さいとー・ま

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BTM2

序論
疑問→問い
領域domain
領野zone
否定repudiation
否認するdisavow

xi

「なぜ私たちの身体は皮膚で終わるにちがいない(should☆)のか、またよくても皮膚で被包された(encapsulated)他の存在を含むにすぎない(☆)のか?」 ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』

「もし本当に身体についてそのように考えるならば、そのような身体の可能な輪郭はない。身体の体系性の思考(thinkings of the systematicity of the body☆)があり、身体の符号化価値(there are value codings of the body☆)がある。そのような身体は考えられることはありえなく、確かに私はそれに近づくことができない。」 ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク「ことばのなか」エレン・ローネイとのインタビュー

「自然はなく、脱自然化または自然化という自然の効果だけがある。」ジャック・デリダ 『時間を与える=時間をかける』☆

身体の物質性の問いをジェンダーのパフォーマティヴィティ―につなげる方法はあるか?そしてどうやって「セックス」というカテゴリーがそのような関係のうちで現れるのか?まず性的差異はしばしば物質的な差異の一つの問題(as an issue)として引き合いに出されるということを考えよう(Consider first that☆)。しかし、性的差異は決して単に言説的実践によって何らかの仕方で印づけられたりすることも形作られたりすることもない、物質的差異のひとつの機能であるわけではない。さらに性的差異が言説的境界設定から分離することができないと主張することは、言説が性的差異の原因となると主張することと同じではない。「セックス」というカテゴリーがはじめから、規範的であり、フーコーが「規制的理念」☆と呼んだものである。そのときこの意味で「セックス」は規範として機能するだけでなく、それが統治する身体を生産する規制的実践の一部である。すなわち、その規制的力が生産的権力の一種、〔つまり〕それが支配する身体を生産する――境界設定し、流通させ、差異化する――権力として明確にされるような身体を生産する規制的実践の一部である。

xii

したがって、「セックス」はその物質化が強制される(compelled)統制的理念であり、この物質化が起こる(または起こるのに失敗する)のは、ある程度高度に規制された実践を通じてである。言い換えれば、「セックス」は時を通じて強制的に(forcibly)物質化される理念的な構築物(construct☆、(観察結果と理論的枠組みに関連を関連づけるための構成モデル)構成概念、(単純な概念の統合によって生まれる概念)複合概念)である。それは単純な事実や身体の静的な状況ではなく、規制的規範がそれによって「セックス」を物質化し、これらの規範の強制的反覆(reiteration)を通じてこの物質化が達成されるような一つの過程である。この反覆が必然であるということは、物質化は完全にちょっと(never quite☆)ならないということのしるしであり、身体はそれによってそれらの物質化が強いられるような規範にちょっと(never quite☆)適合することがないということのしるしである。実際、この過程によって開かれる、再物質化の可能性、不安定性(instabilities)こそが、規制的法の力がそのなかでそれ自身の敵に回り、まさにその規制的法のヘゲモニックな力を問題にする再分節化を産み出す(spawn)ことになるような、ひとつの領域を印付ける。

しかし、そうならば、ジェンダーのパフォーマティヴィティという概念はどのようにしてこの物質化のとらえ方に関係しているのか?第一段階(=審級instance)においては、パフォーマティヴィティは単独のまたは故意の「行為」として理解されるべきではなく、むしろそれによって言説が、名付けた効果を生産するような反覆的または引用的な実践として理解されるべきである。私はそう期待しているのだが☆、続きにおいて明らかになることは「セックス」の規制的な規範がパフォーマテイヴな仕方で働くことで、身体の物質性を構成する、もっと正確にいえば身体のセックスを物質化する、異性愛的絶対原理(heterosexual imperative☆)の強化に奉仕するように性的差異を物質化することになるということだ。(What will, I hope, become clear in what follows is that the regulatory norms of "sex" work in a performative fashion to constitute the materiality of bodies and more specifically, to materialize the body's sex, to materialize sexual difference in the service of the consolidation of the heterosexual imperative.)

この意味で、身体の不動性(fixity☆、変わらなさ)を構成しているもの、身体の輪郭、身体の運動は、完全に物質的であることになるが、物質性は権力の効果として、権力の最も生産的な効果として再考されることになる。そして「ジェンダー」を、「身体」または身体の所与のセックスとして理解される物質の表面に押し付けられる文化的な構築物(construct☆)として理解する方法はないということになる。むしろ、「セックス」自身がその規範において一度理解されると、身体の物質性は、その規制的な規範の物質性から離れて思考可能にならないようになる。「セックス」は従って、単純に誰かが持っているものや、誰かがそうであるものの静的な記述ではない。それは、「誰か」(one)が可視的になるような規範の一つである。文化的理解可能性の領域のなかで生の資格を身体に与える(qualifies)ような〔規範である〕☆。注1

注1:あきらかに、セックスは身体が物質化されるような唯一のそのような規範ではないし、「セックス」が他の身体においての規範的な必要条件(normative requirements on bodies☆)から離れた規範として作動するかどうかは明らかではない。これはこのテキストの後の部分で明らかになるだろう。


身体の物質性のこのような再定式化において問題となっているのは、次のことがらになる。(1)身体の物(matter)が身体の(their)物質化とそれらの物資的効果の意味作用を統治する規制的規範と分離できないようになるように、身体の物(matter)を権力のダイナミズムの効果として作り直すこと。(2)それによって主体が彼女/彼が名付ける存在になるような行為としてではなく、むしろそれが規制し構築する現象を生産する言説の反覆的権力としてパフォーマティヴィティ―を理解すること。(3)ジェンダーの構築物(construct☆)が人工的に押し付けられる身体的所与としてではもはやなく、身体の物質性を統治する文化的規範としての「セックス」の解釈(construal)。(4)それによって、厳密にいえば、ひとつの主体によって受けるものとしてではなく、むしろ主体が、話す「私」が、セックスの引き受けのそのような一つの過程を終えていることのおかげで形成されるということ☆☆☆として身体的規範が引き受けられ、占有され、取られる過程の再考の一つ(a rethinking)。そして(5)同一化の問題、それによって異性愛絶対原理(heterosexual imperative)が一定のセックス化された同一化を可能にし、他の同一化を排除し、または否認する(disavow)ような論証的=言説的=散漫な方法(discursive means☆)と、「セックス」の引き受けのこの過程とを結び付けることの一つ(a linking)。

xiii

discursive means

xiii(5) a linking of this process of "assuming" a sex with the question of identification, and with the discursive means by which the heterosexual imperative enables certain sexed identification and forecloses and/or disavows other identifications.
x But their irrefutablity in no way implies what it might mean to affirm them and through what discursive means
hunihunisaito.hatenablog.com

主体が形成されるこの排他的マトリクス(母型)は、したがってアブジェクトな存在、まだ「主体」ではないが、主体の領域に対する構成的外部を形成する人々の領域の同時生産を求める(必要とする)。アブジェクトがここで示すのは社会的生のこれらの「生存不可能な」または「居住不可能な」領野(zones)であり、しかしながらその領野には主体の地位を享受してない人々が密集して住んでいるのだが、「生存不可能」の記号の下でそこで生きることは、主体の領域の境界設定をするために求められている(必要になる)。居住不可能性のこの領野は主体の領域のきっちりした境界を構成するようになる。これが構成することになるのは、それに反して――そのおかげで――主体の領域がそれ自身の自律と生に対する権利(claim to autonomy and life)を境界設定することになるような、恐れられている(dreaded)同一化のこの場所である。そうして、この意味で、主体は排除とアブジェクションの力、主体に対する構成的外部を生産するもの(one which produces☆)、アブジェクトされた外部、結局は主体の「内部に」それ自身を設立する否定(its own founding repudiation☆)としてあるもの(which is, after all, "inside" the subject as its own founding repudiation )を通じて構成される。

ある主体を形成することが求める(必要とする)のは、「セックス」の規範的な幻想との同一化であり、この同一化が起こるのはアブジェクションの領域を生産する否定(repudiation)、それがなければ主体が登場することができない否定(repudiation)を通じてである。これは「アブジェクション」と主体にとって脅威となる亡霊としてのその地位のバランスを作り出すような否定(repudiation)である。さらに、所与のセックスの物質化は、セックスのアブジェクションとの同一化はしつこく否認される(disavowed)同一化的実践の規制に中心的にかかわることになる。しかし、この否認されたアブジェクションは、その主体がその結果を完全には統御できないような否認のうちにその主体があるように基礎づけらる、セックス化された主体の自己基盤的な前提を暴露する恐れがある。☆仕事はこの恐れと破裂をひっきりなしの失敗のパトスに運命づけられた社会規範の永続的な論争としてではなく、むしろ象徴的合法性と理解可能性のまさにその条件(the very terms)を再分節化する闘争においての批判的な源泉として考えることになる。

最後に、政治的言説の中でのセックスのカテゴリーの動員(mobilization)は何らかの方法でカテゴリーは事実上生産し、排除するまさにその不安定性に憑りつかれることになる。アイデンティティーカテゴリーを動員する政治的言説は、政治的目標に奉仕するように同一化を洗練させる傾向にあるにもかかわらず、これは、同一化の持続性(persistence of disidentification)が民主的な論争の再分節化に等しく決定的であるということだろう。(it may be that ...☆)実際、性的差異が物質化されるこれらの規制的な規範への非同一化を強調する実践をまさに通じてこそ、フェミニズムの政治とクィアの政治の両方が動員されるだろう。このような集団的非同一化が、どの身体が物を言う(which bodies matter)かと、どの身体がこらから関心の重大な物事になるかの再概念化を促進できるのだ。