さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

BTM1

からだ→身体

序文

viii

私がこの本を書き始めたのは、身体の物質性を考えようとしてのことだったが、物質性の思考によって私は他の領域に変わることなく(inevitably)動かされていると気が付いた。主題にとどまるように自分自身を訓練しようとしたが、思考の単なる対象として身体を固定することはできないと気が付いた。身体を超えて世界を身体自身が指し示しただけでなく、自身の境界を越えていくこの動きは、境界自身の動きだが、身体が何で「ある」かにとってかなり中心的であるように見えた。私は主題の痕跡を見失い続けた。私は訓練に対抗することになった。変わることなく(inevitably)、たぶん主題に固定することへの抵抗は手元の(at hand)問題に本質的であると私は考え始めた。

inevitably

at hand

依然として懐疑的だが、このためらいは、いつも身体的問題からいくらか距離をとり、非実体的な方法において、身体的領野の境界を定める、哲学において鍛えられた人々の職業上の難しさかもしれないと考察した。その人々は変わらず(inevitably)身体を見逃すか、より悪い場合は、身体に反抗して書いている。ときどき忘れられるのは、「その」身体はジェンダーにおいて現れるということだしかし、たぶん今やもう一つの難しさがあるのは、成功の度合いは様々だが女性の身体を書き物に落とし込もうとした、女性性(the feminine)を最大限または直接書こうとした、ときどき書くことと書かれることの間の言語的な距離のわずかな印や前置詞さえないこともあった、フェミニズムの書き物の世代の後である。単にそれらのとりみだした翻訳を読めるようになることの問題なのかもしれないが、それにもかかわらずロゴスを使える残り物のかわりにぶんどるためにもどってきていたものも私たちのなかにはいた。

”the” body comes in genders

bring the feminine body into writing

the hint of a preposition or marker of linguisitic distance

for its useful remains

ix

崩壊したロゴスから(from the ruins of Logos)理論化することによって次の疑問が呼び招かれる。「身体の物質性はどうなの?」と。たしかに、最近では(in the recent past)疑問はこんな風に繰り返し言われた。「身体の物質性はどうなの、ジュディー」と。「ジュディー」を付け加えることで、私をより形式的な「ジュディス」から追い出して、私に理論化できないままだった(could not be theorized away)身体的な生を思い出させようとしていると私は思った。この最後の愛称を伝えることには何らかの激怒があり、手に負えない子供、仕事に連れ戻す必要があり、ともかくは、もっとも現実的で、もっとも差し迫っていて、もっとも否定できないものである身体的存在に復帰させる必要があるひととして私を(再)構成する見下すような性質があった。たぶん、それで私に思い出させようとしたのは一見すると失われた女性性(apparently evacuated femininity)であり、ジュディ・ガーラントのキャラ(the figure of Judy Garland)がうっかりのちの占有と脱線が予言できないような「ジュディたち」の一群を生み出したとき、1950年代中頃にそのときに(at that moment)構成された女性性であった。もしくは、たぶん、だれかが私に「生の事実」を教えることを忘れてしまったのか?重要な(=命に係わる)対話があったときに、私自身の想像的な熟考によって我をなくしてしまったのか?そしてもしこの、身体はなんらかの意味で構築されているという考えに固執した場合、たぶん私は本当に、言葉だけが自身の言語学的な本質から身体を作り出す(権)力をもっていると考えていたのだろうか(words alone had the power to craft bodies from their own linguistic substance)?

from the ruins of Logos

in the recent past

take it that

だと思う

dislodge

取り除く、のける、取り払う、押しのける
追い立てる、追い出す、駆逐する

could not be theorized away

exasperation

激怒、憤激

diminutive

愛称、小さな人

patronizing

偉そうな、見下す、恩着せがましい、ひいきにする

bring to a task

words alone had the power to craft bodies from their own linguistic substance

だれか内緒話のために私をわきに呼んでくれる人はいなかったのか?

take me aside


さらに事情が関係ないとは言わないまでも、より悪いとさえいえていたのは、ジェンダートラブルで導入されたジェンダーのパフォーマティヴィティによってだされた疑問であったということだ。(Matters have been made even worse, if not more remote, by the question raised by the notion of gender performativity introduced in Gender Trouble、わからない☆)というのも、もし仮に私がジェンダーはパフォーマティヴだと論じるならば(were to argue)、ある人が朝に起きて、クローゼットかなんらかのより開けた場所を、選択のできるジェンダー(gender of choice)を求めてよく調べて、その日のためにそのジェンダーを着用して、夜には衣服をその場所に戻す(restored)と私が考えたということを意味するかもしれないからである。そのような意図的で道具的な主体は、自身のジェンダーきめるような主体であるが、はっきりとはじめから自身のジェンダー(its gender☆)ではなく、その実存はジェンダーによってすでに決められていると気が付くことに失敗する。たしかに、そのような理論は選ぶ主体の人物像(figure of choosing subject)、人間主義者を、構築を強調することでそのような概念(notion)にかなり対立するように見えるような投企=計画の中心に戻すだろう(would restore)。☆じょーけんほー

to make matters worse

悪いことが重なると


しかし、もし自身のジェンダーを決める主体がいないなら、そして反対に、ジェンダーが主体を決定するものの一部なら、どのようにジェンダー実践を批判的エージェンシー(行為性)の場所として保持する投企=計画を練り上げるのだろうか?もしジェンダーが権力の関係と、とくに多様な身体的存在を作り出すだけでなく規制もする規範的な強制を通じて構築されるなら、どのように生産的強制の効果としてのジェンダーというこの概念からエイジェンシー(行為者性)が引き出されるだろうか?もしジェンダーが自由に着脱可能な巧妙な装置(an artifice to be taken on or taken off)でないなら、そしてしたがって、選択の効果でないなら、どのように文化的決定主義の罠に陥ることなくジェンダー規範の構成的で強制的な地位を私たちは理解するつもり(how are we to understand)なのか?そのような規範がジェンダーの効果だけでなくセックスの物質性も生産し安定化させるような儀礼化された反復をそもそもどのように私たちは理解するつもり(How precisely are we to understand)なのか?そしてこの反復は、この再分節化は一見すると構成的なジェンダー規範の批判的作り直しのための機会を構成することもできるのか?

x

セックスの物質性は規範の儀礼化された反復を通じて構築されていると主張することは、ほとんど自明の主張ではない。実際、「構築」の私たちが持っている慣習的概念は、そのような主張を理解することの妨げになるように思える。というのも、確かに(surely)身体は生きたり死んだりする。食べたり寝たりする。痛みを感じたり快感を感じたりする。病気に耐えたり、暴力に耐えたりする。そしてそうした「事実」は、懐疑的に示すかもしれないように(one might skeptically proclaim)、単なる構築物として切り捨てることはできない。確かに(Surely)それらの一次的かつ反駁不可能な経験を伴うなんらかの種類の必然性はあるにちがいない。そして実際にある。しかしそれらの反駁不可能性はそれらのことを主張することやどんなにとりとめない方法を通じてでも意味するだろうことを全く含意しない。☆(But their irrefutablity in no way implies what it might mean to affirm them and through what discursive means☆)。さらにいえば、なぜ構築されたものは人工的で、なくても済む性質として理解されるということになるのか?(why is it that what is constructed is understood as an artificial and dispensable character?☆)それがなければ考えること、生きること、全然理解することができないような構築物、私たちにとっての一種の必然性を獲得するものによって私たちは何を作ろうとしているのか?身体のなんらかの構築物はこの意味で、私たちはそれらなしでは作動することができない、それらなしでは「私」も「私たち」もないような意味で、構成的なのか?身体を構築されたものとして考えることから要求されるのは、構築物そのものの意味を考え直すことである。そしてもしなんらかの構築物が構成的に現れるとしたら、つまり、「それなしでは」私たちは決して考えることができないだろう存在のこの性質を持っている(have this character of being that "without which" we could not think at all☆)としたら、ある高度にジェンダー化された規制的な図式の生産的な強制のうちで、身体は現れるだけ、耐えるだけ、生きるだけだと私たちは示唆するだろう。

get in the way of

の邪魔になる

discursive means

p. xiii (5) a linking of this process of "assuming" a sex with the question of identification, and with the discursive means by which the heterosexual imperative enables certain sexed identification and forecloses and/or disavows other identifications.

構築物を構成的な強制としてこのように理解することを考えたら、どのようにこのような強制が理解可能な身体の領域を生産するだけでなく、思考不可能な、アブジェクトな=みじめな、生存不可能な身体の領域も生産するのかという批判的な疑問をあげることは依然として可能か?この後者の領域は前者の反対ではない、というのも対立は結局のところ理解可能性の一部であるからで、後者は自身の不可能性の亡霊(spectre)、理解可能性のまさにその限界、その構成的外部として前者の領域にとりつく排除され解読不可能な領域である。ならば、どのように、同じようには物言う(matter)ことないそれら、もう一つの身体の領域を思考不可能で生存不可能にすることを通して、「必然の」身体の領域を構成するまさにその言い方=条件(terms☆)を変えるだろうか。☆

spectre

(of sth), sth unpleasant that people are afraid might happen in the future
(literary) a ghost

多くの場合フェミニズムの理論のなかで流通してきた「構築物」の言説は、たぶん手元の仕事にかなり適切でない。ジェンダーの文化的構築が進行する際の安定した参照点、または関係する参照点として行動する(acts)前言説的「セックス」がないと論じるのは十分ではない。セックスがすでにジェンダー化されている、すでに構築されていると主張することは、セックスの「物質性」がむりやり生産されるのがどのような方法か説明することではまだない。身体が「セックス化された」ものとして物質化されるときの強制(the constraints by which)は何か?そして、繰り返され、暴力的な文化的理解可能性の限界としての、セックスの、そしてより一般的に身体の「もの(matter)」をどのように理解するつもりか?度の身体が物言う(matter)ことになるのか?そしてなぜ?☆

そして、このテキストが提供されるのは部分的に混乱をひきおこしてきた『ジェンダートラブル』のいくつかの部分の再思考としてであるが、性的にそして政治的なもの(matters)を作り出すことにおける異性愛ヘゲモニーの働きについてより考える努力としてでもある。☆フェミニズムクィア研究を含む多様な理論的実践の批判的再分節化として、このテキストはプログラムに従うものになるよう意図されていない。しかし私の「意図」をはっきりさせる試みとして、あたらしい一連の誤解を生産する運命にあるようだ。私はそれらがすくなくとも生産的なものになることを望んでいる。