さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

ぶろっほ どうさつ1

おだとも ほんやく らいぶを みていたら、 おもしろくなったので、 やくに じぶんも ちょうせんする。

https://youtu.be/fR7FAQ_qqzA?si=W_mLOmtUeKQqy1hF

youtu.be

- YouTube

Ernst Bloch, Tübinger Einleitung in die Philosophie, Gesamtausgabe Bd. 13. 1970

S. 243 ff.

(S. 243)

EINSICHTEN IN DEN NIHILISMUS UND DIE IDENTITÄT

Nicht als Nicht-Haben, Mangel

 

ぶろっほも どいつごも しょしんしゃ なので、 しんじすぎないこと。

 

だいめいは まだ わかっていないので、 かりやく として、

ないに ついての かんがえかたと まとまりに ついての どうさつ

と やくしておこう。 

 

Das Wer, das im Jetzt treibt, ist nicht. 

いま なる ものに おいて うごめいている なにものか なんて ない。

しゅっぱつてん である じぶんは せかいには なくて、 じぶんにしか あらわれていない という ことを いっている。

じぶんが せかいに ない というのは、 かんぜんに きゃっかんてきに せかいに そくして かんがえると、 じぶんが どれか わからなくなってしまう、 という こと である。 

げんじつは、 じぶん という ただ ひとつの しゅっぱつてんが あって、 そこからの せかいの あらわれ しか わからない。 じっさいに、 どこから みた わけでもない せかいの みかた なんて いう ものは できない だろう。 みる から には、 どこかの しゅぱつてん から みる しか ない。 

しかし、 どうじに、 せかいを しゅっぱつてん なしでも とらえている。 みえなくなったら なくなった のでは なくて、 たんに そこに ある けど みえなく なったと かんがえる はず である。 せかいは しゅっぱつてん とは どくりつに あって、 それを しゅっぱつてんから とらえていると かんがえている。 そして、 せかいの いちかんけいも じかんも わかっている つもり である。 ほんとうは しゅっぱつてん から しか とらえる ことは できない のに。 まるで しゅっぱつてんが ない ちずや ねんぴょうの ように、 ものごとを ならべられる。

こうやって とらえられた しゅっぱつてんが ない せかい には、 しゅっぱつてんは ない。 こういう ことを ぶろっほは いっていると おもう。つまり、 えーさんが びーさんを なぐった、 という ことが せかいに おきたとして、 じぶんは えーさん かもしれないし、 びーさん かもしれないし、 どちらでもないかもしれない。せかいに そくして かんがえると、 じぶんが どいつか なんて どうでも いいけど、 しゅっぱつてんから かんがえると、 どれが じぶんかが だいもんだいに なる。

せかいの とらえかたと せかいの あらわれかたが ちがう、とも いえる。 せかいを とらえる ときは、 きゃっかんてきに とらえる。 しかし、 せかいが あらわれる ときは、 しゅっぱつてんに とって あらわれる だけ である。

げんしょうがくは この ずれを しこうせい(志向性)として もんだいに した わけである。 しゅっぱつてんに あらわれる しかた でしか せかいが わからない のに、 どうして せかいを しゅっぱつてん なしで とらえる ことが できる のだろうか。 そういう といを しこうせいの もんだいと かんがえた。しこうせい とは、 いしきが なにかに ついての いしき である、 という ことを あらわす わけ だけど、 これまで いってきた ことばと たいおう させれば、 いしき とは、 しゅっぱつてんでの あらわれかたで、 なにか とは、しゅっぱつてん なしで とらえられた せかいの こと である。 つまり、 あらわれかたに とらえられかたが くみこまれている けど、 これは どういうこと? ということ。 ちなみに、 じぶんは げんしょうがく しょしんしゃ なので、 まちがっている かのうせいは おおいに あり。

で、 しゅっぱつてんは、 しゅっぱつてん なしの せかいに そって かんがえると、 ない よね〜と いっていたと かんがえた けど、 どうして そう いえるのか。

まず、 いま なる もので うごめく なにものか という ひょうげんに ついて かんがえよう。 これが しゅっぱつてんに あたる。 

しゅっぱつてんは、 じぶん、 わたし などの ひょうげんの しかたが かんがえられる けど、 これらは どうしても ただしく ものごとを とらえられない ことばに なってしまう。 なぜなら、 ことばは、 いっぱんてきな ものの なかの とくしゅな ものを あらわす ための もの だから。 つまり、 じぶん というのは、 じぶんというのが たくさんあって、 そのなかの ひとつ、 と かんがえるし、 わたし というのも わたし というのが たくさん あって そのなかの ひとつ、と かんがえてしまう。 しゅっぱつてん だって そう。 たくさん ある しゅっぱつてんの うちの ひとつ として しゅっぱつてんを かんがえてしまう。

しかし、 しゅっぱつてんは、 げんじつには ひとつしか なくて、 ぜんたいでしか ない。 ひとつしか ない というと、 ふくすう ある うちの ひとつに なってしまう けど、 そういう いみでは なくて、 これ だけが しゅっぱつてん である、 という こと。 どくしゃも どくしゃ じしんの ことを かんがえてほしい。 しゅっぱつてんって、 じぶんしか けいけん しないだろう。 たにんの しゅっぱつてんは もちろん あると おもう けど、 けいけんは できない。 どうしても あると しんじるしか ない。 けいけん できたと おもったとしても、 それは じぶんの しゅっぱつてん でしか なくて、 たにんの しゅっぱつてんでは ない。 しゅっぱつてんは、 すべての けいけんの あつまり だから。

しゅっぱつてんが すべて というのは、 けいけんしたら すべて しゅっぱつてんで けいけんした ことに なる から。 そういう なにかが しゅっぱつてん である。 そういう へんな ことがらが しゅっぱつてん である。

そして、 この へんな しゅっぱつてんを せつめいするのに、 ぶろっほは、 いま なる ものにおいて うごめく なにものかと ひょうげんした。 なかなか うまいと おもう。 

まず、 なにものか、 という ひょうげんは うまい。しゅっぱつてんの なかみを とわない。そして、 じぶんとどうようのたしゃに つかう ぎもんしである。 つまり、 たんなる ものごと じゃなくて しゅっぱつてんが ある ものごと であると はっきり しめしている。

しかし、 げんじつの ただ これ しか ない ぜんたい である という てんが なにものか、だけでは あらわせない。 だから、 いま なる ものにおいて うごめく、と つけたわけ。 いま というのも、 また、 わたしと おなじ ように、 げんじつの ただ これ しか ない ぜんたい だから。

ここで、 いまにおいてと してしまうと、 なにものか、という ひょうげんと あまり あいしょうが よくない。いまにおいてうごめくわたし なら いいけど、 なにものか、をつかう なら、 いまなるものにおいて うごめく なにものか、 としたいよね。

なぜなら、ちょっと きょりを とりたいから。 いま、わたしは まさに きょりを とれていない けど、 いまなるものや なにものかは きょりを とっている。 これって、 なかみが なにか わからない、という かんじに できているのだろうね。

うごめいている というのは、 しゅっぱつてんの ありかたを しめす ことば として おもしろい。はんな・あーれんとは、 かつどうてきいのち という ことで、 しゅっぱつてんを あらわす みたい だけど、 その とき、 しゅっぱつてんは かつどうてきで、 しずかならず(unruhe)という ありかたを しめした らしい。 あおき・たかし(青木崇)さんの がだまー きょうかいの はっぴょうに かいてあった。

https://x.com/btwnpstnftr/status/1868875138395210084?t=Tqx-qO3dGyPe_qcJAxa5Tg&s=19

https://x.com/btwnpstnftr/status/1868875138395210084?t=Tqx-qO3dGyPe_qcJAxa5Tg&s=19

 

じっさい、しゅっぱつてんは たぶん とまれなくて、なにか してしまう のだと おもう。

 

 

Da trotzdem davon gesprochen werden kann, ist dieses Nicht nicht oder nicht mehr ein eigentliches.

しかし、そこで それについて かたれるのだから、その ないは、 ほんらいの ない では ない、または、 ほんらいの ない では もはや ない のである。

 

ほんらいの ない とは、 そんざいしない、という こと。つまり、 このよには まるいしかくが ない、 という のは、まるいしかく なる ものは そんざいしない という こと である。

これは、 じぶんに あらわれえない という ことでも ある。 つまり、 まるいしかくが ない とは、 まるいしかくは じぶんに あらわれる ことは ありえない、 という こと である。

まるいしかくに ついて かたれない のは、 そんなものが そんざいしないから。 ここで かたれない、 とは、 そんざいしない という ことの ほかに、なにか いみが あることを いえない、 という こと。

まるいしかくは おいしい、と いっても、 ただしいのか ただしくないのかも わからない。なんせんす。というやつ。まるい しかくは まるいのか しかくなのかも わからない。あ、もしかして ひゆーくりっどきかがく だと ありえるのかな? まあ、 そこらへんは ゆるして。

しゅっぱつてんに ついては かたって なんせんすに ならない。 わたしは さいとうである。わたしは いま これを かいている。 これらは いみが あるし、 ただしい。 わたしは  ないている。 これは まちがっている。ないてないから。 どのみち なんせんすには ならない。

では、 もはや ほんらいの ない では ない、とは?つまり、 まえは ほんらいの ないで あった ときが ある、 という こと。 たしかに ある。 わたしが うまれる まえは、 わたしは そんざいしなかった。 これは かくじつだ。 それに いまの わたしと さっきの わたしが ちがうと かんがえれば、さっきまでは いま なる ものに おいて うごめく なにものかは なかった けど、 いまに なって いま なる ものに おいて うごめく なにものかが せかいに そえば ない けど、 たしかに あると いえる。これは まったく そんざいしない という いみ では なくて、 へんな かんじな ことがら である。

 

 

Es wäre sonst nicht einmal möglich, ein Wort für Nicht zu haben, geschweige eines, bei dem sich durchaus »etwas« fühlen und denken läßt.

そうでなければ、ない という ことばは ありえない ことに さえ なる だろう。ましてや、 「なにか」が かんじられたり かんがえられたり する ことを かくじつに あらわす ことばは ありえないだろう。

 

「そうでなければ」とは、 しゅっぱつてんが このよに そんざいしなかったら、ということ。

しゅっぱつてんが そんざいしなかったら、ことばを つかう そんざいが いないので、 とらえかたの ひとつである ないも なければ、 とらえかたの ばりえーしょん である かんじたり かんがえたりした ことを あらわす ことばも ない だろう のいう こと。

ある ものを あらわす ことば しか なかった だろう という こと。

 

Das Wort Nicht ist ein Zeichen, das sinnvoll auf das Seine zeigt.

ここでの ない という ことばは、 ひとつの きごう であって、これは ない なにかを さししめし、 それが なんせんすに ならない のである。

das なので、 さいしょの ぶんの ないの こと。

ない なにかは、 しゅっぱつてんの こと。

なんせんすに ならない とは、 まるいしかく みたいな ことに ならない という こと。

ほんらいの ない では ない という ことを、 なにかを さししめす きごうであると ひょうげんしている。

 

 

Also kann das Nicht gemeint werden, und es kann gemeint werden, weil es selber in dem, als was es gefühlt und ausgesagt werden kann, nichts als ein Meinen ist, aber auch nicht weniger als das. 

したがって、ここでの ない には、 たいおう する たいしょうが ありえる、そして、 たいおうする たいしょうが ありえる のは、 ここでの ないが、 それじしん、かんじられ、いわれる かのうせいが ある ものの なかでは、 ひとつの たいおうする たいしょう でしか ない からである。 または、 たいおうする たいしょうには とどかない なにか という わけでは ない からである。

 

しゅっぱつてんが 「ない」 で ひょうげんされる たいしょう なのだ、 という しゅちょうが つづく。いや、 それは ごへいが あるな。 ないと いったが、 かんじられる たいしょうの なか では なんらかの ひとつの たいしょうであるし、 いわれうる たいしょうの なか では なんらかの ひとつの たいしょう である、という こと である。

いっぽうでは、 しゅっぱつてんは さいとうだ、 という ように じっさいの なにかに わりあてられている、 という ことを いっているのだろう。

しかし、 げんみつに いえば、しゅっぱつてん なしの せかいの たいしょうに ぷらす して なにか、しゅっぱつてんが つけくわわった かんじを ひょうげんしている のだろう。 しかし、 しゅっぱつてんが つけくわわった というのが、 ぷらす なのか なぞ だから、 とどかない なにか では ない、 と ひょうげんする のだろう。

 

 

 

Nicht ist der abgezogene Begriff für jenes in uns befindliche Null an Haben, das aber bereits Nicht-Haben ist. 

ない と よばれる ものは、 われわれの うちに ある、 もっている こと についての、 ありかに ある、あの ぜろ  を あらわす ような、 ひきぬかれた がいねん である。しかし それは すでに もたないで ある。

 

Haben は もしかして ちゅうせいの めいしで、 かしかた(はいってくる げんきん、かりかたの はんたい) か? ねびきされた がいねんになるのか?abgezogene Begriff ?

 

しらべてみた。

すると、 どうやら ぶろっほは、 わたしは ある、 わたしは わたしを もっていない、われわれに なる という ような ひょうげんを している らしい。

三国千秋(みくに・ちあき), 2014, 「Ernst Bloch における「可能性」の概念について」https://doi.org/10.15066/00000083 

また、もたない ことと なることの かんけいは るたーの はなしにも でてくる みたいである。

今井晋(いまい・すすむ) , 2005,「ルターにおける時と永遠(2)」

https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004039

 

わたし という しゅっぱつてんは ある。けれど、 その しゅっぱつてんは ほかの ものごとと おなじように はあく する こと、 つまり もつ ことが できない。なぜなら、 しゅっぱつてんは もたれる たいしょうでは なく、 もっている がわ であり、 せかいに そくしては そんざい しない から。

だから、 むりやり がいねんには している けれど、 じっさいには いっぱんてきなものの とくしゅれい としては かんがえられない。 だから、 ひきぬかれた がいねん、と やくしてみた。

 

そして、 われわれに なる。 どういうことか。 

しゅっぱつてんが ほかにも あると しんじられないと、 この しゅっぱつてんが わたし という いっぱんてきなものの ひとつの とくしゅれい だと わからない。だから、 わたしを わたしだと おもえている ときには すでに われわれを われわれとして りかいしてしまっている。この すでに なってしまっている ことを われわれに なる、と ひょうげんしているのでは ないか。 たんなる かせつに すぎない。

でも、 そうすると、 ここで とつぜん われわれが でてくる りゆうも わかる。

ありかにある、は なぞ。

ぜろも なぞ。

 

つづくならば つづけたい。

しゃかいもんだいの こうちくしゅぎてき あぷろーち

しゃかいもんだいの こうちくしゅぎてき あぷろーちに ついての かんたんな かいせつです。せんもんか では ないので、 しんじすぎないでください。

そもそも、 しゃかいがくに おいて、 しゃかいもんだいは、 きゃっかんてきに はかる ことが できる もの として かんがえられて いました。 しゃさいがくしゃの しごとは、その しゃかいもんだいを みつけて、しらべて、 しんじつを あきらかにして、 かいけつする ことと かんがえられていました。たとえば、 ろばーと・きんぐ・まーとん という ひとが ゆうめい です。

しかし、 しゃかいがくでは おおきな ながれが 1970ねんだいに かわります。 もともと たるこっと・ぱーそんず という ひとの こうぞうきのうしゅぎ という しゃかいぜんたいを とらえる りろんが はやっていました。しかし、 りろんが うまく いかない こと なども あって、 ほかの ながれが つよく なっていきます。

そのなかの ひとつが、しゃかいもんだいの こうちくしゅぎてき あぷろーち です。 これは、 すぺくたーと きつせ、 という ひとが ゆうめいです。
その ぎろんは だいたい こんな かんじ です。
しゃかいもんだいとは、しゃかいの めんばーが くれいむ もうしたて(claim)で つくっていく、 つまり こうちく していく ものである という ぎろんが でてきます。つまり、 「これが もんだいだ」と いろんな ひとが いう ことで、 しゃかいもんだいが できる のである、と。 この かんがえかたに もとづくと、しゃかいがくしゃの しごとは、きゃっかんてきに はかる こと だけ では なく、 どうやって しゃかいもんだいが できてきたのかを しらべる ことにも ある、と いえます。
よく ある ぐたいれいが、 じどうぎゃくたいです。 おとなが こどもを なぐる という ことは、 よく ありましたが、 それが しゃかいもんだいに なるには、じどうきゃくたいと いう ことばが でてきて、 それを もんだいだと いう ひとが いて、 それを うけいれた ぎょうせいが とりしまって、 にゅーすで ほうどうされて、などなど さまざまな かつどうで できます。

だから、しらべる べき ことの ひとつとして、 だれが どんなふうに くれいむもうしたて(claim)、しゅちょう してきたのか、 どう うけいれられてきたのか、が ある。となります。
その ながれの ひとつに、じょえる・べすとの しぜんしてきあぷろーち などが あります。べすとは、 こういう さぎょうを たくさん すれば、 しゃかいもんだいが どういう ふうに へんか していくか わかる、と いう ことを かんがえて、 はってんだんかい みたいな ものを だしています。(たしか)
また、 にほんでも、 いちじき はやりました。 とくに あかがわ・まなぶ(とうだいの しゃかいがくけんきゅうしつの ひとです)も その ながれの なかに いたと おもいます。

しかし、 いくつか もんだいてんも してきされて、 ぶんぱして、 さいきんでは にんきは そこまで ない かんじ です。とはいえ、 しゃかいがくしゃの ほとんどが、 これらの あぷろーちを いしき しているとは おもいます。 なぜなら、 しどうしている がくせいの けんきゅうあぷらーちとして つかいやすいからですね。

ひはん というのが、 おんとろじかる げるまんだりんぐ、 そんざいろんてき げるまんだりんぐ、 という ぎろん です。 げるまんだりんぐ というのは、 どこかの せんきょくが ある ひとの つごうの よい ように ゆがめられた すがたを あらわす ことば だった はず です。
さっきの じどうぎゃくたいの はなしを だすと、 むかしも いまも おとなは こどもを なぐるのに、 しゃかいもんだいと かんがえられないときと かんがえられるときが ある、 という ぎろんに なっていました。 さらに、 こうちくしゅぎは、 とうじは げんじつは はかれない、 という ほうこうの しゅちょうも していました。しかし、 これを くみあわせると、 さいしょの 「いまも むかしも おなじように おとなと こどもを なぐっていた」という のは、 げんじつを はからないと いえないじゃないか、 と なります。
そして、 これに たいする のりこえかたが ふたつあって、 そこでも あらそいが ある、 という ながれです。

いくつか ちゅういてんを かいておくと、 しゃかいがくで こうちくしゅぎと いうと、 しゃかいもんだいの こうちくしゅぎ ですが、 じんんけいの ふぇみにずむ とか だと ちがいます。しかし、 しゃかいがくけいの ふぇみにすとが、 そこらへん つなげる けいこうも あるので、 こんらん しています。
じんぶんけいの ふぇみにずむの こうちくしゅぎの だいひょうは、 てつがくしゃの じゅでぃす・ばとらー です。これは、 せいべつが ほんしつてきな かわらない ものとして あるのでは なくて、 せいべつは いろんな ものや ひとの はたらきに よって いまの ように とらえられている のである、 という かんがえかたを しゃかいこうちくしゅぎ、と いいます。

したがって、 そんざいろんてき げるまんだりんぐの ひはんとかは なりたたないのです。 なぜなら、じかんを つうじて おなじ なのに、 という ぜんていも なければ、 くれいむもうしたてに げんていしても なければ、 げんじつを はかれない とかも いってない から です。たいこうしようとしている あいても ちがえば、 なにが こうちくされているのかも ちがう。 ただ たんに、 なまえが にている だけ ですね。 もちろん、 つくりあげられる ことに ちゅういを むける ことは にています。

かんと どうとくけいじじょうがくのきそづけ めも4

かんと どうとくけいじじょうがくのきそづけ

427

Nun ist das, was dem Willen zum objectiven grunde seiner selbstbestimmung dient, der Zweck, und dieser, wenn er durch bloße Vernunft gegeben wird, muß für alle vernünftige Wesen gleich gelten.
ぐーぐる「さて、意志の自己決定の客観的根拠として機能するものは目的であり、それが純粋な理性を通して与えられるものであるならば、これはすべての理性的存在に等しく適用されなければなりません。」

こういう じぶんで ありたい という もくてきが あって、 その もくてきを りゆうに いしは 「それじゃあ この おこないを しよう」と じぶんで きめる のだけど、 いしが しゅかんに かかわらず、 きゃっかんてきに きめると したら、 りせいてきそんざい みんなに だとうする ような もくてきを こんきょに する。

428

gesetzt aber, es gäbe etwas, dessen Daseyn an sich selbst einen absoluten Werth hat, was, als Zweck an sich selbst, ein grund bestimmter gesetze seyn könnte, so würde in ihm, und nur in ihm allein, der grund eines möglichen categorischen imperativs, d. i. practischen gesetzes, liegen.
ぐーぐる「しかし、存在それ自体に絶対的な価値を持つ何かがあり、それ自体が目的として、ある法則の根拠となり得ると仮定すると、そのとき、その中で、そしてそれ単独においてのみ、可能な定言命法の根拠となるであろう。 d.私。実務法、嘘。」「しかし、その存在自体に絶対的な価値があり、それ自体が目的として、ある法則の根拠となり得る何かがあると仮定すると、そのとき、その中に、そしてそれだけに、定言命法の可能性の根拠が横たわることになる。」

みこしば(御子柴)「他方、仮に、それの現存在それ自体がなんらかの絶対的価値をもつものがある、〔また〕それが目的それ自体(Zweck an sich selbst)として、規定された諸法則のなんらかの根拠であり得るようなものがある、としたら、」(102、「それの現存在それ自体」と「目的それ自体」の傍点強調省略)

かんと どうとくけいじじょうがくのきそづけ めも3

ふたたび
かんと どうとくけいじじょうがくのきそづけ

Moralität

435

Nun ist Moralität die Bedingung, unter der allein ein vernünftiges Wesen Zweck an sich selbst seyn kann

alleinだけで
seyn って、 はいでがーが なんちゃら いっていた きがする。
かのうせいの じょうけん では あるのか。


かくりつを こうどうししんと やくすのは いいな。


392

gegenwärtige grundlegung ist aber nichts mehr, als die Aufsuchung und Festsetzung des obersten Princips der Moralität, welche allein ein, in seiner Absicht, ganzes und von aller anderen sittlichen Untersuchung abzusonderndes geschäfte ausmacht.

408

Man könnte auch der sittlichkeit nicht übler rathen, als wenn man sie von Beyspielen entlehnen wollte. Denn jedes Beyspiel, was mir davon vorgestellt wird, muß selbst zuvor nach Principien der Moralität beur- theilt werden, ob es auch würdig sey, zum ursprünglichen Beyspiele, d. i. zum Muster zu dienen, keinesweges aber kann es den Begriff derselben zu oberst an die hand geben.
ぐーぐる「道徳を例から借用しようとする場合ほど、道徳を悪くアドバイスすることはできません。私に提示されたすべての例は、最初に道徳の原則に従って判断され、それが元の例とみなされるに値するかどうかを確認する必要があります。私。モデルとして機能することはできますが、そのコンセプトを最上位に提供することはできません。」

434

Moralität besteht also in der Beziehung aller handlung auf die gesetz- gebung, dadurch allein ein Reich der Zwecke möglich ist.
ぐーぐる「したがって、道徳はすべての行為と法律との関係にあり、それを通してのみ目的の王国が可能となります。」

bestehen in にほんしつがある。

439

Moralität ist also das Verhältniß der handlungen zur Autonomie des Willens, das ist, zur möglichen allge- meinen gesetzgebung durch die Maximen desselben.
ぐーぐる「したがって、道徳とは、行為と意志の自律性、つまりその格率を通じた可能性のある一般立法との関係である。」

おこないが、 いしの じりつと りょうりつ する なら どうとくてきである。
いしは ある こうどうししんに のっとって いし すると どうじに、 その こうどうししんを きめる ことが できる。 そのような こうどうししんを ほうそくと よぶ?

こうどうししん=もくてき→いし→おこない
こうどうししん=もくてき↑
こうどうししん=もくてき↑(=ふへんてきりっぽうしゃ)

443

Unter den rationalen, oder Vernunftgründen der sittlichkeit, ist doch der ontologische Begriff der Vollkommenheit, (so leer, so unbestimmt, mithin unbrauchbar er auch ist, um in dem unermeßlichen Felde möglicher Rea- lität die für uns schickliche größte summe auszufinden, so sehr er auch, um die Realität, von der hier die Rede ist, specifisch von jeder anderen zu unterscheiden, einen unvermeidlichen hang hat, sich im Cirkel zu drehen, und die sittlichkeit, die er erklären soll, ingeheim vorauszusetzen, nicht vermeiden kann,) dennoch besser als der theologische Begriff, sie von ei- nem göttlichen allervollkommensten Willen abzuleiten, nicht bloß deswe- gen, weil wir seine Vollkommenheit doch nicht anschauen, sondern sie von unseren Begriffen, unter denen der der sittlichkeit der vornehmste ist, allein ableiten können, sondern weil, wenn wir dieses nicht thun, (wie es denn, wenn es geschähe, ein grober Cirkel im Erklären seyn würde,) der uns noch übrige Begriff seines Willens aus den Eigenschaften der Ehr- und herrschbegierde, mit den furchtbaren Vorstellungen der Macht und des Racheifers verbunden, zu einem system der sitten, welches der Moralität gerade entgegen gesetzt wäre, die grundlage machen müßte.
ぐーぐる「道徳の合理的、または理性的根拠の中に、存在論的な完全性の概念があります(空虚で不定であり、したがって、可能性のある現実の計り知れない領域で私たちにとって適切な最大量を見つけることは役に立ちません)。また、私たちが話している現実を他の現実から明確に区別するために、堂々巡りすることは避けられない傾向があり、それが説明するはずの道徳を密かに前提することを避けられませんが、それでも神学的概念としてはより優れたものを導き出すことができます。それは、神の最も完全な意志からのものであり、それは私たちがその完全性を理解していないからというだけでなく、道徳という概念が最も崇高である私たちの概念からのみそれを導き出すことができるからです。もしそうなったとしたら、大まかな説明になりますが)、私たちに残る彼の意志の概念は、名誉と支配への欲望の特徴と、恐ろしい権力の概念と復讐への熱意が結びついたものになるでしょう。道徳とは正反対の道徳体系の基礎を形成しなければなりません。」

453

Denn jetzt sehen wir, daß, wenn wir uns als frey denken, so versetzen wir uns als glieder in die Verstandeswelt, und erkennen die Autonomie des Willens, samt ihrer Folge, der Moralität
ぐーぐる「今のところ、私たちが自分自身を自由であると考えるとき、私たちは理解の世界の一員として自分を置き、意志の自律性とその結果である道徳性を認識していることがわかります。」


463

Es ist also kein tadel für unsere Deduction des obersten Princips der Moralität, sondern ein Vorwurf, den man der menschlichen Vernunft überhaupt machen müßte, daß sie ein unbedingtes practisches gesetz (dergleichen der categorische imperativ seyn muß,) seiner abso- luten Nothwendigkeit nach nicht begreiflich machen kann
ぐーぐる「したがって、これは道徳の最高原理の演繹に対する非難ではなく、むしろ人間の理性一般に対して、無条件の実際法則(定言命法など)をその諸条件の観点から理解できないことに対する非難である。絶対に必要なことはできる」

どうとくせい、りっぽう、そんげん

いし→りっぽう(→ほうそく)→どうとくせい→そんげん
いしに よって かちが きまる(393-4)。いしに よって ほうそくが きまる。 ほうそくに よって かちが きまる。(みこしば(御子柴)の 119ぺーじの ちゅう147を さんしょう)
しょもくてきのくには、 もくてきじたいの ていしきに よって、 ひとつに まとまっている。
ほうそくには そんけいに あたいする かちもどきが ある。 から、 りっぽうする ことには そんげんが ある。

かんと どうとくけいじじょうがくのきそづけ めも2

すうじは あかでみーばんの よんかんの ぺーじすう。

じし

429

Wenn er, um einem beschwerlichen Zustande zu entfliehen, sich selbst zerstört, so bedient er sich einer Person, bloß als eines Mittels, zu Erhaltung eines erträglichen Zustandes bis zu Ende des Lebens.

zerstören はかいする


429

Also kann ich über den Menschen in meiner Person nichts disponiren, ihn zu verstümmeln, zu verderben, oder zu tödten.
ぐーぐる「したがって、私は自分の人間に対して、彼らを傷つけたり、堕落させたり、殺したりすることは何もできません。」

ここで わたしの はなしを しているのは きょうみぶかい。
いっぱんに ひとは、 みずからを きずつけては いけない という はなし として かいていない。
über den Menschen
denなので、ふくすう3 またはm4。 Menschenは ふくすうけいの ひとたち。と おもいきや、 disponiren über 4(じゆうに つかう、 いのままにする)なので たんすうのmの4かくの ごびへんかだった。
in meiner Person
in 3なので、 ほうこうではなく いち。
いくつか、 in meiner Person という ひょうげんを かくにんした。 しかし、 じぶんのみには、 ぐらいの いみ っぽい。 
https://www.linguee.de/deutsch-franzoesisch/uebersetzung/in+meiner+person.html



ここから みちびかれる けんりしんがいは
1 はかいする zerstören 
2 じゆうに つかう disponiren
3 きずつける(せつだんする) verstümmeln
4 だらくさせる という いみでの だめにする(きずつける) verderben
5 ころす tödten


verderbenふぉわべるでん (https://www.duden.de/rechtschreibung/verderben

durch sein schlechtes Vorbild (besonders in sittlich-moralischer Hinsicht) negativ beeinflussen

ひとを もくてきごに とれそうなのは これくらいか。 ひていてきな ろーるもでるを つうじて えいきょうする。
ものになら、 きずつけるに そうとうする 

sich einen Schaden, eine Schädigung an etwas zuziehen; etwas schädigen

が ある。

verstümmeln
からだの いちぶを せつだんする

なぜ これらが だめなのか というと、 たんに しゅだんとして あつかっている から。 もし もくてきとしても あつかっていると なると、 ある ひとが かんがえる という めいだいと、 もんだいと なっている おこないを する という めいだいが むじゅん せず おこないの げんそく として りょうりつする はず である。つまり、 ある おこないが、 ある ひとが かんがえる という ことを じつげんする ために おこなわれているかを かんがえれば よい。 
はかいする ときは、 ある ひとは かんがえるを ひていしている。 はかいしたら かんがえられなくなる。 しかし、 これは そんざいするに きちゃくできそう。
じゆうに つかう ときは、 ある ひとは かんがえるを ひていしている。 じゆうに つかう ときは、 あいての いこうを むし している から。 あいての かんがえている ことを ひてい している から。かんがえて、 これを しようと いう いしを もって、 おこないを なす。 それを ひていする ことで じゆうに つかえる。
せつだんするときは、 ある ひとは かんがえるを ひていしている。と かんとは いう かもしれないが、 そこは びみょうな きがする。 むしろ、 かんじるとか、 とらえる とか、に あたるのでは ないか? いや、 ここで かんがえるの はんいが そこまで ふくんでいるのか。 だから、 かんと てきには むじゅんが ない。
だめにする ときは、 ある ひとは かんがえるを ひていしている。 なぜなら、 だめにする とは、 どうとくてきに こうどうできないように する ことで、かんがえる という ことは どうとくてきに こうどうする こと だから。
ころす ときは、 あるひとが かんがえるを ひていしている。 ころされたら かんがえられない から。 これも そんざいするに きちゃくできそう。

ということで、
そんざいする→1 はかいする 5 ころす
かんじる、とらえる→3 せつだんする
かんがえる→2じゆうに つかう 4 だらくさせる という いみでの だめにする
と わけられる。

うその やくそく

うその やくそく
じゆうの しんがい
ざいさんの しんがい(Angriffen auf Freyheit und Eigenthum)
が れいに とられている。


430

Denn da leuchtet klar ein, daß der Übertreter der Rechte der Menschen, sich der Person anderer bloß als Mittel zu bedienen, gesonnen sey, ohne in Betracht zu ziehen, daß sie, als vernünftige Wesen, jederzeit zugleich als Zwecke, d. i. nur als solche, die von eben derselben handlung auch in sich den Zweck müssen enthalten können, geschätzt werden sollen*.
ぐーぐる「なぜなら、人権侵害者は、他人が理性的な存在として、常に目的にもなり得ることを考慮することなく、他人の人格を単に手段として利用する傾向があることは明らかだからです。私。同じ行為の目的を含むことができるものとしてのみ評価されるべきです*。」

geschätzt →schätzen ひょうかする、すいそくする、 たかくひょうかする、そんちょうする
Rechte der Menschenひとのけんりに げんきゅうしている。 ここいがいは この いみでの けんりに ついて はなしていない。 408は しかく、 417は こっかの ほうりつ。
もくてきとして そんちょうする、 もくてきとして たかく ひょうかする とは なにか。 それは じぶんの もくてきに その りせいてきそんざいが ある こと、 つまりは その りせいてきそんざいが かんがえる という めいだいが おこないの げんそくと むじゅんしない こと。

429

Zweytens, was die nothwendige oder schuldige Pflicht gegen andere be- trifft, so wird der, so ein lügenhaftes Versprechen gegen andere zu thun im sinne hat, so fort einsehen, daß er sich eines andern Menschen bloß als Mittels bedienen will, ohne daß dieser zugleich den Zweck in sich enthalte.
ぐーぐる「第二に、他人に対する必要な、あるいは当然の義務に関する限り、他人に対して行うという嘘の約束をしている人は誰でも、自分は手段として他人を利用したいだけであり、その人が同時に目的を持っているわけではないことにすぐに気づくでしょう。それ自体の中で。」

みこしば(御子柴)やくの 106ぺーじは、 「その他人が同時にそうされることを目的としていないことが」と かいているが はたして?
ohne daß …することなく、…しないで
dieser  m1の しじだいめいし。
den4 enthalten 4をふくんでいる
bloß als Mittels を  ohne daß dieser zugleich den Zweck in sich enthalte.で いいかえていると かんがえれば、 うその やくそくを する ひとの めいだいの なかの たにんの なかに どうじに もくてきが はいっていない という ことを いっていると おもうが、 「どうじに」と いっている てんが きがかり。
sichを そうされることに とれば、 みこしばやくに なる けど、 それは できるのか わからない。 あくろばっと すぎないか?
うその やくそくを する ひとが、 じぶんを もくてきに していない という かいしゃくは ありえるか?そしたら なんで dieserに いいかえた? erで くりかえせば いいだろう。
しゅだんとしてのみ あつかわれていると どうじに もくてきとして あつかわれていない という のは、 おなじ ことだけど、 どうじにと いうか? まあ ひょうげんが かわっているから いうのかな。ここは かだいだ。 ☆

429-430

Denn der, den ich durch ein solches Versprechen zu meinen Absichten brauchen will, kann unmöglich in meine Art, gegen ihn zu verfahren, einstimmen und also selbst den Zweck dieser handlung enthalten. Deutlicher fällt dieser Widerstreit gegen das Princip anderer Menschen in die Augen, wenn man Beyspiele von Angriffen auf Freyheit und Eigenthum anderer herbeyzieht.
ぐーぐる「なぜなら、私がそのような約束を通じて私の目的のために利用したいと思っている人物は、私が彼に対して行動する方法に同意するはずがなく、したがって彼自身がこの行動の目的を含んでいるからです。他人の原則に対するこの矛盾は、他人の自由と財産に対する攻撃の例を使うとより明確になります。」

2024ねん11がつ11にち ついき。 selbstは ぐーぐるは かれじしんと やくしている けど、 ここでは 「さえ」 である。

やぶられるために やくそくしようが むりだという はなし。それは やくそく では ない。
ここでも ichなんだ。ぐたいれいに なると ichに なるのか?
ぐーぐるほんやくは kann unmöglichの かかっている はんいを まちがえて とっているね。
この おこないの もくてきを、 やぶられる やくそくを する ひとが もちえない。つまり、 やぶられる やくそくを する という おこないの もくてきは、 やぶられる やくそくを する じぶん であり、 そういう のは、 おこないの げんそくに なりえない。 なぜなら、 やぶられる やくそくを する かつ かんがえる じぶんが ありえない から? それとも、 そもそも やぶられる やくそくを するが へん? やくそくとは、 かくじつに なにかを すると いう こと。 やぶられる やくそく とは、 かくじつに しない けど、 かくじつに なにかを すると いう こと。 それは ふはつに なるね。 たしかに。かんがえるか どうかは おいておいて、 ふかのうだ。


einstimmen in4 4にどういする。どうちょうする。
なんで どうい できないかと いうと、 やぶられる やくそくを むすぶが ふかのうだから。 やくそくを むすんだ いじょう、 その やくそくを やぶらない ことを もとめている はず。

じゆうを じゃまされる ことを もくてきに じゆうで あれるか。 かならず じゃまされる じゆうは じゆうでは ない。
ざいさんを ぬすまれる ことを もくてきに ざいさんを もてるか。 かならず ぬすまれる ざいさんは ざいさんでは ない。
かんがえる そんざいでは ない ならば、 じゆうとか ざいさんとか やくそく とか いみを なさない。 そのように あつかっている という ことか?
あいても かんがえている から、 むじゅん できない という ことか?

たとえば、 かんがえない どうぶつが いたと する。 それには じゆうは ないのか? かんとは ないと いう。 なぜなら、 ちょうえつろんてきじゆうは、 かんとに とって ちょうえつろんてき とうかくに きそづけられている から。 しかし、 ほんとうは、 じぶんが しゅっぱつてん だと いう ことに ある のだろう。それを りせいのみ、かんがえることのみで かんがえる から、 わたしが かんがえるに そのげんせんが あるのだと おもってしまう。
かんがえない どうぶつに しょゆうぶつが ありえるか? しょゆうぶつは、 どうとくの かんがえが ひつようだな。 これは じぶんの もので ある べきだ という かんがえかた。いや、 でも、 たにんが こいつの もので あるべきだと いっても いいから、 とうじしゃが かんがえを もっていなくても いいか。ふつうに かんがえれば、 かんがえない どうぶつでも じぶんのものが ありえる。 それは じぶん という しゅっぱつてんに ゆらいしている きがする。
かんとが してきしているのは、 むじゅん した ことを かんがえると みなす という おとしめ なんだ。
でも、 そもそも かんがえなかったとしても、 あいてを じぶんとどうようのたしゃ として しゅっぱつてんが ある そんざいとして あつかわない ことに なる から だめなのか。 あいてが じぶんとどうようのたしゃ である、 または あいてが しゅっぱつてんである という めいだいと むじゅんする のか。 これは、 じゆうと ざいさん。→いままで そんざいと いっていたものは、 しゅっぱつてんとして そんざいする こと なんだな。いや、 なんか ちがう きもする。
やぶる やくそくは、 やくそくできないと だめだから、 ことばが つうじる ひつようが あるか? そこらへんは こうさつの よち ありだな。 じぶんとどうようのたしゃとの むじゅんでは ない。


しゅっぱつてんとして そんざいする こと→じゆうとざいさんの しんがい
かんがえる こと→うその やくそくを する こと

がんばらないこと

430

Nun sind in der Menschheit Anlagen zu größerer Vollkommenheit, die zum Zwecke der Natur in Ansehung der Menschheit in unserem subject gehören;
ぐーぐる「さて、人類の中には、より完璧を目指す適性があり、それは私たちの主題における人類に関する自然の目的に属するものです。」

Anlage f そしつ、せいこう、てんぶん、 (てんぷぶつ、とうし、こうそう、しせつ) くっつけていく いめーじかな?
つまり、 にんげん たる もの、 かんぺきに なっていく という ほうそくが あって、 それと いはんしている から だめ という もの。
これ、 かんがえることと かんけいない。いや、 かんがえる ことは きゅうきょくの じょうけんに さかのぼっていく から、 かんぺきを めざす ように なるのか?
もはや ここでは、 かんがえる ことと むかんけいに なって、 じぶんが だいじに なっているのか。 じぶんが どういう そんざい なのか。 じぶんは かんぺきを めざす そんざいだ、 というう めいだい または かんぺきを めざす じぶん という もくてきと りょうりつ するか しないか。 その めいだい または もくてきを かんとは しんじていた。 だから、 かんがえるとだけ りょうりつするのでは なく、 じぶんが げんじつに どういう ありかたを しているかと むじゅんするか しないかが じゅうように なる。 いや、 これは、 それだけでもくてきそのもの である という のが、 かんがえる そんざい である という ことで、 それいがいの にんげんせいの ぐたいれい なのか。

だから、 げんじつの ひていは あっているな。しかし、 ひつぜんの ひていとも いえるか?

しあわせに せよ

こうりしゅぎは ここに いちづけられるのか。
たしゃの もくてきは じぶんの もくてきになる という はなし。
たしゃ という それだけでもくてきそのものが もくてきに なる という ことは、 その それだけでもくてきそのものの もくてきも もくてきになる。
もくてきの たっせいを たすけよ と なる。


まとめると、 それだけでもくてきそのもの として みとめる という れべると、 さらに りせいてきそんざいの もくてきを たすける という れべるが ある。
それだけでもくてきそのもの として みとめる とは、 げんじつの ひていを しない こと。
りせいてきそんざいの もくてきを たすける という れべるは?
りせいてきそんざいである ひつようが あるか?

わたしに とって きゅうきょくの もくてきが かんとに とっては かんがえる じぶん であった、 そして じっさいは しゅっぱつてんである じぶん であった。これを そんざいしている じぶん とも いいかえられる。 なぜなら、 じぶん とは しゅっぱつてんを いみしている から。 じぶんが そんざいすれば、 それは じぶんが しゅっぱつてんである という ことに なる から。しゅっぱつてんである というのは、 げんじつに たいおうしている から、 げんじつに ある という ことと おなじになる。
かんとに とって かんがえる じぶん いがいの もくてきは、 きゅうきょくの もくてきの しゅだんに すぎないので、 みんなの もくてきに なりえるか わからない。 すくなくとも、 きゅうきょくの もくてきが みんなの もくてきで なければ、 みんなの もくてきは そんざいしない ことに なる。 そこで、 きゅうきょくの もくてきが みんなの もくてき である。 そして、 それ ぷらす して、 ほかの もくてきも みんなの もくてきに なる かもしれない。とすると、 それだけでもくてきそのものは、 みんなの もくてき では ないのか。いや、 それだけでもくてきそのものは、 ひつぜんてきに みんなの もくてき なんだ。 ほかの もくてきは ぐうぜんてきに みんなの もくてきに なるのだ。

かんがえる じぶんに むじゅんしない もの→しゅっぱつてんである じぶんに むじゅんしない もの→むじゅんするのは そんげんの はかい、 げんじつの ひてい
かんがえる じぶんの もくてきに むじゅんしない もの→ しゅっぱつてんである じぶんの ありかたに むじゅんしない もの→むじゅんする のは、もくてきの じゃま。しゅっぱつてんで あることを みとめながら、 もくてきを じゃまする こと。いや、 もくてきを たすけないことか。
そんげんの はかいは、 もくてきを ふかのうに する こと、 もう かたほうは、 もくてきを かのうに しながら じつげんしない こと。

かんと どうとくけいじじょうがくのきそづけの めも1

かんとの どうとくけいじじょうがくのきそづけの めも。

434

Die Vernunft bezieht also jede Maxime des Willens als allgemein gesetzgebend auf jeden anderen Willen, und auch auf jede handlung gegen sich selbst, und dies zwar nicht um irgend eines andern practischen Bewegungsgrundes oder künftigen Vortheils willen, sondern aus der idee der Würde eines vernünftigen Wesens, das keinem gesetze gehorcht, als dem, das es zugleich selbst gieb.

かんがえること、すなわち りせいは、 むすびつけるんだよ、 したがって、 ふへんてきに りっぽうする もの としての いしが たくさん あるの だけど、 そういう ふくすうの いしの まいるーる ぜんぶを、 なにと? ほかの いし ぜんぶと、 そして かんがえること すなわち りせい じしんに たいする おこない ぜんぶと。 そして、どうやって むすびつけるか というと、たしかに なんらかの ほかの じっせんてきな こんきょや しょうらいの りえきの ためでは なくて(um willen)、 むしろ、 りせいてきそんざいの そんげん という かんがえに よって なんだよ、 その りせいてきそんざい というのは、 じぶんが あたえた もの いがいの ほうそくには したがわないのだよ。


かんがる ことに おいては、 ふへんてきに りっぽうする いしの もっている めいだいと、 ほかの いしの めいだいと、 ほかの りせいてきそんざいに たいする おこないの めいだいが むじゅんしないように する。 それは、 そんげん という ものを かんがえるから なんだ、 と いっている。



435

Nun ist Moralität die Bedingung, unter der allein ein vernünftiges Wesen Zweck an sich selbst sein kann; weil nur durch sie es möglich ist, ein gesetzgebendes Glied im Reiche der Zwecke zu sein.

ここの weilが つながらない。
ここで ぎゃくてんが おきているのでは ないか。
ぜんはんは、 どうとくせいの めいだいの なかでは、 りせいてきそんざいは それだけでもくてきそのものに なれる という はなし。 つまりは、 りせいてきそんざいが どう あつかわれるか という もんだい。
こうはんは、 どうとくせいを つうじて、 りせいてきそんざいが もくてきの くにの めんばーに なれる という はなし。 つまりは、 りせいてきそんざいが どうとくせいの めいだいを もっている ことで、 もくてきの くにの めんばーに なれる。
これでは ぜんはんが あつかわれかたで、 こうはんが あつかわれている がわの のうりょくに なっている きがする。
それでは、 ぜんはんを のうりょくの はなしに よむ ことは できるか? りせいてきそんざいが それだけでもくてきそのものに なれるのは、 りせいてきそんざいに どうとくせい という じょうけんが あるからだ。 まあ、 これも いえそうだ。 そうすると むじゅんしない。
しかし、 すると まえの だんらくと つながらない きがする。

ちがうか、 なるほど。
もくてきの くにには、 もくてきが めんばー として いる。
そして、 それぞれの もくてきには、 かかくか そんげんの ねふだが ついている。
もくてきは、 ある せいしつを もった りせいてきそんざい、 という けいしきで いいかえられる。
そして、 ちゅうじつ という せいしつを もった りせいてきそんざい という もくてきが かんがえられる。
ちゅうじつ という せいしつを もった りせいてきそんざい という もくてきは、 りせいてきそんざいが それだけでもくてきそのもの でありえる ための じょうけんに なっている。
そして、 あるものが それだけでもくてきそのもの でありえる ための じょうけんに なっている もくてきは そんげんを もつ。 したがって、 ちゅうじつな じぶん という もくてきが そんげんを もつ。
そうか、 もくてきは、 すべて、 …という じぶん という ありかたに なる のか。

435

Diese Handlungen bedürfen auch keiner Empfehlung von irgendeiner subjektiven Disposition oder Geschmack, sie mit unmittelbarer Gunst und Wohlgefallen anzusehen, keines unmittelbaren Hanges oder Gefühles für dieselben: sie stellen den Willen, der sie ausübt, als Gegenstand einer unmittelbaren Achtung dar, dazu nichts als Vernunft gefordert wird, um sie dem Willen aufzuerlegen, nicht von ihm zu erschmeicheln, welches letztere bei Pflichten ohnedem ein Widerspruch wäre.

また、これらの行為は、直接的な好意や喜びを持ってそれらを見るためのいかなる主観的な気質や好みからの推奨も必要とせず、それらに対する直接的な傾向や感情も必要としません。これらの行為は、それらを直接の尊敬の対象として行使する意志を示しており、そうするためには理性だけを必要とします。それはお世辞ではなく、自分の意志に基づいて課すものであり、そうでなければ義務の場合には矛盾することになる。(ぐーぐるほんやく)

um zu ために
こういに いしを かすために?
auferlegen j3 et4 3に4をかす、ぎむ、せきにんを おわせる
er したからうえ
schmeicheln 3に/3をせじをいう、おだてる
von にかんして

あー sie は あとに でてくる ぎむか? いしに ぎむを かす。
dazuは、 zuふていしに たいおうして、 いしに ぎむを かすためには、 かんがえること すなわち りせい のみが ひつようである。
いしに ついて、 おせじを いう
この さいと(https://note.com/josapoko/n/n12c43fd2e105)に よると、 なにかを はじめる という ときの er- という まえつづりは、じどうしに なりやすい という。 

小出惇(こいで・じゅん), 2005, 「非分離前綴er-をもつ動詞に関する一考察 : 特に「結果相」を表すer-動詞について」 p. 205–216.
https://osu.repo.nii.ac.jp/records/1530
によれば、 「甘言を弄して入手する」と されている。

„erschmeicheln“, Deutsches Wörterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm, digitalisierte Fassung im Wörterbuchnetz des Trier Center for Digital Humanities, Version 01/23, https://www.woerterbuchnetz.de/dwb?lemid=e08556, abgerufen am 07.11.2024.

erschmeicheln, eblandiri: sich jemandes gunst erschmeicheln; wenn schon zuweilen ein Varro eine unverdiente würde erschmeichelt. Hallers Fabius 88;
soll dir der richter lob wahrhaftig ehre bringen,
erschmeichle dir es nicht, du kanst es dir erzwingen.
Kästner 1, 83;
und wenn die frau von ihrem mann,
was sie nur will, erschmeicheln kann.
Gökingk 1, 131;
aber wenn er nun kommt mit der larve des heuchlers, euer mitleid erweint, eure vergebung erschmeichelt. Schiller 105b; sie wurde in vielen häusern nicht angenommen, die sonst ihren umgang erschmeichelt hatten. Arnim 1, 209; sie wollte ein sümmchen geld von ihm erschmeicheln.
誰かに好意を向けること。時々ヴァロが不当な者にお世辞を言うことがあるとしたら。ハラーのファビウス 88;裁判官の賞賛が本当にあなたに名誉をもたらすのであれば、お世辞を言わずに、それを強制することもできます。ケストナー 1, 83;そして、妻が夫の望むことを何でもなだめることができれば。ゴキングク 1, 131;しかし、彼が偽善者の仮面をかぶってやって来たとき、あなたの同情は涙を流し、あなたの許しはお世辞になります。シラー 105b;彼女の仲間に好意を寄せていた多くの家では、彼女は受け入れられなかった。アルニム 1, 209;彼女は彼から少額の金をだまし取ろうとした。(googleほんやく)

いしの すばらしさを ただ いう ために では なく。
これが、なにか なしで ぎむに ついて いわれるのは むじゅんであると いっているのである。
なにかは なに?
そんけいか? Vernunft は demでうけない、 いや、 いし Willenか。
りせいが いしに ついて おせじを いう ことは、 いしが なければ ぎむに ついて むじゅん である。
いや。 ぜんしゃか?
りせいが いしに ついて おせじを いう ことは、 りせいに よって いしに ぎむが かされる ことが なければ、 ぎむに ついて むじゅん である。
いや、 ぎむを よりどころにして(bei)か?
すると、
りせいが いしに ついて おせじを いう ことは、 りせいに よって いしに ぎむが かされる ことが なければ、 ぎむ という がいねんからして むじゅん である。
これが ありえそう。かんがえること すなわち りせいに よって いしが すばらしいと いう ならば、かんがえること すなわち りせいに よって、 ぎむが かされる はず である。 したがって、 ぎむを かさないのに おせじだけを いう なんて むじゅんである と いいたいわけだ。

となると、 つぎのような ほんやくになるか?

435

: sie stellen den Willen, der sie ausübt, als Gegenstand einer unmittelbaren Achtung dar, dazu nichts als Vernunft gefordert wird, um sie dem Willen aufzuerlegen, nicht von ihm zu erschmeicheln, welches letztere bei Pflichten ohnedem ein Widerspruch wäre.
こうした おこないが、いしを ひょうげんするのは どのような もの としてか? その いしが そうした おこないを じっこうする のだが、 ちょくせつの そんけいの たいしょう として である。そのためには、 りせい のみが ひつように なる。りせいが いしに ぎむを かす ためには。 いしの ことを よく いう ため では ない。 いしの ことを よく いう ことは、 もし りせいが いしに ぎむを かす ことが ない としたら、 ぎむの かんがえ から いって、 むじゅんが ある だろう。 

darstellen は をいみする、である、もあるが、 ひょうげんするか。
なんで、 ちょくせつの そんけい なのか といえば、 かんせつの そんけいは りせいてきそんざいに むくが、 ちょくせつの そんけいは いしや いしの ほうそくに むくから。



そんげんが ある もくてきは、 たとえば、 ちゅうじつな じぶん である。
ちゅうじつな じぶんが おこなう ちゅうじつな おこないに おいては、その いしが そんけいの たいしょうに なっている。
つまり、 そんげんの ある もくてきが なす おこないは そんけいされる。

それだけでもくてきそのものは、きゃっかんてきな もくてき。それは、 りせいてきなそんざい。 かんがえている そんざい。
そんげんが ある もくてきは、 どうとくてきな りせいてきそんざい。そんげんが ある もくてきは そのように なる ことに かぎりない かちが ある ような もくてき。そんげんが あるのは、 ふへんてきな りっぽうへの かんよ。


438.13
しぜんてきそんざい よりも かちが ある という ことを そんげんと いっている。

べっく どくしょかい02

20231225
ベック『危険社会』
だいにしょう
べっく、かがくしゃに むらを やかれたせつ

「貧困化」77→31「貧困化を示す数式」
じこが おきたら、 これぐらい やばい という すうしき
31:ちゅうりつてきな すうしきで、 しんじつかの ように やばさが せつめいされるけど、 じつは その すうしき じたいが せいじてきな いみが ある
貧困化=やばいことになる化=悲惨化

78
きけんの ないよう:
きけんを うみだしはくぐんできた しすてむとしての きんだいか:さんぎょうか。こうぎょうか。かがくぎじゅつの はってん。
副作用はなぞ
生産性を ついきゅうしたら、 きけんが あらわれる。
副作用は よきしていなかった はせいてき りすく。 きけんの せんぷくきは みえていない けど、 のちのち 副作用と なる。
Hier wie dort am Anfang die Latenz (»Nebenwirkungen«), die hier wie dort erst konfliktvoll durchbrochen werden muß.
せんぷきが ふくさよう。

しんかんせんの そうおんが あっても、 かがくてきな しょうめいが なければ つたわらない。

不安が あったら たちあがると あるけど、 にほんじんは?
すけーぷごーとでは?:きけんが ないと おもいこんでいる、 あいつの せいだと おもう。

ふあん→はんたいうんどう→きけんの ちしきが たかまる→きけんが にんちされる→きけんが げんじつの ものとなり→せいじてき いみが はつどうする。→否認(みなかったことにするか)、こんぽんてきな しくみの へんか
80現実の危険=認知された危険。いままでの危険は潜伏期で、リアルさがなかった。危険の政治的意味が発動している状態が現実の危険。

目標を定めた=適切なeine gezielte und massive »Politik der Gegeninterpretation«

83
けんきゅうしゃも ほんとうは かんぺきでは ないけど、 かがくしゃに たいする みかたが つよいので、 研究の余地が狭まる=間違えられない=挑戦しない。研究が 広がらない。=確認だけになる。


かがくが ないと きけんが にんしきできない→かがくしゃかいがくが だいじなのではなく、 ちしきしゃかいがくが だいじである。:かがくしゃが つくった ちしきを どう じゅようしているかが もんだいである。

88
なんでも きけんが ある から、 なんでも せいじに なって、 きぎょうも せいじに なる。 (はなしあいの たいしょうに なる)。→きんだいかの きそを あやうくする。

ふあんに よる れんたいも うまれる?


91
疑問は調査することができます:社会的リスク認識の基準地平線でのみ可視化される、科学的リスク認識に固有の誤りと間違いの体系的な原因は何ですか? そしてその逆もまた然りです。リスクに対する社会的認識は、組織的に科学的合理性を否定し批判し、文明化以前の宗教権力の復活に転じる恐れがある場合でも、どの程度まで科学的合理性に依存し続けているのでしょうか?

112
CO2が、 いっぱい だしながら つくっている。 しょりする きかいが ひつよう。 その おかねが ひつよう。 しょうひしゃから まきあげる。 ねあげ。 つくんなきゃいい。

114
きけんを にんしきする には かがくが ひつよう。 きけんを にんしきするには かがくが だめだと いわないと いけない。 かがくが だめなら、 おまえたちは きけんに されされていると いえないではないか! と なってしまう。

りせいに もとづく かんがえかた ぐらいの いみかな? 118

125
じかんが たてば、 ぞうだいする。
へんかする ことに なる。

129
近代化に伴う危険は、社会に取り込まれた自然についての危険という意味で、純粋な社会の第一の倫理に対して第二の倫理であり、これは、危険を科学的に測定するので、科学の形をとる。

132
しゃかいかがくに じゆうが ないから、 ほしい、 という はなし?
→りんりや せいじに かかわる てーまを えらべ、 とか

132
うるさい しゃかいがくしゃに なれ?→いや、 きはんと すいそくの ぜんちしが おなじ だから では?