さいとー・ま

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ひらがなで かく りゆう

とある じゅぎょうで かいた ものを こうかいします。

にほんごの かきかたに ついて、 せんせいに かいておいて いいと いわれたので、かきます。
もじとしての かんじには、 おおきな もんだいが
あります。 それは、 もじとしての かんじを つかう べき という るーるが、 さべつを ふやす という もんだいです。
げんざい、 にほんごの じょうほうの おおくは、もじで つたえられ、 それを よんで ひとびとは せいかつしています。したがって、 もじが よめないと、じょうほうを うけとれず、 いろいろと こまります(せいかつほごの じょうほうを しれない など)。そして、 しきじりつが ひゃくぱーせんとでは ない いじょう、もじを つかうに しても、 よむ ことが かんたんに できる ものを つかわなければ、ふびょうどうに なります。とくに がくれきや がっこう ぶんかに なじめたかによる ふびょうどうを つよく します。 そのため、 もじとしての かんじは、 ほかの かきかたに くらべて さべつを つよくしてしまいます。
(れいがいてきに、 もじとしての かんじを つかって きょういくを うけてきた ひとたちは、 にほんごけんでも もじとしてのかんじが ある ほうが よみやすいと おもいます。 それは こべつの こみゅにけーしょんでは もんだいに なりますが、 より のぞましい しゃかいに ついては、 きょういくに もとづく さべつは かわりませんし、 きょういくを うけた ところに よる さべつを うけないのが、 にほん だけ から、 にほんと たいわん、ちゅうごく などに なる だけ です。)

この もんだいを すくなくする ためには、きょういくに もとづく さべつ などを なくすと どうじに、もじとしての かんじを おあそび いがいで つかわない しゃかいに する ことが ひつようです。

そのためには、 もじとしての かんじが なくても、なれてしまえば そこまで もんだいが ない ことを かんじてもらう ひつようが あります。
さらに、 この しゅちょうに なっとくしてもらって、いろんな ひとが もんだいと かんがえてくれる ひつようが あります。
だから、 もじとしての かんじを できる だけ つかわない ように しています。
なかまに なってくれる ひとを ぼしゅうしています。はなしかけてね。

【かんがえられる しつもんと こたえ】
いち、 すごく よむのが たいへんです。 やはり もじとしての かんじが だいじでは ないですか?

こたえ。 こたえは、 よむのが たいへんである りゆうに よります。 たとえば、 にほんごの ねいてぃぶで、 にほんで きょういくを うけてきた ひとで、 でぃすくれしあ などの よむ ことに ついての しょうがいを もっていなければ、 なれの もんだい です。 あなたが、 なんねんも かけて、 もじとしての かんじに なじんできた から、 よみにくく かんじる だけです。 おなじくらい じかんを かけて、 それでも よみにくかったら おしえてください。
たとえば、 あなたの だいいちげんごが にほんごで ない ならば、 よみにくいのは たしか でしょうが、 それは もじとしての かんじが なければ いけない ことの りゆうには なりません。 そもそも、 もじとしての かんじが よめる ように れんしゅう した じかんを、 ひらがなの ぶんしょうを よめる ように れんしゅうした じかんに おきかえられる ように しましょう、という のが ていあんです。
でぃすくれしあ などで よみにくい かたは、 たしかに いると おもいます。 でぃすくれしあの なかには、 もじとしての かんじが ある ことで とても くろうする ひとと、 ぎゃくに もじとしての かんじが ある ことで たすかる ひとが います。 よみにくいと かんじる ばあいは、 ごれんらくを ください。 どのように かけば よみやすくなるかを おしえてください。


に、もじとしての かんじでは ないと ひょうげんできない ことが あると おもいます。 たとえば、 すでに のべた ことを いう ための ことば である きじゅつと、 なにかを ことばで あらわす ことを いみする ことば としての きじゅつが わけられません。

こたえ。まず、 たしかに もじとしての かんじで あらわせない ことは ありますが、それは ぎゃくの ことも いえて、 もじとしての かんじで かいてしまうと あらわせない ことも あります。 たとえば、 ひとの なまえの よみかたや、 ばしょの なまえの よみかたは、 もじとしての かんじ では つたわりにくいです。 たとえば、 四月一日は、ひとのなまえ だと わたぬきと よみますが、しらなければ きほんてきに よめません。 不忍池は ばしょの なまえだと しのばずのいけと よみますが、しらなければ きほんてきに よめません。さらに、 今日と かいた ときに、 きょう、 なのか、 こんにち なのか ぶんみゃく から でないと くべつが つきません。このように、 あらわせる ことが かわる だけで、 もじとしての かんじが ないと あらわせない ことの うらには、 もじとしての かんじが あることで あらわせない ことが あり、 いっちょういったん(一長一短)だ という ことです。
さらにいえば、 「もじとしての かんじが つかえない かいわの ときに どうしているのか?」 という ぎもんも だいじです。 かいわなら、 すでに のべた ように、などと いいかえるので、 そちらを つかえば いいだけです。
もじとしての かんじが ないと あらわせない ことの ひとつに、 ぶしゅなどに よる ごろあわせ などが ありますが、 それは おあそびに してください。 よめない ことで、 こまる ひとが でてくる ような いっぱんてきな ばしょで やる べき では ない です。

さん、 なんで ひらがな なのですか?
こたえ、 とくに おおきな りゆうは ありません。あえて いえば、 かたかなの ほうが、 いまの かんじかなまじりぶんから とおい から です。らてんもじでも、 でーゔぁなーがりー という ひんでぃーごに よく つかう もじでも よいです。

よん、 すべて ひらがなに する ひつようは ありますか?
こたえ、 ないです。 では、 いっしょに もじとしての かんじを へらしましょう!

ご、もじとしての かんじで こまっているのは、 だれですか?
こたえ、 あべ・やすしの 「漢字という障害」(かんじ という しょうがい) という ろんぶんでは、 きょういくを うけなかった ひと、 しかくしょうがいしゃ、 ちょうかくしょうがいしゃ、ちてきしょうがいしゃ、がくしゅうしょうがいしゃ、がいこくじん、などが あげられています。http://hituzinosanpo.sakura.ne.jp/abe2006b.html