さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

らかん、ろーまこーえん 14*


http://ecole-lacanienne.net/bibliolacan/seminaires-versions-critiques/
Rapport-de-Rome-3-versions-I-1.pdf http://ecole-lacanienne.net/wp-content/uploads/2016/04/Rapport-de-Rome-3-versions-I-1.pdf
p. 20(21/38) 1だんらくめ
http://aejcpp.free.fr/lacan/1953-09-26b.htm

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« Je n’ai été ceci que pour devenir ce que je puis être » : si telle n’était pas la pointe permanente de l’assomption que le sujet fait de ses mirages, où pourrait-on saisir ici un progrès ?

「わたし が まえ に ああ で あった の わ、 いま わたし が そーでありえる もの に なる ため で あった。」もし これ が しゅたい が じぶん の しんきろー から つくる ひきうけ の ずっと つづく さいぜんせん でない と すれば、 ここ で すすんできた こと お どこ で はあく(把握)する こと が できる の でしょー か?

「わたし が まえ に ああ で あった の わ、 いま わたし が そーでありえる もの に なる ため で あった。」 わ、 かこ から げんざい まで お いんがろんてき に かんがえる しゅたい の ことば である。 この ことば わ、 そーぞーてき かんけい に おける しんきろー から できた いめーじ お ひきうける こと である。 だから こそ、ぶんせき が すすんでいる こと が できる。つまり、 この はつげん お した とき わ、 あまり ぶんせき が すすんでいない と わかる。
je の つかいかた に ついて☆

« Je n’ai été ceci que pour devenir ce que je puis être »

ふくごー かこ の こぴゅら、 もくてき の なる、 げんてい の ne que、げんざい の こぴゅら で つくられた ぶん である。
わたし わ いま これこれ で ありえる。
わたし わ まえ わ あれこれ で あった。
「わたし が まえ に ああ で あった の わ、 いま わたし が そーでありえる もの に なる ため で あった。」

si telle n’était pas la pointe permanente de l’assomption que le sujet fait de ses mirages, où pourrait-on saisir ici un progrès ?

ひげんじつ の かてい と しゅーじ ぎもんぶん
じっさい わ、 telle est la pointe permanente... である ので、 ぶんせき が すすむ こと お りかい できる ばしょ が ある。

la pointe

せんたん
さいせんたん
さいだいげん、ぴーく
しげきぶつ の すくない りょー
しんらつな ことば、ひにく
みさき
とつにゅー
けんさき…

permanente

えいぞくする
れんぞくてきな
じょーにんの

la pointe permanente

れいぶん1

Lacan (1966:254) y ajoute l'assomption de son désir, sur lequel il ne faut pas avoir cédé et le «je» est pour lui «la pointe permanente de l'assomption».
https://books.google.co.jp/books?id=QHySDwAAQBAJ&pg=PA97&lpg=PA97&dq=%E2%80%9Dla+pointe+permanente%E2%80%9D&source=bl&ots=OoNinvaJbV&sig=ACfU3U1wpB0bWt7yFLHv2qhEnW9ChtStrA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjWjKXMuJnnAhVeyYsBHUZzAl4Q6AEwAHoECAkQAQ#v=onepage&q=%E2%80%9Dla%20pointe%20permanente%E2%80%9D&f=false

譲歩して わ いけなかった 欲望 の ひきうけ お ラカン わ 〔エディプスの ひきうけ に〕くわえて、 「わたし わ je」 わ その ひと に とって 「ひきうけ の えいえん の ちょーてん」 である。

この ろんぶん(せいしんぶんせき に おける らんがーじゅ と ぱろーる の りょーや と きのー)で、 らかん わ (よく りかいされていない)らんがーじゅ の こーぞー と (わすれられた)ぱろーる の きのー と りょーや に ふれる。 ぶんせき の りんしょー に おいて の それら の やくわり に ついて かかわる こと に おいて 。「まず きこえてくる の が むなしさ である の わ」 むなしい ぱろーる である から であり、 あたかも しゅたい わ むなしく はなしている だけ の よー だ。 そして、いかなる ぱろーる も たしゃ に むけられて いる から で、 はじまる の わ、 ふたしかな 契機 に ぶんせき の なか で みちた ぱろーる であり、 おかげで しゅたい に よる じしん の れきし の ひきうけ(l'assomption) が できる よー に なる。 みちた ぱろーる わ、 けっか として「かこ の ぐうぜん のできごと〔とる に たらない こと〕 お せいり しなおして、それら に きたるべき ひつぜんせい の いみ お あたえ」、しゅたい わ このよー に じぶん じしん の しんり(真理) に なる なか お すすんでいく、 「ぶんせき に とって もくてき に なりえる の わ、 ただしい ぱろーる の とーらい と みらい と しゅたい の かんけい に おいて しゅたい に よる じぶん の れきし の げんじつか しか ない。」 ぶんせき わ しゅたい の いっしゅ の「The-making-of」として ていじ される。 ただしい ぱろーる に よって、 「しゅたい わ はなさない より むしろ、 そこで はなされる」(らかん、1966:248, 283, 302)
Greimas に とって、 らかん に よる ぱろーる の さまざまな 「きのー」 の あいだ の くべつ わ、いどーさせられる。かがく わ しんり お びょーしゃ し、 しんり お こーじゅん としない(1966a:58)。しかし ひきうけ(l'assomption) わ ほか の れきし であり、 なぜなら この がいねん の おかげ で むいしき と いしき の あいだ の じだい に あわない くべつ お やっかいばらい してくれる から だ。 じぇんだー お ともなって、 この くべつ に きそ お おく ぶんぽーてきな かてごりー お、 げんごがくしゃ が そーぞーする の わ むずかしい から だ。「ふくすーけい わ ぜんいしき の なか お つーかしていて、 ちょくせつほー わ しゅかんてき むいしき と たいりつしている だろー」Greimas が どーい する の わ、 めるろぽんてぃ が いった こと、 つまり、この くべつ わ もはや にんげん かがく で わ だとうせい が ない だ。Greimas わ いしき と むいしき の にこーたいりつ に こんわく して、 「こじんてき に わ、 こーきしん が たくさん ある ので、それ お ひきうけ(assomption)の がいねん に おきかえよー とする らかん の どりょく」 (1966a:190)に ついて いく こと お きめる。

ひきうけ(l'assomption) わ、 けっして せいしんぶんせき の がいねん で わ なく、 たとえば、 はいじょ や しょーちょーてきなもの みたい で ある。 らぷらんしぇ と ぽんたりす(1997) の 辞典 で わ、 この ご わ さんかい でてくる、 しゅたい わ なにか お ひきうけ べき と よー ため に。 しゅたい に とって こゆー の もの お こーていし、 こゆー で ない もの、 つまり たにん お きょぜつする(45)。しかし この ご わ せいしんぶんせき の がいねん の ちい お うけとらない。 したがって、 つかみずらい の わ Greimas が、その とき らかん わ ひきうけ お むいしき と いしき の あいだ の くべつ に おきかえよー としていた とゆー とき に かんがえていた こと である。

45
じぶんじしん の きょーぞー の、 じぶんじしん の せっくす の、 じぶん じしん の えでぃぷす(らぷらんしぇ、ぽんたりす 1967:80, 311, 452) の よろこび の ひきうけ である。譲歩して わ いけなかった 欲望 の ひきうけ お ラカン わ 〔エディプスの ひきうけ など に〕くわえて、 「わたし わ je」 わ その ひと に とって 「ひきうけ の えいえん の ちょーてん」 である。こーてい(肯定)(Bejahung) わ もっとも ひきうけ に 近い がいねん だが、 (はんだん の)おこない お そーきさせる。 ひにん(否認) と おなじ よー に。ひきうえk わ むしろ なにか お さいよーする かんねん であり、 しんたい や じが の なか に とりくむ こと の かんねん であり、しゅたい の 生じる こと だ。 その はんたい に よって ほかんされる。 その はんたい わ、 きょぜつ に よる はいしゅつ(Verwerfung)(Lacan, 1966:387) である。Greimas の ほー で わ、、、、)

れいぶん2

Labellisation « Industrie du Futur »
A la pointe permanente des nouvelles technologies par la participation aux salons professionnels, aux colloques, …

つね に さいぜんせん

れいぶん3

Plus d’efficacité et de performances pour nos clients.

Un atelier plus grand, plus de facilité et plus de rapidité de travail, une équipe mécanique plus importante avec 3 mécaniciens In-Bord, 4 mécaniciens Hors-Bord, 2 préparateurs et 1 magasinier, un investissement important en matériel technique et une équipe mécanique à la pointe permanente des dernières formations.

つね に さいぜんせん

une assomption

仮定、想定
小前提
(哲学)受任、受諾
ひきうけ

mirage

hunihunisaito.hatenablog.com

Il saisit alors la différence entre le mirage de monologue dont les fantaisies accommodantes animaient sa jactance et le travail forcé de ce discours sans échappatoire

そのとき、 この ひと わ ちがい お つかんでいる の です。その〔ものろーぐ の 〕 つごー の よい げんそー が じぶん の うぬぼれ〔の おしゃべり〕 お うごかしていた ものろーぐ の しんきろー〔つまり、 あるよー に おもえた が じっさい に わ ない もの〕 と、 にげば の ない きょうせいろーどー

と かんけい している かも しれない。

progrès

hunihunisaito.hatenablog.com

comment l’ouvrage progresse-t-il ici ?

どのよー に さくひん わ ここ で すすんでいく の でしょー か?

と かんけいしている かもしれない。わからない。


ふぃんく の えいやく

"I was this only in order to become what I can be": if this were not the con­stant culmination of the subject's assumption [assomption] of his own mirages, where could we find progress here?