする。

じこいしきに とって むじゅん しあっている、はんろんしあっている

”was in seinem Bewusstsein sich also widerspricht, ist beides in der Form des Wesens und seiner eignen Wirklichkeit für es.”
109ぺーじ
「自己意識の意識するところにおいて、したがってたがいに矛盾するものについていえば、それらは双方ともに、本質という形式のうちでも、じぶん自身の現実という形式のなかでも、自己意識に対して存在しているのである。」
577ぺーじ

ここらへんの どいつごの げんぶんは すべて きょうちょう されているが、 まちがい だと おもわれる。 ほかの ばーじょんを かくにんしていない ので かくにんできていない。
inは さんかくの もくてきごを ともなって、 のなかで、のしかくで、のありかたで という いみで ある。
さんかくの sich よんかくの もくてきご in Bewusstsein zurürckkrufen という かたちで、おもいだす という いみで ある。
beidesは ちゅうせい たんすうで めいしと どうかくで、 りょうほうとも という いみ である。
ここでは、 ふたつの かのうせいが かんがえられると おもう。
beidesを しゅごと どうがくであると かんがえる よみかた。 たがいに むじゅん しあう、 たがいに はんろん しあう、 こべつと ふへんで たいりつ する ものは どちらも じかく されている。 そして、 こじんてきな ありかたは ある という かたちで あり、 ふへんてきな ありかたは じぶんが ある、 または じぶんに とっての げんじつ という かたちで ある。
beidesを inを せつめいする ものだと かんがえる よみかた。 たがいに むじゅん しあう、 たがいに はんろん しあう、 こべつと ふへんで たいりつ する ものは、 それぞれで ある という かたちで じかく され、 それぞれで じぶんの げんじつ として じかく される。

b10

みだれた じこいしき

どいつご げんぶん14

Indem es dies Moment seines sich bewussten Untergangs und darin das Resultat seiner Erfahrung ausspricht, zeigt es sich als diese innere Verkehrung seiner Selbst, als die Verrücktheit des Bewusstseins, welchem sein Wesen unmittelbar Unwesen, seine Wirklichkeit unmittelbar Unwirklichkeit ist
109ぺーじ
「自己意識はみずからの没落を意識している。自己意識はこの没落という契機を言明し、またそうすることでじぶんの経験から帰結することがらを言明している。そのことによって自己意識がみずからをしめすところによれば、自己意識とはそれ自身がこのように内面的に顚倒されたものであり、意識の錯乱なのである。つまり自己意識にとってじぶんの本質〔るび:ヴェーゼン〕がただちに本質ならざるもの〔るび:ウンヴェーゼン〕であり、みずからの現実〔るび:ヴィルクリッヒッカイト〕がただちに非現実的なありかた〔るび:ウンヴィルクリッヒカイト〕なのだ。」
577ぺーじ

ぶんせき14

「自己意識はみずからの没落を意識している。」
sich bewusstenの ぶぶんの やく である。
ぼつらくは Untergangsで、 まえも でてきた。

”vielmehr untergeht”(108ぺーじ)、「かえって没落していく」(575ぺーじ)。untergehenは たいようが しずむ、 ぼつらくする、 しぬ、めつぼうする、 (ひゆてきに)きえる、かきけされる という いみである。

ただし、 ほんらいは、 「みずからを ぼつらくと いしきしている ところの みずからの ぼつらく という けいき(契機)」 という いみの めいし である という ことに ちゅういする。
いみは、 こころの ほうから うぬぼれの きょうきに うつりかわった じこいしきは、 じぶんが みんなの ひとりに なってしまい、 じぶん という こじんてきな、こたいてきな、こべつてきな ありかたが なくなってしまう ことを わかっている。 こべつせいが ふへんせいに よって なくなる ことが ぼつらく であった。
きもちいいの だんかいの じこいしきは、 じぶんが みんなに まきこまれて、 じぶんが みんな でしか ない という ことに きがついていない。
きもちいいの だんかいの じこいしきは ただ ちょくせつてきに じぶんが みんなと ひとつ なのである。
しかし、こころの ほうの だんかいの こたい、こじんに なり、 じぶんが みんなと おなじ こころ である という ことを かくしんして、 こころの きまりを しる ように なる ことで、 ただ みる だけではな なくて、なにかを する ことに なる。
そして、 ひとりよがりの きょうきの じこいしきに なり、 みんなが こころの きまりに あっていないと おもい、 じぶん だけが こころの きまりに あっているのだと おもうが、 じぶんは げんじつに おいては みんなに まけて きえるのだ という ことも わかっている のだ。
なぜなら、ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんは こたい、こじん、こべつ でありながら、 じつは じぶんは みんな、 ふへん である ことを しっている からだ。
こころの ほうの だんかいの こたい、こじんは みんなに たいして はんろんしていて、 むじゅんしていた。
しかし、 ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこいしきは、 みんなの ような ありかたが じぶん こべつの ありかたに はんろんしていて、 むじゅんしていると わかっている。
なので、 ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんが じぶんに はんろんする という ありかたを している。
しかも、 それは ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこしきに とって、 じぶんと じぶんが たいりつしている という だけ ではなく、 われわれに とって、 それじたいとして、そくじてきに、 じぶんと じぶんが むじゅんし、 はんろんしあっている という ことに なる。
じぶんが じぶんと たいりつ する という ことは、 せいしんげんしょうがく では すべての だんかいで おこる こと だろうが、 それ じたい として、 われわれに とっても じぶんと じぶんが むじゅんしている ような ありかたは うぬぼれの きょうきが はじめて なのだろう。 もしかしたら、 ここ だけ なのかもしれない。
それまでは、 ちつじょに のっとった じぶんが、 じつは わかっていなかった けど べつの ちつじょに のっとった みんな であったと きがつく のに たいして、
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんが ちつじょに のっとっておらず(さくらんしており)、 みんなも ちつじょに のっとっていない(さくらんしている)と おもっていて、 じっさいに われわれに とっても その とおり なのである。

「自己意識はこの没落という契機を言明し、」
じこいしきは、 じぶんが ぼつらく する、 めつぼうする、 きえていく という ことを ことばで あらわす。
ことばで あらわせるのは、ぼつらく という とき、じょうきょうが じぶんに とって ある から である。
つまり、 じぶんが ぼつらくしていると じかく している から、 その ことを ことばに あらわせる のである。
ことばに あらわす という のは、 ausspricht という aus、 なかから、 sprechen、はなす という たんごが くみあわさった どうし である。
つまり、 ことばに あらわす という のは、 じぶんの うちがわに あった むじゅんや はんろんを じぶんの そとがわに だす こと なのである。
ここで、 むじゅんや、 はんろんを いみするのは、 widersprechen という sprechen という おなじ ことば から できた ことば である という ことにも ちゅういする。
そして、 ことばで あらわす ことが できる というのは、 ちょくせつてき では なく、 かんせつてきに しる ことが できる という ことを いみする。
つまり、 ことば という べつの ものを つうじて かんせつてきに ものごとを しる ことが できる という こと なのである。

「またそうすることでじぶんの経験から帰結することがらを言明している。」
じぶんの けいけんから きけつ する こと、 つまり じぶんの けいけんの けっか という のは、 b8 では、 つぎの ように かいていた こと である。

こころの ほうの こたい、こじん という いしきが けいけん するのは、 げんじつは いのちを あたえられた ちつじょである という こと である。
せいしんげんしょうがくは いしきの けいけんの がく であった。
いしきが けいけんを する ことで、 だんだんと へーげるが かんがえる すぐれた ありかたに なっていくのだ。
いしきが けいけんする のは、 げんじつは いのちの ような すぐれた ありかたを している という ことだ。
いのちは おなじ いのち として つづくが、 なかみの それぞれの さいぼうなどの からだの ぶぶんは かわって うごいていく。
そのように げんじつは、 おなじ げんじつ として つづくが、 なかみは かわって うごいていく。

つまり、 げんじつが いきいきとして かわっていく もの である という ことを ことばに する ことに なる のだ。
じぶんの けいけんの けっかを ことばに する ことが できる というのは、この だんかいの うぬぼれの きょうきの じこいしきに とっては そのような いみを もっていない かもしれない。
しかし、ことば という べつの もので あらわす ことで、 その ことばは じぶんの もの では なくなり、 みんなで かえていく ものと なる。
すると、 じぶんが かんがえていた わけ では ない いみを ことばが もつ ように なる。
こうどうが こうどうする りせいしょうでは もんだいに なっていたが、 ここでは こうどうの なかでも ことばで あらわす ことが もんだいに なっている。
ことばを つかわない こうどうが ちょくせつてきな もので あった のに たいして、 ことばで あらわす ことは かんせつてき である。
へーげるに とっては、 かんせつてきで ある ことが より すぐれていた。
ちょくせつてきに しっている というのは、 こべつてきに しっている という こと であり、 かんせつてきに しっている というのは、 ふへんてきに しっている という こと だから である。
ことばで、 じぶんは みんなに よって じぶんでは なくなっている のだ という ことを いうと、 みんなが それぞれ じぶん であり、 かわっていく もの なのだ という ことを ことばで あらわしている ことに なるの だろう。

「そのことによって自己意識がみずからをしめすところによれば、」
みずからを しめす というのは、 じぶんが どのような もの であるかを しめす ことに なる という こと である。
しめす という ことばが つかわれている ことに ちゅういする。 のちのち でてくる かもしれない。

「自己意識とはそれ自身がこのように内面的に顚倒されたものであり、」(innere Verkehrung)
ないめんてきに てんとう された という のは、じぶんが こべつてきな じぶん であると どうじに、 ふへんてきな じぶん である という みだれた ありかたを している という こと である。
ないめんてき というのは、 うちがわ という いみの たんご であり、 おくそこ という ことばと つながっている。

”im Innersten zerrüttet. ”(109ぺーじ)「その深奥にあって錯乱している」(577ぺーじ)
さくらんしている というのは、 ちつじょが ない という いみだと おもう。
Innersteは こころの おくそこ、かくしん、さいないおうぶ、 という いみ である。
zerüttetは こころや からだを そこねる、がいする、きずづける、むしばむ、かいていやざいせいなどをこんらんさせる、ほうかいさせる、はかいする という いみの どうしの zerüttenの げんざいけいの かつようである。

てんとう であるVerkehrungは、 てんとうされた ちつじょ という ことばで、 まえに でてくるverkehrteと つながっている。
ここでは、 てんとう というと、 はんたいに している ように おもえるが、 ちつじょの はんたいを べつの はんたいに なった ちつじょと かんがえては いけない。
ここでは、 さくらん、みだれ であるzerüttet と おなじ ことを いっていると かんがえて、 ちつじょ じたいの はんたい、 つまり むちつじょを あらわしていると わかる。

verkehrteは けいようしの verkehrtの じょせいけい である。
verkehrtは ぎゃくの、 まちがった、 せいはんたいの という いみ である。
(verkehrtは、 どうしの verkehrenの かこぶんし である。
verkehrenは ぎゃくのものに てんか(転化)する という いみである。
たとえば、Tatsachen verkehrenで しんじつを わいきょくする という いみに なる。
kehrenは うらがえす、てんじる という いみ である。)

そして、 この むちつじょ である てんとう、さかさまは、ひとりよがりの きょうきに とっては じぶんじしん なのである。
ひとりよがりの きょうきの だんかいの じこしきは、 それじたいで、うちがわから、 さかさまで むちつじょに なっている のだ。

「意識の錯乱なのである。」Verrücktheit
さくらん、みだれ であるzerüttetの めいしの かたちで、 あるいみで くるっている という いみにも なる ことば である。
さて、 とても だいじな ことを かく。
「くるっている」を わるい ことを あらわす のに つかう ことは、 わるい。
「くるっている」 というのは じょうきょうを あらわす ために つかえる ことは ある かもしれない。
せいしんしょうがいを もっている じぶんの ことを、 しゃかいを ひはんする いみで つかう いがいは だいたい さべつ である。
しかし、 ひはんの ために つかったら ほとんど かならず さべつを いみする。
つまり、 わるい。
たんてきに いえば、 せいしんしょうがいしゃ さべつ である。
そして、 わるい ことは だいたい くるっている から している のでは なく、 くるっていない から している のだ という ことを しる ひつようが ある。
わるい ものを くるっている という ことで、 じぶんは くるっていない から わるくないと まちがって あんしんしてしまう のである。
まちがっている だけ では なく、 わるい。
くるっている ことは わるくない。 わるい ことが わるい のである。
ひはんする べきは、 ひなんする べきは、 わるい こと である。 くるっている こと では ない。
さて、 では へーげるは くるっている という たぐいの ことばを どのように つかっている だろうか。
この あとに きょうき という ことばが ちょくせつ でてくるが、すぐれている もの としては かいていない ことは わかる。
しかし、 それは へーげるに おいては じぶん いがいは すべて すぐれている もの としては かいていない のだ。
ただし、 かがくてきな がくもん よりは すぐれていて、 しゅうきょう よりは すぐれていない という ように かんがえていたと かんがえる ことも できる。
しかも、 ここでは へーげるは せいしんしょうがいの ことを かんがえているか どうか わからない。
なぜなら、おそらく ふらんすかくめいを ここでは かんがえていると おもえる から である。
べつに ふらんす かくめいは せいしんしょうがいしゃが おこした かくめい では ない。
しかし、 へーげるは ふらんすかくめいを さいしょは よろこんだが、 ふらんすかくめいが わるい ことを ひきおこしたと かんがえて ひはんてきに なっていた。
その ように かんがえると、 へーげるも くるっている という ことばを わるいと おもう ものに つかっている という いみで、 わるい。
ただし、 ほぼ かくじつに わるい だろう という だけ であって、 この じだいの どいつごや しゃかいじょうせいが わからない ので、かくじつ には いえない。

へーげるは ここでは、 じぶんが じぶんに とって ふへん でありながら こべつ である という ことを 「さくらん」(みだれ)、「てんとう」(ぎゃくの もの)、 むちつじょ という ことばで あらわしている のだ。
じぶんが じぶんに はんたいしあっている という かんけいを していると じかくする ことを へーげるは 「さくらん」(みだれ)、「てんとう」(ぎゃくの もの)、 むちつじょと あらわしている のだ。(もちろん、 さくらん という ことばが きょうき という ことばと おなじ ように せいしんしょうがいしゃに つかわれる さべつてきな ことば なので、 わるい あらわしかた である。)

ひとりよがりの きょうき という じこいしきに とっては、 ある という ことは、 そう では ない ものと おなじ であり、 げんじつは そうではない ものと おなじ である。
つまり、じぶんの こべつてきな ありかた という ある という ことが、 どうじに こべつてきに ある という わけ では ない ふへんてきな こと である という こと である。
そして、 じぶんの ふへんてきな ありかた という げんじつが、 どうじに ふへんてきな げんじつ では ない こべつてきな こと である という こと である。

きょうき でも ひと それぞれ でも ない。

へーげるは ここで 「さくらん」(みだれ)と にた ことばを もちだしてきて、 それらの いみ では ないと ことばを げんていしている。
まず、 「さくらん」(みだれ)は それぞれの こじんに とって げんじつが ちがう という こと では ない。
つぎに、 「さくらん」(みだれ)は、 ひとつに まとまった もうそうの たいけいを つくる ような「きょうき」では ない。
もし、 せいしんぶんせきの ことばを つかう ならば、 ここでの 「さくらん」は ひにん(否認)を する こと である。
ひにん(否認)とは、 「これは こうだ、 いや こうではない」と いっきに むじゅんした ことを いう こと である。

おなじように、 「さくらん」(みだれ)、むちつじょは、 さだまった ありかたを せず、 おなじ ものが おなじ ことを むじゅんする ように とらえる という こと である。
みんな ひと それぞれ という はなしは、 ひとの それぞれ、 つまり ひとり ひとりの なかでは ちつじょが ない ことを あらわしていない。
もうそうてきな 「きょうき」 という はなしも、 ひと それぞれ という はなしと いわば おなじ はなしかたで ある
その 「きょうき」である ものの なかでは いっかんしている、 ちつじょが あるが、 ほかの ものには いっかんして みえない、 むちつじょであると おもう という はなし である。
「さくらん」(みだれ)、むちつじょは、 ちつじょが ない こと であり、 あるときは こういって、 つぎには こうではないと いう という ちつじょの なさを あらわしている。

だから、 いっぱんに げんじつ という ものは、 ひと それぞれだ という はなしでは ない のだ。
ひと それぞれ という ばあいは、 げんじつと げんじつ では ない ものが べつの ものに なっている。
しかし、 「さくらん」(みだれ)、むちつじょ という ばあいは、 げんじつと げんじつ では ない ものが わかれていない のだ。
「さくらん」(みだれ)、むちつじょ という ばあいは、 ある ことと ある わけ では ない ことが わかれていない のだ。
そして、 「さくらん」(みだれ、こんらん)は、 「うぬぼれの きょうき」、「ひとりよがりの きょうき」 では あっても、 「きょうき」 では ない のだ。

この ような ことを へーげるは どのように かいている だろうか?
まず、 へーげるは、 「いしき いっぱん」と 「わたし」を くらべて かく(578ぺーじ)。 いしき いっぱんに とっては げんじつ だが、 わたしに とっては げんじつ では ない という、 ひと それぞれの ことを かんがえる。
いしき いっぱんに とって ある ことが げんじつ であり、 わたしに とって ある ことが そんざいする こと、 ある こと である のだから、 げんじつを ある とか ほんしつ とかに いれかえる ことは できない。
すると、わたしも いしき いっぱんの ひとつ である ので、 いしき いっぱんに とって げんじつ である という ことが わかりながら、 しかし それでも じぶんに とっては げんじつ では ない という いっかんした たいりつが できる。
この ばあいの わたしは こころの ほうの だんかいの こたい、こじん である。

つぎの ぶぶんは、 へーげるが きょうきを どのように かんがえていたかを かんがえる うえで だいじ なので、 いんようする。

「さらに、〔現実性の意識と非現実性の意識といった〕両者が固定される場合には、これは一箇の統一であるにしても、ふつう「狂気」といわれる統一なのである。――このような〔ふつうの〕狂気であるならば、しかしただ対象〔「対象」を きょうちょうしている。〕だけが意識に対しては錯乱し〔たかたちであらわれ〕ている。つまり意識そのものが、意識自身において、また意識自身に対して錯乱しているわけではない。」
578ぺーじ

どいつご げんぶん15

けっきょく にほんごやく だけ では わからない から、 どいつごを かくにんする ことに なる。

(Wenn etwas in der Tat fuer das Bewusstsein ueberhaupt wirklich und wesentlich, fuer mich aber nicht ist, so habe ich in dem Bewusstsein seiner Nichtigkeit, zugleich da ich Bewusstsein ueberhaupt bin, das Bewusstsein seiner Wirklichkeit,)
und indem sie beide fixiert sind, so ist dies eine Einheit, welche der Wahnsinn im Allgemeinen ist. In diesem ist aber nur ein Gegenstand für das Bewusstsein verrückt; nicht das Bewusstsein als solches in und für sich selbst.
109ぺーじ

どいつご たんご15

indemは そうすることに よってや している あいだに、 ふくしで そのあいだに という いみ である。
sieは sindという かつようを しているので、 ふくすうけい である。わたし という いしきと いしき いっぱん だろう。
soは ふくぶんの あとの しゅぶんに おいて せんとうに きて そのばあいには という いみ になる。
diesは これ という いみの たんすうちゅうせいの いちかく である。いしきは わたし でも あり いしき いっぱんでも ある という いみで ひとつ である。
welche を まえの ぶん ぜんたいを せんこうしとする かんけいしと かんがえた。
Wahnsinnは きょうき、せいしんさくらん、じょうきを いっした こうどう という いみ である。 この ことばは さべつの ことば である。
Wahnは もうそう、げんそう という いみ である。sinnは いみや りかいりょく という いみ である。
Gegenstandは もの、たいしょう、きゃくたい、てーま という いみ である。
「いしきにおいて」と あるが、 「いしきの なかで」が よい だろう。

きょうきの つかいかた

せいしんげんしょうがくは せいれき 1807ねんに かきおわった。
(1)の かんとの ぐたいれいに とくに ちゅういした。

ぐーぐるやく
「WAHNSINN、m。精神障害、ここで、前述の人間の病理学的空想は、直面している、無益にさらされています。 subst。 形容詞より若いです。 非常識(s。d。)であり、1780年頃から頻繁に発生します。これは、以前の妄想的な熱心さであり、妄想的に調べられた妄想的なジョークですらあります。 ルターはすでに現在の意味でこの単語を使用しました(1未満)、マテシウスも(4)を持っていますが、辞書にはありませんが、「意見」の場合は「安全でない意見」がリードしているシュティーラーを除きますそれ、そして再び貴族を除いて。 それ以来、それは文学にも登場しています。 またndl。 waanzin、スウェーデンのvansinne。
重要性。
1)一般に、狂気は妄想に現れる精神疾患です。狭義には、患者が感覚的に考えるが、想像力と実際の知覚を区別することができなくなった状態を表します。妄想とは、物事の単なる表現を物事自体と同じであると見なす欺瞞です。 ...狂気でさえこの名前を持っているのは、それが単なるアイデアをとるために使用されているからです...物自体の現在のためにそしてそれを評価するためにも。カント61、350;熱意が狂気である場合、熱意は狂気と比較されます。 7、129(判断力の批判);私はそれら(邪魔された頭の病気)を次の3つのカテゴリーに分類できると信じています:第一に、経験の概念の誤り、脱臼、第二に、最初はこの経験で、狂気、第三に、より一般的な判断に関して、理由は妄想で倒錯しました。 10、13(対頭の病気について);生殖の想像力によってアイデアに執着することは、精神の弱点の1つです。 ...これが悪い習慣になると...それは非常識であることが判明する可能性があります。 10、220(人類学§45);狂気(認知症)とは、狂人が話すことはすべて、経験の可能性について考える正式な法則に従っているため、精神の混乱ですが、想像力自体によって作られた想像力は知覚と間違えられます。 10、230(人類学§50);病気が深く根付いていて、(想像力の)その流れを止めることによって、外部の知覚に注意を向けることができなくなり、想像力でそれに反対することができなくなった場合、それは狂気を熱くします。 J. G. Fichte 2、559;感覚と想像力の不一致は、人々が想像力を実際に感じられる物体の表現と見なし続けるように導く、狂気です。ホフバウアー心理学。調査。狂気について3(1807)、21; 3番目の形式(ケルソスのインサニア)は最も長く続きます..、病気の人は肉体的には卑劣です(狂気)。それは2つの異なる方向を取ります。幻想は単に誤ったイメージ(狂気)を提示するだけです。または、精神が間違った概念(狂気)に縛られています。魂の生活の混乱に関するハインロスの教科書(1818)1、81;しかし、それ(推論の妄想)は狂気と同じくらい小さな特異な種であり、それは精神の本当の病気として説明されており、奇妙な方法でそれを狂気に帰するために自然現象から無意味な結論を導き出します官能的な軽蔑は、どの常識が間違った官能的な考えから正しい結論を引き出すかを区別します。 Ideler Grundrisz der Seelenkunde(1838)2、448:狂気...(多かれ少なかれ)単なる想像上のアイデアと官能的な知覚との(多かれ少なかれ)絶え間ない混乱。心理学のベネケ教科書2359.新しい薬はまた、狂気を他の精神疾患とは異なる方法で区別します(多くの場合、個々の症例で異なります)。ただし、言語の通常の使用法はこれらの区切りに従いません。区別:部分的、完全な狂気;定期的で永続的な狂気;特定のアイデアにしがみついている狂気を修正しました。好色で宗教的な狂気、酩酊、迫害の狂気。憂鬱で静かな狂気:/ Vol。 27、列677 /
すでに殺人の渇きがあったので
静かな狂気に、ささいなことに負けました。
Mörickeged。 238。

狂気と狂乱の間の境界線でさえ、怒りは鋭くありません:ベラツィオ。ここでは、硬化やいんちきについて話しているのではありません。想像力で想像力をカレーできたら、傑作になります。男爵。それによって私たちは彼女を狂気からラセリーに投げ込むことができました。ゲーテ11、55(紫)。一方、一致する:
彼(カール)は猛烈に飛び上がった、
彼の仲間の囚人に落ちた、彼を危険にさらす
信じられないほどの力で、地面に、
彼を絞め殺そうと努力している。
シラー12,575(M。スチュアート5,13);
怒りによるオレステスの抑圧は、盲目の破壊的な狂気の定期的な攻撃でそれ自体を表現しています。 H.グリムの断片。 1、82。狂気はほとんどナンセンスとは異なります。つながり:主は狂気、失明、そしてレーシングハートであなたを叩きます。 5モス。 28、28。狂気に陥り、ラッピング:
不貞な女性でさえ、毒きのこで亡くなりました。
そして、彼女がこれらすべてを扇動したので、カササギは怒った。
プラテン262(m。フォーク3)。
狂気の夜というフレーズは人気があります:
淡い頬からもつれた髪をブラッシングし、
目は乱暴に動き、休むことなく、
狂気の夜をさまようウィスプ。
レナウは老いた。 1、299(1857);
狂気の夜は彼の頭のために戦った。
2、378。

2)狂気はまた、特に情熱の呪文の下で、反射の1つを奪い、明確な判断が曇る興奮の状態を表します。この使用法は次のようなフレーズで紹介されています:本当に、リュシアス、あなたを狂ったように愛している貧しい少女を苦しめることは悪い英雄的なことです! Wieland Lucian 3、392;イタリア人とスペイン人と...彼らは...狂気のポイントまで彼らの愛に固執します。カント10、278(人類学§72);どのような傾向...犯罪者に対する正義への欲求は報復への情熱に変わり、それはしばしば狂気の点まで暴力的です。 10、300(§81);狂気のポイントに酔った。 C. F. Meyer Juerg Jenatsch329。
すると、情熱自体が狂気のように見えます。感情は眠りにつく中毒のようなものです。情熱を、どんどん深くなっているアイデアに陰気な狂気として見ること。カント10、278(人類学§72)。 genに関連して。:
ああ今、私はあなたに怒っていることを後悔しています
最初に殺された。
シラー13:58(マクベス2:10);
呪いを呼び戻す
私は絶望の盲目の狂気にいます
あなたの愛する人に呼びかけました。
14、121(Mess。4、9による花嫁);
私の恐怖の狂気の中で、私はこの悪が彼から来たのではないかと疑うことができませんでした。ギャグからヘルダーへ(ヘルダー3、63からおよびヘルダーへ)。自由への熱意から:これらすべての植栽を掌握した自由の狂気は黒人を駆り立てて鎖を断ち切った... H.v。クライスト3、194(聖ドミンゴで婚約);
自由の最初のめまい、勝利の最初のめまい
甘すぎて中に入ることができない
酔うのが好きではなかった。自分で感じる
私自身の心で鼓動します。したがって、
酔った狂気に入らないように注意してください
疲れを目覚めさせるために失効した。
グラブ2、353(ヘンリー6世、4、1);
そして解放者自身が...ワルシャワに現れたとき、そして彼らの古い栄光の落下と蓄積の熱狂的でよく聞こえる音の耳がどこでも聞こえたとき、本当の狂気が人々を捕らえました。ベッカーズウェルトゲッシュ。愛の中毒の14、31日:
ローラ?私夢見てるの?私はレースをしていますか? -考え
心の壁を越えて渦巻く-
見る!狂気はräzelsの顧客です、
狂気の不思議に知恵に驚嘆する
嫉妬深い。
シラー1、280(回想の秘密);
あなたが事実を起こさせたので、あなたはそうではありませんでした
あなた自身、あなた自身のものではありませんでした。
あなたへの盲目の愛の狂気を持っていました。
12、414(M。スチュアート1、4)。
愛の狂気を比較してください。 / Vol。 27、列678 /
また、詩的な熱意の:
詩人、なぜ彼は恥ずかしがらないのですか
そんな人たちと関わるために!
それから彼は彼が誰と一緒に行って歩くかを知っています、
いつも狂気の彼?
Göthe5、33(ディバン)。
詩的で詩的な狂気:ホフマンはついに詩的な狂気から本物の狂気へと自分自身を書きました。ジャンポールからH.ヴォスへの手紙。 1、143。
最後に述べたアプリケーションでは、美しく、甘く、甘く、至福の狂気もあります。あなたのシルベン対策は非常にメロディアスであり、愛への情熱はしばしば美しい狂気に高まります。 Herder 18、56(d。Humanを伝えるための手紙。8)Suphan;詩人...想像力は、私たち自身の意志に反してさえ、私たちが美学の規則を忘れるほど緊張している...そして詩人の美しい狂気に完全に身を委ねること。ティーク批評的著作1、37(1793);
美しい狂気の中で転がる詩人の目、
空に向かって点滅し、地球に向かって点滅します
(細かい狂乱のローリングで)。
シェイクスプ。夏。 5、1;
空の花(愛)、地球の星
心の芯に触れる
最も美しい狂気に酔った。
A.W.v。シュレーゲル1,145;
もう一度ヒッポグリフが私をサドルします、あなたはミューズします、
古いロマンチックな土地に乗る!
私の解き放たれた胸についてどれほど素敵か
公正な狂気が遊んでいます!
ウィーランド22、3(オベロン1、1、4);
思考の甘い狂気の中で、
あなたは自分がこれの証人であると想像するでしょう。
H.v。クライスト3、364(2人の聴覚障害者);
それはあなたの歌に違いない、詩人、確かに
平等な精神を証明するため。
しかし、それは素晴らしいように聞こえるかもしれませんが、
また、甘い狂気はなくてはなりません!
ハルム7、114;
次に、ビンを描画して、それを流します
カップの中で明るく神のワイン。
私に良い!すでに五感すべてで燃えています
祝福された狂気の不滅の苦痛。
Arndtged。 (1860)121;
しかし、それはまるで彼の胸が破裂しようとしていたかのようでした。まるで彼が今や愛する人を抱きしめ、至福の狂気の中で彼らの胸と心を砕くことができれば彼は祝福されたかのようでした。 J.ポールヘスペラス1、119。
熱を伴う興奮状態からも:
彼の心に閉じ込められたすべてのもの
今、彼の舌の上で熱狂者の狂気の中にいました。
H.v。 Kleist 2、177(Käth.V。Heilbr。2、9)。

まれな3)狂気の睡眠または夢によって使用され、人間の支配は彼の考えを失います:süszersleep! ...あなたは厳しい考えの結び目を償還します。喜びと痛みのすべての最も美しいイメージです。 邪魔されずに円形の内側の調和を飛ばし、心地よい狂気に包まれて、私たちは沈み、存在をやめます。 ゲーテ8、298(エグモント5); ナイチンゲールの継続的な音と彼への5つの音源は、彼を揺さぶり、夢の夕暮れの狂気にまで伸びました。 J.ポールヘスペラス3、241位

4)狂気は「愚かさ、無理、妄想」などを表すこともあります。この意味を指摘するアデルングは、狂気はナンセンスと同じ程度の深刻さを持っていないと述べています。私たちは今、狂気をより強い言葉として感じています。神はすべての教会をこのトルコと悪魔の狂気(悪魔主義者の教義)から守っています。マテシウスの歴史d。ルーテルの120、34削除;乗組員全員...数時間だけ巨大な石の塊を守ることを狂ったように望んでいたはずです。 J. G.Eichhornフランス人。革命(1797)1、119;彼女は彼の弱さの間に狂気に見えたでしょうから。 Arnim 3、205;それの考えは狂気だっただろう。 Holtei vagabond9 167;
そして恐怖は憤慨を鎮めるだけです。
慈悲は狂気を高めます。
シラー5、2、204(ドン・カルロス2、2);
オデュッセウス。オリンピックでは狂気になるから、
戦争が緊急に私たちをトロイに呼ぶので、
ここでこれらの処女(アマゾン)に参加します。
H.v。 Kleist 1、194(Penthes。4);
寛大ではない-それは狂気だろう
彼自身の種類の啓蒙のために彼ではありません
実行したい。
グラブ2、354。
それに応じてヘラーワーンシンが使用されます:チェコ人が運動/巻を作成するのを助けるのはヘラーの狂気です。 27、列679 /これはこれらのドイツの敵をさらに民族的に独立させます混じりけのないドイツ語の単語1900、228。
その意味は簡単に「無意味で、愚かで、ばかげたもの」の意味に変わります。私はあなたに怒って話しているのですが、私は自分自身を笑っています。クリンガー8、294;そのため、これらの屋根の列は、音楽を作る猿の聖歌隊、および同様の狂気で、ヒドラと小さな胸像で飾られています。 Göthe28、115(イタリア旅行2)。

5)シュティーラーは完全に異なる意味を与えます:wansinn、opinio 2032、つまり「不確かな意見」(wahn II、3を参照)。 ウィーランドは1750年に同様にこの言葉を使用し、「想像上の理解」として成熟した知識に直面しました。
狂気で膨満し、成熟した知識が乏しい、
注文の高貴な素晴らしさに気付くには小さすぎます、
それは知恵で自分自身を強化する目を動かすだけです、
大胆に彼が正しく見ないものを悪いと呼びます、
偽りの霞が彼の感覚を引き寄せるからです。
suppl。 1、50(自然d。物事1、540)。

„WAHNSINN, m.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=w02565, abgerufen am 31.03.2021.

Gegenstandの つかいかた

たいする もの という いみ である。
しかし、 なんと、 ひとにも つかえる ことば であった。
„GEGENSTAND, m.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=g04493, abgerufen am 31.03.2021.
の 1. c) β)を かくにんした。

どいつご こうぞう15

こうぞう という なまえの おぎなった やく。
そして、 わたしと いしき いっぱんは ともに こてい される ことに よって、その ばあいには、いしきは ある ひとつに まとまった ものである。 そういう ことは、 みんなの ふへんの なかでは、 つまり いっぱんてきには せいしんさくらん なのである。 しかし そこの なか では、 たんに いしきに とっての 「たいする もの」が さくらんして(みだれて、こんらんして)いる だけで、 いしき としての その いしきは、 じぶんの なかでも じぶんに とっても それだけで さくらんして(みだれて、こんらんして)はない のである。

みだれ、さくらん、むちつじょ でない もの として、 ひと それぞれ という はなしが あった。
つまり あいてが まちがっていて、 じぶんが ただしい という かんがえかた であった。
こころの ほうの だんかいの さいしょの ころは この ような ありかたを していると おもいこんでいた わけだ。
ひと それぞれ では、 わたしと いしき いっぱんは それぞれ べつの もの として わけられて こてい されて いなかった。
ひと それぞれ では、 たちばが こてい されている わけ では ない。
ひと それぞれ では、 じぶんは あいてが まちがっていると おもい、 あいてに じぶんが まちがっていると おもわれる。
ひと それぞれ では、 じぶんは じぶんが ただしいと おもい、 あいては あいて じしんが ただしいと おもっている。
ここでは、 じぶんと あいては いれかわる かのうせいが あり、 こてい されて いなかった。

しかし、 わたしと いしきが こていされて、 じぶんは わたしで ありながら、 いしき いっぱんであると わかると、 こべつ であり ながら ふへん である という むじゅんが おこる。
わたしと いしきいっぱんは たしかに ひとつ なのだが、 その ような ありかたは、 ふつうは せいしん さくらん、 きょうきと よばれる。
さくらん、こんらん、みだれ、むちつじょ というのは、 ふつうは、 いっぱんには せいしんさくらん、 きょうきと よばれるが、 へーげるは それは こころの ほうの つぎの だんかいに いちづける。
うぬぼれの きょうきは、 たしかに きょうきで、 われわれに とっては、 まちがっているし、 こんらんしているし、 みだされているし、 てんとうしている。
しかし、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしき じしんに とっては、 じぶんは たしかに むじゅんしているが、 まちがっていないし、こんらんしていないし、 みだされていないし、 てんとうしていない のである。
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきに とって まちがっているのは、 てんとうしているのは、 こんらんしているのは、 みだされているのは、 じぶんに たいする もの、 じぶんの たいしょう、 じぶんが にんしきしている あいて である。

ここで よみかたを かえた。
これまでは しゃせんで ひいた ところの ように、ひと それぞれ、きょうき、うぬぼれの きょうきの みっつが あると おもっていた。
ちなみに うぬぼれ という ことばを つかうか、 ひとりよがり という ことばを つかうかで まよっているので、 ふたつの かきかたが ある。 しかし、 おなじ ことを いみしたい のである。
さらに、 うぬぼれの きょうきを ひとりよがりの さくらんと かいている ところも ある。
これは まちがい だと おもう。
おそらく、だいめいを まちがって おぼえていた せい である。
きょうきは われわれに とって ある ものであり、 さくらん、こんらん、みだれは うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきに とっても ある から である。
しかし、きょうきを ひとりよがりの きょうきと おなじ ものと かんがえて、 さくらん、こんらん、みだれを まちがっている という いみに かんがえる ことが より よい だろう。
つまり、 きょうきの だんかいに いる いしきは じぶんが きょうき だとは わからないし、 きょうき という かんがえを つかわないが、 まちがっているを いみする さくらん、こんらん、みだれ という かんがえかたは つかう。
たいして、 わたしたちは この だんかいを きょうき であると かんがえて、 さらに こんらん、さくらん、みだれ、まちがっているとも かんがえる のである。

きょうき、うぬぼれの きょうき(ひとりよがりの きょうき)、さくらん、みだれ、こんらんとは ちがう もの として ひと それぞれという かんがえかたが ある のである。
だから、 「そして、 わたしと いしき いっぱんは ともに こてい される ことに よって、その ばあいには、いしきは ある ひとつに まとまった ものである。 そういう ことは、 みんなの ふへんの なかでは、 つまり いっぱんてきには せいしんさくらん なのである。」 というのは、 うぬぼれの きょうきの だんかいの せつめい なのである。
さらに つぎの いんようも うぬぼれの きょうきの せつめいなのである。

「或るものがじっさい意識一般に対して現実的であり本質的であるにもかかわらず、私に対してはしかしそうではないことがある。その場合なら私としては、その或るものがなにものでもないこと〔るび:ニヒティッヒカイト〕を意識しつつも、同時に、なにしろ私も意識一般なのだから、そのものが現実的である〔るび:ヴィクリッヒカイト〕ことを意識していることになる。」
578ぺーじ

「なにものでもないこと」は、 げんじつてきはない こと という いみだと おもわれる。

じこいしきである こと

けいけんの けっかは、 げんじつは いのち である という こと であった。
じこいしきは いのち である。 げんじつは じこいしき である。

こころの ほうの こたい、こじん という いしきが けいけん するのは、 げんじつは いのちを あたえられた ちつじょである という こと である。
せいしんげんしょうがくは いしきの けいけんの がく であった。
いしきが けいけんを する ことで、 だんだんと へーげるが かんがえる すぐれた ありかたに なっていくのだ。
いしきが けいけんする のは、 げんじつは いのちの ような すぐれた ありかたを している という ことだ。
いのちは おなじ いのち として つづくが、 なかみの それぞれの さいぼうなどの からだの ぶぶんは かわって うごいていく。
そのように げんじつは、 おなじ げんじつ として つづくが、 なかみは かわって うごいていく。

つまり、 うぬぼれの きょうきが けいけんした けっか から、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんが さくらんしている、こんらんしている、てんとうしている、みだれている、まちがっている という ことに きがつく のである。
きがつく までは、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは じぶんが ただしくて、 みんなが まちがっていると おもっていた。
しかし、げんじつが いのち であると わかる という ことは、 じぶんが じぶん という こべつてきな いのち でありながら、 じぶんが ふへんてきな げんじつ である という むじゅんした ありかたを している ことに きがつく という こと である。

In dem Resultate des Erfahrens, das sich hier ergeben hat, ist aber das Bewusstsein in seinem Gesetze sich seiner selbst als dieses Wirklichen bewusst; und zugleich, indem ihm ebendieselbe Wesenheit, dieselbe Wirklichkeit entfremdet ist, ist es als Selbstbewusstsein, als absolute Wirklichkeit sich seiner Unwirklichkeit bewusst, oder die beiden Seiten gelten ihm nach ihrem Widerspruche unmittelbar als sein Wesen, das also im Innersten verrueckt ist.
109ぺーじ

やくは しょうりゃくする。
しかし、 「ここで経験されたこの結果は、あきらかとなったとおりのものであって」(578ぺーじ)という やくは どこから でてきたのか わからないと かいておく。
”das sich hier ergeben hat, ”は 「ここで おきた こと」 という いみだと おもう。いや、 dasが かんけい だいめいしかも しれない。
けいけんの けっかに おいて、ここで おきた ことは、じぶんじしんに ついての、みずからの きまりの なかの この いしき である。 この じぶんは この げんじつ として いしき された。
つまり、 けいけんの けっかに おいて、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきが わかったのは、 じぶんが じぶんの きまりの なかに ありながら、 げんじつ である と いう こと であった。
つまり、 げんじつが いのち である ことが けいけんの けっかで わかって、 じぶんが じぶん という こべつ でありがら、 きまり という ふへん でありながら、 ふへんの げんじつで ありながら、 こべつの じぶんに とって ある という ことが わかった のである。
これまでの たいおう かんけいを ならべると つぎのように なる。
きもちいいに たいおうするのが、 じぶん という こべつ である。
うんめいという ひつぜんせいに たいおうするのが、ふへんの げんじつ である。
こころの きまりに たいおうするのが、 きまり という ふへん である。
うぬぼれの きょうきに たいおうするのが、こべつの じぶんに とって ある という こと である。 つまり、 げんじつも じぶんに とって ある という ことの あつまり である という ことが わかる こと である。

ありかたと げんじつ

ありかた、ある、そんざいする、ほんしつ という のは、 こべつ として ある という こと であり、 たいじ(対自) であり、 その だんかいの じぶんに かんけいして じゆうに ある という こと である。
げんじつ というのは、 ふへん として ある という こと であり、 そくじ(即自)であり、 その だんかいの じぶんに とって あるのでは なく、 それじしんに おいて じぶん では ない ものとして ある という こと である。
ありかたと げんじつ という たいりつに まず ちゅういする。
りそうと げんじつ。 ありかたと じっさいに ある こと。 じぶんと じぶんいがい。 こべつと ふへん。 たいじと そくじ。
つぎに、ずで かいた ところの くりかえしを りかいする。
こころの きまり から うぬぼれの きょうきに うつりかわる ときは、この だんかいの いしき としての じぶんに とって、 じぶんは、 ありかた であると どうじに げんじつ であった。
しかし、 じぶん である はずの ありかたと げんじつが、 じぶんとは べつの ものに かんじられるのだ。
なぜなら、 ありかたと げんじつは たがいに むじゅんしていて、 たがいに はんろんする からだ。
ありかたが じぶんである としたら、 げんじつは じぶんでは ない。
げんじつが じぶんである としたら、 ありかたは じぶんでは ない。
つまり、 げんじつも ありかたも じぶんでは ない。
「そがい」と いわれる。

げんじつ として じぶんを ひげんじつと おもう

いしきは この だんかいでは、 じこいしき である。
つまり、 いしきは じぶんが なにかを いしき している。
じぶんは ぜったいてきな げんじつ である。
なぜなら、 じぶんは みんなと おなじ こころの きまりに したがって ふへんてきな げんじつで あった。
じぶんは みんなの いちぶ だから、 みんな という げんじつは じぶん でも ある。
じぶんは げんじつ である から、 じぶんは ひげんじつでは ない はず である。
しかし、 うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、 じぶんを ひげんじつだと おもう。
なぜなら、 じぶんは げんじつに なっていない こべつてきな ありかた、ほんしつ である から である。
そして、 げんじつと ひげんじつ という のは それぞれ むじゅんしている、 つまり それぞれ はんろんしていて、 どうじに なりたつ ことが ない はず である。
きょうき、さくらん、こんらん、みだれ、まちがい である から こそ、うぬぼれの きょうきは どうじに げんじつ であり ひげんじつ である。
しかし、 ともかく げんじつも ひげんじつも、 げんじつも ありかたも じぶん であった。
この だんかいの いしきに とって、 じぶんは ちょくせつ ありかた であり げんじつ である から、 ありかたと げんじつは かんせつてきでは なく、 ちょくせつてきに じぶんの ありかたに あてはまる ので ある。
むじゅんしあう ものが どうじに じぶんである という のは、 ほかの だんかいと おなじ ように なんとなく りくつに あう ように みせかける ことが できる ような そとがわでの さくらん、こんらん、みだれ、むちつじょ、まちがい では ない。
うちがわの おくそこの さくらん、こんらん、みだれ、むちつじょ、まちがい である のだ。

b11

こころの うごき

こころの きまりの だんかいの こたい、 こじんは ひと としての しあわせを もとめる。
こころの きまりの だんかいの こたい、 こじんは ひと なみの しあわせを もとめて、 こころの こどう(鼓動)が はやくなる。
つまり、 こころ、 しんぞう、むねが こどうする。
つまり、かんじょうを かんじる。
しかし、 こころの きまりの だんかいの こたい、 こじんは しあわせを もとめて、 こころが こどうして いた、 ふるえていたが、 うぬぼれの きょうきで かわる ことに なる。
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、 はげしく おこる、いかる。
このように はげしく おこって、 いかる こと から、さくらんした、 こんらんした、みだれた、まちがった ありかたが でてくる。
つまり、 じぶんが ただしくて みんなが まちがっている のだという うぬぼれ、ひとりよがりが でてくる。
じぶんが まちがっていなく、 みんなが まちがっている から おこって あれくるう のである。

ここで、 いかる、おこる という わだいが でてきたが、 ふくせんが あった。
その ふくせんは、 りせいしょうの Aのcの ずがいろん、かんそうがくの くまのやくで 506ぺーじ である。
いかりが ないてきな おこないと かんがえられる。 いかりは かんぞうから でてくると いわれる。しんぞうや かんぞうの うんどうは こたい、こじんの うんどう では ない。 という はなし である。
ここと あわせて かんがえると、 しんぞう という こころ から、 かんぞう という いかりに ふるえが うつっていく という ことを かんがえていた かもしれない。

しかし、 いかる、おこるを いみする Tobenという たんごを しらべてみよう。
あれくるう という ことばが いちばん あっている きがするが、 どちらか というと はげしい うんどうが かんがえられていて、 おこっている とは かぎらない ことば なのかも しれない。
Wut という ことばも あれくるう という いみの ことば である。
いきどおり とも やくせる。
Wut im Bauch haben で はらわたが にえくりかえる という いみである。

この いかり、おこり、あれくるい、はげしい うごきは、 じこいしきが いかりくるっている という こと である。
なぜなら、 じぶんが はめつ しそう だから である。
みんなに のみこまれて じぶんが いなくなってしまう ことに あらがう ために、 いかり くるい、 はげしく うごいている のである。
このように いかり、 あれくるい、 はげしく うごく ことで、 まちがっている じぶんを ただしいと おもいこみ、 まちがっている という ことの せきにんを みんなに なすりつけようと している のだ。
そして、 その ように みんなが まちがっていると ことばで あらわそうと する ために おこり、 あれくるい、 はげしく うごく のである。
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、じぶんでは なく、 あいてである みんなが まちがっていると いう ことで、 みんなが まちがっている ことを げんじつに して、 その げんじつを かえて あるべき ありかたを げんじつに しようとする のだ。

ぷらとんの 『こっか』の だいにかん ぐらうこんの ぎゅげすの ゆびわの はなし?

うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは つぎの ような はなしを ことばに して あらわすと へーげるは かく。
ぷらとんの こっか という ほんに でてくる ぐらうこん という ものが せいぎ という ものを ひはんする ことばを いんようしている かのうせいが ある。
かくにんできていない。
ふへんてきな ちつじょ、 つまり せいぎは、 ねつぞう された ものだ。
ひとびとは けんりょくしゃに だまされている のだ。
けんりょくしゃ とは、 「くるった」 ように、 つまり まちがった やりかたで かみがみを しんじる せいしょくしゃや、おいしいものを たべる だけで じぶんの ほしいものを ほしがる だけの ぼうくんと、 それらの おつきの もの である。
おつきの ものは、 しはいしゃから うけた くつじょくを、 じぶん より えらくない ものに あたえて、 まんぞくしている のである。
ひとびとは このように よくあつ されている。
そのような よくあつを たすけているのが、 せいぎ、 ふへんてきな ほうりつ なる もの である。
ふへんてきな ちつじょと いわれている せいぎや ほうりつは、 ひとびとの こころの きまりごとと、 しあわせ という ものとは まったく ぎゃくであり、 まちがっている のだ。
これが、 うぬぼれの きょうきが ことばで あらわす かんがえかた である。
こころの きまりごと、こころの きまりとは、 こころの ほう であって、 こう なっていたら こころは こう かんじて、 こういう ことを する という きまり である。
せいぎ とは、 こころの ほうとは ぎゃくの ものと ここでは かんがえられる のだった。

こたいである こと、 こじん である こと

うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきは、 われわれに とって、 さくらん していた、こんらんしていた、みだれていた、むちつじょであった。
うぬぼれの きょうきは、 こたいであること、こじんであることが、 この こじん、 みんなの うちの たにんが、 das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの であると ことばで あらわす。
てんとうした というのは、まちがった、ぎゃくの、さかさまの もの である、という ことである。
じしょで verrückte( https://www.duden.de/rechtschreibung/verrueckt#Bedeutung-1)に ついて しらべていたら、 とても さべつてきな ことば である という ちゅういが あった。
すばらしい とりくみだ。
すべての じしょで このように ちゅういが される べきだ。

うぬぼれの きょうきが いっていた こたいである こと、 こじん である こと というのは、 けんりょくしゃが わるい という こと だった。
けんりょくしゃ という こたい、こじんが まちがっている ので あって、 みんなの なかの ひとり である じぶんが ただしい のだ。
みんなは まちがっているが、 それは、 みんな という ふへんてきな ものが まちがっているのでは なくて、 みんなの なかの ひとり ひとり、 ひとつ ひとつ としての こたい、 こじんが まちがっていると かんがえていたのだ。

しかし、 うぬぼれの きょうきが ことばで あらわす、 さくらんしていて、 てんとうした、 こたい である もの、 こじん である ものは、 ふへんてきで、 じぶんの もの では なかった。
うぬぼれの きょうきが ことばで あらわす、さくらんしていて、 てんとうした、 こたい である もの、 こじん である ものは、 ぐうぜんてきで、ほかの もの であった。
けんりょくしゃが ふへんを やぶって、 ぐうぜんの ほうりつを きめてしまう ことが まちがっていると いっていたのだ。
ふへんてきに あっている じぶん、では ない けんりょくしゃの こたい、こじんが、 ふへんを ふみにじって、 ぐうぜんてきな ことを きめてしまっている のだと いっているのであった。

くみこまれた あらすじ

ここで、 へーげるは これまでの あらすじに したがって うぬぼれの きょうきの ありかたを せつめいする。
うぬぼれの きょうきも、 これまでの だんかいに くみこまれる のだ。
あとに より よい よみかたを かいているので、 ここから いんようで かく ところは、 うたがって よんでほしい。

Aber das Herz, oder die unmittelbar allgemeinseinwollende Einzelnheit des Bewusstseins ist dies Verrückende und Verkehrte selbst, und sein Tun nur die Hervorbringung dessen, dass dieser Widerspruch seinem Bewusstsein wird.
109ぺーじ

こころは、いしきが ちょくせつてきに ふへんてきである ことを もとめる こべつてきな ありかた である。
ここで、「こべつ」と 「こじん、こたい」の ちがいを はっきり させておく ひつようが ある。
おそらく、 じぶんは 「こべつ」と 「こじん、こたい」を わけずに つかってきた。
しかし、 ちがう ことば である。
こべつは Einzelnheit であり、 こじん、こたいは Individualitätである。
こべつは ひとつに なる もの である。
こじん、こたい とは わけられない もの である、
ひとつは わけられない ので、にている ことば である。

こころの きまり であれば、 かんせつてきに じぶんが ふへんてきであると わかるか、 かんせつてきに じぶんを ふへんてきに する ことを のぞむ だろう。
しかし、 こころは、 ちょくせつてきに じぶんが ふへんてきで ある ことを のぞむ。
いしきの ふへんてきな ありかた では ない ような、 こべつてきな ひとつ である ような ありかたが こころ なのである。
こころの きまりと いうと ふへんてきな ものに なるが、 こころは かんじょうなどの こべつてきな ひとつである ことの ありかた なのである。
かんじょう というのは、 じぶんが どう かんじているか であり、 それは、 じぶんと じぶんが ひとつ である という こと である。
さらに、 かんじょうは ほかの ものが かんじられる もの では ない。
ほかの ものが かんじた じぶんの かんじょう というと、 それは じぶんの かんじょう では なく、 もはや その かんじた ものの かんじょう である。

うぬぼれの きょうきに とっても、 われわれに とっても、 こころ、 たとえば けんりょくしゃの ように じぶんを ちょくせつてきに ふへんてきな ものに したがる ような こころが、 das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの である。
ここでは、 うぬぼれの きょうきに とっての はなし から、 われわれに とっての はなしに うつっていく さかいめ である。
うぬぼれの きょうきに とっては、 ほかの もの だけが das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの であった。
しかし、 われわれに とっては、 うぬぼれの きょうきも、 その ほかの ものも、 こころ という いみで、 das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの である。
このような das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした ものは、 こべつせいと ふへんせいの むじゅん であった。
こべつせいと ふへんせいは たがいに むじゅんしていて、 たがいに はんろんしていた のだ。
そして、 そのように たがいに むじゅんしていて、 たがいに はんろんしていると、 ひとつに まとまる ことは ない から、 das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの であった。

こころは かんじる だけ では なく、 こころは なにかを おこなう のであった。
この ぶぶんは、 りせいしょうの こうどうする りせい という ぶぶん であった ことを おもいだそう。
そして なにかを おこなう というのは、 なんらかの ことを げんじつに する という こと であった。
こころが なにかを おこなう ばあいは、 こころの もくてきを げんじつに する こと である。
しかし、 こころが おくそこ から むじゅんしていた のである から、 こころが なにかを おこなうと、 この おくそこに あった こころの むじゅんが、 こころの いしき という じぶん そのものに なる のだ。
つまり、 こころの いしきとは、 むじゅんである という ことに なる。
おくそこに むじゅんが ある こころの いしきと なる のだ。
ここで、 かっきてきな ことが おこっている。
いままでは、 むじゅんは じぶんでは ないものの がわに あったが、 こんどは、 じぶんの いしきが むじゅんになった から である。

なぜ、こころの きまりの だんかいで、むじゅんが こころの いしきに なるの だろうか?
なぜなら、しんじつが、 つまり めざしていないのに たどりついた ところが、 こころの ほうであるのは、 こころの きまりの だんかいの いしきに とって だからだ。
たんに おもいこまれたもの、おもいなされたもの、 それがしんじられているもの でしか ない のだ。
それがしんじられている というのは、 いしきしょうから でてくる ことばで、 まいねん、meinen という ことば から きている。
ようは だじゃれであるが、 おもいこむ という いみの まいねん、meinenという ことばの なかに、 わたしを いみする まいんmineが ふくまれている。
へーげるは この だじゃれを つかって、 それがしんじる という ことは、 おもいこむ という ことは、 じぶんに とっての こと しか かんがえないで ただしいと しんじる こと であると かんがえた。
つまり、 まいねん、おもいこむ こと、 それがしんじるという ことは、おとった もの である のだ。
まいねんを どうやくすかは もんだいが ある。
じぶんは、 「それがしんじる」という やくを かんがえついた。
さいとーが かんがえた やく である。
「それがし」 という いちにんしょうと、 「それが しんじる」という ことばを だじゃれで あわせて つかっている のである。

つまり、 こころの きまりの だんかいの いしきは、 みんなに とっての こころの きまりを しって、 げんじつに しようと した。
しかし、 しんじつ として、 じっさいには、 こころの きまりの だんかいの いしきは、 じぶんに とっての こころの きまり でしか なかった。
みんなに とっての、 われわれに とっての こころの きまり では なかった。
だから、 こころの きまりの だんかいの いしきが なにかを して、 こころの きまりを げんじつに したと おもった ときには、しんじつに おいての こころの きまりとは、 じぶんの 「それがしんじる」 もの でしか なく、 ほかの ものに とっては しんじつ では なかった。
だから、こころの きまり という ふへんてきな ものを げんじつに したと おもっている ありかたと、 じっさいは じぶんの こべつてきな ことを げんじつに したに すぎない という ありかたが たがいに むじゅんして、 たがいに はんろんしている のである。いや、 たがいに はんろんしていない のでは ないか? わからない。

ここまで かいてきて、もっと よい よみかたが みつかった。
こころは いっぱんに das Verrückte und Verkehrte(109ぺーじ)である、 つまり さくらんしていて、 てんとうした もの である。
その りゆうは、 こころが ふへんに ちょくせつ なりたいという こべつ という むじゅん だから である。
むじゅんが なにかを おこなっても、なにかを おこなう とは じぶんを つくる ことである から、 むじゅんが むじゅんを つくり、 むじゅんは じぶんであり、 むじゅんは いしきに なる。
これは、 そもそも こころが ふへんに ちょくせつ なりたいと おもった ときに でてきた、 こころの きまり という ものが、 じぶんに とって のみ ある、 「それがしんじられた」もの でしか ない から である。
じぶんは こころの きまりに したがっていて、つまり じぶんは みんなの いちぶ であると かんがえていたが、「それがしんじていた」に すぎない。

あらすじの つづき

あらすじは つづく。
「それがしんじていた」ものは、 おもいこみ でしか ないから、 つづかない。
つづいている ちつじょと 「それがしんじていた」ものは ちがう。

das nicht, wie die bestehende Ordnung, den Tag ausgehalten hat, sondern vielmehr, wie es sich diesem zeigt, zugrunde geht.
109ぺーじ

これ、しんじつ である こころの きまりは、ぼつらくしない、ほろびない。 つづいている ちつじょが にっちゅう(日中)を たえつづたように。という よりも、 しんじつが じぶんの いしきに とって あらわれている ように。
dasこれ、しんじつ、こころのきまり
nicht どうしの ひてい
wie ように という いみの せつを みちびく
die bestehende Ordnung ように せつの しゅご、 つづいてる ちつじょ
den Tag さんかく もくてきご たんすう、だんせい、 にっちゅう
ausgehalten かこぶんし、 かこかんりょうけいの どうし、 さんかくの もくてきごに じかんを とる
hat ように せつの どうし。 かこかんりょうけいの じょどうし。
sondern むしろ
vielmehr いっそう
wie ように という いみの せつを みちびく
es さんにんしょう たんすう ちゅうせい。これ、 しんじつ
sich zeigt げんざいけいの かつようで、 あらわれる という いみ。ように せつの どうし。
diesem たんすう さんかく だんせい、 じぶんの いしきに とって という いみ。
zugrunde geht. ぼつらくする という ひていされた どうし。
この よみかたの なんてんは、 Ordnung, denの あいだの かんまが よく わからない こと である。
さらに nichtの いちが おかしい きがする ので、 この よみかたは まちがっている きがする。 要調査。わからない。

3) transitiv mit ausgedrückten wörtern der zeit: ich halte dir das jahr aus, halte keinen tag weiter aus; er hielt die bestimmten drei monate ruhig aus; halte mit dieser die wochen aus (vulg. imple hebdomadam dierum). 1 Mos. 29, 27; Jacob hielt die wochen aus. 29, 28; das er dem herrn die zeit seines gelübds aushalte. 4 Mos. 6, 12; wie er aushielt die tage der reinigung. apost. gesch. 21, 26. man könnte aber die accusative jahr, tag, monate u. s. w. adverbial fassen, und dann würde aushalten wiederum intransitiven sinn haben. das kleid hält den winter noch aus, will entweder sagen erträgt den winter, fert hiemen, oder dauert winterlang, per hiemem.
„AUSHALTEN“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=a08189, abgerufen am 01.04.2021.

この こころの ほうの だんかいの こたい、 こじんの ぼつらくは、 きもちいいの じこいしきの ぼつらく(”zugrunde gegangen”(106ぺーじ)、「没落し〔その根拠へといたり〔るび:ツーグルンデ・ゲーヘン〕〕」(564ぺーじ))を おもいださせる。zugrunde gehenは ほろびる、ほうかいする、せいぶつがしぬ、にんげんかんけいがはたんする という いみ である。

ぼつらくしない という かいしゃくを うえで したの だけど、 ぼつらくした という かいしゃくの ほうが、 これまでの あらすじを たどりなおしている という かいしゃくと あっている。
こまった。

しんじつは こころの ほう である。
しんじつは ぼつらくしない。
しんじつが ぼつらくしない りゆうは、つづいた、そんりつした ちつじょは つづく、 つまり こころの きまり という ちつじょが つづく から では なく、しんじつは こころに あらわれる から である。
こころ という こべつてきな ものは ぼつらく する けれど、 しんじつ である こころの きまりは ぼつらく しない。
つづいていた ちつじょは、 うんめい としての ひつぜんせい という しんだ ひつぜんせい であり、 こころの きまりは、 じぶんに あらわれている から、 いきた ひつぜんせい である。

こころの きまりの げんじつせい

だから、 こころの きまりは げんじつ である ことに なる。
げんじつ とは、 じぶんに あらわれている こと だから である。
こころの きまりは じぶんに あらわれていた。
しかし、 ここで、 げんじつ という ことばは きょうちょう されている。
ふつうの いみでの げんじつ では ない という ことだ。
ここでは、 げんじつと ある ことが たいりつ した かんけい では なく、 げんじつは ある ことと ある いみで おなじ いみ である。
なぜなら、 うぬぼれの きょうきに おいては、 げんじつと ありかた という たいりつ する ものが おなじ である という ところが とくちょう であった からだ。
ここでは、 げんじつ とは まさに ある こと であり、 じぶん という りそうの ありかたに たいする みんなの げんじつ では ない。
しんじつが こころの きまり である ので、 へーげるは この こころの きまりが うぬぼれの きょうき である という ことを はっきり させたい。
げんじつ という はなしが でてくるのは、こころの きまりが こころの きまり である かぎりで、 きまり なのである から、 こべつてきな ありかたを ねじふせて きまりに したがわせる げんじつ である という はなし であった(571ぺーじ)。
こころの きまりが きまり である かぎりで、 げんじつ でないと きまりと いえない。

だから、 こころに とって、 こころの きまりは げんじつ である。
こころに とって、 こころの きまりは、 みんなが そう かんがえていて、いっぱんに つうようして、 だとう する、 ゆうこう(有効)な ちつじょ である。
なぜなら きまり である から には、 ふへんてき でないと きまり では ない から である。
こころに とって、 こころの きまりは もくてき である。
こころは なにかを するが、 こころの きまり どおりに みんなと おなじ ように する から、 なにかを すると まとめられる のだ。
もし、 もくてきが なく、 なにかを すると いえる ことを しても、 もくてきが なければ それは なにかを している とか、 なにかを おこなっている とは いえない。
こころの きまりが もくてき である。
こころの きまり という ふへんてきな ものを げんじつに する ことが もくてき である。
もくてき こそが こころに とって ある という こと、 つまり ほんしつ、 ありかた である。
いきいきとした ちつじょ こそが じぶん であり、 げんじつ であると ぎろん されていた(577ぺーじ)。
なぜなら、 じぶんも げんじつを つくっていて、 その つくった げんじつが じぶん であった からだ。

ここでは、 ぎゃくてんが おこっている。
ありかた では なかった はずの げんじつが ありかた である という ぎゃくてん である。
これが むじゅんしている という ことばで あらわされてていた こと だった。

こころの きまりの なんでもなさ

しかし、 こころに とっては、 きまりは かんせつてきに いきいきとした げんじつ なのでは なく、 ちょくせつに しんだ げんじつ であった。
こころに とっては、 きまりは げんじつ であり、 きまりは ちつじょ であり、 げんじつは ほかのものに したがう という こと だから、 かちが ない もの であった。

ふりかえろう。
こころが ちょくせつてきに ふへんに なりたがる。
こころが なにかを する。
こころは むじゅんに なる。
なぜなら ふへんだと おもっていたのは 「それがしんじていた」だけに すぎない から。
しんじつは こころの きまり である。
こころの きまりが じぶんに とって ある から、 こころの きまりは つづく。
こころの きまりが きまりとして つづく のならば、 こころの きまりは じゆうを ねじふせる げんじつ である。
しかし、 げんじつ である こころの きまりが もくてきに なり、 ありかたに なる。
なぜなら、 こころが げんじつ であった から である。

こころ それじたい

ここまでは、 こころに たいする げんじつが もんだいに なっていた。
つまり、 たいじ(対自)てきな ありかたが もんだい であった。
そして、 おなじように、 そくじ(即自)てきな ありかたも もんだいに なる。
こころ それじたいは、 こころに とっては こべつの ありかた として あったのだ。
たしかに、 こころの きまりが きまり である いじょう、 げんじつ という べつの ものに ねじまげられているとは いえるが、 しかし、 こころ というのは、 じぶんの こべつてきな ありかた でも ある ので、こころに とっても こべつてきな ありかた であった のだ(598ぺーじ)。
そもそも じこいしきは じぶんに とって じぶんが ある という ひとつに なる こべつてきな ありかたを している という こと だからだ。

きまりを げんじつに する。

こころに とっての もくてきは、 こころの ひとつである ように なる こべつてきな ありかたを じっさいに ある ように させる こと である。
こべつせいを げんじつに する ことが もくてき であった。
げんじつに する ことが できる という ことは、 そもそも げんじつに する ことが できる それは げんじつでは なかった のだ。
そもそも げんじつ なら、 げんじつの まま であって、 げんじつに する ことは できない。
もくてきが きめる ことに なった のだ。
だから、 こころに とっては こべつてきでは ない じぶんを こべつてきな ものに する という ことが もくてきに なっていたので、 こころに とっては ちょくせつてきには こべつてきでは ない じぶんが ありかた であり、 ほんしつ であり、 ある こと なのである。
かんせつてきには、こころに とっては ふるまいを つうじて こべつてきな ものが じぶんである ことに なる。
ちょくせつてきには、 こころに とっては こべつてきな ものは みずからの ありかた では ない。
ちょくせつてきには、 こころに とっては こべつてきな ものは ほんしつ では ない。
ちょくせつてきには、 こころに とっては こべつてき では ない じぶんが ほんしつ であり、 みずからの ありかた である。
こころの きまりを げんじつに する おこないを する という ことは、 こべつてきでは ない じぶん という ありかたを げんじつに する こと でも ある。
こころの きまりは、 こべつてきな じぶんが すべて きめられる のでは なく、 こべつてきでは ない じぶん、 つまり ふへんてきな じぶんを げんじつに する こと だから である。
こころの きまりが すでに こべつてきでは なかった。
だから、ありかた、 ほんしつは、 げんじつ とは ちがう いみで、 きまり であり もくてき である。
なぜなら、げんじつに しようと する ものが もくてき であり、 ふるまいの もとに ありながら、 ふるまいが げんじつに する もの である もくてき である からだ。
つまり、きまりが もくてき であり、 もくてきを げんじつに する ことで、 きまり、 とくに こころの きまりを げんじつに する ことに なる。

もくてきは ふへんてき

もくてきは きまり であった。
きまりは ふへんてきであった。
もくてきも ふへんてきである。
また、 こべつてきでは ない じぶんは ふへんてき である。
こべつてきではない じぶんが もくてき である。
もくてきは ふへんてき である。

ただし、 ここでの 「もくてき」と、 すこし まえでの 「もくてき」が ちがう ことに ちゅういした。
すこし まえでは、 げんじつに なる もの としての もくてきが だいじに かんがえられた。
ちつじょが げんじつで ある ことに なる ので、 ちつじょが もくてき である。
という のである。
そして、 ここでは、 りそうてきな ありかた としての もくてきが だいじに かんがえられている。
こころ それじたいは こべつてきだが、 こころに とって こころは こべつてき では ない という ありかたを していて、ふへんてきで あり、 ふへんてきな ことは きまりの もくてき である。

この もくてきの ふたつの ほうこう、 つまり げんじつ である という ほうこうと ありかた である という ほうこうが、それぞれ それ じたいで ある こと、 そくじ(即自)と、 それに とって ある こと、 たいじ(対自)とに たいおうしている。
もくてき そのものは、きまる ことで げんじつに なる もの であり、 きまり なので、 ふへんてき である。
うぬぼれの きょうき という この だんかいの こころに とっても、 こころは もくてき として ふへんてきである もの として あると きめられる のだ。
こころは ふへんてきな ものに なっていく。

がいねん

Dieser sein Begriff wird durch sein Tun zu seinem Gegenstande
109-110ぺーじ

この それの がいねんが、 それの おこないを つうじて、 それに たいする ものに なる。

がいねんが でてくる。
がいねんは へーげる では ややこしい。
まず、 がいねんとは、ことばの れきし としては、 つかむ ことや きる ことと かんけいしている。
つかんだり、きったり する ことで、 はあくして、わかる ことが がいねんと かんけいしている。
はあく(把握)とは、 つかむ こと かんけいしていて、 わかる とは、 わける ことと かんけいしている。
つぎに、 がいねんは、 わかった こと、 はあく した もの なので、 ぐたいてきなものが ちゅうしょうか された もの である。
たとえば、 ことば などで わかれば、 ことばで ちゅうしょうか されているし、 わかった ことは わかられた そのものとは べつの もので ちゅうしょうてきな もの である。
さいごに へーげるが すばらしいと おもう がいねんは、 ひとつに なる うごく がいねん である。
ぐたいてきな もの から ひとつの ちゅうしょうてきな ものへと うごく という ちゅうしょうの うごき だけ では ない。
さらに ふくすうの ぐたいと ひとつの ちゅうしょうが おなじ でありながら、 わけられている という ことに へーげるは ちゅういしている。
ちゅうしょうは ぐたいと おなじ でないと ちゅうしょう とは いえない。
ぐたいと ちがう ものは、 ちゅうしょう では なく、 かんけいない ものだ。
ちゅうしょうで ある かぎりでは、 ぐたいを ちゅうしょうした もの として ぐたいと ある いみで おなじ では ないと いけない。
さらに、だからといって ちゅうしょうと ぐたいは べつの ものだ。
かんぜんに おなじ もの ならば、 おなじ ことばで あらわせば いい。
かんぜんに おなじ もの ならば、 ちゅうしょう という ことを している はずが ない。
この こべつ、 ちゅうしょうと ぐたいの くべつが ある。
そして、 へーげるの へーげる らしい ところは ここからだ。
へーげるは くべつが ある ちゅうしょうと ぐたいは、 それでも おなじ ひとつに なる のだと いう。
おなじ ひとつに なる というのが、 すばらしい とらえかた なのだ。
ちゅうしょう という のは、 ちゅうしょうを ぐたい から くべつ する こと だった。
しかし、 ちゅうしょうを ぐたい から くべつすると、 ぐたいは ぐたい として ちゅうしょうてきに かんがえられる。
ぐたい という ことばで まとめて かたる ことが できる ように ちゅうしょうか されている。
だから ぐたいも ある いみで ちゅうしょう なのだ。
という ことは、 ちゅうしょうも ちゅうしょう であり、 ぐたいも ちゅうしょう である から、 ぐたいと ちゅうしょうは おなじ ひとつに まとまる。
この ひとつに まとまった ものも ちゅうしょうである とも いえるし、 へーげるが すばらしいと おもう いみでの がいねんと かんがえる ことも できる。
ひとつの ものが わかれながら、 ひとつに なる という のが がいねんの とくちょう である。
このように うごきながら ひとつに なる という ことが がいねん であった。
わかる というのは、 ひとつの ものが わかれながら ひとつに なる という こと である。

こころの がいねん、 いままで、 こころに ついて げんじつと ありかた、 こべつと こべつではない もの、 たいじ(対自)と そくじ(即自)と わかれながらも それらが ひとつに なっていく という とくちょうを もって、 こころが わかる という ことは、 こころが なにかを もくてきを もって する ことで、 こころに たいする もの、たいしょうに なる。

へい! たいしょうと やくした ことばは、 Gegenstandeは まえにも かいたが、 「たいする もの」 である。(さいしょに 「へい!」 という ことばが はいっている のは、 だじゃれである。 おみせに はいる ときに 「へい! たいしょう(大将)! おみせ、やっている?」と いう という でんとうが ある。へいは ちゅういを ひくための かけごえ である。おみせを やっている ものを たいしょうと よぶ のだ。 ここでは、なにかに たいする もの である たいしょう(対象)と、 おみせを やっている もの である たいしょう(大将)が おなじ もじで かける ところ から さいしょに 「へい!」と かきたした。)

Gegenstandは もの、たいしょう、きゃくたい、てーま という いみ である。

たいする もの という いみ である。
しかし、 なんと、 ひとにも つかえる ことば であった。

ちなみに、 Gegenstandは もくてき という いみに まで なる。
こころの たいしょうに なる、 こころに たいする ものに なる という のは どういう ことか。
こころは それじたいで、 たしかに こころの がいねん である。
しかし、 こころの がいねんは こころに とって もんだいに なる こと にも なった。
じぶんが じぶんに とって もんだいに なる という ことは、 じこいしきの とくちょうでも あった。
じぶんの がいねんが じぶんの しる たいしょうに なる こと、 じぶんに たいして ある もの として わかる ように なる ことが あらわされている。

けいけん

うぬぼれの きょうきは きがついてしまう。
じぶんが まちがっていた ことに きがついてしまう。
こころに とっての じぶんが、 みんなに とって(そして もちろん じぶんに とって)の げんじつ では ない ものを じぶんに とっての げんじつだと けいけんする。
こころに とっての じぶんが、 みんなに とって(そして もちろん じぶんに とって)の げんじつを じぶんに とっては げんじつでは ないと けいけんする。
いしきは ここで けいけんを する のだ。
たんに わかる のでは ない。
いしきの だんかいが うつりかわる ように わかる ことが けいけん である。
じぶんが なにを していたかが わかる ことで、 もんだいが かわる ことが けいけん である。
いままでの かんがえが まちがっていた ことが わかる ことが けいけん である。
こころは、 なにかを する ことで、 じぶんが まちがっていた のだ、 それも こんぽんてきに まちがっているのだ、 たんに べつの いけんが あっていた のでは なくて、 その いけんの れべるが まちがっていたのだ と わかる。
おこなう ことで わかる という けいけんを する のだ。

きがつく

こころの ほうの だんかい である うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきは、 ぐうぜんの ほかの ものの こたい、こじんが てんとうしていた、 さかさまに なっていた、 ぎゃくに なっていた、 ゆがめられていた、まちがっていたと おもっていた。
しかし、 うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきは、 じぶんが てんとうしていた、 さかさまに なっていた、 ぎゃくに なっていた、 ゆがめられていた、まちがっていたと きがつく のである。
じぶん という この こころが まちがっていた のだ。
じぶん いがいの あの こころが まちがっていた のでは ない のだ。
”das Verkehrte und Verkehrende.”(110ページ)「顚倒しており、また顚倒するものなのである」(581ページ)
どうし verkehrenの かこぶんしと げんざいぶんしの めいしか である。
げんざいぶんしからの Verkehrende.は はじめて でてきたと おもう。
まちがって つくられた ものが なにかを しても、 つくられるのは まちがった もの だけ という いみだと おもう。

あらすじの まとめ

もういちど ふりかえろう。
こころが ちょくせつてきに ふへんに なりたがる。
こころが なにかを する。
こころは むじゅんに なる。
なぜなら ふへんだと おもっていたのは 「それがしんじていた」だけに すぎない から。
しんじつは こころの きまり である。
こころの きまりは こころに あらわれている。
こころの きまりは げんじつに なる。
(じぶんも こころの きまりに したがっている。)
こころに とって、こころの きまりは もくてきに なり、 ありかたに なる。
ちょくせつてきには、 こころに とって こころの きまりは どうでも いい。
こころ それじたいは、こべつてきで ある。
こころは なにかを する ことで こころを こべつてきに する。
ちょくせつてきには、 こころに とって じぶんは こべつてきでは ない。
こべつてきでは ない じぶんが こころの ありかた である。
こべつてきでは ない じぶんが きまりの もくてき である。
もくてきは ふへんてき である。
こころが こころに とって ある。
なにかを すると こころは、 じぶんが むじゅんしている ことを けいけんして きがつく。
まちがっていたのは じぶんだった。

b12

まちがっているのは

だからといって 「せかい」が まちがっていない わけ では ない。
「せかい」は まちがっているのだ。
なぜなら、 じぶんが まちがっていて、 じぶんは まちがえた 「せかい」しか つくらず、 「せかい」は じぶんも あわせた みんなに つくられた もの だから である。
まだ、 うぬぼれの きょうきが じぶんが まちがっていると きがついても、 「せかい」も まちがっていると きがつかない かも しれない。
したがって、 「せかい」は それじたい としては、 まちがっている、 つまり てんとうしている、さかさまに なっている、ゆがめられている、ぎゃくに なっている のだ。
「せかい」は じぶんに とって まちがっている のでは ない。
「せかい」は われわれに とって まちがっている のだ。

『こーどぎあす・はんぎゃくの るるーしゅ R2(あーる・つー)』の 1わで、 るるーしゅ という しゅじんこうが 「まちがっていたのは おれじゃない。 せかいの ほうだ」と いう せりふが ある から、 せかいと かいてしまったが、 へーげるは、 「ふへんてきな ちつじょ」と いっている。

ふへんてきな ちつじょも まちがっているのだ。
なぜなら、 こたいせい、こじんせい、 こたい である こと、 こじん である こと とは いっても、 こころの きまり である じてんで、 ただちに ふへんてきである から である。
ただし、 ちょくせつてきに ふへんてきであるに すぎない。
かんせつてきに ふへんてきである わけ では ない。
こべつてきでは ない じぶんが ちょくせつてきに じぶんの ありかただと かんがえた だけ だからだ。
まだ みんなの なかの じぶん という かんがえかたが かんせつてきに なっていない。
じぶんの こべつせい という ちょくせつてきな かんがえかたを ひっくりかえして まわっていた だけ だった。
とびださないと かんせつには ならない。
ちゃんと ことばで わからないと かんせつてきに わかった ことに ならない。

ふへんてきな ちつじょ

ふへんてきな ちつじょ とは、 みんなの ここことの きまり である。
こころは、 てんとう した もの、 まちがっている もの、 さかさまに なっていた もの、 ぎゃくに なっていた もの、 ゆがめられた もの であった。
そんな まちがった こころの きまり という ちつじょも まちがっている。
ただし、 われわれに とって、 それ じたいと しては、 まちがっている だけで、 この だんかいの いしきに とっては まちがっていない ように おもえている、。
うぬぼれの きょうきは、 ふへんてきな ちつじょが まちがっていると ことばに した。
うぬぼれの きょうきは、 おこり、 いかり、 はげしく うごいて、 いった。

この いかり、おこり、あれくるい、はげしい うごきは、 じこいしきが いかりくるっている という こと である。
なぜなら、 じぶんが はめつ しそう だから である。
みんなに のみこまれて じぶんが いなくなってしまう ことに あらがう ために、 いかり くるい、 はげしく うごいている のである。
このように いかり、 あれくるい、 はげしく うごく ことで、 まちがっている じぶんを ただしいと おもいこみ、 まちがっている という ことの せきにんを みんなに なすりつけようと している のだ。
そして、 その ように みんなが まちがっていると ことばで あらわそうと する ために おこり、 あれくるい、 はげしく うごく のである。
うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは、じぶんでは なく、 あいてである みんなが まちがっていると いう ことで、 みんなが まちがっている ことを げんじつに して、 その げんじつを かえて あるべき ありかたを げんじつに しようとする のだ。

うぬぼれの きょうきの だんかいの じこいしきは つぎの ような はなしを ことばに して あらわすと へーげるは かく。
ぷらとんの こっか という ほんに でてくる ぐらうこん という ものが せいぎ という ものを ひはんする ことばを いんようしている かのうせいが ある。
かくにんできていない。
ふへんてきな ちつじょ、 つまり せいぎは、 ねつぞう された ものだ。
ひとびとは けんりょくしゃに だまされている のだ。
けんりょくしゃ とは、 「くるった」 ように、 つまり まちがった やりかたで かみがみを しんじる せいしょくしゃや、おいしいものを たべる だけで じぶんの ほしいものを ほしがる だけの ぼうくんと、 それらの おつきの もの である。
おつきの ものは、 しはいしゃから うけた くつじょくを、 じぶん より えらくない ものに あたえて、 まんぞくしている のである。
ひとびとは このように よくあつ されている。
そのような よくあつを たすけているのが、 せいぎ、 ふへんてきな ほうりつ なる もの である。
ふへんてきな ちつじょと いわれている せいぎや ほうりつは、 ひとびとの こころの きまりごとと、 しあわせ という ものとは まったく ぎゃくであり、 まちがっている のだ。
これが、 うぬぼれの きょうきが ことばで あらわす かんがえかた である。
こころの きまりごと、こころの きまりとは、 こころの ほう であって、 こう なっていたら こころは こう かんじて、 こういう ことを する という きまり である。
せいぎ とは、 こころの ほうとは ぎゃくの ものと ここでは かんがえられる のだった。

ていこう

どいつご げんぶん16

Einmal erweist sie sich in dem Widerstande, welchen das Gesetz eines Herzens an den andern Einzelnen findet, Gesetz aller Herzen zu sein
110ぺーじ
「ひとつには、普遍的な秩序が抵抗を感じ、その抵抗はひとりの心情の法則が、他の個別的な者たちにおいて見いだすものであるかぎり、その秩序は万人が有する心情の法則〔「法則」を きょうちょうしている。〕であるしだいを証示している。」
581-582ぺーじ

どいつご たんご16

Einmalは いっぽうで、いちど という いみ である。
erweist sichは あきらかに なる、 しょうめいされる という いみ である。

ihm vor seine erweiste güte und wolthaten desto mehr zu danken. Schweinichen 1, 11;
„ERWEISEN“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=e09031, abgerufen am 02.04.2021.

sieは ふへんてきな ちつじょを さす。
Widerstandeは ていこう、はんこう、しょうがい という いみ である。
むじゅん、はんろん という いみの widersprachenと にている。
Gesetz aller Herzen zu seinなぞ。 わからない。要調査。

どいつご こうぞう16

いっぽうで、ふへんてきな ちつじょが じぶんを あきらかに する のは、 ていこうの なか であり、 その ていこうは、 ある こころの きまりが べつの こころの きまりの なかに みつけるの だが、すべての こころの きまりが ある のだ。
Gesetz aller Herzen zu seinなぞ。 わからない。要調査。
めいし、 zuふていしで めいしが ふていしする ことになる という いみに なる かたちとかが ありそう。

まとめ

ふへんてきな ちつじょが ていこうを かんじる。
ていこうとは、 ひとつの こころの きまりが ほかの こころの きまりに みいだす もの である。
ここでは、 ひとつの こころの きまりが ほかの こころの きまりと ちがう ものに なっている。
しかし、 すべての こころの きまりは ある ことに なる。
これで ふへんてきな ちつじょが あきらかに される。
ていこうの なかで、 あらそっている なかで、ふへんてきな ちつじょは、 みんなの こころの きまり であると わかる。
じぶんの こころの きまり でも、 ほかの ものの こころの きまり でも なかった。
それを あわせた みんなの こころの きまりが もんだい だったのだ。
しかし、 うぬぼれの きょうきも、 こころの きまりの だんかいの いしきも、 ほかの ものの きまりでは なく、 じぶんの こころの きまりが ただしいと 「それがしんじていた」。
げんじつは、 こころの きまりの だんかいの いしきも、 うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきも、 じぶんの こころの きまりを げんじつに する ことが できない。
だから、 うぬぼれの きょうきの だんかいの いしきは、 ほかの ものの こころの きまりが まちがっていると いっていた。
しかし、 ちがうのだ。
みんなの こころの きまりが げんじつ だから、 みんなの こころの きまりに あわない じぶんの こころの きまりが、 ほかの ものの こころの きまりと おなじ ように つぶされていた のだ。
ふへんてきな ちつじょも、 このような、 うぬぼれの きょうき という ていこうに あう。
しかし、 ふへんてきな ちつじょは、この ていこうを ふみつぶす ことで、 じぶんに あわせる ように むりやり させる ことで、 じぶんを げんじつに する。

いきた ちつじょ

この ふへんてきな ちつじょが、 ほかの ひとつの こころの きまりに たいして、 まもられている わけ であった。
しかし、 なぜ ふへんてきな ちつじょが まもられる のであろうか?
なぜなら、 ふへんてき ちつじょが、 いきている からだ。
きもちいいの だんかいの いしきに たいする うんめい としての ひつぜんせいは、 しんだ ちつじょ であった。
しかし、こころの きまりの だんかいの ちつじょは、 いきた ちつじょ であった。
つまり、 それぞれの こじん、こたいが それぞれ かわりながらも、 ひとつに まとまっている ような うごいて かわる ちつじょ だった。
いのちは、 いしき であった。
だから、 この いきた ちつじょは、 いしき である。
みずからと かんけいして、 なにかを かんじる いしき だった のである。
しんだ ちつじょ である うんめい としての ひつぜんせいは ただ そこに ある だけで、 いしきでは なかった。
しかし、こころの きまりの この ちつじょは、 「せいしん」(精神)が ある ふへんてきな ちつじょ である。
せいしん というのは、りせい しょうの つぎの しょうが せいしんしょう である ように、 へーげるに とっては より すぐれている ありかた である。
りせいは こじんで わかる のに たいして、 せいしんは みんなで わかる のだ。 おそらく。 たぶん。
そして、この いきた ちつじょが じったい である。

じったい という かんがえかたは、 へーげる では どくとく である。
おおくの ばあい、 じったいと いえば、 うごかず かわらない もの である。
しかし、 へーげるに とっては、 じったい とは かわる ことで うごくのに かわらない もの である。
じったいは、 Substanzすぶすたんつ、 つまり したに ある もの である。
だから、 きばんの ような いめーじ であるが、 へーげるに とっては、 きばんは うごくのだ。
うごいた けっかが せいしんげんしょうがくの いしきの それぞれの けいけん である。
しかし、 いつでも、 この じったいの うえに いしきは あるのだ。
だから、 いきた ちつじょは じったい である のである。

じったいの なかで いきる

この いきた ちつじょ である じったいの なかで、 ある だんかいの いしきに とって じぶんが げんじつに なっている ときに、その だんかいの いしきは、 「個体として生き、また自分たち自身を意識している」 (582ぺーじ)。
こたい、こじん
いきる
じぶんたち
じぶんたちを いしきする
という きーわーどが でてくる。
じぶんたちを いしきする という はなしは、 おそらく はじめて でてきた はず。
せいしんが じぶんたちを いしきする という はなしである はず である。
りせいは じぶんを いしき しながら ほかを いしき する。
じこいしきは じぶんじしんを いしきする。
いしきは ほかを いしきする。

じつは たよっている ふへんてきな ちつじょ

ふへんてきな ちつじょの なかで いきている ものが、 この ふへんてきな ちつじょに もんくを いう ことも ありうる。
その ときは、 こころの きまりの いしきや、うぬぼれの きょうきの ように、 ちつじょは ほんとうの きまりと ちがうと かんがえる わけだ。
ほんとうの きまり とは、 うちがわの きまり、 じぶんの おくに ある きまり である。
うちがわは りそうてきな ものの がわを あらわす。
うちがわが もともと ある りそうの ありかただと おもわれる から である。
この ときは、 こころは じぶんの 「それがしんじる」ものを ちつじょとは ちがうと かんがえて、 「それがしんじる」に すぎない ものを ちつじょ だと いって、 「それがしんじる」 ものを ただしいと いう。
しかし、 それらの ものが こころ である かぎりで、 こころの きまりに したがっていると しか かんがえられない ので、その こころの きまり という ちつじょが ないの ならば、 その ものは こころ では ないか、 きえさる。
こころでは ない という のは、 ちつじょの そとに おかれる こと であり、 きえさる というのは、 すべてを うしなう こと である。
だから、 こころが こころ である かぎりで、 こころが なにかを する かぎりで、 じっさいの ところは、こころは こころの きまり という ちつじょに くっついている のである。
こころの ちつじょは、 こころの ありかた、ほんしつ だから、 こころ である じぶんの ほんしつ、 ありかた である のだ。

ちからと げんじつが おおやけの ちつじょに する

こころの きまりが ないと、 きえるか、 こころでは なくなってしまう という のは ちから という かんがえかたで せつめい できる。
こころの きまりは ちからを ずっと もっている ので、 こころを おどす のだ。
「じぶんに したがわなければ、 けすぞ」 と いって。
じっさいに こころの きまり という ちつじょに したがわないと こころ としては やっていけない ので、この こころの きまり という ふへんてきな ちつじょは、 ちからを もっている。
さらに、 この ふへんてきな ちつじょは、 じぶんが かならず げんじつに なる、 という よりも げんじつに する ので、ずっと げんじつ である。
すると、 ふへんてきな ちつじょは、 おおやけの ちつじょと いわれる。
この おおやけの ちつじょは、きえない。
おおやけの ちつじょは、 じぶんで ありつづける。
おおやけの ちつじょは、じぶんと ひとしく ありつづける。
いきている ものが いきている もの として ひとつ である という はなしと たいおうしている。
そして、おおやけの ちつじょは いきている。
いきている ものは うごいて、 かわる ちつじょ である という はなしと たいおうしている。
おおやけの ちつじょは、 ふへんてき である。
みんなに とって おおやけの ちつじょが ある から である。
そして、 おおやけの ちつじょは ある。
おおやけの ちつじょは げんじつ なので、 こころ という じぶんに とって ある。
こじん、こたいは おおやけの ちつじょの かたちに すぎないと かんがえられる。
しかし、 たしかに こたい、こじんは おおやけの ちつじょの かたち、 けいしきに すぎず、 ないよう では ないが、 それは こたい、こじんや おおやけの ちつじょが ただしい という ことでは ない。
おおやけの ちつじょも てんとうしている、 さかさまになっている、ゆがんでいる、ぎゃくになっている、 まちがっている。

b13

おおやけの ちつじょと こころ

なぜ おおやけの ちつじょも てんとうしている、 さかさまになっている、ゆがんでいる、ぎゃくになっている、 まちがっている のか?
なぜなら おおやけの ちつじょも、 てんとうしている、 さかさまになっている、ゆがんでいる、ぎゃくになっている、 まちがっている こじん、こたい としての みんなの きまり でしか ない から だ。

おおやけの ちつじょは、 みんなの こころの きまり だった。
すべての それぞれの こころが ちょくせつてきに この おおやけの ちつじょと おなじ であった。
おおやけの ちつじょは ふへんてき である。
だから、 すべての それぞれの こころが ちょくせつてきに ふへんてきな ものと おなじ である。
したがって、 おおやけの ちつじょは、 げんじつとは いっても、 それじたい として ある、 または われわれに ある げんじつ では ない。
おおやけの ちつじょは、 こころに とっての げんじつ でしか ない。
もちろん、 きもちいいの だんかいの いしきまでは、 この こころの げんじつ すら なかった。
こころ というのは、 じぶんに とって じぶんが ある こたい てきな もの であった。
こころは、 じぶんと かんけいして ある こたい であり、 じぶんが どんな ものか じかく している こたい である。
こころは、 それなりに じぶんが じゆうに ふるまえる もの であった。
こころは、 ほかに かんぜんに したがう ことは ない という いみで、 じぶんだけで ある もの でも あった。
こころは、 たいじ(対自)・そんざいの こたいせい である。

こころの きまりを つくる

こころの きまりを じぶんが つくろうと すると、 ほかの ものが じゃましてくる。
つまり、 ほかのものの ていこうを この だんかいの いしきは けいけんする。
なぜ、 ほかの ものは ていこう してくる のか?
なぜなら、 じぶんが つくった こころの きまりは、 じぶん だけに しか あてはまらない からだ。
じぶんに とって ある ものを こころの きまりに する のだから、 おなじ ように じぶんじしんと かんけいしている ほかの ものの こべつてきな ありかたに はんろんする。
じぶんが つくった こころの きまりは、 ほかの ものの こべつてきな ありかたに たいして むじゅんする。
だから、 ほかの ものは ていこうしてくる。
むじゅんする ものを つくられて、 じぶんの こべつてきな ものを なくされたら こまる から、 ていこうする。
しかし、 ほかの ものも たんに まもっている という わけ では なく、 じぶんじしんの こころの きまりを つくり、 じぶんじしんの こころの きまりを みんなに あてはめる ように している のだ。
だから、 ふへんてきな ものが あると いっても、 たんに いっぱんてきな ていこうが ある だけ なのだ。
ふへんてきな ことを めざしているとは いっても、 そこで めざされる ふへんてきな こと とは、 ほかのものに かとう という ていこう でしか ない のだ。
なかみは、 とくに もんだいに ならず、 ただ たがいに あらそって、 どっちかが かてば ふへん という なまえが えられる ように たたかっている だけ なのだ。
つまり みんなが たがいに たたかっている だけ なのだ。
みんなが じぶんの こべつてきな ものを ふへんてきな ものに しようとして、 だれも かちきる ことは できない ので、 だれも ふへんには なれない。

なぜ だれも ふへんに なれない のか?
なぜなら みんなが おなじ ように ていこうを うける からで、 その ていこうに よって、 みんなが じぶんの こべつてきな ものを そのままに しておく ことは できない から である。
ほかの もの たちに よって、 たがいに かいたい(解体) させられて しまう。
だから、 ふへんてきに みえた おおやけの ちつじょも、 ちつじょ とは いえず、 たたかい という こんとん(混沌)とした もの なのである。
その たたかいも、 いっぱんてきな もの でしか なく、 ないようは どうでも よい のである。
みんなが たがいに たいして たたかっている から である。
それぞれの こたい、 こじんが、 うばえる ものは、 じぶんの ほうに うばいとる。
じぶんの せいぎ(正義)、ただしい こころの きまりを ほかの ものに おしつける。
じぶんの こべつてきな ありかたを そのままに、 ほかの ものの こべつてきな ありかたを けそうと する。
しかし、 おしつけようとした じぶんの こべつてきな ありかたも、 ほかの ものに よって けされる。

よの なりゆき、せけん、せかいの ながれ

おもいこまれている、「それがしんじられている」 おおやけの ちつじょ とは、 せかいの ながれ である。
せかいの ながれ というのは、 なにか、 つねに すすんでいる かんじが あるが、 そんな すすんでいる ことは ない。
ふつう、 へーげるの れきし・てつがくとは、 つねに よのなかが すすんでいる という いめーじ だが、 この ばしょを よむと、 もっと ふくざつな ことが わかる。
ちつじょ なんて 「それがしんじられた」もの でしか なく、 たんに こたいが きえたり でてきたり する という うごきが ある のである。
ありかた、ほんしつ、 うごかない もの という ものは せかいの ながれ には ない のである。

おおやけの ちつじょ

こうじょ・りょうぞく(公序良俗)とも いう。

せかいの ながれ

つぎの かんとと へーげるが でてくる ところは ちゅういして よんだ。

denn man kann nicht sagen, dasz anstatt der gesetze der natur gesetze der freiheit in die causalität des weltlaufs eintreten, weil ... sie nicht freiheit, sondern selbst nichts anders als natur wäre Kant I 3, 309 akad.; der allgemeine inhalt des wirklichen weltlaufs hat sich schon ergeben; näher betrachtet ist er wieder nichts anderes als die beiden vorhergehenden bewegungen des selbstbewusztseyns Hegel w. (1832) 2, 285 u. ö.
„WELTLAUF, m.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=w16969, abgerufen am 02.04.2021.
「自然の法則の代わりに、自由の法則が世界の流れの因果関係に入るとは言えません。なぜなら...それは自由ではなく、それ自体が自然に他ならないからです。Kant I 3, 309 akad.;
実世界のコースの一般的な内容はすでに明らかになっています。 よく調べてみると、これもまた、先行する2つの自己意識の動きにすぎません。Hegel w. (1832) 2, 285 u. ö.」

いや、 わからない。

WELTLAUF, m. , seit dem 15. jh. bezeugte komposition, die durch zusammenziehung eines frühnhd. verbreiteten genitivischen gefüges entsteht: der welte louf (14./15. jh.) städtechron. 9, 783 (Straszburg); der werlt lawff (15. jh.) Rosenplüt in: mhd. lieder u. sprüche 185 Eis; der welt lauff (1524) Luther 15, 302 W.; s. auch H. R. Manuel unter 2 und vgl. weiterhin dän. verdensløb, nordfries. wràlslûp (mit genitiv. s). sie wird dem neueren dt. vor allem in bestimmten umgangssprachlichen wendungen geläufig (s. u. 2), während die gleichzeitig aufgekommene sinnverwandte komposition weltlauft (s. 1DWb lauft teil 6, 334) /Bd. 28, Sp. 1625/ unüblich und auf gelegentliche anwendungen beschränkt bleibt (s. Luther 30, 1, 140 W.; Mathesius Syrach [1586] 2, 3a; die belege aus dem 17. und 18. jh. bei Bauer-Collitz waldeck. wb. 8a; Fischer schwäb. 6, 2, 3401; ferner Scheffel ges. w. [1907] 4, 17).
1) verlauf des weltgeschehens.
a) allgemein, mit dem umfassendsten begriff des wortes in philosophisch-theologischer anwendung: also der gantze natur und weltlauff bezeugt, dasz ein ... gubernator seyn msse Dannhawer catech. (1657) 1, 68; durch alles dieses wird gleichwohl gottes zweck nicht vereitelt, sondern der beschlossene weltlauf wird ausgeführt C. A. Crusius kurzer begr. d. moraltheologie 2 (1773) 1118; denn man kann nicht sagen, dasz anstatt der gesetze der natur gesetze der freiheit in die causalität des weltlaufs eintreten, weil ... sie nicht freiheit, sondern selbst nichts anders als natur wäre Kant I 3, 309 akad.; der allgemeine inhalt des wirklichen weltlaufs hat sich schon ergeben; näher betrachtet ist er wieder nichts anderes als die beiden vorhergehenden bewegungen des selbstbewusztseyns Hegel w. (1832) 2, 285 u. ö.; auch in ihr (der natur) vielleicht entstehen die bedeutungsvollen gestalten der geschöpfe nur durch den äuszerlichen zwang entweder einer göttlichen kunst oder eines zufälligen weltlaufes Lotze mikrokosmus (1856) 1, 7; ein geist, dem alle anfangspositionen und anfangsgeschwindigkeiten aller dieser materiellen teilchen sowie alle kräfte bekannt wären ... könnte den ganzen weltlauf voraus berechnen Boltzmann popul. schr. (1905) 4; es gibt noch einen zweiten weg, um den weltlauf zu begreifen K. Heim weltanschauung d. bibel (1920) 9; oft mit der vorstellung eines stromes verknüpft: sicher seines plans, den keine zeit ausführt, aber auch keine vernichtet, blickt er auf den strom des weltlaufs ruhig herab Schelling s. w. (1856) I 5, 467; sie (die kunst) reiszt das objekt ihrer kontemplation heraus aus dem strome des weltlaufs Schopenhauer w. 1, 252 Gr.; wenn auch der wellenschlag, der von ihr (der tat) ausgeht, sich mannigfach bricht, abschwächt, ausgleicht im gröszeren strome des weltlaufs Nic. Hartmann ethik (21935) 2; aber auch sonst zuweilen in anschaulicher auffassung, eines dichterischen bildes: das ist auch meine hoffnung, meine lust in einsamen stunden, dass solche grosse töne (freundschaft des Harmodius und Aristogiton) und grössere einst wiederkehren müssen in der symphonie des weltlaufs. die liebe gebahr jahrtausende voll lebendiger menschen; die freundschaft wird sie wiedergebähren Hölderlin s. w. 2, 164 Hell.; oder wortspiels: bis einmal der ganze weltlauf abgelaufen ist und so eingeschrumpft wie sies brauchen für ihren groszen — oder kleinen geist — und das wird freilich noch ein weilchen dauern (1887) Hildebrand ged. üb. gott (1910) 372.
b) mit besonderem bezug auf den verlauf der weltgeschichte (α), des zeitgeschehens (β) oder das getriebe des lebens schlechthin (γ).
α) gewisse relation von einem weibe, das ... knfftigen welt- und kriegs-lauff angezeiget Joh. Prätorius neue weltbeschr. 2 (1677) 68; von übervölkerten gegenden her wird sich ebendasselbe (das wandern der nomadenvölker) in dem groszen weltlauf noch mehrmals ereignen Göthe I 25, 1, 181 W.; dazu ist uns das licht der geschichte gegeben, dasz wir ... was den weiteren weltlauf betrifft, nicht in trügerischen erwartungen ... dahinleben Döllinger vortr. (1888) 1, 76; als ... hammerschläge ... auf Ludwig' s heere herabfielen, da wurde sie (frau v. Maintenon) ... irre an der göttlichen leitung des weltlaufs ebda. 1, 413; vereinzelt auch für einen weltgeschichtlichen abschnitt: neue zeiten sollten unter ihm (dem prophezeiten groszen könig) beginnen, ein neuer groszer weltlauf Herder 24, 540 S.
β) die ungeheuren bewegungen des allgemeinen politischen weltlaufs, die auf mich, wie auf die ganze masse der gleichzeitigen, den gröszten einflusz gehabt, muszten vorzüglich beachtet werden (bei der abfassung einer selbstbiographie) Göthe I 26, 7 W.; zög' nur der husten fort und statt dessen zuweilen etwas neues aus der literatur ein oder ein freundlicher besuch, der mich ein biszchen au /Bd. 28, Sp. 1626/ courant mit dem weltlaufe hielt, ich wollte es mir nicht besser wünschen (31. 10. 1844) A. v. Droste-Hülshoff 2, 354 Schulte-K.; (räthin:) ich wollte, die zeitungen wären gar nicht erfunden ... (rath:) ei, mein kind! man musz doch den weltlauf beobachten Bauernfeld ges. schr. (1871) 3, 225; vereinzelt mit speziellem bezug auf das leben in der groszen welt: du (Körner) glaubst nicht, was es einem armen schelm von poeten in meiner abgeschiedenen, von allem weltlauf getrennten lage kostet, eine solche fremdartige und wilde masse zu bewegen (wie den 'Wallenstein') (10. 7. 1797) Schiller br. 5, 219 Jonas; oder auch das ablaufende alltagsgeschehen: bis eines tages der kupferschmied dahinter kam, dasz ihm das gemäuer eigentlich die aussicht verdarb, wenn er vor die werkstatt treten und den weltlauf überblicken wollte qu. a. d. j. 1935.
γ)
er (der weise) sieht vielmehr mit stiller ruh
dem wunderlichen weltlauf zu ...
Triller poet. betr. (1750) 4, 230;
(Jesus) sitzt zur rechten hand im thron (gottes)
und ist Noah von den archen,
wo die menschen von den strmen
dieses welt-laufs sicher ruhn
Zinzendorf teutsche ged. (1766) 251;
bedenke, wie der weltlauf rummelt
und alles durcheinander hummelt
(23. 10. 1786) Seume in: gesch. s. lebens 56 Planer-Reiszmann;
will man ... etwas andres seyn als was der ... weltlauf ... aus den leuten macht, so musz man aus dem strom heraus Fr. H. Jacobi w. (1812) 5, 170; ähnlich zuweilen noch in neuerem sprachgebrauch: reise nicht im land herum und laufe nicht auf allen gassen, sondern gewöhne dich, von der veste deines hauses aus und inmitten bewährter freunde den weltlauf zu verstehen; dann wirst du mit mehr weisheit zur zeit des handelns auftreten als die jagdhunde und landläufer G. Keller ges. w. (1889) 6, 320; wenn ich den weltlauf aufmerksam beobachte und verallgemeinernd zusammenhänge zwischen meinen schicksalen und meinen darauf antwortenden praktischen zielsetzungen herstelle, so werde ich klüger Spranger lebenserfahrung (1946) 45.
2) 'der gewöhnliche lauf der dinge in der welt ...; besonders, die gewöhnliche art und weise zu handeln der menschen in der welt' (Adelung 5 [1786] 163), 'der weltbrauch' (Güntzel haubtschlüssel [1648] 859); so auch in genitivischer fügung:
der wlt louff, bung vnd handel,
ir thn vnd lan, jr wysz vnd wandel
(1548) H. R. Manuel weinspiel 64 ndr. (v. 1941);
jedoch bereits seit dem 15. jh. in fester komposition: wiewol vormals von einem rate gebott unnd gesetze aussganngen sein, innhaltennd, das keyn ir burger eynicherley cleyder kürtzer dann soverr er mit gestracktem arm abwertz raychen mag, tragen solle, ydoch nachdem das nach gemeynem welltlawff dieser zeyt nyt syttlich oder gewonlich ist, so will eyn erber rate gedulden, das hinfüro die cleyder kürtzer dann als vor gesetzt und ob angezaigt ist, getragen werden mügen (15. jh.) Nürnb. polizeiordnungen 105 lit. ver.; finden sich ihrer viel ... die sich nach dem gemeinen weltlauff richten Harsdörffer teutsch secretar. (1656) 1, 2, 144; die warheit ist vergessen, eben diese worte kan man auch sagen vom jetzigen welt-lauff Albertinus hirnschleiffer (1664) 92; ich konte diese einzelnen (menschen) genieszen und brauchte mich an den ton des allgemeinen nicht zu binden, wenn ich dafür leiden wollte, was sich nach weltlauf gebührt (8. 3. 1789) Caroline 1, 50 Waitz; zugleich durft' er (der anschwärzer) dem alten weltlaufe vertraun, dasz schwanke meinung bei gehöriger pflege leicht erstarkt J. H. Voss antisymb. (1824) 2, 119;
doch das ist nicht des weltlaufs art,
dasz er beschwerden uns erspart
Rückert ges. poet. w. (1867) 2, 437;
die Shakespearischen menschen wollen sich ... gegen den weltlauf ... durchsetzen O. Ludwig ges. schr. (1891) 5, 169; der weltlauf geht so Rosegger schr. (1895) I 1, 259; insbesondere in der wendung bei (nach) jetzigem weltlauf: was Isaias längst im geist vorgesagt, das wird bey /Bd. 28, Sp. 1627/ jetzigem welt-lauff redlich erfüllt: ... alle lassen sich vom geitz regieren, vom ersten bisz zum letzten Selhamer tuba tragica (1696) 2, 4; ein mädchen musz, nach dem jetzigen weltlauf, ungerechtigkeiten in bester form ertragen können Hippel über d. ehe (1792) 135; die lehre ist gezogen, dasz einfache wahrheit bei dem jetzigen weltlaufe nichts mehr verfange Gervinus dt. dichtg. (1853) 2, 294; sowie das (es) ist der welt lauf u. dgl.: das ist der jetzigen welt lauff ea est rerum natura et temporum cursus, hi mundi mores sunt Dentzler clavis (1686) 2, 344; das ist der welt-lauff, so geht es in der welt zu così và il mondo Rädlein dt.-it.-frz. (1711) 1046; es ist der weltlauf, sire, das einige leute fabeln und anordnungen machen, und andre leute darüber lachen und sie wieder abschaffen M. Claudius s. w. (1775) 3, 91; tausende sind in meinem falle — das ist weltlauf, und in revolutionen geht es nicht anders Meisl theatr. quodlibet (1820) 3, 182; so ist der weltlauf, sie haben ihre geschäfte gehabt Bettine Günderode (1840) 2, 188; so ist der weltlauf, der weltdank, der weltlohn F. L. Jahn w. 2, 501 Euler; es ist der weltlauf, dasz ma' amahl sterb'n muasz Hügel Wien 188a; des is scho' so der weltlauf (d. h. darin liegt nichts befremdendes, nichts absonderliches) ebda. 188b; dat ës wràls lûp Jensen nordfries. 714; kürzer: Katharina hat sich ... ein groszes kaiserdiadem aus ihres mannes todesfall gesponnen. weltlauf Grabbe s. w. 4, 227 Bl.; so kommt ... mancher mensch zu einem renommee, er weisz nicht, wie. weltlauf! Nestroy ges. w. (1890) 2, 314; zuweilen auch als ausruf: o weltlauf! für's birnschnipfen kriegt der eine medaille! ebda. 1, 250.
3) in besonderer anwendung verschiedener art.
a) pluralisch, wie läufe teil 6, 309 (7) und zeitläufe teil 15, 565 (3); oft allgemein auf die bewegten, unsicheren zeitverhältnisse bezogen (s. auch Fischer schwäb. 6, 2, 3401): das die kouflúte ... ziehen sullent die strassen, als ... die weltlwfe ungetrẃ und geschwind sind (Gmünd 1440) dt. reichstagsakten 15, 393 bayer. akad.; (Heinrich der Löwe bat Friedrich Barbarossa,) er wolte die vnbestendigen weltleffe ansehen und bedencken B. Faber Saxonia (1563) 143a; bey solchem ... schwirigen weltläuffen hochnöttigen werck (30. 7. 1602) Frauenholz heerwesen 3, 2 (1939) 208; (wir) sprachen viel von Friedrich, von den weltläufen (25. 3. 1789) Schubart br. in: D. Fr. Strausz ges. schr. 9 (1878) 266; wo etwan eine neue häresie den geilen sprosz aus dem unkraute dieser weltläufe zu heben wagt qu. a. d. j. 1926; aber auch für einzelne, in der welt ablaufende geschehnisse und erfahrene begebenheiten: dann wo die historienschreiber nicht ein gantz corpus der weltlauff vnd geschicht also auff vns verfellet hetten, lebten wir dem vnvernnfftigen viehe gleich, in verfinsterung vnnd vnwissenschafft ... aller verlauffener geschicht vnd handlung S. Feyerabendt Bonfinius, ungerische chronica (1581) vorr. a 2b; in der sprache der propheten ist der tag des herren kein irrdischer tag; seine erscheinung und ankunft ist kein kommen in einer minute. weltläufe, revolutionen sinds Herder 19, 104 S.; dasz hiezu (zu einem vollkommenen herrscher) ... grosze, durch viel weltläufe geübte erfahrenheit ... erfordert wird Kant w. 4, 301 H.; sowie einzelne weltläufige handlungs- und verhaltungsweisen (vgl. 1DWb lauf teil 6, 310 [9]): also sagt man, der artzt hat gut glck, es geht jhm wol ab statt, wiewol er nicht so viel kan als der ander, nun was soll das sein, als allein die geschicklichkeit? entweders er kan sein maul brauchen ... macht jhm gunst vnd dergleichen. auff solchs, wann es schon nicht als gut ist, so acht mans nicht: die weltluff an jhm, dieselbigen vertuschens vnnd verbergens jhm Paracelsus opera (1616) 2, 207.
b) mit bezug auf einzelne schicksale oder lebensläufe: (das menschliche leben) ein weltlauf zum todengrab seye Harsdörffer teutsch secretar. 2 (1659) 141; und denket, dasz wir nicht wiszen, was aus uns noch werden kan, und nimand sich glüklich preisen, bisz er den weltlauf vollendet qu. a. d. j. 1776 bei Meinecke Boyen (1896) 1, 9; der wird Göthe'n leicht vorwerfen, dasz er ... die normale laufbahn der menschlichen entwickelung mehr sprungweise berührt, /Bd. 28, Sp. 1628/ als im gesetzlichen weltlaufe siegend durcheilt habe Gervinus dt. dichtg. (1853) 5, 118; bei Jean Paul hingegen ausdrücklich von lebenslauf unterschieden: da er (der held im epos) nur dem ganzen dient und da kein lebens-, sondern ein weltlauf erscheint, so verliert sich sein schicksal ins allgemeine w. 49-51, 243 Hempel.
c) vereinzelt von der bahn eines gestirns im weltall: man denke sich einen kometen in seinem weltlauf, und dasz er, bewuszt gedacht, von der welt, wie sie ihm an einer bestimmten stelle erscheint, ein bild aufnähme und zeichnete (1883) Rud. Hildebrand ged. üb. gott (1910) 207.
d) in ironischer, an 3 b oder c anknüpfender anwendung: noch ehe das tischrücken seinen weltlauf vollendet hatte, erklärte man schon von manchen seiten alles für schwindel Hoffmann v. Fallersleben mein leben (1868) 5, 211.

„WELTLAUF, m.“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/21, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=w16969, abgerufen am 02.04.2021.
ぐーぐるやく
ウェルトラウフ、m。、15世紀以来早い手で契約することによって、構成を証明しました。広範な属格構造が出現します:世界のルーフ(14世紀/ 15世紀)städtechron。 9、783(ストラスバーグ); der werlt lawff(15世紀)Rosenplütin:mhd。liederandproverbs185アイスクリーム; der weltlauff(1524)Luther 15、302W。; 2歳未満のH.R.Manuelおよびデンマーク語も参照してください。 verdensløb、北のフリーズ。 wràlslûp(属格付き。s)。特に特定の口語表現(以下の2を参照)では、新しいドイツ語に馴染みがありますが、同義語の構成はウェルトラウフト(1DWbはパート6、334を実行)/ vol。 28、Col。1625/珍しいままで、時折の使用に制限されています(Luther 30、1、140Wを参照; Mathesius Syrach [1586] 2、3a; Bauer-CollitzWaldeckでの17世紀と18世紀の文書.wb。8a ; Fischerschwäb.6、2、3401;Scheffelges。w。[1907] 4、17)。
1)世界の出来事のコース。
a)一般に、哲学的・神学的応用におけるこの言葉の最も包括的な概念:つまり、自然全体と世界の流れは、...知事はダンハウワーのカテックでなければならないことを証明しています。 (1657)1.68;このすべてを通して、それにもかかわらず、神の目的は妨げられませんが、世界の決定されたコースが実行されます。C。A。クルシウス、簡単な説明d。道徳神学2(1773)1118;自然の法則の代わりに、自由の法則が世界のコースの因果関係に入るとは言えません。なぜなら...それらは自由ではなく、むしろ自然カントI 3、309別名に他ならないからです。実世界のコースの一般的な内容はすでに明らかになっています。より綿密に考えると、それはまた、自己意識のヘーゲルwの先行する2つの動きに他なりません。彼女(自然)においても、おそらく意味のある形の生き物は、神の芸術または世界の偶然のコースのいずれかの外部からの強制によってのみ発生します。Lotzemikrokosmus(1856)1、7;これらすべての物質粒子のすべての開始位置と開始速度、およびすべての力を知っている精神は、ボルツマンの人口を前もって全世界の進路を計算することができます。 schr。 (1905)4;世界の進路を理解するための2番目の方法があります。聖書(1920)9;多くの場合、流れのアイデアに関連付けられています:時間が実行されないが破壊されない彼の計画を確信して、彼は静かに世界のコースシェリングの流れを見下ろします.w。(1856)I 5、467;彼女(芸術)は、彼女の熟考の対象を世界の人種ショーペンハウアーW. 1、252Grの流れから移動させます。彼女(行為)から発せられるうねりが多くの方法で壊れて弱まるとしても、世界のレースニックのより大きな流れで補償します。ハートマン倫理(21935)2;しかし、時には詩的な絵の鮮やかな概念で:それはまた私の希望であり、孤独な時間での私の欲望であり、そのような素晴らしい音符(ハルモディオスとアリストギトンの友情)とより大きな音符はいつか世界のレースの交響曲に戻らなければなりません。愛は生きている人々でいっぱいの何千年もの間生まれました。友情は彼女をヘルダーリンs.w.2、164地獄に連れ戻すでしょう。または言葉遊び:全世界が終わり、あなたの大きな(または小さな心)に必要なだけ縮小するまで、そしてそれはもちろんまだしばらくかかります(1887)ヒルデブランドは老化しました。以上神(1910)372。
b)世界史の経過(α)、現代の出来事(β)、または歳月風雲(γ)に特に関連して。
α)将来の世界と戦争の進路がJoh.Prätoriusの新しい世界の制約を示した女性の特定の関係。 2(1677)68;人口過密地域からは、同じことが(遊牧民の放浪)がグレートワールドコースのGötheI25、1、181Wで数回発生します。さらに、歴史の光が私たちに与えられました、私たちは...世界のさらなるコースに関する限り、誤った期待に生きていない...Döllingerの講義。 (1888)1.76; ...ハンマーが吹く...ルートヴィヒの軍隊に落ちたとき、彼女(フラウ・フォン・メンテノン)は...そこでの世界人種の神聖なリーダーシップに腹を立てた。 1,413;時折、世界史のセクションでも:新しい時代は彼(預言された偉大な王)の下で始まるべきです、新しい偉大な世界の種族ヘルダー24、540ページ。
β)同時の大衆全体と同様に、私に最大の影響を与えた世界の一般的な政治過程の途方もない動きは、特別な注意を払う必要がありました(自己伝記を書くとき)GötheI26、 7W。;咳をするのをためらって、代わりに時々文学から何か新しいものを追加したり、私に少し噛み付くような友好的な訪問をしてください。 28、1626年列/ウェルトラウフの勇気、私はそれをもっと良くしたくなかった(1844年10月31日)A。v。 Droste-Hülshoff2、354Schulte-K。; (räthin:)新聞が発明されていなかったらいいのに...(rath :) ei、my child!人は世界を持っている必要があります
ウォッチランバウエルンフェルトトット。 schr。 (1871)3、225;時折、偉大な世界での生活に特に関連して:あなた(穀物)は、このような奇妙で野生の大衆( 'Wallenstein')(1797年7月10日)Schillerbr。 5、219 Jonas;または日常の出来事でさえ:ある日まで、銅細工職人は、ワークショップの外に出て世界を見たいと思ったときに、壁が実際に彼の視界を台無しにしていることに気づきました。 a。 d。 j。 1935年。
γ)
むしろ、彼(賢者)は静かに落ち着いて見ています
気まぐれな世界のレース..。
Trillerpoet。Betr。(1750)4、230;
(イエス)は(神の)王位の右手に座っています
箱舟のノアです、
嵐の人々がいる場所
この世界のレースは安全に休むでしょう
ジンゼンドルフドイツ蒸し(1766)251;
世界の人種がどのようにゴロゴロしているのか考えてみてください
そしてすべてがぶつかっている
(1786年10月23日)Seume in:Gesch。S。Lebens 56 Planer-Reiszmann;
...世界の人種...が人々に対して行うこととは異なる何かになりたいのであれば、Fr。H。Jacobi W.(1812)5、170;同様の、時には最近の使用法:国中を旅行したり、すべての路地を駆け下りたりしないでください。しかし、あなたの家のベストから、そして信頼できる友人の真っ只中で、世界のコースを理解することに慣れてください。そうすれば、猟犬やカントリーウォーカーのG.ケラーが言うよりも、行動の時にあなたはより多くの知恵を持って現れるでしょう。 w。(1889)6、320;私が世界の流れを注意深く観察し、私の運命と私が応答した実際的な目的との間の一般的な関係を作るならば、私はより賢いスプランジャーの人生経験になるでしょう(1946)45。
2) '世界の物事の通常のコース...;特に、世界の人々による通常の行動方法 '(Adelung 5 [1786] 163)、'世界の習慣 '(Güntzelhaubtkey[1648] 859);属格の偶然にも:
世界のラフ、運動と貿易、
irthnvndlan、jr wysz vnd wandel
(1548)H。R. Manuel weinspiel 64ndr。 (v。1941);
しかし、15世紀以来。固定された構成で:彼が以前にレートコマンドと法律から始めた方法、一時停止、彼が伸ばした腕を持つabwertz raychenが好きな場合よりも短いkeynir burger eynicherley cleyder、しかしその後、一般的なwelltlawffによるとこのzeytは正常ではありませんまたは習慣的であるため、eynerberは辛抱強くなりたいので、クライダーは以前よりも短く着用する必要があり、それが示されているかどうか(15世紀)Nürnb。警察規則105lit.ver。;あなたはそれらの多くを見つけるでしょう...共通の世界をフォローしている人はHarsdörfferteutschの秘書を運営しています。 (1656)1、2、144;真実は忘れられています、これらの言葉は、Albertinus hirnschleiffer(1664)92の現在の世界人種についても言えます。私はこれらの個人(人々)の楽しみを説明し、ウェルトラウフ(1789年3月8日)キャロライン1、50ウェイトズによると、私が苦しむことを望むのであれば、一般的な口調に縛られる必要はありませんでした。同時に、彼(恐喝者)は旧世界のコースを信頼することができます。適切な注意を払うことで意見が変動することで、J。H.Vossの反シンブを簡単に強化できます。 (1824)2、119;
しかし、それは世界の人種のやり方ではありません、
彼は私たちの苦情を救う
リュッカートの合計。詩人w。(1867)2、437;
シェイクスピアの人々は...世界の人種に反対して... O。ルートヴィヒのgesを勝ち取りたいと思っています。 schr。 (1891)5、169;世界のレースはそうSchrRoseggerに行きます。 (1895)I 1.259;特に現在の世界のレース(後)のフレーズで:イザヤスが彼女の心の中で長い間予測していたことはベイ/ volになります。 28、Col。1627/現在のWelt-Lauffは正直に成就しました:...最初から最後までSelhamer tuba tragica(1696)2、4;現在の世界のレースの後、女の子のムスは最高の形で不正に耐えることができます。結婚(1792)135;世界の現在の進路の単純な真実はもはやゲルビヌス、dt。詩人を巻き込まないという教訓が引き出されました。 (1853)2,294;それと同様に(それは)世界の実行などです:それは現在の世界の実行であり、自然と一時的な呪い、こんにちはムンディ・モアズ・サント・デンツラー・クラビス(1686)2、344;これが世界のあり方なので、世界ではそうvàilmondoRädleindt.-it.-frzに行きます。 (1711)1046;寓話や編曲をする人もいれば、それについて笑って再び廃止する人もいるのは、世界の人種です。M。Claudiuss。w。(1775)3、91;私の場合、数千人が世界の人種であり、革命においては、マイスル劇場と同じです。クオドリベット(1820)3、182;それは世界のレースです、彼らは彼らのビジネスを持っていましたBettineGünderode(1840)2、188;世界の人種、世界の感謝、世界の賃金F. L. Jahn w。2、501オイラーもそうです。それは世界の人種であり、そのma'amahldiemuaszHügelWien188a;それはワールドコース(つまり、奇妙なことは何もない、奇妙なことは何もない)の同上に当てはまります。 188b; datëswràlslûpJensen北フリーズ。 714;短い:カタリーナh
sichで...彼女の夫の死から紡がれた大きな帝国の王冠。 Weltlauf Grabbe s。w。4、227枚;これが方法です...一部の人々は評判を得ます、彼らは方法を知りません。世界のレース!ネストロイは座った。 w。(1890)2,314;時には感嘆符として:o世界の人種!梨を切り取るとメダルがもらえます!同上。 1、250。
3)さまざまな種類の特別なアプリケーション。
a)複数形、実行パート6、309(7)および時間実行パート15、565(3)のように。多くの場合、一般的に乱流で不確実な時間的条件に関連しています(FischerSchwäb.6、2、3401も参照):コウフルテは...通りを不機嫌にしています...世界のライオンは衝動的で迅速です(グミュント1440)ドイツ国会議事堂ファイル15、393バイエルン。別名。; (ハインリヒ3世はフリードリヒバルバロッサに尋ねました)彼は拘束されていない世界のサルを見て、B。FaberSaxonia(1563)143aをカバーしたかったのです。そのようなベイ...汗まみれの世界のコースhochnöttigenwerck(30。7. 1602)Frauenholz heerwesen 3、2(1939)208; (私たちは)フリードリヒについて、世界の走りについてたくさん話しました(1789年3月25日)Schubartbr。で:D。Fr。Strauszsat。 schr。 9(1878)266;ここで、新しい異端は、これらの世界の雑草から角質の芽を持ち上げようと敢えてします。 a。 d。 j。 1926;だけでなく、世界の個々の事件や経験した出来事についても:歴史家が世界と歴史のコーパス全体を失っていなかったところで、私たちは賢明な牛のように、すべての進歩の歴史と行動Sの曖昧さと知識の中で生きました。 Feyerabendt Bonfinius、ungerischechronica(1581)vorr。 a 2b;預言者の言葉では、主の日は地上の日ではありません。その外観と到着はすぐに来ません。世界の出来事、革命は遊牧民19、104ページです。これのために(完璧な支配者に)...多くの世界の出来事を通して実践されてきた素晴らしい経験...必要なのはカントw。4、301Hです。個々の世俗的な行動と行動の方法(1DWbコースパート6、310 [9]を参照):つまり、医者は非常に幸運であり、彼はそれを失うことになります。他に、それはスキルだけであるはずですが、今は何ですか?彼は口を使うことができます...彼は好意を持っていますか?それがすでにそれほど良くないとき、そのようなものに気をつけてください、それでそれに注意を払わないでください:彼のウェルトフフ、彼を黙らせて隠しますパラケルススオペラ(1616)2、207。
b)個々の運命または人生に関して:(人間の人生)seyeHarsdörfferteutsch秘書の死の墓への世界ツアー。 2(1659)141;そして、私たちは私たちがどうなるかわからないと思います。そして、彼が世界のコースを完了するまで、誰も自分自身を幸せに賞賛しないと思います。 a。 d。 j。 1776年MeineckeBoyen(1896)1、9;彼は、人間開発の通常のキャリアに飛躍的に触れたことで、Göthe'nを簡単に非難することができます。 28、1628年列/ゲルビヌスが合法的な世界レースで勝利を急いだとき。 (1853)5、118;一方、ジャン・ポールは履歴書とは明確に区別されています。彼(叙事詩の主人公)は全体にしか役立たず、ライフコースはなくワールドコースがあるため、彼の運命は一般的に失われますw。49- 51、243ヘンペル。
c)時折、宇宙の星の軌道から:世界の流れの中で彗星を想像し、ある時点で彼に見える世界を意識的に考えて、彼は写真を撮り、描いた(1883)ラッド。ヒルデブランドは老化した。以上神(1910)207。
d)3 bまたはcにリンクされた皮肉なアプリケーション:テーブルが世界中に移動される前でさえ、一部の人々はすべてをデマホフマンvであると宣言しました。 Fallersleben mein Leben(1868)5、211。

わからない。要調査。

b14

Betrachten wir beide Seiten der allgemeinen Ordnung egeneinander, so hat die letztere Allgemeinheit zu ihrem Inhalte die unruhige Individualitaet, fuer welche die Meinung oder die Einzelnheit Gesetz, das Wirkliche unwirklich und das Unwirkliche das Wirkliche ist. Sie ist aber zugleich die Seite der Wirklichkeit der Ordnung, denn ihr gehoert das Fuer−sich−sein der Individualitaet an. Die andere Seite ist das Allgemeine als ruhiges Wesen, aber eben darum nur als ein Inneres, das nicht gar nicht, aber doch keine Wirklichkeit ist, und nur durch Aufhebung der Individualitaet, welche sich die Wirklichkeit angemasst hat, selbst wirklich werden kann. Diese Gestalt des Bewusstseins, sich in dem Gesetze, in dem an sich Wahren und Guten nicht als die Einzelnheit, sondern nur als Wesen zu werden, die Individualitaet aber als das Verkehrte und Verkehrende zu wissen, und daher die Einzelnheit des Bewusstseins aufopfern zu muessen, ist die Tugend.
110ぺーじ (きょうちょうを しょうりゃくした。)
ぐーぐるやく
「一般秩序の両側を相互に関連させて考えると、後者の一般性の内容は、その内容として、意見や特殊性が法である落ち着きのない個性を持ち、現実は非現実であり、非現実は現実です。 しかし同時に、それは秩序の現実の側面でもあります。なぜなら、自分自身は個性に属しているからです。反対側は穏やかな存在としての一般的なものですが、そのため、それではなく、内なるものとしてのみです。まったく、しかしそれにもかかわらず、現実ではなく、現実が想定していた個性を廃止することによってのみ、それ自体が現実になることができます。 本質的に真実で善であり、個性としてではなく、存在としてだけであるが、個性を何が間違っているか、何が間違っているかとして知るために、意識の個性を犠牲にしなければならないというこの形の意識は、美徳。」

まえの よみかた

てんとうする という のは、 ふへんせいの げんじつの がわ である。
この だんかいの こじんに とっては、ふへんせいが うごく げんじつに ある だけ だからだ。
たいして、われわれに とっては、 ふへんせいは、 うごかない ほんしつ として あるのだ。われわれに とっては、 この ふへんせいは、 げんじつ ではない。たんに この だんかいの こじんが げんじつと おもいこんでいる だけで、 ふへんせいは この こじんを ひていする ことで、 この だんかいの こじん に とって げんじつに なる だけだ。

とく という あらたな だんかいの じこいしきは、 それ じたいで ある。(なぜ 「とく」なのかは わかっていない。)
こころの ほう という まえの だんかいの じこいしきは、 じぶんに とって あるに すぎなかった。 じぶんに とっての ほうそくで しか なかった。
しかし、とくは それじたい として ある ほうそくで、 いつも あてはまる。
とく という だんかいの じこいしきにとっては、 じぶんは げんじつに ある こじん ではなく、 ほんしつ である。
こじんは あんていしない うごくものだと とくの だんかいの じこいしきは わかっているので、じぶんの こじんも あんていしないで、 きえてなくなる。

びみょうだ。

いまの よみかた

わたしたちに とって、 どう かんがえるかの はなしを する。
ふへんてきな ちつじょ というのは ふたつに わけられる。
ひとつは、 うごく ちつじょ である。
もうひとつは、 うごかない ちつじょ である。
この ふたつの ちつじょで まとめる。
1. うごく ちつじょは おちつかない こじん である。
うごく ちつじょの ないようは、 げんじつが ひげんじつ であり、 ひげんじつが げんじつ であり、 「それがしんじられている」ことや こべつてきな ことが きまりであると なる。
うごく ちつじょ というのは、 うぬぼれの きょうき(狂気)の てんとう、そうご・むじゅん、さくらんが、 みんなの こころの きまり として げんじつに なる こと である。
しかし、 どうじに、それ、つまり うごく ふへんせいが 「ないよう として もっている」 おちつかない こたいてきな もの、こじんてきな ものは、ちつじょの げんじつの ないようの そくめん である。 (”Sie ist aber zugleich die Seite der Wirklichkeit der Ordnung” 110ぺーじ)
だから、 うごく ちつじょの げんじつの ないようは、 おちつかない こたいてきな もの、 こじんてきな もの である。
こたいてきな もの、こじんてきな ものの じぶんにとって ある ことは、 それ、つまり うごく ふへんせいが 「ないよう として もっている」 おちつかない こたいてきな ものに ぞくしている。
こたいてきな もの、こじんてきな ものの じぶんにとって ある ことは、ちつじょの げんじつの ないようの そくめん である。

うごく ふへんせいの なかの げんじつの ないようは、じぶんが じぶんに とって ある から ある のである。(たいじそんざい=げんじつの ないよう)
この じぶんが じぶんに とって ある という ことは、 ふへんせいの おちつかない こじんてきな ものの なかに ある。(たいじそんざい<おちつかない こじんてきなもの)
したがって、 ふへんせいの おちつかない こじんてきな ものの なかに、 げんじつの ないようが ある。(げんじつの ないよう<おちつかない こじんてきなもの)
けっきょく、 ふへんせいの ひとつの とくちょう であると された おちつかない こじんてきな もの という のは、 げんじつの ないよう でしか ない のであって、 まだ ふへんせいの なかに ほんしつ、ありかたと、 げんじつの けいしきが ある という ことだと おもう。 わからない。要調査。

2. うごかない ふへんせいは おだやかに ある。(ほんしつ。ありかた。)
うごかない ふへんせいは、 うちがわに ある だけで、 そとに でてこない。
つまり、 うごかない ふへんせいは げんじつに ならない。
げんじつを なのっていた こじんを けした、あうふへーべん した ときに のみ、げんじつ である。
こじんが じぶんは げんじつ であると いっていた けど、 それは あやまり である。
げんじつを なのっていた こじんを けした、あうふへーべん すると、 つぎの とくの いしきに うつりかわる。
こころの きまりや うぬぼれの きょうきでは、 じぶんが きまりの なかに ある ことを みとめず、 きまりを つくろうと していた。
しかし、とくの いしきは、じぶんが きまりの なかに ある ことを みとめる。
つまり、 じぶんが、じぶんに とって だけ ただしい のでは なく、 それじたい として ただしい という ことに きがつく のだ。
きまり とは それじたいで、 しんじつ であり、よい もの である。

こころの きまりや うぬぼれの きょうきは、 じぶんを こべつてきな もの である という より そんざいする もの であると かんがえていた。
しかし、 とくの いしきは、 じぶんが 「ある」 もの、 ありかた、ほんしつ であると かんがえている。
じゆうでは なく、 なにかに しばられた もの であると みとめる のだ。
さらに、 とくの いしきは、 こたいてきな もの、こじんてきな ものが まちがう ことを しっている。
とくの いしきは、 こていてきな もの、 こじんてきな ものが てんとうする ことを しっている。
こじんてきな ものは てんとうする ので、 こべつてきなものは ぎせいに ささげる ひつようが ある。
じぶんの ことは かんがえなく なり、 ちから だけが もんだいに なる とくが もんだいに なるのだ。
じぶんの ことは どうても よく、 できる こと という とくが もんだいに なる のだ。
じぶんが いま どうあるか よりも、 じぶんが どう なりうるかが もんだいに なる のだ。
じぶんが なれる ものに なっていたら とく(徳)が あり、 なれるものに なっていなければ とく(徳)が ない。

まとめ

こころの ほうを どう かんがえるかが もんだいである。
こころの ほうは、ほかの もの としての 「にんげん」と おなじ ような しあわせを じぶんは もとめる という かんがえかた である。
たいして、まえの きもちいいは、 ほかの ものは どうでもいいが、 じぶんの きもちいいを もとめる という かんがえかた である。
さいごに、つぎの とくは、 ほかの ものと くらべた うえで すぐれている ありかたを じぶん だけの ありかた として もとめる という かんがえかた である。
じゅんばんに ならべると、きもちいいは ちょくせつの きもちいいを もとめ、 こころのほうは かんせつの しあわせを もとめ、とくは かんせつかつ ちょくせつの すぐれている ことを もとめる。
きもちいいは じぶん だけ、こころのほうは ほかと おなじ、とくは ほかと ちがう じぶん という ありかた である。

こころ

こころと やくすか、 しんじょうと やくすかで、 ある ぶんしょうを みつけた。
青木茂「自負の狂気 ――ヘーゲル精神現象学』の一節――」
ぴーでぃーえふ。https://core.ac.uk/download/pdf/230204135.pdf

f:id:hunihunisaito:20210320090214p:plain
こころ か しんじょう か

るそーの しんじょう(心情)の しゅうきょうと つながりが あると かんがえられている という こと である。
るそーの しんじょうの しゅうきょう、こころの しゅうきょうとは なにか?
わからない。
るそーとは だいたい つぎのような ことを かんがえた。
まず、 ひとびとは しぜんの じょうたい では、 へいわに いきている。
しかし、 あつまって いきる ように なると、 しゃかいの じょうたいで、 あらそいが おこり、 ふびょうどうに なる。
この とき、 みんなが なっとくできると いわれる しゃかいの やくそくを、 しゃかい・けいやく(社会契約)として むすんでいる。
なので、 しゃかい・けいやくを ちゃんと みんなの かんがえ である いっぱん・いし(一般意志)に あわせよう。
だいたい こんな かんじ だった はずだ。 しんじるな。
いままで あった しゅうきょうも きほんてきには ふびょうどうとか あらそいの げんいんとして かんがえられていた はず である。
ただし、るそーは あつまって いきる ためには なんらかの しゅうきょうが ひつよう であると おもっていた らしい(101ぺーじ)。
『社会契約論』第4章に しゅうきょうの はなしが かいてある らしい(102ぺーじ)。
そして、 るそーは しみん・しゅうきょう(市民宗教) という ものを かんがえた(103ぺーじ)。
しみん・しゅうきょうに おいては、 せいじを きめる みんなで、 どうとくの ないようを きめる(103ぺーじ)。
しみん・しゅうきょうは、 みんなで いきる という しゃかいせい(社会性)の かんじょう(感情)を きめる(103ぺーじ)。
しみん・しゅうきょうに よって、 みんなの かんがえ である いっぱん・いしに あう ように、 いろんな ことを しなければ いけない という ぎむを、 それぞれの こじんが あいする ように なる(104-105ぺーじ)。
きもちに よって かんがえが きまる から、 かんがえに したがう ことを あいする という きもちを おこす しみん・しゅうきょうが ひつよう である(106-107ぺーじ)。
この ように みんなの かんがえに したがう ことを あいする という きもちを もち、 そのような こころの じょうたいに なる ように する のが、 おそらく、 こころの しゅうきょう、Religion du cœur、 しんじょうの しゅうきょう なのだろう。

やっと Religion du cœurを つかっている ぶんしょうを みつけた。 なかなか なかった。

La religion du cœur
Protestant, puis catholique, puis à nouveau protestant, avec un zeste d’anticléricalisme, Rousseau n’est pas un amateur de controverses théologiques, mais il aime Jésus et la « morale sublime de l’Evangile ». Surtout, il ressent un profond besoin de croire. Le « sentiment intérieur » nous assure de l’existence de Dieu. Contentons-nous de vouer à Dieu le « culte du cœur », qui n’exige rien d’autre que la sincérité et la spontanéité. Apprenons à prier non pas en récitant des formules, mais en contemplant la nature, qui nous parle directement du Créateur. Chercheurs de spiritualité, cette religion personnelle, affective, tolérante, nourrie d’admiration pour le monde, correspond, j’en suis sûr, à ce que vous recherchez.
https://www.psychologies.com/Culture/Maitres-de-vie/Jean-Jacques-Rousseau

しかし、 やっと みつけた わりには、 びみょうな ぶんしょうだ。
るそーに かんけいない ぶんみゃくでは、 つぎの ような ぶんを みつけた。

On représente que l'amour pur pour le père céleste n'a été vraiment révélé que par le christianisme, réaction triomphante de la religion du cœur contre les aridités d'un légalisme se perdant en arguties et en casuistique (Weill, Judaïsme,1931, p. 178).
https://www.cnrtl.fr/definition/l%C3%A9galiste//0
さいとー やく
てんの ちちへの じゅんすいな あいは じっさいに あきらかに されるのは、 きりすときょう だけ です。 きりすときょうは、 ごたくと へりくつに ぼっとうする かいりつしゅぎの ふもうさに たいする こころの しゅうきょうの けっていてきな はんのうです。

これは、 きりすときょうを こころの しゅうきょうと いっている。

こころの ほうと やくした けど、 こころの きまりと やくすと いいかもしれない。
じっさい、 とちゅうから こころの きまりと かいていた。

あとがき

ながい。
あとで つけたす ばあいは、 もじの いろを かえる。
とくに、 ぷらとんに ついては、 かきかえる かもしれない。
かくめいれき 229ねん 7がつ 13にち
Décade II Tridi, Germinal an CCXXIX
せいれき 2021ねん 4がつ 2にち
さいとう・まの