さいとー・ま

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BTM-3-3 同一化、禁止、「ポジション」の不安定性 p. 61-62

3 幻想的同一化とセックスの引き受け
3-1
3-2 同一化、禁止、「ポジション」の不安定性
3-3

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ラカンにおいては最初にセックスのカテゴリーと性的差異の概念についての三つの重要なポイントが作られているに違いない。第一に、同時に解剖学的かつ言語的な関係の外延を示すように「性的差異」を使うことによってラカンは同語反復的な束縛に陥る(implicates)。第二に、ラカンがセックスと性的差異の結果としてのみ主体が現れると主張するが主体が言語の中においてその性化されたポジションを完遂し引き受けなければならないと強調するときにもう一つの同語反復があらわれる。第三に、セックスと性的差異のラカン的意見は規範的異性愛の吟味されていない枠組みにおける解剖学と発達の記述と密接につながっている(implicates)。

62staging in advance which symbolic position will mark it ☆

ラカンが「セックス」の同語反復的説明を与えているという主張については、もちろんそれは本当だと返答するのももっともだ、実際、同語反復は「セックス」が引き受けられるときの必然的に強めることのまさにそのシーンを構成していると。一方でセックスのカテゴリーが引き受けられる。個人による〔象徴的領域の〕専有より先に存在する象徴的領域のなかでしつこく現れれ(persist)、そしてそこで象徴的なものがセックスに基いて個人の身体を服従させ主体化させるような様々な契機に還元されない性化されたポジションがある。もう一方で、セックスのカテゴリーはその印を受け取るために象徴的法にいわば明け渡されたこの個人の身体を印付けてきたとすでに前提されている。したがって、「セックス」はその印より前に身体を印付けるものである。staging in advance which symbolic position will mark it ☆、 この後の印こそが身体の後にくるように見え、事後的に性的ポジションを身体に帰属させる。この印とポジションはそれを通じて身体がともかく表明できる(signifiable)ようになるその象徴的条件を構成する。しかし、ここですくなくとも二つの概念的結び目〔=核心〕がある。第一に、身体はセックスで印付けられているが、身体はその印より前に印付けられている、というのも最初の印こそ二つ目の印のための身体を準備していて、第二に、身体は表明できる(signifiable)だけであり、二番目の意味で印付けられていることによって、言語の中に表明されえるものとして起こるだけであえる。このことは、象徴的なものよりまえの身体に頼ることはいかであろうと(any recourse)象徴的なもののなかでのみ起きることがありうるということ、その印付けより前に身体は存在しないということを含意しているように思える。もし最後の含意が受け入れられるとしたら、身体がセックスのカテゴリーで印付けられるようになるとはどのようなことか(how it is that a body comes to be marked by the category of sex☆)について我々は話を伝えることが決してできなくなる、というのも印の前の身体は印を通じてのみ表明される(signifiable)ものとして構成されるからである。さもなくば、むしろ、セックスの印付けるものの方へ進むそのような身体について我々が伝えるかもしれないいかなる話も虚構的話となるだろう、たとえ、おそらく必要な話であったとしても。

ラカンにとって、性的欲望は禁止の力を通じて創始させられる。実際、欲望は法の印を通じて享楽から区別される。欲望は法の到来の前の完全な快感を取り戻すことの不可能な幻想によって推し進められくじかれた(impelled and thwarted☆)移動の論理を通じて換喩的な道にそって旅をする。幻想的な余剰(abundance☆)のこの場所への回帰は精神病の危険を冒すことなくして起こりえない。しかし、この精神病は何か?そしてどのように描かれているか?精神病は主体そしてすなわち言語の中の生の地位を失うことの見込みとして現れるだけでなく、一種の(of sorts)死刑宣告、耐えられないほどひどい検閲の管轄に入る威嚇的な亡霊として現れる。