さいとー・ま

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へーげる せいしんげんしょーがく、 りせいしょー 2

へーげる せいしんげんしょーがく、 りせいしょー 1
Aかんさつする りせい

  • りせいしょー だい36だんらく (くまの やく 422ぺーじ)

りせいしょー かんさつする りせい

  • りせいしょー だい36だんらく (くまの やく 422ぺーじ)

われわれ に とって わ、 かんさつするりせい が、 じこもくてき がいねん から ちょくせつ 感受性、反応性、再生産 お みちびいている。
――われわれ わ、 ちょくせつ 感受性、反応性、再生産 とゆー うちなる もの お みちびく の で わ なく、 もくてき とゆー がいねん に かんせつてき に たどりつく。
――感受性 わ (かんじる とゆー こと である。 かんじる とゆー こと わ、 じぶん に ついて の なにか お もつ とゆー こと である。 じぶん に ついて の なにか お もつ と わ、) じぶん に かえってきている とゆー こと である。 したがって、 感受性 わ、 じぶん に かえってくる と ゆー がいねん、 つまり 自己内反省 とゆー がいねん お あらわす。
――――(「感受性 が がいねん お あらわす」 とゆー とき に、 へーげる わ、 かんさつする りせい に とって、感受性 が うちなるもの で あり、 そとなるもの が うちなるもの お あらわす とゆー ほーそく お もっている とゆー こと お かんがえている と おもう。かんさつする りせい に とって、 うちなるもの わ 3こ に わかれていたが、 われわれ に とって わ、 1こ の もくてきがいねん に かんせつてき に とーいつ される。 そのため、 そとなるもの が うちなるもの お あらわし、 その うちなるもの が 1こ の がいねん お あらわす とゆー かんがえかた お している と おもわれる。りせいしょー の じょぶん の かんと ひはん に おいて、 じゅんすい な わたし とゆー 1こ の かてごりー に なる はず が、 12こ の かてごりー と ふくすう の かてごりー に なっている こと お ひはんしている ところ お よむ こと。りせいしょー 6だんらく、 くまのやく 377-379ぺーじ。 ここ で あらわす とゆー ことば が つかわれている の わ、かんさつするりせい が、 うちなるもの の うちなるもの として の 1こ の がいねん お みいだしていない とゆー こと お へーげる が ひはんする ため である と かんがえられる。)
――感受性 わ がいねん の 流動性 お あらわす。 (つまり、 かんじる とゆー こと わ、 どの よー な こべつてき な ゆうきてきな もの に も あてはまる ふへんてき な がいねん の せいしつ が ある とゆー こと お あらわしている と かんがえられる。流動性 とゆー ことば わ、 りせいしょー だい 35だんらく で つかわれている。 「内なる実体である有機的な実態は単純なたましいにほかならず、純粋な目的概念であり、いいかえれば普遍的なものである。この普遍的なものは、それが分割されても同様にあまねく流動的なありかたをもっており、それゆえその存在においてもはたらきとして、ことばをかえれば消失してゆく現実の運動として現象する。」(くまのやく、 421ぺーじ)わけられても おなじよー に すべて に おなじ よー である とゆー どこ に でも あてはまる とゆー せいしつ の こと お いみしている。 つまり、 からだ の いちぶ だけ に その はたらき が ある わけ で わ ない とゆー こと お あらわしている と おもう。 からだ の ぜんしん に おいて、 かんじる とゆー こと お いみしている の で わないか。)
――――(感受性 が うちなるもの であり、 その うちなるもの が さらに うちなるもの である がいねん お あらわす。)
――反応性 わ ゆうきてきな だんりょくせい お あらわす。
――――ゆうきてきな だんしょくせい と わ、 じぶん に かえってくる ふるまい であり、 どーじ に、 なにか に はんのー する ふるまい である。(つまり、じぶん じしん に かんけいする こと である と どーじ に なにか ほか の もの に かんけいする こと である。 たいじてき であり、たいたてき である とゆー こと である。 はんのーせい と わ、 なにか ほか の もの から しげき お えて、 その しげき お じぶん で かんじて、 その しげき に たいして はんのーする こと である。 しげき と はんのー わ、 さよー に たいする はんさよー の よー な かんけい に あり、 りょう や おおきさ について わ おなじ に なる。 したがって、 あと で 感受性 と 反応性 の りょう や おおきさ が おなじ に なる こと が もんだい に なる。 はなし お はんのーせい に もどす。ゆうきてき である と わ、 じぶん お もくてき に する とゆー じこもくてき の ありかた お していた。 ゆうきてき な だんりょくせい と わ、 じぶん お もくてき と する、 つまり じぶん が まえ と おなじ よー に なる よー に なりながら、 しげき に たいして はんのー する とゆー こと である。 だんりょくせい と わ、 ごむぼーる お おしても、 おさなくなる と もと の おおきさ の ぼーる に もどる よー に なる いめーじ である。 つまり、 ゆうきたい に ついて いえば、 おもい もの お ゆうきたい が もつ とき に、 おもい もの から の しげき と おなじくらい の ちから で おしもどして、 おもい もの お もちあげた まま に しておく こと が できる とゆー こと である と かんがえられる。 )
――感受性 とゆー 自立的存在 お げんじつ に ほか の もの に たいして ある もの に する の が、 反応性 である。
――再生産 わ(なにか お たべて じぶん の からだ の いちぶ に しながら、 じぶん の からだ の いちぶ お はいせつ する こと で じぶん の からだ お まえ と おなじ もの お つくりだす よー に したり、 せいしょく に よって じぶん に にた ゆーきたい お つくりだし、 その にた ゆーきたい お じぶん と おなじ もの と かんがえる ので、)、 ゆーきたい ぜんたい お くりかえす はたらき である 。
―――― 再生産 わ、 じぶん お おなじ もの と たもつ こと であり、 じぶん お もくてき に する とゆー いみ で、ゆうきてき な もの の 形式的な がいねん である、 感受性 お あらわしている。
――――再生産 わ、 ゆうきてきなもの の 実在的な がいねん である ぜんたい お あらわしている。 なぜなら、 再生産 わ、 こたい として の ぜんたい や、 るい として の ぜんたい お くりかえす こと だから である。
――――――(ゆうきてきな もの の かたち の がいねん わ、 かんじる こと であり、 ゆうきたい の じっさい の がいねん わ、 ぜんたい である。この ふたつ お 再生産 わ あらわす。 ゆうきてきな もの の かたち の がいねん である、 かんじる こと わ、 がいねん の 流動性 お あらわす。 たいして、 反応性 わ、 がいねん お あらわす の で わ なくて、 がいんねん の げんじつ である ふるまい の 弾力性 お あらわす。)

これら の 3こ の 感受性、反応性、再生産 わ、 せいしつ である。 (つまり、 ちかく に おいて、 「これこれ わ どれどれ の せいしつ お もつ」 とゆー きじゅつ お つくる だんかい である。 ここ で わ、 まだ ほーそく お みいだす ごせい に なっていない。 もちろん、 ゆうきてきな もの の ほーそく お かんがえている とゆー れべる で わ、 ごせい の れべる に ある。)

  • りせいしょー だい37だんらく (くまの やく 423ぺーじ)

かんさつするりせい に とって、 そとなる もの わ、 けいたい(形態) として の しすてむ である。
――(けいたいか と わ、 げしゅたると とゆー ことば が つかわれている。 つまり、わける こと の できる ぶぶん が くみあわさって わける こと の できない ぜんたい に なった もの が げしゅたると である。 )
――われわれ に とって、けいたい である と わ、 げんじつてき で ふへんてき で ある とゆー こと である。(つまり、 わける こと の できる ぶぶん に げんじつ に あらわれている と どうじ に、 ぜんたい として ふへんてき である とゆー こと である。)
――しすてむ わ、 しんけいしすてむ、 きんにくしすてむ、 こたい や るい として の はらわた とゆー しすてむ と かんさつするりせい に わ おもわれる。

  • りせいしょー だい38だんらく (くまの やく 423ぺーじ)

ゆうきてきな もの に ついて だけ の ほーそく わ、 うちなる もの も そとなる もの も、けいたい の ぶぶん である とゆー いみ で かんけいしていて、 うちなる もの も そとなる もの も りゅーどーてき に いろいろ な ところ に あてはまる とゆー いみ で かんけいしている。
――(うちなるもの に ついて の けいたい の ぶぶん と わ、 はんのうせい に おける げんじつ と なった ふるまい や さいせいさん である。 そとなるもの について の けいたい の ぶぶん と わ、 げんじつ として しすてむ として からだ の ぶぶん が じっさい に ある とゆー こと である。 うちなるもの の りゅーどーてき に いろいろ あてはまる こと と わ、 感受性 が いろいろ ふてんてきな もくてき がいねん として あてはまる とゆー こと である。 そとなるもの の りゅーどーてき に いろいろ あてはまる こと と わ、 しすてむ が からだ ぜんたい、 るい ぜんたい の ふへんてき な もの である とゆー こと である。)
――(うえ の ちゅーしゃく わ まちがえ である きがする。 なぜなら つづく れい が ちがう よー である から である。 かんじゅせい が しんけいしすてむ に かんけいする と どうじ に さいせい に も かんけいする とゆー はなし お している。ここ で わ、 うちなるもの の はなし お している ので、 うちなるもの の 3こ の せいしつ の あいだ の かんけい お のべている と かんがえられる。 また わ、 うちなるもの わ そとなるもの の いち に も つく こと が できる と かんがえる こと も できる。 )
かんさつするりせい に とって、 ゆうきたい の ほーそく と なっている 2こ の あいだ の かんけい の 2こ わ かんさつされる もの である と かんがえられる。
――しすてむ として の そとなるもの わ たいしょー として かんさつされる。
――かんさつするりせい に わ うちなるもの に こゆう の そとなるもの(しんけいしすてむ、きんにくしすてむ、はらわた) として の たいしょー として かんさつされる。(府h…的な性質 として かんさつされる)
―――― ぜんたい として の そとなるもの と わ ちがう。

  • りせいしょー だい39だんらく (くまの やく 424ぺーじ)

しかし、 ほーそく わ かんさつされず、 ゆうきてきなもの わ わからない まま である。 なぜなら、 ほーそく とゆー かんがえかた が まちがっっている から である。

  • りせいしょー だい40だんらく (くまの やく 424-427ぺーじ)

かんさつするりせい に とって の ゆうきたい の ほーそく わ、 うちなるもの と された 3こ の せいしつ に よって かのー か きまる。
――かんさつする りせい に とって の ゆうきたい の ほーそく わ、つぎ の よー である。

  1. こゆう の けいたい(げしゅたると) として の しすてむ が ふへんてき せいしつ(うちなるもの) お あらわす。(ほーそく1)
  2. けいたい として の しすてむ も ふへんてき せいしつ も 1. げんじつ に なる、つまり じぶつ として ある が、 2. どこ で も あてはまる りゅーどーせい がある、 つまり ふへんてきな けいき として ある とゆー おなじ ほんしつ お もつ。
  3. うちなるもの わ ほか の うちなるもの と かんけいする(ほーそく2) (せいしつ と いっている の わ、 感受性 と 再生産 で、 かつどー と いっている の わ、 反応性 と 再生産 である。)

――われわれ に とって この ほーそく の かんがえ わ、 つぎ の よー に かんがえられる。

  1. ほーそく1 わ むり である。 なぜなら、 ふへんてき せいしつ わ、 こゆう の けいたい として の しすてむ だけ に おさまらない から だ。 なぜなら、 ふへんてき りゅーどーせい お もっている せいしつ なので、じぶつ に とどまらない ので、 じぶつ の けいたい(げしゅたると) が つくる だーざいん の くべつ に とどまらない から である。
  2. ほーそく2 わ とーとろじー に なる。 なぜなら、 感受性 わ 反応性、再生産 と もと から かんけいしている から である。

――――感受性 と わ、 しんでいる 受動性、 つまり じぶん に かえっている と どうじ に、 はんのーする もの である。
――――反応性 と わ、 さよう はんさよう、 つまり しげき はんのー である と どうじ に、 じぶん に かえっている もの である。
――――再生産 と わ、 ゆうきてき に ひとつ に なる こと で、 じぶん に かえってくる なか で さよー はんさよー が あり、 さよー はんさよー の なか で じぶん に かえってくる こと である。(さよー、はんさよー と わ ほかのもの に たいする ぐうぜんてき な かんけい と いえる かもしれない。)
――――感受性 と 反応性 わ おなじ おおきさ と かんがえらえる の わ、 とーとろじー である。なぜなら とも に おなじ がいねん の けいき(もめんと) である から である。

  • りせいしょー だい41だんらく (くまの やく 427-429ぺーじ)

われわれ に とって わ、 感受性 と 反応性 わ がいねん に より しつ として ことなっている が、 かんさつするりせい に とって わ、 ほーそく に したがう よー に みせかけ として の おおきさ として ことなっている と かんがえる。
――あな の ぐたいれい
――――われわれ に わ、いいかえ に よって とーとろじー に なる と わかる。
――――われわれ に わ、しつ として ことなっていて も、 じっさい の もの と おおきさ わ おなじ である から とーとろじー である と わかる。
――ゆうきたい の ばあい も おなじく とーとろじー に なる。
――――かんさつされる よー に げんじつ に ある こと が、 かんさつするりせい に とって の 感受性 と 反応性 なので、われわれ に とって おなじ ゆうきたい の だーざいん の おおきさ が かわっている だけ である。 ないえん と がいえん で も おなじ こと である。

  • りせいしょー だい42だんらく (くまの やく 430ぺーじ)

かんさつするりせい に とって の ほーそく わ、 われわれ に とって の ゆうきてきな ろんりてきな ないよー お むしして、 おおきさ や がいえん と ないえん とゆー かんがえかた で 反応性 と 感受性 お かんがえてしまっている。