さいとー・ま

さいとー・ま

さいとう・まの。おしごとは manoestasmanoあっとgmail.com (あっとを いれかえてください)まで。

リッチ『女から生まれる』読書会1

アドリエンヌ・リッチ高橋茅香子(たかはし・ちかこ)訳), 1990, 『女から生まれる』晶文社(しょうぶんしゃ).
www.fukkan.com

次回→
hunihunisaito.hatenablog.com

基本情報

親密さ研究会でリッチの『女から生まれる』を読んでいます。読書の記録をします。
今回は「3 父親たちの王国」の94頁から96頁まで読みました。
そもそも、アドリエンヌ・リッチ(1929-2012)は、ラディカルフェミニストで、レズビアンの詩人です。リッチは強制的異性愛という概念を作ったことで有名で、この概念は現在(2022年)でも使われています。現在読んでいる『女から生まれる』は、1976年に発表されたOf woman born : motherhood as experience and institutionです。

要約

第三章の第一節では、父権制がかなり広まっていることを確認し、女性が抑圧されていることが確認されました。
第三章の第二節では、思想によって力を持つものと力を持たないものに分割されるということが確認されました。
この二つの節を通じて、母親であるという経験が歪められて表現されていることが指摘されました。
今回読んだ94頁から96頁は、次のようにまとめられる。思想によって力が不平等に分配されるので、力を分配されない女性は、子供に対して力を持っている母親としての経験が問題になる。しかし、力を持つ母親としての経験すらも、力を持たないものとされてきた。女性は男性の力で支配されるのであって、女性が男性を取り込むように見える力は従属する者が生きるための足掻きにすぎない。

コメント

ラディカル・フェミニズムらしさ

一般的に、1960年代以降のフェミニズムは三つの派閥に分けられる。リベラル・フェミニズムマルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズムという三つである。色んな紹介の仕方があると思うが、リベラル・フェミニズムは法律、マルクス主義フェミニズムは経済、ラディカル・フェミニズムは文化に対応する。もちろん、公的領域を中心とするリベラル・フェミニズムと、私的領域を中心とするラディカル・フェミニズムなどの区別の仕方もできる。
リッチはラディカル・フェミニズムの担い手とみなされているように、文化を中心に考えている。つまり、女性に対する差別の原因は、権利でも資本でもなくて、言語や宗教、思想、恋愛などの文化であると考えているのである。とはいっても、これらの派閥は後からの整理を経た結果として今に伝わっているから、人々がリッチなどを読んで分類していったものである。つまり、ラディカル・フェミニストだから文化を扱っているというより、文化を扱っているからラディカル・フェミニストとみなされるようになったということである。そのような蓄積を自分も辿っていることに感慨深くなった。ただしそもそも、リッチは詩人であるわけだから、言語に注目するのは当然ともいえる。
リッチの言葉を引用しておこう。
「しかし男性のこの力は思想の力に由来するものだ。伝統やときには宗教のかたちで内面化している構造である。」93頁
「父権が主張する言葉は二分法をとる。ひとりの人間が力をもてば、ほかの者は無力でなくてはならないのだ。」94頁
”The language of patriarcal power insists on a dichotomy: for one person to have power, others --or another-- must be powerless.” (67)
この二つの引用からも、経済的構造や政治的制度ではなく、思想や言語が重視されていることが分かる。そこから、権力または力が出てくるのである。そして、権力または力(つまりpower)は支配の関係を作り、支配する側は無知のまま鈍感に過ごすことができる。

母であること

母であることは、子供に対して支配する力を、つまり権力を持っていることを意味する。その理由は、母が子供を育てるという前提のもと説明される。つまり、母は食事や温かさなどの子供の生存の糧を管理しているから、母は子供を支配できるとリッチは説明する。ただし、これは父権制のもとであって、かなり昔にはもっと他の「母の力」があることが示唆される。ジョセフ・キャンベルという神話研究者やエーリッヒ・ノイマンというユング派の精神分析家などを参照してそのことを示唆している。これは、この段落の最後の子宮への言及などにもつながっているだろう。

二分法

「父権が主張する言葉は二分法をとる。ひとりの人間が力をもてば、ほかの者は無力でなくてはならないのだ。」94頁
”The language of patriarcal power insists on a dichotomy: for one person to have power, others --or another-- must be powerless.” (67)
「私たちはいやおうなく本質的な二分法に、力のある者と力のない者を分かることの問題に直面しなければならない。」89頁
リッチは力を持つものと力を持たないものの二分法を重視している。その二分法にのっとって、男性は力を持つ側に割り当てられ、女性は力を持たない側に割り当てられる。

子育ての大変さの表現

注が子育ての大変さを表していた。
子育てにおいて、泣く子どもの相手をするのは、拷問されるようなものだ、ということが主張されている。
写実主義で起きる出来事をそのまま描くチェーホフの『眠り』でさえ、子殺しをする人を母ではなく子守に設定していたということを指摘している。

訳の検討

1

「父権が主張する言葉は二分法をとる。ひとりの人間が力をもてば、ほかの者は無力でなくてはならないのだ。」94頁
”The language of patriarcal power insists on a dichotomy: for one person to have power, others --or another-- must be powerless.” (67)
これは、「父権の言語は二分法を強調する。…」と訳した方がいいと思う。

2

「母親に力があるという考え方は当たり前のこととなってしまった。女が形を変えられ、束縛されるとき、その子宮は――この力の究極的な源泉は――長い歴史を通じて私たちを裏切るものとなり、それ自体無力の源泉となってしまった。」95
”The idea of maternal power was domesticated. In transfiguring and enslaving woman, the womb-the ultimate source of this power- has historically been turned against us and itself made into a source of powerlessness.” (68)
これは、「母親的力という考えは飼いならされてしまった。女の形を変え、女を束縛するとき、その子宮は――この力の究極的な源泉は――長い歴史を通じて私たちを裏切るものとなり、それ自体無力の源泉となってしまった。」と訳した方がいいと思う。とはいえ、自信はない。domesticatedには確かに「一般に受け入れられる」という意味があるが、ここでは父権制の前にあった、母の力という発想の野生の荒々しさが弱くされてしまったという意味で考えた方が前後の文脈が分かりやすいと思った。また、子宮が形を変え束縛するという主語述語関係があることを明示したほうが意味が通じやすいと思った。

3

「実はそれは、寵愛を得るためにへつらう高級売春婦の「力」と同じであり、文字通り生きのびるために使う子供の「力」とも同じもので、自分に対しても自分の感情をあざむく、ときには従属する側の人間の「力」である。」96頁
"it is nothing more than the child's or courtesan's "power" to wheedle and the dependent's "power" to disguise her feeling-even from herself- in order to obtain favors, or literally to survive." (68-9)
これは、「それは、子供や高級娼婦のたぶらかす「力」以上のものではなく、寵愛を得るか文字通り生きのびるためには、自信の感情を自分自身からも隠すような、従属する者の「力」以上のものではない」と訳す方がいいだろう。これだけ違うと、もしかしたら違うバージョンがあるのかもしれない。しかし、元の翻訳は高級娼婦に対する差別を助長する訳文になってしまっているから注意が必要である。