おだとも ほんやく らいぶを みていたら、 おもしろくなったので、 やくに じぶんも ちょうせんする。
https://youtu.be/fR7FAQ_qqzA?si=W_mLOmtUeKQqy1hF
Ernst Bloch, Tübinger Einleitung in die Philosophie, Gesamtausgabe Bd. 13. 1970
S. 243 ff.
(S. 243)
EINSICHTEN IN DEN NIHILISMUS UND DIE IDENTITÄT
Nicht als Nicht-Haben, Mangel
ぶろっほも どいつごも しょしんしゃ なので、 しんじすぎないこと。
だいめいは まだ わかっていないので、 かりやく として、
ないに ついての かんがえかたと まとまりに ついての どうさつ
と やくしておこう。
Das Wer, das im Jetzt treibt, ist nicht.
いま なる ものに おいて うごめいている なにものか なんて ない。
しゅっぱつてん である じぶんは せかいには なくて、 じぶんにしか あらわれていない という ことを いっている。
じぶんが せかいに ない というのは、 かんぜんに きゃっかんてきに せかいに そくして かんがえると、 じぶんが どれか わからなくなってしまう、 という こと である。
げんじつは、 じぶん という ただ ひとつの しゅっぱつてんが あって、 そこからの せかいの あらわれ しか わからない。 じっさいに、 どこから みた わけでもない せかいの みかた なんて いう ものは できない だろう。 みる から には、 どこかの しゅぱつてん から みる しか ない。
しかし、 どうじに、 せかいを しゅっぱつてん なしでも とらえている。 みえなくなったら なくなった のでは なくて、 たんに そこに ある けど みえなく なったと かんがえる はず である。 せかいは しゅっぱつてん とは どくりつに あって、 それを しゅっぱつてんから とらえていると かんがえている。 そして、 せかいの いちかんけいも じかんも わかっている つもり である。 ほんとうは しゅっぱつてん から しか とらえる ことは できない のに。 まるで しゅっぱつてんが ない ちずや ねんぴょうの ように、 ものごとを ならべられる。
こうやって とらえられた しゅっぱつてんが ない せかい には、 しゅっぱつてんは ない。 こういう ことを ぶろっほは いっていると おもう。つまり、 えーさんが びーさんを なぐった、 という ことが せかいに おきたとして、 じぶんは えーさん かもしれないし、 びーさん かもしれないし、 どちらでもないかもしれない。せかいに そくして かんがえると、 じぶんが どいつか なんて どうでも いいけど、 しゅっぱつてんから かんがえると、 どれが じぶんかが だいもんだいに なる。
せかいの とらえかたと せかいの あらわれかたが ちがう、とも いえる。 せかいを とらえる ときは、 きゃっかんてきに とらえる。 しかし、 せかいが あらわれる ときは、 しゅっぱつてんに とって あらわれる だけ である。
げんしょうがくは この ずれを しこうせい(志向性)として もんだいに した わけである。 しゅっぱつてんに あらわれる しかた でしか せかいが わからない のに、 どうして せかいを しゅっぱつてん なしで とらえる ことが できる のだろうか。 そういう といを しこうせいの もんだいと かんがえた。しこうせい とは、 いしきが なにかに ついての いしき である、 という ことを あらわす わけ だけど、 これまで いってきた ことばと たいおう させれば、 いしき とは、 しゅっぱつてんでの あらわれかたで、 なにか とは、しゅっぱつてん なしで とらえられた せかいの こと である。 つまり、 あらわれかたに とらえられかたが くみこまれている けど、 これは どういうこと? ということ。 ちなみに、 じぶんは げんしょうがく しょしんしゃ なので、 まちがっている かのうせいは おおいに あり。
で、 しゅっぱつてんは、 しゅっぱつてん なしの せかいに そって かんがえると、 ない よね〜と いっていたと かんがえた けど、 どうして そう いえるのか。
まず、 いま なる もので うごめく なにものか という ひょうげんに ついて かんがえよう。 これが しゅっぱつてんに あたる。
しゅっぱつてんは、 じぶん、 わたし などの ひょうげんの しかたが かんがえられる けど、 これらは どうしても ただしく ものごとを とらえられない ことばに なってしまう。 なぜなら、 ことばは、 いっぱんてきな ものの なかの とくしゅな ものを あらわす ための もの だから。 つまり、 じぶん というのは、 じぶんというのが たくさんあって、 そのなかの ひとつ、 と かんがえるし、 わたし というのも わたし というのが たくさん あって そのなかの ひとつ、と かんがえてしまう。 しゅっぱつてん だって そう。 たくさん ある しゅっぱつてんの うちの ひとつ として しゅっぱつてんを かんがえてしまう。
しかし、 しゅっぱつてんは、 げんじつには ひとつしか なくて、 ぜんたいでしか ない。 ひとつしか ない というと、 ふくすう ある うちの ひとつに なってしまう けど、 そういう いみでは なくて、 これ だけが しゅっぱつてん である、 という こと。 どくしゃも どくしゃ じしんの ことを かんがえてほしい。 しゅっぱつてんって、 じぶんしか けいけん しないだろう。 たにんの しゅっぱつてんは もちろん あると おもう けど、 けいけんは できない。 どうしても あると しんじるしか ない。 けいけん できたと おもったとしても、 それは じぶんの しゅっぱつてん でしか なくて、 たにんの しゅっぱつてんでは ない。 しゅっぱつてんは、 すべての けいけんの あつまり だから。
しゅっぱつてんが すべて というのは、 けいけんしたら すべて しゅっぱつてんで けいけんした ことに なる から。 そういう なにかが しゅっぱつてん である。 そういう へんな ことがらが しゅっぱつてん である。
そして、 この へんな しゅっぱつてんを せつめいするのに、 ぶろっほは、 いま なる ものにおいて うごめく なにものかと ひょうげんした。 なかなか うまいと おもう。
まず、 なにものか、 という ひょうげんは うまい。しゅっぱつてんの なかみを とわない。そして、 じぶんとどうようのたしゃに つかう ぎもんしである。 つまり、 たんなる ものごと じゃなくて しゅっぱつてんが ある ものごと であると はっきり しめしている。
しかし、 げんじつの ただ これ しか ない ぜんたい である という てんが なにものか、だけでは あらわせない。 だから、 いま なる ものにおいて うごめく、と つけたわけ。 いま というのも、 また、 わたしと おなじ ように、 げんじつの ただ これ しか ない ぜんたい だから。
ここで、 いまにおいてと してしまうと、 なにものか、という ひょうげんと あまり あいしょうが よくない。いまにおいてうごめくわたし なら いいけど、 なにものか、をつかう なら、 いまなるものにおいて うごめく なにものか、 としたいよね。
なぜなら、ちょっと きょりを とりたいから。 いま、わたしは まさに きょりを とれていない けど、 いまなるものや なにものかは きょりを とっている。 これって、 なかみが なにか わからない、という かんじに できているのだろうね。
うごめいている というのは、 しゅっぱつてんの ありかたを しめす ことば として おもしろい。はんな・あーれんとは、 かつどうてきいのち という ことで、 しゅっぱつてんを あらわす みたい だけど、 その とき、 しゅっぱつてんは かつどうてきで、 しずかならず(unruhe)という ありかたを しめした らしい。 あおき・たかし(青木崇)さんの がだまー きょうかいの はっぴょうに かいてあった。
https://x.com/btwnpstnftr/status/1868875138395210084?t=Tqx-qO3dGyPe_qcJAxa5Tg&s=19
https://x.com/btwnpstnftr/status/1868875138395210084?t=Tqx-qO3dGyPe_qcJAxa5Tg&s=19
じっさい、しゅっぱつてんは たぶん とまれなくて、なにか してしまう のだと おもう。
Da trotzdem davon gesprochen werden kann, ist dieses Nicht nicht oder nicht mehr ein eigentliches.
しかし、そこで それについて かたれるのだから、その ないは、 ほんらいの ない では ない、または、 ほんらいの ない では もはや ない のである。
ほんらいの ない とは、 そんざいしない、という こと。つまり、 このよには まるいしかくが ない、 という のは、まるいしかく なる ものは そんざいしない という こと である。
これは、 じぶんに あらわれえない という ことでも ある。 つまり、 まるいしかくが ない とは、 まるいしかくは じぶんに あらわれる ことは ありえない、 という こと である。
まるいしかくに ついて かたれない のは、 そんなものが そんざいしないから。 ここで かたれない、 とは、 そんざいしない という ことの ほかに、なにか いみが あることを いえない、 という こと。
まるいしかくは おいしい、と いっても、 ただしいのか ただしくないのかも わからない。なんせんす。というやつ。まるい しかくは まるいのか しかくなのかも わからない。あ、もしかして ひゆーくりっどきかがく だと ありえるのかな? まあ、 そこらへんは ゆるして。
しゅっぱつてんに ついては かたって なんせんすに ならない。 わたしは さいとうである。わたしは いま これを かいている。 これらは いみが あるし、 ただしい。 わたしは ないている。 これは まちがっている。ないてないから。 どのみち なんせんすには ならない。
では、 もはや ほんらいの ない では ない、とは?つまり、 まえは ほんらいの ないで あった ときが ある、 という こと。 たしかに ある。 わたしが うまれる まえは、 わたしは そんざいしなかった。 これは かくじつだ。 それに いまの わたしと さっきの わたしが ちがうと かんがえれば、さっきまでは いま なる ものに おいて うごめく なにものかは なかった けど、 いまに なって いま なる ものに おいて うごめく なにものかが せかいに そえば ない けど、 たしかに あると いえる。これは まったく そんざいしない という いみ では なくて、 へんな かんじな ことがら である。
Es wäre sonst nicht einmal möglich, ein Wort für Nicht zu haben, geschweige eines, bei dem sich durchaus »etwas« fühlen und denken läßt.
そうでなければ、ない という ことばは ありえない ことに さえ なる だろう。ましてや、 「なにか」が かんじられたり かんがえられたり する ことを かくじつに あらわす ことばは ありえないだろう。
「そうでなければ」とは、 しゅっぱつてんが このよに そんざいしなかったら、ということ。
しゅっぱつてんが そんざいしなかったら、ことばを つかう そんざいが いないので、 とらえかたの ひとつである ないも なければ、 とらえかたの ばりえーしょん である かんじたり かんがえたりした ことを あらわす ことばも ない だろう のいう こと。
ある ものを あらわす ことば しか なかった だろう という こと。
Das Wort Nicht ist ein Zeichen, das sinnvoll auf das Seine zeigt.
ここでの ない という ことばは、 ひとつの きごう であって、これは ない なにかを さししめし、 それが なんせんすに ならない のである。
das なので、 さいしょの ぶんの ないの こと。
ない なにかは、 しゅっぱつてんの こと。
なんせんすに ならない とは、 まるいしかく みたいな ことに ならない という こと。
ほんらいの ない では ない という ことを、 なにかを さししめす きごうであると ひょうげんしている。
Also kann das Nicht gemeint werden, und es kann gemeint werden, weil es selber in dem, als was es gefühlt und ausgesagt werden kann, nichts als ein Meinen ist, aber auch nicht weniger als das.
したがって、ここでの ない には、 たいおう する たいしょうが ありえる、そして、 たいおうする たいしょうが ありえる のは、 ここでの ないが、 それじしん、かんじられ、いわれる かのうせいが ある ものの なかでは、 ひとつの たいおうする たいしょう でしか ない からである。 または、 たいおうする たいしょうには とどかない なにか という わけでは ない からである。
しゅっぱつてんが 「ない」 で ひょうげんされる たいしょう なのだ、 という しゅちょうが つづく。いや、 それは ごへいが あるな。 ないと いったが、 かんじられる たいしょうの なか では なんらかの ひとつの たいしょうであるし、 いわれうる たいしょうの なか では なんらかの ひとつの たいしょう である、という こと である。
いっぽうでは、 しゅっぱつてんは さいとうだ、 という ように じっさいの なにかに わりあてられている、 という ことを いっているのだろう。
しかし、 げんみつに いえば、しゅっぱつてん なしの せかいの たいしょうに ぷらす して なにか、しゅっぱつてんが つけくわわった かんじを ひょうげんしている のだろう。 しかし、 しゅっぱつてんが つけくわわった というのが、 ぷらす なのか なぞ だから、 とどかない なにか では ない、 と ひょうげんする のだろう。
Nicht ist der abgezogene Begriff für jenes in uns befindliche Null an Haben, das aber bereits Nicht-Haben ist.
ない と よばれる ものは、 われわれの うちに ある、 もっている こと についての、 ありかに ある、あの ぜろ を あらわす ような、 ひきぬかれた がいねん である。しかし それは すでに もたないで ある。
Haben は もしかして ちゅうせいの めいしで、 かしかた(はいってくる げんきん、かりかたの はんたい) か? ねびきされた がいねんになるのか?abgezogene Begriff ?
しらべてみた。
すると、 どうやら ぶろっほは、 わたしは ある、 わたしは わたしを もっていない、われわれに なる という ような ひょうげんを している らしい。
三国千秋(みくに・ちあき), 2014, 「Ernst Bloch における「可能性」の概念について」https://doi.org/10.15066/00000083
また、もたない ことと なることの かんけいは るたーの はなしにも でてくる みたいである。
今井晋(いまい・すすむ) , 2005,「ルターにおける時と永遠(2)」
https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004039
わたし という しゅっぱつてんは ある。けれど、 その しゅっぱつてんは ほかの ものごとと おなじように はあく する こと、 つまり もつ ことが できない。なぜなら、 しゅっぱつてんは もたれる たいしょうでは なく、 もっている がわ であり、 せかいに そくしては そんざい しない から。
だから、 むりやり がいねんには している けれど、 じっさいには いっぱんてきなものの とくしゅれい としては かんがえられない。 だから、 ひきぬかれた がいねん、と やくしてみた。
そして、 われわれに なる。 どういうことか。
しゅっぱつてんが ほかにも あると しんじられないと、 この しゅっぱつてんが わたし という いっぱんてきなものの ひとつの とくしゅれい だと わからない。だから、 わたしを わたしだと おもえている ときには すでに われわれを われわれとして りかいしてしまっている。この すでに なってしまっている ことを われわれに なる、と ひょうげんしているのでは ないか。 たんなる かせつに すぎない。
でも、 そうすると、 ここで とつぜん われわれが でてくる りゆうも わかる。
ありかにある、は なぞ。
ぜろも なぞ。
つづくならば つづけたい。