さいとー・ま

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らかん、けいせいぶつXIV、 2

らかん、 むいしき の けいせいぶつ げ、 XIV(14)
ファルスのシニフィアン
XIV 欲望と享楽 (p. 3-30)

さん ぺーじ

じょせい の かめん
あんどれ・じっど の とーさく
じがりそー と とーさく
じゃん・じゅね の ばるこにー
きげき と ふぁるす

12 さんかっけい

12-1

さんかっけい EPM が しゅたい の ぽじしょん お こーせいしている。

12-2

「進展全体のシニフィアン的土台である項の三つ組み」、とく に 母 と の かんけい に ある 主体。
「母は象徴化された最初の対象であり、その不在あるいは存在は、主体にとって欲望の記号となり、そこに彼自身の欲望がひっかかることになります」
まんぞく したり していなかったり する こども→よくぼー されたり されてなかったりする こども

12-3

よくぼー されなかった こども→けいけん が おしえてくれる「無限の脱構造化」
よくぼー されている こども→「母を欲望の座として構成する」、 「母の欲望に対する子供の関係の弁証法全体に対応する」

13

13-2

シニフィアンがそれによってそのものとして措定されるようなシニフィアン」= P=父の項=「絶対的な創造者」→「シニフィアンが、そのシニフィアンの出現として定義されるようなシニフィアンを含むことができる」とゆー どくじ の じげん お もつ こと が できる
(しにふぃあん が しにふぃあん で ある ため の とっけんてき な しにふぃあん、しにふぃあん ぜんたい お いみする しにふぃあん お しにふぃあん に ふくむ こと が できる、しにふぃあん の ほか お さんしょー する こと なく しにふぃあん お つくりだしていく むから つくりだす もの)

13-3

父の項 と の かんけい で 主体 わ いちづけられる
主体 わ 「本質的に不明瞭で、決定されておらず、シニフィアンの実存〔ルビ:エグジスタンス〕から離脱させられてはないが、それでもそこから離脱するようにできている何か、つまり、意味され〔ルビ:シニフィエ〕ねばならないものとしての主体」

13-4

「主体が自らの体験において、彼固有の体の状態によって与えられるものに対して」 いみ お あたえられる ならば、 はは ちち こども の しにふぃあん の かんけい で 構造化される。

13-5

シニフィエの水準、主体がいる水準」
「三つの象徴的な項に対する諸項の相同性」→しょーりゃく

13-6

よくぼーされている こども と わ 象徴的 である。
はは の よくぼー が よくぼーされている こども に たいして にじゅー の かんけい お もっている こと お しゅたい わ じぶん じしん の いめーじ に たいする かんけい で たいけん する。(━φ→i→M、(┃φ→m→E=欲望されている子供=自我理想))

14 あんどれ・じっど の とーさく

14-2

ジャン・ドレ『アンドレ・ジッドの若き日々』

14-3

みにくい こども→じたいあい の みこうちくな いめーじ=はめつてきな じょーきょー(さでぃすむ の さくひん、 ぶたれた こども、 もの お おとしてしまう じじょ、ぐりぶいゆ→「実存〔ルビ:エグジスタンス〕の苦しみが、もっとも人間的でない仕方で構成された形式」(14)) に どーいつか する こと で おるがすむ お いだく

14-4

はは の せくしゅありてぃ に わ 「完全に省略されている何だかわからないもの」 が あり、 こども わ ぽじしょん お さだめられなかった。

15

15-1

わかい いとこ と の どーいつか に よって 「意味と人間的構成を取り戻す」(15)→じんせい ぜんたい に しるしづける

15-2

におい で ひきつけられる→いとこ(まどれーぬ) の はは が こいびと と の かんけい に ある の お みた あと で、 いとこ が ないている の お みて 「陶酔、熱狂、愛、悲嘆と恋着の頂点に達する」→いとこ お まもろー と どりょくする

15-3

じっど わ いとこ と じっど お ゆーわくした いとこ の ははおや、つまり だいさんこー と いっしょ に いる と かんがえる

15-4

ゆーわく に より よくぼーされている こども とゆー たちば に おかれる
「それでも彼を根本的に分割された立場に固定することになります。分割されたというのは、この出会いが生じた様態というのが、非定型的で時期遅れであり、しかも、繰り返しになりますが、媒介を欠いたものであったからなのです。」(16)

16

16-2

いとこ の ははおや わ 象徴的な項 に なる。→ 欲望されている子供 の ばしょ お いとこ お つーじて もつ が、 彼が対象となっている欲望 お うけいれられない ため に 欲望されている子供 の ばしょ お こばむ↔「彼の自我は、自分がいまや依存している欲望の主体に、いつまでも、それと知らずに、同一化し続けており」(16)

16-3

いとこ の ははおや が しょーねん の からだ お あいぶ していた→じっど わ いとこ の ははおや に どーいつか していて、 しんこんりょこー の とき しょーねん の からだ お あいぶ する こと お かんがえていた

17

17-1

自我理想(欲望されている子供) の すいじゅん から のがれていた よくぼー お ひきうけて しょーねん お あいする こと に なる。 ジッド わ その よくぼー の たいしょー だが、 ささえ が なくて その よくぼー の たいしょー で ありつづける こと が できない。

17-2

欲望されている子供 わ 「主体をその存在において原初的に構成しているシニフィアン
自我 が 欲望されている子供(E) で 自我理想 に たどりつく ひつよー が ある。
自我理想 わ 「ある主体の心理的発展の全体を徴しづける」

17-3

自我理想 わ、 「シニフィアンの記号〔シーニュ〕によって徴しづけられる」
自我 から 自我理想 に むかう ばあい と、 欲望されている子供 とゆー ぽじしょん に おいて しにふぃあん に よって おこる できごと の れんぞく に よって 自我理想 お こーせいする ばあい が ある。

17-4

「以上のことが意識的に生じるか無意識的に生じるか」→意識的:〈自我理想〉、 無意識的:倒錯

17-5

ジッド の 倒錯
×:「彼がそうであった少年すなわちiしか欲望することができない」 から 倒錯
〇:「Eで、たえず自分に語りかけることによってしか」「構成されることができず、さらに、従姉妹によって占められている場所に向けて才能を発揮しようとする者、その思考のすべてが彼女をめぐってなされいるような者、自分が持っていないもののすべてを、しかしただそれだけを、文字通りたえず彼女に与える者――彼女において、彼女によって、そして彼女に対して人格として構成される者――そうした者であることによってしか、構成されることができないのです。」(17-18)
あい の かんけい、 いぞんかんけい

18

18-2

シニフィアンのなかにいる人間」
「自分がこの女性に伝えようとしている事柄のなかにすっかり入り込んでしまっている人間」
「欲望されていないこの女性は、実際、彼にとって至上の愛の対象となることができます。そして、欲望なき愛という穴を満たしているこの対象が失われることになると、彼は悲惨な叫び声をあげるのです」→もりえーる の 守銭奴 の 「わたし の こばこ」 に かんする こっけー な さけび に にている

18-3

「あらゆる情念は、それがある一つの対象のうちへの欲望の疎外である限りにおいて、同じことに基いています。」(18)