さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

ハッキング『記憶を書きかえる』読書会2

ハッキング『記憶を書きかえる』読書会2
2023/11/12

るーぷこうか: がいねんが ひとびとの こうどうを かえる。

4 ようじぎゃくたい
たじゅうじんかくの げんいんと ようじぎゃくたいが むすびつけられるが、 むかしから ようじぎゃくたいという がいねんが ある わけでは ない。 たとえば、 ありえす「こども という がいねんが ない」。 かいきゅう、 あく、 せい、 いがくかの よんてんを けんとうする。71 かいきゅうの もんだいは はずされて、 ぎょうじぎゃくたいは さいだいの あくと され、 せいが からむものと され、 いがくの たいしょうと される。 げんいんが いがくの たいしょうと なる。あたらしい ちしきが ひろがり、 あぷりおりに なる。しかし、 けいけんてきな けんきゅうで あきらかに される わけ では ない のであった……。78 きんぜいれぽーと。
82「一方には、幼児虐待についての信頼できる一般的知識が大量にある。そうした知識の多くは、幼児虐待の概念が形成されるにつれて、完全に発達してアプリオリなものになった。他方、数え切れない経験主義的な研究の中には、つじつまが合わない者がある。」→どのように これが せいりつするのか。

かいりせいしょうがいの どうが: じんかくの こうたいが おこる。 ぱーとなーが それを ふまえて せいかつしている。 にほん。 どうせいどうしの ぱーとなー。

英国動物虐待防止協会:The Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals, RSPCA
1824ねん
ja.wikipedia.org

「とりわけ裁判の焦点は,人間の子どもは広義の意味での「動物」であり,尐なくとも他の動物と同じ程度の保護は受けることができるとして,子どもの保護の観点から裁判が行われたことである.H.バーグ自身は動物保護の活動家であり,人間を動物に見立てて介入することに当初は否定的であったが,エミリー・トンプソン事件の失敗の経験を受け,メアリー・エレンを動物と見做すことで,児童保護の認識を社会から勝ち取る結果が得られたと解釈できる」
http://hdl.handle.net/10935/3423



『まっどとらべらーず』 あるきまわる ことが あくに みなされる。
あくとは なにかが じゅうよう。
どうとく、しんじつ、ちから

I have been belaboring a curious fact. On the one hand, there is an immense amount of confident general knowledge about child abuse. Much of that knowledge sprang full-blown, a priori, as the concept of child abuse was formed. on the other hand, the innumerable empirical studies do not add up. Sometimes they put in question what has always been taken for granted. What remainsf First, faith. Second, purely empirical experience of particular situations and individuals that confirm the faith. And the conviction stands that there must be knowledge to be had, if only we could get it. Perhaps that is what is wrong: an assumption about the possibility of knowledge and the kind of knowledge that it must be .
66

ようじぎゃくたいの あぷりおりな ちしきと けいけんしゅぎてきな ものが あって、 くいちがう。 しかし、 ようじぎゃくたいの あぷりおりな ちしきを しじする ものが のこっていく。
これこそが ようじぎゃくたい という ちしきの かのうせいと、 ようじぎゃくたいの ちしきは こういう もの であるのだ、 という しゅるいの ちしきが まちがっている。
ちしきの かのうせいに ついての かてい→これこそが ようじぎゃくたい という しんこうが まちがっている。
それに おうじて けいけんを ねじまげる ちしきも まちがっている。

81
ちしきが あるはずだ、 という ちしきの かのうせいが まちがっている。
しんねん という しゅるい では なく、 ちしき という しゅるいが えられると おもうのが まちがっている。

けいけんとは こういう もの である べきだ という いみで あぷりおり。
けいかんを かのうに する もの。
けいけんが あったら、 かならず みたしている じょうけん。


5じぇんだー
ひすてりー
だんせいの たじゅうじんかくを さがす
けいむしょに ちゅうもく。
なぜ たじゅうじんかくは じょせいの ほうが おおいのか。
1 おとこは はんざい、 おんなは びょういん
2 かいりせいを おんなが ゆるされる
3 ようじぎゃくたいが げんいん
4 あんじ
ふぇみにすとが おこなう しゅちょう。
「記憶についての専門家の知識、すなわち、われわれの魂が本当はどのようなものかをわれわれに教えてくれるはずの記憶の科学もまた、大きないかさまではなttかということ暗示しているのだ」100
「女性が多重人格者の多数を占めているのは、臨床家と患者の間に密かな協力関係が築かれることに原因があるのではないかということである。この協力は、女性を助けようとする目的でなされるのだが、実際には女性から権限を奪う旧体制を存続させる結果を招く。」93-4

にほんでは?
わかものの びょうりとして ろんじられてきた いんしょう。
さいとう・たまき、おおさわ・まさち
ふぇみにずむと むすびついてこなかった。
あめりかでは てれびで こくはつする ぶーむが あった。
にほんには なかった。
1990ねんだいまつに しょうねんはんざいが ふえたとされた という じだいが あって、 せいしんかいが こめんてーたーとして でてきて 「かいり」 として はなす。

さいごの しょうせつは、 ふぇみにすと として、 せらぴすとに たよらないで たじゅうじんかくの ぶんせきを おこなう。むかしの きおくも いかさまだと する。
この はっきんぐの えごの だしかたは つうじょう うんてん。

6げんいん
ひつようじゅうぶんじょうけん
ほうほうろんてきな めん
こどもの ときの とらうまで ていぎ して、 ちょうさ したら こどもの ときの とらうまとして はっけんする。
「臨床家が多重人格者の例を挙げるとき、特別な理由でもない限り、虐待を受けた経験のない患者を例として示すことはない」104
とらうまは ぷろとたいぷで あって、
とらうまは いんがで むすびつけられていない。
こどもの たじゅうじんかく


110「パットナムは、」想像に難くない「とか、」容易に推察できるだろう「とか、他には」仮定できる「といった修飾語句を、慎重に自分の議論にちりばめている。しかし、読者の方は、こうした語句や、おびただしいか「もしれない「やお「そらく「といった言葉は無視ししがちである。そして、これこそ事実そのものと、無条件で考えてしまうのだ。」

116-7「多重人格が幼児虐待のみによって引き起こされたと、考えるべきではない。むしろ、多重人格者は、自分の現状の原因を、自分の子供時代について次第に思い出したものの中に見いだし、それによって救われているのだ。これは特定の病因学としては通用するが、現在の事態は、もっと異常である。われわれが目にしているのは、過去を取り戻すことによってではなく、過去を記述し直し、考え直し、感じ直すことによって、自分自身を説明する方法なのである」


ひつようじゅうぶんじょうけんを いっていないのに、 ろーれんうぇすたいんの 「びょういんろん」 という ことばで、 げんいんを みてしまう。

「論理的な観点からすると、概念が次第にひとり歩きをしていった経過、自力で発展していった経緯を知ることは有益である。」104
「私は、概念の結びつきを確定するときの証拠の使い方に注目しているのである」105
ろんりてきな かんてん→がいねんの むすびつきを かくていする ときの しょうこの つかいかた
どうせいあいがいねん

はっけん だけでなく、 かこの つくりなおし。
「多重人格の特定の病因学――ローウェンスタインが自慢げに述べた発見――とは、対処の反応として子供のときに起きた分離のことである。しかし、われわれが子供の中に見つけるものは、別なものである。したがって、われわれは、まったく別種の多重人格へと導かれる。この障害は幼少期とその恐怖に対する見方になる。人は、幼いころに対処のために分離するのではない。むしろ、セラピーを受けているときに、自分は幼いころ、対処のために分離したのだと考え始めるのである」116
われわれ→いしゃも はいっている。 いしゃが はっけんしているのではなく、 こうしんしている。
てつがくしゃの しごと としての ろんりの ふわけ。
かがくてつがく ひはんに なっている。
てつがくしゃが いんがてき てつづきの はなしを する とき、 りんしょうでの やりかたを あまり けんとうしない。
「はっけんの もんだいでは ない」
はっけんに ついて かがく てつがくしゃは かんたんに かたる。

げんいんの つぎの そくてい というのは いみが ある。
どうやって はかるか、 を みないと いけない。

7そくてい
さいみんじゅつに かかりやすい と たじゅうじんかくに かんけいが あるという みかた
かいり けいけんしゃくど
120
「第二に、客観的アンケートの使用によって確立された連続体仮説は、因果関係の客観的理論という話へつながってゆく。第二の理由は、仮説を検証することは、それ自体が、検証の結果いかんにかかわらず、品質保証の証明書になるということである。」120
びねーに よる IQと たじゅうじんかくの けんきゅう
きゃりぷれいしょん: いままでの しゃくどの じょういごかんでないと いけない。しんりがくに おける こうせいがいねん。 しかし、 いままでの しゃくど とは? IQでは きょうつうにんしき。 たじゅうじんかくには それが ない。
125
れんぞくせいかせつを しょうめいしていない。

138「多重人格を測定するという行為が、多重人格を正当化し、それを知の対象へと変化させていく経緯を示す」

かなり つっこんでいる→ はっきんぐに とって とうけいがくは こあ だから はっきり かいている だろう。