さいとー・ま

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ガダマー読書会01

がだまー『真理と方法02』
第三節 現象学的探究による認識論的問題設定の克服
388-395

かいしゃくがくでは なく、 どいつ かんねんろんが つかえる。
にんしきを かのうにしている じょうけんを あきらかに しようと
しょよせい ひはんが きゃっかんせい ひはんと おなじか?→つながっている。
にんしき から はなれて、 そとに ある じじつてきな ものを おくことが できない。
きゃっかんせいを いう ひとは じったいが あると いう けど、 はいでがー たちは じったい では なくて、 れきしは れきしとして かんがえる ひつようが ある。 じかんが かんけいしているのだ。そんざいと じかん では そんざいとは じかんから かんがえる べき、 じかんで れきしが つながる。
ふぃひては、 じこ にんしきが なりたつのは、 どのように してかを かんがえて、 じかん てきな だいなみずむが あったのだ、と かんがえる。 これは、 しょよせい、 あたえられた ものは あるのだ という かんがえを ひはんしている。 ふぃひては さいしょの じがに よる ちょっかんが もんだいだと いった。

はいでがーの じかんを かんがえると、 でゅるたいが うまく いく。
はいでがーは ふっさーるに もとづいていた。 でゅるたいは ふっさーるを よめていない けど、 がだまーが ちゃんと ひろってあげよう。

しこうせい
いしきは、 つねに なにかに ついて いしきである。
ぱそこんは じぶんに いしきされている。あたえられているのは、 ある ほうこうから みた えいぞう、 かんしょく。げんしょうと、 たいしょうの あいだに ぎゃっぷが ある。 いしきは つねに、 げんしょうでは なく、 たいしょうを とらえている。 げんしょうしか あたえられていないのに、 たいしょうが わかる ことの しすてむを かんがえる。
あらわれている ものを どう たいしょうか するか。 ここで ぎゃくてんが おこっている。 それまでは たいしょうが あって、 げんしょうとして あたえられる という ことが もんだいだった。げんしょうは いちじてんの もの、 たいしょうは じかんを こえて ある もの。
えぽけー=げんしょうがくてき・かんげん=はんだんていしで、 たいしょうを かんがえる ことを とりあえず おいておいて、 げんしょう としての あらわれかたを かくにんしよう。
びじゅつさくひんには えぽけーの きのうが ある。

きゃっかんしゅぎは たいしょうが あって こその げんしょう だろ?
ふっさーるは そうではない、 げんしょうが あって こその たいしょうが ある、 その へんかの ふしぎを かんがえよう。
せいしんは げんしょうを たいしょうに する。 その しくみを あきらかに するのが げんしょうがくだ。せいしんを ちゅうしんに いちづけると、 たいしょうを つくった もの としての せいしんは、 れきしせい=じかんせいが ある ものと かんがえないと いけない。 なぜなら、あたえられるのは たんなる いちじてんの げんしょう では なく、 じかんを つうじた もの だから。
かんとや ふぃひては わたしが ある という じょうけんで にんしきが できると いった。 これと おなじように ふっさーるも せいしんが じょうけんとして ある から すべてが あると いった。

じかんせいと れきしせいの ちがいは?
れきしせいだと れきしの ぜんたいが そうていされるのでは。
じかんだと へんざいしている かんじで のっぺりな かんじが ある。 れきしは ぜんたいぞうが あって こそ。
せいしんと れきしせいは おなじに あつかわれている。
ふくすうの いしきが じかんと どう かかわるのか。
ふくすうの いしきの ありかたを へーげるは せいしんと なざした。じだいせいしん、せかいせしん。しゅうだんとしての いしき である。ほかの ひととの ひととの かかわりで れきしせいが でてくる。

相関アプリオリ:対象は現象に依存している?対象と現象が相関している。 それが じょうけんと なって、 けいけんが かのうに なっている。

「第三のアプリオリ概念である「相関アプリオリ」とはこのような事 態を主題として扱うための名称で、全く形式的には「自我-意 識作用-意識対象」(晶O-O轟一けO-8σ・ま旨目)というように規定さられ方に眼差しを向けかえることが要求れるわけである。そしてこの意識の普遍的な相関関係を表わす総称が志向性と呼ばれるわけであり、」(https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/23969/files/8.pdf

志向的体験は 諸体験の実的な意識統一では ない。
ふぃるむを わたされても、 ふぃるむは ひとつに なっている。 けど、 えいしゃきに いれないと いけない。 えいしゃきの はなしを している。 ふぃるむでは ない。
たいけんを よせあつめても、 わたしたちの けいけんを せつめいできない。
諸体験の内的知覚ではない。
えいがの ひゆなら、 ひとつの しょっとに おける えいがを とっている ときに、 じぶんが みれる こと では ない。

いしきは たいしょう では なく、 しゅかんせいと きゃっかんせいの ごちゃまぜ なんだ。

いみは そうかんてきな ものが あって、 いしきとは ちがう もの である。 しゅかんせいと きゃっかんせいが おりまざった ものが ある。
いしきは、 ふへんてきな せかいに いちづけられる ような たいしょう では なく、 たいしょうを うけとる もの である しゅかんせい であり、 きゃっかんせいを なりたたせている という いみで きゃっかんせい である。

いみは たいしょう。 しんてきないようは げんしょう。
きゃっかんしゅぎは たいしょうを おもいうかべていると かんがえる けど、 そうでは なくて、 げんしょうと たいしょうは ことなる と いった。

いみという たいしょうも、 そんざいしゃ という たいしょうも、 みんな おなじく、 げんしょうが あたえられていながら たいしょうが わかる よねって しかたで おなじ ように あたえられる。

https://www.wakate-forum.org/data/tankyu/38/38_07_kuzuya.pdf
意味志向(このことばの いみは これだな。たんご から たいしょう)と、 意味充実(これが あの ことばの いみだな。げんしょう から たいしょう)が これが あわさると 意味の統一(たいしょうを ちゅうしんに たんごと げんしょうが いしきに おいて おこっている)

存在定立=たいしょうとして あると にんていする こと。 あらわれている のでは なく あるのだと いうこと。
主観的な与えられ方=げんしょうを たんきゅうしよう。

しこうせいに おける げんしょう から たいしょう への じゃんぷが なければ、 どんな きゃっかんせいも どんな たいしょうとして そんざいする ものの いみも わからない。

しゅかんも せかいの なかに ある。
しゅかんも げんしょうの いちぶ。
ちょうえつろんてき=すべての けいけんの じょうけんを さぐる
はんせい=じぶんで じぶんを かんがえる
えいしゃきが ふぃるむに うつっている。
じょうけんが じょうけんに よって なりたっている もののなかに みつかる という じこげんきゅうてきこうぞうが、えいしゃきには ある。 げんしょうと たいしょうの じゃんぷを する いしき という じょうけんは、 つねに えいがを みている とき、 じゃんぷを している ときには じこげんきゅうてきこうぞうが ある。
げんしょうを げんしょうとして みる ことが できた。
たいしょうを みている いしきに おいても、 げんしょうを たんに あたえられたものとして みれる ように なった。 いままでは そこから たいしょうに いくもの としてしか みていなかった。 つうかてん では なく けんきゅうの たいしょうに した。 それが たいしょう への じゃんぷに おける げんしょう である。

えいしゃき=とういつある たいけんの ながれ
とういつある たいけんの ながれに げんしょうが いちづけられる ことで、 たいしょうとして わかる ように なる のである。

じかんの なかに いちづければ、 すべての げんしょうが りかいできる。
こべつてきな たいけん では なく、 いしきの ながれが もんだいに なりますよ。 という はなし。
ある たいみんぐに おいて、 いみが あって、 しゅかんと きゃっかんが つながっていても。(どれほど…)
かっと いちまいいちまいに いみが あっても、 げんしょうがくてきな でーたとは いえない。

げんざいが おもいなし、 思念、 くうきょに おもいだすこと、 くうきょに よそうする こと。 くうきょに= いきいきと していない=げんざいに げんざい けいけんする もの ではない。 つまり、 げんざいの じてんで おもいだしたり、 よそうする。 げんざい から ひろがっている けど、 そのとき そのときの いきいき とした たいけん として では なく、 くうきょで あって、 そういう ひろがりが ある。はいけい=ちへい として かことか みらいを いまからでも おもえる という ことが じょうけんとなって、しこうてきたいけんが なりたっている。

とういつてきな たいけんの ながれの なかに いちづいて はじめて、 すべての たいけんが いみを なす。
こうせい=えいしゃきてきに どう つくるのか、 どう とらえるのか
じかんを どう とらえるかは、 なんでも いいから なんか ある ものを とらえる ことの ぜんていに なっている。
たいけんの ながれは いつでも ある はいけいに ある いしき であり、 こういう はいけいに ある いしきが ある(かこと みらいに ついて いちづけられる) から、 じょうけんに して、 こべつな ものは たいしょう、 たいけんとして あたえられる。

かこや みらいを かんがえる というのが、 はいけい=ちへい として ある と かけば、 ぜんたいの なかの いちぶに なる という ことが わかりやすい。ぜんたいの なかの いちぶの はいけい と なる= ちへいの とけあい。ぜんたいと ぶぶんの かんけいに かいしゅうされる。
それぞれの かこと みらいを とらえる ことは、 すべて、 それを ささえている はいけいの なかの いちぶと なる。

ちへいは、 じかんせいや ながれが ともなっている。
つくりだす そうち でも ない。
たいけんの ながれが えいしゃき、 げんしょうを たいしょうに まとめられる。
えいしゃきの なかに、 かことか みらいの ちへい=はいけいが くみこまれていく。=とけあう。
こういう はいけいの もとに ものごとを はあくする、 そういう じょうけん= ちへい= えいしゃき
ものごとを みたら、 つねに はいけいが ある。
はいけいが つきまとっている よね。
はいけいを みようとしている わけではない。
じかんてきな はいけいが あって そこに いちづけられて いみを なす。
ここまでしかいけない という げんかいではなく、 ささえている もの。
ひとが いどうすると みえる はいけいも ことなるように、 いどうして、 つぎの ものが みえる、 から さらに ぜんしん できる。 じかんてきにも すすんでいける。
ちへいは かわりつづける。
じかんを くうかんてきな ひゆで はなしている。
なんかの ぜんていとして ある。 それは かわる。 ちへい。
げーむで RPGで きゃらくたーの まわりに あらわれる ゆか。
じぶんの がわにも れきしの すとーりーが あり、 たいしょうにも れきしの すとーりー だたり、 どこに あるのか という はいけいが ある。 たいしょうの この はいけいじょうほう すべてが せかい。すべての できごとは せかい という はいけいに おいて おこっている。 ちへい=はいけい として みなせる。

ふっさーるは かがくを きそづけたかった。
えぽけーで きゃっかんてきかがくの だとうせいを とりあえず わきに おいていた。
でも、 せかい という はいけいが ある ことは ぜんていに なっている。
せかいって あるのか という はなしを えぽけー できていない。=じゅうぶんに らでぃかるではない。

にんしてきしゅかんだけでは だめだと ふっさーるは わかった。せかいに ついて とわないと いけないと わかった。
でゅるたいと にている。
でぃるたいは lifeに いった
ふっさーるも lifeに いった。leben
いままでは ここの いしたいけんだけを かんがえていた。 しかし、 しゅうごうてき、 ふくすうの ひとの もっている、 えいしゃき、 はいけいが あって、 これに よって、 ぜんぶが かのうに なっていると かんがえた。
えいしゃき、 はいけいを のうさくする lifeの のうさくと よんだ。
leistung はたらき、 ぎょうせき、せいかぶつ、 えいがの とうえい

ここで、 いしきとか しゅかんせいではなく、 lebenと いっているのが おもしろい。
いま かんがえている いしき という はなし から
さかのぼって、 より ちゅうしょうてきに して
みんな かんがえる ような ものだ という はなしからも さかのぼって
すべてに ふへんてきな はたらきだと いいはじめている。うちゅうの ことわりてきに かんがえている。
はたらきを うける= げんしょうが たいしょうとなる こうせい=だとうせいを える= いみが わかる
わたしたちの みているものは ふへんてきに だとうしていると おもう。 つまり、 ぱそこんが たいしょうとして あったら、 それは どんな ばあいでも あると いいたい。 だれか みたら ぱそこんでなくなる ことは おこってほしくない。 だとうせいを えたものの ふへんせい。 ふへんせいを たんぽ しているのは、 えいしゃきの はたらきが ふへんだから、 うちゅうの ことわり だから。

せかい という おおきい はいけいは、 だから ひとに きぞくしない。 ここじんが もっていたら、 それぞれで ことなってしまう。 みんな くちを そろえて ぱそこんと いうからには、 ふへんてきな うちゅうの ことわりが ある。
ひとに きぞくしていたら、 さっきみたいな だとうせいが ふへんてきに あると いえなく なってしまう。
ある とは いっていなくて、 あると おもわせる どおりが あると いっている。
ふへんてきな はたらきを あきらかにした。
だから、 かがくが できる。

たいしょうとして あるものを あつめてみよう。 それも せかいと いえる。
けど、 ふへんてきな はたらき である、 せかい という はいけいは、 せいかつせかい= れーべんの せかい。 つねに はいけいとして ある よね。 この はたらきが つねに あるよね。 だからこそ、だとうしているよね。
しぜんてきたいど=えぽけーしていない
しこうせいが めちゃくちゃ はたらいて、 げんしょうは たいしょうかされる ような たいど。
せいかつせかいが はいけいとして ささえている。 けいけんの きそである。 あらかじめ あたえられている。 きそだから それじたいとして たいしょうにも ならない。
せいかつせかいは、 しゅかんせいに かんけいする。 なぜなら、 しゅかんせいに よって、 たいしょうとして こうせいされる という はなしが はじまりだった。
せいかつせかいは はいけい(くうかん、 じかん)であって、 うがけば、 じかんがたてば かわる ものであって、 こくいっこくと かわっていく。ぜったいてきな ものでは ない。

みんな おなじ ように みているじゃん
きゃっかんしゅぎ : そもそも おなじ ものを みているからね。 ぜったいてきに かわらない ものを みている。 みんな とまっている。
ふっさーる:せいかつせかいという かわるし、 そのつどの もの だけど、 すべてに ふへんてきな せかい という はいけいが あるから なんだ。 すべて おなじように うごいているから。
れきしが かかわっている。 せいかつせかいは はいけい、 じかん、 くうかんてきな はいけい であり、 れきしの ながれも ふくむから。 すべて おなじ だから、 みんな おなじ。だから、 ふくすうの ひとの じかんせいで れきし。
かんせいという はなしでもない。


ぜんたい としての せいかつせかい。
せいかつせかいの そとに きゃっかんてきな ものは むり。
むげんの そと なんて むり。
さいげんなく すすむ。
れきしてきうちゅうは ひれきしてき。 すべて つつみこむ とは ひれきしてき。 こていされてしまうから。

そうたいしゅぎとも いえる。 たえず へんかする という いみで そうたいしゅぎ。ふへんてきな ものとして せいかつせかいは ある けど、 じかんが かわると へんかする。