この ぶんしょうは、 いいやま・ゆき【飯山由貴】の えいぞう さくひん である≪家父長制を食べる≫(2022)【かふちょうせいを たべる】の かんそう である。
かふちょうせい とは なにか。 かふちょうせい という ことばは いろいろな いみで つかわれる。 しかし、 ここでは だいいちに ふぇみにずむの ぶんみゃくで つかわれる いみでの かふちょうせい だろう。 この ばあいは、 かふちょうせい とは、 いちぶの だんせいに よる ほかの ひとびと への しはいが せいどに なっている ことを あらわす。
いいやま・ゆき【飯山由貴】の ≪家父長制を食べる≫(2022)【かふちょうせいを たべる】では、 かふちょうせいは いくつかの えがきかたが される。
ひとつは、 だいめいに ある とおり、 かふちょうせいは たべられる もの である。 そして、 この さくひん では、 それは だんせいに みえる らしい ぱん である。
また、 えいぞうの さいごに たべられる、 かみのけも かふちょうせいを あらわしていそうだ。 じっさい、 らいたーの Jaewon Kimは つぎの ように のべる。
だが本作はパンを食べて終わりではなく、食べ終えた主人公が冒頭で切り落とした自分の髪の毛を拾い上げ咀嚼し飲み込んだところで幕を閉じる。それは、自分の毛の先までもが家父長制の支配にあることを示しているようにも見える[2]。
https://note.com/zaigen/n/n271c9ed2d18b?sub_rt=share_pb
しかし、この ぶぶんに ついている ちゅうを みると、 よそうがいの ことが はんめいする。
[2]この部分については「男性に模したパンを成型し食す中で、自分自身がセクシストのようになってしまっているような感じがしたため、自分の髪を食べることにした」という旨の応答を飯山由貴からいただいた。
https://note.com/zaigen/n/n271c9ed2d18b?sub_rt=share_pb
ここでは、 この いいやま・ゆき【飯山由貴】の おうとうは、 ふたつの いみに かいしゃくできる。 まず、 じぶんじしんが せくしすとに なってしまっている、 つまり、 じぶんじしんが かふちょうせいてきに なってしまっている ために、 じぶんの かみのけを たべる ことに した という、 Jaewon Kimの よみかたに そった おうとう として よめる。 しかし、 これだと 「わざわざ おうとうする こと なのか?」 という ぎねんが うかんでくる。 すると、 じぶんじしんが せくしすとの ように なってしまっている ような かんじが したために、 じっさいは せくしすと では ない じぶんの かみのけを たべる ことで、 せくしすと では なくなろうと している、 という いみ なのかとも かいしゃくできる。 じっさい、 さいしょに よんだ ときは、 わたくし さいとうは こちらの いみで おうとうしたのだろうと かいしゃくした。
ところが、 しらべていく うちに、 いいやま・ゆき【飯山由貴】の いんたびゅーを みつけた。
ただ、作りながらもいろいろ考えていて。パンを男性の形にするって、本当にこれでいいのかなとか、ぎりぎりまで思っていたりして。シンシア・エンローの本を読んでいると、女性もさまざまな方法で家父長制に加担しているという指摘が書かれていて。そんなことも、撮影中に思い出して。「じゃあ女性性に関するものも何か食べなきゃダメじゃん」と思って。最後に髪の毛を食べるのは、家父長制を支えてるのは、男性も女性もない、全ての人がもしかしたらその制度にくみしている可能性がある、加担してる可能性があるということで、最後に髪も食べました。
https://do-cks.net/works/publication/korea06/
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この せりふを よむ かぎりでは、 「わざわざ おうとうする こと なのか?」 という ぎもんに たいして、 「わざわざ おうとうする こと だったのか」と なっとくすれば いいと わかった。 かみのけも かふちょうせいを あらわしている。
つぎに かふちょうせいを あらわしているのは、 てんのうせい である。こうしつの かれんだーが かけてあり、 いちにがつの かれんだーを めくって さんしがつの かれんだーに かえようとしている ところが とられる。
さいごに かふちょうせいを あらわしていのは、 ひなにんぎょう である。おだいりさま なる にんぎょうの ほうが、 たかい いちに あり、 おひなさま なる にんぎょうの ほうが やや ひくい いちに ある ように とられている。 ひなにんぎょうは、 さんがつみっかに むけて かざると されるので、 かれんだー とも がっち する。
この ふたつの もちーふに ついては、 らいたーの Jaewon Kimも つぎの ように してきしている。
パンから離れて本作について見てみると、主人公が住んでいると思われる部屋には皇室カレンダーがかけられ、雛人形が飾られている。どちらも日本における家父長制を表す代表的な存在であり、生活の至るところに浸透していることが表されている。
https://note.com/zaigen/n/n271c9ed2d18b?sub_rt=share_pb
しかし、 これらの もちーふは、 かふちょうせいが せいかつの いたる ところに しんとうしている ことを しめしている という よりも、 これらに たいする はんたいを ひょうげんしているのでは ないだろうか。 てんのうせい はんたい、 もものせっく はんたいを あらわしている という こと である。
いいやま・ゆき【飯山由貴】の ≪家父長制を食べる≫(2022)【かふちょうせいを たべる】は、 だんせいに みえる ぱんを つくって、 それを たべる すがたが えがかれる。
この えいぞう さくひんで とくちょうてきなのは、 その たべる すがたが かなり ぐろてすくに さつえい されている ところ である。 いいやま・ゆき【飯山由貴】は、 いんたびゅーに おいて、 つぎの ように こたえている。
《家父長制を食べる》では、男性に見えるものを私が食べることに関して、セクシュアルに見えないための演出を心がけました。
https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981
たしかに、 たべる すがたは、 せくしゅあるに みられてしまう おそれが たかい。 そして、 この さくひんでの えんしゅつでは、 せくしゅあるに みせない ように する という つよい きもちが つたわってきた。 くちもとの あっぷの えいぞうと、 そしゃくの ようすは、 ぐろてすくで はきけを ともなう もの であった。とくに、 じぶんは さくひんの えいぞうの さいごの かみのけを くちに ふくむ ところに つよい はきけを かんじた。じっさい、 いいやま・ゆき【飯山由貴】は、 さくひんを みている ひとたちの たいちょうが わるく なる ことを そうていして さまざまな たいさくを している(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981 さんしょう)。 さらに、 かんしょうしゃの ひとりの りん@アート好きOLは、 ぶろぐで つぎの ように きじゅつしている。
また、なんと言っても咀嚼シーンが不快そのものだった。パンを齧る口元のアップ、唾液と混じってぐちゃぐちゃになったパンのアップ、展示室に響き渡る咀嚼音。
https://note.com/ling_art/n/nbbca7753fdf2
なぜ こんなにも ぐろてすく なのだろうか。 この えいぞう さくひんでは、 くちもとの くろーずあっぷした えいぞうが おおく つかわれている。 えいぞうの さいしょの ほうでも、 たべている しーんでは ない ものの、 なんにんかの くちもとの えいぞうが ある。 その くちもとの えいぞうも なかなかに ぐろてすくである。
このてんに ついて、 いいやま・ゆき【飯山由貴】に といあわせた ところ、 つぎの ような へんじが かえってきた。
ここの部分で言及されている映像は、すべて元配偶者の口もとが映っています。親密な関係の人たちが「思い出」に撮影するような類のものです。(たとえばホーム・ムービーとか、旅行のような非日常のときに撮る映像とか)
2025ねん6がつ2にち こじんてきな やりとりにて
くちもと という からだの ぶぶんは、 かくだいすると かなり きもちわるい という ことが わかった。この ふかいかんは なにに もとづくのだろうか。
れいせいに かんがえれば、 なんてことはない、 からだの いちぶぶん である。 しかし、 そこには きはんが あるのだろう。 「くちもとを かくだいして みせては いけない。」「たべている ものが みえる ように たべては いけない。」 そういった きはんに いつだつしている から、 ふかいかんを もつの だろう。
では、 かふちょうせいを たべるに あたって、 なぜ そのように きはんを いつだつするのだろうか。 それは、 かふちょうせい じたいが きはん である から だろう。 たしゃの ていこうには じぶんの はきけが ともなう。 きはんへの ていこうは それじたいが きはんからの いつだつでも ある。
さらに、 たしゃの ていこうに じぶんの はきけが ともなう だけ では なく、 みずからの ていこうにも じぶんの はきけが ともなうと いえる。じっさい、 この えいぞう さくひん では、 ぱんが やきあがると、 それに ならんで ねそべって はげしく なみだを ながしながら はきけを かんじている すがたが とられている。いんたびゅーで いいやま・ゆき【飯山由貴】は つぎの ように のべている。
撮影現場では緊張とストレスによるものなのか、何度か吐きました。嗚咽のシーンは演技ではないんですけれども「ああ、今だったら泣いてしまうな、でもこれは撮ったらいいんじゃないかな」という合意が自分にあったので、どこまでがフィクションでどこからが生(なま)なのか、きちんと考えるとよくわかりません。
https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981
それでは、どのように すれば、 しゅうだんで れんたいして わるい きはんに ていこうする ことが できるのか。たしゃの ていこうには じぶんの はきけが ともなうと すると、 しゅうだんで ていこうしようと しても、 たがいに はきけを おぼえてしまって、 れんたいが できなくなる かのうせいが たかいのでは ないか。そして、 そもそも じぶんの ていこうにも じぶんの はきけが ともなう ならば、ていこうを じっせんする ことは むずかしい。いんたびゅーで いいやま・ゆき【飯山由貴】は つぎの ように のべている。
正直に言って、「なんで私がこんな作品をつくらなきゃいけないんだろう」という思いもありました。社会のなかにDVをはじめとする家族間のトラブルや暴力への対処法をともに考えてくれるようなシステムがきちんとあれば、ここまで個人に苦しみや問題解決への責任を負わせずに済むんじゃないか、と。
https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981
それでも、 いいやま・ゆき【飯山由貴】は、 この さくひんを つくった。 それは どうして かのうだったのか。
その ひんとは、 ぱんの かたちに あると わたくし、 さいとうは かんがえる。
そもそも、 われ、 さいとう から すると、 かふちょうせいを しょうちょうする もの として、 だんせいに みえる らしい ぱんを えらんだ ことは ふしぎでも あると どうじに もんだいが ある ことだと おもっていた。 しかし、 ぱんは だんせいに みえる らしい。 いんたびゅーで いいやま・ゆき【飯山由貴】は 「《家父長制を食べる》では、男性に見えるものを私が食べることに関して」と ひょうげんしている(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/25981 さんしょう)。
ふしぎで あるのは、 だんせいに みえる らしい ぱんは、 そこまで だんせいに みえない こと である。 ひとがた である のは わかるが、 だんせいに みえるのかと ふしぎに おもう。 そして、 もし だんせいに みえる ことを かのうに していると したら、 ふたつの ぜんていが あると かんがえる。そして、 それらの ぜんていに もんだいが あると おもった。
ひとつめは、 ぱんの なかに ぺにす らしき かたちを つくっている こと である。 しかし、 もちろん ぺにすが ある からと いって だんせい では ない。したがって、 この ぜんていを つかう ことは もんだいが あると かんがえた。
ふたつめは、 えいぞうの はじめに でてくる ぶんしょうだろう。 しょうせつかの あとうっどの しょうせつに でてくる ぶんしょう である。 それは、いいやま・ゆき【飯山由貴】の ひょうげんでは、「パンを作って、それを食べて、男性より大きい力を持った気になるって一節」 である(https://do-cks.net/works/publication/korea06/ 36ぺーじ)。これを かんきゃくは よんでいる ために、 ぱんが だんせいに みえるのだろう。 しかし、 だんせいに ちからが ある から だんせいを かたどった ぱんを たべると ちかがを もてる という かんがえの もとには、 ぱんで かたどる ことが できる ような だんせい こじんが ちからを もっている という かんがえかたが ある。 かふちょうせいと いわれる さべつに おいては、 だんせい こじんが ちからを もっている という よりも、 さまざまな しくみに よって だんせい いがいが ひがいを うける かのうせいが たかく なっていると とらえる べきだと かんがえられる。 それなのに、 だんせい という かたちに なんらかの ちからが やどっていると かんがえてしまうと、 その さまざまな しくみが わからなくなってしまう。 そうすると、 おこなう べきは てき としての だんせいを たおす ことと なってしまい、 さべつの ぜせい という もくひょうから とおざかってしまう。 だんせいも ひかくてき ひくい かのうせいの ていど である とは いえ、 ひがいに あう かのうせいが ある という ことを せっとくの ざいりょうに して、 てきと いう よりも れんたい しうる あいてと みなして、 さべつの ぜせいを めざす ほうが もくひょうに ちかい。したがって、 かふちょうせいを だんせいの かたちで しょうちょうする ことには もんだいが あると おもった。
しかし、 ぱんの かたちは これで なければ ならなかったのである。ただし、 それは 「だんせい」 という よりも、 「どめすてぃっくばいおらんすの かがいしゃ」 なのである。 ここに はきけを ともないながらも おこなう ていこうの げんどうりょくが ある。
じっさい、 この さくひんで、 いいやま・ゆき【飯山由貴】が なきながら はきけを もようしている ときには、 いいやま・ゆき【飯山由貴】は、 ぱんと ならんで ねそべっている。 しかも、 ぱんは つくえの うえに ある ために、 いいやま・ゆき【飯山由貴】も つくえの うえに ねそべるのだが、 いいやま・ゆき【飯山由貴】の からだは つくえを はみでている。
ここで、 いいやま・ゆき【飯山由貴】が みずから どめすてぃっくばいおらんすを うけいていたと いっていた という じょうほうが くわわると どうなるか。 あきらかに、 その ぱんは どめすてぃっくばいおらんすの かがいしゃに みえてくる。 どめすてぃっくばいおらんすの かがいしゃの となりで ねる。 そこで なみだを ながす。 しかも、 からだは ねどこに かんぜんには おさまっていない。 このような れんそうが はたらく。
じっさい、 いいやま・ゆき【飯山由貴】は さくひんを つくる げんどうりょくを つぎの ように いっている。 ながいが だいじ なので、 いんようする。
マーガレット・アトウッドの『誓願』っていう小説を読んだとき、パンを作って、それを食べて、男性より大きい力を持った気になるって一節が、なんかすごい印象に残ったんですね。なので、その一節から、そうした作品を作れないかなと思うようになりました。被害者インタビューのときに、こんな作品を考えてるんですけどなんて、被害経験のある方に話をしたら、「パートナーの顔のかたちのパンを食べる?あり得ない、気持ち悪い」みたいに言われたりもしたんですけど。でも「家父長制ってことにしたらどうですか」って聞いたら、「それなら分かる、私もめっちゃ食べたい」という反応がかえってきて、なるほどなと思って。
「これはもしかしたら作ってもいいのかもしれない」って思うようになりましたし、ある人にその話をしたら、その方が入っていた被害者の自助グループの中では、例えば「パートナーの写真をびりびりに破くとか、持ち物を壊すとか、そういうことしている人がいたよ」と教えてもらえました。本当に暴力行為を行うと自分が罪に問われてしまうから、何か代理でそうやって表現をするっていう人たちがいるよ、いたよって話を聞いたときに、ああ、こういう負の感情を持っているのは自分だけじゃないんだなと思って。そうすると、私が作ろうとしてるパンの作品も、いわゆる「私怨」がきっかけですけど、他の人の何か役に立つかもしれないなと思うようになって、制作を進めていく原動力になりました。
https://do-cks.net/works/publication/korea06/ 36ぺーじ
ここに かかれた こじんてきな いかり、 ふくしゅうしん、 ふのかんじょうが ていこうの げんどうりょく なのである。しかし、 それを ていこうに へんようさせた ために、 この さくひんは げいじゅつ さくひんに なっている のである。
なにが ていこうを かのうにしているのか。
こじんてきに いかる ことが げんどうりょくに なる。
それでは、 どうすれば しゅうだんで ていこうが かのうに なるのか。
こじんてきに いかる ことを きょうゆうする こと である。 それが この さくひんで なしとげられていると いえる だろう。
そのような ことを かんがえさせられた さくひんで あった。