さいとー・ま

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さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

BTM-3-4 同一化、禁止、「ポジション」の不安定性 p. 63

3 幻想的同一化とセックスの引き受け
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3-2 同一化、禁止、「ポジション」の不安定性
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3-4

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いくつかのタブーを破ることは精神病の亡霊をひきおこすが、どの程度「精神病」をそれ〔精神病〕から身を守るように用心する禁止そのものと関係するものとして理解できるのか? いいかえれば、どのようなまさにその(precise 他と比べてまさにその)文化の可能性が、生存可能な存在者の境界を印付けながら、精神病的分解(psychotic dissolution)で主体を脅すのか?どの程度、精神病的分解の幻想それ自身が、異性愛的契約を廃止するそれらの性的可能性に対するある禁止の効果なのか?どのような条件のもとで、どのような規制的図式の支配のもとで、同性愛それ自身が死の生きている過程として現れるのか?(注3)どの程度エディプス化された同一化からの逸脱が性的二元主義と精神病との関係の構造的均衡状態(stasis☆)を問いに付すのか?

precise 他と比べてまさにその

abrogate 法、習慣を廃止する

under the sway of の支配下にある、影響下にある

stasis 停止、安定状態、静止状態

a situation in which there is no change or development(OALD)

203

注3
明らかに、一種の社会的かつ心的死という同性愛のこのすでに普及している比喩(trope)こそが、エイズを体液の交換の結果というよりもむしろ(決定的に安全でなく、それ自身危険とみなされる)同性愛の結果として理解するホモフォビックな言説において利用され強められる。ここではどうやら、ジェイムス・ミラーの『ミシェル・フーコーの情熱』(New York: Simon and Schuster:1992)が同性愛の比喩(trope)をそれ自身として死の欲動(death wish)として利用していて、セーフセックスを構成する同性愛的実践とそうでないものの間の適切な区別をすることに失敗している。ミラーは同性愛と死との間の厳密な因果関係を描き出しがちであるにもかかわらず、二つの隠喩的な結びつきこそが、ミラーの分析の焦点をあわせていて、異性愛的に性について知りたがるようなことが穏健な批評の注釈のもとで自由に表現できるようになる「常識的な(level-headed)」書評というみかけを生じさせてきた☆。この傾向に対抗した少ない例の一つとしてはウェンディー・ブラウンによる「ディファアレンシズ」の「フェミニズム的批評報告」(1993年秋)(differences: A journal of Feminist Criticism(Fall 1993))でのミラーの本の書評を見よ。

focus

with obj. (of a lense) concentrate (light, radio waves, or energy) into a sharp beam (ODE)

prurience

prurient ; having or showing too much interest in things connected with sex

sober 穏健な批評、理にかなった批評

☆it is ... that focuses his analysis and which has occasioned...

重要なことに、ミラーは次の三つの異なる概念を混同している。(1)死にいたる欲望として理解されている「死の欲動」の一般的な観念、(2)それによって有機体が(実際にはないような長引く議論がなければ(☆without an extended discussion, of which there is none)自己破壊の乱痴気騒ぎの余剰と調和させることができないような)平衡状態に行こうとする、保守的、退行的、反復的な傾向性として理解されている「死の欲動」の精神分析的な観念、(3)ジョルジョ・バタイユによって導入された「死の主体」とフーコーの「著者の死」の観念。ミラーはこの最後の概念は生物学的有機体の死とは同じではないが、バタイユにとって、そしてフーコーにとっても、生気論的、生肯定的可能性として機能しているということを理解していないようだ。自己支配のうぬぼれにある主体が道具的支配の主張を通じて生に抵抗し生を飼いならすならば、主体はそれ自身で死の記号である。脱中心化され征服された主体は、密閉して閉じた主体の循環を超える高められたエロティシズムと生の肯定の可能性を創始する。、フーコーにとっては、著者の死はある意味で、書いている者を「書く」言語で書く者をつなげることで、書いている者に先行し動員するようなものとして書き物を概念化することの始まりであるように、バタイユにおいての「死の主体」はある意味で幸福な気分にさせる〔生ー強化的な〕エロティシズムの始まりである。サドマゾヒズム的な振り付けとエロティックな関係性を通じた生の肯定の間のフーコーの明らかな結び付けについては、Salmagundi「フーコーのインタビュー」(1982-83年冬)p. 12を見よ

reconcile with ととを調和させる

orgiastic 乱痴気騒ぎの、熱狂した、酒神祭のような

obliteration 消し去ること、破壊。忘却、抹消

insistence on つよい主張、強調

her insistence on coming どうしても来るという彼女の主張

hermetic 密閉した、気密の、社会や世界が閉ざされた

just as ひかく の きょうちょー

Just as British people enjoy their beer. so the Japanese enjoy their sake. イギリス人がビールをたしなむように日本人は酒をたしなむ

life-enhancing 幸福な気分にさせる、満足した気分にさせる

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近親姦に対する一次的な禁止が上で描かれたモデルに従わない移動と置換(displacement and substitution)を生産するときに何が起こるのか?実際、女性は他の女性に幻想的に父を思いださせるものを見出すかもしれないし、母への欲望を男性に置換するかもしれなく、この点において異性愛と同性愛の欲望がある横断(a certain crossing☆)をも機能することになる。もし我々が、一次的禁止によって性的欲望の逸らされ(deflection☆)を生産しているだけでなく、心的意味の「セックス」や性的差異を強化するという精神分析的前提を認めるとするならば、そのとき、首尾一貫して異性愛化された逸らされ(deflection☆)が同じように性化された身体を基盤に同一化が引き起こされることと反対の性の成員へ性的分割を超えて欲望が逸らされるということを、必要とするということになるように見える。しかし、もし男性が母親に同一化でき、その同一化から欲望を生産できるとしたら(ここで私はちゃんと詳細に論じることができないような、たぶん(no doubt)複雑な過程である)、その人はすでに安定したジェンダーの発達の心的記述を混乱させている。そしてもしその同じ男性が他の男性を欲望するとしたら、または女性を欲望するとしたら、その人の欲望は同性愛的なのか異性愛的なのか、ひょっとしたらレズビアン的なのか?そして、一定の個人を一つの同一化に限定しているということは何か?同一化は多様で競争的(contestatory)であり、置換は禁止を通じた――そして生産された――愛情喪失の一次的対象を回復する幻想に関わっている場合に、我々はもっとも強く密集しているか満たされた方法で、多様かつ同時の置換の可能性を反映する個人たちを欲望しているのかもしれない☆。このような幻想の多くが欲望の場を構成し満たす(saturare)ようになることもありうる限りで、我々は所与のセックスに同一化することになるかそのセックスの誰かほかの者を欲望するかのどちらかのポジションにはいないということになる。実際、より一般的に、同一化と欲望が多様に排他的な現象であるとわかる立場にはいないのだ☆。

it may be that なのかもしれない

it follows that ということになる

Identifications are multiple and contestatory, and it may be that we desire most strongly those individuals who reflect in a dense or saturated way the possibilities of multiple and simultaneous substitutions where a substitution engages a fantasy of recovering a primary object of a love lost-and produced-through prohibition. Insofar as a number of such fantasies can come to constitute and saturate a site of desire, it follows that we are not in the position of either identifying with a given sex or desiring someone else of that sex; indeed, we are not, more generally, in a position of finding identification and desire to be mutually exclusive phenomena.