さいとー・ま

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へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Aかんさつcずがいろん

へーげる せいしんげんしょーがく、 C りせいしょー、Vりせい、Aかんさつcずがいろん
Aかんさつする りせい

  • りせいしょー 、A、cずがいろん 、c の だい 15 だんらく (くまの やく 502ぺーじ から)

C りせいしょー、 V りせい、 A かんさつする りせい、c ずがいろん

  • c の だい 15 だんらく (くまの やく 502ぺーじ から)

(いしき わ じぶん お いしき する よー に なる。 )
(りせい わ、 げんじつ の すべて が じぶん、 つまり いしき で ある と かんがえる。)
(りせい わ、かんさつ する。)
(りせい わ ひ ゆーき てき しぜん、 ゆーき てき しぜん、 ろんり ほーそく。しんり ほーそく、 かお と こじん の かんけい お かんさつ してきた)

    • じぶん お いしき している こじん わ、 こじん の そと に むきあっている。
    • その むきあう とき の、 こじん と そと の かんけい の なか に、 かんさつ する りせい が たいしょー と する べき かんけい が ある。
      • (ろんり がく わ、 そと と うち の かんけい で なく、 うち と うち の かんけい お かんさつ している。)
      • しんり がく で わ、 そと の もの の げんじつ と、 じぶん お いしき している ほか の ひと の せいしん と の かんけい お かんさつ した。
      • かんそー がく で わ、 みえる そと の じぶん の からだ として ある げんご とゆー ほんしつ の あらわれ、 つまり きごー と、 みえない せいしん と の かんけい お かんさつ した。
          • かんそー がく で わ、 こじん わ かたる。かたる と わ、 じぶん お そと に だす こと である。こじん が そと に だす こと お する こと で、そと に でた もの が うち に かえってくる。 うち に かえってくる と じぶん お いしき して かんがえる。そと に だす こと わ、 じぶん が いしき している もの が うごく こと である○。
          • つまり、 そと の うごかない とくちょー わ、 なに か に かんせつ されて ある。◇
          • つまり、 そと の うごかない とくちょー わ、きごー で ある。▽
      • かんさつ する りせい が たいしょー と する べき かんけい わ、 こじん と ずがいこつ の かんけい である。
      • ずがい ろん で わ、 たん に ちょくせつ ◇ かわらない で ある げんじつ で、 こたい の ほんしつ が あらわされる。
        • そと の もの わ、 かんぜん に うごかない げんじつ、 じぶん お いしき する ごき○ から はなれた たんなる もの に なる。
        • かんぜん に うごかない げんじつ わ、 きごー で わ ない。▽


かんそー がく で わ、 そと の げんじつ わ、 じぶん お いしき する うごき に かかわっている、 つまり かんせつ てき である。かお わ きごー で げんご である。
たいして、 ずがい ろん で わ、そと の げんじつ わ、 じぶん お いしき する うごき に かかわってない、 つまり ちょくせつ てき である。 ずがい わ たんなる もの である。


  • c の だい 16 だんらく (くまの やく 504ぺーじ から)

ずがい ろん で わ、 うち と そと わ、 げんいん と けっか とゆー かんけい である。
(そと わ たん なる もの なので、 じぶん だけ で ある もの である。)
(じぶん だけ で ある もの に かんけい できる の わ、 ほか の じぶん だけ で ある もの だけ で ある。 たとえば、 ぶつり ほーそく に おいて、 かんがえ わ かんけい できない。)
なぜなら、ずがい ろん に おける うち と そと の かんけい わ、 じぶん だけ で ある もの が ほか の じぶん だけ に ある もの に かんけい する とき の、 かならず そー なる とゆー かんけい だから である。
「じぶん だけ で ある もの が ほか の じぶん だけ に ある もの に かんけい する とき の、 かならず そー なる とゆー かんけい」 わ げんいん と けっか の かんけい である。

  • c の だい 17 だんらく (くまの やく 504ぺーじ から)
    • ずがい ろん で わ、 うち が げんいん なので、 うち で ある こじん の せいしん わ、 げんいん である。
    • ずがい ろん で わ、 うち で ある こじん の せいしん わ、げんいん として、 そと で もの として ある からだ である けっか に かんけい する。
    • なので、 うち で ある こじん の せいしん わ、 からだ に かんけい する ので、 からだ の せいしつ お もっている べき である。
    • げんいん として の からだ の せいしつ が ある こじん と いえば、 なに か お する ため の からだ の きかん で ある。 ----
      • からだ の きかん が なに か お する とき わ、 そと の げんじつ に たいして なに か お する の で わ ない。 からだ の きかん が なに か お する とき わ、 じぶん お いしき している ある もの が、 じぶん の からだ に たいして なに か お する。 (つまり、 うち に それ だけ で ある こたい が、 からだ の きかん に あらわれる の だ。 からだ の きかん に あらわれる こと お つーじて、 そと の げんじつ の もの お つくり だす とゆー こと お する。からだ の きかん が なに か お する とき わ、 この そと の げんじつ の もの お つくり だす とゆー こと お する こと まで いかない。なので、 じぶん の からだ お もんだい に する かんそー がく の れべる に とどまる。 そと の げんじつ の もの に ついて もんだい に する ずがい ろん に とどいてない。)
      • からだ の きかん と わ なに か わかりにくい。
        • ▲たとえば、 からだ の きかん と わ いっぱん に なに か? お かんがえる。 する と、 はたらく こと お する ため の からだ の きかん わ、 て で ある と いえる。 また、 せいてき な しょーどー お もつ とゆー こと お する ため の からだ の きかん わ、 せいしょくき である と いえる。
            • ◆かんそー がく で かんがえられる よー な、 からだ の きかん である て や せいしょくき わ、 じぶん お いしき している こたい に たいして ある たいしょー である。じぶん お いしき する とゆー もどってくる こじん わ、 じぶん の からだ とゆー げんじつ に たいして かんけい が ない もの と かんそー がく で わ かんがえられる。(つまり、 うち の こじん お そと が あらわす とゆー ぐーぜん の かんけい が かんがえられる。 ことば と ことば が さす もの の あいだ に わ かならず そー なる とゆー かんけい わ なく、 ぐーぜん そー なる とゆー かんけい のみ が ある。)
            • 「ところがここで理解されている器官は、そのなかで他方のものと結び付けられるべき自己意識的を持った個人が、自分に対立する自分自身の現実性に対して、自分を対自的に維持しているような器官である。〔したがって〕この器官は同時に、外的なものへと向けられた器官ではなく、自分の行為の中で反省して〔自分自身に向けられて〕いる器官なので

あり、そこでは存在〔対象〕の側面は、対他存在ではないのである。観相学的関係におい〔て〕も器官はたしかに、行いについて語る自己内反省した存在であると考えられていた。」(強調省略、〔て〕を挿入した。)(p. 16, 17段落の上から10行目から) 意味が分かってない。
自分なりの言い換え。
観相学的に理解される体の器官、特に顔においては、自己意識を持った個人が個人という自分自身に対してあり(対自的であり)つづける。つまり自己意識を持った個人は自分の意図は何かを考えているという意味で自分に関係している。この内の自己意識を持った個人は、外の現実的な状況に出ていって、個人という自分に戻って来るという形で結び付けられている。このとき、外の現実的な状況は内の自己意識を持った個人に対してある。だから、顔という体の器官は外の現実的な状況に向けて働く体の器官ではない。顔という体の器官は、自己意識を持った個人が何かをするときに、自己意識を持った個人という自分が何をするのかを考え、その体という器官が何をするかを話すというように自分に戻ってくる。たしかに、顔という体の器官はものとしてあるが、他の外の現実的な状況に対してあるのではなく、自分に対してあるのである?。観相学では、顔という器官は自分がすることは何かについて語るという、自分に戻ってくることで自分について考えるというありかたをしてあると考えられていた。顔が「自分はうそをつこうとしている」と話していると観相学者は言うのだ。(なぐれ。) 」

        • ▲しかし、 からだ の きかん わ、 あいだ に ある どーぐ や ぶひん(きかん、organ わ どーぐ、ぶひん とゆー いみ である) と かんがえる べき である。 つまり、 せいしん が からだ の きかん に はたらき かけ、 からだ の きかん が そと の もの、 つまり せいしん に たいして ある たいしょー である。
            • ◆しかし、ずがい ろん で わ、 じぶん お いしき する とゆー もどってくる こじん が、 げんいん として、 じぶん の からだ に えいきょー して、 かんけい が できる。 この とき、 じぶん お いしき する とゆー もどってくる じぶん と じぶん の からだ の かんけい わ、 かならず そー なる とゆー かんけい である。この とき、 じぶん お いしき する とゆー もどってくる じぶん わ、からだ として ある もの に たいして げんいん として はたらいている ので、 なにか として ある ひつよー が ある。しかし、 じぶん お いしき する とゆー もどってくる じぶん が ある としても、 たいしょー に わ ならない。(なぜなら、 あいだ に ある どーぐ や ぶひん であり、 そと の げんじつ で わ ない から である。 つまり、 じぶん と じぶん に たいする たいしょー である そと の もの の あいだ に あり、 じぶん から でて じぶん に もどってくる あいだ に ある もの として じぶん お いしき する とゆー もどってくる じぶん が ある から だ。)
  • c の だい 18 だんらく (くまの やく 506 ぺーじ から)
  • c の だい 21 だんらく (くまの やく ?? ぺーじ から)
    • ずがいこつ とゆー しんだ よー に かたく ある もの わ、 そと の もの である。
    • しかし、そと の ずがいこつ わ、 うち の こじん と はなれていない。
    • ずがいろん で わ、 そと の げんじつ として の ずがいこつ が、 のーみそ の せいしん てき な うごき お しめす と かんがえる。
    • そと の ずがいこつ わ しんだ よー に かたく ある ので とまっていて、 うち で うごく せいしん が そのまま あらわれない。
    • そと の ずがいこつ の ある ほーほー と、 あいだ に ある のーみそ の うごき の かんけい わ、 そと に ある もの の げんいん と けっか とゆー かならず そー なる きかい の よー な かんけい である。
    • ずがい ろん で わ、1. のーみそ の なか に ある からだ の きかん が げんいん と なって、 ずがいこつ の かたち お かえる とゆー けっか お おこす と かんがえる。
    • しかし、 ずがいこと わ しんだ よー に かたい と いっても、 せいめい として の ゆーきたい の いちぶ なので、いきている よー に じぶん の かたち お かえる。
    • さらに、 のーみそ より ずがいこつ の ほー が かたい。
    • だから、 2. ずがいこつ が げんいん と なって、 のーみそ の かたち お かえる とゆー けっか お おこす と かんがえる。
    • 1 でも 2 でも げんいん と けっか とゆー けっか わ おなじ である。 ちがい わ、ずがいこと が げんいん、 つまり じぶん に たいして ある じぶん お いしき する こたい が ちょくせつ えいきょー する もの のなのか けっか なのか とゆー ちがい である。
    • じぶん に たいして ある とゆー ありかた わ、 せいめい として の ゆーきたい すべて に あてはまる ので、 ずがい も のーみそ も じぶん に たいして ある の だ。
    • だから、 3. げんいん と けっか とゆー かんけい わ ない。
      • うち の こじん が のーみそ に も ずがいこつ に も えいきょー お あたえて、 のーみそ も ずがいこつ も おなじ よー に かわる と かんがえる。(よてい ちょーわ)
      • (のーみそ も ずがいこつ も ゆーきたい なので、 それぞれ が じぶん が じりつ てき に うごいて ひとつ に なる ので、) のーみそ と ずがいこつ わ それぞれ じゆー に かたち お とる と かんがえる。
      • ずがいこつ とゆー かたち と のーみそ の せいしつ わ むかんけい である と かんがえる。(ぶどー の かたち と わいん の あじ わ かんけい ない)
      • しかし、 くらべてみれば、 のーみそ わ どっちか と いえば、 じぶん に たいして あり、 ずがいこつ わ どっちか と いえば、 ただ そこ に ある と いえる。
      • だから、 のーみそ も ずがいこつ も ゆーきたい の なか に ひとつ に まとめられている けれど、 たがい が そと で ある よー な かならず そーなる とゆー かんけい である、げんいん と けっか とゆー かんけい お もっている に ちがいない と かんがえる。
        • げんいん と けっか の かんけい わ そと に ある もの で、 うち に ある もの で わ なく、 のーみそ の かたち と ずがいこつ の かたち わ げんいん と けっか の かんけい が ある。

1. せいしん→のーみそ→ずがいこつ
2. せいしん→ずがいこつ→のーみそ
3. せいしん→のーみそ
ゆーきたい ⇣⇡ ↓げんいん と けっか
→ずがいこつ

  • c の だい 22 だんらく (くまの やく ?? ぺーじ から)

脳科学との比較
例えば、うれしいと感じるときに脳のAという部分がより反応すると仮定する。そのときうれしいと感じるというのは何か無規定なものであるから、もっともらしくない。
また、脳は意識の中枢で例えばかゆいとか寒いとかいろんなことを一度に感じているのだから、そのAでの反応がうれしいと感じるというものと対応しているかわからないので、もっともらしくない。
しかし、たくさんのデータを集めれば、対応している可能性を考えれるのではないか?
反応しているところが問題なのではなく、反応してないところが問題なのではないか?
脳の反応は存在ではなく運動だからいいのか?