さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

BTM-3-1 幻想的同一化とセックスの引き受け p. 58-60

幻想的同一化とセックスの引き受け

58

人間が彼[ママ]自身を可能な知の対象にするのは、どんな形式の合理性を通じて、どんな歴史的必然性を通じて、どんな代償で、どのように起こるのだろうか?私の問いは次のものだ、それ自身についての真理を語るための主体にはどのくらいかかるのだろうか?
ミシェル・フーコー「真理を語るのはどのくらいかかるか?」

性的アイデンティティが構築されるか否か尋ねるときに、多少暗黙の裡の一連の問いが暗示的に立てられている。セクシュアリティーは固定されたものとして考えられるべきほどに初めから非常に強制されているのか?もしセクシュアリティーは初めからそれほど強制されているのなら、アイデンティティーのレベルで一種の本質主義を構成しないか?(does it not constitute a kind of essentialism☆)問題となっているのは、構成されることと強制のこのより深くたぶん取り返しのつかない意味を記述する方法である。構成されることと強制に直面して「選択」とか「自由な遊び」の概念が異質にみえるだけでなく思考不能で時に容赦ないとさえみえる。セクシュアリティーの構築された性格が喚起されてきたのは、セクシュアリティーは自然で規範的な形と運動を持っているという主張、つまり強制的異性愛の規範的な幻想に近い主張に対抗するためであった。セクシュアリティーとジェンダーの非自然化のための努力は主要な敵として、異性愛主義的規範の自然化と物象化を通じて作用する強制的異性愛のこれらの規範的な枠組みをとらえてきた。しかし戦略としての非自然化の肯定に危険があるのか(But is there a risk in the affirmation☆ of denaturalization as a strategy?)?何人かのゲイ(gay☆)の理論家の系統発生的本質主義への転回は構成的強制の領域、非自然化についての言説が一部見逃しているように思える領域の説明をする欲望を印付けている(marks a desire to tale account of a domain of constitutive constraints, a domain that the discourse on denaturalization has appeared in part to overlook☆)。

59

この章では、それによって(異)性愛((hetero)sexualityのやく☆)の規範化が制定されるような否認の論理の点からセクシュアリティーにおける強制を位置づけるつもりだ。「ジェンダーは燃えている」では、批判的戦略としての非自然化の限界を考えるつもりだ。

議論の術語(terms of debate☆)を構築主義本質主義から、どのように「根深い」か構成的強制が扱いにくいことと論争的であることにおける象徴的限界の点から提起されえるのかというより複雑な問いに変更することが有益だろう(how "deep-seated" or constitutive constraints can be posed in terms of symbolic limits in their intractability and contestability☆)。ジェンダーのパフォーマティヴィティ―として理解されてきたことは――強制されていない主意主義の行使とは程遠いのだが――、心的に登録された(=とどめられたregistered psychally)そのような政治的強制の概念を離れては不可能であると証明されることになる。強制や境界の概念を、生物学的または心理学的本質主義におけるこれらの強制を基礎づける形而上学的努力(endeavor)から分けることはたぶん有益だろう。この後者の努力(effort)が主意主義と自由な遊びと不合理に同一視された構築主義に対しての(over and against☆)強制の確かな「証拠」を打ち立てようとする。形而上学的地位やこの意味での強制の原因を確保するために、性的本性=自然(sexual nature☆)やセクシュアリティーの前文化的構造化に頼りを求める(seek recourse to)これらの本質主義的立場は、その立場の条件においても非常に論争的になる。注1

202

このエッセイの一部はアメリカ哲学協会、中央部会、1991年4月に発表された。エッセイの最初の部分の数か所はより短いバージョンでエリザベス・ライト編『フェミニズム精神分析――批判的辞典』(ロンドン、バジル・ブラックウェル、1992)に載っている。
注1
ここでウィトゲンシュタイン的な思考方法に追随し、セクシュアリティーは強制されていると主張することがかまさに可能であると考え、主張の有意義さを確保するために強制の形而上学を提供するような追加のそして不必要な措置をとる(take the added and unnecessary step)ことなしにこの主張の意味を理解する人もいるかもしれない。

中央部会

https://www.apaonline.org/group/central
The Central Division is one of three divisions of the American Philosophical Association, along with the Eastern and Pacific Divisions.

59☆(rather, constraint calls to be rethought as the very condition of performativity☆)

セクシュアリティーの固定されて強制された性格を裏付けるためのこのような努力は、しかしながら、特にセクシュアリティーの構築された地位を強調してきた人々によって、注意深く読まれる必要がある。というのも、セクシュアリティーは略式で(sumarily☆)作られたり変質させられたりすることはないし、「構築主義」を彼/女が思うままに彼/女のセクシュアリティーを形作る主体の自由と結びつけることは間違だろうからである。構築はそもそも(after all☆)、人工物ではないからである。それどころか構築は、それがなければ一定の生きて欲望する存在者は進む(make its way☆)ことはできないような強制の領域の説明を必要とする。そして、あらゆるそのような存在者は想像することが難しいものだけでなく、根源的に思考不能なままのものに強制されている。セクシュアリティーの領域でこれらの強制は他のように欲望することの根源的思考不可能性、他のように欲望することの耐えがたさ(unendurability)、特定の欲望の不在、他者たちの反復的強制(compulsion)、ある性的可能性の永久的否認、パニック、強迫的引力(obsessional pull☆)、セクシュアリティーと痛みの交差を含む。

次のように考える傾向がある。セクシュアリティーを構築されているか決定されているかのどちらかである、と。もし構築されていればある意味で自由であり、もし決定されていればある意味で固定されている、と。これらの対立は、セックスとセクシュアリティーが引き受けられる条件を説明するいかなる努力においても問題となっていることの複雑さを記述することはない。構築の「パフォーマティブな」次元はまさに規範の強いられた反覆である。この意味で、それゆえ、パフォーマティヴィティ―への強制があるというだけでなく、むしろ強制がパフォーマティヴィティーの条件そのものとして再考されることを叫ぶ☆(rather, constraint calls to be rethought as the very condition of performativity☆)。パフォーマティヴィティーは自由な遊びでもなければ演劇的自己呈示でもない。パフォーマンスと単純に等しいとされることもできない。さらに強制は必ずしもパフォーマティヴィティ―に限界を設けるものではない。強制は、むしろパフォーマティヴィティ―を駆り立て維持するものである。

60

ここで、同じことを繰り返して言う危険を冒して、反覆可能性(iterability☆)の過程、規範の規則化されて強制された反復の外ではパフォーマティヴィティ―は理解されないと私は示唆したい。そしてこの反復は主体によって演じられる(パフォームされる)のではない。この反復は主体を可能にし、主体にとっての時間的条件を構成するものである。この反覆可能性(iterability☆)は「パフォーマンス」が一回の「行為」または出来事ではなく、儀礼化された生産、生産の形をコントロールして強要するが、私がこれから強調するように、あらかじめ完全にそれ〔生産の形〕を決定することはない追放の脅しと死の脅しさえ伴う、強制のもとでそして強制を通じて、禁止とタブーの力のもとでそしてそれを通じて、反覆される儀礼であることを含意する☆。

認可された性的実践と性的布置と認可されていない性的実践と性的布置を実際に生み出す禁止と関連した(as it relates to prohibitions)このパフォーマティヴィティ―の概念を通じて我々はどのように考えるべきだろうか?法はセクシュアリティーを抑圧するものであるだけでなく、セクシュアリティーを生み出すまたは、少なくともセクシュアリティーの指向性(directionality)を強要する禁止であるときに、特にセクシュアリティーと法の問いを我々はどのように追及するのか?権力の外にあるセクシュアリティーは存在しないことを考えると、生産モードの権力は決して規制から完全には自由にはならないということを考えれば、どのように規制そのものがセクシュアリティーにおいて生産的なまたは生成的な(productive and generative)強制として解釈されえるか?とりわけ、同時に生産し強制する法の可能性が、あらゆるの身体にセックスを、言語の中の性化されたポジションを、
主体として、「私」として、セックスの問いをしつこく強いる言語の中で性化された位置をとる行為を通じて構成される者として話すようになるいかなる身体によってもある意味で当然のこととされる(presumed☆)性化されたポジションを確保することにおいて、どのように廃れる(play itself out)のか?