BTM-3-5 同一化、禁止、「ポジション」の不安定性 p. 63-64
3 幻想的同一化とセックスの引き受け
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3-2 同一化、禁止、「ポジション」の不安定性
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もちろん、私は主語が様々な同一化に先立ち、活性化させているかのように「私」や「我々」の文法を使っているが、これは文法的虚構であり、たとえ私が作りたいと思っている虚構に反対の解釈を強化する危険を冒しているとしても使うのをいとわない虚構である。というのも、セックスの引き受けに先立つ「私」はなく、同時に不可能だが必要な同一化でないような引き受けはないからである。しかし、私がこの時間性を否定する(denies)文法を――おそらく私がそれによって使われているように――使っている理由は、ただ私自身のなかにラカンの時折こじつけた散文を再現する欲望が見つからないからである(私自身のものもまあ難しい(my own is difficult enough☆))。
counter to にはんたいする
run counter to (教訓、法則に)背く、反する
run a risk 危険をおかす
replicate 再現する、応答する
tortured 苦しんでいる、こじつけた
enough 文修飾をつくる、まあ、皮肉まずまず、どうやら、まあまあ、全く、すっかり、十分に
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同一化することは欲望に対抗することではない。同一化は欲望の幻想的な軌道と解消である(a phantasmatic trajectory and resolution of desire)。場所(place)の引き受けである。欲望の時間的解消を通じて同一性を可能にするが、たとえ否認された形式においてだけでも欲望のままである対象を領土化することである。
if only たとえ…だけでも
私が多様な同一化を参照することはすべての人がそのような同一化の流動性であったり同一化の流動性を持っていたりすることによって強要されることを示唆しているということを意味してない。セクシュアリティは禁じられた対象を回収する幻想に動機づけられているのと同じくらいそのような回収が引き起こすかもしれない懲罰の脅しから守られているままでいたいという欲望で動機づけられている。ラカンの作品においてはこの脅しは普通<父の名>つまり、適切にそして多様に排他的な同一化と欲望の線引き(lines☆)を含む適切な親族関係を決定する父の法として示される。その禁止により生み出された懲罰の脅しが偉大過ぎるとき、この人に我々を引き付けるときに、それがゆえに我々が懲罰に値する欲望を見ることを妨げたままにするだろうだれかを我々は欲望することになるかもしれないし、我々は事実上、事前に自分自身を懲罰していて、実際にその自己懲罰において、通じて、そのゆえに欲望を生産しているかもしれない。
retrieve 取り戻す、回収する、回復する
generate 生産する
さもなくば、一定の同一化と加入がつくられ、一定の同情的な結合が拡大するのは、まさに傷や攻撃に満たされすぎているように思えるポジション、結果として生存可能なアイデンティティーの喪失を完全に想像することを通じてのみ占有可能なのかもしれないポジションへの非同一化を設立するためであるのかもしれない☆。したがって、それによって他の者に加えられた傷に、自分自身へ加えられた傷から注意を逸らすために抗議するような、同情的なふるまい、それによって他者を通じてかつ他者として自分自身に同情するような、移動の媒体にそのときなるようなふるまいという点で奇妙な論理☆。(さらに(futher)☆このまさにアブジェクション〔=棄却〕に満ちたことによる恐怖と/か不運にも怒りにとりかかることで)自分自身の名で傷を請願することを禁止された、ある者は他の者の名で請願をつくり、おそらく形勢が逆転し自分自身のものだというだろう者たちを非難するにまでいく☆。もしこの「利他主義」がナルシズムや自己愛の移動を構成しているのならば、そのとき同一化の外部の場所は不可避的に収用に伴う憤り、ナルシズムの喪失に満たされることになる。利他主義の政治的形式の核心にある両義性への説明。