さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

ばでぃうの にーちぇ0-1

ばでぃうの にーちぇ0-1
7-9ぺーじ
せいれき 2021ねん 3がつ 22にち、
かくめいれき 229ねん 7がつ 2にち に かいた。
(Décade I Doudi, Germinal an CCXXIX)
せいれき 2021ねん 3がつ 23にち、24にち(かくめいれき 229ねん 7がつ 3にち、4にち、Décade I Tridi,Quartidi, Germinal an CCXXIX)に あおいろで かきたした。


かくめいれき 229ねん 7がつ 5にち、Décade I Quintidi, Germinal an CCXXIX、(せいれき 2021ねん 3がつ 25にち)に みどりいろで かきたした。

「永遠のユダヤ人は、女が惚れて自分のものにしてしまったら、どうなるのだ。それは簡単なこと、そのときにユダヤ人は永遠ではなくなるのさ。結婚し、われわれとは関係がなくなるのだ。・・・現実的な言い方をすれば、女は芸術家や天才(永遠のユダヤ人とは彼らのことなのだ)にとって危険なのだ。惚れる女は、ユダヤ人をだめにする。」(ニーチェワーグナーの場合』、Der Fall Wagner, in Nietzsche: Werke in drei Bänden, München 1966 (Schlechta-Ausgabe), Bd. 2, S. 909(筆者〔かまた〕訳)) ここでニーチェが「天才芸術家」ワーグナーと永遠のユダヤ人を同一視していることは明らかである。永遠のユダヤ人とは、まさに自由へと呪われ、故郷の大地を失い、文化的根無し草として伝統的共同体に背を向け、一八四八年のドレスデン蜂起に加わった革命家ワーグナーの別名といってよい。
鎌田康男(かまた・やすお) 「パルジファル ― 近代市民社会の中でのミットライト」」『ショーペンハウアー研究』第 5 号(2000 年 11 月 15 日)57-76 ページ。ぴーでぃーえふ、http://www.schopenhauer.org/organ/lib/kamata_yasuo/mitleid.pdf

ほんとうか?

0

Alain Badiou
Le Séminaire
NIETZSCHE
L’antiphilosophie 1
1992‑1993
Texte établi par Véronique Pineau
Ouvertures
Fayard

あらん・ばでぃう
こうぎ(講義)
にーちぇ
はん・てつがく 1
せいれき 1992ねん から 1923ねん
べろにっく・ぴのー こうてい(校訂)
うべふちゃー(じょきょく)
ふぁいやー

À propos du séminaire de 1992‑1993
consacré à Nietzsche

にーちぇに ついての せいれき 1992ねん から 1993ねんの こうぎ(講義)に かんして。

1

1.1

Nombre de mes séminaires s’inscrivent dans la préparation d’un livre où se dépose, de façon systématique, l’état de développement de ma philosophie.

わたしの こうぎの おおくは、 じぶんの てつがくの しんてんじょうきょうが たいけいてきに つりつもった、 いっさつの ほんの したしらべに ふくまれています。

se déposer: ちんでんする、 ほこりなどが つもる
préparation: したしらべ、よしゅう、じゅんび、ようい
s'inscrire:とうろくする、ふくまれる、いちする、きざみこまれる

1.2

C’est ainsi que les séminaires des années 1975 à 1980 sont en quelque sorte totalisés et stylisés dans Théorie du sujet, publié en 1982.

こうして、 せいれき 1975ねん から 1980ねんの こうぎが いわば、 ひとつに まとめられ、ぶんしょうに された 『しゅたいの りろん』*1を、 せいれき 1982ねんに しゅっぱんされました。

totaliser : A. − Rassembler en un total, faire la somme.
styliser: 3. Domaine littér., moral.Imprimer la marque particulière d'un écrivain, d'une forme de pensée, etc.

1.3

Il est également évident que les séminaires situés entre 1983 et 1987 cumulent des références classiques, tant philosophiques (Parménide, Platon, Aristote, Descartes, Spinoza, Leibniz, Kant, Hegel, Heidegger) que poétiques (Hölderlin, Mandelstam, Pessoa, Celan), ainsi que des constructions conceptuelles (les quatre conditions de la philosophie, le multiple-­sans-­un, l’événement, le générique…), qui seront architecturées dans L’être et l’événement, publié en 1988.

また あきらかに せいれき 1983ねん から 1987ねん までの あいだの こうぎは、こてんてきな ことに ふれる ことを つみかさねてきました。てつがくに ついても ふれてきました(ぱるめにです、ぷらとん、ありすとてれす、でかると、すぴのざ、らいぷにっつ、かんと、へーげる、はいでっがー)。ぽえむの しに ついても ふれてきました(へるだーりん、まんだりしゅたーむ(Mandelstam)*2, ぺそあ(Pessoa)*3, つぇらん(Celan)*4)。がいねんてきな こうちく(てつがくと、 できごとと、いちなきた(一なき多)と、るい・せいせい(類生成)てきな ものの よっつの じょうけん…)を つみかさねました。それらを きっちりと くみたてて、 『そんざいと できごと』*5を せいれき 1988ねんに しゅっぱん しました。

cumuler: るいせきする、せきさんする。かじゅうする
tant... que...: も…も、と どうように

1.4

Logiques des mondes (2005), outre une longue et solide préparation mathématique concernant la théorie des catégories, s’est nourri de l’importante révision de ma théorie du sujet dans le séminaire de 1996‑1998, puis des séminaires du début des années 2000, moins historiques, plus déployés dans le contemporain, comme Images du temps présent (2001‑2004) et S’orienter dans la pensée, s’orienter dans l’existence (2004‑2007).

『せかいの ろんりがく』*6(せいれき 2005ねん)は、かてごりーの りろんに ついての ながくて ないようの つまった、すうがくてきな じゅんびに くわえて、 せいれき 1996ねん から 1998ねんの こうぎに おける、 じぶんの しゅたいの りろんの だいじな しゅうせいと、 そして、2000ねんの はじめの こうぎに しゅうちゅうしました。この こうぎは、あまり れきしてき ではなく、げんだいに ついて いままで よりも くりひろげました。『げんざい という ときの いめーじ』*7(せいれき 2001ねん から 2004ねん)と、 『かんがえる ことに おいて すすむ、 ある という ことに おいて すすむ』*8(せいれき 2004ねん から 2007ねん)も どうよう(同様)です。

se nourrir de:にふける
l’importante révisionは なぜ la révision importante ではない のか?
développer : くわしく かいせつする、 ふえん する
se développer : ひろがる
le contemporain

B.− Subst. masc. sing. avec valeur de neutre, littér. L'époque contemporaine :
8. Un de ces normaliens émancipés (...) dont la solide culture forme un acquis, un passé, qu'ils respectent mais qui ne les intéresse plus bien profondément, et par dessus lequel ils sont impatients de sauter pour entrer dans le contemporain. Thibaudet, Hist. de la litt. fr. de 1789 à nos jours,1936, p. 460.
https://www.cnrtl.fr/definition/contemporain

s'orienter: ほうこうを さだめる、 ある ほうこうに すすむ、みちすじを みつける

2

2.1

Bien qu’il se soit finalement inscrit dans une série, de 1992 à 1996, bâtie autour du motif – plus ancien – de l’antiphilosophie, et qui enveloppe finalement Lacan, Wittgenstein et saint Paul, le séminaire sur Nietzsche, ici restitué dans son étrange labyrinthe par le travail acharné de Véronique Pineau, résulte de ce qu’on peut appeler une décision pure, dont le résultat ne s’est pas inscrit dans les grandes scansions livresques de mon entreprise. Il est même resté à part de ses compagnons, les antiphilosophes modernes et antiques.

にーちぇに ついての こうぎは、さいごには、 はん・てつがく という(いままで より ふるい) わだいに ついて つくられた せいれき 1992ねん から 1996ねん までの しりーずの なかに ふくまれていて、らかん、うぃとげんしゅたいん、せい・ぱうろ*9を さいごには ふくんでいます。それ にも かかわらず、この にーちぇに ついての こうぎを、 べろにっく・ぴのーが ねっしんに はたらいてくれて、 ここでは へんに いりくんだものの なかに いちづけなおしました。この こうぎは、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃく(décision pure)と よべる ものの けっか です。そして、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃくの けっかは、 わたしの とりくみを ほんの うえ だけで おおきく くぎって はっきり させた ものには ふくまれていません。にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。

bien que :にもかかわらず。せつぞくほうが つかわれる。
finalement :さいごに
motif: II.− ARTS. Sujet qui domine une œuvre d'art, un ouvrage.
autour de : について、にかんして
bâtie: たてられた、かたちづくられた
envelopper : ふくむ
le labyrinthe :めいろ、めいきゅう、いりこんだもの、さくそうさしたもの

acharné : はげしい、しつような、s'acharner àに ねっちゅうする、 むちゅうになる

”Qui manifeste une ardeur opiniâtre : Travail, combat acharné.”
https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/acharn%C3%A9/664

(ardeur : ねつい、はげしさ
opiniâtre : ねづよい、しつこい、たゆみない)


livresques :ほんの うえ だけの、 きじょう(机上)の
entreprise : けいかく、くわだて、(とりくみ)

A.−
1. Action d'entreprendre quelque chose; ce que quelqu'un entreprend.
https://www.cnrtl.fr/definition/entreprise
B.− Entreprendre + subst. désignant une action ou son résultat ou + de + inf.
1. Mettre à exécution un projet nécessitant de longs efforts, la réunion de moyens, une coordination, etc. Entreprendre des études, des recherches, l'ascension de l'Éverest.
https://www.cnrtl.fr/definition/entreprise

scansion :いんりつ・ぶんせき、いんりつを はっきり させた はつおん、 だんぞくせいげんご、おんせつを くぎって はつおんする げんご しょうがい

じゅんりろんてきな けっちゃく

décision pure
purが うしろに あるので、 まったくの という いみではない。 じゅんすいな、 じゅん(純)りろんてきな という いみが ある。
décisionは けってい だと おもっていたが、 むしろ けっちゃく、 かいけつ のほうが いいだろう。
ただし、 らかんに おいて、 けっていは いちべつ、りかい、けつだん という ろんりてき だんかい として もんだいに される。『エクリ』「論理的時間と予期される確実性の断言」に かいてある。 じぶんが よまずに、 ロバート・サミュエルズ『哲学による精神分析入門』から まとめる。 いちべつの ときには、 じぶんの ほかに じぶん みたいな ほかのものが いると わかるが、 じぶんが なにものかは わからない。 りかいの ときには、ほかのものも じぶんと おなじで、 それぞれに とっての じぶんが なにものなのかは わからないと わかる。 そして、 けつだんの ときには、 じぶんが なにものかは わからないが、 とりあえず なにか であると きめて はなしを はじめる ことに なる。
せいしんぶんせきの ぶんみゃく ではなく、 せいじの ぶんみゃくの ことば かもしれない。 わからない。 要調査。

とりくみの きじょうで おおきく わける こと

les grandes scansions livresques de mon entreprise
「おおきく」とgrandeを やくしたが、 「おおざっぱな」という いみが ある のだろうか?
または、 「いだいな」 という いみも あるの だろうか?
acharnéと grandを くらべている だろうか?

すかんしおん

scansion :いんりつ・ぶんせき、いんりつを はっきり させた はつおん、 だんぞくせいげんご、おんせつを くぎって はつおんする げんご しょうがい
しかし、 ここでは、らかんの scander, scandation、 らかんは せいしんぶんせきかの ぶるーす・ふぃんくに よれば、 punctuation、くとうほう(句読法)を かんがえている だろう。らかんに よれば、 せいしんぶんせきの せあんす という なまえの いっかいの かいわを みじかい じかんで やめたり、 ながい じかん まで つづける ことが すかんしおん、ぱんくちゅあしおん、くとうほう である。らかんに よれば、せいしんぶんせきの ちりょうを おなじ じかんで くぎらずに、かんじゃ、くらいあんと、ぶんせきしゅたいの はなしから くぎる べき ときに くぎる べき である。 「らかんてき・たんじかん・せっしょん」と よばれるが、 らかんは・せいしんぶんせきでは 「へんじかん(変時間)・せっしょん」と よばれる(らかんも そういっていたかは かくにんしていない)。ただし、 だいじなことは、 この へんじかん せっしょんは しんけいしょうしゃには とても うまく いくが、 せいしんびょうしゃに つかうと とても まずい ので ちゅういが ひつよう である。
ここでは、 くぎる ことで、 はっきり させる という いみだと おもう。

"Tout au contraire l’art de l’analyste doit être de suspendre les certitudes du sujet, jusqu’à ce que s’en consument les derniers mirages. Et c’est dans le discours que doit se scander leur résolution."
FONCTION ET CHAMP DE LA PAROLE ET DU LANGAGE EN PSYCHANALYSE
par Jacques LACAN
http://aejcpp.free.fr/lacan/1953-09-26b.htm
「分析家の技術[art]はこれとはまったく反対に、主体の幻影が最後まで使い尽くされるまで、主体の確信を失効[suspendre]させるようにしなければならないのです。主体の幻影の解消[resolution]がスカンシオンされる[scander]のは、ディスクールにおいてです。」
http://psychanalyse.hatenablog.com/entry/20041123/p1

「このように、巧みな句読法[ponctuation]こそが主体のディスクールに意味を与えるものなのです。なぜセッションの中断が、分析家による介入の価値のすべてを持つスカンシオンの役割を果たすのかという理由がここにあるのです*12。現代の技法は、セッションを純粋に時間で決めて終わらせ、主体のディスクールの大筋=横糸[trame]を度外視しています。〔スカンシオンによる〕分析家の介入は、決断の瞬間を準備するものです。それだからこそ、私たちは〔セッションの〕終結を習慣的な体制から開放して、終結を技法の有用な目的すべてにむけて従わせなければならないのです。」
http://psychanalyse.hatenablog.com/entry/20041123/p1

scansion

C. − Au fig. Toute expression (de la pensée, des sentiments, etc.) où les temps forts sont régulièrement et fortement marqués.
https://www.cnrtl.fr/definition/scansions

けっか

「この こうぎの けっかは、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃく(décision pure)と よべる もの です。そして、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃくの けっかは、 わたしの とりくみを ほんの うえ だけで おおきく くぎって はっきり させた ものには ふくまれていません。」
けっか(résultat)は、 かいとう(解答)、こたえ という いみが ある。

のまま???

Il est même resté à part de ses compagnons, les antiphilosophes modernes et antiques.
「その こうぎの なかま、 つまり それらの げんだいと こだいの はん・てつがくは、 べつの ままで さえ ありました。」と やくしていた。 まちがい。
Ilは にーちぇ だし、 ふぃろぞふぃー ではなく、 ふぃろぞふ、 つまり てつがくしゃ である。
さらに、 moderneは antique、こだいと くべつするなら、 きんだい(temps modernes きんせい(近世)、「古代の対立概念で、中世を含むこともあるが、特にルネサンス期以後」 らしい)と やくした ほうが いいきがする。
「にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。」
要調査。
à part deは みらいに ついて 「そのとき から」 という いみである。 そして、 つぎの ぶんの depuisは かこについて 「そのとき から」という いみ である。

2.2

Lacan était depuis fort longtemps omniprésent dans mon œuvre. Wittgenstein, génial à sa façon, mais référence obligée de la triste « philosophie analytique » était pour moi, dans le champ de bataille idéologique contemporain, une cible désignée, à laquelle j’ai fait un sort dans L’Antiphilosophie de Wittgenstein.

らかんは わたしの さくひんの なかに かなり まえ から、いつも あらわれて きました。うぃとげんしゅたいんは、それなりに てんさい でしたが、くだらない 「ぶんせき てつがく」に ついて/が かならず ふれないと いけない という ことは、 わたしに とっては、 その ときの/げんだいの いでおろぎー てきな たたかいの ばに おいて、 ねらった たーげっと でした。『うぃとげんしゅたいんの はんてつがく』で その たーげっとを こんぜつ しました。

omniprésenter
omniprésent: へんざいの(偏在の)
génial : てんさいてきな、 すばらしい
à sa façon :じぶんの やりかた で、 じぶんの このみ で、 じぶんなりに、 それなりに
obligé/e

A. − Qui est imposé par les circonstances, les faits, dont la fonction semble nécessaire, d'usage.
1. [En parlant d'une chose]
− Qu'il paraît nécessaire de faire, à quoi l'on ne peut échapper, dont on ne peut se dispenser.
〔いんようしゃ ちゅう: りゃく〕
− Qui est prévisible et semble inévitable.

obliger :ぎむを おわせる、 を しいる(強いる)、きょうせいする
contemporain: その ときの/げんだいの
moderne/ antique と べつの かんがえかた として いれている ならば、 「その ときの」 という いみであり、 つなげて かんがえている なら、 「げんだいの」 という いみ である。わからない。要調査。


référence de は …が ふれる こと、 …に ふれる ことの ふたつの いみが ある。 「 「ぶんせき てつがく」に ついて/が かならず ふれ」もんだい。 わからない。 要調査。
tristは めいしの まえで、 「くだらない」、「なさけない」、「なげかわしい」 という いみに なる。
le champ de bataille: せんじょう(戦場)
cible: もくひょう、たーげっと、ひょうてき
désiger A à B : Aを Bの まとにする。
faire un sort à : きょうちょうする、ひろめる、こんぜつする、かたをつける、たべる、 のむ

depuis fort longtemps

depuis longtemps は ながい まえ から という いみ である。

c) Loc. adv. cour.
♦ Depuis longtemps. Cela fait un long temps.

Voilà le plus joli Courbet que j'aie vu depuis longtemps (Duhamel, Nuit St-Jean,1935, p. 25).
Un cimetière depuis longtemps abandonné (Gracq, Argol,1938, p. 48):

11. À ce moment même, Joseph surgit sur le trottoir de la rue d'Amsterdam, juste à côté de Laurent. − Tu m'attendais depuis longtemps? fit-il. − Non, répondit Laurent, j'arrive à l'instant même. Duhamel, Chronique des Pasquier,Le Combat contre les ombres, 1939, p. 27.

Depuis si longtemps.
Tiens! Voilà notre gros fer à repasser que nous réclamons depuis si longtemps! (Bernanos, Dialog. Carm.,1948, 2etabl., 6, p. 1591).

しかし、 depuis fort longtemps という ことばは じしょに ない。
さらに、 fortと longtempsを つなげる ことも じしょに みつからない。temps fortは、 おんがくの きょうはく(強拍)である。
しかし、 depuis fort longtempsは いろいろな れいぶんを みつけられた。かせんを さいとーが つけくわえた。

https://www.linguee.fr/francais-anglais/traduction/depuis+fort+longtemps.html
Elle va garantir une certitude juridique et un statut positif au niveau européen aux coopératives, chose dont nous discutons depuis fort longtemps. europarl.europa.eu

It is going to give legal certainty and positive status at European level to cooperatives, something for which we have argued for a long time.
europarl.europa.eu


Cette mesure sur les ponts et tunnels internationaux était attendue depuis fort longtemps et elle s'impose. www2.parl.gc.ca

The international bridges and tunnels act has been long overdue and is necessary.
www2.parl.gc.ca


Depuis fort longtemps, il se dégage un consensus autour de ce fait.
www2.parl.gc.ca

There has been consensus on that for some time now. 〔いんようしゃ ちゅう: しばらく という いみ である。〕
www2.parl.gc.ca


C'était comme si tout le monde se connaissait depuis fort longtemps.
curia.op.org

It was as if we knew each other for ages.
curia.op.org


[...] de profiter de l'élan suscité pour sortir la Conférence de l'impasse dans laquelle elle se trouve depuis fort longtemps.
daccess-ods.un.org

[...] common ground to build upon the momentum created to move the Conference on Disarmament out of its long-standing stalemate. 〔いんようしゃ ちゅう: ながねんに わたる という いみ である。〕
daccess-ods.un.org


Toutes les législations nationales acceptent depuis fort longtemps la réparation du préjudice moral, tant pour la victime [...]
concernedhistorians.org

All national legislations have long accepted compensation for moral injury, both for the direct victim and for his heirs.
concernedhistorians.org

あまり fortを もんだいに しなくて いい ようだ。
にちふつ じしょにも、 fortは かずが おおい ことを あらわす とも かいていあるし、 かずの ひょうげんは かなり かんたんに はいってくる から、「かなり」と やくした。

2.3

Quant à saint Paul, je lui ai consacré en 1998 un livre, Saint Paul, la fondation de l’universalisme, qui a fait le tour du monde, et je l’avais déjà implicitement convoqué, dès 1989, dans ma tragédie L’Incident d’Antioche. Rien de tel pour Nietzsche. Ni préparé, ni relayé, le présent séminaire laisse Nietzsche à part dans mon entreprise.

せい・ぱうろに ついて、はやくも せいれき 1998ねんに いっさつの ほんんを かきました。 せい・ぱうろは ふへんしゅぎを つくった もので あって、 せかいを まわりました。すでに せいれき 1989ねん から わたしが つくった『あんてぃおきあ*10 じけん*11*12という ひげきで それとなく よびだしました。にーちぇに ついては そのような ことは なにも していません。したしらべも せず、 ひきつぎも せず、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけた ままに しておきました☆。

dés: から、 はやくも…に
universalisme: ふへんしゅぎ、 ばんにんきゅうさいろん(万人救済論)、ばんにんきしんろん(万人帰神論)、ふへんごういしゅぎ
convoquer: めいれいして こさせる。
rien de tel:rienに けいようしが つく ときは、 deが あいだに はいる。ちゅうしょうてきな めいしは だいたい そう。quelque chose とか。ここは、 (il n'y a pas)が しょうしゃく されていると かんがえられる。
relayer: しごとなどを ひきつぐ、こうたいする
Ni préparé「したしらべ しないで」は なにも していない という いみに とられる かもしれない。 「じゅんび しないで」の ほうが いいかも しれない。しかし、

Nombre de mes séminaires s’inscrivent dans la préparation d’un livre où se dépose, de façon systématique, l’état de développement de ma philosophie.
わたしの こうぎの おおくは、 じぶんの てつがくの しんてんじょうきょうが たいけいてきに つりつもった、 いっさつの ほんの したしらべに ふくまれています
(この ぺーじ、 ばでぃうの にーちぇ0-1)

の 「したしらべ」préparationと たいおうさせるには どうすれば いいか。
Ni préparé, ni relayé という ことばづかいの はいけいが なにか あるかと おもったが、 わからなかった。 なさそう。
présent: (めいしの まえで、) この、いま ものんだいに なっている
à part:はなれて、れいがいてきな、どくじの、べつの、ほかとはなして、わきにのけて、をのぞいて、はべつとして

せいぱうろは ふへんしゅぎか ばんにんきゅうさいしゅぎか

アラン・バディウ 著、長原 豊 訳、松本 潤一郎 訳『聖パウロ、普遍主義の基礎』、せいれき 2004ねん、 河井書房新社
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309243269/
が あるが、 やくは やくが ひどい ながはら・ゆたかだ。 これだけで、 ふへんしゅぎと やくさない ほうが いい きがしてきた。
さいーど『フロイトと非ーヨーロッパ人』は ながはらに しては よい やく だった。
べるさーにの ふろいとてき しんたい、 ほもず(『ホモセクシャリティ』)、『フロイトと非ーヨーロッパ人』の やくしゃかいせつは ひどかった。
らかんは せいしんぶんせきの えいきょうを うけすぎると、 このような わるい ほんやくに なるという かなしい ぐたいれいだ。 いましめに しよう。
けいざいの せんもんか なので、 けいざいを かいた ものは うまいの かもしれない。
しかし、 おそらく、 「ふへんしゅぎ」 で あっている。
なぜなら、 どうやら、 かみが すくうかが もんだいに なっている のでは なく、 ただしい ことと いう いみの、 しんり(真理)が もんだいに なっている からだ。
PHILIPPE CIBOIS(ふぃりっぷ・しぼわ)という れきしかの ぶんしょうを よんでみよう。https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792

Se confronter à Paul après Pascal, Hegel, Nietzsche qui sont ici critiqués, et Lacan qui semble suivi, est un exercice où le lecteur non habituel de Badiou doit se cramponner mais où apparait cependant la thèse que l’universalisme est fondé par la proclamation d’une vérité.
https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792
ぐーぐる やく「ここで批判されているパスカルヘーゲルニーチェ、そして従うように見えるラカンの後にポールと対峙するのは、バディウの慣れない読者がしがみつく必要がある演習ですが、それにもかかわらず、普遍性は真実の宣言によって確立されているという説が現れます。」

しかし、 つぎの ぶぶんは、 「ばんにん・きゅうさい・ろん」に ちかい。 しかし、 ぱうろ いがいにも ふへんしゅぎ という ことばが つかわれているので、 ふへんしゅぎ という いみ だろう。

la logique des repas pris en commun et la dynamique de rapprochement que cela a entrainé ont fait prendre conscience à Paul que le salut chrétien était universel et que l’ancienne opposition entre juifs et païens était caduque. Cependant, le fait que ce soit une logique interne, bien attestée historiquement, qui ait conduit Paul à souligner l’universalisme du salut ne peut nous dispenser d’examiner les autres universalismes, celui des juifs, celui du stoïcisme, celui de la politique romaine avec lesquels il était en contact et qui peuvent l’avoir influencé.
https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792
ぐーぐる やく「しかし、それが歴史的に十分に証明された内部論理であり、パウロが救いの普遍主義を強調するようになったという事実は、他の普遍主義、ユダヤ人の普遍主義、ストア派の普遍主義、ローマの政治の普遍主義を検討することから私たちを解放することはできません。連絡を取り合っていて、誰が彼に影響を与えたのかもしれません。」

https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792
おそらく、ばでぃうの ぎろんは、 きりすときょうに かいしん(回心) する という できごとを きっかけに、 きりすときょうの ふきょう という せいじを とおして、 きりすとの ふっかつ という しんり(真理)を つくりだす という ように せいり できると おもう。わからないが。

「28:ガラテヤの信徒への手紙/ 03章 28節
ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」
聖書協会共同訳
https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

ちなみに ばでぃうに とって しんりは、 よっつの ぷろせすから つくられる もの である。 すうがく、せいじ、ぽえむ、あいが よっつの ぷろせす である。

implicitement convoqué

Au-delà des techniques employées, quel(s) modèle(s) de structuration de l’action et de l’organisation est/sont incorporé(s) et implicitement convoqué(s) dans les discours des professionnels ?
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-01150593

Ni préparé, ni relayé... laisse Nietzsche à part dans mon entreprise

「したしらべも しない ままに、 ひきつぎも しない ままに、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけて、 そのような ままに しておきました。」
じしんがない、わからない。 要調査。
laisse Nietzsche Ni préparé, ni relayé を きほんに、 にーちぇを かこぶんしの ままに しておく という いみで かいしゃくした。
à partは、 にーちぇに かかって、 ほかと にーちぇを はなして という いみと かんがえた。
dans mon entrepriseも にーちぇに かかる ように やくしたが、 もしかしたら、 とりくみを していく なかで、 という ほうこうに やくした ほうが いいかもしれない。

べつの よみかた としては、
「したしらべも せず、 ひきつぎも せず、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけた ままに しておきました。」
Ni préparé, ni relayéは この こうぎを せつめいする ことばと かんがえる。
à partは そのまえの、
Il est même resté à part de ses compagnons, les antiphilosophes modernes et antiques.
「にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。」
の à part de ses compagnonsと おなじと よんだ。
こっちの ほうが よさそう。

3

3.1

Mais n’est-­ce pas son destin, en vérité ? Plus je l’étudiais en vue du séminaire, plus je devenais familier non seulement de ses écrits, mais de sa vie, et plus encore peut-­être de la forme subjective qu’il ne cessait de requérir et de lui-­même et de ses lecteurs, plus je voyais la sorte de sainteté, d’absolue solitude, de désert social, dans lequel, progressivement, il s’est enfoncé.

しかし、 じっさいに それが にーちぇの うんめい*13 では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの いきかたに なれてきました。 そして、おそらく さらに より、にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたちの しゅかんてき・けいしきに なれてきました。その しゅかんてき・けいしきを にーちぇは もとめ つづけました。しんせい(神聖)さの めぐりあわせ〔la sorte(しゅるい、なまの じょうたい)を le sortの ごしょくと かんがえた〕を みれば みる ほど、 ぜったいてきな こどく、 ひとづきあいの きょむに なれていきました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。

destin: うんめい、しゅくめい、ぜんと、いきすえ、しょうらい、しょうがい、じゅみょう
en vérité: ほんとうに、じっさいに (だんげんの きょうちょう)
en vue de: のために
ne cesse de:つづける (「せずには いられなかった」ではない。)
familier:なじんだ、したしい、なじみの、なれた、せいつう(精通)した、しゅうじゅくした
plus encore:encore plusと おなじ いみに なる ようだ。 さらに より。
subjectif: しゅかんてきな、 こじんてきな
requérir: つよく ようきゅうする、ようせいする、せいきゅうする、きゅうけいする、ちょうようする、とくべつに どういんする、こんがんする
de soi-même: じぶんのいしで、 ひとりでに
la sorte :しゅるい、ぶるい、しかた、ほうほう、みせいせい(未精製)のくすり、なまのじょうたいのくすり (une sorte deは いっしゅの、 のようなもの という いみだが、 ていかんし である。)
sainteté: しんせいさ、 せいせい(聖性)
le dsert: さばく、なにもないばところ、せいしんてき・こどく、きょむ、ひとざとはなれたばしょ
s’enfoncer dans : にとじこもる、にぼっとうする、にふける

うんめいは ちから

A.− Puissance extérieure à la volonté humaine, qui, selon certaines croyances, régirait l'univers, en fixant de façon irrévocable le cours des événements.
https://www.cnrtl.fr/definition/destin
さいとう やく(にんげんの いし(意志)の そとの ちからで、 いくつかの しんこうに よれば、 しんらばんしょうを みちびき、 できごとの ながれを さいしゅうてきに さだめる もの。)

へーげるも せいしんげんしょうがくで、 うんめいは ちからMachtだ!と いっていて、 どうしてだろうと おもっていた。

しゅうじぎもんぶん だろうか?

Mais n’est-­ce pas son destin, en vérité ?
しかし、 じっさいに それが にーちぇの しゅくめい では ない でしょうか?
いわゆる しゅうじ ぎもんぶん だろうか?
つまり、 ぎもんの ように みえて、はんごに よって 「いや、 そうではないのだ」と いいたいの だろうか?
おそらく そうだ。 にーちぇは しんだ あとに ひょうか されるが、 しぬ まえは かなり ひょうか されていなかった。 「ひげきの たんじょう」を かくまでは てんさいと かんがえられていた のに、 かなり きばつな せつを だした せいで、 どんどん ぼつらく していく。
ちなみに ばとらーが なんこも ぎもんぶんを だす ときは、 ほとんど しゅうじぎもんぶん ではない。

したしみを かんじるのか、 なれた のか、 なじんだ のか

familierは avecを ともなう から、 deを ともなわないと おもっていた けど、 deも ともなう らしい。

b) Valeur active. [En parlant d'une pers.; avec compl. prép. avec, parfois de]
− Qui a l'habitude de (quelque chose), qui connaît bien (une chose), car elle s'impose souvent (à la personne). Il joue, dès l'enfance, entre les genoux de Cybèle, il est déjà familier de ses taillis et de ses sources, de ses nuages et de ses brumes (Mauriac, Journal 3,1940, p. 234).
https://www.cnrtl.fr/definition/familier

したしみを おぼえる だと、 なにも しらなくても したしみを おぼえる ことが できるから、 なじむか なれるに かえよう。
なじむ だと しゅうだんに なじむ みたいな いみが つよい きがする から、 なれるに しよう。

じぶん という かたち

forme subjective
かたち、けいしき、けいたい、ひょうげんけいしき、ぶんたい、ひょうげんの しかた、いいまわし
しゅかんてき、こじんてき、しゅかくの、しゅかんの、しゅたいの、じかくてきな(じかくしょうじょう)
なんとおりにも かいしゃく できる。 これは にーちぇが どんな かきかたを したか しらないと わからない。 じぶんの きおくでは、 『つぁらつすとらはかくかたりき』は しょうせつ みたいな かきかた だけど、 いちにんしょう しょうせつ では なかったと おもう。 『どうとくの けいふがく』は ろんぶん けいしき だけど、 そんなに じぶんの はなし していた きおくは ない。 『ぜんあくの ひがん』は かくげんを ならべた あふぉりずむ けいしきで、 ことばを ならべていく だけの かんじ だけど、 しゅごや しゅかんに かんけいしたか わからない。

なにが ならんでいるのか?

....
je devenais familier non seulement de ses écrits,
je devenais familier mais de sa vie,
et


plus encore je devenais familier peut-­être de la forme subjective qu’il ne cessait de requérir
et
plus encore je devenais familier peut-­être de lui-­même
et
plus encore je devenais familier peut-­être de ses lecteurs,

plus
je voyais la sorte de sainteté...
という こうぞうで いいのか?
とくに、 しゅかんてき けいしき、 にーちぇ じしん、 どくしゃ という ものを ならべて いいのか?
de soi-même: じぶんのいしで、 ひとりでに

べつの あんが でてきた。
まず、 だいいちの あんごう。

Du plus général au plus particulier → <1> , <2>, 【+ + +】, ( )


[ [ Plus je l’étudiais en vue du séminaire,] <2> [ plus je devenais familier → 【 non seulement de ses écrits, + mais de sa vie, + et plus encore peut-­être de la forme subjective qu’il ne cessait de requérir et de lui-­même et de ses lecteurs, 】] ] <1> [ [ plus je voyais la sorte de sainteté,] <2>[d’absolue solitude, ] <2> [de désert social, (dans lequel, progressivement, il s’est enfoncé.) ] ]

それに たいする じぶんの こたえ。

"Plus je l’étudiais en vue du séminaire, plus je devenais familier ..."
└ je devenais familier 【 non seulement de ses écrits, + mais de sa vie, + et (plus encore peut-­être) de la forme subjective...】
└la forme subjective... de lui-­même et de ses lecteurs,
”[ [ plus je voyais la sorte de sainteté,] ( plus je devenais familier)<2>[d’absolue solitude, ] <2> [de désert social, (dans lequel, progressivement, il s’est enfoncé.) ]”

この かいしゃく だと つぎの ように やくす ことが できる。
「しかし、 じっさいに それが にーちぇの しゅくめい では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの いきかたに なれてきました。 そして、おそらく さらに より、にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたちの しゅかんてき・けいしきに なれてきました。その しゅかんてき・けいしきを にーちぇは もとめ つづけました。しんせい(神聖)さの めぐりあわせ〔la sorte(しゅるい、なまの じょうたい)を le sortの ごしょくと かんがえた〕を みれば みる ほど、 ぜったいてきな こどく、 ひとづきあいの きょむに なれていきました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。」

ちなみに、 まえの かいしゃく。
「しかし、 じっさいに それが にーちぇの しゅくめい では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの じんせいに したしみを おぼえる ように なりました。 そして、おそらく さらに より、 にーちぇが もとめ つづけた こじんてきな ありかた☆と にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたち にも☆ したしみを おぼえる ように なれば なる ほど、 しんせいさの しゅるい、 ぜったいてきな こどくの しゅるい、 ひとづきあいの きょむの しゅるい☆が わかりました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。」

しゅるいは みれるのか?→ うんめいや きょうぐうの le sortでは?

je voyais la sorte de sainteté
わからない。 要調査。
la sorte de なんて かたちが じしょで みつからない。
れいぶんは みつかった。 いっしゅの という いみで つかっている。

One should have seen the kind of happiness and fascination this discovery triggered in the little boy.
Il aurait fallu voir la sorte de bonheur et de fascination que cette découverte déclencha en lui.
https://context.reverso.net/translation/english-french/kind+of+happiness

la sorteに やくがくで、なまの じょうたい、みせいせい(未精製)と あった。 benjoin en sorte 「未精製の安息香」(「安息香はツツジエゴノキエゴノキ属のアンソクコウノキ 、またはその他同属植物が産出する樹脂(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%81%AF%E9%A6%99)」)だと。しかし、TLFiにないのは なぜ?
うんめいや きょうぐうの le sortでは?ありうる。

しゃかいの さばく

ひとづきあいの きょむ
socialは しゃかいてき という いみ だけでなく、 しゃこうの、ひとづきあいの という いみが ある。
にーちぇは ばんねん、 いもうと ぐらい としか れんらくを とりあってなかった という はなしを きいた ことが ある。という のは まちがえ だった。にーちぇは いもうとと けんかわかれ していた。 そして、 はっきょうした あとも てがみを おくれる あいてが ふたりは いた ようだ。 それを こどくと いうのか わからない。
しゃかいの さばく では、 いみが わからない ので、 ひとづきあいの きょむと やくした。

3.2

Plus je comprenais qu’entre cet égaré de Turin, heureux et même illuminé quand la marchande des quatre-saisons lui offre ses meilleurs produits, et le destin tapageur de son œuvre, après sa chute, son silence et sa mort, destin fait de référence à la puissance de la Vie, aux races conquérantes, à l’irrationalisme, à la royauté de l’esthétique, au surhomme conçu comme l’athlète blond de la foire historique, oui, entre les deux, il y avait de toute évidence un énorme malentendu.

そう すれば する ほど、わかったのは、 とりの*14さくらんした この ものと、
にーちぇの ぼつらくの あと、 ちんもくの あと、しんだ あとの にーちぇの すべての さくひんの うんめいとの あいだの こと です。にーちぇは、 〔ておしぐるまで やさいや くだものを うる〕ぎょうしょうにん から、 いちばんの うれすじの しょうひんを うけとった ときに、しあわせで いなずまを うけました〔illuminéは 「ひかりで てらされた」、「てんけい(天啓)を うけた」、 「さくらんした」 という いみだが、 にーちぇは この ときの ことを 「いなずまを うけた」*15と ひょうげんしている。 〕。 これらの さくひんの うんめいは、 〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕の ちから*16の、せいふくする もの としての しゅぞく*17の、 ひごうりしゅぎ*18の、うつくしさの ぜったいてきな ゆうい*19の、きんいろ*20として かんがえられた ちょうじん(超人)*21の こんきょに されています。はい、 その とおり です、 これらの ふたつの あいだには、くいちがい が ありました。

ぐーぐる ほんやく

トリノからのこの失われた男の間で、四季の商人が彼に彼女の最高の製品を提供するとき、幸せで、さらには悟りを開いた、そして彼の仕事の乱暴な運命、彼の堕落、彼の沈黙と彼の死の後、運命は言及することを私は理解しました生命の力、征服する人種、非合理主義、美学の王族、歴史的見本市の金髪アスリートとして考えられたスーパーマン、そうです、両者の間には明らかに大きな誤解がありました。

égaré: さくらんした、くるった、まどわされた、みちにまよった(ふつうは けいようし だが、 égaréである もの という いみの めいしでも つかえる。)
illuminé:きょうしん(狂信)てきな、てんけい(天啓)を うけた
marchand des quatre-saisons :にぐるまで ひきうりを する やおや(八百屋)
le produit: せいさんぶつ、さんぶつ、せいひん
tapageur: そうぞうしい、さわぎたてる、ひとめをひく、ぶつぎをかもす、けばけばしい
une œuvre: げいじゅつかの ぜんさくひん、un œuvre: さくひん、ぎょうせき…
chute: しっつい、がかい、さくひんや こうえんの しっぱい、 さくひんや こうえんの ふせいこう、だらく、てんらく、かご(過誤)

fairt de reférence à わからない、 要調査。したに かいた。
la race: じんしゅ、みんぞく、(race aryenne あーりあじんしゅ)、 いちもん、いちぞく、かけい、どうぞくのもの、しゅぞく、なかま、れんちゅう
conquérant: せいふく(征服)する、 じしんたっぷりの、かちほこった、ひとのこころを うばう
la royauté: おうざ、おうい、おうけん、おうせい、ぜったいてきなちから、ゆうい
l’esthétique: うつくしさ、うつくしいもの
l’athlète: うんどうせんしゅ、りくじょうきょうぎしゃ、がっしりした たいかくの ひと、 くんこつ たくましい ひと、 (こだいの) とうぎしゃ(闘技者)
la foire: おおきな いち、 ていきいち、 みほんいち、てんじかい、えんにち、おまつり、おまつりさわぎ、おまつりさわぎの ばしょ、おおさわぎ、だいこんらん
historique : れきしてきな、れきしがくの、れきしじょうの、じつざいの、れきしにもとづく、れきしにのこる、れきしじょうじゅうような
de toute évidence: あきらかに
le malentendu: ごかい、かんじょうなどの くいちがい

しきの しょうにん

marchand des quatre-saisons :にぐるまで ひきうりを する やおや

e) Marchand(e) des quatre-saisons. Marchand ambulant vendant des fruits et légumes dans une petite voiture à bras:
https://www.cnrtl.fr/definition/marchand
さいとう やく(ておしぐるまの なかの かじつと やさいを うる うごきまわる ぎょうしょうにん)

さわぎを おこす うんめい

tapageur: そうぞうしい、さわぎたてる、ひとめをひく、ぶつぎをかもす、けばけばしい

1. Qui provoque du tapage, du scandale, suscite des commentaires.
(…)
2. Qui se fait remarquer, par une certaine outrance, l'étalage d'un luxe de mauvais goût, des couleurs ou des tons très contrastés ou criards.
https://www.cnrtl.fr/definition/tapageur

le tapage: さわぎ、そうおん、ぶつぎ、けばけばしさ、どぎつさ

Isabelle Spaak est partie à la recherche du destin tapageur de sa grand-mère et du couple fusionnel et tourmenté qu’elle formait avec sa fille, Annie.
https://www.lemonde.fr/livres/article/2016/04/14/un-thriller-crepusculaire-un-recit-sur-mesure-un-essai-sur-l-argent-la-selection-du-monde-des-livres_4901634_3260.html
さいとう やく「いざべる・すぱーくは、おばあちゃんの ぶつぎを かわす ような うんめいと、むすめの あにーと むすんだ きんみつで へんかの おおい ふたりぐみ という かんけいを もとめて いきました。」

れきしてきな まつりの きんぱつの とうぎしゃ

l’athlète blond de la foire historique

へ げんきゅうする という じじつ?

fait de référence à
faire A de B「: BをAにする」の かこぶんしで、 destinに かかっている。
faitは じじつ という いみの めいしも あるが、めいしの fait de référence という かたちは みつからなかった。

référenceは やっかいな ことばだ。

I.
A. − Action de (se) référer à quelqu'un, à quelque chose. 〔だれかや なにかを さんしょうする こと、てんきょとする こと、しらべる こと、さししめすこと、かんけいすること〕〔りゃく〕
B. −
1. Action de (se) référer à quelqu'un; p. méton., ce à quoi on (se) réfère. 〔だれに いけんを もとめる こと、 だれかの いけんに したがう こと。ひゆてき・ひょうげん: いけんを きいた あいて〕〔りゃく〕
Au plur. Renseignements, témoignages donnés par quelqu'un sur une personne à la recherche d'un emploi, d'un logement ou souhaitant entrer en affaires, et qui attestent son comportement, ses qualités et représentent une garantie morale pour ceux auxquels elle se présente.〔ふくすう。 しごとや すまいを さがしている ひと、 に ついて、 だれか から おしえられた じょうほう、 しょうげん(証言)。 それらの じょうほうに よって その ひとの ふるまいや ちょうしょを かくにんし、それらの じょうほうが、 もうしこむ あいての せいしんてきな ほしょうを あらわす 。〕〔りゃく〕
− Souvent au plur. Réalisations d'une entreprise, propriétés, mérites déclarés d'un produit qui attestent ses qualités. (Dict. xixeet xxes.).〔ふくすう である ことが おおい。しつを かくにんする しょうひんの しんせいする てがら、 きぎょう、 しょゆうぶつの せいか(成果) (19せいきと 20せいきの じしょ)〕〔りゃく〕
Au fig., fam., au sing. Raison, fait, motif permettant de conclure à la valeur, aux qualités de quelqu'un. 〔ひゆてきで くだけた ひょうげんで、 たんすう。だれかの しかくや かちへの けつろんに みちびく ことが できる ような りゆう、じじつ、どうき〕〔りゃく〕
− De référence. Auquel on (se) réfère. 〔さんこうの。 さんこうに される もの。〕
〔りゃく〕
− Domaine des sc. Éléments, points que l'on a choisis ou déterminés au préalable comme cadre pour situer et résoudre un problème. 〔かがくの りょういき。もんだいを いちづけて、 かいけつ する ための わくぐみ としての ぜんてい・じょうけんに おいて えらばれるか きめる ようそ、 てん〕
〔りゃく〕
2. Souvent au plur. Indications précises permettant de retrouver la source (auteur, texte, passage) que l'on cite ou dont on s'inspire, et où l'on peut trouver un complément d'information. 〔ふくすう である ことが おおい。 いんようしたり、したり する じょうほうげん(ちょしゃ、ほんぶん、いっせつ)を しる ことが できる ように する はっきりと した しじ(指示)。〕
〔りゃく〕
II. − LING. ,,Fonction par laquelle un signe linguistique renvoie à un objet du monde extra-linguistique, réel ou imaginaire`` (Ling. 1972). 〔げんごがく。げんごてき きごうが げんごがいてきな 、げんじつてきな、 そうぞうてきな せかいの たいしょうに さしむける きのう。 〕


Au fig., fam., au sing. Raison, fait, motif permettant de conclure à la valeur, aux qualités de quelqu'un. 〔ひゆてきで くだけた ひょうげんで、 たんすう。だれかの しかくや かちへの けつろんに みちびく ことが できる ような りゆう、じじつ、どうき〕
これっぽい。

いなずま・せいしん・ちょうじん

圓増治之(1989)「ニーチェに於ける生のメタファとしての『舞踏』」(https://nagano.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=680&item_no=1&page_id=13&block_id=17))26ぺーじ。

ツァラツス トラは斯く語りき』の第三部 『幻影と謎について 』に於いて、登高の道を歩み続けるツァラツス トラが、彼の上に乗っか りその足を萎えさせ絶えず彼を下方-と引き戻そ うとしてきた 「重力の精」を相手に、 永劫回帰」の思想を語るところがある。 ツァラツストラの肩から跳びおりた 「重力の精」に対して、ツァラツス トラ、日く、
「この くぐり門(Torweg)を見 よ!侠儒 よ!この くぐり門は二つの顔をもつ。二つの道はここで出会 う。まだ誰もいない。
これらの道をその果てまで行った者はいない。この後への長い道、それは永遠に通じる。そしてあの向への長い道、これは別の永遠である。
これらは互いに矛盾 し合い、互いに真正面に頭と頭をぶつけ合 う――そして、ここ、このくぐり門でそれらは出合 う。 くぐり門の名は、上に 『瞬間 』と書かれている。
しかし、誰かこの道の一つを先へと進み――どん
どん先へ、どんどん遠くへと進んでいったとしたら 侠儒よ 汝はこれらの道が永遠に矛盾すると信じるか ?」、と。
ところで、 「コリー ・モソチナリー版」では上の"Torweg"とい う語は "Thorweg"となっている。"Thor"といえは古ゲルマンの雷神である。彼はハンマーを武器として、彼がそれを投げると、必ず敵の額をたち割り、またブーメランのように彼の手もとに戻ってきたという。たとえ、クレーナ一版やシュレヒタ一版で使われている"Torweg"でよいとしても、そこにはそれ とホモニマスである"Thorweg"という語が合意するニュアンスを何らかの形でニーチ ェは響かせているように思われるが、如何であろうか。

〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕

〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕は、いのちを こべつの いのち では なく、 いまの ことばで いう なら、 せいたいけい(生態系)の ぜんたいの いのちの ながれの こと である、しかし、 にーちぇに おいて、〔おおもじの〕 せい(生)、いのち〔la Vie〕が どのような ものか わからない。 うんめいが ぜんたい としての いのち という はっそうは、 うんめいとは、 ぜんたいの きまった ながれの こと である から、 よく わかる。

4

4.1

En vérité, avant ma plongée brusquement décidée dans
les textes – singulièrement, j’y reviendrai, les textes de la fin, entre 1887 et 1888 –, j’étais largement sous l’influence de ce malentendu.

じっさいには、 わたしは(とくに、ふたたび とりあげるのは、 せいれき 1887ねん から 1888ねんの あいだの ぶんしょう*22で、 その) ぶんしょう☆に とつぜん ぼっとう(没頭) する ことに なる まえには、だいたい この くいちがいの えいきょうの もとに ありました。

plongée: ふかん、みおろすながめ、かこう、きゅうかこう、あるじょうたいへの ちんせん(沈潜)、ぼっとう (plonger dans ses pensée: ものおもいに しずむ)
brusquement: とつぜん、ふいに
decidé: けっていした、かくていした、けつぜんとした、だんことした、めいかくな、はっきりした
singulièrement: とくに
sous l’influence de: のえいきょうの もとで、のいきおいに かられて
y revenir: revenir sur les textes
texteを ぶんしょうと やくして いいのか?

もどる

y revenir: revenir sur les textes

4. Qqn revient sur qqn/qqc.
〔りゃく〕
b) Qqn revient sur qqc.
〔りゃく〕
− Reprendre, s'entretenir à nouveau (d')un sujet que l'on a momentanément abandonné; en reparler de nouveau.
https://www.cnrtl.fr/definition/revenir
さいとー やく (いちじてきに やめていた わだいを また とりあげる、また はなしあう、 また それに ついて はなす)

ききまちがい?

malentenduは くいちがいか ごかいか。
malしっぱいした entendu りかい。 きく ではない。

A. − Divergence d'interprétation sur la signification de propos ou d'actes entraînant un désaccord.
〔りゃく〕
il y a (un) malentendu (entre deux personnes)
〔りゃく〕
B. − Désaccord entraîné par une telle divergence.
https://www.cnrtl.fr/definition/malentendu
さいとー やく(なかたがいに ひきおこす、 おこないに ついての いみの かいしゃくの たいりつ。
ふたりの あいだに ごかいが ある。
そのような たいりつに よって ひきおこされた なかたがい )

ごかいは ちょっと ちがう きがする。

4.2

Pour moi, qui étais venu de Sartre et qui, via Lacan, le maoïsme militant et les mathématiques, étais passé du côté de la recréation d’une métaphysique contemporaine, Nietzsche, dont j’aimais le style nocturne, la langue à la fois grandiose et secrètement d’une infinie douceur, n’en était pas moins du côté des adversaires, ces antiphilosophes arc-­boutés
sur le motif creux des « formes de vie », ces antiplatoniciens déchaînés.

わたしは、 さるとる から はいって☆、らかんと、 せんとうてき もうたくとうしゅぎ(まおいすむ)と すうがくを つうじて、 げんたいの けいじじょうがくの つくりなおしの がわへ いきました。 にーちぇの よるてきな かきかた、 つまり はてしない あまさ☆の そうだいで ありながら、 どうじに ひそかな☆ ことばづかいは すき です。 そんな わたしに とっては、 にーちぇは それでも なお、 たいりつする もの たちの がわに いました。つまり、「せい(生)の けいしき」 の うつろな☆ どうきで ふんばっている、 あの☆ はん・てつがくしゃ たちの がわに いました。 あの あれくるった はん・ぷらとんしゅぎしゃ☆ たちの がわに いた のです。

venir de:☆
du côté de: のほうへ、のちかくに、のじんえいに、のがわに、にかんしては
nocturne:よるの、やかんの、やこうせいの☆
grandiose: そうだいな、 どうどうたる
secrètement: ひそかに、ないしょに、そっと、ないしんで、こころのなかで
infini/e: むげんの、かぎりない、はえしない
douceur: あまさ、うまみ、かんびさ、かぐわしさ、なめらかさ、おだやかさ、うごきのえんかつさ、ここちよさ、しずかなよろこび、しあわせ、やさしさ、おんわさ、(ふるい ふくすうで、 たまに はんごで つかわれて)あまいことば
n’en … pas moins: それでもなお…だ
arc-­bouté sur :につよく おしつけた、でふんばった (arc-­bouterは かべや まるてんじょうなどを とびばりで ささえる という いみである。)
creux: うつろな
déchaînés:あれくるった、ばくはつした、たけりくるった

にんしょうだいめいしを かんけいだいめいしで しゅうしょく できる。

できるのです。 ”Pour moi, qui étais venu de Sartre”

さるとる しゅっしんです。

そんな いいかた できるの? ”étais venu de Sartre”

もうたくとうしゅぎ 毛沢東主義

もうたくとうしゅぎは にげんろんの いめーじが ある けれど、 せいかくには なんなのか しらない。うぃきぺでぃあで しらべた。

毛沢東の思想は、毛沢東が若い頃から親しんだ農耕社会の観察や経験から導き出された中国発展のためのアイディアを含んでおり、その大綱として大公無私(個人の利益より公共の福祉を優先する)、大衆路線(農村大衆の意見に政治的指針を求めそれを理解させて共に行動する)、実事求是(現実から学んで理論を立てる)などがある。この他、社会と協調できる個人主義、大人数の協力、農村から蜂起して都市を囲いこんでいくゲリラ戦術理論(人民戦争理論)、世界各国が各自の特性に応じた革命を行うことによって第三次世界大戦を防ぐことができるとする「中間地帯論」なども毛沢東思想に含められる場合がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

1960年代の世界的な学生運動では文化大革命を中国の対抗文化と見做し[3]、しばしば原理主義的で教条主義的な共産主義信奉(原始共産主義)が毛沢東思想に移行する例がみられた。影響を受けたのは大学生を中心とする都市部の中産階級の若者であり、彼らが構成したヒッピーが始めたコミューン運動などで、人民公社型の集団生活の実践や、下放のスタイルが模倣された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

1968年の5月革命にもマオイストの影響があるとされ、クリストフ・ブルセリエは、フランスのマオイスムの流行について、スターリン批判とそれによるソ連共産主義の失墜、およびそれに代わるユートピアを求める運動の中で中国モデルが誇大視されたとしている[4]。マオイスト運動はフランス共産党ソ連擁護に対する反動として起こり、反西欧主義、東洋趣味が混在していた。また、エコール・ノルマル・シュペリウールのロベール・リナールらエリート学生、中国専門家のシャルル・ベトレームやルイ・アルチュセールが中心にいたといわれる[5]。1963年にジャック・ヴェルジエが創刊した雑誌『革命』が中国ブームに火をつけた。1964年フランス共産党から除名追放されたフランソワ・マルティが同年7月に東京で中国人運動家と知り合い、毛沢東の招待を受ける。マルティらは『新しい人間主義』という雑誌を出している。

五月革命以後、当時の内務大臣マルスランによってマオイストの組織は解体命令を受けるが、ベニ・レヴィによってGP(fr:Gauche prolétarienne プロレタリア左派)が結成され、アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィらが参加する。GPによる移民労働者の支援活動は、サルトルゴダールミシェル・フーコーらによって支持された。同団体は、マドレーヌ広場の高級店フォーションから「フォーションが貧民窟に食糧支援をする」「盗人から盗んでも罪にはならない」「わが労働の果実をパトロンから奪おう」として商品を奪うフォーション事件を起こしている[6]。代表のベニ・レヴィはのちにサルトルの助手となり、ユダヤ思想に没入し、イスラエルに渡った。また、フランスの作家のフィリップ・ソレルスや哲学者のアラン・バディウらが毛沢東思想に魅了された[7]。的場昭弘によれば、エコール・ノルマルはマオイスムの母体となっていたと指摘している[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

よるてきな かきかた

le style nocturne
よると ひるという たいりつは ばでぃうが 『ラカン』の ひとつめの こうぎでも いっていた。 まひる という いみの midi(みでぃ)と はんぶん・いう という いみの らかんの ことばの mi-dit(みでぃ)が おなじ おとである ことを つかって、 ひる という わだいと はん・てつがくを つなげる。はん・てつがく では、 いう ことと ただしい こと という いみの しんり(真理)と なにか(???☆)の くみあわせを どうにか する という はなしだった。なにかは わすれた。要調査。そこから、まよなかを いみ する minuit(みぬい)の はなしに もっていく。
しかし、 よるが どんな いみを もった いめーじかは わすれた。

はてしない あまさの ことば づかい☆

la langue d’une infinie douceur☆
らんぐは、 それぞれの げんご という いみも あるけど、 ことばづかい という いみも ある。

それでも なお

n’en … pas moins: それでもなお…だ
enが ひかくの たいしょうで、 まえに という いみだと かんがえると わかる。 まえと くらべて すくない わけではない、 つまり まえと おなじ かんじで それでも なお という いみに なる。

しじけいようし

ふつうは しじけいようしは、 まえの ことばを しめす けれど、 ここは「れいの」、「あの」 という いみの しじけいようし だと おもった。 じしんは ない。 要調査。

John Field a créé le style Nocturne pour le piano. Il fut le premier à composer près d'une vingtaine de délicats Nocturnes pour le piano. Aussi les 7 concertos qu'il a composés pour piano et orchestre touchent le cœur et l'âme dans une émotion d'une grande sensibilité. Si vous aimez les deux concertos pour piano de Chopin vous serez tout autant touchés par la finesse et l'originalité de chacun des sept concertos pour piano et orchestre de John Field.
Paolo Restani et l'Orchestre Phil de Nice (Marco Guidarini) dans une interprétation magnifique et une prise de son de haut niveau.
Suberbe coffret (4 CDs)
https://www.amazon.fr/Concertos-Int%C3%A9grale-Orchestre-Philharmonique-Guidarini/dp/B001NLE09M
ぐーぐる やく
「ジョンフィールドはピアノのための夜想曲スタイルを作成しました。彼はピアノのために20近くの繊細な夜曲を作曲した最初の人でした。また、彼がピアノとオーケストラのために作曲した7つの協奏曲は、非常に敏感な感情で心と魂に触れます。ショパンの2つのピアノ協奏曲が好きなら、ジョンフィールドの7つのピアノ協奏曲とオーケストラ協奏曲のそれぞれの繊細さと独創性に等しく感動するでしょう。
パオロ・レスターニとフィル・ド・ニース管弦楽団(マルコ・ギダリーニ)の壮大な演奏と高レベルの録音。
Suberbeボックスセット(CD 4枚)」

あまぞんで ごめんなさい。 あまぞんの こめんと だから しかたがない。
nocturneは めいしで やそうきょく、のくたーん という いみも ある のね。
にーちぇとの かかわりは わからない。 にーちぇって まっぴるまな いめーじが ある。うまく なじめない。

ノクターンの語源はラテン語で夜をさすNoxから派生し、修道院などで行われる晩祷のことを示す。ひいては夜の黙想、瞑想などの意味に転化したものと考えられる。宗教作品としての晩祷はモンテヴェルディからラフマニノフまで壮大な作品が存在する。また貴族の夜会で奏される音楽にノットルノ(Notturno)があり、ルネサンスから古典派にかけてセレナードと同様の機会音楽として存在した。この個人の瞑想とサロン文化が結びついて、このジャンルが形成されたと思われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%83%B3%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3)

https://www.youtube.com/watch?v=gN9cvVwaZ1k
www.youtube.com

ふんばるのか ささえを つくらないと いけない ほど もろいのか

arc-­bouté sur :につよく おしつけた、でふんばった (arc-­bouterは かべや まるてんじょうなどを とびばりで ささえる という いみである。)は、 ぶんみゃくてきに、 ふんばる という より、 それで ささえる しか ない かんじの ことば かも しれない。

B.− Emploi pronom. Constr. fréq. s'arc-bouter à, contre, sur.
〔りゃく〕
2. P. ext., dans la lang. cour.
a) [Valeur active : le suj. désigne une pers. ou un animal] Prendre solidement appui sur ses pieds (ou ses mains) afin d'opposer une plus grande résistance, acquérir une plus grande force.
〔りゃく〕
3. Au fig.
a) [P. réf. au sens 2 a] Adopter une position ferme vis à vis de quelque chose, s'accrocher solidement à :
https://www.cnrtl.fr/definition/arc-bouter

もろい いめーじ では ない ようだ。

せいの けいしき

formes de vieは あがんべんの せいの けいしき かな? それとも、 にーちぇに ある のかな?
いきる ほうほう、 どのように いきるか という いみとも かんがえられるが、 あがんべんの つかいかた なら、 もっと げんみつに みえる かたちが ある はずだ。『いと高き貧しさ』の しゅうどういん きそく みたいに。 たとえば、 ころな だいりゅうこうで にほんせいふが いっている「あたらしい せいかつ ようしき」なんて いうのは、「せいの けいしき」と かんがえられる だろうか? あるものは 「せいの けいしき」を 「いきる ための きばん みたいな もの」と あるとき ぽろっと いっていたが、 あまり あがんべんの 「せいの けいしき」を りそうてきに かんがえない ほうが いいと おもう。 せいの けいしきと たいりつ させられるのは、 「むきだしの せい」である ことから、 びおすと ぞーえー という こだい・ぎりしあから あーれんとが かんがえた ながれが ある わけだ。 もちろん、 びおすと ぞーえー という たいりつと せいの けいしきと むきだしの せいという たいりつは おなじ ものでは ないけれど、 くらべられる ほど にている という はずだ。 あがんべんが きょうかいに ある ものを かんがえた ことを ふまえると、 せいの けいしきと むきだしの せいは、 きょうかいが そんなに きまらず、 けんりょくで その きょうかいが かんがえられる ような たいりつ だろう。いままでの びおすと ぞーえーの たいりつの きょうかいに あった むきだしの せいが、 せいの けいしきと きょうかいを つくり、 まざり あう。ところで、「けいしき」 という ことばは、ぷらとんの 「いであ」 という ながれ から すれば りそうてきな かたち である わけだ。

ある ほんを みつけた。

”La notion de « formes de vie » a émergé il y a une dizaine d'années et circule dans des domaines variés, de la biologie à la philosophie en passant par la sociologie, la science politique et l'anthropologie. Mais qu'entendre par « formes de vie » ? Un ensemble de pratiques, d'usages de nature variée, qui donnent à la vie commune des caractères propres, pour ainsi dire diffus, explicitement ou implicitement présents dans les croyances, la langue, les institutions, les modes d'action, les valeurs. Une forme de vie est toujours, en ce sens, particulière, c'est pourquoi il existe des formes de vie, plus qu'une forme de vie.De l'étude de ses divers sens chez des auteurs aussi différents qu'Adorno et Wittgenstein à sa portée critique et politique et à ses incidences éthiques, cet ouvrage déploie toutes les dimensions de cette nouvelle approche. En particulier, la porosité entre les sphères privée, sociale, économique et politique, et la nouvelle articulation du social et du biologique.”
ぐーぐる やく
「生活形式」の概念は約10年前に登場し、生物学から社会学政治学、人類学などの哲学まで、さまざまな分野で広まっています。しかし、「生命の形態」とはどういう意味ですか?一連の実践、さまざまな性質の使用。これは、それ自体の共通の生活特性を与え、いわば、信念、言語、制度、行動様式、価値観に明示的または暗黙的に存在します。生命の形態は、この意味で常に特別であり、それが生命の形態よりも生命の形態が存在する理由です。その批判的で政治的な理由から、アドルノウィトゲンシュタインとは異なる著者のさまざまな感覚の研究から重要性とその倫理的意味、この作品はこの新しいアプローチのすべての側面を展開します。特に、私的、社会的、経済的、政治的領域の間の多孔性、および社会的および生物学的領域の新しい明確化。
https://www.amazon.com/Formes-vie-Du-biologique-social/dp/2271121094

りんくが あまぞんで ごめんなさい。 さがすのが めんどうくさい。

4.3

Pouvais-­je pardonner à celui qui a dit « l’Europe doit guérir de la maladie Platon » ? À celui qui pensait que le philosophe était « le criminel des criminels » ? À celui qui voyait dans mon cher saint Paul le paradigme de la figure, haïssable entre toutes, du prêtre ?

わたしは、 この わたしは「よーろっぱは ぷらとん という やまいを なおす べきだ」*23と いった ものを ゆるす ことは できる でしょうか? てつがくしゃは 「つみぶかきもの たちの なかの つみぶかき びと」*24だと かんがえていた ものを? わたしの しんあいなる せい・ぱうろに、 とくに にくむべき、 そうりょの じんぶうぞうの もはんが あると おもっていた*25 ものを?

pardonner à :ゆるす
guérir de: から なおる
« le criminel des criminels »:
crimine:つみのある、はんざいを こうせいする、よこしまな、つみつくりな、じゅうだいなかしつとなる、けいじじょうの
le criminel:はんざいしゃ、はんにん、さつじんはん、ちょうほんにん、けいじさいばん、ざいあく
le paradigme:もはん
haïssable:にくむべき、いやな
entre toutes:とりわけ、とくに
prêtre:そうりょ、しさい、しんぷ、せいしょくしゃ、しんかん、さいし

Pouvais

はんかこは なぜ? ☆ でしょう? それとも まえの こと だから? えんきょくか かこか

はん・てつがくと なおす

らかんは せいしんぶんせきかで なおす ことが しごと だった。
うぃとげんしゅたいんの てつがくは ちりょうの てつがく だった。
にーちぇは ぷらとんの やまいを ちりょう したがった。
ぱうろは?

つみと はんざい

にほんごの つみは はんざいに かぎらないし、 にほんごの はんざいは つみに かぎらない。 しかし、 crimieくりむ けいの たんごは そこが おなじ である。 じぶんは 「じんどうに たいする つみ」という ことばが もっとも その ことが わかる ことばだと おもう。くにの ほうが かみの ほうな わけが ない という かんがえが つよいから その かんかくが つよい のだと おもう。じだい、ちいき、げんご てきな はいけい。
あと、 le .... des ....s という ひょうげんを しらべないと いけない。しらべた。

deは ぜんたいの いちぶ、 「のうちで」という いみである。 そして、 おなじ めいしを くりかえして いちばん めいし らしいもの という いみに なる。

つみびとの なかの つみびと

Der Antichrist(『反キリスト者』、はんきりすとしゃ)の てがき げんこうの 47ぺーじ。
せいれき 1888ねん 9がつ 30にち。(かくめいれき 97ねん 1がつ 8にち、Décade I Octidi, Vendémiaire an XCVII。)

Promulguée au jour du Salut, premier jour de l’An I

(le 30 septembre 1888 du faux calendrier)
Guerre à outrance au vice :
le vice est le christianisme

Article 1. Est vicieuse toute sorte de contre-nature. L’espèce d’homme la plus vicieuse est le prêtre : il enseigne la contre-nature. Contre le prêtre, on n’a pas de raisonnements, on a les travaux forcés.

Article 2. Toute participation à un service divin est un outrage aux bonnes moeurs. On sera plus dur envers les protestants qu’envers les catholiques, plus dur envers les protestants libéraux qu’envers ceux de stricte observance. Être chrétien est d’autant plus criminel que l’on se rapproche le plus de la science. Le criminel des criminels est en conséquence le philosophe.
https://www.pileface.com/sollers/spip.php?article1212#top
ぐーぐる やく
だい いち ねんの さいしょの ひの、 すくいの ひに こうふ された
(まちがった こよみの 1888ねん 9がつ 30にち)
てっていてきな あくとの たたかい
あく とは きりすときょう である

だい 1 じょう。あらゆる しゅるいの しぜんに はんする ことは わるい。もっとも わるいの にんげんの しゅぞくは そうりょ である。そうりょは しぜんに はんする ことを おしえる。そうりょに はんたいしては、 つべこべ いわないで、 むりやり はたらかされる。

だい 2 じょう。かみへ ほうし(奉仕) する ことに かかわる ことは いかなる こと でも、 どうとく に そむく ことだ。ぷろてすたんとに たいしての ほうが、 かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。じゆうしゅぎ・しんがくに たいしての ほうが、げんりつ(厳律)な かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。 きりすときょうと である ことは、 かがくに もっとも ちかづくが ゆえに ますます つみぶかい もの である。したがって、 つみぶかき ものの なかでの いちばんの つみぶかきものは てつがくしゃ である。)

もはん、はんれつ、ぱらだいむ

le paradigme:もはん は、 そしゅーるか やこぶそんか ばると より あとは こうぞうしゅぎでは、 「ぱらじぐむ」「はんれつ」と いわれるし、 とます・くーんの かがくしの ぶんみゃくでは 「ぱらだいむ」と いわれる。 しかし、ぷらとんがくはの ことばで 「もはん」という いみに なる。とくに だれ だろう?要調査。
ぱらじぐむ、はんれつは いれかえらえる ことばの れつの ことで、 さんたぐむ、とうじ(統辞)は ことばが じっさいに くみあわされ つながる れつの こと。やこぶそんの ことば では はんれつを えらんで、とうじを けつごうする。 おきかえに たいする ぶんみゃく。

そうりょ、しさい

にーちぇの ぶんみゃくなら そうりょ だが、 ぱうろの ぶんみゃく なら しさい かな?
なんで にーちぇの ぶんみゃく だと、 「そうりょ」と やくされている の だろう? きりすときょう ひはん なら、 「しさい」では ないのかな?

4.4

Pouvais-­je entrer, moi, wagnérien de toujours, et jamais repenti, dans les vues de celui pour qui Wagner n’a finalement été qu’un misérable corrupteur de la jeunesse allemande, un magicien des détails suaves, capable de susciter chez les meilleures jeunes femmes une déplorable hystérie ?

わたしは つねに かわらず わーぐなー しゅぎしゃ でして、 けっして くいあらため ません。 わーぐなー*26は さいごには どいつの わかものを だらく させた くだらない もの *27でしか なく、 ささいな ものを かんび(甘美)な ものに する まほうつかい *28 でしか なく、 すばらしい わかい じょせいに なげかわしい ひすてりーを ひきおこし かねないのだと*29 かんがえていた ものの みかたに、 この わたしが、 くみする ことが できる のでしょうか?

entrer:もんだいに たちいる、こうさつする、かんじょうをしかりする、どうかんする、ふくまれる、いちぶをなす、かんよする、
de toujours: つねに かわらず
repenti: くいあらためた、つみをくいた
les vues :みかた
misérable: くだらない、つまらない(めいしの まえが おおい)
corrupteur:だらくさせた ひと、かいらんしゃ
un magicien des ☆
magicien: まじゅつし、じゅじゅつし、まほうつかい、ふかしぎな ちからを もつ ひと
détails:こまかい ぶぶん、さいぶ、どうでもいい こまかい ところ、 じゅうばこの すみ
suave:かんびな、ここちよい、やさしい
capable de:できる、しかねない
susciter:よびおこす、かきたてる
jeunes femmes:わかい ふじん、わかづまか それぐらいの としの おんな
déplorable:なげかわしい、ざんねんきわまりない、ていれつな、よからぬい、ひどい、(ふるい)いたましい、あわれな

しゅうじぎもんぶん? ちがう かも。

しゅうじぎもんぶん じゃなかったら、 くそ だが、 ばでぃうも くそ かもしれない。せいべつにげんろんじゃ だから。

はいる

entrer:もんだいに たちいる、こうさつする、かんじょうをしかりする、どうかんする、ふくまれる、いちぶをなす、かんよする

− Donner son adhésion aux idées de quelqu'un, sympathiser avec quelqu'un. Entrer dans les vues de qqn, les sentiments de qqn.
https://www.cnrtl.fr/definition/entrer

les vues :みかたは なぜ ふくすう?


ふくすうが おおい から。

b) Souvent au plur. Manière de concevoir quelque chose; idée que l'on a de quelque chose. Synon. point de vue (v. ce mot), jugement.Conformité, continuité, échange de vues; vues concordantes, opposées ; abandonner, exposer, imposer ses (propres) vues; échanger des vues.
https://www.cnrtl.fr/definition/vue

わーぐなー

「とりすたんと いぞるで」の おんがく。
https://www.youtube.com/watch?v=Jwi6SRlbjIM


ニーチェワーグナー』、『無垢の生成』、
ニーチェワーグナーの場合』、Der Fall Wagner, in Nietzsche: Werke in drei Bänden, München 1966 (Schlechta-Ausgabe), Bd. 2

金森誠也(かなもり・しげなり)「ワーグナーショーペンハウアー」、ドイツ文學、1970 年 44 巻 p. 48-58(https://www.jstage.jst.go.jp/article/dokubun1947/44/0/44_0_48/_article/-char/ja/
ニーチェワーグナーをクリングゾル中のクリングゾルといみじくも名付けたが,」

わーぐなー(1882)『パルジファル』(”Parsifal" )に おいて、 くりんぐぞるは まほうつかい である。ぱるじふぁる という なまえの むくで おろかな わかものの だんせいを、くんどり という のろわれた おんなに めいれいして、 まほうつかいの くりんぐぞるは ゆうわく させる。くりんぐぞるは せいなる やりを おうさま から うばった わるい ものと かんがえられている。

さらに わーぐなーは ゆだや せいしんの たいげんしゃ であると じぶんで かんがえていた。 いっぽうで、 はんゆだやしゅぎしゃと みなされていた。 くりんぐぞるは あらぶの ものと えがかれているが、 ゆだやてきな ありかたを もっている てきとして えがかれている らしい(鎌田康男(かまた・やすお) 「パルジファル ― 近代市民社会の中でのミットライト」」『ショーペンハウアー研究』第 5 号(2000 年 11 月 15 日)57-76 ページ。ぴーでぃーえふ、http://www.schopenhauer.org/organ/lib/kamata_yasuo/mitleid.pdf。)。

なにを くいるのか?「かんがえなおす」?


et jamais repenti
repenti: くいあらためた、つみをくいた

ばでぃうは きりすときょうを しんじている のだよね?と おもったけれど、 まるくすしゅぎしゃ、もうたくとうしゅぎしゃ なら、おおくの ばあい、 しゅうきょうに はんたいするか。 おそらく かいしんは していなくて、 つみを くいる ことは ない という はなしを している のか、 わーぐなーを きらいに なった ことは ない という はなしを しているのか、 しゅちょうを かえた ことが ないと いっている のか?要調査。☆


jamisは ひていの いみか、いつか とか かつて とかの いみ である。
jamisを まとめて かんがえる ばあい、 じかんを みわたした こんせきと かんがえるのが いいらしい(武内裕紀(たけうち・ゆうき)(1992)「フランス語の副詞jamaisの機能」、http://hdl.handle.net/10236/9217)。
じかんを みわたして、 どこかの じかんに いちづけられる かもしれないと つたえる ときは、 ひていの だんていでは なく、 ひかくの かんけいせつ、 げんていてきな いみの せんこうしの かんけいせつや ぶんの なか などで jamisが つかわれ、 どこの じかんにも いちづけられないと つたえる ときは、 ひていの だんていか だんていしない いいかたに なる との こと だ。
ここでは、 moi、つまり わたし という かなり げんていされている めいしを せつめいする ために jamais repenti という ことばが つかわれている。そのため、 どこかの じかんに いちづけられる かもしれない という いみに なると おもう。 つまり、 いつか くいあらためたのか、または どこかで くいあらためる かもしれないと いっていると おもう。 しかし、 この あいまいさを あらわす ために、 「けっして くいあらため ません」 とした。

王位を譲られたティトゥレルの息子アムフォルタスはクリングゾルを成敗しようとするが、クリンドリーに誘惑されて聖なる槍を奪われてまいました。アムフォルタスは罪を悔い改め、聖なる槍が汚されないよう一心に祈ると聖杯が輝き始め、「共苦により知にいたる けがれなき愚者 待ち受けよ わが選びし者を」との宣託を受けました。
https://desireart.exblog.jp/20305255/

わーぐなーの ぱるじふぁるの なかにも くいあらためる ものが でてくる。

れいぶん

Mais il ne s'est jamais repenti, et ne s'est jamais converti.
しかし、彼は決して悔い改めませんでした、そして、決して回心しなかったのです。
https://context.reverso.net/%E7%BF%BB%E8%A8%B3/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%AA%9E-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/et+ne+s%27est+jamais

だらく させる もの

また、Louis Cornellier, Essais - Visages de Socrate, 2011, https://www.ledevoir.com/opinion/chroniques/329227/essais-visages-de-socrate. では、 ”L'auteur comique Aristophane est un adversaire de Socrate. Dans sa pièce les Nuées (en 423 av. J.-C.), il présente le philosophe comme un corrupteur de la jeunesse qui enseigne la sophistique contre rémunération”と、corrupteur de la jeunesse 、 つまり「わかものを だらく させた」 もの という ことばが つかわれている。

まじゅつしは どこから きたのか?

わーぐなーの ぱるじふぁるの てきやくの くりんぐぞる という まほう・つかいの わるい もの から きた。

こまかい ぶぶんを おとった ものと かんがえる ことばが みつからない。
f:id:hunihunisaito:20210324103810p:plain
details sauves

https://books.google.co.jp/books?id=1A1cAAAAQAAJ&pg=PA144&lpg=PA144&dq=%22d%C3%A9tails+suaves%22&source=bl&ots=014w2lZZjJ&sig=ACfU3U2uef743nviCR0YDJfehaoTP_OtHA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwicm9Wk3sfvAhUDHqYKHQAICjI4ChDoATAHegQIBxAD#v=onepage&q=%22d%C3%A9tails%20suaves%22&f=false
vicomte François-Auguste de Chateaubriand, Génie du christianisme, ou Beautés de la religion chrétienne, 第 4 巻

Voilà la longue comparaison homérique avec ses détails suaves et charmans : Καλόν , τηλεθάον , τόδε τη πνοιαι δονέκσι Παντοίων ανέμων , και τη βρύει ανθεί λευκώ . ( 1 ) On croit entendre les soupirs du vent dans la tige du jeune olivier .

いい いみで つかっている。
「かんびな こまかい ひょうげん」☆

さては どいつじんに おんなを ふくめていないな。

1から4

にーちぇに ついての せいれき 1992ねん から 1993ねんの こうぎ(講義)に かんして。

1
わたしの こうぎの おおくは、 じぶんの てつがくの しんてんじょうきょうが たいけいてきに つりつもった、 いっさつの ほんの したしらべに ふくまれています。
こうして、 せいれき 1975ねん から 1980ねんの こうぎが いわば、 ひとつに まとめられ、ぶんしょうに された 『しゅたいの りろん』*30を、 せいれき 1982ねんに しゅっぱんされました。
また あきらかに せいれき 1983ねん から 1987ねん までの あいだの こうぎは、こてんてきな ことに ふれる ことを つみかさねてきました。てつがくに ついても ふれてきました(ぱるめにです、ぷらとん、ありすとてれす、でかると、すぴのざ、らいぷにっつ、かんと、へーげる、はいでっがー)。ぽえむの しに ついても ふれてきました(へるだーりん、まんだりしゅたーむ(Mandelstam)*31, ぺそあ(Pessoa)*32, つぇらん(Celan)*33)。がいねんてきな こうちく(てつがくと、 できごとと、いちなきた(一なき多)と、るい・せいせい(類生成)てきな ものの よっつの じょうけん…)を つみかさねました。それらを きっちりと くみたてて、 『そんざいと できごと』*34を せいれき 1988ねんに しゅっぱん しました。
『せかいの ろんりがく』*35(せいれき 2005ねん)は、かてごりーの りろんに ついての ながくて ないようの つまった、すうがくてきな じゅんびに くわえて、 せいれき 1996ねん から 1998ねんの こうぎに おける、 じぶんの しゅたいの りろんの だいじな しゅうせいと、 そして、2000ねんの はじめの こうぎに しゅうちゅうしました。この こうぎは、あまり れきしてき ではなく、げんだいに ついて いままで よりも くりひろげました。『げんざい という ときの いめーじ』*36(せいれき 2001ねん から 2004ねん)と、 『かんがえる ことに おいて すすむ、 ある という ことに おいて すすむ』*37(せいれき 2004ねん から 2007ねん)も どうよう(同様)です。

2
にーちぇに ついての こうぎは、さいごには、 はん・てつがく という(いままで より ふるい) わだいに ついて つくられた せいれき 1992ねん から 1996ねん までの しりーずの なかに ふくまれていて、らかん、うぃとげんしゅたいん、せい・ぱうろ*38を さいごには ふくんでいます。それ にも かかわらず、この にーちぇに ついての こうぎを、 べろにっく・ぴのーが ねっしんに はたらいてくれて、 ここでは へんに いりくんだものの なかに いちづけなおしました。この こうぎは、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃく(décision pure)と よべる ものの けっか です。そして、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃくの けっかは、 わたしの とりくみを ほんの うえ だけで おおきく くぎって はっきり させた ものには ふくまれていません。にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。
らかんは わたしの さくひんの なかに かなり まえ から、いつも あらわれて きました。うぃとげんしゅたいんは、それなりに てんさい でしたが、くだらない 「ぶんせき てつがく」に ついて/が かならず ふれないと いけない という ことは、 わたしに とっては、 その ときの/げんだいの いでおろぎー てきな たたかいの ばに おいて、 ねらった たーげっと でした。『うぃとげんしゅたいんの はんてつがく』で その たーげっとを こんぜつ しました。
せい・ぱうろに ついて、はやくも せいれき 1998ねんに いっさつの ほんんを かきました。 せい・ぱうろは ふへんしゅぎを つくった もので あって、 せかいを まわりました。すでに せいれき 1989ねん から わたしが つくった『あんてぃおきあ*39 じけん*40*41という ひげきで それとなく よびだしました。にーちぇに ついては そのような ことは なにも していません。したしらべも せず、 ひきつぎも せず、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけた ままに しておきました☆。

3
しかし、 じっさいに それが にーちぇの うんめい*42 では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの いきかたに なれてきました。 そして、おそらく さらに より、にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたちの しゅかんてき・けいしきに なれてきました。その しゅかんてき・けいしきを にーちぇは もとめ つづけました。しんせい(神聖)さの めぐりあわせ〔la sorte(しゅるい、なまの じょうたい)を le sortの ごしょくと かんがえた〕を みれば みる ほど、 ぜったいてきな こどく、 ひとづきあいの きょむに なれていきました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。
そう すれば する ほど、わかったのは、 とりの*43さくらんした この ものと、
にーちぇの ぼつらくの あと、 ちんもくの あと、しんだ あとの にーちぇの すべての さくひんの うんめいとの あいだの こと です。にーちぇは、 〔ておしぐるまで やさいや くだものを うる〕ぎょうしょうにん から、 いちばんの うれすじの しょうひんを うけとった ときに、しあわせで いなずまを うけました〔illuminéは 「ひかりで てらされた」、「てんけい(天啓)を うけた」、 「さくらんした」 という いみだが、 にーちぇは この ときの ことを 「いなずまを うけた」*44と ひょうげんしている。 〕。 これらの さくひんの うんめいは、 〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕の ちから*45の、せいふくする もの としての しゅぞく*46の、 ひごうりしゅぎ*47の、うつくしさの ぜったいてきな ゆうい*48の、きんいろ*49として かんがえられた ちょうじん(超人)*50の こんきょに されています。はい、 その とおり です、 これらの ふたつの あいだには、くいちがい が ありました。

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じっさいには、 わたしは(とくに、ふたたび とりあげるのは、 せいれき 1887ねん から 1888ねんの あいだの ぶんしょう*51で、 その) ぶんしょう☆に とつぜん ぼっとう(没頭) する ことに なる まえには、だいたい この くいちがいの えいきょうの もとに ありました。

わたしの しんあいなる せい・ぱうろに、 とくに にくむべき、 そうりょの じんぶうぞうの もはんが あると おもっていた*52 ものを?

わたしは つねに かわらず わーぐなー しゅぎしゃ でして、 けっして くいあらため ません。 わーぐなー*53は さいごには どいつの わかものを だらく させた くだらない もの *54でしか なく、 ささいな ものを かんび(甘美)な ものに する まほうつかい *55 でしか なく、 すばらしい わかい じょせいに なげかわしい ひすてりーを ひきおこし かねないのだと*56 かんがえていた ものの みかたに、 この わたしが、 くみする ことが できる のでしょうか?

さいとう

ついき
かくめいれき 229ねん 7がつ 6にち、Décade I Quintidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 26にち

難しい文書ですね! 「se repentir」は「過去の過ちを正すこと、犯罪を起こしたのを後悔し、正義の道に戻ること」。例えば、「repentis」という人たちは昔マフィアに入っていた人で、現在はマフィアを戦うために協力する人たちを示す。
さて、今回のコンテクストで、ヴァーグナーが好きなのは、ダメなことだそうです。しかし、筆者は(そう言われても)今でも後悔なくヴァーグナーが大好きです。ですから「jamais repenti」です。ちょっと皮肉なニュアンスがあるかもしれません。本当はヴァーグナーがダメと言っている人たちの方がダメだと筆者が思っているかもしれません。

追加: 「le repentir」はキリスト教の大事なコンセプトでもあります。反省するということですね。神様の許しを願いすると共に。
https://hinative.com/ja/questions/18646767

にーちぇが わーぐなーについて かいた ぶんけんに ついての めも。
ニーチェコントラ・ワーグナア』、『ワーグナアの場合』、『バイロイトのリッヒャルト・ワーグナア』

かくめいれき 229ねん 7がつ 7にち、Décade I Septidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 27にち
「教育者としてのショウペンハウアー」に おいて にーちぇ が いっている こと。
「誠実をもって、人間に幸福な生は不可能であり、人間の達し得る最高のものは英雄的生涯を送ることであると教える。」(ふじた・けんじ(藤田健治)『ニーチェ』、せいれき 1970ねん、中央公論社、63-64ぺーじ)
「ワーグナアの楽劇にあらわれるすべての登場人物を通じて、その人間的核心は「誠実、無私の誠実」ということにつきる。」(ふじた・けんじ(藤田健治)『ニーチェ』、せいれき 1970ねん、中央公論社、64ぺーじ)
「勇敢にこの世のうつろいやすい側面の革新を目ざし、個をこえたもののために個を捧げて悔いない悲劇的な心情と結びついていて、そこに悲劇的英雄が成り立つのである。」(ふじた・けんじ(藤田健治)『ニーチェ』、せいれき 1970ねん、中央公論社、65ぺーじ)

さいとう


かくめいれき 229ねん 7がつ 8にち、Décade I Octidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 28にち
水野清志(みずの・きよし)「ニーチェの倫理思想 (10)」、信州大学医療技術短期大学部紀要 11(1): 1-17(1986)
http://purl.org/coar/resource_type/c_6501
http://hdl.handle.net/10091/5101
にーちぇに さばくの ひゆが まさに さばく そのもの として でてくる。
らくだ としての せいしんが らいおん としての ちょうじんに かわる ばしょが、 さばく である。

さいとう

*1:Alain Badiou(1982), Théorie du sujet, Seuil. https://www.seuil.com/ouvrage/theorie-du-sujet-alain-badiou/9782020986915

*2:りえびち・まんだりしゅたーむ。せいれき 1891ねん から 1938ねん。ろしあごで ぽえむを かいた。『時のざわめき』など。

*3:ふぇるなんど・ぺそあ。ぽるとがるごを ちゅうしんに えいごや ふらんすごで ぽえむを かいた。せいれき 1883ねん から 1935ねん。『不安の書』など。

*4:ぱうる・つぇらん。せいれき 1920ねん から 1970ねん。 どいつごで ぽえむを かいた。『死のフーガ』など。

*5:Alain Badiou(1988), L'Être et l'événement, Seuil, https://www.seuil.com/ouvrage/l-etre-et-l-evenement-alain-badiou/9782020098625. アラン・バディウ(2019)『存在と出来事』、藤本一勇訳、藤原書店http://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865782509.html

*6:Alain Badiou, Logiques des mondes. L’Être et l’Événement, 2, Paris, éd. Seuil, 2006.

*7:Alain Badiou, Le Séminaire - Images du temps présent, Fayard, 2014 (EAN 9782213678924).

*8:Alain Badiou, Le Séminaire : s'orienter dans la pensée, s'orienter dans l'existence (2004-2007), Fayard, 2021.

*9:きげんぜん 10ねん ごろ から せいれき 65ねん ごろ。いちせいきの きりすときょうの しと(使徒)、せいじん(聖人)。てがみが しんやくせいしょに ある。

*10:Αντιόχεια。「トルコ南部の小都市アンタキヤの古称。前300年ごろ古代シリア王国セレウコス1世が首都として建設。のちエルサレムに次ぐ初代キリスト教会の中心地。」(「デジタル大辞泉」)。 ぱうろの きりすときょうの ふきょうの きょてん。

*11:あんてぃおきあ・じけんは、 ぱうろと ぺてろ(または けふぁ)が たいりつ した じけん である。しんやくせいしょ、 ガラテヤ書2章11~14節に ある。えるされむ・きょうかい から ひとが、 あんてぃおきあ・きょうかいに きたときに、 それまで していた ゆだやじん きりすときょうとと、 ゆだやじん ではない きりすときょうと との きょうどうの しょくじ(と どうじに おこなわれていた れいはい)を ぺてろが やめた。 ぱうろは はんたいした あと、 あんてぃおきあ・きょうかいから はなれて ふきょうを おこなったとも いわれる。https://rcjinagekaigan.jimdo.com/2015/05/25/%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%97%E8%AA%B2-%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A8%E3%82%82%E7%A5%9E%E3%82%92%E7%95%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B/。 聖書協会共同訳「12:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 12節 というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。 13:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 13節 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 14:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 14節 彼らが福音の真理に従ってまっすぐ歩いていないのを見て、私は皆の前でケファに言いました。「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」 15:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 15節 私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。 16:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 16節 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」

*12:The Alain Badiou. Introduction by Kenneth Reinhard. Translated by Susan Spitzer, Incident at Antioch / L’Incident d’Antioche, A Tragedy in Three Acts / Tragédie en trois actes, 2013, Columbia University Press

*13:にーちぇの じでん、『この人を見よ』(西尾幹二やく、せいれき 1990ねん)「なぜ私は一個の運命であるのか」(https://www.shinchosha.co.jp/book/203507/

*14:にーちぇは いたりあの とりので うまに だきついて はっきょうした という いつわが ある。「また、別の不確かな証言によると、1月3日の夕方、散歩の途中で馬車屋の前で馬が御者に鞭打たれているのを目撃し、これに同情して泣きながら馬の首に抱きつき、そのまま昏倒したという逸話もあるが、それを証明するものは何も残っていない。」(https://www.ni-club.net/wonderland/history/6/inf3.cgi

*15:「そうであってのみ,人間はあの〔「あの」を きょうちょうしている。〕高みへと成長するのだ。稲妻が彼に命中し,彼を砕くに十分なまでの高みへと!」と つぁらとぅすとらは ちょうじんに いう(Nietzsche, Friedrich. Sämtliche Werke. Kritische Studienausgabe,in 15 Bänden. hrsg. von Giorgio Colli und Mazzino, Montinari (Berlin/ New York: dtv de Gruyter Dünndruck-Ausgabe)1967-1977, (1980) 4, 359、『ニーチェ全集』(1993-1994)))(酒井梨帆(2019)「西谷啓治ニーチェ理解 -「自己」の没落と「自己」の自己超克」、http://hdl.handle.net/10291/20021.)。「超人を教えよう」と言って始められるツァラトゥストラの序説のなかで、超人については、それは「大地がもつ意義である」とか「この稲妻、この狂気である」というふうに比喩的に語られるのみ」(IV14、IV16.)(岩下眞好(2014)「綱渡りの構図と寓話:ツァラストラの序説をめぐって」)

*16:にーちぇが かたる えいえんかいきは、 せい(生)の こうていと いわれる。

*17:道徳の系譜』に おいて、 にーちぇは きぞく・しゅぞくを 「きんの もうじゅう」、「きんぱつの やじゅう」という しょうちょう(象徴)で かたっている。にーちぇは きぞく・しょぞくの ゆうりょう(優良)と れつあく(劣悪)という どうとくを だいじに かんがえている。

*18:伊藤勝彦、「自然界に働いている根本の力を「力への意志」としてとらえるニーチェ」として ひごうりしゅぎは せうめいされている(日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館)。

*19:にーちぇは 『どうとくの けいふがく』で、 うつくしい という ことを わるいと かんがえる ことを どれいの どうとく として ひていした。

*20:三島憲一「ドイツの哲学者ニーチェの著作《人と超人》を書いた。しかし超人概念は,〈金髪の野獣〉といったニーチェの言葉とともに,やがてナチスイデオロギーの中で悪用されることにもなる。」、「超人」、『平凡社 世界大百科事典』、https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%C3%9Cbermensch

*21:「あのニーチェ(≡ツァラツストラ)の説く 「超人」というフィギュアも、過去と未来の一切を 「運命」として大いなる情熱をもって主体的に引き受けようと意志する者によって投 じられたその意志の投影像でなくて、一体他の何であろうか」(圓増治之(1989)「ニーチェに於ける生のメタファとしての『舞踏』」(https://nagano.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=680&item_no=1&page_id=13&block_id=17))

*22:道徳の系譜』は せいれき 1887ねんの 11がつ(かくめいれき 96ねん 2がつ から 3がつ)に しゅっぱんされた。にーちぇは その ぜんごに 『力への意志』を かいていた。(木場深定(きば・じんじょう)「解説」、209-211ぺーじ、ニーチェ道徳の系譜』、岩波文庫、せいれき 1940ねん)

*23:にーちぇ ☆

*24:にーちぇ『はん・きりすとしゃ』、1888ねん 9がつ 30にちの てがきの ぶんしょう。「かみへ ほうし(奉仕) する ことに かかわる ことは いかなる こと でも、 どうとく に そむく ことだ。ぷろてすたんとに たいしての ほうが、 かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。じゆうしゅぎ・しんがくに たいしての ほうが、げんりつ(厳律)な かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。 きりすときょうと である ことは、 かがくに もっとも ちかづくが ゆえに ますます つみぶかい もの である。したがって、 つみぶかき ものの なかでの いちばんの つみぶかきものは てつがくしゃ である。」

*25:にーちぇの 『曙光』(しょこう)、『権力への意志』、『反キリスト者』、『道徳の系譜』など。 にーちぇは ぱうろの きりすときょうを、 そうりょてきな かち(価値)と かんがえていた。 にーちぇは ぱうろが つよい ものが わるく、 よい ものが わるい という かんがえ であったと かいている。「3:コリントの信徒への手紙二/ 12章 10節、それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」(聖書協会共同訳)

*26:びるへるむ・りひゃると・わーぐなー。Wilhelm Richard Wagner。せいれき 1813ねん から 1883ねん。『とりすたんと いぞるで』 (せいれき1857ねん から 1859ねん)などの どいつごの うたが ある げきを かいた。にーちぇは わーぐなーの ことが だいすき だったが、せいれき 1876ねん から きらいに なる

*27:〔まごびき〕にーちぇ(原佑・吉沢伝三郎訳)『生成の無垢(上)』(https://kangaeruhito.jp/article/15315)「もちろんこんにちでは、天分のとぼしい音楽家たちは、また金銭欲や名誉欲にかられた音楽家たちも、困った状態にあるのかもしれない。まさしく彼らにとって、音楽を作るヴァーグナーのやり方のうちには選りぬきの誘惑があるからである。つまりヴァーグナー的な手段や手くだで作曲するのは容易なことであるし、さらにまた「大衆」を興奮させようとするこんにちの芸術家たちの煽動的な要求のもとでは、いっそう報われることであるかもしれない、くわしく言えば、「一層効果的な」、「いっそう圧倒的な」、「いっそう的確な」、「いっそう感動的な」ことであり、かくて演劇賤民と素人的な熱狂家の隠しおおせない愛用語のとおりであるかもしれない。だが、芸術の問題において、「大衆」の喧騒と感激とに結局なんの意義があろう!優れた音楽はけっして「公衆」をもっていない、- それはけっして「公然たるもの」ではなく、またそうではありえず、それは最も選りぬきの者たちに属し、それはつねにただ ― 比喩でいえば ― 「私室」用にのみ現存すべきである。「大衆」は、彼らに最もよくおもねるすべを心得ている者を嗅ぎつける。大衆は大衆流儀ですべての煽動的な才子どもに感謝をささげ、自分たちにできるかぎり彼らにお返しをするのだ。」。 きげんぜん 400ねん(かくめいれき -2190ねん) ごろの こだい・ぎりしあの てつがくしゃ である そくらてすは、くにで しんじない かみかみを みちびき いれ、 せいしょうねんを だらくさせた として、 しけいに なった(ぷらとん(納富信留(のうとみ・のぶる)やく)『ソクラテスの弁明』、光文社古典新訳文庫、せいれき 2012ねんを よんだ。 ベンジャミン・ジャウエット、永江良一 (よみかたが わからない)じゅうやく、「ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じていると。」(https://open-shelf.appspot.com/ApologyOfSocrates/chapter2.html))。

*28:にーちぇは わーぐなーを 「クリングゾル中のクリングゾル」と なづけた(要出典☆)。くりんぐぞる とは、 わーぐなーの 『タンホイザー』、『パルジファル』で でてくる あくの まほうつかい である。『パルジファル』では、 くりんぐぞるの まほうに よって あれた しろを はなが さきみだれる にわに している(二幕)。また、 『パリジファル』では、 くりんぐぞるは くんどり という なまえの おんなに しろへの しんにゅうしゃたちを ゆうわくする ように あやつる。ひき

*29:ニーチェが『ヴァーグナーの場合』で用いた<ディレッタント>や<俳優>、<デカダンス>や<ヒステリー>といったキーワードは、第二次世界大戦までの間、ヴァーグナーをめぐる学界の論争の語彙を半ば規定することになる。」、立石拓也(たていし・たくや)「《ニーベルングの指輪》における脱民族主義的解釈の批判的考察」、ぴーでぃーえふ、https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8071&item_no=1&attribute_id=17&file_no=2

*30:Alain Badiou(1982), Théorie du sujet, Seuil. https://www.seuil.com/ouvrage/theorie-du-sujet-alain-badiou/9782020986915

*31:りえびち・まんだりしゅたーむ。せいれき 1891ねん から 1938ねん。ろしあごで ぽえむを かいた。『時のざわめき』など。

*32:ふぇるなんど・ぺそあ。ぽるとがるごを ちゅうしんに えいごや ふらんすごで ぽえむを かいた。せいれき 1883ねん から 1935ねん。『不安の書』など。

*33:ぱうる・つぇらん。せいれき 1920ねん から 1970ねん。 どいつごで ぽえむを かいた。『死のフーガ』など。

*34:Alain Badiou(1988), L'Être et l'événement, Seuil, https://www.seuil.com/ouvrage/l-etre-et-l-evenement-alain-badiou/9782020098625. アラン・バディウ(2019)『存在と出来事』、藤本一勇訳、藤原書店http://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865782509.html

*35:Alain Badiou, Logiques des mondes. L’Être et l’Événement, 2, Paris, éd. Seuil, 2006.

*36:Alain Badiou, Le Séminaire - Images du temps présent, Fayard, 2014 (EAN 9782213678924).

*37:Alain Badiou, Le Séminaire : s'orienter dans la pensée, s'orienter dans l'existence (2004-2007), Fayard, 2021.

*38:きげんぜん 10ねん ごろ から せいれき 65ねん ごろ。いちせいきの きりすときょうの しと(使徒)、せいじん(聖人)。てがみが しんやくせいしょに ある。

*39:Αντιόχεια。「トルコ南部の小都市アンタキヤの古称。前300年ごろ古代シリア王国セレウコス1世が首都として建設。のちエルサレムに次ぐ初代キリスト教会の中心地。」(「デジタル大辞泉」)。 ぱうろの きりすときょうの ふきょうの きょてん。

*40:あんてぃおきあ・じけんは、 ぱうろと ぺてろ(または けふぁ)が たいりつ した じけん である。しんやくせいしょ、 ガラテヤ書2章11~14節に ある。えるされむ・きょうかい から ひとが、 あんてぃおきあ・きょうかいに きたときに、 それまで していた ゆだやじん きりすときょうとと、 ゆだやじん ではない きりすときょうと との きょうどうの しょくじ(と どうじに おこなわれていた れいはい)を ぺてろが やめた。 ぱうろは はんたいした あと、 あんてぃおきあ・きょうかいから はなれて ふきょうを おこなったとも いわれる。https://rcjinagekaigan.jimdo.com/2015/05/25/%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%97%E8%AA%B2-%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A8%E3%82%82%E7%A5%9E%E3%82%92%E7%95%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B/。 聖書協会共同訳「12:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 12節 というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。 13:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 13節 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 14:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 14節 彼らが福音の真理に従ってまっすぐ歩いていないのを見て、私は皆の前でケファに言いました。「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」 15:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 15節 私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。 16:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 16節 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」

*41:The Alain Badiou. Introduction by Kenneth Reinhard. Translated by Susan Spitzer, Incident at Antioch / L’Incident d’Antioche, A Tragedy in Three Acts / Tragédie en trois actes, 2013, Columbia University Press

*42:にーちぇの じでん、『この人を見よ』(西尾幹二やく、せいれき 1990ねん)「なぜ私は一個の運命であるのか」(https://www.shinchosha.co.jp/book/203507/

*43:にーちぇは いたりあの とりので うまに だきついて はっきょうした という いつわが ある。「また、別の不確かな証言によると、1月3日の夕方、散歩の途中で馬車屋の前で馬が御者に鞭打たれているのを目撃し、これに同情して泣きながら馬の首に抱きつき、そのまま昏倒したという逸話もあるが、それを証明するものは何も残っていない。」(https://www.ni-club.net/wonderland/history/6/inf3.cgi

*44:「そうであってのみ,人間はあの〔「あの」を きょうちょうしている。〕高みへと成長するのだ。稲妻が彼に命中し,彼を砕くに十分なまでの高みへと!」と つぁらとぅすとらは ちょうじんに いう(Nietzsche, Friedrich. Sämtliche Werke. Kritische Studienausgabe,in 15 Bänden. hrsg. von Giorgio Colli und Mazzino, Montinari (Berlin/ New York: dtv de Gruyter Dünndruck-Ausgabe)1967-1977, (1980) 4, 359、『ニーチェ全集』(1993-1994)))(酒井梨帆(2019)「西谷啓治ニーチェ理解 -「自己」の没落と「自己」の自己超克」、http://hdl.handle.net/10291/20021.)。「超人を教えよう」と言って始められるツァラトゥストラの序説のなかで、超人については、それは「大地がもつ意義である」とか「この稲妻、この狂気である」というふうに比喩的に語られるのみ」(IV14、IV16.)(岩下眞好(2014)「綱渡りの構図と寓話:ツァラストラの序説をめぐって」)

*45:にーちぇが かたる えいえんかいきは、 せい(生)の こうていと いわれる。

*46:道徳の系譜』に おいて、 にーちぇは きぞく・しゅぞくを 「きんの もうじゅう」、「きんぱつの やじゅう」という しょうちょう(象徴)で かたっている。にーちぇは きぞく・しょぞくの ゆうりょう(優良)と れつあく(劣悪)という どうとくを だいじに かんがえている。

*47:伊藤勝彦、「自然界に働いている根本の力を「力への意志」としてとらえるニーチェ」として ひごうりしゅぎは せうめいされている(日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館)。

*48:にーちぇは 『どうとくの けいふがく』で、 うつくしい という ことを わるいと かんがえる ことを どれいの どうとく として ひていした。

*49:三島憲一「ドイツの哲学者ニーチェの著作《人と超人》を書いた。しかし超人概念は,〈金髪の野獣〉といったニーチェの言葉とともに,やがてナチスイデオロギーの中で悪用されることにもなる。」、「超人」、『平凡社 世界大百科事典』、https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%C3%9Cbermensch

*50:「あのニーチェ(≡ツァラツストラ)の説く 「超人」というフィギュアも、過去と未来の一切を 「運命」として大いなる情熱をもって主体的に引き受けようと意志する者によって投 じられたその意志の投影像でなくて、一体他の何であろうか」(圓増治之(1989)「ニーチェに於ける生のメタファとしての『舞踏』」(https://nagano.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=680&item_no=1&page_id=13&block_id=17))

*51:道徳の系譜』は せいれき 1887ねんの 11がつ(かくめいれき 96ねん 2がつ から 3がつ)に しゅっぱんされた。にーちぇは その ぜんごに 『力への意志』を かいていた。(木場深定(きば・じんじょう)「解説」、209-211ぺーじ、ニーチェ道徳の系譜』、岩波文庫、せいれき 1940ねん)

*52:にーちぇの 『曙光』(しょこう)、『権力への意志』、『反キリスト者』、『道徳の系譜』など。 にーちぇは ぱうろの きりすときょうを、 そうりょてきな かち(価値)と かんがえていた。 にーちぇは ぱうろが つよい ものが わるく、 よい ものが わるい という かんがえ であったと かいている。「3:コリントの信徒への手紙二/ 12章 10節、それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」(聖書協会共同訳)

*53:びるへるむ・りひゃると・わーぐなー。Wilhelm Richard Wagner。せいれき 1813ねん から 1883ねん。『とりすたんと いぞるで』 (せいれき1857ねん から 1859ねん)などの どいつごの うたが ある げきを かいた。にーちぇは わーぐなーの ことが だいすき だったが、せいれき 1876ねん から きらいに なる

*54:〔まごびき〕にーちぇ(原佑・吉沢伝三郎訳)『生成の無垢(上)』(https://kangaeruhito.jp/article/15315)「もちろんこんにちでは、天分のとぼしい音楽家たちは、また金銭欲や名誉欲にかられた音楽家たちも、困った状態にあるのかもしれない。まさしく彼らにとって、音楽を作るヴァーグナーのやり方のうちには選りぬきの誘惑があるからである。つまりヴァーグナー的な手段や手くだで作曲するのは容易なことであるし、さらにまた「大衆」を興奮させようとするこんにちの芸術家たちの煽動的な要求のもとでは、いっそう報われることであるかもしれない、くわしく言えば、「一層効果的な」、「いっそう圧倒的な」、「いっそう的確な」、「いっそう感動的な」ことであり、かくて演劇賤民と素人的な熱狂家の隠しおおせない愛用語のとおりであるかもしれない。だが、芸術の問題において、「大衆」の喧騒と感激とに結局なんの意義があろう!優れた音楽はけっして「公衆」をもっていない、- それはけっして「公然たるもの」ではなく、またそうではありえず、それは最も選りぬきの者たちに属し、それはつねにただ ― 比喩でいえば ― 「私室」用にのみ現存すべきである。「大衆」は、彼らに最もよくおもねるすべを心得ている者を嗅ぎつける。大衆は大衆流儀ですべての煽動的な才子どもに感謝をささげ、自分たちにできるかぎり彼らにお返しをするのだ。」。 きげんぜん 400ねん(かくめいれき -2190ねん) ごろの こだい・ぎりしあの てつがくしゃ である そくらてすは、くにで しんじない かみかみを みちびき いれ、 せいしょうねんを だらくさせた として、 しけいに なった(ぷらとん(納富信留(のうとみ・のぶる)やく)『ソクラテスの弁明』、光文社古典新訳文庫、せいれき 2012ねんを よんだ。 ベンジャミン・ジャウエット、永江良一 (よみかたが わからない)じゅうやく、「ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じていると。」(https://open-shelf.appspot.com/ApologyOfSocrates/chapter2.html))。

*55:にーちぇは わーぐなーを 「クリングゾル中のクリングゾル」と なづけた(要出典☆)。くりんぐぞる とは、 わーぐなーの 『タンホイザー』、『パルジファル』で でてくる あくの まほうつかい である。『パルジファル』では、 くりんぐぞるの まほうに よって あれた しろを はなが さきみだれる にわに している(二幕)。また、 『パリジファル』では、 くりんぐぞるは くんどり という なまえの おんなに しろへの しんにゅうしゃたちを ゆうわくする ように あやつる。ひき

*56:ニーチェが『ヴァーグナーの場合』で用いた<ディレッタント>や<俳優>、<デカダンス>や<ヒステリー>といったキーワードは、第二次世界大戦までの間、ヴァーグナーをめぐる学界の論争の語彙を半ば規定することになる。」、立石拓也(たていし・たくや)「《ニーベルングの指輪》における脱民族主義的解釈の批判的考察」、ぴーでぃーえふ、https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8071&item_no=1&attribute_id=17&file_no=2