さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

いつつのD【でぃー】から いつつの「ま」から はじめる へ

さいとう・まの です。このまえ、2025ねん 8がつ 17にち にちようび、とある わーくしょっぷに さんかしました。わーくしょっぷ とは、 おはなしを きく だけ でなく、 さんかしゃが たいけんを つうじて まなぶ ような いべんと です。その わーくしょっぷは、ちゃぶ台返し女子アクション【ちゃぶだい・がえし・じょし・あくしょん】(https://www.chabujo.com/) という だんたいが おこないました。この だんたいは、 「ちゃぶじょ」と みじかく いわれる ことも あります。ちゃぶじょは、しゃかいうんどうを つうじて せいべつ などに かんする さべつを なくす ことを めざしている だんたい です。とくに せいてきどういに ついての うんどうで ゆうめい です。
www.chabujo.com

こんかいの わーくしょっぷの てーまは、 だいさんしゃかいにゅう でした。 だいさんしゃかいにゅう とは、 かがいしゃ でも ひがいしゃ でも ない だいさんしゃが、 おこった、 おこっている、 そして おこりそうな、 わるい ことに かいにゅうして、 とめたり ひがいを へらしたり する こと です。

そこで、いつつの D【でぃー】に ついて はなしを ききました。いつつの でぃー とは、 だいさんしゃかいにゅうを する ほうほうを わかりやすく まとめた すろーがん です。 いつつの ほうほうを えいごで ひょうげんすると、すべて D【でぃー】が かしらもじに くるので、いつつの D【でぃー】と よばれています。しらべてみた ところ、 この いつつの D【でぃー】(5Ds)は、  Green Dot【ぐりーん・どっと】と Right to be【らいと・とぅー・びー】 という だんたいが 2017ねんに つくった よう です(https://righttobe.org/guides/bystander-intervention-training/)。 もともとは、 2012ねんに Green Dot【ぐりーん・どっと】が、みっつの D【でぃー】を つくった そうです(https://righttobe.org/guides/bystander-intervention-training/)。 また、 Right to be【らいと・とぅー・びー】は、 むかしは Hollaback!【ほらばっく】という なまえ でしたが、 2021ねんに なまえを かえた ようです(https://righttobe.org/article/press-release-leader-in-the-anti-harassment-movement-hollaback-has-a-new-name-and-a-new-look/)。



ぐたいてきには、つぎの いつつです。くわしい せつめい などは、 HOLLABACK! バイスタンダーのワークショップで学んだ「5つのD」 - junglecity.comhttps://www.junglecity.com/blog/hollaback-bystander-workshop/#google_vignette)を みてください。

Direct【だいれくと】 ちょくせつかいにゅう
Distract【でぃすとらくと】ちゅういを そらす
Delegate【でれげいと】 いにんする
Document【どきゅめんと】きろくする
Delay【でぃれい】じごかいにゅう
です。

これを うまく にほんごに ほんやく できないか かんがえていた ところ、 つぎの ほんやくが うかびました。

いつつの 「ま」から はじめる
まにはいる…Direct【だいれくと】 ちょくせつかいにゅう
まぎらわす…Distract【でぃすとらくと】ちゅういを そらす
まかせる…Delegate【でりげいと】 いにんする
まとめる…Document【どきゅめんと】きろくする
またあとで…Delay【でぃれい】じごかいにゅう
です。

つまり、 いつつの「ま」から はじめる とは、 まにはいる、まぎらわす、まかせる、まとめる、またあとでの いつつの こうどう から はじめる こと である。

「いつつの 『ま』から はじめる」という ように、 「から はじめる」と つけたのは、 「ま」という かしらもじから はじまる という ことと、 いつつの こうどう から はじめる ことが だいさんしゃかいにゅう として よい という ことを しめす ため です。

ぜひ、 きょか なく つかって ひろめてくださいね。

さいとう・まの
2025ねん 8がつ 18にち

たんか2

いっしゅんに 
かみのおとさた
ころもがえ 
きのうのあした 
おにのかわらに

そろそろね
ものにあふれる
そうじかき
もともとあえない
しらないふたり

とまりもの
ききくらべては
さらさらに
くらいことりと
まばゆいまちなみ

ぱたぱたり
くまにもとめて
さまつさえ
おおいにわらう
くるしみのあめ

かなしばり
いえないまるみ
さけるくぎ
さらばともよと
あめにまみれて

かんけいろんてき しざ ぜんはん(pp. 110-123)

さいとう・まの 2025-06-30 よねざわぜみ

HAVEMAN, H. A. (2022). The Power of Organizations: A New Approach to Organizational Theory. Princeton University Press. https://doi.org/10.2307/j.ctv2nv8q69

- §0 はじめに

- ¶1(110)かんけいろんてき けんきゅうは だれを しっているか などの しゃかいかんけいが ほんしつてきであると かんがえる。

- ¶2(110-1)1970 ねんだいの ぐらんどせおりー とは ことなり、りろんと けいけんてき ほうほうが どうじに はってんした。

- ¶3(111)しゃかいかんけいを ほんしつと かんがえ、 けいけんてき であった にもかかわらず、 こんと、じんめる、もれのの そしおめとりー など しゃかいかがくの でんとうに ねざしている。

- ¶4(111)1960ねんだいぜんはんに ぐらふりろんに もとづく ねっとわーくぶんせきを つかい、 しゃかいてきりゅうどうせい、 かいきゅうかんけい、 きぎょうえりーとの けんりょく、 としせいかつにおけるゆちゃくとぶんりを けんきゅうしはじめる。

- ¶5(111-2)1970ねんだいには かんけいろんてきに そしきけんきゅうを おこなう。ぐらのべったーの けんきゅうは、 しごとへの あくせすに よる ふびょうどうを あきらかにし、 しゃかいしほんの ぎろんに つながる。

- ¶6(112)ふぇふぁー および さらんしっく(1978) 「これまでの しんりがく けんきゅうは りーだーしっぷを きょうちょうする けど、 けいけんてきに しらべると りーだーの こうどうは せいげんされている。 また、 かんきょうに たいおうしないと かんがえる けんきゅうが あるが、 けいけんてきに しらべると へんかしている」→こうかんりろんを もちいて しげんいぞんりろんを ていあんする。

- ¶7(112)しげんいぞん、しゃかいしほん、ねっとわーくこうぞう、しゃかいねっとわーくに おける やくわりと ぽじしょん

- §1 けんりょくと いぞん:しげんいぞんりろん

- ¶8(112-3)けんりょくは こじんに そなわる のでは なく、かんけいに そなわる。けんりょくの はんたいは いぞん である。

- ¶9(113)けんりょく、いぞん という かんがえかたを そしきけんきゅうに つかう りろんを、 しげんいぞんりろん【資源依存理論】と よぶ。 そこにおいては、 そしき などが がいぶに たよるのだが、 その がいぶの もくてきと しょうとつする という ことが にんしきされる。ないぶてきには ぶんぎょう、 がいぶてきには しきんちょうたつや じんいんかくほ などが いぞんかんけいを しめす。

- ¶10(114)そしきなどは えいきょうりょくこうし【影響力行使、influecne attempts】を こうむる かのうせいが ある。 

たとえば、 クロジエ【Crozier】(1964)の ふらんすの たばここうじょうでの ひんぱんに こわれる せつびを なおす ろうどうしゃが けんりょくを もつ ことが ある。また、 Walder(1995)は ちゅうごくの かんりょうと かいしゃの かんけいでも、 けいざいてき いぞんどに よって あつりょくが かわった。 * Crozier, Michel. 1964. The Bureaucratic Phenomenon. Chicago: University of Chicago Press. * Walder, Andrew G. 1995. “Local governments as industrial firms: An organizational analysis of China’s transitional economy.” American Journal of Sociology 101 (2): 263–301.

- ¶11(114-5)えいきょうりょくこうしへの たいしょ ほうほう として、 ①きそくじゅんしゅが あるが、 これは えいきょうりょくこうし から のがれる かわりに、 べつの きじゅんを じゅんしゅしないと いけなくなる。 ②えいきょうりょくこうしを さけてとおる(avoid) せんりゃくでは、 うそを ついたり、 じょうほうを せいげんしたり、 ひょうかきじゅんを ごまかす ことが おこなわれる。 ただし、 ばれた ときに はんげきを くらう。

たとえば、 しゅうしょくりつを ごまかした ろーすくーるは、 しんぶんに ばらされて、 しゅうしょくりつの きじゅんが みなおされた。

- ¶12(115)えいきょうりょくこうしを さけてとおる(avoid) ときに、 せるずにっくが あきらかにした ような co-opt、とりこみが おこなわれる ことが ある。

たとえば、 きぎょうかを とりこんだ ちゅうごく きょうさんとうや うくらいなの ひえいり のうみん など。

- ¶13(115)えいきょうりょくこうしを さけてとおる(avoid) ときに、ろびーかつどうや がばなんすこうぞうで こうかんぱーとなーに ようきゅうを いわせない ことが ある。

たとえば、 こぴーれふと という がばなんすこうぞうで、 おーぷんそーすそふとうぇあの どくせんを ふせぐ。

- ¶14(115)えいきょうりょくこうしを さけてとおる(avoid) ことは、 こうかんぱーとなー(exchange partner)に たいして けんりょくを もっているほうが かんたんである。

たとえば、 あめりかがっしゅうこくの かいしゃは、 とうしか、 とっぷまねーじゃー、 ろうどうしゃの どこが ちからを もっているかで、 じんいんさくげんの しかたが ことなる。

- ¶15(115-6)③えいきょうりょくこうしを けしさる(eliminate)ときに、 しゃかいかんけいの あみのめを ひろげて もっと つよい こうかんぱーとなーと つながる。

たとえば、 ろうどうくみあい。くみあいきょういこうか【組合脅威効果】。

- ¶16(116)しげんいぞんろんの おおくの けんきゅうは でーたが てにはいりやすい あめりかがっしゅうこくの きぎょうに しょうてんを あてる。

がっぺいは けんりょくいぞんかんけいが たかい ときに おこりやすい。 しきんちょうたつの ひつようが あると、 ぎんこうの かんぶを とりしまりやくかいに いれがち。 めいんぎんこうとの とりひき よりも べつの とりひきを している ほど、 めいんぎんこうへの いぞんは ちいさい。 とりしまりやくの けんにんに よって、 せいじかを うごかし、 せいさくが つくられる。 きぎょうの りーだー どうしで しゃかいてき つながりが つよくなると、 とりしまりやくの けんにんが つよくなる。

- ¶17(116-7)ぽじしょんに もとづいて ぶかに めいれいする すいちょくてき けんりょくと、 たすくの そうごいぞんに よる すいへいてき けんりょくが ある。

117 With regard to horizontal relations, the strategies of Chinese listed corporations depend on their boards of directors, whose decisions are shaped by their own career experience. Firms whose boards are dominated by people with experience in the market (rather than government) sector are more likely to engage in mergers and acquisitions (Greve and Zhang 2017). 水平的な関係については、中国の上場企業の戦略は取締役会に依存しており、その決定は各自のキャリア経験によって形作られている。市場部門(政府部門ではなく)での経験を持つ人々が取締役会を支配している企業は、合併や買収を行う可能性が高くなる(Greve and Zhang 2017)。

どのような いみで すいへいてきな かんけいの はなし? * Greve, Henrich R., and Cyndi Man Zhang. 2017. “Institutional logics and power sources: Merger and acquisition decisions.” Academy of Management Journal 60 (2): 671–94.

- ¶18(117)そしきと そしきの あいだにも うりかいの すいちょく かんけいと どうぎょうかんけいの すいへいかんけい

- ¶19(117)とりしまりやくの けんにんに よって けいざい えりーとが できる。

- §2 そしきけんきゅうの あくたー:しゃかいしほん

- ¶20(118)しゃかいしほんは あくたーが しゃかいかんけいから えられる しげんと あいでんてぃてぃ である。せんざいてきな かんけいと きそんの かんけいも ふくまれる。

- ¶21(118)かんけいは じょうほうや しげんへの あくせすや たしゃ からの にんしきに かんけいする。

たとえば、 しゃかいかんけいが あって あたらしい しごとに はいる ほうが、ゆうりに なる(Fernandez, Castilla, and Moore 2000)。 * Fernandez, Roberto M., Emilio J. Castilla, and Paul Moore. 2000. “Social capital at work: Networks and employment at a phone center.” American Journal of Sociology 105 (5): 1288–356.

- ¶22(118-9)しゃかいかんけいが あれば ある ほど ゆうりに なる。

せんもんしょくや かんりしょくは、 すいへいてきな つながりが あると じょうほう、 ぎょうせき、 しょうしん、きゅうりょうが たかくなる(Burt 1992, 2005). ぎんこういんは、 じょうそうぶと つながりが あると、 とりひきを せいりつさせやすい(Mizruchi and Stearns 2001). そしきを かえたい ばあいには、 つながりが ある じょうそうぶが そしきを かえたい または ちゅうりつ であると かえやすい(Battilana and Casciaro 2013). CEOは がくれきが たかく とりしまりやくかいの ぎせきが おおいと きゅうりょうが たかい(Belliveau, O’Reilly, and Wade 1996) * Burt, Ronald S. 1992. Structural Holes: The Social Structure of Competition. Cambridge, MA: Harvard University Press. * Burt, Ronald S. 2005. Brokerage and Closure. New York: Oxford University Press. * Mizruchi, Mark S. and Linda Brewster Stearns. 2001. “Getting deals done: The use of social networks in bank decision-making.” American Sociological Review 66 (5): 647–71. * Battilana, Julie and Tiziana Casciaro. 2013. “Change agents, networks, and institutions: A contingency theory of organizational change.” Academy of Management Journal 55 (2): 381–98. *Belliveau, Maura A., Charles A. O’Reilly III, and James B. Wade. 1996. “Social capital at the top: Effects of social similarity and status on CEO compensation.” Academy of Management Journal 39 (6): 1568–93.

- ¶23(119)しゃかいてき ねっとわーくは ぎょうせきに えいきょうする。 たとえば、 いぎりすひがしいんどがいしゃと せんちょうたちは ぼうえき ねっとわーくを つくる ことで もうけた。

- ¶24(119)あたらしい きぎょうに ついては、 つながっている とうししゃ【投資者】に よって ひょうかされる。 しつが ひくいと みなされる きぎょうと つながっていると ひょうかを おとされる から、 そういう きぎょうとは えんをきることが おおい。

- ¶25(119-20)しゃかいしほんは ふさい(obligation)も ともなう。 たとえば、 けにあの とうしかは、 みんぞくてきつながりに よって さぎに あいやすくなり、 つよい かいしゃと つながると しはいされる かのうせいが あがる。

- ¶26(120) (きんみつで) つよい つながりと (そえんで) よわい つながりには それぞれの つよみと よわみが ある。

つながりのしゅるい つよみ よわみ
つよいつながり ・しんらいと ふくすうの たかいひょうかを ふやせる。
・きはんきょうか しやすい。
・きょうりょくと じょうほうこうかんが うまくいく。
・えこーちぇんばーに なりうる。
・なれあいが おこる。
・いじ、 はってんさせるのに とても どりょくが ひつように なる。
よわいつながり ・あたらしい しげんや じょうほうに たどりつきうる。
・つよい つながり よりも こうどうが すくなくて すむ。
・くりえいてぃびてぃが はっきされる。
・じんかくそうさ しやすく、 そのばしのぎに なりうる。
・いっかんしない やくわりきたいを うけやすい。

- ¶27(120)みくろれべるでは つよい つながりが いのべーしょんを うみだす ことも ある。 たとえば、 せいぶつ かがくの ばあいの ろんぶん。 ぎんこうと かいしゃの えらいひとの かんけいが ていきんりの ゆうしに、 かしてと かりての かんけいが へんさい おくれの げんしょうに、 はけんがいしゃと ろうどうしゃの かんけいが きぎょうからの たかい てすうりょうに つながる。

- ¶28(121)まくろれべるでも どうよう である。

したうけと つよい つながりが ある いりょうひん めーかーは、 よそく などが できるので こすとさくげんに なり、 そんぞくしやすい(Uzzi 1996). つよい つながりに よって、 めーかーは おおく はらい がちに なり、 きょうきゅうがわも とくを する。(Elfenbein and Zenger 2014). にほんの かいしゃの つよい つながりが、 つよい かいしゃが そんしても、 よわい かいしゃが とくを する ような しんらいかんけいを つくる。 (Lincoln, Gerlach, and Ahmadjian 1996). * Uzzi, Brian. 1996. “The sources and consequences of embeddedness for the economic performance of organizations: The network effect.” American Sociological Review 61 (4): 674–98. * Elfenbein, Daniel W. and Todd R. Zenger. 2011. “What’s a relationship worth? Repeated exchange the the development and deployment of relational capital.” Organization Science 25 (1): 222–44. * Lincoln, James R., Michael L. Gerlach, and Christina L. Ahmadjian. 1996. “Keiretsu networks and corporate performance in Japan.” American Sociological Review 61 (1): 67–88.

- ¶29(121)つよい つながりに よって えこーちぇんばー(ぐたいれいを みよ)や ゆちゃくや ひりんりてき ふるまいが おこる(Baker and Faulkner 1993)。

つよい つながり だけの いりょうひんめーかーは じゅようが かわると ぎょうせきが あっかする。 とうしがいしゃの すたっふが がっこう つながりだと、 おいつめられる (Rider  2012) * Baker, Wayne E. and Robert R. Faulkner. 1993. “The social organization of conspiracy: Illegal networks in the heavy electrical equipment industry.” American Sociological Review 58 (6): 837–60. * Rider, Christopher I. 2012. “How employees’ prior affiliations constrain organizational network change: A study of U.S. venture capital and private equity.” Administrative Science Quarterly 57 (3): 453–83.

- ¶30(121)つよい つながりは いじするのに どりょくが たくさん ひつようで、 よわい つながりの ほうが おおい ので、 えられる せんざいてきな じょうほうが おおい。しゃかいてきせかいを はしわたしする。ぐらのべったーの よわい つながりの つよみ(弱い紐帯の強み)。

ちゅう57 「たとえば、 しゃかいしゅぎ じだいの ちゅうごく では、 しんらいと さいむが とくちょうに なっている つよい つながりは こうむいんに べんぎを はかってもらって、 しごとを わりあててもらう ように おねがいする ために ひつようだった(Bian 1997)。」 * Bian, Yanjie and John R. Logan. 1996. “Market transition and the persistence of power: The changing stratification system in urban China.” American Sociological Review 61 (5): 739–58.

- ¶31(122)よわい つながりは、 ねっとわーくの こうぞうてき あなを はしわたしする。

みくろれべる では、 ちゅうかいしゃは ゆうりに なる。 ただし、 ちしきと すきるを くみあわせる せんもんしょくや かんりしょくに しか あてはまらない かもしれない。 みくろれべるでは、 よわい つながりに よって こうぞうてきな あなを はしわたしすると くりえいてぃびてぃが はっきされる。 まくろれべる では、 こうえきかんけいが ない くにぐにを つなぐ せいふかんそしき(IGO、inter-government organization)が はんえいしやすい。

- ¶32(122)はしわたしやくは わるい ことも おこす。 たとえば、 かいしゃを そのばしのぎに させて、 いのべーしょんを そがいする。

It is important to recognize that brokers can engage not only in socially  beneficial acts like innovation and conflict mediation, but also in socially undesirable acts like manipulation and corruption. As a result, researchers need  to consider carefully where they draw the system boundaries when analyzing  the costs and benefits of bridging ties (Stovel and Shaw 2012).ブローカーは、イノベーションや紛争調停といった社会的に有益な行為だけでなく、操作や汚職といった社会的に望ましくない行為にも関与する可能性があることを認識することが重要です。そのため、研究者は、ブリッジング・タイズの費用と便益を分析する際に、システムの境界をどこに引くかを慎重に検討する必要があります(Stovel and Shaw 2012)。

なんで、 「as a result」? * Stovel, Katherine W. and Lynette Shaw. 2012. “Brokerage.” Annual Review of Sociology 38: 139–58.

- ¶33(123)ぶろーかーで いる ことは、 むじゅんする きたいを され、 じぶんの たちばを りようすると どうとくてきでは ないと されるので、 こころてきな ふたんが おおきい。

- ¶34(123)つよい つながりと よわい つながりは そうごほかんてき。

みくろれべる だと、 せんもんしょく、 かんりしょくが しゅっせ する のは、 じょうほうもうの よわい つながりと、 さぽーと ねっとわーくの つよい つながりに よる (Podolny and Baron 1997). よわいつながりと つよいつながりが あると しごとしゅうだんは もっとも くりえいてぃぶに なる (Hansen 1999; Reagans, Zuckerman, and McEvily 2004; Fleming, Mingo, and Chen 2007)。 まくろれべる だと、かいしゃと とうしぎんこうの つよい つながりに よって かいしゃの ことを ぎんこうが よく りかいして、 よい さーびすを ていきょうし、 よわいつながりに よって めいんばんくへの いぞんを さけることが できる (Baker 1990). しみんだんたいも しゃかいてき きずなと とりひき から りえきを かくほしている (Baldassarri and Diani 2007). ろーかるな かちかんや きはんに よって かわる (Adler and Kwon 2002). たとえば、あめりかの かいしゃで よわいつながりは しゅっせを もたらす けど(Burt 1992)、 ちゅうごくの しゅうだんしゅぎに よって ぶろーかーは つぶされるので、 しゅっせを もたらさらない (Xiao and Tsui 2007). * Podolny, Joel M. and James N. Baron. 1997. “Resources and relationships: Social networks and mobility in the workplace.” American Sociological Review 62 (5): 673–93. * Hansen, Morton T. 1999. “The search-transfer problem: The role of weak ties in sharing knowledge across organizational subunits.” Administrative Science Quarterly 44 (1): 82–111. * Reagans, Ray E., Ezra W. Zuckerman, and Bill McEvily. 2004. “How to make the team: Social networks vs. demography as criteria for designing effective projects in a contract R&D firm.” Administrative Science Quarterly 49 (1): 101–33. * Fleming, Lee, Santiago Mingo, and David Chen. 2007. “Collaborative brokerage, generative creativity, and creative success.” Administrative Science Quarterly 52 (3): 443–75. * Baker, Wayne E. 1990. “Market networks and corporate behavior.” American Journal of Sociology 96 (3): 589–625. * Baldassarri, Delia and Mario Diani. 2007. “The integrative power of civic networks.” American Journal of Sociology 113 (3): 735–80. * Adler, Paul S. and Seok-Woo Kwon. 2002. “Social capital: Prospects for a new concept.” Academy of Management Review 27 (1): 17–40. * Burt, Ronald S. 1992. Structural Holes: The Social Structure of Competition. Cambridge, MA: Harvard University Press * Xiao, Zhixing and Anne S. Tsui. 2007. “When brokers may not work: The cultural contingency of social capital in Chinese high-tech firms.” Administrative Science Quarterly 52 (1): 1–31.

ぎもん(ふたたび)

  • ¶17(116-7)With regard to horizontal relations, the strategies of Chinese listed corporations depend on their boards of directors, whose decisions are shaped by their own career experience. Firms whose boards are dominated by people with experience in the market (rather than government) sector are more likely to engage in mergers and acquisitions (Greve and Zhang 2017). 水平的な関係については、中国の上場企業の戦略は取締役会に依存しており、その決定は各自のキャリア経験によって形作られている。市場部門(政府部門ではなく)での経験を持つ人々が取締役会を支配している企業は、合併や買収を行う可能性が高くなる(Greve and Zhang 2017)。 どのような いみで すいへいてきな かんけいの はなし?

    • Greve, Henrich R., and Cyndi Man Zhang. 2017. “Institutional logics and power sources: Merger and acquisition decisions.” Academy of Management Journal 60 (2): 671–94.
  • ¶32(122) It is important to recognize that brokers can engage not only in socially  beneficial acts like innovation and conflict mediation, but also in socially undesirable acts like manipulation and corruption. As a result, researchers need  to consider carefully where they draw the system boundaries when analyzing  the costs and benefits of bridging ties (Stovel and Shaw 2012).ブローカーは、イノベーションや紛争調停といった社会的に有益な行為だけでなく、操作や汚職といった社会的に望ましくない行為にも関与する可能性があることを認識することが重要です。そのため、研究者は、ブリッジング・タイズの費用と便益を分析する際に、システムの境界をどこに引くかを慎重に検討する必要があります(Stovel and Shaw 2012)。 なんで、 「as a result」?

    • Stovel, Katherine W. and Lynette Shaw. 2012. “Brokerage.” Annual Review of Sociology 38: 139–58.

こめんと

  • しげんいぞんろんと ぐらのべったーの よわいつながりの つよみの はなし であった。さまざまな ぶんけんが まとめられていて、 けんきゅうが ほうふに ある ぶんやは うらやましいと おもった。
  • かんけいろんてき しざは すうじに よる ちょうさと あいしょうが わるいと おもっていたが、 かなり みっせつに つながっている という ことに おどろいた。どのように そうさかするのかに ついて、 のうはうを しりたいと おもった。よく かんがえると さべつの けんきゅう として ぐらのべったーも いちづける べき なのかもしれない。 

たしゃの ていこうには じぶんの はきけが ともなう

この ぶんしょうは、 いいやま・ゆき【飯山由貴】の えいぞう さくひん である≪家父長制を食べる≫(2022)【かふちょうせいを たべる】の かんそう である。

かふちょうせい とは なにか。 かふちょうせい という ことばは いろいろな いみで つかわれる。 しかし、 ここでは だいいちに ふぇみにずむの ぶんみゃくで つかわれる いみでの かふちょうせい だろう。 この ばあいは、 かふちょうせい とは、 いちぶの だんせいに よる ほかの ひとびと への しはいが せいどに なっている ことを あらわす。 
いいやま・ゆき【飯山由貴】の ≪家父長制を食べる≫(2022)【かふちょうせいを たべる】では、 かふちょうせいは いくつかの えがきかたが される。 
ひとつは、 だいめいに ある とおり、 かふちょうせいは たべられる もの である。 そして、 この さくひん では、 それは だんせいに みえる らしい ぱん である。
また、 えいぞうの さいごに たべられる、 かみのけも かふちょうせいを あらわしていそうだ。 じっさい、 らいたーの Jaewon Kimは つぎの ように のべる。

だが本作はパンを食べて終わりではなく、食べ終えた主人公が冒頭で切り落とした自分の髪の毛を拾い上げ咀嚼し飲み込んだところで幕を閉じる。それは、自分の毛の先までもが家父長制の支配にあることを示しているようにも見える[2]。
https://note.com/zaigen/n/n271c9ed2d18b?sub_rt=share_pb

しかし、この ぶぶんに ついている ちゅうを みると、 よそうがいの ことが はんめいする。

[2]この部分については「男性に模したパンを成型し食す中で、自分自身がセクシストのようになってしまっているような感じがしたため、自分の髪を食べることにした」という旨の応答を飯山由貴からいただいた。
https://note.com/zaigen/n/n271c9ed2d18b?sub_rt=share_pb

ここでは、 この いいやま・ゆき【飯山由貴】の おうとうは、 ふたつの いみに かいしゃくできる。 まず、 じぶんじしんが せくしすとに なってしまっている、 つまり、 じぶんじしんが かふちょうせいてきに なってしまっている ために、 じぶんの かみのけを たべる ことに した という、 Jaewon Kimの よみかたに そった おうとう として よめる。 しかし、 これだと 「わざわざ おうとうする こと なのか?」 という ぎねんが うかんでくる。 すると、 じぶんじしんが せくしすとの ように なってしまっている ような かんじが したために、 じっさいは せくしすと では ない じぶんの かみのけを たべる ことで、 せくしすと では なくなろうと している、 という いみ なのかとも かいしゃくできる。 じっさい、 さいしょに よんだ ときは、 わたくし さいとうは こちらの いみで おうとうしたのだろうと かいしゃくした。
ところが、 しらべていく うちに、 いいやま・ゆき【飯山由貴】の いんたびゅーを みつけた。

ただ、作りながらもいろいろ考えていて。パンを男性の形にするって、本当にこれでいいのかなとか、ぎりぎりまで思っていたりして。シンシア・エンローの本を読んでいると、女性もさまざまな方法で家父長制に加担しているという指摘が書かれていて。そんなことも、撮影中に思い出して。「じゃあ女性性に関するものも何か食べなきゃダメじゃん」と思って。最後に髪の毛を食べるのは、家父長制を支えてるのは、男性も女性もない、全ての人がもしかしたらその制度にくみしている可能性がある、加担してる可能性があるということで、最後に髪も食べました。
https://do-cks.net/works/publication/korea06/
36-37

この せりふを よむ かぎりでは、 「わざわざ おうとうする こと なのか?」 という ぎもんに たいして、 「わざわざ おうとうする こと だったのか」と なっとくすれば いいと わかった。 かみのけも かふちょうせいを あらわしている。

つぎに かふちょうせいを あらわしているのは、 てんのうせい である。こうしつの かれんだーが かけてあり、 いちにがつの かれんだーを めくって さんしがつの かれんだーに かえようとしている ところが とられる。 
さいごに かふちょうせいを あらわしていのは、 ひなにんぎょう である。おだいりさま なる にんぎょうの ほうが、 たかい いちに あり、 おひなさま なる にんぎょうの ほうが やや ひくい いちに ある ように とられている。 ひなにんぎょうは、 さんがつみっかに むけて かざると されるので、 かれんだー とも がっち する。
この ふたつの もちーふに ついては、 らいたーの Jaewon Kimも つぎの ように してきしている。

パンから離れて本作について見てみると、主人公が住んでいると思われる部屋には皇室カレンダーがかけられ、雛人形が飾られている。どちらも日本における家父長制を表す代表的な存在であり、生活の至るところに浸透していることが表されている。
https://note.com/zaigen/n/n271c9ed2d18b?sub_rt=share_pb

しかし、 これらの もちーふは、 かふちょうせいが せいかつの いたる ところに しんとうしている ことを しめしている という よりも、 これらに たいする はんたいを ひょうげんしているのでは ないだろうか。  てんのうせい はんたい、 もものせっく はんたいを あらわしている という こと である。

いいやま・ゆき【飯山由貴】の ≪家父長制を食べる≫(2022)【かふちょうせいを たべる】は、 だんせいに みえる ぱんを つくって、 それを たべる すがたが えがかれる。
この えいぞう さくひんで とくちょうてきなのは、 その たべる すがたが かなり ぐろてすくに さつえい されている ところ である。 いいやま・ゆき【飯山由貴】は、 いんたびゅーに おいて、 つぎの ように こたえている。

《家父長制を食べる》では、男性に見えるものを私が食べることに関して、セクシュアルに見えないための演出を心がけました。
https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981

たしかに、 たべる すがたは、 せくしゅあるに みられてしまう おそれが たかい。 そして、 この さくひんでの えんしゅつでは、 せくしゅあるに みせない ように する という つよい きもちが つたわってきた。 くちもとの あっぷの えいぞうと、 そしゃくの ようすは、 ぐろてすくで はきけを ともなう もの であった。とくに、 じぶんは さくひんの えいぞうの さいごの かみのけを くちに ふくむ ところに つよい はきけを かんじた。じっさい、 いいやま・ゆき【飯山由貴】は、 さくひんを みている ひとたちの たいちょうが わるく なる ことを そうていして さまざまな たいさくを している(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981 さんしょう)。 さらに、 かんしょうしゃの ひとりの りん@アート好きOLは、 ぶろぐで つぎの ように きじゅつしている。

また、なんと言っても咀嚼シーンが不快そのものだった。パンを齧る口元のアップ、唾液と混じってぐちゃぐちゃになったパンのアップ、展示室に響き渡る咀嚼音。
https://note.com/ling_art/n/nbbca7753fdf2

なぜ こんなにも ぐろてすく なのだろうか。 この えいぞう さくひんでは、 くちもとの くろーずあっぷした えいぞうが おおく つかわれている。 えいぞうの さいしょの ほうでも、 たべている しーんでは ない ものの、 なんにんかの くちもとの えいぞうが ある。 その くちもとの えいぞうも なかなかに ぐろてすくである。 
このてんに ついて、 いいやま・ゆき【飯山由貴】に といあわせた ところ、 つぎの ような へんじが かえってきた。

ここの部分で言及されている映像は、すべて元配偶者の口もとが映っています。親密な関係の人たちが「思い出」に撮影するような類のものです。(たとえばホーム・ムービーとか、旅行のような非日常のときに撮る映像とか)
2025ねん6がつ2にち こじんてきな やりとりにて

くちもと という からだの ぶぶんは、 かくだいすると かなり きもちわるい という ことが わかった。この ふかいかんは なにに もとづくのだろうか。
れいせいに かんがえれば、 なんてことはない、 からだの いちぶぶん である。 しかし、 そこには きはんが あるのだろう。 「くちもとを かくだいして みせては いけない。」「たべている ものが みえる ように たべては いけない。」 そういった きはんに いつだつしている から、 ふかいかんを もつの だろう。

では、 かふちょうせいを たべるに あたって、 なぜ そのように きはんを いつだつするのだろうか。 それは、 かふちょうせい じたいが きはん である から だろう。 たしゃの ていこうには じぶんの はきけが ともなう。 きはんへの ていこうは それじたいが きはんからの いつだつでも ある。
さらに、 たしゃの ていこうに じぶんの はきけが ともなう だけ では なく、 みずからの ていこうにも じぶんの はきけが ともなうと いえる。じっさい、 この えいぞう さくひん では、 ぱんが やきあがると、 それに ならんで ねそべって はげしく なみだを ながしながら はきけを かんじている すがたが とられている。いんたびゅーで いいやま・ゆき【飯山由貴】は つぎの ように のべている。

撮影現場では緊張とストレスによるものなのか、何度か吐きました。嗚咽のシーンは演技ではないんですけれども「ああ、今だったら泣いてしまうな、でもこれは撮ったらいいんじゃないかな」という合意が自分にあったので、どこまでがフィクションでどこからが生(なま)なのか、きちんと考えるとよくわかりません。
https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981


それでは、どのように すれば、 しゅうだんで れんたいして わるい きはんに ていこうする ことが できるのか。たしゃの ていこうには じぶんの はきけが ともなうと すると、 しゅうだんで ていこうしようと しても、 たがいに はきけを おぼえてしまって、 れんたいが できなくなる かのうせいが たかいのでは ないか。そして、 そもそも じぶんの ていこうにも じぶんの はきけが ともなう ならば、ていこうを じっせんする ことは むずかしい。いんたびゅーで いいやま・ゆき【飯山由貴】は つぎの ように のべている。

正直に言って、「なんで私がこんな作品をつくらなきゃいけないんだろう」という思いもありました。社会のなかにDVをはじめとする家族間のトラブルや暴力への対処法をともに考えてくれるようなシステムがきちんとあれば、ここまで個人に苦しみや問題解決への責任を負わせずに済むんじゃないか、と。
https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981

それでも、 いいやま・ゆき【飯山由貴】は、 この さくひんを つくった。 それは どうして かのうだったのか。 

その ひんとは、 ぱんの かたちに あると わたくし、 さいとうは かんがえる。

そもそも、 われ、 さいとう から すると、 かふちょうせいを しょうちょうする もの として、 だんせいに みえる らしい ぱんを えらんだ ことは ふしぎでも あると どうじに もんだいが ある ことだと おもっていた。 しかし、 ぱんは だんせいに みえる らしい。 いんたびゅーで いいやま・ゆき【飯山由貴】は 「《家父長制を食べる》では、男性に見えるものを私が食べることに関して」と ひょうげんしている(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981 さんしょう)。

ふしぎで あるのは、 だんせいに みえる らしい ぱんは、 そこまで だんせいに みえない こと である。 ひとがた である のは わかるが、 だんせいに みえるのかと ふしぎに おもう。 そして、 もし だんせいに みえる ことを かのうに していると したら、 ふたつの ぜんていが あると かんがえる。そして、 それらの ぜんていに もんだいが あると おもった。
ひとつめは、 ぱんの なかに ぺにす らしき かたちを つくっている こと である。 しかし、 もちろん ぺにすが ある からと いって だんせい では ない。したがって、 この ぜんていを つかう ことは もんだいが あると かんがえた。
ふたつめは、 えいぞうの はじめに でてくる ぶんしょうだろう。 しょうせつかの あとうっどの しょうせつに でてくる ぶんしょう である。 それは、いいやま・ゆき【飯山由貴】の ひょうげんでは、「パンを作って、それを食べて、男性より大きい力を持った気になるって一節」 である(https://do-cks.net/works/publication/korea06/ 36ぺーじ)。これを かんきゃくは よんでいる ために、 ぱんが だんせいに みえるのだろう。 しかし、 だんせいに ちからが ある から だんせいを かたどった ぱんを たべると ちかがを もてる という かんがえの もとには、 ぱんで かたどる ことが できる ような だんせい こじんが ちからを もっている という かんがえかたが ある。 かふちょうせいと いわれる さべつに おいては、 だんせい こじんが ちからを もっている という よりも、 さまざまな しくみに よって だんせい いがいが ひがいを うける かのうせいが たかく なっていると とらえる べきだと かんがえられる。 それなのに、 だんせい という かたちに なんらかの ちからが やどっていると かんがえてしまうと、 その さまざまな しくみが わからなくなってしまう。 そうすると、 おこなう べきは てき としての だんせいを たおす ことと なってしまい、 さべつの ぜせい という もくひょうから とおざかってしまう。 だんせいも ひかくてき ひくい かのうせいの ていど である とは いえ、 ひがいに あう かのうせいが ある という ことを せっとくの ざいりょうに して、 てきと いう よりも れんたい しうる あいてと みなして、 さべつの ぜせいを めざす ほうが もくひょうに ちかい。したがって、 かふちょうせいを だんせいの かたちで しょうちょうする ことには もんだいが あると おもった。

しかし、 ぱんの かたちは これで なければ ならなかったのである。ただし、 それは 「だんせい」 という よりも、 「どめすてぃっくばいおらんすの かがいしゃ」 なのである。 ここに はきけを ともないながらも おこなう ていこうの げんどうりょくが ある。
じっさい、 この さくひんで、 いいやま・ゆき【飯山由貴】が なきながら はきけを もようしている ときには、 いいやま・ゆき【飯山由貴】は、 ぱんと ならんで ねそべっている。 しかも、 ぱんは つくえの うえに ある ために、 いいやま・ゆき【飯山由貴】も つくえの うえに ねそべるのだが、 いいやま・ゆき【飯山由貴】の からだは つくえを はみでている。
ここで、 いいやま・ゆき【飯山由貴】が みずから どめすてぃっくばいおらんすを うけいていたと いっていた という じょうほうが くわわると どうなるか。 あきらかに、 その ぱんは どめすてぃっくばいおらんすの かがいしゃに みえてくる。 どめすてぃっくばいおらんすの かがいしゃの となりで ねる。 そこで なみだを ながす。 しかも、 からだは ねどこに かんぜんには おさまっていない。 このような れんそうが はたらく。

じっさい、 いいやま・ゆき【飯山由貴】は さくひんを つくる げんどうりょくを つぎの ように いっている。 ながいが だいじ なので、 いんようする。

マーガレット・アトウッドの『誓願』っていう小説を読んだとき、パンを作って、それを食べて、男性より大きい力を持った気になるって一節が、なんかすごい印象に残ったんですね。なので、その一節から、そうした作品を作れないかなと思うようになりました。被害者インタビューのときに、こんな作品を考えてるんですけどなんて、被害経験のある方に話をしたら、「パートナーの顔のかたちのパンを食べる?あり得ない、気持ち悪い」みたいに言われたりもしたんですけど。でも「家父長制ってことにしたらどうですか」って聞いたら、「それなら分かる、私もめっちゃ食べたい」という反応がかえってきて、なるほどなと思って。
「これはもしかしたら作ってもいいのかもしれない」って思うようになりましたし、ある人にその話をしたら、その方が入っていた被害者の自助グループの中では、例えば「パートナーの写真をびりびりに破くとか、持ち物を壊すとか、そういうことしている人がいたよ」と教えてもらえました。本当に暴力行為を行うと自分が罪に問われてしまうから、何か代理でそうやって表現をするっていう人たちがいるよ、いたよって話を聞いたときに、ああ、こういう負の感情を持っているのは自分だけじゃないんだなと思って。そうすると、私が作ろうとしてるパンの作品も、いわゆる「私怨」がきっかけですけど、他の人の何か役に立つかもしれないなと思うようになって、制作を進めていく原動力になりました。
https://do-cks.net/works/publication/korea06/ 36ぺーじ

ここに かかれた こじんてきな いかり、 ふくしゅうしん、 ふのかんじょうが ていこうの げんどうりょく なのである。しかし、 それを ていこうに へんようさせた ために、 この さくひんは げいじゅつ さくひんに なっている のである。 

なにが ていこうを かのうにしているのか。 
こじんてきに いかる ことが げんどうりょくに なる。
それでは、 どうすれば しゅうだんで ていこうが かのうに なるのか。 
こじんてきに いかる ことを きょうゆうする こと である。 それが この さくひんで なしとげられていると いえる だろう。

そのような ことを かんがえさせられた さくひんで あった。

なかの・たかし【中野卓】『商家同族団の研究』だいいっしょうの れじゅめ

なかの・たかし【中野卓】『商家同族団の研究』だいいっしょうの れじゅめを かいたので、 こうかいします。ないように ついては、 まちがっている ところも ある でしょう から、 きをつけてください。
PDFは つぎの ゆーあーるえるから だうんろーど してください。
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中野卓(なかの・たかし), 1978[1964],『商家同族団の研究――暖簾をめぐる家と家連合の研究 第二版(上)』未來社(みらいしゃ). 

(『商家同族団の研究――暖簾をめぐる家研究 第一版』(1964)の ふくだいは ごしょくと「まえがき」Iに かいてある。)

2025ねん5がつ12にち すけなりぜみ さいとう・まの

れじゅめ

まえがき

・ひかえめな せいかく(いんさつみすの ていせいを いえない、ほんの うれのこりを きにする 「まえがき」I )

・あめりかがっしゅうこくの  R.K. Beardsley(びぁずれぃ)との けんきゅう(「まえがき」II, V)

・『商家同族団の研究』が ひょうか されたが、 なかね・ちえ(中根千枝) など からの ごどくも あった。(「まえがき」III)

・1942ねんの わたなべ・ますたろう(渡辺万寿太郎)との かいわ から、 そつろんの けんきゅうを はじめ、 ちょうさして、 がくとしゅつじんし、1946ねん から ちょうさを ふたたび はじめて、1964ねんに しょはんを しゅっぱんしている。(「まえがき」 VII -VIII)

・とだ・ていぞう(戸田貞三)と あるが・きざえもん(有賀喜左衛門)に おおくを おっている(「まえがき」 I -VIII)。

だいいっしょう(5-43)ようやく

・どうぞくだんけんきゅうの はじまりと かだいを あきらかにする(5、42)。

・1935ねん(しょうわ 10ねん) ぜんご から、 あるが・きざえもん(有賀喜左衛門) 「名子の賦役」(なごのふえき)などの ろんぶんが のうそんけんきゅう から でてくる(5、7-)。

・1943ねん(しょうわ 18ねん) あるが・きざえもん(有賀喜左衛門)『日本家族制度と小作制度』が どうぞくけんきゅうでは じゅうような くぎりと なっている(、42)。

だいいっしょう(5-43)の それぞれの せつの ようやく

いち(5-7):せんこうけんきゅうの ひはんてき けいしょう には、 じっしょう(実証)けんきゅうを おこない、 それぞれの せんこうけんきゅうの かんけいを ぜんたいとして はあく する ひつようが ある。そうして、 もんだいの ちゅうしんを とらえる。

に(7-10):1933-4ねん(しょうわ8-9ねん)の、あるが・きざえもん(有賀喜左衛門)による 「名子の賦役――小作料の原義、上・下」(なごの ふえき――こさくりょうの げんぎ、じょう・げ)と、 とだ・ていぞう(戸田貞三)が ひきいる ぶんけかんこうちょうさ(分家慣行調査) めんばーに よる ひはんけいしょうが どうぞくだんけんきゅうの はじまり である。

あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は、 「名子の賦役」(1933-34)において、 こさくりょうは おやこ という みぶんかんけいに よる ものであると しゅちょうしたが、 これは だいかぞく=どうぞくだんの けんきゅう でも あった。

さん(10-13):あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は、 「名子の賦役」(1933-34)に おいて、 だいかぞくが まとまる ときには、 ろうどうと みぶんの かんけい としての おやこ かんけい、 すなわち しゅじゅうかんけいを ちゅうしんに すると しゅちょうする。 

よん(13-15):あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】が 1938ねんに はっぴょうした『農村社会の研究――名子の賦役』では、 いしがみぶらく(石神部落)の ものぐらふてきな けんきゅうが のっている。けつぞく だけではない どうきょ だいかぞくせい から、 けつぞく だけではない ぶんきょ だいかぞくせいに へんかしていく さいとうけの ぶんせきが おこなわれている、いえを けつぞくに げんていしない じっしょうてきな けんきゅう であった。

ご(15-19):とだ・ていぞう【戸田貞三】も すずき・えいたろう【鈴木栄太郎】も、 どうぞくだんを けつえんてきと かんがえていた。

とだ・ていぞう【戸田貞三】:ひろく しらべたが、 どうぞくだんを けつえんと かんがえてしまっている(17-18)

すずき・えいたろう【鈴木栄太郎】:きたの・せいいち【喜多野清一】を いんようして、けつえんが かんけいない ことを わかっている のに、 どうぞくだんを 血縁的集団と よんだ。(18-19)

ろくと なな?(19-25):きたの・せいいち【喜多野清一】は、あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】と ことなり、ほうこうにんぶんけも ふくむ 家系 による どうぞくだんと、 おやかたこがたかんけいを わけて ぎろんした。そして、おやかたこがたかんけいを ほごや ろうどう、 せいじに わりあてた。    

?「とはいえ、その相違といわれるものは、同時に、対象としてとりあげられている同族団の、歴史的な存在形態というより類型上の変化の時点における相違、ないしは村落構造のもっている条件の相違に帰せられるのではないかと思われるのである」(25。「類型上の変化の時点」に ぼうてんきょうちょう)

→たいしょうが ちがう という よりも、 なにで るいけいを くべつするかが あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】と きたの・せいいち【喜多野清一】で ことなっている という ことを してきしている。 それは、 るいけいを わける じょうけんに ついて ちがう かんがえかたを していた という こと でも ある。 あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は、 どうきょか べっきょで くべつを おこない、 きたの・せいいち【喜多野清一】は おやぶんこぶんかんけいが どうぞくだんと かさなっているか かさなっていないかで くべつを おこなった。

はち(25-30):おいかわ・ひろし【及川宏】は、どうぞくだんと (いんせきしゅうだんでは なく)いんせきかんけいを くべつした(26)。また、 あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】と どうように、 どうぞくだんに ひけつえんてき ようそを いれて、 かぞくと くべつした(28-29)。 そして、だいかぞくせいと よんだ あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】とは ことなり、 どうぞくだんと よんだ(28)。

きゅう(30-33):おいかわ・ひろし【及川宏】は、 どうぞくだんの けつごうげんりを けつえんてきたんけいせいに もとめたが、 いえの けいふかんけいが じゅうよう である。 また、 おいかわ・ひろし【及川宏】は、きたの・せいいち【喜多野清一】を けいしょうして、 ふくすうの どうぞくだんが、 こじんを ばいかいにした いんせきかんけいで ちかく なる ことを してきした。そして、 いんせきかんけいとは ことなる どうぞくだんを してきした。

 

「それが〈殆ど恒に父方の血縁を単系的に辿る〉のも、またときとしてそうでないのも、条件如何によっていずれをも示しながら、しかも、そこにこの双方の場合を一貫している原理として、家の系譜、そして、家々のあいだの系譜関係があってのことであり、これこそが同族団を他の集団と本質的に区別し特徴づけるとわれわれは考える。」(31、「殆ど恒に」「ときとして」「家の」「家々のあいだの系譜関係」に ぼうてんきょうちょう)

じゅう(33-38):あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】(1943)は、 おいかわ・ひろし【及川宏】の ひはんを うけて、 どうぞくだん という がいねんを つかいはじめ、 どうぞくだんの げんりを けいふかんけいと ひょうげんした。いえの めんばーは かるちゃー、 ぶんかに よって きまり、 さまざまな じょうけんに よって いえの ありかたは かわってくる。

→いえの ありかたは、かるちゃー、ぶんか という どくりつへんすうに たいする じゅうぞくへんすう である。

じゅういち(38-45):どうぞくだんとは いえの けいふかんけいに よる、 ほんけと ばっけと いった、 いえ の あつまり である。

ひけつえんと ぼうけいは ぶんけする。 

けいふかんけい には、 よその むらから きた ばあいや、 ほんけの ぼつらくの あとに ほんけに なってもらう ことを ふくむ。

けいふかんけいが、 どういつの うじがみの さいしに よって かくにんされる。 そのため、 にちじょうてきに せいかつかんけいが あり、 ちえんかんけいも ある。

「この場合、系譜的出自とは、同族者個々人の血統的出自を意味するものというよりは、家々の創設の由来を、従ってまた、ただちに家々の存立の根拠如何をこそさすものであると考えられる。少なくとも系譜の本来の意義は、それが家々の政治的・経済的な存立の根拠を表現し確認するものであったところに存するといってよいであろう。」(39-40)

「家はそれ自体の系譜的連続において特徴づけられ、これによって家の成員には直系・傍系(非血縁を含む)の別が生じる。この傍系成員において家の系譜的連続がその家(本家)の枠を超出して展開したときに生ずる家々(分家・別家)のあいだの系譜関係、それこそが同族団をつくりだす。血縁も非血縁も、かかる系譜的連続にかかわることにおいてひとしく家の成員であり、またかかる系譜関係にかかわる家々であることにおいて、ひとしく同族団の構成戸なのである」(40-41)

なかの・たかし【中野卓】による あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】ひはん:どうぞくだんと しんぞくかんけいと いって いえと いえの かんけいを かんがえたのは いいが、 「しんぞく」は こじんの かんけいを いう から、 「しんるいかんけい」と いおう(41)。

かだい:けいふかんけいとは なにか?

としの どうぞくだん

よねばやし・とみお【米林富夫】, 1936(しょうわ11ねん), 「別家について――擬制的血縁関係の一考察」

あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】, 1938(しょうわ13ねん), 『農村社会の研究』 →のれんわけは ほうこうにんぶんけ である。

あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】, 1940(しょうわ15ねん)→1941(しょうわ16ねん), 「家族制度と労働組織」 のうそんにも としにも ほうこうにんぶんけが ある ろうどうそしきが ある。

  

どっかいの ための ちゅういてん

・ろんぶんの ちゅうしんかだいは のれんうち(暖簾内) である(5)。

・のれんうち とは、 としに おける しょうかどうぞくだん である(5)。

・どうぞくだんりろんは にほんしゃかいがくの じゅうような せいか であると なかの・たかし(中野卓)は ひょうかしている(5)。

・どうぞくだんりろんは にほんしゃかいがくの じゅうような せいか であると なかの・たかし(中野卓)は ひょうかしている(5)。

・「いかなる研究領域にあっても、特定の研究にとりその起点となりえた緒論考には、しばしばその領域の研究のもつ本質と課題を、当初の展開のなかに最も鮮烈に示している。研究が進捗し分化するに従って、ややもすれば枝葉末節にとらわれ、かえって問題の核心が見失われているおそれがある。」(6)

・あるが・きざえもん(有賀喜左衛門)(1897-1979)

ながのけんの じぬしの しゅっしん。びじゅつし、やなぎ・むねよし(柳宗悦)の えいきょうで ちょうせんびじゅつし、やなぎた・くにお(柳田國男)の もとで みんぞくがくを おこない、 のちに とだ・ていぞう(戸田貞三)の えいきょうで しゃかいがくを けんきゅうする。

あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は、 『日本家族制度と小作制度』(1943)に おいて、にほんの のうそんに おける いえと いえの かんけいを じゅうようと かんがえ、 じょうげかんけいが ちゅうしんと なる みんぞくてき とくしつを してきした。そして うえが おおやけ、 したが わたくしと なると している(cf. たかはし【高橋】 2016:3)。 

たかはし(高橋)(2016:3)は、なかの・ちえ【中野千枝】が この りろんを うけて、 「タテ社会の人間関係」を かいた ことを してきしている。

たかはし【高橋】(2016:9)に よれば、 あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は、 ほうげんなどを たんに ひかくする やなぎた・くにお【柳田國男】とは ことなり、 それぞれの ちいきの せいかつそしきの なかで りかいしようと した。やなぎた・くにお【柳田國男】が もじによらない しりょうを きほんてきに つかった みんぞくがく(民俗学)を おこなったのに たいして、 あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は もじ しりょうを つかう しゃかいがくに うつった。

あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は 『農村社会の研究』(1938)で、 1937ねんの とだ・ていぞう【戸田貞三】による 「家族構成」が、 けつぞく いがいの どうきょにんを はいじょしている てんを ひはんした(たかはし【高橋】2016:13-14)。 これが きっかけで、 とだ・ていぞう【戸田貞三】に せわを される ように なる(たかはし【高橋】2016:14)。そして、みんぞくがくしゃ(民俗学者) から、 民族論を ろんじる しゃかいがくしゃに なっていく(たかはし【高橋】2016:14)。 

高橋明善【たかはし・あきよし】, 2016, 「有賀喜左衛門の民族的性格論と家・村論」『21世紀東アジア社会学』8:1-35, https://doi.org/10.20790/easoc.2016.8_1

・とだ・ていぞう(戸田貞三)(1887-1955)

ひょうごけん しゅっしん。てんのうせい らいさんの たけべ・とんご【建部遯吾】を しどうきょうかん として、 すぺんさーの ばんにん である とやま・まさかず【外山正一】の えいきょうを うけた。しかごだいがくの ぱーくの こうぎも うけた。 1932ねんには こくすいしゅぎけいの 「帝大満蒙研究会」の せきにんしゃと なる。また、「国体の大義」の せいさくに きょうりょくしていると されている(たかはし【高橋】2016:13)。

とだ・ていぞう【戸田貞三】は、 1924ねんに けんいしゅぎてきな にほんしゃかいがくいんを ひはんし、 にほんしゃかいがっかいを つくる(たかはし【高橋】2016:13)。 

・ぶんけかんこうちょうさ(分家慣行調査):

1935ねんに はじまった とうきょうだいがく しゃかいがく けんきゅうしつの けんきゅう ぷろじぇくと。

りーだーは とだ・ていぞう(戸田貞三)だった。 ちょうさを ていげんした のうそんけんきゅうの すずき・えいたろう(鈴木栄太郎)、ほうせいし(法制史)の たきかわ・せいじろう(滝川政次郎)も さんかしていた。 じっしつてきな せわやくは、 よねばやし・とみお(米林富夫)である。(三浦【みうら】, 2019: 2)。そのた:「喜多野清一、渡辺万寿太郎、及川宏、北山正邦、野久尾 徳美、関清秀、関敬吾、竹内利美」(三浦【みうら】, 2019: 2)

みうら(三浦)(2019:2)に よれば、しょうわきょうこうに よる のうそんの ふきょうに たいする たいさく であり、 はいけいには かじょうじんこうの しょくみんちしはいに よる まんしゅうへの おくりだす こくさくが あった。

なかの・たかし【中野卓】(1978[1964] :16)によれば、 よねばやし・とみお(米林富夫)を つうじて、たきかわ・せいじろう(滝川政次郎)が とだ・ていぞう(戸田貞三)と すずき・えいたろう(鈴木栄太郎)を ひきあわせ、 さんにんで もんぶしょう がくじゅつしんこうかい から けんきゅうひを かくとくした。

三浦典子【みうら・のりこ】, 2019, 「内藤莞爾の社会学 その2 ――村落調査から末子相続研究へ――」『やまぐち地域社会研究』16:1-12, https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/27814/files/158995 )

・すずき・えいたろう(鈴木栄太郎)

すずき・えいたろう(鈴木栄太郎)は、『都市社会学原理』(1957)において、 「正常人口の正常生活」を けんきゅうする べきであり、 「異常人口の異常生活」は まちとしての としに とって ひほんしつてき であると しゅちょうしている。ここでいう 「正常」とは、 そのままで しゃかいせいかつを くりかえし おこなう ことが できる ぱたーんを いみし、 「異常」 とは、 みんなが すると、 しゃかいが ほうかいする ぱたーんを さす(山本【やまもと】 1982:29)。

山本剛郎【やまもと・たけお】, 1982, 「地域社会に関する覚え書」『関西学院大学社会学部紀要』45:29-41,  https://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/45_jp.htm。 

・よねばやし・とみお(米林富夫)

中野【なかの】(1968)に よると、 ぶんけかんこうちょうさの うらの せわやく であり、おおさかの のれんわけである べっけ(別家)の ちょうさを している。

中野卓【なかの・たかし】, 1968ねん08がつ, 「故米林富男会員を悼む」日本村落研究学会『研究通信』63:18  https://sonken.adam.ne.jp/pdf/063/063_09.pdf

・「当時の所謂封建論争」(7):にほんしほんしゅぎろんそう(1927-37))

のうそんの じぬし・こさく かんけいは ほうけんてきか どうか、ほうけんてきな ありかたが ほんしつてきか たんに のこっているのか どうか という ろんそう。ろうのうは(労農派)と きょうさんとうけいの こうざは(講座派)の たいりつに なった。ろうのうはは、じぬし・こさく かんけいは ほうけんてき では なく きょうそうてき であり、 ほうけんてきな ありかたは のこっている だけ である、 したがって、 いちだんかいの かくめいを おこすと しゅちょうする。それにたいして、 こうざはは、 じぬし・こさく かんけいは ほうけんてき であり、 ほうけんてきな ありかたは にほん しほんしゅぎに とって ほんしつてきである、 したがって、 ぶるじょわみんしゅしゅぎ かくめいと ぷろれたりあ かくめいの にだんかいかくめいせんりゃくを しゅちょうした。  (日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本資本主義論争」)

じぬし・こさく かんけいが ほうけんてき というのは、 けいざい いがいの ぼうりょくや けんりょくで、 りじゅん そのものを うばい とる ような ばあいの ことを いう(日本大百科全書(ニッポニカ) 「封建地代」)。 

それにたいして、 あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は、 じぬし・こさく かんけいは ほうけんてきな もの では ないが、 しほんしゅぎてきな きょうそうに よる もの でも なく、 じょうげかんけいに よる ものだと しゅちょうした。 

・名子(なご)

れいぞく こさく。めいしゅの ために ろうどうを おさめる。 

「名子(なご) 「みょうし」とも。中世~近世の隷属農民の身分呼称。中世,名主のもとで家内労働を担い,名田の一部を耕作し,自身が売買の対象にされた。中世末期,名田経営の解体にともなって経営の自立化が進んだが,近世にも多くの名子が残存した。近世では,中世から同様に隷属状態におかれていた被官百姓と併称され,名子・被官とよばれた。世襲的な借家・小作関係にもとづく強い隷属性が特徴で,村内での地位は水呑百姓以下であった。作子(つくりご)・門屋・譜代・内者・下人など地方により多様な呼称がある。近世を通して名子抜けして自立した者も少なくないが,一部には近代以降,第2次大戦後の農地改革まで存在した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社) 」(https://www.historist.jp/word_j_na/entry/035984/ まごびき)

賦役(ふえき):しなければ ならない ろうどう。

・「〈大家族〉と、〈村〉の構造」(7)

「大家族」とは、 いえの あつまりの こと。この 大家族で ひとびとが つながっていると あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は かんがえる。 高橋【たかはし】(2016:)に よると、鈴木栄太郎【すずき・えいたろう】は、「村」が まとまりを なすので あって、 こじんと むらの あいだに いえの あつまりを そうていしないが、 あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】 は、 いえの あつまり である 大家族を きょうちょうした。あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】に とって、 村は 大家族だけの ことも あるが、 大家族 いがいの めんばーも ふくめた 村も ある。

高橋明善【たかはし・あきよし】, 2016, 「有賀喜左衛門の民族的性格論と家・村論」『21世紀東アジア社会学』8:1-35, https://doi.org/10.20790/easoc.2016.8_1

・「有賀の理論はエミール・デュルケームの集合表象説からの強い影響と共に、ラドクリフ・ブラウンやブレスラウ・マリノフスキーの機能主義における、文化ないし社会の全体連関性の主張の採用によって裏付けられていた」(8)

こさくかんこう という ようそ だけを ひかくする のでは なく、 しゃかい ぜんたいの なかでの ようその いちづけを かくにんするべき という かんがえかた。

・「そのさい集団的威圧の内容は、有賀の場合、新しい生活条件が現れた場合にも、これを受け入れる村の、また大家族の、生活組織が、前段階におけるそれらからの連続としてあり、そこに生活意識の統合が、全体連関的に働く点を重視するものであった」(8)

きはんの ないようは、 まえの じだいの しゃかい ぜんたいの せいかつの ぐるーぷと、 せいかつの ぐるーぷ ぜんたいと かかわる せいかつの とらえかたと かんけいしている。 

「威圧」(8):でゅるけーむにおいて、 しゃかいてきじじつ としての しゅうごういしきに ほんしつてきな こうそくせい(拘束性、contrainte)で はたらく ちからの こと(中【なか】 1967: 1267-1268)。 つまり、 いわゆる きはん。

中久郎(なか・ひさお), 1967, 「社会的事実と行為――デュルケム理論の問題」京都哲學會『哲學研究』43(12):1255-1287.  https://doi.org/10.14989/JPS_43_12_1255

「生活意識」(8):せいかつに たいする かんがえかた(42)。 あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】において、それぞれの ようそを ぜんたいとして とらえる ための がいねんで あった。高橋【たかはし】(2016:8)は、 けいざいなどの きゃっかんてきじょうけん だけ では なく、 生活意識 という しゅたいてきじょうけんに ちゅういを はらっている ことを たかく ひょうかしている。 また、高橋【たかはし】(2016:12-16)は、 生活意識 という がいねんが やなぎだ・くにお【柳田國男】の がいねんでも ある ことを してきして、 この がいねんを あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】が つかわなくなる りゆうを、 やなぎだ・くにお【柳田國男】との がくもんてき たいりつに もとめている。

米地実【よねじ・みのる】, 1973, 「生活意識論――有賀喜左衛門の学説の覚書」日本女子大学社会福祉学科『社会福祉』22:42-45.  https://jwu.repo.nii.ac.jp/records/2252

高橋明善【たかはし・あきよし】, 2016, 「有賀喜左衛門の民族的性格論と家・村論」『21世紀東アジア社会学』8:1-35, https://doi.org/10.20790/easoc.2016.8_1

「生活組織」(8):おそらく、 せいかつを いとなむ ための ぐるーぷと かんがえると よさそう。「既存の〈生活条件〉の下で〈生活の全体を表象するもの〉である〈生活意識〉においてその統合を示すものである〈生活組織〉こそが、新たに現れる生活条件に適応してゆく」(8)という ように、かんきょうの もとで いしきに よって まとまる しすてむ こそが かんきょうに あわせて へんかすると かんがえられている。 つまり、 ひとびとの ぐるーぷが しすてむ として へんかしていくのであって、 こじんが へんかしている のでは ない。

平野【ひらの】(2000:78-79)は、 あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】が いえを しんぞくしゅうだん では なく せいかつしゅうだん=せいかつそしき である という ことを きょうちょうした ことを してきしている。

平野敏政【ひらの・としまさ】, 2000, 「生活組織と全体的相互給付関係――有賀「家」理論の基礎概念」『三田社会学』5:76-81. https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AA11358103-20000000-0076

・「一般には〈小作慣行の現在における性質の中に、その最も顕著なる要素〔近代法的また資本制的な小作契約観念――引用者註。以下、引用中の〔〕は同様〕を基礎として、小作慣行の歴史的過程をまで説明しようとする態度〉がとられていることを批判し」(8)

[あなくろにずむひはん] れきししゃかいがくに おいて、 げんだいの へんけんによって かこの できごとを かんがえる ことを いましめている。あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】を なかの・すぐる【中野卓】が する ことで つながっている。そして、これは さとう・けんじ【佐藤健二】にも うけつがれる。

・「有賀は、この方法によって特殊小作慣行の社会的意味を解明することを通して、却って日本の現実における小作制度の本質を解こうとしたのである」(9「特殊」「却って日本の現実における」に ぼうてんきょうちょう)

げんていされた ようそを しらべるの だが、 その ために せいかついしき という しゃかい ぜんたいに よる とらえかたを あきらかにする ほうほうを とる ので、 にほんしゃかい ぜんたいに ついて わかる。

さらに、 いちぶの ようそ(名子の賦役)を あきらかに する ことで、 それが ふくまれる ようそ(小作制度)を あきらかにする ことが できる。しかし、 「さらに」 から いった ことは ろんりてきには いえない のでは ないかと ぎもんが うかぶ。しゃかいぜんたいと ようそぜんたいは ことなる からである。

・「この場合に限らず、とりわけ有賀の主張は、常に何らか既存の有力な理論へのアンチテーゼとして提出され続けてきた。」(9) 

けいざいの ろうのうは:こさくりょうは、 しほんしゅぎてきな きょうそうで きまる。 けいざいてきな けいやく なのだ。

ぶりょくの こうざは:こさくりょうは、 ほうけんてきな ぶりょくに よって きまる。

しゃかいみぶんの あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】:こさくりょうは、 おやこ という みぶんに よって きまる。なぜなら、 

①こさくの いちぶの 名子(なご)の 賦役(ふえき) という ろうどうは、 じぬしの ひつように よって きまるので あって、 けいやくで きまっておらず、(けいざいの ろうのうは への はんろん) 

②こさくの ねんきが むねんき であり、 ぶりょくが なくなれば おわり とか では ない から(ぶりょくの こうざは への はんろん)(9)。

・「名子の賦役」(1933)における 名子(なご)の分類(10)

(1)血縁分家によるもの

大家族

同居大家族

分居大家族

親方本家→保護→←賦役←分家

(2)主従関係によるもの

(イ)家来をひきつれた武士の土着

(ロ)奉公人分家(養子奉公人分家を含む)(おやこ かんけい)

(ハ)地主と主従関係を結ぶに至った移住入村者(おやこ かんけい)

(3)土地家屋の質流れによるもの(おやこ かんけい)

「名子の賦役」の じゃくてん: けつえんと ひけつえんを わけて べつの せつめいを あたえている。(1)けつえんと(3)しちながれを(2)の しゅじゅうかんけいに とうごう できていない。

それにたいして、 のちの あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は どうぞくだんりろんに おいて、 けいふかんけいに よる しゅじゅうかんけいが、 けつえんと ひけつえんに かんけいなく ちゅうしんに あると しゅちょうする。  (11)

「名子の賦役」の すぐれているてん:しゅじゅうかんけいの もでるを、 ぶしと けらい(イ) では なく、 のうかの ほうこうにんぶんけの 地主と名子の かんけい(ロ)に もとめている(11)。

・「入百姓の名子」(11)

いりびゃくしょう(入百姓)は、 ろうどうりょくぶそくの とちを たがやさせる ために よびこんだ のうみんの こと。

・あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】に たいする ごかい(11-12)

①しゅじゅうかんけいを ぶしと けらいの ほうけんてき かんけいと かんがえてしまう。

②だいかぞくや かぞくを けつえん、しんぞくしゅうだんと かんがえてしまう。

③おやこかんけいを うみのおやと うみのこの かんけいと かんがえてしまう。

・「しかしながら、この時期にはまだ、有賀自身〈大家族〉なる術語の使用のもとに、それを本家と共に構成する血縁分家・非血縁分家を、〈血縁分家〉と〈主従関係〔の家〕〉とにわかち、これらをその〈大家族〉へ統合している原理を、まだ〈系譜関係〉であるとも〈主従関係〉であるとも明示するに至ってはいなかった」(11-12)

あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は のちに、 けいふかんけいによる しゅじゅうかんけいが どうぞくだんの ちゅうしんに あると かんがえる ように なった。

・「すなわち、(2)の〈主従関係による名子〉について説く際に、とりわけ、奉公人(住込奉公人)ないし奉公人分家について、地主親方(主家)が彼らを奉公入りさせる時に〈子分として主家に養取〉し、以後、オヤとして奉公人に臨む親方の意識、またコとして親方に依存する奉公人の意識を重視し、かかる意味の〈オヤコ関係〉が、労働組織であるとともに、身分関係(の組織)である点を指摘し」(12)

いしきに ついては いちぶは ほうげんを しょうこに している(名子の賦役上 721-727)。

・あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】の ぶんしょう

「主從閥係なら何れにせよ 元奉公人であつた事は疑ひない」(名子の賦役上 725) 

「斯様な生活意識の生する根據は何處にあるかといふに, 之は奉公人を取容れるに際し, それを子方として主家に養 取する事にあるのである。 年季奉公などを見るに, 通例年季を勤めた上にお禮奉公といふのが二三年あつて,そこで 田地を分けて貰つて村に居着くのが多かつた。 年季の間は何の報酬もないのであるが, これは年季明け後に主人の充 分なる保護が豫定されてゐるから,契約に賞つて奉公入の實父はその親權を主人に渡し、 以後主人はその奉公人の親 として臨むのである。 併し之は言ひ換れば最も强い支配關係に入ることに外ならないのであつて. 之が我が國の主從 關係を成立せしめる基本的觀念であつた」(名子の賦役上 726、したせんは れじゅめ たんとうしゃ である さいとうに よる)

おやこ という なまえが ぜんてきしはいを あらわす(名子の賦役上 726-727)

cf. 「この慣習の根據となるものは氏竢紐織に依つて深められた…家的感情であつて。 それは同時に氏神を異にする者に 對する強い排他的感情ともなるりであるから, 氏紳を異にす者をその氏族内に取容れるにはそれを絶鞠的に支配する 手段に俟たねばならなかつたのである。 即ちそれはその者の生命乃至魂を支醜することでなけれぱならないから’それを子として養取する事であつて, 實父からの親襟移轉の意思表示に於て行はれたのであつで、 この場合證文を取る といふ様な事は始めはなかつたらうと思はれる。 之は要するに身元慥かでなければ奉公人にする事を欲しなかつたか らであるo後に證丈がある場合には實父の外に身元請人を立てたのであるが、 之は恐らく親權の授受に不安な纂情が いろ−ー, 生じたからであらうと思はれるが. 普通の年季奉公にいくらも見らる蕊所である。 何れにせよ奉公人となゆ 鍛暮の節季に・王人から盃を受けるとか、 仕着せを貰ふとかいふ事は家の子としての主人に鬢する關係の衷象である が, 次に奉公人が養予として取容れらる例を擧げて脯ての習俗に潜む麹念を明かにして兄たい」(名子の賦役上 728-729、こぴぺのみで へんしゅうしていない。)

・ほまち

「帆待ち」 とも かき、へそくりの こと。 ふなのりが けいやく いがいで ひみつの しゅうにゅうを える こと。

・いしがみぶらく(石神部落)

いわてけん、にとぐん、あらさわむら、いしがみ

・『農村社会の研究』(1936)の分類(13-14)

大家族制

同居

血族的

非血族的:血族的な家と非血族的な家

分居

血族的

非血族的:血族的な家と非血族的な家

・『農村社会の研究』(1936)の じゃくてん(14-15)

だいかぞくは ほんらい けつぞく という じょうしきが まだ ある。だいかぞく という あいまいな がいねんを つかっている。

・「他の人々の考えるように血族的オヤコ関係を本来のものとみて、非血族的なそれを擬制とみる見解は、〈大家族制〉が解体した結果、血族に偏するに至った、むしろ、後の形態にすぎない姿から、逆にこの原型とその本質を類推した〈合理的解釈〉にすぎないとした。歴史上の一時点である現在の型をジャスティファイする立場をもとにして、原型を、非歴史的に説明するのはまちがいであって、現在置かれている歴史的条件のもとで社会的現実の示している姿やその本質をわれわれが現在の型としてとらえるように、その原型としての、過去の形態やその本質は、その属した歴史的社会的現実のなかで、把握されなければならないという主張である。」(14)

[あなくろにずむひはん]

・きたの・せいいち【喜多野清一】

・きたの・せいいち【喜多野清一】の ちょうさち1

ながまさ(にいがたけん、かなおむら、ながまさ) (1936-1937、しょうわ11-12)

→1947ねん(しょうわ 22ねん) 「町人請負新田に於ける小作関係」『社会学研究』か?(cf. 19)(斉藤史朗, 2016,「日本社会学における家理論の形成と展開―その社会像と政治観」博士論文より )

→1949ねん(しょうわ 24ねん)「新田開発村の同族組織」『戸田貞三博士㑏暦祝賀記念論文集 現代社会学の諸 問題』 か?(cf. 19)(斉藤史朗, 2016, 「日本社会学における家理論の形成と展開―その社会像と政治観」博士論文より )

・きたの・せいいち【喜多野清一】の ちょうさち2

わかみや (ながのけん、さらしなむら、わかみや) (1937、しょうわ12)

→1937ねん(しょうわ12ねん)日本社会学会における ほうこく(19)

→1937ねん(しょうわ12ねん) 「信州更科郡若宮の同族団」『民族学研究』 

・おいかわ・ひろし【及川宏】

・ますざわむら(増沢村) きゅうせんだいはん(いわてけん) 

・まき という どうぞくだん

「まき同じ村内の本家分家仲間(同族団)の呼び名。エドウシ、イッケ、ウチワ、イットウ、カブウチ、ジルイなど同姓・同系の家仲間の方言の代表名として、現在はなかば学術語にもなっている。しかしマキを広く血筋につながる親族の範囲に用いる地方もあって、かならずしも実際の用例は「同族(本家分家仲間)」に限られてはいない。東日本一帯に広く分布する親族関係用語で、おそらくは「まとまり」を意味する古語に源流するところであろうが、広く血筋、血統、血縁による仲間を意味したり、あるいは同一村内の同系出自の家々(同族)の仲間だけに限定するのは、それぞれの地方の実態に即して、のちに分化したのであろう。マケ、マギ、マゲともいうが、その語源は明確ではない。[竹内利美]」(日本大百科全書(ニッポニカ) )

・とだ・ていぞう【戸田貞三】の 1937ねん(しょうわ12ねん) 「村に於ける『まき』の機能」(18)

(こじん)

いえ

ちゅうかんしょうしゅうだん: まき、いんせきかんけい、おやぶんこぶん など

むら

まきを けつえんだんたいと かんがえている。

なかまに けつえん だんたいの はたらきなかまと ほうこうにんぶんけ である そへなかまが ある。

なかまは まき であると かんがえる ことで、 けつえんだんたいと かいてしまっている。

・すずき・えいたろう【鈴木栄太郎】の 1935ねん(しょうわ 10ねん)の 「血縁に関する二つの方面」(18)

まき への げんきゅう

・すずき・えいたろう【鈴木栄太郎】の 1939ねん(しょうわ 15ねん)の 「我が国における農村社会集団の地域性に就いて」

しぜんそんの なかの 「〈血縁的集団〉」=「〈血族的集団〉」が どうぞくだん である(18)。

「〈同一の血族との意識のもとに〉ある〈父系による同族〉たる〈家の集団〉」(18)

家系としての父系↔父系血統

けいふかんけいが おなじか、 おやが だれか。

・しぜんそん(自然村)↔ぎょうせいそん(行政村)

・おいかわ・ひろし【及川宏】と そうだんした きたの・せいいち【喜多野清一】が 1937ねん(しょうわ12ねん) 「信州更科郡若宮の同族団」で、 どうぞくだん という ことばを つかう。(19)

ゆずりはらむら おおがいと(棡原村大垣外) やまなしけん きたつるぐん

・きたの・せいいち【喜多野清一】は、 わかみや での ちょうさでは、 どうぞくだんを けつぞくと かんがえていたが、 ぎせい(擬制)として ほうこうにんぶんけを どうぞくだんに ふくめて、 〈家系〉に かかわる ものと かんがえる ように なった(22-23)。

・おいかわ・ひろし【及川宏】 ものぐらふ

おいかわ・ひろし【及川宏】, 1938(しょうわ13), 「分家と耕地の分與―舊仙臺領增澤村に於ける慣行について―」『民俗学年報』1

「えどうしまけ」 という どうぞくそしきに ついて。

おわらない どうぞくだんと、 けっこんしているひとが しぬと おわる しんぞくかんけいを たいひてきに とらえる。(26)

しんぞくだん では なく、 しんぞくかんけいと かいた。(26)

おそらく、 けつぞく だからと いって せいかつを ともに する ぐるーぷを つくるとは かぎらない ことを ひょうげんしたの だろう。

おいかわ・ひろし【及川宏】, 1940(しょうわ15), 「同族組織と婚姻及び葬送の儀礼――旧仙台領増沢村に於ける慣行に就いて」『民俗学年報』2

1939ねん8がつの ちょうさ

きたの・せいいち【喜多野清一】や あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】によって たかく ひょうか されている(25-26)。 なかの・たかし【中野卓】も たかく ひょうかしている(26)。

ぶんしょうしりょうが つかえなかった ため、 しゅうぞく(mores) から ちょうさ した。

どうぞくだんと かぞくの ていぎ

あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】の だいかぞくせい りろん ひはん(27)

どうぞくだんは ふくすうの いえの あつまり である ことも ある。 しかし、 あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】は どうぞくだんを だいかぞくせいという ことばを つかっている ので、 ひとつの いえと まちがえられやすい(27-28)。

とだ・ていぞう【戸田貞三】の しょうかぞく りろん ひはん(27)

かぞくは けつえん だが、 とだ・ていぞう【戸田貞三】は れきしを むしする ことで、 いみや きのうを むしする から、 どうぞくだん けんきゅうが ひつようである(28)。

「〈家〉」 という どうぞくだん とは、 「〈公的承認〉」と「〈経済的自立性〉」が ある ぶんりつする どうきょたんい である(29)。

ひきんだいてきな どうきょの しようにん、 すみこみ ほうこうにんを いえ という どうぞくだんに ふくめた(29)。

なかの・たかし【中野卓】による ひはん1:「準家族員」と いってしまったが、ぎせい(擬制)は つかわないと いっているのだから、 かぞくいん とは べつの いえの せいいんと とらえる べきである(29)。

なかの・たかし【中野卓】による ひはん2:ようしを かんがえていない。

いえの せいいん としての こ

▼せいぶつがくてきな うらづけのない しんぞくかんけいしゃ

▼ようし ほうこうにん

▼いっぱんの すみこみほうこうにん

(おいかわ・ひろし【及川宏】, 1940(しょうわ15), 「所謂「まいりのほとけ」の俗信に就いて舊仙臺領增澤村慣行調査報告(三)―」『民俗学年報』3)

・家付娘(いえつきむすめ):じっかで むこを とる むすめ(30)

なかの・たかし【中野卓】による ひはん3:どうぞくだんの しゅつじの きょうつうせいを しゃかいせいど として とらえる べきと かいているのに、 けつごうげんりを けつえんてきたんけいせい(血縁的単系性)、 とくに ちちがたの それと かんがえてしまった ので、 ようしを せつめい できない(30-31)。

・なかの・たかし【中野卓】の しゅちょう

「それが〈殆ど恒に父方の血縁を単系的に辿る〉のも、またときとしてそうでないのも、条件如何によっていずれをも示しながら、しかも、そこにこの双方の場合を一貫している原理として、家の系譜、そして、家々のあいだの系譜関係があってのことであり、これこそが同族団を他の集団と本質的に区別し特徴づけるとわれわれは考える。」(31、「殆ど恒に」「ときとして」「家の」「家々のあいだの系譜関係」に ぼうてんきょうちょう)

・おいかわ・ひろし【及川宏】の りろん

〈姻戚と同族とはその成立において同時的観念〉(31)

どうぞくだんは ぞくがいこんの きんしを ともなわない(31)

・おいかわ・ひろし【及川宏】の りろん(つづき)

どうぞくだんA  ↔たて↔ どうぞくだんA

かぞくα  げまいんしゃふと かぞくγ

こじん「あい」(きたの・せいいち【喜多野清一】) こじん「おか」

↔よこ↔ げぜるしゃふと(きたの・せいいち【喜多野清一】)

どうぞくだんB

かぞくβ

こじん「うえ」

こじん「あい」と こじん「うえ」が けっこん して、 

こじん「あい」が かぞくαから どうぞくだんBの かぞくβに うつる。

→かぞくαと かぞくβは かんせつてきに ちかくなる。

→どうぞくだんAと どうぞくだんBは かんせつてきに ちかくなる。

こじん「あい」が しぬ。

→かぞくαと かぞくβは とおくなる。

→どうぞくだんAと どうぞくだんBは とおくなる。

どうぞくだんAの かぞくαと かぞくγは こじん「あい」が しのうが、 ちかいまま。

・おいかわ・ひろし【及川宏】の りろん

きんせいの のうぎょうけいえいの はってん だけでは、 どうぞくの せいりつを せつめい できない(32-33)。

なぜなら、 

きんせいの まえに どうぞくが ないと いって、 

②どうやって のうぎょうけいえいの へんか から どうぞくが できるのかを せつめいしないと いけない から。

・あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】が こだい、 ちゅうせいいの どうぞくだんを しらべて、 1943ねん(しょうわ18ねん)の あと りろんかした。(33)

・のうか、しょうか、ぎょか、ぶけ それぞれを けんきゅうしないと いけない。

・あるが・きざえもん【有賀喜左衛門】, 1943(しょうわ18), 『日本家族制度と小作制度』

『農村社会の研究』(1938)の かいていばん としての しゅちょ。

おいかわ・ひろし【及川宏】の ひはんを うけいれて、 だいかぞくせい という がいねん から どうぞくだんたい という がいねんを つかう。(33-34)

さいしゅうてきには だいかぞく という がいねんを つかわなくなる。(34)

どうきょだいかぞくせい→いちじてきな ぶんきょだいかぞくせい→どうぞくだんたい(35)

どうぞくだんたいは、 [ぶんきょだいかぞくせい=ぶんきょしている ふくごうの いえ=ぶんきょ している はいぐうしゃを ともなう ぼうけいや ひけつえんも ふくんだ いえ](34)と くべつされる(35)

・寄留(きりゅう):いそうろう(35)

・ワラジヌギ:ほかの むらから きた ひと(長谷川【はせがわ】 1987:19)

はせがわ・ぜんけい【長谷川善計】, 1987, 「社会学における家と家父長制――戸田・喜多野理論を中心にして」『比較家族史研究』2 :9-27. http://jscfh.org/2020/03/14/%E3%80%8E%E6%AF%94%E8%BC%83%E5%AE%B6%E6%97%8F%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%8F%E7%AC%AC2%E5%8F%B7/ 

・タノミホンケ:「落したり絶家したりした本家の代りに,他家系の有力な本家に自家の本家になってもらう」世界大百科事典(旧版)「親分・子分」

・よその むらから きた ひとを どうぞくだんに いれる ことが ある ので、 父系血統(ふけいけっとう) という せつめいは できない。(35)

・とだ・ていぞう【戸田貞三】への あなくろにずむひはん から、 どうぞくだんの こうせいたんい としての いえ では なく、 けつえんに よる ものを きほんの かたちと かんがえた ことの ひはんに へんかする(36)。

・どうぞくだんの こうせいたんい である いえ(37)

たんいつの いえ:はいぐうしゃが いる ぼうけいや ひけつえんが いない。はいぐうしゃの いない ぼうけいや ひけつえんは いるかもしれない。

ふくごうの いえ:はいぐうしゃが いる ぼうけいや ひけつえんが いる。

ひけつえん とは、 ひけつえんの ようしも ふくむ。

←なかの・たかし【中野卓】の ひはん:しんぞくかんけいしゃ(ちょっけい、ぼうけい、ようし)と ひしんぞくかんけいしゃ(すみこみほうこうにん)に わける べき(37)

おそらく、 けつぞくであるかは いえに とって どうでも いい という こと であると かんがえられる。

・いえの めんばー である ことは、 ぶんかてきに きまる。 けつえんは かんけいない。(37-38)

・それぞれの ぶんるいは、 じょうけんに よって たがいに うつり かわる。(38)

・末家(ばっけ):ほんけ から わかれた いえ。(38)

・聟(むこ)

・どうぞくだんたいと しんぞくかんけい(41-42)

どうぞくだんたい

↓ ほんけと ひけつぞくぶんけの かんけい

↓↑ ほんけと けつえんぶんけの かんけい

 ↑ いんせきかんけい

しんぞくかんけい

てきおうてきせんこうを かいりょうするに ついての おぼえがき

はじめに

この ぶんしょうは ある ろんぶんに ついての しょひょう である。その ろんぶん とは、 佐々木梨花(ささき・りか)さんの 「適応的選好を改良する」(てきおうてきせんこうを かいりょうする) という ろんぶん である。2025ねんの はっぴょうで、『国家学会雑誌』(こっかがっかいざっし)138かん、1・2ごう、236-164ぺーじ である。りさーちまっぷの ゆーあーるえるは、https://researchmap.jp/r.sasa/published_papers/49276327 である。ささき・りか さんが ついったーで しょうかいしていた しりょうの ゆーあるえるは https://researchmap.jp/r.sasa/presentations/48727176 である(https://x.com/pearblossom_meo/status/1894912473955999997?t=J2AuvAUjWxc7ixSUCdLgow&s=19)。この しりょうは、 ろんぶんと おなじ わだいに ついての はっぴょう しりょう らしい。ささき・りか さんには、 この ろんぶんを おくって もらった。ありがとうございます。

この ろんぶんの しょひょうを かきたいと おもったのは、 じぶんの けんきゅうとの つながりが つよかった から である。わたくし、さいとう・まのは、 えっくすじぇんだーに たいする さべつを けんきゅうしている。えっくすじぇんだー とは、 せいべつに ついて だんせいか じょせいか どちらかと きかれても、 こたえに こまる ひとたちの せいべつ である。えっくすじぇんだーは、 のんばいなりー とも よばれる。このような ひとたちへの さべつに ついて、 おのれは けんきゅうしている。その けんきゅうは、 しゃかいがくの けんきゅう なのだが、 さべつの ていぎを おこなう ために、 てつがくとの かんけいが もんだいに なってきた。そのような ことを かんがえていた ときに、 ささき・りか さんの てきおうてきせんこうを かいりょうする という この ろんぶんを よんだ。 そして、よんで かんがえた ことを かきたいと おもった。とくに、 さべつ という わたしの てーまと、 この ろんぶんの あいだに ある つよい かんけいを、 かきたいと おもう。

まず、この ろんぶんの ぎろんを かんたんに しょうかいする。 そして、 そこから かんがえられる あたらしい せいりの しかたや、 かんけいする ぎろんに ついて のべる。

ないようの しょうかい

てきおうてきせんこうを かいりょうする という この ろんぶんは、 てきおうてきせんこう という がいねんを つくりなおそうと している。
では、 てきおうてきせんこう とは どういう がいねん であるのか。

がいねんの しょうかい

まず、てきおうてきせんこう という ことば、 もじとしての かんじでは わかりやすいが、 ひらがなのみで かく ときには あまり わかりやすく ない。そこで、 ここからは、 てきおうてきせんこう という なまえを いいかえよう。

てきおうてきせんこう とは、 じょうきょうに あわせた このみと いいかえられる。てきおうてき という ぶぶんが、 じょうきょうに あわせたに たいおうして、 せんこう(選好)が このみに たいおうする。てきおうてきと いうときに、 かんがえられているのは、 そのひとの おかれた よくない じょうきょうに あわせて、 なにかを このむ ように なってしまう という こと である。たとえば、おんなは ひくく ひょうかされる かじろうどうを する べき という かんがえが ある ような、 じょせいさべつ てきな じょうきょうで、ある じょせいが かじろうどうを したいと おもっている ときに、その じょせいは じょうきょうに あわせた このみを もっている かもしれない。この ぶんしょうでは、 このような てきおうてきせんこうを、 じょうきょうに あわせた このみと いいかえる。

つぎに、 じょうきょうに あわせた このみ という がいねんを つかう もくてきに ついて あきらかに しよう。
じょうきょうに あわせた このみを してき する もくてきは、 じょうきょうに あわせた このみを もっている ほんにんが いる じょうきょうに わるい ところが あると してきする ことに ある。つまり、 じょうきょうに あわせた このみを もっている ほんにんが わるいと せめる ことは もくてきでは ない。たとえば、じょせいさべつてきな じょうきょうに いて、 さらに かじろうどうを したいと おもっている じょせいを わるいと いいたい のでは ない。そうではなくて、 かじろうどうを したいと おもっている じょせいが いる、 その じょせいさべつてきな じょうきょうが わるいと せめたいのである。じょうきょうに あわせた このみを してきして、 しゃかいを かえる ことが もくてき なのである。
さいごに、 じょうきょうに あわせた このみは どのように わるいのか かんがえよう。

じょうきょうに あわせた このみは、 ふじゆう なので わるい のである。ふじゆう とは、 わるい ことを ひとつの ものと かんがえた ときの わるさの こと である。ふせいぎ とは、わるい ことを ふくすうの ものと かんがえた ときの わるさの こと である。ふびょうどう とは、 わるい ことを ぜんたいの ものと かんがえた ときの わるさ である。じょうきょうに あわせた このみは、 ひとりの ひとつの このみを もんだいに している ので、 ふじゆうが もんだいに なっている。つまり、じょうきょうに あわせた このみは じゆうと たいりつ している。 ささき・りか(佐々木梨花)は、 この じゆうを じりつせい(自律性)という ことばで ひょうげんしている。

まとめると、 じょうきょうに あわせた このみ とは、 かえる べき わるい じょうきょうに いる ときの このみ であり、 そのような このみを いだかされるのは、 ふじゆう だから わるい。
さて、ささき・りか(佐々木梨花)は、 じょうきょうに あわせた このみ という がいねんを かいりょうする。つまり、 この がいねんを もくてきに あわせて つかいやすく する のである。その ときの もくてきは、 じょうきょうに あわせた このみを してきする もくてきと かさなる。

かいりょうの しょうかい

かいりょうすると いう から には、 げんざいの つかわれかたは、 もくてきから かんがえると、 べんりでない ところが ある という こと である。 ささき・りか(佐々木梨花)は、 ふべんな ところ として ふたつ あげている。 ひとつは、いままでの ていぎ では、 あきらかに ちがうと おもえる ぐたいれいを ともに じょうきょうに あせた このみと にんていしてしまう。もうひとつは、いままでの つかいかた では、 わるい じょうきょうに いる ひとを ぶじょく する ことに なってしまう、という こと である。

このような もんだいてんを かいけつ する ために、ささき・りか(佐々木梨花)は、 ふたつの くふうを する。ひとつは、ふじゆうの ばあいわけ。もうひとつは、 わるい じょうきょうに いる とうじしゃに よって とりもどされる じゆうに ついての こうさつ、 である。それぞれ せつめいしよう。

ささき・りか(佐々木梨花)は、ふじゆうの ばあいわけを せいやくせつ(制約説)と よぶ。せいやく とは、 この ぶんしょうの ことばで いえば、 ふじゆうの げんいん である。
せいやくせつ(制約説) においては、 みっつの ふじゆうの げんいん、または せいやくを かんがえる。みっつの ふじゆうの げんいんは、 せんたくしのふざい、ひふくり、そがい である(199)。それぞれ、 えらべる せんたくしが ないと おもっている こと、 せんたくしの どれを えらんでも げんじつに ふこうに なる こと、 せんたくしの どれを えらんでも その せんたくを こうていできない こと である。

この みっつの ふじゆうの げんいん、または せいやく それぞれに おいて、 ふじゆうか じゆうかを きれいに ふたつに わける のでは なく、 ぐらでーしょんで、 ささき・りか(佐々木梨花)は かんがえる。それによって、あきらかに ちがうが、いままでは じょうきょうに あわせた このみ という ことで おなじと かんがえられていた ぐたいれいを、 わけて かんがえる ことが できる。たとえば、いっぽうで、 えらべる せんたくしが ないと おもっている こと、 せんたくしの どれを えらんでも げんじつに ふこうに なる こと、 せんたくしの どれを えらんでも その せんたくを こうていできない こと ぜんぶで ふじゆう がわで あるか、それとも たほうで、 えらべる せんたくしは あると いえる ので じゆう がわ だが、 せんたくしの どれを えらんでも その せんたくを こうていできない ことの ふたつで ふじゆう がわで あるかの くべつが できる。

ささき・りか(佐々木梨花)は、わるい じょうきょうに いる とうじしゃに よって とりもどされる じゆうに ついて かんがえている。とうじしゃが じゆうを とりもどす かのうせいが ある ことを、「保持や振る舞いへの影響の段階で、適応的選好の自律性を向上させる余地がある」(200)と ひょうげんしている。これは、せいやくせつ、 つまり ふじゆうの ばあいわけとは べつの もうひとつの くふう である。ただし、 ささき・りか(佐々木梨花)は、ふたつの くふうを あわせて、 せいやくせつ(制約説)と いっている ことには ちゅういが ひつようである。 この ぶんしょう では、りかいの しやすさの ために わけて かんがえる。
じりつせいと よばれる じゆうには みっつの だんかいが あると かんがえられる(202)。みっつの だんかい とは、いち、 はったつと に、ほじ(保持)と さん、 ふるまいへの えいきょう である。いままで じゆうに このみを もつ ようになったかを いちの はったつ という ことばで あらわし、げんざい でも じゆうに その このみを もちつづけられているかを にの ほじと ひょうげんし、げんざい もっている このみを じっさいに じゆうに じつげんしたり しなかったり できるか どうかを、 ふるまいへの えいきょうで あらわしている。
じょうきょうに あわせた このみは、 はったつに おいて じゆうに このみを みにつけられなかった という ことを あらわす。このように かんがえる ことで、はったつに おいて ふじゆう でも、 その このみを じゆうに ほじ(保持)しなかったり、 つまり じゆうに その このみを もちつづけなかったり、 じゆうに ふるまいへ えいきょう させなかったり、 つまり じゆうに その このみに さからって こうどうしたり する ことで、 より じゆうに なれる。

そして、 ここで、 じゆう である ことは、 しょうこおうとうせい(証拠応答性) という がいねんで ぐたいか される(188)。しょうこおうとうせいとは、 いままでの かんがえを みなおす ひつようが あると わかる しょうこが みつかった ときに、 かんがえなおして ひつよう ならば かえる ことが できる こと である(188)。
このように かんがえる ことで、じょうきょうに あわせた このみを してきしても、わるい じょうきょうに いる とうじしゃを ぶじょく する かのうせいが ひくくなる。なぜなら、じょうきょうに あわせた このみを もっていても、 より じゆうに なれる かのうせいが ある という ことを きょうちょう できるから である。とうじしゃ たちが じゆうに なろうと している ことを しっかりと にんしき できるの である(171)。さらに、とうじしゃ ほんにんが じぶんの このみを、 じょうきょうに あわせた このみだと きがつく ことも かのうである。したがって、 じょうきょうに あわせた このみを してきする ときに、とうじしゃ ほんにん よりも してき する がわの ほうが、 その ほんにんの ことを しっている かのように ふるまう という ことで、 ぶじょくに なる という ことが さけやすくなる(172)。
さいごに、 まとめの ひょうげんを いんよう しよう。

「制約説は、適応的選好とは、本人にとって選択肢が存在しない、本人にとって価値がない、または本人が価値付けることができない選択肢集合への制約ゆえに形成された心的態度である、というものである。制約説では、適応的選好の問題性は選択肢集合の制約によって選好の発達段階における自律性が下げられていることによって説明され、適応的選好の保持者は選好の保持・態度への影響の段階において自律性の程度を向上されることもできる」(197)

ここまでが、 ろんぶん ぜんたいの さいとう なりの まとめ である。この まとめの とくちょうは、 ひらがな わかちがきで かいている こと、 および そのために もじとしての かんじで しか つうじない ことばを いいかえている ことに ある。また、じりつせい(自律性) という がいねんも、 じゆう(自由) という がいねんに いいかえている。この いいかえ には、 もんだいが ある かのうせいが たかいが、 こんごの ぎろんの ために おこなった こと である。

かんそう

まず、 ろんぶんに ついての ひょうかを のべる。よい。おもしろい。ただし、おもしろい ところ までが ながい。けんじつ。 ただし、やや むずかしい。せっとくりょくが ある。ただし、 ながい。ひとつの ろんぶんで 73ぺーじも ある。おそらく、 ほうてつがくの ろんぶん では ふつう なのでは ないかと よそうする。しかし、ふだん、 じゅっぺーじの ろんぶんを よんでいる ひと から すると、 ながく かんじる。
おもしろいのは、 じょうきょうに あわせた このみの ひょうか する きじゅんが たくさん でてくる こと である。まいのりてぃの ことを、 こまかく それぞれに ついて にんしきする ための がいねんが つくられていると おもって、 おもしろいと おもった。じょうきょうに あわせた このみを もっている という ことは、 かこに ふじゆうな じょうきょうに あった という こと である。じょうきょうに あわせた このみを いだく というのは、 これまでの じょうきょうに あわせた このみを みにつけてしまう ときに、 しょうこに もとづいて かんがえなおして かえる という ことが できなかった、という いみで ふじゆうに させられた という ことで あった。そして、 まいのりてぃは ふじゆうに させられ やすい。したがって、 じょうきょうに あわせた このみを もっている のは、 まいのりてぃが おおい。しかし、 まいのりてぃの ことは、 こまかく にんしきされない ことが おおい。こまかく にんしき されない という ひがいも また うける かのうせいが たかいのが まいのりてぃ だから である。そのため、 しっかりと した こまかい にんしきが なく、 それぞれの ちがいを たいせつに あつかわない ことばの つかいかたが おおい。ところが、この ろんぶんは そのような けいこうに たいこうして、 しっかりと こまかく にんしきしようと している。だから おもしろい。
しかし、 この おもしろさに たどりつくには、すくなくとも 40ぺーじを よまなければ ならない。みじかい ろんぶん よんほん ぶん である。じぶんは すこしずつ ながい じかんを かけて よんだ。よむ かたは がんばろう。
けんじつ である。ぎろんが けんじつに すすめられており、ひやくが すくない ように かんじる。しかし、 かんがえる べき ようそが おおい ために、 やや むずかしかった。むずかしい ぶんしょうに なれている じぶんに とって やや むずかしいの だから、 なれていない ひとに とっては かなり むずかしい かもしれない。
せっとくてき である。せいやくせつが いかに よいのか、 はっきりと かかれており、 せっとくされた。じょうきょうに あわせた このみ という がいねんが どのように つかえるのか、 どのような どうとくの もんだいに かんけいしているか わかりやすかった。じょうきょうに あわせた このみの もんだいは じりつせい(自律性) の もんだい なのである。そして、 じりつせい(自律性)は さいとうの ことばの つかいかたに よれば、 じゆうと ふじゆうの もんだい である。これは、 せいぎや びょうどう とは ちがう とらえかた である。じゆうは よい ことを ひとつ として とらえる とらえかた であり、せいぎは よい ことを ふくすう として とらえる とらえかた であり、 びょうどうは よい ことを ぜんたいで とらえる とらえかた である。
ここまでが ぜんたいの ひょうか である。ここから、 こべつの ろんてんに ついて、 おもう ことに ついて こめんと しよう。

じゆうの さんだんかい

まず、じりつせいと よばれる じゆうには みっつの だんかいに ついて かんがえよう。みっつの だんかいとは、 はったつと ほじ(保持)と、 ふるまいへの えいきょうの みっつで あった。では、 なぜ この みっつに わける ことが できるの だろうか。それは、 かこ、げんざい、みらいに それぞれ かんけいしている から である。もっと さかのぼれば、 のがれられなさと えらんでしまった ことと、えらべる ことの みっつの かんけい である。この みっつは、 かんとの かてごりーひょう にも もとづいているが、 ここでは くわしく のべる ことは しない。
ともかく、このみの はったつに おける ふじゆうは、 のがれられない もの として とらえられた このみの ふじゆう である。ほじ(保持)における このみの ふじゆうは、 えらんでしまった もの として とらえられた このみの ふじゆう である。そして、ふるまいへの えいきょうに おける このみの ふじゆうは、 えらべる もの として とらえられた このみの ふじゆう である。このみが のがれられない もの として とらえられる とき には、 このみの みにつけかたが もんだいに なる。じかん として ひょうげん すれば、 かこの こと である。このみが えらんでしまった もの、えらばれてしまった もの として とらえられる とき には、 みにつけた このみを ふたたび みずからの このみに するか どうかが もんだいに なる。じかん として ひょうげん すれば、 いまの こと である。このみが えらぶ ことが できる もの として とらえられる とき には、 みずからの このみを こうどうに かんけい させるか どうかが もんだいに なる。なぜなら、 このみに ついて えらぶ ことが できると すれば、 こうどうに うつすか どうか だから である。じかん として ひょうげん すれば、 みらいの こと である。
このように かんがえると、じょうきょうに あわせた このみ とは、 すくなくとも むかしの じょうきょうに あわせざるをえなかった このみと ひょうげん する ことも できると わかる。のがれられなさを きょうちょうする 「ざるをえない」という ひょうげんと、 かこの じょうきょうを ひょうげんする 「むかしの」、さらに このみの はったつに おける ふじゆうが じょうきょうに あわせた このみの ひつようじょうけんで ある ことを あらわした 「すくなくとも」を つかったの である。くりかえしになるが、 むかしの じょうきょうに あわせざるをえなかった このみは、かならず はったつに おける このみの ふじゆう でもあり、 それは のがれられない もの として とらえられた このみの ふじゆう だから である。
したがって、 適応的選好(てきおうてきせんこう)は、最低限 過去状況適応不可避的選好(さいていげんかこじょうきょうてきおうふかひてきせんこう)と ひょうげんする ことも できる。もちろん、てきおうてきせんこう という りゃくした ひょうげんを つかう ことが よい だろう。
このように かんがえる ことで、なぜ はったつと ほじと ふるまいへの えいきょうの みっつ であって、 ほかの かず では ないのか、の ある ていどの せつめいが かのうに なる。このように みっつに わけると、 ほかの ものは みっつの なかに かんげん されやすい から である。

みっつの ふじゆうの げんいん

おなじように、 みっつの せいやく(制約)、 つまり みっつの ふじゆうの げんいんは たいけいだてて はあく できる。そもそも みっつの ふじゆうの げんいんは、 せんたくしの ふざい、 ひふくり、そがい であった。くりかえしの かくにんに なるが、それぞれ、 えらべる せんたくしが ないと おもっている こと、 せんたくしの どれを えらんでも げんじつに ふこうに なる こと、 せんたくしの どれを えらんでも その せんたくを こうていできない こと である。
これらの みっつの ふじゆうの げんいんの りゆうは どのような かんけいに ある だろうか。
これらの ふじゆうの げんいんが、 ふじゆうの みっつの とらえかたに たいおうしている。
せんたくしの ふざい とは、えらぶ ことが できる もの として とらえられた じゆうな せんたくしの ひてい である。ひふくり とは、 えらんでしまった もの として とらえられた じゆうな せんたくしの ひてい である。そがい とは、 のがれがたい もの として とらえられた じゆうな せんたくしの ひていで ある。えらぶことができるもの として とらえられた じゆうな せんたくし とは、 せんたくしが たくさん ある こと である。えらんでしまったもの として とらえられた じゆうな せんたくし とは、 その せんたくしで じっさいにしあわせに なる こと である。のがれがたい もの として とらえられた じゆうな せんたくしとは、 その せんたくしを えらんだ ことを じぶんの じんせいに てらして、 こうてい できる、 つまり ひつぜんてきな せんたくし として せつめい できる という こと である。
じゆうな せんたくしに ついての みっつの とらえかたに たいおう している。ここから、 この みっつが じゅうよう である とか、 この みっつ いがいに ない とかは いえないが、 みっつを かんがえる ひとつの こんきょには なる。
ここまで、 せいやくせつの かてごりーが それなりに りろん ないざい てきにも こんきょが ある もの である ことの ひとつの しょうこを しめせたと おもう。つまり、みっつの とらえかたに かんけいしている という ことが りゆう である。ここから、 ちゅういを はらいたい ふたつの ひょうげんに ついて かんがえる。

すいぎゅうと かも

すいぎゅうと どうぶつの かも(鴨)が、むりょくな ひがいしゃの しょうちょうとして つかわれている。

「Narayan(2001)は、第三世界の女性が家父長制的な抑圧に自ら完全にコミットして従っていると考えるのは、過度に第三世界の女性を単一なものとして捉えており、第三世界の女性が多くの理由の間で実際には行使している判断能力をあたかも持たない「水牛」や「家父長制のカモ」かのように扱っているという問題があると批判した」(218)。

この ひはんに はんたいが あるわけではない。しかし、その こと じたいに ついての ちゅうしゃくが ない ように おもえる。ささき・りか(佐々木梨花)じしんは、この ぶんしょうで しゅさべつへの はんたいを しめしている から、 そのままで うけとめている はずが ない。 しかし、 ちゅうしゃくが ないのは、 じすうが たりなかったと しても ざんねん である。すいぎゅうも かもも、 むりょくな ひがいしゃ とは かぎらない。つよく ていこう している のであり、 その ていこうを しらない ふりを する ことで、 むりょくな ひがいしゃに したてあげている だけで ある。よくない。もちろん、もとろんぶんに そのような ちゅうしゃくが ついてる かのうせいは あるが、 それ ならば その ちゅうしゃくも いっしょに いんようしてほしい。

よくあつは せいやくを しゅうちゅうさせる。

ささき・りか(佐々木梨花)は、「抑圧はこれらの制約を散発的に課すというよりもむしろ、体系的に集中した仕方で課す」(194)と のべている。
ふじゆうは しゅうちゅう する もの とは かぎらず、ふじゆうが しゅうちゅうすると ふびょうどうに なり、 ふじゆう かつ ふびょうどうは、 びょうどうな ふじゆう よりも より わるい。そのような いみで なら、 よくあつの しゅうちゅうは かたれる かもしれない。
また、 ふびょうどうな あくが よくあつ であると かんがえるの ならば、 それは そのとおりであろう。このような ことばの つかいかたは、 はすらんがーの 「よくあつ」という ぶんしょうでも とられている。つまり、 そこでは、 この ぶんしょうで いう ところの さべつを よくあつと いっている。

おわり。

たんか01

たんかを よっつ つくりました。

くらがりに きのうのあしたは まだこない やまのふもとの きみたちのため

つめのあと よまずきらずに ふたつずつ さかだちしても おとはきこえず

はかあらし おびえるきもち はじしらず つづくいたみと いかれるこころ

さかあがり ゆめにおちる きぼうのひ まとまりのない そんなおもいで