さいとー・ま

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へーげる せいしんげんしょーがく、 りせいしょー 1

へーげる せいしんげんしょーがく、 りせいしょー 1
Aかんさつする りせい
だんらく10
1ぶん
この だんかい の いしき に とって、ある とゆー の わ じぶん の もの で ある。
2ぶん
じぶん の もの である と わ おもいなす こと や ちかく

りせいしょー かんさつする りせい

  • りせいしょー 31だんらく(くまの やく 418ぺーじ)

この だんかい の いしき に とって、 ゆーきたい に もくてき がいねん が ひとつ である こと わ、 あらわれていない。この だんかい の いしき わ かんさつ する りせい である。
――なぜ この だんかい の いしき に とって、 ゆーきたい に もくてき がいねん が ひとつ である こと わ、 あらわれない が われわれ に わ あらわれている か と ゆー と、ゆーきたい の 「内的運動」(くまのやく、418ぺーじ) わ、 がいねん として のみ わかる から である。〈/h4〉
――つまり、 この だんかい の いしき である、 かんせつする りせい わ、 がいねん として で わ なく、 もの として ゆーきたい お かんがえる から である。〈/h4〉
――かんさつする りせい が、 もの として ゆーきたい お かんがえる の わ、 ある と つづく とゆー かたち お もとめる から である。〈/h4〉
――しかし、 われわれ に とって、 ゆーきたい わ、 ある と つづく とゆー かたち お とらない。 われわれ に とって、 ゆーきたい わ、 うごく とゆー かたち お とる から である。〈/h4〉
しかし、 この だんかい の いしき わ、ゆーきたい に もくてき がいねん お しらず の うち に みつける。この だんかい の いしき わ かんさつ する りせい である。〈/h3〉

  • りせいしょー 32だんらく(くまの やく 418-419ぺーじ)〈h2〉

なので、この だんかい の いしき に わ、かたち として わ うちなる もの と そとなる もの が でてくる。この だんかい の いしき わ かんさつ する りせい である。〈/h3〉
――つまり、 かんさつする りせい わ、 ある と つづく とゆー かたち お もとめ、 その かたち に ゆーきたい お あわせて かんがえる ので、 かんさつする りせい に とって わ、 ゆーきたい わ、 もくてきがいねん で わ なく、 うちなる もの と そとなる もの とゆー たいりつ として あらわれる。〈/h4〉
――しかし、 かんさつする りせい に とって わ、うちなる もの も かんさつされる し、 そとなる もの も かんさつされる。 つまり、 かんじる こと、 はんのーする こと、 さいせいさんする こと とゆー うちなる もの が かんさつされる し、しんけい、 きんにく、 きかん とゆー そとなる もの も かんさつされる。〈/h4〉
しかし、われわれ に とって、うちなる もの わ ないよー わ もくてきがいねん お ひょーめんてき に あらわし、 そとなるもの わ ないよー わ げんじつ お ひょーめんてき に あらわす。〈/h3〉
――あらわす の が ひょーめんてき である りゆー わ、 かんさつする りせい に とって がいねん わ むしされている から である。
われわれ に とって、 かんがえ と わ、 がいねん である が、 かんさつする りせい に とって、 かんがえ と わ、 「表象作用」(くまの やく、419ぺーじ) である。
――――つまり、 われわれ に とって、 がいねん わ ひてい お ふくんだ かんせつてき とーいつ であり、 がいねん こそ が かんがえ である。 たいして、 かんさつする りせい に とって わ、 あらわす とゆー こと だけ なので、 あらわす もの と あらわされる もの の たいりつ わ ある が とーいつ が ない。この とーいつ に いく うごき が ない こと から、 「しかし、 われわれ に とって、 ゆーきたい わ、 ある と つづく とゆー かたち お とらない。 われわれ に とって、 ゆーきたい わ、 うごく とゆー かたち お とる から である。」 と いえる ので ある。(ちゅーしゃく)
かんさつする りせい に とって、 うちなる もの と そとなる もの の あいだ の かんけい わ、 「そとなる もの が あらわす の わ、 うちなる もの である」 とゆー かんけい である。
――かんさつする りせい わ、 ほーそく お みいだす ので、 この かんけい わ ほーそく と よばれる。

  • りせいしょー だい33だんらく (くまの やく 419ぺーじ-420ぺーじ)

しかし、われわれ に とって 「そとなる もの が あらわす の わ、 うちなる もの である」 わ いままで の ほーそく と ことなり、 ほーそく で かんけいづけられる ふたつ が、 もの で わ なく、 さらに、ある ゆーきたい が ふへんてきな ないよー である、 ふたつ の けいしき である。
――たいして、 かんさつするりせい に とって いままで の ゆーきたい に ついて の ほーそく わ、 ほーそく で かんけいづけられる ふたつ が、それぞれ もの であった。(ゆーきたい いがい に ついて の ほーそく わ、 あてはまらない と かんがえられる。 きば や つめ や めしべ など の きかん と ゆーきたい の かんけい、 かんきょー と ゆーきたい の かんけい、 ゆーきたい の うち と そと の かんけい とゆー ながれ である。さん や えんき わ、 かんさつするりせい の ぐたいれい で わ ない。 )
――――たとえば、かんさつするりせい に とって かんきょー と ゆーきたい が かんけいする とき わ、 かんきょー も もの として あり、 ゆーきたい も もの として べつべつ に あった。
――たいして、 いままで の ゆーきたい に ついて の ほーそく わ、かんさつするりせい に とって、 ほーそく の ふへんてきな がいねん が、 そんざいしている もの に ある と わ かんがえられなかった。
――――たとえば、 もくてき の ふへんてき がいねん わ、 かんさつするりせい に とって「あたかも…のよーに」 とゆー よー に りせい が みいだす もの と されていた。
――――たいして、 うちなる もの と そとなる もの で わ、 たとえば、 もくてき の ふへんてき がいねん わ、 かんかく と しんけい とゆー かたち で げん に ある と かんさつするりせい に とって かんがえられる。

しかし、 かんさつするりせい に とって、 そとなる もの と うちなる もの わ それぞれ が べつ の ないよー お もった そんざいする もの である よー に みえる が、 われわれ に とって わ、そとなる もの と うちなる もの の それぞれ の べつ の ないよー わ、ゆーきてき に ひとつ に なる もの とゆー ないよー の けいしき でしか ない。
だから、 「そとなる もの が あらわす の わ、 うちなる もの である」 と ゆー とき に、 「あらわす」 とゆー ことば が つかわれる。つまり、 けいしき、 つまり 外的表現 に すぎない のである。(どいつご の もんだい)
うちなる もの と そとなる もの の かんけい わ、 もくてき がいねん に おける ふへんせい と かつどー と おなじ である。
――ふたつ わ たいりつしている が、 ひとつ に なり、 ふたつ わ きえる(もくてき に なる)。

  • りせいしょー だい34だんらく (くまの やく 420ぺーじ-421ぺーじ)

うちなる もの と そとなる もの の かたち(形態) が なに か?
――とく に うちなる もの も、 かんさつするりせい に とって わ そんざいしている もの として あらわれている ので、 かたち(形態) お もつ。

  • りせいしょー だい35だんらく (くまの やく 421ぺーじ-422ぺーじ)

うちなるもの の かんさつするりせい に とって の ないよー:たんじゅん、目的概念、ふへんてきなもの、そんざい に おける はたらき、 きえてゆく うんどう、普遍的な構成要素、単一な本質性、普遍的な性質(感受性、反応性、再生産)
――しょくぶつ わ がいねん お てんかいしきっていない だけ である ので、 どうぶつ お みれば だいじょーぶ。
――――げんざい の しょくぶつ に ついて の けんきゅー で わ、 反応性 も ある と かんがえられる が、感受性 わ ない と かんがえられている(ちゅーしゃく)
そとなるもの の かんさつするりせい に とって の ないよー:静止した存在、現実化された本質性、形態

  • りせいしょー だい36だんらく (くまの やく 422ぺーじ)

つづく