さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

ばでぃうの にーちぇ0-1 どくしょかいの あと

じゅんび、したしらべ、よびがく→よびてき・こうさつ
すたいる→りゅうの
いろわけ→さくじょ
せい→いのち、せいめい
しゅかんてき→しゅたいの
あんじてきに→とうぜんの ごとく

ばでぃうの にーちぇ0-1
7-9ぺーじ
かくめいれき 229ねん 7がつ 8にち、Décade I Octidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 28にちの どくしょかいを ふまえて、 かきなおした もの。
もともとは、せいれき 2021ねん 3がつ 22にち、 かくめいれき 229ねん 7がつ 2にち に かいた。(Décade I Doudi, Germinal an CCXXIX)
せいれき 2021ねん 3がつ 23にち、24にち(かくめいれき 229ねん 7がつ 3にち、4にち、Décade I Tridi,Quartidi, Germinal an CCXXIX)に あおいろで かきたした。


かくめいれき 229ねん 7がつ 5にち、Décade I Quintidi, Germinal an CCXXIX、(せいれき 2021ねん 3がつ 25にち)に みどりいろで かきたした。

「永遠のユダヤ人は、女が惚れて自分のものにしてしまったら、どうなるのだ。それは簡単なこと、そのときにユダヤ人は永遠ではなくなるのさ。結婚し、われわれとは関係がなくなるのだ。・・・現実的な言い方をすれば、女は芸術家や天才(永遠のユダヤ人とは彼らのことなのだ)にとって危険なのだ。惚れる女は、ユダヤ人をだめにする。」(ニーチェワーグナーの場合』、Der Fall Wagner, in Nietzsche: Werke in drei Bänden, München 1966 (Schlechta-Ausgabe), Bd. 2, S. 909(筆者〔かまた〕訳)) ここでニーチェが「天才芸術家」ワーグナーと永遠のユダヤ人を同一視していることは明らかである。永遠のユダヤ人とは、まさに自由へと呪われ、故郷の大地を失い、文化的根無し草として伝統的共同体に背を向け、一八四八年のドレスデン蜂起に加わった革命家ワーグナーの別名といってよい。
鎌田康男(かまた・やすお) 「パルジファル ― 近代市民社会の中でのミットライト」」『ショーペンハウアー研究』第 5 号(2000 年 11 月 15 日)57-76 ページ。ぴーでぃーえふ、http://www.schopenhauer.org/organ/lib/kamata_yasuo/mitleid.pdf

ほんとうか?

0

Alain Badiou
Le Séminaire
NIETZSCHE
L’antiphilosophie 1
1992‑1993
Texte établi par Véronique Pineau
Ouvertures
Fayard

あらん・ばでぃう
こうぎ(講義)
にーちぇ
はん・てつがく 1
せいれき 1992ねん から 1923ねん
べろにっく・ぴのー こうてい(校訂)
うべふちゃー(じょきょく)
ふぁいやー

À propos du séminaire de 1992‑1993
consacré à Nietzsche

にーちぇに ついての せいれき 1992ねん から 1993ねんの こうぎ(講義)に かんして。

1

1.1

Nombre de mes séminaires s’inscrivent dans la préparation d’un livre où se dépose, de façon systématique, l’état de développement de ma philosophie.

わたしの こうぎの おおくは、いっさつの ほんの したしらべに ふくまれています。その ほんで、 じぶんの てつがくの しんてん・じょうきょうを たいけいてきに つみあげています 。

se déposer: ちんでんする、 ほこりなどが つもる
préparation: したしらべ、よしゅう、じゅんび、ようい
s'inscrire:とうろくする、ふくまれる、いちする、きざみこまれる

1.2

C’est ainsi que les séminaires des années 1975 à 1980 sont en quelque sorte totalisés et stylisés dans Théorie du sujet, publié en 1982.

こうして、 せいれき 1975ねん から 1980ねんの こうぎが あるいみで、 ひとつに まとめられ、ぶんしょうに された 〔きざみこまれた、ものにした☆〕 『しゅたいの りろん』*1を、 せいれき 1982ねんに しゅっぱんされました。

totaliser : A. − Rassembler en un total, faire la somme.
styliser: 3. Domaine littér., moral.Imprimer la marque particulière d'un écrivain, d'une forme de pensée, etc.

1.3

Il est également évident que les séminaires situés entre 1983 et 1987 cumulent des références classiques, tant philosophiques (Parménide, Platon, Aristote, Descartes, Spinoza, Leibniz, Kant, Hegel, Heidegger) que poétiques (Hölderlin, Mandelstam, Pessoa, Celan), ainsi que des constructions conceptuelles (les quatre conditions de la philosophie, le multiple-­sans-­un, l’événement, le générique…), qui seront architecturées dans L’être et l’événement, publié en 1988.

また 〔しゅたいのろんりが ながねんの つみかさねで できたのと おなじように〕おなじように あきらかなことは、 つぎのことです。 せいれき 1983ねん から 1987ねん までの あいだの こうぎは〔も☆〕、こてんてきに ふれえられる〔参照される、言及される〕 ことを つみかさねてきました☆。てつがくに ついても(ぱるめにです、ぷらとん、ありすとてれす、でかると、すぴのざ、らいぷにっつ、かんと、へーげる、はいでっがー)、ぽえむの しに ついても ふれてきました(へるだーりん、まんだりしゅたーむ(Mandelstam)*2, ぺそあ(Pessoa)*3, つぇらん(Celan)*4)。がいねんてきに こうちくされたもの(てつがくと、 できごとと、いちなきた(一なき多)と、るい・せいせい(類生成)てきな ものの よっつの じょうけん…)を つみかさねました。それらを きっちりと くみたてて、 『そんざいと できごと』*5を せいれき 1988ねんに しゅっぱん しました。

☆しゅたいのりろんとの ちがいは? おなじく こてんに ふれていた? 要調査☆
cumuler: るいせきする、せきさんする。かじゅうする
tant... que...: も…も、と どうように

1.4

Logiques des mondes (2005), outre une longue et solide préparation mathématique concernant la théorie des catégories, s’est nourri de l’importante révision de ma théorie du sujet dans le séminaire de 1996‑1998, puis des séminaires du début des années 2000, moins historiques, plus déployés dans le contemporain, comme Images du temps présent (2001‑2004) et S’orienter dans la pensée, s’orienter dans l’existence (2004‑2007).

かてごりーの りろんに かんする ぼうだい(膨大)で ないようの つまった、すうがくてきな じゅんび〔したしらべ?予備学?☆〕に くわえて、『せかいの ろんり』*6(せいれき 2005ねん)は、 せいれき 1996ねん から 1998ねんの こうぎに おける、 じぶんの しゅたいの りろんの だいじな しゅうせいと、 そして、2000ねんの はじめの こうぎも とりこみました。この こうぎは、〔☆どのこうぎ?〕あまり れきしてき ではなく、げんだいに ついて いままで よりも くりひろげました。『げんざい という ときの いめーじ』*7(せいれき 2001ねん から 2004ねん)と、 『かんがえる ことに おいて すすむ、 ある という ことに おいて すすむ』*8(せいれき 2004ねん から 2007ねん)も どうよう(同様)です。

se nourrir de:にふける、たべる、とりこむ
l’importante révisionは なぜ la révision importante ではない のか?
développer : くわしく かいせつする、 ふえん する
se développer : ひろがる
le contemporain

B.− Subst. masc. sing. avec valeur de neutre, littér. L'époque contemporaine :
8. Un de ces normaliens émancipés (...) dont la solide culture forme un acquis, un passé, qu'ils respectent mais qui ne les intéresse plus bien profondément, et par dessus lequel ils sont impatients de sauter pour entrer dans le contemporain. Thibaudet, Hist. de la litt. fr. de 1789 à nos jours,1936, p. 460.
https://www.cnrtl.fr/definition/contemporain

s'orienter: ほうこうを さだめる、 ある ほうこうに すすむ、みちすじを みつける

2

2.1

Bien qu’il se soit finalement inscrit dans une série, de 1992 à 1996, bâtie autour du motif – plus ancien – de l’antiphilosophie, et qui enveloppe finalement Lacan, Wittgenstein et saint Paul, le séminaire sur Nietzsche, ici restitué dans son étrange labyrinthe par le travail acharné de Véronique Pineau, résulte de ce qu’on peut appeler une décision pure, dont le résultat ne s’est pas inscrit dans les grandes scansions livresques de mon entreprise. Il est même resté à part de ses compagnons, les antiphilosophes modernes et antiques.

にーちぇに ついての こうぎは、さいごには、 はん・てつがく という(いままで より ふるい) わだいに ついて つくられた せいれき 1992ねん から 1996ねん までの しりーずの なかに ふくまれています。らかん、うぃとげんしゅたいん、せい・ぱうろ*9を さいごには〔きゅうきょくてきに?☆〕 ふくんでいます〔まで 〔こうぎでは じゅんばんに〕 てんかいしています☆〕。それ にも かかわらず、この にーちぇに ついての こうぎを、 べろにっく・ぴのーが ねっしんに はたらいてくれて、 ここでは にーちぇの きみょうな めいろ*10〔こうぎの へんに いりくんだもの☆〕の なかに いちづけなおしました。この こうぎは、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃく(décision pure)と よべる ものの けっか です。そして、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃくの けっかは、 わたしの とりくみを ほんの うえ だけで〔机上(きじょう)の〕 おおきく くぎって はっきり させた もの(scansions)には ふくまれていません。にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの はん・てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです☆。

ぱうろを はんてつがくに いれるなら、 むしろ にーちぇは てつがくしゃ という ばでぃうの ぶんみゃく。 なるほど。
bien que :にもかかわらず。せつぞくほうが つかわれる。
finalement :さいごに
motif: II.− ARTS. Sujet qui domine une œuvre d'art, un ouvrage.
autour de : について、にかんして
bâtie: たてられた、かたちづくられた
envelopper : ふくむ
le labyrinthe :めいろ、めいきゅう、いりこんだもの、さくそうさしたもの

acharné : はげしい、しつような、s'acharner àに ねっちゅうする、 むちゅうになる

”Qui manifeste une ardeur opiniâtre : Travail, combat acharné.”
https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/acharn%C3%A9/664

(ardeur : ねつい、はげしさ
opiniâtre : ねづよい、しつこい、たゆみない)


livresques :ほんの うえ だけの、 きじょう(机上)の
entreprise : けいかく、くわだて、(とりくみ)

A.−
1. Action d'entreprendre quelque chose; ce que quelqu'un entreprend.
https://www.cnrtl.fr/definition/entreprise
B.− Entreprendre + subst. désignant une action ou son résultat ou + de + inf.
1. Mettre à exécution un projet nécessitant de longs efforts, la réunion de moyens, une coordination, etc. Entreprendre des études, des recherches, l'ascension de l'Éverest.
https://www.cnrtl.fr/definition/entreprise

scansion :いんりつ・ぶんせき、いんりつを はっきり させた はつおん、 だんぞくせいげんご、おんせつを くぎって はつおんする げんご しょうがい

じゅんりろんてきな けっちゃく

décision pure
purが うしろに あるので、 まったくの という いみではない。 じゅんすいな、 じゅん(純)りろんてきな という いみが ある。
décisionは けってい だと おもっていたが、 むしろ けっちゃく、 かいけつ のほうが いいだろう。
ただし、 らかんに おいて、 けっていは いちべつ、りかい、けつだん という ろんりてき だんかい として もんだいに される。『エクリ』「論理的時間と予期される確実性の断言」に かいてある。 じぶんが よまずに、 ロバート・サミュエルズ『哲学による精神分析入門』から まとめる。 いちべつの ときには、 じぶんの ほかに じぶん みたいな ほかのものが いると わかるが、 じぶんが なにものかは わからない。 りかいの ときには、ほかのものも じぶんと おなじで、 それぞれに とっての じぶんが なにものなのかは わからないと わかる。 そして、 けつだんの ときには、 じぶんが なにものかは わからないが、 とりあえず なにか であると きめて はなしを はじめる ことに なる。
せいしんぶんせきの ぶんみゃく ではなく、 せいじの ぶんみゃくの ことば かもしれない。 わからない。 要調査。

とりくみの きじょうで おおきく わける こと

les grandes scansions livresques de mon entreprise
「おおきく」とgrandeを やくしたが、 「おおざっぱな」という いみが ある のだろうか?
または、 「いだいな」 という いみも あるの だろうか?
acharnéと grandを くらべている だろうか?

すかんしおん

scansion :いんりつ・ぶんせき、いんりつを はっきり させた はつおん、 だんぞくせいげんご、おんせつを くぎって はつおんする げんご しょうがい
しかし、 ここでは、らかんの scander, scandation、 らかんは せいしんぶんせきかの ぶるーす・ふぃんくに よれば、 punctuation、くとうほう(句読法)を かんがえている だろう。らかんに よれば、 せいしんぶんせきの せあんす という なまえの いっかいの かいわを みじかい じかんで やめたり、 ながい じかん まで つづける ことが すかんしおん、ぱんくちゅあしおん、くとうほう である。らかんに よれば、せいしんぶんせきの ちりょうを おなじ じかんで くぎらずに、かんじゃ、くらいあんと、ぶんせきしゅたいの はなしから くぎる べき ときに くぎる べき である。 「らかんてき・たんじかん・せっしょん」と よばれるが、 らかんは・せいしんぶんせきでは 「へんじかん(変時間)・せっしょん」と よばれる(らかんも そういっていたかは かくにんしていない)。ただし、 だいじなことは、 この へんじかん せっしょんは しんけいしょうしゃには とても うまく いくが、 せいしんびょうしゃに つかうと とても まずい ので ちゅういが ひつよう である。
ここでは、 くぎる ことで、 はっきり させる という いみだと おもう。

"Tout au contraire l’art de l’analyste doit être de suspendre les certitudes du sujet, jusqu’à ce que s’en consument les derniers mirages. Et c’est dans le discours que doit se scander leur résolution."
FONCTION ET CHAMP DE LA PAROLE ET DU LANGAGE EN PSYCHANALYSE
par Jacques LACAN
http://aejcpp.free.fr/lacan/1953-09-26b.htm
「分析家の技術[art]はこれとはまったく反対に、主体の幻影が最後まで使い尽くされるまで、主体の確信を失効[suspendre]させるようにしなければならないのです。主体の幻影の解消[resolution]がスカンシオンされる[scander]のは、ディスクールにおいてです。」
http://psychanalyse.hatenablog.com/entry/20041123/p1

「このように、巧みな句読法[ponctuation]こそが主体のディスクールに意味を与えるものなのです。なぜセッションの中断が、分析家による介入の価値のすべてを持つスカンシオンの役割を果たすのかという理由がここにあるのです*12。現代の技法は、セッションを純粋に時間で決めて終わらせ、主体のディスクールの大筋=横糸[trame]を度外視しています。〔スカンシオンによる〕分析家の介入は、決断の瞬間を準備するものです。それだからこそ、私たちは〔セッションの〕終結を習慣的な体制から開放して、終結を技法の有用な目的すべてにむけて従わせなければならないのです。」
http://psychanalyse.hatenablog.com/entry/20041123/p1

scansion

C. − Au fig. Toute expression (de la pensée, des sentiments, etc.) où les temps forts sont régulièrement et fortement marqués.
https://www.cnrtl.fr/definition/scansions

けっか

「この こうぎの けっかは、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃく(décision pure)と よべる もの です。そして、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃくの けっかは、 わたしの とりくみを ほんの うえ だけで おおきく くぎって はっきり させた ものには ふくまれていません。」
けっか(résultat)は、 かいとう(解答)、こたえ という いみが ある。

のまま???

Il est même resté à part de ses compagnons, les antiphilosophes modernes et antiques.
「その こうぎの なかま、 つまり それらの げんだいと こだいの はん・てつがくは、 べつの ままで さえ ありました。」と やくしていた。 まちがい。
Ilは にーちぇ だし、 ふぃろぞふぃー ではなく、 ふぃろぞふ、 つまり てつがくしゃ である。
さらに、 moderneは antique、こだいと くべつするなら、 きんだい(temps modernes きんせい(近世)、「古代の対立概念で、中世を含むこともあるが、特にルネサンス期以後」 らしい)と やくした ほうが いいきがする。
「にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。」
要調査。
à part deは みらいに ついて 「そのとき から」 という いみである。 そして、 つぎの ぶんの depuisは かこについて 「そのとき から」という いみ である。

2.2

Lacan était depuis fort longtemps omniprésent dans mon œuvre. Wittgenstein, génial à sa façon, mais référence obligée de la triste « philosophie analytique » était pour moi, dans le champ de bataille idéologique contemporain, une cible désignée, à laquelle j’ai fait un sort dans L’Antiphilosophie de Wittgenstein.

らかんは わたしの さくひんの なかに かなり まえ から、いつも あらわれて きました。うぃとげんしゅたいんは、うぃとげんしゅたいんの やりかたに おいては てんさい でしたが、なさけない 「ぶんせき てつがく」に ついて/が かならず ふれないと いけない という ことは、 わたしに とっては、 その ときの/げんだいの いでおろぎー てきな たたかいの ばに おいて、かっこうの えもの〔 ねらった たーげっと〕 でした。『うぃとげんしゅたいんの はんてつがく』で その えもの〔たーげっと〕を こんぜつ しました。

omniprésenter
omniprésent: へんざいの(遍在の)
génial : てんさいてきな、 すばらしい
à sa façon :じぶんの やりかた で、 じぶんの このみ で、 じぶんなりに、 それなりに
obligé/e

A. − Qui est imposé par les circonstances, les faits, dont la fonction semble nécessaire, d'usage.
1. [En parlant d'une chose]
− Qu'il paraît nécessaire de faire, à quoi l'on ne peut échapper, dont on ne peut se dispenser.
〔いんようしゃ ちゅう: りゃく〕
− Qui est prévisible et semble inévitable.

obliger :ぎむを おわせる、 を しいる(強いる)、きょうせいする
contemporain: その ときの/げんだいの
moderne/ antique と べつの かんがえかた として いれている ならば、 「その ときの」 という いみであり、 つなげて かんがえている なら、 「げんだいの」 という いみ である。わからない。要調査。


référence de は …が ふれる こと、 …に ふれる ことの ふたつの いみが ある。 「 「ぶんせき てつがく」に ついて/が かならず ふれ」もんだい。 わからない。 要調査。
tristは めいしの まえで、 「くだらない」、「なさけない」、「なげかわしい」 という いみに なる。
le champ de bataille: せんじょう(戦場)
cible: もくひょう、たーげっと、ひょうてき
désiger A à B : Aを Bの まとにする。
faire un sort à : きょうちょうする、ひろめる、こんぜつする、かたをつける、たべる、 のむ

depuis fort longtemps

depuis longtemps は ながい まえ から という いみ である。

c) Loc. adv. cour.
♦ Depuis longtemps. Cela fait un long temps.

Voilà le plus joli Courbet que j'aie vu depuis longtemps (Duhamel, Nuit St-Jean,1935, p. 25).
Un cimetière depuis longtemps abandonné (Gracq, Argol,1938, p. 48):

11. À ce moment même, Joseph surgit sur le trottoir de la rue d'Amsterdam, juste à côté de Laurent. − Tu m'attendais depuis longtemps? fit-il. − Non, répondit Laurent, j'arrive à l'instant même. Duhamel, Chronique des Pasquier,Le Combat contre les ombres, 1939, p. 27.

Depuis si longtemps.
Tiens! Voilà notre gros fer à repasser que nous réclamons depuis si longtemps! (Bernanos, Dialog. Carm.,1948, 2etabl., 6, p. 1591).

しかし、 depuis fort longtemps という ことばは じしょに ない。
さらに、 fortと longtempsを つなげる ことも じしょに みつからない。temps fortは、 おんがくの きょうはく(強拍)である。
しかし、 depuis fort longtempsは いろいろな れいぶんを みつけられた。かせんを さいとーが つけくわえた。

https://www.linguee.fr/francais-anglais/traduction/depuis+fort+longtemps.html
Elle va garantir une certitude juridique et un statut positif au niveau européen aux coopératives, chose dont nous discutons depuis fort longtemps. europarl.europa.eu

It is going to give legal certainty and positive status at European level to cooperatives, something for which we have argued for a long time.
europarl.europa.eu


Cette mesure sur les ponts et tunnels internationaux était attendue depuis fort longtemps et elle s'impose. www2.parl.gc.ca

The international bridges and tunnels act has been long overdue and is necessary.
www2.parl.gc.ca


Depuis fort longtemps, il se dégage un consensus autour de ce fait.
www2.parl.gc.ca

There has been consensus on that for some time now. 〔いんようしゃ ちゅう: しばらく という いみ である。〕
www2.parl.gc.ca


C'était comme si tout le monde se connaissait depuis fort longtemps.
curia.op.org

It was as if we knew each other for ages.
curia.op.org


[...] de profiter de l'élan suscité pour sortir la Conférence de l'impasse dans laquelle elle se trouve depuis fort longtemps.
daccess-ods.un.org

[...] common ground to build upon the momentum created to move the Conference on Disarmament out of its long-standing stalemate. 〔いんようしゃ ちゅう: ながねんに わたる という いみ である。〕
daccess-ods.un.org


Toutes les législations nationales acceptent depuis fort longtemps la réparation du préjudice moral, tant pour la victime [...]
concernedhistorians.org

All national legislations have long accepted compensation for moral injury, both for the direct victim and for his heirs.
concernedhistorians.org

あまり fortを もんだいに しなくて いい ようだ。
にちふつ じしょにも、 fortは かずが おおい ことを あらわす とも かいていあるし、 かずの ひょうげんは かなり かんたんに はいってくる から、「かなり」と やくした。

2.3

Quant à saint Paul, je lui ai consacré en 1998 un livre, Saint Paul, la fondation de l’universalisme, qui a fait le tour du monde, et je l’avais déjà implicitement convoqué, dès 1989, dans ma tragédie L’Incident d’Antioche. Rien de tel pour Nietzsche. Ni préparé, ni relayé, le présent séminaire laisse Nietzsche à part dans mon entreprise.

せい・ぱうろに ついて、はやくも せいれき 1998ねんに いっさつの ほんんを かきました。 せい・ぱうろは 〔いわゆる〕ふへんしゅぎ(普遍主義)を つくった もので あって、 せい・ぱうろは せかいを まわりました。すでに せいれき 1989ねん から わたしが つくった『あんてぃおきあ*11 じけん*12*13という ひげきで それとなく よびだしました☆。にーちぇに ついては そのような ことは なにも していません。予備的な準備〔したしらべ☆〕も せず、 ひきつぎも せず、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけた ままに しておきました☆。

dés: から、 はやくも…に
universalisme: ふへんしゅぎ、 ばんにんきゅうさいろん(万人救済論)、ばんにんきしんろん(万人帰神論)、ふへんごういしゅぎ
convoquer: めいれいして こさせる。
rien de tel:rienに けいようしが つく ときは、 deが あいだに はいる。ちゅうしょうてきな めいしは だいたい そう。quelque chose とか。ここは、 (il n'y a pas)が しょうしゃく されていると かんがえられる。
relayer: しごとなどを ひきつぐ、こうたいする
Ni préparé「したしらべ しないで」は なにも していない という いみに とられる かもしれない。 「じゅんび しないで」の ほうが いいかも しれない。しかし、

Nombre de mes séminaires s’inscrivent dans la préparation d’un livre où se dépose, de façon systématique, l’état de développement de ma philosophie.
わたしの こうぎの おおくは、 じぶんの てつがくの しんてんじょうきょうが たいけいてきに つりつもった、 いっさつの ほんの したしらべに ふくまれています
(この ぺーじ、 ばでぃうの にーちぇ0-1)

の 「したしらべ」préparationと たいおうさせるには どうすれば いいか。
Ni préparé, ni relayé という ことばづかいの はいけいが なにか あるかと おもったが、 わからなかった。 なさそう。
présent: (めいしの まえで、) この、いま ものんだいに なっている
à part:はなれて、れいがいてきな、どくじの、べつの、ほかとはなして、わきにのけて、をのぞいて、はべつとして

せいぱうろは ふへんしゅぎか ばんにんきゅうさいしゅぎか

アラン・バディウ 著、長原 豊 訳、松本 潤一郎 訳『聖パウロ、普遍主義の基礎』、せいれき 2004ねん、 河井書房新社
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309243269/
が あるが、 やくは やくが ひどい ながはら・ゆたかだ。 これだけで、 ふへんしゅぎと やくさない ほうが いい きがしてきた。
さいーど『フロイトと非ーヨーロッパ人』は ながはらに しては よい やく だった。
べるさーにの ふろいとてき しんたい、 ほもず(『ホモセクシャリティ』)、『フロイトと非ーヨーロッパ人』の やくしゃかいせつは ひどかった。
らかんは せいしんぶんせきの えいきょうを うけすぎると、 このような わるい ほんやくに なるという かなしい ぐたいれいだ。 いましめに しよう。
けいざいの せんもんか なので、 けいざいを かいた ものは うまいの かもしれない。
しかし、 おそらく、 「ふへんしゅぎ」 で あっている。
なぜなら、 どうやら、 かみが すくうかが もんだいに なっている のでは なく、 ただしい ことと いう いみの、 しんり(真理)が もんだいに なっている からだ。
PHILIPPE CIBOIS(ふぃりっぷ・しぼわ)という れきしかの ぶんしょうを よんでみよう。https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792

Se confronter à Paul après Pascal, Hegel, Nietzsche qui sont ici critiqués, et Lacan qui semble suivi, est un exercice où le lecteur non habituel de Badiou doit se cramponner mais où apparait cependant la thèse que l’universalisme est fondé par la proclamation d’une vérité.
https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792
ぐーぐる やく「ここで批判されているパスカルヘーゲルニーチェ、そして従うように見えるラカンの後にポールと対峙するのは、バディウの慣れない読者がしがみつく必要がある演習ですが、それにもかかわらず、普遍性は真実の宣言によって確立されているという説が現れます。」

しかし、 つぎの ぶぶんは、 「ばんにん・きゅうさい・ろん」に ちかい。 しかし、 ぱうろ いがいにも ふへんしゅぎ という ことばが つかわれているので、 ふへんしゅぎ という いみ だろう。

la logique des repas pris en commun et la dynamique de rapprochement que cela a entrainé ont fait prendre conscience à Paul que le salut chrétien était universel et que l’ancienne opposition entre juifs et païens était caduque. Cependant, le fait que ce soit une logique interne, bien attestée historiquement, qui ait conduit Paul à souligner l’universalisme du salut ne peut nous dispenser d’examiner les autres universalismes, celui des juifs, celui du stoïcisme, celui de la politique romaine avec lesquels il était en contact et qui peuvent l’avoir influencé.
https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792
ぐーぐる やく「しかし、それが歴史的に十分に証明された内部論理であり、パウロが救いの普遍主義を強調するようになったという事実は、他の普遍主義、ユダヤ人の普遍主義、ストア派の普遍主義、ローマの政治の普遍主義を検討することから私たちを解放することはできません。連絡を取り合っていて、誰が彼に影響を与えたのかもしれません。」

https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792
おそらく、ばでぃうの ぎろんは、 きりすときょうに かいしん(回心) する という できごとを きっかけに、 きりすときょうの ふきょう という せいじを とおして、 きりすとの ふっかつ という しんり(真理)を つくりだす という ように せいり できると おもう。わからないが。

「28:ガラテヤの信徒への手紙/ 03章 28節
ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」
聖書協会共同訳
https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

ちなみに ばでぃうに とって しんりは、 よっつの ぷろせすから つくられる もの である。 すうがく、せいじ、ぽえむ、あいが よっつの ぷろせす である。

implicitement convoqué

Au-delà des techniques employées, quel(s) modèle(s) de structuration de l’action et de l’organisation est/sont incorporé(s) et implicitement convoqué(s) dans les discours des professionnels ?
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-01150593

Ni préparé, ni relayé... laisse Nietzsche à part dans mon entreprise

「したしらべも しない ままに、 ひきつぎも しない ままに、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけて、 そのような ままに しておきました。」
じしんがない、わからない。 要調査。
laisse Nietzsche Ni préparé, ni relayé を きほんに、 にーちぇを かこぶんしの ままに しておく という いみで かいしゃくした。
à partは、 にーちぇに かかって、 ほかと にーちぇを はなして という いみと かんがえた。
dans mon entrepriseも にーちぇに かかる ように やくしたが、 もしかしたら、 とりくみを していく なかで、 という ほうこうに やくした ほうが いいかもしれない。

べつの よみかた としては、
「したしらべも せず、 ひきつぎも せず、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけた ままに しておきました。」
Ni préparé, ni relayéは この こうぎを せつめいする ことばと かんがえる。
à partは そのまえの、
Il est même resté à part de ses compagnons, les antiphilosophes modernes et antiques.
「にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの はん・てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。」
の à part de ses compagnonsと おなじと よんだ。
こっちの ほうが よさそう。

3

3.1

Mais n’est-­ce pas son destin, en vérité ? Plus je l’étudiais en vue du séminaire, plus je devenais familier non seulement de ses écrits, mais de sa vie, et plus encore peut-­être de la forme subjective qu’il ne cessait de requérir et de lui-­même et de ses lecteurs, plus je voyais la sorte de sainteté, d’absolue solitude, de désert social, dans lequel, progressivement, il s’est enfoncé.

しかし、 じっさいに それ〔にーちぇを はなした ままにして おくこと〕が にーちぇの うんめい*14 では ない でしょうか?〔にーちぇを はなした ままに しておくことが、にーちぇの うんめいに につかわしいの では ない でしょうか?〕 こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの いきかたに なじんできました *15。 そして、おそらく さらに より、 にーちぇは もとめ つづけた しゅかんてき☆・けいしき*16に なれてきました。にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたちにも なじんできました。その たぐい*17の しんせい(神聖)さえお みれば みる ほど、 ぜったいてきな こどく*18、 ひとづきあいの/しゃかいの こうや(荒野)に なれていきました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。


destin: うんめい、しゅくめい、ぜんと、いきすえ、しょうらい、しょうがい、じゅみょう
en vérité: ほんとうに、じっさいに (だんげんの きょうちょう)
en vue de: のために
ne cesse de:つづける (「せずには いられなかった」ではない。)
familier:なじんだ、したしい、なじみの、なれた、せいつう(精通)した、しゅうじゅくした
plus encore:encore plusと おなじ いみに なる ようだ。 さらに より。
subjectif: しゅかんてきな、 こじんてきな
requérir: つよく ようきゅうする、ようせいする、せいきゅうする、きゅうけいする、ちょうようする、とくべつに どういんする、こんがんする
de soi-même: じぶんのいしで、 ひとりでに
la sorte :しゅるい、ぶるい、しかた、ほうほう、みせいせい(未精製)のくすり、なまのじょうたいのくすり (une sorte deは いっしゅの、 のようなもの という いみだが、 ていかんし である。)
sainteté: しんせいさ、 せいせい(聖性)
le dsert: さばく、なにもないばところ、せいしんてき・こどく、きょむ、ひとざとはなれたばしょ
s’enfoncer dans : にとじこもる、にぼっとうする、にふける

うんめいは ちから

A.− Puissance extérieure à la volonté humaine, qui, selon certaines croyances, régirait l'univers, en fixant de façon irrévocable le cours des événements.
https://www.cnrtl.fr/definition/destin
さいとう やく(にんげんの いし(意志)の そとの ちからで、 いくつかの しんこうに よれば、 しんらばんしょうを みちびき、 できごとの ながれを さいしゅうてきに さだめる もの。)

へーげるも せいしんげんしょうがくで、 うんめいは ちからMachtだ!と いっていて、 どうしてだろうと おもっていた。

しゅうじぎもんぶん だろうか?

Mais n’est-­ce pas son destin, en vérité ?
しかし、 じっさいに それが にーちぇの しゅくめい では ない でしょうか?
いわゆる しゅうじ ぎもんぶん だろうか?
つまり、 ぎもんの ように みえて、はんごに よって 「いや、 そうではないのだ」と いいたいの だろうか?
おそらく そうだ。 にーちぇは しんだ あとに ひょうか されるが、 しぬ まえは かなり ひょうか されていなかった。 「ひげきの たんじょう」を かくまでは てんさいと かんがえられていた のに、 かなり きばつな せつを だした せいで、 どんどん ぼつらく していく。
ちなみに ばとらーが なんこも ぎもんぶんを だす ときは、 ほとんど しゅうじぎもんぶん ではない。

したしみを かんじるのか、 なれた のか、 なじんだ のか

familierは avecを ともなう から、 deを ともなわないと おもっていた けど、 deも ともなう らしい。

b) Valeur active. [En parlant d'une pers.; avec compl. prép. avec, parfois de]
− Qui a l'habitude de (quelque chose), qui connaît bien (une chose), car elle s'impose souvent (à la personne). Il joue, dès l'enfance, entre les genoux de Cybèle, il est déjà familier de ses taillis et de ses sources, de ses nuages et de ses brumes (Mauriac, Journal 3,1940, p. 234).
https://www.cnrtl.fr/definition/familier

したしみを おぼえる だと、 なにも しらなくても したしみを おぼえる ことが できるから、 なじむか なれるに かえよう。
なじむ だと しゅうだんに なじむ みたいな いみが つよい きがする から、 なれるに しよう。

じぶん という かたち

forme subjective
かたち、けいしき、けいたい、ひょうげんけいしき、ぶんたい、ひょうげんの しかた、いいまわし
しゅかんてき、こじんてき、しゅかくの、しゅかんの、しゅたいの、じかくてきな(じかくしょうじょう)
なんとおりにも かいしゃく できる。 これは にーちぇが どんな かきかたを したか しらないと わからない。 じぶんの きおくでは、 『つぁらつすとらはかくかたりき』は しょうせつ みたいな かきかた だけど、 いちにんしょう しょうせつ では なかったと おもう。 『どうとくの けいふがく』は ろんぶん けいしき だけど、 そんなに じぶんの はなし していた きおくは ない。 『ぜんあくの ひがん』は かくげんを ならべた あふぉりずむ けいしきで、 ことばを ならべていく だけの かんじ だけど、 しゅごや しゅかんに かんけいしたか わからない。

なにが ならんでいるのか?

....
je devenais familier non seulement de ses écrits,
je devenais familier mais de sa vie,
et


plus encore je devenais familier peut-­être de la forme subjective qu’il ne cessait de requérir
et
plus encore je devenais familier peut-­être de lui-­même
et
plus encore je devenais familier peut-­être de ses lecteurs,

plus
je voyais la sorte de sainteté...
という こうぞうで いいのか?
とくに、 しゅかんてき けいしき、 にーちぇ じしん、 どくしゃ という ものを ならべて いいのか?
de soi-même: じぶんのいしで、 ひとりでに

べつの あんが でてきた。
まず、 だいいちの あんごう。

Du plus général au plus particulier → <1> , <2>, 【+ + +】, ( )


[ [ Plus je l’étudiais en vue du séminaire,] <2> [ plus je devenais familier → 【 non seulement de ses écrits, + mais de sa vie, + et plus encore peut-­être de la forme subjective qu’il ne cessait de requérir et de lui-­même et de ses lecteurs, 】] ] <1> [ [ plus je voyais la sorte de sainteté,] <2>[d’absolue solitude, ] <2> [de désert social, (dans lequel, progressivement, il s’est enfoncé.) ] ]

それに たいする じぶんの こたえ。

"Plus je l’étudiais en vue du séminaire, plus je devenais familier ..."
└ je devenais familier 【 non seulement de ses écrits, + mais de sa vie, + et (plus encore peut-­être) de la forme subjective...】
└la forme subjective... de lui-­même et de ses lecteurs,
”[ [ plus je voyais la sorte de sainteté,] ( plus je devenais familier)<2>[d’absolue solitude, ] <2> [de désert social, (dans lequel, progressivement, il s’est enfoncé.) ]”

この かいしゃく だと つぎの ように やくす ことが できる。
「しかし、 じっさいに それが にーちぇの しゅくめい では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの いきかたに なれてきました。 そして、おそらく さらに より、にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたちの しゅかんてき・けいしきに なれてきました。その しゅかんてき・けいしきを にーちぇは もとめ つづけました。しんせい(神聖)さの めぐりあわせ〔la sorte(しゅるい、なまの じょうたい)を le sortの ごしょくと かんがえた〕を みれば みる ほど、 ぜったいてきな こどく、 ひとづきあいの きょむに なれていきました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。」

ちなみに、 まえの かいしゃく。
「しかし、 じっさいに それが にーちぇの しゅくめい では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの じんせいに したしみを おぼえる ように なりました。 そして、おそらく さらに より、 にーちぇが もとめ つづけた こじんてきな ありかた☆と にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたち にも☆ したしみを おぼえる ように なれば なる ほど、 しんせいさの しゅるい、 ぜったいてきな こどくの しゅるい、 ひとづきあいの きょむの しゅるい☆が わかりました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。」

しゅるいは みれるのか?→ うんめいや きょうぐうの le sortでは?

je voyais la sorte de sainteté
わからない。 要調査。
la sorte de なんて かたちが じしょで みつからない。
れいぶんは みつかった。 いっしゅの という いみで つかっている。

One should have seen the kind of happiness and fascination this discovery triggered in the little boy.
Il aurait fallu voir la sorte de bonheur et de fascination que cette découverte déclencha en lui.
https://context.reverso.net/translation/english-french/kind+of+happiness

la sorteに やくがくで、なまの じょうたい、みせいせい(未精製)と あった。 benjoin en sorte 「未精製の安息香」(「安息香はツツジエゴノキエゴノキ属のアンソクコウノキ 、またはその他同属植物が産出する樹脂(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%81%AF%E9%A6%99)」)だと。しかし、TLFiにないのは なぜ?
うんめいや きょうぐうの le sortでは?ありうる。

しゃかいの さばく

ひとづきあいの きょむ
socialは しゃかいてき という いみ だけでなく、 しゃこうの、ひとづきあいの という いみが ある。
にーちぇは ばんねん、 いもうと ぐらい としか れんらくを とりあってなかった という はなしを きいた ことが ある。という のは まちがえ だった。にーちぇは いもうとと けんかわかれ していた。 そして、 はっきょうした あとも てがみを おくれる あいてが ふたりは いた ようだ。 それを こどくと いうのか わからない。
しゃかいの さばく では、 いみが わからない ので、 ひとづきあいの きょむと やくした。

3.2

Plus je comprenais qu’entre cet égaré de Turin, heureux et même illuminé quand la marchande des quatre-saisons lui offre ses meilleurs produits, et le destin tapageur de son œuvre, après sa chute, son silence et sa mort, destin fait de référence à la puissance de la Vie, aux races conquérantes, à l’irrationalisme, à la royauté de l’esthétique, au surhomme conçu comme l’athlète blond de la foire historique, oui, entre les deux, il y avait de toute évidence un énorme malentendu.

そう すれば する ほど、わかったのは、 とりの*19さくらんした この ものと、にーちぇの ぼつらくの あと、 ちんもくの あと、しんだ あとの にーちぇの すべての さくひんの うんめいとの あいだの こと です。にーちぇは、 〔ておしぐるまで やさいや くだものを うる〕ぎょうしょうにん から、 いちばんの うれすじの しょうひん(商品)を うけとった ときに、しあわせで いなずまを うけました〔illuminéは 「ひかりで てらされた」、「てんけい(天啓)を うけた」、 「さくらんした」 という いみだが、 にーちぇは この ときの ことを 「いなずまを うけた」*20と ひょうげんしている。 〕。 これらの さくひんの うんめいは、つぎの ことに ふれてきました。 〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕の ちから*21、せいふくする もの としての しゅぞく*22、 ひごうりしゅぎ*23、うつくしさの ぜったいてきな ゆうい*24、きんいろ〔きんいろの かみのけの いみの きんぱつ とも やくせるが、 ぎりしあ しんわには、 きんの じだい、 ぎんの じだい、 せいどうの じだいという くべつが あり、 かみがみと ともに あった じだいが きんの じだいと いわれていた。 にーちぇが この ぎりしあ しんわを ふまえて、 きんいろ といっていた かのうせいが ある。〕*25として かんがえられた ちょうじん(超人)*26という ように ふれられてきました。はい、おわかりかもしれませんが、 これらの ふたつの あいだには、くいちがい が ありました。

うつくしさの ぜったいてきな ゆうい→ ばでぃうの おりじなる では?
「にーちぇは 『どうとくの けいふがく』で、 うつくしい という ことを わるいと かんがえる ことを どれいの どうとく として ひていした」
ぐーぐる ほんやく

トリノからのこの失われた男の間で、四季の商人が彼に彼女の最高の製品を提供するとき、幸せで、さらには悟りを開いた、そして彼の仕事の乱暴な運命、彼の堕落、彼の沈黙と彼の死の後、運命は言及することを私は理解しました生命の力、征服する人種、非合理主義、美学の王族、歴史的見本市の金髪アスリートとして考えられたスーパーマン、そうです、両者の間には明らかに大きな誤解がありました。

égaré: さくらんした、くるった、まどわされた、みちにまよった(ふつうは けいようし だが、 égaréである もの という いみの めいしでも つかえる。)
illuminé:きょうしん(狂信)てきな、てんけい(天啓)を うけた
marchand des quatre-saisons :にぐるまで ひきうりを する やおや(八百屋)
le produit: せいさんぶつ、さんぶつ、せいひん
tapageur: そうぞうしい、さわぎたてる、ひとめをひく、ぶつぎをかもす、けばけばしい
une œuvre: げいじゅつかの ぜんさくひん、un œuvre: さくひん、ぎょうせき…
chute: しっつい、がかい、さくひんや こうえんの しっぱい、 さくひんや こうえんの ふせいこう、だらく、てんらく、かご(過誤)

fairt de reférence à わからない、 要調査。したに かいた。
la race: じんしゅ、みんぞく、(race aryenne あーりあじんしゅ)、 いちもん、いちぞく、かけい、どうぞくのもの、しゅぞく、なかま、れんちゅう
conquérant: せいふく(征服)する、 じしんたっぷりの、かちほこった、ひとのこころを うばう
la royauté: おうざ、おうい、おうけん、おうせい、ぜったいてきなちから、ゆうい
l’esthétique: うつくしさ、うつくしいもの
l’athlète: うんどうせんしゅ、りくじょうきょうぎしゃ、がっしりした たいかくの ひと、 くんこつ たくましい ひと、 (こだいの) とうぎしゃ(闘技者)
la foire: おおきな いち、 ていきいち、 みほんいち、てんじかい、えんにち、おまつり、おまつりさわぎ、おまつりさわぎの ばしょ、おおさわぎ、だいこんらん
historique : れきしてきな、れきしがくの、れきしじょうの、じつざいの、れきしにもとづく、れきしにのこる、れきしじょうじゅうような
de toute évidence: あきらかに
le malentendu: ごかい、かんじょうなどの くいちがい

しきの しょうにん

marchand des quatre-saisons :にぐるまで ひきうりを する やおや

e) Marchand(e) des quatre-saisons. Marchand ambulant vendant des fruits et légumes dans une petite voiture à bras:
https://www.cnrtl.fr/definition/marchand
さいとう やく(ておしぐるまの なかの かじつと やさいを うる うごきまわる ぎょうしょうにん)

さわぎを おこす うんめい

tapageur: そうぞうしい、さわぎたてる、ひとめをひく、ぶつぎをかもす、けばけばしい

1. Qui provoque du tapage, du scandale, suscite des commentaires.
(…)
2. Qui se fait remarquer, par une certaine outrance, l'étalage d'un luxe de mauvais goût, des couleurs ou des tons très contrastés ou criards.
https://www.cnrtl.fr/definition/tapageur

le tapage: さわぎ、そうおん、ぶつぎ、けばけばしさ、どぎつさ

Isabelle Spaak est partie à la recherche du destin tapageur de sa grand-mère et du couple fusionnel et tourmenté qu’elle formait avec sa fille, Annie.
https://www.lemonde.fr/livres/article/2016/04/14/un-thriller-crepusculaire-un-recit-sur-mesure-un-essai-sur-l-argent-la-selection-du-monde-des-livres_4901634_3260.html
さいとう やく「いざべる・すぱーくは、おばあちゃんの ぶつぎを かわす ような うんめいと、むすめの あにーと むすんだ きんみつで へんかの おおい ふたりぐみ という かんけいを もとめて いきました。」

れきしてきな まつりの きんぱつの とうぎしゃ

l’athlète blond de la foire historique

へ げんきゅうする という じじつ?

fait de référence à
faire A de B「: BをAにする」の かこぶんしで、 destinに かかっている。
faitは じじつ という いみの めいしも あるが、めいしの fait de référence という かたちは みつからなかった。

référenceは やっかいな ことばだ。

I.
A. − Action de (se) référer à quelqu'un, à quelque chose. 〔だれかや なにかを さんしょうする こと、てんきょとする こと、しらべる こと、さししめすこと、かんけいすること〕〔りゃく〕
B. −
1. Action de (se) référer à quelqu'un; p. méton., ce à quoi on (se) réfère. 〔だれに いけんを もとめる こと、 だれかの いけんに したがう こと。ひゆてき・ひょうげん: いけんを きいた あいて〕〔りゃく〕
Au plur. Renseignements, témoignages donnés par quelqu'un sur une personne à la recherche d'un emploi, d'un logement ou souhaitant entrer en affaires, et qui attestent son comportement, ses qualités et représentent une garantie morale pour ceux auxquels elle se présente.〔ふくすう。 しごとや すまいを さがしている ひと、 に ついて、 だれか から おしえられた じょうほう、 しょうげん(証言)。 それらの じょうほうに よって その ひとの ふるまいや ちょうしょを かくにんし、それらの じょうほうが、 もうしこむ あいての せいしんてきな ほしょうを あらわす 。〕〔りゃく〕
− Souvent au plur. Réalisations d'une entreprise, propriétés, mérites déclarés d'un produit qui attestent ses qualités. (Dict. xixeet xxes.).〔ふくすう である ことが おおい。しつを かくにんする しょうひんの しんせいする てがら、 きぎょう、 しょゆうぶつの せいか(成果) (19せいきと 20せいきの じしょ)〕〔りゃく〕
Au fig., fam., au sing. Raison, fait, motif permettant de conclure à la valeur, aux qualités de quelqu'un. 〔ひゆてきで くだけた ひょうげんで、 たんすう。だれかの しかくや かちへの けつろんに みちびく ことが できる ような りゆう、じじつ、どうき〕〔りゃく〕
− De référence. Auquel on (se) réfère. 〔さんこうの。 さんこうに される もの。〕
〔りゃく〕
− Domaine des sc. Éléments, points que l'on a choisis ou déterminés au préalable comme cadre pour situer et résoudre un problème. 〔かがくの りょういき。もんだいを いちづけて、 かいけつ する ための わくぐみ としての ぜんてい・じょうけんに おいて えらばれるか きめる ようそ、 てん〕
〔りゃく〕
2. Souvent au plur. Indications précises permettant de retrouver la source (auteur, texte, passage) que l'on cite ou dont on s'inspire, et où l'on peut trouver un complément d'information. 〔ふくすう である ことが おおい。 いんようしたり、したり する じょうほうげん(ちょしゃ、ほんぶん、いっせつ)を しる ことが できる ように する はっきりと した しじ(指示)。〕
〔りゃく〕
II. − LING. ,,Fonction par laquelle un signe linguistique renvoie à un objet du monde extra-linguistique, réel ou imaginaire`` (Ling. 1972). 〔げんごがく。げんごてき きごうが げんごがいてきな 、げんじつてきな、 そうぞうてきな せかいの たいしょうに さしむける きのう。 〕


Au fig., fam., au sing. Raison, fait, motif permettant de conclure à la valeur, aux qualités de quelqu'un. 〔ひゆてきで くだけた ひょうげんで、 たんすう。だれかの しかくや かちへの けつろんに みちびく ことが できる ような りゆう、じじつ、どうき〕
これっぽい。

いなずま・せいしん・ちょうじん

圓増治之(1989)「ニーチェに於ける生のメタファとしての『舞踏』」(https://nagano.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=680&item_no=1&page_id=13&block_id=17))26ぺーじ。

ツァラツス トラは斯く語りき』の第三部 『幻影と謎について 』に於いて、登高の道を歩み続けるツァラツス トラが、彼の上に乗っか りその足を萎えさせ絶えず彼を下方-と引き戻そ うとしてきた 「重力の精」を相手に、 永劫回帰」の思想を語るところがある。 ツァラツストラの肩から跳びおりた 「重力の精」に対して、ツァラツス トラ、日く、
「この くぐり門(Torweg)を見 よ!侠儒 よ!この くぐり門は二つの顔をもつ。二つの道はここで出会 う。まだ誰もいない。
これらの道をその果てまで行った者はいない。この後への長い道、それは永遠に通じる。そしてあの向への長い道、これは別の永遠である。
これらは互いに矛盾 し合い、互いに真正面に頭と頭をぶつけ合 う――そして、ここ、このくぐり門でそれらは出合 う。 くぐり門の名は、上に 『瞬間 』と書かれている。
しかし、誰かこの道の一つを先へと進み――どん
どん先へ、どんどん遠くへと進んでいったとしたら 侠儒よ 汝はこれらの道が永遠に矛盾すると信じるか ?」、と。
ところで、 「コリー ・モソチナリー版」では上の"Torweg"とい う語は "Thorweg"となっている。"Thor"といえは古ゲルマンの雷神である。彼はハンマーを武器として、彼がそれを投げると、必ず敵の額をたち割り、またブーメランのように彼の手もとに戻ってきたという。たとえ、クレーナ一版やシュレヒタ一版で使われている"Torweg"でよいとしても、そこにはそれ とホモニマスである"Thorweg"という語が合意するニュアンスを何らかの形でニーチ ェは響かせているように思われるが、如何であろうか。

じぇーむす・じょいす「Bababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonnthunntrovarrhounawnskawntoohoohoordenenthurnuk!」 (Joyce ‘ Finnegans Wake ‘)ふぃねがんず・うぇいく
は かみなりの ぎおんご である。

〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕

〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕は、いのちを こべつの いのち では なく、 いまの ことばで いう なら、 せいたいけい(生態系)の ぜんたいの いのちの ながれの こと である、しかし、 にーちぇに おいて、〔おおもじの〕 せい(生)、いのち〔la Vie〕が どのような ものか わからない。 うんめいが ぜんたい としての いのち という はっそうは、 うんめいとは、 ぜんたいの きまった ながれの こと である から、 よく わかる。

村瀬綱(むらせ・こう)「<私>のなかの間隙 : ジュール・ルキエと現代哲学 (西節夫教授退職記念号)」ヨーロッパ文化研究,22,141-169 (2003-03)、159ぺーじ。
http://id.nii.ac.jp/1109/00005688/

f:id:hunihunisaito:20210411092343p:plain
ふらんすごの おおもじの 「いきる」

または、 ばでぃうは 『推移的存在論』の だいよんしょうの どぅるーずに ついて ろんじている なかで、 いきる という ことに、 ある という こと、 ひとつの いみ である こと、 ないざいてき である ことが むすびつけている。 ただし、 きょうみ ぶかい ことに、 どぅるーずが おおもじで せい(生)(la Vie)と かいている ところを いんようしながらも、 ばでぃうは こもじで いきる こと(la vie)と かいている(こんどう・かずのり(近藤和敬)、まつい・ひさし(松井久)に よる にほんごやくの 76ぺーじ、233ぺーじ)。

4

4.1

En vérité, avant ma plongée brusquement décidée dans
les textes – singulièrement, j’y reviendrai, les textes de la fin, entre 1887 et 1888 –, j’étais largement sous l’influence de ce malentendu.

じっさいには、 わたしは(とくに、ふたたび とりあげるのは、 せいれき 1887ねん から 1888ねんの あいだの ぶんしょう*27で、 その)のこされた いこうぐん(遺稿群)に とつぜん ぼっとう(没頭) する ことに なる まえには、だいたい この くいちがいの えいきょうの もとに ありました。

plongée: ふかん、みおろすながめ、かこう、きゅうかこう、あるじょうたいへの ちんせん(沈潜)、ぼっとう (plonger dans ses pensée: ものおもいに しずむ)
brusquement: とつぜん、ふいに
decidé: けっていした、かくていした、けつぜんとした、だんことした、めいかくな、はっきりした
singulièrement: とくに
sous l’influence de: のえいきょうの もとで、のいきおいに かられて
y revenir: revenir sur les textes
texteを ぶんしょうと やくして いいのか?

もどる

y revenir: revenir sur les textes

4. Qqn revient sur qqn/qqc.
〔りゃく〕
b) Qqn revient sur qqc.
〔りゃく〕
− Reprendre, s'entretenir à nouveau (d')un sujet que l'on a momentanément abandonné; en reparler de nouveau.
https://www.cnrtl.fr/definition/revenir
さいとー やく (いちじてきに やめていた わだいを また とりあげる、また はなしあう、 また それに ついて はなす)

ききまちがい?

malentenduは くいちがいか ごかいか。
malしっぱいした entendu りかい。 きく ではない。

A. − Divergence d'interprétation sur la signification de propos ou d'actes entraînant un désaccord.
〔りゃく〕
il y a (un) malentendu (entre deux personnes)
〔りゃく〕
B. − Désaccord entraîné par une telle divergence.
https://www.cnrtl.fr/definition/malentendu
さいとー やく(なかたがいに ひきおこす、 おこないに ついての いみの かいしゃくの たいりつ。
ふたりの あいだに ごかいが ある。
そのような たいりつに よって ひきおこされた なかたがい )

ごかいは ちょっと ちがう きがする。

4.2

Pour moi, qui étais venu de Sartre et qui, via Lacan, le maoïsme militant et les mathématiques, étais passé du côté de la recréation d’une métaphysique contemporaine, Nietzsche, dont j’aimais le style nocturne, la langue à la fois grandiose et secrètement d’une infinie douceur, n’en était pas moins du côté des adversaires, ces antiphilosophes arc-­boutés sur le motif creux des « formes de vie », ces antiplatoniciens déchaînés.

わたしは、 さるとる から はいって☆、らかんと、 せんとうてき もうたくとうしゅぎ(まおいすむ)と すうがくを つうじて、 げんたいの けいじじょうがくの つくりなおしの がわへ いきました。そんな わたしに とって☆、 にーちぇの よぞらてきな ぶんたい〔やりかた/かきかた/すたいる〕が すき でした。すき だった のは、 こうだい(広大)な 〔いみを もたせながら な〕がら、〔しんい(真意)は〕 ひめられた ことばづかいで、 〔ほしぼしの ような〕むげんの ゆたかさを ふくんで います。 そんな わたしに とっては〔とうじの かんがえでは〕、 にーちぇは それでも なお、 たいりつする もの たちの がわに いました。つまり、〔なぞを きりつめる〕「いきかた〔せい(生)の けいしき〕」 など という むなしい どうきで ふんばっている、 〔いまの ばでぃうが いう 「はん・てつがくしゃ」 では ない ところの〕あの はん・てつがくしゃ たちの がわに いました。 あの たかが はずれている はん・ぷらとんしゅぎしゃ☆ たちの がわに いた のです。

よぞらの ほしを みる ことの ひゆ。
なぞを なくしたがる むかしの はん・てつがくしゃ
むかしがたり
venir de:☆
du côté de: のほうへ、のちかくに、のじんえいに、のがわに、にかんしては
nocturne:よるの、やかんの、やこうせいの☆
grandiose: そうだいな、 どうどうたる
secrètement: ひそかに、ないしょに、そっと、ないしんで、こころのなかで
infini/e: むげんの、かぎりない、はえしない
douceur: あまさ、うまみ、かんびさ、かぐわしさ、なめらかさ、おだやかさ、うごきのえんかつさ、ここちよさ、しずかなよろこび、しあわせ、やさしさ、おんわさ、(ふるい ふくすうで、 たまに はんごで つかわれて)あまいことば
n’en … pas moins: それでもなお…だ
arc-­bouté sur :につよく おしつけた、でふんばった (arc-­bouterは かべや まるてんじょうなどを とびばりで ささえる という いみである。)
creux: うつろな
déchaînés:あれくるった、ばくはつした、たけりくるった

にんしょうだいめいしを かんけいだいめいしで しゅうしょく できる。

できるのです。 ”Pour moi, qui étais venu de Sartre”

さるとる しゅっしんです。

そんな いいかた できるの? ”étais venu de Sartre”

もうたくとうしゅぎ 毛沢東主義

もうたくとうしゅぎは にげんろんの いめーじが ある けれど、 せいかくには なんなのか しらない。うぃきぺでぃあで しらべた。

毛沢東の思想は、毛沢東が若い頃から親しんだ農耕社会の観察や経験から導き出された中国発展のためのアイディアを含んでおり、その大綱として大公無私(個人の利益より公共の福祉を優先する)、大衆路線(農村大衆の意見に政治的指針を求めそれを理解させて共に行動する)、実事求是(現実から学んで理論を立てる)などがある。この他、社会と協調できる個人主義、大人数の協力、農村から蜂起して都市を囲いこんでいくゲリラ戦術理論(人民戦争理論)、世界各国が各自の特性に応じた革命を行うことによって第三次世界大戦を防ぐことができるとする「中間地帯論」なども毛沢東思想に含められる場合がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

1960年代の世界的な学生運動では文化大革命を中国の対抗文化と見做し[3]、しばしば原理主義的で教条主義的な共産主義信奉(原始共産主義)が毛沢東思想に移行する例がみられた。影響を受けたのは大学生を中心とする都市部の中産階級の若者であり、彼らが構成したヒッピーが始めたコミューン運動などで、人民公社型の集団生活の実践や、下放のスタイルが模倣された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

1968年の5月革命にもマオイストの影響があるとされ、クリストフ・ブルセリエは、フランスのマオイスムの流行について、スターリン批判とそれによるソ連共産主義の失墜、およびそれに代わるユートピアを求める運動の中で中国モデルが誇大視されたとしている[4]。マオイスト運動はフランス共産党ソ連擁護に対する反動として起こり、反西欧主義、東洋趣味が混在していた。また、エコール・ノルマル・シュペリウールのロベール・リナールらエリート学生、中国専門家のシャルル・ベトレームやルイ・アルチュセールが中心にいたといわれる[5]。1963年にジャック・ヴェルジエが創刊した雑誌『革命』が中国ブームに火をつけた。1964年フランス共産党から除名追放されたフランソワ・マルティが同年7月に東京で中国人運動家と知り合い、毛沢東の招待を受ける。マルティらは『新しい人間主義』という雑誌を出している。

五月革命以後、当時の内務大臣マルスランによってマオイストの組織は解体命令を受けるが、ベニ・レヴィによってGP(fr:Gauche prolétarienne プロレタリア左派)が結成され、アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィらが参加する。GPによる移民労働者の支援活動は、サルトルゴダールミシェル・フーコーらによって支持された。同団体は、マドレーヌ広場の高級店フォーションから「フォーションが貧民窟に食糧支援をする」「盗人から盗んでも罪にはならない」「わが労働の果実をパトロンから奪おう」として商品を奪うフォーション事件を起こしている[6]。代表のベニ・レヴィはのちにサルトルの助手となり、ユダヤ思想に没入し、イスラエルに渡った。また、フランスの作家のフィリップ・ソレルスや哲学者のアラン・バディウらが毛沢東思想に魅了された[7]。的場昭弘によれば、エコール・ノルマルはマオイスムの母体となっていたと指摘している[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

よるてきな かきかた

le style nocturne
よると ひるという たいりつは ばでぃうが 『ラカン』の ひとつめの こうぎでも いっていた。 まひる という いみの midi(みでぃ)と はんぶん・いう という いみの らかんの ことばの mi-dit(みでぃ)が おなじ おとである ことを つかって、 ひる という わだいと はん・てつがくを つなげる。はん・てつがく では、 いう ことと ただしい こと という いみの しんり(真理)と なにか(???☆)の くみあわせを どうにか する という はなしだった。なにかは わすれた。要調査。そこから、まよなかを いみ する minuit(みぬい)の はなしに もっていく。
しかし、 よるが どんな いみを もった いめーじかは わすれた。

はてしない あまさの ことば づかい☆

la langue d’une infinie douceur☆
らんぐは、 それぞれの げんご という いみも あるけど、 ことばづかい という いみも ある。

それでも なお

n’en … pas moins: それでもなお…だ
enが ひかくの たいしょうで、 まえに という いみだと かんがえると わかる。 まえと くらべて すくない わけではない、 つまり まえと おなじ かんじで それでも なお という いみに なる。

しじけいようし

ふつうは しじけいようしは、 まえの ことばを しめす けれど、 ここは「れいの」、「あの」 という いみの しじけいようし だと おもった。 じしんは ない。 要調査。

John Field a créé le style Nocturne pour le piano. Il fut le premier à composer près d'une vingtaine de délicats Nocturnes pour le piano. Aussi les 7 concertos qu'il a composés pour piano et orchestre touchent le cœur et l'âme dans une émotion d'une grande sensibilité. Si vous aimez les deux concertos pour piano de Chopin vous serez tout autant touchés par la finesse et l'originalité de chacun des sept concertos pour piano et orchestre de John Field.
Paolo Restani et l'Orchestre Phil de Nice (Marco Guidarini) dans une interprétation magnifique et une prise de son de haut niveau.
Suberbe coffret (4 CDs)
https://www.amazon.fr/Concertos-Int%C3%A9grale-Orchestre-Philharmonique-Guidarini/dp/B001NLE09M
ぐーぐる やく
「ジョンフィールドはピアノのための夜想曲スタイルを作成しました。彼はピアノのために20近くの繊細な夜曲を作曲した最初の人でした。また、彼がピアノとオーケストラのために作曲した7つの協奏曲は、非常に敏感な感情で心と魂に触れます。ショパンの2つのピアノ協奏曲が好きなら、ジョンフィールドの7つのピアノ協奏曲とオーケストラ協奏曲のそれぞれの繊細さと独創性に等しく感動するでしょう。
パオロ・レスターニとフィル・ド・ニース管弦楽団(マルコ・ギダリーニ)の壮大な演奏と高レベルの録音。
Suberbeボックスセット(CD 4枚)」

あまぞんで ごめんなさい。 あまぞんの こめんと だから しかたがない。
nocturneは めいしで やそうきょく、のくたーん という いみも ある のね。
にーちぇとの かかわりは わからない。 にーちぇって まっぴるまな いめーじが ある。うまく なじめない。

ノクターンの語源はラテン語で夜をさすNoxから派生し、修道院などで行われる晩祷のことを示す。ひいては夜の黙想、瞑想などの意味に転化したものと考えられる。宗教作品としての晩祷はモンテヴェルディからラフマニノフまで壮大な作品が存在する。また貴族の夜会で奏される音楽にノットルノ(Notturno)があり、ルネサンスから古典派にかけてセレナードと同様の機会音楽として存在した。この個人の瞑想とサロン文化が結びついて、このジャンルが形成されたと思われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%83%B3%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3)

https://www.youtube.com/watch?v=gN9cvVwaZ1k
www.youtube.com

ふんばるのか ささえを つくらないと いけない ほど もろいのか

arc-­bouté sur :につよく おしつけた、でふんばった (arc-­bouterは かべや まるてんじょうなどを とびばりで ささえる という いみである。)は、 ぶんみゃくてきに、 ふんばる という より、 それで ささえる しか ない かんじの ことば かも しれない。

B.− Emploi pronom. Constr. fréq. s'arc-bouter à, contre, sur.
〔りゃく〕
2. P. ext., dans la lang. cour.
a) [Valeur active : le suj. désigne une pers. ou un animal] Prendre solidement appui sur ses pieds (ou ses mains) afin d'opposer une plus grande résistance, acquérir une plus grande force.
〔りゃく〕
3. Au fig.
a) [P. réf. au sens 2 a] Adopter une position ferme vis à vis de quelque chose, s'accrocher solidement à :
https://www.cnrtl.fr/definition/arc-bouter

もろい いめーじ では ない ようだ。

せいの けいしき

formes de vieは あがんべんの せいの けいしき かな? それとも、 にーちぇに ある のかな?
いきる ほうほう、 どのように いきるか という いみとも かんがえられるが、 あがんべんの つかいかた なら、 もっと げんみつに みえる かたちが ある はずだ。『いと高き貧しさ』の しゅうどういん きそく みたいに。 たとえば、 ころな だいりゅうこうで にほんせいふが いっている「あたらしい せいかつ ようしき」なんて いうのは、「せいの けいしき」と かんがえられる だろうか? あるものは 「せいの けいしき」を 「いきる ための きばん みたいな もの」と あるとき ぽろっと いっていたが、 あまり あがんべんの 「せいの けいしき」を りそうてきに かんがえない ほうが いいと おもう。 せいの けいしきと たいりつ させられるのは、 「むきだしの せい」である ことから、 びおすと ぞーえー という こだい・ぎりしあから あーれんとが かんがえた ながれが ある わけだ。 もちろん、 びおすと ぞーえー という たいりつと せいの けいしきと むきだしの せいという たいりつは おなじ ものでは ないけれど、 くらべられる ほど にている という はずだ。 あがんべんが きょうかいに ある ものを かんがえた ことを ふまえると、 せいの けいしきと むきだしの せいは、 きょうかいが そんなに きまらず、 けんりょくで その きょうかいが かんがえられる ような たいりつ だろう。いままでの びおすと ぞーえーの たいりつの きょうかいに あった むきだしの せいが、 せいの けいしきと きょうかいを つくり、 まざり あう。ところで、「けいしき」 という ことばは、ぷらとんの 「いであ」 という ながれ から すれば りそうてきな かたち である わけだ。しかし、ここでは、 せいの けいしきと いであは はんたいの ものだ。 せい、いきる ことは いであ とは はんたい である。じぶん たい みんな。

ある ほんを みつけた。

”La notion de « formes de vie » a émergé il y a une dizaine d'années et circule dans des domaines variés, de la biologie à la philosophie en passant par la sociologie, la science politique et l'anthropologie. Mais qu'entendre par « formes de vie » ? Un ensemble de pratiques, d'usages de nature variée, qui donnent à la vie commune des caractères propres, pour ainsi dire diffus, explicitement ou implicitement présents dans les croyances, la langue, les institutions, les modes d'action, les valeurs. Une forme de vie est toujours, en ce sens, particulière, c'est pourquoi il existe des formes de vie, plus qu'une forme de vie.De l'étude de ses divers sens chez des auteurs aussi différents qu'Adorno et Wittgenstein à sa portée critique et politique et à ses incidences éthiques, cet ouvrage déploie toutes les dimensions de cette nouvelle approche. En particulier, la porosité entre les sphères privée, sociale, économique et politique, et la nouvelle articulation du social et du biologique.”
ぐーぐる やく
「生活形式」の概念は約10年前に登場し、生物学から社会学政治学、人類学などの哲学まで、さまざまな分野で広まっています。しかし、「生命の形態」とはどういう意味ですか?一連の実践、さまざまな性質の使用。これは、それ自体の共通の生活特性を与え、いわば、信念、言語、制度、行動様式、価値観に明示的または暗黙的に存在します。生命の形態は、この意味で常に特別であり、それが生命の形態よりも生命の形態が存在する理由です。その批判的で政治的な理由から、アドルノウィトゲンシュタインとは異なる著者のさまざまな感覚の研究から重要性とその倫理的意味、この作品はこの新しいアプローチのすべての側面を展開します。特に、私的、社会的、経済的、政治的領域の間の多孔性、および社会的および生物学的領域の新しい明確化。
https://www.amazon.com/Formes-vie-Du-biologique-social/dp/2271121094

りんくが あまぞんで ごめんなさい。 さがすのが めんどうくさい。

4.3

Pouvais-­je pardonner à celui qui a dit « l’Europe doit guérir de la maladie Platon » ? À celui qui pensait que le philosophe était « le criminel des criminels » ? À celui qui voyait dans mon cher saint Paul le paradigme de la figure, haïssable entre toutes, du prêtre ?

わたしは、 この わたしは「よーろっぱは ぷらとん という やまいを なおす ことに なる はずだ」*28と いった ものを ゆるす ことは できる でしょうか? てつがくしゃは 「つみぶかきもの たちの なかの つみぶかき もの」*29だと かんがえていた ものを ゆるすことが できる でしょうか? わたしの しんあいなる せい・ぱうろに、 とくに にくむべき、 そうりょの じんぶうぞうの もはんが あると おもっていた*30 ものを ゆるすことが できる でしょうか?

pardonner à :ゆるす
guérir de: から なおる
« le criminel des criminels »:
crimine:つみのある、はんざいを こうせいする、よこしまな、つみつくりな、じゅうだいなかしつとなる、けいじじょうの
le criminel:はんざいしゃ、はんにん、さつじんはん、ちょうほんにん、けいじさいばん、ざいあく
le paradigme:もはん
haïssable:にくむべき、いやな
entre toutes:とりわけ、とくに
prêtre:そうりょ、しさい、しんぷ、せいしょくしゃ、しんかん、さいし

Pouvais

はんかこは なぜ? ☆ でしょう? それとも まえの こと だから? えんきょくか かこか

はん・てつがくと なおす

らかんは せいしんぶんせきかで なおす ことが しごと だった。
うぃとげんしゅたいんの てつがくは ちりょうの てつがく だった。
にーちぇは ぷらとんの やまいを ちりょう したがった。
ぱうろは?

つみと はんざい

にほんごの つみは はんざいに かぎらないし、 にほんごの はんざいは つみに かぎらない。 しかし、 crimieくりむ けいの たんごは そこが おなじ である。 じぶんは 「じんどうに たいする つみ」という ことばが もっとも その ことが わかる ことばだと おもう。くにの ほうが かみの ほうな わけが ない という かんがえが つよいから その かんかくが つよい のだと おもう。じだい、ちいき、げんご てきな はいけい。
あと、 le .... des ....s という ひょうげんを しらべないと いけない。しらべた。

deは ぜんたいの いちぶ、 「のうちで」という いみである。 そして、 おなじ めいしを くりかえして いちばん めいし らしいもの という いみに なる。

つみびとの なかの つみびと

Der Antichrist(『反キリスト者』、はんきりすとしゃ)の てがき げんこうの 47ぺーじ。
せいれき 1888ねん 9がつ 30にち。(かくめいれき 97ねん 1がつ 8にち、Décade I Octidi, Vendémiaire an XCVII。)

Promulguée au jour du Salut, premier jour de l’An I

(le 30 septembre 1888 du faux calendrier)
Guerre à outrance au vice :
le vice est le christianisme

Article 1. Est vicieuse toute sorte de contre-nature. L’espèce d’homme la plus vicieuse est le prêtre : il enseigne la contre-nature. Contre le prêtre, on n’a pas de raisonnements, on a les travaux forcés.

Article 2. Toute participation à un service divin est un outrage aux bonnes moeurs. On sera plus dur envers les protestants qu’envers les catholiques, plus dur envers les protestants libéraux qu’envers ceux de stricte observance. Être chrétien est d’autant plus criminel que l’on se rapproche le plus de la science. Le criminel des criminels est en conséquence le philosophe.
https://www.pileface.com/sollers/spip.php?article1212#top
ぐーぐる やく
だい いち ねんの さいしょの ひの、 すくいの ひに こうふ された
(まちがった こよみの 1888ねん 9がつ 30にち)
てっていてきな あくとの たたかい
あく とは きりすときょう である

だい 1 じょう。あらゆる しゅるいの しぜんに はんする ことは わるい。もっとも わるいの にんげんの しゅぞくは そうりょ である。そうりょは しぜんに はんする ことを おしえる。そうりょに はんたいしては、 つべこべ いわないで、 むりやり はたらかされる。

だい 2 じょう。かみへ ほうし(奉仕) する ことに かかわる ことは いかなる こと でも、 どうとく に そむく ことだ。ぷろてすたんとに たいしての ほうが、 かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。じゆうしゅぎ・しんがくに たいしての ほうが、げんりつ(厳律)な かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。 きりすときょうと である ことは、 かがくに もっとも ちかづくが ゆえに ますます つみぶかい もの である。したがって、 つみぶかき ものの なかでの いちばんの つみぶかきものは てつがくしゃ である。)

もはん、はんれつ、ぱらだいむ

le paradigme:もはん は、 そしゅーるか やこぶそんか ばると より あとは こうぞうしゅぎでは、 「ぱらじぐむ」「はんれつ」と いわれるし、 とます・くーんの かがくしの ぶんみゃくでは 「ぱらだいむ」と いわれる。 しかし、ぷらとんがくはの ことばで 「もはん」という いみに なる。とくに だれ だろう?要調査。
ぱらじぐむ、はんれつは いれかえらえる ことばの れつの ことで、 さんたぐむ、とうじ(統辞)は ことばが じっさいに くみあわされ つながる れつの こと。やこぶそんの ことば では はんれつを えらんで、とうじを けつごうする。 おきかえに たいする ぶんみゃく。

そうりょ、しさい

にーちぇの ぶんみゃくなら そうりょ だが、 ぱうろの ぶんみゃく なら しさい かな?
なんで にーちぇの ぶんみゃく だと、 「そうりょ」と やくされている の だろう? きりすときょう ひはん なら、 「しさい」では ないのかな?→ そうりょと しなければ ならない。 なぜなら、 ゆだや・きりすときょうの ながれも かんがえている から である。「そうりょてきかち」と かちが たおされる ことの ちからの しょうちょう として、 にーちぇは ひていしながらも、 なんだろう…ひつようとしている。

4.4

Pouvais-­je entrer, moi, wagnérien de toujours, et jamais repenti, dans les vues de celui pour qui Wagner n’a finalement été qu’un misérable corrupteur de la jeunesse allemande, un magicien des détails suaves, capable de susciter chez les meilleures jeunes femmes une déplorable hystérie ?

わたしは つねに かわらず わーぐなー しゅぎしゃ〔が だいすき〕 でして、 けっして くいあらため ません。 わーぐなー*31は さいごには どいつの わかものを だらく させた くだらない もの *32でしか なく、 ささいな ものを かんび(甘美)な ものに する まほうつかい *33 でしか なく、 すばらしい わかい じょせいに なげかわしい ひすてりーを ひきおこし かねないのだと*34 かんがえていた ものの みかたに、 この わたしが、 くみする ことが できる のでしょうか?

にーちぇ「しゅぎ」に たいりつ する もの として、 ぱうろと わーぐなーを もってきている。
くいあらためろと にーちぇしゅぎしゃは いう けれど
ばでぃうは にーちぇに くみする ので、 くいあらためません

entrer:もんだいに たちいる、こうさつする、かんじょうをしかりする、どうかんする、ふくまれる、いちぶをなす、かんよする、
de toujours: つねに かわらず
repenti: くいあらためた、つみをくいた
les vues :みかた
misérable: くだらない、つまらない(めいしの まえが おおい)
corrupteur:だらくさせた ひと、かいらんしゃ
un magicien des ☆
magicien: まじゅつし、じゅじゅつし、まほうつかい、ふかしぎな ちからを もつ ひと
détails:こまかい ぶぶん、さいぶ、どうでもいい こまかい ところ、 じゅうばこの すみ
suave:かんびな、ここちよい、やさしい
capable de:できる、しかねない
susciter:よびおこす、かきたてる
jeunes femmes:わかい ふじん、わかづまか それぐらいの としの おんな
déplorable:なげかわしい、ざんねんきわまりない、ていれつな、よからぬい、ひどい、(ふるい)いたましい、あわれな

しゅうじぎもんぶん? ちがう かも。

しゅうじぎもんぶん じゃなかったら、 くそ だが、 ばでぃうも くそ かもしれない。せいべつにげんろんじゃ だから。

はいる

entrer:もんだいに たちいる、こうさつする、かんじょうをしかりする、どうかんする、ふくまれる、いちぶをなす、かんよする

− Donner son adhésion aux idées de quelqu'un, sympathiser avec quelqu'un. Entrer dans les vues de qqn, les sentiments de qqn.
https://www.cnrtl.fr/definition/entrer

les vues :みかたは なぜ ふくすう?


ふくすうが おおい から。

b) Souvent au plur. Manière de concevoir quelque chose; idée que l'on a de quelque chose. Synon. point de vue (v. ce mot), jugement.Conformité, continuité, échange de vues; vues concordantes, opposées ; abandonner, exposer, imposer ses (propres) vues; échanger des vues.
https://www.cnrtl.fr/definition/vue

わーぐなー

「とりすたんと いぞるで」の おんがく。
https://www.youtube.com/watch?v=Jwi6SRlbjIM


ニーチェワーグナー』、『無垢の生成』、
ニーチェワーグナーの場合』、Der Fall Wagner, in Nietzsche: Werke in drei Bänden, München 1966 (Schlechta-Ausgabe), Bd. 2

金森誠也(かなもり・しげなり)「ワーグナーショーペンハウアー」、ドイツ文學、1970 年 44 巻 p. 48-58(https://www.jstage.jst.go.jp/article/dokubun1947/44/0/44_0_48/_article/-char/ja/
ニーチェワーグナーをクリングゾル中のクリングゾルといみじくも名付けたが,」

わーぐなー(1882)『パルジファル』(”Parsifal" )に おいて、 くりんぐぞるは まほうつかい である。ぱるじふぁる という なまえの むくで おろかな わかものの だんせいを、くんどり という のろわれた おんなに めいれいして、 まほうつかいの くりんぐぞるは ゆうわく させる。くりんぐぞるは せいなる やりを おうさま から うばった わるい ものと かんがえられている。

さらに わーぐなーは ゆだや せいしんの たいげんしゃ であると じぶんで かんがえていた。 いっぽうで、 はんゆだやしゅぎしゃと みなされていた。 くりんぐぞるは あらぶの ものと えがかれているが、 ゆだやてきな ありかたを もっている てきとして えがかれている らしい(鎌田康男(かまた・やすお) 「パルジファル ― 近代市民社会の中でのミットライト」」『ショーペンハウアー研究』第 5 号(2000 年 11 月 15 日)57-76 ページ。ぴーでぃーえふ、http://www.schopenhauer.org/organ/lib/kamata_yasuo/mitleid.pdf。)。

なにを くいるのか?「かんがえなおす」?


et jamais repenti
repenti: くいあらためた、つみをくいた

ばでぃうは きりすときょうを しんじている のだよね?と おもったけれど、 まるくすしゅぎしゃ、もうたくとうしゅぎしゃ なら、おおくの ばあい、 しゅうきょうに はんたいするか。 おそらく かいしんは していなくて、 つみを くいる ことは ない という はなしを している のか、 わーぐなーを きらいに なった ことは ない という はなしを しているのか、 しゅちょうを かえた ことが ないと いっている のか?要調査。☆


jamisは ひていの いみか、いつか とか かつて とかの いみ である。
jamisを まとめて かんがえる ばあい、 じかんを みわたした こんせきと かんがえるのが いいらしい(武内裕紀(たけうち・ゆうき)(1992)「フランス語の副詞jamaisの機能」、http://hdl.handle.net/10236/9217)。
じかんを みわたして、 どこかの じかんに いちづけられる かもしれないと つたえる ときは、 ひていの だんていでは なく、 ひかくの かんけいせつ、 げんていてきな いみの せんこうしの かんけいせつや ぶんの なか などで jamisが つかわれ、 どこの じかんにも いちづけられないと つたえる ときは、 ひていの だんていか だんていしない いいかたに なる との こと だ。
ここでは、 moi、つまり わたし という かなり げんていされている めいしを せつめいする ために jamais repenti という ことばが つかわれている。そのため、 どこかの じかんに いちづけられる かもしれない という いみに なると おもう。 つまり、 いつか くいあらためたのか、または どこかで くいあらためる かもしれないと いっていると おもう。 しかし、 この あいまいさを あらわす ために、 「けっして くいあらため ません」 とした。

王位を譲られたティトゥレルの息子アムフォルタスはクリングゾルを成敗しようとするが、クリンドリーに誘惑されて聖なる槍を奪われてまいました。アムフォルタスは罪を悔い改め、聖なる槍が汚されないよう一心に祈ると聖杯が輝き始め、「共苦により知にいたる けがれなき愚者 待ち受けよ わが選びし者を」との宣託を受けました。
https://desireart.exblog.jp/20305255/

わーぐなーの ぱるじふぁるの なかにも くいあらためる ものが でてくる。

れいぶん

Mais il ne s'est jamais repenti, et ne s'est jamais converti.
しかし、彼は決して悔い改めませんでした、そして、決して回心しなかったのです。
https://context.reverso.net/%E7%BF%BB%E8%A8%B3/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%AA%9E-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/et+ne+s%27est+jamais

だらく させる もの

また、Louis Cornellier, Essais - Visages de Socrate, 2011, https://www.ledevoir.com/opinion/chroniques/329227/essais-visages-de-socrate. では、 ”L'auteur comique Aristophane est un adversaire de Socrate. Dans sa pièce les Nuées (en 423 av. J.-C.), il présente le philosophe comme un corrupteur de la jeunesse qui enseigne la sophistique contre rémunération”と、corrupteur de la jeunesse 、 つまり「わかものを だらく させた」 もの という ことばが つかわれている。

まじゅつしは どこから きたのか?

わーぐなーの ぱるじふぁるの てきやくの くりんぐぞる という まほう・つかいの わるい もの から きた。

こまかい ぶぶんを おとった ものと かんがえる ことばが みつからない。
f:id:hunihunisaito:20210324103810p:plain
details sauves

https://books.google.co.jp/books?id=1A1cAAAAQAAJ&pg=PA144&lpg=PA144&dq=%22d%C3%A9tails+suaves%22&source=bl&ots=014w2lZZjJ&sig=ACfU3U2uef743nviCR0YDJfehaoTP_OtHA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwicm9Wk3sfvAhUDHqYKHQAICjI4ChDoATAHegQIBxAD#v=onepage&q=%22d%C3%A9tails%20suaves%22&f=false
vicomte François-Auguste de Chateaubriand, Génie du christianisme, ou Beautés de la religion chrétienne, 第 4 巻

Voilà la longue comparaison homérique avec ses détails suaves et charmans : Καλόν , τηλεθάον , τόδε τη πνοιαι δονέκσι Παντοίων ανέμων , και τη βρύει ανθεί λευκώ . ( 1 ) On croit entendre les soupirs du vent dans la tige du jeune olivier .

いい いみで つかっている。
「かんびな こまかい ひょうげん」☆

さては どいつじんに おんなを ふくめていないな。

1から4

にーちぇに ついての せいれき 1992ねん から 1993ねんの こうぎ(講義)に かんして。

1
わたしの こうぎの おおくは、 じぶんの てつがくの しんてんじょうきょうが たいけいてきに つりつもった、 いっさつの ほんの したしらべに ふくまれています。
こうして、 せいれき 1975ねん から 1980ねんの こうぎが いわば、 ひとつに まとめられ、ぶんしょうに された 『しゅたいの りろん』*35を、 せいれき 1982ねんに しゅっぱんされました。
また あきらかに せいれき 1983ねん から 1987ねん までの あいだの こうぎは、こてんてきな ことに ふれる ことを つみかさねてきました。てつがくに ついても ふれてきました(ぱるめにです、ぷらとん、ありすとてれす、でかると、すぴのざ、らいぷにっつ、かんと、へーげる、はいでっがー)。ぽえむの しに ついても ふれてきました(へるだーりん、まんだりしゅたーむ(Mandelstam)*36, ぺそあ(Pessoa)*37, つぇらん(Celan)*38)。がいねんてきな こうちく(てつがくと、 できごとと、いちなきた(一なき多)と、るい・せいせい(類生成)てきな ものの よっつの じょうけん…)を つみかさねました。それらを きっちりと くみたてて、 『そんざいと できごと』*39を せいれき 1988ねんに しゅっぱん しました。
『せかいの ろんりがく』*40(せいれき 2005ねん)は、かてごりーの りろんに ついての ながくて ないようの つまった、すうがくてきな じゅんびに くわえて、 せいれき 1996ねん から 1998ねんの こうぎに おける、 じぶんの しゅたいの りろんの だいじな しゅうせいと、 そして、2000ねんの はじめの こうぎに しゅうちゅうしました。この こうぎは、あまり れきしてき ではなく、げんだいに ついて いままで よりも くりひろげました。『げんざい という ときの いめーじ』*41(せいれき 2001ねん から 2004ねん)と、 『かんがえる ことに おいて すすむ、 ある という ことに おいて すすむ』*42(せいれき 2004ねん から 2007ねん)も どうよう(同様)です。

2
にーちぇに ついての こうぎは、さいごには、 はん・てつがく という(いままで より ふるい) わだいに ついて つくられた せいれき 1992ねん から 1996ねん までの しりーずの なかに ふくまれていて、らかん、うぃとげんしゅたいん、せい・ぱうろ*43を さいごには ふくんでいます。それ にも かかわらず、この にーちぇに ついての こうぎを、 べろにっく・ぴのーが ねっしんに はたらいてくれて、 ここでは へんに いりくんだものの なかに いちづけなおしました。この こうぎは、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃく(décision pure)と よべる ものの けっか です。そして、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃくの けっかは、 わたしの とりくみを ほんの うえ だけで おおきく くぎって はっきり させた ものには ふくまれていません。にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。
らかんは わたしの さくひんの なかに かなり まえ から、いつも あらわれて きました。うぃとげんしゅたいんは、それなりに てんさい でしたが、くだらない 「ぶんせき てつがく」に ついて/が かならず ふれないと いけない という ことは、 わたしに とっては、 その ときの/げんだいの いでおろぎー てきな たたかいの ばに おいて、 ねらった たーげっと でした。『うぃとげんしゅたいんの はんてつがく』で その たーげっとを こんぜつ しました。
せい・ぱうろに ついて、はやくも せいれき 1998ねんに いっさつの ほんんを かきました。 せい・ぱうろは ふへんしゅぎを つくった もので あって、 せかいを まわりました。すでに せいれき 1989ねん から わたしが つくった『あんてぃおきあ*44 じけん*45*46という ひげきで それとなく よびだしました。にーちぇに ついては そのような ことは なにも していません。したしらべも せず、 ひきつぎも せず、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけた ままに しておきました☆。

3
しかし、 じっさいに それが にーちぇの うんめい*47 では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの いきかたに なれてきました。 そして、おそらく さらに より、にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたちの しゅかんてき・けいしきに なれてきました。その しゅかんてき・けいしきを にーちぇは もとめ つづけました。しんせい(神聖)さの めぐりあわせ〔la sorte(しゅるい、なまの じょうたい)を le sortの ごしょくと かんがえた〕を みれば みる ほど、 ぜったいてきな こどく、 ひとづきあいの きょむに なれていきました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。
そう すれば する ほど、わかったのは、 とりの*48さくらんした この ものと、
にーちぇの ぼつらくの あと、 ちんもくの あと、しんだ あとの にーちぇの すべての さくひんの うんめいとの あいだの こと です。にーちぇは、 〔ておしぐるまで やさいや くだものを うる〕ぎょうしょうにん から、 いちばんの うれすじの しょうひんを うけとった ときに、しあわせで いなずまを うけました〔illuminéは 「ひかりで てらされた」、「てんけい(天啓)を うけた」、 「さくらんした」 という いみだが、 にーちぇは この ときの ことを 「いなずまを うけた」*49と ひょうげんしている。 〕。 これらの さくひんの うんめいは、 〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕の ちから*50の、せいふくする もの としての しゅぞく*51の、 ひごうりしゅぎ*52の、うつくしさの ぜったいてきな ゆうい*53の、きんいろ*54として かんがえられた ちょうじん(超人)*55の こんきょに されています。はい、 その とおり です、 これらの ふたつの あいだには、くいちがい が ありました。

4
じっさいには、 わたしは(とくに、ふたたび とりあげるのは、 せいれき 1887ねん から 1888ねんの あいだの ぶんしょう*56で、 その) ぶんしょう☆に とつぜん ぼっとう(没頭) する ことに なる まえには、だいたい この くいちがいの えいきょうの もとに ありました。

わたしの しんあいなる せい・ぱうろに、 とくに にくむべき、 そうりょの じんぶうぞうの もはんが あると おもっていた*57 ものを?

わたしは つねに かわらず わーぐなー しゅぎしゃ でして、 けっして くいあらため ません。 わーぐなー*58は さいごには どいつの わかものを だらく させた くだらない もの *59でしか なく、 ささいな ものを かんび(甘美)な ものに する まほうつかい *60 でしか なく、 すばらしい わかい じょせいに なげかわしい ひすてりーを ひきおこし かねないのだと*61 かんがえていた ものの みかたに、 この わたしが、 くみする ことが できる のでしょうか?

さいとう

ついき
かくめいれき 229ねん 7がつ 6にち、Décade I Quintidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 26にち

難しい文書ですね! 「se repentir」は「過去の過ちを正すこと、犯罪を起こしたのを後悔し、正義の道に戻ること」。例えば、「repentis」という人たちは昔マフィアに入っていた人で、現在はマフィアを戦うために協力する人たちを示す。
さて、今回のコンテクストで、ヴァーグナーが好きなのは、ダメなことだそうです。しかし、筆者は(そう言われても)今でも後悔なくヴァーグナーが大好きです。ですから「jamais repenti」です。ちょっと皮肉なニュアンスがあるかもしれません。本当はヴァーグナーがダメと言っている人たちの方がダメだと筆者が思っているかもしれません。

追加: 「le repentir」はキリスト教の大事なコンセプトでもあります。反省するということですね。神様の許しを願いすると共に。
https://hinative.com/ja/questions/18646767

にーちぇが わーぐなーについて かいた ぶんけんに ついての めも。
ニーチェコントラ・ワーグナア』、『ワーグナアの場合』、『バイロイトのリッヒャルト・ワーグナア』

かくめいれき 229ねん 7がつ 7にち、Décade I Septidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 27にち
「教育者としてのショウペンハウアー」に おいて にーちぇ が いっている こと。
「誠実をもって、人間に幸福な生は不可能であり、人間の達し得る最高のものは英雄的生涯を送ることであると教える。」(ふじた・けんじ(藤田健治)『ニーチェ』、せいれき 1970ねん、中央公論社、63-64ぺーじ)
「ワーグナアの楽劇にあらわれるすべての登場人物を通じて、その人間的核心は「誠実、無私の誠実」ということにつきる。」(ふじた・けんじ(藤田健治)『ニーチェ』、せいれき 1970ねん、中央公論社、64ぺーじ)
「勇敢にこの世のうつろいやすい側面の革新を目ざし、個をこえたもののために個を捧げて悔いない悲劇的な心情と結びついていて、そこに悲劇的英雄が成り立つのである。」(ふじた・けんじ(藤田健治)『ニーチェ』、せいれき 1970ねん、中央公論社、65ぺーじ)

さいとう


かくめいれき 229ねん 7がつ 8にち、Décade I Octidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 28にち
水野清志(みずの・きよし)「ニーチェの倫理思想 (10)」、信州大学医療技術短期大学部紀要 11(1): 1-17(1986)
http://purl.org/coar/resource_type/c_6501
http://hdl.handle.net/10091/5101
にーちぇに さばくの ひゆが まさに さばく そのもの として でてくる。
らくだ としての せいしんが らいおん としての ちょうじんに かわる ばしょが、 さばく である。

アラン・バディウ『推移的存在論』、近藤和敬(こんどう・かずのり)、松井久(まつい・ひさし)やく、水声社、せいれき 2018ねん。
「実際のところ、慣習的に伝統的完全保存主義と呼ばれているものは主観的な形式のひとつとして考えられなければならない。」

さいとう

*1:Alain Badiou(1982), Théorie du sujet, Seuil. https://www.seuil.com/ouvrage/theorie-du-sujet-alain-badiou/9782020986915

*2:りえびち・まんだりしゅたーむ。せいれき 1891ねん から 1938ねん。ろしあごで ぽえむを かいた。『時のざわめき』など。

*3:ふぇるなんど・ぺそあ。ぽるとがるごを ちゅうしんに えいごや ふらんすごで ぽえむを かいた。せいれき 1883ねん から 1935ねん。『不安の書』など。

*4:ぱうる・つぇらん。せいれき 1920ねん から 1970ねん。 どいつごで ぽえむを かいた。『死のフーガ』など。

*5:Alain Badiou(1988), L'Être et l'événement, Seuil, https://www.seuil.com/ouvrage/l-etre-et-l-evenement-alain-badiou/9782020098625. アラン・バディウ(2019)『存在と出来事』、藤本一勇訳、藤原書店http://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865782509.html

*6:Alain Badiou, Logiques des mondes. L’Être et l’Événement, 2, Paris, éd. Seuil, 2006.

*7:Alain Badiou, Le Séminaire - Images du temps présent, Fayard, 2014 (EAN 9782213678924).

*8:Alain Badiou, Le Séminaire : s'orienter dans la pensée, s'orienter dans l'existence (2004-2007), Fayard, 2021.

*9:きげんぜん 10ねん ごろ から せいれき 65ねん ごろ。いちせいきの きりすときょうの しと(使徒)、せいじん(聖人)。てがみが しんやくせいしょに ある。

*10:にーちぇは じぶんの てつがくを めいろに たとえている。

*11:Αντιόχεια。「トルコ南部の小都市アンタキヤの古称。前300年ごろ古代シリア王国セレウコス1世が首都として建設。のちエルサレムに次ぐ初代キリスト教会の中心地。」(「デジタル大辞泉」)。 ぱうろの きりすときょうの ふきょうの きょてん。

*12:あんてぃおきあ・じけんは、 ぱうろと ぺてろ(または けふぁ)が たいりつ した じけん である。しんやくせいしょ、 ガラテヤ書2章11~14節に ある。えるされむ・きょうかい から ひとが、 あんてぃおきあ・きょうかいに きたときに、 それまで していた ゆだやじん きりすときょうとと、 ゆだやじん ではない きりすときょうと との きょうどうの しょくじ(と どうじに おこなわれていた れいはい)を ぺてろが やめた。 ぱうろは はんたいした あと、 あんてぃおきあ・きょうかいから はなれて ふきょうを おこなったとも いわれる。https://rcjinagekaigan.jimdo.com/2015/05/25/%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%97%E8%AA%B2-%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A8%E3%82%82%E7%A5%9E%E3%82%92%E7%95%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B/。 聖書協会共同訳「12:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 12節 というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。 13:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 13節 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 14:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 14節 彼らが福音の真理に従ってまっすぐ歩いていないのを見て、私は皆の前でケファに言いました。「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」 15:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 15節 私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。 16:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 16節 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」

*13:The Alain Badiou. Introduction by Kenneth Reinhard. Translated by Susan Spitzer, Incident at Antioch / L’Incident d’Antioche, A Tragedy in Three Acts / Tragédie en trois actes, 2013, Columbia University Press

*14:にーちぇの じでん、『この人を見よ』(西尾幹二(にしお・かんじ)やく、せいれき 1990ねん)「なぜ私は一個の運命であるのか」(https://www.shinchosha.co.jp/book/203507/

*15:つまり、 にーちぇを すこし よんだ だけでは、 わからない。たくさん よんだ から、 なじんで わかった という こと

*16:えんきんほう しゅぎ(遠近法主義、パースペクティズム):ひとの うんめいで ひとの いきかたの みかた、かんがえかたが ちがう。 いきる というのは、 かいしゃく(解釈) である。ぱーすぺくてぃずむ。

*17:うんめい など

*18:きりすと との かかわり

*19:にーちぇは いたりあの とりので うまに だきついて はっきょうした という いつわが ある。「また、別の不確かな証言によると、1月3日の夕方、散歩の途中で馬車屋の前で馬が御者に鞭打たれているのを目撃し、これに同情して泣きながら馬の首に抱きつき、そのまま昏倒したという逸話もあるが、それを証明するものは何も残っていない。」(https://www.ni-club.net/wonderland/history/6/inf3.cgi

*20:「そうであってのみ,人間はあの〔「あの」を きょうちょうしている。〕高みへと成長するのだ。稲妻が彼に命中し,彼を砕くに十分なまでの高みへと!」と つぁらとぅすとらは ちょうじんに いう(Nietzsche, Friedrich. Sämtliche Werke. Kritische Studienausgabe,in 15 Bänden. hrsg. von Giorgio Colli und Mazzino, Montinari (Berlin/ New York: dtv de Gruyter Dünndruck-Ausgabe)1967-1977, (1980) 4, 359、『ニーチェ全集』(1993-1994)))(酒井梨帆(2019)「西谷啓治ニーチェ理解 -「自己」の没落と「自己」の自己超克」、http://hdl.handle.net/10291/20021.)。「超人を教えよう」と言って始められるツァラトゥストラの序説のなかで、超人については、それは「大地がもつ意義である」とか「この稲妻、この狂気である」というふうに比喩的に語られるのみ」(IV14、IV16.)(岩下眞好(2014)「綱渡りの構図と寓話:ツァラストラの序説をめぐって」)

*21:いきる こと とは、 こうていする、 のうどうてき ちから である。と にーちぇは いっている。おおもじで せい(生)と かかれているのは、 かみや てんから うけとった せい(生)では なく、 だいちに ささえられた せい(生)に ついて だからと かんがえられる。この だいちの せい(生)は こんとろーるが できない。 ちなみに、どいつごは めいしが すべて おおもじで はじめる から、どいつごで かいた にーちぇは おおもじで 「せい」 という ことばを つかっている わけ では ない。

*22:道徳の系譜』に おいて、 にーちぇは きぞく・しゅぞくを 「きんの もうじゅう」、「きんぱつの やじゅう」という しょうちょう(象徴)で かたっている。にーちぇは きぞく・しょぞくの ゆうりょう(優良)と れつあく(劣悪)という どうとくを だいじに かんがえている。

*23:伊藤勝彦、「自然界に働いている根本の力を「力への意志」としてとらえるニーチェ」として ひごうりしゅぎは せうめいされている(日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館)。

*24:

*25:三島憲一「ドイツの哲学者ニーチェの著作《人と超人》を書いた。しかし超人概念は,〈金髪の野獣〉といったニーチェの言葉とともに,やがてナチスイデオロギーの中で悪用されることにもなる。」、「超人」、『平凡社 世界大百科事典』、https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%C3%9Cbermensch

*26:「あのニーチェ(≡ツァラツストラ)の説く 「超人」というフィギュアも、過去と未来の一切を 「運命」として大いなる情熱をもって主体的に引き受けようと意志する者によって投 じられたその意志の投影像でなくて、一体他の何であろうか」(圓増治之(1989)「ニーチェに於ける生のメタファとしての『舞踏』」(https://nagano.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=680&item_no=1&page_id=13&block_id=17))

*27:道徳の系譜』は せいれき 1887ねんの 11がつ(かくめいれき 96ねん 2がつ から 3がつ)に しゅっぱんされた。にーちぇは その ぜんごに 『力への意志』を かいていた。(木場深定(きば・じんじょう)「解説」、209-211ぺーじ、ニーチェ道徳の系譜』、岩波文庫、せいれき 1940ねん)

*28:にーちぇ いろんな ところ、要調査。ただし、 にーちぇに とって、 やまいは たんに わるい もの では なく、やまいを つうじないと やまいを うちがわ から やぶる ことは できないと とく。

*29:にーちぇ『はん・きりすとしゃ』、1888ねん 9がつ 30にちの てがきの ぶんしょう。「かみへ ほうし(奉仕) する ことに かかわる ことは いかなる こと でも、 どうとく に そむく ことだ。ぷろてすたんとに たいしての ほうが、 かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。じゆうしゅぎ・しんがくに たいしての ほうが、げんりつ(厳律)な かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。 きりすときょうと である ことは、 かがくに もっとも ちかづくが ゆえに ますます つみぶかい もの である。したがって、 つみぶかき ものの なかでの いちばんの つみぶかきものは てつがくしゃ である。」ただし、 つみは、 かのうせいをひとつに せばめる こと である。 きりすときょうが いう ときの わるい という いみの つみ では ない。

*30:にーちぇの 『曙光』(しょこう)、『権力への意志』、『反キリスト者』、『道徳の系譜』など。 にーちぇは ぱうろの きりすときょうを、 そうりょてきな かち(価値)と かんがえていた。 にーちぇは ぱうろが つよい ものが わるく、 よい ものが わるい という かんがえ であったと かいている。「3:コリントの信徒への手紙二/ 12章 10節、それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」(聖書協会共同訳)

*31:びるへるむ・りひゃると・わーぐなー。Wilhelm Richard Wagner。せいれき 1813ねん から 1883ねん。『とりすたんと いぞるで』 (せいれき1857ねん から 1859ねん)などの どいつごの うたが ある げきを かいた。にーちぇは わーぐなーの ことが だいすき だったが、せいれき 1876ねん から きらいに なる

*32:〔まごびき〕にーちぇ(原佑・吉沢伝三郎訳)『生成の無垢(上)』(https://kangaeruhito.jp/article/15315)「もちろんこんにちでは、天分のとぼしい音楽家たちは、また金銭欲や名誉欲にかられた音楽家たちも、困った状態にあるのかもしれない。まさしく彼らにとって、音楽を作るヴァーグナーのやり方のうちには選りぬきの誘惑があるからである。つまりヴァーグナー的な手段や手くだで作曲するのは容易なことであるし、さらにまた「大衆」を興奮させようとするこんにちの芸術家たちの煽動的な要求のもとでは、いっそう報われることであるかもしれない、くわしく言えば、「一層効果的な」、「いっそう圧倒的な」、「いっそう的確な」、「いっそう感動的な」ことであり、かくて演劇賤民と素人的な熱狂家の隠しおおせない愛用語のとおりであるかもしれない。だが、芸術の問題において、「大衆」の喧騒と感激とに結局なんの意義があろう!優れた音楽はけっして「公衆」をもっていない、- それはけっして「公然たるもの」ではなく、またそうではありえず、それは最も選りぬきの者たちに属し、それはつねにただ ― 比喩でいえば ― 「私室」用にのみ現存すべきである。「大衆」は、彼らに最もよくおもねるすべを心得ている者を嗅ぎつける。大衆は大衆流儀ですべての煽動的な才子どもに感謝をささげ、自分たちにできるかぎり彼らにお返しをするのだ。」。 きげんぜん 400ねん(かくめいれき -2190ねん) ごろの こだい・ぎりしあの てつがくしゃ である そくらてすは、くにで しんじない かみかみを みちびき いれ、 せいしょうねんを だらくさせた として、 しけいに なった(ぷらとん(納富信留(のうとみ・のぶる)やく)『ソクラテスの弁明』、光文社古典新訳文庫、せいれき 2012ねんを よんだ。 ベンジャミン・ジャウエット、永江良一 (よみかたが わからない)じゅうやく、「ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じていると。」(https://open-shelf.appspot.com/ApologyOfSocrates/chapter2.html))。

*33:にーちぇは わーぐなーを 「クリングゾル中のクリングゾル」と なづけた(要出典☆)。くりんぐぞる とは、 わーぐなーの 『タンホイザー』、『パルジファル』で でてくる あくの まほうつかい である。『パルジファル』では、 くりんぐぞるの まほうに よって あれた しろを はなが さきみだれる にわに している(二幕)。また、 『パリジファル』では、 くりんぐぞるは くんどり という なまえの おんなに しろへの しんにゅうしゃたちを ゆうわくする ように あやつる。ひき

*34:ニーチェが『ヴァーグナーの場合』で用いた<ディレッタント>や<俳優>、<デカダンス>や<ヒステリー>といったキーワードは、第二次世界大戦までの間、ヴァーグナーをめぐる学界の論争の語彙を半ば規定することになる。」、立石拓也(たていし・たくや)「《ニーベルングの指輪》における脱民族主義的解釈の批判的考察」、ぴーでぃーえふ、https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8071&item_no=1&attribute_id=17&file_no=2

*35:Alain Badiou(1982), Théorie du sujet, Seuil. https://www.seuil.com/ouvrage/theorie-du-sujet-alain-badiou/9782020986915

*36:りえびち・まんだりしゅたーむ。せいれき 1891ねん から 1938ねん。ろしあごで ぽえむを かいた。『時のざわめき』など。

*37:ふぇるなんど・ぺそあ。ぽるとがるごを ちゅうしんに えいごや ふらんすごで ぽえむを かいた。せいれき 1883ねん から 1935ねん。『不安の書』など。

*38:ぱうる・つぇらん。せいれき 1920ねん から 1970ねん。 どいつごで ぽえむを かいた。『死のフーガ』など。

*39:Alain Badiou(1988), L'Être et l'événement, Seuil, https://www.seuil.com/ouvrage/l-etre-et-l-evenement-alain-badiou/9782020098625. アラン・バディウ(2019)『存在と出来事』、藤本一勇訳、藤原書店http://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865782509.html

*40:Alain Badiou, Logiques des mondes. L’Être et l’Événement, 2, Paris, éd. Seuil, 2006.

*41:Alain Badiou, Le Séminaire - Images du temps présent, Fayard, 2014 (EAN 9782213678924).

*42:Alain Badiou, Le Séminaire : s'orienter dans la pensée, s'orienter dans l'existence (2004-2007), Fayard, 2021.

*43:きげんぜん 10ねん ごろ から せいれき 65ねん ごろ。いちせいきの きりすときょうの しと(使徒)、せいじん(聖人)。てがみが しんやくせいしょに ある。

*44:Αντιόχεια。「トルコ南部の小都市アンタキヤの古称。前300年ごろ古代シリア王国セレウコス1世が首都として建設。のちエルサレムに次ぐ初代キリスト教会の中心地。」(「デジタル大辞泉」)。 ぱうろの きりすときょうの ふきょうの きょてん。

*45:あんてぃおきあ・じけんは、 ぱうろと ぺてろ(または けふぁ)が たいりつ した じけん である。しんやくせいしょ、 ガラテヤ書2章11~14節に ある。えるされむ・きょうかい から ひとが、 あんてぃおきあ・きょうかいに きたときに、 それまで していた ゆだやじん きりすときょうとと、 ゆだやじん ではない きりすときょうと との きょうどうの しょくじ(と どうじに おこなわれていた れいはい)を ぺてろが やめた。 ぱうろは はんたいした あと、 あんてぃおきあ・きょうかいから はなれて ふきょうを おこなったとも いわれる。https://rcjinagekaigan.jimdo.com/2015/05/25/%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%97%E8%AA%B2-%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A8%E3%82%82%E7%A5%9E%E3%82%92%E7%95%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B/。 聖書協会共同訳「12:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 12節 というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。 13:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 13節 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 14:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 14節 彼らが福音の真理に従ってまっすぐ歩いていないのを見て、私は皆の前でケファに言いました。「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」 15:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 15節 私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。 16:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 16節 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」

*46:The Alain Badiou. Introduction by Kenneth Reinhard. Translated by Susan Spitzer, Incident at Antioch / L’Incident d’Antioche, A Tragedy in Three Acts / Tragédie en trois actes, 2013, Columbia University Press

*47:にーちぇの じでん、『この人を見よ』(西尾幹二やく、せいれき 1990ねん)「なぜ私は一個の運命であるのか」(https://www.shinchosha.co.jp/book/203507/

*48:にーちぇは いたりあの とりので うまに だきついて はっきょうした という いつわが ある。「また、別の不確かな証言によると、1月3日の夕方、散歩の途中で馬車屋の前で馬が御者に鞭打たれているのを目撃し、これに同情して泣きながら馬の首に抱きつき、そのまま昏倒したという逸話もあるが、それを証明するものは何も残っていない。」(https://www.ni-club.net/wonderland/history/6/inf3.cgi

*49:「そうであってのみ,人間はあの〔「あの」を きょうちょうしている。〕高みへと成長するのだ。稲妻が彼に命中し,彼を砕くに十分なまでの高みへと!」と つぁらとぅすとらは ちょうじんに いう(Nietzsche, Friedrich. Sämtliche Werke. Kritische Studienausgabe,in 15 Bänden. hrsg. von Giorgio Colli und Mazzino, Montinari (Berlin/ New York: dtv de Gruyter Dünndruck-Ausgabe)1967-1977, (1980) 4, 359、『ニーチェ全集』(1993-1994)))(酒井梨帆(2019)「西谷啓治ニーチェ理解 -「自己」の没落と「自己」の自己超克」、http://hdl.handle.net/10291/20021.)。「超人を教えよう」と言って始められるツァラトゥストラの序説のなかで、超人については、それは「大地がもつ意義である」とか「この稲妻、この狂気である」というふうに比喩的に語られるのみ」(IV14、IV16.)(岩下眞好(2014)「綱渡りの構図と寓話:ツァラストラの序説をめぐって」)

*50:にーちぇが かたる えいえんかいきは、 せい(生)の こうていと いわれる。

*51:道徳の系譜』に おいて、 にーちぇは きぞく・しゅぞくを 「きんの もうじゅう」、「きんぱつの やじゅう」という しょうちょう(象徴)で かたっている。にーちぇは きぞく・しょぞくの ゆうりょう(優良)と れつあく(劣悪)という どうとくを だいじに かんがえている。

*52:伊藤勝彦、「自然界に働いている根本の力を「力への意志」としてとらえるニーチェ」として ひごうりしゅぎは せうめいされている(日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館)。

*53:にーちぇは 『どうとくの けいふがく』で、 うつくしい という ことを わるいと かんがえる ことを どれいの どうとく として ひていした。

*54:三島憲一「ドイツの哲学者ニーチェの著作《人と超人》を書いた。しかし超人概念は,〈金髪の野獣〉といったニーチェの言葉とともに,やがてナチスイデオロギーの中で悪用されることにもなる。」、「超人」、『平凡社 世界大百科事典』、https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%C3%9Cbermensch

*55:「あのニーチェ(≡ツァラツストラ)の説く 「超人」というフィギュアも、過去と未来の一切を 「運命」として大いなる情熱をもって主体的に引き受けようと意志する者によって投 じられたその意志の投影像でなくて、一体他の何であろうか」(圓増治之(1989)「ニーチェに於ける生のメタファとしての『舞踏』」(https://nagano.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=680&item_no=1&page_id=13&block_id=17))

*56:道徳の系譜』は せいれき 1887ねんの 11がつ(かくめいれき 96ねん 2がつ から 3がつ)に しゅっぱんされた。にーちぇは その ぜんごに 『力への意志』を かいていた。(木場深定(きば・じんじょう)「解説」、209-211ぺーじ、ニーチェ道徳の系譜』、岩波文庫、せいれき 1940ねん)

*57:にーちぇの 『曙光』(しょこう)、『権力への意志』、『反キリスト者』、『道徳の系譜』など。 にーちぇは ぱうろの きりすときょうを、 そうりょてきな かち(価値)と かんがえていた。 にーちぇは ぱうろが つよい ものが わるく、 よい ものが わるい という かんがえ であったと かいている。「3:コリントの信徒への手紙二/ 12章 10節、それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」(聖書協会共同訳)

*58:びるへるむ・りひゃると・わーぐなー。Wilhelm Richard Wagner。せいれき 1813ねん から 1883ねん。『とりすたんと いぞるで』 (せいれき1857ねん から 1859ねん)などの どいつごの うたが ある げきを かいた。にーちぇは わーぐなーの ことが だいすき だったが、せいれき 1876ねん から きらいに なる

*59:〔まごびき〕にーちぇ(原佑・吉沢伝三郎訳)『生成の無垢(上)』(https://kangaeruhito.jp/article/15315)「もちろんこんにちでは、天分のとぼしい音楽家たちは、また金銭欲や名誉欲にかられた音楽家たちも、困った状態にあるのかもしれない。まさしく彼らにとって、音楽を作るヴァーグナーのやり方のうちには選りぬきの誘惑があるからである。つまりヴァーグナー的な手段や手くだで作曲するのは容易なことであるし、さらにまた「大衆」を興奮させようとするこんにちの芸術家たちの煽動的な要求のもとでは、いっそう報われることであるかもしれない、くわしく言えば、「一層効果的な」、「いっそう圧倒的な」、「いっそう的確な」、「いっそう感動的な」ことであり、かくて演劇賤民と素人的な熱狂家の隠しおおせない愛用語のとおりであるかもしれない。だが、芸術の問題において、「大衆」の喧騒と感激とに結局なんの意義があろう!優れた音楽はけっして「公衆」をもっていない、- それはけっして「公然たるもの」ではなく、またそうではありえず、それは最も選りぬきの者たちに属し、それはつねにただ ― 比喩でいえば ― 「私室」用にのみ現存すべきである。「大衆」は、彼らに最もよくおもねるすべを心得ている者を嗅ぎつける。大衆は大衆流儀ですべての煽動的な才子どもに感謝をささげ、自分たちにできるかぎり彼らにお返しをするのだ。」。 きげんぜん 400ねん(かくめいれき -2190ねん) ごろの こだい・ぎりしあの てつがくしゃ である そくらてすは、くにで しんじない かみかみを みちびき いれ、 せいしょうねんを だらくさせた として、 しけいに なった(ぷらとん(納富信留(のうとみ・のぶる)やく)『ソクラテスの弁明』、光文社古典新訳文庫、せいれき 2012ねんを よんだ。 ベンジャミン・ジャウエット、永江良一 (よみかたが わからない)じゅうやく、「ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じていると。」(https://open-shelf.appspot.com/ApologyOfSocrates/chapter2.html))。

*60:にーちぇは わーぐなーを 「クリングゾル中のクリングゾル」と なづけた(要出典☆)。くりんぐぞる とは、 わーぐなーの 『タンホイザー』、『パルジファル』で でてくる あくの まほうつかい である。『パルジファル』では、 くりんぐぞるの まほうに よって あれた しろを はなが さきみだれる にわに している(二幕)。また、 『パリジファル』では、 くりんぐぞるは くんどり という なまえの おんなに しろへの しんにゅうしゃたちを ゆうわくする ように あやつる。ひき

*61:ニーチェが『ヴァーグナーの場合』で用いた<ディレッタント>や<俳優>、<デカダンス>や<ヒステリー>といったキーワードは、第二次世界大戦までの間、ヴァーグナーをめぐる学界の論争の語彙を半ば規定することになる。」、立石拓也(たていし・たくや)「《ニーベルングの指輪》における脱民族主義的解釈の批判的考察」、ぴーでぃーえふ、https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8071&item_no=1&attribute_id=17&file_no=2

ばでぃうの にーちぇ0-1

ばでぃうの にーちぇ0-1
7-9ぺーじ
せいれき 2021ねん 3がつ 22にち、
かくめいれき 229ねん 7がつ 2にち に かいた。
(Décade I Doudi, Germinal an CCXXIX)
せいれき 2021ねん 3がつ 23にち、24にち(かくめいれき 229ねん 7がつ 3にち、4にち、Décade I Tridi,Quartidi, Germinal an CCXXIX)に あおいろで かきたした。


かくめいれき 229ねん 7がつ 5にち、Décade I Quintidi, Germinal an CCXXIX、(せいれき 2021ねん 3がつ 25にち)に みどりいろで かきたした。

「永遠のユダヤ人は、女が惚れて自分のものにしてしまったら、どうなるのだ。それは簡単なこと、そのときにユダヤ人は永遠ではなくなるのさ。結婚し、われわれとは関係がなくなるのだ。・・・現実的な言い方をすれば、女は芸術家や天才(永遠のユダヤ人とは彼らのことなのだ)にとって危険なのだ。惚れる女は、ユダヤ人をだめにする。」(ニーチェワーグナーの場合』、Der Fall Wagner, in Nietzsche: Werke in drei Bänden, München 1966 (Schlechta-Ausgabe), Bd. 2, S. 909(筆者〔かまた〕訳)) ここでニーチェが「天才芸術家」ワーグナーと永遠のユダヤ人を同一視していることは明らかである。永遠のユダヤ人とは、まさに自由へと呪われ、故郷の大地を失い、文化的根無し草として伝統的共同体に背を向け、一八四八年のドレスデン蜂起に加わった革命家ワーグナーの別名といってよい。
鎌田康男(かまた・やすお) 「パルジファル ― 近代市民社会の中でのミットライト」」『ショーペンハウアー研究』第 5 号(2000 年 11 月 15 日)57-76 ページ。ぴーでぃーえふ、http://www.schopenhauer.org/organ/lib/kamata_yasuo/mitleid.pdf

ほんとうか?

0

Alain Badiou
Le Séminaire
NIETZSCHE
L’antiphilosophie 1
1992‑1993
Texte établi par Véronique Pineau
Ouvertures
Fayard

あらん・ばでぃう
こうぎ(講義)
にーちぇ
はん・てつがく 1
せいれき 1992ねん から 1923ねん
べろにっく・ぴのー こうてい(校訂)
うべふちゃー(じょきょく)
ふぁいやー

À propos du séminaire de 1992‑1993
consacré à Nietzsche

にーちぇに ついての せいれき 1992ねん から 1993ねんの こうぎ(講義)に かんして。

1

1.1

Nombre de mes séminaires s’inscrivent dans la préparation d’un livre où se dépose, de façon systématique, l’état de développement de ma philosophie.

わたしの こうぎの おおくは、 じぶんの てつがくの しんてんじょうきょうが たいけいてきに つりつもった、 いっさつの ほんの したしらべに ふくまれています。

se déposer: ちんでんする、 ほこりなどが つもる
préparation: したしらべ、よしゅう、じゅんび、ようい
s'inscrire:とうろくする、ふくまれる、いちする、きざみこまれる

1.2

C’est ainsi que les séminaires des années 1975 à 1980 sont en quelque sorte totalisés et stylisés dans Théorie du sujet, publié en 1982.

こうして、 せいれき 1975ねん から 1980ねんの こうぎが いわば、 ひとつに まとめられ、ぶんしょうに された 『しゅたいの りろん』*1を、 せいれき 1982ねんに しゅっぱんされました。

totaliser : A. − Rassembler en un total, faire la somme.
styliser: 3. Domaine littér., moral.Imprimer la marque particulière d'un écrivain, d'une forme de pensée, etc.

1.3

Il est également évident que les séminaires situés entre 1983 et 1987 cumulent des références classiques, tant philosophiques (Parménide, Platon, Aristote, Descartes, Spinoza, Leibniz, Kant, Hegel, Heidegger) que poétiques (Hölderlin, Mandelstam, Pessoa, Celan), ainsi que des constructions conceptuelles (les quatre conditions de la philosophie, le multiple-­sans-­un, l’événement, le générique…), qui seront architecturées dans L’être et l’événement, publié en 1988.

また あきらかに せいれき 1983ねん から 1987ねん までの あいだの こうぎは、こてんてきな ことに ふれる ことを つみかさねてきました。てつがくに ついても ふれてきました(ぱるめにです、ぷらとん、ありすとてれす、でかると、すぴのざ、らいぷにっつ、かんと、へーげる、はいでっがー)。ぽえむの しに ついても ふれてきました(へるだーりん、まんだりしゅたーむ(Mandelstam)*2, ぺそあ(Pessoa)*3, つぇらん(Celan)*4)。がいねんてきな こうちく(てつがくと、 できごとと、いちなきた(一なき多)と、るい・せいせい(類生成)てきな ものの よっつの じょうけん…)を つみかさねました。それらを きっちりと くみたてて、 『そんざいと できごと』*5を せいれき 1988ねんに しゅっぱん しました。

cumuler: るいせきする、せきさんする。かじゅうする
tant... que...: も…も、と どうように

1.4

Logiques des mondes (2005), outre une longue et solide préparation mathématique concernant la théorie des catégories, s’est nourri de l’importante révision de ma théorie du sujet dans le séminaire de 1996‑1998, puis des séminaires du début des années 2000, moins historiques, plus déployés dans le contemporain, comme Images du temps présent (2001‑2004) et S’orienter dans la pensée, s’orienter dans l’existence (2004‑2007).

『せかいの ろんりがく』*6(せいれき 2005ねん)は、かてごりーの りろんに ついての ながくて ないようの つまった、すうがくてきな じゅんびに くわえて、 せいれき 1996ねん から 1998ねんの こうぎに おける、 じぶんの しゅたいの りろんの だいじな しゅうせいと、 そして、2000ねんの はじめの こうぎに しゅうちゅうしました。この こうぎは、あまり れきしてき ではなく、げんだいに ついて いままで よりも くりひろげました。『げんざい という ときの いめーじ』*7(せいれき 2001ねん から 2004ねん)と、 『かんがえる ことに おいて すすむ、 ある という ことに おいて すすむ』*8(せいれき 2004ねん から 2007ねん)も どうよう(同様)です。

se nourrir de:にふける
l’importante révisionは なぜ la révision importante ではない のか?
développer : くわしく かいせつする、 ふえん する
se développer : ひろがる
le contemporain

B.− Subst. masc. sing. avec valeur de neutre, littér. L'époque contemporaine :
8. Un de ces normaliens émancipés (...) dont la solide culture forme un acquis, un passé, qu'ils respectent mais qui ne les intéresse plus bien profondément, et par dessus lequel ils sont impatients de sauter pour entrer dans le contemporain. Thibaudet, Hist. de la litt. fr. de 1789 à nos jours,1936, p. 460.
https://www.cnrtl.fr/definition/contemporain

s'orienter: ほうこうを さだめる、 ある ほうこうに すすむ、みちすじを みつける

2

2.1

Bien qu’il se soit finalement inscrit dans une série, de 1992 à 1996, bâtie autour du motif – plus ancien – de l’antiphilosophie, et qui enveloppe finalement Lacan, Wittgenstein et saint Paul, le séminaire sur Nietzsche, ici restitué dans son étrange labyrinthe par le travail acharné de Véronique Pineau, résulte de ce qu’on peut appeler une décision pure, dont le résultat ne s’est pas inscrit dans les grandes scansions livresques de mon entreprise. Il est même resté à part de ses compagnons, les antiphilosophes modernes et antiques.

にーちぇに ついての こうぎは、さいごには、 はん・てつがく という(いままで より ふるい) わだいに ついて つくられた せいれき 1992ねん から 1996ねん までの しりーずの なかに ふくまれていて、らかん、うぃとげんしゅたいん、せい・ぱうろ*9を さいごには ふくんでいます。それ にも かかわらず、この にーちぇに ついての こうぎを、 べろにっく・ぴのーが ねっしんに はたらいてくれて、 ここでは へんに いりくんだものの なかに いちづけなおしました。この こうぎは、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃく(décision pure)と よべる ものの けっか です。そして、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃくの けっかは、 わたしの とりくみを ほんの うえ だけで おおきく くぎって はっきり させた ものには ふくまれていません。にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。

bien que :にもかかわらず。せつぞくほうが つかわれる。
finalement :さいごに
motif: II.− ARTS. Sujet qui domine une œuvre d'art, un ouvrage.
autour de : について、にかんして
bâtie: たてられた、かたちづくられた
envelopper : ふくむ
le labyrinthe :めいろ、めいきゅう、いりこんだもの、さくそうさしたもの

acharné : はげしい、しつような、s'acharner àに ねっちゅうする、 むちゅうになる

”Qui manifeste une ardeur opiniâtre : Travail, combat acharné.”
https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/acharn%C3%A9/664

(ardeur : ねつい、はげしさ
opiniâtre : ねづよい、しつこい、たゆみない)


livresques :ほんの うえ だけの、 きじょう(机上)の
entreprise : けいかく、くわだて、(とりくみ)

A.−
1. Action d'entreprendre quelque chose; ce que quelqu'un entreprend.
https://www.cnrtl.fr/definition/entreprise
B.− Entreprendre + subst. désignant une action ou son résultat ou + de + inf.
1. Mettre à exécution un projet nécessitant de longs efforts, la réunion de moyens, une coordination, etc. Entreprendre des études, des recherches, l'ascension de l'Éverest.
https://www.cnrtl.fr/definition/entreprise

scansion :いんりつ・ぶんせき、いんりつを はっきり させた はつおん、 だんぞくせいげんご、おんせつを くぎって はつおんする げんご しょうがい

じゅんりろんてきな けっちゃく

décision pure
purが うしろに あるので、 まったくの という いみではない。 じゅんすいな、 じゅん(純)りろんてきな という いみが ある。
décisionは けってい だと おもっていたが、 むしろ けっちゃく、 かいけつ のほうが いいだろう。
ただし、 らかんに おいて、 けっていは いちべつ、りかい、けつだん という ろんりてき だんかい として もんだいに される。『エクリ』「論理的時間と予期される確実性の断言」に かいてある。 じぶんが よまずに、 ロバート・サミュエルズ『哲学による精神分析入門』から まとめる。 いちべつの ときには、 じぶんの ほかに じぶん みたいな ほかのものが いると わかるが、 じぶんが なにものかは わからない。 りかいの ときには、ほかのものも じぶんと おなじで、 それぞれに とっての じぶんが なにものなのかは わからないと わかる。 そして、 けつだんの ときには、 じぶんが なにものかは わからないが、 とりあえず なにか であると きめて はなしを はじめる ことに なる。
せいしんぶんせきの ぶんみゃく ではなく、 せいじの ぶんみゃくの ことば かもしれない。 わからない。 要調査。

とりくみの きじょうで おおきく わける こと

les grandes scansions livresques de mon entreprise
「おおきく」とgrandeを やくしたが、 「おおざっぱな」という いみが ある のだろうか?
または、 「いだいな」 という いみも あるの だろうか?
acharnéと grandを くらべている だろうか?

すかんしおん

scansion :いんりつ・ぶんせき、いんりつを はっきり させた はつおん、 だんぞくせいげんご、おんせつを くぎって はつおんする げんご しょうがい
しかし、 ここでは、らかんの scander, scandation、 らかんは せいしんぶんせきかの ぶるーす・ふぃんくに よれば、 punctuation、くとうほう(句読法)を かんがえている だろう。らかんに よれば、 せいしんぶんせきの せあんす という なまえの いっかいの かいわを みじかい じかんで やめたり、 ながい じかん まで つづける ことが すかんしおん、ぱんくちゅあしおん、くとうほう である。らかんに よれば、せいしんぶんせきの ちりょうを おなじ じかんで くぎらずに、かんじゃ、くらいあんと、ぶんせきしゅたいの はなしから くぎる べき ときに くぎる べき である。 「らかんてき・たんじかん・せっしょん」と よばれるが、 らかんは・せいしんぶんせきでは 「へんじかん(変時間)・せっしょん」と よばれる(らかんも そういっていたかは かくにんしていない)。ただし、 だいじなことは、 この へんじかん せっしょんは しんけいしょうしゃには とても うまく いくが、 せいしんびょうしゃに つかうと とても まずい ので ちゅういが ひつよう である。
ここでは、 くぎる ことで、 はっきり させる という いみだと おもう。

"Tout au contraire l’art de l’analyste doit être de suspendre les certitudes du sujet, jusqu’à ce que s’en consument les derniers mirages. Et c’est dans le discours que doit se scander leur résolution."
FONCTION ET CHAMP DE LA PAROLE ET DU LANGAGE EN PSYCHANALYSE
par Jacques LACAN
http://aejcpp.free.fr/lacan/1953-09-26b.htm
「分析家の技術[art]はこれとはまったく反対に、主体の幻影が最後まで使い尽くされるまで、主体の確信を失効[suspendre]させるようにしなければならないのです。主体の幻影の解消[resolution]がスカンシオンされる[scander]のは、ディスクールにおいてです。」
http://psychanalyse.hatenablog.com/entry/20041123/p1

「このように、巧みな句読法[ponctuation]こそが主体のディスクールに意味を与えるものなのです。なぜセッションの中断が、分析家による介入の価値のすべてを持つスカンシオンの役割を果たすのかという理由がここにあるのです*12。現代の技法は、セッションを純粋に時間で決めて終わらせ、主体のディスクールの大筋=横糸[trame]を度外視しています。〔スカンシオンによる〕分析家の介入は、決断の瞬間を準備するものです。それだからこそ、私たちは〔セッションの〕終結を習慣的な体制から開放して、終結を技法の有用な目的すべてにむけて従わせなければならないのです。」
http://psychanalyse.hatenablog.com/entry/20041123/p1

scansion

C. − Au fig. Toute expression (de la pensée, des sentiments, etc.) où les temps forts sont régulièrement et fortement marqués.
https://www.cnrtl.fr/definition/scansions

けっか

「この こうぎの けっかは、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃく(décision pure)と よべる もの です。そして、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃくの けっかは、 わたしの とりくみを ほんの うえ だけで おおきく くぎって はっきり させた ものには ふくまれていません。」
けっか(résultat)は、 かいとう(解答)、こたえ という いみが ある。

のまま???

Il est même resté à part de ses compagnons, les antiphilosophes modernes et antiques.
「その こうぎの なかま、 つまり それらの げんだいと こだいの はん・てつがくは、 べつの ままで さえ ありました。」と やくしていた。 まちがい。
Ilは にーちぇ だし、 ふぃろぞふぃー ではなく、 ふぃろぞふ、 つまり てつがくしゃ である。
さらに、 moderneは antique、こだいと くべつするなら、 きんだい(temps modernes きんせい(近世)、「古代の対立概念で、中世を含むこともあるが、特にルネサンス期以後」 らしい)と やくした ほうが いいきがする。
「にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。」
要調査。
à part deは みらいに ついて 「そのとき から」 という いみである。 そして、 つぎの ぶんの depuisは かこについて 「そのとき から」という いみ である。

2.2

Lacan était depuis fort longtemps omniprésent dans mon œuvre. Wittgenstein, génial à sa façon, mais référence obligée de la triste « philosophie analytique » était pour moi, dans le champ de bataille idéologique contemporain, une cible désignée, à laquelle j’ai fait un sort dans L’Antiphilosophie de Wittgenstein.

らかんは わたしの さくひんの なかに かなり まえ から、いつも あらわれて きました。うぃとげんしゅたいんは、それなりに てんさい でしたが、くだらない 「ぶんせき てつがく」に ついて/が かならず ふれないと いけない という ことは、 わたしに とっては、 その ときの/げんだいの いでおろぎー てきな たたかいの ばに おいて、 ねらった たーげっと でした。『うぃとげんしゅたいんの はんてつがく』で その たーげっとを こんぜつ しました。

omniprésenter
omniprésent: へんざいの(偏在の)
génial : てんさいてきな、 すばらしい
à sa façon :じぶんの やりかた で、 じぶんの このみ で、 じぶんなりに、 それなりに
obligé/e

A. − Qui est imposé par les circonstances, les faits, dont la fonction semble nécessaire, d'usage.
1. [En parlant d'une chose]
− Qu'il paraît nécessaire de faire, à quoi l'on ne peut échapper, dont on ne peut se dispenser.
〔いんようしゃ ちゅう: りゃく〕
− Qui est prévisible et semble inévitable.

obliger :ぎむを おわせる、 を しいる(強いる)、きょうせいする
contemporain: その ときの/げんだいの
moderne/ antique と べつの かんがえかた として いれている ならば、 「その ときの」 という いみであり、 つなげて かんがえている なら、 「げんだいの」 という いみ である。わからない。要調査。


référence de は …が ふれる こと、 …に ふれる ことの ふたつの いみが ある。 「 「ぶんせき てつがく」に ついて/が かならず ふれ」もんだい。 わからない。 要調査。
tristは めいしの まえで、 「くだらない」、「なさけない」、「なげかわしい」 という いみに なる。
le champ de bataille: せんじょう(戦場)
cible: もくひょう、たーげっと、ひょうてき
désiger A à B : Aを Bの まとにする。
faire un sort à : きょうちょうする、ひろめる、こんぜつする、かたをつける、たべる、 のむ

depuis fort longtemps

depuis longtemps は ながい まえ から という いみ である。

c) Loc. adv. cour.
♦ Depuis longtemps. Cela fait un long temps.

Voilà le plus joli Courbet que j'aie vu depuis longtemps (Duhamel, Nuit St-Jean,1935, p. 25).
Un cimetière depuis longtemps abandonné (Gracq, Argol,1938, p. 48):

11. À ce moment même, Joseph surgit sur le trottoir de la rue d'Amsterdam, juste à côté de Laurent. − Tu m'attendais depuis longtemps? fit-il. − Non, répondit Laurent, j'arrive à l'instant même. Duhamel, Chronique des Pasquier,Le Combat contre les ombres, 1939, p. 27.

Depuis si longtemps.
Tiens! Voilà notre gros fer à repasser que nous réclamons depuis si longtemps! (Bernanos, Dialog. Carm.,1948, 2etabl., 6, p. 1591).

しかし、 depuis fort longtemps という ことばは じしょに ない。
さらに、 fortと longtempsを つなげる ことも じしょに みつからない。temps fortは、 おんがくの きょうはく(強拍)である。
しかし、 depuis fort longtempsは いろいろな れいぶんを みつけられた。かせんを さいとーが つけくわえた。

https://www.linguee.fr/francais-anglais/traduction/depuis+fort+longtemps.html
Elle va garantir une certitude juridique et un statut positif au niveau européen aux coopératives, chose dont nous discutons depuis fort longtemps. europarl.europa.eu

It is going to give legal certainty and positive status at European level to cooperatives, something for which we have argued for a long time.
europarl.europa.eu


Cette mesure sur les ponts et tunnels internationaux était attendue depuis fort longtemps et elle s'impose. www2.parl.gc.ca

The international bridges and tunnels act has been long overdue and is necessary.
www2.parl.gc.ca


Depuis fort longtemps, il se dégage un consensus autour de ce fait.
www2.parl.gc.ca

There has been consensus on that for some time now. 〔いんようしゃ ちゅう: しばらく という いみ である。〕
www2.parl.gc.ca


C'était comme si tout le monde se connaissait depuis fort longtemps.
curia.op.org

It was as if we knew each other for ages.
curia.op.org


[...] de profiter de l'élan suscité pour sortir la Conférence de l'impasse dans laquelle elle se trouve depuis fort longtemps.
daccess-ods.un.org

[...] common ground to build upon the momentum created to move the Conference on Disarmament out of its long-standing stalemate. 〔いんようしゃ ちゅう: ながねんに わたる という いみ である。〕
daccess-ods.un.org


Toutes les législations nationales acceptent depuis fort longtemps la réparation du préjudice moral, tant pour la victime [...]
concernedhistorians.org

All national legislations have long accepted compensation for moral injury, both for the direct victim and for his heirs.
concernedhistorians.org

あまり fortを もんだいに しなくて いい ようだ。
にちふつ じしょにも、 fortは かずが おおい ことを あらわす とも かいていあるし、 かずの ひょうげんは かなり かんたんに はいってくる から、「かなり」と やくした。

2.3

Quant à saint Paul, je lui ai consacré en 1998 un livre, Saint Paul, la fondation de l’universalisme, qui a fait le tour du monde, et je l’avais déjà implicitement convoqué, dès 1989, dans ma tragédie L’Incident d’Antioche. Rien de tel pour Nietzsche. Ni préparé, ni relayé, le présent séminaire laisse Nietzsche à part dans mon entreprise.

せい・ぱうろに ついて、はやくも せいれき 1998ねんに いっさつの ほんんを かきました。 せい・ぱうろは ふへんしゅぎを つくった もので あって、 せかいを まわりました。すでに せいれき 1989ねん から わたしが つくった『あんてぃおきあ*10 じけん*11*12という ひげきで それとなく よびだしました。にーちぇに ついては そのような ことは なにも していません。したしらべも せず、 ひきつぎも せず、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけた ままに しておきました☆。

dés: から、 はやくも…に
universalisme: ふへんしゅぎ、 ばんにんきゅうさいろん(万人救済論)、ばんにんきしんろん(万人帰神論)、ふへんごういしゅぎ
convoquer: めいれいして こさせる。
rien de tel:rienに けいようしが つく ときは、 deが あいだに はいる。ちゅうしょうてきな めいしは だいたい そう。quelque chose とか。ここは、 (il n'y a pas)が しょうしゃく されていると かんがえられる。
relayer: しごとなどを ひきつぐ、こうたいする
Ni préparé「したしらべ しないで」は なにも していない という いみに とられる かもしれない。 「じゅんび しないで」の ほうが いいかも しれない。しかし、

Nombre de mes séminaires s’inscrivent dans la préparation d’un livre où se dépose, de façon systématique, l’état de développement de ma philosophie.
わたしの こうぎの おおくは、 じぶんの てつがくの しんてんじょうきょうが たいけいてきに つりつもった、 いっさつの ほんの したしらべに ふくまれています
(この ぺーじ、 ばでぃうの にーちぇ0-1)

の 「したしらべ」préparationと たいおうさせるには どうすれば いいか。
Ni préparé, ni relayé という ことばづかいの はいけいが なにか あるかと おもったが、 わからなかった。 なさそう。
présent: (めいしの まえで、) この、いま ものんだいに なっている
à part:はなれて、れいがいてきな、どくじの、べつの、ほかとはなして、わきにのけて、をのぞいて、はべつとして

せいぱうろは ふへんしゅぎか ばんにんきゅうさいしゅぎか

アラン・バディウ 著、長原 豊 訳、松本 潤一郎 訳『聖パウロ、普遍主義の基礎』、せいれき 2004ねん、 河井書房新社
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309243269/
が あるが、 やくは やくが ひどい ながはら・ゆたかだ。 これだけで、 ふへんしゅぎと やくさない ほうが いい きがしてきた。
さいーど『フロイトと非ーヨーロッパ人』は ながはらに しては よい やく だった。
べるさーにの ふろいとてき しんたい、 ほもず(『ホモセクシャリティ』)、『フロイトと非ーヨーロッパ人』の やくしゃかいせつは ひどかった。
らかんは せいしんぶんせきの えいきょうを うけすぎると、 このような わるい ほんやくに なるという かなしい ぐたいれいだ。 いましめに しよう。
けいざいの せんもんか なので、 けいざいを かいた ものは うまいの かもしれない。
しかし、 おそらく、 「ふへんしゅぎ」 で あっている。
なぜなら、 どうやら、 かみが すくうかが もんだいに なっている のでは なく、 ただしい ことと いう いみの、 しんり(真理)が もんだいに なっている からだ。
PHILIPPE CIBOIS(ふぃりっぷ・しぼわ)という れきしかの ぶんしょうを よんでみよう。https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792

Se confronter à Paul après Pascal, Hegel, Nietzsche qui sont ici critiqués, et Lacan qui semble suivi, est un exercice où le lecteur non habituel de Badiou doit se cramponner mais où apparait cependant la thèse que l’universalisme est fondé par la proclamation d’une vérité.
https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792
ぐーぐる やく「ここで批判されているパスカルヘーゲルニーチェ、そして従うように見えるラカンの後にポールと対峙するのは、バディウの慣れない読者がしがみつく必要がある演習ですが、それにもかかわらず、普遍性は真実の宣言によって確立されているという説が現れます。」

しかし、 つぎの ぶぶんは、 「ばんにん・きゅうさい・ろん」に ちかい。 しかし、 ぱうろ いがいにも ふへんしゅぎ という ことばが つかわれているので、 ふへんしゅぎ という いみ だろう。

la logique des repas pris en commun et la dynamique de rapprochement que cela a entrainé ont fait prendre conscience à Paul que le salut chrétien était universel et que l’ancienne opposition entre juifs et païens était caduque. Cependant, le fait que ce soit une logique interne, bien attestée historiquement, qui ait conduit Paul à souligner l’universalisme du salut ne peut nous dispenser d’examiner les autres universalismes, celui des juifs, celui du stoïcisme, celui de la politique romaine avec lesquels il était en contact et qui peuvent l’avoir influencé.
https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792
ぐーぐる やく「しかし、それが歴史的に十分に証明された内部論理であり、パウロが救いの普遍主義を強調するようになったという事実は、他の普遍主義、ユダヤ人の普遍主義、ストア派の普遍主義、ローマの政治の普遍主義を検討することから私たちを解放することはできません。連絡を取り合っていて、誰が彼に影響を与えたのかもしれません。」

https://enseignement-latin.hypotheses.org/6792
おそらく、ばでぃうの ぎろんは、 きりすときょうに かいしん(回心) する という できごとを きっかけに、 きりすときょうの ふきょう という せいじを とおして、 きりすとの ふっかつ という しんり(真理)を つくりだす という ように せいり できると おもう。わからないが。

「28:ガラテヤの信徒への手紙/ 03章 28節
ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」
聖書協会共同訳
https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

ちなみに ばでぃうに とって しんりは、 よっつの ぷろせすから つくられる もの である。 すうがく、せいじ、ぽえむ、あいが よっつの ぷろせす である。

implicitement convoqué

Au-delà des techniques employées, quel(s) modèle(s) de structuration de l’action et de l’organisation est/sont incorporé(s) et implicitement convoqué(s) dans les discours des professionnels ?
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-01150593

Ni préparé, ni relayé... laisse Nietzsche à part dans mon entreprise

「したしらべも しない ままに、 ひきつぎも しない ままに、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけて、 そのような ままに しておきました。」
じしんがない、わからない。 要調査。
laisse Nietzsche Ni préparé, ni relayé を きほんに、 にーちぇを かこぶんしの ままに しておく という いみで かいしゃくした。
à partは、 にーちぇに かかって、 ほかと にーちぇを はなして という いみと かんがえた。
dans mon entrepriseも にーちぇに かかる ように やくしたが、 もしかしたら、 とりくみを していく なかで、 という ほうこうに やくした ほうが いいかもしれない。

べつの よみかた としては、
「したしらべも せず、 ひきつぎも せず、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけた ままに しておきました。」
Ni préparé, ni relayéは この こうぎを せつめいする ことばと かんがえる。
à partは そのまえの、
Il est même resté à part de ses compagnons, les antiphilosophes modernes et antiques.
「にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。」
の à part de ses compagnonsと おなじと よんだ。
こっちの ほうが よさそう。

3

3.1

Mais n’est-­ce pas son destin, en vérité ? Plus je l’étudiais en vue du séminaire, plus je devenais familier non seulement de ses écrits, mais de sa vie, et plus encore peut-­être de la forme subjective qu’il ne cessait de requérir et de lui-­même et de ses lecteurs, plus je voyais la sorte de sainteté, d’absolue solitude, de désert social, dans lequel, progressivement, il s’est enfoncé.

しかし、 じっさいに それが にーちぇの うんめい*13 では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの いきかたに なれてきました。 そして、おそらく さらに より、にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたちの しゅかんてき・けいしきに なれてきました。その しゅかんてき・けいしきを にーちぇは もとめ つづけました。しんせい(神聖)さの めぐりあわせ〔la sorte(しゅるい、なまの じょうたい)を le sortの ごしょくと かんがえた〕を みれば みる ほど、 ぜったいてきな こどく、 ひとづきあいの きょむに なれていきました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。

destin: うんめい、しゅくめい、ぜんと、いきすえ、しょうらい、しょうがい、じゅみょう
en vérité: ほんとうに、じっさいに (だんげんの きょうちょう)
en vue de: のために
ne cesse de:つづける (「せずには いられなかった」ではない。)
familier:なじんだ、したしい、なじみの、なれた、せいつう(精通)した、しゅうじゅくした
plus encore:encore plusと おなじ いみに なる ようだ。 さらに より。
subjectif: しゅかんてきな、 こじんてきな
requérir: つよく ようきゅうする、ようせいする、せいきゅうする、きゅうけいする、ちょうようする、とくべつに どういんする、こんがんする
de soi-même: じぶんのいしで、 ひとりでに
la sorte :しゅるい、ぶるい、しかた、ほうほう、みせいせい(未精製)のくすり、なまのじょうたいのくすり (une sorte deは いっしゅの、 のようなもの という いみだが、 ていかんし である。)
sainteté: しんせいさ、 せいせい(聖性)
le dsert: さばく、なにもないばところ、せいしんてき・こどく、きょむ、ひとざとはなれたばしょ
s’enfoncer dans : にとじこもる、にぼっとうする、にふける

うんめいは ちから

A.− Puissance extérieure à la volonté humaine, qui, selon certaines croyances, régirait l'univers, en fixant de façon irrévocable le cours des événements.
https://www.cnrtl.fr/definition/destin
さいとう やく(にんげんの いし(意志)の そとの ちからで、 いくつかの しんこうに よれば、 しんらばんしょうを みちびき、 できごとの ながれを さいしゅうてきに さだめる もの。)

へーげるも せいしんげんしょうがくで、 うんめいは ちからMachtだ!と いっていて、 どうしてだろうと おもっていた。

しゅうじぎもんぶん だろうか?

Mais n’est-­ce pas son destin, en vérité ?
しかし、 じっさいに それが にーちぇの しゅくめい では ない でしょうか?
いわゆる しゅうじ ぎもんぶん だろうか?
つまり、 ぎもんの ように みえて、はんごに よって 「いや、 そうではないのだ」と いいたいの だろうか?
おそらく そうだ。 にーちぇは しんだ あとに ひょうか されるが、 しぬ まえは かなり ひょうか されていなかった。 「ひげきの たんじょう」を かくまでは てんさいと かんがえられていた のに、 かなり きばつな せつを だした せいで、 どんどん ぼつらく していく。
ちなみに ばとらーが なんこも ぎもんぶんを だす ときは、 ほとんど しゅうじぎもんぶん ではない。

したしみを かんじるのか、 なれた のか、 なじんだ のか

familierは avecを ともなう から、 deを ともなわないと おもっていた けど、 deも ともなう らしい。

b) Valeur active. [En parlant d'une pers.; avec compl. prép. avec, parfois de]
− Qui a l'habitude de (quelque chose), qui connaît bien (une chose), car elle s'impose souvent (à la personne). Il joue, dès l'enfance, entre les genoux de Cybèle, il est déjà familier de ses taillis et de ses sources, de ses nuages et de ses brumes (Mauriac, Journal 3,1940, p. 234).
https://www.cnrtl.fr/definition/familier

したしみを おぼえる だと、 なにも しらなくても したしみを おぼえる ことが できるから、 なじむか なれるに かえよう。
なじむ だと しゅうだんに なじむ みたいな いみが つよい きがする から、 なれるに しよう。

じぶん という かたち

forme subjective
かたち、けいしき、けいたい、ひょうげんけいしき、ぶんたい、ひょうげんの しかた、いいまわし
しゅかんてき、こじんてき、しゅかくの、しゅかんの、しゅたいの、じかくてきな(じかくしょうじょう)
なんとおりにも かいしゃく できる。 これは にーちぇが どんな かきかたを したか しらないと わからない。 じぶんの きおくでは、 『つぁらつすとらはかくかたりき』は しょうせつ みたいな かきかた だけど、 いちにんしょう しょうせつ では なかったと おもう。 『どうとくの けいふがく』は ろんぶん けいしき だけど、 そんなに じぶんの はなし していた きおくは ない。 『ぜんあくの ひがん』は かくげんを ならべた あふぉりずむ けいしきで、 ことばを ならべていく だけの かんじ だけど、 しゅごや しゅかんに かんけいしたか わからない。

なにが ならんでいるのか?

....
je devenais familier non seulement de ses écrits,
je devenais familier mais de sa vie,
et


plus encore je devenais familier peut-­être de la forme subjective qu’il ne cessait de requérir
et
plus encore je devenais familier peut-­être de lui-­même
et
plus encore je devenais familier peut-­être de ses lecteurs,

plus
je voyais la sorte de sainteté...
という こうぞうで いいのか?
とくに、 しゅかんてき けいしき、 にーちぇ じしん、 どくしゃ という ものを ならべて いいのか?
de soi-même: じぶんのいしで、 ひとりでに

べつの あんが でてきた。
まず、 だいいちの あんごう。

Du plus général au plus particulier → <1> , <2>, 【+ + +】, ( )


[ [ Plus je l’étudiais en vue du séminaire,] <2> [ plus je devenais familier → 【 non seulement de ses écrits, + mais de sa vie, + et plus encore peut-­être de la forme subjective qu’il ne cessait de requérir et de lui-­même et de ses lecteurs, 】] ] <1> [ [ plus je voyais la sorte de sainteté,] <2>[d’absolue solitude, ] <2> [de désert social, (dans lequel, progressivement, il s’est enfoncé.) ] ]

それに たいする じぶんの こたえ。

"Plus je l’étudiais en vue du séminaire, plus je devenais familier ..."
└ je devenais familier 【 non seulement de ses écrits, + mais de sa vie, + et (plus encore peut-­être) de la forme subjective...】
└la forme subjective... de lui-­même et de ses lecteurs,
”[ [ plus je voyais la sorte de sainteté,] ( plus je devenais familier)<2>[d’absolue solitude, ] <2> [de désert social, (dans lequel, progressivement, il s’est enfoncé.) ]”

この かいしゃく だと つぎの ように やくす ことが できる。
「しかし、 じっさいに それが にーちぇの しゅくめい では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの いきかたに なれてきました。 そして、おそらく さらに より、にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたちの しゅかんてき・けいしきに なれてきました。その しゅかんてき・けいしきを にーちぇは もとめ つづけました。しんせい(神聖)さの めぐりあわせ〔la sorte(しゅるい、なまの じょうたい)を le sortの ごしょくと かんがえた〕を みれば みる ほど、 ぜったいてきな こどく、 ひとづきあいの きょむに なれていきました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。」

ちなみに、 まえの かいしゃく。
「しかし、 じっさいに それが にーちぇの しゅくめい では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの じんせいに したしみを おぼえる ように なりました。 そして、おそらく さらに より、 にーちぇが もとめ つづけた こじんてきな ありかた☆と にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたち にも☆ したしみを おぼえる ように なれば なる ほど、 しんせいさの しゅるい、 ぜったいてきな こどくの しゅるい、 ひとづきあいの きょむの しゅるい☆が わかりました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。」

しゅるいは みれるのか?→ うんめいや きょうぐうの le sortでは?

je voyais la sorte de sainteté
わからない。 要調査。
la sorte de なんて かたちが じしょで みつからない。
れいぶんは みつかった。 いっしゅの という いみで つかっている。

One should have seen the kind of happiness and fascination this discovery triggered in the little boy.
Il aurait fallu voir la sorte de bonheur et de fascination que cette découverte déclencha en lui.
https://context.reverso.net/translation/english-french/kind+of+happiness

la sorteに やくがくで、なまの じょうたい、みせいせい(未精製)と あった。 benjoin en sorte 「未精製の安息香」(「安息香はツツジエゴノキエゴノキ属のアンソクコウノキ 、またはその他同属植物が産出する樹脂(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%81%AF%E9%A6%99)」)だと。しかし、TLFiにないのは なぜ?
うんめいや きょうぐうの le sortでは?ありうる。

しゃかいの さばく

ひとづきあいの きょむ
socialは しゃかいてき という いみ だけでなく、 しゃこうの、ひとづきあいの という いみが ある。
にーちぇは ばんねん、 いもうと ぐらい としか れんらくを とりあってなかった という はなしを きいた ことが ある。という のは まちがえ だった。にーちぇは いもうとと けんかわかれ していた。 そして、 はっきょうした あとも てがみを おくれる あいてが ふたりは いた ようだ。 それを こどくと いうのか わからない。
しゃかいの さばく では、 いみが わからない ので、 ひとづきあいの きょむと やくした。

3.2

Plus je comprenais qu’entre cet égaré de Turin, heureux et même illuminé quand la marchande des quatre-saisons lui offre ses meilleurs produits, et le destin tapageur de son œuvre, après sa chute, son silence et sa mort, destin fait de référence à la puissance de la Vie, aux races conquérantes, à l’irrationalisme, à la royauté de l’esthétique, au surhomme conçu comme l’athlète blond de la foire historique, oui, entre les deux, il y avait de toute évidence un énorme malentendu.

そう すれば する ほど、わかったのは、 とりの*14さくらんした この ものと、
にーちぇの ぼつらくの あと、 ちんもくの あと、しんだ あとの にーちぇの すべての さくひんの うんめいとの あいだの こと です。にーちぇは、 〔ておしぐるまで やさいや くだものを うる〕ぎょうしょうにん から、 いちばんの うれすじの しょうひんを うけとった ときに、しあわせで いなずまを うけました〔illuminéは 「ひかりで てらされた」、「てんけい(天啓)を うけた」、 「さくらんした」 という いみだが、 にーちぇは この ときの ことを 「いなずまを うけた」*15と ひょうげんしている。 〕。 これらの さくひんの うんめいは、 〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕の ちから*16の、せいふくする もの としての しゅぞく*17の、 ひごうりしゅぎ*18の、うつくしさの ぜったいてきな ゆうい*19の、きんいろ*20として かんがえられた ちょうじん(超人)*21の こんきょに されています。はい、 その とおり です、 これらの ふたつの あいだには、くいちがい が ありました。

ぐーぐる ほんやく

トリノからのこの失われた男の間で、四季の商人が彼に彼女の最高の製品を提供するとき、幸せで、さらには悟りを開いた、そして彼の仕事の乱暴な運命、彼の堕落、彼の沈黙と彼の死の後、運命は言及することを私は理解しました生命の力、征服する人種、非合理主義、美学の王族、歴史的見本市の金髪アスリートとして考えられたスーパーマン、そうです、両者の間には明らかに大きな誤解がありました。

égaré: さくらんした、くるった、まどわされた、みちにまよった(ふつうは けいようし だが、 égaréである もの という いみの めいしでも つかえる。)
illuminé:きょうしん(狂信)てきな、てんけい(天啓)を うけた
marchand des quatre-saisons :にぐるまで ひきうりを する やおや(八百屋)
le produit: せいさんぶつ、さんぶつ、せいひん
tapageur: そうぞうしい、さわぎたてる、ひとめをひく、ぶつぎをかもす、けばけばしい
une œuvre: げいじゅつかの ぜんさくひん、un œuvre: さくひん、ぎょうせき…
chute: しっつい、がかい、さくひんや こうえんの しっぱい、 さくひんや こうえんの ふせいこう、だらく、てんらく、かご(過誤)

fairt de reférence à わからない、 要調査。したに かいた。
la race: じんしゅ、みんぞく、(race aryenne あーりあじんしゅ)、 いちもん、いちぞく、かけい、どうぞくのもの、しゅぞく、なかま、れんちゅう
conquérant: せいふく(征服)する、 じしんたっぷりの、かちほこった、ひとのこころを うばう
la royauté: おうざ、おうい、おうけん、おうせい、ぜったいてきなちから、ゆうい
l’esthétique: うつくしさ、うつくしいもの
l’athlète: うんどうせんしゅ、りくじょうきょうぎしゃ、がっしりした たいかくの ひと、 くんこつ たくましい ひと、 (こだいの) とうぎしゃ(闘技者)
la foire: おおきな いち、 ていきいち、 みほんいち、てんじかい、えんにち、おまつり、おまつりさわぎ、おまつりさわぎの ばしょ、おおさわぎ、だいこんらん
historique : れきしてきな、れきしがくの、れきしじょうの、じつざいの、れきしにもとづく、れきしにのこる、れきしじょうじゅうような
de toute évidence: あきらかに
le malentendu: ごかい、かんじょうなどの くいちがい

しきの しょうにん

marchand des quatre-saisons :にぐるまで ひきうりを する やおや

e) Marchand(e) des quatre-saisons. Marchand ambulant vendant des fruits et légumes dans une petite voiture à bras:
https://www.cnrtl.fr/definition/marchand
さいとう やく(ておしぐるまの なかの かじつと やさいを うる うごきまわる ぎょうしょうにん)

さわぎを おこす うんめい

tapageur: そうぞうしい、さわぎたてる、ひとめをひく、ぶつぎをかもす、けばけばしい

1. Qui provoque du tapage, du scandale, suscite des commentaires.
(…)
2. Qui se fait remarquer, par une certaine outrance, l'étalage d'un luxe de mauvais goût, des couleurs ou des tons très contrastés ou criards.
https://www.cnrtl.fr/definition/tapageur

le tapage: さわぎ、そうおん、ぶつぎ、けばけばしさ、どぎつさ

Isabelle Spaak est partie à la recherche du destin tapageur de sa grand-mère et du couple fusionnel et tourmenté qu’elle formait avec sa fille, Annie.
https://www.lemonde.fr/livres/article/2016/04/14/un-thriller-crepusculaire-un-recit-sur-mesure-un-essai-sur-l-argent-la-selection-du-monde-des-livres_4901634_3260.html
さいとう やく「いざべる・すぱーくは、おばあちゃんの ぶつぎを かわす ような うんめいと、むすめの あにーと むすんだ きんみつで へんかの おおい ふたりぐみ という かんけいを もとめて いきました。」

れきしてきな まつりの きんぱつの とうぎしゃ

l’athlète blond de la foire historique

へ げんきゅうする という じじつ?

fait de référence à
faire A de B「: BをAにする」の かこぶんしで、 destinに かかっている。
faitは じじつ という いみの めいしも あるが、めいしの fait de référence という かたちは みつからなかった。

référenceは やっかいな ことばだ。

I.
A. − Action de (se) référer à quelqu'un, à quelque chose. 〔だれかや なにかを さんしょうする こと、てんきょとする こと、しらべる こと、さししめすこと、かんけいすること〕〔りゃく〕
B. −
1. Action de (se) référer à quelqu'un; p. méton., ce à quoi on (se) réfère. 〔だれに いけんを もとめる こと、 だれかの いけんに したがう こと。ひゆてき・ひょうげん: いけんを きいた あいて〕〔りゃく〕
Au plur. Renseignements, témoignages donnés par quelqu'un sur une personne à la recherche d'un emploi, d'un logement ou souhaitant entrer en affaires, et qui attestent son comportement, ses qualités et représentent une garantie morale pour ceux auxquels elle se présente.〔ふくすう。 しごとや すまいを さがしている ひと、 に ついて、 だれか から おしえられた じょうほう、 しょうげん(証言)。 それらの じょうほうに よって その ひとの ふるまいや ちょうしょを かくにんし、それらの じょうほうが、 もうしこむ あいての せいしんてきな ほしょうを あらわす 。〕〔りゃく〕
− Souvent au plur. Réalisations d'une entreprise, propriétés, mérites déclarés d'un produit qui attestent ses qualités. (Dict. xixeet xxes.).〔ふくすう である ことが おおい。しつを かくにんする しょうひんの しんせいする てがら、 きぎょう、 しょゆうぶつの せいか(成果) (19せいきと 20せいきの じしょ)〕〔りゃく〕
Au fig., fam., au sing. Raison, fait, motif permettant de conclure à la valeur, aux qualités de quelqu'un. 〔ひゆてきで くだけた ひょうげんで、 たんすう。だれかの しかくや かちへの けつろんに みちびく ことが できる ような りゆう、じじつ、どうき〕〔りゃく〕
− De référence. Auquel on (se) réfère. 〔さんこうの。 さんこうに される もの。〕
〔りゃく〕
− Domaine des sc. Éléments, points que l'on a choisis ou déterminés au préalable comme cadre pour situer et résoudre un problème. 〔かがくの りょういき。もんだいを いちづけて、 かいけつ する ための わくぐみ としての ぜんてい・じょうけんに おいて えらばれるか きめる ようそ、 てん〕
〔りゃく〕
2. Souvent au plur. Indications précises permettant de retrouver la source (auteur, texte, passage) que l'on cite ou dont on s'inspire, et où l'on peut trouver un complément d'information. 〔ふくすう である ことが おおい。 いんようしたり、したり する じょうほうげん(ちょしゃ、ほんぶん、いっせつ)を しる ことが できる ように する はっきりと した しじ(指示)。〕
〔りゃく〕
II. − LING. ,,Fonction par laquelle un signe linguistique renvoie à un objet du monde extra-linguistique, réel ou imaginaire`` (Ling. 1972). 〔げんごがく。げんごてき きごうが げんごがいてきな 、げんじつてきな、 そうぞうてきな せかいの たいしょうに さしむける きのう。 〕


Au fig., fam., au sing. Raison, fait, motif permettant de conclure à la valeur, aux qualités de quelqu'un. 〔ひゆてきで くだけた ひょうげんで、 たんすう。だれかの しかくや かちへの けつろんに みちびく ことが できる ような りゆう、じじつ、どうき〕
これっぽい。

いなずま・せいしん・ちょうじん

圓増治之(1989)「ニーチェに於ける生のメタファとしての『舞踏』」(https://nagano.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=680&item_no=1&page_id=13&block_id=17))26ぺーじ。

ツァラツス トラは斯く語りき』の第三部 『幻影と謎について 』に於いて、登高の道を歩み続けるツァラツス トラが、彼の上に乗っか りその足を萎えさせ絶えず彼を下方-と引き戻そ うとしてきた 「重力の精」を相手に、 永劫回帰」の思想を語るところがある。 ツァラツストラの肩から跳びおりた 「重力の精」に対して、ツァラツス トラ、日く、
「この くぐり門(Torweg)を見 よ!侠儒 よ!この くぐり門は二つの顔をもつ。二つの道はここで出会 う。まだ誰もいない。
これらの道をその果てまで行った者はいない。この後への長い道、それは永遠に通じる。そしてあの向への長い道、これは別の永遠である。
これらは互いに矛盾 し合い、互いに真正面に頭と頭をぶつけ合 う――そして、ここ、このくぐり門でそれらは出合 う。 くぐり門の名は、上に 『瞬間 』と書かれている。
しかし、誰かこの道の一つを先へと進み――どん
どん先へ、どんどん遠くへと進んでいったとしたら 侠儒よ 汝はこれらの道が永遠に矛盾すると信じるか ?」、と。
ところで、 「コリー ・モソチナリー版」では上の"Torweg"とい う語は "Thorweg"となっている。"Thor"といえは古ゲルマンの雷神である。彼はハンマーを武器として、彼がそれを投げると、必ず敵の額をたち割り、またブーメランのように彼の手もとに戻ってきたという。たとえ、クレーナ一版やシュレヒタ一版で使われている"Torweg"でよいとしても、そこにはそれ とホモニマスである"Thorweg"という語が合意するニュアンスを何らかの形でニーチ ェは響かせているように思われるが、如何であろうか。

〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕

〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕は、いのちを こべつの いのち では なく、 いまの ことばで いう なら、 せいたいけい(生態系)の ぜんたいの いのちの ながれの こと である、しかし、 にーちぇに おいて、〔おおもじの〕 せい(生)、いのち〔la Vie〕が どのような ものか わからない。 うんめいが ぜんたい としての いのち という はっそうは、 うんめいとは、 ぜんたいの きまった ながれの こと である から、 よく わかる。

4

4.1

En vérité, avant ma plongée brusquement décidée dans
les textes – singulièrement, j’y reviendrai, les textes de la fin, entre 1887 et 1888 –, j’étais largement sous l’influence de ce malentendu.

じっさいには、 わたしは(とくに、ふたたび とりあげるのは、 せいれき 1887ねん から 1888ねんの あいだの ぶんしょう*22で、 その) ぶんしょう☆に とつぜん ぼっとう(没頭) する ことに なる まえには、だいたい この くいちがいの えいきょうの もとに ありました。

plongée: ふかん、みおろすながめ、かこう、きゅうかこう、あるじょうたいへの ちんせん(沈潜)、ぼっとう (plonger dans ses pensée: ものおもいに しずむ)
brusquement: とつぜん、ふいに
decidé: けっていした、かくていした、けつぜんとした、だんことした、めいかくな、はっきりした
singulièrement: とくに
sous l’influence de: のえいきょうの もとで、のいきおいに かられて
y revenir: revenir sur les textes
texteを ぶんしょうと やくして いいのか?

もどる

y revenir: revenir sur les textes

4. Qqn revient sur qqn/qqc.
〔りゃく〕
b) Qqn revient sur qqc.
〔りゃく〕
− Reprendre, s'entretenir à nouveau (d')un sujet que l'on a momentanément abandonné; en reparler de nouveau.
https://www.cnrtl.fr/definition/revenir
さいとー やく (いちじてきに やめていた わだいを また とりあげる、また はなしあう、 また それに ついて はなす)

ききまちがい?

malentenduは くいちがいか ごかいか。
malしっぱいした entendu りかい。 きく ではない。

A. − Divergence d'interprétation sur la signification de propos ou d'actes entraînant un désaccord.
〔りゃく〕
il y a (un) malentendu (entre deux personnes)
〔りゃく〕
B. − Désaccord entraîné par une telle divergence.
https://www.cnrtl.fr/definition/malentendu
さいとー やく(なかたがいに ひきおこす、 おこないに ついての いみの かいしゃくの たいりつ。
ふたりの あいだに ごかいが ある。
そのような たいりつに よって ひきおこされた なかたがい )

ごかいは ちょっと ちがう きがする。

4.2

Pour moi, qui étais venu de Sartre et qui, via Lacan, le maoïsme militant et les mathématiques, étais passé du côté de la recréation d’une métaphysique contemporaine, Nietzsche, dont j’aimais le style nocturne, la langue à la fois grandiose et secrètement d’une infinie douceur, n’en était pas moins du côté des adversaires, ces antiphilosophes arc-­boutés
sur le motif creux des « formes de vie », ces antiplatoniciens déchaînés.

わたしは、 さるとる から はいって☆、らかんと、 せんとうてき もうたくとうしゅぎ(まおいすむ)と すうがくを つうじて、 げんたいの けいじじょうがくの つくりなおしの がわへ いきました。 にーちぇの よるてきな かきかた、 つまり はてしない あまさ☆の そうだいで ありながら、 どうじに ひそかな☆ ことばづかいは すき です。 そんな わたしに とっては、 にーちぇは それでも なお、 たいりつする もの たちの がわに いました。つまり、「せい(生)の けいしき」 の うつろな☆ どうきで ふんばっている、 あの☆ はん・てつがくしゃ たちの がわに いました。 あの あれくるった はん・ぷらとんしゅぎしゃ☆ たちの がわに いた のです。

venir de:☆
du côté de: のほうへ、のちかくに、のじんえいに、のがわに、にかんしては
nocturne:よるの、やかんの、やこうせいの☆
grandiose: そうだいな、 どうどうたる
secrètement: ひそかに、ないしょに、そっと、ないしんで、こころのなかで
infini/e: むげんの、かぎりない、はえしない
douceur: あまさ、うまみ、かんびさ、かぐわしさ、なめらかさ、おだやかさ、うごきのえんかつさ、ここちよさ、しずかなよろこび、しあわせ、やさしさ、おんわさ、(ふるい ふくすうで、 たまに はんごで つかわれて)あまいことば
n’en … pas moins: それでもなお…だ
arc-­bouté sur :につよく おしつけた、でふんばった (arc-­bouterは かべや まるてんじょうなどを とびばりで ささえる という いみである。)
creux: うつろな
déchaînés:あれくるった、ばくはつした、たけりくるった

にんしょうだいめいしを かんけいだいめいしで しゅうしょく できる。

できるのです。 ”Pour moi, qui étais venu de Sartre”

さるとる しゅっしんです。

そんな いいかた できるの? ”étais venu de Sartre”

もうたくとうしゅぎ 毛沢東主義

もうたくとうしゅぎは にげんろんの いめーじが ある けれど、 せいかくには なんなのか しらない。うぃきぺでぃあで しらべた。

毛沢東の思想は、毛沢東が若い頃から親しんだ農耕社会の観察や経験から導き出された中国発展のためのアイディアを含んでおり、その大綱として大公無私(個人の利益より公共の福祉を優先する)、大衆路線(農村大衆の意見に政治的指針を求めそれを理解させて共に行動する)、実事求是(現実から学んで理論を立てる)などがある。この他、社会と協調できる個人主義、大人数の協力、農村から蜂起して都市を囲いこんでいくゲリラ戦術理論(人民戦争理論)、世界各国が各自の特性に応じた革命を行うことによって第三次世界大戦を防ぐことができるとする「中間地帯論」なども毛沢東思想に含められる場合がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

1960年代の世界的な学生運動では文化大革命を中国の対抗文化と見做し[3]、しばしば原理主義的で教条主義的な共産主義信奉(原始共産主義)が毛沢東思想に移行する例がみられた。影響を受けたのは大学生を中心とする都市部の中産階級の若者であり、彼らが構成したヒッピーが始めたコミューン運動などで、人民公社型の集団生活の実践や、下放のスタイルが模倣された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

1968年の5月革命にもマオイストの影響があるとされ、クリストフ・ブルセリエは、フランスのマオイスムの流行について、スターリン批判とそれによるソ連共産主義の失墜、およびそれに代わるユートピアを求める運動の中で中国モデルが誇大視されたとしている[4]。マオイスト運動はフランス共産党ソ連擁護に対する反動として起こり、反西欧主義、東洋趣味が混在していた。また、エコール・ノルマル・シュペリウールのロベール・リナールらエリート学生、中国専門家のシャルル・ベトレームやルイ・アルチュセールが中心にいたといわれる[5]。1963年にジャック・ヴェルジエが創刊した雑誌『革命』が中国ブームに火をつけた。1964年フランス共産党から除名追放されたフランソワ・マルティが同年7月に東京で中国人運動家と知り合い、毛沢東の招待を受ける。マルティらは『新しい人間主義』という雑誌を出している。

五月革命以後、当時の内務大臣マルスランによってマオイストの組織は解体命令を受けるが、ベニ・レヴィによってGP(fr:Gauche prolétarienne プロレタリア左派)が結成され、アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィらが参加する。GPによる移民労働者の支援活動は、サルトルゴダールミシェル・フーコーらによって支持された。同団体は、マドレーヌ広場の高級店フォーションから「フォーションが貧民窟に食糧支援をする」「盗人から盗んでも罪にはならない」「わが労働の果実をパトロンから奪おう」として商品を奪うフォーション事件を起こしている[6]。代表のベニ・レヴィはのちにサルトルの助手となり、ユダヤ思想に没入し、イスラエルに渡った。また、フランスの作家のフィリップ・ソレルスや哲学者のアラン・バディウらが毛沢東思想に魅了された[7]。的場昭弘によれば、エコール・ノルマルはマオイスムの母体となっていたと指摘している[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

よるてきな かきかた

le style nocturne
よると ひるという たいりつは ばでぃうが 『ラカン』の ひとつめの こうぎでも いっていた。 まひる という いみの midi(みでぃ)と はんぶん・いう という いみの らかんの ことばの mi-dit(みでぃ)が おなじ おとである ことを つかって、 ひる という わだいと はん・てつがくを つなげる。はん・てつがく では、 いう ことと ただしい こと という いみの しんり(真理)と なにか(???☆)の くみあわせを どうにか する という はなしだった。なにかは わすれた。要調査。そこから、まよなかを いみ する minuit(みぬい)の はなしに もっていく。
しかし、 よるが どんな いみを もった いめーじかは わすれた。

はてしない あまさの ことば づかい☆

la langue d’une infinie douceur☆
らんぐは、 それぞれの げんご という いみも あるけど、 ことばづかい という いみも ある。

それでも なお

n’en … pas moins: それでもなお…だ
enが ひかくの たいしょうで、 まえに という いみだと かんがえると わかる。 まえと くらべて すくない わけではない、 つまり まえと おなじ かんじで それでも なお という いみに なる。

しじけいようし

ふつうは しじけいようしは、 まえの ことばを しめす けれど、 ここは「れいの」、「あの」 という いみの しじけいようし だと おもった。 じしんは ない。 要調査。

John Field a créé le style Nocturne pour le piano. Il fut le premier à composer près d'une vingtaine de délicats Nocturnes pour le piano. Aussi les 7 concertos qu'il a composés pour piano et orchestre touchent le cœur et l'âme dans une émotion d'une grande sensibilité. Si vous aimez les deux concertos pour piano de Chopin vous serez tout autant touchés par la finesse et l'originalité de chacun des sept concertos pour piano et orchestre de John Field.
Paolo Restani et l'Orchestre Phil de Nice (Marco Guidarini) dans une interprétation magnifique et une prise de son de haut niveau.
Suberbe coffret (4 CDs)
https://www.amazon.fr/Concertos-Int%C3%A9grale-Orchestre-Philharmonique-Guidarini/dp/B001NLE09M
ぐーぐる やく
「ジョンフィールドはピアノのための夜想曲スタイルを作成しました。彼はピアノのために20近くの繊細な夜曲を作曲した最初の人でした。また、彼がピアノとオーケストラのために作曲した7つの協奏曲は、非常に敏感な感情で心と魂に触れます。ショパンの2つのピアノ協奏曲が好きなら、ジョンフィールドの7つのピアノ協奏曲とオーケストラ協奏曲のそれぞれの繊細さと独創性に等しく感動するでしょう。
パオロ・レスターニとフィル・ド・ニース管弦楽団(マルコ・ギダリーニ)の壮大な演奏と高レベルの録音。
Suberbeボックスセット(CD 4枚)」

あまぞんで ごめんなさい。 あまぞんの こめんと だから しかたがない。
nocturneは めいしで やそうきょく、のくたーん という いみも ある のね。
にーちぇとの かかわりは わからない。 にーちぇって まっぴるまな いめーじが ある。うまく なじめない。

ノクターンの語源はラテン語で夜をさすNoxから派生し、修道院などで行われる晩祷のことを示す。ひいては夜の黙想、瞑想などの意味に転化したものと考えられる。宗教作品としての晩祷はモンテヴェルディからラフマニノフまで壮大な作品が存在する。また貴族の夜会で奏される音楽にノットルノ(Notturno)があり、ルネサンスから古典派にかけてセレナードと同様の機会音楽として存在した。この個人の瞑想とサロン文化が結びついて、このジャンルが形成されたと思われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%83%B3%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3)

https://www.youtube.com/watch?v=gN9cvVwaZ1k
www.youtube.com

ふんばるのか ささえを つくらないと いけない ほど もろいのか

arc-­bouté sur :につよく おしつけた、でふんばった (arc-­bouterは かべや まるてんじょうなどを とびばりで ささえる という いみである。)は、 ぶんみゃくてきに、 ふんばる という より、 それで ささえる しか ない かんじの ことば かも しれない。

B.− Emploi pronom. Constr. fréq. s'arc-bouter à, contre, sur.
〔りゃく〕
2. P. ext., dans la lang. cour.
a) [Valeur active : le suj. désigne une pers. ou un animal] Prendre solidement appui sur ses pieds (ou ses mains) afin d'opposer une plus grande résistance, acquérir une plus grande force.
〔りゃく〕
3. Au fig.
a) [P. réf. au sens 2 a] Adopter une position ferme vis à vis de quelque chose, s'accrocher solidement à :
https://www.cnrtl.fr/definition/arc-bouter

もろい いめーじ では ない ようだ。

せいの けいしき

formes de vieは あがんべんの せいの けいしき かな? それとも、 にーちぇに ある のかな?
いきる ほうほう、 どのように いきるか という いみとも かんがえられるが、 あがんべんの つかいかた なら、 もっと げんみつに みえる かたちが ある はずだ。『いと高き貧しさ』の しゅうどういん きそく みたいに。 たとえば、 ころな だいりゅうこうで にほんせいふが いっている「あたらしい せいかつ ようしき」なんて いうのは、「せいの けいしき」と かんがえられる だろうか? あるものは 「せいの けいしき」を 「いきる ための きばん みたいな もの」と あるとき ぽろっと いっていたが、 あまり あがんべんの 「せいの けいしき」を りそうてきに かんがえない ほうが いいと おもう。 せいの けいしきと たいりつ させられるのは、 「むきだしの せい」である ことから、 びおすと ぞーえー という こだい・ぎりしあから あーれんとが かんがえた ながれが ある わけだ。 もちろん、 びおすと ぞーえー という たいりつと せいの けいしきと むきだしの せいという たいりつは おなじ ものでは ないけれど、 くらべられる ほど にている という はずだ。 あがんべんが きょうかいに ある ものを かんがえた ことを ふまえると、 せいの けいしきと むきだしの せいは、 きょうかいが そんなに きまらず、 けんりょくで その きょうかいが かんがえられる ような たいりつ だろう。いままでの びおすと ぞーえーの たいりつの きょうかいに あった むきだしの せいが、 せいの けいしきと きょうかいを つくり、 まざり あう。ところで、「けいしき」 という ことばは、ぷらとんの 「いであ」 という ながれ から すれば りそうてきな かたち である わけだ。

ある ほんを みつけた。

”La notion de « formes de vie » a émergé il y a une dizaine d'années et circule dans des domaines variés, de la biologie à la philosophie en passant par la sociologie, la science politique et l'anthropologie. Mais qu'entendre par « formes de vie » ? Un ensemble de pratiques, d'usages de nature variée, qui donnent à la vie commune des caractères propres, pour ainsi dire diffus, explicitement ou implicitement présents dans les croyances, la langue, les institutions, les modes d'action, les valeurs. Une forme de vie est toujours, en ce sens, particulière, c'est pourquoi il existe des formes de vie, plus qu'une forme de vie.De l'étude de ses divers sens chez des auteurs aussi différents qu'Adorno et Wittgenstein à sa portée critique et politique et à ses incidences éthiques, cet ouvrage déploie toutes les dimensions de cette nouvelle approche. En particulier, la porosité entre les sphères privée, sociale, économique et politique, et la nouvelle articulation du social et du biologique.”
ぐーぐる やく
「生活形式」の概念は約10年前に登場し、生物学から社会学政治学、人類学などの哲学まで、さまざまな分野で広まっています。しかし、「生命の形態」とはどういう意味ですか?一連の実践、さまざまな性質の使用。これは、それ自体の共通の生活特性を与え、いわば、信念、言語、制度、行動様式、価値観に明示的または暗黙的に存在します。生命の形態は、この意味で常に特別であり、それが生命の形態よりも生命の形態が存在する理由です。その批判的で政治的な理由から、アドルノウィトゲンシュタインとは異なる著者のさまざまな感覚の研究から重要性とその倫理的意味、この作品はこの新しいアプローチのすべての側面を展開します。特に、私的、社会的、経済的、政治的領域の間の多孔性、および社会的および生物学的領域の新しい明確化。
https://www.amazon.com/Formes-vie-Du-biologique-social/dp/2271121094

りんくが あまぞんで ごめんなさい。 さがすのが めんどうくさい。

4.3

Pouvais-­je pardonner à celui qui a dit « l’Europe doit guérir de la maladie Platon » ? À celui qui pensait que le philosophe était « le criminel des criminels » ? À celui qui voyait dans mon cher saint Paul le paradigme de la figure, haïssable entre toutes, du prêtre ?

わたしは、 この わたしは「よーろっぱは ぷらとん という やまいを なおす べきだ」*23と いった ものを ゆるす ことは できる でしょうか? てつがくしゃは 「つみぶかきもの たちの なかの つみぶかき びと」*24だと かんがえていた ものを? わたしの しんあいなる せい・ぱうろに、 とくに にくむべき、 そうりょの じんぶうぞうの もはんが あると おもっていた*25 ものを?

pardonner à :ゆるす
guérir de: から なおる
« le criminel des criminels »:
crimine:つみのある、はんざいを こうせいする、よこしまな、つみつくりな、じゅうだいなかしつとなる、けいじじょうの
le criminel:はんざいしゃ、はんにん、さつじんはん、ちょうほんにん、けいじさいばん、ざいあく
le paradigme:もはん
haïssable:にくむべき、いやな
entre toutes:とりわけ、とくに
prêtre:そうりょ、しさい、しんぷ、せいしょくしゃ、しんかん、さいし

Pouvais

はんかこは なぜ? ☆ でしょう? それとも まえの こと だから? えんきょくか かこか

はん・てつがくと なおす

らかんは せいしんぶんせきかで なおす ことが しごと だった。
うぃとげんしゅたいんの てつがくは ちりょうの てつがく だった。
にーちぇは ぷらとんの やまいを ちりょう したがった。
ぱうろは?

つみと はんざい

にほんごの つみは はんざいに かぎらないし、 にほんごの はんざいは つみに かぎらない。 しかし、 crimieくりむ けいの たんごは そこが おなじ である。 じぶんは 「じんどうに たいする つみ」という ことばが もっとも その ことが わかる ことばだと おもう。くにの ほうが かみの ほうな わけが ない という かんがえが つよいから その かんかくが つよい のだと おもう。じだい、ちいき、げんご てきな はいけい。
あと、 le .... des ....s という ひょうげんを しらべないと いけない。しらべた。

deは ぜんたいの いちぶ、 「のうちで」という いみである。 そして、 おなじ めいしを くりかえして いちばん めいし らしいもの という いみに なる。

つみびとの なかの つみびと

Der Antichrist(『反キリスト者』、はんきりすとしゃ)の てがき げんこうの 47ぺーじ。
せいれき 1888ねん 9がつ 30にち。(かくめいれき 97ねん 1がつ 8にち、Décade I Octidi, Vendémiaire an XCVII。)

Promulguée au jour du Salut, premier jour de l’An I

(le 30 septembre 1888 du faux calendrier)
Guerre à outrance au vice :
le vice est le christianisme

Article 1. Est vicieuse toute sorte de contre-nature. L’espèce d’homme la plus vicieuse est le prêtre : il enseigne la contre-nature. Contre le prêtre, on n’a pas de raisonnements, on a les travaux forcés.

Article 2. Toute participation à un service divin est un outrage aux bonnes moeurs. On sera plus dur envers les protestants qu’envers les catholiques, plus dur envers les protestants libéraux qu’envers ceux de stricte observance. Être chrétien est d’autant plus criminel que l’on se rapproche le plus de la science. Le criminel des criminels est en conséquence le philosophe.
https://www.pileface.com/sollers/spip.php?article1212#top
ぐーぐる やく
だい いち ねんの さいしょの ひの、 すくいの ひに こうふ された
(まちがった こよみの 1888ねん 9がつ 30にち)
てっていてきな あくとの たたかい
あく とは きりすときょう である

だい 1 じょう。あらゆる しゅるいの しぜんに はんする ことは わるい。もっとも わるいの にんげんの しゅぞくは そうりょ である。そうりょは しぜんに はんする ことを おしえる。そうりょに はんたいしては、 つべこべ いわないで、 むりやり はたらかされる。

だい 2 じょう。かみへ ほうし(奉仕) する ことに かかわる ことは いかなる こと でも、 どうとく に そむく ことだ。ぷろてすたんとに たいしての ほうが、 かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。じゆうしゅぎ・しんがくに たいしての ほうが、げんりつ(厳律)な かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。 きりすときょうと である ことは、 かがくに もっとも ちかづくが ゆえに ますます つみぶかい もの である。したがって、 つみぶかき ものの なかでの いちばんの つみぶかきものは てつがくしゃ である。)

もはん、はんれつ、ぱらだいむ

le paradigme:もはん は、 そしゅーるか やこぶそんか ばると より あとは こうぞうしゅぎでは、 「ぱらじぐむ」「はんれつ」と いわれるし、 とます・くーんの かがくしの ぶんみゃくでは 「ぱらだいむ」と いわれる。 しかし、ぷらとんがくはの ことばで 「もはん」という いみに なる。とくに だれ だろう?要調査。
ぱらじぐむ、はんれつは いれかえらえる ことばの れつの ことで、 さんたぐむ、とうじ(統辞)は ことばが じっさいに くみあわされ つながる れつの こと。やこぶそんの ことば では はんれつを えらんで、とうじを けつごうする。 おきかえに たいする ぶんみゃく。

そうりょ、しさい

にーちぇの ぶんみゃくなら そうりょ だが、 ぱうろの ぶんみゃく なら しさい かな?
なんで にーちぇの ぶんみゃく だと、 「そうりょ」と やくされている の だろう? きりすときょう ひはん なら、 「しさい」では ないのかな?

4.4

Pouvais-­je entrer, moi, wagnérien de toujours, et jamais repenti, dans les vues de celui pour qui Wagner n’a finalement été qu’un misérable corrupteur de la jeunesse allemande, un magicien des détails suaves, capable de susciter chez les meilleures jeunes femmes une déplorable hystérie ?

わたしは つねに かわらず わーぐなー しゅぎしゃ でして、 けっして くいあらため ません。 わーぐなー*26は さいごには どいつの わかものを だらく させた くだらない もの *27でしか なく、 ささいな ものを かんび(甘美)な ものに する まほうつかい *28 でしか なく、 すばらしい わかい じょせいに なげかわしい ひすてりーを ひきおこし かねないのだと*29 かんがえていた ものの みかたに、 この わたしが、 くみする ことが できる のでしょうか?

entrer:もんだいに たちいる、こうさつする、かんじょうをしかりする、どうかんする、ふくまれる、いちぶをなす、かんよする、
de toujours: つねに かわらず
repenti: くいあらためた、つみをくいた
les vues :みかた
misérable: くだらない、つまらない(めいしの まえが おおい)
corrupteur:だらくさせた ひと、かいらんしゃ
un magicien des ☆
magicien: まじゅつし、じゅじゅつし、まほうつかい、ふかしぎな ちからを もつ ひと
détails:こまかい ぶぶん、さいぶ、どうでもいい こまかい ところ、 じゅうばこの すみ
suave:かんびな、ここちよい、やさしい
capable de:できる、しかねない
susciter:よびおこす、かきたてる
jeunes femmes:わかい ふじん、わかづまか それぐらいの としの おんな
déplorable:なげかわしい、ざんねんきわまりない、ていれつな、よからぬい、ひどい、(ふるい)いたましい、あわれな

しゅうじぎもんぶん? ちがう かも。

しゅうじぎもんぶん じゃなかったら、 くそ だが、 ばでぃうも くそ かもしれない。せいべつにげんろんじゃ だから。

はいる

entrer:もんだいに たちいる、こうさつする、かんじょうをしかりする、どうかんする、ふくまれる、いちぶをなす、かんよする

− Donner son adhésion aux idées de quelqu'un, sympathiser avec quelqu'un. Entrer dans les vues de qqn, les sentiments de qqn.
https://www.cnrtl.fr/definition/entrer

les vues :みかたは なぜ ふくすう?


ふくすうが おおい から。

b) Souvent au plur. Manière de concevoir quelque chose; idée que l'on a de quelque chose. Synon. point de vue (v. ce mot), jugement.Conformité, continuité, échange de vues; vues concordantes, opposées ; abandonner, exposer, imposer ses (propres) vues; échanger des vues.
https://www.cnrtl.fr/definition/vue

わーぐなー

「とりすたんと いぞるで」の おんがく。
https://www.youtube.com/watch?v=Jwi6SRlbjIM


ニーチェワーグナー』、『無垢の生成』、
ニーチェワーグナーの場合』、Der Fall Wagner, in Nietzsche: Werke in drei Bänden, München 1966 (Schlechta-Ausgabe), Bd. 2

金森誠也(かなもり・しげなり)「ワーグナーショーペンハウアー」、ドイツ文學、1970 年 44 巻 p. 48-58(https://www.jstage.jst.go.jp/article/dokubun1947/44/0/44_0_48/_article/-char/ja/
ニーチェワーグナーをクリングゾル中のクリングゾルといみじくも名付けたが,」

わーぐなー(1882)『パルジファル』(”Parsifal" )に おいて、 くりんぐぞるは まほうつかい である。ぱるじふぁる という なまえの むくで おろかな わかものの だんせいを、くんどり という のろわれた おんなに めいれいして、 まほうつかいの くりんぐぞるは ゆうわく させる。くりんぐぞるは せいなる やりを おうさま から うばった わるい ものと かんがえられている。

さらに わーぐなーは ゆだや せいしんの たいげんしゃ であると じぶんで かんがえていた。 いっぽうで、 はんゆだやしゅぎしゃと みなされていた。 くりんぐぞるは あらぶの ものと えがかれているが、 ゆだやてきな ありかたを もっている てきとして えがかれている らしい(鎌田康男(かまた・やすお) 「パルジファル ― 近代市民社会の中でのミットライト」」『ショーペンハウアー研究』第 5 号(2000 年 11 月 15 日)57-76 ページ。ぴーでぃーえふ、http://www.schopenhauer.org/organ/lib/kamata_yasuo/mitleid.pdf。)。

なにを くいるのか?「かんがえなおす」?


et jamais repenti
repenti: くいあらためた、つみをくいた

ばでぃうは きりすときょうを しんじている のだよね?と おもったけれど、 まるくすしゅぎしゃ、もうたくとうしゅぎしゃ なら、おおくの ばあい、 しゅうきょうに はんたいするか。 おそらく かいしんは していなくて、 つみを くいる ことは ない という はなしを している のか、 わーぐなーを きらいに なった ことは ない という はなしを しているのか、 しゅちょうを かえた ことが ないと いっている のか?要調査。☆


jamisは ひていの いみか、いつか とか かつて とかの いみ である。
jamisを まとめて かんがえる ばあい、 じかんを みわたした こんせきと かんがえるのが いいらしい(武内裕紀(たけうち・ゆうき)(1992)「フランス語の副詞jamaisの機能」、http://hdl.handle.net/10236/9217)。
じかんを みわたして、 どこかの じかんに いちづけられる かもしれないと つたえる ときは、 ひていの だんていでは なく、 ひかくの かんけいせつ、 げんていてきな いみの せんこうしの かんけいせつや ぶんの なか などで jamisが つかわれ、 どこの じかんにも いちづけられないと つたえる ときは、 ひていの だんていか だんていしない いいかたに なる との こと だ。
ここでは、 moi、つまり わたし という かなり げんていされている めいしを せつめいする ために jamais repenti という ことばが つかわれている。そのため、 どこかの じかんに いちづけられる かもしれない という いみに なると おもう。 つまり、 いつか くいあらためたのか、または どこかで くいあらためる かもしれないと いっていると おもう。 しかし、 この あいまいさを あらわす ために、 「けっして くいあらため ません」 とした。

王位を譲られたティトゥレルの息子アムフォルタスはクリングゾルを成敗しようとするが、クリンドリーに誘惑されて聖なる槍を奪われてまいました。アムフォルタスは罪を悔い改め、聖なる槍が汚されないよう一心に祈ると聖杯が輝き始め、「共苦により知にいたる けがれなき愚者 待ち受けよ わが選びし者を」との宣託を受けました。
https://desireart.exblog.jp/20305255/

わーぐなーの ぱるじふぁるの なかにも くいあらためる ものが でてくる。

れいぶん

Mais il ne s'est jamais repenti, et ne s'est jamais converti.
しかし、彼は決して悔い改めませんでした、そして、決して回心しなかったのです。
https://context.reverso.net/%E7%BF%BB%E8%A8%B3/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%AA%9E-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/et+ne+s%27est+jamais

だらく させる もの

また、Louis Cornellier, Essais - Visages de Socrate, 2011, https://www.ledevoir.com/opinion/chroniques/329227/essais-visages-de-socrate. では、 ”L'auteur comique Aristophane est un adversaire de Socrate. Dans sa pièce les Nuées (en 423 av. J.-C.), il présente le philosophe comme un corrupteur de la jeunesse qui enseigne la sophistique contre rémunération”と、corrupteur de la jeunesse 、 つまり「わかものを だらく させた」 もの という ことばが つかわれている。

まじゅつしは どこから きたのか?

わーぐなーの ぱるじふぁるの てきやくの くりんぐぞる という まほう・つかいの わるい もの から きた。

こまかい ぶぶんを おとった ものと かんがえる ことばが みつからない。
f:id:hunihunisaito:20210324103810p:plain
details sauves

https://books.google.co.jp/books?id=1A1cAAAAQAAJ&pg=PA144&lpg=PA144&dq=%22d%C3%A9tails+suaves%22&source=bl&ots=014w2lZZjJ&sig=ACfU3U2uef743nviCR0YDJfehaoTP_OtHA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwicm9Wk3sfvAhUDHqYKHQAICjI4ChDoATAHegQIBxAD#v=onepage&q=%22d%C3%A9tails%20suaves%22&f=false
vicomte François-Auguste de Chateaubriand, Génie du christianisme, ou Beautés de la religion chrétienne, 第 4 巻

Voilà la longue comparaison homérique avec ses détails suaves et charmans : Καλόν , τηλεθάον , τόδε τη πνοιαι δονέκσι Παντοίων ανέμων , και τη βρύει ανθεί λευκώ . ( 1 ) On croit entendre les soupirs du vent dans la tige du jeune olivier .

いい いみで つかっている。
「かんびな こまかい ひょうげん」☆

さては どいつじんに おんなを ふくめていないな。

1から4

にーちぇに ついての せいれき 1992ねん から 1993ねんの こうぎ(講義)に かんして。

1
わたしの こうぎの おおくは、 じぶんの てつがくの しんてんじょうきょうが たいけいてきに つりつもった、 いっさつの ほんの したしらべに ふくまれています。
こうして、 せいれき 1975ねん から 1980ねんの こうぎが いわば、 ひとつに まとめられ、ぶんしょうに された 『しゅたいの りろん』*30を、 せいれき 1982ねんに しゅっぱんされました。
また あきらかに せいれき 1983ねん から 1987ねん までの あいだの こうぎは、こてんてきな ことに ふれる ことを つみかさねてきました。てつがくに ついても ふれてきました(ぱるめにです、ぷらとん、ありすとてれす、でかると、すぴのざ、らいぷにっつ、かんと、へーげる、はいでっがー)。ぽえむの しに ついても ふれてきました(へるだーりん、まんだりしゅたーむ(Mandelstam)*31, ぺそあ(Pessoa)*32, つぇらん(Celan)*33)。がいねんてきな こうちく(てつがくと、 できごとと、いちなきた(一なき多)と、るい・せいせい(類生成)てきな ものの よっつの じょうけん…)を つみかさねました。それらを きっちりと くみたてて、 『そんざいと できごと』*34を せいれき 1988ねんに しゅっぱん しました。
『せかいの ろんりがく』*35(せいれき 2005ねん)は、かてごりーの りろんに ついての ながくて ないようの つまった、すうがくてきな じゅんびに くわえて、 せいれき 1996ねん から 1998ねんの こうぎに おける、 じぶんの しゅたいの りろんの だいじな しゅうせいと、 そして、2000ねんの はじめの こうぎに しゅうちゅうしました。この こうぎは、あまり れきしてき ではなく、げんだいに ついて いままで よりも くりひろげました。『げんざい という ときの いめーじ』*36(せいれき 2001ねん から 2004ねん)と、 『かんがえる ことに おいて すすむ、 ある という ことに おいて すすむ』*37(せいれき 2004ねん から 2007ねん)も どうよう(同様)です。

2
にーちぇに ついての こうぎは、さいごには、 はん・てつがく という(いままで より ふるい) わだいに ついて つくられた せいれき 1992ねん から 1996ねん までの しりーずの なかに ふくまれていて、らかん、うぃとげんしゅたいん、せい・ぱうろ*38を さいごには ふくんでいます。それ にも かかわらず、この にーちぇに ついての こうぎを、 べろにっく・ぴのーが ねっしんに はたらいてくれて、 ここでは へんに いりくんだものの なかに いちづけなおしました。この こうぎは、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃく(décision pure)と よべる ものの けっか です。そして、 じゅんすいに りろんてきな けっちゃくの けっかは、 わたしの とりくみを ほんの うえ だけで おおきく くぎって はっきり させた ものには ふくまれていません。にーちぇは、 なかま、 つまり きんだいと こだいの てつがくしゃたちとは わかれ つづけて さえ いた のです。
らかんは わたしの さくひんの なかに かなり まえ から、いつも あらわれて きました。うぃとげんしゅたいんは、それなりに てんさい でしたが、くだらない 「ぶんせき てつがく」に ついて/が かならず ふれないと いけない という ことは、 わたしに とっては、 その ときの/げんだいの いでおろぎー てきな たたかいの ばに おいて、 ねらった たーげっと でした。『うぃとげんしゅたいんの はんてつがく』で その たーげっとを こんぜつ しました。
せい・ぱうろに ついて、はやくも せいれき 1998ねんに いっさつの ほんんを かきました。 せい・ぱうろは ふへんしゅぎを つくった もので あって、 せかいを まわりました。すでに せいれき 1989ねん から わたしが つくった『あんてぃおきあ*39 じけん*40*41という ひげきで それとなく よびだしました。にーちぇに ついては そのような ことは なにも していません。したしらべも せず、 ひきつぎも せず、この こうぎでは わたしの とりくみに おいて、 にーちぇを ほかとは わけた ままに しておきました☆。

3
しかし、 じっさいに それが にーちぇの うんめい*42 では ない でしょうか? こうぎの ために にーちぇに ついて けんきゅう すれば する ほど、にーちぇが かいた もの だけ ではなく、にーちぇの いきかたに なれてきました。 そして、おそらく さらに より、にーちぇ じしんと、 にーちぇを よむ ひとたちの しゅかんてき・けいしきに なれてきました。その しゅかんてき・けいしきを にーちぇは もとめ つづけました。しんせい(神聖)さの めぐりあわせ〔la sorte(しゅるい、なまの じょうたい)を le sortの ごしょくと かんがえた〕を みれば みる ほど、 ぜったいてきな こどく、 ひとづきあいの きょむに なれていきました。 だんだんと、 にーちぇは それらに とじこもっていったのです。
そう すれば する ほど、わかったのは、 とりの*43さくらんした この ものと、
にーちぇの ぼつらくの あと、 ちんもくの あと、しんだ あとの にーちぇの すべての さくひんの うんめいとの あいだの こと です。にーちぇは、 〔ておしぐるまで やさいや くだものを うる〕ぎょうしょうにん から、 いちばんの うれすじの しょうひんを うけとった ときに、しあわせで いなずまを うけました〔illuminéは 「ひかりで てらされた」、「てんけい(天啓)を うけた」、 「さくらんした」 という いみだが、 にーちぇは この ときの ことを 「いなずまを うけた」*44と ひょうげんしている。 〕。 これらの さくひんの うんめいは、 〔おおもじの〕 せい(生)〔la Vie〕の ちから*45の、せいふくする もの としての しゅぞく*46の、 ひごうりしゅぎ*47の、うつくしさの ぜったいてきな ゆうい*48の、きんいろ*49として かんがえられた ちょうじん(超人)*50の こんきょに されています。はい、 その とおり です、 これらの ふたつの あいだには、くいちがい が ありました。

4
じっさいには、 わたしは(とくに、ふたたび とりあげるのは、 せいれき 1887ねん から 1888ねんの あいだの ぶんしょう*51で、 その) ぶんしょう☆に とつぜん ぼっとう(没頭) する ことに なる まえには、だいたい この くいちがいの えいきょうの もとに ありました。

わたしの しんあいなる せい・ぱうろに、 とくに にくむべき、 そうりょの じんぶうぞうの もはんが あると おもっていた*52 ものを?

わたしは つねに かわらず わーぐなー しゅぎしゃ でして、 けっして くいあらため ません。 わーぐなー*53は さいごには どいつの わかものを だらく させた くだらない もの *54でしか なく、 ささいな ものを かんび(甘美)な ものに する まほうつかい *55 でしか なく、 すばらしい わかい じょせいに なげかわしい ひすてりーを ひきおこし かねないのだと*56 かんがえていた ものの みかたに、 この わたしが、 くみする ことが できる のでしょうか?

さいとう

ついき
かくめいれき 229ねん 7がつ 6にち、Décade I Quintidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 26にち

難しい文書ですね! 「se repentir」は「過去の過ちを正すこと、犯罪を起こしたのを後悔し、正義の道に戻ること」。例えば、「repentis」という人たちは昔マフィアに入っていた人で、現在はマフィアを戦うために協力する人たちを示す。
さて、今回のコンテクストで、ヴァーグナーが好きなのは、ダメなことだそうです。しかし、筆者は(そう言われても)今でも後悔なくヴァーグナーが大好きです。ですから「jamais repenti」です。ちょっと皮肉なニュアンスがあるかもしれません。本当はヴァーグナーがダメと言っている人たちの方がダメだと筆者が思っているかもしれません。

追加: 「le repentir」はキリスト教の大事なコンセプトでもあります。反省するということですね。神様の許しを願いすると共に。
https://hinative.com/ja/questions/18646767

にーちぇが わーぐなーについて かいた ぶんけんに ついての めも。
ニーチェコントラ・ワーグナア』、『ワーグナアの場合』、『バイロイトのリッヒャルト・ワーグナア』

かくめいれき 229ねん 7がつ 7にち、Décade I Septidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 27にち
「教育者としてのショウペンハウアー」に おいて にーちぇ が いっている こと。
「誠実をもって、人間に幸福な生は不可能であり、人間の達し得る最高のものは英雄的生涯を送ることであると教える。」(ふじた・けんじ(藤田健治)『ニーチェ』、せいれき 1970ねん、中央公論社、63-64ぺーじ)
「ワーグナアの楽劇にあらわれるすべての登場人物を通じて、その人間的核心は「誠実、無私の誠実」ということにつきる。」(ふじた・けんじ(藤田健治)『ニーチェ』、せいれき 1970ねん、中央公論社、64ぺーじ)
「勇敢にこの世のうつろいやすい側面の革新を目ざし、個をこえたもののために個を捧げて悔いない悲劇的な心情と結びついていて、そこに悲劇的英雄が成り立つのである。」(ふじた・けんじ(藤田健治)『ニーチェ』、せいれき 1970ねん、中央公論社、65ぺーじ)

さいとう


かくめいれき 229ねん 7がつ 8にち、Décade I Octidi, Germinal an CCXXIX、せいれき 2021ねん 3がつ 28にち
水野清志(みずの・きよし)「ニーチェの倫理思想 (10)」、信州大学医療技術短期大学部紀要 11(1): 1-17(1986)
http://purl.org/coar/resource_type/c_6501
http://hdl.handle.net/10091/5101
にーちぇに さばくの ひゆが まさに さばく そのもの として でてくる。
らくだ としての せいしんが らいおん としての ちょうじんに かわる ばしょが、 さばく である。

さいとう

*1:Alain Badiou(1982), Théorie du sujet, Seuil. https://www.seuil.com/ouvrage/theorie-du-sujet-alain-badiou/9782020986915

*2:りえびち・まんだりしゅたーむ。せいれき 1891ねん から 1938ねん。ろしあごで ぽえむを かいた。『時のざわめき』など。

*3:ふぇるなんど・ぺそあ。ぽるとがるごを ちゅうしんに えいごや ふらんすごで ぽえむを かいた。せいれき 1883ねん から 1935ねん。『不安の書』など。

*4:ぱうる・つぇらん。せいれき 1920ねん から 1970ねん。 どいつごで ぽえむを かいた。『死のフーガ』など。

*5:Alain Badiou(1988), L'Être et l'événement, Seuil, https://www.seuil.com/ouvrage/l-etre-et-l-evenement-alain-badiou/9782020098625. アラン・バディウ(2019)『存在と出来事』、藤本一勇訳、藤原書店http://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865782509.html

*6:Alain Badiou, Logiques des mondes. L’Être et l’Événement, 2, Paris, éd. Seuil, 2006.

*7:Alain Badiou, Le Séminaire - Images du temps présent, Fayard, 2014 (EAN 9782213678924).

*8:Alain Badiou, Le Séminaire : s'orienter dans la pensée, s'orienter dans l'existence (2004-2007), Fayard, 2021.

*9:きげんぜん 10ねん ごろ から せいれき 65ねん ごろ。いちせいきの きりすときょうの しと(使徒)、せいじん(聖人)。てがみが しんやくせいしょに ある。

*10:Αντιόχεια。「トルコ南部の小都市アンタキヤの古称。前300年ごろ古代シリア王国セレウコス1世が首都として建設。のちエルサレムに次ぐ初代キリスト教会の中心地。」(「デジタル大辞泉」)。 ぱうろの きりすときょうの ふきょうの きょてん。

*11:あんてぃおきあ・じけんは、 ぱうろと ぺてろ(または けふぁ)が たいりつ した じけん である。しんやくせいしょ、 ガラテヤ書2章11~14節に ある。えるされむ・きょうかい から ひとが、 あんてぃおきあ・きょうかいに きたときに、 それまで していた ゆだやじん きりすときょうとと、 ゆだやじん ではない きりすときょうと との きょうどうの しょくじ(と どうじに おこなわれていた れいはい)を ぺてろが やめた。 ぱうろは はんたいした あと、 あんてぃおきあ・きょうかいから はなれて ふきょうを おこなったとも いわれる。https://rcjinagekaigan.jimdo.com/2015/05/25/%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%97%E8%AA%B2-%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A8%E3%82%82%E7%A5%9E%E3%82%92%E7%95%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B/。 聖書協会共同訳「12:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 12節 というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。 13:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 13節 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 14:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 14節 彼らが福音の真理に従ってまっすぐ歩いていないのを見て、私は皆の前でケファに言いました。「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」 15:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 15節 私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。 16:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 16節 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」

*12:The Alain Badiou. Introduction by Kenneth Reinhard. Translated by Susan Spitzer, Incident at Antioch / L’Incident d’Antioche, A Tragedy in Three Acts / Tragédie en trois actes, 2013, Columbia University Press

*13:にーちぇの じでん、『この人を見よ』(西尾幹二やく、せいれき 1990ねん)「なぜ私は一個の運命であるのか」(https://www.shinchosha.co.jp/book/203507/

*14:にーちぇは いたりあの とりので うまに だきついて はっきょうした という いつわが ある。「また、別の不確かな証言によると、1月3日の夕方、散歩の途中で馬車屋の前で馬が御者に鞭打たれているのを目撃し、これに同情して泣きながら馬の首に抱きつき、そのまま昏倒したという逸話もあるが、それを証明するものは何も残っていない。」(https://www.ni-club.net/wonderland/history/6/inf3.cgi

*15:「そうであってのみ,人間はあの〔「あの」を きょうちょうしている。〕高みへと成長するのだ。稲妻が彼に命中し,彼を砕くに十分なまでの高みへと!」と つぁらとぅすとらは ちょうじんに いう(Nietzsche, Friedrich. Sämtliche Werke. Kritische Studienausgabe,in 15 Bänden. hrsg. von Giorgio Colli und Mazzino, Montinari (Berlin/ New York: dtv de Gruyter Dünndruck-Ausgabe)1967-1977, (1980) 4, 359、『ニーチェ全集』(1993-1994)))(酒井梨帆(2019)「西谷啓治ニーチェ理解 -「自己」の没落と「自己」の自己超克」、http://hdl.handle.net/10291/20021.)。「超人を教えよう」と言って始められるツァラトゥストラの序説のなかで、超人については、それは「大地がもつ意義である」とか「この稲妻、この狂気である」というふうに比喩的に語られるのみ」(IV14、IV16.)(岩下眞好(2014)「綱渡りの構図と寓話:ツァラストラの序説をめぐって」)

*16:にーちぇが かたる えいえんかいきは、 せい(生)の こうていと いわれる。

*17:道徳の系譜』に おいて、 にーちぇは きぞく・しゅぞくを 「きんの もうじゅう」、「きんぱつの やじゅう」という しょうちょう(象徴)で かたっている。にーちぇは きぞく・しょぞくの ゆうりょう(優良)と れつあく(劣悪)という どうとくを だいじに かんがえている。

*18:伊藤勝彦、「自然界に働いている根本の力を「力への意志」としてとらえるニーチェ」として ひごうりしゅぎは せうめいされている(日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館)。

*19:にーちぇは 『どうとくの けいふがく』で、 うつくしい という ことを わるいと かんがえる ことを どれいの どうとく として ひていした。

*20:三島憲一「ドイツの哲学者ニーチェの著作《人と超人》を書いた。しかし超人概念は,〈金髪の野獣〉といったニーチェの言葉とともに,やがてナチスイデオロギーの中で悪用されることにもなる。」、「超人」、『平凡社 世界大百科事典』、https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%C3%9Cbermensch

*21:「あのニーチェ(≡ツァラツストラ)の説く 「超人」というフィギュアも、過去と未来の一切を 「運命」として大いなる情熱をもって主体的に引き受けようと意志する者によって投 じられたその意志の投影像でなくて、一体他の何であろうか」(圓増治之(1989)「ニーチェに於ける生のメタファとしての『舞踏』」(https://nagano.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=680&item_no=1&page_id=13&block_id=17))

*22:道徳の系譜』は せいれき 1887ねんの 11がつ(かくめいれき 96ねん 2がつ から 3がつ)に しゅっぱんされた。にーちぇは その ぜんごに 『力への意志』を かいていた。(木場深定(きば・じんじょう)「解説」、209-211ぺーじ、ニーチェ道徳の系譜』、岩波文庫、せいれき 1940ねん)

*23:にーちぇ ☆

*24:にーちぇ『はん・きりすとしゃ』、1888ねん 9がつ 30にちの てがきの ぶんしょう。「かみへ ほうし(奉仕) する ことに かかわる ことは いかなる こと でも、 どうとく に そむく ことだ。ぷろてすたんとに たいしての ほうが、 かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。じゆうしゅぎ・しんがくに たいしての ほうが、げんりつ(厳律)な かとりっくに たいして よりも きょうこう(強硬) だろう。 きりすときょうと である ことは、 かがくに もっとも ちかづくが ゆえに ますます つみぶかい もの である。したがって、 つみぶかき ものの なかでの いちばんの つみぶかきものは てつがくしゃ である。」

*25:にーちぇの 『曙光』(しょこう)、『権力への意志』、『反キリスト者』、『道徳の系譜』など。 にーちぇは ぱうろの きりすときょうを、 そうりょてきな かち(価値)と かんがえていた。 にーちぇは ぱうろが つよい ものが わるく、 よい ものが わるい という かんがえ であったと かいている。「3:コリントの信徒への手紙二/ 12章 10節、それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」(聖書協会共同訳)

*26:びるへるむ・りひゃると・わーぐなー。Wilhelm Richard Wagner。せいれき 1813ねん から 1883ねん。『とりすたんと いぞるで』 (せいれき1857ねん から 1859ねん)などの どいつごの うたが ある げきを かいた。にーちぇは わーぐなーの ことが だいすき だったが、せいれき 1876ねん から きらいに なる

*27:〔まごびき〕にーちぇ(原佑・吉沢伝三郎訳)『生成の無垢(上)』(https://kangaeruhito.jp/article/15315)「もちろんこんにちでは、天分のとぼしい音楽家たちは、また金銭欲や名誉欲にかられた音楽家たちも、困った状態にあるのかもしれない。まさしく彼らにとって、音楽を作るヴァーグナーのやり方のうちには選りぬきの誘惑があるからである。つまりヴァーグナー的な手段や手くだで作曲するのは容易なことであるし、さらにまた「大衆」を興奮させようとするこんにちの芸術家たちの煽動的な要求のもとでは、いっそう報われることであるかもしれない、くわしく言えば、「一層効果的な」、「いっそう圧倒的な」、「いっそう的確な」、「いっそう感動的な」ことであり、かくて演劇賤民と素人的な熱狂家の隠しおおせない愛用語のとおりであるかもしれない。だが、芸術の問題において、「大衆」の喧騒と感激とに結局なんの意義があろう!優れた音楽はけっして「公衆」をもっていない、- それはけっして「公然たるもの」ではなく、またそうではありえず、それは最も選りぬきの者たちに属し、それはつねにただ ― 比喩でいえば ― 「私室」用にのみ現存すべきである。「大衆」は、彼らに最もよくおもねるすべを心得ている者を嗅ぎつける。大衆は大衆流儀ですべての煽動的な才子どもに感謝をささげ、自分たちにできるかぎり彼らにお返しをするのだ。」。 きげんぜん 400ねん(かくめいれき -2190ねん) ごろの こだい・ぎりしあの てつがくしゃ である そくらてすは、くにで しんじない かみかみを みちびき いれ、 せいしょうねんを だらくさせた として、 しけいに なった(ぷらとん(納富信留(のうとみ・のぶる)やく)『ソクラテスの弁明』、光文社古典新訳文庫、せいれき 2012ねんを よんだ。 ベンジャミン・ジャウエット、永江良一 (よみかたが わからない)じゅうやく、「ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じていると。」(https://open-shelf.appspot.com/ApologyOfSocrates/chapter2.html))。

*28:にーちぇは わーぐなーを 「クリングゾル中のクリングゾル」と なづけた(要出典☆)。くりんぐぞる とは、 わーぐなーの 『タンホイザー』、『パルジファル』で でてくる あくの まほうつかい である。『パルジファル』では、 くりんぐぞるの まほうに よって あれた しろを はなが さきみだれる にわに している(二幕)。また、 『パリジファル』では、 くりんぐぞるは くんどり という なまえの おんなに しろへの しんにゅうしゃたちを ゆうわくする ように あやつる。ひき

*29:ニーチェが『ヴァーグナーの場合』で用いた<ディレッタント>や<俳優>、<デカダンス>や<ヒステリー>といったキーワードは、第二次世界大戦までの間、ヴァーグナーをめぐる学界の論争の語彙を半ば規定することになる。」、立石拓也(たていし・たくや)「《ニーベルングの指輪》における脱民族主義的解釈の批判的考察」、ぴーでぃーえふ、https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8071&item_no=1&attribute_id=17&file_no=2

*30:Alain Badiou(1982), Théorie du sujet, Seuil. https://www.seuil.com/ouvrage/theorie-du-sujet-alain-badiou/9782020986915

*31:りえびち・まんだりしゅたーむ。せいれき 1891ねん から 1938ねん。ろしあごで ぽえむを かいた。『時のざわめき』など。

*32:ふぇるなんど・ぺそあ。ぽるとがるごを ちゅうしんに えいごや ふらんすごで ぽえむを かいた。せいれき 1883ねん から 1935ねん。『不安の書』など。

*33:ぱうる・つぇらん。せいれき 1920ねん から 1970ねん。 どいつごで ぽえむを かいた。『死のフーガ』など。

*34:Alain Badiou(1988), L'Être et l'événement, Seuil, https://www.seuil.com/ouvrage/l-etre-et-l-evenement-alain-badiou/9782020098625. アラン・バディウ(2019)『存在と出来事』、藤本一勇訳、藤原書店http://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865782509.html

*35:Alain Badiou, Logiques des mondes. L’Être et l’Événement, 2, Paris, éd. Seuil, 2006.

*36:Alain Badiou, Le Séminaire - Images du temps présent, Fayard, 2014 (EAN 9782213678924).

*37:Alain Badiou, Le Séminaire : s'orienter dans la pensée, s'orienter dans l'existence (2004-2007), Fayard, 2021.

*38:きげんぜん 10ねん ごろ から せいれき 65ねん ごろ。いちせいきの きりすときょうの しと(使徒)、せいじん(聖人)。てがみが しんやくせいしょに ある。

*39:Αντιόχεια。「トルコ南部の小都市アンタキヤの古称。前300年ごろ古代シリア王国セレウコス1世が首都として建設。のちエルサレムに次ぐ初代キリスト教会の中心地。」(「デジタル大辞泉」)。 ぱうろの きりすときょうの ふきょうの きょてん。

*40:あんてぃおきあ・じけんは、 ぱうろと ぺてろ(または けふぁ)が たいりつ した じけん である。しんやくせいしょ、 ガラテヤ書2章11~14節に ある。えるされむ・きょうかい から ひとが、 あんてぃおきあ・きょうかいに きたときに、 それまで していた ゆだやじん きりすときょうとと、 ゆだやじん ではない きりすときょうと との きょうどうの しょくじ(と どうじに おこなわれていた れいはい)を ぺてろが やめた。 ぱうろは はんたいした あと、 あんてぃおきあ・きょうかいから はなれて ふきょうを おこなったとも いわれる。https://rcjinagekaigan.jimdo.com/2015/05/25/%E7%AC%AC%EF%BC%92%EF%BC%97%E8%AA%B2-%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A8%E3%82%82%E7%A5%9E%E3%82%92%E7%95%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B/。 聖書協会共同訳「12:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 12節 というのも、ケファは、ヤコブから遣わされた人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったからです。 13:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 13節 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 14:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 14節 彼らが福音の真理に従ってまっすぐ歩いていないのを見て、私は皆の前でケファに言いました。「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」 15:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 15節 私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。 16:ガラテヤの信徒への手紙/ 02章 16節 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」

*41:The Alain Badiou. Introduction by Kenneth Reinhard. Translated by Susan Spitzer, Incident at Antioch / L’Incident d’Antioche, A Tragedy in Three Acts / Tragédie en trois actes, 2013, Columbia University Press

*42:にーちぇの じでん、『この人を見よ』(西尾幹二やく、せいれき 1990ねん)「なぜ私は一個の運命であるのか」(https://www.shinchosha.co.jp/book/203507/

*43:にーちぇは いたりあの とりので うまに だきついて はっきょうした という いつわが ある。「また、別の不確かな証言によると、1月3日の夕方、散歩の途中で馬車屋の前で馬が御者に鞭打たれているのを目撃し、これに同情して泣きながら馬の首に抱きつき、そのまま昏倒したという逸話もあるが、それを証明するものは何も残っていない。」(https://www.ni-club.net/wonderland/history/6/inf3.cgi

*44:「そうであってのみ,人間はあの〔「あの」を きょうちょうしている。〕高みへと成長するのだ。稲妻が彼に命中し,彼を砕くに十分なまでの高みへと!」と つぁらとぅすとらは ちょうじんに いう(Nietzsche, Friedrich. Sämtliche Werke. Kritische Studienausgabe,in 15 Bänden. hrsg. von Giorgio Colli und Mazzino, Montinari (Berlin/ New York: dtv de Gruyter Dünndruck-Ausgabe)1967-1977, (1980) 4, 359、『ニーチェ全集』(1993-1994)))(酒井梨帆(2019)「西谷啓治ニーチェ理解 -「自己」の没落と「自己」の自己超克」、http://hdl.handle.net/10291/20021.)。「超人を教えよう」と言って始められるツァラトゥストラの序説のなかで、超人については、それは「大地がもつ意義である」とか「この稲妻、この狂気である」というふうに比喩的に語られるのみ」(IV14、IV16.)(岩下眞好(2014)「綱渡りの構図と寓話:ツァラストラの序説をめぐって」)

*45:にーちぇが かたる えいえんかいきは、 せい(生)の こうていと いわれる。

*46:道徳の系譜』に おいて、 にーちぇは きぞく・しゅぞくを 「きんの もうじゅう」、「きんぱつの やじゅう」という しょうちょう(象徴)で かたっている。にーちぇは きぞく・しょぞくの ゆうりょう(優良)と れつあく(劣悪)という どうとくを だいじに かんがえている。

*47:伊藤勝彦、「自然界に働いている根本の力を「力への意志」としてとらえるニーチェ」として ひごうりしゅぎは せうめいされている(日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館)。

*48:にーちぇは 『どうとくの けいふがく』で、 うつくしい という ことを わるいと かんがえる ことを どれいの どうとく として ひていした。

*49:三島憲一「ドイツの哲学者ニーチェの著作《人と超人》を書いた。しかし超人概念は,〈金髪の野獣〉といったニーチェの言葉とともに,やがてナチスイデオロギーの中で悪用されることにもなる。」、「超人」、『平凡社 世界大百科事典』、https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%C3%9Cbermensch

*50:「あのニーチェ(≡ツァラツストラ)の説く 「超人」というフィギュアも、過去と未来の一切を 「運命」として大いなる情熱をもって主体的に引き受けようと意志する者によって投 じられたその意志の投影像でなくて、一体他の何であろうか」(圓増治之(1989)「ニーチェに於ける生のメタファとしての『舞踏』」(https://nagano.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=680&item_no=1&page_id=13&block_id=17))

*51:道徳の系譜』は せいれき 1887ねんの 11がつ(かくめいれき 96ねん 2がつ から 3がつ)に しゅっぱんされた。にーちぇは その ぜんごに 『力への意志』を かいていた。(木場深定(きば・じんじょう)「解説」、209-211ぺーじ、ニーチェ道徳の系譜』、岩波文庫、せいれき 1940ねん)

*52:にーちぇの 『曙光』(しょこう)、『権力への意志』、『反キリスト者』、『道徳の系譜』など。 にーちぇは ぱうろの きりすときょうを、 そうりょてきな かち(価値)と かんがえていた。 にーちぇは ぱうろが つよい ものが わるく、 よい ものが わるい という かんがえ であったと かいている。「3:コリントの信徒への手紙二/ 12章 10節、それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」(聖書協会共同訳)

*53:びるへるむ・りひゃると・わーぐなー。Wilhelm Richard Wagner。せいれき 1813ねん から 1883ねん。『とりすたんと いぞるで』 (せいれき1857ねん から 1859ねん)などの どいつごの うたが ある げきを かいた。にーちぇは わーぐなーの ことが だいすき だったが、せいれき 1876ねん から きらいに なる

*54:〔まごびき〕にーちぇ(原佑・吉沢伝三郎訳)『生成の無垢(上)』(https://kangaeruhito.jp/article/15315)「もちろんこんにちでは、天分のとぼしい音楽家たちは、また金銭欲や名誉欲にかられた音楽家たちも、困った状態にあるのかもしれない。まさしく彼らにとって、音楽を作るヴァーグナーのやり方のうちには選りぬきの誘惑があるからである。つまりヴァーグナー的な手段や手くだで作曲するのは容易なことであるし、さらにまた「大衆」を興奮させようとするこんにちの芸術家たちの煽動的な要求のもとでは、いっそう報われることであるかもしれない、くわしく言えば、「一層効果的な」、「いっそう圧倒的な」、「いっそう的確な」、「いっそう感動的な」ことであり、かくて演劇賤民と素人的な熱狂家の隠しおおせない愛用語のとおりであるかもしれない。だが、芸術の問題において、「大衆」の喧騒と感激とに結局なんの意義があろう!優れた音楽はけっして「公衆」をもっていない、- それはけっして「公然たるもの」ではなく、またそうではありえず、それは最も選りぬきの者たちに属し、それはつねにただ ― 比喩でいえば ― 「私室」用にのみ現存すべきである。「大衆」は、彼らに最もよくおもねるすべを心得ている者を嗅ぎつける。大衆は大衆流儀ですべての煽動的な才子どもに感謝をささげ、自分たちにできるかぎり彼らにお返しをするのだ。」。 きげんぜん 400ねん(かくめいれき -2190ねん) ごろの こだい・ぎりしあの てつがくしゃ である そくらてすは、くにで しんじない かみかみを みちびき いれ、 せいしょうねんを だらくさせた として、 しけいに なった(ぷらとん(納富信留(のうとみ・のぶる)やく)『ソクラテスの弁明』、光文社古典新訳文庫、せいれき 2012ねんを よんだ。 ベンジャミン・ジャウエット、永江良一 (よみかたが わからない)じゅうやく、「ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じていると。」(https://open-shelf.appspot.com/ApologyOfSocrates/chapter2.html))。

*55:にーちぇは わーぐなーを 「クリングゾル中のクリングゾル」と なづけた(要出典☆)。くりんぐぞる とは、 わーぐなーの 『タンホイザー』、『パルジファル』で でてくる あくの まほうつかい である。『パルジファル』では、 くりんぐぞるの まほうに よって あれた しろを はなが さきみだれる にわに している(二幕)。また、 『パリジファル』では、 くりんぐぞるは くんどり という なまえの おんなに しろへの しんにゅうしゃたちを ゆうわくする ように あやつる。ひき

*56:ニーチェが『ヴァーグナーの場合』で用いた<ディレッタント>や<俳優>、<デカダンス>や<ヒステリー>といったキーワードは、第二次世界大戦までの間、ヴァーグナーをめぐる学界の論争の語彙を半ば規定することになる。」、立石拓也(たていし・たくや)「《ニーベルングの指輪》における脱民族主義的解釈の批判的考察」、ぴーでぃーえふ、https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8071&item_no=1&attribute_id=17&file_no=2

へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Bじつげん

じぶんよう。ただしいかは わからない。
2021ねん3がつ5にちから 3がつ 7にちに かいた。
あとで かえると おもう。🐸


Cりせいしょう
CVりせい
CVBりせいてきな じこいしきが じぶんじしんを つうじて げんじつか される こと
CVB0まえおき
CVBaきもちよいことと かならず おきる こと(ひつぜんであること)
CVBbこころの ほうそくと うぬぼれの きょうき
CVBcとくと せけん

くまのやくで じょう 540ぺーじから。

1

ちょくせつから かんせつへ。
じこいしきから、 たいしょうによる しょうにんに よって、せいしんへ。
せいしんの かくしん「みずからがふたつの自己意識に二重化しながら、その両者が自立的なものであることにおいて、じぶん自身とのみずからの統一性を手にしている」(541ぺーじ)
「この確信が、自己意識にとっていまや真理へと高められなければならない。」(541ぺーじ) かくしんから ただしいもの という いみの しんりへ。

2

「観察する理性はカテゴリーという境位にあって意識〔意識を きょうちょうしている。〕の運動、つまり感覚的確信、知覚と悟性とを反復することになった。」(452ぺーじ)
かんさつする りせいと いしきの うんどうを つなげて、かつどうする りせいと じこいしきの うんどうを つなげる。
じりつせいから じこいしきの じゆうへ。
ようきゅう(要求)

3

もくひょう
しょうにんされた じこいしき。
うちなる せいしんが じつざいに なる。
じんりんの くに
「人倫とは、諸個体が自立的な現実性〔「現実性」を きょうちょうしている。〕を保ちながらも、みずからの本質〔るび:ヴェーゼン〕にあって絶対的に精神的なしかたで統一されているありかた〔「統一されているありかた」を きょうちょうしている。〕にほかならないからである。」(544ぺーじ)
しゅうぞく(習俗)は じんりんてき じったい である。
じんりんてき じったいは、 いしきの ふるまいと げんじつせいである。

4

みんぞく
こべつせいが きえる ことで、 みんぞくと なる。
ふへんせいが きえる ことで、 るーると なる。

5

よっきゅう
ろうどう
まんぞく
ぜんたいてきなもの
じぶんに おいての ひていと じぶんに とっての こうてい
こべつせいが きえて、 みんなに あてはまる おきてと なる。
ふへんせいが きえて、 それぞれが もんだいと なる。
しみん
じぶんと おなじもの としての ほかの もの

6

じゆうな みんぞく である こだいぎりしあ。

7

しあわせとは しめい、つまり ふへんてきで こべつてきな ほんしつを はたす ことである。

8

りせいが しあわせに なれないのは、 ちょくせつてきに しゅうぞくが ある だけ だから。
しゅうぞくを かんせつてきに いしきすると ただしいもの という いみの しんりに なる。

9

「実在的な人倫つまり民族」(550ぺーじ)
みんぞくを しんじている という こべつてきな ありかたが こわれて、 ふへんに なる。
おきては かんがえられた もの なので、 じっさいに ある こたいとは たいりつする。
「個体はさまざまな律法〔るび:ゲゼッツ〕や習俗に対立するかたちで立ちあらわれてくる。」(551ぺーじ)

10

じんりんてき じったい、 ひとつの みんぞくの せいしんである という しあわせに なっていない。
ちょくせつてきに ある こべつてき せいしん
「すなわち精神とはここでは実践的な意識なのであって、その意識は目のまえに見出される世界へと、目的をいだいて乗りだしていく。」(552ぺーじ)
げんじつと たいしょうてきな じつざいの とういつ?
いっちが しあわせ。

11

「この理性的な自己意識にとっての真理は、私たちに対しては人倫的実体である。」(553ぺーじ)
はいき される こりつした こべつてきな けいき
「孤立した契機が有する形式は、それぞれに直接的な意欲、あるいは自然的衝動〔「自然的衝動」を きょうちょうしている。〕であるというものであり、その衝動が満足に到達しても、満足そのものがあらたな衝動の内容となるのである。」(553ぺーじ)
けいしきと ないよう?
「自然的衝動はその衝動がふくむ目的の意識とむすびついており、そのばあい自然的衝動の目的こそが真の使命であり、本質的なありかたであると意識されているのである。」(553ぺーじ)
どうとくせい
????

12

この だんかいの じこいしきは、 がいねん としては せいしんに あてはまる。
しかし、 じっさいは せいしんとして あるとは いえない。
(がいねんを じっさいに ある ことと くらべるのは あまり よくない よみかた かもしれない。 がいねんと いえば、 なにかを ひていする という いみで かんせつてきに たどり つく いめーじが ある。さらに、 もくてき、 せいめい、 じゆうは がいねんと かんがえられていた きがする。 げんじつと がいねんを くらべるのは 419ぺーじなど。 )
この だんかいの じこいしきは、 じぶんを こべつてきな せいしんが じっさいに ある もの である として ほかと くべつ する。
ここ から、 せいしんの だんかいに はいってくる。
かんさつ する りせいから こうどうする りせいへの うつりかわりだ。
この だんかいの じこいしきの もくてきは、 じぶんを こべつてきな もの として げんじつに する こと である。
(ここの 「もくてき」という ことばも やっかいだ。 せいめいが もくてきが ある もの として かんがえられていた ように、そして せいめいは がいねんで あると かんがえれていた ように、 もくてきを じぶんを つづけさせる ことと かんがえる べき かもしれない。 しかし、 もくてきや がいねんと げんじつは くらべられる たんご だから、 もくてきは げんじつに する ことだ という ときの 「もくてき」は もっと ふつうの いみ かもしれない。 )
じぶんを げんじつに する という ことが もくてき なのだから、 この だんかいの じこいしきは まだ げんじつの ものと なっていない。
じぶんを げんじつに すると、 まんぞくする。
なぜ?
じぶんを げんじつに する とは、 じぶんの しょうどうを まんぞくさせる こと だから だろう。(553ぺーじ、11だんらくを みよ)
しょうどうを まんぞくさせる というのは、 しょうどうが なくなる こと である。
そして しょうどうが なくなると きもちいい という まんぞくを かんじるの だろう。
じぶんが げんじつに なる とき、なにかを している。
つまり、 なにかを する という しょうどうに したがって、 なにかを した ことで、 しょうどうが なくなる という ことに なるのだと おもう。

13

ひてい

じこいしき いっぱんを ほかと くべつ する とくちょうは、 じぶんに とって ある じぶんが じっさいに ある という こと である。
(12だんらく「この だんかいの じこいしきは、 じぶんを こべつてきな せいしんが じっさいに ある もの である として ほかと くべつ する。」 ここでは、 「こべつてきな せいしん」と 「じぶんに とって ある じぶん」という ありかたが くらべられている。)
じこいしきとは、 じぶんに とっての じぶん である。
(ここから びみょうな せつめいを していると おもう。
つまり、 じこいしきが じっさいに ある という ことが わかるのが、 せいしんに はいった この だんかいの じこいしきの とくちょう である。
たとえば、 りせい である かんさつする じこいしきは、 じぶんに とっての じぶんが じっさいに あるかは もんだいに ならなかった。
なぜなら、
りせい である かんさつする じこいしきの かくしんは、 じっさいに ある もの とは、 じぶんに とって ある もの である という かくしんであった。
りせい である かんさつする じこいしきに とって、 )
(じっさいに ある ものは、 じぶんに とって ある もの である という じこいしきの かんさつする りせいの さいしょの(?、じこいしき いっぱんの、 かもしれない) かくしんと、 じぶんに とっての じぶんは じっさいに ある という はなしは ちがう かもしれない。なぞ。 ここは、 この だんかいの じこいしきの はなしを しているのか、 じこいしき いっぱんの はなしを しているのか わかっていない。 いままでの かきかたなら、 この だんかいの じこいしきの はなしを していると おもう。)

(この だんかいの? いっぱんの?)じこいしきは、 ほかの ものを ひていする こと である。
じぶんに とっての じぶんという かんがえかたが でてくるには、 「じぶんでは ない ほかの もの」ではない じぶんと かんがえる ひつようが ある ので、ほかの ものを ひていする こと である。(いっぱんの じこいしきの せつめい である きがする。しかし、 へーげるは ふつう、 この だんかいの という いみで はなしを する きがする。)

こうてい

ここからは、 くまのやくと、 じぶんの もっている やくが かなり ちがうので、 ふたつの よみかたを かく。
1. くまのやく
この だんかいの (じこ)いしきに とって、ほかの ものは ひていする もの であり、 じこいしきは こうていされる もの である。
この ひていされる ほかの ものは、 たしかに (われわれに とっては )あるが、 この だんかいの じこいしきに とっては そくじてき、 じたいてき、 それに おいて ある もの では ない。
つまり ほかの ものは、 この だんかいの じこいしきに とっては、 じこいしきが なければ ない もの として ある。
かんねんろんてき じこいしき ならば、ほかの ものは じこいしきの かんねん として しか なく、 ものじたいは それに おいて ある もの では ない という ことだ。

2. じぶんの もっている やく
(この だんかいの? いっぱんの?→ おそらく この だんかいの)じこいしきが、 この だんかいの (じこ)いしきに とっては、 われわれに とってとは ちがって、 ひていでは ない こうていである。
(「じぶんの いしきに おいて」という ひょうげんは まえに でてきた だろうか? じぶんに とって、 たいじてき とは ちがう はなし であろうか? おそらく ちがう。 これは、 「われわれに とって」と、 「この だんかいの いしきに とって」を くらべる ひょうげん だろう。)

なぜなら、 この だんかいの (じこ)いしきに とっては、じっさいには (われわれに とっては) あるが、 じこいしきに とっては それに おいては ない という ような ものが こうてい では ない ひてい だから である。
じこいしきは じこいしきに とって それに おいても ある もの である から、 こうてい である。
いみ わからない。
しかし、 いちの くまのやくと おなじ ことを いっている かもしれない。

げんじつと もくてき

この だんかいの (じこ)いしきは、 げんじつでも あり、 もくてきでも ある。
げんじつが ほかの もの であり、 ひていされて、 もくてきが たっせいされる。
たとえば、 たべもの という げんじつを たべて、 なくす ことで ひていして、 いきのびる という もくてきが たっせいされる。
また、 ゆか という げんじつを ねどこに かえる ことで、 ひていし、 ねて いきのびる という もくてきが たっせいされる。
まわりの もの という げんじつを ひていする ことで、 じぶんを つづけさせる という もくてきを げんじつに する。
そして、 じぶんを げんじつに する。

もくてきの うつりかわり

こうどうする りせいの もくてきは かわっていく。

CVBa ちょくせつてきで ちゅうしょうてきに じぶんに とって ある ことが さいしょの もくてき である。

つまり、 その ような もの として あり つづける ように する。
その ためには、ほかの じこいしきに とって、 じぶんが じぶん でしか ない この こべつの もの として あると ちょくせつ わかる ことが ひつよう である。
じぶん でしか ない この こべつの もの という のは、 たとえば、 じぶんは じぶん という ありかた しか しらない という ことが かんがえられていると おもう。
じぶんは ほかの もの として あった ことは ない。
じぶんで ある かぎり じぶん である。
たとえば、 めで みる ことを かんがえると、 じぶんは じぶん から みた けしきしか しらない のである。
じぶんは ほかの ものが どう みているのかは たいけん できない。
いままで この じぶんの ところから しか みた ことが ない こと、 これからも じぶんの ところから しか みえない。
そして、 それにも かかわらず、 ほかの ものも じぶんと おなじように じぶんの ところ から しか みれない という ことが わかっている。
この はなしが 「じぶんを「この個別的なもの」として他のもののうちに直観すること」(556ぺーじ)を あらわす ひゆに なる と おもう。
もっと かんたんに いえば、 じぶんが ほかの ものの なかまだと わかる こと、 ほかの ものが じぶんの ような ありかたを していると わかる こと である。
この ちょくせつてきで ちゅうしょうてきに じぶんに とって ある こと という もくてきの、 ただしい という いみでの しんりを けいけんすると つぎの だんかいに うつる。
ここでの ただしい という いみでの しんりは、 ほかの ものが じぶんの ような ありかたを していると わかる こと だろうか?おそらく そうだろう。
へーげるの べんしょうほうでは、 ただしい という いみでの しんりが、 だんかいに よって かわる ことに ちゅうい する ひつようが ある。

CVBb こべつてき である だけでなく、 ふへんてき である じぶんが つぎの もくてき である。

ふへんてき である から、 ほうそくが ある。
つまり、 この じょうけん では こういう けっかに なる という ほうそくが ある。
この ような ほうそくは すべてに あてはまる ので、 ふへんてき である。
しかし、 この ほうそくを ちょくせつてきに もっている だけ である。
つまり、 ほうそくは ただ ある だけで、 この だんかいの じこいしきは ほうそくを それ いがいの ものと くべつして りかいできていない。
おそらく あとで かんせつてきに ほうそくを もつ ことに なる。
つまり、 それ いがいの ものと くべつ して、 りかい する ことに なると おもう。

この ほうそくとは、 こころ(Herz)の ほうそく である。
こころの ほうそくに したがう ときに、 この だんかいの じこいしきは、 よい ことを する には、 じぶんの こべつてきな ありかたが なくなる ことを けいけんする。
おそらく、じぶんの こべつてきな ありかたが なくなる とは、 よい ことは ひとつに ふへんてきに きまっている ために、 よい ことを する には、 じぶんが ほかの ものと ちがって ある ことが、 こべつてきで ある ことが できなく なる という はなしに なると よそうする。
かんとの どうとくの ていげんめいほう、つまり どんな ばあいでも まもる べき ことは、 あなたの もくてきと ふるまいと おなじ かんけいを みんなが もっていても こまらないように する べき である という ことを かんがえると そうぞうしやすいと おもった。(かくりつを もくてきと ふるまいの かんけいと いいかえてみたが、 まちがっている きがする。)

CVBcすでに じつげんされている とく

この だんかいの じこいしきは とく(徳)に なる。
は?
とく(徳) という ことばが わからない。
そんとくの とく(得)では ない。
あれてー なら、 すぐれた ものに なる という いみか、 じぶんの できる ことを ちゃんと する という ぐらいの いみか。
しかし、 この 「とく」は つみかさなる みたいだ。
ますます わからない。

やった という こと その ことで しあわせに なる。
やった ことに ちょくせつ しあわせが ある。
かんせつてきに しあわせが ある わけ では ない。
したがって、 おそらく のちに かんせつてきに しあわせが わかる ときが くる かもしれない。
やった けっかで しあわせに なる のではない。
おそらく ぎむを やる ことが しあわせ である という かんがえかた である。
しあわせは かんじょう という より、 よく ある という こと かもしれない。
やった という こと その ことが よい こと である。

CVBabcの がいねん、 おそらく もくてきは、 せいしんが じぶんに とって ある とは、 もの である という こと である という こと である。

なぞ。
もの であるは、 ずがいろん、こっそうろんの むげんはんだん、 せいしんは ものである という はなし かもしれない。
なぞ。

CVCちょくせつてきに あらわす こたいせい
この だんかいの じこいしきに とって、 この だんかいの じこしきは、 じぶんを ちょくせつてきに あらわす こたいせい であり、 じっさいに ある もの である。
あらわすは、 「言明する」(557ぺーじ)と なっている。
おそらく これは、 かおの はなしの ときに でてきた ことば ではない だろうか?
わからない。要調査。
じこいしき としての こたいせいは まえは、 げんじつせいを ひていする こうていで あった。
かんねんろん からの だっしゅつ。
この だんかいの じこいしき、こたいに とっては、 じぶんを ちょくせつてきに じっさいに ある もの として あらわす ことが たいしょうであり、 もくてきである。
あらわす ことが もんだいに なっている。
あらわす ことが じぶんで ある こと である。

a1

きもちよい ことと かならず おきる こと(ひつぜん である こと)

うつりかわり

いっぱんに じこいしきは、じこいしきが じぶんに とって じっさいに ある もの である という かんねんろんてきな かくしんが ある。
たいしょうも じぶんの なかに ある かんねん である。
この だんかいの じこいしきの たいしょうは、 じぶんに とって ある だけ である。
つまり、 わたしたちに とって じゅうぶんな いみで ある という だんかいに までは きていない。
この だんかいの じこいしきに とって、 われわれに とっての ある という ことは、 べつの げんじつ である。
(「そんざい」を わたしたちに とって ある という ことと かんがえて よんでいる。)
この だんかいの じこいしきは、 じぶんが じぶんに とって ある ことを 「かんぜんに実現する」(558ぺーじ)。
(かんぜんに じつげんする とは なんなのだろうか?)
そうして、 この だんかいの じこいしきは、 じぶんを じぶんに おいて ある ことを ちょくせつてきに わかる ことに なる。
(これは、 どの ぶぶんを いっているの だろうか? とくと よのなか?)

「個別的な実在〔るび:ヴェーゼン〕としてのじぶんを他の自己意識のうちで意識するようになることなのだ。ことばをかえれば、この他のものをじぶん自身としようとすることである。」(558ぺーじ)
この はなしは、 13だんらくの もくてきの うつりかわりで かいた。いんようする。

その ためには、ほかの じこいしきに とって、 じぶんが じぶん でしか ない この こべつの もの として あると ちょくせつ わかる ことが ひつよう である。
じぶん でしか ない この こべつの もの という のは、 たとえば、 じぶんは じぶん という ありかた しか しらない という ことが かんがえられていると おもう。
じぶんは ほかの もの として あった ことは ない。
じぶんで ある かぎり じぶん である。
たとえば、 めで みる ことを かんがえると、 じぶんは じぶん から みた けしきしか しらない のである。
じぶんは ほかの ものが どう みているのかは たいけん できない。
いままで この じぶんの ところから しか みた ことが ない こと、 これからも じぶんの ところから しか みえない。
そして、 それにも かかわらず、 ほかの ものも じぶんと おなじように じぶんの ところ から しか みれない という ことが わかっている。
この はなしが 「じぶんを「この個別的なもの」として他のもののうちに直観すること」(556ぺーじ)を あらわす ひゆに なる と おもう。
もっと かんたんに いえば、 じぶんが ほかの ものの なかまだと わかる こと、 ほかの ものが じぶんの ような ありかたを していると わかる こと である。

この だんかいの じこいしきは、 ほかの ものが それに おいては じぶん であると かくしんしている。
ほかの ものは それに とって あるかは もんだいに なっていない。
しかし、 この だんかいの じこいしきに とって、 ほかの ものは かんねん である ため、 じぶん じしんの いちぶ である。
この かくしんは、 じぶんに とって ある ものが じっさいに ある という じこいしきの きほんの かくしんの かたちを かえた もの である。
(しかし、 それに とって、 en sich という ひょうげんを 「せんざいてきに」と よむ ならば、 すでに ほかの ものも じぶんと おなじように じぶんに とって ある という ことを かくしんしていて、 けいけんで その かくしんが ただしい という いみでの しんり まで たかめられる という はなしにも よめる。)

「自己意識は人倫的実体から、また思考することの静謐な存在から、みずからの対自的存在〔「対自的存在」を きょうちょうしている。〕へと高められている。」(558ぺーじ)
まず、 じんりんてき じったいは、 しゅうぞく、 きまりごと であった。
そして、かんがえる ことの ゆるがなく ある ことは、 かんさつで わかる うごかない ちしき だろう。
この だんかいの じこいしきは、 じぶんに とって ある という ありかたに たかめられる。
もしかしたら、 ぶんれつする じこいしき、 かんさつする りせい、 こうどうする りせいの ながれ かもしれない。
おそらく、 この じぶんに とって ある という ありかたが せいしんの ありかた なのだろうか?

ここで ひていされるのは、 まず しゅうぞく である。
つぎに、せいぞん(だーざいん)の おきて。(だーざいんは へーげんの なかでも いろんな いみが あって ほんとうに なぞ。)
さらに、 かんさつの ちしきと かんさつの りろん である。
かんさつの ちしきは ぶんるい された かんさつの けっか だろう。
かんさつの りろんは かんさつの けっかから ほうそくを みいだそうと する こと だろう。
げーては りろんを はいいろと いっている から、 その ひょうげんを かんがえて へーげるも 「はいいろの かげ」と かいたのかもしれない。
どういう いみかは わからない。 要調査。

ひていされた ちしきは、 じこいしきの げんじつ ではない、 べつの げんじつに かんけいしている。
この べつの げんじつは、「この だんかいの じこいしきに とって、 われわれに とっての ある という ことは、 べつの げんじつ である。」(a1 うつちかわり)に おける べつの げんじつ だろうか。
じこいしきから じぶんに とって ある という ことに かわっていくと かんがえれば、 つぎの だんかいの いしき、じこいしき、せいしんに とっての げんじつ という いみ かもしれない。

せいれいと ちれい(地霊)

さらに よく わからない たとえの はなしに なってくる。
「天上に輝ける聖霊が、知と行為の普遍性にかかわって、個別性の感受と享受とを沈黙させるのではない。それにかわって、地霊が自己意識のうちへと入りこんできたのだ。地霊にとってはただ存在だけが、しかも個別的な意識にとって現実である存在のみが、真の現実として妥当しているのである。」

しる ことの ふへんせいは かんさつに、 おこないの ふへんせいは しゅうぞくや おきてに かかわると おもわれる。
こべつせいが なくなる りゆうは、 なんか うえからの ものが きた から ではない。
こべつせいが なくなり、 こべつの じぶんに とって ある という べつの げんじつが もんだいに なる。
その りゆうは なんか したからの ものが きた からだ。
したからの ものは あくまであり、 ぼつらく していく。

a2

いきる

この だんかいの じこいしきが ぼつらく していっった さきは せいめい、 いきる こと である。
いきている もの として じゅんすいな こたいに この だんかいの じこいしきは なる。(どの だんかい だ?)
この だんかいの じこいしきは、じゅんすいな こたいという ありかたを かんせいさせようとする。(どの だんかい だ?)
(こたい という ありかたの かんせい とは なんだ?)
この だんかいの じこいしきは、 しあわせを じぶんで つくるのではなく、 うけとる。
は?

ちえ

(かんさつする)がくもんや (みえないものを みようとする)ほうそくや (ばあいに おうじて する ことを めいじる)げんそくは、この だんかいの じこいしきと、 じこいしきに とっての げんじつを ひきさいている。
しかし、 この ひきさいてる ちえの ありかたは、 しょせんは かげに すぎない。(「ちえ」という ことばは、 へーげるは つかっていない。 かってに かんがえた。)
かげは いきていないので、 きりの ように かききえる。
じこいしきに とって ある ものが じっさいに ある という じこいしきの かくしんに よって、 かげ、きりである ちえは きえさり、 じこいしきと じこいしきの げんじつが きりさかれなくなる。
じこいしきは、 いきる という ありかたを てにいれる。
なぞの うれた かじつの ひゆ。

a3

よくぼう

「自己意識の行為は、ひとえにひとつの契機にしたがい、欲望〔「欲望」を きょうちょうしている。〕にとって一箇の行為となる。」(559ぺーじ)
たいしょうが ある という ことを ひていするの ではなく、 たいしょうが ほかの もの である という ことを ひていして、 たいしょうを じぶんの ものに する。
たとえば、 たべる ことは、 たべものが ない という ように する のではなく、 たべものを じぶんの ものに する という いみで、 たいしょうを ひていする。
たいしょうが それに おいて ある という ことを ひていし、 じぶんに たいして ある という ありかたに かえる。
じっさい、 たいしょうが それに おいて ある というのは、 けいしきに すぎない。
じっさいに たいしょうが それに おいて ある という ことは ない。
たいしょうが それに おいて ある というのは、 かりそめの すがた である。
なぜなら、 たいしょうは じぶんに とって ある から である。
つまり、 たいしょうは この だんかいの じこいしきに とっては、 それに おいて じぶんと おなじ もの である。
すなわち、 たいしょうは じこいしきの かんねんである という ことだ。
「ひとつの境位にあって、欲望とその対象がたがいに没交渉的に、自立して存立しているとすれば、その境位とは生きてそこに存在すること〔「生きてそこに存在すること」を きょうちょうしている。〕(des lebendig Dasein)である。」(560ぺーじ)
なぞ。なぞのなぞ。
境位は えれめんとの やくに つかわれる ことばである。
よくぼうと よくぼうの たいしょうが かかわりなく、 それに おいて ある という ことは ありえるのか?
そして、 「存立」という ことば である。
そんりつは、 くべつに もとづいて そんざいする まえに くべつも なく そざいが ある という こと である。
なぜ それは いきる ことと かんけいしているのか わからない。

「欲望が享受をはたすとき、この現にあるもの〔るび:ダーザイン〕は、それは欲望の対象に帰属するかぎりで廃棄される。」(560ぺーじ)
よくぼうが はたされると、 つまり たべられると、 よくぼうの たいしょうは そこに ある という ありかたを ひていされる。
たべられると なくなってしまう からだ。

いきてそこにある

いきて そこに ある という えれめんとに よって、 よくぼうである じこいしきと たいしょうの それぞれに べつの げんじつに なる。
この とき、 いきて そこに ある という えれめんとは かてごりー である。
えれめんととは ものの もとの そざい である。
かてごりーは、 ありかたの ぶんるい である。
ありすとてれすでは、 こだい ぎりしあごに したがって、 ありかたの ぶんるいが かんがえられた。
かんとは、 この ありかたの ぶんるいは、 ものに ある のではなく、 にんしきしている わたしに あると かんがえた。
へーげるは、 この ありかたの ぶんるい である かてごりーは、ある ことと わかる ことの あいだを むすび、 くべつを つくる なにか として かんがえた。(まちがっている きがする。)
いきて そこに ある という そざいは、 よくぼう として わかる ことと、 たいしょう として ある ことを つなぐ なにか である ので、 かてごりー である。
いきて そこに ある というのは、 ひょうしょう されて ある という こと である。
ひょうしょう?!
ひょうしょうする とは、 なにかで なにかの かわりと する こと である。
かてごりーと ひょうしょうの かんけいが わからない。
かんとでは、 ひょうしょうは、 たいしょうの ありかた である。
ものじたいは わたしには あらわれない。
ひょうしょう、 たいしょうを あらわす かわりの もの として わたしに けいけんされる。
この ひょうしょうの ちつじょが かてごりー である。
だから、 かてごりーは ひょうしょうされて ある という こと なのだと おもう。

わからない。 きもちよさ?

うわー わからない。
いんようだけ しておく。
「それゆえ自立性の意識〔「意識」を きょうちょうしている。〕こそが――その意識が自然的な意識であろうと、法則〔るび:ゲゼッツ〕の体系まで形成された意識であろうと――、諸個人をそれぞれ自立的〔るび:ヒュール・ジッヒ〕なものとして支えていることになる。」(560ぺーじ)
なにが 「それゆえ」 なのか?
「じりつせいの いしき」?
自立的は、 für sich、 じぶんに とって なの?
じぶん だけで?
まえに あんじっひを じりつてきと やくしてなかった?うん?きのせい?
なぞ。要調査。
きょうちょうが いしきに かかっている から、いきて そこに ある という ことが ひょうしょうされる ことが もんだいで、 つまり いしき される ことが もんだいに なっている こお だけは わかる。

じこいしきと たいしょうの ぶんりは、 この だんかいの じこいしきに とって ない。
はあ?⤵
なぜなら、 ほかの じこいしきは じぶんの じぶんと おなじ である から。
はあ?⤴
こうして、 この だんかいの じこいしきは、 きもちよくなる。
ほえ?!
なぞ。
じぶんに おいて ある(自立的) ほかの いしきに じぶんが じつげんされていると しるか ほかの いしきと じぶんの いしきが ひとつ であると ちょくせつてきに しると きもちよくなる。
らかんの きょうぞうだんかいろんは ここから きているのか!

こべつから ふへんへ

この だんかいの じこいしきの もくてきは、 「ちょくせつてきで ちゅうしょうてきに じぶんに とって ある こと」である。
この ように きもちよくなると、 もくてきを たっせいする。
そして、 じぶんの ただしい という いみでの しんり、 つまり しんなる ありかたを けいけんする。
この だんかいの じこいしきは、 じぶんを こべつてきな もの だとも わかっている。
つまり、 じぶんに とって ある という ありかたを している こいつ、 この、 こべつの もの である。
ここ から しか なにも わからないような ここ、 なぜか いつも つきまとっている こいつ、 じぶん という こべつの もの である。
この 「この」という ことばの いみは かくのが むずかしい。
ながいひとしを さんこうに している。
もくてきが たっせいされると、 もくてきが ひていされる。
もくてきの ありかた、 「ちょくせつてきで ちゅうしょうてきに じぶんに とって ある こと」が おわる。
なぜなら、この だんかいの じこいしきに とって、 じぶんは すでに こいつ としての こべつてきな たいしょうではなく、 ほかの じこいしきと ひとつで ある という いみでの たいしょうに なる からだ。
ほかの ものも こいつと おなじく、 こいつ なのだ。いや、 こいつ じゃないの だけど。
(そして、 ながいひとしなら、 こいつと いっている じてんで、 すでに こいつは ほかのものと ならべられていたと いうのだろう。)
こべつてきなものは ひていされ、 ふへんてきなもの となっている。

a4

きもちいい ことの いみ

きもちいい ことの こうていてきな いみは、 じぶんが たいしょう としての じこいしきに なった という こと である。
ここでの 「こうていてきな」という たんごは、 ふつうの いみでの こうていてきな ではない。
ふつうは、 こうていてきな というと、 だれかに とって よい こと という いみである。
しかし ここでは、なにかは なにかである という こうてい・はんだんの ような もの という いみである。
つまり、 なにか ではない という ひていが ふくまれていない という こと である。(この せつめいでは、 むげんはんだんを とりのぞけていないので、 ただしくはない。)
きもちいいときに、 じぶんは じぶんに とって たいしょう として いしきされる。
なぜなら、 きもちいいと かんじているのは じぶん である から だろうか? わからない。

きもちいい ことの ひていてきな いみは、 じぶんじしんを ひていしている という こと である。
なぜなら、 じぶんじしんは じぶん ではなく、 ほかの もの である から だ。

むじゅん

「むじゅん」の けいけん
この だんかいの じこいしきは、 ほかの ものの なかに こべつの もの として じつげんする という かたちで げんじつに なるが、 どうじに それは じぶんが じぶんでは じつげんしない という いみで、 ほかの ものが じぶんを ひていする こと である。
この ほかの ものは、 じぶんの げんじつ とは ちがう げんじつ である。
じぶんの げんじつと たいりつする ほかの ものの げんじつは、 「むなしく対立していながら、それでも自己意識を喰いつくす威力となっている」(561ぺーじ)、
「むなしく」 というのは、 おそらく たいりつ しきれない という いみだろう。
いんぐらんどごで そのような ことばの つかいかたが あった ような きがする。
いりょくは わからない。
この ほかの ものは、それに おいて ある この だんかいの じこいしきの こたいの がいねん である。
がいねんは もくてき であり、 くべつ であり、 ひていする もの であり、 それに なる もの である。(びみょうな せつめいかもしれない。)

まだまだだね

この だんかいの こたいは じぶんんを じつげんする せいしん としては まだまだだね。(『てにすの おうじさま』という さくひんの しゅじんこう、 えちぜん りょーまの くちぐせが 「まだまだだね」で あるのを おもいだした という いじょうの いみは ない。)
まだ、 この だんかいの じこいしきは、 りせいの ちゅうしょうに すぎない。
じぶんに とって ある ことと じぶんに おいて ある ことが ちょくせつ ひとつ であるに すぎない からだ。
(おそらく、 この あと、 かんせつてきに ひとつ である ことに たどりつく。)
このだんかいの こたいの ありかたは、 ちゅうしょうてきな かてごりー である。

かんさつする りせい

かんさつするする りせいに とっての かてごりーは ちゅうしょうてきに ある という こと であった。
そして、かんさつする りせいが かてごりーを じぶんの もの ではないと おもった とき、 つまり じぶん ではなく せかいに かてごりーが あると おもっていた ときは、 かてごりーは いっぱんに もので ある ことと かんがえられていた。
かんさつする りせいに とって、 かてごりーは ちょくせつてきに ひとつとして ある という けいしきを もっていた。

まる

こうどうする りせい という この だんかいの じこいしきに とって、 もので ある こと としての かてごりーに、 つなぐもの としての ばいかいが はいってくる。
この だんかいの じこいしきに とって、じぶんに とって ある という ありかたが かてごりーに はいってくる。
そして、 かてごりーは まるに なる。
じぶんに とって ある こと、じぶんに おいて ある こと、じぶんに とって ある こと という ように まるを えがいていく。
「その円環の内容においては、単純に本質的なありかた〔るび:ヴェーゼンハイト〕をともなったもののあいだで、純粋な関係が展開されているのである。」(562ぺーじ)
なぞ。わからない。ないよう?じゅんすいな かんけい?
この だんかいの こたいが げんじつに なる とは、 ちゅうしょうの まるが ひとつの じこいしき、つまり じぶん から、 じぶんに とって ある という えれめんと、そざい、 ばしょへと ひろがっていく こと である。
すると、 この だんかいの じこいしきは たいしょうに なる。
(この だんかいの じこいしきと この だんかいの こたいは おなじ いみで かいている。 この あたりでは、 へーげるは こたいという ことばを だんかいを しめす ために つかっている と おもう。)
(えれめんとが まだ びみょうに わかってない。要調査)

きもちよさと かならず おきる

きもちよく なると、 じゅんすいな ひとつや じゅんすいな くべつ、それらの かんけい、 つまり 「空虚な本質的なありかたのひろがり」(563ぺーじ)(?)、 が たいしょうに なる。
これが ないようだ。
こたいは この たいしょうが じっさいに ある ものだと おもう。
この たいしょうが、 かならず おきる という ありかた、 ひつぜんで ある こと、 ひつぜんせい、うんめいである。
からなず おきる という ありかた、 うんめいの ほうそくを いえない。
かならず おきる ことは なにで あるか いえない。
かならず おきる ことは これ である とは いえない。

ぜんたいの よみかた

へーげるの どいつごの げんぶんの たいとるは
Die Lust und die Notwendigkeit
である。
Die Lustは せいてきな いみでの よくぼう という いみも ある。
しかし、こだいぎりしあごで ἡδονή (hēdonḗ) である。
どいつごで Freude, Vergnügen, Lust, Genuss, sinnliche Begierde‘である。(https://de.wikipedia.org/wiki/Hedonismus
しかし、へーどねーは せいてきな かいらくや よくぼうとは かぎらない。
とくに えぴくろすに とっての かいらく、 へーどねーは、 おだやかな こころもちの こと である。
くるしみと おそれが ない ことが かいらく である。
そして、 えぴくろすに とって かならず おきる という ことは ない。 すべて ぐうぜんに よって おこっていると かんがえる。(たぶん。 さらに ぐうぜん こそが ひつぜんである と かんがえる ことも できる から、 そこまで かんたん ではない。)
ここの ぶぶんは、 たしかに げーての ふぁうすとの ことを かんがえて きんだいの せいてきな ありかたを かんがえているとも よめる。
しかし、こだいぎりしあの えぴくろすはと ひつぜんを しんじた すとあはの たいりつを あらわしているとも よめると おもう。

うんめい

うんめいは うごかない ものと かんがえられる。
うんどうの はんたい としての そんざい として うんめいは かんがえられる。
そして、 うんめいは ちょくせつ わかる だけで、 かんせつ てきに わかる ことは ない。
なぜなら、 うんめいは じぶんに おきた ことしか わからない から だ。
うんめいは ぜったいてきで じゅんすいな がいねん である。(というのは よく わからない。
ここでの がいねんは うごく がいねん、せいめい なのだろうか? それとも じゅんすいな がいねん という だけ あって、 がいねんの ひとつに する ほう だけを かんがえている かもしれない。)
うんめいは ひとつ である。
なぜなら、それ しか おこらない ことを うんめいと いう から。
うんめいは からっぽ である。
どんな ことが おこっても、 おこらなくても すべて うんめいに なる ので、 ないようが ない よう だから である。(ないようが ない よう という だじゃれ いじょうの いみは ない。)
うんめいを とめられない。
とめられて、 じつげんしない ことは うんめいとは いわない。
うんめいを さまたげられない。
さまたげられるなら うんめいではない。
うんめいは かんけい である。
これが おこったら、 かならず これが おこる という かんけいが うんめい である。
できごと そのものが ぐうぜん おこった とか、 ないようが どう である とかが かんけい ないのが うんめいである。
うんめいの けっかは、 こべつせいが ない という こと だけ である。
どんな ものも けっきょく うんめいに したがう ことに なる。
うんめい という ふへん から のがれて こべつに なる もの は ない。
うんめいは りゅうどうてきではない、 こていてきな かんけい である。
うんめいに おいて かんけいしあっているのが、 じゅんすいに そうである ありかた(ほんしつ)や くうきょな ちゅうしょう だから、 こていてき である。
うんめいでは、 いきいきとした ないようや ぐたいせいや こべつせいや じっさいの ありかたは むしされて、 ほんしつが ちゅうしょうされて いきいきと していない くうきょな ものが だいじに される。
ひとつ、 わける、あわせる というのは、 かてごりー である。
つまり、 しゅかんと きゃっかんの あわさる ところであり、 ひとつは ひとつではない ことと わかれて、 あわさり ひとつに なる という ながれに なる。
ひとつが わかれて ひとつに あわさるのが かてごりー、せいめい である。
ひとつ、わける、あわせる という かてごりーは むかんけいに なる ことは ぜったいてきに ありえない。
ひとつは わけられ、 わけたら あわさり、 あわさると ひとつに なる。
この ように ひとつ、 わける、 あわさるが あわさっているのは、 ひとつを わけて あわせる という うごく がいねんが げんいんである。
ひとつ、わける、あわさる という のは じゅんすいな がいねん である。
おそらく、 じゅんすいな がいねんは ひとつに する ほうしか しない。 わける ほうが たりない。
ぐたいてきな ものを ちゅうしょうてきに がいねんとして あらわすときに ひとつ、 わける、 あわせる という がいねんを つかう。
この ひとつと わけると あわせるの あいだの ひとつに する がいねんの かわらない かんけいと、 ぐたいを ちゅうしょうに する という ほうこうのみの うんどうが、 ひつぜんせい、 かならず おきる という こと である。
(ちゅうしょうしまくれば、 かならず おきると かんがえられる。たとえば、 じぶんが ころぶ ことも、 あそこで なにかが ねむる ことも、 どちらも なにかの おこない だ。なにかの おこないは からなず おこる。 ずるい。)
こべつの こたいの ないようは、 りせいの じゅんすいな がいねん、 つまり りせいの まとめる ほうの うごき だけの がいねんに なっている。 しかし、 りせいの がいねん、 わける ほうは まだ できていない。けいしきは まだ りせいの ままだ。 せいしん という けいしきに なっていない。
しんだ かんさつ する りろん から、 かならず おこる という ちゅうしょう しまくった しんだ げんじつに いく だけ である。 せいめい という りゅうどうてきな うごきに いく のではない。
かならず おきる という ことは、 なにも ないようが なく、 じぶんらしい もの ではない。

5

いち という けいしき から ふへんに いく。

いままでは、 じぶん という こべつの ものが もんだいに なっていて、 けいしきに おいては ひとつが もんだいに なっていた。まだ けいしきに おいては わかれていない ひとつだ。(ないようは うごいている。)
これからは、 ひつぜん という ふへんが もんだいに なる。ちゅうしょう しまくった うごかない ひとつだ。 わけられた ものを ひとつに する だけで、 また わけられる ことが ない ような ふへん である。 ぐたいを まとめた だけの ふへんで あって、 ぐたいに かえっていく ふへん ではない。

いち という ぜったいてきな ちゅうしょう から、 ふへん という べつの ぜったいてきな ちゅうしょうに かわる。
ほかの ものと いっしょに やる ことが ない、 じゅんすいに じぶんに たいする という ありかた だった。
つまり、 ほかの ものは じぶんに たいする だけ である という じゅんすいな、 ふくざつではない、 ちょくせつの ありかた だった。
そして、 その じぶんに たいする ありかたは もくてきが あった。 じぶんに たいする ありかたを つづける という もくてきが あった。この もくてきに むけて じゆうに うごく ことが りせいの ありかた だった。
しかし、 もくてきとは はんたいに、 けっかとして、じぶんに おいて ある という ありかたを する ことに なる。
つまり、 かならず おきる ように ふへんてきに、 ちゅうしょう された、 じぶんに かんけいする ことなく、 ただ ある、 じぶんに おいて ある という ありかたに なる。
もくてきと ただ たいりつ している だけの けっかが うまれる。もくてきと ひとつに なる けっかではなく、 じゅんすいな たいりつぶつに なる。

ぼつらく

たんに おちているのである。
こべつの ありかたも こていてき だったが、 げんじつも こていてき だった。 こべつの ありかたが げんじつに やられて、 こべつの ありかたは きえて、 げんじつの こていてき ありかたに かいしゅうされる。
そして、 この ように おちている ことは、われわれに とって ある だけではなくて、 この だんかいの じこいしきに とっても ある。
なぜなら、 いしきは じぶんではない ものを じぶんと ひとつに する こと であり、 じぶんに とって じぶんではないものが ある という ありかたを している から である。
つまり、 ひつぜんせい という じぶんではないものを じぶんの もの として、 わかり、 おちていっていると わかっているのだ。
もくててきは、 こたいに とって ある ように なる こと だったが、 もくてきが たっせいされると、 こたいに とって ではなく、 その ものに おいて ある ように なってしまっている。
こたいに とって ある ように なる こととは、 つまり、 ちょくせつてきに ほかの ものに じぶんに とって じぶんが ある ことで きもちよく なる ことであり、 もくてき だった。
しかし、 いざ やってみると、 こたいに とってではなく、 その ものに おいて、 じぶんと かんけいする こと なしに、 ふへんてきに ある という けっかに なっている。
ここに この だんかいの じこいしきに とっても、むじゅんが ある。

だじゃれ

sein Leben sich genommen zu haben
nehmenは うけとると うばいとるの ふたつの いみが ある。
「いきる という ことを とった」
ふへん として いきる ようにも なったし、こべつ として いきる という ありかたを じぶんから とりさった とも いえる。
いきる という せんたくし お とったら、 しんいきる という ありかた を じぶん から とってしまい、しぬ。

ここは、 ふぁうすとの はなしが もんだいに なっている らしい。
しかし、 ただ だじゃれを いいたい だけに よめる。
さらに、こだいぎりしあの においを かんじる。
しかし、えぴくろすの かいらくは、 がくもんを すてようと する ことは ない きがする。
きゅにこすはの かいらくは わからない。 要調査。

6

こころの ほうへ

きもちいいの もくてきは、 こじんが いきて、 ちょくせつてきに ある という ありかた だった。
しかし、 きもちいいを じつげんすると、 いきていない こていてきな うんめいという ひつぜんせい という ありかたに なっていた。
じぶんの ありかたが かわると たいしょうが かわる、 または たいしょうが かわると じぶんの ありかたが かわる という はなし である。
さいしょの もくてきでは、 ほかの ものが たいしょうで あった きもちいいの いしきが、 じぶんも ふくめた ふへんてきな かならず おこる という かんけいが たいしょうに なると こころの ほうの いしきに なる。
この ように かわる ことは、 なにかを ばいかいに して、 つまり なにかを はさんで いない ように、ちょくせつてきに かわったかに みえるが じっさいは ばいかいが ある。
その ばいかいは、 いきる という ことと かならず おこる という ことが おなじに なる ような ばいかいである。
この だんかいの じこいしきに とっては、 この ばいかいは きもちいい である。
きもちいいを じつげんすると、 こべつてきな いきる ありかたから、 ふへんてきで こていてきな かならず おきる という ありかたに なる。
きもちいいを はさむと、 こべつてきな いきる ありかたと、 ふへんてきで こていてきな かならず おきる という ありかたは おなじに なる。
こべつてきな いきる ありかたとは、 もくてきと おこない である。
いきつづける という もくてきと、 いきつづける という もくてきを げんじつに する おこない である。
ふへんてきで こていてきな かならず おきる という ありかたとは、 うんめい である。
よって、きもちいいを はさむと、 もくてきと おこないは、 うんめいと おなじに なる。

もくてきと おこない、たいする うんめい

つまり、 もくてきと おこないの なかに うんめいが あり、 うんめいの なかに もくてきと おこないが あると にんしきする。
じぶんが いきのこる という もくてきを もって おこなった ことにも、 かみの さだめた ひつぜんに よって きまった うんめいに したがって やったに すぎないと わかる。
じぶんの うんめいも、 じぶんが いきのこる という もくてきを もって おこなった ことに よって すすんだと わかる。
(ただし ここで いきのこる とは、 より ひろい いみである。 たんに からだを しなないように する だけ ではない。)
つまり、 きもちいいこと やっていたら、 からなず おこる ような やりかたに なっていた。 かならず おこる ことに あわせて やると きもちいい。
と かいたが、この ぶぶんは びみょうだ。
どいつごを いんようする。

das Bewusstsein also das eine Moment im andern erkennte, seinen Zweck und Tun in dem Schicksale, und sein Schicksal in seinem Zwecke und Tun, sein eigenes Wesen in dieser Notwendigkeit,
106
ぴーでぃーえふ、http://public-library.uk/ebooks/05/51.pdf

erkennen という どうしに せっくすする という いみが あって、 おどろいた。 おおくは、 にんしきするや いしきする という いみ。https://ja.wiktionary.org/wiki/erkennen#de
さいしょの ほうは、 seinenじぶんの もくてきと ふるまい、 demなんらかの うんめい という ならび である。
たいして、 つぎの ほうは、 seinじぶんの うんめい、 seiem じぶんの もくてきと ふるまい とおう ならび である。
うんめいが じぶんの うんめいか、 そうではない うんめいかで ちがいが ある。
そして、 「なになに in なになに」を みっつ ならべている だけ である。
ちょくせんてきな かんがえかたを すれば、 つぎの ような ずになる。

┏ ━ ━うんめい━━━━━ ━ ┓
┃┏ ━ もくてきと ふるまい┓ ┃
┃┃┏━━━━━━━━━┓┃┃
┃┃┃じぶんの うんめい ┃ ┃┃
┃┃┗━━━━━━━━━┛┃┃
┃┗━━━━━━━━━━━┛┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛


しかし、 へーげるは ちょくせんてきな かんがえかたは せず、 まるを かく。
さらに、たがいを たがいの なかに みとめる という かきかたを している(”das eine Moment im andern erkennte”)から、じっさいは、じぶんの うんめいと なんらかの うんめいは おなじで ふくみあっている。
ともかく、 じぶんが ある という ことは、 もくてき、 おこない、 じぶんの うんめいに よって ある という こと である。
この だんかいの じこいしきは、この じぶんが ある という ことが、 なんらかの うんめいの なかに あると わかっている。
しかし、 この なんらかの うんめいを わかっておらず、 なんらかの うんめいを かんせつてきに わかっている わけでも ない。
この なんらかの うんめいが ちょっと わかると こころの ほうの だんかいの じこいしきに なる のだろう。

ばいかいする ものが ばいかいされていない。

もくてきと おこないに たいして うんめいが あわさって ひとつに なっている。
この だんかいの じこいしきに とっては、あわさって ひとつに なっている ことは きもちいい だけである。
この きもちいいという ばいかいが ばいかいされる ことに なる。
まだ、 きもちいい という ばいかいは ばいかいされていない、 つまり ちょくせつてきである。
きもちいい というのは、 たんじゅんで こべつてきな かんじょうである。
かんせつてきで、ふくざつで ふへんてきな かんがえに なっていない。

たんなる じゃんぷ

きもちいいを じつげんする ことで、じぶんの もくてきを じつげんする という もんだいから、 じぶんの うんめいに まきこまれる という もんだいに かわった。
この だんかいの じこいしきに とっては、じぶんの うんめいは、 じぶんの しんなる ありかた である。
この だんかいの じこいしきに とっては、いままでは、もくてきを じつげんする ことが じぶんの ありかた だったが、 ふるまい、 きもちよく なる ことで、 じぶんの しんなる ありかたは、 じぶんの さけられない うんめい であると きがつく。
この だんかいの じこいしきに とっては、この ように かわる ことは、 はんたいの ものへ たんに ちょくせつ とびうつって、うつりかわったと かんじているに すぎない。(たんなる じゃんぷ)
しかし、 われわれに とっては、 らせんの いちぶを すこし のぼりながら まるの はんたいがわに いろいろな ばいかいを つうじて かんせつてきに うごいている。
きもちいいの じこいしきに とっては、かんじょうに おいては、 もくてきと、 もくてきの はんたいの かならず おこる うんめいは かんじょうで ひとつにされ、 おなじものには なっていない。
こころの ほうの じこいしきに とっては、 じゅんすいな じぶんに おいて、 もくてきと うんめいが ひとつに されて おなじものに なる。
じゅんすいな じぶん というのは、 この じぶん ではなく、 じぶん という こうぞうを もっている ものは すべて もている おなじ ふへんてきな こうぞう である。
そして、 じぶんは ふへんてきに かんがえる という こうぞうを もっている。
(こうぞう という ことばは あまり いみを かんがえずに つかってしまった。 びみょう。)
きもちいいの じこいしきは、 けいけんを つうじて、 もくてきは うんめいである という つぎの だんかいの じぶんの ありかた、 つまり しんなる ありかたが わかる ことに なる はず だった。
しかし、 きもちいいの じこいしきが こころの ほうの じこいしきに うつらず、 きもちいいの じこいしきの だんかいに とどまり つづければ、 この だんかいの じこいしきに とっての じぶんの ありかたは よく わからず、 この だんかいの じこいしきに とっては、なぞの ままに なる。
きもちいいの じこいしきに とっては、うんめいが じぶんの もの ではなく、 かみの もの、じぶんとは べつの ものの もの なので、この だんかいの きもちいいの じこいしきに とっては、 じぶんが おこなった ことも かみという ほかのものが おこなった ことに なってしまう。
すると、 この だんかいの きもちいいの じこいしきに とって、じぶんが じぶんに おいて なにで あるかは もんだいに ならなく なってしまう。
この だんかいの きもちいいの じこいしきに とって、じぶんは ちょくせつてきに ある わけではない から である。 ちょくせつてきに あるのは、 うんめい、かみ だけに なる。

けいしきの へんかでは ない

きもちいいの じこいしきから こころの ほうの じこいしきへ かわる ことは、 たんに けいしきが かわる という ことではない。
きもちいいの じこいしきに とっての ないようが、 こころの ほうの じこいしきに とっての だいじな ありかたに かわった という だけではない。
おなじ もくてきと おこないを している ことが、 きもちいいの じこいしきに とっては、 たんなる ぐたいてきな ないよう であったが、 こころの ほうの じこいしきに とっては、 なくてはならない だいじな ありかたに なった という だけではない。
どいつごを よまないと わからないや。

der Uebergang nicht eine blosse Formaenderung desselben Inhalts und Wesens, einmal vorgestellt als Inhalt und Wesen des Bewusstseins, das anderemal als Gegenstand oder angeschautes Wesen seiner selbst.
107
ぴーでぃーえふ、http://public-library.uk/ebooks/05/51.pdf

desselbenは おなじ という いみが ある。そして、 この かたちは おそらく どいつごの 2かく。 つまり、 「…の」という いみに なる。 https://www.harada.law.kyoto-u.ac.jp/hdg/15_dempron.html

「かくてここで移行はたんなる形式の変化が、同一の内容と本質のあいだでおこることではない。すなわち、一方では意識の内容と本質〔るび:ヴェーゼン〕として表象され、他方では対象として、いいかえればじぶん自身の直観された〔「直観された」を きょうちょうしている。〕本質として表象されたもののあいだで生起しているのではない。」
くまのやく、566ぺーじ

やばい、どいつごの いみが わからない。要調査。
nichtは ひていの いみ だけだと おもっていた けど、 ここでは、 「おきない」という いみを もっている ように やくされている。
しょうりゃくされているのだろうか?いや、 vorstellen(いみする、まえにだす、ひょうしょうする)が どうしだ。かこぶんしに なって、 vorgestelletに なっている。 うん? そう やくされていない。
しかも、どうしと かんがえて、かんりょうけいで かんがえたいなら、habenが ある はず。 ない。しょうりゃくできるのか?できなそう。おとなしく かこぶんしの けいようしてき つかいかたと かんがえるのが ぶなんだ。

そして、Formaenderungは、 Formかたちと、Änderungへんかを あわせた ことばである。aeはÄの かわり。
「Änderung+ にかくの めいし und にかくの めいし」 という かたちは さがせなかった。
しかし、 なになにと なになにの 「あいだの」へんかと やくす りゆうは わからない。
いみから して、 「おなじ ないようと ありかたの けいしきてき へんか」 という やくが いい かもしれないと おもった。
どいつごが できるかたを およびしたい。
で、 「おなじ」とは、 なにと なにが おなじかと いうと、 きもちいい じこいしきの ないようと、 じぶんが ある という ことと、 こころの ほうの じこいしきの ないようと ある という ことが それぞれ おなじ であると いっているの だと おもう。ちょうど ふくすうけいである(Inhalts und Wesens)。
「ないようや ありかたは かわらない けれど、 けいしきだけ かわった。」 なんてことではないと いいたいの だと おもう。
さいしょ、つまり きもちいい じこいしきに とっては、 じぶんは、いしきの ないようであり、 いしきとして ある こと である として ひょうしょうされた。
しかし、 つぎの だんかい、 つまりきもちいい じこいしきの もくてきが げんじつに なった としたら、 じぶんは、ちょっかんされた じぶん じしんとして ある という こと、 または たいしょう として ひょうしょうされる はず だが、 じっさいは もくてきが げんじつに なると もくてきとは ちがう ありかたを してしまう ので、 こんな ことは おきない。
ここで、 「じぶん じしんの」 という とき、 じぶんに おいて ある という ありかたが かんがえられていて、 しかし、 じぶん じしんに おいて ある という ありかたは ちょくせつ しられた ものに すぎなくて、 ほかの ものの なかに ある じぶん という ありかたで、 じぶんは たいしょうに なると もくてきでは かんがえられるが げんじつに なる ことは ない。

いりょく! ばーん!

(「ばーん」は ぎおんごで、 ばくはつの ようすを あらわす。 いりょくが ある こうげきの しょうちょうは ばくはつであり、 ばくはつの おとは 「ばーん」と かかれる こと から、ばーんと かいた。 )
ちゅうしょうてきな ひつぜんせいは、 いりょく である。
いりょくは、 ちから という こと だが、 ごせいで とらえられる ちからとは べつの ことば だと おもわれる。
ひつぜんせいが いりょく であるのは、 かならず おこる というのは、 おこらないように しようとしても、 むりやり ちからで、 つまり いりょくで おこさせられる から である。
ここで ちゅうしょうてきな ひつぜんせいが もんだいに なるのは、 まだ かんせつてきに ぐたいと かかわる ひつぜんせいが もんだいに なっておらず、 ある こじんの できごとから とりだしたにすぎない ひつぜんせいが もんだいに なっている からだ。
きょうちょうが ちゅうしょうてきに はいっているが、 もしかしたら へーげるは きょうちょうを いれる ときは、まいなすな いみで つかっている とき かもしれない。
この いりょくは、 ひていてきである。
なぜなら、 じこいしきに とっての じぶんが じぶんに おいて あるのではなく、 ほかのものに おいて ある ように なる から、 じぶんが ひていされると かんがえられる から である。
または、 こべつてきな ありかたを めざした はずなのに、 その こべつてきな ありかたは ひていされて、 ふへんてきな ありかたに なっている から である。
なので、 また この いりょくは ふへんてき である。
この いりょくは とらえにくい。
なぜなら、 まだ この だんかいの きもちいいの じこいしきは うんめいを かんがえられていない から である。
この だんかいの きもちいいの じこいしきは、 たんに まきこまれる ちからの ながれ、 かみの ながれに しか おもえない。
ひつぜんせいという いりょくで こたいは くだけちる。ばーん!


7

「自己意識のこの形態」(566ぺーじ)の けいたいという ことばは、 あきらかに じぶんが つかう 「だんかい」という ことばに あたる。
しかし、「けいたい」という ことばは、 かんさつする りせいで、 ないようが ある かたち みたいな いみで つかわれていなかった だろうか?要調査。
きもちいいの じこいしきに とっては、 ひつぜんせい という うんめいに よって じぶんが なくなる という ところ まで しか おもいつかない。
その うんめいが じぶんの もの である という ところを おもいつく には、 こころの ほうに いかないと いけない。
つまり、 この だんかいの きもちいいの じこいしきに とっては、 ひつぜんせいは じぶんの もの ではない。
この だんかいの きもちいいの じこいしきに とっては、 じぶんは なくなるが、 われわれに とっては、それに おいては じこいしきは いきのびる。
われわれに とっては、それに おいては、ひつぜんせい、うんめい、じゅんすいな ふへんせいは じぶんの もの だからである。
じゅんすいな ふへんせい という とき、 まだ、 かんせつてきに こべつと ふへんが ひとつに なった ふへんせいではない という ことが かんがえられている。
「じゅんすいな」 という ことばは、 おおくの ばあいは、 ほめことばだが、 へーげるは、 すくなくとも ここでは、 さげすむ ことば として つかっている。
ひつぜんせい という じぶんとは べつの ものが じぶん であると わかると、 じぶんが じぶんに むかって いく こと になる。
このことを、 はんせい、 はんしゃ、 はんしょうと いわれる れふれくちおーん という。
ひつぜんせいが じぶんだと わかると、 こころの ほうの じこいしきの だんかいに うつる。

まとめ

こだいぎりしあの においが ぷんぷんするぜー(じょじょの きみょうな ぼうけん という まんがの だいいちぶの すぴーどわごん という きゃらくたーの せりふ である、 「こいつはくせえッー!ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッーーーーッ!!」の まね。 とくに いみは ない。 こだいぎりしあと げろいかを おなじと おもっているのではなく、 におい という ことばが でてきたので、 むすびついた だけ。)
しかし、 きんだいの はなし らしい。
まあ、 かんさつする りせいが きんだい かがく、 へーげるに とっての どうじだいの さいせんたんの かがくが もんだいに なっていたので、きんだいの ぶんがくが もんだいに なるのは、なっとくできる。
しかし、ことばの えらびかたが こだいぎりしあの ふんいきを ただよわせている。
まあ、へーげるは いつも こんな かんじで こだいぎりしあの ふんいきを ただよわせている という ことも あるかもしれない。
おそらく、いぽりっと という ふらんすの へーげる かいしゃくしゃが ふぁうすと、ぐんとう、どんきほーて!と いっている だけ では ないかとも うたがっている。
いぽりっとが どの ちょさくで いっているのかも わからないし、 へーげるが これらの ぶんがくを ねんとうに かいていた ことは ひていしない。

らかんの きょうぞうだんかいろんの はなしで よむのが じぶんには いちばん しっくり くる。
かがみの そうぞうてきな もので きもちいいと なっていたら、 ことば という しょうちょうてきなもの、 ひつぜんてきな もので うちくだかれる という はなし。
へーげるから らかんに いく までには、 こじぇーぶが いる から、 こじぇーぶの はなしも よまないと いけない。

きもちいいことが せっくすの ことで、 ひつぜんせいが こどもが うまれる ことだと、 くそみたいな せいべつにげんろんてき、いせいあいちゅうしんしゅぎてき、だんせいちゅうしんしゅぎてき、さいせいさんちゅうしんしゅぎてきな かんがえだと おもう。へーげるなら、 ありえる。 じだいの せいとか いう ものの ために あらかじめ はんろんしておく。じだいの せいで わるいのではなく、 わるいから わるい のだ。 あたかも いまは 「せいべつにげんろんてき、いせいあいちゅうしんしゅぎてき、だんせいちゅうしんしゅぎてき、さいせいさんちゅうしんしゅぎてきな かんがえ」が ない みたいな いいかたを するが、 いまも、「くそみたいな せいべつにげんろんてき、いせいあいちゅうしんしゅぎてき、だんせいちゅうしんしゅぎてき、さいせいさんちゅうしんしゅぎてきな かんがえ」ばかりである。 たんに あなたが それらの かんがえを くそみたいと おもっていない だけである。それは わるい。 ちゃんと わるいと おもう ことが よい。だいたい、 せいじかに こんなに おとこではない ものが すくない なかで、 いせいあいちゅうしんしゅぎてき、 さいせいさんちゅうしんしゅぎてき ことばが せいじかから でる なかで、 どこが へーげるの じだいと ちがうと いえるのか。 もちろん ちがうが、 どっちも わるい。

おとこのあなのむかしだ(「おなじあなのむじな」という ことわざを まねした ことば。 おなじあなのむじな とは、 わるくない ふりを して わるい ものを ひはんした つもりに なっている ものも けっきょく わるい、 ちがいが あるに しても ちょっとの ていどの さでしかない という いみの ことば。「おなじ」を はじまりの 「お」という ことばが おなじである、「おとこの」という ことばに おきかえて、 おとこちゅうしんしゅぎを ひはんしている。 また、「おとこのあな」という ことばの ならびに する ことで、 いせいあいちゅうしんしゅぎに かんけいしている だんせいちゅうしんしゅぎを あざわらっている。そして、「むじな」を はじまりの 「む」という ことばが おなじ である、「むかし」 という ことばに おきかえて、 にんげんちゅうしんしゅぎと、じかんが たてば よくなていくという まちがった かんがえを ひはんしている。 むじな とは、 あなぐまの ことであり、 にんげん いがいの どうぶつを わるいものの しょうちょうに つかうのは わるい。にんげんの わるい ところを にんげん いがいの どうぶつの せいに するのは わるい。にんげんは よかったり わるかったりする。あなぐまも よかったり わるかったりする。 )。

へーげるが せっくすを きもちいいこと、 こどもを あらたに うまれさせる ことを ひつぜんせいと かんがえていたかに ついては、 あまり なっとくしていない。
こだい・ぎりしあが もんだいに なっているなら、 ちがうと おもう。
ふぁうすとが もんだいに なっている なら、 その とおり かもしれない。
なぞの なぞ。
まあ、 ただし、 とうじの どいつで、 けっこん せずに あらたに こどもを うまれさせた ばあいに、 うまれさせられた こどもと、 せいべつが おんなであると かんがえられた うみのおやの かたほうが どれだけ さべつされたか という はなしは かいた ほうが いいかもしれない。
ふらんすでは なぽれおんほうてん という もので、 おんなと みなされた ものが けっこん せずに こどもを もつと めちゃくちゃ さべつされた という はなしは よんだ ことが あった。
いえすを うまれさせた まりあは けっこん していなかった ので、 いえす という かみ(のこ)を うまれさせたのは きせきであると かんがえられた。
そして、 きせきは かみ、いえすにしか あてはまらないので、 にんげん ごときを うまれさせた おんなは うそつきか いんらんと みなされて さべつ された のである。
たしか、イレーヌ・テリー 著、石田 久仁子 訳、井上 たか子 訳「フランスの同性婚と親子関係、ジェンダー平等と結婚・家族の変容」 https://www.akashi.co.jp/book/b432779.htmlで よんだのだと おもう。
まあ、 だいたい おなじ かんじ だろう けど、 どいつの はなしも しらべた。
屋敷 二郎「書評、三成美保著『ジェンダーの法史学――近代ドイツの家族とセクシュアリティ』」(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/2006/56/2006_317/_article/-char/ja/)から いんようする。

プロイセン一般ラント法(ALR)は、嫡出原理を堅持して婚外子を「家」から排除し相続権も否定する一方で、債権として扶養養育請求権を認め、不貞の抗弁を否定した。さらにALRは、「未婚の母」を「無責で離婚した妻」とみなし、裁判所の認定により子を嫡出子とみなす規定を設けた。」
320ぺーじ

さいあく ではないが、 わるい という はなし である。

「著者によれば、ALR施行後からサヴィニーが主導した一八五四年非嫡出子法制定に至る過程では、「未婚の母=被害者」の神話が崩れ「淫婦」とみなす傾向が強まり、「未婚の母」の請求権を減じることが「婚姻の神聖さ」を維持するとために不可欠とされた。不貞の抗弁は復活・拡充され、例えば、婚外子をもつ女性が別の男に強姦されて妊娠した事件(一八六〇年)や、過去に婚外妊娠して胎児の父と結婚し出産した女性が寡婦となった後に妊娠した事件(一八五八年)ですら、相手男性に対する損害賠償どころか出産費用の請求さえも棄却された。著者は、「性的不品行」な女性に対しては男性の「性犯罪」ですら責任を免れるという「性の二重基準」論と、貞淑な女性と不品行な女性という「女性二分」論を、これらのプロイセン最高裁判例に見出している。」
320ぺーじ

まるで せいれき 2020ねんだいの にほんだと おもわなかったら、 ちゃんと しらべなさい。(にほんに すんでいない ものや、 せいれき 2020ねんだいを おぼえていない もの、ちしきを なんらかの かたちで せいげんされている もの、 たとえば、 もじとしての かんじを よめないのに、 まわりが もじとしての かんじを つかっている ばあい などは、 しらなくても もんだいは ない。 ほかにも もんだいではない ばあいが ある ので、 あまり おもく うけとめないで ほしい。 )

「けっこんの しんせいさ」は、 ふたりの いせいこんに おいて みょうじを おなじに しなければ いけない という きまりが ある。
そして、 ほとんど じっしつてきに おとこの みょうじに させられる。
なんぱーせんとが おんなの みょうじの ままか しっている だろうか?
べつの はなしを かくので、 その あいだに かんがえてほしい。
にほんごでは あまり 「けっこんの しんせいさ」とは いわない。
「かぞくの きずな」という ことばが つかわれる。
あとは、 「でんとう」である。
せいれき 2021ねんの 2がつ ごろ から、 ふたりの いせいで けっこんして べつの みょうじを なのれる ように ほうりつを かえようという はなしが こっかいで もんだいに なっている。(https://www.tokyo-np.co.jp/article/88547
おなじ みょうじを おしつける べきだ という もの たちの いけんの おおくは、 「かぞくの きずな」「でんとう」などの りゆうを もちだす。
そもそも、 けっこんせいどが わるい。 さべつてきな せいど である。
ふたりの、 こせきじょうの いせいが、 せっくすを ほかの もの としない という ぎむを おって、 だいたい いっしょに くらす という けいやくを かわすと、 ほかの ものが もらえない ゆうぐうそちを もらえるのだ。
にんずうの きまりも、 せいべつの きまりも、ていそうぎむ という きまりも、 ほかの もの からの ゆうぐう そちも すべて なくす べきだ。
さらに けっこんせいどは、 だんせいちゅうしんてきに つかわれてもいる。

なんぱーせんとが おんなの みょうじの ままで あれるか しっている だろうか?の こたえを かく。
せいれき 2017ねんに しらべた ところでは、 4ぱーせんと である。
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00542/

さて、 ほんだいに はなしを もどそう。
いわゆる ひちゃくしゅつじ、 つまり けっこん していない ものが うまれさせた こどもは、 せいれき 2018ねんでは、 ぜんたいに たいして、やく 2ぱーせんと である。(https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20200111-00157345/
けっこん しないと どれだけ さべつを うけるかを たんてきに あらわす すうじ である。
さらに、 おもに ひちゃくしゅつの、つまり けっこん していない ものの こどもの せわは おんなの おやが する ように おしつけられる。
そして、 せいさべつに より、 おんなに はらわれるる きゅうりょうは おとこに くらべて やすい。
おんなと みなされると ふたん ばかり おしつけられる。

ほうりつで、 ひちゃくしゅつの こどもに たいする そうぞくけんの さべつが ほうりつの うえで なくなったのは、 せいれき 2013ねん である。

いなだ という にほんの ぐんたい、じえいたいが みなみすーだんんで たたかった という ほうこくしょを かくした せいじかが どうどうと でているが(あまり という わいろの せいじかも でてくる)、 こんな きじが ある。
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/28625.html
せいれき 2019ねんに 「税制改正で、「未婚」のひとり親にも、配偶者と「死別」や「離婚」したひとり親と同様に、所得税や住民税の軽減措置が適用されることになった。」

せいはんざいの ひがいしゃの せいせいかつを りゆうに、 せいはんざいの かがいは かるかった という はなしかたは せいれき 2021ねん げんざいの しほうや けいさつでも よく きく はなしかた である。

せいれき 2017ねんに やまぐち・のりゆきという せいふに ちかい じゃーなりすとが、 じゃーなりすとの いとう・しおりを ごうかんした じけんの ほうどうを みてみよう。 せいぼうりょくの はなしが でてきます。よむと たいへんな ひとは いんようの ところを とばしてください。 おんせい よみあげ などで きいている ものは、 30びょう ぐらい きかない ように してください。

「捜査員のみなさんから、『処女ですか?』と質問されました。『なんのための質問ですか?』と聞いたら、『聞かなくてはいけないことになっている』と。捜査のガイドラインに載っているんだと思いますが、そうならとてもおかしいことだと思います」
https://jisin.jp/domestic/1621227/

また、かこの せいかんけいを もんだいに する ことは、 せかんど・れいぷ と いわれる てんけいてきな わるい やりかた である。

性犯罪裁判では「セカンドレイプ(二次加害)」と呼ばれる、被害者の心身を傷つけるやりとりが意図的に行われることが、残念ながら少なくありません。
☆過去の性に関する言動等を取り上げることで、事件時、被害者側に性的欲求があったかのような印象を与える
https://blog.canpan.info/shiawasenamida/archive/1214

せいぼうりょくの はなしは みじかい けれど、 じぶんも たいへんに なる ので、 ここで おわり。
ともかく、へーげるは ほかの ものと おなじ ように わるい だろう。
しかし、せいしんげんしょうがくの この ぶぶんが わるい はなしを しているか どうかは、 あまり じしんが ない。
ふぁうすとを そんなに いしきしていたの だろうか?
いしきしていない というのは いえない だろうが、 ふぁうすとの はなしを している とまで いえる かどうかは わからない。
せいぼうりょくの はなしは おわっている。つぎの はなしを していた。

ちなみに へーげるは どいつで せいれき 1807ねんに せいしんげんしょうがくを かいている。
へーげるが すんでいた ところで、 「プロイセン一般ラント法(ALR)」が つかわれていたかは しらべていない。めんどうくさい。

おわり。
おそらく、 いろいろ あとに かきたしたり する。
さいとう

どくしょ・めも1、「てんい じょう、 ろく きゅうたいの ちょうろう」

どくしょ・めもを する。 おもに じぶん よう。


ちゅうとはんぱな ところから めもする。
なぜなら、 とちゅうまで すでに よんだ から。
しらべものは うぃきぺでいあまでで よいと する。
なぜなら、 しょうめいする ため でも ない から。
また、だれかに おしえる ため でも ない から。
さらに、 かくにんした ひづけも かかない。
めんどうくさい から。

らかん『てんい、 じょう』
「ろく、きゅうたいの ちょうろう」

139ぺーじ

あーさー・けすとらー (Arthur Koestler)

どいつごと えいごを つかう しょうせつか、 てつがくしゃ。
ゆだや けい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC
『むゆうびょうしゃ たち』 (The Sleepwalkers: A History of Man's Changing Vision of the Universe., 1959)
にほんごやく なし。
けぷらーの しょうは、 『ヨハネス・ケプラー 近代宇宙観の夜明け』(部分訳:小尾信弥、木村博訳、河出書房新社、1971年、新版1977年。筑摩書房ちくま学芸文庫)、2008年)で やくされている。
こぺるにくすの しょうは、 有賀寿訳『コペルニクス 人とその体系』すぐ書房、1977年。部分訳で やくされている。

夢遊病者たちの確執

https://numabe.exblog.jp/4499389/
「一方のケプラーはといえば、もっぱら直観的に思弁を重ねるタイプ。視力が弱かったこともあり、ほとんど天体観測を行わなず、ひたすら先験的ヴィジョンに導かれて壮大な宇宙論を夢想した。」

ケストラーの見方はこうである。コペルニクスからガリレオに至る近世の天文学者たちはみな、誤謬に満ちた仮説や途方もない妄執にとらわれながら、自分がどこへ進もうとしているのか理解せぬまま、あたかも「夢遊病者のごとく」真理へと導かれていったのだ、と。
この魅力的な(しかし議論の余地のある)所論を展開するうえで、ケストラーが最も多くの頁を費やしたのが、ほかならぬケプラーの矛盾に満ちた生涯についてであった。「惑星の数が六つ(水・金・地・火・木・土)なのは何故か」と自問し、惑星軌道を確たる証拠もなしに五つの正多面体と関連づけた空想家ケプラー。惑星の運行には妙なる協和音が潜んでいて、宇宙全体は天空の音楽で満たされると結論づけた神秘主義ケプラー。彼こそは思い込みと謬見にどっぷり浸りきった「夢遊病者」の典型例だったからだ。

むゆびょうしゃは、 ゆめという げんじつではない ものを みながら、 げんじつに うごく ことの ひゆとして つかわれている。

むゆうびょうは せいしんぶんせきでは どう あつかわれているのか?

小林成貴「『人間喜劇』の夢遊病者たち──バルザックにおける夢と意志―─」(ぴーでぃーえふ、http://www.waseda.jp/bun-france/pdfs/vol34/kobayashi.pdf

夢遊病という問題を大々的に取り上げたのはピュイゼギュールが最初であった。

ぴゅいぜぎゅえーるは どうぶつじきで ゆうめいな めすめるの でしである。

それは意識的な記憶と無意識的な記憶であり、この夢遊状態に現れる記憶の研究が、シャルル・リシェやシャルコーといった学者たちによる研究を経て、フロイトの無意識の研究へと繋がっていく。

田母神顯二郎「ピエール・ジャネとフランス流無意識──統合・解離・時間―─」(ぴーでぃーえふ、https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/13963/1/bungeikenkyu_116_97.pdf

めーぬ・ど・びらん という しそうかが むゆうびょうに きょうみを もっていた らしい。
びらんの えいきょうに あるのが、 べるくそんと じゃね である。
じゃねに えいきょうを あたえた じゃくそにずむは、

 イギリスの神経学者ジャクソンJ. H. Jacksonによる学説。彼はたとえばてんかん、失語などの神経学的臨床観察と理論において独創的な見解を示した。スペンサー H. Spencerの進化論哲学の影響のもとに「神経系統の進化と解体」(evolution and dissolution of nervous system)の思想を展開したが、それによると神経系統の進化とは、(1)高度に組織化された下級の中枢から、組織化の少ない高次中枢への移行であり、(2)単純な下級中枢から複雑なより高次の中枢への移行であり、(3)もっとも自動的なものから随意的(意図的)なものへの移行である。いいかえると神経精神的最高中枢は組織化の程度がもっとも少なく、もっとも複雑でもっとも随意的なものである。このように神経系統は階層構造(hierarchy)をなす。ところが神経系統の病的解体ないし退行は進化の過程を逆行する。つまり退行は最高次の中枢から低次の中枢へ、より組織化の少ないものからより組織化されたものへとすすむ。しかも、そのとき重要なのは陰性症状(negative symptom)と陽性症状(positive symptom)の区別であって、前者は器質的侵襲による機能の喪失であるが、後者は病的過程によって破壊をまぬがれた下位中枢の解放症状である。この理論は種々の神経疾患に適用されるが、たとえば失語において自動的、情緒的でない感情言語が保たれ、高級で複雑な意図的な知的言語が消失する。かれの言語理論は後輩のヘッドH. Headやフランスの神経学者アラジュアニーヌTh. Alajouanineらに受けつがれた。ジャクソンは同じ原理を精神疾患にも適用しようとしているが、充分に徹底されていない。この路線は現代フランスの代表的精神医学者エー H. Eyによって新ジャクソニズム(neo-jacksonisme)として展開された。

(大橋博司)
http://www.actioforma.net/kokikawa/seisin/seisin13.html

と せつめいされる。
ろーまん・やこぶそんの はいけいには この せつが あったの かもしれない。
やこぶそんは ふたつの けいれつを かんがえた のに たいして、じゃくそにずむは ひとつの けいれつで かんがえた。

111ぺーじに はん・こんでぃやっく という はなしが でる。
こんでぃやっくは 「最初の著作『人間の認識の起源に関する試論』(1746)はほぼロックの認識論を継承しているが、ことばの果たす役割を強調したところに彼の特色がある。感覚に由来する単純観念はことばと結び付くことによって、初めて他の観念と結び付くことができる、というのである。」(https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A4%E3%83%83%E3%82%AF-67428

ぴえーる・じゅねは らいぷにっつの ながれに いちづけられる。(112ぺーじ)
112ぺーじ かたれぷしー

読み方:カタレプシー

English:catalepsy

強硬症。一定の姿勢をとると、その姿勢を随意的に変更できず、長い時間にわたって同じ姿勢を保持する症状。統合失調症の患者や心因性精神障害でみられる。
https://www.almediaweb.jp/glossary/0156.html

123ぺーじ、ゆんぐの こんぷれっくす がいねん
めちゃくちゃ おもしろい ろんぶんに であってしまった。

せいしんぶんせきと むゆうびょう

あまり おおきな かんけいは ない ようだ。
むしろ、 せいしんぶんせきと たいこうしていた ぶんやが あつかう もんだいという いめーじが ある のだろう。

がりれいと きょうさんしゅぎ

あーさー・けすとらーは しおにすとの きょうさんしゅぎしゃ であった。

パレスチナへの入植は思わしい結果に繋がらず、現地でドイツ最大の通信社ウルシュタインの職を得たのがきっかけとなり1929年にはフランス支局の特派員となった。翌年、自然科学についての知識の深さを認められ、科学欄編集長としてベルリン本社へ配属され、ここでナチスの台頭に直面する。以降、ホロコーストを題材とした小説『出発と到着』(1943)[4]の執筆など、終戦に至るまで一貫したナチス批判を繰り広げることになる。同時期、マルクス・エンゲルスの思想に出会いドイツ共産党に入党する。ほどなくウルシュタイン社を解雇され国際革命作家同盟の招きでソビエトに滞在したが、その全体主義的独裁体制を目の当たりにして、1933年にフランスに亡命することとなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC

らかんは、 あーさー・けすとらーが きょうさんしゅぎしゃ だった ことと、 がりれいを ひいきに する ことを むすびつけている。
なぞである。
「かれは」と いっているから、 もしかしたら 「がりれいが」 きょうさんしゅぎしゃ だったと らかんは いっているの かもしれない。
うそだー。
うーむ、がりれお・がりれいは、 かとりっくの きょうかいから いたんと かんがえられていた。
きょうさんしゅぎは しゅうきょうを ひていする。
よって、 てきの てきは みかたの りろんで、 がりれいを ひいきに するの かもしれない。
また、 がりれいは、 けぷらーと ちがって、 かみを ぶつりがくから はいじょした みたいだ。

ガリレオ自身、敬虔なカトリック信徒でありながら、哲学や宗教論から科学を分離することを提唱し、教会の権威に基づいた科学的理論を否定していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4

ああ、 みつけた。
まず、 あーさー・けすとらーは はんがりーの ぶたぺすと しゅっしんである。
さらに、 あーさー・けすとらーは おーすとりあの あたらしい きょうわこくの うぃーんに いた ことも ある。
そして、はんがりーの うぃーん しゅっしんの けいざいがくしゃに かーる・ぽらんにー(Polányi Károly)が いる。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BC
かーる・ぽらんにーは、 きょうさんしゅぎしゃ だった。
かーる・ぽらんにーは がくせいの ときに、 がりれい・さーくるという がくせいだんたいを つくった。

また、ピクレル本人もあえて当時の社会改革運動の理論的支柱として扱われることをいとわなかったため、ブダペスト大学の最も人気のある講義の一つとなり、多学部からの学生も大勢聴講に訪れる一方、極右勢力からは大学の講義を妨害されたり、政治的批判の対象となりもした。ポラーニ・カーロイを初代委員長とするガリレイ・サークル成立のきっかけも、ピクレルの講義を極右学生の妨害から守ることにあった。サークルの名前も当初「ピクレル・サークル」にするという案が浮上したが、ピクレルの提案により、決して科学的信念を曲げなかったガリレイの名前を冠することにしたという(35)。

35. Kende, Zsigmond, p.85.
(Kende, Zsigmond, (Budapest, 1974))
三苫民雄「ピクレルの社会理論 — 19-20 世紀転換期におけるブダペスト思想界の一断面 —」
Tamio MITOMA
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/47/mitoma/mitoma-1.html

おたくの はなし

はい。つながった。
らかんの はなしを きいていた もの たちには この ことは あたりまえ だったの かもしれない。
このような はなしを、 ちしきを ひけらしたがっていると かんがえるのは まちがっている かのうせいが たかいと おもう。
たしかに、 らかんは ちしきを ひけらかすのが すきな たいぷだと おもう。
しかし、 らかんの はなしは、 うちわの はなしである ことを おもいだす ひつようが あると おもう。
うちわで はなす もの たちは、 そとに いる もの たちが まったく わからない かたちで はなす。
あたりまえ だから ていねいに せつめいしなくても いいのだ。
その ように せつめいを はぶくのは、 きもちよい ことも ある だけでなく、 らく だ🐪。
たとえば、 ふぇみにすとの あつまりでは、 「ばとらー」と なんの せつめいも なく いう ことが ある。
わざわざ、 あめりかがっしゅうこくの ふぇみにすと、くぃあの てつがくしゃで、『じぇんだー・とらぶる』が ゆうめいな じゅでぃす・ばとらーとは いわないのだ。
ここでも、 「くぃあ」という ことばを せつめいせずに つかった。
くぃあとは、せいてきな ことに ついて ふつうと かんがえられないものを ちゅうしんとして、 その なかの ちがいを かんがえながら、 ふつうという かんがえかたに ちょうはつてきに はんたいする、 せいじてきな ありかたの ことである。
さらには、せいじてきではない ありかたの いみである ことも ある。
えいごの queerという ことばの にほんごやくである。

ほかにも、 ある いっていの おたくの あつまりでは、 なんの せつめいも なく、 「るるーしゅ」と いって、 だれだか わかる。
せいれき 2006ねんから てれびで ながれた あにめ 「こーどぎあす、はんぎゃくの るるーしゅ」の しゅじんこうである。
さらには、 るるーしゅの せりふの いちぶを かえて、 るるーしゅの なまえすら ださずに ねたに する こと さえ できる。
そういうことは、 にちじょうさはんじ だと かんがえる ほうが べんりだと おもう。

がりれいの おちるものの るーる

はなしを もどす。

ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則はおもに2つからなる。1つ目は、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つ目は、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである[20]。その方程式は次のようにあらわされる。 X(t)=1/2at2[21]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4

この はっけんを らかんは 「本質的な一歩」と いっている。
しかし、 がりれいは 「他の人と同様にやはり遅れていた」とらかんは いう。

ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4

かんぜんな えんうんどうは、 かんぜんである には、 てんたいに おいて のみ ありえるのだと がりれいは かんがえていたと らかんは いう。
おそらく、 てんたいは なにか じゅんすいな ものと かんがえられていたの だろう。

アリストテレスの宇宙観では、地球が宇宙の中心でそのすぐ上に月があり、それより 上は天(heaven)であり、月下の世界(われわれ人間の世界) と天の世界は峻別され両世界に共通の普遍的な法則など有り得ない。
http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~teiji.kunihiro/kuni/misc/jyussyu.html

きゅうたいは、ほかの ものを ひきよせる あいの いめーじ である という はなし(135-136)と つながっている。
そもそも、ぷらとんの きょうえんの なかの ありすとふぁねすの あいは こっけいな いめーじとして きゅうたいや まるが もんだいに なっていた(131-132)。

こぺるにくすてき てんかい

こぺるにくす てき てんかいは、こぺるにくすから でてきた もの ではない。
てんどうせつから ちどうせつへ という はなしは、 こだい ぎりしあの ふぃろらおす(136ぺーじ)など から ちどうせつは あった という はなしが ある。

彼〔いんようしゃ ちゅう:こぺるにくす〕はまた,恒星の世界を無限ないしそれに近いものと考えていた。しかし宇宙がもし無限なら,そこには中心はないはずである。その種の議論をコペルニクス天文学の問題ではなく,自然哲学者にまかせるべきだと考えて,みずからは立場を明確にしていないが,その発想が〈閉ざされた〉中世的宇宙観(コスモス)から〈開かれた〉近代的宇宙観への移行のゲート・キーパーとして影響したことは確かであり,この宇宙観・世界観の大変革がしばしば〈コペルニクス革命〉と称されたり,転じて哲学その他の分野で〈コペルニクス的転回〉(カント)の語が用いられるゆえんである。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1499

らかんは こぺるにくすの かんがえかたは 「歴史的なひとつの幻想」であり、 しゅうてんえんの ような「想像的要素」が たくさん あると いっている(137ぺーじ)。
しゅうてんえん とは、 わくせいの うごきを せつめい する ために つかわれた かんがえ である。
えんの うえを ちゅうしんとする えんの うえを うごいていると かんがえる こと である。
さて、 らかんは 「彼らは、想像しうる唯一の運動は円運動だという理念を持っていたのです」と いっている(137ぺーじ)。
がりれいは こぺるにくすてき てんかいを のりこえてないと らかんが いう とき、こぺるにくすてき てんかいは、 うちゅうを むげんと かんがる ように なる こと だろう。
かんぜんな えん うんどうが ある はずであると かんがえた ため、 がりれいは うちゅうは ゆうげんで あると かんがえていたと らかんは いいたいの だ。

えん うんどう

こだい ぎりしあ じんは、 えん うんどうは げんかいと かんがえた。
えん うんどうは むげんの はんたい である。
むげんは あぺいろん、ἄπειρονと いわれる。

接頭辞 ἀ- (a-)「〜がない」と πεῖραρ (peirar)「紐、縄;(複数形で)終端、限界」とからなるギリシア語で、「限定されないもの」の意。アナクシマンドロスはアペイロンを諸物のアルケーであるとした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3

ぺいらーるは、 ひも、 おわり であり、 えん うんどうが その しょうちょう である。
らかんは えん うんどうが ゆうげんな ものの しょうちょうに なっていた りゆうを、 えん うんどうが あぺいろんという むげんに たどりつく ため であると いっている。
ここは ぎゃくせつ てき である。
ゆうげんの しょうちょう である えん うんどうは、 えん うんどうが むげんに たどりつく から であると いう からだ。

らかんは きゅうたいを てんにまで ちいさく する ことで、 むげんに する ことを かんがえている。
きゅうたいが てんに まで ちいさく なると、つまり そんざいしない ぐらい はばを もたない てん という すうがくの かんがえを ぜんていに すると、

なぜ むげんに なるの だろうか? わからない。

さらに、 きゅうたいは むげんの しょうちょう である。

パスカルは神を周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球 une sphère infinie dont le centre est partout, la circonférence nulle part に喩へて居る
https://ameblo.jp/kmomoji1010/entry-12078453623.html

140ぺーじ

とく

きゅうたいと えん うんどう という かたちが「特権的な徳」を もっている りゆうが もんだいに なる。
とくは、 あれてー (ἀρετή)である。
なんらかの いみで、すぐれている こと である(https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/virtue.html)。
それは、 のうりょくを はっきする こと である。

すうがくに おける ちょっかん

直感なのか、 直観なのか という もんだいが ある。
にほんごやくでは、 「直感」 と かいてある。
すうがくに おける ちょっかん と いえば、 ちょっかんしゅぎと けいしきしゅぎの たいりつが おもいだされる。
ちょっかんしゅぎでは、「オランダの位相幾何学者、ブラウワー」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E7%9A%84%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9)が ゆうめいである。
ちょっかんしゅぎに おいては、すうがくの きほんは、 ろんりでは なく、 じっさいに みつける ことに あると かんがえる ことだと かんがえられる。
かんたんに いえば、 そんざいしないと かんがえると むじゅんが おこる から そんざいする という ぎろんを やめて、 じっさいに このように そんざいのが わかった という ぎろんを する という ことだと おもう。

そして、 この ちょっかんしゅぎと、 きゅうたいが むげんを あらわし、 えん うんどうが ゆうげんを あらわすのは なぜか という はなしの つながりは わからない。

きゅうたいと しんあい

だじゃれが でてくる。
まず、 きゅうたい、すふぁいら、σφαῖρα(https://en.wiktionary.org/wiki/%CF%83%CF%86%CE%B1%E1%BF%96%CF%81%CE%B1)と しんあい、ふぃりあ、φιλία(https://en.wiktionary.org/wiki/%CF%86%CE%B9%CE%BB%CE%AF%CE%B1)の あいだの だじゃれ である。
にほんごで かくと わかりやすいが、すふぁいらと ふぃりあには、 ふぁぎょうの おと、 い という おと、らぎょうの おと、 あ という おとが おなじ である。
いやいや、 まってください。
にほんごなら らぎょうで おなじ でも、こだい ぎりしあごで ρ(ろー)と λ(らむだ)で ちがう ではないですか。
はい、 しかし、 こだい ぎりしあじん たちも この ふたつを きっちり わけて はつおん するのが にがて らしい。
https://youtu.be/uCiTp6ptBC4?t=469

つぎの だじゃれは、 あくまばらいを とかせる、でぜくそしるぜ(de-exorcicer?) と、 これらの しろん、 せ・ぜくぞるしす(ces exercises)の あいだの だじゃれ である。

このような だじゃれは げんごが ちがうと つうじない。
しかし、 むいしきの もんだい では、 だじゃれが もんだいに なる。

「球体の魅力」(140ぺーじ)
ふぃりあ、しんあいが はりつく という ひょうげんは、 りびどーが こちゃくする、fixer する という はなしを かんがえている のだろう。

「交韻」

2種の韻を1行おきに交錯させる交韻rimes croisées(英詩では交互韻cross rimes)
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%A4%E9%9F%BB-1312694

「まるで交韻のように」と ある から、 こだい ぎりしあご で よまない と わからない。

せいぶつと きょうたい

ぷらとんが かいた きょうえんの ありすとふぁねすの きゅうたいには、 とびでている ぶぶんが ある。
ぷらとんの 『てぃまいおす』の きゅうたいでは、 とびでている ぶぶんが なく、 すべてが うちがわに はいっている。
きゅうたいは 「それ自体を愛しています」(140ぺーじ)。
じたいあいの ことを かんがえているの かもしれない。
そして、 きゅうたいが いきもの である という はなしを、 「まったく厳密な意味で想像的に判読しなくてはならない」と らかんは いう。
かたちと そうぞうと りそうが もんだいに なっている。

ありすとふぁねす

きゅうたいは じぶんに むかって うごく だけ である。
しかし、ろくほうこうに うごく。
どっちやねーん。
という はなしだと おもう。
ちゃんと あいに ついて かたれる ものが おどける。
プラトンは、アリストファネスの演説の中で、世界や、世界の魂についての自身の考え方をもとに喜劇的な詩論を行って面白がっているように見えるのです。」(140ぺーじ)
きげきは、 むいしきの けいせいぶつの せみねーるで でてくる。

141ぺーじ

きゅうたいの ちょうろう

きゅうたいを あざけわらう。
てぃまいおすの かんぜんな きゅうたいを かんがえる。
きょうえんの ありすとふぁねすは、この かんぜんな きゅうたいを ばかにする。
けっきょく とびてている ところが あると いって ばかに するのだ。

ありすとふぁねすの てんたい

ありすとふぁねすの あいの はなしは、 てんたいの はなしと かんけいしている。
ありすとふぁねすは、 あいとは ひとつの ものが ふたりに わかれた あとに、 ひとつの ものに もどろうと する こと である。
ありすとふぁねすは みっつの ばあいを かんがえる。
おとこと おんなである きゅうたい。
おとこと おとこである きゅうたい。
おんなと おんなである きょうたい。
そして、 ここで、
おとこと おとこの きゅうたいの ゆらいが たいようであり、
おんなと おんなの きゅうたいの ゆらいが ちきゅうであり、
あんどろぎゅろす、りょうせいぐゆうの きゅうたいの ゆらいが つきである。
ちなみに、 ありすとふぁねすは、 「今日男女二種類であるのと違って、第三のものがさらに加わったいた。」(ぷらとん、たなか・みちたろうやく、『筑摩世界文学大系3、プラトン』113ぺーじ)
この はなしを じょいすの ゆりしーずの さいごの しょう、 18しょう 「ペネロペイア」の はなし むすびつけている ぶんしょうを みた ことが ある。
ゆりしーずでは、 おとこが おんなみたいに なる ときに、 つきの ひかりが でてくる。

そこで男性のなかでも、そのむかし男女〔るび:おめ〕と呼ばれていた両性の者の片割れである男性は女好きで、姦夫〔るび:かんぷ〕の大部分はこの部類から生まれたものである。また逆に女性のほうでもこの男女〔るび:おめ〕の片割れの女は男好きで、姦婦はこの部類から生まれたのだ。
ぷらとん、たなか・みちたろうやく、『筑摩世界文学大系3、プラトン』115ぺーじ

「不貞と混性的起源を持つことは別のことではない」(141ぺーじ)
こんせいてき きげんの げんごを しりたい。


きゅうの かたち

「球形とは、触れるべからざる、異議を挟むべからざる形であって、」(141ぺーじ)
ふれるべからざる わ わからない。
touchable に ひはん できる、 しゅうせい できる という いみ が ある。
non contestable かもしれない。
うたがえない ほど すごい という いみ だろう。

「あらゆる作用の外、あらゆる外的推力の外では、物体は停止し続けるか、あるいは等速直線運動をし続ける」(141ぺーじ) と わ、 かんがえなかった。
がいてき すいりょくは、 poussée extérieure かと おもわれる。
うんどうの だいいち ほうそく

「すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%8B%95%E3%81%AE%E7%AC%AC1%E6%B3%95%E5%89%87

「〔当時〕停止している物体は、停止以外では、円運動しかできないと想定されており」(141ぺーじ)
ていし している ぶったい という ひょうげん の ふらんすご お しりたい。
ていし している と わ、 にほんごでは、うごいていない という いみ だろう。
ちから が くわえられていない こと お いみ しない。
ふらんすごの arrêter も そんな いみだと おもう(https://www.cnrtl.fr/definition/arr%C3%AAt%C3%A9)。

そのころまで支配的であったアリストテレスの考えによれば、地球の中心に向かう 落下運動以外は自然な運動ではなく、従って、強制された(forced)運動ででなければ ならない。すなわち、(強制)力を受けているはずなのである。
http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~teiji.kunihiro/kuni/misc/jyussyu.html

実は、厳密に言うと「慣性の法則」の定式化においてもガリレオは誤っていた。 実際、彼は力が働いていないとき物体が続ける運動は「等速円運動」であるとした。 すなわち、同じ速さで同一円周上を動く運動である。これは間違いである。 正しくはニュートンの言うように、力を受けていないとき物体が続ける運動は 「等速直線運動」である。 力を受けないとき速度が一定になるというのが正しい。等速円運動では速さは一定だ が、方向が刻々と変わっている。 方向が変われば速度も変わるので力が働いている はずである。
http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~teiji.kunihiro/kuni/misc/jyussyu.html

等速直線運動は無限宇宙では続けさせることができるが、有限宇宙ではいつか「端」 に当たるので難しい。等速円運動ならば、有限の宇宙内でもいつまでも続けさせる ことができる。
http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~teiji.kunihiro/kuni/misc/jyussyu.html

「何もはみ出すことがなく、何も引っ掛かりがないこれらの形における肝心な点は、想像的構造にその基礎を持っているということではないでしょうか。しかし、この形への執着に伴う情動的な部分は何に由来するのでしょうか――それは去勢の「Verwerfung 排除」にほかなりません。」(141ぺーじ)
きゅうたいは そうぞうてきなものに かかわる。
きゅうたいに しゅうちゃくする という かんじょうは、 きょせいの はいじょから でてくる。
きょせいは、 かけている という こと である。
きょせいの はいじょとは、 かけている という ことを かんがえもしない こと である。
はいじょ という ことばは、せいしんびょうの ありかたと かんがえられている。
はいじょとは、 ふらんすごで forclusion である。
らかんは はいじょの せいしんびょう、 よくあつの しんけいしょう、 ひにんの とうさくと わける。
はいじょは しょうちょうてきなものに はいっていない ことである。
しょうちょうてきなものの まえの そうぞうてきなものの だんかいに ある こと である。

142ぺーじ

ありすとふぁねすの そうぞうてきなもの

半分に切られた梨のようにふたつに割れたこの存在たちは、いつとも言えないある時点x――というのもそれは神話的時間のことだからです――において再結合しようという虚しい抱擁の内に死ぬだろうと言うのです。この片割れたちは、地上で子供作りしようとして虚しい努力に終わるよう定められています。
(142ぺーじ)

「半分に切られた梨のようにふたつに割れたこの存在たち」
ふらんすごで ”couper la poire en deux”(なしを はんぶんに きる)は、 そんも とくも せっぱんする、 だきょうする という いみである。

Cette expression est apparue au cours des années 1880 dans le domaine littéraire et repose sur l'image d'une poire que l'on coupe en deux de manière égale pour un partage équitable entre deux personnes.
この ひょうげんは せいれき 1880ねんだいに ぶんがくで あらわれた。 ふたりの ものの あいだで とうぶんする ために にとうぶんした なしの いめーじに よっている。
http://www.linternaute.fr/expression/langue-francaise/19938/couper-la-poire-en-deux/

だきょうの さんぶつ としての にんげん という はなし。

ぷらとんの はなし

「こう言ってゼウスは人間どもを二つに切っていった。まるでななかまど〔「ななかまど」を きょうちょうしている〕の実を切って貯蔵しようとする人々や(ゆで)卵を髪で切る人々がするように。」
『ぷらとん』114ぺーじ

なしあか(ナシ亜科)、りんごあかは、 「リンゴ、ナシ、ビワ、ナナカマドなどを含んでいた。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B7%E4%BA%9C%E7%A7%91
こだいぎりしあじんたちは ゆでたまごを かみのけで きるのだろうか。
さらに、 こだいぎりしあじんたちは、ななかまどを きって ためるの だろうか。

「いつとも言えないある時点x――というのもそれは神話的時間のことだからです」
しんわは、 いまを せつめいする ための むかしの はなし である。
その むかしは いまを せつめいする ため だけの じかん なので、 いつかは わからないのだ。
ぷらとんも 「まことにそんなわけで、このような大昔から」(『ぷらとん』115ぺーじ)と かいている。

「虚しい抱擁の内に死ぬ」

「そこで本来の姿が二つに断ち切られたので、皆それぞれ自身の半身を求めていっしょになった。そして互いに相手をかいいだきまつわりあって一身同体になろうと熱望し、お互いに離れては何一つしようという気がないから、飢〔るび:うえ〕のためや総じて何もしないでいるために死んでいった。そしてどれか一方の半身が死に、その相手が残されると、残された者はまた別のものを探してまつわりついた。その出会う相手が、かつて完全であったときの女性(女女)の半身――これが、今日ぼくらが女性と呼んでいるものであるが――であろうと、また男性の半身であろうと、それにはおかまいなしに。……このようにして彼らは滅〔るび:ほろ〕んでいったのだ。」
『ぷらとん』114ぺーじ

「かいいだきまつわ」る というのは、 どういう たんごか わからない。
かう、 いだく、 まつわる という たんごを あわせた もの だろう。
「かう」は たがいに という いみ である。
「いだく」は だきよせる という いみ である。
「まつわる」は まつわりつく という いみ である。

「地上で子供作りしようとして虚しい努力に終わるよう定められています。」

「ゼウスは人間どもの隠所を今日あるように前面に移し、それによって互いに相手の体内で、つまり男性によって女性の体内で生殖を行わせた。この場合ゼウスの狙〔るび:ねら〕ったものは何かと言えば、彼らがまつわり合う際に、もし男性が女性に会ったのであれば、その者たちは子を生んで人間の種族は次々と作り出されていくし、またよしんば男性同士が会ったのであっても、ともかくいっしょになったことからする充足感だけは生じ、そこで彼らはそれを中休みしていろいろな仕事に向かい、それ以外の暮しに気を配るようになる、ということにあった。」
『ぷらとん』114-115ぺーじ

もんだいの かいけつ

「不都合な箇所に付いている彼らの生殖器が取り外されます。というのも彼らが丸かった時に生殖器があったところ、外側に生殖器が付いているからです。」
142ぺーじ

ありすとふぁねるの もんだいの かいけつは、 はんすしょうねんに よる もんだいの かいけつと おなじ であると らかんは いっている。
はんすしょうねんは、 ふろいとが せいれき 1909ねんに 『しょうれい はんす』で ほうこくした うま きょうふしょうの おとこのこ である。
はんすは ちちおやに いった はなしを ふろいとが かいている。

「配管工がやってきて、ペンチで僕のお尻を取り外して、別のお尻をくれたんだ。そしてそのあとはおちんちんだったの。配管工がお尻を見せてと言ったから僕は後ろ向きにならないといけなかった。そして彼はお尻を取り外したよ。そのあと彼はおちんちんを見せてと言った」。

([Ⅶ:333=10:126]、Freud, Sigmund (1999) Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, Frankfurt am Main: S. Fischer Verlag =(2006-) 『フロイト全集』岩波書店.)
https://conception-of-concepts.com/philosophy/freud/reconstruction-of-freuds-theory/chapter4/

そして、 ありすとふぁねすの はなしは つぎの ような はなし である。

「そこでアポロンは顔を向け換え、またきんちゃく〔「きんちゃく」を きょうちょうしている〕のように、彼は四方八方から今日のいわゆる腹部へと引っ張り寄せ」
「そこでゼウスは憐れに思って、もう一つの案を考え出し、彼らの隠所〔るび:かくしどころ〕を前に移した。それまではそれは外側にあって、子を生むにも彼らは互いに相手の体内に産み付けるのではなく、蝉〔るび:せみ〕のように地中にしていたからだ。こういうわけで、ゼウスは人間どもの隠所を今日あるように前面に移し、それによって互いに相手の体内で、つまり男性によって女性の体内で生殖を行わせた。」
『ぷらとん』114ぺーじ


「〔ハンス少年の〕蛇口の夢」(142ぺーじ)は なんのはなしか わかっていない。うえの はなし かもしれない。
le robinetは すいどうなどの せん(栓)、 こっく、 じゃぐち という いみだけではなく、 こどもの おちんちん、ぺにす という いみも ある。
生殖器は腹に取り付けられる」(142ぺーじ)と らかんは いっているが、 「はら」は どこから どこまで なのだろうか。
にほんごで 「はら」と いったら、 せいしょくきが ついている ところは ふくまれない きがする。
bas ventre で、 したばら、いんぶ という いみが ある。

せいき

「愛の慰みの可能性を求めるなら、少なくとも、主体に対して、生殖器を動かす手術をするということにどうしても関わってしまうのです。」
142ぺーじ

この ことを らかんは 「プラトンの筆の下にあて唯一かつ驚くべきところです」(142ぺーじ)と いっている。
おどろく ことは だいじな ことと かんがえられている。
生殖器を前面に移動するということ」(142ぺーじ)が もんだいに なっている。
きょせい こんぷれっくすとの かんけいは びみょうである。(「このことを去勢コンプレックスの項目に入れようと入れまいと」(142ぺーじ))

「その言わんとするところは、単に性器が、愛されている対象との結合や交接可能性としてそこに来るだけではなく、文字通り、性器がその対象と二重写し〔るび:スュプランプレシオン〕の、ほとんど付加税〔るび:スュランポジシオン〕とも言える関係にあるということです。」
142ぺーじ

la surimpression おーばーらっぷ、かさねうつし
la surimposition ふかぜい(付加税)、じゅうかぜい(重課税)、 (surimposer ふかぜいを かする)

たいしょうと むすびつく ための ばいかい ではなく、 たいしょうと かさねあわさる いちぶぶんと かんがえられている。
からだの なかに たがいに あわせる せいき という かんがえかた である。

ひげき

プラトンによる悲劇の感取は――それについてはいくらでも証拠がありますが――ソクラテスのそれとたいして変わらないということを考えると、愛という重大事項についての言説で、そこではじめて、ただ一度だけ、プラトンがその性器そのものを持ち出したということに驚かないわけにはいきません。」
142ぺーじ

ぷらとんも そくらてすも ひげきを ちゃんと かんがえていない という ことを かんがえているのかと おもう。
ちゃんと かんがえていないものでも、 あいの もんだいに おいて はじめて、 せいきの もんだいを はなしている から おどろくのであろう。
せいきは あいとは ちがい、じゅうだいじこう ではない という かんがえかたを ぜんていと している だろう。
しかし、 らかんは きげきの ほんしつを あいと かんがえ、 ひげきの ほんしつは なにと かんがえたの であった だろうか。 おそらく むいしきのけいせいぶつの せみねーる である。 または、 たいしょうかんけいの せみねーる。わすれてしまった。しらべる ひつようが ある。 要調査。

こだいぎりしあと ひげき。

ギリシア文学を代表する悲劇は、ディオニソス神の祭礼に奉納する競技として開始された新しいジャンルであるが、劇中の対話は、やはり韻律をもった詩から始まっている。また悲劇の素材は原則として神話からとられた。
これに対して喜劇は、いわゆる世話物で、日常生活や政治や事件や実在の人物が素材にされ、遠慮なく批判されたり、風刺されたりした。のちに喜劇も、ディオニソス神の祭礼に奉納する競技となったが、もともとは「茶番劇」や、風刺的な対話、ファルスなどの散文だったらしい。ギリシア喜劇はそれらを吸収した新しいジャンルである」
https://japan-e-knowledge.jp/contents/kidsknowledge/cgi-bin/nipo/nipo_detail.cgi?id=0012003300&page=1&pFrom=&yokogusi=&refhtml=&hist=106125,210009,107196,210009,102294,107196,210004,210003,107546,107196,100901,210004,101616,107196,210037,210112,107851,104415,108876,130152

「饗宴も終わりに近く、ぶどう酒に酔ったアリストファネスは居眠りを始める。その彼を前にしてソクラテスは次のように語る。悲劇と喜劇の違いは素材によるものではなくて、「術」によるものだ、と。これは、先に述べた、悲劇は神話、喜劇は世話物という「素材論」を真正面から否定する「方法論」である。」
https://japan-e-knowledge.jp/contents/kidsknowledge/cgi-bin/nipo/nipo_detail.cgi?id=0012003300&page=2&pFrom=&yokogusi=&refhtml=&hist=106125,210009,107196,210009,102294,107196,210004,210003,107546,107196,100901,210004,101616,107196,210037,210112,107851,104415,108876,130152

ぷらとんは ひげき さっかを めざしていた という でんせつも ある。(「彼は悲劇作家を志しており、「気鋭の悲劇作家を志してコンクールに作品を出展しようとしていた折、ディオニソス劇場の前でソクラテスの演説を聴いて作品を火にくべて哲学に転向した」」(https://ameblo.jp/55leoleo/entry-11621235878.html))
さらに、ぷらとんは ひげきを つくる しじんを ゆーとぴあから おいだす という はなしを している。

しかし、 ちゅういする べきは、 ぷらとんは、 きげきさっかの ありすとふぁねすに この ことを かたらせた という ことだ。
ひげきと あいの かんけいは かんがえる ひつようが ある。

そくらてすと ひげきに ついては、 つぎの ぶんを みつけた。

初期の著作『悲劇の誕生』に於いてソクラテスは、「アポロン的なもの」との融合によってギリシア悲劇を成り立たせていた「ディオニュソス的なもの」の原理を破壊した人物として描き出されていた。
E・R・ドッズ(東谷優希訳)「ソクラテス、カリクレス、ニーチェ
ぴーでぃーえふhttp://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/30319/gensha0001303390.pdf

ひげきの たんじょうは にーちぇの さくひんである。

きげきと あいと せいき

「この事実〔いんようしゃ ちゅう、ぷらとんが あいの はなしで せいきの はなしを している こと〕は、喜劇の源の本質と私が述べたものが、つねにその根底においてファルスに関わっているということを裏づけています。」
142ぺーじ

きげきの ほんしつ としての あい
あいは ふぁるすが かけていない こと。
ありすとふぁねすが きげきさっか だから こそ、 この はなしが できる。

143ぺーじ

かぎ

「しかしプラトンは、アリストファネスに語らせながら、ここにいる我われにその先の言説の筋道をすっかり反対側に傾かせる鉤をもたらしてしまったことを知りません。」
143ぺーじ

かぎ、鉤、ふっくは ふらんすごで le crochet である。
かぎがたの ほうこうてんかん、うかい、きゅうな まがりかど という いみも ある。

ひづけ

せいれき 1960ねん 12がつ 21にちの こうぎの きろく である。
さむそう。

しょひょう。へれん・えむ・がんたー『きょういくの りーだーしっぷと はんな・あーれんと』

つぎの ほんについての しょひょうを かきました。(せいれき 2021ねん 2がつ 25にち)
(せいれき 2021ねん 3がつ 7にちに 「いきるに あたいする、しない という ことば に ついて」を さいごに かきたしました。)

へれん・えむ・がんたー(すえまつ・ひろき、いざわ・しげき、はしもと・のりゆき やく)『きょういくの りーだーしっぷと はんな・あーれんと』、しゅんぷーしゃ、せいれき2020ねん

ヘレン・M・ガンター(著)末松裕基、生澤繁樹、橋本憲幸(訳)、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、西暦2020年、春風社

http://www.shumpu.com/portfolio/790/


はやかわ・こう(早川・公)@hayakawa_ko さんから #献本ギフトエコノミー (けんぽん・ぎふと・えこのみー)で いただきました。
はやかわ・こう さんは、まちづくりや ちいき・しこう・きょういくについて けんきゅうしている かた です。くわしくは、 つぎの さいとを みてください。
https://researchmap.jp/hayakawako

けんぽん・ぎふと・えこのみーは、 はやかわ・こう さんが かんがえた とりくみ です。けんぽん された ほんを がくせいや わかて けんきゅうしゃに ただで あげる という とりくみ です。くわしくは、 つぎの さいとを みてください。
https://mainichi.jp/articles/20210201/k00/00m/040/102000c.amp?__twitter_impression=true

それでは、 しょひょうを かきます。しかし、 じぶんは、 きょういくがくの せんもんかでは ありません。また、じぶんは、あーれんとの せんもんかでも ありません。なので、まちがっている かのうせいが たかい です。なので、 よむ ばあいは ちゅういしてください。

また、しょひょうの したに、 かんそうも かいたので、 ぜひ よんでください。

しょひょう

きょういくで ぜんたいしゅぎが しはいする
くにをこえての おかねもうけに。

いんぐらんどの きょういくという ぶんやで、ぜんたいしゅぎてきな ありかたが ひろまっている。ちょしゃの がんたーは そう きびしく してきする。
がんたーは、はんな・あーれんとの かんがえを つかい、 きょういくにおいて りーだーしっぷを きょうちょうする さいきんの えいごけんでの せいじの うごきを ひなんする。

はんな・あーれん(せいれき 1906ねん から 1975ねん)は、どいつ しゅしんで、 あめりかがっしゅうこくで かつやくした せいじしそうか である。
あーれんとは、つぎのように かんがえる。 おもに どいつの なち たいせい(せいれき 1933ねん から 1945ねん)と、 そびえと・れんぽうの すたーりん たいせい(せいれき 1924ねん から 1953ねん)は、 ぜんたいしゅぎ だった。あーれんとは ぜんたいしゅぎの とくちょうを、はなしあいによる せいじが なくなる ことに あると かんがえた。ぜんたいしゅぎでは、 りふじんな りゆうで しょけいされる。 そのため、きょうふにより はなしあいが できなくなる。そして、うえの けっていに したがう だけになるのだ。この ぜんたいしゅぎが できた りゆうの ひとつは、 しほんしゅぎの かねもうけの かんがえかたである。だいじなことは、 はなしあうこと ではなく、いきのびて、 なにかを つくること だけである という かねもうけの かんがえかたが、 ぜんたいしゅぎに つながったのである。 そして、あーれんとは、はなしあいで びょうどつに ともに いきることを きめることを もとめた。

がんたーは、この ような ぎろんを つかう。 さいきんの いぎりすの いんぐらんどだけではない、きょういくを かねもうけの ために つかう くにを こえた ながれを ぶんせきする。
がんたーは、 このような ながれを、 しんじゆうしゅぎと しんほしゅしゅぎとして せつめいする。
しんじゆうしゅぎ(新自由主義、ねおりべ)とは、くにが とりくんでいた みんなの ための きょういくや ふくしを かねもうけの ために じゆうに つかえるべきだ という かんがえである。そして、しんほしゅしゅぎ(新保守主義)とは、くには できるだけ おかねを つかわず、 せんそうを したがる かんがえである。
この ながれでは、 おしえる ものも おしえられる ものも、 はなしあいが できない。 おしえる ものは、 ただ うえの きめた ことを くばる だけに なっている。
そして、がんたーは もとめる。「ぎろんせよ」(がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、270ぺーじ)。

この ほんの とくちょうを みっつ あげる。
ひとつめは、 がんたーの するどく、 ただしい もんだい いしき である。 きょういくに おいて だいじな ことは、 きょういくを うける ものが、 かんがえられるように なる ということだと かんがえられる。しかし、 てすとで わかる せいせき だけが たいせつだと おもい、 うえの きめたことに したがい、 はなしあわない という じょうきょうが ある。 この じょうきょうは、 きょういくが うまく できないだけではなく、 わるい のだ。この わるさを がんたーは うまく ひょうげんしている。

ふたつめは、こんきょの おおさである。 かず おおくの けんきゅうを さんこうとして かいている ので、けんきゅうの しゅっぱつてん としては、 とても べんりな ほんであると おもう。がんたーは これでもか という ぐらいに、 さまざまな けんきゅうについて かいている。そのため、たしかな こんきょが あると わかる せっとくてきな ぶんしょうに なっている。

みっつめは、 ほんやくしゃたちが かなり ちからを いれて やくしている ことである。まず、 ほんやくしゃたちの つけた ちゅうが じゅうじつしている。さらに、 さんこうぶんけんや さくいんが しっかりと つくられている。 そして、 きわめつけは、 もじとしてのかんじを つかった ことばの ふりがなとして、 にほんごにも なっている えいごからの かたかなごを かいている ところが すばらしい。 いじでも、 どくしゃが わからないかもしれない かたかなごは はんぶんとして つかわない という しゅうねんを かんじた。 たとえば、85ぺーじや 228ぺーじは、 かなり くふうした やくを つくったのだ ということが わかりやすいだろう。ぜひ、じぶんで かくにんしてほしい。

けってんを あげると すれば、ふたつ だけ ある。ひとつめは、 ふぇみにずむの さくひんと くらべれば、せいべつの はなしが やや つけたしに なってしまっている ことである。せいべつは だいじな もんだいとして かんがえられているのだが、 さまざまな もんだいの ぐたいれいの ひとつとして あつかわれている。
もうひとつは、がんたーの あーれんとの よみかたが ぶれている ところである。 また、あーれんとの しゅっせい(出生)という ことばが、 のうりょくとして かんがえられてしまっている。このてんについては、あおき・たかし(takaschi aoky)の、アーレント謎の概念"natality"=「出生」?:最近公刊のアーレント本も含めて整理する&「反出生主義」との関連は?NO.1|takaschi aoky|note]https://note.com/taoki0046/n/n794cec9ca897をよんでほしい。

ともかく、かなり おもしろい ほんである。そして、 はんな・あーれんとの きほんを おさえられる ほんである。きょういくの せいどについて かんがえる しゅっぱつてん となる ほんである。そして なにより、 ぎろんの きっかけになる ほんである。 よい せかいを。そして、 よい ほろびを。

さいとう・まの

かんそう

いじょうが しょひょうである。
ここからは、 くよう(供養)を する。 くよう とは、 もともと しんだ ひとを おもう ぎしきである。 しかし、 そこから いいたい ことは あるが、 じぶんが いきのこる ためには つかえない ことを かく ことも いみする。
しょひょうに かくには ながすぎる ことや、 こまかい ぶぶん、 じぶんの いけんなどを かいていく。

きっかけ

まず、この ほんに たどりついた ながれを かこう。

あるときだった。 たまたま、 ついったーを みていたら、こんかい、 ほんを くれた はやかわ さんの ついーとを よんだ。 なんと、 ほんを くれる というのでは ないか。 しらべてみると、 どうやら うそでは ない らしい。ほんの いちらんから、 この がんたーの ほんを みつけた。 じぶんが すきな ばとらー という ふぇみにすとが、 さいきん あーれんとについて よく かいている。 なので、 あーれんとに ついては いろんな ところで よんでいた。 だから きになった というのが さいしょの きっかけである。

つぎに、 きょういく、 おしえる ことが じぶんにとって かだいになっていた。
ところで、じぶんは さべつに はんたいする。 だから、 がくれき さべつと じょうほうの さべつを くりかえす、 もじとしてのかんじは できるだけ つかわない。もじとしてのかんじは じかんと どりょくを かけられる ものたち にしか つかえない どうぐである。よめない ことばで かいて、よめない ものを はいじょして、 よめないと いきのびれないようにする しゃかいは おことわりだ。
そして、 このまえ おなじく さべつを はんたいする しりあいと はなしていて、 きょういくの はなしが でてきた。じぶんも その しりあいも、 きょういくで さべつが なくなるとは おもってなかった。 きょういくを うけてきた ものたちが さべつを つよめる ことを しっていたた からだ。きょういくを うけてきた もの こそが さべつを つよめる ことも しっていた からだ。 「しかし、 」と その しりあいは いう。「おしえる という ことも むしできない」。そのとおりだと おもった。 では、 きょういく という のは、 どのように あるべき なのか? おしえる という こと そのものが、 さべつ てきで わるい かのうせいも あるのに、 どうすれば いいのか? そのような ぎもんについて はなしあった。 とくに こたえは でないが、 そのことが あってから、 きょういくに きょうみを もった。 この きょういくへの きょうみが きっかけの ふたつめ である。

そして、 さいごの きっかけは、 もくじを よんだ ことである。 もくじには、 さいしゅうしょうである ろくしょうに 「じぇんだーの かだい」という ぶぶんが あることを しった。 じぶんにとって、 せいべつは もんだいである。 せいべつによる さべつを なくす ことが、 おおきな だいじな かだいだからだ。じぶんは はやかわさんに れんらくを することに きめた。

じっさいは、 せいべつの はなしは、 がんたーにとって おもったより だいじでは なかった。 がんたー じしんは かなり だいじだと かんがえているが、ほんぜんたいの ながれから ういてしまっている。もしかしたら、 まちがって よんでいる かもしれないが、 そう おもった。もちろん、 がんたー じしんは、 つけたしとして せいべつに ついて かたることを ひはんしている。 かなりの りょうの せいべつに ついての けんきゅうを している。さらに、 おそらく ふぇみにすと なのだろう。しかし、この ほんでは せいべつを うまく とりあつかえてないと おもう。
おもえば、 じぇんだー という かだい という ぶぶんが ある のだから、 ほかの ぶぶんでは あまり せいべつの はなしが できていない という ことが わかる。じぶんは、 がんたーは、すべての しょうで、 せいべつに ついて かく ことが できたと おもう。それを やらなかったのは、がんたーの せきにんなのか、 しゅっぱん ぎょうかいの せきにん なのか、 けんきゅう ぎょうかいの せきにん なのか わからない。なんしー・ふれーざー、じゅでぃす・ばとらー、がやとり・ちゃくらゔぉるてぃ・すぴゔぁく などの ふぇみにすとたちが とうぜん ふれられている ので、 さいあくではない、 とかいておく。

ここまで ろこつに かいた りゆうが もちろん ある。せいれき 2021ねんの 2がつに もり・よしろう という せいじかが、せいさべつを した。もりは、おりんぴっく・ぱらりんぴっくという かねもうけの ための わるい まつりの にほんの だいひょうだった。この はなしは ふぇみにすとの あつまり いがいでも はなされる ことが おおかった。 じぶんが あるとき、 ある ほんの いべんとに さんかした。 ろくにんの ほんやくしゃの うち、 ぜんいんが おとこ として かんがえられていた。 もちろん、 ほんにん たちに せいべつを きいた わけではないので、 せいべつは わからない。しかし、 あきらかに おとこ いがいを はいじょしている ばしょを つくりあげていた。 さらに、 そのなかの ひとりが もりの はつげんを ひはんした。 そのことは とても いいことである。 しかし、 じぶんたちが もりと おなじ ような ことを していることには きがついていないのだ。 もちろん、 かんそうで おこっておいたので、 なんらかの とりくみが されることを きたいしている。 このような じょうきょうで、 せいべつの はなしで ひきさがっては いけないのだ。

せいべつ

せいべつ について ひきさがらない ならば、 にほんごの ほんやく について、 ふたつの ことを かかなくては いけない。
ひとつは、 ある こうちょうの いんたびゅーの やくしかた である。

「私はいま、非常によいものだと思ってそうしたネットワークの一員となっています。……私ってカリスマ的なリーダーなのかしら。 (Gunter 2008: 頁数なし)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、163ぺーじ

「かしら」という いいかたは、 いろいろな じょうきょうに ある。いっぽうで、 ある ちいきの ある しゃかい かいきゅうに おいては、 おんなの やくわりごである。 たほうど、 ほかの ちいきや ほかの しゃかい かいきゅうに おいては、 せいべつに かかわらず つかわれる。「かしら」という いいかたを おんなの いいかた として だけ とらえるのは まちがっている。

しかし、 がんたーの この ほんを ほんやくした さんにん、 すえまつ・ひろき、いざわ・しげき、はしもと・のりゆきは、 いしきして、 このように やくしたの だろうか? この いんようでは けいごで はなしているのに、 さいごだけ 「かしら」と やくしている ことから、くだけた いいかたに なったのだと わかる。それならば、「わたしって かりすまてき りーだー?」でも よかった かもしれない。はなしている ものが、おんなだから 「かしら」という かたりかたに むいしきの うちに してしまった という かのうせいを ひていしきれない。


もうひとつは、 この ほんだけではないが、「かのじょ」と、 「かれ」 という だいめいしで にほんごに ほんやくする ことである。 えいごなどの いんど・よっーろっぱごぞくは、 ことばの なかで、 せいべつを あらわさないと いけない という せいさべつてきな でんとうが ある。じょせいさべつも かかわっている。 しかし、それいじょうに、 えっくすじぇんだー、のんばいなりー、「 おんなではない おとこ」か 「おとこではない おんな」の ふたついがいの せいべつの ものを はいじょしている という いみで せいさべつてき である。
それにたいして、 にほんごは、 したいしい あいだがらでは、 せいべつによる やくわりごを つかわないと いけないという せいさべつてきな でんとうが ある。しかし、 にほんごでは せいべつを あらわさなくても ひょうげんできる でんとうが ある。 かれ、 かのじょ という せいべつに もとづいた ことばづかいは、 ほんやくと、 ほんやくに えいきょうされた がくれきが たかい ひとたちが つかっているに すぎない。もちろん、 それも にほんごの りっぱな わるい でんとうと なっている。
ほんやくや せいべつを ひょうげんしないと いけない ことばに なれていない ものにとって、 かれ、 かのじょという だいめいしを つかうのは、 おおくの ばあい ひつようではない。 しゅごを しょうりゃくするか、 なまえを くりかえすが、 そのひとや あのひとなどの しじごを つかえば いいのである。それにも かかわらず、 「かのじょ」や 「かれ」という ことばを つかいつづけるのは、 わるい。なにか つぐなえと いっているのではない、 やめてくださいと おねがいしているのだ。

ことばの つかいかた

さて、おもいでばなしが おわった ところで、 つぎの わだいに うつろう。がんたーは、ほかの ものたちと おなじくらい さべつてきで、 わるい ことばの つかいかたを する。もちろん、 ろこつな さべつしゅぎと くらべたら、 さべつてきではない。

しょくみんちか という ことばの つかいかた

たとえば、 がんたーは、「しょくみんちか」 という ことばを、 せんもんちしきに ついて つかっている。

「TLP(国境を越えたリーダーシップのパッケージ)を通じた専門的実践の植民地化がそうした状況〔いんようしゃ ちゅう、 ぜんたいしゅぎ が てんかい する じょうきょう〕を照らし出す格好の事例であることを私は示していくつもりである。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、108ぺーじ

「新労働党がTLP〔いんようしゃ ちゅう、 くに お こえた りーだーしっぷ の しょうひん ばっけーじ(Transnatinal Leadership Package) の りゃく。てぃーえるぴー〕によってスクールリーダーシップを植民地化したことを合理的で安定した試みだと特徴づけるのは、非常に安易な捉え方である。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、145ぺーじ

ほかにも、 236ぺーじにも 「植民地化された専門的実践」という ことばが ある。

このように、 がんたー わ、 ひゆ として しょくみんちか とゆー ことば お つかう。しかし、 がんたーは、 だいろくしょうで じっさいの しょくみんちしゅぎ についても かいている。あーれんとの、 せいようが しょくみんちで おこした ことは、 せいようの うちがわで おこるようになる という ぶーめらん・こうかの はなしを する からだ。この ぶーめらん・こうかは けいかいするべき こととして かかれている。つまり、 じっさいに おきるか わからないけれど、 けいかいしておく べきだと がんだーは のべている。この いけんには さんせいする。しかし、 ひゆとして しょくみんちか という ことばが つかわれる ことと あわさって、しょくみんちかの ぼうりょくが すりかえられてしまう。しょくみんちかは、 せんもんちしきを もつ しゅうだんを せんもんしょくから おいだす ぼうりょくとは まったく ちがう。それぞれ、 べつの ことばで あらわす べき ものである。

ひゆを つかうことの もんだい

ことなる さべつを ひゆとして つかうことの もんだいてんを あきらかにした ぶんしょうとして、きゃろる・じぇい・あだむずの 「にくしょく という せいの せいじがく、ふぇみにずむ・べじたりあにずむ ひひょう」(つるた・しずか やく)という ほんを しょうかいする。(キャロル・J.アダムズ(鶴田静 訳)『肉食という性の政治学フェミニズム-ベジタリアニズム批評』、西暦1994ねん、 新宿書房肉食という性の政治学
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/html/mybooks/ISBN4-88008-194-9.html

あだむずは、どうぶつが いなかった ことに させられる みっつの やりかたに ついて かいている(45ぺーじ、にほんごやくでは、「不在の指示対象」(ふざいの しじたいしょう)という ことばが つかわれている)。ひとつめは、 どうぶつを ころし、 その どうぶつの したい(死体)を たべることで、 どうぶつを しんだ にくに して、 いなかった ことに する やりかた である。 ふたつめは、 どうぶつの したい(死体)を、 にくと いうことで、 どうぶつが いなかった ことに する やりかた である。 さいごの みっつめは、 にんげんの たいけんを かたるために、 どうぶつを ひゆとして つかう ことで、 どうぶつが いなかった ことに する やりかた である。

ひゆとして いなかった ことに される というのは どういうことか。 それは、 じょせいが れいぷされる ことを にくとして あつかわれる ようだと ひょうげんする ことによって、 どうぶつが にくに されて ころされている ことを ひなんしない のである。 おんなは にんげんいがいの どうぶつではない のに、 ころされる べき どつぶつと おなじように あつかわれている という しゅちょうに なってしまう。 これは、 わるい。どうぶつも くるしめたり ころしては いけないのだ。ふぇみにすととして、 びーがんに ならなければ ならない。ぴーがんとして ふぇみにすとに ならなければ ならない。そして、 ふぇみにすとで びーがんに ならないと いけない。ころすな。 くるしめるな。

しょくみんちか とは なにか

はなしを しょくみんちかに もどそう。にほんごで かく いじょう、だいにほんていこくの しょくみんちかと、 にほんこくの しょくみんちかの はなしを かく べきである。いかに ならべて かく。
あいぬが すむ ほっかいどうの しょくみんちか、
りゅうきゅう(いまの おきなわ)の しょみんちか、
たいわんの しょくみんちか、
まんしゅうの しょくみんちか、
からふとの しょくみんちか、
ちょうせんはんとうの しょくみんちか、
なんようしょとうの しょくみんちか、
ちゅうごく かくちの しょくみんちか、
ふぃりぴんの しょくみんちか、
べとなむの しょくみんちか、
らおすの しょくみんちか、
かんぼじあの しょくみんちか、
まれーしあの しょくみんちか、
しんがぽーるの しょくみんちか、
みゃんまーの しょくみんちか、
ぶるねいの しょくみんちか、
いんどねしあの しょくみんちか、
なうるの しょくみんちか、
いんどの あんだまん・にこばるしょとうの しょくみんちか、
おーすとらりあの くりすますとうの しょくみんちか、
ぱぷあ・にゅーぎにあの しょくみんちか、
ひがしてぃもーるの しょくみんちか、
そろもんしょとうの しょくみんちか、
あめりかがっしゅうこくの いちぶの しょくみんちか
などが おこなわれた。 きおくに よって かいたので、 まちがいが あるかもしれない。 してき してくれると、 うれしい。

しょくみんち しはいの もとで、つぎの ことが おこなわれた。
ぎゃくさつ(なんきん、かいなんとう、ふぃりぴんが ゆうめいである)、
れいぷ、せいどれいに する、
じんしゅさべつ、
きょうせいろうどう、
かいきゅうさべつ、
みんぞくさべつ、
しゅうきょうだんあつ、
ごうもん、
ひょうげんの じゆうの しんがい
ほかの くにの しょくみんちを みとめる
などが おこなわれた。



それでは、 つぎに にほんこくの しょくみんちかの じけんを ならべて かく。
てんのうせいを つづけ ようと する、
ちょうせん・せんそうを おこさせ(ただし、この せきにんは おおきく そびえとれんぼうと
あめりかがっしゅうこくに ある)、ちょうせん・せんそうで かねもうけを する
がいこくじんとうろくれいによる こくせき はくだつ、
おきなわと おがさわら しょとうと、 あまみしょとうを あめりかがっしゅうこくの ぐんたいに ひきわたした どくりつ、
おきなわに きちを おしつける、
べとなむせんそうに くわわる、
ちょうせんがっこうの だんあつ、
しょくみんち しはいを しらべない みとめない、あやまらない、
にほんぐん・「いあんふ」せいど という せいどれいせいを みとめない、 あやまらない、
ちょうろうこう などの きょうせい ろうどうを みとめない、 あやまらない、
あいぬの ほねを ぬすんだことを あやまらない にほんの だいがく、
などが おこなわれている。

これらの しょくみんちかは、 せんもんちしきが ひつような ものたちを せんもんしょくから おいだす ことと にていない。 おなじ ことばで あらわすには、 ちがいすぎる。

にんげん という ことばの つかいかた

さて、 つぎに 「にんげん」という ことばの つかいかたが さべつてきで わるい という ことを かこう。 これは、 がんたー だけの もんだいではない。 にほんごで せいようの ぶんかとして かかれる ぶんしょうの なかには、 かなりの ひんどで、 にんげんを よいことと むすびつける。もちろん、 にほんごで せいよう いがいの ぶんかについて かくときも、 おおい。 しかし、 すくなくとも、 ひにんげんか という ことばで わるいことを あらわすのは、 せいようの ぶんかとして かかれていると おもう。 ただし、 これは じぶんの けいけんから、 がくもんてき こんきょを かくにんせず かんがえた ことである。
もちろん、 にんげんらしいことを よいことだと かんがえることは、 わるい。にんげんは よいことも するし、 わるい ことも する。 にんげんを よいもの として かんがえる ことは、 にんげん いがいの どうぶつを おとしめ、 ころす ために つかわれてきた。にんげんとして あつかわない ことが わるい のではない。 くるしみを あたえることが わるいのだ。
さらに、 にんげんを よいことと かんがえる ことは、 わるい ことを したものを にんげんでは ないと かんがえることに つながる。 すると、 わるい ことを した りゆうは、 にんげんではなかったから、 または にんげんらしくなかった からだ、 と かんがえてしまう。 まちがっている。 まちがった あんしんを にんげんに あたえてしまう かんがえかたである。にんげんは、にんげんである から、 じぶんが わるいことを していない という まちがった あんしんを してしまう ことになる。さらには、 じぶんの やった わるいことを よいことだと おもいこむように なってしまう。そのように かんがえることは、わるいのだ。にんげんは わるいことも すれば、 よいことも する。
しゅさべつに はんたいする。 にんげん いがいの どうぶつを みくだすな。 にんげんを よいものと かんがえるな。ころすな。たべるな。

うえに かいた とおり、 この もんだいは、 がんたー だけの もんだいではない。 がんたーが さんこうにしている あーれんとも にんげんを よいものとして かんがえてしまっている からだ。

こども という ことばの つかいかた

つぎに、「こども」という ことばを きょういくを うけるもの という いみで つかってしまう ことの もんだいに ついて かこう。
きょういくは、 こども だけが うけるものではない。 こどもを さべつする げんざいの しゃかいじょうきょうを かえなければいけない。 こどもを みちびく たいしょうとして かんがえては いけない。 こどもを まだ みじゅくなもの、 ひくい もの、 じぶんの かことして かんがえてはいけない。たいとうに こどもを あつかい、 こどもへの さべつを やめる のだ。
この かんがえかたは、 あーれんとの きょういく ろんとは、 たいりつする ことになる。 あーれんとは、きょういくを せいじてきなものとは かんがえていないからだ。 こども ばかりが きょういくの たいしょうと なることから、 すでに きょういくは せいじてきである。しかし、 この あーれんと かいしゃくは、 がんたーの かいしゃくから かいしゃくした ものでしかない。まちがっている かのうせいが たかい。 こんごの かだいである。

やばん という ことばの つかいかた

ことばの つかいかた としては、 さいごに、 「やばん」(209ぺーじ) という ことばを とりあげよう。がんたーは、 わるいものを 「やばん」 と よんでしまっている。ただし、 でいゔぃっと・はーとりー という ものの、 ことばを ひはんせずに いんようしている だけでは ある。 しかし、 がんたーは ひはんしなければ いけなかった。

「分散型リーダーシップの活況によってその野蛮さが隠蔽されている」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、209ぺーじ

「やばん」という ことばは、 しょくみんちしゅぎの ことばである。 「やばん」は、 「ぶんめい」の はんたいの ことばとして つかわれる。 そして、 ぶんめいの ために、 やばんを なくして あげようと かんがえて、 しょくみんちしはいを おこなってきた。 たんに わるいと かくべき ときに、 「やばん」という ことばを つかうのは、 わるい。

あーれんとの よみかた

さて、ことばの もんだいの つぎは、 あーれんとの よみかたの もんだいに ついて かんがえよう。
しょひょうにも かいたが、 がんたーは あーれんとを すこし こんらんした かたちで よんでいる ように おもえる。しかし、 この もんだいは、 あーれんと けんきゅうしゃに よって ろんじられる ことも だいじである。 あーれんとを しっかり よんでいない じぶんが、 がんたーの よみかたを ひはんするのは、 もんだいが あると かんがえる ものも いる かもしれない。 しかし、 そのような ちしきを ひとりじめするような かんがえかたには はんたいする。 じぶんが まちがっているならば、 まちがっている てんを しめしてほしい。

せかいせい

まず、 はじめに、つぎの ことを してきする。がんたーは、かつどう(あくしょん)に、 せかいせい という とくちょうを わりあてる ような かきかたを している ところが ある。だいよんしょう、 「あーれんとを つかって いーえるえむえーに ついて しこうする、かつどうてき せい」の よっつめの ぶぶん、「<活動>」(かつどう)(164ぺーじ から)の なかで、 つぎの ように かいている。

「彼女〔いんようしゃ ちゅう、あーれんと〕にとって、政治とは、差異と類似がともに許され、それゆえにやり取りすることが許されるよつな、人と人との間に生じる空間に関わるものである。(Arendt 1958=1994)ボーリングが論じるように、それは「世界性」と言うべきものであり、その世界性において、人格を有した個人は、<活動>を通して世界を保護する。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、173ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)
Bowring, F. (2011)Hannah Arendt: A Critical Introduction. London: Pluto Press.

あーれんとの ぎろんを まとめる。 あーれんとは、 かつどうりょく、あくてぃびてぃーを みっつに わける。
(ただし、 かつどうりょく、あくてぃびてぃーは、 がんたーの にほんごやくでは、 「活動〔るびで、「アクティヴィティ」と かかれる〕」と やくされている。それなら、 あくしょんは、 こういと やくす べきだと おもう。じっさい、いっしょう、にしょう、さんしょうでは、 あくしょんを こういと やくしている。しかし、 にほんごで よむ ものが、 この こういという ことばを、 あーれんとの あくしょん、かつどうという ことばと おなじ たんごであると きがつくのは、 たいへんだろう。じぶんは、 この ぶんしょうを かく だんかいで きがついた。)
あーれんとは、 いきのびるための ろうどう、れいばーと、 ながく のこるものを つくる しごと、 わーくと、 じぶんが びょうどうに あつかわれる べき かけがいのない ものだと きがつく ための かつどう、あくしょん という みっつに わけるのだ。 じゅんばんに、 けいざい、 しゃかい、 せいじを いめーじすると いいかもしれない。 また、あおき・たかし(takaschi aoky)の、誕生肯定と反出生主義ーーソフォクレス・アーレント・アトウッド(NO.4)|takaschi aoky|note https://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708 を、 さんこうに かんがえると、つぎの ようにも いえるかもしれない。 ろうどうは、いっしゅうの えん、 しごとは、なんしゅうもの らせん、 かつどう(こうい、あくしょん)は、 せんに たいおうしている。これは、 さいとう・まのの かせつ である。しかし、せつめいを かくことが めんどうくさくなった。 もうしわけない。

ともかく、あーれんとは、 せいじに かかわる こうい、かつどう、あくしょんが いちばん だいじだと かんがえている。 きんだいは、 こうい、かつどう、あくしょんが だいじに かんがえられなくなったと あーれんとは かんがえる。つまり、 せいじが だいじに かんがえられなくなった という こと である。

そして、あーれんとは、ろうどう、しごと、こうい または かつどうと いう この みっつの くべつを それぞれ、せいめい それじたい、 せかいせい、ふくすうせいと むすびつけている。
がんたーの あーれんとの いんようを よんでみよう。

「〈労働〉という人間の条件は、生命それ自体である。
(Arendt 1958: 7=1994: 19)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、156ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)

「〈仕事〉という人間の条件は世界性である。
(Arendt 1958: 7=1994: 19-20)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、162ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)

「〈活動〉とは、事物や物質が介在することなく、人と人との間で直接的に発生する唯一の活動〔いんようしゃ ちゅう、るびに 「アクティヴィティ」と かいている〕であり、それは〈複数性〉という人間の条件すなわち一人の人間ではなく複数の人間が地球上に暮らし、世界に住まうという事実に対応している(Arendt 1958: 7=1994: 20)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、170ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)

このように、 がんたー じしんが、 せかいせいを ろうどうに むすびつけている ぶぶんを いんようしている。 にも かかわらず、ぼーりんぐを さんこうに して、 こうい、かつどう、あくしょんに せかいせいを むすびつけてしまうのである。ぼーりんぐに せきにんが ある のか、がんたーに せきにんが ある のか、 あーれんとに せきにんが ある のか、 わからない。しかし、 ながながと かいたが、 ぎろんに おおきな えいきょうは ない。まさに、 くよう!

しゅっせいせい

つぎの はなしは、 ぎろんに えいきょうする。 「しゅっせいせい」、 なたりてぃー という たんごに ついてである。 がんたーの ほんの にほんごやくでは、 「〈出生〉」(しゅっせい)と やくされている。といっても、 あーれんとを よんでいる ひとたちの あいたでも ぎろんが あるみたい なので、がんたーが ちがうとは いえない かもしれない。ここでは、 あおき・たかしの、アーレント謎の概念"natality"=「出生」?:最近公刊のアーレント本も含めて整理する&「反出生主義」との関連は?NO.2|takaschi aoky|note https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4?magazine_key=ma0c964aea0ac
に かいてある ぎろんに せっとくされた じぶん、 さいとう・まのの よみかたである。

まず、 がんたーは、 しゅっせいせいを なにかを はじめる のうりょくであると まとめている(170ぺーじ)。

「〈活動〉は〈出生〉、すなわち何か新しく自発的に事を起こすことができる終わりなき能力に基づいている。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、170ぺーじ

しかし、 この よみかたは、 あおき・たかしが、 とちゅにっぐ の ぎろんを つかって ひていしている。あーれんとは、 こうい、かつどう、あくしょんを する のうりょくは、そんざいろんてきに、 しゅっせいせいに ねざしている、と わざわざ かいている からだ。

まず、 がんたーも いんようしている あーれんとの ぶんしょうを まごびき する。

「世界すなわち公共的な事柄をその通常の「自然」破滅から救う奇跡は、究極的には〈出生〉という事実であり、〈活動〉の能力はこの〈出生〉という事実に存在論的に根ざしている。それは言い換えれば、新しい多数の人間の誕生とその新しい〈始まり〉である。生まれることによって彼らはそうした〈活動〉ができるようになる。
(Arendt 1958: 247=1994: 385-386)」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、170ぺーじ
Adrent, H. (1958)The Human Condition. Second edition. Chicago: The University of Chicago Press. (=1994, 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房.)

あおき・たかしが とちゅぐにっくに したがって、この なかの つぎの ぶぶんに ちゅういしている。つまり、 「〈活動〉の能力はこの〈出生〉という事実に存在論的に根ざしている」(かつどうの のうりょくは この しゅっせいという じじつに そんざいろんてきに ねざしている) という ぶぶん である。

「しかし、「始める能力」とは要するに「行為(と言論)をする能力」なわけですから、「始める能力は始める能力に根差している」と言っているのと変わらない、ということになります。これではこの一文が意味のない、空虚なものになってしまいます。」
takaschi aoky、アーレント謎の概念"natality"=「出生」?:最近公刊のアーレント本も含めて整理する&「反出生主義」との関連は?NO.2|takaschi aoky|notehttps://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4?magazine_key=ma0c964aea0ac%3Atitle

と まとめられている。

この ようにも いえる。 しゅっせいせいは、 じじつ である と あーれんとは いっている。 しゅっせいせいという じじつが ある から、 こうい(行為)、あくしょん、かつどうを できると いっている。 そのため、 しゅっせいせいは、 のうりょく、できる こと では ない のだ。

そして、 あおき・たかしは、 しゅっせいせい という ことばは、 ほかの ものと かえる ことが できない という いみで かけがえのない ものが、 かけがえのない もの である という いみでは おなじ である ほかの もの たちと いっしょに ある ことで、かけがえのない あたらしい ものがたりを つくる ことが できる ように、 ある ように させられた という ありかた であると いっている ように おもえる。 そして、(この ていぎは じぶん、さいとう・まのに よる まとめ である。 あおき・たかし(takaschi aoky)の https://note.com/taoki0046/n/n3a6254607b0a?magazine_key=ma0c964aea0acを みよ)。

そもそも、 そんざいろんてき という ことばには、 あるとは、つまり そんざいとは どのような ことかを りかいしている という せいしつという いみが ある。 そして、 そんざいろんてき という ことばは、 そんざいてき という ことばと くらべられる。 そんざいてき という ことばには、 どのように あるかに ついての せいしつという いみが ある。 これは、 はいでがー という どいつの てつがくしゃの 『存在と時間』だい 3せつから だい 5せつでの ことばの つかいかた である。 しかし、 あーれんとは はいでがーの おしえご だった という ことを かんがえれば、 あーれんとも はいでがーの ことを かんがえていた という ことは あきらかだ。


したがって、 そんざいろんの はなしを くわえると、 しゅっせいせいを つぎの ように せつめいできる かもしれない。まるかっこの なかに、 たいおうする あーれんとの ことばを かく。

しゅっせいせい とは、
ほかの ものと かえる ことが できない という いみで かけがえのない ものが、 (ふくすうせい、ゆにーく、ゆいいつむひ)
かけがえのない もの である という いみでは おなじ である ほかの もの たちと いっしょに ある ことで、(ふくすうせい、きょうせい(共生))
かけがえのない あたらしい ものがたりを つくる ことが できる ように、(はじまり、びおす、ものがたり)
ある ように させられた という(しゅっせいせい)
ありかた であり、(じじつ、そんざいろんてき)
また ある という ことは どのような ことか、 はっきりと した かたちで なくとも、 わかっている ので、 じぶんも ある ように させられたと わかりながら、 ある という ありかた である。(そんざいろんてき)
じぶん、さいとう・まのの まとめ

したがって、この ありかたに よって、 こうい(行為)、あくしょん、かつどうと はなしあいが できる ように なると いわれていると あーれんが いっていると よむ ことが できる。

この がんたーの あーれんと どっかいの ちがいが もっとも ぎろんに えいきょうするのは、 つぎの ぶぶん である。

「以上に紹介した四つの物語〔いんようしゃちゅう。るびで 「ストーリーズ」と かいてある〕に欠けているのは、〈出生〉の感覚、すなわち〈活動〉を起こすことによて何か新しいことを始めるという感覚である。」
がんたー、『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』、164ぺーじ

ここでは、 かけがえのなさ という もんだいや、 ほかの ものと いっしょに いきる という もんだいが じゅうぶんに しめされていない。 たんに あたらしい という こと だけが ちゅうい されてしまう。174ぺーじや 236ぺーじでも おなじ もんだいが おこる。あたらしさが もんだいに なる としても、 あたらしい ことを はじめる という ことが もんだい なのではない。 あたらしい ものが ある という ことが もんだい なのだ。

がんたーから あおき・たかしと あーれんとへ

さて、 がんたーの あーれんと どっかいに ついて かきおえた ところで、 あおき・たかしと あーれんとへの ひはんを かく ことに する。おもに、 はんしゅっせいしゅぎ から ひはんを おこなう。 はんしゅっせいしゅぎ(反出生主義)とは、 くるしみを かんじる かのうせいが ある ものを あらたに うまれさせる ことは わるい という かんがえかた である。あおき・たかし(takaschi aoky)は おもに、 https://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708で はんしゅっせいしゅぎ についても かいている。

あーれんとの にんげん

さて、 あおき・たかしの https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4を さんこうに すると、つぎのように いえる。あーれんとは、 にんげんのみが しゅっせいせい という いみで、 うまれると ぎろん している。そして、あおき・たかしは、 あーれんとが このように いっている りゆうは、 かけがえのない にんげんが いきる ことが こわされる かのうせいが あり、 こわされてきた ことも あるという かんがえかたに あると のべる。さらに、あーれんとが このように いっている もくてきは、 かけがえのない にんげんが いきる ことを こわさない ように きづかう ためであると いっている。。

しかし、 この ぎろんは、 「にんげん」という ことばを つかう りゆうには なっていない。 もし、 ことばを つかう もの という いみで、 にんげん という ことばを つかっている のならば、 ことばを つかわらない にんげんを むししている。とくに、 あらたに うまれてきた にんげんは すぐには ことばを つかわない ことを かんがえれば、 あきらかである。にんげん という いきものの ぶんるいを つかうのであれば、 なぜ その ぎろんが せいぶつの ぶんるいを つかう べきなのか しめさなけらば ならない。 そこに ちゃんとした りゆうが ない のならば、 ほんしつてきな りゆうが ない のならば、 たんに しゅさべつの でんとうに したがう という わるい ことを している ことに なる。 そして、 どうとくてきに よい という いみで にんげんという ことばを つかっている ならば、 「にんげん という ことばの つかいかた」に かいた ような もんだいが ある。 いんようしよう。

もちろん、 にんげんらしいことを よいことだと かんがえることは、 わるい。にんげんは よいことも するし、 わるい ことも する。 にんげんを よいもの として かんがえる ことは、 にんげん いがいの どうぶつを おとしめ、 ころす ために つかわれてきた。にんげんとして あつかわない ことが わるい のではない。 くるしみを あたえることが わるいのだ。
さらに、 にんげんを よいことと かんがえる ことは、 わるい ことを したものを にんげんでは ないと かんがえることに つながる。 すると、 わるい ことを した りゆうは、 にんげんではなかったから、 または にんげんらしくなかった からだ、 と かんがえてしまう。 まちがっている。 まちがった あんしんを にんげんに あたえてしまう かんがえかたである。にんげんは、にんげんである から、 じぶんが わるいことを していない という まちがった あんしんを してしまう ことになる。さらには、 じぶんの やった わるいことを よいことだと おもいこむように なってしまう。そのように かんがえることは、わるいのだ。にんげんは わるいことも すれば、 よいことも する。
しゅさべつに はんたいする。 にんげん いがいの どうぶつを みくだすな。 にんげんを よいものと かんがえるな。ころすな。たべるな。

あおき・たかしは あーれんとに よそう される ひはんとして、 「きびしい」という ことばを かんがえている(https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4)。 しかし、 あーれんとは にんげん という ことばを しゅさべつの でんとうに したがって つかう かぎりで、 「わるい」 のである。

ぜつめつ きょうせい しゅうようじょ

あおき・たかしは つぎの ように かいている。

世界との関係が完全に断たれているところーー例えば、絶滅強制収容所ーーで生まれ死んでいった赤ん坊の"誕生”は、そうでない赤ん坊の「誕生」と同じでしょうか。同じであるor同列に扱うべきだするならば、極論、人間はどこでどう生まれようと関係ない、という話にもなりかねません。
あおき・たかし(takaschi aoky )、https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4

この ぶんしょうは かなり おしい ところ まで かけている。 おもに なちす・どいつによる ぜつめつ・きょうせい・しゅうようじょと ほかの ところは、 すでに うまれさせられた ものに とっては、 まったく ちがう。 あきらかに、 ぜつめつ・きょうせい・しゅうようじょは わるい。 しかし、あらたに うまれさせるか うまれさせないか という もんだい であれば、 ぜつめつ・きょうせい・しゅうようじょ であろうと、 そのほかの ところで あろうと、あらたに うまれさせる ことは わるい のである。 うまれさせられるか、 うまれさせられないか という ことを かんがえれば、 この せかいの どこに うまれようが、くるしみを むりやり おしつけれるのであり、くるしみを あたえる ことは わるい ことである。あらたに うまれさせる ことは、 さけられない くるしみを あたえる ことである。「人間はどこでどう生まれようと」、くるしみが ふとうに あたえられている という いみで、あらたに うまれさせる ことの わるさ とは きほんてきに 「関係ない」。もちろん、 くるしみを かんじない にんげん だとか、 しなない にんげん などが ありえる という ふぃくしょんの はなしならば 「関係ない」とは いえない。また、げんじつてきに いまの せかいには くるしみが おおすぎる から うまれさせては いけない という はなしも できる。せめて、 なにも しなくても くるしまずに いきのびていられる ぐらいに ならないと、 はなしに ならない。あきらかに、 いま すぐに そんな せかいに する ことは できないし、 おおくの ばあい、 ふかのう だろう。

あかちゃん こうじょう

つづいて、 あおき・たかしは つぎの ように かいています。

現代の文脈に置き直すならば、「赤ちゃん工場」のことを考えてもよいかもしれません。また、もはや単なるSFではありませんが、ベルトコンベアーの上を流れる無数の試験管の中で胎児が育てられいる光景を、あるいは一人ひとりの「誕生」を経済政策や国家政策のための「出生率」という観点からしか扱わなくなった近未来を、想像してみてもいいかもしれません。「誕生」を歪めたり壊したりするような状況はいくらでもーーおそらくアーレントが生きた時代よりもたくさんーー考えられます
あおき・たかし(takaschi aoky )、https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4

これは、 まるで、 「あかちゃん こうじょう」では、 うまれさせる ことは ゆがめられている けれど、 「あかちゃん こうじょう」で なければ、 うまれさせる ことは ゆがめられていない みたいだ。 そう では ない。 すべての ものが うまれさせらえる という ように ゆがめられている のである。あらたに うまれさせられる ものの ために うまれさせる ことは できない。 うまれさせられるという こと そのものが、 すでに 「ぶっこわされた」 けっか である。もちろん、 「あかちゃん こうじょう」は わるい。 「あかちゃん こうじょう」 いがいで うまれさせる ことも わるい。 そして、 「あかちゃん こうじょう」は わるい と わかる ものが おおいが、 それ いがいで うまれさせる ことも わるいと わかる ものは すくないので、 たちがわるい。 すでに、 くるしみを かんじる すべての ものが ゆがめられている。 「あかちゃん こうじょう」を かんがえる ひうようは ない。じぶんの まわりを ちゃんと かんがえれば、 じゅうぶんだ。 じぶんは これまで くるしんだ ことが まったく なかった だろうか?おそらく あった だろう。 その くるしみの げんいん として、 うまれさせられた ことが あるが、 うまれる ことは、 わるく ないの か? わるい。もちろん、 うまれさせる ことの わるさと、 うまれて よかったと おもう ことは どうじに できる。 わるいことを された からといって、 そのあと いきのこってきた ことに ほこりを もつことが できない わけではない。
うまれさせずに くるしませない。 すとらいきして うまれさせるのを とめないと いけない。 うまれさせては ならない。

「生が生きるに値するものになる」

(この はなしに ついて、せいれき 2021ねん 3がつ 7にちに 「いきるに あたいする、しない という ことば に ついて」という ぶんしょうを さいごに つけたした。)
あおき・たかしは、「生きるに値する」「生きるにあ愛しない」という ことばを つかう。 この いいかたには もんだいが ある。たとえば、「しかしながら、ソフォクレスオイディプスの一生を、ただ単に生きるに値しない悲惨なものとして物語るわけではありません。」、「いかにして人々の生はポリスの中で生きるに値するものになりえたのでしょうか。」などが ある*1(いじょうは すべてhttps://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708からの いんよう である)。

そもそも、 いきるに あたいする、 あたいしない という ことばの つかいかたは、あいまいである。 いきのこる ことを はなしているのか、 うまれさせられない という ことを はなしているのか すら わからない。 はんしゅっせいしゅぎの おおくは、 いきのこる ことを わるい とは いわない。 うまれさせる ことは わるく、 うまれさせられる ことは わるい ことに よる けっか である。

それだけではない。いきるに あたいする、 あたいしない という ことばの つかいかたには、 さつがいや きょうせい・ふにん・しゅじゅつを ただしい こと としてきた れきしが ある。つくい・やまゆりえんや、 なちす・どいつの しょうがいしゃや ゆだやじんなどの じんしゅてき まいのりてぃーや せくしゃるまいのりてぃー、じぇんだーまいのりてぃー、はんざいしゃ、しそうはんなどの ぎゃくさつに つかわれていた ことばの つかいかた である。ひょうごけんの ふこうな こどもを うまれさせない うんどう なども おなじ ことばの つかいかたも する かもしれない。 もちろん、 これらは ほんしつてきな ひはんに なっていない。 もんだい なのは、 どのように つかわれるかに ある からだ。 しかし、 このような れきしに ついての はなしも なしに、 つかう ことは あぶないと までは いえる。 こんご、 いきるに あたいする などの ことばの つかいかたが ころす ためや、 きずつける ために つかわれない ように ちゅういしていく ひつようが ある。
ちなみに、 びょうどうしゅぎてきな はんしゅっせいしゅぎでは、いきるに あたいする という ことばや いきるに あたいしない という ことばは つかわない。もし いうとしても、 いきる などの ことばを つかわず、うまれさせる などの ことばを つかう だろう。 そして もし その ような ことばを つかうのであれば、 しゅっせいしゅぎ であり、 さべつを よい ことと かんがえ、 びょうどうを もとめない かんがえかた である。 なぜなら、 びょうどうしゅぎてきな はんしゅっせいしゅぎでは、 すべての くるしむ かのうせいが ある ものが おなじく うまれさせらえる べきではないと かんがえる から である。 ある いちぶの くるしむ かのうせいが ある ものを うまれさせる べきでは ないと いう ことは、ふとうな くるしみを あたえる うえに、 さべつ てき である。つまり わるい。 さらに、 それは、 その いちぶ いがいの ものを うまれさせる ことは ゆるされる という いみに なり、 しゅっせいしゅぎ である。 はんしゅっせいしゅぎに なっても いない。

とくに つぎの ことばは、 もんだいが ある。

アーレントによれば、行為と言論が自由に行き交う場(公的空間)ーー例えば古代ギリシアのポリスーーは、生が生きるに値するものになる場でもあるわけです。
あおき・たかし(takaschi aoky )、https://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708

なぜなら、 あーれんとの 「生に輝きを与える」(せいに かがやくを あたえる)という ことばの かいしゃく として、 「いきるに あたいする」という ことばが つかわれている。 「かがやき」や 「おもにに たえる」という ことばを あーれんとが つかったのは、 「かち」などの どうとくてきな もんだいに しない ためで あった のでは ないだろうか。

ことばの つかいかたに ついて、つっこみを いくつか かいた。しかし、 ともかく、 はんしゅっさんすいしょうしゅぎ としての あーれんとの かんがえかたは、 とても きょうみぶかい。さらに、 はんしゅっせいしゅぎとの かかわりを ふくめて、 かんがえてほしいと おもっている。

あーれんとに とっての よい わるい

また、 あーれんとに もどろう。あーれんとが よい という ことと わるい という ことについて どう かんがえたかを じぶんは しらない。 しかし、 ゆうめいな 「ろうどう」、「しごと」、「こうい、あくしょん、かつどう」という くべつを すべてに つかえる くべつだと おもわない ほうが いい という はなしを かく。 もちろん、 あーれんとは そんな ことを しようとは かんがえていない だろう。 おそらく、 「こうい、あくしょん、かつどう」が あるべき やくわりを、 「ろうどう」や 「しごと」が うばっている ことの ひはんとして かんがえる ことが いい だろう。 まったく こんきょは ない。 しかし、 おそらく おおくの ものが ぎもんに おもう はずだ。 「こうい、あくしょん、かつどう」や はなしあいに よる 「けんりょく」でも わるい ことが おこる のではないか? と。 じぶんも そう おもう。 べつに あーれんとも 「こうい、あくしょん、かつどう」や はなしあいに よる 「けんりょく」ならば、 かならず よいと おもった わけでは ないと かってに そうぞうしている。 「こうい、あくしょん、かつどう」や はなしあいに よる 「けんりょく」に よっても、 わるい ことは おこる。もちろん、 わるい ことを ひはんする ために 「こうい、あくしょん、かつどう」や はなしあいに よる 「けんりょく」が ひつように なる ときは ある。

かじょうがき

あいであは おもいついたが、 ぶんしょうに できなかった ものの めもを かいておく。 よみとばす ことを おすすめする。

・みしぇる・ふーこーが きんだいの こうはんには、 あんぜんや とうちという もんだいが これまでと ちがった かたちで くににとって もんだいに なった という かんがえかたが はいけいに ある だろう。ふーこーは、 とうけいの すうじが ぎじゅつとして つかわれる ことを あきらかにした。とくに、 ミシェル フーコー (高桑和巳(たかくわ・かずみ) 訳) 『ミシェル・フーコー講義集成〈7〉安全・領土・人口 (コレージュ・ド・フランス講義1977-78)』を みよ。ただし、がんたーは ふーこーを いんようしていない。 しかし、がんたーの 『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』の 「訳者あとがき」、312ぺーじには、 ふーこーを けんきゅうしている ものと がんたーが いっしょに かいている という はなしが かいてある。

・では、 どう せいべつの はなしを いれらるか。(きょうそも おとこばかり(?)、りーだーとしての おとこらしさ、れずびあんが けされる。げっぺるすの ひしょ。かつどう、せいじから はいじょされる おんなたち。)
・いーえるえむえー とは、 きょういきの りーだーしっぷ、 まねじめんと、 あどみっしょんの かしらもじを とった ことばである。 きょういくに おいて、 こうちょうなどが りーだーと なって ほうしんを きめたり、 けいえい として きょういくを かんがえたり、 はいってくる がくせいを せんべつ する ことだと かんがえた。 あまり はっきりと かいていない。

・いんぐらんどの きょういくの せいさくは、ぜんたいしゅぎなのか?ぜんたいしゅぎの じょうけんなのか? せんせい なのか?という ところが あいまい だった。 いちおう、 せんせいであり、 ぜんたいしゅぎの じょうけんと かんがえている ようだ。 その ばあい、 あーれんとを つかう いみが あったの だろうか?せんせいに ついての けんきゅうを しらないので、 わからない。

おわりに

じぶんは つぎの ように かく。 「どうとくてきに よく ふるまう。つまり くるしめない。くるしめるな。すべての せいじを いっせいに とめよ。まやかしだ。うまれさせるな。くるしみを とめよ。くるしめて たべるな。 ほろびを おそれるな、 くるしみを おそれよ。 どうとくてきに よい ほうほうで、 ほろびよう。」

ちしきによる かいほう(http://cira-japana.net/pr/?p=849)。

さいとう・まの

「いきるに あたいする、しない という ことば に ついて」

せいれき 2021ねん 3がつ 7にちに かきたした。
いきるに あたいする、 あたいしない という ことばの つかいかたに ついて、 きんだいの はなし しか かいていないのは、 たりないと おもった。
とくに あーれんとに とって こだい・ぎりしあが もんだいに なる ので、 こだい・ぎりしあに ついては かかないと いけなかった。
こだい・ぎりしあに そのような ことばの つかいかたが あった。
きげんぜん 399ねんの せっていで、 きげんぜん 380ねん ぜんごに ぷらとんが かいた「ぱいどん」という たいわへんを かいた。

T8Phd.64d2―65a7:「いったい,哲学者は,いわゆる快楽を,たとえば,飲食の快楽を,熱心に追求する,と君には思えるかね。(…)では,性の快楽はどうだろう。(…)では,その他の体の世話についてはどうだ。そういう人はこういうことを価値あるものと考える,と君には思えるかね。たとえば,豪華な衣服や靴の所有と
か,その他の体に関する装飾とか・・・。(…)多くの人々[大衆]にはこう思われることだろう。こういう事柄のなにも快いとは思わず,こういう事柄に関わろうともしない者は,生きるに値しない(οὐκ ἄξιον εἶναι ζῆν)のだ。肉体を通してやってくる快楽に見向きもしないような人は,ほとんど死んだも同然の状態にあるのだ,と」

(注1 『パイドン』等のギリシア語テキストとしては Duke(1995)を用い,箇所指定はステファノス版頁・行数に従う。プラトンの著作の略記は慣例(LSJ)により,自明な場合は省略することがある。『パイドン』の日本語訳は岩田靖夫訳(1998)によるが,断りなく字句を変更したところもある。)
Duke, E. A., et al. (eds.) (1995), Platonis Opera, vol. 1, Oxford)
岩田靖夫(訳)(1998)『パイドン岩波書店.)
栗原, 裕次「プラトンにおける生と死の思想 : 『パイドン』篇の魂論との関係で」(http://hdl.handle.net/2309/2708

「οὐκ ἄξιον εἶναι ζῆν」を いきるに あたいしないと やくしている。
ぎりしあもじ、 らてんもじへの うつし、にほんごの いみ(えいごの うぃきしょなりーの きじ)の いちらん。
οὐκ、 ouk、 ではない(https://en.wiktionary.org/wiki/%CE%BF%E1%BD%90%CE%BA#Ancient_Greek
ἄξιον、 áxion、 あたいする もの(https://en.wiktionary.org/wiki/%E1%BC%84%CE%BE%CE%B9%CE%BF%CE%BD
εἶναι、 eînai、 いきる、ある(https://en.wiktionary.org/wiki/%CE%B5%E1%BC%B6%CE%BD%CE%B1%CE%B9
ζῆν、 zên、 いきもの として いきる(https://en.wiktionary.org/wiki/%CE%B6%E1%BF%86%CE%BD

こだいぎりしあの このような ことばの つかいかたも わるい。
かきたし おわり。
さいとう・まの

*1:ほかには、「『オイディプス王』において、オイディプスは、自らの出生の謎と運命を解き明かしていくことで、自らの生がいかに生きるに値しないものであるかを発見してしまい、嘆き、呪っていきます。」、「例えば、オイディプスは、赤子の時分にそうであったように、生きるに値しないからと言って都合よく死ぬことさえできないという運命を生きています。」「その生は本当に生きるに値しないまま終わるものとして、悲惨に悲惨を重ねていくだけのものとして描かれていたでしょう。」「無論、自害や野垂れ死には物語の設定上オイディプスの運命によって禁じられていますが、それと同時に、オイディプスがその生きるに値しない生を生き抜いたことは、オイディプスが守り神になったことによって報われています。」、「その中でそのように生きられる生(ビオス)のみが生きるに値するものであるわけです。」、「『革命について』の表現を援用すれば、行為が「新しい始まり」として十分に経験されない世界など生きるに堪えない、生きるに値しない、と。」などが ある。https://note.com/taoki0046/n/n1f8e9f33f708

しもーぬ・ヴぇいゆから うちむら・かんぞうへ

ついき1

これへとのことば、11しょう、 だい8せつ
「人が多くの年月を生きるなら/これらすべてを喜ぶがよい。/しかし、闇の日が多いことも思い起こすがよい。/やって来るものはすべて空である。」(https://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html
”Si donc un homme vit beaucoup d'années, qu'il se réjouisse pendant toutes ces années, et qu'il pense aux jours de ténèbres qui seront nombreux; tout ce qui arrivera est vanité.” (https://www.info-bible.org/lsg/21.Ecclesiaste.html

これへとのことば、11しょう、 だい10せつ
「あなたの心から悩みを取り去り/あなたの体から痛みを取り除け。/若さも青春も空だからである。」(https://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html
”(12:2) Bannis de ton coeur le chagrin, et éloigne le mal de ton corps; car la jeunesse et l'aurore sont vanité.”(https://www.info-bible.org/lsg/21.Ecclesiaste.html

これへとのことば、 すべての ための とき、13しょう?
”L’avorton est venu dans le vide, il s’en va dans les ténèbres ; son nom est recouvert à jamais par la nuit ; il n’a pas vu le soleil.”(https://fr.wikisource.org/wiki/L%E2%80%99Eccl%C3%A9siaste_:_un_temps_pour_tout/Texte_entier

vanité、しんくう、むなしい、くう、vacuum、le vide、vanity などなど。
こへれとのことばを うちむら・かんぞうも しもーぬ・ヴぇいゆも さんこうに した かのうせいが たかいと あとで わかりました。
なので、 ほんぶんの かせつは ただしくない かのうせいが たかい です。
ざんねん。
ただ、 こへれとのことばに ついて うちむら・かんぞうは 1915ねん ぐらい から かいている。(わたなべ・かずたか(渡部, 和隆)「内村鑑三のコヘレト書解釈」、http://hdl.handle.net/2433/185780
せいれき 2021ねん 2がつ 26にち

ついき 2

ぱすかるが ぱんせで、
「人の心は神によってしか満たされない空洞が空いていて、神以外の何者をもってしても満たすことができない。神によって空洞が満たされると人は生きる。」(http://www.mgf-jc.com/kyou-no-kotoba-1?tmpl=/system/app/templates/print/&showPrintDialog=1
と いっている かのうせいが ある。
もんてーにゅの えせーでも むなしさの はなしが ある らしい。
もし ぱすかるが この はなしを le videという ことばで はなしていたら、 あきらかに てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆと うちむら・かんぞうの ちょくせつの かんけいは ない かのうせいが たかい。
ぱすかるは ぶつりてきな いみでの しんくうに きょうみを もっていた ものだからだ。
せいれき 2021ねん 2がつ 26にち

ほんぶん

こまったことに、なにか きになると しらべたくなる、という ことが あると おもいます。
こんかいは、 しもーぬ・ヴぇいゆから うちむら・かんぞうへ という ぶんしょうを しらべて かきました。
シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)と、 内村鑑三(うちむら・かんぞう)という ひとの つながりを しらべました。
せんもんかでは ないので、まちがっている かのうせいが たかいです。
せいれき 2021ねん 2がつ 24にちに こうかいしました。
ないようは あまり かえる よていは ありませんが、 みだしや もくじなどを あとで せいりする よていです。

ふたりの しもーぬ・ヴぇいゆと しんくう

しもーぬ・ヴぇいゆ

しもーぬ・ヴぇいゆは ふたり いる。

せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆ

ひとりは、 ふらんすの せいじか である。せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆは、 ふらんすごで、 Simone Veilと かく。
ふらんすでは せいれき 1975ねんに じんこう・にんしん・ちゅうぜつを はんざいでは ない ように する ほうりつが できた。
せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆは、 その ときの だいじんであり、 この ほうりつを つくる ことを たんとうした。
なので、この じんこう・にんしん・ちゅうぜつを はんざいでは ない ように する ほうりつは、ヴぇいゆほうと いわれることも ある。
ただし、 その はいけいには、 しょうせつかで てつがくしゃの しもーぬ・ど・ぼーぼわーる(Siomne de Beauvoir)などが せいれき 1971ねんに かいた 「343にんの まにふぇすと」 などが あった。
343にんの ゆうめいじんが じぶんが ちゅうぜつを した ことが あると かいたのだ。

ふらんすでは、ヴぇいゆほうが できる まえは、 じんこう・にんしん・ちゅうぜつは はんざい だった。
つまり、 らんしと せいしが くっついた あとで、 じぶんから あらたに うまれないように すると、 つかまって とじこめらたのだ。
さらに、 じんこう・にんしん・ちゅうぜつの しゅじゅつなどを した ものも つかまって とじこめられたのだ。
そして、 せいれき 1960ねんだい までは、 じんこう・にんしん・ちゅうぜつや ひにんの じょうほうを ひろめたものも つかまって とじこめられたのだ。
ふらんすの れきしに ついては、「人工妊娠中絶の現状:フランスからの幾つかの考察」 http://hibino.w3.kanazawa-u.ac.jp/tech-health/data/20100417_resume_Levy.pdf を せいれき2021ねん 2がつ 20にちに さいごに みた。 だれが かいたか わからない ぶんしょうである。

さて、ひにん(避妊)とは、にんしんしないように する ことである。
たとえば、げっけい、せいりの ちょうせいする ことや、げっけいの いたみを よわくする ことにも つかう くすりを のむ という ひにんの ほうほうが ある。
その くすりは、けいこう・ひにんやく、または、 「ぴる」と いわれる。
ぴるは おおきく わけて ふたつの しゅるいが ある。
ていようりょう・ぴるは、 せっくすなどを する まえに のむと ひにんが できる。
ていようりょう・ぴるは、 ひにんにも つかわれるが、 せいりつうを なくす ために のむ ことが ある。
もーにんぐ・あふたー・ぴる、 または きんきゅう・ひにんやくは、 せっくすなどを した あと、 みっか いないに のむと ひにんが できる。
にほんでは せいれき 2021ねん げんざい、 きんきゅう・ひにんやくが やっきょくでは かえない。
いしゃが ゆるさないと、 じんこう・にんしん・ちゅうぜつが できないのだ。
これは、 にんしんする ものを ちゃんとした りゆうなく くるしめる ことである。
さらに、 にんしんする ものを おんなと かんがえる ことと、 せいさべつが むすびついた けっかである。
せいさべつの けっかとして、 おとこと かんがえられた にんしんに かかわった ほかの ものは、 はんざいを したと かんがえられていない。
「おとこではない おんな」と 「おんなではない おとこ」という ふたつの せいべつ のみが あり、 その おんなと おとこに よって せいしょくが おこなわれ、 おんなが にんしんすると かんがえられている、 せいべつ にげんろんてきで せいさべつ てきな しゃかいでは、 おんなに せきにんが おしつけられる。
わるい。
ふぇみにすとの あつまりである そしれん(SOSHIREN)が、 だたいざいに ついて みじかく まとめているので、 かんじかなまじりの にほんごが よめる ものは、 よんでみて ほしい。(SOSHIREN / 堕胎罪とはhttp://www.soshiren.org/dataizai_toha.html


ただし、 ぴるでは せいかんせんしょうの かんせんは ふせげない。
せいかんせんしょうを ふせぎたい ときは、ゆびの こんどーむである ふぃんどむや、 ぺにすの こんどーむを つかう などの ほかの ほうほうを つかう ひつようが ある。
また、 せいかんせんしょうとして ゆうめいな えいちあいぶい(HIV)は、 くすりを のんで、 けんさで みつからなくなれば、 うつることは なくなる。

ヴぇいゆほうが できる まえの ふらんすでは、はんざいと かんがえられていた ため、じんこう・にんしん・ちゅうぜつは あんぜんに おこなわれなかった。
じんこう・にんしん・ちゅうぜつは、 つかまらない ように かくれて おこなわれた。
もし じんこう・にんしん・ちゅうぜつの しゅじゅつで わるいことを されても、 けいさつなどに いいにくい からである。
そして、 にんしんしてしまった ものたちは、まわりに いえないまま じぶんで あんぜんではない ちゅうぜつを しようと する ことも あった。

にほんでの ちゅうぜつ

ちなみに、 せいれき 2021ねんの にほんでは げんざい、 じんこう・にんしん・ちゅうぜつは はんざいである。
だたいざい(堕胎罪)と いわれる。
にほんの けいほう、212じょうから 216じょうで きめられている。
つまり、 らんしと せいしが くっついた あとで、 じぶんから あらたに うまれないように すると、 つかまって とじこめらるのだ(じこ・だたいざい)。
さらに、 じんこう・にんしん・ちゅうぜつの しゅじゅつなどを した ものも つかまって とじこめられるのだ(どうい・だたいざい)。
ただし、 じんこう・にんしん・ちゅうぜつの じょうほうを ひろめたものは つかまらない。

また、おかねが たりない ばあいと、からだに あぶない ばあいと、れいぷされた ばあいには じんこう・にんしん・ちゅうぜつを して よいと、 むかしの ゆうせいほごほう、いまの ぼたいほごほうが きめている。
ただし、 むかしの ゆうせいほごほうと、 いまの ぼたいほごほうでは、 じんこう・にんしん・ちゅうぜつが できる ばあいが ちがう。
ぼたいほごほうに ついては、 https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC1000000156で せいれき 2021ねん 2がつ 20にちに さいごに みた。
しかし、 はいぐうしゃが いる ばあいは、 はいぐうしゃの どういが ひつように なる。
また、ほんにんが みせいねんの ばあいは、 ほごしゃの どういが ひつように なる ことも おおい。
そして、 れいぷや からだが りゆうでなければ、 おかねが たりない から じんこう・にんしん・ちゅうぜつ すると かかないと いけない(母体保護法第十四条一「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」)。

ゆうせいほごほうは、 だいにじせかいたいせんの あと、せいれき 1948ねんに つくられた。
ゆうせいほごほうは、 しょうがいしゃが あらたに こどもを うまれさせない ように むりやり しゅじゅつを して よいと きめた。
せいれき 2018ねんに むりやり きょうせい・ふにん・しゅじゅつを うけた ひとが うったえ はじめてから、 おおくの ひとが うったえ はじめている。

さらに、 ゆうせいほごほうで、 いちぶの じんこう・にんしん・ちゅうぜつを して よいと きまった はいけいには、しょくみんちしゅぎと てんのうせいが かんけいしている。
樋口恵子(ひぐち・けいこ)の 「第7章 引揚女性の「不法妊娠」と戦後日本の「中絶の自由」」という ぶんしょうを さんこうに する(上野千鶴子(うえの・ちづこ)編 , 蘭信三(あららぎ・そんぞう) 編 , 平井和子(ひらい・かずこ)編、2018、『戦争と性暴力の比較史へ向けて』、岩波書店、199-225ぺーじ)(ほんの くわしい ないようは、 https://www.iwanami.co.jp/book/b345698.htmlを よむ こと。 2021ねん 2がつ 20にちに さいごに みた)。
せいれき 1945ねんに にほんが だいにじせかいたいせん、たいへいようせんそう、にっちゅうせんそうに まけた あと、せんそう・せんりょうちと しょくみんちから、 ひとびとは にほんの ないちに ひきあげてきた。
この ひきあげてきた ひと たちに、 あんぜんではない、じんこう・にんしん・ちゅうぜつの しゅじゅつが おこなわれた。
はいけいには、ひきあげ してきた にんしん していたものの いちぶは、 れいぷされた という ことが あった(ひぐち・けいこ、202-206ぺーじ)。
しかし、せいふは もくてきとして、にほんが しはいしていた しょくみんちの ひとと にほんの しょくみんしゃの あいだから うまれる こどもを うまれなくさせる ためだったと いった、と かんがえられている(ひぐち・けいこ、207ぺーじ、「異民族の血に汚された児の出産のみならず家庭の崩壊を考えると」(天児都(あまこ・くに) 1998「引揚者の中の強姦妊娠および性病感染者の保護について」『九州大学医学部産婦人科教室同窓会誌』40. からの いんようを まごびき した。 ただし、 おなじ はつげんは、うぇじー(WEZZY)の、「「綾瀬はるか『戦争』を聞く」で明かされた、満州からの引き揚げ女性に強制された性接待」 https://wezz-y.com/archives/57557/2でも よむ ことが できる。2021ねん 2がつ 20にちに さいごに みた)。
また、 てんのうの かぞくが これらの しゅじゅつを たんとうする ための しせつに いって、 じんこう・にんしん・ちゅうぜつを する ことを みとめたと かんがえられている(ひぐち・けいこ、211ぺーじ、(せいれき 1946ねん 4がつ 23にちに、 たかまつみや のぶひと(高松宮宣仁)と のぶひとしんのうひ きくこ(宣仁親王妃 喜久子)が ふくおかけんの ふつかいちほいくじょ(二日市保育所)に いった。のびひとは、 しょうわてんのう ひろひとの おとうと である)。
この ことは、 てんのうせいが しょくみんちしゅぎ である ことが わかると、 わるい ことが はっきりと わかる。
てんのうせいは、 やまとみんぞくの てんのうの ちすじが えらいと かんがえる せいどである。
てんのうと てんのうの ちすじに ちかい やまとみんそくは えらい ので、 しょくみんちを しはいして よいと かんがえるように なったのだ。
だから、 てんのうが いちばん えらく、 てんのうが せきにんしゃであった せいふは、「いみんぞく」と やまと みんぞくの ちすじが まざらないように したかった のだ。
せいふが しょくみんちの ひとたちを さげすむ ことを いったと される、 せいれき 1945ねんの 8がつの ないかくは、 ひがしくに ないかく であった。
ひがしくにのみや なるひこは、 てんのうの かぞく、 こうぞくで あった。
てんのうの せいどを つづける ために、 さまざまな ことを していたに すぎない。
もし にんしんする ものたちの くるしみが わかるならば、 てんのうせいを なくしている はずだ。
てんのうせいは、 こどもを つくる ことが ぜんていと なっている せいさべつてき、 しょくみんちしゅぎてき、 みんぞくさべつてき みぶんせい だからである。
そして、とうじの こっかいぎいんの ふくだ・まさこ(福田昌子)は、この じんこう・にんしん・ちゅうぜつの あんぜんではない しゅじゅつを かえる ために、 ゆうせいほごほうを つくったの だった(ひぐち・けいこ、218ぺーじ)。

さらに、 せいれき 2021ねんの にほんの じんこう・にんしん・ちゅうぜつの しゅじゅつは あんぜんではない。
にほんで せいれき 2021ねん ごろ までに おこなわれている しょきの じんこう・にんしん・ちゅうぜつの しゅじゅつは、 かきだす ほうほうである。
かきだす ほうほうは、そうはほう(掻爬法)と いわれている。
しかし、 そうはほうは じこの かずも おおい(つかはら・くみ(塚原久美)、2013、「妊娠中絶の何が問題か」、https://www.jstage.jst.go.jp/article/itetsu/31/0/31_59/_article/-char/ja/、60ぺーじ)。
せかいほけんきかん、だぶりゅーえいちおー(WHO)という せんもん そしきは、 そうはほうは あんぜんではないと いっている(WHO(すぺーすアライズ訳)、2013、「安全な中絶、医療保健システムのための技術及び政策の手引き、第二版」、https://apps.who.int/iris/bitstream/handle/10665/70914/9789241548434_jpn.pdf?sequence=10、 49ぺーじ、「頸管拡張及び子宮内膜掻爬術(D&C)は、時代遅れの外科的中絶方法であり、かつ真空吸引法及び/または薬剤による中絶方法に切り替えるべきです」)。
しょきの じんこう・にんしん・ちゅうぜつは、 くちから のむ くすりが あんぜんである。
しゅじゅつ する にしても、 すいだす ほうほうである きゅういんほう(吸引法)に する べきである。
しかし、にほんでは、せいれき 2021ねん げんざい、ちゅうぜつの ための くすりは みとめられていない(国際セーフ・アボーション・デー Japan プロジェクト、「避妊・中絶にまつわるQ&A」、https://2020-japan.webnode.jp/qanda/。2021ねん 2がつ 20にちに さいごに みた)。
はいけいには、 かきだす ほうほうの しゅじゅつの ための どうぐで もうける ためだとも かんがえられている(つかはら・くみの せいれき 2019ねん 6がつ 16にちの にほん・じょせい・がっかいに おける はっぴょう、「「中絶」の脱スティグマ化とノーマライゼーション」に よる)。

ふたりめの ヴぇいゆ

はなしを しもーぬ・ヴぇいゆに もどそう。
もうひとりの しもーぬ・ヴぇいゆは、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆだ。
てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは、 Siomne Weilと かく。
せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆは ぶい(びー、V)だが、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは だぶりゅー(どぅぶるべ、W)である。
にほんごけんでは、 こちらの しもーぬ・ヴぇいゆの ほうが ゆうめいである。
てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは、 にほんの きりすときょうに かかわる ひとたちが よく よむ みたいだ。
また、『ぺすと』などを かいた しょうせつかの かみゅが しょうかいした ことで、 にほんでも ひろく しられている。

ここから、 うぃきぺでぃあで かくにんした ことを かいていく。
うぃきぺでぃあは だれでも かけるので、 まちがっている かのうせいが たかくなる。
だが、 きおくで かく よりは ましだ。
てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆ(Siomne Weil)は、 せいれき 1943ねんに しんだ。
そして、 せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆ(Siomne Veil)は、 せいれき 1946ねんに けっこんして、 ヴぇいゆという みょうじに なった。
つまり、 ふたりの しもーぬ・ヴぇいゆが おなじ なまえで おなじ ときに いた わけでは ないのである。
もちろん、せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆが せいれき 1943ねん までに ひこうしきに ヴぇいゆという なまえを なのっていた かのうせいも おもいつく。
しかし、 おそらく ありえない。
なぜなら、 せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆは せいれき 1945ねん まで きょうせいしゅうようじょに いたからだ。
なちす・どいつに しはいされた ふらんすの ヴぃしー せいふは、 せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆが ゆだやじんで あることを りゆうに、むりやり とじこめたのだった。
はいぐうしゃである あんとわーぬ・ヴぇいゆとは きょうせいしゅうようじょで であった わけではない ようだ。
がっこうで であった ようだ。
うぃきぺでぃあで かくにんした ことは ここまで だ。

しかし、にほんごで みる かぎり、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆと、 せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆも みわけが つかない。
じぶんが てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆと であったのも、 せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆと まちがいた から なのだ。
あるとき、 ほんやさんの いわなみ ぶんこを ながめていた。
いわなみ ぶんことは、 いわなみ しょてんという おおきな しゅっぱんしゃが つくっている ちいさな ほんの ことである。
いわなみ ぶんこは、 ふるくて ゆうめいな ほんを にほんごに やくした ものが たくさん ある。
つまり、 おとこの ほん ばかり なのである。
むかしから かきことばは おとこが しはいしてきている。
さらに、 おとこが かいた ぶんしょうは、 おとこが ほめたたえる ことで、 ゆうめいに なっていく。
せいさべつに よって、 おとこの ほうが けんりょくを もつ ように なる ので、 おとこが おとこの ぶんしょうを よんで、 ほめたたえるのだ。
おんなは かくことが きんしされているか、 かいたとしても ぶんしょうは おとこに ほめたたえられず のこされない。
そんな ことを かんがえながら、 たなを みていくと、 「しもーぬ・ヴぇいゆ」という なまえが みつかった。
おどろいた。
あの、 せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆが、 ほんを かいていて、 それが にほんごに やくされている なんて、 しらなかった。
じぶんが とった ほんの なまえは 『自由と社会的抑圧』(じゆうと しゃかいてき よくあつ)であった。
そう、てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆの ほんである。
しかし、 じぶんの なかで しもーぬ・ヴぇいゆは せいじかの しもーぬ・ヴぇいゆだけ しか いなかった。
ひょうしの てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆの しゃしんを みて、「しゃしんを はじめて みた」と おもった。
それは、 べつじんだ。
「行動と思索の人」(こうどうと しさくの ひと)という ことばを よんで、 「へー、せいじだけではなくて、 かんがえた ことを かいていたのか」と おもった。
それは、 べつじんだ。
あげくのはてには、 しんだ としが せいれき 1943ねんと かいているのに、 きがつかない。
ヴぇいゆほうは せいれき 1975ねん、 しんでから ほうりつを つくるのは むりだ。
それは、 べつじんだ。
なかみを ためしに よむことも しなかった。
そして、 かってしまった。
そこまでは おぼえているのだが、 じぶんが この ふたりが べつじんである ことに きがついた きっかけは わすれてしまった。
ほんを よんでいる うちに きがついたのか、 ほんを よまないで おいている うちに だれかから きいたのか。
しもーぬ・ヴぇいゆに ついて あまり しらない ものは しっていてほしい。
ゆうめいな しもーぬ・ヴぇいゆは ふたり いる。
それは、 べつじんだ。

てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆと しんくう

さて、ほんだいに はいろう。
さいきん、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆの 『重力と恩寵』(じゅうりょくと おんちょう)を よむ ことに なった。
じぶんが よんでいるのは、 とみはら・まゆみ(冨原真弓(とみはらの とみという かんじは うえの ぼうが ない。))が やくした、 いわなみ ぶんこの せいれき 2017ねんに つくられた ほんである。
てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが しんだ あと、せいれき 1947ねんに しもーぬ・ヴぇいゆが じぶんの ために かいた のーと、『雑記帳』(ざっきちょう)、または 『かいえ』を もとに して、 『じゅうりょくと おんちょう』という だいめいの ほんが べつの ひとに よって つくられた。
かいえとは、 ふらんすごでの Les Cahiersの よみかた である。
いみは、 のーと、 おぼえがき、けんきゅうのーと、 みたいな いみである。
そして、 とみはら・まゆみは せいれき 1947ねんに つくられた 『じゅうりょくと おんちょう』と おなじ じゅんばんで つくられた。
しかし、 とみはらは てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが かいた 『かいえ』を かくにんして、 やくした(とみはら、せいれき 2017ねん、「訳者あとがき」、444ぺーじ)。
なので、 ほかの やくとは ちがう ことが ある。
ちなみに、てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆの ぶんしょうは、 きらいな ところと すきな ところが ある。
きらいな ところは、 とくに どれいを みくだしている かきかたを している ところ である。
どれいの がわに たって かこうと しているの だが、 みくだしているのが ありありと つたわってくる。
つまり、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが、 じぶん じしんを みくだしている ことも げんいんの ひとつ だと おもう。
すきな ところは、 ほかのものを きずつけたくないと おもっている ことが わかる ところである。

「たとえこの身が泥の塊になりはてようと、なにひとつ穢〔るび:けが〕さずにいたい。」
(たとえ このみが どろの かたまりに なりはてようと、 なに ひとつ けがさすに いたい。さいとう やく。)
しもーぬ・ヴぇいゆ(とみはら・まゆみ やく)、せいれき 2017ねん、 『重力と恩寵』、「二 真空と代償作用」、2だんらくめ、18ぺーじ。

さて、 しもーぬ・ヴぇいゆ(とみはら・まゆみ やく)、せいれき 2017ねん、 『重力と恩寵』、「二 真空と代償作用」、6だんらくめ、20ぺーじに はじめて 「しんくう」という ことばが でてくる。

「だれかがわたしに悪をはたらくとき、守銭奴が財宝からなにかを期待するように、わたしは悪をはたらく相手からなにかを期待する(≪欲求充足≫または≪損失補塡≫)。逆に、他者に悪をはたらく、それは他者からなにかを受けとることだ。なにを。悪をはたらくとき、人間はなにを得るのか(いずれ代価を支払ねばならなぬにせよ)。自己を増幅させ、自己を拡張する。他者のうちに真空を穿〔るび:うが〕つことで、自己のうちなる真空を充たすのだ。」
(だれかが わたしに あくを はたらく とき、しゅせんどが ざいさんから なにかを きたいする ように、わたしは あくを はたらく あいてから なにかを きたいする(≪よっきゅう・じゅうそく≫ または ≪そんしつ・ほてん≫)。ぎゃくに、たしゃに あくを はたらく、それは たしゃから なにかを うけとる ことだ。なにを。あくを はたらく とき、にんげんは なにを える のか(いずれ だいかを しはらねばならなぬ にせよ)。じこを ぞうふくさせ、じこを かくちょうする。たしゃの うちに しんくうを うがつ ことで、じこの うちなる しんくうを みたすのだ。)
しもーぬ・ヴぇいゆ(とみはら・まゆみ やく)、せいれき 2017ねん、 『重力と恩寵』、「二 真空と代償作用」、6だんらくめ、20ぺーじ。

しゅせんどの はなしは、 ふらんすごで えんげきの きゃくほんを かいた もりえーるの 『しゅせんど』という はなしを かんがえているの だろう。
たとえば、 しもーぬ・ヴぇいゆ(とみはら・まゆみ やく)、せいれき 2017ねん、 『重力と恩寵』、「六 真空と代償作用」、2だんらくめ、43ぺーじ、「財産を盗まれた守銭奴」(ざいさんを ぬすまれた しゅせんど)などの ことばが ある からだ。
もりえーるの 『しゅせんど』という さくひんでは、 かねもちで しゅせんどは、 たいきんを にわに かくしていた。
そして、 その たいきんが ぬすまれ、 けっきょく こまる。
たいきんを にわに うめている こと から わかる ように、しゅせんどは その たいきんを なにかに つかう ために もっているのでは ない。
しゅせんどは、 おかねを もっている という ことで まんぞくする のである。

もんだいなのは、「しんくう」という ことばである。
ふらんすごでは、 le vide(る びっど)である。
この たんごは、 こくう、すきま、くうはく、ひま、むなしさ、きょむかん などの いみがある。
それなのに、 「しんくう」と ぶつりの ことばが えらばれている のには、 りゆうが ある。
なぜならば、しもーぬ・ヴぇいゆ(とみはら・まゆみ やく)、せいれき 2017ねん、 『重力と恩寵』、「三 真空を受けいれる」、2だんらくめ、28ぺーじ、には つぎの ような ぶんしょうが ある。

「気体と同じく魂にも、与えられた空間をくまなく充たそうとする傾向がある。みずなら収縮して真空を生みだすがごとき気体は、エントロピーの法則に反する。」
(きたいと おなじく たましいにも、 あたえられた くうかんを くまなく みたそうと する けいこうが ある。みずから しゅうしゅくして しんくうを うみだすが ごとき きたいは、 えんとろぴーの ほうそくに はんする。)
しもーぬ・ヴぇいゆ(とみはら・まゆみ やく)、せいれき 2017ねん、 『重力と恩寵』、「六 真空と代償作用」、2だんらくめ、28ぺーじ。

あきらかに、 ぶつりの はなしを かんがえている。
じっさいに、 しもーぬ・ヴぇいゆは しんくうに ついても かいている あいんしゅたいんの ほんなどを よんでいた らしい。(『シモーヌ・ヴェイユ《別冊水声通信》』、せいれき 2017ねん、水声社、「シモーヌ・ヴェイユの科学論 鈴木順子」、http://www.suiseisha.net/blog/?p=7892、せいれき 2021ねん 2がつ 24にちに さいごに みた。)
さらに、 ほんの だいめいにも なっている ように、 じゅうりょくの はなしも する。

しかし、 「しんくう」とは なにか、 よく わからない。
うめようと する もの。
くるしみと かんけいしている もの。
むきあわないと いけない もの。
かみと かんけいする もの。
ほかの ものへの ぼうりょくの げんいんで、 けっかである。
そんな かんじの なにか である。

しかし、 「しんくう」という ことばは めずらしい。
「しんくう」という ことばは、あまり きりすときょうと かんけいする ことばでは ないと おもう。
てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ゔぇいゆは、きりすときょうに ついて かいている。
ちなみに、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ゔぇいゆは、ゆだやじん である。
ただし、てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ゔぇいゆは、きりすときょうの せんれいを うけなかった。
その びみょうな かんけいが 「しんくう」という ことばを えらんだ はいけいに あるの かもしれないと おもった。
しかし、 「しんくう」という ことばは、 しもーぬ・ゔぇいゆが はじめて つかった ことば なのだろうか?
それとも、 だれかの ことばから おもいついたのだろうか?
この ぎもんが この ぶんしょうの わだいである。

かくにん

それでは、 この ぎもんに とりくむ ための きほんてきな ことを かくにんしておく。
まず、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ゔぇいゆが この ぶんしょうを かいたのは、 せいれき 19404ねんだい である(とみはら・まゆみ「ヴェイユ, シモーヌ, アドルフィーヌ」、356-359ぺーじ、こばやし・みちお ほか へんしゅう、せいれき 1999ねん『フランス哲学・思想事典』、359ぺーじ)。
そして、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ゔぇいゆは ふらんすごで ぶんしょうを おもに かいていたが、 『かいえ』では、えいごも つかっていた(とみはら・まゆみ、「訳者あとがき」、443ぺーじ)。
さらに、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ゔぇいゆは、ばんねんは あめりかがっしゅうこくや、いぎりすに いた。
あめりかがっしゅうこくや いぎりすでは えいごが つかわれている。
それだけではない。
てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ゔぇいゆは、 すずき・だいせつ(鈴木大拙)の ぶんしょうを よんでいた。
すずき・だいせつは、にほんの しゅうきょうを えいごで しょうかいした ひととして ゆうめいである。
すずき・だいせつの ほんとして 『禅』(ぜん)という ほんが ゆうめいである。
さらに、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ゔぇいゆは、 さんくすりっとごで いんどの ひんどぅーきょうの せいてん(聖典)である、 『ばがゔぁっど・ぎーだー』なども よんでいた(とみはら・まゆみ、「訳者あとがき」、447ぺーじ)。

うちむら・かんぞうと しんくう

さて、 けつろんから かく。
うちむら・かんぞう(内村鑑三)が えいごで せいれき 1895ねんに かいた ほん、 ”How I Became a Christian; Out of My Diary ” から 「しんくう」という ことばを、 てつがくしゃと せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは おもいついたのだと かんがえる。
この ほんは、すずき・としろう(鈴木俊郎)が 『余は如何にして基督信徒となりし乎』(よは いかにして きりすと しんとと なりしか)という だいめいで せいれき 1958ねんに にほんごに やくしている。
さらに、 ふらんすごにも J.-H. Jeheberが La crise d'âme d'un japonais, ou, Comment je suis devenu chrétien? という だいめいで、 せいれき 1913ねんに やくしている。
ふらんすごの だいめいの いみは、にほんごで、「ある にほんじんの たましいの へんか、 すなわち わたしは いかに きりすときょうとに なったか?」 である。
うちむら・かんぞうは、この ほんで、 じぶんの じんせいに ついて かいている。
うちむら・かんぞうは、 にほんで かつやくした きりすときょうと である。
うちむら・かんぞうは む・きょうかい・しゅぎ という ものを となえた。

さらに、 うちむら・かんぞうは せいれき 1891ねんに だいいち・こうとう・ちゅうがっこう・ふけい・じけんで ゆうめいである。
せいれき 1890ねんに てんのうは きょういく・ちょくご という ぶんしょうを かいて がっこうに くばった。
だいいち・こうとう・ちゅうがく という えりーとの いまでいう だいがくに つとめていた うちむら・かんぞうは その きょういく・ちょくごえの おじぎが あさかった という りゆうで、 ふけい(不敬)と かんがえられて、 せめられた。
そして、 うちむら・かんぞうは やめさせられた。
てんのうせいが わるい ことが よく わかる じけんである。
ちなみに、 うちむら・かんぞうは きりすときょうを しんじていた のに、てんのうの ことが すきだった ようだ。
てんのうせいは わるいので、なくす べき である。

この じけんの はいけいには、 にほんは てんのうせいが こっかしんとう という しゅうきょうと かんけいしている ことが ある。
てんのうは かみと かんがえられていた。
だから、 にほんで こっかしんとう いがいは よくあつされていたし、よくあつされている。
とくに きりすときょうを しんじていた ものは だんあつされていた。
さらに、 にほん せいふは こっかしんとうは しゅうきょうでは ない から、 きりすときょうを しんじながら てんのうを かみと かんがえて うやまえとも いっていた。
しゅうきょうを だんあつ するな。


そして、 うちむら・かんぞうは せいれき 1882ねんの 12がつの にっきと せいれき 1883ねんの 4がつの にっきの あいだに つぎの ように かいている。
この とき、 うちむら・かんぞうは さっぽろ・のうがっこうを そつぎょうしていて、 あめりかがっしゅうこくに いく まえ だった。
じぶんが にほんごに やくした。

まえおき

いくつか よむ ための ぜんていと なる ちしきを かいておく。
まず、 さいしょに いんようされる ほせあしょは、 ゆだやきょう、 きりすときょう、いすらむきょうの せいてん(聖典)である、きゅうやくせいしょの いちぶ である。
きげんぜん はっせいきの はなし である。
こだい いすらえるじんは、 えじぷとで どれいとして はたらかせれていたが、 かみに みちびかれて えじぷとを でて、 かなんに はいってきた。
しかし、こだいの いすらえるじんは、 かみとの やくそくを うらぎっていると、 ほせあは いう。
こだい いすらえるじんは、 かみを 「ばある」という べつの かみと かんがえて、 だいじに していた。
「ばある」とは、 ちゅうとうの かなんで しんじられていた あらしと あめの かみである。
かなんは、よるだんがわから しかいと、 ちちゅうかいとの あいだの ちいきである。
かみは かみの すがたを にせたと いって つくられた ものを だいじに あつかっては いけないと いった からだ。
ぐうぞう・すうはい(偶像崇拝)の きんしと いわれる。
ここでは、 あらしや あめを かみの べつの すがた として かんがえた ために、 こだい いすらえるじんは やくそくを やぶっていると いわれるのだ。
また、 じぶん いがいを かみと かんがえては いけないと かみが いった からだ。
ゆいいつしん(唯一神)と いう。
ここでは、 「ばある」という べつの かみを たいせつに したので、 こだい いすらえるじんは やくそくを やぶっていると いわれるのだ。
ほせあしょの ないようは、 聖書プロジェクト BibleProject - Japaneseが せいれき 2020ねんに つくった「ホセア書 Hosea【概観】」(https://youtu.be/3UZl9h52fSc)という どうがを せいれき 2021ねん 2がつ 23にちに さいごに みた。

うちむら・かんぞうが いんようした ぶぶんは、 かみの ことば である。
つまり、いんように おける「わたし」とは、 かみの ことである。
かのじょとは、ごめる という ひと である。
ごめるは、 ほせあの はいぐうしゃ である・
ごめるは、 せい(性)てきに みだらな ことを していたと いわれる。
せい(性)てきに みだらな こととは、 せいに ついての きはんとは あわない ことを する こと である。
こだい いすらえるじんは、 かみとの やくそくで、 せい(性)てきに みだらな ことを しない ことと やくそくしたと いわれる。
ぐたいてきには、 せい(性)てきに みだらな こととは、 おんなが けっこんの まえに おとこと せっくすすること、 けっこんした もの いがいの いせい(異性)と せっくすする こと、おとこが おとこと せっくす する こと、 おかねを もらって せっくす する こと などが かんがえられている(たとえば、 https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2016/04/26/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%80%A7%E3%80%8D%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%80%8E%E7%94%9F%E3%81%A8%E6%80%A7%E3%80%8F%E3%81%95%E3%82%8F%E3%82%8A/や、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%A6%E6%B7%ABを みよ)。
つまり、 せいさべつ てきな きはん、 いせいあい ちゅうしん しゅぎ てきな きはん、 ものがみー ちゅうしん しゅぎ てきな きはん、 せいろうどうを さべつする きはんに あわない せいこういを すると、 せめられた のである。
その ような きはんは わるい。
とくに、 ここで おんなが おんなと せっくす する ことを むし している ことと、 おんなが せい(性)てきに みだら である として せめられやすい ことに ちゅういする ひつようが ある。
ざいさん(財産) おとこが きほん てきに もっていて、 おんなは ざいさん(財産)として かんがえられているの である。
せいさべつ で、 わるい。
ともかく、 ごめるは けっこん していない ものと せっくすを していた ので、 せめられていた の である。
かみは、 ごめるに ばつを あたえる。
その あと、かみは、 ごめるを ゆるす ことに なる。
この はなしを する ことで、 おとこを かみと、おとこより えらくないと かんがえられていた おんなを こだい いすらえるじんと ひゆとして くらべるている のだ。
つまり、 おんなが けっこん している おとこに したがう ように、 こだい いすらえるじんは かみに したがえ と いっているのである。*1
せいさべつ てき であり、 わるい。
あれのは、まえに こだい いすらえるじんが かみと であった ばしょ であり、
あこるの たに というのは、 しかいに つながる ふかい たに である(http://www.chiba-church.org/recent-sermons/%E8%8B%A6%E6%82%A9%E3%81%AE%E8%B0%B7%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%9C%9B%E3%81%BF/)。

つぎに、にほんごに やくした ときに かんがえた ことを かく。
うちむら・かんぞうが えいごで "home"(ほーむ)と かいた ところは、 いえや こきょうという いみ だが、「すまう ところ」と やくした。

さいごに、 わかりにくい ところの かいせつを する。
「しぜんは しんんくう(vacuum)を きらい」という ぶんが ある。
これは、 こだい・ぎりしあの てつがくしゃである ありすとてれすの とき から あった、 にんきが あった かんがえかた である。
しぜんには ものが つまっていると かんがえられていた。
なぜなら、 もし しんくうの ような すきまが あると かんがえると、 こまかい もの どうし(げんし)が べつべつに くうかんに あると かんがえる ように なり、 いまの せかいが あるのは ぐうぜんで、 かみは いないと かんがえる ように なった から である。

ここから「温故知新「真空」、「真空」の神髄に迫る」 https://www.shimadzu.co.jp/boomerang/24/05.htmlという ぶんしょうを せいれき 2021ねん 2がつ 23にちに よんで かく。
しかし、 せいれき 1643ねんに いたりあの かがくしゃ、 とりちぇりが しんくうに ついての じっけんを して から しんくうが あると おおくの ものが かんがえ はじめた。
そして、せいれき 1670ねんに どいつの げーりえが しんくうを つくる ぽんぷを つくった。
せいれき 1700ねん いこうに、きんぞくなどを ほる やまなどで しんくうを つくる ぎじゅつが つかわれる ように なった。
さらに、 せいれき 1879ねんに、 あめりかがっしゅうこくの はつめいか、 えじそんが でんきを ひかりに うまく する やりかたを つくった。
しんくうの なかで でんきを ながせば、 でんきが とおる そざいが もえない ので、 ながく ひかり つづける ように なるのだ。
いじょうが、 うえの ぶんしょう(https://www.shimadzu.co.jp/boomerang/24/05.html)を よんで かいた ぶぶん である。

この ような じだいの ながれが あった ので、 うちむら・かんぞうは せいれき 1882ねんごろに、 しんくうは せつめい しにくいが、 しんくうは ある という かんがえを もっていたのだろう。

せいりがくしゃの はなし

さらに、「せいりがくしゃが めすで だいのう(大脳)を うばわれた はとの ように、 うごきはじめたが、 どこへ いくのか、そして なにゆえ いく のか しらなかったが、とどまれなかった から なのだ」という いまだ よく わかっていない ぶんが ある。
これは、 おそらく、 ふらんすの せいりがくしゃ、まりえ・じゃん・ぴえーる・ふるーらんす(Marie-Jean-Pierre Flourens (1794–1867))の どうぶつ・じっけんの ことを かんがえているの だろう。
せいりがくしゃとは、 せいぶつの はたらきを ぶつりがく てきに かんがえる もの である。
ふるーらんすは、 せいれき 1825ねんに はとを つかった じっけんを した(Pearce J, M, S、せいれき 2009ねん、 Marie-Jean-Pierre Flourens (1794–1867) and Cortical Localization. Eur Neurol 2009;61:311-314. https://doi.org/10.1159/000206858、せいれき 2021ねん 2がつ 23にちに さいごに みた。)。
Marie Jean Pierre FLOURENS、 せいれき 1842、Recherches Expérimentales Sur Les Propriétés Et Les Fonctions Du Système Nerveux Dans Les Animaux Vertébrés. 、J. B. Baillière. 、454ぺーじ から 468ぺーじ までを みてみる。https://books.google.co.jp/books?id=yfI-AAAAcAAJ&dq=Recherches+exp%C3%A9rimentales+sur+les+propri%C3%A9t%C3%A9s+et+les+fonctions+du+syst%C3%A8me+nerveux,+dans+les+animaux+vert%C3%A9br%C3%A9s+(ed+2).&hl=ja&source=gbs_navlinks_s
ふるーらんすは、はとの ばらんす かんかくを とる ための さんはんきかんを きって かんさつ した。

ここ から いんよう おわり までの ぶんしょうは、 ぼうりょくの はなしを します。
とても ざんこく なので、むり しないでください。
はとの さんはんきかんは みっつの ぶぶんに わけられる。
ぜんはん きかん(前半規管)と、 こうはん きかん(後半規管)と、 すいへい はんきかん(水平半規管) である。(454ぺーじ)
ぜんはん きかんが たてむきに うしろから まえに ななめに ある。(454ぺーじ)
こうはん きかんが たえむきに まえから うしろに あり、 すいへい はんきかんと まじわっている。(454ぺーじ)
すいへい はんきかんが よこむきに ある。(454ぺーじ)
この みっつの ほうこうに たいおうして うえ、した、みぎ、ひだり、まえ、うしろの ばらんすを とっている。
そして、 みみが みぎと ひがりの ふたつ あり、 のうが みぎと ひだりの ふたつ ある ように、 さんはんきかんも みぎと ひだりの ふたつ ある。
ふるーらんすは、 さゆうの すいへい きかんを きると、 すぐに あたまが みぎから ひだりに とつぜん うごいたり、 ひだりから みぎに とつぜん うごく ことを かんさつ していた。(454-455ぺーじ)
ふるーらんすは、 つづけて さまざまな くみあわせで はとの さんはんきかんを きって、 かんさつ する。
しかし、 たとえば、 ひだりの すいへい きかんだけを きると、 みぎから ひだりに あたまは かるく うごくが、 ながくは うごかない。(455ぺーじ)
すぐに きる まえの うごきを とりもどす ことに なる。(455-456ぺーじ)
さらに、 ほかの はとの ひだりの こうはん きかんだけを きると、 うえから したに、 したから うえに あたまが かるく すばやく うごくが、 これも いっしゅん しか うごかない。(457-458ぺーじ)
ばらんすを とり、 きる まえと おなじ ように あるいたり とんだり する のだ。(458ぺーじ)
しかし、 じょじょに ゆれはじめ、 とつぜん うごきだし、あたまを まえから うしろに うごかす ように なる。(458ぺーじ)
せなかから おち、 しばらく すると、 この うごきは なくなり、 もはや ときどき しか この うごきは あらわれなくなる。(458ぺーじ)
Marie Jean Pierre FLOURENS、 せいれき 1842、Recherches Expérimentales Sur Les Propriétés Et Les Fonctions Du Système Nerveux Dans Les Animaux Vertébrés. 、J. B. Baillière. 、454ぺーじ から 468ぺーじ までを みてみる。https://books.google.co.jp/books?id=yfI-AAAAcAAJ&dq=Recherches+exp%C3%A9rimentales+sur+les+propri%C3%A9t%C3%A9s+et+les+fonctions+du+syst%C3%A8me+nerveux,+dans+les+animaux+vert%C3%A9br%C3%A9s+(ed+2).&hl=ja&source=gbs_navlinks_s

この ように、 さんはんきかんを きっても はとは とびつづける ことが ある という はなしを うちむら・かんぞうは している。
しかし じっさいは、だいのう(cerebrum)を こわしたのではなく、きほん てきに さんはん きかんを こわしている。
もしかして、 じぶんが よみとばしている だけ かもしれないが、 うちむら・かんぞうが まちがって おぼえていたり、 うちむら・かんぞうに つたえた ものが まちがっていた かのうせいも ある。

ちなみに、 ふるーらんすは、 さんはん きかんを きると はとが いたがる ことを かいている。(456ぺーじ)
しかし、 じっけんを やめず、 はとを くるしませつづける。
わるい。
じぶんは、くるしみを あたえる どうぶつ・じっけんに はんたいする。

うちむら・かんぞうの ほんやく

「だい ご しょう
せかいに とびこむ。 おなみだ ちょうだいの きりすときょう。〔えいご では おおもじ。〕

「それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。その所で彼女は若かった日のように、エジプトの国からのぼって来た時のように、答えるであろう。主は言われる、その日には、あなたはわたしを『わが夫』と呼び、もはや『わがバアル』とは呼ばない。」
(それゆえ、みよ、わたしは かのじょを いざなって、あらのに みちびいて いき、ねんごろに かのじょに かたろう。その ところで わたしは かのじょに その ぶどうばたけを あたえ、あこるの たにを のぞみの もんとして あたえる。その ところで かのじょは わかかった ひの ように、えじぷとの くにから のぼって きた ときの ように、こたえる であろう。しゅは いわれる、その ひには、あなたは わたしを 『わが おっと』と よび、もはや 『わが ばある』とは よばない。)
ほせあしょ、だい に しょう、 14だんらく、 15だんらく、 16だんらく
日本聖書協会、『口語訳聖書』、せいれき 1955ねん、https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%82%A2%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3) から いんようした。*2
だから、 いつ すまう ところで あった おだやかな きょうかい から、わたしを おいたてられるか、 わが しゅ(主)、 わが おっとは おんみ じしんで かんがえられたのだ。わたしの こころに しんくう(vacuum)を つくる ことで そう された のだ。 あのかたの すまう ところに ある、 あのかたの すべては いかなる ものも さばくには いかない。 しぜんは しんんくう(vacuum)を きらい、 ひとの こころは しんらばんしょうに おける ほかの なにもの よりも しんくう(vacuum)を きらう。 しゅうきょうの さくひんの なかでの かつどうも、 かがくてき じっけんの なかでの せいかも、 みたす ことが できない じぶんじしんの なかの あきち(empty space)を ひょうげんした。この からっぽ(emptiness)の まさに それ じしんの ほんせいに きがつく ことは できなかった。おそらく あるのだろう。 けんこうは どんどん まずくなっていって、 きゅうけいと ひかくてき かんたんな かだいに あこがれた*3。いや、きゅうそくに おとならしく〔おとこらしく、にんげんらしく*4〕なり ながら、ゆうこう(友好)への あの うちかてない せいりてき ようきゅう(call of nature)〔しぜんの よびかけ〕に よって、かなり やつれた かんじと、 からっぽ(empty)の かんじを うけさせられたの だろう。とにかく、 しんくう(vacuum)が あり、 なんとかして なにかで みたさないと いけない。 なにかは この ぼやけた ところに あり、 その せいで しあわせで まんぞくする ように かんじを する ことに なれた のだ と おもった。しかし、 その なにかが なにで あるかに ついて なにも わからなかった*5。せいりがくしゃが めすで だいのう(大脳)を うばわれた はとの ように、 うごきはじめたが、 どこへ いくのか、そして なにゆえ いく のか しらなかったが、とどまれなかった から なのだ*6。それ いらい、この しんくうを みたし つくす という この ひとつの かだいに すべての えねるぎーを そそいだ。」
Kanzō Uchimura, A heathen convert(うちむら・かんぞう、ある かいしんした いほうじん)、せいれき 1895ねん、How I Became a Christian: Out of My Diary、Keiseisha(けいせいしゃ、警醒社)、76-77ぺーじ。(https://books.google.co.jp/books?id=tdMYAAAAYAAJ&dq=uchimura+kanzo+how+I+became&hl=ja&source=gbs_navlinks_s

「しんくう」に にている ことばは、 "vacuum"(しんくう)、 ”empty space”(あきち)、”emptiness”(からっぽ)、 ”empty”(からっぽ)など である。
ほかの ぶぶんでは、 ”vacuum” ’(しんくう) という ことばは ない ようだ。
うちむら・かんぞうも ぶつりがくと きりすときょうの はなしとして 「しんくう」という ことばを つかっている。
しんくうは なにかで みたされる。
えねるぎーと しんくうは かんけいしている。
しんくうは くるしみと かんけいする。
きたいと おなじように こころにも しんくうが ある。
このような かきかたは、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆと にている かんがえかたを している。

しんくうは だれから?

ないようの はなしは ここまでに する。
つぎに、 ぎろん したい のは、では、 うちむら・かんぞうが しんくうという ことばの この ような つかいかたを した はじめての もの なのだろうか? という ぎもん である。
うちむら・かんぞうは、 とくに だれかを さんこうに したとは かいていない。
そこで、 まわりの じょうほうを あつめた。
うちむら・かんぞうは、 この ぶんしょうを かいたと かんがえられる せいれき 1882ねんには さっぽろ・のうがっこうを そつぎょうしていた。
のうがくの べんきょうを していたのである。
かなりの えりーとで あったので、 とうじの ぶつりがくの しんくうの はなしは もちろん しっていた だろう。
しかし、 ほんとうに しんくうの はなしを しっていたかは まだ わからない。
たとえば、 ぶつりがくしゃの ながおか・はんたろうたちが せいれき 1888ねんに しんくうという やくごを つくったと かんがえられている (林主税(はやし・ちから)、せいれき 2009ねん、「日本の真空ことはじめ」、Journal of the Vacuum Society of Japan, 2009, 52 巻, 6 号, p. 303-312, 公開日 2009/07/15, Online ISSN 1882-4749, Print ISSN 1882-2398, https://doi.org/10.3131/jvsj2.52.303, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvsj2/52/6/52_6_303/_article/-char/ja/)。
うちむら・かんぞうは えいごで きょういくを うけていた ため、 にほんごで しんくうという ことばが つかわれてなかった ことは、 うちむら・かんぞうが 1882ねんに しんくう という ことばを かいていなかった しょうこには ならない。
おそらく、 えいごで にっきを かいていた かのうせいも たかい からだ。
えいごで にっきを かいていたのか、 にほんごで にっきを かいていたのかは しらべられていない。
しかし、 ともかく、 うちむら・かんぞうは しんくうを しっていたに ちがいない とは いえない ことが わかった。

そこで、 さっぽろ・のうがっこうで ぶつりを おしえていた ものを しらべた。
「北大の英語教育、札幌農学校の記録でたどる札幌留学の時代」(せいれき 2015ねん)(https://www2.lib.hokudai.ac.jp/archive/node/%E5%8C%97%E5%A4%A7%E3%81%AE%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E8%BE%B2%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2/%E8%BE%B2%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%A0/ )に よると、 Peabody という なまえの ものが ぶつりを おしえていたと わかる。
Peabodyは、 Cecil Hobart Peabody(セシル・ホバート・ピーボディ(1855ねん から1934ねん))である。
ぴーぼでぃーは あめりかがっしゅうこくから きた せんせいで、 すうがくや ぶつりを おしえたらしい。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%87%E3%82%A3、 せいれき 2021ねん 2がつ 24にちに さいごに よんだ。)
さて、 この ぴーぼでぃーの ほんを ちょくせつ よむ ことは できなかった。
しかし、 この ぴーぼでぃーは、 ふねの こうがくや ぼいらーなどの ねつこうがくが せんもんである らしい。(http://rklab.mit.edu/peabody.html、 せいれき 2021ねん 2がつ 24にちに さいごに よんだ。)
まず、 ふねでは、 ふねから みずを だす はいすいの ぎじゅうが たいせつだ。
そして、 はいすい ぎじゅうは、 しんくう ぽんぷの ぎじゅつに つながる。
さらに、 ぼいらー では、 しんくう ぎじゅつを つかうのだ。
ぼいらーとは そもそも、 みずを あつくして じょうきに する ことで、 だんぼうに つかったり、 じょうききかんとして なにかを うごかしたり する ための きかいである。
くうきの あつりょくが ひくい ほうが ひくい おんどで みずは きたいに なる。
つまり、 しんくうに する ための ぎじゅつが かなり たいせつ なのだ。
とうじ、 じっさいに しんくう ぎじゅつが どれだけ つかわれていたかは わからないが、 うちむら・かんぞうが ぴーぼでぃーから しんくうの はなしを ならっていた かのうせいは とても たかい。
かった。
だいさんぶ、かん。

うちむら・かんぞうと てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆ

では、 おわりに むかおう。
うちむら・かんぞうの この ほん、「よは いかにして きりすと しんとと なりしか 」は、 えいごで とても ゆうめいであり、 ふらんすごにも はやく から ほんやくされていた という ことを おもいだそう。
てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは ふらんすごも えいごも つかっていた。
さらに、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは にほんの すずき・たいぜんの ぶんしょうを よんでいた ことも おもいだそう。
この ような じょうきょうで、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが うちむら・かんぞうの この ほん、「よは いかにして きりすと しんとと なりしか」を よんでいた かのうせいは とても たかい だろう。
なにせ、 うちむら・かんぞうは とうじの にほんの きりすときょうとで、せいようで いちばん ゆうめいと いっても いいよう じんぶつである。
さらに、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆも きりすときょうに ついて かんがえた しそうか でも ある。

しかし、 それ ならば、 なぜ うちむら・かんぞうを さんこうに したと かかなかった ので あろうか?
その りゆうは いろいろと かんがえられる。
まず、 『かいえ』は じぶんの ための おぼえがきである。
おぼえがきには、 あたりまえの ことを かかない ものだ。
もし、じぶんで こうかいするなら、 うちむら・かんぞうを さんこうに した ことを かいた かのうせいは あった かもしれない。
しかし、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが しんだ あとに、 『かいえ』は いちぶ こうかい された。
この ような ばあいには、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが じっさいには うちむら・かんぞうを さんこうに していても、 その ことを かかない ことは じゅうぶんに かんがえられる。

つぎに、てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは、 こだい ぎりしあの ぶんかが すきであった ことが りゆうに なると おもわれる。
いまの がくもんの せかいでは、 だれが いったのか、 だれの はなしを さんこうに したのかは、 あきらかに しないと ぬすまれたと かんがえられる。
しかし、 こだい ぎりしあから、 かなり ながい こと、 だれの はなしを さんこうに したのか などの はなしは べつに いわなくても よかった のである。
がくもんを している ものが すくない という ことも あったのだろう。
だれが いったかは いわなくても わかる ことも おおかった だろうし、 もんだいなのは だれが いったか では なく、 どう おもしろく せっとくりょくが ある しかたで ぎろんを くみたてられるか という ところで あったの だろう。
それに、 いんさつの ぎじゅつも なかった ころには、 きおくで かく ことが おおかった だろう。
ほんを てにいれるには、 かきうつす しかない じだいも あった。
ただしく いんようするのは、 むずかしかった じだいも あった。
その ような でんとうに はまっていた てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが、 だれが いったかを もんだいに しなかった かのうせいも かんがえられる だろう。

さいごに、 そもそも てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが うちむら・かんぞうの ぶんしょうを よんでいなかった かのうせいさえ ある。
そもそも、 じぶんが かいた はなしは じじつと ぜんぜん ちがって、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆも うちむら・かんぞうも ふたりとも それぞれ じりきで おもいついたの かもしれない。
きりすときょうの きょうかいで ほかの ものが うちむら・かんぞうに えいきょうされて つかった ことばを さんこうに した の かもしれない。
せいじうんどうの あつまりで、 ほかの ものが うちむら・かんぞうに えいきょうされて つかった ことばを さんこうに した の かもしれない。
そして、 うちむら・かんぞうも てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆも おなじ ひとの はなしを さんこうに しているが、どちらも だれを さんこうに したか かいていない という かのうせいも かんがえられる。
とくに、 きりすときょう かんけいの ひとを さんこうに している ばあい、 じぶんには わからない。
そして、 この かのうせいは かなり ありえると おもう。
とくに てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが さんこうに している、 じゅうじかの よはねという ひとが じゅうりょくという ことばを つかっている かのうせいも あると じぶんは よそうしている。

てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが うちむら・かんぞうに ついて かいていたり、 うちむら・かんぞうの ぶんしょうを いんようしているのが みつかれば、 じぶんの せつも かのうせいが たかまると おもう。
じぶんの せつとは つまり、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが うちむら・かんぞうを よんで、 または その えいきょうで じゅうりょく という ことばを つかいはじめた という よそう である。
もちろん、 だれの えいきょうで かいたかは あまり たいせつ ではなく、 どのように かいているかが もんだい である。
しかし、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆが あまり はっきりと かいていないので、 ほかの ものが どのように かいているかを さんこうに するのは、けっこう うまい ほうほう かもしれないと おもって、 この ぶんしょうを かきはじめた。
さいごに、 うちむら・かんぞうの しんくうに ついて かんがえる ことで、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆの しんくうを かんがえる てだすけに したいと おもう。

うちむら・かんぞうから てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆへ

うちむら・かんぞうの 「しんくう」という ことばは、 いろんな ものに よって よまれてきた みたい である。
むん・じょんほ(文禎顥)「名古屋学院大学建学の精神「敬神愛人」の源流を辿る―内村鑑三の「真空(vacuum)」概念を手掛かりに―」、名古屋学院大学論集 社会科学篇 第 55 巻 第 2 号 pp. 287―314も その ひとつ である。
むん・じょんほは、 307ぺーじで つぎの ように かく。

「再婚への欲求や不健康や罪意識など個人的な問題が内村の真空問題の背後にあると推測されるが,彼の内面にできた真空の直接的な原因は,例えば愛と友愛のない排他的な教派主義,すなわち礼拝堂建築過程においてメソジスト教会から脱会しようとする内村らに対して建築支援金の返納を求める教団の措置などが挙げられる。このような冷たい仕打ちを経験することで,キリスト教への懐疑を持つようになる。さらにそれは自分のキリスト者としてのアイデンティティに対する懐疑になって彼を苦しめるのである。そうして彼の内面に発生したのが何もない空っぽの状態,真空の状態である。」
(さいこんへの よっきゅうや ふけんこうや つみいしきなど こじんてきな もんだいが うちむらの しんくう・もんだいの はいごに あると すいそくされるが,かれの ないめんに できた しんくうの ちょくせつてきな げんいんは,たとえば あいと ゆうあいの ない はいたてきな きょうはしゅぎ,すなわち れいはいどう けんちく かていに おいて めそじすと・きょうかいから だっかい(脱会)しようと する うちむららに たいして けんちく しえんきんの へんのう(返納)を もとめる きょうだん(教団)の そちなどが あげられる。このような つめたい しうちを けいけんする ことで,きりすときょうへの かいぎを もつ ように なる。さらに それは じぶんの きりすとしゃとしての あいでんてぃてぃに たいする かいぎに なってかれを くるしめる のである。そうして かれの ないめんに はっせいした のが なにもない からっぽの じょうたい,しんくうの じょうたいである。)
むん・じょんほ(文禎顥)「名古屋学院大学建学の精神「敬神愛人」の源流を辿る―内村鑑三の「真空(vacuum)」概念を手掛かりに―」、307ぺーじ、名古屋学院大学論集 社会科学篇 第 55 巻 第 2 号 pp. 287―314.

この はなしは しんくうが くるしみを あたえられた けいけんから でてくる という はなしが てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆと にている。
さらに、 うちむら・かんぞうは、 くるしみが あたえられる ことを あいが ない こと、 かみの あいや かみへの あいに きがついている きりすときょうとが あくを なす こと だと かんがえていた ことが わかる。
これは、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆでも おなじ ぎろんに なる かのうせいが たかい。
もちろん、 あいが だいきらいな じぶんに とっては、 ぎろんに おいて てきの いけんに なり、 まったく せっとくりょくを かんじられない。
しかし、 りかいする ための てだすけには なる。
さらに、 うちむら・かんぞうに とって、 しんくうを みたす ためには、 じっせんてきな あい、 つまり じぜんが だいじで あった ことを してきできる(とくに、むん・じょんほ(文禎顥)「名古屋学院大学建学の精神「敬神愛人」の源流を辿る―内村鑑三の「真空(vacuum)」概念を手掛かりに―」、 305ぺーじ から 306ぺーじ、名古屋学院大学論集 社会科学篇 第 55 巻 第 2 号 pp. 287―314.)。
このような ことを かんがえると、 うちむら・かんぞうは にほんという くにに あいちゃくが あり、 にほんの ために ぎろん したに せよ、 にほんの しんりゃく せんそうに はんたいした もの であり、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは すぺいん せんそうで ふぁしすとに よる しんりゃくに たいして たたかった もの であり、 ろうどうしゃへの よくあつに はんたいして、 ふらんすでは ぜねらる・すとらいきに さんかしたり しらべたり した もの であり、 なちす・どいつの ふらんす せんりょうに はんたいした じゆう・ふらんすで かつどうした もの でも あった。
さらに いえば、 てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは、 ふけいじけんの うちむら・かんぞうと おなじように あまり せきにんが ない ことで せめられ、 がっこうで おしえる ことを やめなければ いけなかった。
る・ぴゅいじけんと いわれる らしいが、 ちゃんとした ぶんしょうを みつけられなかった。
てつがくしゃで せいじうんどうかの しもーぬ・ヴぇいゆは、 せいじうんどうか であった。
くみあいうんどうを していた。
こうじょうで はたらいた ことも ある(とみはら・まゆみ、せいれき 2017ねん、「訳者あとがき」、『重力と恩寵』440ぺーじ)。
のうぎょうを していた ことも ある(とみはら・まゆみ、せいれき 2005ねん、「解説」、シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』、岩波書店、178ぺーじ)。

さいごに。

ぜねらる・すとらいき!
おんなの ものと みなされる かじろうどうも ふくめて、 すべて とめよう。
あらたに くるしむ ものを うまれさせるのを やめよう。
「創造の放棄」(そうぞうの ほうき)(しもーぬ・ヴぇいゆ(とみはら・まゆみ やく)『重力と恩寵』、「二 真空と代償作用」、20だんらく、27ぺーじ。)

いたい。
さいとう・まの

*1:ただし、 ここの かいしゃくは べつの かいしゃくも ありえる ようだ。 たとえば、 ほせあしょ、 だい にしょう 25せつを「あなたは長くわたしの所にとどまって淫行をなさず、また他人のものとなってはならない。わたしもまたあなたにそうしよう」(https://tatebayashi-kk.org/kyuyaku/hosea.html#Idx-06)と やくすのか、 「わたしはわたしのために彼を地にまき、あわれまれぬ者をあわれみ、わたしの民でない者に向かって、『あなたはわたしの民である』と言い、彼は『あなたはわたしの神である』と言う」」(https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%82%A2%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3))と やくすのか、「私は彼女を地に蒔き/ロ・ルハマを憐れみ/ロ・アンミに向かって/「あなたはわが民」と言う。/彼もまた言う。「わが神よ。」」(https://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html) とやくすのかで おおきく いみが ちがう。すべて せいれき 2021ねん 2がつ 23にちに さいごに みた。

*2:せいれき 2018ねんの 日本聖書協会の 聖書協会共同訳の ホセア書 二章 16節、17節、18節 では、 つぎのように やくされている。 「16:ホセア書/ 02章 16節 それゆえ、私は彼女をいざない/荒れ野に導いて、彼女に優しく語りかける。 17:ホセア書/ 02章 17節 私はそこで、ぶどう畑を彼女に与え/アコルの谷を希望の門として与えよう。/彼女はそこで、おとめであった日々のように/またエジプトの地から上って来た時のように/私に答える。 18:ホセア書/ 02章 18節 その日になると/あなたは私を「わが夫」と呼び/もはや再び私を「わがバアル」と呼ぶことは/なくなる――主の仰せ。」 https://www.bible.or.jp/read/titlechapter.htmlで けんさく できる。 ちょくせつの りんくは つくれなかった。せいれき 2021ねん 2がつ 23にちに さいごに みた。

*3:"What the exact nature of that emptiness was, I was not able to discern. May be, my health was getting poor, and I yearned after repose and easier tasks."

*4:manhoodは、 おとならしい こと、 おとこらしい こと、 にんげんで あること などの いみが ある ほか、おとこの せいてき のうりょく、 おとこの ぺにすの いみが ある。これは、 おとこという いみが ある man(まん)という ことばが にんげんや おとなという いみが ある。

*5:I had no idea whatever of what that something was.

*6:Like a pigeon that was deprived of its cerebrum by the knife of a physiologist, I started, not knowing whither and wherefore, but because stay I could not.

へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Aかんさつcずがいろん

へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Aかんさつcずがいろん
Aかんさつする りせい

  • りせいしょー 、A、cずがいろん 、c の だい 15 だんらく (くまの やく 502ぺーじ から)
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