さいとー・ま

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フーコー読書会01

フーコー『性の歴史Ⅲ:自己への配慮』

第一章 自分の快楽を夢に見ること

たましいの とくによって みる ゆめが ちがう。
げんじつでの とくの たかさは いいとして、 ゆめの じげんを いれている ところは にかんと ちがって、それが どう きのうしているのか。
けいざいてきに そんしつか、 げんじつと ゆめとの ちいの かんけいが ちゅうもくされていた。
いわれていた ないようは あまり かわらない。 かんぜんしょゆう、 せっせい。
やくわり、 ちい などの きじゅんは かわっていない きがする。→かわっている?

しゅたい: おとこだけ だった にかん。 おんなも しゅたいと なる (30ぺーじ、 おんなどうしの かんけい)
めかにずむ:じぶんを こんとろーるする//けいざいてきに へらないは こんとろーるじゃない。
へっても いいけど おさめろよ。 //へるなよ。
ちいは しゅたいの しかく、 じぶんを こんとろーる する ことが よい。こんとろーるに あたって、 あいての ちいに あわせた ふるまいを する //しゃかいてき ちいと せくしゅありてぃの やくわりが あっている ことが よい。

じょせいどうせいあいは、 だんせいの ちいを うばう から よくない。という のは、 こうほに なっている という こと。
にかん では、 おんなは おっとに したがう べき という はなしが あり、 それは さんかんの いっしょうの ように おとこと おなじ りくつで おんなを しゅたいと して あつかっている のとは ことなる。
さんかんは そうにゅう しじょうしゅぎ。
けいざいや しゃかいの ちいと、 せくしゅありてぃでの やくわりが おなじか どうかで どうとくが はんていされる。 それを りようして、 そこで よいと わるいが はんていされて、 それを ゆめに おうようして、 よい ぜんちょうと わるい ぜんちょうに つかっている。

なにかの ほうそくを みいだす ために ふーこーは れいを だしているのか?
せくしゅありてぃが どのように かんがえられていたか というのを みる ときに わかりやすい。
きりすときょう、 せいかがくと くれべて、 ちがう という ことを ひょうげんする ときに、 ぐたいてきな しりょうを だしている。
ぐたいてきな ものが おおくて、 なにが いいたいか わからないのが せいのれきしの とくちょう かな? こうぎろくも そんなきがする。
じことうぎょが じゅうよう だった のに、 ことなる ものが でてくる。
げんざい しはいてきな せくしゅありてぃの ありかたが ふへんではない。
げんだいとの ちがいを きょうちょうする のに、 こまかく かいている。たとえば、 どうせいあい という くくりではなく、 しぜんに はんする おんなどうしの かんけいと、 きはんに のっとる おとこどうしの かんけい という はいれつ。
ひつぜんてき はってん では なく、 ぐうぜん かさなりあって できる という ことが ふーこーの れきしかん。
そのときに、 その せいどが できる りゆうと、 それが のこる りゆうが ことなる ことを しめすのに、 せいどが できる りゆうを こまかく かいておく ことが ひつよう。
よくぼうする しゅたいとの かんけいは どうなっているのか?

にかんは よくぼう では なく せっせい という はなし。
そうどうに おいて、 なにかに したがう とき、 じぶんが こう である という りかいが むすびつく という はなしが あった きがする。
にている けど へんかしている(きびしくなっている) という のが ふーこーの けんかい(48)

ばとらーは けんりょくに みっつを みている。 よくあつ、 せいさん、 ぼうきゃく
ふーこーは けんりょくは せいさんを していると する。 その こうかとして よくあつ。 ぼうきゃくに ついては かたらない。