さいとー・ま

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BTM-3-2 同一化、禁止、「ポジション」の不安定性 p. 60-61

3 幻想的同一化とセックスの引き受け
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3-2 同一化、禁止、「ポジション」の不安定性

60Some feminists have turned to Lacan in a effort to temper a certain kind of utopianism that held that the radical reorganization of kinship relations could imply the radical reorganization of the psyche, sexuality, and desire.)☆。

同一化、禁止、「ポジション」の不安定性
性的差異についての精神分析の言説の導入とフェミニストによってジャックラカンの作品に取り掛かることは、部分的にはそこにおいて「性化された」ものになることが起こるような象徴的強制の様々な種類を再主張する努力であった。セックスが解剖学の単なる問いであると論じた人々に対して(over and against)、ラカンが断言するのは、セックスが懲罰の脅しのもとであるものが引き受ける象徴的ポジションである、すなわち、ある者が引き受けるように強制されるポジションである、これらの強制は言語の構造そのものにおいて、従って、文化的生の構成的関係において機能するのだけれど(those constraints are operative in the very structure of langage)。数人のフェミニストは、ラカンに取り掛かって、ある種のユートピア的理想主義を調整する努力をしてきた。親族関係の根源的な再組織化が、心、セクシュアリティ、欲望の根源的な再組織化を含意しているかもしれないと考えた(Some feminists have turned to Lacan in a effort to temper a certain kind of utopianism that held that the radical reorganization of kinship relations could imply the radical reorganization of the psyche, sexuality, and desire.)☆。言語において性化されたポジションの引き受けを強制する(compelled)象徴的領域は、いかなる特定の親族関係の組織化より根本的(fundamental)であると考えられえている。だから、ある者は家族のシーンの外に親族関係を再配置するかもしれないが、己のセクシュアリティーがより根深く強制するような、構成的な象徴的要求を通じて構築されていることを依然として発見するだろう。これらの要求は何か?それらは社会的なもの、親族、政治に先立っているのか?もしそれらが強制として機能しているなら、この理由でこれらは固定されているのか?

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私は象徴的要求が性化されたポジションとその要求によって含意されているものを引き受けるものだと考えるように提案する☆。この章はセックスやセクシャリティーにおける強制の十分な領域を考えようとしていない(際限ない仕事になる)にも関わらず、それは構築されることができるかできないかの限界としての強制を説明するように一般的に提案をする。エディプスのシナリオにおいて、「セックス」を制定する象徴的要求は懲罰の脅しを伴う。去勢は懲罰の形象(figure)であり、去勢の恐れは男性的セックスの引き受けの動機☆になり、去勢されないことの恐れは女性的なものの引き受けの動機☆になる。ジェンダー化された懲罰の強制する力を構成するように差異的に(differentially)☆働く去勢の形象において潜在的なのは、分節化されていない少なくとも二つのアブジェクト(=棄却された)同性愛の形象、つまり女性化されたファグ(fag)☆と男根化されたダイクである。ラカンの図式は、これらのポジションのどちらを占めることに対しても起きる恐れが、言語のうちで性化されたポジション、異性愛的にポジションをとることによって性化され、ゲイとレズビアンの可能性を排除しアブジェクト(=棄却)する動きを通じて引き受けられる性化されたポジションの引き受けを強制する(compels)ものであることを前提とする。


この分析のポイントは、そのもとで性化されたポジションが引き受けられる強制を確認することにはなく、どのようにこのような強制の固着が確立されるのか、どのような性的な(不)可能性が性化されたポジショナリティーの構成的強制として役に立ってきたか、どのような作り直しの可能性からそれらの条件内でこれらの強制が現れるのか(what possibilities of reworking those constraints arise from within its own term☆)を問うことにある。もし性化されたポジションを引き受けることが、象徴的領域の中で印付けられた(marked out)ポジションと同一化することならば、もし同一化することがその象徴的場所に近づく可能性を幻想化することを含むならば、そのとき、セックスの引き受けを強制するヘテロセクシズム的(heterosexist)強制が幻想的同一化の規制を通じて機能する(注2)。エディプスのシナリオはその存続のためにその脅しぼ脅迫的権力に、男性的女性化と女性的男根化との同一化への抵抗に依存している。しかし、脅しとしてアブジェクト〔=棄却された〕同性愛のつかみどころのない(spectral)形象を動員する(deploys☆)法がそれ自身で性愛化(eroticization)の偶然の場所になるのなら、何が起こるのか?もしタブーがそれが産み出す侵犯的場所のまさにそのゆえに性愛化されるなら、エディプスに、性化されたポジショナリティーに、想像的か幻想化された同一化と、象徴的な法によって命令された理解可能な「セックス」のこれらの社会的かつ言語的ポジションの間の固定した区別(the fast distinction)に何が起こるのか?同性愛のアブジェクション〔=棄却〕に同意することを拒絶することは、セックスの精神分析的構造〔=エコノミー〕の批判的再考が必要なのか?

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注2
わたしが「幻想的」という言葉を使うのは、下の注7で説明する通り、主体の同一化の位置が不安定であるとするジャン・ラプランシュとJ.B. ポンタリスのその言葉の使い方を思い出してもらうためである。「幻想」と「幻想化」という言葉を規制的図式との関係で主体が相対的に位置づけられることを前提とする活動的な空想(imaginings)のためにとっておいている。