さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

よむ ための めも001、 しぜんがく、ありすとてれす

じぶんが よむ ための めも です。
ほかの ものが よむ ためには かいていません。
ごめんなさい。
ありすとてれすの しぜんがくを よみます。
やくは うちやま・かつとし(内山勝利) です。
ありすとてれす・ぜんしゅうの 4かんで、 せいれき 2017ねんに いわなみしょてん から こうかいされました。
いんようは、 にほんごやくの ぺーじ すうを きほんと した。
ただし、 やるきが あるときは、 I・べっかー「ベルリン・アカデミー版アリストテレス全集」の ぺーじすうと、 だいたいの ぎょうすうを かいた。 aは ひだりらん、 bは みぎらんの こと である。

かくめいれき 229ねん 8がつ 12にち から よみはじめた。
(せいれき 2021ねん 5がつ 1にち から よみはじめた。)

だいいっかん

63ぺーじ-64ぺーじ

いんよう

「しかしながら、形相は足らざるところがないので、それ自体が自らを希求することはありえないし、その形相に対立相反するものがそれを希求することもない(対立相反関係にあるもの同士は相互に滅ぼし合うからである)。希求するのは実は素材的なもの(質料)であって、それはあたかも女性が男性を求め、醜いものが美しいものを求めるというようなものであり、そうした場合にも醜いものが直接それ自体として〔美しいものを〕求めるのではなく、付帯的に求めるにすぎず、女性が男性を求めるというのもただ付帯的なこととしてなのである。」
63ぺーじ から 64ぺーじ

ありすとてれす

これを かいた ありすとてれす というのは、 こだいの ぎりしあで いきていた。
ありすとてれう というのは、 てつがくしゃで、 いろんな ものに よまれてきた。
ありすとてれすは みずからを にんげんの おとこであると おもっていた だろう。
まわり からも そう おもわれている。
ただし、 もちろん、 「にんげん」と 「おとこ」 という ことばは、 いま(かくめいれき 229ねん)の にほんごを つかう もの たちとは いみが ちがう。
まず、 「にんげん」 という ことばと 「おとこ」 という ことばは おなじ たんごで あらわされていた。
「ᾰ̓νήρ • (anḗr) m (genitive ᾰ̓νδρός)」(https://en.wiktionary.org/wiki/%E1%BC%80%CE%BD%CE%AE%CF%81#Ancient_Greek)とかく。
よみかたは、 だんせい たんすうけい しゅかくで 「あねー」(ᾰ̓νήρ)と よむ。
だんせい たんすう たいかくで 「あんどろす」(ᾰ̓νδρός)と よむ。
あんどろせくしゃる などの 「あんどろ」 という ことばの ゆらい である。
こだい ぎりしあ では、 にんげん とは、 どれい では ない、 おとこの おとなの ぎりしあじんの こと だった。
つまり、 さべつてきな ことばの つかいかたが されていたと わかる。
にほんごでは、 あまり にんげん という どうぶつの うちの ひとつと、 おとこ という せいべつの うちの ひとつが そのまま むすびつけられている ことばは おもいだせない。
しかし、 いわゆる いんど・よーろっぱ ごぞくと いわれる ことばの なかには、 そのような さべつてきな たんごが あるので、 ちゅういが ひつよう である。

わるい

さて、 いんようの はなしを かく。
まず、 ちゅういする べき なのは、 この ぶんしょうは さべつてきな ぶんしょうで ある という こと である。
わるい ぶんしょう である。
せいべつ さべつを そのまま みとめている ので、 わるい。
やくちゅうを つけている ものも、

「男性・女性については、男性原理を優位とする観点が反映されていることは否めない。」
(67ぺーじ、だいいっかん、だいきゅうしょう、やくちゅう(9))

と みとめている。
おおくの ばあい、 やくを する もの という のは、 こういう ことを かけない 。
うちやま さんは ちゃんと かいていて、 よい。
もちろん、 かかない ことは わるい。
さらに、 うつくしい ものを すぐれた ものと かんがえる ことも わるい。

せいべつと うつくしさ

つぎに、おんなが おとこを もとめ、 みにくい ものが うつくしい ものを もとめる という のは、 どういうこと なのか ふしぎに おもえる。
もとめる という ことばには、 ふたつの いみが ある。
ひとつは、 それを もつ ことを もとめる という いみ である。
もうひとつは、 そうでありたいと おもう という いみ である。
おそらく、 ここは、 おんなの いせいあいを かいている のでは い。
おんなが おとこに なりたいと おもっていると ありすとてれす という 「おとこ」が おもっていた という こと だろう。

せいどうの にんぎょう

ちゅうぞう(鋳像)という ことばが だいいっかんには でてくる。
(44ぺーじ など。 また、45ぺーじの やくちゅう(4)が とくに くわしい。)
この ことばは、 あんどりあーす(ᾰ̓νδρῐᾱ́ς) という ことばの にほんごの やく である。
「あんどり」という おとからも わかる ように、 おとこ(あんどろす)という ことばが もともとに ある。
いみは、 せいどう(青銅)で できた にんぎょう である。
せいどう という のは、 きんぞくで ある。
せいどうを あつくすると とけて、 えきたいに なる。
その えきたいの せいどうを、 こんくりーと などで つくった いがた(鋳型)に ながしこむ。
せいどうが ひえて こたいに なった あとに、 まわりの いがた(鋳型)を こわす。
そうすると、 せいどうの にんぎょうが できる。
このような きんぞくを かたに はめる ことを ちゅうぞう(鋳造)と いう。
いがた(鋳型)に きんぞくを はめる ちゅうぞう(鋳造)で ちゅうぞう(鋳像)が できる のである。
(もじ としての かんじでは、 鋳(い、 ちゅう) という ことばが つかわれる。)

そざいと かたち

ありすとてれすは、 この せいどうで できた にんぎょうを もでるに ものごとを かんがえる。
まず、えきたいに なった せいどうを 「そざい」と かんがえる。(ひゅーれー、しつりょう(質料)など とも いわれる。)
つぎに、 いがた(鋳型)を 「かたち」と かんがえる。 (えいどす、 けいそう(形相)など とも いわれる。)
ものごとは、 そざいと かたちが あわさった ちゅうぞう(鋳像)の ような もの であると かんがえられる のだ。

より ありすとてれすの はなしに あわせて かくと こうなる。

ものごとの はじまり からの きまりごとは、 「ない」と 「かたち」と 「そざい」で せつめい できる。
「ない」は 「かたち」と たいりつ している。
このように せつめいする ことで、 いろんな ものが ある ことが せつめい できる。
そして、 「そざい」は、 「ない」が 「かたち」に なった ときに、 「ない」と 「かたち」に きょうつうする ことを せつめいする。
ちなみに 「かたち」が 「ない」に なる ときも、 おなじ ように、 「かたち」と 「ない」に きょうつうする ことを 「そざい」と せつめいする。
このように なにかが なにかに なる という ことを せつめい できる。
(しぜんがく だいいっかんの まとめ)

これが ありすとてれすの せつめい である。
せいどうの にんぎょうを あてはめると こうなる。
ひとの かたちを してい 「ない」、 えきたいの せいどうを、 いがた という 「かたち」に あてはめる。
えきたいの せいどうも できあがった せいどうの にんぎょうも、 どちらも せいどう という 「そざい」は きょうつうしている。
この 「そざい」が きょうつうしている という ところを いう ことで、 なにかが なにかに かわる という ことを せつめいする ことが、 ありすとてれすの もくてき である。
だから、「そざい」と 「かたち」を かんがえる ときに、 せいべつと うつくしさが もんだいに なっている ことは どうでも いいこと では ない。
ありすとてれすは「そざい」や 「かたち」 という かんがえかたを だいじに していた。
だから、 それらの かんがえかたを せいべつや うつくしさと かんけいする ように かいている という ことは、 だいじな のである。
つまり、 せいべつや うつくしさに ついて、「そざい」や 「かたち」 という かんがえかたで せつめい できないと、 ありすとてれすは こまる のである。
だから、 せいべつや うつくしさに ついて、 せつめい できる ように、 「そざい」や 「かたち」 という かんがえかたを いろいろと かんがえた はず である。

ことば

では、 ことばを かんがえてみる。
まず、せいどうの にんぎょう という ことばは、 おとこ という ことばが ゆらい であった。
つぎに、 こだい ぎりしあごで、かたちが ない ものは、 みにくい もの、 ちつじょが ない ものと かんがえられた。
ふらんすごでも、 sans forme(さん ふぉるむ)は、かたちが ない という いみと、 かたちの くずれた もの という いみが ある。
たいして、 かたちが ある ものは、 うつくしい もの、 ちつじょの ある ものと かんがえられた。
つまり、 ととのった かたちは 「かたち」 だけど、 ととのっていない かたちは 「かたちでは ない」と かんがえている のだ。
さらに、 こだい ぎりしあ では、 にんげん、おとなの おとこの かたちが うつくしい ものだと かんがえられていた。
だから、 にんげん、 おとなの おとこ という きれいな かたちに、 きんぞくを はめると、 きれいな ものに なると かんがえられる のだ。
つまり、 ここでは、 わるい もの、 みにくい もの、 おんな などの おとこでは ないと される もの、 こども、 にんげん いがいの どうぶつが むすび つけられる。
おとった もの であると かんがえられている のだ。

さべつ

この ように ありすとてれすの ように かんがえる ことは さべつ である。
さべつ とは、 ぶんかの ひとつの ありかた である。
さべつを おこなっている ものが わるい ことを している という じかくが あるか どうかは かんけい ない。
さべつを わるい から やめる べきと いわない ことは わるい。
むかしや ちがう ちいきの ぶんしょうの わるい ところを わるいと いわないで、 むしする ことは わるい。
したがって、 かいた まで である。
じぶんは これからの ことを かんがえている。
ありすとてれす という ものを じぶんが よまなかったら、 だれも よまない という ならば、 かきかたを もっと くふう した かもしれない。
しかし、 ありすとれれす というのは、 とても よく よまれる もの である。
したがって、 いじょうの ように かいた。
「じだいてき せいやく」 という ような ことばで せつめい しては いけない。
なぜならば、 そのように 「じだいてき せいやく」と いっても いいと おもえる ことが おきているのは、 いま だから である。
そのように いまでは ない ものに せきにんを おしつける ことは わるい。
いまも あきらかに せいべつに よる さべつ、 うつくしさに よる さべつは あるのだ。
その ような いま ある さべつ、 わるい ことを ちゃんと わるいと してき する には、じかんに かんけいなく、 わるい ものは わるいと いう べき である。
ありすとてれす だけ では なく、 のこっている 「おとこ」の ぶんしょうは だいたい わるい ことは わかっている から、 ありすとてれす だけ せめていると おもわないで ほしい。
だいたい みんな だめ。

かける ところが ある から もとめる

おんなを かける ところが あると かんがえるのは わるい。
しかし、 かける ところが ある から もとめる という のは、 きょうみぶかい。
おんなは それじたいとして おとこでは ない もの とは ありすとてれすは かいていない。
おんなは そざいと かんがえられている のだ。
おとこは かたちと かんがえられている。
おんなは おとこでは ない もの では あるが、おとこでは ない のは、 たまたま であると いう のだ。
どのみち、 せいべつ にげんろんで、 だんせいを すぐれた ものと かんがえている 。
さいしょは、 せいべつと せいてきな ことに かんする ことかと おもったが、 ちがう かんじが する。

にんげんが なる ならない

まえの ところでは にんげんが なる ならない という はなしが ある のだが、 それが おとこ という いみを もつ という ことは、 きょうみぶかい こと である。

だいにかん

71ぺーじ

いんよう

「そして自然を持っているものは、すべてが基本存在(実在)である。基本存在は確たる基盤となるものであり、自然はどんな場合でも基底的なもの(基体)のうちに存するからである。そして、「自然に適った仕方で」ということは、その基本存在や、自体的にそれらに属しているかぎりのものに当てはまる。たとえば火に属している上方への移動ということがそれで、この特性は自然そのものではないし、これが自然を持っているわけではないが、自然によって、あるいは自然に適った仕方でそうであるからである。」
71ぺーじ

しぜんは ぴゅしす。
きほんそんざいは うーしあ。
きていてきな ものは ひゅぽけいめのん。
じたいてきに たいする ふたいてき。

72ぺーじ

いんよう

「なお、「自然」というものが存在するということを証明しようと試みるのは嗤〔るび:わら〕うべきことである。存在するもののうちにはそうした自然的なものが多々あることは明々白々だからである。明白な事柄を明白ならざる事柄によって証明しようとするのは、事柄そのものによてしられるものと事柄そのものによっては知られえないものとの峻別のつけられない者のすることであり(もっとも、人がそういう事態に陥る場合がありうることは明らかである。生まれつき盲目の人が、色彩について推理を働かせることもあろうからである)、したがって、そのような証明を試みる人は、ただ名称について論を立てるだけで、当の事柄について考えることは何もしていないのである。」
72ぺーじ (193a03-07) るびを きっこう かっこで つけたした。

もうが ここで でてくる ことには ちゅういしたい。
まったく せつめいに なっていない ように おもえるが、 これが せつめいに おもえる ような しゃかいと ぶんかが ある という ことが よく わかる ぶんしょう だから である。

75ぺーじ

ようたい(へくしす)、じょうたい(でぃあてぃしす)が ものの ふたいてきな ありかたを さすと だいにかん・だいいっしょう・やくちゅう(9)で かかれている。
すぴのざを おもいだす。

74ぺーじ

「(なお、素材と形相との両者から成るもの、たとえば人間は、自然そのものではなく、自然によってあるものである。)」
74ぺーじ まるかっこは、 やくしゃが いれている かのうせいが ある。

ここの にんげんも おとこの かのうせいが ある。

75ぺーじ

「人間は人間から生まれるが、寝椅子が寝椅子から生じはしない。」(75ぺーじ)

ここも、 ゆだんしては ならない。
おそらく、 どうぶつ としての にんげんを かんがえていると よめる。
しかし、 うむ もの から うまれる とは かんがえていない かのうせいも もちろん ある。
たしか ありすとてれすは、 おとこの せいし という たねが うむ もの という つち(ありすとてれすは おんなという ことばを あてている)に まかれる ことで、 こどもが できると かんがえていた。
だから、 この ばあいも、 おとこ から おとこが うまれる という いみで ある かのうせいは ありえる。
ありすとてれすが おんなと いっている もの、 じぶんが うむ もの という ものは、 せいしょくに かかわっていないと かんがえている かのうせいは ある。

76ぺーじ

「形相の欠如もまたある意味での形相だからである。」(76ぺーじ、193b19-20)

77ぺーじ から 78ぺーじ

「なるほど数学者もまた、いま言われた平面や立体などについての研究を行ってはいるが、しかし自然的物体の限界としてそれらのおのおのを取り扱っているわけではないし、それらに付帯するものごとをも自然的物体に付帯しているものとして考察しているわけでもない。そのために、それらを別個に切り離しているのである、なぜなら、それらのものは思考の上では運動変化から切り離されて存立しうるものであり、離れて別個のものとなっても何らの相違もなく、誤りが生ずることもないからである。」
77ぺーじ から 78ぺーじ、195b32-36

83ぺーじ

「(3)変化あるいは静止の第一の始原となるものがそれから〔「それから」を きょうちょう している。〕もたらされるところのそのものが原因とされる。たとえばあることを提言した人が事の原因者(責任を負う者)であり、父親が生まれた子供の原因者である。すなわち一般化して言えば、作るもの(なすもの)が作られるもの(なされるもの)の、変化させるものが変化するものの原因とされるのである。」
83ぺーじから 84ぺーじ、 194b30-3

やっぱり おとこ から おとこうが うまれる という いみ だったのか。 わるい。

84ぺーじ

「さて、原因というものはほぼこれだけの意味において語られるのであるが、原因というものがこのように多様に語られることから、同一の事物に多数の原因が、しかも付帯的にではなく、存在することになる。たとえば鋳像作製技術と青銅とはともに鋳像の原因にほかならない。それも何か内容を異にしていではなく、鋳像がまさに鋳像であるという点においてのことなのである。ただし、同じ仕方で原因であるというわけではなく、一方は「素材(質料)」という意味で、他方は運動変化が「それによって〔「それによって」が きょうちょうされている。〕もたらされるところのもの」という意味でのことである。」
84ぺーじ、きょうちょうは、 ほんぶんに よる。195a03-13

ぎじゅつの せんもんちしき とは、 ほんらいの ありかたは どうであったか という かたちと、 それから なった ところの そざいを しる という こと であった。(79ぺーじ)
ぎじゅつと しぜんが ならべられている。

「自然とは、それが付帯的にではなく、直接的にそれ自体としてない属しているものの、運動と静止の原理であり、原因である」(70ぺーじ、 192b21-23)

しかし、ぎじゅつに よる けっかは、 ぎじゅつに よる けっかで ある かぎりでは、 かわる けいこうを ほんらいの ありかた として もっている わけ では ない(70ぺーじ)。
つまり、ふくや いすは、 ふくや いすと かんがえられている かぎりでは、 ほかの ものに かわる かのうせいが じょうけんと なっている わけでは ない。
ぎじゅつは、 そざいを つくりだす ことも あれば、 とうじしゃの りえきの ために、 または もくてきの ために そざいを つくりかえる ことも ある。(80ぺーじ)

そざい から かわって
かたち という ほんらいの ありかたに
はじまり から
もくてきの ために
なにかに なる という よっつの げんいんが ある。
そのうち、 ぎじゅつは、 「それによって」 であり、 はじまりに あたる。
はじまりは、 どうさぬしと、 どうさぬしの のうりょくが ともに かたられると かんがえる ことが できる だろう。

88ぺーじ

「そして、(B)それらすべてが(1)現に活動中のものとして語られるか、(2)可能的であるものとして語られるかのいずれかとなる。この両者には次のような違いがある。すなわち、まず活動中のものであり直接個別的なもののほうは、その原因となっている対象と同時に存在し、また同時に存在しなくなる。たとえば、「現に医療行為を行っているこの特定の人」は「現に治療されているこの特定の人」と、「現に建築作業を行っているこの特定の人」は「現に建てられつつあるこの特定の家」と同時に存在し、また同時に存在しなくなる。しかし、可能的にあるものの場合には、必ずしもそういうことにはならない。家が壊れると同時にそれを建てた建築家が亡くなるというようなことはないからである。」
88ぺーじ、195b16-22

ぎゃくに かいた ほうが いいのでは ないか?
つまり、 けんちくかが なくなると どうじに たてた いえが こわれる という ようなことは ない から、
げんに つくられつつある いえ では なく、 できあがった いえ という かのうてきに ある ものは、
その げんいんとなっている たいしょう である ばあいの けんちくかは、つまり、 いま げんに いえを たてている わけでは ない けんちくかと
どうじに あり どうじに ない(つまり あれば あり、 なければ ない ) という ことは ない。
いや、 どちらでも かまわないのか。
かいけつ。

しかし、 「それらすべて」が なにを いみするかで かわる。
まえの だんらくは、 「原因となるもののすべては」、 「(A)原因は」と かいてある から、 げんいん かもしれない。
かのうてきとは なにか という もんだいが ある。
なにかが できる こと。
要調査。

げんいん・たいしょう
原因対象

79ぺーじ から 80ぺーじ

「さらには、ものごとが目指すべき目的すなわち終極と、それらのために〔手段として〕あるかぎりのものとは同じ一つの学の対象である。しかるに自然は終極であり、ものごとが目指すべき目的である。(というのは、運動変化が連続一体的に行われているものにおいて、その運動変化が一定の終極に達するとき、その最終点がすなわちその目指すべき目的でもあるからである。なお、そのことから、かの詩人は滑稽にも「彼は得たり、彼の生まれ来るその目的たる終末(死)を」と歌うことになったのだが、これが滑稽だというのは、終末なら何でも終極目的たりうるわけではなく、最善の終末のみが終極目的たりうるからである。)」
79ぺーじ から 80ぺーじ。〔手段として〕は ほんやくしゃに よる。

しゅだん なのか?(ちがうと おもう。)
ほんやくしゃは やくちゅうで、しゅだん としての そざいてきな ものが けんきゅうの たいしょうに なる(81ぺーじ)と かいているが、 ほんとうか?(ちがうと おもう。)
もくてきは、 おわりと かんがえた ほうが よさそう。
(「この場合、達成すべき目的すなわち金銭の取戻しは、その人の内にある原因の一つではなく、思考にもとづいて意志的に選択されうる事柄のほうにあるのである。」95ぺーじ、197a2-3。 たっせいされた おわりの けっか、 つまり かしていた おかねを かえして もらった という ことは、 かえして もらった がわの うちがわに げんいんが ある のでは なくて、 あとから かんがえて、 りゆうを さがした ときに だけ えらばれる ことがらで、 げんいん では ない。という ような いみ だろう。いしてきに せんたくして という ことばの いみが わからない。 しこうに よっても なぞ。 その あとに、 かねを かえしてもらう ために でかけた ばあいを、 「意志的に選択して」95ぺーじ、197a4-5と かいている。 まちがえだ。 まず かんがえる ことで 「いしてきに」 ある ばしょに でかける ことを えらぶ。 そして、その おわりに おかねを かえして もらう。 なんで おかねを かえして もらう ことに なったの?と きかれれば、 ぐうぜんであると こたえる。 おかねを とりもどした という けつまつは、 でかけた ひとの なかに ある げんいんの ひとつ である もくてき では ない。 つまり、 おかねを かえしてもらおうと おもって でかけた から という りゆう では ない。 けつまつは、なにかを かんがえて、 「いしてきに」その ばしょに いく ことを えらんだ ことに、 たまたま くっついていた だけ である。 だから、 「ことがらの ほうに ある」と いわれる のだ。)

98ぺーじ

「そして、そのために、無生物も獣類も、さらには幼児もまた、偶然によって何かをなすことはない。それらには意志的選択ということがないからである。」98ぺーじ、197b8-9

「こうい」(行為)の かんがえかたの ぐたいれい。

100ぺーじ から 101ぺーじ

「他方、それら両方のいずれも、先に挙げた原因のさまざまなあり方のうちの、運動の始原となるものがそれから〔「それから」は きょうちょうされている。〕もたらされるところのもの(始原因)に属する。なぜなら、それらは常にどの場合でも自然的な原因の一つであるか、思考に由来する原因の一つだからである。」100ぺーじ-101ぺーじ、198a02-03

「それら両方」とは、 おのずから、と ぐうぜん。

109ぺーじ

「怪物とは自然の目指す目的に適合しそこなった誤りの産物である。」
109ぺーじ、199b03

とくに にんげんの かおを した うしの こが かんがえられている。

110ぺーじ

「自然によってあるものとは、自らのうちに存する何らかの根本原理をもとに、連続的に運動変化して何らかの終極目的に到達するかぎりのもののことだからである。」
110ぺーじ、199b16

114ぺーじ

「さてこれで自然的なものごとにおける「必然的なこと」とは、われわれが「素材」と言っているものおよびそれの運動変化のことであるのは明らかである。自然学者としては、素材としての原因と「何のためか」を示す原因との両方を論じなければならないが、よりいっそう大事なのは後者のほうである。」
114ぺーじ、200a33-35

だいさんかん

118ぺーじ

これなるものが うーしあ、きほんそんざい である。
(130ぺーじ、ふたいしてでは なく、 そのもの として ある ものが きほんそんざい である。)

125ぺーじ

「そして、運動変化を引き起こすものは、その度にいつでも、何らかの形相――それがこれ〔「これ」を きょうちょうしている。〕なるもの(基本存在)であれ、何らかの性質的なものであれ、一定の数量的なものであれ――を相手にもたらすであろうし、それが運動変化させる場合、まさに運動変化の始原となり原因となるであろう。たとえば、終極実現態にある大人の人間が人間となる可能性を持ったものから人間を作るのである。」
125ぺーじ、202a09-12

にんげん という ことばは おとこ という いみが ある ことに ちゅうい する べき。

136ぺーじ

むげんが つうかしない ことと いいかえられている。

137ぺーじ

アリストテレスによれば、数は付け加わりによって無限、空間は分割によって無限、時間はその両方によって無限である。」
137ぺーじ、だいさんかん、だいよんしょう、やくちゅう 25

150ぺーじ

「またしかし、時間における場合や人類についての場合と、大きさの分割についての場合とでは、明らかに事は別である。すなわち、全般的に言えることとして、無限なるものの存在は、いま言われたように、次々にたえずものが取り去られていき、そのつど取り去られるのは有限のものだが、しかし次々にたえず別のものが取り去られるという仕方によるのである。」
150ぺーじ、206a25-29

「[さらに繰り返せば、「ある」ということはきわめて多様な意味で言われ、したがって無限なるものを、たとえば一人の人間や家の場合がそうであるように、「これ〔「これ」を きょうちょうしている。〕なるもの」と解してはならず、昼間や競技があると言われるような意味で、すなわちそれらにとっての「ある」は何らかの基本存在として成立しているのではなく、たえず生成あるいは消滅の過程にあって、有限なものでありつつ、しかしたえず次々に別のものが生じているのだが、そのような意味で解さなければならない。]しかし、大きさの場合には〔次々に〕取り去られてもなお存続しつづけていくのに対して、時間や人類の場合には消滅しつづけながら途絶えることがないようなあり方をしているのである。」
150ぺーじ、206a29a-33, 206b01-03。 〔「これ」を きょうちょうしている。〕を そうにゅうした。[]は しょきの しゃほんに おいても ある ものと ない ものが ある ことが しられており、 らんがいの つけたしと やくしゃは かんがえている。

151ぺーじ

むげんとは、

「すなわち、可能態において、しかも引き去りをつづけていく過程としてである」
151ぺーじ、206b13-14

ここで、 むげんと そざいを おなじ ように かのうたい として、 それ じたいで ある わけでは ない もの として せつめいする ところは おもしろい。
「ひきさり」という のは、 ばでぃうの ひきざんの はなしと かんけいしている のだろう。

152ぺーじ

「すなわち、その外部に何もないところのものではなく、その外部にたえず何かがありつづけるところのもの、それが無限なるものである。宝石受けの付いていない指輪が「無限の指輪」と言われているのも、その証拠となろう。それは、たえずどこまでも指輪の輪のより外(より先)の部分を辿っていくことができるからである。ただし、そういわれるのはある種の類似性においてであり、けっして本来的な意味においてではない。本来の無限であれば、たえずより外の部分がありつづけるようになっていなければならないとともに、どこまで行っても同じ部分に戻ってはならないからである。しかし円環の場合にはそういうことにはならず、ただその先につづく部分がいつもそのつど違っているにすぎないのである。」
152ぺーじ から 153ぺーじ、207a1-8

154ぺーじ から 155ぺーじ

それゆえ、無限なるものは、そのかぎりにおいては、認識不可能なものでもある。素材的なものには形相が存しないからである、とすれば、無限なるものは、明らかに全体と見なすよりも、むしろ部分と見なすべきである。なぜなら、素材とは、たとえば青銅が鋳像の部分要因であるように、全体の部分要因だからである。すなわち、もし感覚的事物の世界において無限なるものが統括的役割を果たしているとすれば、知性対象の領域においても、「大」と「小」が知性対象となるものを総括するのでなければならないはずである。しかし、認識不可能なもの、無規定的なものが総括し規定するというのは、理に反したことであり、不可能なことである。
154ぺーじ から 155ぺーじ、207a27-33

むげんと ぜんたいを まちがえて むすびつけられていた のは、 むげんが きわみを じつげんする ための そざいで、 かのうたいに おける そんざい ぜんたい である から。

156ぺーじ

「したがって、数的無限は可能的にはありえるが、活動実現態において(顕在的に)ありえず、しかしながら、数え上げられていく数がそのつど常にいかなる既定の数をも超え出ていくのである。ただし、その無限性はそのままありつづける〔「ありつづける」を きょうちょうしている。〕のではなく、ちょうど時間や時間を刻む数と同じように、生成過程として存する。」
156ぺーじ、207b11-14

157ぺーじ

おおきさが むげん である から うんどうへんかも むげん であり、
うんどうへんかが むげん である から じかんも むげん である。(157ぺーじ、207b23-27)

158ぺーじ

「また、以上の議論は、活動実現態において増大の方向に対して通過し尽くせないというあり方での無限の存在を否定するものではあっても、それが数学者たちの考察をできないようにさせるものではない。なぜなら、現に彼らは無限を必要としてはいず」
158ぺーじ、 207b29-31

むげんは そざい。
むげんは けつじょたい。
むげんの こんぽん(きてい)には、 つながっていて、 かんかく できる ものが ある。

174ぺーじ

ろごすが、 げんごきてい(言語規定)と やくされている。

「(4)他には、「類」が「種」のうちにあるというように、一般化して言えば、「種」の部分をなすものが言語規定(ロゴス)のうちにあるというように。」
174ぺーじ、210a20-21

しゅの ぶぶんを なす もの とは、「「種」を規定するための「類」および「種差」の 」ことだと やくしゃは かいている。(175ぺーじ、だいよんかん、だいさんしょう、やくちゅう(2))

175ぺーじ

みずからの うちに (おん)は、 へーげると かんけいしている だろうか?
やくしゃは、 これを むげんが みずからの うちに ある こと という はなしで たいしょ されていると のべているが、 より いっぱんてきな はなしを していると よむ ほうが いいと おもった。(だいよんかん、だいさんしょう、やくちゅう4)

176ぺーじ

ぶぶんに もとづいて いう こと として、 はだが しろい ものは しろいと、 たましいの りちてきぶぶんが ちしきゆたかな ものは ちしきゆたか である という れいが あげられている。 めとにみー だ。

181ぺーじ

「ところで、取り囲んでいる側のものが囲まれている側のものから切り離されることなく、連続一体的である場合には、囲まれているものは、場所のうちにあるという意味では、取り囲んでいるもののうちにあるのではなく、部分としての全体の内にあるのである。他方、取り囲んでいる側のものから切り離されているが、それに接触している場合には、取り囲んでいるものの直接的な第一の末端のうちにあり、直接的な第一の末端は、それのうちにあるものの部分ではなくて、しかもうちにあるものの占める領域より大きくもなく、等しい大きさのものである。接触し合っているものの末端同士は、ともに同じ所にあるからである。」
181ぺーじ、210a30-a36

182ぺーじ

じぶつの きょうかいめん としての ほんしつけいたい(もるぺー)に たいして、 ばしょは とりかこんでいるものの きょうかいめん である。

だいよんかん、ぜんはんの まとめ

だいいっしょう: ばしょとは なにか? ばしょは あるのか?(「こうした困難な問題点」(168ぺーじ、208a30))
だいにしょう:ばしょは かたちか そざいか? ぷらとんの こーらー。 ばしょは きりはなせる から かたちでも そざい でも ない。ばしょは ようきだ。 どこかに ある。ばしょは うごく(なにかに なる)ことと かかわる。ばしょの ばしょ。ばしょが なくなる。
だいさんしょう:どこかに あるとは いかなる ことか。 みずからの うちに あるとは いえない。ぜのんの ばしょが なにかの うちに あり、 むげんに すすむ という もんだいは、 「の うちに ある」 という ことばの いみが、 「ただし、その第一の場所が何らかのうちにあるとしても、それは場所のうちにあるというのではなく、ちょうど健康が持続的状態として熱いもののうちにあり、さらにその熱いものがそのつどの様態として身体のうちにあるというような仕方であれば、ということである。」(178ぺーじ、210b24-27)(うちに あるの5の いみで、 「形相が素材的なもののうちにあるというように」(174ぺーじ、210a22))

「ところで、はたしてものは何かそれ自体として自らのうちに存在しうるか、それともけっしてそういうことではなく、すべてのものはどこにも存在しないか、他の何ものかのうちに存在するかのいずれでしかありえないのか、ということが問題とされるかもしれない。」(175ぺーじ、210a25-26)

だいごしょう:ばしょの じょうけん

「(1)第一には、それ〔「それ」を きょうちょうしている。〕の場所となっているその事物を取り囲んでいるものであること。
(2)しかしその事物の側に属するものではないこと。
(3)また、直接する第一の場所はその事物より小さくもなければ大きくもないこと。
(4)また、場所は個々の事物のあとに取り残され、したがってそれとは別個独立のものであること。
(5)さらにまた、あらゆる場所に上下があること。
(6)個々の事物は、自然本姓的に、それぞれの固有の場所へと移動し、そこに留まる。そしてその動きや停止は上下方向に対してなされること。」
179ぺーじ、211a1-6

ばしょに おいて、 それじたいとして、 または ついでに うごく ことが ある。 ぶぶんの ぜんたい である ばあいは、 ともに うごき、きりはなされて くっついている ばあいは、うちで うごく。ばしょは まったん そのもの、きょうかいめん である。

そざいは「事物から自立離存したものでもなければ、事物を取り囲んでいるものでもないのに、場所はその両方に当たる」(184ぺーじ、212a1)

185ぺーじ から 186ぺーじ

「容器が移動可能な場所であると同じように、場所とは動かすことのできない容器のようなものである。それゆえに、たとえば川の中で船が動いている場合のように、運動状態にあるもののうちにあって、その中身のもののが運動したり変化したりするときには、それを取り囲んでいるものは場所というよりもむしろ容器の役割を担う。場所は不動のもののことだからである。それゆえ川全体がむしろ場所である。それ全体としては不動だからである。
さて、以上の結果、取り囲んでいるものの、〔囲まれているものに直接した〕第一の不動の境界面、それが場所である。
また、それゆえに、宇宙世界の中心と、それを巡る〔天球の〕円運動のわれわれに対する側の末端面とが、われわれすべてにとってとりわけ固有の意味で、それぞれ上と下であるように思われる。中心は常に留まっているし、円運動しているものの最末端面は同じあり方を保ちつづけているからである。したがって、自然本性的に上方に動いていくものが軽いもの、下方に動いていくものが重いものであるからには、中心に向かっている側の取り囲んでいる境界面および中心そのものが下であり、最末端に向かっている側の境界面および最末端面そのものが上である。そして、それゆえに、場所とは表面に類したものであり、また容器のようなもの、そして取り囲んでいるものであるように思われる。さらにまた、場所は取り囲まれている事物と一体になっている。境界面は限定づけられているものと一体的だからである。」
185ぺーじ から 186ぺーじ。 211a16-a32

186ぺーじ から 187ぺーじ

「さて、その外側にそれを取り囲んでいる別の物体があるような物体、それは場所のうちにあるのだが、そうした外側の物体がないものは、場所のうちには損じあしない。だから、仮に水がその外側を取り囲んでいるもののないようなものだとしても、それの諸部分は運動するだろうが(それは相互に取り囲まれているのだから)、全体は、ある意味で運動するだろうが、ある意味では運動しないことになろう。全体として一斉に場所を変えはしないが、円運動はするからである。——その円が諸部分の場所となっているので――。そして、諸部分のうちの一部は上下運動はせずに、円運動のみを行うが、しかし希薄化したり濃密化したりするかぎりのものは、上下運動をも行う。」
186ぺーじから 187ぺーじ。 212a32- 35-b1-3

「ところで、すでに語られたように、あるものは可能態において場所のうちにあり、あるものは活動現実態において場所のうちにある。それゆえ、同質一様のものが連続一体的なあり方をしているときには、その諸部分は可能態において場所のうちにあり、たとえば積み重ねられたもののように、それぞれの部分が別個になっているがそれらが接触し合っているときには、活動現実態において場所のうちにある。」
187ぺーじ、 212b4-7。

188ぺーじ

「そして、またあるものは間接付帯的に場所のうちにある。魂とか天界全体がそうである。後者の場合は、その諸部分すべてが或る意味で場所のうちにあるからで、すなわち円軌道に沿って、各部分が他の部分を取り囲んでいるからである。」
188ぺーじ、 212b13-15

「天界の特定箇所たる最末端部で、運動変化している物体に接触しているところ、それが場所である。そしてそれゆえに、大地は水のうちにあり、その水は大気(空気)のうちにあり、その大気は天空火(アイテール)のうちにあり、天空火は天界のうちにある。そして、天界はもはや他のもののうちにはない。」
188ぺーじ、212b19-22

190ぺーじ から 192ぺーじ

みず という そざい から、 くうき という かたち という かんけいに ある。
みずは くうきの かのうたいで、 くうきは みずの かつどうじつげんたい である。
みずと くうきの かんけいは、 ぶぶんの ぜんたいに たいする かんけいの ような かんけい である。

「それゆえ、水と空気は接触し合うし、両者が活動実現態において一つのものになった場合には、自然一体化がなされるのである。」
192ぺーじ。213a10

197ぺーじ

「気息(プネウマ)は、 宇宙にみなぎっているものとsられる生命要因をはらんだ気体的なもの。」
だいよんかん、だいななしょう、やくちゅう17

ぴゅだごらすはの くすとす、えくぱんとす

さわれる、 つまり おもさや かるさの ある ぶったいが まったく ない ばしょが くうきょ であると かんがえられている。(てんは ばしょ では ない ので、 くうきょ では ない。)

198ぺーじ

ぶったいてきな うーしあが ない ところが くうきょであるとも いえる。
くうきょは ぶったいが とりさられた ばしょ である。
ばしょは、 うごかない きょうかいめん として あるが、 ぶったい として ばしょの なかに ある のでは なく、 かたちが そざいの なかに ある。 「天界の特定箇所たる最末端部で、運動変化している物体に接触しているところ、それが場所である。」(188ぺーじ、212b19-20)
だから、くうきょは ない。

「なぜなら、空虚は物体ではなく、物体の空間的広がりのことだとされているからで、そのために、空虚が何らかの存在だと思われるのは、場所もやはり何らかの存在だと思われ、しかも同じ理由からそう思われているからである。すなわち、場所はそこに入り込んでくる諸物体とは物の何ものかであると主張する人たちにも、また空虚についてもそう主張するものたちにも、ともに支えとなっているのが場所的な運動変化なのである。空虚が、そこにおいて運動変化がなされるところとして、運動の原因をなすものと、彼らは考えているのだが、それこそは、場所とはいかなるものかについて、ある人たちの主張していることにほかならないであろう。」
198ぺーじ、214a19-25

ほかの かんけいする ところ

じぶつの まったんから まったんまでの あいだに ある もの としての なんらかの ひろがりが ばしょ である という せつに ついて。

「取り囲んでいるものがそのまま留まっているのに、取り囲まれている側のものは、それが切り離されたあり方のものであれば、たとえば水が容器から流出するように、変化するということがしばしばあることから、その間にあるものとして、移り変わっていく物体とは別の何らかのものとして、広がり(空間)があるように思われる。しかし、そのようなものはありえず、(何かが出ていくとすぐに)移り変わりしつつそこに接触する本性をもった諸物体のいずれか任意のものが、入り込んでくるのである。」
182ぺーじ から 183ぺーじ、 211b15 - 19

「容器の境界面が場所であるように見えるだけでなく、空虚な存在としての、境界面から境界面までの間の領域もまた場所であるように見えるからである。」
185ぺーじ、212a12-15

199ぺーじ

「空隙なく充満しているものも性質変化することは可能なのである。」
199ぺーじ、 214a29
「同時に物体同士が相互に場所を入れ替えることができるからであり、その際に運動変化しつつある物体の他に別個の空間的広がりが何もなくても構わないのである。」
199ぺーじ から 200ぺーじ、214a30-32

200ぺーじ

おきかわり(あんてぃめたすたしす)/まわりこみちかん(あんてぃぺりすたしす)と しゅくみつか(あっしゅく)
くうきょを はなしたがる りゆうの うんどうへんかは、 べつに くうきょを もとめない という はなし。

202ぺーじ

れんぞくいったいてきな ものの それぞれの ぶぶんは ぜんたいの なかに あるのであって、 ちょくせつてきに ばしょの なかに ある のでは ない。

203ぺーじ

「空虚のうちにあっては事物は必然的に静止しているからである。そこではどの方向へより動きやすいとか動きにくいとかいうことがないからであり、それというのも、空虚であるかぎりは差異がありえないのである。」
203ぺーじ、 214b32-33, 215a1

204ぺーじ

くうきょに ちがいが ないから、 じょうげは ない。
しぜんほんせいじょうに じょうげは ある。 くうきょは ない。

205ぺーじ

ばしょいどうするのは、 くうきょが ゆずるばあいと かんがえられるが、 くうきょから みたら、 すべての ほうこうに ゆずる かのうせいが あるのに、 なぜ いっぽうこうにしか ゆずる ことが ないのか せつめいできない。

207ぺーじ

「Zは空虚であるとし、それは媒体Bおよび媒体Δと等しい長さであるとしよう。移動体Aが何らかの時間でその空虚を通過し、運動するものとし、その時間を符号Hで表すものとすると、時間Hは符号Eで表した時間(媒体Δを通過するのに要する時間)よりも短くて、その比率を空虚は充満体に対して持つことになろう。またしかし、符号Hで表した時間に等しい時間で、移動体Aは媒体Δの中を距離Θだけ通過するであろう。しかし、空気(媒体Δ)よりも疎薄さで優っている何らかのもので、その〔疎薄さの〕比率は符号Eで表した時間が時間Hに対するのと同じものであるとすれば、やはり移動体Aは(同じ時間で)その中を通過するであろう。なぜなら、もし符号Zで表した媒体の物体が媒体Δの物体よりも疎薄である度合いは、時間Eが時間Hを凌駕している度合いに対応するとすれば、それと逆転した〔反比例的な〕割合の速さで、すなわち時間Hと同じだけの時間で、符号Aで表した移動体は媒体Zを、もし移動運動しうるものならば、通過することになろう。ところが、先ほどの前提では、その経過に要する時間はHとされたのだった。その結果、充満体をであれ空虚をであれ、通過に要する時間は同じだということになる。しかし、それはありえないことである。したがって、明らかに、もし空虚のいかほどにせよそれを通過するのに要する時間がありうるとすると、次のような不可能が帰結することになる。すなわち、何らかのものが充満したところを通過するのにも、空虚を通過するのにも、同じ時間を要することになるだろう。こういう不可能な帰結が生ずるというのも、異なった物体同士の間には、〔それらを通過するのに要する〕時間同士の間におけるのと同様の比率関係が成立するからである。
以上を要約して言えば、ここに生じた結果の原因は、明らかに、すべての運動変化は運動変化同士の間に比率が存在するのに、空虚と充満体の間にはそれが存在しないことによるのである(運動変化同士に比率が存在するのは、それが時間においてなされ、いかなる時間も時間同士の間に、それら双方の時間が有限なものであるかぎりは、比率が存在するからである)。」
207ぺーじ から 208ぺーじ、 215b24-30, 216a1-11

209ぺーじ

ばしょと おなじく くうきょも じりつりそんしては いない。

「また、空虚をそれ自体として考察してみるならば、いわゆる空虚なるものは、まさに文字通り空虚でしかないことが判明するであろう。」
209ぺーじ、216a27-28
アリストテレスによるきわめて稀なジョークの一例。」
だいよんかん、だいはっしょう、やくちゅう22

214ぺーじ

「すなわち、熱いものと冷たいものなど、自然本性的な対立相反関係をなす、それら対立相反的なものは対立相反的なものから自立離存した存在ではないが、その本来的あり方において異なったものであること、そしてそれは、色であったり、熱くなったり冷たくなったりするにしても、数的に一つであること、というのがわれわれの基盤とする立場である。」
214ぺーじ、 217a23-28

216ぺーじ

「さて、以上に述べられたことから、明らかに、空虚はものから分離されたものとしては、端的にそれだけでも、あるいは希薄なものに含まれた仕方でも存在しえないし、また可能態においても存在しえない。ただし、場所移動の原因をともかくも空虚と呼んでおこうというのであれば、それは別のこととしてであり、その場合には、重いものと軽いものの素材的要因という、そのかぎりにおける素材的なものが空虚であるということになろう。」
216ぺーじ、217b20-23

218ぺーじ から 219ぺーじ

1. かこや みらいは あるわけ では ない のに じかんは ある?
2. わけられる のに じかんは いまの あつまり では ない。
3. じかんが うつりかわる なら、いつ いまは ある ことは ない のか? ありえない。
「というのも、ちょうど点が点に連接しえないのと同様に、多数の「今」が相互に連接し合うのは不可能であるとしておくからである。」(219ぺーじ、 218a19-20)
4. いまが つづく なら、 きょうかいが ひとつに なるが ありえない。 すべて どうじに なる。 ありえない。
「ところが、「今」は境界であり、また時間は有限なかたちで取り出すことができるのである。」(219ぺーじ、218a25-26)

220ぺーじ

「ところで、時間とは何よりも運動変化であり、変化一般であると考えられるので、これについて考察しなければならないだろう。それぞれの事物の変化一般ないし運動変化は、変化しているその当のもののうちでのみなされるのか、それとも変化し運動しているその当のものがたまたま位置している所においてなされるかのいずれかである。それに対して、時間はあらゆるものにわたって、至るところで一様なあり方をしている。さらにまた、変化には遅速があるが、時間にはない。なぜなら、遅速は時間によって規定され、短時間に多く運動変化するのが速いということ、長時間かかってわずかに運動変化するのが遅いということなのである。他方、時間が時間によって規定されることはなく、どれだけ多くの量のものであるとか、どのような質のものであるとかということで規定されることもない。したがって、時間が運動変化でありえないことは明らかである。なお、当面のところ、運動変化と言おうと変化と言おうと、われわれにとって何らの違いもないものとしておこう。」
(220ぺーじ から 221ぺーじ、 218b10-b20)

222ぺーじ

「したがって、時間が存在しないように思われる状態がわれわれに起こるのは、われわれがいかなる変化をも画定することなく、われわれの魂が分割できない一つの「今」のうちに留まっているように思われる場合であり、他方、われわれが変化に気づき、それを画定したときには、時間が経過したと言うのであれば、明らかに、運動変化や変化一般なくしては時間は存在しないのである。」
222ぺーじ、218b31-34

うんどうへんかに ぞくしている という ところは それでは しょうめい できていない のでは ないか?


時間が運動変化の何であるかを取り押さえなければならない。というのも、われわれは運動変化と時間とを同時に感覚するからである。事実、暗闇にあって、われわれが身体を介しては何も感受できないという場合であろうとも、われわれの心のうちに何らかの運動変化があるとすれば、そのまま同時に何らかの時間も経過したという思いがする。

くらやみ という みる ことに ついての ひゆが さいしょに くる のが おもしろい。
そして、 おそらく くらやみが みえる という のは、 へんかが ない ように みえると かんがえる ことが おもしろい。
ここで、 たましい では なく、 こころが でてくる のも、 おもしろい。

223ぺーじ

よりさき、よりあとが ばしょてきな ことば という からには、 よりまえ、 よりあとと やくす ほうが よかったのでは ないか?

「ともかく「より先・より後」は大きさのうちに存在するものであるから、運動変化の場合にも「より先・より後」は必然的に存在し、それは大きさの場合と類比的である。のみならず、「より先・より後」は時間にも存在するが、それは常に運動変化と時間のそれぞれ一方が他方に随伴する関係にあるからである。」
223ぺーじ、219a15-a20

るいひてき というのが ありすとてれす らしさ なのかも しれないと かせつを たてた ところ。

「ただし、運動変化の場合の「より先・より後」は、「より先なるもの」・「より後なるもの」としてあるところの当のものとしては、運動変化にほかならないが、しかしながら、そのあり方においては異なったものであり、運動変化ではない。」
223ぺーじ、219a20-a22

だいよんかん、だいじゅういっしょう、やくちゅう(4)「ὅ... ποτέ ὅν(a20-21)は基底的なもの(基体)を表す言い方の一つ。『動物の諸部分について』第二巻第二章648b35—第三章649b27, 『生成と消滅について』第一巻第三章319a33-b4 参照。」

なぞ。

「またしかし、われわれが時間を認知するのは、運動変化を「より先・より後」によって画定することにより、その時間を画定する場合のことである。」

かんかくの はなしが でてくる ところが おもしろい。
さらに、 よりまえと よりあとを かくていして、 その ちゅうかんも ほかの ものとして にんていする という ながれが おもしろい。

224ぺーじ

「すなわち、われわれがその両端を中間部とは異なったものとして判別し、われわれの心が「今」は二つ、一方は「より先」のもの、他方は「より後」のものであると言明するときに、われわれはこれが時間であるというのである。というのも、「今」によって〔両端を〕画定されたものが時間だと思われているからであるが、とりあえずはそうだとしておこう。」
224ぺーじ、218a28-31

「したがって、われわれが「今」を一つとして感覚し、運動変化における「より先」・「より後」として感覚せず、あるいは同じ一つの「今」ではあっても、「より先」のもののそれであるとともに、「より後」のものそれでもあるというように感覚しないのであれば、全く何らの時間も経過したとは思われないのである。その際には、いかなる運動変化があったとも思われないからである。他方、われわれが「より先・より後」を感覚するときには、時間が経過したと言うのである。なぜなら、時間とはそれ、すなわち「より先・より後」にもとづく運動変化の数のことだからである。」
224ぺーじ、218a32-35、219b2

かぞれられる かぎりでの うんどうへんかが じかん
じかんは かぞえられる ほうの かず

224ぺーじ から 226ぺーじ

「そして、運動変化がたえず次々と別のものになっていくのと同じように、時間もまた、たえず次々と別のものになっていく(ただし、同時並存するすべての時間が同一のものである。「今」は、それ〔「それ」を きょうちょうしている。〕がまさに「今」であるところのそのものとしては同じものであり――ただし、そのあり方ではさまざまに異なるのだが――、そしてその「今」が、「より先・より後」という観点において、時間を画定するものだからである)。「今」はある意味では同一のものだが、またある意味では同一のものではない。次々と別の時点にあるかぎりでは異なっているが(これが、「今」とはもともと何であったのかということである)、それ〔「それ」を きょうちょうしている。〕がまさに「今」であるところのそのものとしては同じものである。すなわち、すでに語られたように、運動変化は大きさに随伴し、そしてその運動変化に時間は随伴する、というのがわれわれの言わんとするところである。そして、それと同様に、移動体は点に呼応し、その移動体によってわれわれは運動変化を認知し、運動変化の中での「より先」と「より後」を認知するのである。また、移動体は(それが点であれ、石であれ、あるいは何か他のそうしたものであれ)、それが移動体であるところのそのものとしては〔移動中の全時点にわたって〕同一であるが、説明規定においては別のものであり、それは、ちょうどソフィストたちが、リュケイオンにいるコリスコスと公共広場にいるコリスコスとは別人である、としているのと同じようなことである。移動体もまた、次々と別のところへ位置を変えていくことで、異なったものになっていくのである。そして、「今」が移動体に随伴するのは、ちょうど時間が運動変化に随伴するのと同様である(なぜなら、われわれが運動変化における「より先・より後」を認知するのは移動体によってであるが、数えられるものであるというかぎりにおいての「より先・より後」が「今」なのだからである。)したがって、この場合においても、「今」は、まさにそれ〔「それ」を きょうちょうしている。〕が「今」であるところのものとしては同一であるが(すなわちそれは運動変化において「より先」とか「より後」としてあるというかぎりにおいての「より先」とか「より後」が「今」なのだからである)。そして、とりわけ顕著に認知されるのがこのような「今」である。それというのも、運動変化は運動変化の過程にあるもの(運動体)のゆえに認知され、場所移動変化は場所移動しつつあるもの(移動体)のゆえに認知されるからである。なぜなら、場所移動しつつあるものは、これと特定された何らかのものであるのに対して、運動変化はそうではないからである。したがって、「今」はある意味では常に同一なるものであるが、ある意味では同一ではない。場所移動しつつあるものもはやりそうであるからである。」
224ぺーじから226ぺーじ。219b9-219b34〔「それ」を きょうちょうしている。〕を みっつ いれた。

226ぺーじから228ぺーじ

「そして、もしも時間が存在しなければ、「今」も存在しないだろうし、また「今」が存在しなければ、時間もまた存在しないであろうということは、明らかである。場所移動しつつあるものと場所移動変化とが同時並存関係にあるのとちょうど同じように、場所移動しつつあるものの数と場所移動変化の数とが同時並存するからである。なぜなら、場所移動変化に随伴する数が時間であり、「今」は場所移動しつつあるものに相当するもの、いわば数の単位としての「一」のようなものである。さらにまた、時間は「今」によって連続一体化しているとともに、それが分断されているのも「今」においてである。なぜなら、このことは場所移動変化と場所移動しつつあるものとの官営にも呼応しているからである。すなわち、運動変化や場所移動変化が一つのものとして成立しているのは場所移動しつつあるもの、それがひとつのものであるからのことであるが(もっとも。その事物の本来のあり方として一つであるからということによるのではなく――それは間歇〔るび:かんんけつ〕的に運動変化することもありうるのだから――「場所移動しつつあるもの」という説明規定において一つということによるのだが)、またその事物が、運動を前・後に区分しもするのである。すなわち、点は一方側のものの始点であるとともに、もう一方側のものの終点ともなっているのである。しかし、一つの点を二つのものとして、このような捉え方をすると、同じ一つの点が始点でもあり終点でもあるということになれば、そこで立ち止まらなければならない。ところが「今」のほうは、場所移動しつつあるものが運動変化していることによって、たえず異なってものになっていくのである。」
226ぺーじ から 228ぺーじ、 220a1-220a14
るびを 〔るび:かんけつ〕とあらわした。

228ぺーじ

「したがって、時間は数であるが、それは同一の点が始点であり終点でもあることによって、その点が数えられるという意味で数であるのとは違う仕方においてであり、むしろ線分の両端が数であるような仕方においてのものである。——そしてまた、線分の部分が数えられるという意味での数のような仕方においてでもない。その理由はすでに述べられたとおりのものであり(すなわち、線分の中間部の点を二つのものとして扱うことで、そこで立ち止まることになるだろうからである)、さらには、「今」が時間の部分をなすものではないのと同じことである。なぜなら、一つの線分の部分とは二つの線分のことだからである。
とすれば、「今」は、それが境界であるかぎりにおいては、時間ではなく、時間に付帯しているだけのものであるが、時間を数えるものとしての観点からすれば、それは数である。なぜなら、境界は、それが境界づけているところのその当のものに属しているのであるが、数は、たとえばここにいる馬の数である「一〇」は、それとともにまた他のところにも充てられるからである。
さて、したがって、時間とは「より先・より後」という観点における、運動変化の数であること、そしてそれが連続一体的なものであること(連続一体的なもの(運動変化)に付帯した存在であるのだから)は、明らかである。」
228ぺーじ、220a15-28

232ぺーじ から 233ぺーじ

「そして、「時間のうちにある」というのは「数のうちにある」というのも同然であるとすれば、時間のうちに存在するすべていかなるものよりもより大きい何らかの時間が想定されるであろう。それゆえ、時間のうちにあるものはすべて必然的に時間によって包括されるのであり、それはちょうど、たとえば場所のうちにあるものはすべて必然的に時間によって包括されるのであり、それはちょうど、たとえば場所のうちにあるものが場所によって包括されるように、何らかのうちにある他のさまざまなものがそうであるのと同様である。そして、それらのものが時間によるあれこれの作用を受けることは、ちょうどわれわれが「時が消し去る」とか「すべては時によって老いる」とか「時の経過ゆえに忘れ去られる」とか言い習わしているとおりである、ただし、時の経過のゆえに十分に学んだとは言わないし、若くなったとも、美しくなったとも言いはしない。というのも、時間はそれ自体としてむしろ消滅の原因だからである。なぜなら、時間は運動変化の数であり、運動変化はものの現状を逸脱の方向に向かわせるからである。」
232ぺーじ から 233ぺーじ 221a28-32, 221b1-3

244ぺーじ

「ところで、場所移動変化というものんがあり、その一つに円環状になされるものがあるということ、そして個々のものごとはいずれもそれぞれ同属の何か一つのものによって、たとえば、数的単位としての一の集合体は数的単位としての一によって、馬たちは馬によって数えられ、時間もまた同様にある一定の画定された時間を基準にして数えられるということ、また、われわれがすでに述べたように、時間は運動変化を基準にして、運動変化は時間を基準にして測られるということ(それというのは、時間を基準にして画定された運動変化によって、運動変化の量も測られるからである)——こうしたことを踏まえると、もし第一のものがそれと同属のすべてのものの尺度となるとすれば、均等一様なあり方を保つ円環運動こそが、とりわけてすぐれてそれである。その運動の数が最もよく認知しうるものだからである。」
244ぺーじ から 245ぺーじ、223b13-b20

「そして、性質変化や増大成長や生成は均等一様ではないが、場所移動変化は均等一様でありうる。それゆえに、天球の運動変化が時間であると考えられもするのである。すなわち、天球の運動変化を基準にして他の運動変化が測られ、時間もまた天球の運動変化を基準にして測られるからである。またそのために、次のように言い習わされることともなっている。すなわち、人のなせるものごとは円環を描いて巡り、またその他の自然的な運動変化や生成や消滅の過程にある諸事物に起こる事柄も円環をなしている、と広く一般に言われているのである。このように言われるのは、それらすべてのものごとは時間を基準にして判定されるのだが、その始めと終わりを周期的円環に沿うようにして定めるからである。それというのも、時間そのものがある種の円環をなすものと考えられているからである。時間がそのように考えられるのは、そのさらなる理由として、時間が円環的な場所移動運動の尺度であるとともに、当の時間そのものがそうした運動変化によって測られているからである。したがって、諸事物の生成過程が円環をなしていると語ることは、時間には何らかの円環性があると語ることにほかならない、ということになる。それはすなわち、時間が円環運動を基準にして測られる、ということである。なぜなら、測られるものには、測る尺度となるもの以外のいかなるものもあるようには見えず、ただその全体が尺度となるものの複数分であることが見て取れるだけである。」
245ぺーじ から 246ぺーじ、223b21-34, 224a1-2

だいごかん

263ぺーじ

「さらには、本来は運動変化するようになっていて、またそうすることもできるのだが、しかし本来運動変化するべきときに、運動変化するべき場所にありながら、しかるべき仕方では運動変化していないものものあり、それら三様の「運動変化しないもの」のうちで、ただこの第三のものだけを「静止している」とわたしは呼ぶのである。静止は運動変化と対立相反関係にあり、したがってそれは、運動変化を受け容れるものにおける、その欠如態だからである。」
263ぺーじ、226b14−18

284ぺーじ

「ここで困難な問題となるのは、すべての永遠的ならざる静止に生成過程はあるのか、またこの生成過程とは停止の過程のことなのか、ということである。もしそうだとすれば、自然本性に反して静止しているもの、たとえば上方(静止している土にも〔静止への〕生成過程があることになろう。すると上方へ強制によって場所移動していたときには、停止の過程にあったのである。しかし、〔自然本性的な〕停止の過程にあるものは、たえずよりいっそう速やかに場所移動するが(10)、強制による場合らそれと反対にたえずよりいっそう緩やかに場所移動するように思われる。とすれば、後者の場合は、静止しているものになる(生成する)という過程なしに、静止しているものとしてあることになろう。さらにまた、停止するという事態は、総じてそれぞれのものに本来固有の場所へと移動すること、あるいはそれに伴って同時に生ずることであるように思われる。」
284ぺーじ、231b23-28、やくちゅう(10)

「たとえば中心に向かって落下する土は次第により高速度で落下し、上方にむかう火は次第により高速度で上昇すると想定されていた。」
だいごかん、だいろくしょう、やくちゅう10、285ぺーじ

ありすとてれすは しぜんほんせいに はんした せいしの せいせい、せいしへの かていを みとめらいと やくちゅう11に かいてあった。

だいろくかん

289ぺーじ

だいろくかん、だいいっしょう、やくちゅう2
ぶぶんと おおきさが ある ものが ぶんかつかのうな もの。

289ぺーじ

「またしかし、点が点に、あるいは「今」が「今」に相次いであることはないだろうから、これらから長さや時間が成立することはない。「相次いで」とは、ものとものとの中間に「類」を同じくするものが何 もないことであるが、点同士の中間には線分が、「今」同士の中間には時間が常に存するからでたる。さらに、〔もし長さや時間が相次いであるものから成るとしたら〕線と時間がそれぞれにそれら〔「それら」が きょうちょうされている。〕から成るその元のものへと分割されるのであれば、線も時間も分割不可能なものへと分割されることになろうが、連続一体的なものは何一つとして、部分を持たないものにまで分割されることがそもそなかったのである。」
289ぺーじ、231b8-13

290ぺーじ

おおきさと じかんと うんどうへんかは ぶんかつふかのうに ついては おなじぎろんが できる。

316ぺーじ

ここらへんの ぎろんが わかっていない。

318ぺーじ

「したがって、変化が行われる時間や経路には、これが直接第一というものはありえないのである。」
318ぺーじ、237b23−24


ここに きたかったの か!


323ぺーじから 324ぺーじ

「さて、自然本性的に運動変化したり静止したりするものはすべて、本来そうあるべきときに、そうあるべき所で、そうあるべき仕方で、運動変化しているか、あるいは静止状態にあるかのいずれかであるからには、停止するものは、それが停止しつつあるときには、必然的に運動変化していなければならない。なぜなら、もし運動変化していなければ、静止していることになろうが、しかし静止状態にあるものが静止する〔「する」を きょうちょうしている〕ことはできないからである。」
323ぺーじから 324ぺーじ、238b24ー28〔「する」を きょうちょうしている〕を いれた。

327ぺーじ

「いま」は、 じかんの きょうかい。
いま に おいては たいおうした いちは あっても、 うんどうへんかも せいしも ありえない。

332ぺーじ

えん、きゅう
「一般にそのもの自身において運動変化しているもの」(332ぺーじ)

だいななかん

だいななかん だいいっしょう やくちゅう7

345ぺーじ
「欲求対象が精神(魂)を動かすという場合(『形而上学』Λ巻第七章1027a26およびb3参照)」

354ぺーじ から 355ぺーじ

「また、それのみならず、身体に具わった状態も魂に具わった状態も、性質変化ではない。なぜなら、具わった状態が優秀であったり劣悪だったりはするが、優秀さ(徳)も劣悪さ(悪徳)も性質変化ではありえず、優秀さとはしかるべき完成状態であり(自らの優秀さを獲得したとき、それぞれのものは完全であると言われるのであるーーすなわち、そのとき最もよく自然本性に適っているのであるーー、たとえば円形が完全なものであるのは、最もよく円形をなし、最もすぐれた円形をなしたときである、というように)、劣悪さとはそうしたあり方の崩壊であり、逸脱にほかならないからである。しかし、家が完成することをわれわれは性質変化とは言わないように(というのも、笠石〔るび :かさいし〕や屋根瓦が性質変化であったり、あるいは、笠石が積まれたり瓦が葺かれたりすることで家が完成されるのではなくて性質変化するのだとしたら、それはそぐわないことであるから)、優秀さと劣悪さについて、それらを保持したり獲得したりする場合についても、それと同様に、その一方は完成、他方は逸脱であって、したがって性質変化ではないのである。」
354ぺーじ、245a10ー20、246b1−2

「さらにまた、優秀さとはすべてあるものとの関係において何らかのありようをしていることである、とわれわれは言う。すなわち、たとえば健康とか頑健さといった身体の優秀さとは、われわれの解するところでは、熱いものと冷たいものとの混和と均衡のとれたあり方であり、身体内にあるそれらのもの同士の相互関係において、あるいは周辺環境との関係において混和と均衡のとれたあり方のことである。また、身体の美しさや強さその他の優秀さ、そして劣悪さをも、われわれは同様の仕方で解している。そうしたものはそれぞれがあるものとの関係において何らかのありようをしていて、ものに固有の様態に関して、それらを保持するものをよい状態にしたり悪しき状態にしたりするのである。ここで「固有の様態」というのは、それらのありよう次第でものが生成したり消滅したりすることになる様態のことである。」
354ぺーじ から 355ぺーじ、246b3ー11

355ぺーじ

「なぜなら、それぞれの状態が劣悪と言われ、優秀と言われるのは、その状態にあるものが本来的にそれら〔「それら」を きょうちょうしている〕から性質変化を受けるようになっているところのものについてなのである。すなわち、優秀さはある状態にあるものが作用を受けないものにするか、特定のしかるべき仕方での作用を受けるものとし、劣悪さは作用を受けるものにするか、優秀さの場合とは、反対にしかるべき仕方での作用を受けることのないものにするのである。」
355ぺーじ、 24617-22、〔「それら」を きょうちょうしている〕を そうにゅうした。

356ぺーじ

「魂に具わった諸状態についても事は同様である。すなわち、その諸状態はいずれとすべてあるものとの関係において何らかのありようをしていて、その優秀さとは完全な状態であり、劣悪さとはその状態からの逸脱である。さらにまた、優秀さはそれぞれのものに固有の受動的性状に関してすぐれた状態を整え、劣悪さは悪しき状態をもたらす。したがって、これらもまた性質変化ではないし、さらにはこれらの逸失や獲得も、やはり性質変化ではありえないのである。もっとも、それから生ずるのには、魂の感覚能力を持った部分が変化することがなければならない。その部分は感覚されうるものによって性質変化させられるだろうからである。というのも、倫理的な優秀さ(徳)はすべて身体的な快楽と苦痛に関わっているが、快苦は行為や記憶や期待のうちに存するからである。そして、行為における快苦は感覚に即応していて、したがって感覚されうる何らかのものによって発動するようになっているし、記憶や期待における快苦はそれから派生している。なぜなら、以前に身に受けたものごとを思い出したり、将来ありそうなことを期待したりすることで喜びを覚えるからである。したがって、こうした類〔るび:たぐい〕の快楽はすべて感覚されうるものによってもたらされるのが必然である。さて、快楽と苦痛がわれわれのうちに生ずることによって、倫理的な優秀さも劣悪さも生じ(それらは快苦に関わるものだから)、快楽も苦痛も魂の感覚能力を持った部分の性質変化であるからには、倫理的な優秀さや劣悪さを逸失したり獲得したりするのは、何らかのものが性質変化することによるのでなければならない。したがって、そうした状態の成立は性質変化を伴うものではあるが、それら自体は性質変化ではないのである。」
356ぺーじ、247a1-17
〔るび:たぐい〕と かいた。

「なぜなら、われわれの思考活動が静止し、停止すること(ステーナイ)をもって、われわれは認識に至った(エピスタスタイ)、思慮を働かせたと言われるのだが、静止状態に向かう生成などありはしない」
357ぺーじ、247b11−13

「というのも、魂が自然的な動揺から平穏な状態になる(かティスタスタイ)ことによって、人は思慮ある者となり、知識ある者となるからである。子供が年長者と同等にものを学び知ることもできず、感覚によって判別することもできないのは、そのためである。子供の魂は揺動も運動変化も激しいからである。魂が平静な状態になり静止状態になるのは、あるものごとに対しては魂の自然本性によってであり、あるものごとに対してはそれ以外の要因によってであるが、そのいずれの場合にあっても、身体内の何らかのものが性質変化するのであって、そのことは素面〔るび:しらふ〕に戻ったり眠りから覚めたりしたときの、知識の行使やその活動実現態についの場合と同様である。」
358ぺーじ、247b17ー18、248a1−5

だいはちかん

372ぺーじ

うんどうへんか、

「それは生成したり消滅したりすることがなく、常にあったし、また常にありつづけるものであり、不死にして止むことのないものとして、存在するものに具わっているのであって、あたかも何か生命に類したものが自然によって形成されたもののすべてに具わっているようなものなのか。」
372ぺーじ、250b12ー15

やくちゅういち
せいぶつに たいする じこうんどうげんいん としての せいめいりょくと おなじように、 しぜんてきじぶつに たいする うんどうへんかを かんがえられるか? という ぎもん。

おもしろい。
せいめいが せつめいする ための ことばとして つかわれる。

374ぺーじ

「運動変化とは運動変化しうるものの、運動変化しうるものであるかぎりにおける活動実現態である。」
374ぺーじ、251a10−11

377ぺーじ

ぷらとん だけ、 じかんは せいせい すると いっているが、 ふつーは、 じかんは つねにあると かんがえる。

「ところで、「今」なしには時間が存在することも、時間を考えることもできないとすると、そして「今」は中間に類するものであって、始まりと終わりとを共に持っている、すなわち来たらんとする時間の始まりと過ぎ去った時間の終わりとを共に持っているとすると、必然的に時間は常に存在しなければならない。なぜなら、これが最終と見なされた時間域の末端は一連の「今」のどれか一つのうちにあるだろうが(時間において捉えられるものは「今」以外に何もないのだから)、すると「今」は始まりであるとともに終わりでもあるからには、必ずやその当の「今」の両側にいつでも時間が存在しなければならない。そこでしかし、もし時間が存在するのであれば、時間とは運動変化の様態の一つである以上、必ずや運動変化もまた存在しなければならない。」
377ぺーじ から 378ぺーじ、251b20ーb28

379ぺーじ

「自然本性は万物にとって秩序の原因にほかならないからである。そして、無限のものは無限のものに対していかなる「比」も有さないが、秩序はすべて「比」をなしている。」
379ぺーじ、252a13−14

382ぺーじ

「というのも、ときにわれわれのうちに何らかの運動変化も内在しないで、ただじっと静かにしていても、それでもわれわれはいつかあるとき運動変化することになるからで、何かが外部から運動変化を引き起こそうとしなくても、運動変化の始原がわれわれの自身の内部から、われわれのうちに生じてくるのである。」
382ぺーじ、252b18−21

394ぺーじ

みずからによって うんどうへんかする いきもの
みずからを とめる ことも できる。

おわり

ふどうの どうしゃの はなしで おわるのは、 ありすとてれすっぽい。
おわり。

せいれき 2021ねん 5がつ 29にち
かくめいれき 229ねん 9がつ 10にち。