さいとー・ま

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ラカンからイリガライへ

横田祐美子(よこた・ゆみこ)の「意味の流動性とふたつの唇ーーイリガライにおける叡智的なものと感覚的なものの交差」(2023)日仏女性研究学会『女性空間』40: 65-72. を読んだので、ファンレターを書く。個人的には、バトラーの記述の位置づけをきれいにしてもらって、とても助かった。バトラーが濫喩(らんゆ)でイリガライの議論を位置づける理由をはっきりと教えてもらえたと思う。さらに、それを乗り越えて、濫喩(らんゆ)という言語のモデルだけではなく、身体のモデルもイリガライは使っていることをはっきりと示してくれた。とても面白く読んだ。とくにフランス語のsensが意味、方向、感覚、官能といろいろな意味でとれるところを使っての読解はきれいだった。さらに、イリガライを本質主義として読むことの問題点をイリガライの議論のなかから導き出す手腕は流石であった。イリガライを本質主義ではない仕方で読む文献は特に英語圏の文献で盛んにされていることを注1で触れているので、それらの文献とは違う読み方なのかどうかに興味がある。

イリガライはラカンに大きく依拠して話を進める。イリガライはもともと精神分析家で、ラカンに教育分析を受けているのだから当然ともいえる。もちろん、イリガライはラカンを厳しく批判したことで有名であるので、ラカンの議論を無批判に受け入れたわけではない。そこのところは、ラカンが師匠のレーベンシュタインとその自我心理学を厳しく批判したのと似ているだろう。さらに言えば、イリガライはラカンから追い出されて哲学に焦点を移していることから考えてみても、ラカンを受け継いでるとは到底言えない。しかし、イリガライはラカンに大きく依拠して議論をしている。つまり、ラカンを批判しているという意味で大きく依拠しており、ラカンの議論の根本的な点を批判しているという意味で大きく依拠している。

横田(よこた)によれば、イリガライは意味の真面目さの先を考察している。意味の真面目さとは、あるものと別のものが一対一で対応することである。言っている言葉と考えていることが同じ時に、それは真面目であると考えられるのである。イリガライはファルス的なものの特徴は意味の真面目さにあると主張している。それでは、ファルス的なもの、とはそもそも何なのであろうか?

ファルスという言葉をはっきりと術語として使っていたのがまさにラカンである。フロイトはファルスのことをペニスという言葉で記述することもあるし、フロイトラカンのようには抽象化を推し進めることはなかった。ラカンはファルスをかなり独特な意味で使う。ラカンの使うファルスという概念を理解するためには、まず、その単語の見かけまでも抽象化してしまう必要がある。ときたま、ラカンx(エックス)という記号を使ってファルスを表す。つまり、理論のことだけを考えれば、名前は実のところどうでもいいのである。しかし、すぐに付け加えなくてはいけないのは、臨床や歴史のことを考えなくてはならないから、「ファルス」という字面をラカンは利用したくなっていたのである。ラカン精神分析家である。精神分析家は何もないところから理論を作り出すのではない。臨床のために臨床から理論を作り出すのである。ラカンは自分と仲間の精神分析家の臨床のために、フロイトが臨床から作り出した理論を抽象化していった。それゆえ、歴史的にも、フロイトの用語を奪い取って抽象化する必要があった。それゆえ、ファルスという字面を利用した。

しかし、このことは、アンチフェミニスト精神分析家がよくいう「フェミニストはファルスとペニスを混同している」という批判には使えない。ラカンこそが歴史を踏まえるゆえに臨床のためにファルスとペニスの混同を利用しているのであるのだから。もちろん、ラカンカレン・ホーナイなどに対してはペニスとファルスの混同を指摘して批判している。しかし、ラカンが厳密にペニスとファルスの区別を維持していたかと言えばそうではない。セミネールの4巻『対象関係』のドラの議論ではそこらへんははっきりと区別していない。それにもかかわらず、ラカンがファルスとペニスを区別しているというならば、いつのラカンがどのように区別しているかを明確にする必要がある。自分が依拠するのは主にセミネールの5巻『無意識の形成物』以降のラカンであり、ファルスとペニスの区別とは理論上行われているに過ぎず、臨床と歴史から言えばその混同を利用している。ただし、いつまでのラカンがこのようなことをしているかはまだ自分も把握できないことを告白しておこう。

それゆえ、ラカンが理論上は抽象化を進めたにもかかわらず、女性差別的な歴史と女性差別的な臨床を無批判に維持していたことをフェミニストが批判するのは当然であり、妥当である。

では、ラカンが理論上、ファルスをどのようなものとみなしていたのか。ここからは、原和之(はら・かずゆき)の議論に多くを負う。わかりやすさのために発達論的な説明を行う。ただし、精神分析の発達論であることに十分注意してほしい。実際の子供の発達を論じているのではなく、精神分析における発達論は、分析主体(患者)がどのように自らの歴史に後から規定されているのかを考える(と考えたほうが精神分析家ではない人には分かりやすい)。つまり、発達は実際に起こっているというよりも、後から歴史を整理するとその歴史は分析主体にとって理論化された発達として捉えられる、という意味である。

分析主体が子供の時に、周りには自分ではない誰かが居たはずである。その他者は、精神分析では母と言われる。これは近代化において女性が育児を担わされたことから、そのような他者を分析主体にとっての母として思い描いたことを原因として考えられる。つまり、理論的には母である必要はない。したがってここでは歴史を踏まえて、母性的他者と名指しておこう。この母性的他者が現れているかどうかは子供にとって重要である。なぜなら、母性的他者が居ないと生きていけない、または食べ物などが食べられず苦しくなるからである(ここに子育てを女性一人に担わせる近代家族の影響を見て取れる。母がいなければ、別の人が育てればいいのだから、母性的他者でなくていいとはすぐにはならない。さらにいえば、ここから母は子供のそばにいるべきだいないべきだという議論は導かれないことには注意せよ)。母性的他者が現れているのかそこに居ないのかは子供にとって大事なのだが、子供はなんとかその周期を理解して、不安をコントロールしたいと思うはずである。そこで、母性的他者は欲望をしていると想定してみる。つまり、母性的他者は子供自身以外の何かを欲望しているからどこかに行ってしまうと考えるのである。ここで登場するのが理論的にファルスと名付けられる。つまり、母性的他者はファルスを欲望しているから子供としての分析主体のもとに現れないという想定である。このファルスをめぐっていろいろな想定をすることが発達となっていく。そして、そこがまた複雑で難しいのだが今回は省略する。ともかく、理論的には実際はファルスなんてない、つまり不可能なのだが、それを禁止されたものと思い込むことで不安を抑え込むこんで、少なくとも男の子のエディプスコンプレックスという不安は抑え込まれる。

このファルスについての発達論的な説明から、言語論的な説明に移ろう。まず、言語とはここではモデルであることを把握する必要がある。つまり、ラカンが言語について話しているとき、人々が使う言語の話をしているとは限らないのである。特に顕著なのは、ランガージュという言葉が使われるときには注意が必要である。セミネールの2巻『自我』の最後の方のやりとりでは、ランガージュは置き換え可能な項目を並べたもので、固有の法則によって並べられていることが分かるものであることをはっきりと言っている。無意識の働きをランガージュ、つまり置き換え可能な項目を法則にのっとって並べられたものというモデルで考えることで、無意識についての理論を作り出したのである。では、なぜそのようなモデルがランガージュ、つまり言語という名前がつけられるかといえば、人々が使う言語がそのようなものだからである。つまり、「石は硬い」という文を考えると、「石」という項目と「は」という項目と「硬い」という項目を並べたものであることが分かる。そして、「石」は「プラスチック」に置き換えられ、「は」は「が」に置き換えられ、「硬い」は「丸い」に置き換えられる。ちなみにこのように言語の特徴を述べたのは、ヤコブソンであった。そして、その置き換え方も、並べ方もなんでもいいわけではなく、文法という法則に従っているのである。このように、無意識もたとえば、「馬、不安」というような並びになっており、馬は子ども自身、母、父などと置き換わるようになっているのである。ちなみにこれはハンスという症例の例から考えた。

そして、この項目がシニフィアン(意味するもの)であり、それに対して他の項目との関係を変えることなく置き換えられる項目がシニフィエ(意味されるもの)である。ラカンシニフィアンシニフィエの関係をこのようにはっきりと言っているわけではないので、確かであるとは言えない。しかし、わかりやすさのためにこのように説明しておこう。もちろん、先の説明の例を持ってきて「石」というシニフィアンシニフィエが「プラスチック」であると言いたいのではない。それは文法上置き換えられるだけであって、他の項目との関係が変わってしまう。

さて、ファルスは、大他者の欲望のシニフィアンである。大他者とは大事な他者のことだとここでは考えていてほしい。つまり、他の項目との関係を変えることなく大他者の欲望というシニフィエに置き換えることができる項目がファルスである。このことを、発達論的説明においては、母性的他者の欲望しているものがファルスであると説明した。これを言語論的に説明すると、母性的他者の欲望というシニフィエをファルスというシニフィアンで置き換えることができる、という説明になる。ここでは、他のシニフィアンとの関係に位置づけるために具体化しているのである。つまり、母性的他者の欲望という謎をファルスという答えに具体化することで、そのファルスという答えをどうにかすれば、母性的他者を常に現れさせておくことができるというような解決の可能性を残すのである。母性的他者の欲望という漠然としたものを、ファルスという具体的なものに置き換えることで、無意識のなかで位置づけることができ、他の項目との関係を考えることができるのである。

実際は、母性的他者の欲望をシニフィエとして持つようなファルスというシニフィアンは存在しない。不可能である。しかし、不可能であることを禁止されたものであると考えることで、不安をなんとか抑え込もうとする。このような働きがエディプス・コンプレックスがとりあえず観察されなくなるころには起きている。しかし、ファルスが可能なのだと言い張ろうとすることがある。それがある種の哲学である。究極の真実があり、それを見つけ出そして、未知を既知としようとすることがある種の哲学であるならば、まさにその哲学はファルスを可能だと言い張ろうとしているのである。また、表現に対して意味が一意に決められるというある種の哲学もファルスが存在している、つまり母性的他者の欲望を一意に表現できる項目が存在していると考えるために、ファルスが可能だと言い張ろうとしているのである。ラカンはそのような種類のいくつかの哲学を批判的に考察しているらしいが、自分はまだそのようなラカンの記述は直接検討したことがないので、伝聞でしかない。すくなくとも、ラカンがこのようなファルスが可能だと信じていると読解するのは難しいだろう。



横田(よこた)によると、イリガライはファルス的なものを意味の真面目さと説明したあとに、それを「一致、一義性、真理」と説明しているらしい(66)。これはファルスが可能であると言い張る哲学の特徴を言い表してるのだろう。この哲学のあり方を横田(よこた)は「ファルスのようにありありと現前するもの」と説明している(68)。ただし、ラカンにとってはファルスはありありと現前しえないものである。ファルスがありありと現前しているのは、ラカンも批判的に距離をとっていたであろう哲学の特徴であって、ラカンの議論の特徴ではない。ラカンにとって、ファルスは隠される形でしか機能しない。ファルスは不可能だから無い、にもかかわらず、隠されている、つまり禁止されていると読み換えることによって不安を軽減することができるのである。ということは、ここでイリガライはラカンとともに、ある種の哲学を批判しているのであって、ラカンから批判的に距離を取っているわけではない、ということになる。

では、ラカンをイリガライはどのように批判したのであろうか?それについては、「コジ・ファン・トゥテイ」など『一つではない女の性』を読み解かなければいけないだろう。「流体力学」などもラカン批判をしていてた気がするが、どうだったかあまり覚えていない。最初の目論見では、イリガライがラカンを批判しているとして書いていたが、予想外なことにラカンを受け継いでいるイリガライの側面ばかりを書いてしまっていたようである。これは今後の課題として、イリガライによる議論を、ラカンの議論の文脈に戻すとどのようなことが言えるかを検討しよう。

ある種の哲学は、ファルスが可能だと言い張って、表現と意味が一致するような真実が一義的に決まると考えていた。ラカンは意味が定まらないことをシニフィアンの横滑り(la glissement)と表現していた。シニフィエシニフィアンが一対一対応することはない。常にシニフィアンは滑っていってしまって、違うシニフィエと対応し得る。特に顕著なのは、セミネールの四巻の『対象関係』でのハンスの症例の検討であろう。ハンスは馬に対して恐怖を抱く恐怖症になるのだが、その馬というシニフィアンは、母、ハンス自身、父、ファルスと様々なシニフィエをとるとラカンはいっている。ただし、その順番は確認が必要である。忘れてしまった。ともかく、ファルスという対応関係が可能だと主張する哲学にラカンは与しない。
そして、イリガライもその種の哲学とは違う道を進もうとする。意味が複数あること、意味が流動することを重視する。意味が複数ある、つまり両義的である、つまり曖昧であるとは、置き換える項目が複数あることを意味する。意味が流動することは、意味が固定していないことを意味するので、ラカンのいうシニフィアンの横滑りと対応しているだろう。イリガライはさらに、そのことを言語モデルだけでなく、身体のモデルと物質のモデルを使って描いていく。例えば、唇。例えば、水である。

横田(よこた)が引用しているイリガライの引用を読むと、ラカンの前提の一つを批判していると読み取ることができる。そもそも、ラカンの理論において、子供が母性的他者の現前と不在のリズムにさらされることは当然だった。しかし、イリガライにとって、女性はこのリズムに晒されず、常に二として触れ合っていることを主張しているように思える。これは、不可能である享楽を、つまり母性的他者が常に現前するという不可能な事態が、禁止されているという前提において禁止を打ち破ることができるのであるというある種の哲学に対して、そもそも禁止もされてもいなければ、不可能であるわけでもない、可能であると言っているように読める。ここでラカンを批判しているといえるだろう。ラカンにとって不可能であることは動かせない事態で、そのうえでどうするかを考えていた。しかし、イリガライにとっては、その不可能だという考え方こそが問題であるということだろう。可能だといっている点である種の哲学とイリガライの議論は共通している。だからこそ、イリガライは哲学に移行したと言えるかもしれない。しかし、ある種の哲学とも違う風に可能だと言っているわけである。ある種の哲学は禁止されているが可能であると述べるのに対して、そもそも禁止されていないともっていくのである。

しかし、これをそのまま受け止めていいのだろうか?イリガライは模倣の達人ともされている。哲学的議論を模倣する。あらたに議論を立てるというより、議論を誇張し、その問題を暴き出す。そんな印象を自分は持っていた。そう考えると、ここで享楽を可能だと主張するのは、哲学の模倣ではないか?いや、それとも別の仕方で哲学をしているのか?意味の真面目さの領域ではないが、イリガライが不真面目に模倣をしているのか、それとも真面目に別の仕方で哲学をしているのか、はたまたそのあいまいさが重要なのか、そこのところをもう少し考えてみたいと思った。