さいとー・ま

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らかん、ろーま こーえん0

p. 16

精神分析が、回復、育成、調査の能動者(agent)になることを望むとしても、精神分析にあるのは、一つの媒体、つまり患者=受動者のパロールだけである。事実が明白であることが、その媒体を無視することを許すことはない。ところで、いかなるパロールも返答を呼ぶ。

我々が示すことになるのは、返答なきパロールはない、たとえぱろーつが沈黙にしか会わなくとも、パロールに聞くものがいる限り、ということ、そして、それが分析におけるパロールの機能=関数の核であることである。

しかし、もし分析家がパロールの機能についてはそういうことになっているということを知らないと、そのために分析家は呼びかけに、より受け身にしかならないということになり、まず分析家に聞こえさせるのが空=むなしさであるのは、それ自体で分析家がそれ=空を感じることになるからであり、パロールの先でこそ分析家はこの空=むなしさをうめる現実性を探すことになるのだ。

こうして、分析家は主体のふるまいを分析するに至り、そこ=ふるまいに主体がいっていないことを見つける。しかし、言っていないことの告白を手に入れることにまさに必要なのは、主体が分析家にそのことを話すことなのだ。そのとき主体が再び見つけるパロールは、しかし自身の沈黙の厄介払いに対してしか返答していなかったという疑いはあるが、それ自身の無の知覚された反響の前にある。

しかし、それでは、主体の言葉の空=むなしさの先にある主体の呼びかけとは何か? その元々においての真理への呼びかけ、それを通じて、よりどうでもいい欲求の呼びかけが揺れていくのだ。しかし、まず、そして一挙に空=むなしさのよびかけであり、それがあるのは、あらゆる手段をつうじて他人に向けられて試される誘惑のあいまいな裂(la bénance)のなかであり、主体はその裂に執着し、そして主体はその裂に巨大なナルシズムを入れ込もうとする。

のーどーしゃ が じゅどーしゃ に はたらきかける とゆー のーどー と じゅどー の かんけい お かんがえる とき、 はたらきかける もの と はたらきかけられる もの の あいだ に ばいたい、めでぃあ、 あいだ に ある もの お かんがえる こと が できる。
せいしんぶんせき が はたらきかける もの と なる とき に、 はたらきかけられる もの わ、 じゅどーしゃ また わ かんじゃ と よばれ、 あいだ に ある もの わ その じゅどーしゃ また わ かんじゃ の はなした こと だけ である。 つまり、 せいしんぶんせき わ ぶんせきしゃ の はなし しか つかえない とゆー こと である。 ぶんせきしゃ と わ、 ぶんせきか の こと で わ ない。 ぶんせき お うける もの お らかん は の せいしんぶんせき で わ、 ぶんせきしゃ と ゆー。 らかん わ この とき わ そのよー な ことば お つかっていない が、 かいせつ の ため に、 この ことば お つかう。
また、 あと で らかん わ よっつ の でぃすくーる とゆー かんがえかた お だす。 そのとき に、 はたらきかけるもの と はたらきかけるもの と うみだす もの と しんり とゆー よっつ が だいじ に なる。☆
せいしんぶんせき が ぶんせきしゃ である はたらきかけられる もの の はなし お とーして しか はたらきかけられない と ゆー の わ、 もくてき に よって かわる こと わ ない。 つまり、 しんけいしょー の かんじゃ お なおす こと が もくてき で あっても、 ぶんせきか お そだてる こと が もくてき で あっても、 かんじゃ の びょーき の げんいん お ちょーさ する こと が もくてき でも(sondage の ぶんせき と わ ぐたいてき に なに か わからない。)、 はたらきかけられる もの の はなし しか つかえない とゆー こと わ おなじ である。
たとえ、 じじつ が はっきり していても、 じじつ お りゆー に はなし お むしする こと わ できない。 たとえば、 その とき に そんな とらうま の たいけん が なかった と はっきり わかった としても、 せいしんぶんせき に おいて はなされた こと お ひてい する こと わ ゆるされない。 じじつ より はなされた こと が だいじ なのだ。
はなし とゆー の わ、 はんのー お よぶ。 また わ、 はなし わ はんのー と よばれる。(appelle réponse と むかんし に なっている りゆー が わからない。)

らかん が しゅちょーする こと に なる の わ、 こたえ が ない はなし とゆー もの わ ない とゆー こと である。 へんとー が ない ぱろーる わ ない とゆー こと である。 もしかしたら、 きいている ひと わ こえ で こたえない かも しれない。 つまり ちんもく に なる かもしれない。 しかし、 こたえ、つまり へんとー、 また わ おーとー が ない わけ で わ ない の だ。ちんもく じたい も こたえ と なる から である。
この こたえ が ない はなし わ ない とゆー こと が、 せいしんぶんせき の なか で はなす こと の はたらき の ちゅーしん に ある。 つまり、 こたえ が ない はなし わ ない から せいしんぶんせき で はなす こと が なんらか の はたらき お もつ こと に なる。

しかし、ある ぶんせきか が せいしんぶんせき に おける はなす こと の はたらき に ついて しらない と しよー。 その とき、 ちんもく も こたえ である とゆー こと など お しらない ぶんせきか わ、 ぶんせきしゃ から の よびかけ に たいして うけみ に なる しか ない。なぜなら ちんもく で こたえる とゆー こと や せっしょん お おえる とゆー こと で こたえる ほーほー お しらない ため、 うまく はたらきかけられる もの に はたらきかける こと が できない から である。

また、 もし ぶんせきか に はなし が むなしく なっているよー に きこえた としたら、つまり ぶんせきしゃ が どーでも いい はなし お している と まず かんじた としたら、 その ぶんせきしゃ に なにか むなしさ の げんいん が ある の で わ なくて、ぶんせきか その ひと じしん が その むなしさ お かんじている こと に なる の である。 そして、 はなし の さき に、 つまり はなし いがい の ふるまい や なんらか の じじつ に、 この どーでも いい こと お はなしている こと お うめる りありてぃー お かんじる げんいん お さがしもとめてしまう こと に なる。

こーして、 ぶんせきか わ しゅたい の ふるまい お ぶんせきして、 しゅたい が いっていない こと お みつけだそー としてしまう。 しゅたい と わ、 ぶんせきしゃ の こと である。
しかし、 しゅたい が いっていない こと に ついて はくじょー させる ため に わ、 しゅたい の ふるまい お ぶんせき する の で わ なくて、 しゅたい に その いっていない こと お いってもらう よー に しなければ ならない のである。しゅたい が いままで いっていなかった こと お いった とき、 しゅたい が さいはっけん(再発見)する はなし わ、 しゅたい じしん の む(無) の かんじられる ひびき の まえ に ある。
ただし、 この しゅたい が はなしていない こと お はなす とゆー の わ、 ただ たん に、 ちんもく している こと に たえられなかった から てきとー に いった とゆー かのーせい わ ある。
しかし、 しゅたい わ はなし の さき に、 なんらか の とらうま で わからなくなった む(無) とゆー たどりつけない ものの、 えいきょー お あたえる げんじつてきなもの と かかわり が もてる よー に なる。 とらうま で たどりつけない む(無) わ、 えいきょー お ひびき とゆー かたち で かんじられる よー に する。 その ひびき が ぱろーる の さき に ある とゆー こと が わかる よー に なる のだ。

しかし、しゅたい が いう こと の どーでも よい こと の さき に ある しゅたい の よびかけ と わ なんだった の だろー か? と らかん わ とい お たてる。つまり、 しゅたい が どーでも よい こと お はなす こと に ひきつけられる(appel)の わ なぜ だろー か? とゆー とい で も ある。 その こたえ わ、 しんり え の よびかけ である。 つまり、 しんり お しゅたい わ よびかけている と らかん わ かんがえている。 しかも、 もともと さいしょ から しんり となる む、げんじつてきなもの お もとめている と らかん わ かんがえる。 しかし、 ちょくせつ に ひかれる の で わ なく、 どーでも よい よっきゅー の よびかけ お いろいろ かえる こと で しんり に ひかれていく の である。

しかし、しゅたい の よびかけ と わ、 しんり え ひきつけられる と どーじ に、 まず むなしさ の よびかけ、 むなしさ に よって ひきつけられる こと で も ある の である。 そして、 その むなしさ の よびかけ が ある の わ、 ぶんせきか お ためす か の よー な ゆーわく の なか で ある。 つまり、 しゅたい わ ぶんせきか お よろこばせよー と さまざま な こと お いって ゆーわく してくる こと に、 しんり に むかう みりょく で わ なく、 むなしさ から の みりょく とゆー もの が ある。 しかし、 この ゆーわく わ ふたつ の いみ が あって あいまい である。 ふたつ の いみ と わ、 しゅたい が その ゆーわく の あいまい さ に ほれこむ と どーじ に、 ゆーわく の あいまい さ お けす よー に なるしずむ お いれこもーとする とゆー ふたつ の いみ である。